「1つのものが10個に増える時間と、10個のものが100個に増える時間は、同じであると考える」。
……なんて話を、たとえば和菓子職人の前ですると「そんなわけねぇだろう」と怒られるだろう。
だって、前者は「9個増えた」、後者は「90個増えた」である。増えた量が10倍違う。労力だって10倍、時間だって10倍かかるに決まっているではないか。
けれど、今の話を、細胞生物学職人(?)の前ですると、「ああそうだよね」となる。
細胞は倍々ゲームで増える。足し算では無くかけ算で増える。
だから、1が10になるとはすなわち「10倍になった」、10が100になるのも「10倍になった」。どちらも同じだ。
細胞1個が10個に増える時間と、細胞10個が100個に増える時間は変わらない(至適栄養が保たれているなどの条件があるが)。
このことは、病気を考える上で、とても大切なのである。
細胞1個を見極めるというのは顕微鏡を使わないととても無理だ。
10個も厳しい。
100個でもきつい。肉眼では細胞100個くらいだとまるでカスでありゴミである。
けれど、細胞が1000個もあると、おぼろげに肉眼で小さく見え始める。
細胞が10000個もあれば普通の人なら小さく視認できるだろう。
100000個となると、立派な「かたちあるカタマリ」として、人の目で認識できそうである。
細胞が「正常の細胞」だと、こんなに再現なく倍々ゲームでは増えない。
正常の細胞というのは、増える量がきちんとコントロールされているのだ。
もし、細胞の増えるスピードがきちんとコントロールされていないと? 右手の人差し指だけ妙に長くなってしまい耳くそがめちゃくちゃいっぱいとれる、とか、まぶたが目を覆うくらい大きくなってしまい日中よく寝られる、みたいな、ちょっと不都合なことがいっぱい起こってしまうだろう。
しかし、「がん細胞」は違う。
がんというのは、空気を読まないのだ。栄養がある限り、倍々ゲームで増えようとする。
倍々ゲームだから、たった1個のがん細胞が10倍になるのにかかる時間と、1000個のがん細胞が10000個になるのにかかる時間が、理論上、同じになる。
すると、昨日までカタマリが何も見えなかったところに、今日とつぜんカタマリが出現するということが、実際にありえる……。
実際には体の中にはがん細胞に対する抵抗勢力(免疫)があり、ことはそう単純には進まないにしろ。
去年検査で何も見つからなかったのに、今年突然カタマリが出てくる、ということは、往々にして経験される。
以上の話は、「がん細胞を早期に発見する」ことを考える上で、キーとなる考え方である。
「増殖異常」という言葉の重みを知ると、人間の体のすさまじさと、その統率をかいくぐるがんの巧妙な生存戦略の一端が、腑に落ちる。
腑に落ちるという言葉を、病理の話で用いるのは、ハマった感がすごくて、なんか、アリだと思う。
2017年7月31日月曜日
2017年7月28日金曜日
そうかんたんにわかるんですか
パソコンのキーボードが削れている。
特に、「K」と「M」と「N」と「A」のあたりの劣化がすごい。「O」もなかなかだ。
「S」に至っては完全に穴が空いてしまったので、「|」(画面右上にある縦棒)と入れ替えて使っている。
この記事を作る前、ほかに記事を3本書いた。3本目に至っては、
「この記事を作る前、2本記事を書いたが、消してしまった。あなたがこの記事を見ているということは、3本目の記事が消されずに残ったということである。」
なんていう書き出しでスタートしていたのだが、結局消してしまった。
今日は、アウトプットが荒く、自分のために、自分のためにと書いては消し、書いては消してしまっている。
キーボードを見ながら、ときおり、
「キーが削れるくらい発信してきたんだなあ」
と少し天狗になることもあった。
けれど、よく考えたらぼくは、書いた物をすぐ消してしまう。ブログの記事に至っては、公開する前に、2回に1回くらいのペースで全部消して書き直している。
キーが削れたほどには発信していなかった。
失ったもので得たものを量ることは出来ない。
アウトプットの量を多くすればクオリティが上がるだろうと内心思っていた。けれど、雑なアウトプットは全体の精度を上げてくれない。手癖で書く文章、反射で引っ張り出す構文、脳の大半を休ませたまま、惰性で産み出される劣化コピーのようなものばかりがころころと脳の隅に転がっている。
そういうときはインプットだよ。
アウトプットがうまくいかないときはインプットがいいんだ。
そうだそうだ、手を大きく振ってKindleに籠もり、インプットを繰り返す。
インプットの量を多くすれば何かのクオリティが上がるだろうか?
あるいは、やはり、何か別のキーが摩耗するのだろうか?
