2018年5月25日金曜日

魔貫光殺法はシュババグルグルグルグルドカーンだった

小学校低学年のころ、学校からの帰り道はたいてい、よりたくんと一緒に歩いていた。

彼はジャンプを毎週読んでいた。たしかお兄さんがいたはずだ。

そして読んだドラゴンボールの内容をぼくに教えてくれるのだった。

「しゅばばば! ばきばきばき! がががががっ!」

彼は丁寧に効果音を口に出して説明してくれる。

ぼくはジャンプを買っていなかった。コミックスだけだった。

最新号の情報はだいぶ先に進んでいる。ラディッツ戦の最後に宇宙船から悟飯が飛び出してくるシーンも、よりたくんの解説で、

「おとうさんを! いじめるな! わああ! ドカーン! ドゴオオオ」

という感じで先に教えてもらった。



ぼくはそのころから、マンガの描き文字にとても興味をもつようになり、マンガの描き方講座のような本を読んでも描き文字の技法ばかりを読んでいた。くせは今でも続いており、マンガの描き文字が独特だと本編そっちのけで「おっ」と思ってしまう。




中学校のころ、スーパーファミコンでシムシティをやっていた。

シムシティというのは自分が市長になって、町をいちから作って人口を増やしていくのが目的のゲームだ。

人口が10万人を越えると、町は「メトロポリス」と呼ばれるようになる。

そして、目標は50万人突破なのだが……これがとても難しかった。

結論からいうと、ぼくは中学校の間中、とうとう50万人を越えることができなかった。ずっとメトロポリスのままだったのだ。

かなり長い時間、「メトロポリスのBGM」を聞いた。

ずーっと口ずさんでいた。

たいして長い曲ではない。えんえんとループする曲だ。

だから、聞いているうちに、だんだん、「パート」が分かれて聞こえてくるようになった。

最初は主旋律のにぎやかなメロディを口ずさんでいたが、飽きるほど聞くうちに、いつしかベースの音が耳に残った。




ぼくはそのころから、バンドミュージックのベースラインに気が向くようになった。くせは今でも続いており、何かいいなと思うバンドがあるととりあえずベースの音を探しにいってしまう。





子供のころの行動が大人になってからの自分に影響を与える、というのはいかにもありがちだ。

しかし、子供の頃の行動の「何が」大人になっても残っているかというのはなかなか予測しがたいと思う。

よりたくんの顔は実はもうほとんど忘れてしまった。再開したとしても覚えているかどうか自信はない。

シムシティも長いことプレイしていない。一時期はバーチャルコンソールにも入れていたのだが……。




影響というのは思ったようには伝わらない。影響ということばに「影」を組み入れた昔の人は天才なのではないかと思う。影を落とし、残響がひろがるように、影響はじわじわとしみこんでいる。

2018年5月24日木曜日

病理の話(203)

がんが「がんである」と診断し、「どれくらい広がっている」かを判断する。

最近はこれに加えて、「なぜがんになったのか」まで検討することも求められる。現代の病理診断は奥が深い。




なぜがんになったのか、というフレーズから、多くの人がぱっと連想するのは、

・たばこの吸い過ぎ

とか

・遺伝

とかではないかと思う。

間違ってはいない。しかし、現在のがん科学は、「がんになった原因をひとことで説明するほど単純ではない」。

これらはいずれも重要な因子のひとつではあるが、「がんになるかならないかを決定づける全て」ではない。






ぼくが今スマホを落っことして割ったとしたら、スマホを割った「責任」は「ぼくが落としたこと」にある。ここまではいいだろう。

責任、は、わりと社会的なことばであり、比較的ひとつのところに収束することを求められる。どこかで一箇所に落とし込んでおかないと、「誰が責任をとるのか」という問題があやふやになるからね。

