2019年9月13日金曜日

脳だけがここで待つ

今、書き終わって校正ゲラを待っている原稿が4つある。

看護学生向けの教科書、消化管病理の教科書、肝臓画像・病理対比の教科書、そして新書。

いずれも書いている間はどっぷり暗黒だった。はぐきがはれたり口内炎が5000個できたりした。時間の流れは一方向ではないのだなと思った。金曜日のあとに木曜日がきて、その次に水曜日がきて火曜日がきて、月曜日がやってきてまた火曜日に向かう。いつまでもいつまでも平日が続いていく。冷静に振り返って、もうああいう執筆には戻りたくないなと思う。

けれども、書き終わってしまった今、ぶっちゃけ、てもちぶさただ。





やるべき仕事はある。そもそも診断がたっぷりある。

書かなければいけない論文もある。誰に頼まれたわけでもないけれどぼく自身が書きたいものがある。

もう少しすると毎週どこかで講演をする。秋の出張がはじまる。

学会での発表や病理解説の仕事もいろいろある。今年はe-learningの収録とかもする。

だからもう本を書いている場合ではない。

それでも今、てもちぶさただなーと感じる。





ほんとはこの感情は「てもちぶさた」ではないのだとも思う。

依頼されて本にできるような内容が、ぼくの中に、もうない。

それがわかるのだ。手に書くものがないのではない。脳に書けそうなものが見つからないのである。

のうもちぶさた。







自分の持っているなにかを、本にして、書店に置いてくれただけで、これはもう果報者以外のなにものでもない。

亡くなった祖母の位牌にすべての本を供えている

ほこらしいし、ありがたい。

カタチになってしまった本をみる。自分の脳のバックアップをとって、外付けメモリの中に入れたような気分だ。

だからもう、脳に入っている情報は消去してしまってもいい。

本に書いた部分を順番に消去していく。するとどんどんスキマが空いていく。

これが「のうもちぶさた」という感情の正体だと思う。

今ぼくの手元……脳元……に、ものがないことを、ぼくは、さみしく歯がゆく思っている。





身軽ではある。

2019年9月12日木曜日

病理の話(364) ホネのある細胞

細胞の中には、細胞をパンと張って形を保っている、柱のような物質があるという。

ぶっちゃけ、ぼく自身はその「柱」をきちんと観察したことがない。

正確には昔見ているんだけど、当時はあまり興味がなかったので、どうやって見えたか忘れてしまった。

だから今から書くのは又聞きの話だ。自分で見て書いているわけではない。机上の空論と怒られるかもしれない。人のふんどしで相撲を取るとなじられてもしかたがない。

人のふんどしで相撲を取るのはいやだな……。

相撲取らなくても付けた時点でだいぶいやだな……。



まあいいや、ふんどしじゃないし。




細胞なんて、いかにもふにゃふにゃしてそうだ。

あるいは、プリンとかスライムのようにぷるぷるしているイメージがある。

ただ、細胞はそれぞれ、ただそこに居るだけではなくて役割がある(中には『ただ、居る、だけ』の細胞もいていいと思うのだが……)。役割を果たそうと思ったら、ある程度、しっかり立っていてもらわないといけない。隣同士手を繋いで、何かのカタマリを作ろうというときに、ふにゃふにゃ腰砕けでは困る。

そこで細胞には骨組みがある。

正式には「細胞骨格」という。うーんまんまだ。そのまんま。




この細胞骨格が、細胞の種類によって少しずつ異なるということを見つけたひとがいた。

なんだそりゃというかんじなのだが、冷静に考えてみるとあたりまえなのである。




細胞といってもいろいろある。先ほどから述べているような、隣同士で連結して、レゴブロックのように形をつくるタイプの細胞……上皮細胞……は、骨格がしっかりしていないと困るのだけれど、ソシキのスキマをすり抜けながらパトロールをして、悪いばいきんとかが入って来たらやっつける孤高の戦士たち……炎症細胞……などは、骨格がさほどしっかりしていなくてもいい。

孤高の戦士というか警備員たちは基本的にまわりの細胞とくっつく必要がない。血管の中をシュンシュン動き回ったり、ときに血管の壁にはりついて待機したり、いざというときには血管の壁に空いている隙間から外にとびでて、ばいきんたちとバトルをしなければいけない。