いろいろ摩耗するなら、たまにはアウトプットもインプットもしないことを選ぶ。
ただ、脳がパソコンと違う点がひとつあって、それは、「アウトプットもインプットもしていない時間に、膨大なメモリを食いながら、内部で思考が循環する」ことだ。
アウトプットもインプットもしていなくても、脳の場合は、どこかでキーが削れているということである。
興味深いことに、失ったもので失ったものを量ると、相関に気づくこともある。
相関と因果はまた別の話であるが。
特に、「K」と「M」と「N」と「A」のあたりの劣化がすごい。「O」もなかなかだ。
「S」に至っては完全に穴が空いてしまったので、「|」(画面右上にある縦棒)と入れ替えて使っている。
この記事を作る前、ほかに記事を3本書いた。3本目に至っては、
「この記事を作る前、2本記事を書いたが、消してしまった。あなたがこの記事を見ているということは、3本目の記事が消されずに残ったということである。」
なんていう書き出しでスタートしていたのだが、結局消してしまった。
今日は、アウトプットが荒く、自分のために、自分のためにと書いては消し、書いては消してしまっている。
キーボードを見ながら、ときおり、
「キーが削れるくらい発信してきたんだなあ」
と少し天狗になることもあった。
けれど、よく考えたらぼくは、書いた物をすぐ消してしまう。ブログの記事に至っては、公開する前に、2回に1回くらいのペースで全部消して書き直している。
キーが削れたほどには発信していなかった。
失ったもので得たものを量ることは出来ない。
アウトプットの量を多くすればクオリティが上がるだろうと内心思っていた。けれど、雑なアウトプットは全体の精度を上げてくれない。手癖で書く文章、反射で引っ張り出す構文、脳の大半を休ませたまま、惰性で産み出される劣化コピーのようなものばかりがころころと脳の隅に転がっている。
そういうときはインプットだよ。
アウトプットがうまくいかないときはインプットがいいんだ。
そうだそうだ、手を大きく振ってKindleに籠もり、インプットを繰り返す。
インプットの量を多くすれば何かのクオリティが上がるだろうか?
あるいは、やはり、何か別のキーが摩耗するのだろうか?
いろいろ摩耗するなら、たまにはアウトプットもインプットもしないことを選ぶ。
ただ、脳がパソコンと違う点がひとつあって、それは、「アウトプットもインプットもしていない時間に、膨大なメモリを食いながら、内部で思考が循環する」ことだ。
アウトプットもインプットもしていなくても、脳の場合は、どこかでキーが削れているということである。
興味深いことに、失ったもので失ったものを量ると、相関に気づくこともある。
相関と因果はまた別の話であるが。
2017年7月27日木曜日
病理の話(104) 砂漠のクレイジーソルト
生命の定義についていろいろとおもしろいことを言う人というのがいる。いまだに頭に染みついて忘れられない定義は、(かなりテクニカルであるが)以下のようなものである。
「生命とは、局所的なエントロピーの減少を持続させている状態である」
これだと、日本の字で書いてあるけれども日本語とは思えないので、言い換える。
「自然界はそのまま放っておくと必ず乱雑になり、偏りがほぐれる。しかし、生命があるとそこだけは、秩序が保たれ、偏りが保たれる」
わかったようでわからない定義なので、さらにもう少し掘り進む。
「砂漠にごま塩」という表現がある。砂の上にごま塩を振ると、振った直後は、ああ、ここにごま塩が振られたんだなと見てわかる。淡い茶色の砂粒まみれの地面に、白と黒のごま塩が、「偏って」いるので、そこだけが特別なのだなあと気づくことができる。
しかし、5分、1時間、1日と時間が経つに連れて、風やら雨やらのせいで、ごま塩は少しずつ周りの砂と混じる。仮に、砂に指で丸を書いて、その中にごま塩を振っていたとしても、数日も経てばごま塩は丸を越えて周りに拡散してしまい、いずれはごま一粒、塩一粒が砂とまぎれて、もはやごま塩とは呼べない、ただの汚い砂地になる。
ごまや塩がそれぞれ消滅したわけではないのだが、ある程度のボリューム、ある程度の秩序で、ある程度の範囲に「偏って」置かれていなければ、それはもうごま塩とは呼べないのだ。
このように、「自然界では、時間が経つと乱雑さが必ず増していく」。これを、「エントロピーが増す(上昇する)」と呼ぶ。
エントロピーは増える。しかし、基本、減りはしない。
砂漠でごま塩がふたたび集合することがないように。
汚い部屋が、ある日突然自動的に整頓されることがないように。
しかし……。
たとえば砂の上に描いた丸が細胞膜だったら。
その細胞膜の中にごま塩……の代わりに、ナトリウムとかカリウム、カルシウムといったイオンを振り、あるいは酸素を振り、とやるとどうなるか。
細胞膜が、あるいは膜に囲まれた「細胞」が生きている限り、膜の中の「偏り」は保たれる。
