> 市原様がお考えになる「言葉」がもつ力とはどのようなものでしょうか。
力があるかどうかはともかく、誰かが何かを選択する参考になればよいな、と思ってこれまで言葉を使ってきました。ただし、そもそも、人ってそこまで選択して生活しているんだっけ……ということが最近気になっています。
生きることの大部分が「選択のくり返し」だと思い込んでしまうことは、広告側のしかけた優しい嘘の影響ではないでしょうか。あるいは、人によっては「かまいたちの夜」あたりがきっかけかもしれません。選択肢を選ぶことでエンディングが変わる、それが人生だ……というのは、だいぶGPUの描出スペックが粗い。ドット絵時代に限られたロムの中に詰めこまれた「人生の縮図」のイメージが、未だに多くの人を縛ってるんじゃないか、と思うことがあります。
それこそ、ものを買う、選挙で投票をする、結婚相手を選ぶ、みたいに、「選ぶ」という行動に人生の大事なシーンがある、みたいな。
でもほんとうは、私たちはそれほど毎日何かを「選んで」いるわけではないんじゃないか?
自分の意志は自分だけじゃなく、人間関係、立場、職務、何かを大事に思ってきた積み重ね、みたいなものによって、半分能動、半分受動みたいなかんじで組み上がっています。それほど複雑な自分の前にあるのがいつも「初期ポケモン3体」で、この中のどれかを選んで冒険をはじめなさい、みたいな選択肢がいつもいつも提示されるわけがない。
本当に毎日やっているのは、選択ではなくて、どちらかというと、微調整というか、手直しというか、サイズのお直し、フィックス、だと思います。
服を買うときに大事なのってその服のポテンシャルだけじゃないでしょう。自分がすでに持っている服との相性、バランス、その服をどういうシーンで着るべきかというイメージ。こういうのを全部考えた上で「選択している」と本人は思っているし思いたいのだろうけれども、実際には、選択肢というのはそれほどドラスティックに、火のポケモン水のポケモンみたいにきれいにわかれているわけではない。
火のポケモン3体の中から選んでくれ、みたいな話だと思うんですよね。もっと細部の好き嫌いで「選んで」いる。
となると……話を戻しますが……。
「言葉が持つ力」によって、誰かが何かを選択する参考になればいい……とこれまで考えてきたのは、ちょっとずれていたのかもなーと最近思っています。「言葉」によって誰かの微調整を少し楽にする。「言葉」によって誰かが行動をフィックスするときの手間やおっくうさが少し解消される。そういう「力」のことをきちんと考えなければいけないのではないか。
AとBならAを選択してほしい、だからAの魅力を言葉で余すところなく伝えるぞ! というのは、シーン全体が見えていないというか、それじゃいくら言葉を使っても「現実に微調整をくり返しながら毎日を乗り切っている多くの人びと」には現実的にあまり役に立たないんじゃないかな、なんてことを考えています。
(「宣伝会議」のインタビュー用に考えていたことを、ぼくがインタビュー前にあらかじめ文章にしておいたものの。これをふまえてしゃべった内容はもっといっぱい様々な方向に転がっていった。そのうち掲載されます。)