こういう炎症細胞たちはニンジャみたいな動き方をするので、骨格はむしろやわらかいほうがいいのである。




で、われわれ病理医は、この、「くっつくタイプの、レゴブロック型の細胞」がしょっちゅうがんになるということをよく知っている。なので、レゴ細胞(上皮細胞)がもつ、特有の細胞骨格を検出するワザを持っている。

免疫染色という手法で、サイトケラチンという骨格を染める。これがぴかっと染まったら、その細胞は、上皮細胞であるとわかる。

サイトケラチンを染める作業はかなりの頻度で行う。ぼくが病理医として働いていて、一週間のうちに一度もサイトケラチンを探さないことは、めったにない。それくらいよく使う。

ただ、この免疫染色という手法は、細胞の骨格……ほねぐみを、そのかたちのままに光らせてはくれない。

染色、すなわち染め物なので、色がバシーッと濃くついてしまうと、かえって細かい構造とかはぬりつぶされてしまう。普通の顕微鏡で観察できる限界というのもある。

だから普段は、なんとなく、「サイトケラチンがばしっと細胞に染まったら上皮だよ」なんて、お茶を濁したことを言っている。




けれどほんとうは……。

電子顕微鏡で見たりすることで……。

上皮細胞の中に張り巡らされている、サイトケラチンの骨格が見えるはずなのだ。ああ、ぼくが今、学生時代に戻って、今と同じ好奇心をもって、サイトケラチンを可視化した共焦点顕微鏡あたりの画像をみていたら、きっとワクワクするだろうに! もう覚えていないんだ、ざんねんだな、もったいない。




なんてことをここに書いておいたら、全国の医学生の中から1,2人くらいは、明日の授業が楽しくなるだろうか? ならないだろうな、やっぱ。


2019年9月11日水曜日

食うからじゃね

ニンテンドースイッチとか3DSなどをやる時間があまりなく、かわりによく本を読む。今はそういう時期なのである。皮算用が進む。

「この曜日のここで本を読めるから、合計すると、1週間で○時間の読書ができて、1冊本を読むのに3時間とかんがえれば、合計○冊ずつ読み進めていけるはずだ……」

するとたいてい途中でいやになる。ノルマクリア目的で本を読んでいるなーと思うと休息にワンピース1巻から読破したい欲や、藤田和日郎全作品リレーマラソンしたい欲などがわきあがってきて、計画はすべてSay頬にキス。読書に対する猛烈な欲は少し緩和されて、マンガを読みまくったあとはしばらく本を読まない時期に突入する。なにごとも、あんまり計画でがちがちにしてしまうのはよくない。




……どうでもいいけどSay頬にキスじゃなくて水泡に帰す、だ。




水泡に帰すというのはおもしろい言葉である。

「これまで積み上げてきたものが無駄になること。」Web辞書などではそのように書いてある。感覚的にはよくわかる。水面でパチンと消えてなくなってしまう無常感を言い表したいのだろう。経済用語でバブルというときも、やっぱり泡が水面にでてきてはじけたところが思い浮かぶ。泡のもろさ、はかなさをイメージした言葉。思い浮かべているものは必ずしも水泡ではなく、ときにシャボン玉の泡の場合もあると思う。

「努力が水の泡」という表現は、感覚的にとても理解しやすい。

しかし……わからないのは「帰す」のほうだ。

なぜ帰る? 水の中に。あるいは泡の中に。

水泡になる、とか、水泡と化す、ではだめだったのか。




もともと泡で生まれたナニモノカが物理的に精製され、その後、ふたたび泡のようにもろくなる、とでも言いたいのだろうか。

でも古今東西、「泡から生まれた」というモチーフがどれだけあるだろう。

人魚姫も泡になって消えた。

泡から生まれた泡太郎という昔話も聞いたことがない。

泡指姫……なんだか風俗にありそうな名前だ。

泡はふるさとではない気がする。まあ「生命、エネルギー、進化」という本では深海の熱水鉱床付近で生命が誕生した可能性について書いていたし、あながち泡がふるさとという意見も見過ごせないのだけれど……。

生命はもともとみな海から生まれた、とかそういうことを言いたいのだろうか?

母なる海に帰った、みたいな?