不必要な塩を外に出したり、足りなかったごまを膜の外から中に取り込んだりしながら、細胞が一番よい環境になるように、「偏り」を保ち続ける。
必ずしも最初振ったごま塩……最初に投入したイオンや酸素ほかの栄養の割合を保つわけではないのだが、細胞にとって一番都合がよい「偏り」が保持される。
これを、「エントロピーが上昇しないまま、低く保たれる」と呼ぶ。砂漠のある一箇所に、毎日ごま塩がそうとわかる状態で集まっている。部屋がいつまでもきれいなままである。
これはすごいことなのだ。生命とはすごいことをしている。
生命がすごくあるために重要なのは、細胞膜だ。
細胞膜がどれだけきちんと機能しているかによって、細胞の中の「偏り」がきちんと保持されるかどうかが決まる。
病理医が細胞を見るとき、しばしば、「細胞膜」に注目する。細胞膜は脂質二重膜と呼ばれる特殊な構造をしており、様々なタンパク質や糖鎖が刺さりこんでいる。
細胞膜とは単なる境界線(面)ではない。おそらくは細胞の持つ構造の中でもトップレベルに複雑である。脂肪とタンパク質と糖が全て関与するというのはまさに「オールスター」状態。
脂肪、タンパク質、糖のうち、病理医がもっとも観察しやすいのはタンパク質だ。免疫染色という技術を使うことで、ある一種類のタンパク質だけをハイライトして、その存在や分布をチェックすることができる。病理医は、細胞膜を調べるときに、主にタンパク質を調べる。
細胞になんらかの異常があるとき、膜にも何かが起きている。
通常の細胞であれば、Aというタンパク質とBというタンパク質とCというタンパク質が刺さりこんでいるはずで……しかし、病気の細胞には、Dという特殊なタンパク質が刺さっていて……という具合だ。
「Dというタンパク質をハイライトする免疫染色を使って診断する」というのは、すなわち、「生命が正しく偏るために必要な細胞膜が、何かおかしいことになっていないかどうかチェックする」ということにつながる。
※細胞膜の働きは「偏りの調節」だけではない。特に多細胞生物であれば、「細胞同士のコミュニケーション」とか「細胞の居場所を決定する」とか「細胞の機能を調節する」など様々である。ただ、その話はまた別の機会に譲る。
砂漠に固まっているごま塩が、なぜかクレイジーソルトになっていた。何が起こっているんだ。どういうことなんだ。クレイジーソルトに含まれているハーブやスパイスを観察するのはとても大切であるが、同時に、砂漠に指で書いた丸をチェックしよう。お前、何やったんだよ。CD20というタンパク質が膜に異常に刺さりこんでいる。このやろう、悪性B細胞性リンパ腫じゃねぇか。
これが診断。
CD20が異常に刺さっている細胞というのは普通ありえない。だから、「膜に刺さりこんだCD20を認識して攻撃する薬を使おう」。
こんな治療もある(実際にあります)。
「ああ、治療の役に立つの? それなら役に立つねえ」
こんなことを言われることもある。役に立つと思って頂ければ何よりである。ただ、ぼくは、砂漠の砂に何かが起きてるぞ、なんなんだ、どうしてなんだ、それが役に立つかどうかはともかく、なぜこんなことが起こるんだ、そこんところにも興味があるので、まあ、役に立つとは言えない場面でも、細胞膜についてはなるべくチェックしておこうと思っているのである。
「生命とは、局所的なエントロピーの減少を持続させている状態である」
これだと、日本の字で書いてあるけれども日本語とは思えないので、言い換える。
「自然界はそのまま放っておくと必ず乱雑になり、偏りがほぐれる。しかし、生命があるとそこだけは、秩序が保たれ、偏りが保たれる」
わかったようでわからない定義なので、さらにもう少し掘り進む。
「砂漠にごま塩」という表現がある。砂の上にごま塩を振ると、振った直後は、ああ、ここにごま塩が振られたんだなと見てわかる。淡い茶色の砂粒まみれの地面に、白と黒のごま塩が、「偏って」いるので、そこだけが特別なのだなあと気づくことができる。
しかし、5分、1時間、1日と時間が経つに連れて、風やら雨やらのせいで、ごま塩は少しずつ周りの砂と混じる。仮に、砂に指で丸を書いて、その中にごま塩を振っていたとしても、数日も経てばごま塩は丸を越えて周りに拡散してしまい、いずれはごま一粒、塩一粒が砂とまぎれて、もはやごま塩とは呼べない、ただの汚い砂地になる。
ごまや塩がそれぞれ消滅したわけではないのだが、ある程度のボリューム、ある程度の秩序で、ある程度の範囲に「偏って」置かれていなければ、それはもうごま塩とは呼べないのだ。
このように、「自然界では、時間が経つと乱雑さが必ず増していく」。これを、「エントロピーが増す(上昇する)」と呼ぶ。
エントロピーは増える。しかし、基本、減りはしない。
砂漠でごま塩がふたたび集合することがないように。
汚い部屋が、ある日突然自動的に整頓されることがないように。
