2018年7月13日金曜日

病理の話(221)

がんはなぜ「やばい」「こわい」のか? ということを真剣に考える。

すると話はけっこう簡単で、

「がんは、死ぬからやばい」

ということになる。

でももう少しきちんと説明しないといけない。「ことばが足りない」というのは、人間としてよくないことだ。

きちんと、くわしく、わかりやすく書こう。




「がんは、いつか死ぬからやばい」。

このほうが正確である。「いつか」に、まず盛大に幅がある。

がんだと診断されてから死ぬまでに200年を要する場合がある。200年! そんなの絶対にがん以外の病気で死んでしまうではないか。だったら、そういうタイプの「がん」は、恐るるに足りない。というかそもそも「がん」という名前を与えるのをやめたほうがいいだろう。みんなびっくりしてしまうから。

逆に、がんだと診断される間もなく、患者にがんだと悟られるひまもないくらいに早く育って人を死に至らしめるがんだってある。

がんだと診断されたら2,3年で命にかかわるようながんもあるし、

がんだと診断されても10年くらい治療で生き延びることができる、がんもある。




そんなにがんに幅があるとして、もはや、「がん」というくくり自体がおおざっぱすぎるのではないか、と、普通の人は考える。

だから、「早期がん」とか「進行がん」みたいな考え方も生まれる。

けれどもこの2つの切り分けでもまだ足りない。




がんというのは確率の病気である。

生命は生まれた瞬間から、面が10000個くらいあるサイコロを振り続ける。

毎日。毎日。なんなら、毎分、毎秒。

そして、そのサイコロの面のうち、100個くらいに、「がんになる」と書いてある。

人はこうしてがんになる。

ところが、がんになると、今度はまた別のサイコロを投げる。

そのサイコロには、「がんを免疫が倒す」みたいな面が9900個くらい書かれていて、たいていはこのサイコロによってがん細胞が倒される。

ところがその中のまた1,2個くらいに、「がんが生き延びる」と書かれている……。



毎日、毎日、サイコロを振り続ける。

タバコを吸うと、サイコロの面が少し書き換えられる。

「がんになる」「がんを免疫が倒す」の面の数がかわる。

けれどもやっていることはずーっとサイコロだ。

確率の中でずっと生きていく。



こうして狭い確率の中で、体のどこかにできあがったがん。

途方もない低確率を、人生のどこかで達成してしまった結果、できあがったがん。

こいつがまた、サイコロをふる。

「早く増える」「遅く増える」「ばらばらになって転移する」「ばらばらにならない」

このようなサイコロを延々と振り続ける。



もはや、同じ「がん」といっても、生命に重大な危機を及ぼすようになるまでの間に、サイコロでわけがわからないことになっている。




がんはなぜ「やばい」「こわい」のか? ということを真剣に考える。

サイコロの話を完全に理解すると、「がんにも、やばくないもの、こわくないものがあるし、やばいもの、こわいものもある。いろいろである。」ということがわかってくる。

すると、一番やばくてこわいのは何かというと、そういうことを全く知らないまま、「がん」と聞くだけで思考停止してしまいがちな、ぼくらの「先入観」ではないのかな、などということも、考えの隅っこに少しだけ浮かぶようになる。




がんは様々だ。だから、人それぞれに細かい診断をして、オーダーメードで立ち向かう。

それこそが現代のがん診療であるということを、世の中に広めきることができるかどうか、不安である。やばい。こわいものがある。

2018年7月12日木曜日

9回裏に出てくるのはリリーフ

死生観について少し考えていて、なにごとか書こうかと思ったのだが、今の自分の身の丈に合った死生観となると「他人の死」を語るところまでしかいかず、「自分の死」を語るに達していないように思われた。

