2017年3月29日水曜日

病理の話(63)

ボスと一緒に顕微鏡を見ていて、たまーに、こういう会話になることがある。



「この胃の腫瘍、腺腫(良性)だと思う? 癌(悪性)だと思う?」

「うーん……ぼくはこれだと癌だと思いたいんですけど……」

「だよねえ……でも、どうしようね……」

「微妙なところですよね……」



えっ、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。

がんか、がんじゃないかを、そんな「気分」で決めてしまうなんて。

「微妙」だなんて。

だって、大違いでしょう。がんか、がんじゃないかによって。

死ぬか生きるかってことでしょう?

医療保険だって、「がん」とついたら、お金が下りることがあるわけで。



でも、実際には、病理診断にはこういう、「良悪の決定すら微妙」な瞬間がある。あるんですよ、実際に。



かの有名な「がんと戦うな理論」の人も、ここをつっこんでいたように思う。

がん診療なんて、病理医の胸先三寸で決まる、微妙な診断によって成り立っているものじゃないか、と。

がんと診断されるものの中には、「がんもどき」なる、実際には生き死にに関わらない病気もまぎれているのだと……。




この話を、ここで終えてしまっては、誤解ばかり招くだろう。だから、続きを書く。

なんでもそうだが、フクザツな事実の、途中までを切り取って人々に伝えると、実際のニュアンスが大きく異なってくることになる。



くだんのボスとの会話は、このように続く。



「結局さあ、この手の腫瘍は、良性か悪性かわからない、というくくりに落とし込んでおけばいいわけだよねえ」

「そうですね。この人のこの病気に関して言えば、直ちに命に関わることはない。内視鏡でこの部分だけをくりぬいてしまえば完治するし、あと三か月後にもう一度様子を見てもいい」

「このまま20年放置とかされては困るし、将来的には本物のがんに育つものかもしれないから、完全に放置されても困るけどね」

「良性と悪性の中間くらいの臨床対応をしてもらえればいいってことです」

「つまりは、癌かどうか微妙で、難しい、と、そのままきちんと書いた方がいいんだろうなあ。市原君ちょっと文章作ってみてよ」

「わかりました。ぼく自身は癌に見えるけれど、病理医によっては良性ととる場合もある、微妙な病変である。いずれにしても対応は一緒で、3か月後にもう一度観察する、もしくは粘膜切除によりここだけ切り取ることを勧める……患者の体力や背景粘膜の状態などを勘案して、ご検討ください、こんな感じですかね」

「そうだね」




結局、「がん」という言葉の言霊が強すぎるのだ。

人間は、「がん」と名付けられた病気に対して、おどろき、おびえ、思考停止してしまう。それは、無理のないことである。

しかし、中には、「がんだけどしばらく様子を見られる病気」もあるし、「がんだし、あっという間に悪くなる」ものも含まれている。

この世にあるあらゆるものは、多かれ少なかれ、程度の差がある。



そのあたりを、デジタルよろしく、0か1かの区別できっちりわけようとすると、いろいろ無理が出る。病理診断というのは、そのあたりのアナログな感覚に対しても、できれば、毎回丁寧に対処していきたいものなのだ。



世の中にある「がん診療」……手術とか、抗がん剤とか、放射線治療とか、そういったものは基本的に、「確実に命に関わるがん」に対して行われる。

これらの治療は、「がんか良性か微妙な病気」については、そもそも行わないことも多い。行わなくても命に別条がないことがわかっているからだ(ケースバイケースですよ)。



あのね。

「がんもどき」みたいな病気があること。

がん診療を担う人々は、先刻承知なのですよ。




「こりゃほっといたらまずいだろ」という「がん」を、「まだ放っておいても大丈夫だな」という「がん」と区別するくらいのことは、精一杯させてもらっている。

アナログな診療の先に、強い治療をするかしないかという「決断」をきちんと出していくことこそが、がん診療なんですよ。




ということで病理診断も結構アナログであっていい、と、ぼくは思っているんですけれども、こんな裏話をお話すると、不安になる人たちもいるんだろうなあ。

さらにおまけの話をするならば、AIにはアナログさはないから、繊細ながん診療は人でなければできない、という結論もまた、間違いだと思う。AIをアナログにするアート、みたいなものも、理論上は十分にありえるのだ。

