「日中、顕微鏡を見ないで、教科書の原稿書いたり論文書いたりしてるんだって?」
と少し強めに責められた。
ぼくはてへへと頭をかく。
ツイッターを怒られるのに比べればだいぶラクだ。
その相手は、ばりばりの臨床家である。朝から晩まで患者対応に追われている。
ぼくみたいに、業務時間の1/3くらいしか顕微鏡をみないで、あとはずっといろいろ書いているような人間のことを、「ふまじめ」だと思っているふしがある。
まあ、言い訳をするならば。
病理医の仕事は、顕微鏡をみて診断するばかりではない。
病理医の仕事は、診断にまつわる頭脳労働全般だ。
珍しい症例があれば臨床医とともに過去の報告をあさる。
臨床医の疑問に答えるために、常に教科書や論文を読んで、新しい情報を取り入れていく。
ときには臨床医の指針となるために教科書を書く。
治療も維持もしないのに病院から給料をもらっている以上、ぼくらは「診断」という言葉を小さく捉えてはいけない。
診断をどこまでも掘り下げていくことこそが病理医の仕事。
求められるのは肉体的な努力ではなくどこまでも脳である。
教科書を読むのも頭脳労働。
論文を読んだり書いたりするのだって立派な知的貢献。
臨床医と組んで学会報告の準備もするし、放射線技師や臨床検査技師のための研究会を企画したりもする。
これらはすべて「業務」だ。
余暇でやっているわけではない。
だから本当は、怒られる筋合いはない。堂々と胸を張って頭脳労働にいそしめばいいのである……。
……けれど、怒りたくなる人達の気持ちも、わからないではない。
ぼくらと同じように、彼らにとっても、論文を書いたり読んだりする作業は「業務」のはずだ。そこに違いはない。
けれども彼らは患者を相手する時間が長すぎて、このような「知的労働」を時間内に行うことができない。論文を読もうとするとどうしても時間外になってしまう。
だから、ぼくのように、業務時間内に論文を読んでいるような病理医をみると、うらやましいだろう。腹も立つだろう。
「そんなに仕事が早いからこそ、いつも迅速に診断を出してくださってるんですね、ありがとうございます」
なんて皮肉も飛び出したりする。そう、病理診断が他の施設に比べてすごく早く出ているというわけではないからだ。
病理診断は、「検体処理に要する時間」や「染色に要する時間」に律速段階がある。
病理医がいかにスバヤク診断したとしても、標本処理にかかる時間だけは縮まらない。従って、
「あいつ、今日の夕方さっさと帰ったけど、俺の頼んだ診断まだ出てない! 何を考えてるんだ!」
と怒られても困るのである。
それに、顕微鏡診断というのはなかなか奥が深く、なんでも見れば秒でぴたりと当たる、という類いのものでもないのだ。
*
10年前のぼくは、今よりはるかに、顕微鏡に慣れていなかった。一日中顕微鏡を見続けていても診断が終わらなかった。すみません、全部みられませんでした、とボスに謝る。ボスはどこ吹く風といった表情でにこにこしている。
彼はめちゃくちゃに診断のスピードが早かった。
ぼくが週末、土日をつぶしてほとんど徹夜で見続けた何十枚もの標本を、ボスは月曜日の午前中にあっという間に見終わってしまう。
しかも、ぼくが見落としていた、細胞1個の異常を確実に発見しながら……。
ぼくも何十年も働けばあれほど診断が早くなるのだろうか。
しかし、どうやらそういうものでもない、ということに気づく。
実はぼくにはもう一人ボスがいるのだが、こちらのボスもいわゆるベテランだ。診断の精度はとても高い。
……そして、診断は早くない。むしろ遅いくらいだ。
ひとりの検体を、じっくり、ゆっくり、長い時間をかけて、悩みながら、ずーっと眺めている。
土日も顕微鏡を見続ける。
同じ「ボス」であってもスタイルによって勤務の仕方が違う。必ずしもキャリアに比例しない。
勉強すればするほど、レアな病態を学ぶために、かえって診断が遅くなる、ということもある。
*
先日、スポーツ選手が出てくる番組を見ていたら、いわゆる「ゾーン」の話をしていた。プロスポーツ選手の一部は、たまに脳内物質が激しく出過ぎて、ふしぎな「ゾーン」に突入するという。
有名なのは川上哲治だろう。ボールが止まって見えた、というアレだ。まるで自分以外の時間がすべて止まったような状態に……。
病理診断でもそういう「ゾーン」に入れたらいいだろうなあ。
ものすごく長い教科書を一瞬で読めたり、非常に難解な理論を秒単位で完成させたり、推敲しまくった文章をあっというまに出力したりできたら……。
でも、これはもちろん個人の経験なのだけれども……。
ぼくは逆に、頭脳労働の場合は、脳内麻薬が出過ぎると、周りの速度が加速してしまうように思うのだ……。
「あっ! もうこんな時間!! 集中しすぎてて気づかなかった!」みたいな、ね……。
まあこれはまだ本当のゾーンじゃないのかもしれない。ぼくが川上哲治とかアイルトンセナ並みの病理医になったら、「真のゾーン」に突入できるのかもしれない。
2018年8月9日木曜日
2018年8月8日水曜日
失った年齢
スポーツを見に行きたくなった。
