2021年4月9日金曜日

陰パリピ

園崎未恵さんのラジオ( https://www.youtube.com/channel/UClbFFSflPR0prx4Ork5VrDA )を聴きながら出勤。

デスクについて、そのままワイヤレスイヤホンで聴きながらメールに返信をしようとしたのだけれど、話の内容がわからなくなりそうで、メールはあきらめた。Twitterもやめる。番組が終わるまでデスクワークはせず、サボテンに水をあげたり、コロコロで椅子のホコリを取ったりする。


昔はもうすこし「聴きながら書けた」のだが、たぶんそのころは、聴いていなかったし、書いてもいなかった。では何もしていなかったのか、というとそうではない。聴いているともなく聴き、書いているともなく書いて、それで何か、十分に脳が喜んでいたのだ。もちろん書いたものを受け取った人にはいろいろ感想もあったろう。それでもぼくにとっては、きっと、「それで自分の脳がうれしかった」のだから、ま、各方面に申し訳ないとは思うけれど、ぼくにとってはよかったのだと思う。



集中すればいいというものではない、ということをよく考える。

何かにかかりきりになることのメリットは、細やかにミスを減らしていけること。だから診断のような仕事は没入してやるに限る。ミスによって迷惑をこうむる人が多い現場で、多くの人々がミスをしかねない状態で、最後にぼくがすべてのミスを回収する。箱根駅伝に例えるならば往路の最後でぼくが帳尻合わせをする、すると、復路で安心して山下りができる。そういうイメージ。ここでは集中が確かに役に立つ。

しかし、集中すればいいというものではない。

ぼくは五感の足並みが揃っていない状態で出てくるものがわりと好きである。そういうところに何か、人としてフクザツに暮らしていることの醍醐味を感じることがある。全身を同じブランドで固めて安心するシチュエーションがあるというのは理解するが、たいていの人はTPOに応じて、パンツとTシャツはGUなんだけどベルトとジャケットはちょっと気の利いたブランド、みたいな組合わせをして楽しむ、あるいはやり過ごしていくものだと思う。それといっしょで、自分の全身全霊を没入するのもときどきがいいと思っている。耳はあれを楽しみ、目はこれを楽しむということが、「やれるならばやっていたい」、そう思っている。



しかし……なんかできなくなってきた。耳は耳で脳の体力を使う。目は目で過去のもろもろからいろいろ引っ張ってくる。そういうようになってしまった。本当は五感をあちこちに散らばらせておもしろおかしく突飛な刺激を受けていたかったけれど、そろそろ、集中するわけではなしに、没頭する、そういったムードに体がなっている。外から入ってくるものに対して、反応したがる体内の兵卒が増えてきたなあ、という感じ。使い込んだ五感の尖兵たちは、なんか、勝手にお互い仲良くなっているのだろう。耳が何かをやっているとき、手や目のやつらも、「ちょっと、今は耳にまかせようぜ!」みたいなことを言うようになってきている。そうやって内輪のノリでウェイウェイやるのはよくないんだぞ、ほんとうは、と、脳が神経に嫉妬しているようなところがある。

2021年4月8日木曜日

病理の話(523) ポリープの分類

「ポリープ」という言葉が。市民の間にわりと、それなりに、なかなかの割合で知られているというのは不思議だなーと思う。だって変な単語だよね。Polyp. 


大腸カメラでポリープとってもらった、みたいな使い方をする。市民権を得ているというのが興味深い。


サンゴやイソギンチャクのような海洋生物の界隈では、同じpolypと書いて「ポリプ」と読む。伸ばすか伸ばさないかの違いはあるが同じ単語だ。


語源や細かい意味については詳しくはかかないが、大腸や胃にできる「ポリープ」というのは、要は「キノコ的に発育するもの」である。形状はまさにキノコだ。


キノコが多様であるように、ポリープも実はけっこう多様である。


茎があったり、はっきりしなかったり。


表面がつるっとしていたり、ぎざぎざ、ふさふさしていたりする。


形の違うキノコが別の名前を付けられているのとおなじで、エノキ的な形をしたポリープと、椎茸的な形をしたポリープ、さらにはアフロヘアー(?)みたいな形をしたポリープは、それを作り上げている細胞が違う。


