2017年6月29日木曜日

ブッチャーズにも似たタイトルの超名曲があります

自己啓発本がすごいなあと思うのは、すでにあるものごとの「見方を変える」とか「閾値の設定をしなおす」だけで新しいココロモチになることができるよ、と言っちゃうところだ。

つまりはコストがかかんないんだよな。何かをクリエイトするわけでもなく、何かを研磨するわけでもなく、とにかく「線を引く場所」を変えるだけでいいんだから。

そりゃあウケるわ……金払って読みたい人も出るわ……。



と、ここまで考えて、「あれ、コストかかってんじゃん」となる。



「買ったところで、気の持ちようしか書いていない本」を、「買ってでも」、「自分が将来コストをかけずにうまくやる方法」を、「知りたい」。

ここで金が回るんだな。うーん。



「人の経験を取り入れる」のに、どれだけの金がかかるんだろう。

話を聞くだけならタダ?

「今ある状態を少しでもらくに、たのしく、うれしく受け止めるための考え方を身につける」のに、いくらコストをかけるのがいいのだろう。

いい人がたまたま周りにいればラッキー?



魚戸おさむ「はっぴーえんど」というマンガを、例えばそういう視点で読んでみるとよいのではないか、と思う。

このマンガはあるいは金字塔になるかもしれないので、今から金を払って読み始めておいて欲しい。


「はっぴーえんど 1  (ビッグコミックス)   魚戸 おさむ」 https://www.amazon.co.jp/dp/4091895077/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_R0gtzbW0RWV2K


2017年6月28日水曜日

病理の話(94)

ほんとうに病理医は足りないのだろうか、ということを最近考える。

そもそも、世の中に「足りている職業」なんてあるのだろうか。

どこだって人手不足である。

医療業界で、スタッフ数が潤沢で、診断も治療も最新・最高を常に維持できていて、患者もみんな満足してニコニコしている場所なんて、どれだけあるのだろうか。

夜昼問わず尽力する善意の一人によって成り立っている救急医療現場。次から次へと訴訟のリスクを抱える出産現場。神の腕を求めて殺到する患者。学会出張に行くと閉じられる外来。年年歳歳右肩上がりに増える申し送り事項。払われたくない金。病気は医者の都合を待ってくれない。病気は科学の進歩を待ってくれない。足りない人。足りない科学。足りない幸福……。




病理医が足りないんじゃない、人はそもそも全部足りない。




今、病理医は全国に2300人、うち半分強が50代後半以上であり、半分強が大学と紐づけされており、病理診断に専任する人よりも大学の研究業務と兼任する人の方が多く……。

このままでは病理診断は立ち行かなくなる。すべての医療が止まる……。足りないから、ぜひ、病理医になってくれ。この国の医療を救ってくれ……。



どこか空々しい。

どこだって誰だって足りないのに。

病理がなくなったからって、医療が全部止まるわけじゃないのに。

それは心臓外科医であっても産婦人科医であってもリハビリ医であっても緩和ケア医であっても一緒。

ほかの医療者と同じように、

「病理医がいないことで、誰かがちょっとだけ苦労したり、誰かがちょっとだけ理想から遠ざかる場所が増える」。

国民の幸せの総量がちょっとだけ減り、どこかのがん患者がちょっとだけ早く死んだり、どこかの病人がちょっとだけ診断が遅れて人生をちょっとだけ悪くする。


「ちょっとだけ」だ。


誰かの人生を大きく動かす、ちょっとだ。やじろべえを最後に倒す、指の一押しみたいなものである。




ぼくは北海道という田舎にいるから、田舎のことにとても関心があるけれど、北海道のあちこち、本当にあちこちに、

「病理医がいなくて、病理診断が破綻している病院」

がある。いっぱいある。すでに、ある。

ではそこでは医療は終わっているのか? そんなことはない。もちろん、病理医がいる病院と比べると、ちょっとだけ不便で、ちょっとだけ高次医療ができなくて、ちょっとだけ患者の満足度も落ちるかもしれないけれど。

