2023年11月27日月曜日

脳だけが旅をした

書きためてあった記事5本をすべて公開しました。ブログは今日でおしまいにします。今朝、ウェブ連載などの担当者のみなさまにも、連載を終わりたいというご連絡をしました。SNS医療のカタチのメンバーにもです。彼らのことをこれからものんびり応援してください。私はとうぶんお休みです。ポッドキャスト「いんよう!」についても、今後先輩と相談しますが、たぶんお休みさせていただくことになります。

手紙を送らないでください。荷物を送らないでください。献本もやめてください。駅や空港、学会場などでの待ち伏せをやめてください。多くの人に迷惑がかかってきました。どうかお控えください。心からお願い申し上げます。

それはそれとして、それとは別に、今までたくさん支えてくださった方々、ほんとうにありがとうございました。おいしいものやおもしろい本などをいただき、どれもすべて楽しみました。本当です。いつかからか、そういったものが楽しめなくなってしまいましたが、それはあなたがたのせいではありません。申し訳ございません。

無念です。しかし念は残っていません。念が無いと読めばまるで後悔がないというニュアンスにもとれます。なるほどよくできた言葉だと思います。まだやりたいことがあったような気もしますが、その気持ちはこれから別の仕事に向けていこうと思います。これからも元気に働いていきます。ありがとうございました。どうもありがとうございました。

病理の話(843) 見直したらありました

今日のブログのタイトルは世の中の99.99%の人にはぴんとこないと思うが0.01%くらいの人にはぞっとする響きをもつのではないかと思う。

まあ病理の話だから基本的には病理医がやる顕微鏡診断の話だ。

しかしもしかするとどの領域でも起こることかもしれない。



顕微鏡で細胞を見る。プレパラートの端から端までしっかりと見る。ビルの窓を清掃するときの、ワイパーで上から下、下から上へとまんべんなく拭き取るような心持ちで、視野を残さず、じっくりと見る。スキャンする。

そうして「所見」を探す。所見というのはわかるようでわからない言葉だが、ぼく自身は、ただ見えたものを「所見」と言うのではなく、見えたものに病理医としてなんらかの意義づけができるなあと思ったものを「所見」と呼んでいる。

したがって所見というのは「血管がありました」「炎症細胞がありました」「上皮細胞がありました」という報告ではない。

「ここにあってはいけない上皮細胞がありました」

とか、

「ここに普通よりもはるかに多い、病的な量の炎症細胞がありました」

ということを見つけたときに、「所見」として報告書に書き込む。


で、くまなくスキャンして、結局、「所見がない」ことはある。

病気の部分からきちんと組織が採取されていないのか。

はたまた、臨床医が病気かなと思っただけで、そこはじつは病気ではなかったのか。

いろいろな可能性が考え付くけれども、ないものはないのだ、だからそういうときには病理医は、「有意な所見はありませんでした」とか、「特異的所見は見いだせません」と書く。


で、だ。


報告書を書いて、すぐ出さずに、ほかの病理医にもチェックしてもらう。ダブルチェックである。「目を変える」ことで、見逃しや書き間違いなどを防ぐのである。

すると、二人目の病理医が、ぞっとするようなことを言う。

「あるよ。所見。ほら。」

えっ……。あんなに見たのに……。

あらためて顕微鏡を覗く。たしかにある。そこに異常な細胞が。それもけっこうな量で。

見逃すというのは「微少で見逃す」ばかりではない。なぜこれに目がいかないの? というような、落とし穴にハマったような見逃し方をすることがある。

へんな汗が背中を流れる。

「見直したらありましたね……」


これが本当にあるから怖いのだ。そして、このような見逃しを防ぐ方法も、いろいろと受け継がれてきている。

さっきの「ダブルチェック」はいいやり方だ。でもほかにもある。一人でできることがある。

「上から下、下から上とスキャンしたら、次は左から右、右から左へともう一度スキャンする」なんてのが、おもしろいやりかただと思う。

作家さんの中には、書き間違いをチェックするにあたって、横書きで書いたものを縦書きにして見直すと見つけやすい、みたいなテクニックを持っている人がいるという。なんだか似ているなあと思う。

あと、これはいかにも病理診断ならではなのだが、「標本を作り直す」というやり方がある。ガラスプレパラートをもう一度作ってもらうのだ。技師さんには申し訳ないが、細胞の切り口が変わるので、見え方がちょっとだけ変わる。すると、前回とは違った雰囲気の中で、見づらかった細胞が見えるようになったりする。