野球やサッカーももちろん好きなのだけれども、なにかちょっと違うスポーツはないかなあと思い、「チケットぴあ」のトップページから深々ともぐりこむことにした。
ラグビー、フィギュア、総合格闘技、相撲。
ついでに演劇や音楽のイベントも見て回った。
椎名林檎、MISIA、岡崎体育、そしてフジロック……。
ああ、そうだなあ、フェス、行きたいなあ。
北海道にはライジングサンロックフェスティバルという音楽イベントがある。ぼくは今まで3,4回くらいしか見に行ったことがない。あのロックフェスの独特の雰囲気はけっこう好きだ。
音楽のフェスは、神社のお祭りとはまるで違う。学校祭のわくわくとも違う。野外で行うがキャンプとも違うし、かといってライブハウスともコンサートホールともだいぶ違う。
そうだなあ。この感想は、ぼくだけかもしれないけれど。
夜中の繁華街で3,4時間ほど酒を飲んだ後、友人たちと別れて地下鉄駅に向かって歩いていたら、ウェイ系の集団が大騒ぎをしていて、うるせえなあ、楽しそうだなあ、俺はあっち側にいたことはないなあ、若いなあ、などとさまざまな感情にひたりながら、あまり刺激しないように、邪魔もしないように、横をそうっとすり抜けるときの、さみしく、不安な、わくわく感……
かなあ。
何年前になるだろう。川崎で開かれていた野外イベント、Bay Campに行ったことがある。
今しらべたら2013年のことだった。5年前か。
ぼくはLOSTAGEとZAZEN BOYSが目当てだった。
この2つのバンドが出るならどんなイベントでも行きたかった。
実際、ZAZEN BOYSは何度も聴きに行っていた。ただ、LOSTAGEだけはどうも巡り合わせが悪かった。札幌にLOSTAGEがライブに来ても、仕事の都合で(チケットをとっていたにも関わらず)聞きに行けなかったことが2度。ほかの地域でのライブも、直前までは行けそうなのだが、いざその日が来ると何か別の予定があって行けないことばかりだったのだ。
だからぼくはBay Campに行ったとき、「今回ももしかしたらLOSTAGEを聴けないのではないか」という不安がとても強かった。
心配は杞憂に終わった。ぼくは無事、Bay CampでLOSTAGEのアクトを聴くことができた。感動した。うれしかった。
ZAZEN BOYS、そしてLOSTAGEのライブが終わり、もうBay Campでの用事も終わったなあとは思ったのだが、Bay Campは特殊なイベントだった。
近隣への移動手段がない深夜に行われるため、早朝5時ころに最後のバンドがライブを終わるまでは、どちらにしろ会場にいる以外にやることはない。
そして、なんとステージが2つしかない。しかもその2つが極めて近い場所にある。
つまりは朝になるまで音楽を聴く以外のことができないうえに、イベントに参加しているバンドを事実上ほぼすべて見に行くことができるというぜいたくなフェスだったのだ。
ぼくはさまざまなバンドを見た。
普段だったら、まず聴くことのないようなバンドをいくつも。
group_inouは札幌に帰ってからすぐに音源を手に入れた。
the telephonesをはじめて聴いたのはフェスだったんだな。
今も毎日のように聴いているSuiseiNoboAzはこのころ出会った。
そしてラストアクト、ヘッドライナーは「髭 HiGE」であった。
これがまあ、ほんとうに、最高だった。
のび太君にしかみえないギターがとてもファンキーだ。
当時は確かダブルドラム。音がぶ厚かった。
須藤寿はカリスマだった。
最後のライブが終わると朝だった。それがまた、よかった。
ぼくはとなりで飛び跳ねていたかわいい女の子といくつか話をした。
そうだ、今しらべたら、あれは5年前だ。ぼくもまだ35歳だった。今ならとなりの女の子と話などしなかったろう。
HiGEに詳しいその子は、いくつかの曲についてきちんと解説をしてくれた。うれしかった。すべてのイベントが終わったあと、女の子は、幾人かの男性にナンパされて、その場を去っていった。
とても朝日が美しく、ああ、ぼくの考えるフェスの印象ってまさにこれだなあ、と思ったのだ。
ぼくはそれ以来フェスには一度も行っていない。
今年、実はとある講演の前日に、ライブに行けるかもしれない日が1日だけある。
けれど、それはLOSTAGEのライブなのだ。ぼくはたぶん、また、行けないんだろうなあと思った。
2018年8月7日火曜日
病理の話(229) 展望台でチンピラ一人を探し出すには
病理医が細胞をみるとき、その見方にもいくつかのパターンがある。
たとえばなしをしよう。
顕微鏡で細胞をみる、というのは、望遠鏡で人々をみる、というのに似ている。だから、望遠鏡の話にすりかえてしまう。
スカイツリーの上に展望台がある。
その展望台に、「望遠鏡」があるとしよう(実際にあったと思うが覚えていない)。
実はこの望遠鏡がとても高性能で、浅草の雷門をぐぐっと拡大することができる。歩いている人、商売をしている人、近くのお店、道路、警察署、ほかさまざまなものを簡単にみることができる。
望遠鏡で人々を眺めて、そこにチンピラがいるか、ヤクザがいるかを見極めることができるだろうか?