けれど、スマホを割った「原因」は、決して一つではない。

ぼくがスマホを落としたこと。これは確かに原因のひとつだ。

でもそれ以前に、スマホを「持ったから」落とした。持たなければ落とさなかった。だから、持ったことも原因ではある(責任とは言わないだろうけれど)。

スマホを持ったときにぼくが疲れていた。原因ってのはさかのぼることができる。

スマホがたまたまつるつるしていた。こちらはぼく個人とは関係のない、スマホ側の要因だ。

スマホのカバーの耐久性がもろかった。これだって原因になる(責任は問えないだろうなあ)。

落として割ったところがたまたま硬かった(責任ではないけれど原因だろうなあ)。



これらはすべて「スマホが割れた原因」。

スマホの修理代とか賠償とかを考えると、「責任はぼくにある」のひとことでいいだろう。

でも厳密なことをいえば、スマホが割れた理由は「ぼく」だけとはいえないのである。

「いやー、結局おまえがスマホ落としたから割れたんでしょ?」

うん、まあ、責任論だったらそのツッコミでいいと思う。けれども、「責任」と「原因」をごっちゃにしてしまうと、今日の話は理解しづらい。

たとえば、スマホ会社が「割れにくいスマホを作るための研究開発」をする際に、「定期的に市原にスマホを落とすなと注意喚起のメールを送る」みたいなわけわからんちん対策をとるだろうか?

きっとスマホ会社は、原因を細かく分析した上で、自分たちが直接アプローチできる「落としても割れないくらい強いカバーを作ってみよっかな」くらいのアイディアを出すだろう。

原因が複数あると気づくと、対処できる場所の数が少し増える。




話を冒頭に戻す。

最近は、病理医が、あるがんを診断する際に、「なぜがんになったのか」まで検討するよう求められることが多い。

それは、遺伝子変異の検出だったり、染色体異常検査だったり、メチル化関連タンパクの免疫染色だったりする。

「この遺伝子に変異があるからがんになったのだな」というのは、重要な原因のひとつである。

「唯一の原因」ではないが、「その原因を追及することで、将来なんらかの対策がうてるかもしれない」ということを期待している。

ただ、原因は複数あるということが肝要だ。

そう、病理医のやることは、どんどん増えていく。

2018年5月23日水曜日

シモンジアチャイネンシス

Windows updateがはじまってしまったので、仕事を始めずにぼうっとPCのモニタをみていた。

スマホをいじりたくなる。

どうせ数分でPCが起動するのに、そこまで待てずにスマホをいじりたくなる。

スマホにはアプリがあんまり入ってない。

とりあえず数日前に息子に送った芝桜の写真に既読がついているかどうかを確認する。

ついていた。



スマホではブラウザの「お気に入り」を使わなくなった。

ブラウザを起動してからお気に入りを開いて、見たいページ名を探してクリックする、という一連の手間が惜しい。

スマホのトップにGoogle検索の窓が開いている。そこに、見たいウェブサイトの名前を入力して、毎回アクセスしている。実はこのほうがはやい。

たとえば「ほぼ日」と入れる。すぐほぼ日が見られる。便利だ。

「ほほ」までフリックしたところで予測変換欄に「ホホバオイル」が出てくるのにも慣れた。

ほぼ日を見に行くつもりでホホバオイルを検索してしまうことが年に数度ある。

だからホホバオイルに詳しくなった。どうも一番売れているのは無印良品のやつらしい、ということもわかった。

ホホバというのは草の名前だ。たしかスペルはJojobaと書く。スペイン語だったはずだ。ジョジョバオイル、と書くとすごく潤沢なふんいきが出る。

ホホバオイルは植物から出たアブラなのに、マッコウクジラのアブラと同じ「ワックスエステル」に分類されるため、ほかの植物性油脂とは違った用い方をされるということだ。マッコウクジラとかバラムツのような深海に棲む生き物は、この油脂を浮力調節とエネルギー貯蔵の2つの役割で用いているという。

ホホバはべつに浮かなくてもいいだろうになあ、と思ったりする。

油脂が生体の中で重要なのにはいくつかの理由がある。一番大きいのはたぶん「水とすみわけることができる」点だろう。生命は、とかく「しきり」をつくらないと活動を維持できない。内部にいろいろごちゃまぜのままでは機能をうまく分けられない。分業するために壁がいる。その意味でアブラというのはとても役に立つ。また、いざというときのエネルギー源としてため込んでおけるというのも大きい。しかし浮力調節というのは思い付かなかったな。



……なんてことを、「ほぼ日」の検索をミスったついでによく調べている。



日常の無駄な会話こそがアイディアの源泉になるのだ、とか、会って話すことでセレンディピティがおりてくる、とか、人との会話こそが可能性を広げる、みたいなことは昔からよく言われている。それに異論はない。

