2021年8月3日火曜日

病院でお赤飯

病院のコンビニに入っていたお赤飯おにぎりがなくなった、とツイートしたら、

「病院でお赤飯というのは場違いだからしょうがない」

というリプライがついた。そんなこと考えもしなかった。仮にそうだとして、縁起が良いから? 悪いから? どっちに抵触するというのだろう。病院内の売店ってそんなことまで考えないといけないのか。


いけないのかもしれないな。わからなくはない。

本当は、季節が変わって商品が入れ替えになっただけだろう。見知らぬサラダが増えてなじんだパンも消えていた。お赤飯おにぎりだけの話ではないのだ。それでも、このことは、なにやら泥はねのようにぼくの心に汚れを落としており、今も消えない。


「病院でお赤飯というのは不謹慎」か。ぼくはそんなことはないと思う。単なるメニューじゃないか。しかし、そういうアイディアを思い付いてしまう人はいる。たまたまリプライを付けた一人がそうだったというより、おそらく、一定数はいるだろう。




「SNSで誰もが発信できるようになった」ことよりも、「SNSで何でも受信できるようになった」ことのほうが根が深いと思うことはある。ほんとうだったら一生目にしなかった情報を見つけてしまって、余計に怒ったり拗ねたり指摘したりする人が増えているような気がする。病院のコンビニにお赤飯おにぎりがあることをめざとく見つける人がこれまでにどれだけいたというのだろう。これからはどれだけ増えることになるだろう。少なくともぼくが「うちの病院のコンビニで買うお赤飯のおにぎりが好きだった」とつぶやかなければ、くだんの人は「病院にお赤飯はそぐわないのでは?」みたいなことを考えることもなかっただろう。このブログにしてもそうだ。このブログを告知するツイートにしてもそうだ。一生届ける必要がなかった人に、うっかりどうでもいい話を届けて、それによって、うっかりどうでもいいことを考えてしまう人の数が数人なり数十人なり増えるということ。SNSは受信の機会を激増させた。それにヒトの脳が耐えられるのだろうかと思うことは頻繁にある。