2021年10月7日木曜日

三次元の創作

15日間の期限をもらった再校ゲラチェックを一晩で終わらせた朝、世の中的にはもう少し時間をかけて見せたほうが編集者に誠意が伝わるのかもしれない、と、誰のためにもならない忖度が、眉間のあたりを横切っていく。仕事が早すぎるとかえって疑念を抱かれることがある、今日書くのはそういう話だ。


「もっと時間をかければいいものになるはずだ」という呪いがある。

推敲は終わりがないと言うタイプの人が書く小説や論説は、たしかにぼくの書く物よりも読みやすい。「時間をかけただけいいものが作れるタイプの人」が世に存在することは間違いない。しかし、これは「締め切りが守れない人」とおなじで、気質の一種であり、すべての人に等しくあてはまるものだとは思わない。

一方のぼくは「締め切りより早く終えないと落ち着かない人」である。他人からいくら「もっとじっくりやりなさい」と言われても心に響かないし、時間をかければかけただけ書きたかったメッセージがぼやけてにじんでいくような感覚がある。

もちろん、「なんとなく書きたかったこと」よりも、「誰かにこのように読ませたいこと」のほうが大事なシーンというのはとても多いので、時間をかけて「正しく直す」のが必要なときにはそのようにする。しかし、「正しさの先」を求められているシーンでは。時間をかける意義をあまり感じていない。



ところで次に待っているゲラは(初校だが)締め切りがなんと4か月後である。いくらなんでも長すぎるだろうと思わなくもない。しかし、こちらは共著で、全員が全文をチェックする形式なので、これくらいバッファ期間を長く設けてもよいという判断だろう。

いつものようにゲラチェックをはじめた。おそらく明日にはすべてのチェックが終わる。早すぎます、と言われてもかまわない。ぼくにとってはそれが一番クオリティの高い仕事だと思うからだ。それに、Google documentで編集提案をするスタイルだから、4か月経った時点であらためて一晩かけてゲラを見直すこともできる。当然そのころには、「あのとき完璧に見直したはずだったけれど今となってはやっぱり直したい部分」というものも見つかるに違いない。それはそういうものである。しかし、決して、「じっくり時間をかけたからできた修正」だとは思わない。思えない。4か月経ってぼくの頭の中から原稿の内容が完全にすっ飛んで、読者の気分になったからこそ気づける岡目八目が、「じっくり丁寧に仕事をすることでブラッシュアップされていく感覚」と同じだとは、ぼくには思えない。


多くの著者はそんなこと承知で、いかに締め切りぎりぎりまでに自分の目と脳を他人のものにすげかえて、原稿を読者目線で読んで直すか、みたいなことを必死でやっているのかもしれない。そこが職業作家や職業ライターとぼくとの埋まらない差なのではないかと思う。

でも、究極的なことを言うと、時間をかければどうにかなることや、真摯に努力すればたどり着ける場所に、ぼくは内心、奥底の部分であまり魅力を感じていないのかもしれない。

ぼくは自分のすべてを努力で作ってきた人間である。「自分の努力でどこまでのものができるか」に対して最後の最後で信用を仕切っていないのだと思う。かけた時間とは関係なく、注いだ努力とは関係なく、一晩の気まぐれな没頭の後に偶然輝いた芸術作品のようなものに強烈な色気を感じる。毎日あらゆることに長時間の努力を注ぎ込んでいると、執筆という世界でだけは刹那の燃焼のまぶしさに頼ってみたい。スジは悪いが筋の通った話ではあると思う。書いてみて、わかる。なるほどそういう反骨なのかとわかるところがある。