2018年4月24日火曜日

覇王丸「アッタマにきたぜぇ」

腹筋が弱ってきたので、油断をすると、腹がぽこんと出る。

頚椎症なので、油断をすると、手がしびれる。

だからいつも油断をしないようにふるまっている。

あたかも隙がないようにふるまっている。

背筋をのばして、武術の達人のような姿勢でPCに向かう。

仕事をする。諸事、侍の気分だ。

律すればうまくいく。

律しよう。

なんだかそうやってがちがちにしていないと、腹は出てくるし、手はしびれてくるしで、仕事中に気が散ってしょうがない。




休みにソファでのんびりうつぶせに寝転んで本を読んでいたのだが、だんだん首がきつくなってきたとき、「あっ」と思った。

昔は長時間寝転んで本を読むことになんの不自由もなかったけれど、今のぼくは、「長時間ゆっくりすること」が体力的に厳しくなっている。

姿勢をかえた。あおむけになる。本を持ち上げる。

どうにも腰や首が落ち着かないが、これでしばらくがまんをする。

うーん、のんびりするのって体力がいるんだな。

根負けする。ソファにきちんと座り直す。足も組まずにまっすぐ背中を伸ばす。

本を前にかかげて読み続けた。まるで儒学の徒のような気分だ。




祖父が好きだった時代劇を、祖父が亡くなったあと、ぼうっと見ていた。昔は今と違って夕方などにときどき時代劇というドラマをやっていたのだ。

時代劇に描かれる武士や僧侶などは、夜、うすぐらい灯りのもとで、きれいに正座して本を読んでいた。ぼくはそれを寝転びながら見て、

「昔の人って本読むときにあんなに真剣にならなきゃいけなかったんだな、たいへんだな、今みたいに寝転んでマンガ読めるのは幸せだな」

などと思っていた。

けれども、今になって思う。




中年は寝転んでマンガを読むのがつらい。

一事が万事、「サムライ化」しないと、いろいろと不具合が出る。

ぼくはあの時代劇はきちんと中年を描いていたのではないか、などと今になって思うのだ。

2018年4月23日月曜日

病理の話(193)

「異型腫瘍細胞が異型腺腔構造を形成して増殖する腺癌です。」

病理報告書に、たとえばこういう説明文が書いてあるとする。

あなたが非医療者であれば、なんのこっちゃ? であろう。専門用語だからね。

でも、実は、あなたが担当医であっても、なんのこっちゃ? となる。

この文章、医者じゃないからわからないのではない。医者であってもわからない。病理というのはそういう世界だ。

さらにいうと、仮にあなたが病理医であっても、この診断文を読むと「なんのこっちゃ?」となるかもしれない。




いきなりいじわるをしてしまった。

今の文章は、厳密にいえば、不適切な診断文なのである。

実際に診断の現場でいろんなレポートを読むと、こういう文章に出会うことはままある。

あるが、十分に経験を積んだ病理医がこういう文章を書くことはまずない。




この文章の何がおかしいのかをちょっと考えてみよう。

「異型腫瘍細胞が異型腺腔構造を形成して増殖する腺癌です。」




2回用いられている「異型」がまず気になる。

異型とはなんだ。

異なる型、と書くから、何かのかたちが違うんだろう、くらいの想像はつくことだろう。



Q1.かたちが違うというのは、何と比べて?

  A1.正常の、そこにあってよい細胞と比べて。

Q2.かたちが違うというのは、どのように?

  A2.正常の臓器にあってよいかたち、あってよくないかたちというのがある。

Q3.かたちが違うということは、何を意味する?

  A3.それが、がんかもしれないということ。ただ、がんでなくても、異型が出ることはある。


「異型」という短いことばにはこれくらいの「含み」がある。

そもそもは、「がんの可能性があるとき」にまず用いることばである。

ただ、異型があるというだけでがんだと言い切ることはできない。


ということは、だ……。

冒頭の、

「異型腫瘍細胞が異型腺腔構造を形成して増殖する腺癌です。」

を、詳しく説明すると、このようになる。

「がんかもしれないけれどがんではないかもしれない、かたちの違いを有する腫瘍細胞が、がんかもしれないけれどがんではないかもしれない腺腔構造を形成して増殖する、(腺癌という)がんです。」




なんじゃこりゃ。

長ったらしく説明したのはいいけれど、結局、「がん or not? がん or not?」と迷わせておいて、最後に突然ドーンと「がんです」と書いてあるだけの文章ではないか。