免疫染色を使う、という手法もある。でもこれはお金がかかるのであまり乱発はできない。



「ないと思ったけど、見直したらありました。」主治医も患者もずっこける瞬間だ。できるだけ経験したくない。でも、長く仕事をしていると、完全な見逃しまではいかなくても、ヒヤリ、ハッと、することはある。あぶねー! はままある。油断できない。慎まねばならない。

信頼できるかできないか

無数のスパムメールの中にどうやら大事なものも混じっていたようである。「スパムと思われるようなメールをおくるほうが悪い!」と思った。タイトルが英語で本文の書き出しも英語で、しかも差出人表示が知らない人で、じつはよく知ってる大学教授のプライベートメールアドレス、みたいなパターンは予想しようがないではないか。ぼくのせいじゃない。そして、結果的に、ぼくの立場がものすごく悪くなったので理不尽である。なぁーにが教授だよ! けっ! ごめんあそばせ!

ごめんあそばせ ってなんなんだ。あそばせ は遊ばせるってことなのか。語源検索に入る。「ごめんあそばせ 語源」→結果によるとあそばせ、は尊敬語で「しなさってください」だとそうな。いや、待て。そこは「してください」が正しいのではないか。しなさってくださいって日本語として破綻してるのでは? 気のせい? こうした言葉は「あそばせ言葉」と言われているとも書いてある。ほんとうか? 信用できない。丁寧で上品、という言葉を瞬間的にちぢめて「下品」に空目した。信用できない。

見間違いや空目による経済損失は専門家の試算によると年間5兆ドルだという。

こうやって書くだけでちょっと考えてしまうのが人間のつらいところだ。うそでもおおげさでも、まぎらわしいことでも、なんでもかんでもとりあえずいったん受け止めて信用してしまう。それがぼくを含めた多くの人間のかなしいところだ。今日、あなたの枕元に夢が降るでしょう。

ここまで5分。

いったん手を止める。

キータッチする指の、特に右手の薬指の爪がわずかにキーボードにひっかかるのが気になって爪を切った。

だいたい毎週爪を切っている。

ぼくの手の甲にはわりかし毛が多い。指とか。年齢相応にふしくれだって、指の関節の部分もだいぶ硬くなっている。見た目も肌質もだいぶ老いてきた。

それでも爪だけは頻繁に切るようにしている。

理由はキータッチのジャマだからだ。

でも、何度かブログに書いたことがあるかもしれないけれど、今でもちょっとだけ、昔から心に刻んでいることを思いながら爪を切っている。

元ネタは、『エルマーの冒険』だったろうか、もう忘れてしまったのだけれど、ある本で、主人公が祖母か誰かに、「爪はちゃんと切りなさい。誰かと話したり、握手をしたりするとき、相手に一番近づくのはあなたの爪なのよ。」と言うシーンがあった。ぼくはその場面の状況も、なんならセリフも忘れてしまっているので、今検索してもぜんぜん出てこないんだけれど、でもその「勘所」というか、「意気」の部分だけは40年くらい経っても覚えていて、爪を切るときに必ず「相手に一番近いところだからな。」と念じて切るのだ。

ほんとうはそんな本など存在しなかったかもしれない、あるいは夢で本物の祖母に言われたのだったかもしれないが、もはやそこはどうでもいい。爪を切ったあとにふと思ってこれを書き足した。息子はたまに夢に出てくるが、祖母はめったに出てきてくれない。これらはぜんぶ、信用できることだと思っている。

病理の話(842) 二人目の診断

病理診断は、見落とし、うっかりミス、報告書の書き間違いなどをふせぐために、「ダブルチェック」をする。

一人目の病理医が顕微鏡で細胞を見て、レポート(報告書)を書いたあと、それをすぐに電子カルテに送信して主治医たちに読んでもらうのではなく、いったん「仮登録」をする。

仮登録の段階では、主治医たちはレポート内容を読むことができない。

ここで、二人目の病理医が、レポートの文章をチェックする。これがダブルチェックだ。

チェックは1回目なのだからシングルチェックじゃないの? とか言わないでほしい。最初にレポートを書いた人も、仮登録を押す前によく「見直し」をしている。セルフチェック済みということ。だから二人目のチェックはダブルチェックと呼ばれる。


