2017年9月29日金曜日

病理の話(126) 受験数学的な病理診断について

受験のことを思い出していた。

かつて、「図形問題」というのがあった。円とか平行四辺形とか三角形などに、自分で「補助線」を引いて、角度を求めたり長さを求めたりするやつ。中学校くらいでよくやったんじゃなかったっけ。

あれ、何が難しいかって、

「問題集で1つの問題を解いたからと言って、すぐに他の問題が解けるようにはならない」

ということだ。



入試に備えて、過去問を勉強する。過去問は「もう二度と出ない問題」だ。だって、一度出てるんだから。

けれど、「似た問題が出る」と言われて、そうか、じゃあ過去問でもやっとくかな、となる。

これが役に立つか、立たないか、という話。



計算問題なら、数字だけ違ってもやり方は基本的に同じだ。

けれど、図形はそうはいかない。

「同じ図形に同じ補助線」ということはなかなかない。

ぼくは図形の問題が苦手だった。

参考書や問題集を読むうちに、図形も補助線もぜんぶ違うけれど、なんだかパターンというか、根底に流れる考え方みたいなものはある程度共通するのだなあ、ということを少しずつ学んでいく。

そうやってようやく、受験の当日に初めて見る図形に対応できるようになる。

「ああ、この問題自体は見たことがないけれど、なんというか、昔解いたことがある問題にちょっとだけ似ているところはあるなあ、それが何かはわからないんだけれど……」




経験と直感で問題を解くということ。

あるいは、複数の問題から抽出された理論を理解して問題にあたるということ。

当時やっていた、受験テクニックとは、どっちだったろうな。





病理診断も、こういう側面がある。

まったく同じ患者、というのは絶対に現れない。だから、世の中には、まったく同じ病気というのも存在しない。すべてが一期一会である。

けれど、無数の病気の中には、

「この病気であれば、この部分に関してはこういう見え方をする」

という共通点がある。

病理医は、「初めて出会う細胞」を、知識や経験を基に「おそらくアレと似ている」と分類していく。

そうすると、「解ける」。





病理医の仕事は、なんだか受験数学に似ている、という話である。

そして、さらに書き加えておかないといけない。





病理医の仕事の根幹は、受験問題を解くところまででは終わらない。

受験問題を実際に解きながら、そのメカニズムを解明し、臨床医をはじめとする多くの医療人が見ても解けるように、「参考書や問題集として仕立て上げる」こと。




臨床医が細胞を採ってきて、病理でAという病気だと解答を与えられておしまい、ではなく。

臨床医や、あるいは若い病理医が、

「ああ、こないだこれに似た病気があったけれど、あのときは病理でAと診断されたっけ。ということは、今回もまたAと診断されるかな? 少し似ていて、少し違う。Aじゃないかもしれない。今度は病理はなんて言うかな。Aかな、あとはBもありえるなあ」

というように、解答だけではなく問題そのものにも興味を持ってもらえること。




人気の予備校講師がテレビに出る。多くの日本人であれば義務教育のどこかで学んだはずのことを、誰よりもわかりやすく解説して、知識を知恵に変えてくれる。それを見た人達は、ただ単に問題から解答を導き出す「いわゆる受験勉強」よりも、もっと実践的な学問に、あるいは逆に、もっと根源的な学問に、それぞれ興味を持つようになる。

病理医がやる仕事も、こうであればよいなあと思う。

2017年9月28日木曜日

そうすればあなたの完全勝利

バンドミュージックは多様すぎる。出不精なぼくはタワレコで試聴を繰り返すことなどしていない。ライブハウスの開演直後から5時間くらいはりついて聴いたことのないバンドの曲を知ることもしない。初老のマスターが黙ってたばこをふかしている飲み屋でスペースシャワーTVを延々と見ることもない。ただ毎日をばくぜんと送っている。音楽に対して足を運んでいない。20年前に中年だったら、きっと、とっくにバンドミュージックを追いかけることはできなくなっていただろう。