ないが、ぼくはしばしば人ならぬスマホを相手に、中途半端な、結末のぶれた、目的地のわからない会話をしている。会話相手が人間じゃなくてもそれくらいはできるのだ。

このことを人にいうと、

「スマホ依存じゃないの?w」

「さすがツイ廃」

みたいに揶揄されてしまう。

納得いかない。




お前、ほぼ日からホホバオイルに飛んだことあんのかよ。

2018年5月22日火曜日

病理の話(202)

病理医は顕微鏡をみて、人体に起こっていることや病気の正体を探る。

ただ、世の中には、顕微鏡をみるだけではわからない病気というのがかなりある。

たとえば心臓とか、血流の異常。

ホルモン、代謝に関する病気。

これらは、顕微鏡で何かをみればぴたりと当たる、という類いの病気ではない。

「病理医は苦手としている」とまとめてもいい。



現代医学においては、全ての病気に詳しい医者というのはあり得ない。

医学の進歩に伴い、診療はかつての何千倍も複雑になった。

たとえ生涯をかけて学び続けても、人体の全てを知ることはできない。

病理医も、自分の得意とする「がん診断」に専念することで、医療の一翼を支える存在となる。

同じ診断学といっても、がん診断は詳しいが、循環器救急の診断はよく知らない。

それでも十分に役に立てる……。



……けれどぼくは、「自分の苦手な分野についてもある程度知っておきたいな」と考えるほうだ。

ときおり、本来であれば臨床医がするような検査推定に首をつっこんで、自分でも考えてみようとする。

臨床医には「現場にいないくせに、ちょっとかじったくらいで生意気にも臨床を知った気でいる、頭でっかちな無礼者」と思われているかもしれない。

実際、出版した本の書評を読んでいると、

「現場で働いたことがない病理医のくせに、診断学の本を出している奇特な人」

みたいな評価をみつけることもある。たぶん悪い意味で書かれている。




ぼくは病理専門医という資格のほかに、臨床検査管理医という簡単な資格を持っている。

この資格は、実は取るのがとても簡単だ。

なんと、東京で1日だけ講習を受ければすぐ取れる。

だから持っていること自体にはあまり意味がない。これで給料が上がるわけでもない。

(似た名前で、「臨床検査専門医」という資格もあります。こっちはとるのがとても大変)




でも、ぼくはこの「臨床検査管理医」という資格が気に入っている。

これは、「AED講習 受講証」みたいなものだ。




よく、消防署とか行政施設で、一般市民を相手に救命講習が開催されているだろう。

救命講習を受けると受講証がもらえる。

この受講証を1枚持っているからといって、いざ、倒れている人に対して100%完全な応対ができるとは、思わない。

そこまで救急対応というのは簡単ではないからだ。とっさのタイミングであわてず平常心でいることも難しい。

けれど、講習を受けたことで自信と自覚を手に入れることが大事なのではないかと思う。

いざ、倒れている人を目にしたときに、あわてたり呆然としたりしながらも、「自分は受講証をもらったんだ、冷静に思い出せば何か役に立てる」と奮起することで、救急隊への連絡を早めにできたり、複数の人を呼んできて一緒に対応することを思い出せたりする。

そして、ときおり壁にかけてある受講証を眺めて、「そういえばそろそろ思い出さないといけないから、また受講しようかな」と気づく。ときおり講習会を受け直したり、YouTubeの救命動画に目を留めたりする。




臨床検査管理医の資格もこれに近いところがある。

持っているだけでは有名無実だが、

「ぼくは病理医として顕微鏡診断をするだけではなく、臨床検査室のほかの業務にも詳しくなり、技師さんたちと一緒に検査学についても学び続けるぞ」

という意思表示の証とはなる。




フラジャイルを読んだ医療者が「病理医でこんなに臨床診断に詳しいやついねぇよ」と言ったり、「これは病理医の仕事ではなく検査専門医の仕事では?」とつっこんだりするシーンにときおり出会う。

けれどぼくからすると、あの岸先生のスタイルというのは「ぼくが目指す像」なのだ。

あなたは突拍子もないほどすごい名医にあこがれたことはなかったのだろうか?