たぶん、かなり難しいと思う。
けれども、そのチンピラとかヤクザが、思い切りリーゼントで、上半身が裸で、背中一面にイレズミをしていたらどうだろう。しかも右手に竹刀をもっているのだ。
「あっ……この人……悪者だ!」
その人の姿かたちに特徴があれば、1名の悪者を見出すことができる。
がん細胞を見つけ出すということもこれと一緒だ。
無数の細胞の中に潜む、「あきらかに姿かたちのおかしい細胞」が見つかれば、それをがんであると診断できる……かもしれない。
けれど、浅草の人ごみに、悪そうな人1名を探し当てるというのはかなり難しいだろう。
店の中に入っているかもしれない。道の暗がりに潜んでいるかもしれない。
そもそも、「悪そうなかっこうをしているけど、まだ悪いことをしていない人」かもしれないのだ。
じゃあ、真の悪者を見つけ出す一番いい方法は?
それは、望遠鏡で、「実際に犯罪行為が行われている瞬間」を探せばいいのだ。
お店の窓を割ったり。
そこらじゅうの人々に切りつけたり。
雷門に火をつけたり。
そう、人々の姿かたちだけではなく、その人々が「何かを壊したり、何かに攻め込んだりしているところ」をとらえるのがポイントである。
悪者が徒党を組んでいたらなおわかりやすいだろう。
そろいの黒スーツを着込んで、あやしいサングラスをかけた集団が、次から次へとそこらじゅうの観光客に襲い掛かっていたら、望遠鏡であろうとすぐに「おかしい」と気づくことができるだろう。
細胞ひとつの「姿かたち」だけを見ようとするのではなく、細胞同士の関係や、細胞が徒党を組む姿、かたまりとなった細胞が周りを破壊していく姿を見極めればよい。
これを、「細胞異型だけではなく、構造異型をみる」とか、「細胞が浸潤する像を探す」と呼ぶ。
さて、スカイツリーの上から破壊行為を眺めていたあなたは、忸怩たる思いにとらわれることだろう。
「今まさに破壊行為が行われている! 通報しても……被害は甚大だ……!」
できれば、あの悪者たちが、悪さをする前に通報をしたかった。
顕微鏡でがんを探すのもこれと似たところがある。
すでに悪さをしているがん細胞の集団を探すのもとても大切なのだが、これから悪さをするかもしれない、「がん細胞の芽」を見極められたら、それはお手柄なのだ。
まあそう簡単にはいかないのだが……。
たとえばなしをしよう。
顕微鏡で細胞をみる、というのは、望遠鏡で人々をみる、というのに似ている。だから、望遠鏡の話にすりかえてしまう。
スカイツリーの上に展望台がある。
その展望台に、「望遠鏡」があるとしよう(実際にあったと思うが覚えていない)。
実はこの望遠鏡がとても高性能で、浅草の雷門をぐぐっと拡大することができる。歩いている人、商売をしている人、近くのお店、道路、警察署、ほかさまざまなものを簡単にみることができる。
望遠鏡で人々を眺めて、そこにチンピラがいるか、ヤクザがいるかを見極めることができるだろうか?
たぶん、かなり難しいと思う。
けれども、そのチンピラとかヤクザが、思い切りリーゼントで、上半身が裸で、背中一面にイレズミをしていたらどうだろう。しかも右手に竹刀をもっているのだ。
「あっ……この人……悪者だ!」
その人の姿かたちに特徴があれば、1名の悪者を見出すことができる。
がん細胞を見つけ出すということもこれと一緒だ。
無数の細胞の中に潜む、「あきらかに姿かたちのおかしい細胞」が見つかれば、それをがんであると診断できる……かもしれない。
けれど、浅草の人ごみに、悪そうな人1名を探し当てるというのはかなり難しいだろう。
店の中に入っているかもしれない。道の暗がりに潜んでいるかもしれない。
そもそも、「悪そうなかっこうをしているけど、まだ悪いことをしていない人」かもしれないのだ。
じゃあ、真の悪者を見つけ出す一番いい方法は?