つまりポリープというのは複数の病気を含んだ概念なのである。「大腸カメラでポリープをとった」の一言だけだと、それがどういうポリープだったかはわからない。




そこで病理医が登場して、ポリープの正体をあばく。患者にとって一番ぎょっとするのは、ポリープが「癌」であったときだ。ただその頻度は必ずしも高くない。多いのは「過形成性ポリープ」、「腺腫(せんしゅ)」、「炎症性ポリープ」あたりだと思う。


ほかにも無数にある。過形成性ポリープのなかにはmicrovesicular hyperplastic polyp(対応する日本語がない)や、goblet cell rich hyperplastic polyp(対応する日本語がない)があるし、現時点で腺腫(せんしゅ)と呼ばれているものの中には、traditional serrated adenoma、tubular adenoma, tubulovillous adenomaなどがあり、ほかにもこれらの分類に入らないポリープとしてはPeutz-Jeghers type polypやJuvenile type polyp, inflammatory myoglandular polyp, muco-submucosal elongated polyp, そして忘れてはいけないのは隆起型のmucosal prolapse syndrome...



なーんてことを書くといかにも昆虫とか魚類とか、それこそキノコなどの分類学者っぽいんだけれどやはりこういうことは覚えておかないといけない仕事なのである。ポリープっつってもいろいろあるよって話でまとめても一切かまわない。「がん」にだけ気を付けておけばほかはそもそもあまり大勢に影響がないのだ(少なくとも患者にとっては)。


では分類はなんのためにやるのか? 分類するための分類? いや、じつはそうでもなくて、「そういうポリープが出てくるような体質」とかがないかなって調べるために有用だったり、あるいは、「ある種のポリープは放置しておくとその後がんになるかもしれない」みたいなことを研究するのにも役に立つ。このあたり、分類学とはいえども実学の趣があるよね、とみんなを言いくるめて研究費を取得したりするんだけど、どうも、キノコの分類と同じ気持ちでワクワクやっているようなふしもあるんだよな。理由はどうあれしっかりと知っておくことは、悪いことではないよ。人類にとって。

2021年4月7日水曜日

窓

年度が替わるのでデスクの写真の配置換えをしている。額装された幡野さんの写真が2枚と、額装されたROROICHIさんのボールペン画が1枚。デスクのまわり、ぼくの目が行く3箇所に飾っていて、ときどき入れ替える。たったそれだけのことでデスクの色感が変わって見える。たとえば、自室の窓の場所を季節ごとに動かせたら楽しいだろうと思うのだが、それは現在の建築方式では不可能だ。一方で、額装した写真や絵というのは、これはもう窓のようなものであり、本物の窓よりも簡単に移動させられるし、本物の窓よりときには美しいものを映してくれる。ただそこに手を入れられない、風が吹き込んでこないということだけが不便であり不満だ。しかしよく考えるとたまに風を感じることはある。


幡野さんの写真からは風を感じることがある。ROROICHIさんの絵は無風だが時間がそよいでいるように感じる。


もうひとつくらい絵が欲しいな、と思いつつ、照林社の編集者から送られてきた鬼滅の刃や天気の子の絵はがきをべたべた貼っている。恵三朗先生から来た年賀状も飾っている。ちはやふるのカレンダーが一番大きいかもしれない。先日、総務課の職員(男性)がデスクにきたときに、ちはやふるカレンダーを見て目を輝かせていた。これらも結局は窓なのだと思う。病理のデスクには巨大な窓があるのだけれどブラインドによって太陽光はスキマから漏れ出てくる程度だ。それでも十分にデスクは明るく、しかし、ぼくはこの窓をときおり動かしてみたい衝動に駆られる。もう少し斜め上あたりに窓があったらどんなに素敵だろうと思う。それが叶わないかぎりぼくは写真や絵を飾り続けることになる。頚椎症がひどくてデスクに座ることに恐怖心が少しだけある。それでも絵や写真があるから疲れが癒えていく。よどんだ気持ちが窓を通じて外に逃げていく。換気が大事だという合い言葉は意外と人にいい影響を与えるかもしれないなと春を迎える札幌にて思う。冬は窓を開けるのは無理だ。そういえば幡野さんの写真の2枚中1枚は雪の写真である。この窓からは冷たい風がときおり流れ込んでくる。