こうやって書くと、ダブルチェックはまるで、原稿の「校正」みたいだ。

ただし、二人目の病理医は別に仮登録されたレポートの文面や字面だけをチェックするのではない。

二人目もまた、顕微鏡でしっかりと細胞を見る。あらかじめ一人が細胞を見たから二人目はもう細胞を見ないとか、適当にしか見ないというのではなく、ふつうに診断のプロセスをもう一度くり返す。


とはいえ、二人目のほうが少しだけ早く見終わる。レポートの文章を書く時間がない分、はやい。プレパラートのどこに異常な細胞があるか、などのマーキング作業(水性ペンや油性ペンを使ってガラスの上にマークを付ける)なども、二人目はあまりやらなくていい。

その代わり、二人目の病理医は、二人目特有の「目線」で細胞を見る。

たとえば、箇条書きでさまざまな要素をチェックするタイプのレポートなら、表記漏れが起こりやすい部分というのはある程度決まっている。気を付けていてもうっかり書き漏らしたりする。

でも、そういう単純なミスの発見は、将来はAIがやってくれるに違いない。

書き間違いとか表現のおかしさよりも、もっと根本的な部分で、ダブルチェックをするべきだ。それはたとえば、こういうことだ。


一人目の病理医が「全力」で診断を出した。手を抜いたりとか、油断したりとかは、ない。それでも、誤診は起こりうる。起こってしまう。

「経験のある病理医が全力で診断をしたのに細胞の意味をとりちがえる」ときのパターンを、二人目の病理医は、頭に叩き込んでおくのだ。


1.細胞のようすが、いかにもある病気のように見えるが、じつは低確率で、その病気にそっくりの形状を示す「別の病気」ということがありうる。

2.細胞の変化が非常に微細・小範囲に留まっているために、気を付けていてもうっかり見逃してしまう。

3.レアな病気のため、知識が足りないために、そこに証拠があっても気づかない。

まとめるとこういうことだ。

「ミミッカー注意! 見逃し注意! 激レア注意!」

ミミッカーとはドラクエに出てくる「ミミック」を思い浮かべればわかるかもしれないが、「真似をするもの」という意味。見逃し注意はそのままだ。激レアもわかるだろう。

駅のホームで乗務員や車掌さんが、指さし確認をしてミスを減らすように、我々も、ダブルチェックのときには、「全力で診断した病理医がそれでも間違うポイント」を強めに意識する。

一人目からそれをやればいいじゃん、と思うだろう? やっている。やっているのだ。それでも間違う。一人目はどうしても自由演技になる。誰もレポートを書いていないところにフリースタイルで診断を書く。そのことにちょっとだけ頭脳を持っていかれる。負担を割く。すると間違うことがある。まれに、低確率で。

だから二人目はより、「誤診を前提とした」チェックをするのだ。いやらしいよね。減点法の採点官みたいだ。



ぼくは今、「一人目」も、「二人目」も担当する。やはり、「一人目」のときにはうっかり見逃したり間違えたりすることがあるし、そのことを元に「二人目」として他人のうっかりを拾い上げる。そして二人目としての経験を積んでもなお、「一人目」のときは誤診をしそうになるのだ。気を付けてはいるがやはり完璧には達しない。ダブルチェックはぼくらの命綱だ。ひとりで二人分考えられたらどれだけいいだろうと思うし、もしぼくの脳の中に、うまいこと二人の病理医を抱えられたとしたら、ぼくはきっと、同僚に「三人目」のチェックをお願いすることになるだろう。病理診断とはそういう部門なのだ。

もっこもっこ

病院の会議がはじまるとだいたい5分で寝てしまう。

入院患者の数がどうとか、地域からの紹介がどうとか逆紹介がどうとか、健全運営のために必要なことのほとんどは病理診断科のぼくにとっては全く関係がない……とまでは言えないが、ほぼほぼ関係がない話になるのは事実なので、ひとまず睡眠の時間にあてている。

寝ぼけながら参加している管理職の医師たちを見回していると、なかにはやけに熱心に病院の経営方針に口を出すタイプの人もいる。経営職でもないのになぜそこまで……とふしぎな気持ちになる。そういう人は、将来自分も開業する予定があって興味津々なのかもしれないし、そうではなくて単純にこういう会議でいきいきするタイプの人柄なのかもしれない。いずれにしてもぼくが全く気持ちを入れられないこういう場面で、水を得た魚になってくださる人のおかげで病院というどでかい企業は動いているのだから感謝こそすれ揶揄などしてはならない。ありがとう魚。おい、魚が行くぜ。大変な野火ですな、魚を向けて焼いたらどうです。張飛ってすげえよな。

