2020年11月12日木曜日

世界の換わりとショートマイルドツイッタランド

新しい往復書簡マガジンのタイトルに悩んでいる。今日のブログのタイトルも「案」のひとつだったやつだ。


「言いたいだけやん」となったのでボツにした。


De Architectura(デ・アーキテクチュラ)という昔の建築の本をもじって、「De Textura」というのも考えた。しかしなんだかカッコつけすぎやんけ、と思ってボツ。


曼荼羅とワンダーランドをかけあわせて「マンダーランド」というのも考えたのだが、ぜんぜん見た目が美しくないのでボツ。


「Hook that's(複雑)」もボツ。


しっくりこねえ。




「しっくり」ってなんなんだ。「しっくり」とは擬音か? それとも擬態語か? しっくり。なぜこの言葉に日本人はある程度共通の感覚を呼び起こされるのか? 


「しっくり」ってふしぎだなあ。この語感がぼくらの脳の何を引き出すんだろう……。しっとり、とも違うし、ぴったり、とも違うし、じっくり、ともまるで違う。さっくり、とも違う。まさに「しっくり」しかしっくりこない感覚というのがあるんだよなあ。


言霊がどうとかいうけど英語圏の人に「しっくり」と言ってみたところできっとsickとかbig treeとかと聞き間違えるに決まっている。「しっくり」が通じるのはたぶん、中学生くらいまで日本語にひたった人だけのはずだ。そもそも言霊というのは、母国語の種類と言語修得レベルによって発動したりしなかったりするということなのだろうか? まあそうなのかもしれないし違うのかもしれないなあ。言葉なんて複雑系を通過して脳内にイメージを喚起させる最たるものだからなあ……。




「しっくり複雑系」ってマガジンのタイトルにどうだろう。だめか。「シックリ」だとアイヌ語っぽい。「複雑シックリクル」だと椎名林檎っぽくなっていけるか。いけない。




「ゲシュタルト崩壊後リサイクル」みたいなことになってきた。これマガジンのタイトルにいけるだろうか? 無理っぽい。ドツボだ。しっくりドツボ。「しっくりドツボ」? 弱いなー。

2020年11月11日水曜日

病理の話(473) 治療が診断になる

今日の話すごく難しい。まだ、ぼくの中でも、扱いかねている部分はある。実践……いや、実戦の中で鍛えられていかないといけないのかもしれない。



患者にとって、病院という場所は「治療のために」訪れるところである。


決して、「診断のために」訪れるわけではない。病名なんてどうでもいいからとにかく治して欲しい……


……とも言い切れないよね! ってことをぼくはこれまでずっと言ってきた。

人は、自分の体調不良の原因を言い当てられる、ただそれだけでちょっと癒やされるところがある。秋に決まって体調が悪くなるタイプの人が、あるとき「それは花粉ですよ。花粉症って春だけじゃないんだ」と言われて、なんだそうだったのか、と思って気分が少し晴れやかになったりする。つまり診断もけっこう大事なのだ。


けれど。


ま、診断すること自体はすばらしいことなんだけど、やっぱり治療でしょうよ、って話ですよ。そこはスッと話を通していいでしょう。治るに越したことはないんだ。




でね、ぼくは診断をする仕事(病理医)なので、やはりこの、診断に肩入れしている部分があったのだけれど、最近よく、「治療のほうが大事」ってことと、「治療自体も診断に影響する」ってことを両方考えている。


たとえば、胃のピロリ菌を除菌する(治療する)と、さまざまな病気がよくなる場合がある。胃炎や胃潰瘍もそうだが、MALTリンパ腫というややレアな病気は、リンパ腫(つまりがん)なのに、除菌で治ってしまうことがあるのだ。


で、この、MALTリンパ腫の病理診断ってけっこう難しいのである。細胞を見ただけでは決めきれないこともあり、細胞の表面に出ている特殊なタンパク質をフローサイトメトリーという検査で確認するとか、細胞の中にある染色体と呼ばれる構造を直接調べるとか、かなり込み入った検査を追加してようやく診断に到ることが多い。


