2017年12月12日火曜日

病理の話(149)

Philips社の「フィリップス インテリサイト パソロジー ソリューション」という機械が薬事承認された。

とても大きな節目となるので説明をしておく。




この機械は、

・プレパラートを最強拡大ですべてスキャンしてモニタに映す装置

である。ホール・スライド・イメージング(Whole slide imaging:WSI)。

実は、今までもあちこちの病院に置いてあった。ただあくまで研究レベルだったので、ハイボリュームセンターには置いてあったが、中小の普通の病院には置いていなかった。

顕微鏡を見なくても、組織像をパソコンの画面でみることができるシステム。拡大・縮小も思いのまま。インフラさえ整えれば、他の病院の病理医にプレパラートを郵送しなくても、画像を送るだけでコンサルテーションができる。





モニタに映った顕微鏡画像を見て病理診断をするのは、顕微鏡と違ったコツがいる。

だから、従来の病理医の多くは、WSIを使った診断に難色を示していた。

「顕微鏡のほうがインターフェースとしてのこまわりがきく」

「モニタの操作が難しくて、顕微鏡では拾えた微妙な所見をパソコンだと見逃すかもしれない」

「手術検体のような大きな検体の診断はWSIだと手間がかかりすぎる。小指の爪くらいの小さい生検標本ならまだしも」




けれど、WSIはとうとう薬事承認された。臨床現場で「これを使って診断を出していいよ」と認められたということである(完全にイコールではないけれどその話をすると長くなる)。

ベテラン病理医たちは困っている。いやだなあ、と思っている人も多い。けれど、今後、そもそもあまり顕微鏡の使い方に慣れていなかったデジタルネイティブな若手病理医にとっては、WSIに慣れることはさほど苦痛ではないだろう。







WSIの診断はコツがいるけれども、思ったより「悪くない」というのがぼくの感想だ。

まず、ピント合わせが必要ない。顕微鏡では無意識にピントを合わせる操作を右手が行っているが、すでにピントの合った状態でのスキャンが終わっているので、ピント合わせという操作自体が存在しない。この作業は、診断を0.5秒ずつ早くしてくれる。脳の負担が0.5秒軽くなるというのは思った以上に大きいことだ。

次に、インターフェースはがんがん進化している。速度も申し分ない。この部分がみたい、という欲求に、今のPCはだいぶ答えてくれる。タブレットでもけっこういける。

電子書籍と一緒だ。一度慣れればなんてことないのである。

デジタル画像のストレージをどうするか、という容量の問題についてもかつては深刻だった。しかし、近年の技術の進歩からするとそろそろ問題視しなくてよい。実際、カナダやアメリカの一部、スウェーデンなどの北欧諸国、さらにデジタルパソロジー技術に期待をかけている東南アジア(意外なところではマレーシアなど)ではすでに、ペタバイトレベルのサーバを病理部に配置してWSIが本格稼働している。

日本はむしろ遅れている。これだけPCもスマホもタブレットも普及しているのに。







顕微鏡とモニタの違い。個々人にいろいろ思惑がある。けれど、時代は絶対にモニタ診断に移っていく。

モニタで診断するということはすなわち、「世界のどこにいても診断ができる」ということだ。

すでにCT, MRIの画像を読む放射線診断医は、世界中で「遠隔診断」を行っている。放射線の遠隔診断においては、統一規格(DICOM)の普及が決め手となった。DICOMはそもそもPhilipsという一企業の規格であったが、企業によって画像の企画が統一されていなければ遠隔診断などはできない。Philipsがひとりがちしたおかげで、放射線診断は遠隔診断できるようになったのだ、ということもできる。

独占禁止法ということばが頭をよぎるから、あんまりめったなことは言えないのだが……。

機器は多様であってもよい。ただ、データの規格が多様であっては困る。

デジタルパソロジーシステムはじめての薬事承認がPhilips社であるというのもちょっとした運命を感じる。

病理画像も早くDICOM……じゃなくてもいいけど、とにかく統一規格でデータ化してほしい。







臓器の切り出しが必要で、プレパラートの染色も必要である病理診断においては、遠隔診断システムの普及は難しいのではないか、と考えられてきたふしもある。

しかし、薬事承認されたシステムがあれば、話は別だと思っている。

病理医がどう難色を示そうとも。

経営側が主導することで、全国の病院に「とりあえず、プレパラートスキャナくらいは入れておこうか」という感じで、インフラ整備のハードルが下がる。

ベテラン病理医たちが、いくら「顕微鏡のほうがいい」と言ったところで、それは昔の放射線科医たちが「フィルムのほうが芸術的に線が読める」と言っていたのとあまりかわらないではないか。

