2021年8月23日月曜日

病理の話(568) 急変の科学と文学

ある人が、急に具合が悪くなった! たいへんだ!


というとき、「急に」をヒントにして、医者は体調不良の原因を考える。

人間が急に痛がる、急に倒れる、急に吐くときには、だいたい、以下のどれかが起こっている。


・急に何かがねじれた

・急にどこかが詰まった

・急にどこかが破れた


卵管がねじれた、血管が詰まった、腸が破れた……。

異常をスバヤク探して治療をしないと、体調は、坂を転げ落ちるようにどんどん悪くなる。ねじれた、詰まった、破れた、のときには、臓器に血が行かなくなったり、臓器の中身が外に飛び出たりする。本当に一刻を争うのである。


ところで、ここで言う、「急に」というのは、いわゆる「秒単位」である。

患者は本当に「急激に」具合が悪くなるので、たとえばテレビを見ていたとしたら、番組のどのタイミングで誰が何を言ったときに具合が悪くなった、と言うように、何時何分のレベルで痛みの始まった瞬間を覚えているのだ。

例:「フワちゃんが林先生の頭をひっぱたいた瞬間にぼくも頭が痛くなったんですよ」


しかし日本語は難しい。患者が言う「急に」が、いつも秒単位であるとは限らない。


たとえばぼくはこのように言うことができる。

「43歳になって急に太ったんですよね……」。

この場合の「急に」というのは年単位である。日本語ってこういう使い方するよね。別にぼくはオリンピックの閉会式を見ている最中にいきなり3キロ太ったわけではない(当たり前である)。42歳の検診まではだいたい体重が変わらなかったのに、43歳になって測定したら太っていた、みたいな感じなのだが、平気で「急に太った」という言葉使いをしてしまう。


また、こんな言い方もある。

「いやービール飲みすぎましてね、最初は少しムカムカするかなーくらいの気持ちだったんですけど、2時間くらいガマンしてて、急に吐いたんですよ……」

「吐く」という行動自体が「急に」っぽさを含んでいるのでつい言いがちだが、よくよく考えてみるとこの人は、「急に吐いた」のではなくて、「2時間ムカムカと戦っていてけっきょく吐いた」というイメージである。




医者が患者と会うときに、「急に具合が悪くなって……」と言われたら、その「急に」はどれくらい急なのかというのをまず確認しなければいけない。

コミュニケーションというのは基本的に「ズレ」からスタートする。ぼくの思う「急に」が、あなたの思う「急に」と、合っていることの方が珍しい。それくらいの気持ちで、お互いの感覚を摺り合わせてから診断に入る。遠回りなようだけれど、結局はそれが、一番早い。急に理解しようったって無理だよ。