2019年12月6日金曜日

病理の話(392) ほどよい漬物的発想で血液をつくる

人体内には血液が必要だ。全身に張り巡らせた血管の中に、機能に満ちあふれた液体を流し込んで、上水道的に栄養や酸素を行き渡らせ、下水道的に老廃物や二酸化炭素を回収している。

とんでもなく合理的なシステムだ。血液に対する依存が少々強すぎるようにも思うが。

この血液、単なる液体ではないというのは世の多くの人がとっくにご存じであろう。水を流すのとはわけが違う。





ここで突然だが漬物のはなしをする。

いまどき自分ちで漬物を漬けている人がどれだけいるのか知らないが(冷蔵庫で浅漬けくらいは作る人もいるかなあ)、漬物の作り方というか発想はいたってシンプルで、

・野菜などから水分を奪う
・ついでに塩味を加える

ことで味わいを「濃縮」し、「保存」が利くようにしている。ここで用いられている物理法則は「浸透圧と水の移動」だ。

野菜の表面に塩をふる。すると、野菜の細胞表面に「濃い塩水」が付着する(※注意:野菜も細胞からできているのだ!)。

野菜の細胞内には「塩分がほとんどない、水分」が含まれている。

野菜の細胞膜・細胞壁を境目として、外側に濃い塩水、内側にうっすーい塩水がある状態になる。

すると、浸透圧の低い方から高い方へ……。

塩気のうすい方の水が、塩気の濃い方にむかって移動するのである。細胞の中に含まれていた水分が外に出て行く。

すると野菜の細胞が水気を失ってシワッシワになる。結果的に濃縮がかかる、というわけである。




この「野菜に塩ふったら漬物になる」というのはそのまま人体にもあてはまる。変な話だが、血管の内外で浸透圧に差があると、水分が移動してしまうのだ!

たとえば毛細血管は各種の細胞と接している。このとき、細胞の中身の「塩気の濃さ」と、血管内の「塩気の濃さ」に差があれば、漬物と同じように水分が移動する。

血液がうっすーい真水に近い状態だと細胞の中にどんどん水が移動していってしまう。

逆に血液が濃いぃ塩水だと、細胞から水気がすいとられる。




もっとも血液の場合には、濃さを決めているのは「お塩」だけではない。さまざまな物質が「濃さ」に関与する。老廃物も含めてね。そして、内容物の濃さによって血管内の水分量も、ひいては人体のあちこちにある細胞内の水分量も変わる。となると、人体を漬物にしないために、あるいは水饅頭にしないために、血液の濃度を調整する臓器が絶対に必要なのだが、それがみなさんご存じの、腎臓なのであった。


2019年12月5日木曜日

書店かも

もうすぐ本がいっぱい届くのだ。ジュンク堂書店大阪本店で買った本たちが。

社会書コーナーの方のツイッターを拝見していたら、「かも書店」という企画をはじめたというので気になっていた。そして見に行った。すごいいい企画だった。一度ではとても足りない。

https://twitter.com/Dr_yandel/status/1198169370326794241

上記はぼくのツイートなのだが写真をみてほしい、というか別にツイートに飛んでもらわずとも、自分で撮った写真なのだからここに載せればいいのか。


けっこうなボリュームである。これが全部選書……。



文学、社会書、絵本、哲学、実用、科学などジャンルも幅広い。あわてて買いまくったがもちろん選書の5%も買うことはできない。

喜びよりも辛さが勝る。なんてこった。こんなにいい本がいっぱいあるのにぼくは全部読めないかもしれない。

もう出会えないかもしれない。

今買わないとあとで後悔するかもしれない。

無数のかもが飛び交った。だからかも書店なのか……(違います)(写真は許可取得済み)。




さてそんな中でもとりわけ、ぼくが今までほとんど読んできていないジャンルが、海外の作家が書いた本だ。かろうじてカレル・チャペックだけ読んだことがあるのだが、かも書店にあるチャペックの本はいずれも未読。

そもそもアガサ・クリスティの一部とコナン・ドイルの一部、そしてSFのごく一部を除くとほとんど海外の本を読んだ記憶がない。けれども子どものころの記憶を思い出せば、果てしない物語にしても、モモにしても、魔法のつえにしても、全部海外児童文学だったわけで、ぼくのルーツはそこにあるはずなのになぜ今まで手にとってこなかったのか?