つまりは想像力の問題なのだ。

ぼくは自分がどのようにして死を迎えるか、あまりうまく想像できていない。想像力が未来を映し出すところまでいっていないのである。

医師なんだから、自分の死の間際になにが起こるかなんて、ちょっと考えればわかるだろう、と言われてもしかたがない。

ぼくには今まで語ることもなかったひとつのエピソードがあって、その記憶を思い出すとき、自分がどのようにして死に臨むのかをほんとうにうまくイメージできなくなってしまう。イメージできないというか、イメージをぼくがしてもしょうがないのだろうな、という気になってしまうのだ。

「自分の意図するところとは別の部分を気にしながら最期まですごすのだろう」という予感。

たぶん死に臨む自分を囲む人々、それは他人かもしれない、家族かもしれない、わからないのだが、そういう人々の考える死生観に押しつぶされるようにして自分の死生観が完成するのではないか、という、弱くも折れない確信があるのである。



短い人生、自分の好きに生きていけばいいじゃないか、という人になかなか共感できない。理解はできる。わかる。しかし共感をしていない。

ぼくは人生というものに対して、他人の形作ったレリーフの中に浮き上がってみえてくるようなイメージを持っている。

ぼくの人生は、自律的に何かのオブジェとして闇の中に立ち上がるものではなく、他人というパーツが重合してできたスキマに向こうから光をあてたら見えてきたナゾの形状こそがぼくの人生だろうと考えている。

共感していただかなくても結構だが、理解はしてほしい。

「自分のやりたいことをやる」なんて一番安易でつまらない。イージーモードの何が楽しいんだ、とすら思っている。

まして、人生の最後、人死という特異点を自分の好きに生きた(死んだ?)ところで、その点をスタートとして他人の中で続いていく生のストーリーにはどのみち関与しきれない。

「生きるにしても死ぬにしても、ぼくの生き方を決めていくのは多くの他人が作ったストーリーの集合体になるだろう」

という思いを強くしている。



だからぼくは今、他人の死をめぐるエピソードにとても興味がある。それらのエピソードを最大公約数的に辿った先にぼくの死があると思うのだが、あるいは最小公倍数のように話を広げていって、最後にスリットのように残された場所に光を当てたらそれがぼくの死になるかもしれない。

そこらへんはまだわからない。想像力が足りないのである。

2018年7月11日水曜日

病理の話(220)

いまさらだが、「病態生理」の話がおもしろくてしょうがない。

人が苦しんでいる病気を「おもしろい」とはなにごとだ! と怒られるかもしれないのであまりおおっぴらに言いたくはないのだが、人体というものが大変よくできているのとおなじように、病気というのもとてもよくできているのだ。

生命が「なぜこうなっているのか」「どのように成り立っているのか」はワンダーランドだ。本当にすごい。勉強しても勉強しても新しいシステムが出てきて、新しい解釈が生まれて、ほんとうに終わりが無い。最高のエンターテインメントになる。

