2021年10月12日火曜日

病理の話(585) 当院における病理医リクルートについて

今がぼくのキャリアのピークだなと思うことは多い。仮に今、ぼくより若い人(40歳くらいまで)がうちの病理で働き始めたとしたら、とても楽だろう、なぜならすでにいるぼくらがほとんどの仕事をやってしまうからだ。つまりは自分の好きな量・好きなクオリティで診断や勉強をすればいい、いつまでそうやっていられるかというと、ぼくがピークアウトするまでだ(あと10年くらいだと思う。それまでの間にさらに人を集めて仕事を薄めておけばその後も楽な暮らしが待っている)。

なお、ぼくより勤務年数がぼくより多い人(18年目以降)だとそう簡単でもない。当院は単純に医師免許をとってからの年数で職位が決まるので、当院に来るなり要職に就くことになる。するといくらぼくらが仕事をできるとは言っても要職なりのデューティをこなさなければいけないからそこまで楽ではないかもしれない。逆に言えば、後から入ってもいきなりぼくを追い抜いて主任部長になることができる。これをひとつのメリットと感じる人もいるだろう。先にいる人にでかい顔をされなくてもいいというのも大学と違う市中病院のメリットだ。病理医にとって「大学を出て市中病院に勤める」というのは、臨床医が「市中病院を出て開業する」のと似たメンタルで行うべきことである。周りに病理医が何人いても一国一城の主を気取って差し支えない。経営の苦労がいらない分、開業するより楽だと思う。


自分にマッチしない量のノルマをこなさなければいけない環境、そういう時期が人生に必要だと考えている人はけっこういる。しかしはっきり言って、脳だけで働く我が仕事に必要なのは、そういった精神論的修練ではなくあくまで構造的に研ぎ澄まされたトレーニングである。冷徹に言うならば、「人から積まれたノルマが多ければ多いほど修業になる? そんなに甘い世界じゃないよ」ということだ。各人の脳に合わせたオーダーメードな鍛錬じゃないと、病理医の能力はうまく伸びない気がしている。毎日何百枚もプレパラートをひたすら見ることが能力の底上げになるタイプの人と、ならないタイプの人がそれぞれいる。教科書をいくら読んでも頭に入らないタイプの人に教科書を読ませてもだめだ。人と会わずに自分の世界に没頭することで、かえって外の世界に羽ばたいていくタイプの人もいるし、有給を減らさずに職務として出張しまくることでどんどんネットワークを広げて優秀になるタイプの人もいる。職場から与えられた業務のノルマなんて、修業の足しになるかどうか不定なのだからそこに頼ってはいけない。診断件数を用いて勉強したければいくらでも診断すればいいし、そうじゃないと思うならぜんぜん診断しなくてもいい。ただしぼくと同じキャリア年数のときにぼくより優秀でいてくれる必要がある。そこは中庸な目標として設定してよいのではないか、と自分の能力を客観視して普通に考える。


とはいえ札幌の市中病院だ、ここでキャリアを終えるのはちょっともったいないな、と感じる人も多いと思う。ぼくはたまたま「どこにいてもキャリアを広げるネットワーク構築力が高いほうの人間」だったのでこの場所にマッチしているけれど、大学のお膝元で多くの偉い人と直接顔を合わせないと自分の世界が閉じていくと不安になるタイプの人が多いことはよくわかる。そうでなければうちのような素晴らしい職場環境にはもっと人が詰めかけていることだろう、まあ、ここだけの話、詰めかけた人びとがあまりに若いと「あと10年くらいは大学や研究機関で修業したほうがその後の可能性が広がるかもしれないですね」と心を込めて説明してしまい、その話を真に受けて関東や関西のどでかい施設に飛び立っていった人たちが数十人いるのだが、つまりはぼくが「うち? 大歓迎だよ!」とやっていればこの10年で40人くらいがうちの病理診断科に勤めてくれていたはずなのだ。リクルート失敗の責任は現主任部長にあるということである。