2019年6月18日火曜日

病理の話(334) なんでや全身関係ないやろ

病理医は「全身あらゆる臓器の病理」に詳しい、ということになっている。

実際、病理専門医の資格試験を受ける時には、脳腫瘍から皮膚の病気、肝臓に肺、乳腺に大腸に胆嚢に、とにかくありとあらゆる臓器に発生する「病気」とその「見た目」、さらには「顕微鏡でどう見えるか」、「遺伝子にどのような異常があるか」を学ぶ。だから、病理専門医である限り、過去に一度は「全身に習熟した状態」になっている(最低限の知識に過ぎないとはいえ)。

けれども、たとえば今のぼく……。医者になって16年目のぼくは、全身あらゆる臓器の病理に詳しいわけでは、ない。

残念ながら。



自分が今勤めている病院で、頻繁に扱う臓器の病理については、詳しい。

胃、大腸、肝臓、胆嚢、胆管、膵臓、乳腺、甲状腺、肺、リンパ節については、詳しいといっていいレベルだ。

子宮、卵巣、膀胱、腎臓、尿管、精巣、唾液腺、皮膚などについては、まあそのへんの医者よりは詳しいが、病理医としてはわりと普通……だと思う。あまり大きなことはいえない。

脳や軟部組織については、もはや「苦手」になりつつある。10年くらい新しい情報をあまり仕入れていない。普段みないからだ。

細かいところでは、「腎腫瘍は頻繁にみるのだが、腎生検はみない」なんてのもある。

「肝腫瘍はいっぱいみているが、肝門部病変だけはみる頻度が少ない」というのもある。

どちらも、「当院では扱っていない」からだ。

同じ理由で、小児の病理もあまり詳しくない。

ムラが出てしまっている。




「病理」というだけでだいぶマニアックなのだが、その中にもさらに専門性がわかれており、ぼくは病理の中でもこことここ、というように、どんどん偏っている。

毎日とんでもない数の医学論文が出され、医学は常に過去をとんでもないスピードで置き去りにして進んでいく。

詳しかった分野から、何かの理由でふと離れてしまうと、1年経った頃にはもうついていけない。





これは病理に限った話ではない。

よく言う笑い話(このブログにも書いたことがある)として、

「整形外科医はそれぞれ専門分野がある。1丁目の佐藤先生は、人差し指のさきっぽの関節のことに詳しい。4丁目の鈴木先生は、中指の根元の関節に詳しい。そして、二人とも、小指の関節は診たくないと言っている」

なんてのがある。

これはいくらなんでも冗談だろう、と思っていたが、先日実際に整形外科医に話を聞いてみると、

「実際、肘に詳しい整形外科医の中には、膝を診たがらない人がいるぜ」

といわれて驚いてしまった。





臓器ごとに専門が細かくわかれた今の時代、世界中を探し回れば、たいてい、どんなマニアックな部位にも専門家が控えている。インターネットがあるから大助かりだ。

ただ、あらゆる医者が苦手にしている分野というのがある。

それは、「複数の場所に異常が出る病気」だ。




たとえば、頭皮と肺と腎臓に同時に病変がでる病気、というのがある。

この病気に「皮膚の専門家」が出会った場合、肺や腎臓にも病変が出るということを知らないと、診断できない。

この病気に「腎臓の専門家」が出会った場合、頭皮とか肺に病気があるかないかを気にしておかなければ、診断名にたどりつけない。

口でいうのは簡単だがこれはけっこうたいへんなことである。

最近の病理医は、臓器ごとに細かく細分化された専門にすがって生きている。だから、複数の臓器をまたいで病変が出現する病気については、いつも……というほどではないけれど、ときおり……ビクビクしている。

ぼくも、ときどき、思いついたように、専門外の教科書を読みながら、いつか必ずやってくる「専門外」に備えている。

やっぱ全身あらゆる部分が診られるのが一番だよなー、などとうそぶいたりもする。

……でもそんなことほんとに可能なのだろうか……と、図書館にあふれる膨大な本、雑誌、さらにはPubMedにさんぜんと輝く「掲載医学論文 全3000万本」という数字をみて、たじろいでしまう。