例えてみればこういう文章なのだ。

「悪人面をした人が悪人っぽい服を着ています。ヤクザです。」

お、おう、ってなもんだ。根拠はどこに書いてあるのだ。偏見と主観のかたまりではないか。

こんなものを診断とは呼ばないのである。




異型ということばは、それ単独では、むしろ迷いしか生まない種類の言葉だ。

「どのような」異型なのか、それが「どれくらい」がんっぽいのかを説明しないまま、手を抜いて「異型がある」とだけ書いても、読んでいるほうからすると、情報が増えない。

”読んでいるほうからすると、情報が増えない” というのは、「いやな病理診断」を考えるときのひとつのキーワードである。

病理診断なんて、自分がわかってりゃいいじゃねぇかよ、は、完全にダメとはいわないが、ぼくはおすすめしない。




ここまでの文章を読んで、一部の、病理を研修している初学者などは、ぎょっとするかもしれない。

「えっ、異型ってことばを使っちゃいけないの?」



使い方が肝心なのだ。

異型ということばを使うならば、自分の立ち位置を明確にせよ。

「がんか、がんじゃないか、わからない」と本気で思ったならそう書けばよい。

しかし、最後に「がんだと思う」と書くつもりならば、読んだ人が「なるほど、がんだな」と納得できるだけの説明を、きちんと書かなければいけない。

異型という、一見べんりで、かつ何もいっていない言葉を用いるにはコツがいる。

たとえば、こうだ。



「核の大小不同や核小体の明瞭化、核膜の不整、核の輪郭の不規則さが明らかな異型核と、偏在した微細顆粒状の細胞質を有する上皮細胞が、gland-in-glandやback-to-backなどの構造異型を有する腺管構造を構成して浸潤性増殖する像がみられます。腺癌です。」




あなたが非医療者であれば、なんのこっちゃ? であろう。専門用語だからね。

でも、実は、あなたが担当医だと、「おっなるほど。ちゃんと見てくれてるんだな」くらいに変わる。

そしてこの文章、仮にあなたが病理医であれば、「うん、確かにがんだね。」と読める。




まずはここからだ。

ここから、順番に、「担当医がもっとよくわかる文章」を目指し、最終的には「非医療者にもわかるような文章を書くべきタイミング」というのをはかるようになっていく。

2018年4月20日金曜日

あたりまえだけど12月は寒い

北海道はいつ暖かくなるんですか、と問われたとき、答え方に少し苦労した。

「もうあったかいじゃないか。」

ぼくはそういいたかった。

4月の頭。いつもなら多少残っていてもおかしくない路肩の雪は、今年はすっかり解けてしまっていた。年によってはゴールデンウィーク直前まで根雪が残ってしまうこともあるのに。今年はあっさりだな、暖かいなあ、という感想しかなかった。

でも、まあ、確かに。

朝夕にはコートがかかせない。風は身を切る冷たさで。

これは一般的には、「まだあったかくない」という状態だろう。

「いつあたたかくなるのか」という質問に対し、残雪がないからもうあたたかい、では回答になっていない。

基準は、気温だ。

あたりまえだ。

あたりまえだけど。

ぼくの主観では、「残雪がなければそれはあたたかい」なのだった。

ぼくはなぜか不機嫌になっていた。




北海道はいつ暖かくなるのだろう、ということを、「他人の基準」で考える。

「ゴールデンウィークでも夜半に寒いなって思うことはあるんだよ。」

「ええー、さすが北海道ですねえ。」

うん、無事、会話はうまくいった。








「リキッド・レインボウがやってきて、俺たちみんなを助けてくれる。

リキッド・レインボウがやってきて、俺たちみんなを助けてくれる。」




ぼくはSuiseiNoboAzというバンドの「liquid rainbow」という曲は相当な名曲だと思う。

歌詞を引用するなと怒られたらごめんねってして記事ごと削除しよう。

このあたりは主観で決定されていく。

ていうかもう何年も12月なんじゃないか。

2018年4月19日木曜日

病理の話(192)

それぞれ学習の進度が異なる研修医のみなさんを眺めていると、病理診断というものが、当初医学生や研修医たちにどのように思われており、それがどうやってプロの仕事に近づいていくか、という過程を眺めているような気持ちになってなかなかおもしろいのである。