しかし……。
たとえば砂の上に描いた丸が細胞膜だったら。
その細胞膜の中にごま塩……の代わりに、ナトリウムとかカリウム、カルシウムといったイオンを振り、あるいは酸素を振り、とやるとどうなるか。
細胞膜が、あるいは膜に囲まれた「細胞」が生きている限り、膜の中の「偏り」は保たれる。
不必要な塩を外に出したり、足りなかったごまを膜の外から中に取り込んだりしながら、細胞が一番よい環境になるように、「偏り」を保ち続ける。
必ずしも最初振ったごま塩……最初に投入したイオンや酸素ほかの栄養の割合を保つわけではないのだが、細胞にとって一番都合がよい「偏り」が保持される。
これを、「エントロピーが上昇しないまま、低く保たれる」と呼ぶ。砂漠のある一箇所に、毎日ごま塩がそうとわかる状態で集まっている。部屋がいつまでもきれいなままである。
これはすごいことなのだ。生命とはすごいことをしている。
生命がすごくあるために重要なのは、細胞膜だ。
細胞膜がどれだけきちんと機能しているかによって、細胞の中の「偏り」がきちんと保持されるかどうかが決まる。
病理医が細胞を見るとき、しばしば、「細胞膜」に注目する。細胞膜は脂質二重膜と呼ばれる特殊な構造をしており、様々なタンパク質や糖鎖が刺さりこんでいる。
細胞膜とは単なる境界線(面)ではない。おそらくは細胞の持つ構造の中でもトップレベルに複雑である。脂肪とタンパク質と糖が全て関与するというのはまさに「オールスター」状態。
脂肪、タンパク質、糖のうち、病理医がもっとも観察しやすいのはタンパク質だ。免疫染色という技術を使うことで、ある一種類のタンパク質だけをハイライトして、その存在や分布をチェックすることができる。病理医は、細胞膜を調べるときに、主にタンパク質を調べる。
細胞になんらかの異常があるとき、膜にも何かが起きている。
通常の細胞であれば、Aというタンパク質とBというタンパク質とCというタンパク質が刺さりこんでいるはずで……しかし、病気の細胞には、Dという特殊なタンパク質が刺さっていて……という具合だ。
「Dというタンパク質をハイライトする免疫染色を使って診断する」というのは、すなわち、「生命が正しく偏るために必要な細胞膜が、何かおかしいことになっていないかどうかチェックする」ということにつながる。
※細胞膜の働きは「偏りの調節」だけではない。特に多細胞生物であれば、「細胞同士のコミュニケーション」とか「細胞の居場所を決定する」とか「細胞の機能を調節する」など様々である。ただ、その話はまた別の機会に譲る。
砂漠に固まっているごま塩が、なぜかクレイジーソルトになっていた。何が起こっているんだ。どういうことなんだ。クレイジーソルトに含まれているハーブやスパイスを観察するのはとても大切であるが、同時に、砂漠に指で書いた丸をチェックしよう。お前、何やったんだよ。CD20というタンパク質が膜に異常に刺さりこんでいる。このやろう、悪性B細胞性リンパ腫じゃねぇか。
これが診断。
CD20が異常に刺さっている細胞というのは普通ありえない。だから、「膜に刺さりこんだCD20を認識して攻撃する薬を使おう」。
こんな治療もある(実際にあります)。
「ああ、治療の役に立つの? それなら役に立つねえ」
こんなことを言われることもある。役に立つと思って頂ければ何よりである。ただ、ぼくは、砂漠の砂に何かが起きてるぞ、なんなんだ、どうしてなんだ、それが役に立つかどうかはともかく、なぜこんなことが起こるんだ、そこんところにも興味があるので、まあ、役に立つとは言えない場面でも、細胞膜についてはなるべくチェックしておこうと思っているのである。
2017年7月26日水曜日
リングを購入
「わかったふりをしない」というのは結構いろんなことのキーポイントになっているように思う。
わかったふりをしないことで何がよいかというと、話している相手に嫌われなくて済むということだ。
嫌われないままの関係でいれば、ちょっとずつ「普通、やや好き」くらいのポジションに置いてもらえる。
「普通、やや好き」くらいの人は、こちらの意図をけっこう汲んでくれる。
会話のときに、ぼくの言葉が足りなくても、ぼくの考えが浅くても、助け船を出してくれたり、こちらの表現が整うまで待ってくれたりする。
これはとてもありがたい。うれしい。
ありがたくうれしい状態を招くために、なんだかんだでとても大事なのが、「わかったふりをしない」ことなのではないかと思っている。
そういえばぼくは、誰かが何かを「わかっている」から、「好き」だと思ったことが、たぶん、あまりない。
わかっているんだと言われても、そうなんだ、すごいね、で終わる。
感情がより動くのは、適切なタイミングで「わからない」と言える人の方だ。
「話し相手に向かって、自分がわからない状態であることを告白できる性格」というのが、いい。