少なくとも、経営側はそう考える。

インフラが普及し、若い人が新システムに慣れたころ、革新が進むだろう。

実際、ベテランであっても、使い始めると、驚いてしまうのだ。「意外な快適さ」に。

難しい病理診断をコンサルトするのがとても簡単になる。プレパラートを郵送しなくてよい。学会等のために写真撮影を求められてもとてもラクだ。だってすでに写真なんだから。過去のプレパラートを倉庫まで取りに行く必要がない。だってデータなんだもの。プレパラートの保存が必要なくなる。だってデータなんだぜ。

病院に置くべき常勤病理医の人数も再考されるだろう。今、各病院に必要とされている人員数は、「仕事を分担して、それぞれが脳をきちんと働かせるのに必要な人数」である。病理医がラクになるということはすなわち、「人員数の削減」につながるかもしれない。しかし、一部の病院では元々病理医が足りないのだ。足りなかったのが、「足りなくない」に変わるかも……と、少なくとも経営側は感じるだろう。

遠隔診断によって自由なコンサルテーションが可能になれば。

病理医が忙しいときも、一部のデータを外部に委託することもできるし。

委託先……すなわち病理診断センターの仕事はさぞかし快適になるだろう。プレパラート郵送という手間がなくなるからだ。センターでバイトする病理医は、自宅にいながらにして、モニタを眺めながら数百キロ離れた施設で作成されたプレパラートの診断を行う。







この流れはもう止められない。

放射線科医が遠隔診断を始めたときに世界中にもたらされた福音が、病理の世界にもやってくる。

福音と同じくらい、問題ももたらされることになるが、それでも、放射線画像はDICOM化した。




臨床医と会話できない常勤病理医の存在価値は今以上になくなる。

会話しないならデータを外部の優秀な病理医に飛ばせば十分だ。




無数の病院がWSIを導入することでやってくるのは、「プレパラートの病理画像がビッグデータ化する未来」である。突然こんなこと言ってごめんね。でも本当です。2,3年後にものすごく大きな医事改訂があります。それが終わりの合図です。程なく大きめの規格統一が来るので気を付けて。それがやんだら、少しだけ間をおいてAIが来ます。





【おまけ】

別に上記はぼくの持論ではなくて多くの病理医が知っていることだ。デジタルパソロジー研究会のお歴々などは先刻承知だろう。

おっさん方が想像するのは病理医にとっての地獄の未来である。

ところが……。

今いちばんデジタルパソロジーに詳しい長崎大学(世界中とWSIでミーティングしてる)には、病理医を目指す若手が毎年何人も集まって来ているのだという。

若く優秀なデジタルネイティブたちは、「今こそ、本当に脳が踊る科ができあがる」と期待して、病理の世界を訪れ始めている。

希望というのは絶望が耕した畑に実るのだなあと思う。マジで。

2017年12月11日月曜日

へこむしてますか

「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」が庵野秀明監督でアニメ化しねぇかなあと思ってるうちに師走が来た。師走だけが特に忙しい印象はない。むしろ、年末年始をひかえて、各臨床科が少しずつ年末モードに入っていくため、12月の後半は組織診の仕事が少し少なくなる。家に帰る時間も少し早くなる。読む本が少し増える。正月、それは読書天国、今年も読みたい本がある。年末年始には仕事をせずに本を読む。ありがたいことである。

カズオ・イシグロを読みたいな。ああいうのは喧噪の日常にはとても読む気がしないから。

ケン・リュウの長編とかもほんとは読みたいけど今回はパスかなあ。

今年もいくつか本を読んだ、特にぼくは何冊かの本に心を折られたのが印象的だった。どういう生き方してきたらこんなすごい本が書けるんだろう、そういう漠然とした敗北感みたいな感情を心地よくツマミにして文章に酔った一年だった。