会議から戻ってくると定時を回っていたのでここからは自己研鑽の時間である。当科の医師はみんな帰ってしまっておりだれもいない。じつにすこやかな職場環境だ。ここでぼくがちょっとでも働いていたらそれは「自己研鑽という名の下にやりがいを搾取してうんぬん!」と各方面から激ギレ込みで突進してこられる案件になるのだけれど、ぼくは今こうしてブログを書いているわけで、どう考えても過剰労働ではなくて自己をキュッキュと研鑽しているのである。思わず研磨の効果音を入れてしまったが研鑽というのはしかし不思議なことばだな。語源でも調べてみようか。研鑽の研究は研磨の研であり、まさにとぐとかみがくという意味だ。研鑽のさんは穴を開けるきりの意味のようである。つまりこれは木工なのだな。仕事が終わってからじっと考えながら自己研鑽をするというのはすなわち黙考して木工に勤しむということだったのだ。

研鑽するために必要なのは削っても穴を開けてもよい板を用意することである。厚みのある素材だから思い切り彫ることができるのだ。ペラペラのベニヤ板だと、ちょっと削っただけでバキッと折れてしまうだろう。若いときには自己研鑽なんてするよりもまずは素材の厚みをきちんと確保することが大事な気がしてならない。十分に肥え太ったものを伐採してもっこもっこと削ってようやく自分が仏像みたいに姿をあらわす。したがって業務終了後に金ももらわずに自分に向き合うのをやっていいのは私のような中年の特権である。若者は自己研鑽なんて生意気なことを言ってないで定時を過ぎたら映画をみるなりワインを飲むなりしたらよい。そのために必要なのは十分な給料だ。仕事のできない人間にこそたくさんの給料を渡してどんどん分厚くなってもらったらいい。ぼくみたいに仕事ができるようになった人間にはもはや給料なんていらないということになる。……なんだこの木工は。いびつすぎるぞ。捨てよう。黙考のやりなおしが必要である。あんなに寝たのにまだ眠たい。

病理の話(841) 病理プレゼンテーション法 草稿

今から書く内容がそのまま原稿に育っていくなんてことはまったくなくて、なんなら後日、本番の原稿「病理プレゼンテーション法」を書くときに、このブログ記事を参照することもおそらくない。

しかし、「今の段階で脳の中にあるものをただ出すとどうなるのか」、という仕事を自分の指に発注し、指から勝手に打ち出されていく文字をぼくの目が見ることで、その文章が自分にとって衝突する銃弾となるのか、それとも無風の温帯の空気なのか、そういうことを確認することは、やはりある種の下書きと言える。直接参照するわけではないが推敲はもうはじまっているのだと思う。


***


こんにちは、病理医の市原です。さまざまな場所で病理診断を解説する機会をいただいております。

本日は「病理プレゼンテーション法」ということで、プレゼンテーションを上手に行う方法をプレゼンするという、若干メタなことをやらせていただきます。

さっそくですが本日のお話しの結論は、「1カメ、2カメ、3カメを順番に意識することが肝要」というものです。また、途中に語ることになる、ちょっと覚えておいていただきたいお役立ちティップスとしまして、「メイリオ時代に用いるべきフォントはUD、UD時代が来たら游ゴシックにチェンジする」といったものを申し上げる予定です。

では順番にお話しいたします。

まず、プレゼンの序盤に「枕」を語るかどうか。その症例を語る上で必要な前提情報をシェアするかどうかという話についてです。病理解説においては、イントロの部分をねばっこく語っていると、あっという間に時間が足りなくなります。なのでやめたほうがいいです。病理解説はエンタメではありません。

「札幌の市原です。病理を解説いたします。」と自己紹介を4秒で述べた後、ただちに「本例の最終診断は○○です。」と、いきなり診断を述べることを強くおすすめします。病理解説において、あたかも探偵がじわじわと聴衆をじらしつつ犯人を追い詰めるように、所見を積み上げながら最後に診断を述べる方がいらっしゃいますが、あれはおすすめできません。よっぽどのストーリーテラーでないかぎり、聞いている人たちの集中は削がれ、「まるで試されているかのようだな……」と不快感すら持たれてしまいます。