それとおなじで、かくもすばらしい生命の防御機構をすり抜けてまで「病気」という状態を維持し続ける、病気のメカニズム(病態生理)というものもまたあっぱれなのである。



だから最近ぼくはいろいろと勉強をしている。

日常、なんとなく、「細胞核が大きいから、がんだ」とか、「好中球が多く出現しているから、急性炎症だ」みたいに惰性で診断をしていた自分をグーで殴りながら。





たとえば。

もともと、組織の中には、血管が「目立たぬ程度に、規則正しく、細かく」配置している。

正常の組織を顕微鏡でのぞくと、あまり「血管」は気にならない。

Google mapで、住宅街を規則正しく走行する小路には目がいかないのと同じだ。

普通はまず、家とか大きな建物に目がいくだろう。



しかし、ここに炎症が起こると、小路の中にいっせいに水が流れ込む。

そして、家と家とのすきまがグッ! と広がる。

小路が水によって広がってしまうのだ。

この水の増加によって、小路だったスペースに、大量の炎症細胞が流れ込む。

「炎症」がはじまる。



このとき、顕微鏡で組織をみると、「家と家とのすきまが妙にはっきり見える」ようになる。

すかすかしていて。

そのすかすかの中に、好中球が大量に出現している。

このすかすかを「蜂窩織炎」とか「phlegmonous(蜂巣状)炎症」といったりする。

ハチとかハチの巣という名称が用いられているのは、まさにハチの巣のように間がすかすかになる時期の呼称だからだ。




こういったことを、じっくり、最初から、きっちりと勉強しなおしている。

ぼくよりあとにこの世界にやってくる人に、彩りをそえて病態生理を伝えられるようにしておきたいなと思っている。

2018年7月10日火曜日

めちゃくちゃ読みづらくてすごいいい本です

毎朝この時間にぼくがブログの更新通知をすることを、

「閑散とした早朝の繁華街の交差点にどこからやってきて、道を掃き清めているおじさんみたいな感じ」と言い表した人がいた。

先日のワールドカップの際にはまた違う人から

「普段、静謐な時間にそっと更新されているブログが、今日は渋谷の雑沓にもみくちゃにされている」

という主旨のツイートがされていた。





タイムラインには24時間誰かがいる。

体内に常に血液が流れているようなイメージを持っている。

流動が止まることはない。ただ、流れが多い、少ない、早い、遅いという違いはある。

早朝4時ころというのは一番動く人が少なく、空気が冷え切っていて、足音が遠くまで届くかんじがする。

何か世に刺激をもたらすようなことがあると、普段はおとなしくしている人たちがぐんぐんとうごめいて、平時には見えていなかった交流がなされ、スキマが拡張し、ほてる。

まるで炎症の過程をみているようだなあと思う。




京都大学の真鍋俊明先生の本に書いてあった言葉を引用する。少し長いがそのまま書く。

”少し余談になりますが、正常の構造がどうなっているかを知ろうとする場合、生理的状態のみを見つづけても、その本当の姿が見えてこないことが多々あります。ところが、病的状態―これを私は”ゆさぶりのかかった状態”といっていますがーをみることによって、正常構造あるいはその機能が浮き彫りになってくるのです。

(中略)

異常状態を深く吟味すれば、正常構造やその機能を類推したり、より良く理解することができます。”

(皮膚科医のための病理学講義 ”目からウロコ”の病理学総論 「生命」からみた病気の成り立ち(2018, 金芳堂)より抜粋・引用)




ぼくは毎朝早い時間に、血流が乏しく、組織間のコントラストが弱い状態の世の中を眺めて、なにごとかを思っている。ワールドカップ決勝トーナメント1回戦の日、試合が終わったあとにはからずも「滲出」してしまった人々は、くちぐちに、これから職場や学校にいくのだということ、一日をどう過ごすつもりかということ、先ほどまでの時間に対する感謝と悔しさ、これから何をどう楽しみにしていきたいかということなどを、ぼくの前で浮き彫りにしていた。

ああこれは炎症をみて生命を理解しているのだなあ、と思ったりした。

2018年7月9日月曜日

病理の話(219)

人間の膵臓(すいぞう)は、細長くて中身のつまったカタマリで、だいたい、手をパーにしたときの親指から小指くらいの長さ、くらいの長さがある。

膵臓の役割は大きくわけて2つある。

 1.食べ物の中に含まれているタンパク質を消化するための「膵液(すいえき)」を作って消化管の中に流し込む

 2.インスリンなどのホルモンをつくって血管の中に流し込む

である。流し込みまくりだ。流し込む先が2か所ある。

で、「1.」のために、膵臓の先っぽは十二指腸に衝突している。突っ込んだ場所にファーター乳頭という出口があり、膵臓が作った膵液はこの出口から十二指腸の中にばらまかれる。うん、人体というものは、ほんとに、うまくできている。