あいまいとかフレキシブルとかの先にある診療を語るのは、本当に疲れるし、今後はそういう「紋切り型の思考」を、いかに解きほぐしていくかを考え、伝えていかなければいけないのだと思う。

2017年3月28日火曜日

病理の鉄人という名前のポスターを作ったことがある病理学講座は手を挙げなさい

それにしてもレトルト食品とか冷凍食品の進化と言ったらすごくて、カレーにしてもパスタの具にしてもそうだが、あんかけチャーハンとか、コロッケとか、グラタンみたいなのもあるし、ハヤシライスとビーフストロガノフとハッシュドビーフの違いが事細かに表現されているといううわさもある(出所はぼく)。

そして、レトルトとか冷凍食品と、手で作った食品の違いと言ったら、名だたる一流料理人であっても、

「親が子どもにかける愛情は必ず伝わるものです」

とか、

「配偶者のために作った料理は食べている時間だけではなく作っている時間も宝物なのです」

みたいにしか表現できなかったりする。


ぼく自身は、ほんとうは、一人で具材をああでもないこうでもないと調理して楽しむ、「めしにしましょう」の世界であるとか、フォロワーの中にもいる料理の得意なクラスタとかを心底尊敬しているし、いつか自分の興味と実力が料理に向かう日が来たら……というか、もうちょっと中年がこじれたタイミングで必ず料理をしようと考えてはいるのだが、いまのところ、

「料理をする時間があったら病理をする」

という感じになってしまっているので、結局、レトルトとか冷凍食品は本当にありがたくて、しょっちゅう使っている。



でも、なんだろうな、最近はもう少し適当になってきて、ドレッシングとか柚子胡椒とか、素材にちょろっとかけたら味が付くよ、みたいな調味料を2つほど常備して、交互に野菜にかけたりするタイプの料理でもういいんじゃないかとか、そっちの方にステージが移ってきており、そうするとこれはずぼらの極み飯みたいなことになるんだけれども、なんだかレトルトをただ温めたときよりもちょっとだけロハスなスローライフっぽさが醸し出されてきたりする。

そういうところどうなんだろうと思う。



「活力鍋」のおまけについてきた小さな一人用のフライパンがあって、これはとにかく何を炒めてもすぐ焦げ付くくらい熱伝導がいいんだけど、これにうっすらとお水を張って、ちぎったブロッコリーとかざくざく切ったかぼちゃみたいなのを1品目だけ乗せて、ふたをしめて軽くあぶって、ブロッコリーの色がよくなるくらいのタイミングで火を止めておしまい、マヨネーズを軽くつけるか塩を振って食べる。

これはおふくろに教えてもらった「もっともずぼらな調理法」なのだが、夜中にブロッコリーだけ蒸し焼きにして塩で食いながらビールを飲んでいる自分は、ヘルシーなのか不健康なのかまったくわからないけれども、うーん、なんだか一番自分に合っているような気がしないでもない。



「料理の四面体」という本を読みながら飲むビールも、これまたうまいのでぜひ試していただきたいと思う。

2017年3月27日月曜日

病理の話(62)

病理では顕微鏡でプレパラートを見て診断するのだが、このプレパラート標本の作り方にも何種類かある。

「薄切」といって、検体を4μmという向こうがみえる薄さに切る特殊なワザ(技師さんが得意)がある。

カツオブシを削るやつと同じ原理、といったら分かるだろうか。

カツオブシを削るときには、カツオブシを「刃の上を通るように」すべらせて、薄く削るのだが、病理の薄切の場合は逆である。

検体を特殊な装置において、その上を「刃が滑る」。

で、この「薄切」により、検体はペラッペラになり、ほぼ透明になる。そこにヘマトキシリン・エオジン染色などの染色法を加えることで、細胞の「断面」が見えるようになる。

これが「組織診」。


なぜこんな面倒なことをするかというと、ミクロの世界というのはとにかく光量が足りないのだ。

同じ光の量で照らされた物体を見る時も、拡大をしていくと、単位面積あたりの明るさがばんばん暗くなっていく。顕微鏡というのは、たとえば接眼レンズ10倍×対物レンズ60倍の世界だから、600倍にものを拡大すると、それだけ光量がなくなってしまうので、