2019年6月17日月曜日

グレーゾーンの続きでぇす

いろーんなことで素人と玄人の境界がぼやけてきている。最近などは、もうそういうもんだよな、と腹をくくるしかない部分がある。

たとえば医療のプロとアマチュア、なんてどこで分けたらいいんだ? 大学で専門的な知識を6年間学べばそれでプロの医者と呼べるだろうか? 「医人」とでもいうべき人間が、医師免許をもたずに、人々に寄り添うシーンを多く目にする。

「いやー医者は医者でしょ。やっぱさあ。」

そうかなあ。

例えば、ぼくがこうしてブログに毎日ああでもないこうでもないと書きながら多くの人に読んでもらえるなんてのは、「プロの物書き」という概念が溶けつつある現代だからこそできていることだ。

かつての素人ってこんなに読んでもらえる場所はなかったとおもうよ。

かつての玄人はこんな品質の文章を簡単には世に出さなかったと思うし。

文章、音楽、マンガ、なんでもそうだ。プロ顔負けの素人がごっそりいるし、食っていけない玄人だって山ほどいるではないか。

医者だけが、たかだか国家試験ひとつで、「プロです」と名乗り続けていられると思ったら大間違いだ。

素人と玄人の境界がぼやけ、個人と社会の境界がぼやけ、いろいろなものの線を引きなおす。

あるいは、線が存在しないものとして考える。

あるいは、線ではないけれど移行帯みたいなものはあるよ、くらいの気分でやっていく。




いろーんなことで素人と玄人の境界がぼやけてきている。最近などは、もうそういうもんだよな、と腹をくくるしかない部分がある。

「腹をくくる」と書いた。腹をくくるというのは境界線を引く作業だと思う。

ここからはぼくが担当する、と、足元の土にギッと線を引いて、内側で構える。それが「腹をくくる」だ。

素人と玄人の境界がない世界で、ぼくは玄人としてやるからな、と、自分で宣言して、その内側でシャドウボクシングをしながら、備える。

あるいは逆に、ぼくは素人なのだ、と、線の外に出て、外をぐるぐると走り回って、線の中をときおりちらちらと眺めて、うらやんだり、あこがれたりをする。




自虐とか謙遜はひとつの芸だ。たまに、「そんなに謙遜せずに堂々と行動してください」みたいな的外れなことを言ってくる人がいるが、昔の価値観に凝り固まりすぎだと思う。

自虐と謙遜は境界線を引き直したときの「副反応」みたいなものにすぎない。そこに本質はない。

ぼくが自分を一段低く見積もって「素人だ」と発言するとき、素人と玄人がとろけた世界で、宣言して素人側に回るだけの覚悟を示したのだと、わかってもらわないと、そこが伝わらないと、やりにくくってしょうがない。




極論するならば、「玄人だ」と宣言するほうが簡単で、効果も高いが、それだけではカバーしきれない部分というのが、世の中にはおそらく、ある。

2019年6月14日金曜日

病理の話(333) グレーゾーンをどう語るか

國松淳和先生の「仮病の見抜きかた」は芥川賞の候補作になるべき作品なのでぜひ読んでほしい。

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784307101974

この本はブンガクなのであるが、ゴリゴリの医学書でもある。

医学書? そんな、小難しい医学の専門知識を使ってミステリとかやられても、ワシにはさっぱりわからんで! という反応も予想されなくはないのだが、ぼくは最近思うのだ……。

ぼくら、ルミノール反応がどうとか、死後硬直がどうとか、くわしいことはまったく知らんけど、刑事ドラマ普通にみてるやんけ、と。

京極堂が何言ってるかぜんぜんわかんなくても、憑き物落としの空気感は、十二分に楽しんでるやんけ、と。

たぶんこの「ゴッリゴリの医学書なのに芥川賞GO」というニュアンスも、ふつうに世間には通じるのではないかと思う。

だからあなたが医療者じゃなくてもぜひ読んでみてほしい。おもろいで。理不尽さもある。爽快感もある。



最近は、医学情報だからってなんでもかんでも、噛んで含めて子どもに教えるように……読者を子ども扱い・素人扱いして平易に語らなくてもいいんじゃないかナーとか、考えており。






さて今日の話は、國松先生の本に出てきたあるフレーズから連想したものである。

詳しくはネタバレになるので書かないが、この本のある章において、國松先生は、「グレーゾーン」みたいな部分のことを重層的に語るのだ(とってもすばらしい表現なのでぜひ体験してもらいたい)。