産婦人科が撤退した地方病院。救急医がみんな引き上げてしまった公営病院。医局に切られて外科医が足りなくなった中核病院。

起こっていることはすべて同じである。病理医だけが足りないわけじゃない。

医療は常に、充足していない。




だからぼくは言いたいのだ、病理医が足りないからみんな病理医になってくれではなく、この仕事にはやりがいがあるから、君が病理医になることで、ちょっとだけ医療がよくなると思うから、もちろん、君は何になっても、ちょっとだけ世の中をよくできると思うけど、それは病理であっても同じことなのだ、だから、病理ってのはけっこう働き甲斐があるいい仕事だから、

病理医になってみたらどうか。

と。

ぼくは、「病理医は足りていません」と言いながら、病理のリクルートをするやり方を、もはや、「筋が悪い」とすら思い始めた。

自分がかつて使っていたフレーズでも、ある。反省ばかりの毎日だ。

2017年6月27日火曜日

ちからのたてが手に入るとMP節約にめざめる

はぐれメタルを倒すと経験値が40200くらいもらえるんだけど、子供心に、たまたまかいしんのいちげきが1回出ただけで40200というのは多すぎるのではないかと思っていた。

けれどそういう話は現実世界にもいっぱいあるなあ、と思わなくもない。



たとえばはぐれメタルと戦いの最中に、いつしか好敵手としての間柄をお互いが意識しはじめ、敵味方を越えた「戦うもの同士、相通じるもの」が育まれ、必殺の一手が伯仲した瞬間に間合いをとって、お互いに

「お前、やるじゃないか」

「名前を聞いておこう」

「お前とはまた会う気がする」

「今度は俺に当てられるといいな」

「お互い様だ」

なんて会話が生まれたら、これはもう経験値としては80400くらいもらっても良いのではないか、と思うんだけど、実際には倒してないから経験値ゼロなのである。

こういう話も現実世界にいっぱいある気がする。



経験値を数値化するからいかんのか。

経験値を散文化してしまうとどうなるか。それはすなわち「おりびあののろい」に対する「あいのおもいで」である。本人たちしかわからない。先にあるのは呪いの消滅と周りのキョトンである。

やっぱりある程度の数値化は必要なのだろう。



そういえば経験値を溜めてレベルが上がっても、ぼくはそこまでうれしくなかったな。

どちらかというと、メラミを覚えたとか、ベホマラーを覚えたとか、そういう「レベルアップのついでに何か新しいまほうを覚えたとき」のほうが、はるかにうれしかった。

こういう話こそ現実世界に満ちあふれている気はする。



「ぶとうか」や「せんし」でいるよりも、「まほうつかい」や「けんじゃ」でいる方が、レベルアップに伴う快感は大きかった。

だから、一度ぶとうかとしてすばやさを上げまくったあとで転職するなら、まほうつかいがいい。

ダーマの周りにいるザコを殴るとすぐに数レベル上がる。

ギラもイオも瞬間的に覚えられる。

あれは正直、快感だった。しかし転職してから長い間、他のメンバーとのレベル差に苦しみ、敵のベギラマでひとりだけ瀕死になったりするのもセットである。

こういう話も、現実世界には多く見受けられる。




「だいじなことはみんなゲームが教えてくれた」みたいなまとめをタイトルに放つブログが嫌いなのだが、だいじなものをなんでも自分の理解が及ぶ話題にすりかえて語ってしまうやり方を、ぼく自身もよくやってしまう。

自分の言いたいことを何かに代わりにしゃべらせたり、自分の言いたいことを最初から最後まで例え話であてはめたりするとき、最初から最後まで統一した物言いができると、なんだかいい気持ちになってしまう。途中から、「それ、言いたいだけやろ」とつっこまれる。

統一した世界観の最後にオチをつけるのは難しい。

そこまでの話の流れを壊さず、かつ、長文の締めくくりにふさわしい、圧倒的な説得力のあるフレーズで、読む者にぐっと衝撃を与えなければいけないからだ。

ギガデイン? ただ攻撃力が強いだけだ。

ベホマズン? MP消費量が多すぎてどっちらけである。

「ドラクエ例え話」では何がオチになるんだろう。



パルプンテか。パルプンテなんだろうな。ああ、なんだかわかるなあ、とすごく納得したのである。どこかでおさらのわれるおとがした。

2017年6月26日月曜日

病理の話(93)