まず、病理にはじめてやってきて、学生実習以来はじめて顕微鏡をのぞく人は、顕微鏡のクオリティに驚く。

実習で使った顕微鏡とは見え方がまるで違うのだ。よく見える。はっきり見える。びしびしピントが合う。なんだかボタンがいっぱいついている。

横からぼくがやってきて、少し光量を落とすことを教える。解像度のよい顕微鏡は、あまり明るくしなくても細胞がきちんと見える。光量が強いとすぐ目が疲れてしまうから、疲れないように。

自分でハンドルを動かしてみて、あまり酔わないことに気づく。

なぜ酔わないのだろう。レンズがいいからだろうか。

実は、「光軸の設定」が完璧だと、酔わない。というか、実習で使っている安い顕微鏡は光軸がずれており、いわゆる「乱視」みたいな状態になっていることが多いので、しばらく見ていると酔ってしまうことが多いのだ。

あれを顕微鏡だと思わないでほしい。

病理の最初は、まず、「顕微鏡ってすげぇんだな」を知るところからはじまる。



そして、ひととおり顕微鏡で遊んだ後、ぼくのしゃべる内容にほとんど顕微鏡の話が出てこないことに気づく。これが第二段階だ。

病理診断は顕微鏡をみる前に9割終わっているのだ、ということを理解してもらう。

病理診断学は、顕微鏡診断学とイコールではない。

病理診断学の一部に顕微鏡診断学があるに過ぎない。

そのことに、きちんと「ショック」を受けてくれる研修医は伸びる。

「顕微鏡をみる前に、あるいはみている最中も、ほかにやることがいっぱいあるんですね。」

これをわかってくれると、病理部の存在が単なる「顕微鏡屋」には見えなくなってくる。



その上で、病理診断報告書の書き方を学ぶ。

「箇条書き」と揶揄されるレポートの中には、統計学の番人たる病理医の矜持が籠められていることを知る。

「病理医にしかわからない自己満足の長文解説」が、臨床医や患者と離れた場所で病理医が担保しなければいけない診断均てん化に果たす役割を学ぶ。

そして、「臨床が求める美しいレポート」のありようを探る。

読みやすく、かつ、文章を追うだけでまるで顕微鏡像が思い浮かぶような「名文」を考える。

名文の先にある「神報告書」だと、なんと文章を読むだけで臨床医がみていたCT, MRIなどの画像情報や、患者さんの顔色までが見えてくるのだ、ということを知って、笑う。



いいレポートを書きたい、と思ったら、顕微鏡の見方が洗練されてくる。

教科書に載っている典型像を、必死で顕微鏡で探すだけの、「絵合わせ診断」は卒業だ。

何がみえたらまずいのか。何を探してみつけに行くのか。そういったことを考えて顕微鏡をみるようになる。




「いいなあ病理医は、細胞だけみてりゃいいんだから」とイヤミをいってくる臨床医の気持ちを忘れないうちに。

臨床医がなぜ、病理医に対してそんな卑屈な感情を抱くに至ったのか、思いを巡らせ。

臨床医がいつか、「あの病理医に細胞をまかせておけば安心だ」という日がくるように。

どうしたらよいコミュニケーションがとれるかを夢想する。




臨床医と良好な関係を築けるような病理医を目指しているある日、病理学の教科書が気になる。

そこには、しばしば、臨床医の方を全く向かずに、顕微鏡だけで組み立てた「真実」が載っている。

そういうものが、むしろ、逆に、気になってしょうがなくなる。

医師免許をとりながら、あえて顕微鏡の世界だけに暮らした人々というのがいる。

臨床医とがっちり会話しながら、患者に思いを馳せる病理学はとても楽しい。そんなこと、昔の病理医だってわかっていたはずなのに。

なぜ昔の病理医は、「ただひたすらに顕微鏡をみること」を、そんなにおもしろいと思えたのか?