2021年4月6日火曜日

病理の話(522) 見えないものを見ようとして

病理医が顕微鏡を覗くとき、そこに「病原性微生物」が見えることがある。

いきなりの六連続漢字では暴力っぽいので、意味をちゃんとひらこう。

病原性=病気の原因になりうる、

微生物=ちっちゃいやつ。

である。



この「病気の原因になりうる」というのがミソだ。つまり、人体には病気の原因にならない微生物だっているよね、っていう理屈が裏に隠されている。

たとえば皮膚の常在菌や腸内細菌は、体の表面(あるいは腸の表面)にくっついているけれど、体に害を及ぼさない。だから、これらを顕微鏡で発見しても驚かなくていいということになる。

ぼくらが顕微鏡で見出すべきは、病原性のある微生物だけだ! じゃあそこをきちんと見分けないとなあ。難しいなあ……。






んだけど。いや、ま、そうなんだけど。じつはこれが、不思議なことに。





病理医が皮膚や腸のプレパラートをみるとき、そこにいわゆる「常在菌」がいることは極めてまれなのである。こないだ気づいた。「あれっ、そういえば、億兆の常在菌がいるんじゃなかったっけか?」 ぜんぜんいない。

ていうか、病理医が顕微鏡を見るときにかんして言えば、「そこに菌がいるならば、たいていは病原性微生物」である。ごくわずかな例外を除くと、「菌がいればまあ病気になってるよ」という感覚がある。





あれあれ? これは、どういうことかな?





少し考えて、わかった。皮膚や腸の表面にくっついている、善良な菌(?)たちは、検体を採取したあとにホルマリン瓶にほうりこむと、そこで死んで剥がれてしまうのだ、ということに。

やや専門的な話になるのだけれど、皮膚の常在菌や腸内細菌というのは、体の表面にくっついてはいるが、自由に動ける状態というか、「しみ込んできていない」のである。だから劇薬に放り込んだ瞬間から剥がれてしまう。このため病理医はこれらの「いるはずの菌」を目視することがない。

そして、じつをいうと、病原性の微生物も、表面に「ただいる」状態では、それをぼくらが目視することは不可能なのである。たとえば食あたり……感染性腸炎で、大腸の粘膜をかじりとってきて(生検)、それを顕微鏡で見ても、腸内に増えている「悪玉細菌」はふつう、見ることができない。こいつらも常在菌といっしょで、ホルマリンに漬けたとたんに剥がれて死んでしまうのだ。




では、病理医は、感染している「悪い菌」を直接みることはまったくないのかというと……。

ある。それも、あまりうれしくない意味で。

先ほどから、常在菌も悪い菌も、表面にくっついている限りは(検体処理の際に)剥がれ落ちてしまう、と思わせぶりなことを書いている。

これは、逆にいうと、菌が体の中に「しみ込んできている」場合には、ホルマリンに漬け込んでも剥がれることがなく、組織の中に菌が見えるということだ。

ほんらい、皮膚にしても腸の粘膜にしても、「体内に変な物を入れまへんで」という物理的な防御は完璧なのである。そのバリアを破壊されて、菌が体の中に侵入してきた状態というのは、端的に言って、ヤバい。このヤバいケースで、病理医は菌を顕微鏡の中に見つけることがある。




さっきから菌、菌と書いてきたけれど、真菌なんかも見られる。寄生虫もね。体に対して攻撃を仕掛け、かつ、体に突き刺さったり潜り込んだりするタイプの病原性微生物にかんしては、ぼくらは顕微鏡で見極めることができるのだ。






ちなみにウイルスは見られません。段違いに小さいからね。でも、ウイルスが侵入したときの細胞変化を見ることはできる。けっこう工夫の余地がある。

2021年4月5日月曜日

チャーシュー力

仕事のタイミングがうまく合わなくて、とある金曜日の午後、やることがなくなってしまった。めったにないことだ。あわてる。


本当はやるべきことがごっそりあるのに忘れているのではないか、と、まずは自分を疑う。手帳を見て、WorkFlowyにまとめているto do リストを探す。しかし見事になにもない。