自分で自分に答えを出してしまうようであれだが、たぶん最近のぼくは、本を「人で読んでいる」からだろう。作者の顔が思い浮かばない本に手を延ばす機会が減っている。誰が書いたから読む、という基準。別にそれで何もかまわないんだけど自然と日本人に寄っていってしまっていた。



かも書店の選書主である浅生鴨は海外の文学もよく読んでいると思われる。その彼の文章が好きなぼくはそろそろ海外文学を読めばいいのだ。きっとおもしろいのだから。こうやって、本屋を通じて、選書を通じて、人生が違う方に折れ曲がっていく。

2019年12月4日水曜日

病理の話(391) 虫垂の味見

たとえば、乳輪であるとか、脇毛であるとか、「それって何の役に立ってるんだよ……」っていうやつ。たぶん、ある程度の意味があって残っている。

これはもういきなりぼくの想像になるんだけれども、乳輪というのは、視力があまりよくない新生児が乳首の位置をきちんと視認するために必要だったのではないかなと思うのだ。赤ちゃんにとってバリアフリーな看板。

だったら男性には必要ないべや、と思うわけだが、人体というのはもともと女性型が基本で、Y染色体のパワーでそれを無理矢理男性に改造しているので、女性だったときの名残があちこちに残る。



脇毛とか陰毛については、毛そのものに意味があるというよりも汗腺と毛のコンビネーションに意味があるのではないか。これもどこかには書いてあるのかなと思うが、いちおうぼくの推測を書いておくと、脂分の多い汗をかく場所には毛も必要なのだと考えている。汗に含まれる油脂分で汗の出る穴が詰まってしまうと、それはニキビ(局所の感染症)になる。そこで、汗の出る穴には一緒に毛を用意しておき、毛が伸びるにつれてベルトコンベアで運ばれるように古い油脂も押し流してしまう。これ考えた人えらいな。神か。

脇とか陰部というのは、機能としてにおいを出す。元々はおそらく体調や清潔状態を伝達する上で役立っていたんじゃないかな。フェロモンみたいなものだ。そして、においって脂分なんだよね(ラーメン屋の壁が臭うのは完全にアブラだろう)。




で、そういう話をいろいろと考えていくと、虫垂にぶちあたる。小腸が大腸になるあたりでピヨッとわき道に生えている袋小路だ。なんの機能をもっているかほとんど知られていない。おまけに、一般に「モウチョウ」と呼ばれている病気の正式名称を虫垂炎というように、ここはときおり痛い病気の震源地となる。

だからモウチョウで苦しんだことがある人はたまにこう言う。

「なんで虫垂なんてものがあるんだよ。役にも立ってないくせに。」

英語でもappendix(おまけ)というくらいだ。本当に役に立っていないものだとばかり思われていた。

ただ、近年、この虫垂もまた立派にある程度の機能を果たしているのではないかと考えられるようになった。この話は何度かブログに書いているけれど、けっこう知らない人が多いのでまた書く。

虫垂の機能は、小腸から大腸に押し出されてきた食塊を「味見」することだと言われている。

シチューの味をみるときに全部飲んでしまう人はおるまい(ギャグマンガならともかく)。普通は、少しだけスプーンですくって味をみる。

それと同じように、大腸の中を流れていく食べ物の一部を虫垂がちょっとだけ拝借するのだ。そして、袋小路で検分する。小動物が巣穴に食べ物を持ち込むイメージか。

そこに何か悪いものは含まれていないか。体に対して毒性をもつものを残していないか。食べ物そのものに対して、さらに、小腸から大腸に移行する部分に住む「常在菌」たちを検分している。

虫垂には大量のリンパ球(白血球の一種)が集まってくる。ほかの腸管にくらべて、回腸の終わりの部分と虫垂にはリンパ球が多い。こいつらの機能がどうやら腸管内容物の検閲らしい、とわかって、それまで役立たずだとかおまけだとか農家の四男坊(©ブラックジャック)だとか言われていた虫垂にもけっこうな役割があるんだと言われるようになった。




味見は、慣れてくると、しなくてもよくなる。

だから虫垂をちょんととってしまったところで体調が大幅に悪くなることはない……。今のところそう考えられているし、多くの人が実際に虫垂炎などによって虫垂を手術で取ってしまう。その後めちゃくちゃに体調が悪くなったという話は聞かない。

けれどまあ虫垂は味見用のスプーンみたいなものなのだ。乳輪もそうだけど、あるものには、それなりに意味があるということである。

個人的には、手の甲、とくに指にはえた毛なんかは退化して消えて欲しいと願っているのだが……。

2019年12月3日火曜日

本嫌いと仲良くなれるかどうかという話

『断片的なものの社会学』があまりにいいのでぶっ飛んでしまった。これを書いている時点でまだ読み終わっていないが、帯に書いてあるように、早くも読み終わるのがつらい。むかし、「名作保証。」というコピーがあったが(初代MOTHERだっけ?)、そういう本である。すごい。