MALTリンパ腫の「正確な診断」はそうとう難しい。しかし、このMALTリンパ腫の診断を簡単にするほうほうがあるのだ。それは何かというと……。


「ピロリ菌の除菌(治療)をして、どう変化するか見る」


診断が確定する前に、というか診断が8割方決まった段階で治療をしてしまうのだ。「これはおそらくMALTリンパ腫だな」くらいの時点で、つまり、「絶対にMALTリンパ腫ですよ」まではいかない時点で、一部の治療をはじめてしまう。


そして、「治療にどれくらい反応するか」を元に、あとから診断を付ける。そういうやり方がある。


いつもではないよ。それほど単純ではないから。でも、たまに、そういうことをする場合がある。




実はほかにもこういう「治療をしてみて、診断の参考にする」ということを、医者はよくやっている。名著『私は咳をこう診てきた」の中にもそういうケースが山ほど載っている。


えっ、診断が確定しないのに治療なんかしていいの? と思ってしまいがちな医者に対して、最近のぼくは、このようにコメントする。



「診断することが大事なの? 医者がこれだと決めた治療をすることが大事なの? まあそれらも大事なんだけど、結局、長い目で見て患者にとっていいことをしたかどうかが大事なんだよね」




これ、まだまだ、難しい。もっと考えていかなければいけない。そうしないと誠実になれない。

2020年11月10日火曜日

くものなかにいる

気づいたら10年経っていた。ツイッターをはじめたのが2010年の11月なのである。もっとも病理医ヤンデルというアカウントをはじめたのは2011年の4月。5か月間は別のアカウントで、「病理広報アカウント」を作るための情報収集をしていた。


そのアカウントは今はもうない。数年前まではあった。昔懐かしい「規制アカウント」(本来のアカウントがツイッターによってツイート規制されたときに出てくるためのアカウント)としても運用していたので、古いフォロワーはぼくの昔のアカウントを覚えているかもしれない。



気づいたら10年経っていた。今やすっかり「クラウドの中」にいる。インターネットやSNSは外付けハードディスクだよ、なんて言っていたのが懐かしい。当時はまだ、「脳が主」で、「ネットが従」だと思っていたのだ。


ネットを含めた社会が「意思の主体」であり、ぼくらは細胞にすぎないのである。それがわかるまでに10年かかってしまった。


もっとも、ぼくらは細胞だからと言って卑屈になることはない。人間は考える細胞なのである。葦よりだいぶ進化した。誇っていい。




「クラウドの中にいる」というのをどう表現しようかな、なんてのを今ちょうど考えていた。かつて、アメリカの気象台みたいなところ(正式名称忘れた)が、空を高さに応じて10段階に分類し、下から第1層、第2層、と便宜上呼ぶことにした。下から数えて9番目、すなわち成層圏のすぐ下あたりに、積乱雲が達する場所があるのだという。この、9番目の層を「クラウドナイン」と呼び、on the cloud nineと書くと「積乱雲の上」、すなわち天国を意味するのだと聞いたことがある。


ところがこのクラウドナインというフレーズ自体はコスられまくっており、今やウェブで検索すると、出るわ出るわ、美容室やらアクセサリーショップやら、名付けられまくっていて本来の意味を探すのに苦労する。世の中すぐに天にも昇るここちになりたがる。まあわかるが。



ためしに「クラウドワン」で検索すると、ウェブのクラウドサービスの会社がヒットする。


「クラウドツー」だと音楽だ。


「クラウドスリー」だと小説がでてきた。


「クラウドフォー」だとまたアプリ会社だ。


「クラウドファイブ」では本とか音楽が出てくる。


「クラウドシックス」はそこそこ人気のあるフュージョンバンドらしい。わりと新しい。


「クラウドセブン」はエステとバンド。日本になる。日本人は7が好きだ。


「クラウドエイト」がいきなりフィリピンパブだった。どういうことなんだ。


「クラウドナイン」はいっぱいある。


「クラウドテン」は楽曲のタイトル、そして、「クラウドナインよりさらに幸せなこと」を意味するのだという。


「クラウドイレブン」。絶対にそういう音楽あるだろ、と思ったらあった。


「クラウドトゥエルブ」。ロンドンにあるフィットネス系のお店だ。へえ。


「クラウドサーティーン」は急に洋服のブランド名になった。


「クラウドフォーティーン」。アメリカにある有限会社でマンガを扱っている。LGBTQ関連のものも扱うという。これって同人誌の会社なのかな?