まあ好き嫌いの話だから、実務的な関係の相手には、どうでもいい話かもしれない。
でも、仕事のつきあいであっても、「普通・やや好き」くらいだと、いろいろありがたくうれしくなるものだ。
「それはこうだよ」と口を挟むこと。
「きっとこうなんじゃないかな」と解釈をすること。
「それは違う」と否定をすること。
これらが機能するのは、少なくともお互いがお互いのことを、嫌いではない、普通・やや好き、くらいに思えるようになってからではないか。
まずは、「わからない」を言える相手であるかどうかをチェックする。
わかったふりをしないと会話が続かないような関係になっていないかどうかを確かめる。
書いていて思ったのだが、「わかったふりをしないと会話が続かないような関係」の人を先に好きになってしまうときがあるなあ、と思った。人間の脳というのは、元来、世界のままならなさに悩むようにあらかじめ作られているのかもしれない。ほんとうのところはわからない。わかったふりをして記事にする。
わかったふりをしないことで何がよいかというと、話している相手に嫌われなくて済むということだ。
嫌われないままの関係でいれば、ちょっとずつ「普通、やや好き」くらいのポジションに置いてもらえる。
「普通、やや好き」くらいの人は、こちらの意図をけっこう汲んでくれる。
会話のときに、ぼくの言葉が足りなくても、ぼくの考えが浅くても、助け船を出してくれたり、こちらの表現が整うまで待ってくれたりする。
これはとてもありがたい。うれしい。
ありがたくうれしい状態を招くために、なんだかんだでとても大事なのが、「わかったふりをしない」ことなのではないかと思っている。
そういえばぼくは、誰かが何かを「わかっている」から、「好き」だと思ったことが、たぶん、あまりない。
わかっているんだと言われても、そうなんだ、すごいね、で終わる。
感情がより動くのは、適切なタイミングで「わからない」と言える人の方だ。
「話し相手に向かって、自分がわからない状態であることを告白できる性格」というのが、いい。
まあ好き嫌いの話だから、実務的な関係の相手には、どうでもいい話かもしれない。
でも、仕事のつきあいであっても、「普通・やや好き」くらいだと、いろいろありがたくうれしくなるものだ。
「それはこうだよ」と口を挟むこと。
「きっとこうなんじゃないかな」と解釈をすること。
「それは違う」と否定をすること。
これらが機能するのは、少なくともお互いがお互いのことを、嫌いではない、普通・やや好き、くらいに思えるようになってからではないか。
まずは、「わからない」を言える相手であるかどうかをチェックする。
わかったふりをしないと会話が続かないような関係になっていないかどうかを確かめる。
書いていて思ったのだが、「わかったふりをしないと会話が続かないような関係」の人を先に好きになってしまうときがあるなあ、と思った。人間の脳というのは、元来、世界のままならなさに悩むようにあらかじめ作られているのかもしれない。ほんとうのところはわからない。わかったふりをして記事にする。
2017年7月25日火曜日
病理の話(103) ミクロの限界
顕微鏡でミクロの世界を覗いて、細胞まで見ればなんでもわかるかというと、そんなことはもちろんないのだ。
まず、ダイナミズムがわからない。体の中では生きてうごめいていた細胞も、つまんで採ってきて、ホルマリンやアルコールに浸すことで、その活動を停止してしまう。すると、「うごめき」だけはどうやっても観察することができない。
細胞内外を、水やナトリウム、カリウム、カルシウムなどが行き来する。細胞の周りを、血管が取り巻いて、酸素や栄養を運んでくる。これらは体の中で脈々と動いて、ぼくらの体を維持してくれている生命活動そのものだけれど、ホルマリンで時間停止したプレパラート上ではなかなか観察することができない。
プレパラート観察とは、とてもよく保存された廃墟を観察しているかのようだ。
廃墟にはテーブルや椅子、キッチン、お手洗いなどがあり、食器も、水道管も、トイレットペーパーもそのまま残されているから、中で人々がどのように活動していたのかを類推することはできる。
けれど、動いていた人そのものに話し掛けることはできない。
細胞を見るというのはつまりそういうことだ。ダイナミズムだけは類推しかできない。
だから、循環器内科(心臓とか血液の流れを見る科)と病理との相性は悪い。そもそも循環器系の臨床科はほとんど病理診断を用いない。内分泌・代謝内科なども同様である。
「廃墟を見ることが役に立つ科」だけが、病理診断科をうまく利用することができる。
先ほど、プレパラートに現れる組織構造を「とてもよく保存された廃墟」と書いたが、これも実は、語弊がある。
プレパラート上に見ることができる細胞の「配列」は、確かに生体内にあったときそのままなのだが、実は「間隔」が微妙に異なっている。「サイズ感」と言ってもいい。
