2021年8月24日火曜日

デザイン欲の末に

やることが多く考えることも多いのだが、それでもまあ、しょせんはこの程度で済んでいるんだよな……と考えることはある。

30代のころはもっときつかった。仕事は今ほどできなかったし、予定も今ほど詰まってはいなかったにもかかわらず、「この先どうしたらよいのか」に対する悩みがぼくの輪郭のもっとも外側の隙間を埋めていたので、閉塞感が今よりずっと強かった。パテで内側をゴリゴリに固められているような感じだった。体の内部で何かが光っていても、その光が肌を突き抜けて外に出ることがない。自分で自分の中が光っていることに気づけない。そんなことで落ち込む日が、今よりはるかに多かった。

20代のころはさらにきつかった。今よりはるかにデューティが少なく、こなせる仕事の量はたぶん20分の1以下だったけれど、その20分の1で勝負をしなければいけないという思いが今の100倍強かった。つまりは体感としては今より5倍つらかったのだと思う。自分がどこまでやりたいのか、と、自分がどこまでやれるのか、の摺り合わせがうまくいっていなかったころだ。「自分がやりたいこと」があるいは高望みなのではないかと気づいて失望するのが怖かった。

年を取るごとに、手が届く範囲がわかりやすくなる。脳内の部屋に置かれた調度がきれいに整頓され、反射的に必要なものに意識が届く。ぶらぶらと動き回っても足の小指をどこかにぶつけるようなこともない。

もちろん、各方面に高速でアクセスできるようになれば、それだけ意志決定する回数が増えていくので、抱える案件だって多くなる。でも、「自分の脳を自分の思い通りに動かせる感覚」がこれまでで一番強いので、あまり苦にならない。

振り返ってみればぼくは、「自分の脳、そして脳に駆動される自分の体や自分の仕事や自分の可能性が、自分の思い通りに動かないこと」がもっともストレスだったのだろう。生活や仕事をデザインするのに43年かかった、ということなのかな。


今は、思い通りだ。

ただし、思い通りならば全能なのかというと、そういうわけではない。

うまくいかないだろうな、という予測すら高確率で当たるからだ。「思った通りに失敗した」ということがある。「思った通り」と、「願い通り」とは違う。

可能性の振れ幅が少ない。びっくりする機会が減っていると言ってもいい。

まだまだ自分の周りにあるものに驚きあきれ騒ぎたい。本を読むなどして自分の知らない世界をコンテンツとして摂取し、自分の所属するネットワークを外部に拡張していこうとする。けれども、「思った通り」、個人で繋がれる範囲の限界もそろそろ見え始めている……。


それでも、今のほうがマシだ。


あのころはそれくらいつらかった。20代のぼくはどこに出しても恥ずかしくないくらい、平均的に悩み、もがいていた。悩む若者にはひとまず40までがんばれと言いたくなるときがあるが、ぼくが20代のころそうやって言うオトナはいなかったことを考えると、たぶん、こんなことを言っても届かないし、意味もないのだろう。あるいはぼくは、つらかった自分の20代を自分なりに肯定したいためだけに、今のつらさを犠牲にして「今のほうがマシだ」と自分に言い聞かせているだけなのかもしれないが。それでもいいのだ。よくぞがまんしてここまで歩いてきたものだ、と思うことは多々ある。