「クラウドフィフティーン」。そういう楽曲がある。たいてい歌になるのだ。みんな考えることはいっしょだ。


「クラウドシックスティーン」。……ああっ!!






だ、だ、誰かがすでに! クラウド○○を探して記事にしてるじゃないか!!!





でもNAVERまとめはもうサービスがないので中身は見られなかった。Webarchives使ってもいいけどそこまで別に見たくはなかった。




とりあえずみんな雲の名前をタイトルにするのが大好きだ、ということがわかった。今度ぼくが何かの名前を付けるときにはCloud 42あたりにしておくか(年齢)。





と思ったら「Cloud forty-two」という名前の会社がすでにあった。ウェブ関係だそうだ。あきらめます。

2020年11月9日月曜日

病理の話(472) プレパラートの持ち方

指先がサラッサラッ、の人がいるとします。


清楚なかんじの大学生とか、あるいは、霞食ってる仙人とか、ドラえもんとか。


そういう人の指って、ほんとにアブラがぜんぜんついてない、と思いがちなんですよね。特にぼくくらいの、今42歳くらいの人はそういう感覚があると思う。


でも若い人や、あるいは、デジタルデバイスを使いこなしている人たちは、「人間の指先にアブラがねぇごどなんで、ねぇんだ!」ってことをよくご存じです。なぜなまった?


スマホなんてちょっとスッスしたら指紋つくでしょう?


テレビの回りを拭き掃除してるときにうっかり画面さわったら、あとで朝の光が差し込んだときとかにそこだけなんか汚くなってるのが見えたりするでしょう?


知ったかぶりしてメガネクイってするときにうっかりレンズさわったらそこだけ曇ってみづらくなるでしょう?




で、病理医の話なんですけど、顕微鏡でプレパラートを見るときの話ですよ、あの「ガラスプレパラート」ってやつをですね、べたっと指で持つと、そこに指紋が付くんですね。


その指紋の部分を顕微鏡で見るとね、なぜでしょう、これはもう言語化できないんですけど、油脂が強拡大されてですね、




ウワーーーーーーーーーー!




って病理医は発狂して寿命が80年ほど縮みます。かわいそう。


だからみなさんはガラスプレパラートを絶対に「直でベタ持ち」してはいけません。


ではどうするか? かんたんですね、ハンドパワーです。


触らずに持ち上げればいい。ただ、そうは言っても、夕方とか、疲れているときとか、ちょっとハンドパワー足りない日ってありますよね。


今日はそういう、「ハンドパワーでプレパラートを持ち上げられなくなったときのコツ」を、すごく丁寧にお伝えしますね。説明が長くなるかもしれませんが、おつきあいください。







こうやって持てばいい。





おしまい。

でもこれ本当に大事なので医学生諸君は覚えといてね。まあもうプレパラート触る実習もあんまりないんだけど(今はバーチャルスライドといってPCモニタで実習することが多いですね)。