ぼくはある。それも今あこがれている。

ぼくはマンガの登場人物くらい優秀になりたいと今でもわりと本気で思っている。

2018年5月21日月曜日

おとなのふりかけ

今回の釧路出張は忙しいとわかっていた。

Twitterをせず、普段はまず飲むことのないドリンクも飲みながら、猛然と働いた。

現在、土曜日の朝、9時。

昨日と今日で、無事、2日分の仕事をすべて片づけることができた。

飛行機の時間まではまだ余裕がある。あと1時間くらいは、ここでのんびりしていても大丈夫だ。

安心して、ノートPCを開いてモバイルWi-Fiに接続した。


全身がとても痛い。特に首のまわりがひどいことになっている。

目をあまり開けると肩こりがつらくなる感じがある。今、薄目でキーボードをたたいている。



いつもと仕事量は特に変わらない。ただ、1時間半ほど早く終わった。

この1時間半を、いつもはTwitterをする時間に換えて、ほどよく全体にふりかけていたのだ。

ふりかけをかけずに猛然と働いた結果……。

脳も背中もオーバーヒートしてしまった。

すっかり疲れてしまった。



そういえば先日、ぼくがこれから仕事をしていくうえで、

これからはにこにこ働くことを目指そう、という趣旨の決意を書いた。

でもこんなに体が痛かったら笑えない。



ぼくはTwitterをやりながら働いた方が、陽気な顔で仕事を続けられるんだな、ということを、なんだか今更実感した。

「Twitterをやめればもっと働けますよ」という人がたまにいる。これからはこう答えよう。

「1年くらいはもっと働けますが、ぼくをあと30年働かせたいなら、Twitterをやめさせないほうがいいと思います」。





……これでぼくがもしTwitter続けたまま来年すぱっと仕事やめたらおもしれぇだろうな。

2018年5月18日金曜日

病理の話(201)

マンガ「ブラック・ジャック」の中に、

「虫垂だの農家の四男坊なんてのは
やたらに切っちまっていいもんじゃないだろう」

というセリフがある。

これは最近の医学でも、まったくそうだその通りだと言われている。




虫垂というのは一般には「モウチョウ」などと呼ばれており、しかもそれは基本的に病気のニュアンスを含んでいる。

右の下っ腹が猛烈に痛くなり、ひどいと手術でとらなければいけない。それが「モウチョウ」。

ごく一般的に知られているのはこれくらいだ。

かつて、小学生とか中学生の間では「あいつモウチョウで陰毛ぜんぶ剃ったらしいぞ」と、なぜかやたらと剃毛と一緒に語られる機会が多かった。

今では「モウチョウ」の手術で陰部の剃毛が必要とは限らない(むしろしないことも多い)。



モウチョウモウチョウと書いてきたが、正確には「虫垂炎」である。

この有名な病気が起こる舞台はあくまで虫垂であり、盲腸ではない。

「チュウスイ」という発音が特に難しいわけではないのに、なぜか俗世間には「モウチョウ」という呼び名で広まってしまった。

誰が最初に、虫垂炎をモウチョウと言い出したのだろう。ふしぎだ。

盲腸の先端部にちょろっと、バルーンアートのほそながい風船の「まだ空気が入っていない細い部分」みたいな感じでぶら下がっている小指くらいの臓器が「虫垂」。
https://www.med.or.jp/forest/check/chusuien/01.html (日本医師会のホームページより引用)

この虫垂に炎症が起こっている病気を「モウチョウ」と呼ぶのは、ちょっと雑だなあ。

千葉にあるのにトウキョウディ……

やめとこう。「千葉が虫垂だという意味ですか!」とか絡まれたら困る。




さて、この虫垂、

「いつか病気になるかもしれない爆弾、そして機能は特にない」

とまことしやかに信じられていた。

つい最近まで、虫垂の機能はよくわかっていなかった。

けれども、この虫垂にもなかなかたいそうな機能がある。

現時点でぼくが知っている「虫垂の機能」はおもに2つあるのだが、そのうちの1つ、「常在菌のストックをしている」というのが「おおー」って感じがして好きだ。まあまだ完全に証明された仮説ではないようだが。