「ホルマリン固定」という作業の際に、細胞内外の水分が失われる、すなわち脱水効果があるためだ。水を失うことで、細胞は最大で1割ほど小さくなるし、細胞と細胞との距離はもっと大きく変わることもある。
もとは8畳だった部屋が6畳半くらいに縮む。廃墟から元の構造を想像する際に、頭の中で少し間隔を開いてやらないと、うまく対応しないことがあるのだ。
……大した問題ではない、細胞の並び自体は保たれているから、病理診断には支障を来さない……。
けれども、生体内にその細胞があったときに関わっていた、多くの臨床医からすると、プレパラートを見た時に、「あれ、こんなボリュームだったっけ?」と、違和感を覚える。
病理医にとっては大して困らないけれど、画像を大事にする臨床医療者にとって大きな問題。「廃墟がちょっと縮んでいた問題」。
このことをそもそも知らない病理医もいる。自分たちがさほど困らないので、問題意識として共有できていない。しょうがない。
あと。
病理医は、細胞そのものの変化に敏感なので、そこにがん細胞があるかどうかを常に気にするし、がん細胞がどのような性質をしているかについても繊細だ。
一方、臨床医療者が診ているものは、ミクロではなくマクロである。「がんそのもの」ではなく、「がんが引き起こす現象もろもろ」を見ている。
だから、しばしば、臨床の医療者がほんとうに知りたい情報と、病理医がミクロで観察する細胞の所見とは、うまく対応していないことがある。
「なぜ造影CTの染まりがいつもと比べて少し早いんだと思います?」
「それはあれですよ、がん細胞が特殊だからですよ」
このやりとりは、うまく噛み合っていない。お互いに専門用語を用いているから、はたからみている非専門家にはちんぷんかんぷんだろうが、実は当の臨床医も病理医も、相手が言っていることを正確に理解できていない。
ダイナミズム。サイズ感。ニュアンス。
ミクロの限界とはこのへんにある。
これを知ってから病理診断を勉強し直すと、あれもこれも、不十分だ、不親切だ、不明瞭だとつっこみたくなる。
さんざんつっこんでから、昔から病理診断をしている先輩のレポートを読んでみると、なんのことはない、ぼくが今まで「これは書かなくていい情報だなあ」と思って無視していた、しかし先輩は必ず書いているという所見の中に、臨床の人間が本当に知りたいことが書いてあったりする。
知性で勝負する場であっても経験がものを言うことが、あるんだなあ、と頭を下げる。
2017年7月24日月曜日
原宿いやほん
もう6年くらい使っているイヤホンがある。高い。5000円くらいする。ツイッターをはじめたばかりのころ、「音が違うのだ」とおすすめされて購入した。
あのときはどうかしていたのだ。イヤホンだぞ。ヘタすると100均でも売っている。
職場ではずっと音楽を聴いているのだが、周囲の病理医や技師、臨床医などがいつ話し掛けてくるかわからないから、イヤホンは耳に「軽く腰掛けている程度」にしか挿していない。音量もかなり絞っている。電話や迅速診断のコールを聞き逃すわけにもいかない。
つまりは、5000円の意味なんて、なかったと思う。ほとんど無駄だった。
けれど、ぼくは、この6年間、毎朝、イヤホンを耳に挿す度に、「これはいいイヤホンだからなーあ」と、ものすごく小さく悦に入っていた。
いいものを買って働いているんだというよろこびを、毎日少しずつ、値段を思い出すことで、得ていた。
たぶん、この5000円を使わずに大切にとっておいて、ほかのいかなる5000円のものを買ったとしても、ここまで長時間に亘って、スイカに塩をかける程度の、カレーにスライスチーズを入れる程度の、ささやかな幸せを「毎日得続ける」ことはできなかったと思う。
このイヤホン、とてもいい買い物だったと思っている。
ぼくは元々、5000円をきっちりけちっていく男だ。
スーツの半額セールで、25000円の安売りスーツと20000円の安売りスーツが並んでいたら、絶対に25000円の方は買わない。
25000円のスーツは、元値50000円。
20000円のスーツは、元値40000円
このどちらを選ぶかについて、人々にはいくつかの考え方がある。
25000円のスーツのほうが、「安くなった値段がでかい、すなわちお得である」という考え方。
20000円のスーツのほうが、純粋に安いという考え方。
25000円と20000円の違いは無視して、純粋にスーツのデザインで勝負すべきという考え方。
ぼくは、「並んでいる中で一番安いものを買う」という基本姿勢である。
そのためか、今まで、数々の失敗をしてきた。買ったものが、基本ださい。
けれど、スーツがださくても、仕事がきちんとできていればかっこよく見えるからいいのだと、よくわからない言い訳でここまでやってきた。
そのぼくが、6年前に5000円のイヤホンを買ったことに、純粋に驚いているし、そして喜んでいる。
いいものを買ったなあ!