こういうことを書くと、「上を見てもきりがありません、あなたは好きなものを書けばいいのです」みたいな見当外れのなぐさめをぶつけてくる人間がいるのだが、何もわかっちゃいないなあと思う。

ぼくが本当に書きたかった情動を、ぼくより優れた筆致で、ぼくが思いもつかない技法で書き記されたら、ぼくのオリジナルの情動なんてあっという間に吹き飛んで、整地されて、置き換えられてしまうのだ。

心の中だけは誰にもいじられない、なんてのは大嘘だ。心の中の名状しがたいなにものかを、誰か他人が文章という暴力で形にしてしまったら、ぼくはもう、その情動を他人の言葉でしか言い表せなくなってしまうのだから。




白状するとぼくは1月末を締め切りとして医療系のSFの執筆をしていたのだ。

本作は6編の短編を元に書き上げる長編で、まず6編の短編を書いておいて、それをメタに配置した世界で主人公がある悩みと向き合って最終的に筆を折るまでの……

いや、主人公は実はまだ決めかねていた。

作家そのものを主人公にするかどうかはわからなかった。作家の一番近くでその仕事を練り上げようともくろむ編集者を主人公にした小説を書くかもしれないな、と思っていたのだ。

短編を2本、3本と書き、4本目がほぼ書き終わったところで、ぼくの手帳はアイディアで真っ黒になった。書きたいフレーズはある、書きたいストーリーもある、しかし、書きたい感情がいまいちつかめないでいた。

そんな折に読んだのが「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」であった。ぼくはもうこれで完全に折られてしまったのだ。

ぼくの書きたかった感情がそこにはぼくの考えもつかなかった言葉で書き記されていたからだ。

ぼくはこの心の動きをこれとは違う形で書くことは永久にできない、それは優劣とかジャンルとかそういった言葉のモンダイではなくて、もっと根源的な、

「もう、読めばいい本がほかにあるのに、なぜぼくがあえて同じ所を書かなきゃいけないんだよ」

みたいな気持ちになってしまったのだった。




ぼくは某氏の編集者に「すみません、もう書けません」とメールを打った。送信するときにちらっと編集者のメールアドレスが目に入った。おたくの出版社からはこういう内容の本は山ほど出ているじゃないですか。ALSOKでも識別できない程度の小声でぼくはひとりごとを言っていたのだと思う、なぜならそのとき、ぼくの乾いた唇は振動かなにかで避けて、ワイシャツの胸元に点状の血液が、目をこらさなければいけないレベルでわずかに降りそそいでいたからだ。


2017年12月8日金曜日

病理の話(148)

病理の話を誰かにして、わかってもらうために、頭の中にインデックスを作っている。



細胞について。障害と応答のメカニズム。

炎症。

組織再生。

循環メカニズム。

遺伝性疾患。

免疫。

腫瘍。

感染。

代謝、栄養。




さあ、病理の話をしよう……。そう意気込んで、インデックスを順番にたどり、いちから語ってみても。

医学で飯を食おうという人以外には、まず興味をもってもらえない。




基礎のところはいいからさ、もっと役に立つところを教えてくれないかな。

もっと身近な病気について説明してもらったほうがうれしいな。

勉強したいわけじゃないの。自分の知りたいところだけ知りたいの。



そんなふうに言われてしまうだろう。

つまり、ぼくのインデックスは、「医学好き」とか「病理好き」には役に立つだろうが、「医学ふつう」「病理ふつう」とか「医学きらい」「病理きらい」な人にとっては、さほど価値がない。

頭の中には病理のインデックスが全部入ってますよぉ、なんて偉そうに言ったところで、世間の多くの人からは単なる「医学知識オタク」とみられて終わりである。

みんなはもっと、実学的な、身に迫ってくるような、あじわいのある、「やまいの知恵」みたいなものを求めている。

そういう人達に、病理のおもしろさを伝えようと思ったら、ぼくの用意するインデックスは「今のまま」ではだめなのではないか。




ぼくはそもそもインデックス大好き派である。

理論が順番に組まれていることに安心を感じる。

だから、人に説明する時も、概念をきちんと整理して、分類をして、筋道を追って説明をしたい。

……けれど、それでは通じない場合がある。

そのことにようやく気づきはじめた。




今まで気づかなかったのは、自分が誰かに何かを伝えようとするとき、「伝えようとがんばっている自分」に満足していたからではないかと思う。辛辣な言い方だが、自分に対して言うのだからかまわない。