人間、たまにお腹をくだす。

水みたいなやつがでる感じの。

このとき、「善玉菌」も、けっこう洗い流されてしまう。

悪い菌に感染してしまい、腸の中が「悪玉菌」みたいなのでいっぱいになることもある。

このときも、「善玉菌」が駆逐されてしまう。

気軽に「善玉菌」って書くと、なんだ、正しいことばを使え、みたいに怒る人もいるのだが、わかりやすいのでこのまま書く。人間の体内では、人間とうまく協力してやっていってる善玉菌(常在菌)がかなりの数いる。この菌を倒すと健康を損なうくらい大事だ。一説には数百とか数千という種類の菌が腸内に住んでいるのではないか、とさえいわれる(ちょっと多すぎる気もするが)。

この、腸内の菌環境が、ときおり乱れてしまう。人間は毎日違うものを食べているし、ときどきお腹をこわしたりするからね。

で、善玉とか中立みたいなやつらが元気をなくして、いわゆる「悪玉」がメインになってしまうと、そこから善玉菌が復権するのにはなかなか苦労をする。

この苦労にに備えて、「虫垂」の中に、善玉菌をストックしている……という考え方がある。

非常時の備蓄みたいなものだ。

有事の際に、倉庫にある物資を配る。




そんなことがまったくわかっていなかった昔、手塚治虫が作中にこめた

「虫垂だの農家の四男坊なんてのは
やたらに切っちまっていいもんじゃないだろう」

というセリフ。

手塚治虫にしてみたら、浪花節みたいなノリでかっこよく入れただけのセリフかもしれない。手術したらその分合併症のリスクがあるから、何もない虫垂を気軽にとるのはやめようぜ、くらいの意味はこめていたのかもしれない。

けれど、今の知識を持ってからこのセリフをみると、なかなか味わいがある言葉ではあるなあ、と思う。



まあ今の時代に「農家の四男坊」が感じるニュアンスは、当時のそれとはだいぶ違うだろうけれどね。

2018年5月17日木曜日

青春それは君が取り込んだ光

自分の裁量で仕事したいなあとずっと思ってきたのだが、いざこれができるようになると、

「今ここで俺が気づかなかった問題があったら、その問題は誰も気づかないままスルーされ続けるのだな」

という恐怖におびえるようになった。


うまくできている。


「いつかなりたい自分」の姿に、理想を見ていた。けれど、いざそれになってしまうと、理想が自分の中に取り込まれて、自分の目では見えなくなる。

理想は光のようなものだ。ぴかぴかと輝かしい。

それが体内に取り込まれる。

光がなくなる。

また、どこか、外にある別の理想をうらやむ。

自分の目にうつる光を自分の体の中に取り込んでしまったら、その先はもう暗闇の中を歩いていくしかなくなってしまう。



ぼくはある程度職業人として成熟したら、次の目標として「教育」をしよう、とずっと思ってきたのだ。

しかし、最近、教育はまあもちろんやるんだけれども、それだけじゃ迷ってしまうな、という実感がある。




教育というのは、他の人にとっての光になるということだ。

自分が光る。これはたいへんなことだ。がんばらなければいけない。

けれど、ぼくの体がぴかぴか光っても、ぼく自身の目でそれが見えるわけではない。

真っ暗闇の中で自分だけ光って、ほかに光るものがなければ、結局ぼくはどちらに歩いていけばいいのかという話になる。

だからほかの光を探さないとなあ。




「教育する立場になっても、生涯成長し続けようとしないとだめっすよね」

まあ、ひとことでいうとそういう話なんだけれども、ぼくが今ここで書き切れていないニュアンスがある。

「体内の光を強くするだけじゃ足りないんじゃないかな」

ってことをいいたいのだ。

そりゃあ後からついてくる人にしてみれば、ちょっと前を歩いている人の光がどんどん強くなることはうれしいだろう。

それはもちろん目指す。

けど、自分が今やれていることのレベルをどんどん上げていくことだけでは、自分の体の輝きが強くなるばっかりで、周りは依然として暗いままではないか?





ぼくが今、外に新たに見ようと思っている光がある。

まだぼんやりとしか見えていない。しかも遠い。

今まで自分の体の中にうまく取り込めていなかったものだ。




「いかにも楽しそうに振る舞う」という光である。

「働いているときほどにこにこする」という光である。

たぶん本当に難しい。

今まで育ててきたものとは違う、別個のスキルがいる。

人生には目標が多い。