ありとあらゆる医者は、タテマエ上、学生時代にほぼ全ての臨床科のことを「習っている」。
これは、義務教育の際にすべての小中学生が、日本の歴史について「習っている」というのと同じ構造だ。
習っている。
それだけである。
医学生は卒業後、まず第一に、手先を動かす訓練をする。
現場でここぞというときに、体が硬直しないように。
電子カルテの書き方。入院患者に対する基本的な対処法。外来での事務処理。
急変した患者の対応。救急外来での最適化された行動順序。
医師に求められている数々の手技。挿管、血液ガス採取、大血管へのカテーテル挿入。
「脳よりも先に体が動いてくれないと話にならないよ」という、現場からの期待が大変はげしい。
脳は置き去りにしてでも、身につけなければいけない。
脳に待っていてもらっている2年間で、「日本史」のことは、ほとんどすべて忘れていく。
どれだけしっかり勉強していても、ほとんどすべて忘れる。
ただし、「ほとんどすべて」だ。すべてではない。
自分が将来にわたって使い続ける知識については忘れない。
研修医は、自分が日本史の中で、「どの時代」を勉強したいかを見据えている。
縄文時代の第一人者になるか。
室町時代なら誰にも負けない人になるか。
江戸時代の中期を学ぶか、末期を学ぶか、あるいは江戸時代成立前後を学ぶか。
日清戦争のなりたち。
田中角栄のやったこと。
これらは同じ日本史と言ってもまるで違うだろう。
田中角栄の業績に詳しいからと言って縄文土器を見極められるわけがない。
たとえば消化器内科と整形外科というのは、それくらい違う。
小中学生のころ習った「日本の歴史」だと、みんな、どこを一番覚えているだろう?
最初の方で学んだ、「前方後円墳」とか、「聖徳太子」とか、あのへんか。
多くのマンガやドラマで描かれている、「戦国時代」とか「織田・豊臣・徳川」とか、そのへんか。
ザビエルを思い浮かべる人もいるだろう。
平安京だけは忘れない人もいるに違いない。
循環器内科とか救急というのは、ザビエルとか平安京みたいなものだ。
昔習ったなあ、というのを強烈に覚えている科。
頭に残っている科。
「ぼくは日本史に詳しいよ」と人に言って回るときに、説明のしやすい科。
じゃあ病理は?
うーん、そうだな。少なくとも、特定の時代とか、特定の人物ではない。
「日本の文化史」とか。
「日本の外交史」とか。
何かひとつの視点で、すべての歴史を俯瞰しているようなイメージ。
「どこかの時代」を学ぶのではなく、すべての時代について、ある決まった視点でまとめ直すような感じ……。
医学生がときどきツイートしているのをみる。
「病理の試験めちゃくちゃきつい、将来病理医にだけはぜったいなんねー」
「顕微鏡実習マジで意味無い、病理は進路としては消えたな」
これは、学校で日本の歴史を学んだ小学生が、
「年号覚えられない、社会はきらい」
「歴史資料館の見学行ったけどちっともおもしろくない、歴史はつまらない」
と言っているのに似ているなあと思う。
そりゃあつまらんだろう。
病理が「そういうもの」だと思っている間は、つまらんだろうな。
昔、社会に苦労した子供達の中には、たまに、大人になって、もはや社会の勉強なんてしなくてもいいんだよというポジションについてから、ある日、大河ドラマみたいなちょっとしたきっかけで、
「あっ、今なら勉強できるかも、今なら社会がおもしろいかも」
という気になる人がいる。
病理というのはそういうアレだと思うんですよ。大河ドラマが好きなら病理が嫌いなわけないんだ。
2017年9月21日木曜日
2017年9月20日水曜日
カツセマサヒコを倒す
しゃべくり007を見ていた。
最近のイケメンや美女は、バラエティに出ると、
「実はこんな変なところが!」
とか
「意外とオタク!」
とか
「こう見えて爽やかではない!」
みたいにいじられている。
いじられて、イケメン本人も嬉しそうに笑っている。
たしかに。
かっこいいとか足が長いとか顔が小さいなんてことを前面にプッシュされても、ぼくはすぐに嫉妬してしまうから。
こんな完璧超人にも実はこんな弱点が、というところを笑えるスタンスでいじってくれた方が楽しく見られる。
世間的にも伸びるしバズる。
いじりと自虐を、いじめと他虐にならない程度にまぶした番組じゃないと、ぼくはチャンネルを変えてしまうだろう。
実際、いいものをいいと言い続けるだけで人の耳目を集めることは、極めて難しいと思う。
いいものをいいと言い続け、歩き回って人々の肩を叩き、誰かの横でうまそうにメシを食って幸福なため息をつき、よさみよさみ尊い尊いと念仏のように唱え。
それ「だけ」で、ものの良さを伝えて幸せを広めていける人。
いるにはいる。
なんと力強くやさしいことか。
……ぼくらみんなに、できるものだろうか?