「自然光のもとにおいて、レンズで拡大」とやっても、まず、見ることができない。

だから、検体をぺらっぺらにしておいて、下から強力な光源でばちっと照らし、「検体を透過した光」を観察する。これだと、よく見える。

ま、そういうわけで、検体を光が通り抜けるくらい薄くすることが必要なのである。



一方。

たとえば子宮頚部の細胞診検査とか、肺や膵臓のブラシ細胞診検査と呼ばれるものは、ブラシの上に細胞を1個、もしくは少量ずつくっつけて採取してくる手法だ。

細胞1個の厚さというのは大して厚くない。小さいものだと5μmくらい。大きくてもまあ、普通は10とか20μmくらいだ。

検体内から採ってきた肝臓とか胆嚢とか、胃からつまんできた小指の爪の切りカスくらいの、センチとかミリ単位の検体であれば、先ほどの「薄切」で削り節みたいにしないと、光を透過させることはできないが。

細胞がごく少数ずつ、ばらけて採れてくるタイプの検査だと、そのままプレパラートに載せても、透過光で見ることができる。

「細胞診」は、この、「細胞をそのまま載っけた検査」のことを言う。

「組織診」は、削り節のほうである。



それがどうした。いっしょじゃねぇか、と言われてしまう。けど、けっこう違う。

組織診(削り節)は、断面だ。細胞の輪切りをみる。

これに対して、細胞診は、細胞の厚さがそのままプレパラート上に表現される。削り節ではなくて、ええと……盛り土……? は、まずいか……。

ごくわずかな違いではあるが……この、「細胞の高さ」を用いて、診断することができる、細胞診(盛り土)は、ときに、組織診(削り節)よりも、細胞そのものの性状を判断しやすいことがある。



もうひとつ。



細胞診を見るのは、技師さんの方が、たいてい得意なのだ。なぜ? と言われると説明がめんどくさいのだが、普段、盛り土の方は技師さんがいっぱい見ている。削り節の方は病理医が主に見る。

森井は岸よりも、盛り土をいっぱい見ているということである。森井土。なんでもないです。


2017年3月24日金曜日

今やっているのが10倍界王拳なんじゃ

「このメイクをすると、小顔に見えるんで、今すごく流行ってるんですよ~!」

という特集を見たあとに、件のメイクをしている人に出会うと、そうか、顔を小さく見せたいのか……と察してしまう。

「このパンツ、くるぶしが見えるくらいの長さではくと、足が長く見えるんですよ~!」

というCMを見たあとに、くるぶしパンツをはいている人に出会うと、なるほど、足を長く見せたいんだな……と勘ぐってしまう。


「○○を改善できるんですよ~!」系の商品やCMを使っている人は、多かれ少なかれ、世間から「○○が気になってしかたない人なんだな」と思われる。覚悟しておかなければならない。

ぼくは、常々、恐そうに見えるから伊達メガネをかけたり、ザコっぽく見えるからスーツで出勤したりしている。だから、そのへんの「コンプレックスが産み出す、購買力」がとてもよくわかる。

Nintendo Switchを買ったんです、やる時間がないけどつい買ってしまいました! みたいなツイートをしたときも、内心、おそらくはコンプレックスが購買につながったんだ、と思った。

この場合のコンプレックスとは、

 ・病理医ってひまそう
 ・なんか遊び方がへたそう
 ・人生をたのしんでなさそう

と周りに思われているのではないかということである。

だから、

 ・ひまじゃないよ
 ・けど遊ぶよ
 ・たのしいんでるよ

を全部盛り込んだ結果、よくわからない購入報告につながったのではなかろうか。



人間が自分を語る言葉は、多かれ少なかれコンプレックスによって突き動かされているのではないか、という仮説。

これは、おそらく、ぼくがコンプレックスによって行動することがあまりに多いために、ぼくだけだと恥ずかしいので、広く一般論にしてしまえばぼくが一人にならなくてさみしくないだろう、という、「木を隠すなら森、気を隠すなら界王拳理論」の末に導き出されたものではないかと推測できるのだ。

2017年3月23日木曜日

病理の話(61)

