2021年10月28日木曜日

病理の話(591) 色あせるものと色あせないもの

患者から採取された検体の話。


たとえば胃がんの手術で胃を切ったり、肝臓がんの手術で肝臓の一部を切ったりしたあとのことを考える。


切った臓器はフニャフニャだ。そのまま保存すると劣化する、というか、いやな言い方をすると腐る(細菌やカビなどが繁殖する)。そこで、後々まで見返せるように、「固定」という作業をする。


これについては昆虫の標本だとか獣の剥製(はくせい)を思い浮かべてもらうといいかもしれない。品質を長く保つにはケミカルな処理をする。人間の臓器であればかの有名なホルマリンを使う。


現在、病理検査室で用いているホルマリンは10%緩衝ホルマリンという。詳しい話はしないが、この調合が一番いいとされている。何にいいかというと、「臓器の中にある細胞の、さらにその中にある遺伝子の情報までも保存しやすい」のである。病気になった臓器をとってきた際に、そのカタチだけ保てばよいというのであれば、鹿や熊の剥製みたいにすればいいのかもしれないが、ぼくたち病理医は臓器を外から見るだけで診断するわけではない。


細胞の中にあるDNAやRNAといった微細で繊細な物質が、経年劣化しないように。あとから遺伝子の検索ができるように。そこまで考えて、固定をする。


もっとも、ホルマリンが無敵なわけではない。5年も経つと劣化は避けられない。10年経つと遺伝子の細かい解析は厳しくなってくることが多い。そこで、病理ではさらに特殊な保存方法を加える。


ホルマリン固定標本の一部を切り出して、パラフィンというロウで固める。このとき、外側をただロウで固めてしまうのではなくて、細胞内にある水分を抜いて代わりにロウで充填するのだ。こうしてできあがった臓器の一部は「パラフィンブロック」と呼ばれる。


このパラフィンブロックは通称「永久標本」と呼ばれる。その名の通り、半永久的に品質が劣化しない(遺伝情報もあとから検索可能になっている)。


そして、パラフィンブロックの表面をうすーく切って(薄くというのは具体的には4 μmくらい、つまり髪の毛の太さよりも薄い)、スライドガラスに乗せて色を付けたものが、おなじみ(?)の病理組織プレパラートである。ここまでしてようやく顕微鏡での観察が可能となる。ただ、じつは、ガラスプレパラートに付けた色は10年ちょっと経つと褪色(たいしょく=色あせること)してしまう。ガラスを大事に取っておいても、20年も経つと染色がかすんでしまってうまく細胞が見えない。


そういうときは、保管しているパラフィンブロックを取り出してきて、ふたたび薄く切るところからやり直して、ガラスプレパラートを作り直せばよい。50年前の症例であっても色鮮やかに顕微鏡観察することができる。




こうして見返すと、生き物の情報を後世に残すには膨大な手間がかかっていることがわかる。そりゃあ昔のことがわからないわけだ、時の選別は厳しい。むしろ、樹液にトラップされた蚊であるとか、火山灰に埋もれた化石であるとか、そうやって何万年もあとに「元のかたちを推定できるくらいの状態で発見される」というのがどれだけ奇跡的なことなのかと驚いてしまうわけなのだけれども……。