まずは「結論としての診断」を述べましょう。その前に無駄に時間を使わないことです。消化管であれば、最初に診断名、取扱い規約事項などをコンパクトにまとめた画像を一枚提示すべきです。

ただし、ここで大事なことは、「結論としての診断」はなるべく早く述べるのですけれども、「そのプレゼンのキモが診断名であってはならない」ということです。序盤に結論を述べる、と言いつつ、じつは一番盛り上がるのはそこではないのです。犯人推理と病理解説とは違う。

聴衆の多くは、病理解説に、さまざまな「理論」を求めます。また、提示される「仮説」に魅力があるかどうかを吟味します。これはもう、無意識にもやられますし、意識的にもやられます。したがって、プレゼンのキモとは、その病理標本を見た病理医が、細胞と向き合って何を考え、どう考察して何を推論したのか、それが臨床医たちの見立てとどう合致したのか、どこか合わないところはあるのかという点にあります。究極的には、「病理医だけが解き明かせる何か」を聞く人たちに与えることができるかどうかがキモです。論説と仮説のわかりやすさと奥深さを同時に達成すること。これらに比べれば、診断名というのははっきりいって、「秒でさっさと語り終えておくべき前提」であり、つまりは「診断名こそが枕」なのです。ここを間違えてはいけません。

大事なことなのでくり返します。病理解説における「枕」は「診断名」です。

では診断を述べたあと、どのように病理プレゼンを展開していくか。「もう答え(≒診断名)はわかっちゃったから、あとはZoomを切ってご飯の準備だ」などと聴衆に思われないことが必要です。ですから、枕からすかさず、聴衆の興味を「最後まで引っ張るための強力なプレゼン」が必要になります。それはなにかというと、Google mapです。ちがいます。フィールドマップです。見取り図を出すのです。

残り時間、それは10分かもしれないし4分かもしれませんが、とにかく短いとはいえ研究会や学会の貴重な時間を、聴衆はみな、一人の解説担当病理医のいうことを遮らずに聞かなければいけません。解説者が場を独占する状態となるわけです。その時間に、何がどれくらい語られるのか、ということを、2秒あればピンとくるくらいのわかりやすい図で一瞬で提示します。「今からこの標本のこれくらいの範囲を語りますよ」ということが、一瞥しただけでわかるくらいの図がここでは必要です。診断名を述べるときなんてのはプレゼンに凝る必要はありません。聴衆の脳はすべて診断名に持っていかれるからです。はっきりいって画面のど真ん中に一行ないし二三行で診断を書けばそれでいい。しかし、「見取り図」を出す段階では、プレゼンのデザインがかなり重要です。画像の色味、矢印の数、フォントの種類など、思いっきり吟味します。むしろ文章は要りません。読んでいる時間で1秒経ってしまうからです。それではだめです。見取り図の段階で何か意味のある文章を5秒以上読ませたら聴衆の20%は脱落すると思って下さい。デザインされた「図解」によって、霹靂的に解説の全貌を感じ取ってもらいます。言葉を書くならそれは決定的な単語、もしくはキャッチコピーのようなものだけです。

芸術家でもデザイナーでもコピーライターでもないのにそんなことはできない! とお怒りの方に申し上げます。ここで病理医が出すべきは、「解説をするプレパラートのルーペ像」です。複数枚を解説する予定であっても、一画面にいっぺんに並べてしまいましょう。ただしそのデザインについてはいろいろと勉強して、一瞥して見やすい配置をきちんと工夫してください。写真のサイズ自体は、多少小さくて見づらくてもいいです。「見取り図」ですから。それをこれから順番に拡大していくのです。俯瞰から細部に向かって拡大をあげていく、あたかも日常の病理診断で、弱拡大から強拡大に向かって順番に進んでいくときのように、これからあちこちを拡大していくのです。そのようなメッセージを2秒で届けるということです。

そして、ここで聴衆を2秒で引きつけたら、はじめて自己紹介をしましょう。あなたの言葉はここから届き始めます。「診断名」を言った時点ではあなたの言葉は届いていません。解説がはじまったなーと思われた瞬間から、あなたの声質とかリズムとかに注意がそれはじめます。したがって、「見取り図」を提示したら2秒後には、聴衆をぐっと引きつける自分の最高の声を出す必要があります。もう診断名について語っているので、声出しの助走は終わっています。ノドがつぶれる心配はありません。ろうろうと、堂々としゃべりましょう。では何を言うか。