「水泡」のはかなさを表現する上で「帰す」を使うニュアンスが不明だなと思った。




しかし、ふしぎだなーと思って「帰す」で検索をかけていると、ぼくのような国語の素人にも、だんだん、言霊みたいなものがぼうっと見えてくる。

「灰燼に帰す」。

「烏有に帰す」。

ほかにもいくつかの慣用句が出てきた。これらに共通するニュアンスは、「おうちに帰りましょ」ではなくて、「消える」という意味のほう。

つまり「帰」には「帰る」以外のもう少し深い意味があるのだ。おさまるところにおさまる、とか、消えて無くなってはかなくなる、みたいな。




「帰」という漢字はもともと「歸」と書いたらしい。だから現在の部首であるりっとうなどから意味をそのまま取ることはできない。

Webでしらべた限りだと、「歸」という言葉は、左半分が神に供える肉、それと足(止)、そして右半分が掃き清める意味のほうきを意味するらしい。

掃き清めた場所で肉をおそなえする、ということ。これだけだと、「帰る」というイメージが湧きづらいが……。

何かが移動して何事かが生じ、その後、本来あるべきところにいろいろおさまって、どうもありがとう、神様お肉をあげるよ、きれいにしとくからね。これが「帰」ということばの本来のニュアンスなのかもしれない。

儀式的だな。どこか、「死」とか「消滅」に対する感謝をにおわせる言葉かもな。





こういうことをちまちま検索しながらさいごに「水泡に帰す」という言葉に戻ってくる。水泡だけでなく、帰すの方にも、消滅のはかなさ、別れのさみしさみたいなニュアンスが込められている。

……でもそんなことを意識していなかった昨日のぼくも、「水泡に帰す」という言葉自体はそれなりにうけとめて、勝手にせつない意味で読んでいた。日本語ってのはふしぎだ。

メカニズムがわからなくてもテレビは見られる、みたいなものか。言霊を言語化していない状態であってもぼくらが繊細な言葉を使えるメカニズムというのはどうなっているのか。

ゲシュタルト的認知のなせるわざなのだろうか。





ぼくはこれからどれだけの量の本を読むのか、あるいは読まないのか。

それはわからないけれど、少なくとも、世の中の単語や慣用句のひとつひとつに込められた深い意味とか語源をぜんぶ知ることはないだろう。

多少なりとも知っておきたい。世のメカニズムをおさえておきたい。そう思って、届かないなりにも前に進もうと思って、今週はこれだけ本を読もうと心に決める。計画する。とりかかる。挫折する。水泡に帰す。捕らぬ狸の皮算用だ。




なぜ、皮なのだろう。どうして肉ではないのか?

2019年9月10日火曜日

病理の話(363) タネと土壌の関係

Seed and soil theory(タネと土壌の理論)というのがある。

がんの転移に関する有名な理論だ。

今日はこの、タネと土についての話をする。




がん細胞は、体のどこかで発生したあと、本来の細胞であれば寿命を迎えて死ぬタイミングでも死なず(不死化)、本来の細胞であればそろそろ増えるのをやめてほしいのに増え続け(異常増殖)、本来の細胞と同じような役割を果たそうとしない(分化異常)、など複数のやばめな特徴をもってどんどん増える。

そして、増えただけでは終わらず、周りの正常ソシキを破壊し、さらには全身いたるところへ

「転移」

する。この転移が大変やっかいなので、一般にも有名である。




がんが、生まれついた臓器をはなれて体のほかの場所に飛び去って、新天地であらたに勢力を拡大するためになにが必要か。

古い医学者たちは「きっとがん細胞が通る道があるのだろう」と考えた。

たとえば、小腸や大腸で吸収された栄養は、門脈という特殊な血管をとおって肝臓にはこばれる。これはつまり、小腸や大腸から肝臓へのルートがあるということだ。

大腸に発生したがんも、しばしば、肝臓に転移する。これはもうぜったいに、「栄養をはこぶためのルート」をがん細胞が悪用して、そこを通って肝臓に達しているのだろう、とみんなが考えた。

この考え方、間違ってはいないのだけれど、100%正しいスーパー理論ではない、ということが、この20年くらいの医学研究により明らかになりつつある。





たとえば肺がんはしばしば副腎に転移する。あるいは、脳にも転移する。

肺から副腎に直接向かうルートというのは見いだされていない。あるかもしれないけれど、そんなところにルートつないでどうするのか、という気もする。

肺から脳に向かうためにも、一度心臓を経由しなければたどりつけない。

大腸がんが肝臓に転移するときに「ルートがあるから」と説明している以上、肺がんがほかの臓器に転移するときにも「ルート説」を採用したくなる。

でもどうやら、ルートがあるからそこに転移する、ということでもないようなのだ。




そもそも肺がんが血流にのって全身にちらばるとき、転移する先は、どんな臓器であってもいいはずなのだ。だって血管はあらゆる臓器に張り巡らされているのだから。

でも実際には、肺がんが転移する先にはある程度の法則性がある。




このことを説明するためにあみだされた理論が、冒頭で少しふれた、「タネと土壌の理論」である。Seed and soil theory.