病理医の主戦場というと、やはり「がん診療」である。

では、がん診療においてぼくらがやっていることは何か。

患者さんから採ってきた細胞が、「がんか、がんでないか」を判断するという、イエスかノーかの二択に挑むこと。

たしかにこれがいちばんわかりやすい。

だから、医療者の多くは、たとえばフラジャイルを見た人から「病理医って何なの、知ってる?」と聞かれた時に、

「あー、病院の奥の方で、これはがんだとか、これはがんじゃないとか、そういうのを決めてくれる人たち。」

などと答えているようだ。



ただ実際には、ぼくらはもう少し、細胞を細かく見ている。

「がんか、がんじゃないか」に加えて、いろいろな評価をする。

その評価は臓器ごと、がんごとにあまりに多彩なので、各種の学会から、「がん取扱い規約」などという指針が示されている。

規約に従って、がんを事細かに評価していく。

たとえば、大腸がんなら、こうだ。


・占拠部位(がんがある場所)
・肉眼型(がんが作る、カタマリのかたち)
・大きさ
・断端(手術をしたときに、がんが、採り切れているかどうか)
・深達度(がんがどれだけ深く臓器にしみ込んでいるか)
・リンパ節転移の数
・遠隔転移の数(大腸以外の臓器にどれだけ転移しているか)
・組織型(がんの中でも、何がんに当たるか。細胞レベルでのがんのかたち)
・間質量(がんの周りにどれくらい線維が増えているか)
・浸潤増殖様式(がんがどれくらいばらけてしみ込んでいるか)
・脈管侵襲(血管やリンパ管の中にがん細胞が入り込んでいるかどうか)
・簇出(がんがカタマリからちぎれるような挙動を示しているかどうか)
・神経侵襲(神経の周りにがん細胞が這っていっているかどうか)
・ステージ(がんの総合的な進行度)
・遺残の有無(体の中にがんが残っているかいないか)


これらが、特に手術の後に出される病理報告書には、細かく記載される……。




さて、今の箇条書きを、丁寧に読み込んだ方というのは、どれくらいいらっしゃるだろう。

多くの方は、読み飛ばしたのではないか。

読み飛ばさずにしっかり読んでくださった方も、これによって頭の中に、何か具体的ながんのイメージというものを思い起こすことができただろうか。

ぼくは、この箇条書きをみるだけで、がんを思い浮かべるのは、相当難しいだろうなあと思っている。



実際、臨床医にとっては、これらの項目をすべて埋めてさえくれれば、病理の仕事としては十分なのである。箇条書きの結果をコンピュータに読み込ませて、今後、この患者さんの病気がどうなるだろうかとシミュレーションを考えたり、治療方針を決定したりすることができる。

ただ、実は、臨床医であっても、これらの箇条書きを眺めただけでは

「実際に、がんがどういう感じで広がっていたのか、体の中で何を起こしていたのか」

は想像がつかない。

この箇条書きは、統計を取ったり、ベッドサイドで治療方針を決めるために最適化された「記号」なのである。実体を記号に置き換えて記載した以上、逆に、記号を元の姿に戻すこともできそうなものだが、高度に効率化された病理診断の記号は、元のイメージがつかみにくいものになってしまっている。

いや、ま、慣れていればできるんだけれども。

よっぽど病理に興味がある臨床医でなければ、これらの箇条書きだけをみて、実際のがんの姿を想像することなんでできないのだ。



実はここに、「病理医が人でなければならない意味」が隠されているのではないか、と最近考えている。

具体的には、「記号で事実を処理したときに、ぼくらの心の中に生じる、なんだか煙に巻かれたような感覚」が、患者さん、さらには医療者にとって、無視できない程度のストレスになるのではないかなあ、それはきちんと説明していかないといけないんじゃないかなあ、ということなのだが……。


続きはまたいずれ。最近書いていることは、どれもこれも、ひとつのテーマに向かっています。おわかりかもしれませんけど。

2017年3月22日水曜日

しゅっちょうにしょっちゅう行くからな

ひさびさに、学会や研究会ではない出張の予定が入っている(この記事を書いているのは3月14日、出張があるのは3月18,19日ですので、記事が公開されるころには終わっているはずです)。

研修医の勧誘イベントに病院から派遣される、という仕事。日曜日の朝から夕方まで、東京ビッグサイトで研修医相手に病院の説明などをする。

たいせつなお仕事ではあるんだけど、自分で何かプレゼンを作って持って行くわけではないし、どちらかというと「そこにいることが大切」なお仕事なので、まあ、気楽である。

19日土曜日には、ちょっとした飲み会の予約を入れた。1年くらい前から飲もう飲もうと誘われていた案件であり、東京出張のたびに、すみません今回も仕事です、すみません今日は日帰りなのですと、お断りし続けてきたのだが、今回晴れて、ご一緒できるはこびとなった。

楽しみにしている。

集まる人々はみんな職業が違うのだが、ぼくを含めてある程度共通点があって、その共通点により昔からお互いをマークしていた。そんな関係である。


なーんてことを、知人に話していたら、

「まあそういう飲み会の話はどうでもいいんですけど、要は、仕事じゃない日に移動して、のんびり寝て、日曜日には仕事っぽくない仕事をして帰ってくるってことですよね。

そしたら、行きの新千歳空港でビール飲めますね。いいなあ」

と言われた。

く、空港で、ビール!!!!