いいものをいいと言い続けるだけのことを続けている人からは、なんというか、NHKのにおいがする。
すこし野暮ったいというか。
下品なことは言わないし。
大音量のCMもかからないけれど。
大声で笑うこともない。
スーツで、七三で、笑わない。
……はあ、参ったな。
ぼくは、「いいものをいいと言い続けている、シンプルな、優しい人」にすら、レッテルを貼ってしまっているようだ。
NHKに巨乳のスポーツキャスターが出たと言ってタイムラインが盛り上がっていた。
テレビ東京がニュース速報を出したと言ってタイムラインが怯えていた。
「いいものをいいと言い続けるだけ、それがシンプルでかっこいい」と思い込んでいたはずのぼくの脳にも、いくつかの付箋が貼られており、いくつかのしおりが挟まっていて、偏光フィルターとブルーライト軽減グラスがかかっている。
とりあえず無印良品を着こなすイケメンライターだけは滅ぼそうと心に決めているぼくの、目に、脳に、こびりついてしまったレッテル。
とりあえずカツセマサヒコだけは殴るけれど、その後のことはもう少し、考えていきたいと思っている。
最近のイケメンや美女は、バラエティに出ると、
「実はこんな変なところが!」
とか
「意外とオタク!」
とか
「こう見えて爽やかではない!」
みたいにいじられている。
いじられて、イケメン本人も嬉しそうに笑っている。
たしかに。
かっこいいとか足が長いとか顔が小さいなんてことを前面にプッシュされても、ぼくはすぐに嫉妬してしまうから。
こんな完璧超人にも実はこんな弱点が、というところを笑えるスタンスでいじってくれた方が楽しく見られる。
世間的にも伸びるしバズる。
いじりと自虐を、いじめと他虐にならない程度にまぶした番組じゃないと、ぼくはチャンネルを変えてしまうだろう。
実際、いいものをいいと言い続けるだけで人の耳目を集めることは、極めて難しいと思う。
いいものをいいと言い続け、歩き回って人々の肩を叩き、誰かの横でうまそうにメシを食って幸福なため息をつき、よさみよさみ尊い尊いと念仏のように唱え。
それ「だけ」で、ものの良さを伝えて幸せを広めていける人。
いるにはいる。
なんと力強くやさしいことか。
……ぼくらみんなに、できるものだろうか?
いいものをいいと言い続けるだけのことを続けている人からは、なんというか、NHKのにおいがする。
すこし野暮ったいというか。
下品なことは言わないし。
大音量のCMもかからないけれど。
大声で笑うこともない。
スーツで、七三で、笑わない。
……はあ、参ったな。
ぼくは、「いいものをいいと言い続けている、シンプルな、優しい人」にすら、レッテルを貼ってしまっているようだ。
NHKに巨乳のスポーツキャスターが出たと言ってタイムラインが盛り上がっていた。
テレビ東京がニュース速報を出したと言ってタイムラインが怯えていた。
「いいものをいいと言い続けるだけ、それがシンプルでかっこいい」と思い込んでいたはずのぼくの脳にも、いくつかの付箋が貼られており、いくつかのしおりが挟まっていて、偏光フィルターとブルーライト軽減グラスがかかっている。
とりあえず無印良品を着こなすイケメンライターだけは滅ぼそうと心に決めているぼくの、目に、脳に、こびりついてしまったレッテル。
とりあえずカツセマサヒコだけは殴るけれど、その後のことはもう少し、考えていきたいと思っている。
2017年9月19日火曜日
病理の話(122) 生命のプログラム
人体を守る仕組みのひとつに、
「リンパ球がばいきんを攻撃する」
というシステムがある。
言葉で書くと簡単だ。
たとえ話をするならば、リンパ球は警察官で、ばいきんは犯罪者である。
けれど、リンパ球には「脳がない」。
細胞1個だ。脳も手足もない。単なる「まるいつぶ」である。
そんなつぶが、どうやって犯罪者を認識して、どうやって倒すというのか?
そもそも、まるいつぶにそんな警察官みたいな役割が果たし得るのか?
もともと受精卵という1個の細胞が、分裂を繰り返して、何兆という細胞にばけて、今のぼくらの体ができている。
その一部を、わざわざ「まるいつぶにして」、「警察官の役割を担わせて」、「犯罪者の顔を見分ける能力をあたえて」、「犯罪者を逮捕したり、直接罰したりする能力を与える」。
こんな複雑な命令、いったいどうやって与えているのだろう。
人体の細胞がどのように働くかを、適材適所、適切なタイミングで命令しているのは、ざっくりと言うならば、
「DNA」
によって記載されたプログラムであるという。
気が遠くなる。
いったいどれだけ精巧なプログラムを書いたら、こんな複雑な仕事ができるのだろう?
*
……と、このような記事を書いて、ブログにアップしているぼくは、ふと気づく。
このブログ作成ページだって、プログラムで書かれているわけだよね。
コンピュータプログラムはご存知の通り2進法だ。
0(電気を通さない)と1(電気を通す)の2通りを組み合わせて、無数の言葉を生み出す。
0と1だけで、日本語を自由に表示させたり、行を変えたり、ブログのデザインを決めたり、リンクを飛ばしたり、なんでもやってしまう。
さて、プログラマーは、実際に「0と1」を使ってプログラムを書いているのだろうかというと、確か、そうじゃなかったはずだ。
ぼくはあまり詳しくないけれど。
「言語」を使っているんじゃなかったか。
0と1だけでプログラムを記載するわけじゃなくて、もう少しだけ人が使いやすい言葉に置き直して、プログラムを書いているんじゃなかったかな。
C言語がどうとか、ジャバがどうとか、あったよ、確か。
では、人間の体をコードするプログラムはどうやって書かれているか。
4進法で書かれているのだ。
A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)。
0と1の2進法よりも、組み合わせが多い分、複雑なプログラムが書ける。
けれど、このATGCだけを使ってすべてのプログラムが書かれているわけではない。
プログラマーが、キーボードで010010110111010と入力してプログラムを書いたりしないように。
「生命をプログラムしたプログラマー」も、ATGCだけでプログラムを書くのはやばいと思ったのだろう。
ATGCを3つずつ組み合わせ、「言語」を用意した。
「AGC」のセットを、「セリン」という物質に対応させる。
「GAA」のセットを、「グルタミン酸」という物質に対応させる。
ATGCの4進法でそのままプログラムを書くのではなくて、ATGCから3つずつの組み合わせをつくり、これらを20種類の「アミノ酸」という物質に対応させた。
いきなり4種類の文字だけですべてを書こうとするのではなく、4種類の文字の「組み合わせ」(コドン)を言語として設定。
コドンAGCがプログラムに出てきたら、それはつまり「セリンという部品をここにおいてくれ」というサイン。