というわけで、膵臓という臓器は、「十二指腸に側面から突っ込んでいる、カタマリ」だ。ぼくはもうそういうものだと思っていた。




ところが。

先日、ある生命科学実験の本を読んでいたら、「マウスの膵臓」の話がでてきて、これに驚かされた。

マウスの膵臓は、ヒトのように、カタマリの形をしていなかったのだ。

「腸のまわりに、なんだか雑にへばりついている」のである。スプラトゥーンのインクみたいなかんじで。

人間の膵臓とはまるで違っていた。カタマリじゃないから、一見、「臓器」という感じがしない。

本当におどろいた。まあ、マウスを使った実験をなさっている方からすれば、何をいまさら、という感じなのだろうが……。

種が違うと臓器ってここまで変わるのか、という衝撃を受けた。

「お魚だって心臓とか消化管とかまるでヒトと違うんだから、動物の種類が変われば臓器だって変わるの、あたりまえじゃん。」

といわれても仕方ないけれど。

おなじほ乳類であれば、臓器のカタチなんて大差ないだろうと、どこか思い込んでいた。






一般に、生命は高度になればなるほど「分業」がはっきりしている。

膵液をつくる細胞がきっちりひとカタマリになって膵臓となっているし、胆汁をつくる細胞がちゃんとひとカタマリになって肝臓となる。

似たようなお店は1か所にかたまっていてくれたほうがユーザーも便利だし、お店側も「だいたい似たようなインフラ」を使いまわしているので便利だ、ということなのだろう。ただ、最初からそういう便利な配置をしていたわけではないんだよな、ということを、マウスをみていると気づかされる。




長い歴史の中で、生命はほんとうに気まぐれに、さまざまな「変化」を来した。

その変化の中に、「膵臓は一か所に固めてカタマリにしよう」というものがあったのだ。

でも、逆に、「膵臓をもっとばらばらにして、あちこちに散らばらせる」ものもあったはずだ、というのが今の科学の考え方である。

生命に起こった変化というのは、最初から「意図」とか「目的」をもって起こったわけではない。

変化は常にランダムに起こる。

膵臓が縦長になった生命もあったと思う。

膵臓がマウスよりももとずたぼろになった生命もあったのではないか。

膵臓が肝臓とくっついてしまった生命もあったかもしれない。

そのような多様なバリエーションが、それぞれ勝手に「継代」していくうちに、たまたま「生きていくのに得が多かったグループ」だけが生き残った。

残りの、「生きていくのにちょっと不利だったグループ」は滅んだ。

そういうことだと考えられている。

今、少なくともマウスより高度だとされているわれわれヒトは、「平たい顔族」風にいえば、「膵臓が固まっている族」なわけだ。膵臓が固まっている族は、適者生存の理を生き延びたのである。