考えもしなかった!!!!!!

そもそもぼくは空港まで車で行くことが多いので、帰りはもちろん飲めないのだけれど、行きも、到着後すぐ仕事のことが多かったので、ビールを飲むなんてもってのほかだった。

おおお……そ、そんな幸せが……ありえるのか……。



と、この先も、3月18日土曜日に飲むであろうビールに対する期待内容をえんえんと書いていこうと思ったのだが、ぼくの性格を考えると、結局空港ではビールなんて飲まず、ちょっと本でも読み機内では居眠りをし、東京ではそそくさと飲み会の30分前に会場周辺に到着して、「必要以上に早く着いた人」っぽくみられないように周囲の喫茶店などを眺めたり道ばたで電話をするふりなどしたり、つつましやかに目立たないようにいつもと違うことはしないように極めて保守的にやっていくんだろうなあ、と、ほとんど確信に近い予想が思い浮かんでしまったので、この話はここでおしまいとするが、それにしても、出張の行きの飛行機でビール飲んだらいいんじゃないですか、と提案してくれる人というのは、いったい普段どういう出張をしているのだろうかと、そちらが心配になって仕方がないし、行きの飛行機に乗る前に一度ビールなんて飲んでしまおうものなら次から毎回飲みたくならないだろうか、とか、そういえば行きの飛行機に乗る前に「この世界の片隅に」を見てあれはとてもいい映画だったっけなあと思い出したりしているのであった。

2017年3月21日火曜日

病理の話(60)

学術には、数学も物理学も生命科学も社会学も歴史学も含まれ、みんなそれぞれの持ち場でそれぞれに真実を探しているわけでああ、人間があちこちでそういう探究をしているのは、とてもいいことだなあ、すてきだなあ、我ときどき思う、ゆえに我あり、となる。

学術あるいは科学といったものには、さまざまなやり口、というか方法論があって、それは発見するものごと、解明するなにものかの性質にも関わっている。ヴァレリーってすげぇクソリプ使いじゃん。

たとえば、天王星の外に海王星が存在することは、当初、惑星の動きから「予測」され、極めて高い精度で場所を絞り込み、そこを「観察」したことで「実証」された。これは、「今まさにそこにあるはずのものを見つけた成果」である。

一方、ニュートンがリンゴが落ちるのを見ながら「予測」したものは、実は法則というか、目に見えない引力という概念であって、これは観察によって裏付けを得ることはできるのだが、しかし、誰も引力そのものを目にできるわけではない。引力子みたいなものを「観察」して「実証」したわけではないのだ。この場合、「目には見えない概念を考えて、その概念によってすべてが説明できることを示した成果」ということになる。

海王星の証明と、万有引力の証明は、どちらも証明という言い方をするけれど、どちらも科学の成果ではあるけれど、人々に「あっ本当だ」と納得してもらうためのやり方がまるで違うのだ。

かつて、日本には、神武天皇が存在したという。これはもう、目でみるという海王星のやり方では、確かめようがないのである。タイムマシンがない限り、直接見に行くことができないからだ。しかし、神武天皇について触れられた複数の書物から、「まあたぶん存在しただろう、そりゃ間違いないよね」と、傍証の積み重ねによって説明されている。万有引力のような「法則」とはまた違った、直接目には見えないものの証明である。ナポレオンはいただろう。大正天皇は間違いなくいた。……間違いなく? ほんとうに? 今を生きるぼくらが全員、今から2日ほど前に、記憶と存在をすべて同時に植え付けられたアンドロイドだったとしたら、「大正天皇がいた」という記録ごと作り上げられた存在だったとしたら? いろんな仮説を無理やり考えることはできるんだけど、無数の仮説にはそれぞれ「ほんとっぽさ」のレベルがあり、なんだか、ぼくらが2日前に作り出されたなんて、可能性としては極めて低いんじゃないかなあって思う。だから、やっぱり、大正天皇はいたんじゃないかな。鯛しょってたことはないと思うけど。

じゃ、医学は? 医学を科学として考えた場合、それはいったいどういう類のものなのだろうか。

ステロイドホルモンのように、発見され、機能が解明された「物質」がある。

膵液はたんぱく質を分解する。見ることができる。

遺伝子変異が蓄積すると、がんになる。……これは本当?

