2021年8月2日月曜日

病理の話(561) がん細胞の誤植

「がん細胞」もまた「細胞」であることにかわりはない。

細胞であるということは、その中に「核」があるということだ。

核の中にはDNAが入っている。DNAとは細胞の設計図である。がん細胞もDNAを持つ。

DNAには、胃の細胞になるための設計図も、目の細胞になるための設計図も、毛髪をつくりだすための設計図も、血管を生やすための設計図も、すべてが書き込まれている。ここ、注意してほしい。「すべて」である。

たとえば今、耳かきのようなものを用いて、皮膚の表面をガリッとこそげ取る。そんなに血が出るほどひっかかなくても大丈夫、ちょっと力を入れる程度でいい。するとそこに表皮の細胞が混じっている。これを顕微鏡でガンガン拡大していくと、核の中にDNAが入っており、そのDNAには表皮になるための設計図だけではなく、体内のありとあらゆる細胞の設計図が入っていることがわかる。表皮をとったはずなのに! 不思議である。

ではその表皮の細胞に「喝!」を入れて、DNAのほかの部分を活用しなさい! と命令することで、その細胞が胃や目や毛髪や血管に変化するかというと……これはなかなか、うまくいかない。現時点ではほぼ無理である。



表皮の細胞が持っているDNAは、「広辞苑」のようなものだ。とんでもない数の文字……体内のあらゆる細胞を作れるくらいの情報が、コンパクトにまとまっている。ただし、この広辞苑は、192ページと27ページと343ページ以外、「開かない」。

体内のすべての細胞が同じ広辞苑を持っている。しかし、表皮の細胞は表皮になるために必要なページしか参照しない。ほかのページはテープで固定されていて開かない。

胃の細胞は108ページと166ページと402ページと225ページを参照する。ほかは開かない。

毛根の細胞は192ページと33ページと344ページを参照する。ほかは開かない。

(表皮と毛根は微妙に近いページを参照しているが、完全に同じではない。)




そして、がん細胞も広辞苑を持っている。ただしそこに書かれている内容は、200箇所くらい間違っている。誤植が200箇所もある広辞苑。岩波書店は発狂してしまうだろう。でも、逆にいえば、あれだけ分厚い広辞苑の中に200個しかエラーがない。大多数の表記は間違っていない。これが「がん細胞のニュアンス」である。

体内をめぐる免疫細胞は、ほとんど間違っていない広辞苑を持つがん細胞を、「正常の細胞なんだろうな」と勘違いする。がん細胞の広辞苑にもテープが貼ってあって、胃のがん細胞は正常の胃の細胞と似たテープの貼り方をしており、ぜんぜん開かないページがいっぱいある。開かないページの中にどれだけ誤植があるかはよくわからないし、わかる必要もない。だってその設計図は使われないのだから。でも、「全部で200箇所くらい誤植がある」というデータだけは別に手に入る。それがホールゲノムシークエンスと呼ばれる技術だ。

「どの誤植が、細胞をがんにしているのか」を調べるのは難しい。テープで封印された場所にある誤植はさほど大きな役割を果たさない。がん細胞の中で「開くことができて、設計図として駆動している部分」の誤植ががんの原因ということになる。

「がんの原因」は、がんの種類にもよるが、だいたい誤植1~20箇所くらいによる。そのような誤植をピンポイントで攻撃するような薬を使うと、がん細胞だけを的確に倒すことができる。ただし、そんな薬が開発されていれば、の話だが……。