正確には、4年後に出しましょうと言われている大著(笑)の原稿書きという仕事があるにはあるのだが、この仕事はまだ一行も書けていないし、目次すらほとんど思い浮かんでいない状態である。たかだか金曜の午後ひとつくらいではどうにもならない。今日のところは無視していいだろう。もう少し言語化する前の段階で思考を暖機運転しないと動けない。


これまで書いた教科書や一般向け書籍はいずれも依頼される前から頭の中で考えてきたことがベースになっている。書いている途中でいろいろと新しいことが引き出されてくるから、書き終えるころには「へえ、こんなことになったのか」と自分で感心するのだけれど、真の意味でまっさらの状態から「書き下ろし」たことはないと思う。そして、4年後の本は、今はまだまっさらだ。あと3年は書かずに温めておく。そうしないと書けない。


というわけで、今日ここにある暇をどうするか。


返事していないメールはない。出なければいけない会議もない。数週間後の研究会の準備でもするか、と思ってフォルダを開くと、なんと先週のぼくがすでに作り終わっているではないか。い、いつの間に。芝居がかって天を仰ぐ。頚椎症が悪化するのですぐまた元の位置に戻す。パワポを開いて中を見る。やはり完成している。作った記憶は曖昧である。寝ている間に小人が作ってくれたタイプの仕事かもしれない。そんなことではプレゼンを提示する際に言葉が出てこなくなって困るだろう、と思って、読み進めていったら確かにぼくが作ったものだ。作り上げた記憶はないが作り上げた物がたしかにぼくの体温を持っている。


依頼されていた論文の病理パートも書き終えている。著者校も昨日PDFで送り返してしまった。依頼原稿は2か月先の締め切りの分まで書き終えてある。対談の企画書も書いた。共同研究の倫理審査も通した。委員会資料もぜんぶ揃っている。学生講義の準備も万全だ。


いよいよやることがない。もう帰りたいなととっさに思った。でも夕方からは会議がある。あと3時間くらい、どうやって過ごそう。


職場のデスクにひそかに隠してある『映像研には手を出すな!』のブルーレイを見て過ごしたら楽しいだろうな、と思ったけれど、さすがに業務時間内にそこまで自分の時間に没入することはできない。これは「お守り」だ。開いて中身を見るのは御利益を吹き飛ばす行為である。そもそも、いつ突発的に仕事の電話がかかってくるかもわからないし、外界を遮断するような時間の使い方はできない。


迅速組織診の予定がないことを確認して、医局に歩いていって、自分宛の郵便を受け取った。医学系の雑誌が1つ届いていた。よかった、やることがあった。これを読もう。いつもなら業務のスキマスキマで無理矢理読む雑誌を、今日はわりとゆっくり読める。ソファでコーヒーでも飲みながら雑誌を読めばいい。ほかの臨床医だって、総合医局のソファスペースでよく休憩している。あれと同じようにやってみよう。


……でも、だめだった。ソファに座ろうと思ったけれど、なんだか恥ずかしくて、また病理のデスクに逃げてきてしまった。ぼくは「誰もが見てわかるタイプの小休憩」をとることができない。


うすうす気づいてはいた。普段のぼくは、「どうだ、この見事な働きっぷりは」と、オシャレな服をみせびらかすように自分の多忙さを見せびらかしているということに。いざ、暇な時間が訪れると、それを周りに知られることに、まるで服を脱ぎ散らかしてスウェットでダラダラしているところを見られたかのような恥ずかしさを覚える。


当たり前だけれど反復する毎日でぼくはいろいろ歪んでしまっている。多忙に案件を打ち返していくことはメトロノームのようにぼくのリズムを整えているし、雨垂れとして心の中にある石を穿っている。ああ、もっと暇になればなあ、なんて望み続けることまで含めてひとつの人格なのだろう。患者がしばしば「長年付き合った病気が治る感覚に頭がおいつかない」と無意識で感じているのと似ているかもしれない。