たぶん、最初は、「がんを調べてみたら、遺伝子変異がいっぱいあった」。これは観察できたこと。では、その逆は正しいのだろうか。遺伝子変異がいっぱいあると、がんになるの?

結果から原因を推測。その原因は、本当に、原因だろうか?

どうやったら証明できるだろう。時間をさかのぼるようなことはできない。今そこにあるがんの、時計を巻き戻して、遺伝子変異ができる瞬間までさかのぼれる? それががん化に大切だったと証明するにはどうしたらいい?

実験で、細胞に、遺伝子変異を「人為的に導入」して、その結果細胞が「がん化」することを観察した。わぁい、これはどうやら本当らしいぞ?

そう?

たまたまその細胞だけががんになったんだとしたら?

遺伝子変異を起こすために用いた薬剤が、遺伝子変異とは別に、細胞がん化の原因になっていたとしたら?

仮説を立てる。その仮説が、どういう結果をもたらすだろうと考える。証明するために実例を集める。なるべくたくさん集める。統計をとる……。

実際に目で見えるものを見つけたり、目では見えない理論を考えたり。

病理医の仕事を考えよう。

内視鏡を見て、病理診断が「推測」された状態で、病理組織像という「事象」を見て、ああ、病理がこうだから内視鏡がこうなったんだ、と、演繹的に内視鏡像が導かれることを確認、ある疾病を結論として導き、その疾病を「前提」として演繹して、過去の「統計」の結果をもとに帰納的に蓋然性が高いと考えられた予後といういまだ目に見えない未来を「推定」し、それに合わせて妥当性のもっとも高い治療を考察・実施。その繰り返しの中で生じた「ずれ」を「観察」して、なぜこの齟齬が生じたのかと「仮説」を作り、新たな仮説に基づいて演繹的に今の事象が「説明」しうるかどうかを考えて、仮説の妥当性を評価するための「実験」や「統計学的検討」を探る。数々の文献から導かれる、まだ人がたどり着いていない演繹的結論をシステマティックレビュー。レアケースによる反証例はないか? 新たな仮説の形成。演繹。帰納的拡張。仮説形成的拡張。演繹。

病理医の、形態を見るという視点がもたらす、総説(過去の文献を統括して当然の結論を探る作業)は、演繹的な科学だね。ぼく、去年、一本だけ書いたよ。

症例を見て考えて診断を出すと、それを前提として臨床医が治療方針を決めるの、演繹的な医療実践だな。毎日やってるよ。

ときおり現れる珍しい症例、不思議な現象に気づくこと。なぜだろうと考えること。仮説形成(アブダクション)的科学なんだな。大好き。

その仮説を実証するために、症例報告を作ったり、ケースシリーズという複数症例のまとめを作ったりするの、帰納的科学だね。研究会! 学会!

帰納法だけではいつ反証例が現れるかわからない。統計学だ。統計解析をしよう。そうすれば、仮説から演繹した結果が妥当かどうかを帰納的に解釈できるね……もっと統計の論文書かなきゃな。



医学もまた、科学として、複数のフクザツな「証明方法」を要求している。ポパーさん、爆発してそうですね。ベーコンさん、油は味わいだよね。



医学が普通の科学と比べて、あえて違うところがあると言ったら、それは何?


それは、医学はできれば、人の病気を治すためであってほしいと願う人が、少なからず……というか、いっぱい……存在する、ということ。

病気はなぜ病気なんだろう。そう思い悩む、哲学的な思考を助けるのも、医学であるということ。

病気や病院をめぐり、説明をしてもらったり、納得をしたりするためにも、医学が必要になるのだ、ということ。



演繹、帰納、アブダクション……。そして、説明のための、対話、ことば。



パースさんのおかげで、考えて考えて、顔面のパースくるっちゃうよ。ちょっとデカくなっちゃルト。