医学というか医術には「グレーゾーンをどう扱うか」という大きな命題がある。

あなたはかぜです、ズバーッ、見事に診断が確定して、その瞬間にふさわしい治療が決定する、というクリアカットな臨床ばかりではない。

優れた臨床医というのは、白黒はっきりしない中間色の部分に対する「さじ加減」が見事だ。

ただ……同じ医療者と言っても、病理医の場合は、どうも事情が異なるように思う。




臨床医が、粘膜から細胞を採取して、病理に提出する。

「これはがんですか、あるいはがんではない、なんともない粘膜ですか?」と、まさに、白黒決めてくれ! という願いを込めて、病理検査室に検体を搬送する。

ここで病理医が、「グレーです」というと……

冗談ではなく、ほんとうに、ありとあらゆる医療現場が「困惑」するのだ。





病理に出しても決まんないのかよ!

直接細胞みても決まんないのかよ!





そう、われわれ病理医は「ジャッジメント」をする立場である。臨床にはグレーゾーンがあることをわかった上で、それでも、細胞がシロかクロかだけは二択で決めてよいだろう、という裁判官だ。

しかしご想像のとおり、病理医も、「こりゃグレーだな」と言いたくなる瞬間は経験する。




たとえば細胞をみて、細胞核が異常に大きくなっており、かたちもいびつで、正常の核からすると明らかに「かけはなれている」としても……。

周囲に強い炎症がある場合には、この「かけはなれ」は、がんだからかけはなれているわけではなくて、炎症のせいでたまたまそのときその場所だけかけはなれてしまっているだけかもしれない、みたいなことがある。





そこで病理医はこう書くのだ。Group 2, indefinite for neoplasia, と。

Group 2というのは「白黒決められません。すみません」という意味。

Indefinite for neoplasiaというのも、「腫瘍かどうかわかりません。すみません」という意味。





で……みんなが困惑するときに……こう……どこまでその「グレーさ」を雄弁に語れるかどうかに、病理医の底力が出る、と言っていい。




ダメレポートの例はこうだ。

「Group 2, indefinite for neoplasia.
がんの可能性も炎症に伴う反応性変化の可能性もあります。決められません。再検してください。」

こういうレポートは、結局のところ、「グレーでした。」しか言っていない。

なぜグレーと判断したのか。同じグレーにしても、白よりのグレーなのか、黒よりのグレーなのか。

そういったことが書かれていない。要は依頼してきた臨床医に対してまともに向き合おうという気持ちが足りないのである。

医療者が患者に優しくするのはあたりまえのことだが、同業者、医療者同士でも優しくしなければ、ぼくらは人としてなにかちょっと足りねえんじゃねぇかな、って思う。





よいレポート……というか、四苦八苦が伝わるレポートはたとえばこんな感じである。

「Group 2, indefinite for neoplasia; suspected of tubular adenocarcinoma.

 ある程度の領域性をもって、核の腫大、核縁の不整、クロマチン量の増加を呈する異型核をもつ細胞が、正常と比べて大小不同性が際立つ腺管を形成して増殖しています。周囲の正常粘膜との間に境界(フロント)があるように見えるため、癌である可能性をまず考えます。ただし背景に強い炎症が出現しており、炎症の強い部で核異型が強くなる傾向が一部に垣間見られるほか、フロント形成がはっきりせずグラデーショナルに非腫瘍粘膜に移行するような像も一部にみます。

 以上、得られた細胞所見からは、癌のほうをより強く疑いますが、非癌の再生粘膜である可能性がわずかに残ります。「癌>>炎症に伴う再生異型」です。内視鏡所見上、検体が採取された部が病変の真ん中あたりにあるにも関わらず、非癌粘膜が大量に混在している点も気になります。臨床的にピロリ菌除菌後であれば非癌粘膜の混在は十分ありえますが、そうなるとなぜ大量の炎症が出現しているのかが解釈できません。臨床像をあわせた追加検討が必要です。再検の是非については直接電話連絡します。」

そしてこのレポートを登録・送信したあとに、直接臨床医に電話をかける。





グレーがグレーであるという「文脈」を共有しないと、医療者に依頼されて働く医療者としては誠意が足りない。

文脈の共有というのは、ときに、過剰な干渉にもつながる。うっとうしいと思われてはもったいない。

日ごろから、「ぼくがこの病院で病理医をやっています」という自己紹介を欠かさず、臨床医ときちんと関係を築いていないと、病理がグレーになるたびに電話をするという「うっとうしさ」の理解が得られない。