「じゃじゃ馬グルーミン☆UP」というマンガがあるのだが、主人公である駿平が父親に向かって、

「父さんの仕事なんか、書類を右から左に動かすだけの仕事じゃないか」

みたいなことを言って、母親にひっぱたかれる、というシーンがあった。

ぼくはあのシーンがずっと頭に引っかかっているのだ。

子供から見ると、事務作業、頭脳労働の一部は、駿平のように「書類を右から左へさばくだけ」のように思われているのではないか……。

病理診断というのはデスクワークの本流みたいなもので、書類仕事であり、パソコン仕事である。勉強して、調査して、記載して、確認を受けて、連絡をして、報告をして、相談をする……。

この仕事、そうだよ、「右から左へ」の類いではあるよな。



書類を右から左にさばくにもスキルが必要だ、と言ったところで、スキルが必要とかそういう話ではなく、やりがいがあるのか、やっていておもしろいのか、どうなんだ、と、余計に疑義の詰まった目で見据えられることになるだろう。

さて、あのとき、駿平の父さんは、なんと言ったんだったか。



(そんな風に見えてるのか)とだけつぶやいて、特に反論などはしなかったように、思う。







ドライブが好きという人にも何種類かある。

・運転そのものが好きだという人。

・自分で好きなように居場所を決められる、行き先を自由に変えられるのが好きだという人。

・運転自体はまあどうでもよいのだが遠くに行くのが好きなのだという人。

・車の中がなんとなく落ち着くのだという人。



仕事も実は一緒であり、デスクワークが好きだという人にも何種類かいて、

・デスクワークそのものが好きだという人。

・デスクワークの結果、達成される、なにがしかを見るのが好きだという人。

・デスクにいることにこだわりはないのだが、頭脳を使うのが好きだという人。

・デスクがなんとなく落ち着くのだという人。

などがいる。



「書類を右から左にさばくだけ」というのは、「運転なんて右足を踏んだりやめたりしながら、手でわっかをくるくる回すだけだろう」というのと同じなので……。

ドライブが好きな人に、「そのハンドルくるくるの何が楽しいの」という質問をしないのと一緒で、デスクワークが気に入っている人に「その書類を動かすのの何が楽しいの」と言っても、答えは返ってこないのではないか、と思う。




ちなみにぼくはたまっているプレパラートを次から次へと「診断済み」の棚にぶちこんでいくとき、ハナクソがごっそりとれたような快感を覚えるタイプだが、ハンドルをくるくる回すことにはそれほど快感を覚えない。

2017年6月23日金曜日

山廃という言葉もあったではないか

多くのおじさんがツイッターを発信に使い続けている中、10代の人間はツイッターアカウントに鍵をかけて、主に芸能情報などのニュースを集める、すなわち受信に使っているのだという。

ツイッターというツールは情報の受信にこそ向いているようだ、というのは、かつてNHK_PR1号が書いていた。

ぼくの実感としても、ツイッターは、情報収集にこそ向いている。それも「世の中からこれがよいと勧められる情報」ではなく、「自分でこれがよいとジャンルを偏らせた情報」を集めるのに便利だ。

そういうことに、おじさんたちが気づくのに10年ほどかかったし、まだ気づききっていない。

けれど、10代の人間はすでに、誰から教わるでもなく、「効率的なSNSの使い方」をしている。

発信と自己顕示はインスタ、受信はツイッター。極めて合理的だと思う。若者の適応力というのはすばらしい。




と、ここまで書いて、そしたら、10代の人間が受信するための情報は誰が発信するのか、という話になり、10代の受け手がいっぱいいるツイッターではおっさんが送信役に回り、10代の送り手がいっぱいいるインスタグラムではおっさんが受信役に回る、これこそが需要と供給の一致ではないか、という仮説を打ち立てる。