コドンGAAがプログラムに書かれていたら、「今度はグルタミン酸をここにおいてくれ」というサイン。
つまり、AGCGAA と書かれていたならば、セリンとグルタミン酸を隣同士においてくっつければいい。
4進法のプログラムを3文字ずつ読みながら、20種類のアミノ酸を次々と並べていく。
アミノ酸がつながっていく。
つながってできたものを、「タンパク質」と呼ぶ。聞いたことがあるだろう。タンパク質。
細胞というのは結局のところ、すべてこの「アミノ酸を連ねてできたタンパク質」によって作られていると考えてよい。
アミノ酸は20種類のレゴブロック。
20種類あれば、たいていの形をつくることができるだろう。レゴで作った建物とか乗り物がタンパク質に相当する。
この仕組みを細かく研究した人が、ある日、思った。「生命すげぇな、4進法でなんでもやっちゃってるよ」。
そして、こんなことを考えた。
「パソコン上の仮想空間に、4進法で記載される『単純な法則』を用意する。1秒あたりに1回、その『法則』が作用して、『ある図形』の形が変わるようにプログラムする。パソコン上で何十億年という時間を再現したら、その図形は”生きつづける”だろうか?」
生きつづける、というのはたとえ話だ。
「ごはんをたべて、周りに影響をあたえながら、ときに敵と戦い、繁殖をして、個体が死んでも種族としては生き続ける」。
コンピュータ上の図形を、あたかもそのように「みなす」。
コンピュータ上で放っておいてもうにょうにょ動き続け、形を変え続け、存在しつづけるかどうか。ほんとの生命ではない。遊びみたいなものだ。
「ライフゲーム」と呼ばれる。
DNAが4進法なのだから。
ゲームとはいえ、「4進法」はライフを生み出す可能性がある。
ゲームとはいえ、「4進法」はライフを生み出す可能性がある。
コンピュータ上で膨大な時間を再現すれば、単純な「ライフ的なもの」は作れるのではないか?
このライフゲームはあまりうまくいかなかった。
4進法だけだと、何度仮想空間を設定し直しても、途中で生命としての「複雑さ」が現れてこず、バリエーションに限界が生じて、結果、不測の事態に対応できずに、「ほろびて」しまう。
足りなかったので、ためしに5進法にしてみた。
文字を増やせばバリエーションが多くなるだろう、という発想。しかし、今度は、「複雑すぎて」、図形が途中でうまく変化しなくなってしまった。
机上の空論とは便利なことばである。
本来、「○進法」という概念には、小数点はそぐわない。
0と1での2進法というのはわかる。ATGCの4進法というのはわかる。
けれど、「4.2進法」と言われたって、想像がつかないだろう。
けれど、このライフゲームにはまっていた学者は、思った。
「4進法だと複雑さがたりない。5進法だとカオスに陥ってしまう。だったら、4.2進法くらいがちょうどいいんだけどなあ……。」
4.2文字で記載するというのは意味がわからないのだが、ためしに、やってみた。
すると、うまくいってしまった。図形はいつまでも、うにゃうにょと変化し続けて、それはまるで新種のアメーバかなにかを見ているかのようだった。
「え……? どういうこと……?」
生命の複雑さを記載するには、どうも、単なる4進法では複雑さが足りないらしい。
人間って、ATGCの4進法でプログラムされているはずなんだけどなあ……あっ!
学者は思いついた。
DNAはATGCの4文字だけど。
RNAになると、AUGCの4文字にかわるんだよな。確か。
T(チミン)が、なぜかU(ウラシル)と対応するんだ。
これ、文字を「ちょっとだけ増やしている」のかもしれない。
それに、DNAにはほかに「修飾」とよばれるシステムもある。
メチル化とか、アセチル化とか。文字にかざりが付くのだ。
これも、文字を「ちょっとだけ増やしている」のかもしれないな。
生命って、4進法じゃなくて「4.○進法」くらいなのかもしれない……。
(一部ぼくが適当にいじっているのでフィクション化してますが、そのような仮説が提唱されたことは実際にあるそうです。)
2017年9月15日金曜日
プロ野球選手がゲルマニウムのネックレスをする理由がわからない
ファッチューチョン、だったっけ。
あってた。佛跳牆。
バイブル・めしにしましょう(小林銅蟲)の3巻に乗っていた。
いわく、「山海の珍味を壺にぶちこみ、壺ごと蒸し煮する高級中華料理です。主な特徴として、値段に天井がない」。
乾物をはじめとする中華の食材をこれでもかこれでもかと大量にまぜこんで、力で蒸し煮にしたスープ。
「個々の食材の特徴は失われて巨大なうまみの塊が流れ込んでくる」
「味の余韻がめっちゃ長い」
「色々な生命の意識が入ってくる」
のだという。
人間の体ってこうだよなあ、と思った。
もはや何が元になっているのかわからない、味の塊。
昔、化学で習った。「緩衝液」という言葉を。
緩衝液というのは、多少の酸や多少のアルカリをぶちこんでも、pH(ペーハー)がほとんど変わらない液をいう。
酸を入れてもばんばん中和されてしまい、あまり酸性に傾かない。
アルカリを入れてもじゃんじゃか中和されてしまい、そんなに塩基性に傾かない。
そういう液体があるのだという。
人間の体ってこうだよなあ、と思った。
もはや何を入れてもそうかんたんにはぶれない、不屈の緩衝液。
生命というのは、無数の足を持つやじろべえである。
あまりに多くの要素でなりたっているために、一部の足を重くしても、一部の足をとっぱらっても、もはやバランスがあまり変わらない。
そんなやじろべえでいることに、メリットがある。
今日はごはんばかりを食べ、明日はバナナばかりを食べ、明後日はビールばかりを飲んだとしても、1週間程度ではさほど体調が悪化しない、ということ。これは、生存していく上ではとてつもなく大きなメリットなのである。
ある日は果実を手に入れた。
ある日はマンモスの肉を狩れた。
ある日は水しか飲めなかった。
それでも人は生きる必要があった。
それでも人間は「そのまま生き続けて」いなければいけなかった。
いつ、何が手に入るかわからないからこそ、生命はファッチューチョンでなければいけなかった。生命は緩衝液であることを選んだ。生命は無数の足を持つやじろべえになった。
「このドリンク一個でとても健康になれる」なんてことはあり得ない。
「このストレッチひとつで人生が変わる」なんてこともない。
すべてはバランスであり、るつぼであり、個々人がより分けて摂取したり排除したりして動かせるほど安直なシステムではない。
……ところで。
西洋医学というのはおそろしい。
この薬1個で、病気が治る、というのをやっているのだから。
無数の足を持つやじろべえがどちらかに傾いたとき、それを何かひとつのおもりで直そうとしても、普通は直るものではない。
でも、西洋医学は、それを直してしまう。
まるで奇跡ではないか?