……グレーね。

褐色とかでもいいか。

あっ國松先生のネタバレになるからもう書かない。とにかく、「グレーゾーンの医療」には、(患者にとってはたまったものではないので申し訳ないのだが、正直)やりがいがあり、武者震いする部分が、確かにある。

2019年6月13日木曜日

A字で堂々と

書いたり読んだりの暮らしには満足しているが、いかんせん、下っ腹がやわらかくなってきているのが気になる。

基本的にうちで本を読んだりスマホをいじったりするときには必ずV字腹筋をしながら読むことに決めた。

V字腹筋も、ずっと動いているタイプのやつではなくて、いわゆる「V字で固定した状態」を保つやつだ。

ものの15秒もがまんしているとプルプルしてくる。

プルプルしながら本のページをめくったり、スマホをフリックしたりしている。

一度、このブログも書いてみようと思ったのだが、ちょっと無理があった。

脳から「腹筋を維持せよ」という信号が出るわけだがこれにけっこう集中力が必要らしく、そのためか、腹筋をプルプルさせながらだとどうにも文章が落ち着かない。なにより、フリックミスが増える。

だからまあV字腹筋をしながら書くのはあきらめて読むだけにした。




けれどもV字腹筋をしている最中に読んだ本の内容はいまいち思い出せないのだ。あの大事なシーンで腹筋が限界を迎えて横向きにコロンと転げたなあとか、あの教訓めいた説話の項目でぼくは腹筋と対話していたなあとか、そういうことばかり思い出してしまう。




かつて、サカナクションの「klee」という曲をはじめて聴いたときに、たまたまあるマンガを読んでいたのだが、それから何十年も経つのに、ぼくはいまだにiTunesでサカナクションのあのアルバムをかけて、kleeがなり始めると、そのマンガのあるシーンのことをはっきり思い出してしまう。

シナプスどうしがそうやって接続してしまったのだろう。

kleeという曲の世界観は、そのマンガにはまるで似合わない。完全にバグだ。なお、マンガの作者は「高橋しん」である。





本を読むときには余計な環境負荷を加えないほうがいい。

本に集中できなくなる。

おまけに腹筋だって、本を読みながらでは鍛えられないのだ。

ぼくは、こないだ、ずーっとV字腹筋をしていたはずだったのに、本に夢中になるあまり、気づいたら、L字になっていた!

2019年6月12日水曜日

病理の話(332) 誰のための病理診断なのさ

医療の世界では、「なんとなく習慣でやっていた仕事」みたいなものはけっこういやがられる。

たとえば、「念のための検査」とか、「念のための投薬」。

昔のお医者さんはやってたからさ。安心のためにね。何かあってからじゃまずいから。

そういう、だらけた、なしくずし的な医療というのは、すごく厳しくカットされるようになった。

でもこれって言うほどかんたんじゃないのだ。





例えとして、冬のインフルエンザのことを考える。

多くの人が熱が出たと言って病院をおとずれる、冬。市町村はインフルエンザ警報をがんがん鳴らしている。

そんなおり、とうとうぼくにもやってきた。あいつが。

38度以上の熱があって、全身がだるくて、ごほごほ、ずびずび、ぐったり。

まあインフルなんだろうなー。

そう思って病院に向かう。

すると、鼻の穴にほそい綿棒をつっこんで、インフルエンザの迅速検査をされる。なかなか不快な検査ではある。

検査の結果は……陰性! インフルエンザの証拠は検出されなかった。

じゃあインフルじゃないってことかなあ。

すると医者は言う。

「まあ検査は陰性だったんですけどね、検査って100%正しいわけじゃないんですよ。あなたの場合は、症状を考えると、インフルエンザである可能性がかなり高いと思いますから、インフルエンザの薬出します。」




……検査した意味、あったか……?





や、ま、繰り返しになるのだけれど、この場合、ぼくがやられた検査がまったく無意味だったとはなかなか言えない。難しい理屈もある。けれども結果的には、

検査の結果を見ても、見なくても、結局はほかの症状とかから総合的に判断して、インフルエンザである確率が高いからインフルの治療ゴー!