セイタカアワダチソウの生い茂る草原にぽつりぽつりと野球ボールが落ちている。そのどれかを欲しくてしょうがない。きっと手にすればうれしくてしょうがない。けれどぼくは草原を歩かない。だから、もう新しいボールは手に入らない。

バンドミュージックを好きになるというのはそういうことだった。

けれど今は、インターネットがありツイッターがある。

今日ぼくは中年でいて、職場と自宅と出張先の三角貿易しかしていないけれど、それでも新しいバンドを知り、新しい曲を聴くことができる。




「本来であれば出会うきっかけがなかったもの」。

「人の意見」とか「小さな事件」とかもそうだろう。余計なもの、自分を傷つけるもの、悲しい気分にさせるものもいっぱい入ってくる。

黙って座っているだけで自分に都合のよい情報だけが勝手に飛び込んでくるような都合の良いシステムではない。

喧噪に飲み込まれてしまわないように、ある程度、能動的に選択する必要はある。自分の必要なものだけを取り込むシステム。

今のところ、「音楽」とか「本」などにおいて、ぼくはうまいことやれているように思う。





窓口を広くするだけでは、ホメオスタシス(恒常性、いきものが新陳代謝しながらも同じ状態であり続けること)は保てない。敵も味方も入りほうだい、では困る。

むしろ、窓は閉じる。壁をきちんと用意する。その上で、「能動輸送するためのチャネル」をきちんと置いて、自らに害を為すものをはじきかえし、有用なものだけを取り込む。レセプターが反応する「よいもの」に対してだけ、窓口を解放する……。

まったくもって、「細胞」と一緒であるな。





そういえば。

生命の新陳代謝システムは極めて優秀であるけれども、これがうまくワークするためにはある条件を満たさなければいけない。

ある条件とは、細胞外に

「選べるほどたくさんのマテリアルが、そこそこ高速でびゅんびゅん動き回っていること」

である。

細胞が必要とする栄養が「やってきたら、取り込む」というシステムは、「やってこなかったら、餓死」してしまう。

例えば、空気の中には酸素や二酸化炭素が含まれているが、これらはすごい勢いでびゅんびゅん動き回って、あっという間に混ざり合う。拡散能が高い。

もし、酸素とか二酸化炭素が、もっと足が遅くて、なかなか混じり合わなかったとしたら、ぼくらは部屋の一箇所でじっとして息をしているうちにだんだん苦しくなってきたはずなのだ。

自分の周りにある酸素を呼吸によってぐんぐん消費しても、すぐに外から酸素がじゃんじゃか飛んできて混じり合うからこそ、ぼくらは一箇所に留まって眠りながら呼吸することができる。




窓口を開放せず、自分で良いモノと悪いモノを見極めて、良いモノだけを取り入れようとするとき。

窓の外では、喧噪がなければならない。情報が高速でびゅんびゅん動き回っていなければいけない。撹拌されていないといけない。

「自分の目を信じて、いいものだけを選んでやっていく」というのは簡単だ。けれど、周りに雑多かつ高速の物流がなければ、それは緩慢な断食になってしまう。




インターネットでありツイッターのいいところはまさにこの「喧噪」なのだろうな、と思う。




「背高草のざわざわっと、それ以外聞こえない静かな夏の風景。」

「でも俺 この喧噪に飲み込まれてしまう。」

2017年9月27日水曜日

病理の話(125) 仮説形成法はホームズスタイル

プレパラートの中では時間が止まっている。

「今」を固定している。

だから、

「がんはどこから現れて、どうやって大きくなってきたんだろう」

を考えるとき、すなわち

「時間経過とかダイナミズム」

を考えるときには、とても工夫しないといけない。




がんの科学は、対象とする細胞がとても小さいということ、それが人体の中という簡単にはもぐりこめないところで起こっていること、さらには病巣が大きくなるまでに10年以上の時間がかかることなど、複数の理由により、直接観察して解明することが難しい。