がん細胞をタネに例える。このタネは血流にのって、全身のいたるところへたどり着く。

しかし、たどり着いた先の「土」がタネにとって「合わない」と判断した場合、タネはその場所で増えようとしない。

タネが落ちればどこででも発芽するというものではないようなのだ。

がん細胞というタネはそれぞれ個性があり、この臓器だったら育ちたい、この臓器ではうまく育てない、という好みがあるらしい。




そこで研究者たちは考えた。

がんはどんどん増えて、全身をめぐる。このとき、全身の土に改良をくわえて、がん細胞というタネが全身あらゆる臓器に「見向きもしないような土壌の性質」に変えてしまえば、がんの転移を防げるのではないか?




この考え方を元に、一部の抗がん剤の開発が続けられている。ただ、どうも、なかなかうまくいかないようではある。

雑草を思い浮かべて見て欲しい。雑草というのは、石垣のすきま、除草シートの脇、どれほど環境が悪くても、しぶとく生えて育つだろう?

どうもがんも、雑草に似たところがある……ようなのだ。だからといって研究の手を止めよう、あきらめようとは思わない。医学者たちはあきらめが悪いので。

2019年9月9日月曜日

コンセントを複数形にしたら

一部の職業人は、「この知識があるから給料がもらえる」という強みみたいなものを持っている場合がある。

医者もそう思われていて、「医学知識がある」というのがメシのタネであり、プライドでもある。

「医学知識」というのがウリである。

「医学知識」というのがコンテンツである。




ただ、実際に医者が給料をもらっている理由は、コンテンツの特異性とはあまり関係がない気もする。

ある瞬間に、知識がなくても、さびついていても、パッと出てこなくても。

「必要な資格を持った上で、あるイスに座って、時間を割いて他人と会話していること」

「必要な資格を持った上で、ある手術場に立って、電気メスをもち手を動かしていること」

こっちのほうが、より具体的に給料が発生する理由であったりする。




特異性のあるコンテンツは、その場にいる資格を得るためには絶対必要だ。

ただ、

「コンテンツを持った状態で、ある勤務地にたどり着いた流れ」と、「その勤務場所にいてくれること」のほうが、実務の大半を占めていたりする。




外科医が会議中にえんえんと、院内サンダルに結んだ糸を使って、糸を結ぶ練習をしているシーンをみる。外科医は切る仕事だと思われがちだが実際には縫う仕事であり、結ぶ仕事だ。だって、血管を切ったら結ぶか焼くかしないと、血が出て死んでしまうだろう? だから外科医は必ず「結び方」の練習をする。毎日毎日……。

で、この、「糸の結び方」は、高学歴と何か関係があるか?

医学部6年間で磨いた医学知識と関係しているか?

ぶっちゃけまったく関係していない。糸を結ぶことに関しては医学知識というコンテンツは何の意味も持たない。

医療現場における多くの手技はこれといっしょだ。

注射。麻酔。脱臼の整復。デブリードマン。

知識がないよりはあったほうがいいが、それよりも、繰り返し体にしみこませた「手技」こそが必要とされる。

これらの、いかにも「医者然」とした行動の大半は、医学知識という「医者しか持っていないコンテンツ」とはあまり関係がない。

しかし、医者がやらないといけないのだ。なぜかというと医者は、知識というコンテンツをもってその場にたどり着いた文脈(コンテキスト)を持っているから。

持たなければいけないものを持って、その場にたどりついたこと自体が人々に安心と信頼を与えるのだから。





で、まあ、ぼくは最近よく考えるのだけれど、医者が自らを恃む「コンテンツ」をしばしば文章にして世に発信するとき……。

「コンテンツ」をぼくらは誇りに思っているし、ほかの誰もが持ち得ない大事な強みだと知ってはいるけれど……。

「コンテンツ」を持ちながら実際、「コンテキスト」でたどり着いた医療現場で、ぼくらは日々、わりと手技に邁進していて、あんまり「コンテンツ」を使い切ってはいないんだよね……。

ぼくらは、ほんとにその「コンテンツ」、さくっと語れる?