セッツァー風に言うと「大きなミステイク」であることにすぐ気づく。

10代の人間が受け取りたい情報は、おっさんからの情報ではない。

10代の人間が自分を見せたいターゲットは、おっさんの目ではない。

需要と供給はまったく一致していない。仮説は棄却される。

おっさんであるところのぼくは、誰に向けて情報を発信し、誰から情報を受け取れば、世間に迷惑をかけずにやっていけるだろうか。








ぼくが日頃エアリプでやりとりしている相手の99割が、おっさんである(やりとり相手がすべておっさん+その9倍くらい周りにもおっさんがいる、の意味)。

「SNSおっさん」は、狭いクラスタの中で、有象無象のバクテリアにまみれて、その形態をじわじわ変えていく存在である。人の役に立つ変化だった場合には「発酵」、人の役に立たず害をもたらす変化だった場合には「腐敗」と呼ぶ。

火入れ(炎上)をすると発酵が止まる。まるで日本酒のようだ。

アルコール添加しても発酵が止まる。まるで日本酒のようだ。

お酒の発酵には適度な管理と行政の締め付け、職人の目、運、天候、水、さらに、半可通的な買い手・飲み手が大量に必要となる。

日本酒のブームは来たり来なかったりする。ビールには勝てない。

おっさんは酒なのである。10代にはおすすめできない。




ぼくは普段から、「昔にもどりたい」とは全く思わない人間なのだが、今ひさびさに、10代に戻りたいかなあと思った。

10代に戻って、真新しい気持ちで、ツイッターを使い始めてみたい。

そしたらぼくらおっさんは、どのように見えるのだろうか。

赤ら顔、千鳥足、無色透明な、くさい存在。ときどき楽しそうにしている。

2017年6月22日木曜日

病理の話(92)

病理診断では、細胞の顔付きを見て、病気の正体をあばく、という。

しかし、この言葉は、正確ではない。いくつか例をあげて説明する。




1.患者さんが病院に来た、50歳代の女性である、しこりが胸にある、画像ではしこりがいびつに見える、周りにしみ込んでいるように見える、だから臨床医は「がんの可能性が高い」と考えている。

2.そこで胸のしこりから細胞を採る。出てきた細胞が「悪性」としての性質を持っている。

3.病理の結果は、臨床情報が強く疑っている「乳がん」を支持する。だから、乳がんであると確定診断した。



以上の文章を読んで、「おお、病理のおかげで確定診断が出せた」という感想が出る。……9割は間違っていないのだが、1割、間違っている。

実は、確定診断の過程において、病理で細胞をみたことが「決め手」にはなっているのだが、「それが全て」ではないのである。

別の例を出そう。



1.患者さんが病院に来た、50歳代の男性である、腕が腫れている、画像では皮膚の下のほうにしこりがある、いびつである、周りにしみ込んでいるように見える、だから臨床医はがんの可能性があると考えている。

2.腕のしこりから組織を採取する。細胞は、「悪性」の性質を示している。

3.では、皮膚の下から出た「がん」だと確定してよいだろうか?


さきほどの乳腺のときと話はとても似ているのだが、違いがある。

臨床医が「がん」をどれだけ強く疑っているかが、違う。

乳腺の例では、臨床医は乳がんを一番強く疑っていた。

しかし、腕の例では、臨床医は実はひそかに「結節性筋膜炎」の可能性を頭に入れている。

結節性筋膜炎という病気は少し珍しいのだが、がんではないのに、細胞の顔付きが妙に「がんっぽく見えることがある」という特徴を示す。

つまりは、細胞を見て「なんか悪そうな細胞だな」と思ったからと言って、すぐに「がん(軟部の悪性腫瘍)です」と診断してはいけない。



臨床医も、病理医も、どちらも!