そんな中でも、がん細胞を様子を直接見ることができるプレパラート、あるいは病理学というのは、がんの科学にとってはかなり真実に近いことは間違いない。

けれど、あくまで止め絵であるからこそ、時間経過やダイナミズムについては簡単には観察できないわけである。



世にいるあまたの研究者の誰ひとりとして、人間の生体内でがん細胞が発生する瞬間や、がん細胞がメリメリと増えてまわりにしみ込んでいくところをリアルタイムに観察した人はいない。

培養皿の上で、環境を整えて、がん細胞を培養して、タイムラプス顕微鏡で観察した人ならいるけれど。

培養細胞の挙動が、生体内の動きと全く一緒であるという保証はない。むしろ違っているだろうと言われている。

ヤクザをひとりとっ捕まえてきて、研究所の中に作った箱庭に話して、「さあ今から普段通りに振る舞え」と言われても、ヤクザだって困るだろう。

それと一緒だ。




がんの科学は、究極のところ、直接見て考えることが難しい。

つまりは、「想定」と「類推」の上に成り立たせるしかない。今見えているものからストーリーを思い描くだけの想像力、そのストーリーが現実に起こっていることと矛盾しないのだという観察力、それぞれが必要なのである。




細胞を観察して思い描くストーリーが「ほんとうのこと」であると証明するためには、コツがいる。

そのコツは、たとえば、「写真一枚を見て、そのとき何が起こっていたかを想像する」作業と似ている。

豪華客船タイタニック号の写真を見て、側面に火災の痕があったことに気づいて、「実はタイタニック号は出港直前より貯蔵していた石炭が発熱していて、使える石炭の量がきわめて少なくなっていたために、巡航を急いで、結果的に氷山に激突してしまった」なんて、見てきたかのような仮説がテレビに出ていた。

ほんとかなあ。

けれど、この「ほんとかなあ」を、顕微鏡を見て病気を診断する病理医も、ときどきやっている。





胃がんのプレパラートを丁寧に観察する。がんがない人の胃と見比べる。そうして、ひとつの法則に気づく。

「あっ、胃がんがあるときは、高確率で腸上皮化生(ちょうじょうひかせい)が周りに見られるなあ」。

何十例も、何百例も見ているうちに、確信に変わる。

「胃がんと腸上皮化生は、高確率で合併しているぞ」

そこから、類推する。

「まず、正常の胃粘膜が腸上皮化生に変わり、腸上皮化生ががんになるに違いない!」



これは結構長い間信じられていた仮説である。今でも信じている消化器医師は多いだろう。

けれど、間違いだろうと言われている。




腸上皮化生を痴漢に例える。

がんを強盗犯人に例える。

治安の悪い土地があると、痴漢がそこかしこに出現する。

そして、強盗犯もあらわれる。

このとき、「痴漢が強盗犯になった」と考えるべきか?