読み終わるのがつらい本なんてめったにない、と書こうとして止まった。そうでもないな。ぼくけっこうそういう本読んでる。最近読んだ本は当たりが多い。

こないだ、札幌にある大型の書店で面陳されていたベストセラーの中に、明確なはずれがあったのだが、ほかがいい本ばかりだったのでかえって脳内で目立っている。いまだに書名も覚えている(これは珍しい。普通はおもしろくなかった本は存在ごと忘れるのに)。

そうやって、自分に合わない本があるほうがむしろ普通だろう。でも近頃のぼくは、手に取る本がどれもこれもおもしろくて読み終わるのがつらいと毎回言っている。なんだこれは。

最近は世の中に名作しかない、ということか。

ぼくが単に今、読書がおもしろくてしょうがないだけ、つまり感動の閾値が下がっているのか。

おもしろそうな本を手に取るセンスが上がっている? うーん。

あっそうか、紹介してもらった本が多いからか。ぼくがもともと、「この人はいい本を読むなあ」と思ってフォローしている人がすすめる本なのだから、おもしろいに決まっているのだ。そうかそういうことだ。

本以外の理由で付き合いがある人に本をすすめられても当たり外れは大きい。

けれども最初から「読む本にあこがれて」ひそかにフォローしている人なのだ。その人がいいと思う本は高確率でおもしろい。

なあんだ。解決した。

これもひとつの中動態かなあ。能動的におもしろい本を選んでいると思っているのは自分だけ、みたいな感じ。




近頃はあまり教科書を読んでいない。購読している学術雑誌は読んでいるけれど、医学書のたぐいをきちんと通読する回数が減っている。職能がさびつくのはいやだ。けれども、「いい医学書」をすすめてくれる人の数があまり増えない。

だからツイッターで「いい医学書」を読んでいる人を探してフォローするようにした。たまにいる。

ほかにも「いい社会学書」とか「いい童話」とか「いい詩」とか「いい写真集」などを紹介している人もフォローするのだけれど……。

そうすると今度は、「あまり本を読まない人の意見」が入って来づらくなって、エコーチェンバー現象化するのである。まったく世の中ってのは難しいよな。どうやっても偏るようにできている。

2019年12月2日月曜日

病理の話(390) 液体と固体を生命の中で使い分けることについての雑感

これまだぜんぜん考えがまとまってないんだけど、書き始めてみる。

人体内には固体と液体と気体が混じっている。あたりまえやんけ。

でもこれ意味があると思う。




常温で固体である物質だけで大部分を作り上げれば、強固じゃん。

たとえば骨格にしても。筋肉にしても。脂肪にしても。

しっかりとそこに定着して、何かの構造をなす。

上皮細胞の中にはサイトケラチンという梁が通っている。間葉系細胞の中にもビメンチンという梁がとおっている。どっちも2倍にすると楽しいけれど今日の要点はそこではない。

細胞の中に梁がわざわざ存在するというのは、つまり、「何かを固く保つこと」で、なんらかの意味ある構造物を作り上げることが人体にとって極めて重要だ、ってことだ。




けれどそれだけじゃないんだね。人体の中には液体もある。血がそうだ。胃液や腸液もそうだ。膵液とか胆汁もそうだ。汗も出る。

これらはどうしても必要なのだ。なぜ必要なのだろう? 固体だけで人体が保てない理由はなんだ?

※ぼくがいいたいのは、「水分」の話ではなくて、「わざわざ流れて失うかもしれないもの」を人体が必要として使っているのはなぜかってことです。骨の中にも水分は含まれているよとかそういうことを言いたいわけではない(言ってもいいんだけどさ)。




まず、固体よりも液体のほうが、輸送がラクなんだね。栄養とか。酸素とか。

固体どうしが何かをやりとりするためには、基本的に、手渡ししかない。これだとスピードが遅いしエネルギーも使いすぎる。一方、液体ってのは勝手にしみこんだり拡散したり流れ出したりするから、うまくコントロールさえできれば、多くの物資をいっぺんにスピード速く運ぶことが出来る。

たぶんこの「情報のやりとり」ってのがすごい重要。

高い所から低いところへ。浸透圧の差に従って。ポンプを使っていっぺんに。蠕動(ぜんどう)を使って押し出して。

これだけでものすごい数の情報がやりとりできる。固体ではこうはいかない。

おまけに、液体に溶け込む電解質(イオン)を用いることで、電気的な力(電位)を情報として用いられるというのもでかい。筋の収縮とか。神経伝達とか。これらは液体が関与することではじめて利用できる。