もっとダラダラ働いていいんだと思う。本当は。そうしないと若い人が夢を持ってここにやってこられない。でもぼくは、「バリバリ休み無く働くことを夢見て医者になった人」のほうが偉いと心のどこかで信じ切っていると思う。もちろんそういう考え方は古い。脳の回転数と指先の回転数とは必ずしも比例しない。睡眠時間を削れば削っただけ偉いという価値はぼくらの世代で破壊しておくべきだ。わかっている、わかっているのだけれど、他人については、世界についてはよくわかっているのだけれど、それでもぼく自身はいまだに、「バリバリ働いている自分」のほうが、「だらけながらいい仕事をする自分」よりも絶対にカッコイイと盲信しているフシがある。そうやって自分をヒモで縛って醤油ベースのつけだれで煮込んでおかないと味がしみ込まないと確信している。ばかばかしい。圧力鍋で5分もアレすればどんな具材でもいいカレーになるというのに……。ま、ラーメンにはならないけれど。

2021年4月2日金曜日

病理の話(521) 昔の標本を取り寄せる

人と病院との付き合いなんて、なければないほうがいいと思うこともあるし、せめて1度で終わればいいなと思うのだけれど、なかなかそうもいかない。


継続的に病院にかかる、というケースはままある。診察券をずっと財布に入れておくイメージ、とでもいうか。


「良くなったり悪くなったりしているので、定期的にチェックしてもらう」とか、「完全に病気が消えることはないし、治療を続けていれば悪くもならないので、川中島の戦いのように引き分けを続けていく」とか。

あるいは、「ひとつの病気はよくなったが、別の病気が出てきたので、せっかくだから同じ病院でそのまま診てもらう」ということもある。



患者と病院との付き合いが長くなるとき、病理医にはある特殊な仕事が舞い込むことがある。それは、患者の最新情報と、「昔やった病理診断」とを見比べるということだ。

ひとつの例をあげる。ありそうな話を適当に頭の中で組み換えたできごとであり、そのものズバリのエピソードがあるわけではないが、なかなか衝撃的だとは思うので、心して読んで欲しい。



10年前に乳がんにかかった患者がいる。手術で病変はすべて採り切れており、リンパ節にも転移はなかった。そのまま毎年病院でチェックしていたが、再発はなかった。


ところが今回、乳がんでかかっていた病院とは違うクリニックで、胃カメラによる健康診断を受けたところ、胃に小さな病気が見つかってしまった。


内視鏡医(胃カメラを担当した医者)は、「おそらくこれは胃がんだろう」と思った。病気のカタチや色調、周囲の状況などからそう判断した。


ところが、患者の既往歴(きおうれき。過去にどんな病気をしているか、ということ)を確認すると、そこに「10年前に乳がん」と書かれている。


胃がんと乳がんは、同じ「がん」と名前がついているけれど、まるで別の病気だ。構成している細胞だって違う。だから、この患者が過去に乳がんになっているということと、今回あらたに胃がんが出てきたということは、基本的には別々に考えていい話だ。


しかし、内視鏡医は気になった。

一度も再発していなかった乳がんが、10年経って胃に転移するなんてことも、じつを言うと全くないとは言えない。たとえば、中~大規模の病院で10年とか20年という長い間はたらいていると、1人、2人はそういう患者と出会うこともある。確率は低いが、ないわけではない。

内視鏡医は少し考える。「胃の病気が、もし乳がんの再発だったら……。」

胃がんと乳がん(の再発)では、治療法がまるで違う。


そして、これ以上は、いくら考えてもわからない。


だから内視鏡医は、まず、胃カメラで、胃の病気の一部をつまみ採ってくる。


爪の切りカスよりさらに小さいくらいの断片でいい。これを病理に出す。


病理医に向けて書いた依頼書。「胃がん疑いです。なお10年前に乳がんの既往あり。」


それを見た病理医はすかさず……。


前に乳がんを診療した病院に連絡を取って、乳がんの病理診断をしたときのプレパラートを取り寄せるのである。


胃がんと乳がんは、見ればすぐに区別がつく……とは言い切れない。細かいことを言えば細胞は別モノなのだけれど、所詮は胃カメラで断片的に採ってきただけの細かいカケラ。断言するには心細い量だ。