「それでは順に解説します。Aパート、Bパート、Cパートを、順番に弱拡大・強拡大と説明し、免疫組織化学をまとめてご説明したのちに、最後に臨床画像との整合性を確認します。」

これです。だいたいこうです。「見取り図」にマーカーで順路を示すように、手短に、よく通る声で、いつもよりも少し高いくらいの声がいいと思います、「時間的な見取り図」を一気にしゃべってしまいましょう。ここまでで一回も噛まなければ、残りの8分、もしくは3分はあなたの劇場となります。


***


このままいくらでも書けるがブログなのでいったんこれくらいにしておく。いろいろと思うところはある。ぼくって心根が軽薄なんだな、ということを、今日は思った。

ライブバイブ

原稿を書きながら耳で医者の話を聞いている。こないだ現地会場に出席した学会であるが、後日のオンデマンド配信分の金も払っていたので、聞きに行けなかった会場のセッションを流しっぱなしにしている。デュアルモニタの右側が学会動画、左側が原稿。ときどき気になるものがあったら手を止めて右側に目をやる。単位は十分足りているので、どの動画も最後まで見る必要はない。とにかくおもしろそうなところを流しておき、これだと思ったら見る。


しゃべり方がじょうずな人がいると、おおっと思って目を奪われる。耳だけで十分情報は入ってくるが、うまく言葉を使う人の顔はきちんと見てみたいし、これほど整然としゃべれる人ならさぞかしパワポのプレゼンもきれいだろうと期待する。結局、ラジオ的には聞かずに画面に向き合うことになる。しゃべるのがあまり上手ではない人だとプレゼンもたいしたことないような気がして、なんとなくラジオ的に、バックグラウンドで流しているうちに話が終わる。



まとめると、「しゃべりがうまいとプレゼンをちゃんと見る。しゃべりがへただとあまり見ないで聞くだけにする」。なんだか逆の気もするが、自然とこうなっている。



実際には、ぼそぼそ平板に、つっかえつっかえしゃべる人の中にも、とんでもない美しいデータと画像を出してくる人がいる。けっこういる。そういう人を見つけ出して話を心ゆくまで聞くのが学会の楽しみのひとつではないかと思う(性格悪い楽しみ方だが)。しかし、オンデマンドではなかなかこれがうまくいかない。



なぜだろう。PCの前で学会を見ていると、つい、「最初の30秒がつまらないともうだめ」みたいな雰囲気に満たされてしまう。YouTubeの動画の評価とかといっしょになる。学術の話なのに。イントロで重要なことが語られるとは限らない、結論からディスカッションにかけてが盛り上がるであろうアカデミックな話なのに。オンラインで、オンデマンドで見ていると、なんだか「プレゼンの上手さ」についての期待がいつもより高まってしまう。講師をYouTuberと同じ土俵に乗せてしまっている。



現地会場だとそうでもない。映画館のような椅子に深々と身を沈め、目の前で次々と展開されていく演題を見ているとき、スマホを開きたくなるわけでも、別の動画を見たくなるわけでもなく、ただスクリーンをずっと見続けている。それにあまり抵抗を感じない。ときに眠たくなることもあるけれど、目をあけたらまだ学術をやっているのが気持ちいい。そうやって、ぼそぼそぶつぶつ、しゃべる人の中に、本物の学問の輝きを見つけることが必ずある。それが学会の良さだ。現地会場だけの良さなのかもしれない。オンデマンド? Netflixみたいなもんだ。つまんなかったら即チェンジ、もしくは単位のために流しっぱなしにしておく。それ以上にも以下にもならない。



ネット、AI、なにについても言える。こんなに使えないなんて。めちゃくちゃ使ってるけどさ。こんなに届かないものだなんて。すげえ新しい世界開いてるけどさ。ここまで、リアルを補完してくれないなんて。別のものを外付けしてしまっているけどさ。体を失って生きる時代が来るかと思ったけど、これじゃあ、望み薄だと思う。身体性がどうとか哲学者が言うのもわかる。ていうか、なんだろう、肌が空気の振動を感じ取ることって、こんなに大事なことだったんだな。耳だけで講演を聞いている。肌が聞いていないということだ。