さて。

進化に終わりはない。

変化に終わりがないからだ。

たぶんぼくらヒトも、気づかないうちに、あちこちの遺伝子がランダムに変化している。ぱっと見では気づかないくらいの臓器バリエーションも出てきている。

これらが長い長い年月にさらされているうち、次第に、「生きていくのに有利なグループ」が残っていく。

ずっとずっと未来、ヒトが進化した末に現れる「ヒトならぬ生命」において、膵臓はどういう形をしているのだろう。

今の我々が考えもつかないような形に変わっているかもしれない。

それを見るのはぼくらヒトではないのだけれど。

2018年7月6日金曜日

一人して流星になったみたい

定期購読を増やそうと思う。

今まで定期購読していたのは「本の雑誌」と「胃と腸」。いとちょう。響きがいいよね。

そして先ほど、急速に気がついた。

雑誌「病理と臨床」を定期購読していなかったことに……。

それは病理医としてどうなんだよ、ということに……。



まあ言い訳をするならば、「病理と臨床」は病院の図書館でも定期購読しているので、図書館に行って読めば金がかからない。

それで十分だと思い、ここまでやってきた。

自分にとって重要な号だけを個人的に買い、それ以外の号はまあ借りて読めばいいや、くらいの気持ち。

けれど、なんだろう。

やはり自分の金で自分のものにした本が、自分の知恵を一番増やすんだぞ、みたいな、ちょっと確実に何かが摩耗したかんじの強迫観念にとりつかれた。

「ああ、病理と臨床を定期購読しなければ!」

ぼくは思わず立ち上がってそうつぶやいた。スタッフがびくっと肩をすくめた。「そういうのは心の中で声を出して下さい」。

恥ずかしさを無視する。

出入りの書店に電話をかける。

「病理と臨床の定期購読をお願いします。」

まさに必要とされるのはこのスピード感であった。




一連の自分の動きがコミカルに感じられた。ちょっと演劇はいってるな、とも思った。

そこまで演出して本を買ったら、もう読まないわけにはいかないね。言い訳はできないよね。

そこまでするんなら読まないとだめだよね。

ああ、いいよ。むしろそうなるように自分を仕向けているんだよ。

……たぶん、これがぼくの無意識が仕込んだ「手段と目的」なのだろうな。





「SNS以後」のぼくは、たまにこれをやっている気がした。

「行動するとき、いちいち他人に宣言しなくていいんだよ。そういうのはかっこわるいよ。」という人もいた。

けれどぼくはそうは思わなかった。

毎日歩いて目を配る。

そこには、膨大な量の選択肢がある。

自分が取り得る行動が、無数に提示されている。目の前を通り過ぎていく。永久に戻ってこない回転寿司だ。

全部の皿を拾って食えるほど胃が強くはないし、寿命も限られている。

そんな中、何かに本腰いれて取り組もうと思ったら、

 宣言して、

 後に引けなくなる、

ことが最も大事だと思ったのだ。

ぼくはそうやって、今までいろいろなことを無理矢理やってきたのだ。







「病理のポータルサイトをいつか作りたいと思っています」と最初に宣言したのはもう数年前になると思う。場所は、Twitterではない、Facebookだったと記憶している。

だからこのたび、開店休業状態だったFacebookページに、突然書き込んだ。

みんなゲラゲラと笑っていた。

 「あいつほんとにやりやがった。」が左大臣。

 「後に引けなくなったんだろうな。」が右大臣。

 「そうやっていっつも大騒ぎして有言実行していけばいいんだよ。」が中央フリーウェイ。



ぼくはそういうやり方を続ける気でいるぞ、と、ここに宣言しておく。

2018年7月5日木曜日

病理の話(218)

超~絶マニアックな話をするので覚悟して欲しい。

……といっても「病理の話」を読みに来ている時点で、明らかにマニアックな内容を所望している読み手とお見受けするので、まあそんな前置きは不要なのかもしれないが。



臨床医療者たちは、日常診療の中でときおり、

 ・珍しい症例

 ・勉強になった症例

 ・難しくて診療に苦労した症例

とすれ違う。そのとき、本人がただ珍しいと驚いたり、勉強になったと喜んだり、難しいと頭をひねったりして終わってはもったいない。

その貴重な体験を、世界中の医療者達に伝えてあげれば、次に同じ症例に出会ったほかの医療者たちが喜ぶだろう。参考にするだろう。同じ間違いをおかさなくて済むだろう。ただちに適切な診療にたどりつけるだろう。


だから学会に持っていく。研究会で自分の経験した症例を提示して、列席者たちにも頭をひねってもらう。論文に書いて、世界中の人に読んでもらおうとする。




このとき、「病理の写真」が必要になることがあるのだ。




いまどきの顕微鏡には、専用のデジタルカメラが外付けできるようになっており、細胞を拡大して写真をとることができる。

で、この「細胞像」というものは、厳密な学会発表とか論文執筆においては欠かすことができない、大事な情報だ。

だから、ぼくら病理医はときおりほかの医療者たちから、「写真を撮ってください」と頼まれる。

どれくらいの頻度で頼まれるかって?