だから、「以前の病気の姿を、実際に顕微鏡で見て比べる」というのが極めて大事なのである。





今回のように、「病気が再発なのか、それとも新たに出てきた別の病気なのか」を確認するためには、昔のプレパラートを取り寄せる。

ほかにも、たとえば、「○年前にA病と診断がついていたが、その後の経過を見ていると、どうもA病としては珍しいふるまいをする病気だということが後からわかってきた」というときも、昔のプレパラートをもう一度見る。

「○年前にBという病気を診断されているが、じつはCという病気も隠れていた可能性はないか?」などと問い合わせを受けて、昔のプレパラートをあらためて見直すということもやる。



病理診断は細胞を見て考える仕事なのだけれど、一度考えた内容をあとから振り返ったり、昔書いたものを参照して今に加味するといった、「時間軸を加えたロングスパンの思考」もやることがある。このあたりは、臨床医も、若い病理医も、わりとおろそかにしがちな部分であり、中年以降の病理医は「自分がしっかり過去を取り寄せて見比べないとな」と気持ちを引き締めるようにしている。じっさい、そういう知り合いが多い。

2021年4月1日木曜日

欲望

「このブログは、朝更新するのが一番いいな」と感じている。ただし、自分がなぜそう感じているのかはイマイチわからない。ここのところはあまり考える気がしない。たぶん、わからないままにしておいていい部分なのだろうと思っている。人間、あまりこだわりのふたを開けない方が良い。閉じたままにしておいたほうが安定するものがある。密閉して低温で熟成させる。超音波とかは当てない。



ぼくのスマホにはときおりキャリアメールが届く。コンタクトレンズの会社と、回転寿司の予約に使えるウェブサービス、そしてスポーツ用品店。いずれも、日ごろ、一切使っていない。だからすぐにブロックしていい。それで何の差し支えもない。そもそもぼくは裸眼なので(メガネは伊達メガネだ)、コンタクトのメールが来る意味がわからない(いつ誰が登録したんだ)し、長いこと外食していないし、スポーツ用品なんて買わない。しかし、使い途のないこれらのメールをブロックせず、着信するままにしてある。明確な理由はない。ぼくはアプリ等の通知をかなり細やかに管理するほうだから自分でも不思議ではある。「なんとかしてもいいのに、なんともしていないなあ。」とはっきり気づいていながら、そのまま。ahamoがはじまって、キャリアメールが廃止されたら、これらのメールも届かなくなるんだよな、と思って少しさみしい思いすらしている。

一連の感情は言語化し切っていない。メカニズムを追いかける気にもならない。



「えっ、そういう中途半端な状態に耐えられるんですね」

みたいなことを言われることがある。もう少し自分を完璧にコントロールしたがるタイプだと思っていました、という言葉を耳にする。コントロールしたいと思うのは、自分から発せられて明らかに人に向かって飛んでいる部分くらいだ。それは礼儀としてやっておきたい。しかし、「にじみ出てしまって、届いてしまうもの」まではコントロールできると思っていない。どちらかというと、操作にかんする「不全感」を抱えたままでいたい。根源的な欲求のレベルで、ある種の「未解決」を望んでいる。



「放置したままで、少し腐敗しかかっている部分」のようなものを、ときおり求める。職場でも家でも、部屋の中はきれいで、机の上も整然としており、PCのデスクトップもスカスカで、「仕事ができる男は机がきたない」みたいな発言は生理的に無理。それなのに、精神の一部が無解釈で放置されている状態をどこかに残しておいたほうがいい、そういう信念が、ほどよいきれい好き感覚と矛盾無く存在する。



最後まで言語化しないままに終わりたい。ただし「取っ手」をひとつ付けておく。ぼくは、単純な系である限りは心ゆくまで整頓する。なぜか。複雑系が整理できるわけがないだろうと「言いたい」のだと思う。「単純じゃないものを扱っているんだよ」と、「言いたい」のだと思う。ここまでにしておく。