生命は基本的に最初は海にいたので、発祥をさぐると、周りが液体だったところを固体で囲んで(膜で囲うことで)スタートしている。だから生命の中には液体が閉じ込められた。そして、とっくに陸に上がった今も、液体を利用して情報交換をしている。

陸に上がってからも、液体を利用した情報交換の部分はなるべくそのままにしている。こんな便利なシステムを捨てる必要がないからだろう。

ただしひとつだけ、陸に上がった後に、液体を使っていたやりとりをやめた場所がある。勘のいい人だとなんとなくおわかりかもしれない。




それは、肺だ。呼吸。ここは液体を使うのをやめて気体にした。

たしかに気体のほうがはるかに拡散速度が早い。液体を閉じ込めておかなくても気体の出入りさえ確保すればいいんだもんな。液体を用いようと思ったら穴はふさがないといけない(血管から常に血が流れ出ていたら死んじゃう)。けれども気体を用いれば穴をふさがないほうがいい。こっちのほうが便利だ。

でも気体でやりとりできるものには限りがある。まあ酸素とか二酸化炭素くらいしかうまく使えない。だからそれ以外のものが肺に入ってくる前に、ニオイで簡易的に選別できるようにはなっている。あと、イオンとか栄養を溶け込ませることも基本的にできない。




物体の三相を使い分けることで生命はなんかいろいろうまくやっている。自分を保っている。昨日までの自分を今日も保つこと(ホメオスタシス)。




あーこの話はまだまだ掘れそうだけどいったんここまでにしとく。

2019年11月29日金曜日

毛玉

気に入った服があると、あれこれといいわけをしながらもその服をひいきして、結果的に他の服よりもはやくボロボロにしてしまう。

駅やイオンの中に入っている店で買った、ベルトを通す穴はあいているがウエストにヒモも通っているので、ジャケットスタイルにも合わせられるしカジュアルにも着られるタイプのパンツ。

だいぶ伸縮性がいい。よくストレッチする。膝が楽だ。尻も楽である。座っている時間が長いのでありがたい。

ああこれはいいなあ、と思い、色違いを2本買って着回していた。そして秋口になると、中にワタの入った厚手のバージョンが出るのだ。これがとにかく最高なのだ。驚喜して3本買った。

もう、ひたすら着回している。職場に履いていく、休日に本屋に行くときに履く。出張のときもスーツとは別に持っていって履く。移動もラク。革靴にも合う。ほかのパンツをすっかり履かなくなった。

あまりに極端にこればかり履いていたせいで、3本買ったにもかかわらず早くもそのうちの1本が毛玉まみれになってきた。デスクでふと太ももを見たら違和感があり、目をこらすと無数の毛玉がこっちを見ていた。目玉みたいにいうな。




あれこの話書いたかな?

あちこちで文章書いて忘れている。

たぶんこのパンツの話はぼくにとって「気に入ったストーリー」なのだろう。

語るポイントがいくつかあり、誰も傷つかず、少し情景が浮かびやすく、共感も得られ、失笑も得られる。便利すぎる。ラクだ。

だから一度書いてもまたつい書いてしまう。

これって気に入ったパンツを履き続ける構図とそっくりだな。

となるとこの文章の中にもおそらく毛玉ができている。

毛玉ができて、知らず知らずのうちにクオリティが下がっている。けれどもぼくはそれを見てむしろ、「毛玉があるとなんだか暖かそうに見えていいじゃん?」などと本質を外した擁護をしたりする。




せっかくなので毛玉を仕込んでみた。

冒頭の6段落の最初の文字……の、アルファベット部分をならべると毛玉になる。

知らず知らずのうちに毛玉がそこにいて、黙ってこっちを見ている。

2019年11月28日木曜日

病理の話(389) 病気の話を書きました

照林社のエキスパートナースという雑誌に、「ヤンデル先生の病気の話」を書いた。

……いや、「ヤンデル先生の病気」の話ではなくて、ヤンデル先生の「病気の話」である。

別にぼくが病気にかかってその身の上話をしたというわけではないので安心してほしい。

https://www.shorinsha.co.jp/detail.php?bt=1&isbn=1208312119

上記リンクから、特集記事の序盤が試し読みできるのでお試しください。



企画書が届いたのが去年の8月、書き終わったのが去年の11月なので、書き終えてからまる1年が経過している。なので自分で読んでも新鮮な部分があった。よくできたと思う。それよりなにより、イラストレーターの熊野友紀子さんの世界観がめちゃくちゃいいので皆様にお勧めしておく。