普通はそう考えない。

「治安が悪いという共通の理由があって、痴漢も、強盗犯もあらわれた」。

この方が自然である。




胃がんも一緒だ。胃に悪さをする何か共通の背景があって、そこに腸上皮化生が出現し、ときおりがんも発生する。

別に、腸上皮化生が直接胃がんに変化したわけではない。

このことを、専門用語で、

「腸上皮化生は傍がん病変 paraneoplastic lesionであり、前がん病変 preneoplastic lesionではない」

という。

パラ(一緒に出現する)ではあるが、プレ(前触れ、元となるもの)ではない。




しかし、腸上皮化生が前がん病変であるという誤解はずっとあった(繰り返すが、今でもある)。

なにせ、顕微鏡で時間を止めて観察すると、腸上皮化生とがんが一緒にある確率が高いから。

すぐに飛び付きたくなる仮説であることは間違いない。

けれど、腸上皮化生とがんの分布をより細かく観察したり、遺伝子の変化などを丁寧に調べていくと、だんだんこの仮説が「ちょっと現実に合わない」ことに気づいてくる。

仮説はいつでも仮説だ。真実そのものではない。

常に仮説は更新し続けないといけない。それが「がんの科学」である。

直接見られないからこそ、仮説で戦う。仮説で戦うからには、常に仮説を新しいモノへとマイナーチェンジし続けていく。

人間、結局、アップデート方式に落ち着いていくものなのだ。

スマホにしろ。アプリにしろ。ゲームにしろ。

最初に買えばそれでOK、ずっと長く使えます、という時代ではない。

最初に採用した仮説を、使い続けながら、より人々になじむようにアップデートしていく。

それこそが「がんの科学」なのである。




最初に立てた仮説だって、決してとっぴな発想ではない。

真実とはちょっと違う。そんなことは織り込み済みである。でも、ある程度は妥当なのだ。

だったら、その妥当な部分をうまく見抜いて、診断や治療に活かせばよい。

そうやって、医療は人々を救ってきた。

完璧でない仮説であっても、妥当な部分をきちんと用いて医療をやれば、診療は可能であり、患者の役に立つ。

そして、今の仮説で満足してしまってはだめだ。

観察をくり返し、知性をふりかけ続けると、少しずつ、仮説がより確からしいものに変化していく。

10年前の医療よりも今の医療はたいてい真実に近い。




顕微鏡を見る診断は、時間経過やダイナミズムに弱い。

それを補うために、統計学とか、遺伝子解析とか、様々な手法を用いて、少しでもよい仮説を構築しようと、「その瞬間で最高の仮説」を探す。

病理医がこの仮説形成を繰り返すことで、時間を止めて観察していたに過ぎなかった病理学に、ダイナミズムが生まれる。

仮説が時間経過とともによいものに変わっていくのである。

すなわち、病理学は、時間経過やダイナミズムに弱いというよりも、時間経過やダイナミズムに自ら取り込まれていくべき学問なのだ。

ストーリーテリングができる病理医はよい病理医。

仮説をうまく説明でき、かつ、今ある仮説を常に疑い続ける病理医はよい病理医。




やっぱりちょっとホームズ感があるな。

数回前のブログではワトソン感があると言ったけれど……。

2017年9月26日火曜日

ちんこの話ばかりする人

腰が痛くなってはじめて、「背中にクッションを入れるありがたみ」がわかったよ。

こんなところに縦にモノを噛ませてどれだけ役に立つんだよ、とぶっちゃけ思っていた。

けれど、背中の湾曲部にモノを置くことで、姿勢が自然と矯正されて、腰回りの筋肉に対する負担(これは主に、自分の体重を支えるときの負担だと思う)がぐっと軽くなる。

普段、気づかずに腰にダメージが蓄積していた状況に、クッションひとつで気づくことができて、クッションだけでそれを回避することができるんだ。



ああ、そうかそうか、ありがてぇもんだなあ、みんながやってる意味がわかったわかった。



インスタグラムをやっていないのだが、あれ、何がおもしろいの? そう言おうとして、ぐっと押し黙った。

きっとインスタだって、やるきっかけを得た人、何が気づきがあった人にとっては、生活の「姿勢」をほどよく保ってくれるような何かがあるんだ。

それは腰痛になる前のぼくが気づかなかったクッションかもしれない。

かけうどんに一味を入れたらうまくなるなんて、考えもしていなかった。

グレーのシャツにグレーのカーディガンを合わせても、バッグで色を与えればおかしくないんだよ、と教えてもらった。