それは、望遠鏡で、「実際に犯罪行為が行われている瞬間」を探せばいいのだ。
お店の窓を割ったり。
そこらじゅうの人々に切りつけたり。
雷門に火をつけたり。
そう、人々の姿かたちだけではなく、その人々が「何かを壊したり、何かに攻め込んだりしているところ」をとらえるのがポイントである。
悪者が徒党を組んでいたらなおわかりやすいだろう。
そろいの黒スーツを着込んで、あやしいサングラスをかけた集団が、次から次へとそこらじゅうの観光客に襲い掛かっていたら、望遠鏡であろうとすぐに「おかしい」と気づくことができるだろう。
細胞ひとつの「姿かたち」だけを見ようとするのではなく、細胞同士の関係や、細胞が徒党を組む姿、かたまりとなった細胞が周りを破壊していく姿を見極めればよい。
これを、「細胞異型だけではなく、構造異型をみる」とか、「細胞が浸潤する像を探す」と呼ぶ。
さて、スカイツリーの上から破壊行為を眺めていたあなたは、忸怩たる思いにとらわれることだろう。
「今まさに破壊行為が行われている! 通報しても……被害は甚大だ……!」
できれば、あの悪者たちが、悪さをする前に通報をしたかった。
顕微鏡でがんを探すのもこれと似たところがある。
すでに悪さをしているがん細胞の集団を探すのもとても大切なのだが、これから悪さをするかもしれない、「がん細胞の芽」を見極められたら、それはお手柄なのだ。
まあそう簡単にはいかないのだが……。
2018年8月6日月曜日
日本テレビ系列で平日の夜23時から放送中
この記事の公開がちょうど夏休み明けということになる。とはいえこの土日は出張だったから、実際には夏休みはもうちょっと過去のことになっている。
……はずだ。なにせこれを書いているのはまだ7月なのであくまで予想で書いている。
つってもまあこの予想がはずれることはないだろう。
この記事が公開される日に、まだぼくが夏休みのままでいる可能性はない……。
ほとんどない。
うん、もしかしたら、夏休みを延長してそのままどこかに逃亡しているかもしれないかな。
低確率だけどまったくありえないことではない。
世の中のたいていのことは「ありえる」。
今まさにこの瞬間に、成層圏あたりからぼくに向かってまっすぐコメットがふりそそいで、ぎりぎりぼくに当たらずに周りにだけ落ちて床にあなをあけ、ぼくの座っている椅子のまわりの床にきれいな模様が描かれて、それがたまたま魔法陣のような形状になることだって、ありえなくはない。可能性はゼロではない。
そしてその魔法陣にぼくが吸い込まれて異世界に転生し、その世界では今までぼくが用いていた日本語がまるで失われた高度技術のような扱いとなっていて、原則的に住民は赤ちゃんのようなことばしか話せないため、ぼくが相対的にとてつもない賢者のような存在となって、書くもの書くものすべて聖書なみに売れまくる、という可能性もゼロではない。
前者はゼロではないが後者はゼロだ、という人がいる。
隕石が落ちてくるのは科学的だが、魔法陣にぼくが吸い込まれるというのは物理的にありえない、というのだ。
ばかげている。
物理の法則なんてものはいつだって未解明だ。
もしかしたら魔法陣と異世界転生をつかさどる物理がまだ発見されていないだけかもしれないではないか。その可能性はゼロではない。
いやーそれはないでしょう、とばっさり切るには、我々は物理のことを知らなさすぎるように思う。
……はずだ。なにせこれを書いているのはまだ7月なのであくまで予想で書いている。
つってもまあこの予想がはずれることはないだろう。
この記事が公開される日に、まだぼくが夏休みのままでいる可能性はない……。
ほとんどない。
うん、もしかしたら、夏休みを延長してそのままどこかに逃亡しているかもしれないかな。
低確率だけどまったくありえないことではない。
世の中のたいていのことは「ありえる」。
今まさにこの瞬間に、成層圏あたりからぼくに向かってまっすぐコメットがふりそそいで、ぎりぎりぼくに当たらずに周りにだけ落ちて床にあなをあけ、ぼくの座っている椅子のまわりの床にきれいな模様が描かれて、それがたまたま魔法陣のような形状になることだって、ありえなくはない。可能性はゼロではない。