となったわけで……。

なかなかフクザツな気分になるではないか。




今まで、「なんとなくやるべきだと思っていた検査」、「やった方が良くわかるんだからやるべきだと思っていた検査」の一部は、その後、さまざまな情報を元に冷静に考えてみると、

「やってもやんなくても結果に影響を与えないことがあるなあ」

ということがわかりはじめた。インフルエンザのキットが絶対にだめだと言いたいわけじゃないよ。悪しからず。でも、「絶対にこの検査をやらないとだめ!」みたいな判断も難しくなっているということだ。






さて……。

話は「病理診断」に向かう。それも、「顕微鏡診断」の話だ。





今、病理医というマニアックな職業人が主戦場としている、顕微鏡診断の世界。

顕微鏡をみて細胞の挙動を直接観察することで、ぼくらはとても多くの情報を手に入れるのだが……。

その「細胞の情報」がほんとうに、患者や医療者にとって、役立つものなのか、ということを、ぼくらはすごくきちんと見直さなければいけなくなった。

さっきのインフルキットみたいに、「陽性であっても陰性であっても、診断や治療の方針に影響しない」場合がある。

あるいは、「陽性だろうが陰性だろうが、その他の検査で得られるデータのほうが貴重である」場合もある。




このことがはっきり見えてきたのは実はAI(人工知能)の参入が見えてきたからだ。

AIは、細胞をみている病理医が一番エライ、みたいな価値観をもたない。

そのためか、ありとあらゆる臨床情報を、AIにぶちこんで、患者が今後どうなるかを予測させると、どうやら、細胞の情報が必要なくなっている場合があるようなのだ。

細胞診断が無駄だと判断される未来がくるかもしれない……。

そうなったら、顕微鏡診断しかできない病理医は廃業するしかない……。




けれども、そう落ち込むことでもない。

AIによって、逆に「病理医が細胞だけみてくれれば、その他の検査は必要ないという場面」も浮き彫りになってくるからだ。





医療の現場に無数にころがる選択肢のうち、どれが一番「患者の将来を正しく予測できるか」を判断するのはなかなか難しい。

検査A,B,C,D,Eが取りそろえられているときに、AとDだけやればいいと気づくためには膨大なチャレンジが必要だ。しかし、どうも、AIはそういう「どの選択肢が一番効率的か」を判断するのは得意なようである。





ぼくはAIの開発に携わらないかと声をかけられたときに、いろいろなことを考えた。

顕微鏡診断の一部を終わらせながらも、病理医がこれまで以上に活躍できる未来、というのは、それなりに高確率で、見えてきたような気がするなあ……というのが、考えた中では一番希望的な観測だ。

ほかにもいろいろ見えてきたものはあるけれど、それを書くのはまた別の機会に譲る。

とりあえず最後に書いておきたいのは、病理診断というものは病理医が飯を食うために行うものではなく、患者と医療者の未来のためにあるべきものだ、ということだ。

2019年6月11日火曜日

かこさとしがすごいよ

いつからかツイートの半分くらいが本の話になった。

ぼくのフォローする人間およびぼくをフォローしてくる人間たちは、基本的に、

「本はそんなにいっぱいは読まないけれど、多くの人がおもしろいおもしろいと読む本であれば、まあたまには読んでみてもいいかなー」

というタイプが一番多いように見受ける。

ほかにもいろんなタイプの人がいるんだろうけれど。

なんとなくリアクションをみてるとそう感じる。

本の話をすると、たいていは誰もいやな思いをしないし、興味がない人も「本の話ばっかりするなよ」とか言って怒り出したりはしない。

いやな思いをする人、怒り出す人、そういうのが少ない話題というのは、ツイートしたあとのリアクションがおだやかで、ぼくの心を削らない。

本の話がいちばんいいんだよ。





ぼくはツイッターに人生の8%くらいはかけている。ここから得られるものを大事にしているし、ここに注ぎ込むものにもそれくらいの熱量を込める。……でも今書いていて思ったのだが、人生全体の8%というよりは、人生に上乗せした8%かもしれないなー。