西洋医学を奇跡にしないために、人は、統計をとる。
必死で臨床試験をやる。
万が一! たったひとつの物質が、人間のバランスをもとに戻してくれるかもしれない!
そういうアイディアをぶつけて、ぶつけまくって、生き残った「奇跡の一錠」だけが、西洋医学には採用されているのだ。
奇跡を確認し終わった結果が今の医療だと思えばいい。
ぼくらはいつも、奇跡に囲まれて生きている。
慎んで、学んで、ラッキーに感謝する。
そして、奇跡をオカルトにしないでくれた、統計学にもそっと手を合わせる。
あってた。佛跳牆。
バイブル・めしにしましょう(小林銅蟲)の3巻に乗っていた。
いわく、「山海の珍味を壺にぶちこみ、壺ごと蒸し煮する高級中華料理です。主な特徴として、値段に天井がない」。
乾物をはじめとする中華の食材をこれでもかこれでもかと大量にまぜこんで、力で蒸し煮にしたスープ。
「個々の食材の特徴は失われて巨大なうまみの塊が流れ込んでくる」
「味の余韻がめっちゃ長い」
「色々な生命の意識が入ってくる」
のだという。
人間の体ってこうだよなあ、と思った。
もはや何が元になっているのかわからない、味の塊。
昔、化学で習った。「緩衝液」という言葉を。
緩衝液というのは、多少の酸や多少のアルカリをぶちこんでも、pH(ペーハー)がほとんど変わらない液をいう。
酸を入れてもばんばん中和されてしまい、あまり酸性に傾かない。
アルカリを入れてもじゃんじゃか中和されてしまい、そんなに塩基性に傾かない。
そういう液体があるのだという。
人間の体ってこうだよなあ、と思った。
もはや何を入れてもそうかんたんにはぶれない、不屈の緩衝液。
生命というのは、無数の足を持つやじろべえである。
あまりに多くの要素でなりたっているために、一部の足を重くしても、一部の足をとっぱらっても、もはやバランスがあまり変わらない。
そんなやじろべえでいることに、メリットがある。
今日はごはんばかりを食べ、明日はバナナばかりを食べ、明後日はビールばかりを飲んだとしても、1週間程度ではさほど体調が悪化しない、ということ。これは、生存していく上ではとてつもなく大きなメリットなのである。
ある日は果実を手に入れた。
ある日はマンモスの肉を狩れた。
ある日は水しか飲めなかった。
それでも人は生きる必要があった。
それでも人間は「そのまま生き続けて」いなければいけなかった。
いつ、何が手に入るかわからないからこそ、生命はファッチューチョンでなければいけなかった。生命は緩衝液であることを選んだ。生命は無数の足を持つやじろべえになった。
「このドリンク一個でとても健康になれる」なんてことはあり得ない。
「このストレッチひとつで人生が変わる」なんてこともない。
すべてはバランスであり、るつぼであり、個々人がより分けて摂取したり排除したりして動かせるほど安直なシステムではない。
……ところで。
西洋医学というのはおそろしい。
この薬1個で、病気が治る、というのをやっているのだから。
無数の足を持つやじろべえがどちらかに傾いたとき、それを何かひとつのおもりで直そうとしても、普通は直るものではない。
でも、西洋医学は、それを直してしまう。
まるで奇跡ではないか?
西洋医学を奇跡にしないために、人は、統計をとる。
必死で臨床試験をやる。
万が一! たったひとつの物質が、人間のバランスをもとに戻してくれるかもしれない!
そういうアイディアをぶつけて、ぶつけまくって、生き残った「奇跡の一錠」だけが、西洋医学には採用されているのだ。
奇跡を確認し終わった結果が今の医療だと思えばいい。
ぼくらはいつも、奇跡に囲まれて生きている。
慎んで、学んで、ラッキーに感謝する。
そして、奇跡をオカルトにしないでくれた、統計学にもそっと手を合わせる。
2017年9月14日木曜日
病理の話(121) なぜ手術をしどうして病理診断をするのかって話
手術で臓器をとってくる「理由」を考える。
たとえば、「がんだから」手術をします、という理由がある。これをもう少し深く掘り下げる。
「ある種のがんが、ある程度周囲に潜り込んだりしみ込んだりしているとき、手術をすることで患者にメリットがある。だから手術をする」
なるほど、ではそのメリットとは?