そしてその魔法陣にぼくが吸い込まれて異世界に転生し、その世界では今までぼくが用いていた日本語がまるで失われた高度技術のような扱いとなっていて、原則的に住民は赤ちゃんのようなことばしか話せないため、ぼくが相対的にとてつもない賢者のような存在となって、書くもの書くものすべて聖書なみに売れまくる、という可能性もゼロではない。
前者はゼロではないが後者はゼロだ、という人がいる。
隕石が落ちてくるのは科学的だが、魔法陣にぼくが吸い込まれるというのは物理的にありえない、というのだ。
ばかげている。
物理の法則なんてものはいつだって未解明だ。
もしかしたら魔法陣と異世界転生をつかさどる物理がまだ発見されていないだけかもしれないではないか。その可能性はゼロではない。
いやーそれはないでしょう、とばっさり切るには、我々は物理のことを知らなさすぎるように思う。
2018年8月3日金曜日
病理の話(228) 不死はいけるが不老はいけない
なぜ生命は不老不死じゃないんでしょうか。
みたいな質問を夏休み子ども電話相談室に投げかける。
さまざまな答え方があると思うが、ぼくも自分で考えてみることにする。
たとえば、そうだな。
まず、不死というのは実は可能である。
実際、体の中には、たまに「死なない細胞」が出現する。それを人はがん細胞と呼ぶのだが、まあがんの何が悪いかはおいておいて、「死なない」ことだけを目標にすれば、メカニズム的に達成することは可能だ。
そう、不老不死のうち、不死は狙える。問題は不老のほうにある。このことはあまり知られていないように思う。
もし我々が永遠に生き続けたとすると、それだけキズが増えていく。このキズこそが「老い」の根本にある。老化とはキズが蓄積することだ。
老いないことを人は望む。老いないためには、キズをすべて避け続けるか、無数のキズをすべてカンペキに修復するシステムが必要となる。未来永劫、キズを避け続けて生きるというのは孫悟空でも不可能だ。だからキモは補修システムにある。人体には、そういう補修システムが無数に存在する。
けれども、残念ながら、というか当たり前のように、補修システム自体にもキズがつく。
キズというのは、表面的な損傷だけを意味することばではない。
細胞の活動を司っている遺伝子というプログラム、そこから発されるメッセージ。作られるタンパク質。タンパク質どうしの相互関係。ダイナミズム。
これらすべてに、等しくキズがつく可能性がある。
キズがつくことで、次第に、細胞は元のままの姿を保てなくなる。
これが老化だ。
たとえば、細胞というものは、ある特殊な形のタンパク質をマジックハンドのように使って、外から大事な栄養を取り込もうとする。
いつしかそのマジックハンドが壊れて、なくなって、だからそれを作り直して、とやっていく。キズというのは避けられない。けれども補修システムがきちんとはたらいている。
ただ、ときおり……。
うっかり”マジックハンド”を作るつもりが、”マリックハンド”を作ってしまうことがある。
マジックハンドとマリックハンドはたった1文字の違い。
しかし、かたや、手を延ばしてつかむもの。
もう一方は、ハンドパワーですといいながら何もつかまないもの。
大違いだ。別モノである。
このわずかなプログラムミス……あるいはプログラムの実行ミスによって、細胞は、だいじな栄養を外からとってくることができなくなる。
すると細胞の劣化はさらに進む。
仮に不死であっても。そう、がん細胞であっても。
キズの蓄積は永遠に続いていく……。
老いだけは避けようがない。先延ばしにはできる。しかし、確率的に、100%避けきるということはできない。
細胞は、もっといえば、生命は少しずつ本来の姿を保てなくなっていく。
不死であっても。不老にはなれない。
だったらどうする。どうやったら、局所のエントロピーを下げ続けながら利己的にこの世にあり続けることができるだろう。
エラーのない、まっさらな状態に「転生」するのがいい。
そんなことは可能だろうか?