今回の記事の内容は「病気ってそもそもなんなの?」という一本の太い骨、とその周りに肉付けされたもの、である。

「病気ってなんなの?」すなわち「病(やまい)の理(ことわり)」であり、これは病理学そのものだ。ぼくがこのブログでずっと書いてきた「病理の話」も同テーマで書いている。

書くのがすごい楽だった。なぜなら、最初から頭の中に風景があるので、その風景の中を歩いて見えたものを文章にしていけばそのまま原稿になるからだ。




なんでも、小説家の中にも、考えて書いているのではなくて、頭の中にできあがった世界を順番に描写していけばそれが小説になる、というタイプの人がいるという。

この話を聞いたときにふと思ったのは、

「ああ、つまりぼくの頭の中には、病理というナラティブがあるのだな」

ということだった。



ナラティブという言葉がずいぶんいろんな使い方をされるようになったが、この言葉はつまり「物語化する」ということだ。客観的に・論理的に組み上げた学問にも、実は客観的観測結果の時系列や、論理同士のつながりがあって、そこには一種の物語性がある。

ぼくの場合は自分の専門とする病理学にのみ、脳内でこの物語化ができている。だから病理学を語るときに、歴史とか、なれそめとか、あらすじとか、そういった語り方ができる。となると、導入部さえ編集者に決めてもらえれば、あとはストーリーをたどっていけばいつの間にか教科書の皮をかぶった随筆ができあがるのだ。これは助かる。



「なんだそりゃ、査読もされずに学問の話を書くなよ、論文を書けよ」

という反論が出るのはわかるのだが、医療情報発信はどちらかというと診察室を拡充する医業のひとつだと思っている。「外来に出てないで論文を書けよ」という人もいるので自分が免罪されるとは思わないが、たいていの人は、「そうか、病理医として外来に立とうと思ったら、本を書けばいいんだね」とわかっていただける。

外来で患者と話すこともナラティブ同士の突き合わせだろう?

だから患者向けに、あるいは医療者向けに本を書くときにもナラティブ・ベイストのやりかたはあると思うのだ。そしてそのナラティブというのは、「科学の持つ物語性」であるべきだ。




これから4冊本を出す。1冊は看護師・看護学生向けに書いた「病理の話」の教科書。1冊は中学生が読める文体で書いた「病気の話」の新書。1冊は消化管病理学のゆるめの専門書。1冊は肝臓の画像・病理対比の本。最初の2冊は単著、後半の2冊は共著(だがぼくが9割書いている)。

これらはすべて「病理の話」であり、ぼくの専門ど真ん中であっていずれも、脳の中にある風景をただ写し取っていけばいいだけだったので、原稿はたいそう楽だった。

なお、脳内遊覧を本にしていく作業は、これで一段落とする。




40歳前後でこれだけ本を書かせてくれたのは本当にありがたかった。しかしそろそろ後進に道を開くべきだろう。自分が専門とする領域について、日々の仕事の中で頭の中に組み上がった風景をライトな文体でまとめていくとき、大事なのは

「頭の中にきちんと何かを組み上げていること」

だ。つまりは自分の中にちゃんと学問を組み立てようとしていること。

でもこんなことはわりとみんなやっている。

ならばあとは、デスクに向かう時間さえあれば誰もがぼくと同じような仕事をできる。

もっとも、40歳前後の医療者というのはそもそもデスクに向かう時間が取れない。だからたいていの医者はそう簡単には本を出せない。脳内に科学があってもアウトプットする時間がない。

けれども今の時代、SNSによって、デスクに向かわずともスマホに向かえば小刻みに文章を残せるようになった。脳内風景を断片的に切り出して世に出す作業は、前よりもずっと簡単である。

となるとこれからは、ぼくより若く、活気があって、脳内にぼくとはまた少し違った風景を構築している人が、ライトな文体でどんどん本を書くだろう。それはたとえば腎臓の話でも子宮の話でも、甲状腺の話でも骨折の話でも、脳の話でも、なんでもありえる。



ぼくはもう十分にやらせてもらった。次はおじさんにしかできない、おじさん以外はやりたがらない、おじさんであればやっていても不思議はない仕事にシフトしていこう。

科学のナラティブをライトに語る切り口はぼくの持ち味のようだ。ここを純文学みたいに重厚にしていくのは、たぶん求められていない。けれども、ライトに書きながらも、読んだ人に何かを思ってもらうような文章というのも世の中にはある。

このとき求められるのは、ナラティブに詰め寄っていく解像度の高さと、今まではとにかく早く多く書いてきたものを、じっくり、少しずつ、丁寧に書き取っていこうという心がけなのではないか、というのを今は考えている。