仕事が落ち着いた夜、そういえばこのイヤホンの「本気」ってどうなんだろうと、気になった。
人はいない。電話もかかってこない。
イヤホンを耳に深く挿す。
LOSTAGE「In Dreams」にしよう。スリーピースなのに音が厚い。リフが泣ける。置いたベースが響く。ドラムが沁みる。
20分。30分。名曲を聴き続ける。
……いい曲たちだ。
帰るころには、イヤホンを試していたのだということを完全に忘れていた。「イヤホンによる良さ、違い」は全くわからなかった。ただ名曲を聴いたというだけである。
5000円返してくれ。俺は100円のでよかった。
あのときはどうかしていたのだ。イヤホンだぞ。ヘタすると100均でも売っている。
職場ではずっと音楽を聴いているのだが、周囲の病理医や技師、臨床医などがいつ話し掛けてくるかわからないから、イヤホンは耳に「軽く腰掛けている程度」にしか挿していない。音量もかなり絞っている。電話や迅速診断のコールを聞き逃すわけにもいかない。
つまりは、5000円の意味なんて、なかったと思う。ほとんど無駄だった。
けれど、ぼくは、この6年間、毎朝、イヤホンを耳に挿す度に、「これはいいイヤホンだからなーあ」と、ものすごく小さく悦に入っていた。
いいものを買って働いているんだというよろこびを、毎日少しずつ、値段を思い出すことで、得ていた。
たぶん、この5000円を使わずに大切にとっておいて、ほかのいかなる5000円のものを買ったとしても、ここまで長時間に亘って、スイカに塩をかける程度の、カレーにスライスチーズを入れる程度の、ささやかな幸せを「毎日得続ける」ことはできなかったと思う。
このイヤホン、とてもいい買い物だったと思っている。
ぼくは元々、5000円をきっちりけちっていく男だ。
スーツの半額セールで、25000円の安売りスーツと20000円の安売りスーツが並んでいたら、絶対に25000円の方は買わない。
25000円のスーツは、元値50000円。
20000円のスーツは、元値40000円
このどちらを選ぶかについて、人々にはいくつかの考え方がある。
25000円のスーツのほうが、「安くなった値段がでかい、すなわちお得である」という考え方。
20000円のスーツのほうが、純粋に安いという考え方。
25000円と20000円の違いは無視して、純粋にスーツのデザインで勝負すべきという考え方。
ぼくは、「並んでいる中で一番安いものを買う」という基本姿勢である。
そのためか、今まで、数々の失敗をしてきた。買ったものが、基本ださい。
けれど、スーツがださくても、仕事がきちんとできていればかっこよく見えるからいいのだと、よくわからない言い訳でここまでやってきた。
そのぼくが、6年前に5000円のイヤホンを買ったことに、純粋に驚いているし、そして喜んでいる。
いいものを買ったなあ!
仕事が落ち着いた夜、そういえばこのイヤホンの「本気」ってどうなんだろうと、気になった。
人はいない。電話もかかってこない。
イヤホンを耳に深く挿す。
LOSTAGE「In Dreams」にしよう。スリーピースなのに音が厚い。リフが泣ける。置いたベースが響く。ドラムが沁みる。
20分。30分。名曲を聴き続ける。
……いい曲たちだ。
帰るころには、イヤホンを試していたのだということを完全に忘れていた。「イヤホンによる良さ、違い」は全くわからなかった。ただ名曲を聴いたというだけである。
5000円返してくれ。俺は100円のでよかった。
2017年7月21日金曜日
病理の話(102) 上皮という外壁を考える
体の表面、すなわち皮膚には、扁平上皮という細胞がある。その名の通り平べったい。顕微鏡で上から見ると、まるでジグソーパズルのようにぴっちりと敷き詰められている。しかも、このジグソーパズルは1層ではなく、何層にも折り重なっている。地層みたいになっている。
扁平上皮細胞は、地層の最下層付近(厳密には最下層の一段上くらい)で細胞分裂を起こして、増える。細胞を作る工場が下の方にある。少しずつ形が平べったく変化しながら、上の層に上がっていく。最後にはジグソーパズルとなり……。
実は、ジグソーパズルでは終わらない。その後、細胞は「脱核」といって、最も大切な核が無くなり、抜け殻(燃え殻でもよい)になる。ぼろぼろになり、少し剥がれやすくなるのだが、それでもまだ、皮膚の最表層にひっついている。
これが角質と呼ばれる成分だ。軽石でこするととれる。
角質は、すでに、生きた細胞とは呼べない。それでも体の一部なのである。これが実はめちゃくちゃに重要だ。
皮膚扁平上皮細胞は、外界からの敵をはねかえす「バリバリの実のバリア細胞」である。何もかもはじきかえす。おふろに入ったときに、水を吸って太る人というのはいないように、ジグソーパズルはスキマのない完全な接着で、水すらほとんど通さない。
ただ、それにも限界があるのだ。いくら完璧なジグソーパズルと言っても、所詮は細胞、キズもつくし、細かい細菌などが表面にひっついたまま長居することもある。
だから、人間は、バリアの「最後の壁」として、角質層を用意している。これが実ににくらしい働きをする。
