2021年10月15日金曜日

日本人がノーベル賞を取りました報道に思うこと

最初に言っておくとぼくはそういう「日本人がノーベル賞を取りました!」報道は大賛成である。どんどんやってほしい。インターネット・オーシャンではたいていの有識者が「賞を取ったのが日本人かどうかなんてどうでもいい」とか「国籍がすでに日本じゃないのに日本すごいと喜ぶなんて」などとナンクセをつけている話題だけれど、ぼくはそういうさまざまな声があるのを継続的に観測した上でなお、「メディアはどんどん日本人がノーベル賞を取ったよ解説ニュース」をやってほしいと思っている。


そもそも、昨年「日本人以外のだれか」がどのようなノーベル賞を取ったのかを誰も覚えていない。「日本人かどうかなんてどうでもいいんだよ!」なんていうみみっちいツッコミよりも、「でかいメディアがノーベル賞の話題を扱ってくれてありがたい!」という感謝の方がでかい。そういう規模、そういうレイヤーの話に感じる。


「科学情報の伝わりづらさ」たるや……。平和賞や文学賞、経済学賞はともかく、物理学賞や医学生理学賞は悲惨である。医学の話題でイベルメクチンばかり覚えているほうがどちらかというと不自然なのだけれど、日本人が関わったというだけで我々の脳内には実際、記憶が定着してしまうものだ。日本人が関わっていない科学業績を伝えるのは本当に大変である。そう、科学情報コミュニケーションの話。


科学の話というのはとっかかりがすごく難しくて、情報の受け手に「あ、これ、自分ごとだ!」と思ってもらうのにとんでもなく高いハードルがある。次にあげるのもまたインターネット・コロシアムでよく有識者から出る文句であるが、受賞者に対する質問で「その研究は何の役に立つんですか」がボコボコにされるシーンを目にする、あれだって要は、一般の人にとってその研究成果を自分ごとにしてもらうにはどうしたらいいかとなんとなく感じ取った記者なりのセリフに違いない(それにしても語彙が少ないとは思うが)。許してやれよと思う。話題にするだけマシだ。「その研究はぼくは興味ないんで質問しません」のほうがよっぽどタチが悪い。お昼の失言系のテレビで有名司会者が「ネコもシャクシもノーベル賞の話題で盛り上がっていますけれども、どうせ我々には関係のない頭のいい話ですから、放っておいてネコチャンの話をしましょう」とか言い出す世界線よりずっといい。


「日本人が取った!」ということでまずは目を引く。そして、「この日本人が取ったノーベル賞とはいかに名誉なことで、なぜそんな名誉をこの人が取れたのか」という流れで、研究の具体的な内容を、テレビ局がカネをかけてやとったイラストレーターやデザイナーの描き起こし・作り起こしのテロップできちんと説明していく。ここまでやってようやく、一年に何度もない「お茶の間に科学情報が放送され、スクショがツイッターに拡散される状態」が完成する。科学者の家族関係なんてどうでもいい、科学には関係ない、という怒りについて、ぼくもまったくその通りだと思う一方、変な話、そうやって「身近に感じた人」が発見した事実とはどんなものだったのだろうと、あとから科学を探究しようと思う人が数百人でも増えればそれはいいことなのではないか。


「なんでも日本人ってだけで取り上げるマスコミ(笑)」という冷笑がある種のブームになったきっかけは、THE YELLOW MONKEYの「乗客に日本人はいませんでした いませんでした いませんでした いませんでした」がヒットしたことだと勝手に接続している。あれだってきっと、現場ではたらく人たちにとっては必要な報道だった、「そんなのやめろ」という外野の声以上にその声を必要として役に立てていた人がいたはずのに、冷笑して茶化したものがロックの皮を被って人口に膾炙してしまった(元の曲はいい曲だがその部分ばかり有名になったのでイエモンもしんどかったのではないか)。ぼくは背景を知らずに外野がヤジを飛ばすことがロックのいいところでもあり悪いところだとも思っていて、でもそんなことは、ロックバンドを名乗る人たちもとっくに考えているので、是非を問わず曲の良さだけを語ればよいと思うのだけれども、少なくとも「日本人がどうたらとか言わずにノーベル賞の報道をもっとフラットにしろ」という人たちの大半はイエモンのあの歌からうまく進化できていないのではないか、と少し気になっているのである。