……逆に、気になってくる。

だから読む。しばし読む。じっくりと読む。

行間から、「どうだ、病理学だぞ」というプライドのようなものが立ち上がってくる。

その奥に、本当に繊細なプロの仕事がみえてくる。




このブログを毎日欠かさず読んでいる人というのは、全国に1000人くらいしかいらっしゃらない。たったの1000人だ。

その中に、病理の研修をしている研修医というのが何人含まれているだろうか。

もしかしたら1人もいないかもしれない。それでもいちおう、書いておく。




あなたは今日の記事の、どこに一番「共感」したくなったろうか。

必ずしも順番が一緒ではないかもしれない。

あるいはひとつも共感できなかったかもしれない。

でも、たいていの病理研修医たちは、これらをある程度順番通りに通過していく。

病理医の人生みたいなものが、おぼろげに見えてくる気がして、とてもおもしろいなあと思う。

2018年4月18日水曜日

ドングリ

やれやれ、と一息ついたところで技師さんがデスクに来た。

先日、岡山出張のときに検査室に買ってきたおみやげのきびだんごを持ってやってきた。

先生も食べませんか。

あらまありがとう。

自分で買ったおみやげを自分で食べる。ふかふかしておいしかった。



食べ物とか音楽というものが自分の神経を柔らかく、ゆるやかにしてくれるということを、なるべく忘れずにやっていきたい。

本当に厳しく忙しいときには、何かそういう、人間の五感ってのはいつでも多方面でゆるもうとしているんだぞ、という事実を忘れてしまう。

目の前が真っ暗になるというのはなかなかいい表現だなあといつも思うが、どちらかというと、疲れているとき、くさくさしているとき、どうにもつらいときには、脳の中が真っ暗になる感じがある。

元気なときにはあれだけ見えていた「五感の遊び相手」が、まったく見えなくなる。

そういうときに、自分がこうして書いたブログの文章などを思い出せるかどうかが、たぶん、なんとかやり過ごしていくためのカギなのだろうな。

ぼくはときおり、そうやって、自分の目の前(と脳の中)が真っ暗になったときに備えて、あちこちに文章を備蓄している。

シマリスみたいなものだ。心の冬に備えてあちこちにドングリを植えておく。




ドングリならぬきびだんごをもうひとつ食べながら、しばらくブログ編集画面を開いたまま椅子に沈み込んでいた。

まあ、このこと、書いておくかなあ、という気になった。自分のためなので特にオチはないのだが、ひとまずタイトルだけは決まったのでそこから適当に書いてみたら、こういうものになった。大事に雪の中に埋める、そんな気持ちでキーを叩く。

2018年4月17日火曜日

病理の話(191)

病理医は、臓器を肉眼でみて、顕微鏡でプレパラートをみて、診断をする。

いわゆる、「病理診断」を生業としている。

ただ、これだけを振りかざして戦うのは、少々こころもとない。



「病理診断」自体は、他の武門の医者はなかなか修得できない。

基本的に、病理医だけが修得できる技術だ。

だから病理医である限り、一生、プレパラートをみるための知識や知恵、技術などを学び続ける。

確かに強力な武器ではある。

でも、ぼくは、これに加えて、「病理医以外の医者も獲得できる技術」をちょっと押さえておくことが役に立つだろうな、と思っている。血液データの読み方。CTやMRIの読み方。腫瘍学の基礎。そんなあれこれだ。




ドラクエに例えよう。

病理医を「せんし(戦士)」だとする。

プレパラート技術というのは、ドラクエでいうと「せんししか装備できない、専用装備」。たとえば「おおかなづち」とか「らいじんのけん」のようなものだ。

これに対して、他の医者も用いる技術は、「せんしも含めて多くの職業が使ったり装備できたりする、防具やアクセサリー」に相当する。「ひかりのドレス」とか、「ほしふるうでわ」とかね。




当院に後期研修医が来ているのだが、ぼくはこの「専用装備」と「汎用装備」を両方教えようとしている。

もちろん、研修期間にあれもこれもと詰め込むのはよくないのだが、これからレベルをあげていこうというときに、武器だけで世界にほっぽりだすのはちょっと危ないんじゃないかなと思う。

「はかいのつるぎ」だけ持たせて、体は「たびびとのふく」というのはいかにもアンバランスだろう。ほしふるうでわくらい装備させて、大学に返したい。




そんなことを考えながら、日々研修医と接しているうちに、自分の教えている内容が「専用装備」と「汎用装備」だけではないことに気づいた。

ああ、ぼくは、「せんし」の話ばかりしているわけではないようだな。

「パーティ」の話をしているなあ。

自分で自分の話し方に気づいて、ふーむと考えた。





病理検査室の病理医は「せんし」。

しかし、「せんし」ひとりで旅に出るのはドラクエでいうとライアンくらいのものだ。

彼だってホイミン抜きではあっさり死んでしまう。

この世界、ひとりで戦うのには向いていない。だから、病理医は、パーティを組む。



さて、最も頼りになる相方は誰か?