「三國志」などで、城の外壁をよじのぼって兵が城を攻めるシーンがあるが、あの外壁がときおりガラガラッと崩れたらどうなるか。
登ってきた兵士ごとぜんぶ落っこちてしまうだろう。結果、城への兵士の侵入を守ることができる。
扁平上皮の最外層に角質層があるのは、この、「壊れやすい外壁」の役目だと考えることができる。完全なバリアのさらに外側に、もろく崩れやすい壁を用意しておくことで、しつこい外敵を定期的に剥がれ落とすことができる。
人間を含めた全ての生物は、「境界」がある。ここからここまでが人間でーす、と、境界線を引くことができる。ただし、その最も外部は、なるべくもろく、ふわふわに作っておく。そうすることで、周囲からへばりついた外敵を簡単にそぎ落とすことができ、人体への敵の侵入を防ぐことができる。
こういう現象は他の部位にも存在する。扁平上皮が存在しない、胃や腸などにおいては、角質層はないのだが、かわりに「ねばねばの粘液」をそれぞれ分泌する。粘液はさらさらしていないので、簡単には壁から剥がれないのだが、ゆっくりと移動しながら、最外層の外敵を洗い流す役割を果たす。
……ただし、消化管は、洗い流すだけではだめだ。栄養だけはうまく取り込まないといけない。何でもはがして捨てて良い皮膚扁平上皮との違いがここにある。粘液だけではなく、さらさらの漿液、胃酸、蛋白分解酵素などを、部位に応じて様々に分泌するなどして、工夫をこらす。
消化管にある細胞は「腺上皮」と呼ぶ。腺という字は、にくづきに「泉」と書く。いかにもいろいろなものを分泌しそうではある。
今回、生体が外敵と触れる部分の話を、「外側のもろいもの」に着目して書いたが、この項目はほかにも「触手」で説明を試みたことがある。上皮と呼ばれる細胞がいかに複雑に、その場その場で役割を果たしているか、というモンダイは、語りがいがあり、病理学の根幹を為している概念でもある。
扁平上皮細胞は、地層の最下層付近(厳密には最下層の一段上くらい)で細胞分裂を起こして、増える。細胞を作る工場が下の方にある。少しずつ形が平べったく変化しながら、上の層に上がっていく。最後にはジグソーパズルとなり……。
実は、ジグソーパズルでは終わらない。その後、細胞は「脱核」といって、最も大切な核が無くなり、抜け殻(燃え殻でもよい)になる。ぼろぼろになり、少し剥がれやすくなるのだが、それでもまだ、皮膚の最表層にひっついている。
これが角質と呼ばれる成分だ。軽石でこするととれる。
角質は、すでに、生きた細胞とは呼べない。それでも体の一部なのである。これが実はめちゃくちゃに重要だ。
皮膚扁平上皮細胞は、外界からの敵をはねかえす「バリバリの実のバリア細胞」である。何もかもはじきかえす。おふろに入ったときに、水を吸って太る人というのはいないように、ジグソーパズルはスキマのない完全な接着で、水すらほとんど通さない。
ただ、それにも限界があるのだ。いくら完璧なジグソーパズルと言っても、所詮は細胞、キズもつくし、細かい細菌などが表面にひっついたまま長居することもある。
だから、人間は、バリアの「最後の壁」として、角質層を用意している。これが実ににくらしい働きをする。
「三國志」などで、城の外壁をよじのぼって兵が城を攻めるシーンがあるが、あの外壁がときおりガラガラッと崩れたらどうなるか。
登ってきた兵士ごとぜんぶ落っこちてしまうだろう。結果、城への兵士の侵入を守ることができる。
扁平上皮の最外層に角質層があるのは、この、「壊れやすい外壁」の役目だと考えることができる。完全なバリアのさらに外側に、もろく崩れやすい壁を用意しておくことで、しつこい外敵を定期的に剥がれ落とすことができる。
人間を含めた全ての生物は、「境界」がある。ここからここまでが人間でーす、と、境界線を引くことができる。ただし、その最も外部は、なるべくもろく、ふわふわに作っておく。そうすることで、周囲からへばりついた外敵を簡単にそぎ落とすことができ、人体への敵の侵入を防ぐことができる。
こういう現象は他の部位にも存在する。扁平上皮が存在しない、胃や腸などにおいては、角質層はないのだが、かわりに「ねばねばの粘液」をそれぞれ分泌する。粘液はさらさらしていないので、簡単には壁から剥がれないのだが、ゆっくりと移動しながら、最外層の外敵を洗い流す役割を果たす。
……ただし、消化管は、洗い流すだけではだめだ。栄養だけはうまく取り込まないといけない。何でもはがして捨てて良い皮膚扁平上皮との違いがここにある。粘液だけではなく、さらさらの漿液、胃酸、蛋白分解酵素などを、部位に応じて様々に分泌するなどして、工夫をこらす。
消化管にある細胞は「腺上皮」と呼ぶ。腺という字は、にくづきに「泉」と書く。いかにもいろいろなものを分泌しそうではある。
今回、生体が外敵と触れる部分の話を、「外側のもろいもの」に着目して書いたが、この項目はほかにも「触手」で説明を試みたことがある。上皮と呼ばれる細胞がいかに複雑に、その場その場で役割を果たしているか、というモンダイは、語りがいがあり、病理学の根幹を為している概念でもある。
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