わさびが食べられるようになったら寿司が何倍もうまくなった。




「なんでそれをやっているのか意味不明」

「何がおもしろいのかわからない」

みたいなことを言うときは、きっと、そのものがどのように役立つのか、どのあたりがおもしろいのかという路線で考えても、わからない。

脳を使うとき、「なぜだろうのメソッド」だけでは、うまくわからないことがある。

そういうときには、遠回りなようでも、「なぜだろう」を考える前に、「どういう人達がそれを喜んでいるのだろう」と考えた方が、結局は答えに近くなるのではなかろうか。




ツイートでにゃーんと鳴き、AAのうさぎをふぁぼる人。

何がおもしろいのか。何の役に立つのか。

ではなく。

「どういう人が、それをやっているのか」

を観察しよう。




たいがい、おっさんだった。なるほどな。と思う。いい勉強をしている。

2017年9月25日月曜日

病理の話(124) ワトソンであった理由

長いメールが届いていた。ある内視鏡医が記したものである。

まるで古典文学を読んでいるかのような気持ちにさせるそのメールには、現在、自分が「病理の手法」を用いて、ある疾病の発生メカニズムを明らかにしようとしているのだ、ということが書かれていた。

「だから君にも手伝って欲しい」

ではない。

「こんなことをやっているんだ。どうかな、おもしろいよな。どう思う? いや、感想だけ聞かせてくれればいい」

そんなニュアンスである。





「病理の手法」





ある疾病を、臨床医はさまざまな手段で見る。

「臨床の手法」を使って見る。

画像検査だったり、血液検査だったり、患者の訴えだったり、統計学だったり、さまざまな手法によって、この疾病はどんな形をしているのだろうか、と探る。

たとえばそれが、「縦に引き延ばしたホームベース」のような形に見えるとする(あくまで例えである)。


/\
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| |
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――


こんなかんじ。

でも、この5角形のうち、先の尖った部分が重要なのか、側面の柱の部分が大切なのか、底辺の部分が意味を持っているのか、臨床の手法だけではわからない。

彼らは、だから、顕微鏡を用いたり、免疫組織化学という手法を用いたり、遺伝子解析を用いたりして、「病理の手法」で疾病をさらに探ってみたい、という考えに至る。



そしたら、この疾病はこのように見えたのだという。



……まるで違う形だ。そこで臨床医はピンと来る。

「ああ、これは、おそらく本当はエンピツの形をしているのだ」




エンピツを上から見れば丸くなる。

横から見れば先ほどの5角形になるだろう。

見る手法、すなわち見る角度が異なれば、見えてくる図形がまるで変わってしまうことはある。



そこで臨床医はぼくにメールをしてきたのだ。

「エンピツだと思うんだよ。よさそうだよな。あってるよなこれ」

ぼくは納得をする。病理医でなくても病理の手法は用いることができる。彼のやっていることはぼくから見ても極めて妥当だ。

先生、すごいですね。

彼は鼻高々となり、さらに謙虚さを増して学問に没頭していく。





……こんなことがよくある。ぼくは時折、何も自分で解析していない分野において、単に「聞き役」にさせられることがある。

ホームズにとってワトソンは必要ないと思うのだが。

ホームズたちは、ワトソンに話し掛けることで、自分の頭を整理しているのだろう。




なお、ぼくはメールに、このように返した。

「先生すごいですね、病理医だけでは絶対に見えてこない視点です。

なお、○だけじゃなくて、□のこともあるんですよ」




臨床医はピンとくるのだろう。「あっ、四角いエンピツってあるよな!」と。

彼の筆箱が途端に多彩になり、彼は驚喜して、そうだ、ロケットエンピツやシャープペンシルなんてものもあったなあ、と思いを様々に巡らせていく。




自分を名探偵になぞらえるのは楽しい。

ただ、ワトソンの何気なく発したひと言、それは必ずしも論理的である必要はないが、何かの世界でずっとやってきた経験が導く不思議な直感であればよく、その「名状しがたい直感」が、探偵に新たな視点を与えることがある。