必死で伝えようとする人間をみていれば、相手も「まあがんばってるからな、わかったふりしとこ」となるだろう。

ぼくは相手の「気づかい」にあぐらをかいていたのではないか、と思う。




今ぼくが知りたいのは、「教科書を調べるときに、目次から順番になんか読まないよ派」の「生態」である。

彼らは、索引をひくだろう。

あるいは、ググるだろう。

いずれも、何か、ひとつの単語をあてにして……。

その単語は必ずしも、その人が知りたいことをきちんと連れてきてはくれない。

どう調べたらいいかわからない人に、「インデックスをおぼえろよ、最初から読めよ」と突き放してもしょうがない。

索引を調べる人、ネットで検索をする人が、「どんなことば」で病気を知ろうとしているのかを、まず、ぼくが知りたい。

そして、あることばAを使って検索をしている人に、「BとCも一緒に加えるといい検索ができるぜ」と伝えたい。





ぼくは今、病理学に対して、通常の教科書が採用している「オモテのインデックス」に対する、「ウラのインデックス」を作れないか、と思っている。

病理学をまとめて勉強するためにはオモテのインデックスに従った方がぜったいにいい。

けれど、世の中の多くの人は、目次から順番に病理学を読もうとはしない。する必要もない。

だったら、いっそ、世の多くの人が検索する語句を順番に最初からならべた、「ウラのインデックス」を見てみたい。検索ワードの上位から順番に目次を作ってしまう、ということだ。

「ウラのインデックス」をひとつひとつ説明することで、いつか、病理学の全体を説明できるようになるならば、それはとても楽しい事なのではないか。




・がん

・インフルエンザ

・ワクチン

・ケガ

・予防

・ダイエット

・老化

……。


なんだか書店のあやしい棚を見ている気分になる。

そうだよな、書店で売れている本というのはつまり、「単語で医療をまなびにくる人」をターゲットにしているんだもんな。

当たり前のことだった。





オモテのインデックスを、ウラのインデックスと同じくらい、おもしろく語ることができるだろうか……。

今のぼくの目標はそれである。たいへんに手強い。まだ3合目にも達していない。

2017年12月7日木曜日

脳だけが旅をする

旅はぼくを読者にしてくれる。

「移動の最中」はまとめて本を読むチャンスだ。

飛行機の中で、よく本を読む。あのミステリもあのSFも全部旅行中に読んだ……。

と、昔もブログに書いた覚えがある。



ただ、実は最近、旅行中にあまり本を読めていない。移動中、困憊してしまっており、座席についたら目的地までほとんど寝てしまうからだ。持ち歩いた本を一度も開かないままに職場に戻ってきて、かばんに入れた本をそのまま出して元通り本棚にしまい込むことも多い。



旅路は人生だという。しかしぼくはその人生で睡眠ばかりとってしまうようになった。結局、旅というのは、「どこかでひとやすみしながら移動すること」を言うのだろうな。ただ移動だけしても旅にはならない。優れたサラリーマンは休暇を適切にとるなどというが、優れた旅人もまた、ゆっくりぼうっとする時間を旅程に紛れ込ませているはずだ。

ぼくは旅人であることをやめてしまっている。

日帰りの出張が増えた。翌日を移動で半日潰さないために。あるいは、一刻も早く家に帰りたい、と願って。

移動中はずっとぐったり寝ていて、本も読めず、翌日は翌日で、日帰りのダメージを背負ったまま目を伏せがちに働く。




いそいで日帰りする苦労を繰り返して疲れた、ということを言いたいだけだ、今のぼくは。

徹夜すれば努力したことになる受験生と何も変わらない。

成長がない。





自分より若い病理医が、夜中の2時まで診断をしているとか、毎週出張で飛び回っているとか、論文を毎月書いているとか、そういうことを言う。ぼくもじわじわと焦っている。高密度で長く働けなければ社会人ではない、と、いつのまにか唱えている。