2020年11月6日金曜日

新機種乗り換えキャッシュバックキャンペーン

充電器がポンコツだ。一晩差し込んでおいたはずなのに、出勤後気づいたらスマホの充電の残りが30%しかなかった。これでは退勤まで持たないかもしれない。



充電器だけじゃなくて、そもそものスマホ本体も、バッテリーが弱るのが早い。



……ゲームボーイはこんなに早くバッテリーがへたることはなかった。

Nintendo 3DSだって、Switchだってそうだ。スマホよりずっと楽しい機械はあんなに充電できたのに。なぜスマホではそれができないのか。

いっそ、任天堂がスマホつくってくれればいいのに……。



充電がすぐなくなるようになると、ぼくたちは新しいスマホを購入したりする。「そろそろ3年か~」なんて言いながら。

ひどい話だ。たった3年で買い換えるなんて。

残価設定型ローンを使って車を買ったことがないぼくにとって、3年で何かを買い換えることには抵抗感しかない。できれば5年は使いたい。

それでも早いと思うけれど。



購入してから毎日のようにアップデート、アップデートをくり返して、それで結局本体の容量がだんだんなくなって、動作が遅くなって、充電がもたなくなって……。

こんなに早くあきらめなければいけない家電というのは本当にどうかしている。

パソコンにも言えることだが。




3年でふるびてしまう家電。冷蔵庫やエアコン、テレビや洗濯機とくらべて何が違うのか、と考えると。

「脳神経」の代替品である、ということが思い浮かぶ。

目のかわりにカメラで見て、耳の代わりにマイクで聴く。脳の代わりに記憶する。心の代わりに考える。

そこまでやってしまう機械だと、たった3年の「古さ」がストレスになるということか。

あるいは、脳神経の代わりをするような機械というものは使うエネルギーがはんぱなくて、ほかの家電に使っているようなバッテリー技術をあてはめてもすぐに劣化してしまう、ということなのだろう。




よく考えたら、スマホの充電よりもはるかに燃費の悪いマシンをぼくは持っていた。

脳である。1日に3回くらいブドウ糖を補給しないといけない。もっと言えば、1分間に20回弱、呼吸して酸素を行き渡らせないといけない。こんなに燃費の悪いコンピュータで偉そうに、スマホをバカにしている場合ではなかった。



でもなあ。脳は3年で買い換えるわけではないしなあ……。




ふと思った。実はぼくの脳も、3年経つとまるっきり入れ替わっているのかもしれない。3年前に思っていたことの寄せ集めなんて、今や、もう何の役にも立たなかったりして。

2020年11月5日木曜日

病理の話(471) 言い古されたことを何度も言う

たとえばこの「病理の話」にしても、同じ事を何度も何度も書く。それはなぜかというと、みんな、この形式のブログではバックナンバーなんて見ないからである。


このブログのPV数を見ていて気づいたことがある。それは、公開して1年くらい経つ記事と、最近の記事のPV数が、さほど変わらないということだ。

つまり、時間が経てば経つほど読む人が増えるわけではない。公開直後にワッと読まれて、あとはもう、ほとんど読まれない。


そのことをウェブに詳しい人にたずねたら、「それはブログの構造の問題ですね」と言われた。「過去の関連記事」みたいなものを表示する機能がついていないと、今の人々は昔に遡ってどんどん読んでいくようなことをしないのだという。


あるいは、Google検索でひっかかりやすいように対策をしておけば、「昔の記事がバズる」こともあるだろう。けれどもぼくはこのブログに関してそういうことを一切やっていない。


自然と、「ときどき思い出したかのように、同じ話題を何度もしゃべる」という形式のブログになり、読者もだいたい固定されて、毎日様子を見に来る、みたいなかんじになっている。





で、今日の内容をなぜ「病理の話」に書くかということなんだけれども、このような「ときおり思い出したかのように一度言ったことをまた言う」というのは、病理診断の報告書を書く際に、あるいは臨床医と話し合う際に、けっこう大事なプロセスではないかと思っているのだ。


医者は、一度念入りに説明すれば何でも覚えられる……わけがない。医者はそこまで優秀ではない。18歳前後で人より早く情報処理ができるようになった、というだけで医学部に入学しているが、40前後になればその能力はとっくにたいていの社会人に追いつかれている。当然、一度説明したくらいでは頭に入らない(昔はそうじゃなかった、と言いたい人はいる)。


だから、「思い出したかのように説明する」のがとても重要だ。特に、病理診断のように、たいていの医者にとってはたまにしか触れない、たまにしか世話にならないジャンルに関しては。