ぼくらはその「コンテンツ」、わりと誇りに思っているけれど、実際、きちんと言語化して、毎日使う武器として育て上げている?




「コンテンツ」を文章にして語ろうと思ったら、世に語って受け入れてもらえるだけの「コンテキスト」を別に作っておかないと、あまり届かないのではないかなあ。

「コンテンツがあるからニーズがあるだろ」というのは、ちょっと、暴論なのではないのかなあ。

2019年9月6日金曜日

病理の話(362) ガラスプレパラートの奥行き

細胞を顕微鏡で観察するといろいろわかる。

……と、書くとなんだか簡単そうにみえるのだが……。

実はこの「顕微鏡で観察する」というひとことの中には、だいぶ技術が詰めこまれている。



まず、顕微鏡というのは基本的に、強烈な虫メガネである。

どんどん拡大倍率をあげていけば、どんどん小さなものが見えてくる……のだが、実は、そう簡単でもない。

拡大倍率をあげればあげるほど、視野が暗くなってしまうのだ。ある領域内に降りそそぐ光の総量は、拡大をあげればあげるほど少なくなるからである。

これを解決しないと、ある程度以上の倍率は目でみることができない。




指紋をみるくらいの拡大倍率でよければ、自然光を外からあてて観察すれば十分に見られるのだけれど……。

そうだなあ、具体的に言うと、たとえば、あなたの手とか指とかに、うぶ毛が生えていませんか?

そのうぶ毛、とっても細かいでしょう?

でもうぶ毛の根元……毛根……には、少なく見積もっても200個以上の細胞がぐるりと取り巻いているんですよ。

細胞ってそういうサイズなんだよね。指紋を拡大するとかいうレベルではない。



うぶ毛の毛根部分を超拡大して細胞ひとつひとつの構築まで見ようとおもったとき、虫メガネ型の拡大鏡を使っていては、光量が足りなすぎるのである。だから、光を強めに当てなければいけない。

しかし表面からガーンと光を当てると、ハレーションを起こしてしまうし、微妙な色調差が飛んでしまう。




そこで、ミクロの世界を光学的に観察する際には、表面から光をあててその反射光をみるのではなく、裏側から光をあてて透過光をみるのが一般的となった。

細胞の裏側から光をあてるためには、細胞が指とか手にのっかったままだと都合が悪い。

だから、細胞が乗っている部分を、うすーく切り出してくる必要がある。




こうしてつくられたのがガラスプレパラートなのだ。ガラスの上に、4 μmという薄さの、ペラッペラの「かつらむき」をのっけて、後ろから光を当てる。そうすれば、細胞レベルのミクロであっても観察ができる。




ただし4 μmまで細胞を薄く切ってしまうと、向こうが透けるくらい薄いため、今度は色味がなくなる。ほとんど透明にしか見えない。

そこで今度は細胞に特殊な薬液を使って、色を人工的に付けてやる。なるべく細胞内の構造にコントラストがつくように……。




こうして、うぶ毛の毛根レベルを拡大するために、いろいろな工夫が開発された。ものをうすーく切る技術、半透明の薄い膜になった組織に色を付ける技術……。

すると、これらの技術の副次的な恩恵がいくつもあらわれてきた。




小さい世界を観察するために組織を薄く切る。つまり組織はいつでも、表面からではなくて「割面」をみるほうがいいとわかった。すると自然と、私たちは、組織の表面より断面に目が行くようになる。

木を外から見るのではなくて、ずばっと切って年輪の部分をみるクセがつく。

すると切り株の断面には、年輪以外にも、根から葉へと水分をおくる管が走っていることがわかる。

断面を見ようと思うことで、断面でしか観察できない新しい科学に注目が集まる。





薄いぺらぺらの組織を観察するために人工的な薬液で色を付ける。細胞を少しでも見やすくするためにいろいろな薬液を調合して試す。

すると、薬液を変えることで、細胞のさまざまな成分を個別にハイライトすることができることに気づく。

色づけして観察することで、色を変えて初めて見えてくる新しい構造に注目が集まる。





今日の記事でぼくが言いたかったのは最後に太字にしたところだ。

何かを達成しようとして新しい技術を作ると、必ず、「技術を作ったときには想定していなかった、副次的な効果によって、当初考えていたよりも多くの科学が発展する」。





さあ、今後、AIを導入して病理学をすすめていくと、どういうことが起こるだろうか?

