2021年10月6日水曜日

病理の話(583) 車掌さんの指さし確認と同じで

病理診断をする際に、ぼくが個人的に気を付けていることを書く。あくまでぼくのやり方なので「こうした方がいい」と他人におすすめするほどではないのだが、ひとつの参考に。


ぼくはどちらかというと本を読むほうの病理医だ。同業者の中でとりわけいっぱい本を読んでいるわけではなく、「読む人の中では平均的」な方だと思う。

多くの教科書に目を通すが、とりわけ各種のがんの「取扱い規約」と、「WHO分類(通称blue book)」、そして「腫瘍病理鑑別診断アトラス」は新刊が出るたびになるべく全部読むようにしている。ぼくの所属する病院には脳神経外科がないし、眼科の手術もあまり行われないので、脳腫瘍と眼腫瘍だけはあまり読まないのだけれど、ほかはだいたい読んでいる。

ただし、このとき、「印象は心に刻むが項目の暗記はしない」ことをあえて心がけている。どこに何が書いてあるかは覚えるけれども実際に書いてある文言すべてを記憶しようとはしない、と言い換えてもいい。

とは言え、読んでいるとだいたい覚えてしまうものだ。勝手に身についてしまうものはしょうがない。記憶しておけば間違いなく仕事の役に立つのだから無理して忘れようとも思わない。ただしここで、とても大事なことがある。それは、

「暗記に頼って仕事をしない」

ということだ。



Twitterに「病理医をめざす医学生の毒舌な妹bot」というアカウントがある。おふざけのアカウントなので温かい目で見ていればいいのだけれど、まれにこのようなことをつぶやくことがある。



これには解説が必要だろう。大腸癌は病理診断をする頻度が多い。しょっちゅう目にする大腸癌の診断をするたびに、本棚から「大腸癌取扱い規約」を引っ張り出してきて、首っ引きでないと病理診断を進めることができない「お兄ちゃん(病理医を目指す医学生)」を見て、妹が「頻出問題なんだから、そろそろ暗記したら?」とたしなめているのである。

言いたいことはわかる。しかし、ぼくはこの妹の考え方には反対である(botにマジレス)。見慣れた大腸癌だからといって、「取扱い規約を開かずに診断を終えてしまう」のは危険だ。「お兄ちゃん」は病理医になってからも、恥じることなく何度も何度も大腸癌取扱い規約をひもとくべきだと思っている。若手にも実際にそのように指導している。


書いた物が患者の一生を左右する公式書類、病理診断報告書を書く上で、「取扱いの詳細を暗記したヒト」が診断することはリスクだ。自分は暗記しているから大丈夫、という人は、「自分の能力を過信して万が一の覚え違いを防ごうという気がない」し、「定期的に復習をしていない」と告白しているようなものでもある。



機動警察パトレイバーのコミックス版で、熊耳武緒(くまがみたけお)巡査部長がレイバー免許の試験勉強をしていて、泉野明(いずみのあ)(主人公)を驚愕させるシーンがある。

野明「熊耳さん、レイバーの免許持ってましたよね?」

熊耳「慣れでレイバーの操縦をしたりしないように、こうして年に一度は勉強し直すの。

この精神だ。これこそが、多くの人の命をあずかる人間として適切だとぼくは思う。まあ野明もめちゃくちゃびっくりしてたし、理想論に近いけれど、これくらいの気分でぜんぜんいいと思う。



取扱い規約は臓器の数だけ存在するが、ぼくが常時使っているものに限ればせいぜい20種類程度だ。これらを暗記することは、ぶっちゃけさほど難しいことではない。しかし、「全部暗記しているから本を開かなくても診断ができるし、そのほうが早い」と油断して、ある一人の患者の人生を狂わせてしまうことは絶対にあってはならない。

だからぼくはそもそも「暗記をしようと思わない」。本が届いたら通読して全貌を把握するし、毎回調べに行けばいやでも覚えてしまうけれど、その暗記力に頼らない。



プラットフォームや電車の中で、車掌さん的な人が安全確認のための指さし確認をする。あれは「万が一にもミスを起こさない」という気合いの現れだ。「毎日やる作業だから完全に暗記している、指なんか指さなくても目でみれば絶対に大丈夫」と慢心した瞬間からミスの芽が育つ。指さしはシートベルトでありワクチンでもある。本人を守るだけではなく、業務の対象である顧客みんなを守っているし、周りで見ているほかのスタッフを「あいつは今日もしっかり基本通り仕事をしているな」と安心させる効果もある。やらない手はない。

病理医が仕事の際に必ず本をめくるのは、「覚えているけれど万が一がないように、念の為」であり、「診断を契機に新たに勉強し直すため」でもあり、「周りで働いているスタッフに、この病理医はいつもしっかり原典に基づいた診療をしているとアピールするため」でもある。

というわけで、病理医を目指す医学生の妹botは兄の慎重さを理解できていない。まあ、妹なので(本人ではないので)、それくらいの誤認があってもしょうがないし、かわいいものだと世のお兄ちゃんたちは思うのかもしれないが、ぼくは正直、「妹だからかわいい」というレッテル貼りすらどうでもいいので、間違えていることを言う妹に言葉がきつくならないように気を付けながら「それは違う、患者のことを思うならばお兄ちゃんが暗記しているかどうかなんて些細なことだ。何度も見直しながら丁寧に診断を仕上げることのほうがずっと大事だ。そう思わないか?」とやさしく、しかし毅然と対応することこそがかっこいいお兄ちゃんのあるべき姿だと思う。