自分の完全なコピーを残そうと思って、自分が今もっているキズまでコピーしてしまったら、転生先にも老いが蓄積していくではないか。
どうする。どうやったら、「新しい、まっさらな、キズのない命」に自分のメッセージを伝えることができるだろうか……。
多くの生命がたどりついた暫定的な答えが、「2名の遺伝子をまぜて、いいところをとって、新しくキズの少ない生命を生み出すこと」だった。
不老を達成できなかった生命は、不死を捨てる代わりに、「有性生殖による複製」を選んだのである。
そうすることで、自分と完全に同じではないが、かわりに、キズの非常に少ない生命を新たにこの世に残すことができるようになった。
我々は個々人では絶対に不老不死になれない。
しかし、世代を経ることで、また社会を形成することで、総体としての不死を獲得している。
不変ではあり得ないが普遍であろうとする。
そういう感じだよ、市原君はわかってくれたかな。
はい市原先生ありがとうございます。
みたいな質問を夏休み子ども電話相談室に投げかける。
さまざまな答え方があると思うが、ぼくも自分で考えてみることにする。
たとえば、そうだな。
まず、不死というのは実は可能である。
実際、体の中には、たまに「死なない細胞」が出現する。それを人はがん細胞と呼ぶのだが、まあがんの何が悪いかはおいておいて、「死なない」ことだけを目標にすれば、メカニズム的に達成することは可能だ。
そう、不老不死のうち、不死は狙える。問題は不老のほうにある。このことはあまり知られていないように思う。
もし我々が永遠に生き続けたとすると、それだけキズが増えていく。このキズこそが「老い」の根本にある。老化とはキズが蓄積することだ。
老いないことを人は望む。老いないためには、キズをすべて避け続けるか、無数のキズをすべてカンペキに修復するシステムが必要となる。未来永劫、キズを避け続けて生きるというのは孫悟空でも不可能だ。だからキモは補修システムにある。人体には、そういう補修システムが無数に存在する。
けれども、残念ながら、というか当たり前のように、補修システム自体にもキズがつく。
キズというのは、表面的な損傷だけを意味することばではない。
細胞の活動を司っている遺伝子というプログラム、そこから発されるメッセージ。作られるタンパク質。タンパク質どうしの相互関係。ダイナミズム。
これらすべてに、等しくキズがつく可能性がある。
キズがつくことで、次第に、細胞は元のままの姿を保てなくなる。
これが老化だ。
たとえば、細胞というものは、ある特殊な形のタンパク質をマジックハンドのように使って、外から大事な栄養を取り込もうとする。
いつしかそのマジックハンドが壊れて、なくなって、だからそれを作り直して、とやっていく。キズというのは避けられない。けれども補修システムがきちんとはたらいている。
ただ、ときおり……。
うっかり”マジックハンド”を作るつもりが、”マリックハンド”を作ってしまうことがある。
マジックハンドとマリックハンドはたった1文字の違い。
しかし、かたや、手を延ばしてつかむもの。
もう一方は、ハンドパワーですといいながら何もつかまないもの。
大違いだ。別モノである。
このわずかなプログラムミス……あるいはプログラムの実行ミスによって、細胞は、だいじな栄養を外からとってくることができなくなる。
すると細胞の劣化はさらに進む。
仮に不死であっても。そう、がん細胞であっても。
キズの蓄積は永遠に続いていく……。
老いだけは避けようがない。先延ばしにはできる。しかし、確率的に、100%避けきるということはできない。
細胞は、もっといえば、生命は少しずつ本来の姿を保てなくなっていく。
不死であっても。不老にはなれない。
だったらどうする。どうやったら、局所のエントロピーを下げ続けながら利己的にこの世にあり続けることができるだろう。
エラーのない、まっさらな状態に「転生」するのがいい。
そんなことは可能だろうか?
自分の完全なコピーを残そうと思って、自分が今もっているキズまでコピーしてしまったら、転生先にも老いが蓄積していくではないか。
どうする。どうやったら、「新しい、まっさらな、キズのない命」に自分のメッセージを伝えることができるだろうか……。
多くの生命がたどりついた暫定的な答えが、「2名の遺伝子をまぜて、いいところをとって、新しくキズの少ない生命を生み出すこと」だった。
不老を達成できなかった生命は、不死を捨てる代わりに、「有性生殖による複製」を選んだのである。
そうすることで、自分と完全に同じではないが、かわりに、キズの非常に少ない生命を新たにこの世に残すことができるようになった。
我々は個々人では絶対に不老不死になれない。
しかし、世代を経ることで、また社会を形成することで、総体としての不死を獲得している。
不変ではあり得ないが普遍であろうとする。
そういう感じだよ、市原君はわかってくれたかな。
はい市原先生ありがとうございます。
2018年8月2日木曜日
ムダとはいったいウゴゴゴ
「気になることを追いかける」のも大事なのだが、「気にしないこと」もまた大切かなあ、と思わされる。
似たようなことはたまに世間でも話題になる。「鈍感力」などというのがまさにそれだろう。
では、気にしない方がいいもの、というのは具体的にはなにか。
たまに聞くのが、「それを考えても、どうにもならないもの」。
いくら考えてもどうせ対処ができないとか、考えたところでやらなければいけないことは変わらないとか。そんな話題は、考えるだけ無駄だ、ということらしい。
けれどもぼくは基本的に、「それ、何の役にたつのさ?」という話題を深めていくのが大好きな人間である。
「対処しようがない話なんて、考えるだけムダじゃん」と言われてしまうと、ぐぬぬとなる。
