2021年10月11日月曜日

共感の時代

耳の裏が痛い、マスクのヒモのせいだ。しかしこれでも慣れた方である、最初は一日中マスクしてるなんて、耐えられないと思っていた。


……今のは「共感を得る文章」に入るだろうか?


このご時世だ、多くの人が同じようにマスクによるダメージを経験していると思う。でも、「同じような経験をしていればいつも共感が得られる」とは、じつはあまり思わない。


「高校受験って大変だったよねー」みたいな話題で盛り上がる大人がほとんどいないのといっしょだ。多くの人が経験している内容は「当然」なので、かえって共感の波を生まない。「そりゃそうだ」とばかりに、凪ぐのである。


では、共感を得る文章というのはどういうものか。

「高校受験大変だったよねー」ではなくて、「小学受験大変だったよねー」のほうではないかと思う。

ぼくは小学校も中学校も受験していないけれど、おそらく、ネットでより多くの共感を得るならば、「小学受験」の話をしたほうがバズるだろうなーという直感がある。


人の間に広がっていく「共感」というのは、どちらかというと、「ぎりぎりマイノリティ側」の人たちが、「あったよねー」「ねー」と目線を交わし肩をたたき合うときに生じる。この話題はできるだけ拡散しないと人びとに届かないだろうという焦りがリツイートの背中を押すし、「そんなの経験してねーよ」という反論が炎上商法と同じように宣伝効果につながる。


したがって、冒頭のぼくの文章を、たとえば、


耳の裏が痛い、医療用マスクのヒモのせいだ。しかしこれでも慣れた方である、最初は勤務中マスクしてるなんて、耐えられないと思っていた。


に変えることで、ツイッターではより多くのRTといいねを集めることができる。


これが「共感」の正体……と言うと、言いすぎだけれど。




そして、だからこそ、「共感ツイート」からは距離を置いた方がいいんじゃないかな、少なくとも自分ではあまり共感でRTしてもらうようなツイートはやめておこうかな、なんて、じわじわと後ずさっている。