1.長く生きられる。
2.痛み、苦しみが減る。
だいたいこのどっちかである。
病理診断でがん細胞を見ているとき、あるいはがんに限らず、手術で採ってきた臓器をみるとき、
「この手術をすることによって、患者にはどういうメリットがあったのかなあ」
ということを考える。
実は、そんなに患者のことを考えなくても、病理診断することはできるんだけれど。
細胞ががんであるかどうかを判断するだけのことに、患者の顔を思い浮かべる必要はない。細胞のことをきちんと勉強しておけば、用は足りる。
それでも、ぼくらは、診断とは直接関係しない、「患者にとってのメリット」を思い浮かべながら診断をする。
――患者はこの手術によってどれくらい長生きできるんだろう、患者は医者とどのような相談をしてこの手術に臨んだんだろう、手術で失った部分があるならば、それだけデメリットもあるはずなのに、それでもなお手術を選ぶだけのメリットがあったということだ、そのメリットというのはいかばかりだろうか。
――手術をしなければどれだけの痛みがあったのだろう、どれほど苦しんでいたのだろう。この手術によって病巣がとりのぞかれ、その結果患者は苦しみから解放されたのだろう、さて、どれほど苦しみが減っただろうか。
細胞とは関係ないだろうけど、考える。
──医療統計の論文を読む。ある病気に対し、ある手術をすると、どれくらいの確率で患者がどれほどよくなるか。逐一論文になっている。ガイドラインと呼ばれる指針にまとめられている。数々の教科書に書いてある。それをきちんと読む。
細胞とは関係なくても、読む。
──臨床医が何を考えているのかを知ろう。書を捨てずに、医局に出よう。主治医には意図があり、こうなれ、と思った願いがある。患者に直接会わないぼくたちも、臨床医をはじめとする医療者であればいくらでも会うことができる。
細胞とは関係あるわけないけど、聞く。
その上で。
とうに患者から切り離されてしまったプレパラートの中に、患者の苦しみを見定めるヒントを探す。
顕微鏡で臓器をみるときに、がん細胞や病巣そのもの以外にも、あらゆる細胞を見る。
たとえば神経。たとえば手術のきれっぱし部分。たとえば病変とは関係ない部分の粘膜。たとえば筋肉、たとえば臓器の大きさ、血管の増え具合……。
これらがどのように変化しているかを探り、患者にはこんな苦しみが出ていただろうなと想像する。
細胞と関係ないことを聞いて、読んで、考えているからこそ、細胞をそれ以上に、診る。
「患者のことを想像しながら診断する」こと。実際、病理医にとって必要なスキル、とまては言えない。
だって、患者がどのように苦しんでいたとしても、もう手術は終わっているのだから。症状はすでに取り去られているのだから。顕微鏡をしっかり見ることが求められているのだから。
けれども。
「そこ」を想像せずに、がん「だけ」を見て仕事を終えてしまっては、いけないのだと思う。
単に理想論とか美談として語りたいのではない。
臨床医がやってくる。すでに診断を終えた患者の病理報告書を手にして。
「先生今ちょっといい?」
──いいですよ。
「これ、診断には何の文句もないんだけど、ちょっと聞きたいことがあって」
──どうぞどうぞ。
「この人、ふつうだったら背中が痛くなるはずの病気なんだよね。けど、今回は腹側が痛くなってた。関連痛ってことでいいのかもしれないけど、なんかちょっと解せなかったんだよな。もしかして病気の範囲が、腹側に及んでたのかな」
──なるほど、おまちください。ちょっとプレパラート出しましょう。一緒に見ましょう。
「ありがとう」
──ここですね、病気が神経にそって、前方に「這って」います。レポートにも書いてある神経周囲浸潤というやつですが、今回のは「ちょっと特殊な這い方」をしています。画像には映らなかったかもしれません、這っている細胞の量は決して多くないですから。けれど、這った先でだいぶ周囲に障害を与えていますね。ここは映っていたかもしれませんよ。
「ん? あっ、これか……ちょっと離れたところのこれ。これも病気の範囲なのか。そうか、だから前方に痛みが出るのか」
──病理診断上、この方が将来どうなるかを予測する上ではどうでもいい所見なんですけど、手術前の痛みを解釈することができる所見でしたね。
「そうかそうか、ありがとう」
──いえ、ぼくもこれからこういう像が出ていたらきちんとレポートに書き加えます。勉強になります。
……これは「理想」ではなく、「現実」にすべき診療のスタイルではないかと思う。誰のための診断、誰のための治療、そういったことを考えれば、ぼくらが細胞を見る「だけ」でいてよいのかどうか、答えは出るはずだ。
たとえば、「がんだから」手術をします、という理由がある。これをもう少し深く掘り下げる。
「ある種のがんが、ある程度周囲に潜り込んだりしみ込んだりしているとき、手術をすることで患者にメリットがある。だから手術をする」
なるほど、ではそのメリットとは?