本を読む時間を削って仕事をして、それが成功したとして、そのぼくは、なんなんだろう。




デスクの後ろの本棚に、「読むつもり」の本を2冊ほど積んでいる。

この2冊が、5冊くらいに増えることはあるが、それ以上になることはまずない。積ん読というのが苦手なので、本が読めなそうなときには次の本を買わないからだ。

今ある2冊のうち、1冊は「小説」。もう1冊は「教科書」。

たいていいつも、小説やエッセイのような仕事と関係のない本と、仕事に多少なりとも関係ある教科書とを、1冊ずつ用意しているのだが……。

教科書の方は順調に読み進めているのだが、小説が、2か月ほど変わっていない。読めていない。







「タウマタ」という名の写真集を買った。まだ届いていない。どういう写真集かもわからないが、ぼくはきっと、その写真を眺めているうちに、旅に出たくなるのではないかと思う。

実際に旅行をするかどうかはわからない。けれど、旅に出た気分になる方法は知っている。本を読めばいい。

読書はぼくを旅人にしてくれる。

2017年12月6日水曜日

病理の話(147)

知人から、近所の小学生が「病理医」ということばを知ってるんだよー、という話をされた。病理医を知ってるってマニアックだなあと思ったら、そのあとに続くことばがおもしろい。

その知人が、

「ほかにどんな医者を知ってるの」

とたずねたら、

「えっ、びょうりいってお医者さんなの!」

と言われたらしい。ずっこけである。



そのあと、どんな医者を知っているのかと聞いてみたところ、

「内科。外科。産婦人科。あとコードブルーの人。以上。」

とのこと。

あきらかにテレビの影響である。

そして、びょうりいという単語は知っていたし、あれが病院で働く職員だということもわかっていたが、医者だとは思っていなかった、とのこと。



昔、警察官にはなりたくない、青島刑事になりたい、と答えた子供もいたと聞く。




医者に対する強力なイメージがすでに広まっている状況で、たとえば病理医とか病理という仕事を「特殊な医者だよ」と説明すると、誤解を招きそうだ。

もっと「病理医」に対してストレートにイメージを喚起するような説明が必要なのかもしれない。

どう表現すればよいだろうか?

ぼくは、「特殊なお医者さんなんだよ」と説明することに慣れすぎてしまっている。

医者という巨大なイメージに対抗しながら語彙を使い果たしてしまう。

もっと違う方向からアプローチできないだろうか?




