2021年8月12日木曜日

脳内民主主義

「医者はツイッターで厳しい言葉を使わないほうがいい」という意味のことをnoteに書いたら、


「厳しい言葉を使わざるを得ない状況に追い込まれた医者の気持ちも考えるべきだ」


というコメントがついた。


ぼく自身、「厳しい言葉を使いたい状況」に追い込まれたことはある。それでも厳しい言葉は使わないように努力する。だから、コメントの方向がずれてるなと思った。

でも、コメントした相手に直接言い返すことはしなかった。


相手の考えを変えさせるために、言葉をたたみかけていくことが、少々下品だなと感じるようになっている。

下品なことをしない。これは、日常の目標としてはけっこう難しい。

意図して積極的に取り組まないと、ぼくはすぐ下品になる。

下品だと何が悪いか。感覚的に言うと、「正味の実入りが少なくなる」。下品なために周りの人が一歩下がり、下品なためにぼくの言葉のフォントの色が少し薄くなり、下品なためにぼくの声に雑音が混じり、下品なために伝えたいことがうまく人に届かなくなって、結局、めぐりめぐって、ぼくが得られる喜びや充実が少し減る。そういうものではないかと思う。



誰かの意見をひっくり返そうとする医者の、心の奥底に、「相手を真っ二つに斬り伏せるほど自分は正しいのだろうか?」という逡巡がある。あってほしいし、たいていはあると思う。

でも、自分が迷い戸惑って結局何もしないで終わるくらいなら、「何かが変わるかもしれない」と行動するべきだ……と信じる気持ちがはたらく。だから人は何かを言う前に多かれ少なかれ迷いを振り切るための思考をとる。

心の中で投票をして、賛成多数の意見を総意と読み替えて、反対側の意見をねじ伏せて、「心の国会が下した結論」として「○○すべきだ」というように強い言葉を使う。

このようなプロセスがある程度早いスピードで行われた結果、「強い言葉を使って相手を従わせようとする医者」が生まれる。




ここで「多数決」をとっている部分。ここがぼくはなんだか下品だなと感じる。下品というか、品ポイントを少しマイナスする、くらいのイメージなのだけれど、とにかく、「迷ってはいたけれど、迷ってばかりじゃ何にもならないから」の、「何にもならないから」のところと、その後の「○○すべきだ、が総意ですので」という開き直りの部分、このふたつが、品性の裾を引っ張って、引きずり下ろそうとしている感じがある。




「結局はこうしないとどうにもならないんだよ」


「誰かが言わなきゃいけないことじゃないか」


「多少の傷はしょうがないよ」


「こっちだって覚悟してやってんだ」


「何を言っても伝わらないからせめて厳しく断罪するしかないだろう」


「厳しい言葉を使わざるを得ない状況に追い込まれた医者の気持ちも考えるべきだ」


あー、多数決しちゃったんだなーと感じる言葉たち。


そしてぼくは、そのような言い方をした人の脳内にいる、「投票に参加されたけど少数派として棄却されてしまった、その人の心の奥底に住む迷いの心」に同情してしまって、それ以上、何かを言い返すことができなくなってきている。