2019年9月5日木曜日

自問自答の自をどこまで拡張するかという話

「誰に何を届けたいか」みたいな話をずっと考えていると、この短い文章の中にも、3つほど「ん?」と思うポイントが含まれていることに気づく。

・誰に

・何を

・届けたいか



まず「誰に」。

特に誰にも届けたくないけどとりあえず自分がしゃべりたいのだ、ということが、ままある。

強いて言うならば「自分に」届けたい瞬間がある。聞いてくれる相手は誰でもいいのだ。だってその人をどうこうしたくて書くわけじゃないのだから。書くことで、自分がどうにかなりたいときがある。




次に、「何を」。

実はなんでもいいのだ。書いて出して認められるという過程だけが必要なのであって、届けるべき具体的なものはぶっちゃけ何であってもかまわない。強いて言うならば「届くもの」を書ければそれに越したことはない。




そして、「届けたいのか」。

そもそも届けたくないのかもしれない。「誰に」とも、「何を」ともかぶるけれど。届けることが目的ではないことがある。





ということはだ。

「誰に、何を、届けたいのか」という疑問のことを考えると、

「自分は、なんでもいいから、書きたい」という全滅的回答が得られることになる。





自分が医者だと公言している状態で発信する情報は、世の中的には、ある種の色メガネで観察されており、

「患者(や一般の人々)に、医療や健康に関する情報を、届けてくれるはずだ」

と期待されている。そういう前提で、ぼくが内心、

「患者に届けようと思ってないし、医療情報ばかり届けるつもりもないし、というか、届け物をするつもりがない」

と思っていては、そりゃあ、伝わらないし、得るものもないだろうなあと思うのだ。





以上のような机上の空論を何度も何度も繰り返しているうちに、もう少し自分の思考を丁寧に言語化しなければいけないなと思って、もうちょっとやさしく考えてみることにした。




・誰に

・何を

・届けたいか




ぶっちゃけ世の中の誰かに何かを届けたいと思うことは少ない。ただ、自分と思考回路がちょっと似ている人であるとか、自分と同じような悩みを同じように持っている人であるとか、自分がやさしくしたいなと思っている人と、共通の話題で会話をすることは、けっこうアリなんじゃないかなと思っている。



何をきっかけにして会話をするのでもいい。ただここで語る何かが、誰かに届けようという気持ちできちんと研磨したものであるとき、受け取り手が「それ、わかりやすいね」「なるほどよくわかったよ」と言えるくらいに錬成されたものであるとき、自分が持っていたその何かは、以前よりも使い勝手がいいものに変わっているだろう。



一方的にこちらから相手に届けるようなことでなくてもいい。ただ、物事というのは、距離を詰めたり遠巻きにしたり、拡大したり俯瞰でみたりしているうちに、細部も全体も両方みえてくるものである。となると、自分の手の中で後生大事にしておくよりも、誰かにあずけてそれを外から眺めてみるとか、あるいは誰かの手から投げ返してもらうとかしたほうが、結局、自分にとっても、その場にいる「誰か」にとっても、詳しく観察された「何か」になるだろう。





以上をまとめると、ものを書こうとするときに頭の中に流れてくるお決まり疑問文、

「誰に、何を、届けたいのか。」に対する答えは、



・自分が拡張されたときに接続するかもしれない他人に、

・自分や他人が持っていて、あるいは持ち始めていて、今以上に使いやすくしておきたいものごとについて

・届けたり届けられたりを繰り返しながら何度も眺めていたい。



ということになるだろう。

であれば情報発信においてどういう姿勢をとるべきかはおのずと決まってくる。



すでに完全に自分のものとなっていて、この先扱い方を変える気がなく、それについて自ら驚いたり感動したりする気もない、自説やステータスの類いを話すことはつまらない。

一方的に自説を述べるばかりで、かえってきた反応によって自分が変わる可能性を排除していると、情報発信としてはおもしろくない。




だんだん自分が宗教対話の人みたいになっている気がする。もう少し言葉を練ってわかりやすくしたほうがいいだろう。誰のために? なんのために?