「考えるだけムダ」ということばの思考停止っぷりが嫌いだ。
*
札幌市手稲区に、前田森林公園という場所がある。
この公園は広い。あまり行ったことはない。けれど藤棚があったり、グラウンドがあったり、原っぱがあったり、「正しい大公園」であるから、よく知っている。かの有名な大通公園がまるまるすっぽり入ってしまうくらいの横幅。とても大きな公園だ。
その前田森林公園の中に、カナルがある。カナル、すなわち運河。
運河とはおおげさだな。水路でいいじゃないか。
うん、そう言いたくなるのもわかる。そこで、Google mapの画像を添付しよう。
これは相当なサイズである。わかりにくい人は地図の中をよくみてほしい。公園内に野球場があるのがわかるだろう。この水路、野球場よりでかいのだ。やはりカナルと呼ぶのがふさわしかろう。
で、さきほど、そのカナルの清掃をするよ、というツイートが流れてきた。
( https://twitter.com/maedamaster/status/1022000602535079937 前田森林公園オフィシャルアカウントより)
このときだれかが、「カナルの水をぬいたら、カモがかわいそうでは?」という心配をしたらしい。
それに対して、前田森林公園は、
「カモたちは、例年(清掃のために)水が減ったらちゃんと非難し、水を入れ直すとまた戻ってくるから安心してね。ひっこしのようすもかわいいよ」( https://twitter.com/maedamaster/status/1022002468245463040 )
と返事をした。
いってみればこの話題は最初から最後まで、
「考えるだけムダ」な話題である。どうしようもない。関係もない。
けれどもぼくはこういうものごとを考えている時間が一番好きなのだ。
「気になることを追いかける」のも大事で、「気にしないこと」もまた大切。
それは全く同感。
ただ、「気になること」「気にしないこと」の選び方としてぼくが採用しているのは、役に立つとか立たないとか、そういう視点ではないようである。
似たようなことはたまに世間でも話題になる。「鈍感力」などというのがまさにそれだろう。
では、気にしない方がいいもの、というのは具体的にはなにか。
たまに聞くのが、「それを考えても、どうにもならないもの」。
いくら考えてもどうせ対処ができないとか、考えたところでやらなければいけないことは変わらないとか。そんな話題は、考えるだけ無駄だ、ということらしい。
けれどもぼくは基本的に、「それ、何の役にたつのさ?」という話題を深めていくのが大好きな人間である。
「対処しようがない話なんて、考えるだけムダじゃん」と言われてしまうと、ぐぬぬとなる。
「考えるだけムダ」ということばの思考停止っぷりが嫌いだ。
*
札幌市手稲区に、前田森林公園という場所がある。
この公園は広い。あまり行ったことはない。けれど藤棚があったり、グラウンドがあったり、原っぱがあったり、「正しい大公園」であるから、よく知っている。かの有名な大通公園がまるまるすっぽり入ってしまうくらいの横幅。とても大きな公園だ。
その前田森林公園の中に、カナルがある。カナル、すなわち運河。
運河とはおおげさだな。水路でいいじゃないか。
うん、そう言いたくなるのもわかる。そこで、Google mapの画像を添付しよう。
これは相当なサイズである。わかりにくい人は地図の中をよくみてほしい。公園内に野球場があるのがわかるだろう。この水路、野球場よりでかいのだ。やはりカナルと呼ぶのがふさわしかろう。
で、さきほど、そのカナルの清掃をするよ、というツイートが流れてきた。
( https://twitter.com/maedamaster/status/1022000602535079937 前田森林公園オフィシャルアカウントより)
このときだれかが、「カナルの水をぬいたら、カモがかわいそうでは?」という心配をしたらしい。
それに対して、前田森林公園は、
「カモたちは、例年(清掃のために)水が減ったらちゃんと非難し、水を入れ直すとまた戻ってくるから安心してね。ひっこしのようすもかわいいよ」( https://twitter.com/maedamaster/status/1022002468245463040 )
と返事をした。
いってみればこの話題は最初から最後まで、
「考えるだけムダ」な話題である。どうしようもない。関係もない。
けれどもぼくはこういうものごとを考えている時間が一番好きなのだ。
「気になることを追いかける」のも大事で、「気にしないこと」もまた大切。
それは全く同感。
ただ、「気になること」「気にしないこと」の選び方としてぼくが採用しているのは、役に立つとか立たないとか、そういう視点ではないようである。
たぶん……
うん、まあ、わかっているけれど、続きは各自に考えてもらおうと思う。考えるだけムダだといわれてしまうかもしれないが。
2018年8月1日水曜日
病理の話(227) ドクターズドクター論議
モンゴルからやってきた病理医と刺身を食った。
彼は日本は5度目なのだという。
器用に箸を使い、わさびを楽しんでいた。ぼくは当初、彼に何を食わせたら満足するだろうかとだいぶ悩んでいたので、ちょっと拍子抜けしてしまった。
話題はいつしか、「ドクターズ・ドクター」ということばについての考察に移っていった。
ぼくと彼とは考え方が少しだけ違った。
若くしてハイ・ボリュームセンターの部長にかけあがった彼はとても優秀だ。
学生時代に、ウィーンを3か月ほど訪れ、そこで病理学のすばらしさに心を惹かれたのだという。欧州における病理医の崇高さを彼は強調しながら、彼は言った。
「日本では、病理解剖をする・しないというのは誰が決めますか?