100%で生きている毎日に「税金」をのっけて108%生きている感じだなー。

となるとあまり無駄遣いはできないな。手間だってかかっている。せっかく余計に支払うのだったらそれを有効活用したいな。

あまり自分が腹を立てたり悲しくなったりする内容にはしたくないな。

支払ってなお損するみたいな気持ちになるからね。

となると周りの人を怒らせたり悲しませたりする内容をつぶやいてはだめなのだね。とにかく自分のためにね。






本の話に消費税を払い続けたおかげだろうか、自分の知らない世界の優れた人々を目にする機会は以前より多くなった。

自分の職種とか趣味に近い本も読むけれど。

近年は安楽死、ケア、当事者研究みたいな内容の話をよく好んで読んでいる。このへんはツイッターをはじめる前にはほとんど読んでいなかったと思うなあ。

病理医というのは医者ではあるけれど、ぼくは読書でまで死のことを読もうとは、以前はあまり思っていなかったはずだ。

そしてもちろん、子供のころはまず読まなかった内容である。大人になってようやく読めるようになったのだな。



……でも、冷静に考えてみると、ブンガクとか絵本なんてものは元来、死生観を大切に扱うジャンルなのであった。まったく読んでないわけではないんだ。

子供のころに「中動態」とか「早期緩和ケア」とか「無責」みたいな専門用語を読む機会はなかったけれども、人はなぜ死ぬのか、人はどのように死ぬのか、みたいな話は読む機会があった。

直接死に触れずとも、「何かをおおらかに観察するやり方」みたいなものだったらいくらでも触れることができた。





かがくのとものもと」という、至高のクロニクルを読んでいて、思った。

「〇〇になりたい人はこれを読め」っていうタイプの啓蒙や教育って意味ねぇなー、って。

一見、自分のやることに関係がなくても、伝え方が優れているものをただ読むだけで、なんだか、いろいろ、つながっていくものなのかもしれないなー、って。





あんまり難しいこと考えずに本の話してゲラゲラやっていきてぇなー。

2019年6月10日月曜日

病理の話(331) 細胞の形状がどうおかしいかを人に伝える技術

病理医が細胞をみて「がんだ!」と言ったらそれは基本的にがんなのである。

もっと正確にいうならば、いったん病理医が「がん」と名付けたものを、それ以外の人間が「いや、これはがんではない。がんによく似ているが違う。」というように、意見をひっくり返すことは極めて難しい。

なにせ実際に病気そのものを見ているわけだから。強い。

CTとかMRIで、病気の「影絵」だけをみて、がんかもしれない、がんではないだろう、と診断する行為はあくまで「推理」である。では答え合わせをしましょう、といって細胞を採取して、細胞そのものをみて、「がんでした。」といえば、事前の推理などは歯が立たないのだ。




……とは言ってみたものの。

病理医だって人間なのである。自信がなくなることもある。また、錯覚だってすることもある。

「細胞が悪そうにみえた」からがん。では、その、「見え方」というのはどうやって決めているのか? なんだか話を聞いていると、ひどく主観的ではないか?



いやー病理診断ってのは客観的ですよ。そうやって病理医が抗弁すれば、もはや臨床医たちは反論ができない。

そうか、では客観的に病理診断してください。よろしくお願いしますよ。

疑念に満ちた目で、病理医を見つめることしかできないだろう。



病理医の診断に疑問を持ってしまうと、日常診療がちょっとだけつらくなる。だから、優れた臨床医ほど、「なぜあなた(病理医)は、これががんだと思ったのですか?」という疑問を、躊躇せずに、口に出す。直接病理医にぶつける。

そこで病理医がどうこたえるか。

きちんと、自分の診断の根拠を、臨床医に伝えることができるかどうか。

ここに、「病理診断が信頼されるか否か」の分水嶺がある。




いくつかの例をあげて説明する。今から出す例は、すべて、「Q.」と「A.」でできている。「Q.」は臨床医からの問い。「A.」はそれに病理医がどう返すか。


【例1】

「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」

「A. 核異型がはっきりしているから、がんです。」

まずこれが一番最悪のパターンだ。

「核異型」という言葉が専門用語なので、この時点でたいていの人は、「あーなんかわからない基準に従ったんですね」と、理解することをあきらめてしまう。

仮に、「核異型」という言葉の意味を知っていたとしても……。というかこの言葉はそれほど難しい言葉ではない。ありとあらゆる細胞の中には「細胞核」というのが含まれている。「異型」というのは、「正常からのかけ離れ」という意味だ。つまり「核異型」というのは、「細胞の中にある核が、正常からどれくらいかけ離れているか」という意味の言葉だ。