臨床医……を思い浮かべる人は多いと思う。

もちろん彼らはパーティの相棒だ。というか、「せんし」よりも多彩な攻撃方法をもっている。

一般には、臨床医こそが「ゆうしゃ」だろう。




ただ、病理医の旅において、ドラクエと違うのはここからだ。

病理医が扱う臓器は毎日異なる。

胃、大腸、肝臓、肺、乳腺、甲状腺、子宮、膀胱……。

これらは全て、病理医にとっては「異なるクエスト」である。

クエストが違うと、毎回パーティの先頭に入る臨床医が変わる。

胃のクエストでは消化器内科医や外科医。子宮なら婦人科医。膀胱なら泌尿器科医……。

ぼくらの旅では、「ゆうしゃ」がクエストごとに入れ替わるのである。

 *ゆうしゃ は さっていった!

 *あたらしい ゆうしゃ が なかまになった!



「せんし」はじっと考える。

誰が自分の相棒だろうかと。

パーティに常にいてくれて、真に相棒とすべきなのは……。



ぼくは、それは、臨床検査技師だろうと思う。




ぼくは後期研修医に、さまざまな「武器」や「防具」の話をするが、加えて、自分がパーティをくんでいる「そうりょ」である臨床検査技師の仕事を、かなり教えている。

・標本の作製。

・遺伝子検査の外注。

・検体の保存。

・プレパラートの特性。

・染色。

・細胞診。

ぼくは「せんし」であるが、気づかないうちに、「そうりょ」の魔法の数々を、後期研修医にかなり綿密に教えていた。

研修医にいわれて気づいた。

「市中病院では、こういうことも、病理医が学ばないといけないんですね。大学にいたときは、技師さんがやることはすべて技師さんに任せてしまっていて、まったく医師の側では学びませんでした。」



そうだなあ。

ぼくは、「そうりょ」とか「まほうつかい」を、すごく頼るタイプの「せんし」なんだよなあ……。

2018年4月16日月曜日

ずんの飯尾っぽさもある

毎日、スーツのジャケットを脱いで病院の中を歩いている。白衣を着ていないので、いかにもエリートサラリーマンの風貌……には絶対にならない。

基本的に昔のドラマや映画に出てくる学校の先生とか用務員さんのような風貌である。昭和の休日のお父さん(やせ形)でもよい。

なぜだろうと考えた。顔か? 顔はもうしょうがない。けれど少し考えたら理由がわかった。

サンダルだ。

ワイシャツにスーツのパンツ、ノーネクタイ。これにフィットする足下は、革靴だ。革靴しかない。

革靴なら、たぶん、サラリーマンの見た目でいられたろう。

けれどぼくはサンダルだ。

サンダルはだめだ。

一気に学校感が出る。

おもしろいなあと思う。

サンダルをときどき買い換えながら、毎日、「医者として絶妙に違和感のある身のこなし」を模索している。

ぼくは患者に会わないから白衣でいる必要がなく、かつ仕事おわりに学会や研究会に行ったり他院の病理医に会いに行くときに失礼にならないようにスーツでいたい、その両方を満たすには……と沈思黙考の末、昭和のおじさんになっていた。中年ばんざいだ。




このかっこうをしていると気づくこともある。

たとえば薬屋さんの皆さんは、ぼくと廊下ですれ違って、ぼくが会釈をしても絶対に会釈を返してくれない。医者だと思ってないからだろう。「誰と間違ってるんだろうこのおっさん」くらいにしか思っていないに違いない。

彼らもきっと、田舎道で通り過ぎた地元のひとから「こんにちは」と会釈をされたら笑顔で返事するくらいの気のいい人達であろうと思う。けれど、自分の「戦場」である病院内で、医療者というクライアントに気を配りすぎるあまり、見た目ほぼ用務員さんであるぼくには油断をしているのではないかな、と思う。無理もない。

むしろおもしろいのは医者の対応だ。

基本的に常勤医ならぼくのことを知っているから別におどろかない。廊下であえば挨拶もするし世間話もする。

けれど新入社員たちはぼくを見てまず医者だと思うことはない。

ここで差が出る。

初期研修医はぼくが素性不明のおっさんであっても会釈を返してくれる。

後期研修医だと五分五分だ。ときおり、疲れているのか、真下をずっと眺めたままぼくの会釈に気づかないことがある。

おもしろいのは10年目くらいのドクターだ。高確率でぼくを無視する。目があっていても。

そして20年目を越えるとまた挨拶してくれるようになる。

そう、10年目くらいのドクターだけは、なぜかぼくに挨拶を返してくれないのだ。これは8割以上の確率でそうなのである。



医者を10年くらいやると、いちばん、人との距離感がわからなくなる、のかもしれないなあと思っている。

その後、むしろ人らしく戻るあたりが、医者という職業のおもしろさ……。

いや、業の深さなのかもしれない。