2021年10月26日火曜日

病理の話(590) アンケートのその他欄を大事にしましょうねという話

病理診断においては、顕微鏡を見て細胞のあれこれを確認したあとに「病理診断報告書」を書く。これ、慣例的に「レポート」と呼ばれることが多い。英語に忠実に読むならば「リポート」のほうが正しいのだろうが、医療現場ではもっぱらレポートと発音される。ちなみにreportをドイツ語読みするとレポートになるからその名残なのかもしれない。最近の医者が使うドイツ語なんて「カルテ」くらいだと思っていたが、たぶん、まだあったね。

レポートの書き方についてはいろいろと流儀がある。ただし、なんでも好き勝手に書いていいわけではない。たとえば「この臓器のこのタイプの癌だったらこのような項目を穴埋めしなさい」という統一した基準がある。あまり実際の例を挙げるのはよくないのだが、さすがに具体的に言わないとわからないだろうから、以下に軽く実例を出す。


<例1:胃癌>
・切除方法
・部位(長軸方向)
・部位(短軸方向)
・肉眼形態(隆起しているか陥凹しているかなどを決まった書き方で)
・病変の大きさ
・組織型(※)
・がんがどれほど深く壁の中に潜り込んでいるのか
・がんがまばらに染み込んでいるか、カタマリになっているか
・リンパ管や静脈といった細かい管にがんが入り込んでいないかどうか
・消化性潰瘍の合併があるか
・がんが採り切れているか
・リンパ節に転移があるか
・ほかの部位に転移があるか
・手術の際に行った「お腹の中を洗った水」の中にがん細胞が紛れていないか
・ステージング(病期)


<例2:皮膚癌――の中でも特に有棘細胞癌や基底細胞癌の場合>
・部位とサイズ
・病変の境界がはっきりしているかあいまいか
・初発か、再発か
・分化度(※)
・特殊な組織型(※)
・神経や血管の中にがんが入っていないか
・どれくらい深くがんが染み込んでいるか
・腫瘍の厚さ


だいたいこのようなかんじで、場所や病気の種類ごとに、箇条書きでチェックする項目が変わってくる。

でも、このような、アンケート用紙にチェックを入れていくように穴埋めだけしていればレポートが完成するかというと、そうでもない。

アンケートだけで仕事になるのは、日によるけれど、病理医が一日に診断する量のうち、4~7割くらいだ。少ない日でも3割、多いときには6割くらいの症例は、アンケートの「その他欄」にいろいろ書き込まなければいけない。


なぜ「アンケートのその他欄」がだいじなのか?


それは、ある病気が示す像……病像……が、必ずその人固有のものであるからだ。われわれは常に、ある病気をどこかに分類して、それに応じて治療を選ぼうとするのだけれども、世に同じ顔をした人が基本的にいないのといっしょで、「同じ顔付きをした病気」もまた存在しない。一期一会のくり返しである。

もちろん、治療や対処方法は無限に存在するわけではないから、どこかに落とし込まないといけない。でも、その「落とし込み」は科学が進歩するごとに少しずつ変わっていくので、注意しなければいけない。

たとえば、むかしは「風邪」といったらいろいろな概念を含んだ。鼻水が出ても風邪だし、喉が痛くても風邪だし、頭が痛くても風邪だしお腹をこわしても風邪と呼んでいた。しかし新型感染症がうるさい昨今、「風邪」といってもいろいろあるということは周知の通りである。インフルエンザと新型コロナウイルスとそれ以外のウイルスによる風邪とではすべて対処方法が微妙に異なるだろう、学校を休む期間だって違う。科学がすすむと、病気の分類はより精度が高くなる。

これといっしょで、たとえばかつて大腸で「充実型低分化腺癌」と呼ばれていた病気の一部は、今は「髄様癌」という別の名前が付けられることがある。名前が変わっただけならばさほど影響はなさそうだけれど、じつは髄様癌と名付けられる病気はほかの病気と違う性質を示すのではないかと言われ始めた。

このとき、たとえば20年前に診断した大腸癌のレポートに、ただアンケートの穴埋めをしただけで

□高分化型
□中分化型
□低分化型(非充実)
☑低分化型(充実)
□その他(具体的に:       )

と診断してしまっていると、これが髄様癌なのかどうかはまるでわからない。もう一度プレパラートを見直さないと確認ができない。

しかし、病理医が勤勉で、アンケートの「その他」欄に、以下のように書いてあると……

□高分化型
□中分化型
□低分化型(非充実)
☑低分化型(充実)
□その他(具体的に: 腫瘍胞巣は充実性で胞巣内部にTリンパ球の浸潤が目立ち、病変から離れた周囲腸管内にCrohn-like reactionを伴っている。)

これは後に見出された「髄様癌」だろうな、ということが、その他欄を見ただけでわかるのだ。





病気の本質を科学が常に言い当てているとは限らない。科学というのは常に進歩し続ける性質のもので、ある時点で用いている「科学的な分類=診断」は、未来には必ずより適切なかたちで更新される。これを「昔は間違っていた」という意味でとらえては不正確であり、常に最新のものが一番「本質に近づいている」と考える。詭弁のようだがここをしっかりわかっておく必要がある。

そして、「診断は古びるが、所見は古びない」。アンケートの分類項目をあとから変更すれば、アンケートの大半は無効になってしまうだろう、しかし、「その他欄」に書かれた内容には影響しない。その他欄に細かく記載のあるアンケートは何年経って見直しても意味を取り出すことができる。病理診断レポートでも、それと同じ事をやっている。その他欄に何も書かない病理医は瞬間に生きている。……今のは一部の病理医に忖度しただけで本当はこう言うべきだ、「その他欄に何も書かない病理医は未来に残せるレポートを書く気が無い」。