「Ki-67免疫染色ですが、陽性細胞数も大事なんですけど分布がもっと大事なんですよ」


「TTF-1免疫染色の感度も特異度も100%ではないですからね」


「遺伝子再構成検査を提出する際にはホルマリン固定ではなくて、生理食塩水で軽くしめらせたガーゼの上に検体を直接のせて、すぐに検査室に持ってきてください」


「ぼくが矛盾しませんと書くときはあなたに賛成ですの意味ですが、ほかの病理医が矛盾しませんと書くときもそういうニュアンスだとは限りません」



こういったことは、何度も言う。忘れた頃に言う。くり返し言う。付き合いの長い上級医になると、若手を横に同席させた状態でぼくが説明をするとき、途中から微笑んでいる。でもそこで茶化すような人はいない。なぜなら、上級医になるとおそらくみんなが、「何度も言うことの重要性」をわかっているからだ。



で、当然、患者にも「何度も言う」ほうがいいと、ぼくは思う。しかしこのとき、一部の患者は、「こっちが忘れると思って何度も言いやがる、なめやがって」と思うことがあるらしい。たまにツイートでも目にする。


や、そういうことでもないんですけどね。でもまあ言い方の問題もあるだろうなあ。

2020年11月4日水曜日

代わりに言わないということ

https://soar-world.com/2020/10/21/annirie/


↑これがいい記事だなーと思ったんでツイッターで紹介した。その際のツイートをここにもはりつけておく。



”発信力の弱い人、伝える力がない人に「勝手になりかわって」「代弁して」伝えようとする人が激増している昨今、「代わりに言わない」ことをこれほどやさしく解体した記事はめったに出てこない。朝からすばらしいものを読んだ”






最近、リツイートで回ってくる「バズりツイート」の多くが、


”なんかうまいこと言える人が誰かの代わりに何かを言ってやった”


という体裁をとっているのが内心気になっていた。

あるいは、これは「世の中一般の傾向ではない」かもしれない。

ぼくがフォローしている11万人(≒ぼくをフォローした12万人の中で、ぼくがフォローを返そうと思うくらいには人間であるひとたち)が、そういうツイートを好きなだけかもしれない。

すなわちぼく自身が持つ傾向なのかもしれない。

以下は自戒込みで言う。


「誰かの代わりに何かを言ってやるぜ!」がリツイートされやすい環境にぼくはいる。




リツイートのボタンは、ときに「よく言った!」「共感する!」みたいな気持ちを込めて押すものだと思うので、「強い代弁者」のツイートは拡散されやすいだろうな、と思う。


でもぼくはだんだん「代わりに言ってやるぜ!」の暴力にうんざりしつつある。


弱き者――具体的にどういう人たちなのかは場合による――が、ほんとうは世の中に言いたいことがあるとする。たとえば「いじめっこに怒鳴り返してやりたい」とか、「今の世の中でつらい思いをしている」とか、「関係性の中で黙ってしまっている」とする。

そういうときに、「強き者」が出てきて、代わりに声を上げることに、功罪の功ばかりがあるとはぼくには思えない。やはりそこにはゆがみがあると思う。

代弁というのはあくまで代理の声である。あとから出てきた声のでかい人が何かを語る時、それが、「最初の繊細な人」の気持ちを8割背負っていればよいほうだろう。実際には、6割も背負えていない、4割しかあっていない。そんなもんだと思う。人間は他者の気持ちをそこまで正確に推し量れない。


代弁によって大衆の溜飲を下げるタイプの「メディア」あるいは「バズツイート」にはとりこぼしたニュアンスがあるのだ。それはもう、絶対にある。それをわかった上で利用するならいい、しょうがない。欠点を飲んでなお利点が魅力的ならどんどん使えばいい。


しかし、「代弁された者」の気持ちはおそらくずっと明かされなくなる。そういう構造にちゃんと気づけるかどうかだ。


くだんの記事はそこに繊細だと思った。ツイートのあと、ウィズニュースの水野さんとか、NHKの藤松さんとか、ごく少数の「代弁者であることの暴力性」に気づいているであろう人の顔を思い浮かべた。そういう人を真似していくしかない。ぼくはそう思う。