・病気を調べる学者だよ

 →学者というイメージにひっぱられる。メガネのオタクで顕微鏡で試験管をふってそうで、医学系研究者の一部として処理されそう

・顕微鏡で細胞を見て病気を調べる仕事だよ

 →たしかにそうなんだけどいつも思う、本来の病理医の仕事の一部しか語っていないくせに地味。どうせ一部しか語れないならもう少しはなやかに説明したい

・医者の相談役だよ

 →フィクサーみたい。気持ち悪い

・お医者さんより病気に詳しくてお医者さんの相談にのる人だよ

 →少しマイルドにしたけど……おばあちゃんの知恵袋感がある

・病院が国家だとすると病理医は軍師かな

 →この例えを思い付いた自分があいかわらず気持ち悪い

・病気にやたら詳しい学者なんだけど給料はなぜか医者と一緒なんだよ

 →「なぜか」をつっこまれると死ぬ

・医者になるだけの資格を持っているのに医者にならなかった変なおじさんだよ

 →最近は変なおねえさんの方が多い

・勉強してたらお給料が入る仕事だよ

 →みもふたもない




たぶんこういう話を、居酒屋トークみたいな緩い感じでもいいから、本当にずーっとずっと考え続けていくことで、世間のこの職業に対する認知が変わると思う。

そして同時に、副産物として、

「今、病理医として働いているひとたちが、自分の仕事をより正しくとらえることができる」

みたいなことが生まれる。

ぼくはこっちも意外と大事なのではないかと思っている。





ぼくらは医者の資格を持っているけれど、実際、医者とはまるで違う仕事をしている。ぼくらの本質は学者に近い。

医師免許を持ち、学者にしては高い給料をもらい、病院にも勤務することが可能な、生命科学者。





……そこまで考えているはずのぼくが、知人から「えっ、びょうりいってお医者さんなの」の話を聞いて、無意識にずっこけてしまう。

なんだろう、医者ということばにしばられているのはぼくの方なのか。

なれたはずの臨床医にならなかった、という「ストーリー」を自分に与えたくてしょうがないのだろうか。そんなところがぼくの中にあるのだろうか。

あるかもしれないな。おもしろいなあ、と思う。




「見たもの、経験したものを博物学的に並べたあと、ストーリーを与えて仮説を形成する」というのが病理医の仕事の本質である、と、思わせぶりに最後に書いておく。

2017年12月5日火曜日

ちなみにときおりLDLが高いです

古いドイツ車に乗っているのだが、冬が来たらまたエラーのランプが点灯した。去年もこういうことがあった。触媒コンバータの故障を意味するランプだ。

ウェブサイトで確認すると、アクセルを控えめに走行して早くディーラーに持って行け、とあるので、ご指示に従ってディーラーに行ってみた。するとまったく違うことを言うのだ。

「これはですね……その……いわゆる『かぶっちゃった』ってやつでですね」

コンバータじゃないのか。

かぶる、なんてのはずいぶん昔のアメ車乗りがいっていた言葉だ。エンジン内の燃焼が悪いときに、イグニッションの部分に不完全に燃焼したガソリンが「かぶってしまう」ことで、エンジンの始動がいまいちうまくいかなくなる。

ディーラーの整備士は言うのだ。

「えー、黄色のランプってのは黄信号で、ですね……まあその……気を付けて走行すれば大丈夫でして……えーと、近所のコンビニに5分くらいで着いて、すぐエンジンを切るような運転をしてると、こうなりやすくなります。あとはー、冬になるとなんかいろいろこうなります。けど高速道路を走ったり、回転数をあげて走ったりするとそのうちランプも消えますよ」

いったい何を言っているのだ、こいつは。

おかしくなって笑ってしまった。自分が何もわからないものに乗っていること、ウェブサイトであれだけアラートを鳴らしているにもかかわらず、整備士が至って呑気で、むしろ、「この程度ならまだ大丈夫ッスよ」とでも言いたげなこと……。



今年も冬が来てまたランプがついた。

さてどうしようと思ったのだが、ひとまず高速道路で新千歳空港に行く用事がある。

黄色アラートが点灯した状態で高速走行など絶対にやりたくない危険な行為だろう……と、以前は考えていた。しかし、昨年の整備士のお説によれば、

「回転数をあげて長時間走行するとエンジンが安定するんすよ ランプも消えますし」

なのである。

十分に注意して高速に乗り、制限速度ぎりぎりでじっくりと1時間ほど運転してみた。

翌日にはランプが消えていた。

また笑ってしまう。はは、ぼくは何にもわからないまんまに車に乗っている。

整備士がほんとのことを言っているかどうかも確かめようがない。

ググっても違う情報が出てくる。知人はそれぞれ好き勝手な事を言う。

ランプがついてもまた消えるというなら、ランプの意義とはなんなのだ……。





病院に来る患者なんてのは、みんなこういう思いをしているのだろうなあと思った。

血液検査の結果を見ておどろく。黄色のランプがともっている。

どうすればいいんだろう、あんなに糖質制限してるのに不健康なの、どういうこと?

医者にたずねる。

炭水化物減らしたせいでかえってタンパクとか脂質が過剰になってるんですよ。そのせいで中性脂肪が高くなってるんですね。

もう何を言っているのかわからない。

こうしろって書いてある通りにしたのに。

医者に言われて食生活を変えればよいのか。

そもそもこの「黄色ランプ」は、自分にどういう危険をもたらすのか。

ググると違うことを言っている人がいっぱい出てくる。

医師免許を持っている人なら安心かと思ったけど。

ウェブサイトに「医師です」と書いてあるのをそもそも信じてよいのかわからない。

食事のことなら栄養士に聞く方が安心かなあ。

でも、聞いたところで、結局なにを言っているのかわからなかったらいやだなあ……。







今朝はとても寒かった。氷点下にふるえながら、運転席に座り、キーを回し、助手席においていたひざかけを手にとり、さて発進しようと思ったら黄色いランプが点いていた。

古いドイツ車はだめだな。

でも、車ってのはそう簡単に乗り換えられるもんじゃないんだ。

ちょっと血圧が高いからって来世に期待する人間がどこにいるだろう?