臨床医が決めて、病理医に依頼をする。なるほど。
実は、ヨーロッパのある国では、病理解剖をするかしないかというのは、病理医が判断します。
臨床医が病理医に解剖を依頼する、というスタンスではないのです。
ありとあらゆる臨床情報を総合して最後に考えるのはあくまで病理医であり、病理解剖が必要なのかどうかを検討し、『解剖をすべし』という判断をくだすのも病理医です。
すなわち、病理医というのは、すべての臨床医の中で最後に砦として働く存在なのです。
多くの臨床医たちに一目置かれ、まさに『医者の医者』として頼られる存在です。
ドクターズ・ドクターということばがふさわしい。」
で、ぼくは、つたない英語でそれに反論した。
「病理医もまた臨床医に過ぎません。
ぼくは電子カルテをみて臨床画像を読んだり血液データをみたり、看護師さんが記録した日々の情報を確認したりしながら病理診断をします。
その意味では、たしかに、病理医として『最後の判断』をしている。
けれども、同時に、ぼくが得た病理の知識をそのまま臨床医と共有して、みんなで一緒に診断を考えることも多い。
たまには、ぼくが『最初の疑問点』を臨床医にぶつけることもあります。
『なんで細胞がこうなんだろう、臨床的にあの話は確認しましたか?』
『あるべきでない細胞がここに存在する、追加の検査が必要だと思います』
ぼくの疑問がそのまま臨床の大きな疑問となって、病理診断だけでは決められないようなさらにおおきな臨床診断につながっていく場合もある。
どちらが依頼する、どちらが最後に決める、と、型どおりのシステムで診断が進むことはむしろ少ないようにも思います。ワンオブドクターズにすぎない」
彼はしばらく考えて、言った。
「まあ患者のためのドクターであろうとすればそれが一番いいですもんね」
患者に直接会わないぼくらの仕事は、たしかに、クライアントとして医者を想定する。
医者のための医者、ということばは、確かに適切である。
けれども、「ドクターズ・ドクター」ということばの響きがあまり好きではない。
ペイシェンツ・ドクターでよいではないか、と思うのである。
彼は日本は5度目なのだという。
器用に箸を使い、わさびを楽しんでいた。ぼくは当初、彼に何を食わせたら満足するだろうかとだいぶ悩んでいたので、ちょっと拍子抜けしてしまった。
話題はいつしか、「ドクターズ・ドクター」ということばについての考察に移っていった。
ぼくと彼とは考え方が少しだけ違った。
若くしてハイ・ボリュームセンターの部長にかけあがった彼はとても優秀だ。
学生時代に、ウィーンを3か月ほど訪れ、そこで病理学のすばらしさに心を惹かれたのだという。欧州における病理医の崇高さを彼は強調しながら、彼は言った。
「日本では、病理解剖をする・しないというのは誰が決めますか?
臨床医が決めて、病理医に依頼をする。なるほど。
実は、ヨーロッパのある国では、病理解剖をするかしないかというのは、病理医が判断します。
臨床医が病理医に解剖を依頼する、というスタンスではないのです。
ありとあらゆる臨床情報を総合して最後に考えるのはあくまで病理医であり、病理解剖が必要なのかどうかを検討し、『解剖をすべし』という判断をくだすのも病理医です。
すなわち、病理医というのは、すべての臨床医の中で最後に砦として働く存在なのです。
多くの臨床医たちに一目置かれ、まさに『医者の医者』として頼られる存在です。
ドクターズ・ドクターということばがふさわしい。」
で、ぼくは、つたない英語でそれに反論した。
「病理医もまた臨床医に過ぎません。
ぼくは電子カルテをみて臨床画像を読んだり血液データをみたり、看護師さんが記録した日々の情報を確認したりしながら病理診断をします。
その意味では、たしかに、病理医として『最後の判断』をしている。
けれども、同時に、ぼくが得た病理の知識をそのまま臨床医と共有して、みんなで一緒に診断を考えることも多い。
たまには、ぼくが『最初の疑問点』を臨床医にぶつけることもあります。
『なんで細胞がこうなんだろう、臨床的にあの話は確認しましたか?』
『あるべきでない細胞がここに存在する、追加の検査が必要だと思います』
ぼくの疑問がそのまま臨床の大きな疑問となって、病理診断だけでは決められないようなさらにおおきな臨床診断につながっていく場合もある。
どちらが依頼する、どちらが最後に決める、と、型どおりのシステムで診断が進むことはむしろ少ないようにも思います。ワンオブドクターズにすぎない」
彼はしばらく考えて、言った。
「まあ患者のためのドクターであろうとすればそれが一番いいですもんね」
患者に直接会わないぼくらの仕事は、たしかに、クライアントとして医者を想定する。
医者のための医者、ということばは、確かに適切である。
けれども、「ドクターズ・ドクター」ということばの響きがあまり好きではない。
ペイシェンツ・ドクターでよいではないか、と思うのである。
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