そうだなあ……。

浅草の雷門の前をうろついて、海外からの旅行者にシャッターを頼まれるくらいの頻度……。

いや、もっとだ。

売上げのよくないメイドカフェの従業員がしきりにすすめてくる有料チェキ、くらいの頻度。

それだと多すぎるかな。

まあ、そこそこよく頼まれる。



で、この話は前にもちょっとだけ書いたと思うんだけど、今日の「超絶マニアックな話」はここからだ。


病理の写真をとるコツをお教えしようと思う。


誰の役に立つんだ。ゲラゲラ。



【臨床の医療者たちによろこばれることが多いと言っても過言ではないと申し上げるにやぶさかではない、病理写真の撮り方】


写真をとる病気が「限局性」か、「びまん性」かを判断する。限局性の場合はAに。びまん性の場合はBに進む。

<A. 限局性病変>

 A1. 写真はもっとも拡大倍率の甘い・全体像がうつる・ロング・すなわち「ルーペ像」からとる。
 9割9分の臨床医療者たちは、最強拡大の組織像にあまり興味がない。人として想像がおよぶレベル、すなわち「そんなの顕微鏡でみなくても虫眼鏡で見れば十分わかるじゃん」くらいの弱い拡大倍率の写真が、いちばん受け入れられやすい。

 A2. 次に拡大を少しあげる。このとき、「病変の境界部」を必ず撮影する。病変じゃないところと、病変部との、キワ。ここからが病気だよという端境の部分。だって、臨床家たちが診断をする際には、けっきょくその病変が「周囲とどう違うか」を判断して診断しているわけだから、組織写真もやはり「境界部」からスタートするのがいい。

 A3. そして拡大を徐々にあげながら、病変の中心部を撮影する。このとき、ひとことで「中心部」といっても、病変にムラがあるならば、そのムラ、もしくは模様の違いごとに、写真を撮っておくとよい。組織の見た目が違うということは、臨床のひとたちが画像でみたイメージも違うということだ。きっと、対比(照らしあわせ)ができる。

 A4. さらには臓器ごとに、「お作法」ともいうべき撮り方を覚えて置く。
  A4-1. 消化管ならば必ず粘膜筋板の走行に着目した写真を獲ること。
  A4-2. 肝臓ならばグリソン鞘の配置や個数を必ず考慮した写真を撮ること。
  A4-3. 膵臓ならば主膵管や総胆管の位置がわかる写真を撮ること。

 A5. 撮った写真をそのままJPGデータで医療者に渡すのはもったいない。できればパワポに写真を組んで、解説をつける。「そんな、めんどくさい!」と思うかもしれないが、結果的にそのほうがあとで解説する手間がはぶけてラクである。何より喜ばれる。

<B. びまん性病変>

 B1. 限局性病変と同様に、弱拡大から強拡大へと拡大を変えた写真を撮ることは重要。

 B2. しかし、それ以上に、出現している細胞の性状をきちんと解説しておいたほうがいい。これは理屈があるというよりは経験則なのだが、びまん性病変のときに病理が力を発揮するのは「最も強拡大の細胞像」であり、逆に限局性病変のときには最強拡大像よりも「弱拡大像」のほうが情報が多いように感じている。

 B3. 強拡大写真のときにはキャプションの入れ方によってユーザビリティがだいぶかわる。弱拡大だとなんとなく素人でも構造がよめるのだが、細胞の細かい構造については普通の医療者はまったく意味がわからない。だから強拡大になればなるほど、どこかに解説を添えておくやさしさがほしい。
 (写真に直接書き込むと論文化のときに邪魔なので、パワポのノート欄などに書いておく)

 B4. 拡大をあげた写真をとるときには、ルーラー(定規、大きさを示す目盛り)を忘れないように。あとで設定するのはめんどくさい。



……こんなとこかな。ウフフ、ぜったい今日の記事、世の中の数人くらいにしか意味がないよ! たのしいー! たまにはいいよな!