問題は、この黄色ランプが、高血圧くらいの意味なのか、高コレステロールくらいの意味なのか、ぼくにはさっぱりわからないということなのだが……。

2017年12月4日月曜日

病理の話(146)

臨床医からの信頼が極めて厚い病理医というのは、「臨床医との対話の回数が多い」。

そして、勘違いしやすいのだが、「ずーっと仕事中臨床医と会話している人」が病理医として優れているわけではない。



病理医の強みというのは、何百種類もの色のレゴブロックが作り上げた医療という造形物の中で、病理医だけが持つ色・形を持っている、という一点にある。

その強みとは顕微鏡を見て細胞について思いを馳せることができるということだ。

細胞を見ることをおろそかにし、臨床医によりそうように、臨床医療のなんたるかだけを考えている病理医であっては、赤や青、緑で作られたレゴの中にキラリとまじったクリスタルカラーであることはできない。



先日、「濱口秀司さんのアイデアのカケラたち。」という連載の中で、目を引く記事があった。

http://www.1101.com/hamaguchihideshi/2017-11-27.html

いろいろな読み方があるだろうが、ぼくは、コミュニケーションとコラボレーションによって何かをクリエイトするとき、その作業の中に

・ひとりで沈思黙考する時間



・他人のアイデアに触れて、自分の中にあるバイアス(偏り)を排除する時間

の両方があることが重要なのだな、ということを感じた。




病理医が臨床医に寄り添いすぎて、診断学の要諦や治療のありよう、医療のメジャーな問題点などにあまりに共感しすぎてしまうとどうなるか?

それは、「臨床医だって普段から考えていること」を、病理医が一緒になってやっているにすぎない。病理医じゃなくてもできることだ。むしろ、臨床医が得意なことに病理医が興味本位で首を突っ込んでいるようにも思える。

病理医に求められていることは、「臨床医ができること」ではない。

臨床医が持っているバイアスや、臨床医が抱えている死角を、病理独自の視点で潰すこと、病理固有のスキルで問題を大きく揺り動かして解決することなのだ。






多くの仕事を世に送り出している臨床医には、たいてい、懐刀(ふところがたな)とでもいうべき病理医がいる。

先日、ある学会に出ていたとき、ひとりの肝臓内科医と話をした。彼は日頃、「頼りになる病理医」とメールのやりとりをするのだという。

「今日の学会にもいらしているんですか?」

ぼくは尋ねた。すると、彼はこう答えた。

「今日は病理の先生は別のお仕事だからいないよ。あんまり一緒の会には出ないね。ぼくは彼とね、うん、そうだな、年に2回も会わない。何週間に一度くらいのペースで、メールで短くやりとりをするだけ」

ぼくはそれを少なく感じた。コミュニケーションが足りないのではないかとさえ思った。しかし彼はこう続けた。

「でもねえ、その一瞬のメールが、ぼくの考えていなかった部分のフタを開けるんだなあ。ほんとうに、おもしろいくらいに、音を立てて、パッカッって開く。そこからまず、自分で考える。前提を疑う。見ていなかったものを見る。そして、何かまとまったな、と思ったときに、またメールをするんだ。するとね……」

そのアイデアは、さぞかし素晴らしい進歩をしているんでしょうね。ぼくは相づちを打つ。彼はまとめるようにこう言った。

「そう、まず、すごいねってほめてくれる。そしてそこでさらに、ぼくがこれだけひとりで考えまくって完成したアイデアを、さらにひっくり返す……というか、画竜点睛を入れてくるんだな。あれにはほんと参るよ。頼りになる病理医ってやつだ……」




臨床医からの信頼が厚い病理医というのは、「臨床医との対話の回数が多い」。

さらに言えば、臨床医からの信頼が究極に厚い病理医というのは、「臨床医にひとりで考えさせるだけの力をもったひと言」の重みを知っている。

コミュニケーション、コラボレーションというのは奥が深い。

口数が多ければよいというものではないようだ。ぼくは幸い、口数がそこまで多くない方の病理医だったよな。そう思ってツイッターのホームを覗くと、「38万ツイート」ということばが踊っていた。