瞬間的に通信速度が低下していたらしく、ブログ投稿用ページを開いたら多くのアイコンが表示されずに「□」になっていた。
昔、たしか『火の鳥』で、事故で体を機械に取り替えた主人公が見る風景がぜんぶ「カクカク」になってしまう、という話を読んだ覚えがある。心が機械に近づいてしまうと、有機物(タンパク質を含む生命)がすべて無機物(金属など)に見えてしまう、という意味の描写だったのだろうな。今思い出しても(一部うろ覚えではあるけれど)とんでもない想像力だ、いったいどんな「経験」を経るとそんな情景を考え付くのかと、ため息が出る。
さてこのような描写は本当に「経験」に裏打ちされたものなのだろうか、という話。
手塚治虫のすさまじい描写というと『アドルフに告ぐ』の巨大ドクロ的コマであるとか、『火の鳥 鳳凰編』で我王が(これもすばらしいネーミングだが)火の鳥のシルエットをバックにわかったわかりましたと悟得するシーンであるとか、いわゆる抽象表現のほうをすぐに想起してしまうのだけれど、先ほどの「無機物に見える」のように抽象どころかある意味具体の極みだな、という描写もあるから平伏するしかない。
手塚治虫はべつにブログをやっていなかったからぼくの今見ているような「□の並んだ風景」のような気づきがあったわけでもなかろう、というかそもそもあの時代にはインターネットがない。小説や映画の元ネタがあるのかもしれないが、あれだけ多作で忙しかったマンガ家が果たしてどこまで「インスピレーションのための取材」をできていたものか。
「クリエイティブのためにはさまざまな作品をどんどん読んで目を養うべきだ」という文章を書く人を、そろそろ信用できなくなってきた。猛烈な量の作品を読んだ、映画を観た、旅行をしたというわりに、書くことがみんな一緒だからクリエイティビティを感じない。説得力がないのである。「自分はクリエイションをさらさらっとやれてしまうから時間が余っており、稼いだカネもあるから、いっぱいいろんなコンテンツを体験できてすごいだろう、うらやましいだろう」というマウント以外に内容がないのであきれてしまう。そもそも、ほんとうにさまざまな表現に触れたのならば、そこから立ち上がってくる「その人のシルエット」がないと本来おかしい。猛烈な量のテクスチャがキャンパスにコラージュされていく中で、撥水加工をされたエンブレムのように、周りの喧噪に飲み込まれないぽかんと空いたスキマがあって、その内部に熱ばかりが蓄積されていくのだ、ぼくはそこに目が釘付けになって、空洞の向こうから遠雷のように腹に響く、誰に借りた言葉でもないその人自身の心の奥底から発せられる「呼びかけ」みたいなもの、そのようなものが一切感じられない「クリエイティブのためにはさまざまな作品をどんどん読んで目を養うべきだ」にはうんざりしている。
逆に、手塚治虫にしろ、藤子F不二雄にしろ、「マンガを描く以外の作業ができないほど忙しかったはずなのに生涯にわたってアイディアを出し続けた人」の脳にぼくは強烈な吸引力を感じる。もちろん彼らも若い頃から旅をしたりSFを読んだり、先行者たちのすばらしいものをいっぱい摂取していたのだろうけれど、もっともいい作品を生み出していた全盛期に「クリエイティブのために」コンテンツを取り込むことをやっていたようには思えない。脳内に若い頃の経験をいくら貯金していたとしても、仕事を続けている間にとっくに枯渇していただろう。なのに彼らはクリエイティブであり続けた、それはいったいどういうことなんだろう、心のどこに潜り込めばあんなに誰も知らない言葉を掘り出すことができるのか?
映画をいっぱい観れば役に立つ、なんて気分で映画を観ている人とは話が合わない。脳だけで旅をして、妄想を妄想のままに留めずに自分の皮膚の外縁から外界に滲み出させることに全力でいる、そういう人たちの言葉のほうがふくよかであると感じる。よいコンテンツを経験することを「出力のため」だなどと、もし本当にそう考えてやっているのだったら、その人はもはやクリエイティブなことはできていないしこれからもできないと思う。心が求めている以外の理由で経験を積まないでほしい。積んだ経験が生み出した表現だなどという恥ずかしいことを言わないでほしい。脳はもっと何億倍も複雑な畳み込み式回路だ。「○○のために」という呪いの言葉に囚われてはいけない。やりたいからやる、やるべきことをやる。「のために」の向こう側で何かをインプットし、「のために」を蹴り飛ばしながら何かをアウトプットするのだ。