1.長く生きられる。
2.痛み、苦しみが減る。
だいたいこのどっちかである。
病理診断でがん細胞を見ているとき、あるいはがんに限らず、手術で採ってきた臓器をみるとき、
「この手術をすることによって、患者にはどういうメリットがあったのかなあ」
ということを考える。
実は、そんなに患者のことを考えなくても、病理診断することはできるんだけれど。
細胞ががんであるかどうかを判断するだけのことに、患者の顔を思い浮かべる必要はない。細胞のことをきちんと勉強しておけば、用は足りる。
それでも、ぼくらは、診断とは直接関係しない、「患者にとってのメリット」を思い浮かべながら診断をする。
――患者はこの手術によってどれくらい長生きできるんだろう、患者は医者とどのような相談をしてこの手術に臨んだんだろう、手術で失った部分があるならば、それだけデメリットもあるはずなのに、それでもなお手術を選ぶだけのメリットがあったということだ、そのメリットというのはいかばかりだろうか。
――手術をしなければどれだけの痛みがあったのだろう、どれほど苦しんでいたのだろう。この手術によって病巣がとりのぞかれ、その結果患者は苦しみから解放されたのだろう、さて、どれほど苦しみが減っただろうか。
細胞とは関係ないだろうけど、考える。
──医療統計の論文を読む。ある病気に対し、ある手術をすると、どれくらいの確率で患者がどれほどよくなるか。逐一論文になっている。ガイドラインと呼ばれる指針にまとめられている。数々の教科書に書いてある。それをきちんと読む。
細胞とは関係なくても、読む。
──臨床医が何を考えているのかを知ろう。書を捨てずに、医局に出よう。主治医には意図があり、こうなれ、と思った願いがある。患者に直接会わないぼくたちも、臨床医をはじめとする医療者であればいくらでも会うことができる。
細胞とは関係あるわけないけど、聞く。
その上で。
とうに患者から切り離されてしまったプレパラートの中に、患者の苦しみを見定めるヒントを探す。
顕微鏡で臓器をみるときに、がん細胞や病巣そのもの以外にも、あらゆる細胞を見る。
たとえば神経。たとえば手術のきれっぱし部分。たとえば病変とは関係ない部分の粘膜。たとえば筋肉、たとえば臓器の大きさ、血管の増え具合……。
これらがどのように変化しているかを探り、患者にはこんな苦しみが出ていただろうなと想像する。
細胞と関係ないことを聞いて、読んで、考えているからこそ、細胞をそれ以上に、診る。
「患者のことを想像しながら診断する」こと。実際、病理医にとって必要なスキル、とまては言えない。
だって、患者がどのように苦しんでいたとしても、もう手術は終わっているのだから。症状はすでに取り去られているのだから。顕微鏡をしっかり見ることが求められているのだから。
けれども。
「そこ」を想像せずに、がん「だけ」を見て仕事を終えてしまっては、いけないのだと思う。
単に理想論とか美談として語りたいのではない。
臨床医がやってくる。すでに診断を終えた患者の病理報告書を手にして。
「先生今ちょっといい?」
──いいですよ。
「これ、診断には何の文句もないんだけど、ちょっと聞きたいことがあって」
──どうぞどうぞ。
「この人、ふつうだったら背中が痛くなるはずの病気なんだよね。けど、今回は腹側が痛くなってた。関連痛ってことでいいのかもしれないけど、なんかちょっと解せなかったんだよな。もしかして病気の範囲が、腹側に及んでたのかな」
──なるほど、おまちください。ちょっとプレパラート出しましょう。一緒に見ましょう。
「ありがとう」
──ここですね、病気が神経にそって、前方に「這って」います。レポートにも書いてある神経周囲浸潤というやつですが、今回のは「ちょっと特殊な這い方」をしています。画像には映らなかったかもしれません、這っている細胞の量は決して多くないですから。けれど、這った先でだいぶ周囲に障害を与えていますね。ここは映っていたかもしれませんよ。
「ん? あっ、これか……ちょっと離れたところのこれ。これも病気の範囲なのか。そうか、だから前方に痛みが出るのか」
──病理診断上、この方が将来どうなるかを予測する上ではどうでもいい所見なんですけど、手術前の痛みを解釈することができる所見でしたね。
「そうかそうか、ありがとう」
──いえ、ぼくもこれからこういう像が出ていたらきちんとレポートに書き加えます。勉強になります。
……これは「理想」ではなく、「現実」にすべき診療のスタイルではないかと思う。誰のための診断、誰のための治療、そういったことを考えれば、ぼくらが細胞を見る「だけ」でいてよいのかどうか、答えは出るはずだ。
2017年9月13日水曜日
ツイッタラーズハイ
今これだけ努力すれば、いつかきっと楽ができるからな、と言われてがんばって、無事望んだポジションにつくことができた人間が、今度はそのポジションを守るために、昔よりも多くの努力をしている。
そんなシーンを目にする。
「将来、努力をすることが苦にならないように、昔から努力しておいたんだ」
そんな文脈すら、ある。
まあ確かにそういうやり方ってあるよな。
毎日ランニングするなんてかったるくてしょうがないけれど、何とかかんとか理由をつけて走る習慣を付けると、いずれ走ることが楽しくてしょうがなくなり、走ることが一日のリズムを産み、走らないとなんだか不安になったり、走れば走るほど充実したりするやつ。
ランナーズ・ハイみたいな状態になってしまえば、人間は幸せ回路をオンにすることができてしまう。
もっとも、自分の幸せ回路が、はたしてランナーであればオンになるのかどうかは、試してみないとわからない。
走るのがいいのか、泳ぐのがいいのか、本を読むのがいいのか、勉強するのがいいのか、キャバクラに通って金をぶん投げるのがよいのか、働くのがいいのか。
どうも人によって違うようだ。
毎日ツイートをしている。これはもう苦痛としての側面が確実にある。皇居の周りをランニングして疲れがたまるのと一緒である。勉強して目や腰がつらくなるのと一緒である。なぜそんなに苦労してまで毎日続けてるの? と言われた時に、まあ確かに疲れるんだけどさ、と答えるのはもはやランナーの言い訳と一緒だと考えている。
ツイートをしていない時間に、ツイートについて考えているとき、ああ、ぼくもまた、安直に幸せ回路をオンにする仕組みにのっかってしまっているんだなあ、人類だなあ、とあきらめてしまうのだ。