したがって、「核異型がはっきりしているから、がんです」は、「核が、正常と違うから、がんです」という意味になる。

こんな答え方をする病理医は、ダメなのだ。

はっきりダメ出しをしてやるべきだ。

「核異型がはっきりしているからがんだって? じゃあその核は、正常と比べて、どう違うんだ? はっきりしているというが、どれくらいはっきりしているんだ?」

そう、この回答には、「具体的にどのようにかけ離れているか」、「どれくらいの程度、かけ離れているか」という、種別や量の概念がまったく含まれていないのである。

あるのは「はっきり」という、病理医自信が確信をもったのだろうなあという極めて主観的な言葉だけだ。



【例2】

「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」

「A. 核のサイズが、すごく大きくなっている。核腫大があるから、がんです。」

今度の病理医は少し丁寧になった。

細胞ががんであると判断するために、説明のなかに「何が」「どのように」を加えた。

「核のサイズが大きい」。

しかしこれもまだ主観的だ。「すごく」というのはどれくらいなのだ。




【例3』

「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」

「A. 核のサイズが、正常の細胞と比べて、2倍から3倍以上になっています。だからがんです」

だんだん具体的になってきた。「正常の細胞よりも2倍以上大きい」というのは、主観というよりは客観に近い説明方法だ。「すごく」というと「どれくらい?」と尋ねたくなるが、「2倍から3倍以上」となれば、より具体的にイメージしやすいだろう。

たとえばこれくらいのことを、日常的にレポートに書いていてくれれば、臨床医は「病理医の目の付け所」をよく理解するようになる。



ただ、これを読んだあなた方の一部が今感じたような……

「核が大きいとがんだってのはわかったけど、それはなぜなの?」

という疑問には、答えられていない。

だから、ほんとうに臨床医と仲良くやっていこうという病理医は、ときおり、臨床医に対してこのように説明を加える。




【例4】

「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」

「A. 核のサイズが、正常の細胞と比べて、2倍から3倍以上になっています。細胞核というのは、細胞の中にあるタンパク質の量や質をコントロールし、細胞の動きをつかさどる『染色体』の入れ物です。この入れ物が大きくなり、色合いも濃くなっているときは、染色体が非常によく使われていることを意味します。細胞が激しく増殖しようとしているときや、細胞が異常な活性を示しているときに、核は大きくなります。直径にして2倍になれば、断面積は4倍、体積は8倍大きいということ。核の直径が2倍でかいということは、染色体の入れ物が事実上は8倍でかくなっているということです。そんなことは、正常の細胞ではほとんどありえません。おまけにこれだけ増殖活性(といいます)が高くなっている細胞が、1つ、2つではなく、ある程度のボリュームである場所に固まって増えている。あちこちにぽつぽつと散らばっているのではなく、ある1か所に領域として固まって異常が起こっているということは、その場所の細胞たちがみな、同じように増殖異常をきたしているということになります。これは偶然ではありえません。領域全体が、異常増殖を示す細胞、すなわち腫瘍であると断定できます。腫瘍といっても良性と悪性がありますが……」




まあこうやって毎回説明できれば完璧ではあるだろう。

でもこんな文章を毎回病理診断報告書に書かれては、読むほうもたまったものではない。

くどい。

長い。




そう、完全な説明というのは厳密すぎるのだ。

日常診療の中で、毎回、客観的な判断の根拠を不足なく書き連ねると、過剰になってしまう。

過不足なく書ければいいのだが……不足はわりと簡単に埋められるけれど、過剰を避けるのは思った以上に難しい。

ということでぼくが考える現時点での最善手……。

「病理医が、ある細胞のどこがどのようにどれくらいおかしいのかを、臨床医に過不足なく伝える方法」

は、たぶん以下のようなものだ。



「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」

「A. 核のサイズが、正常の細胞と比べて、2倍から3倍以上になっています。だからがんです」(※なおこの病理医はどんな診断のときにも必ず客観的な指標を用意していて、ここに書いた以上の根拠と基準をきちんと持っているのだが、報告書を読む臨床医にとっては報告書があまり長文だと大変なので、とりあえず日常的な病理診断報告書はシンプルに書いているが、いざというときには長文で説明してくれるし、そもそもとても気さくで、電話をすればいつでも応じてくれるし、病理検査室を訪れればいつでもニコニコ応対してくれるし、知りたいことがあればどこまででもじっくりと答えてくれるので、今回の件についてもあとでじっくり話を聞こうと思えば聞ける。なお実はすごくいいやつなので、用がなくてもたまに話しかけたくなるタイプであるとする。)