見るべきは細胞の顔付きだけではない。

病気が出た場所、患者の年齢、病気の見た目、症状、統計学的な知識などから、「この病気とこの病気が疑わしい」と、ただしく「この人にとって、ありえそうな病気」を列挙した後に、はじめて細胞の情報を加味する。

加味するというのがポイントだ。




臨床情報というのは食材である。肉であり野菜である。正しくカットして熱を加えて、おいしい料理(医療)に仕立てていく。

料理の最中に、例えば味を際立たせるため、例えば味をしみ込ませるため、例えば料理の完成度を高めるために、塩こしょうをはじめとする多くの調味料を、「加味」する。

病理の細胞形態学というのは、この、調味料のような役割をしている。

食材そのものではない。

食材の性質を見極めてはじめて、ここで塩を入れると味がひきしまるとか、ここで酒を加えると肉がやわらかくなるとかいった、調味料の利点を発揮できる。

加味するのがポイントだ。加味の仕方があるのだ。



細胞だけ見てわかるというのは幻想である。

病理医のやっていることは、「細胞の理(ことわり)」を見ることではない。

「病気の理(ことわり)」を診ることだ。

ぼくらはみな、細胞だけではなく、臨床そのものを診る。その上で、「調味料には誰よりも詳しくある」というのが職務である。



このことを知らずに病理と付き合う臨床医は、「チャーハンなんて最後に塩こしょうふれば食えるじゃん」的なニュアンスで、「病理はまあ細胞だけ見てくれればいいからさ」などという。

このことを知らずに診断を出す病理医は、「ぼくらに食材のこと聞かれてもわからんけど、クレイジーソルトかけとけばだいたい食えるよ」などという。



料理を知らずに病理を語るのは、よくない。

2017年6月21日水曜日

GATALI

論文の書き方、という話をしていた。

ここで、話の大筋を「木の幹」に例え、枝分かれする関連事項を「枝」や「葉」に例える。

優れた著者の書く論文は、木の根元からこずえに向かって順番に話を進めていくのだという。一貫して木の幹が把握できるように、枝葉末節にこだわりすぎないように。分岐してもいずれは本幹に戻ってくるように、語る。

一方、日本人に多い「話がとっちらかって何を書いているのかわからない書き方」では、枝葉をいちいち丹念に書きすぎてしまうせいで、なかなか幹が見えてこない、というのだ。


「話の木」を、下から上に登っていくか、上から見下ろしてあちこち浮気しながら降りていくか、という違いだともいえる。

学術論文では、幹の太い方からきちんと登っていくほうが読みやすい。



なるほどなあ、と思い当たる。

ぼくは、わかりにくい語り方をしてしまうタイプだ。



論文には限らない。

日常の、相手のいる会話で、ぼくはしばしば、長尺の、寄り道の多い語り方をする。

以前に先輩にもたしなめられたことがあった。いっちーの話は、オチまでが長いよと。

枝葉を語る時間が長すぎる。

この語り口、いったい何に影響されているんだろうなあ、と考えた。



……落語? 漫談? 水曜どうでしょう……?



へたくそなラジオDJのようだなあと思った。視聴者はいる、意識もしている、しかし相槌を求めずに、自分の言葉ですべての展開をいったん終えてしまう。そして、10分以上語ったあとで、「ではお手紙をいくつか。」と、もらった感想に対してリアクションを述べる。

ほんとうに優秀なラジオDJは、独白であっても、センテンス1つ1つが短い。

そこに声はなくとも、視聴者が合間合間で相槌を打てるように、やりとりをしうるように、間が調整されている。



ツイートも一緒だ。ツイッターはラジオに似ている……。



ぼくはこの「水曜どうでしょう型漫談形式」の会話をこれからも続けていくのだろうか、ということを考えていた。

そうだな、続けるのかもしれないな。

だからツイッターも続けているのだろうな。



ほんとうに視聴率の高いTV番組は、ひとつの会話が1分続かない。極めて短くパックされたボケ・ツッコミが、字幕と共に短時間に叩き込まれる。

けれど、ぼくはどうも、そういう、「お互いが最高に楽しい会話」というのが、いまいち苦手なようで、深夜2時半のFMラジオから聞こえてくる環境音楽みたいな実のない独りガタリの方に、いい年してあこがれているのだ。




HiGEというバンドのボーカル、天才・須藤寿の、ソロプロジェクトの名前は、GATALI と言った。

どうもぼくは、売れそうで売れない、ニッチを攻める、忘れられた王道のような存在に、惹かれる傾向がある、