そんなシーンを目にする。
「将来、努力をすることが苦にならないように、昔から努力しておいたんだ」
そんな文脈すら、ある。
まあ確かにそういうやり方ってあるよな。
毎日ランニングするなんてかったるくてしょうがないけれど、何とかかんとか理由をつけて走る習慣を付けると、いずれ走ることが楽しくてしょうがなくなり、走ることが一日のリズムを産み、走らないとなんだか不安になったり、走れば走るほど充実したりするやつ。
ランナーズ・ハイみたいな状態になってしまえば、人間は幸せ回路をオンにすることができてしまう。
もっとも、自分の幸せ回路が、はたしてランナーであればオンになるのかどうかは、試してみないとわからない。
走るのがいいのか、泳ぐのがいいのか、本を読むのがいいのか、勉強するのがいいのか、キャバクラに通って金をぶん投げるのがよいのか、働くのがいいのか。
どうも人によって違うようだ。
毎日ツイートをしている。これはもう苦痛としての側面が確実にある。皇居の周りをランニングして疲れがたまるのと一緒である。勉強して目や腰がつらくなるのと一緒である。なぜそんなに苦労してまで毎日続けてるの? と言われた時に、まあ確かに疲れるんだけどさ、と答えるのはもはやランナーの言い訳と一緒だと考えている。
ツイートをしていない時間に、ツイートについて考えているとき、ああ、ぼくもまた、安直に幸せ回路をオンにする仕組みにのっかってしまっているんだなあ、人類だなあ、とあきらめてしまうのだ。
2017年9月12日火曜日
病理の話(120) 病理医ヤンデルと教科書のおすすめ
よい教科書というのが世の中にはいっぱいある。
ああ、この一行目は、読んだあなたにお得情報を一つももたらしていないな。
なぜなら、自明だからだ。そりゃそうだろうと言われてしまうだろう。知ってるよ、と。
けれど、あえて強調しておきたい、「よい教科書はある」。
医療現場で働いているとそれを忘れてしまうから。
「学術論文を読んで最新の知識をきちんと集めなければだめだ! 論文は批判的に読め! 書いている内容を盲信するのではなく、どれだけ信頼できる情報なのかを吟味しながら読むのだ! 薬をひとつ使うにしても、手術をひとつ行うにしても、すべては論文からはじまる!」
「座学だけでもだめだ、手先から知恵を吸収するのだ! 実践こそは最高の教師である、頭でっかちになるな、手技を身につけろ、現場の感覚を研ぎ澄ませ、クリニカル・パール(臨床現場で役立つ豆知識)を探して回れ、ピットフォール(落とし穴)に気を付けるのだ!」
たいていの医療者は、なんとなくこういうかんじで、医療をやっている。やることがいっぱいある。実に忙しい。
ぼくらはもう、学生ではない。
机上の空論では困る。
実践的にレベルアップしていかないといけない。
いろいろな理由で、学生時代にあれだけ使っていた「教科書」を読まなくなる。
代わりに論文を読む。あるいは読まないで実践に飛び込む。
「論文」と教科書はどう違うか?
原則的に、論文1本に対しては、テーマが1つ設定されている(あくまで原則)。
論文ではたとえば、「ピロリ菌は胃がんの原因となるだろうか」みたいな検討を行う。
「塩分を多くとると胃がんになりやすいか」なんてのもある。
「ある薬Aは胃がんによく効くか」。
「胃がんにおける遺伝子の変化を調べた」。
書き方はいろいろだ。統計学的な処理のレベルもさまざまである。解析方法はMethod(メソッド)と言うが、メソッドも多種多様。患者をいっぱい集めてきて調べた、という論文もあれば、あるタンパク質や遺伝子に着目してラボで実験をした結果、という論文もある。
基本的に、「何かひとつ」が書かれている。
これに対し、教科書というのはどのように書かれているか。
まず、教科書の著者というのは、「すでに偉い」。論文などをいっぱい書いて、業界で偉くなった人が書いたり編集をしたりする。
多くの論文をチェックする目を持った著者が、「もっとも信頼できる」と思った論文を集めて、その内容をストーリーとして紡ぐ。
この「ストーリーとして紡ぐ」に、教科書としての良さがある。
たとえば、ある教科書には、「胃がんの原因には食事とピロリ菌と加齢とその他もろもろがあるのだ」と書かれている。
この一行を書くために、平均して20本くらいの論文が「参照」されている。
いずれも厳選された20本だ。世界各国で読まれ、検証されたものを用いる。論文は出版されたあとに、世界中で批判的に読まれる。「ほんとかよ」「うそじゃねぇだろうな」「おおげさなのでは」「まぎらわしくはないか」。
そういうフィルターを通過した、本当に役に立つ論文が、偉い人によって選ばれる。そして、紡がれる。
論文は確かに最新の知識である。しかしその知識は、のちに世界から非難されるかもしれない。どれだけ信頼してよいかもわからない。
最新がよいとは限らないのだ。
それよりも、多くの論文が時間とともに吟味された時点で、
「今、世界中の論文を読んでみたらさ、この領域についてはこういうことでいいみたいだよ」
とまとめた本を読んだほうが、役に立つ場面がある。
それが、医療界における「教科書」である。
お察しの通り。教科書というのは、編者や著者の能力によって、良くも悪くもなる。
どの論文を選んだか。どこを使える情報として抽出したか。レアではあるけれど教科書に載せてもらえると助かる情報。典型的なのでさまざまなイラストと共に説明して欲しい内容。
同じ分野を扱っていても、教科書が違うと、まるで理解のスピードが変わる。
……以上の話を医学生、さらには研修医にすると、
「でも教科書読み比べるヒマなんてないっすよ」
「そもそもそんなに教科書読める時間がないです」
「ていうか教科書高くて買えないです」
という答えが返ってくる。必ず返ってくる。
ぼくは幸いというか不幸にもというか、患者を相手にしない(検体を相手にする)仕事をしており、つまりは医療者を相手にする仕事をしている。クライアントは臨床医であり、医学生は言ってみれば取引先の新入社員にあたる。
だからサービスをするのだ。
自分で教科書を買って読み比べる。そして一番よかったやつをおすすめする。
金? たいへんだよ、そりゃもうすごいかかる。けどいいんだ。そこに金をかける人間がいないと、教科書を読む流れは広がらないから。
病理医ヤンデルと教科書のおすすめ: https://togetter.com/li/956911
今回の記事、「病理の話じゃないじゃん」と思った?
