けん玉が得意な人に「けん玉が得意だからと言って偉いわけじゃない」といちいちつっかかってどうする。油絵を趣味にしている人に「油絵以外にも人生には大切なことが山ほどある」と説教するなんて野暮だしかわいそうではないか。
それと同じように、勉強ができる人、学歴が高い人に向かって「学校の成績がいいからって偉いわけじゃない」とか「勉強以外にも人生には大切なことが山ほどある」と言うことは嫌がらせだと思う。「頭の良さが学校の成績だけで決まると思うなよ」の一言が持つ暴力性に自覚的でありたいといつも感じる。多くのハラスメントが次々と糾弾されていく中で、「演算能力が高いこと」や「記憶力が高いこと」は、いまだに茶化してもいいもの、叩いてもいい存在だと思われているように思う。
この話をすると「弱者が強者に立ち向かうのはいいことだ」というピントのずれた反論がくることがある。問題はそこにあるのではなく、そもそも、彼我の間に強弱を設定して高低差ありきの議論をすること自体がくだらない。弱い者が強い者を引きずり下ろすことは、強弱を入れ替えて弱い者いじめの構図を保存しているだけだ。
……という話も、きっと、哲学や倫理学の世界ではすでにトピックスになり終えたものなのだろうな、という予感はある。「その話もうやったわ」みたいなことがいっぱいある。先人達が議論し終えたのになお、現場レベルで解決がなされていないということは、構造的にこの問題は解決不能なのかもしれない、という気もする。あるいは、解決することでほかの問題がむしろ大きくなる、という類いの話なのかもなと思う。
人間には、自分を弱い側に置いて、高低差をしっかり意識してから強い者の側を攻撃するという「指向性」がある。文字にするとおぞましいが、克己の物語、逆転の物語、革命の物語、これらには本能を悦ばせる何かが潜んでいるように思う。「そんなことをして何になる!」とまっすぐ突っ込むことは、半分合っていて半分間違っているのだろう、「ストレス解消になる」という理由に反論するのは思った以上に難しい。
正直に書くが、ぼくは叩く側に回った自称弱者をあさましいと感じる。「弱者」というポジションを受け入れたからには強弱の論理を是としたんじゃん、という気持ち。「弱者」と名乗ることで逆説的に強者の存在を盤石にしちゃってるじゃん、という感情。このように、弱者を名乗る人たちを攻撃しはじめている自分に気づいてはじめて構造が回る。叩いてはだめなのだ。怒ってはだめなのだ。なじってはだめなのだ。これだけわかっていてもなお、心の襞の裏から飛び出してくる「自分のデコボコのデコをどこかにぶつけ、ボコで何かを受け止めたい感情」を抑えられない。そういうことに自覚的でありたい。何かをがまんしてその先にもう少しいい風景を見たい。このように書くとまた、「がまんできない人もいるんですよ」という叱責が飛んでくる。