病理というのは「病の理」と書く。つまりは理を追求する仕事だ。これはつまり学問ということだ。
病理医ってのは、医療現場の学問を統括する立場でいたらいいんじゃないかな、と思う。これは完全に個人の意見であり、病理医みながそう考えているわけではないけれど、ぼくはもう信じている。病理医が勉強して、病理医が中心になって医療現場に学問を広めるくらいでちょうどいいんだ、忙しい医療現場で座学のプロをやるというのはそういうことだろう、と思っている。
ああ、この一行目は、読んだあなたにお得情報を一つももたらしていないな。
なぜなら、自明だからだ。そりゃそうだろうと言われてしまうだろう。知ってるよ、と。
けれど、あえて強調しておきたい、「よい教科書はある」。
医療現場で働いているとそれを忘れてしまうから。
「学術論文を読んで最新の知識をきちんと集めなければだめだ! 論文は批判的に読め! 書いている内容を盲信するのではなく、どれだけ信頼できる情報なのかを吟味しながら読むのだ! 薬をひとつ使うにしても、手術をひとつ行うにしても、すべては論文からはじまる!」
「座学だけでもだめだ、手先から知恵を吸収するのだ! 実践こそは最高の教師である、頭でっかちになるな、手技を身につけろ、現場の感覚を研ぎ澄ませ、クリニカル・パール(臨床現場で役立つ豆知識)を探して回れ、ピットフォール(落とし穴)に気を付けるのだ!」
たいていの医療者は、なんとなくこういうかんじで、医療をやっている。やることがいっぱいある。実に忙しい。
ぼくらはもう、学生ではない。
机上の空論では困る。
実践的にレベルアップしていかないといけない。
いろいろな理由で、学生時代にあれだけ使っていた「教科書」を読まなくなる。
代わりに論文を読む。あるいは読まないで実践に飛び込む。
「論文」と教科書はどう違うか?
原則的に、論文1本に対しては、テーマが1つ設定されている(あくまで原則)。
論文ではたとえば、「ピロリ菌は胃がんの原因となるだろうか」みたいな検討を行う。
「塩分を多くとると胃がんになりやすいか」なんてのもある。
「ある薬Aは胃がんによく効くか」。
「胃がんにおける遺伝子の変化を調べた」。
書き方はいろいろだ。統計学的な処理のレベルもさまざまである。解析方法はMethod(メソッド)と言うが、メソッドも多種多様。患者をいっぱい集めてきて調べた、という論文もあれば、あるタンパク質や遺伝子に着目してラボで実験をした結果、という論文もある。
基本的に、「何かひとつ」が書かれている。
これに対し、教科書というのはどのように書かれているか。
まず、教科書の著者というのは、「すでに偉い」。論文などをいっぱい書いて、業界で偉くなった人が書いたり編集をしたりする。
多くの論文をチェックする目を持った著者が、「もっとも信頼できる」と思った論文を集めて、その内容をストーリーとして紡ぐ。
この「ストーリーとして紡ぐ」に、教科書としての良さがある。
たとえば、ある教科書には、「胃がんの原因には食事とピロリ菌と加齢とその他もろもろがあるのだ」と書かれている。
この一行を書くために、平均して20本くらいの論文が「参照」されている。
いずれも厳選された20本だ。世界各国で読まれ、検証されたものを用いる。論文は出版されたあとに、世界中で批判的に読まれる。「ほんとかよ」「うそじゃねぇだろうな」「おおげさなのでは」「まぎらわしくはないか」。
そういうフィルターを通過した、本当に役に立つ論文が、偉い人によって選ばれる。そして、紡がれる。
論文は確かに最新の知識である。しかしその知識は、のちに世界から非難されるかもしれない。どれだけ信頼してよいかもわからない。
最新がよいとは限らないのだ。
それよりも、多くの論文が時間とともに吟味された時点で、
「今、世界中の論文を読んでみたらさ、この領域についてはこういうことでいいみたいだよ」
とまとめた本を読んだほうが、役に立つ場面がある。
それが、医療界における「教科書」である。
お察しの通り。教科書というのは、編者や著者の能力によって、良くも悪くもなる。
どの論文を選んだか。どこを使える情報として抽出したか。レアではあるけれど教科書に載せてもらえると助かる情報。典型的なのでさまざまなイラストと共に説明して欲しい内容。
同じ分野を扱っていても、教科書が違うと、まるで理解のスピードが変わる。
……以上の話を医学生、さらには研修医にすると、
「でも教科書読み比べるヒマなんてないっすよ」
「そもそもそんなに教科書読める時間がないです」
「ていうか教科書高くて買えないです」
という答えが返ってくる。必ず返ってくる。
ぼくは幸いというか不幸にもというか、患者を相手にしない(検体を相手にする)仕事をしており、つまりは医療者を相手にする仕事をしている。クライアントは臨床医であり、医学生は言ってみれば取引先の新入社員にあたる。
だからサービスをするのだ。
自分で教科書を買って読み比べる。そして一番よかったやつをおすすめする。
金? たいへんだよ、そりゃもうすごいかかる。けどいいんだ。そこに金をかける人間がいないと、教科書を読む流れは広がらないから。
病理医ヤンデルと教科書のおすすめ: https://togetter.com/li/956911
今回の記事、「病理の話じゃないじゃん」と思った?
病理というのは「病の理」と書く。つまりは理を追求する仕事だ。これはつまり学問ということだ。
病理医ってのは、医療現場の学問を統括する立場でいたらいいんじゃないかな、と思う。これは完全に個人の意見であり、病理医みながそう考えているわけではないけれど、ぼくはもう信じている。病理医が勉強して、病理医が中心になって医療現場に学問を広めるくらいでちょうどいいんだ、忙しい医療現場で座学のプロをやるというのはそういうことだろう、と思っている。
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