病理医はときにワトソンであってもよい。




そういえばIBMが診断用に提供しているAIの名前はなんと言ったかな、と、ぼくが思ったのは、この記事を書く「前ではない」。

途中なのだ。

そういえば、と思った。単なる偶然である。

けれど、単なる偶然じゃないのだろうな、と、半ば確信している。

2017年9月22日金曜日

受信者でいればいいだけの話

書いたことがある話題を、延々と書いていた。

たった今消した。




「病理の話」には、そういう「二度目の記事」がいくつかある。でも、ま、病理の話ならば、同じ内容を何度か書いても許されるんじゃないかな、と思う。なにせ世の中には病理の話が少なすぎる。多少しつこいくらいでもいいんじゃないかな。いちおう切り口は変えておくからさ。

けれど、病理の話の合間にこうして「箸休め」として書いている記事の方は、別である。「病理の話じゃないほう」で、自分が前に触れた話題をもう一度とりあげるのは、とても恥ずかしい。

まず、同じ話題を二度語ってしまうというのは、ぼくの場合、基本的に「無意識」である。

よっぽどこれが言いたかったんだね、前にも言ってたもんね、なんて指摘されて、はじめて気がつく。ああ、やっちゃった。

「うちのおじいちゃん、酔ったら同じ話を何度もするのよ」みたいなやつじゃん。

「課長が新人に必ずする訓話があってよォー」みたいなやつじゃん。

恥ずかしい……。




この不幸な事故を減らすためにはどうしたらいいだろう。




ここはひとつ、「このブログでは、○回目には必ず□の話をします」と宣言してしまう、というのはどうだ。

ぼくがつい何度かしゃべってしまいがちな話題はいっそシリーズ化してみる、というアイディアだ。

……。

同じ話題を同じ展開で同じオチまで持って行く快感におぼれ、しかも前に一度披露していることを忘れてブログに平気で複数回同じ話題を書いてしまう人間が、「○回目」の数字が増えるたびにちょっとずつオチをずらしておもしろいことを言う、なんて芸当ができるわけがない。

破綻が目に見えている、やめる。




「してやったり系のネタ」を言おうとする欲を捨てよう。

「うまいこと言う人」になりたがる欲を捨てよう。

狙い球を絞るのではなく来た球を打つようにする。

先の先ではなく後の先を取るようにする。

これならどうだろう。

……。

実際、「関西方面のお笑い」にうるさい人は、これを徹底している。

ネタは毎回違うが構造が毎回同じ、という関西のギャグ的な空気はそうやってできている。

破綻はしないだろう。安心感はある。

けれど、道民は関西人には決してなれないのだ。

なれないんやで。ごめんがな。




一度言ったことを忘れない人間でいたいけれど、もう、なんだか、無理な気がする。

毎回おもしろい話をネタ被りなく披露できるおもしろおじさんでいたいけれど、狙う時期を逃したし、方向性も間違っている。

そうか、そうなんだ。

きっと、ネタ被りをおそれ、自分から出てくる話題の少なさにおびえ、おもろないんやでんがなとか言われるのがつらいから、「芸能とか社会情勢の短報に飛び付いてリアクションすること」が発信の主軸になってくるんだ。

ああ、自分から何かを発信するって、難しいんだなあ……。





ちなみに人がなぜ芸能とか社会について反応したがるのかについては、以前にもこのブログで書いたことがあったはずです。

2017年9月21日木曜日

病理の話(123) 大河ドラマのあとは歴史本が売れる

ありとあらゆる医者は、タテマエ上、学生時代にほぼ全ての臨床科のことを「習っている」。

これは、義務教育の際にすべての小中学生が、日本の歴史について「習っている」というのと同じ構造だ。

習っている。

それだけである。




医学生は卒業後、まず第一に、手先を動かす訓練をする。

現場でここぞというときに、体が硬直しないように。

電子カルテの書き方。入院患者に対する基本的な対処法。外来での事務処理。

急変した患者の対応。救急外来での最適化された行動順序。

医師に求められている数々の手技。挿管、血液ガス採取、大血管へのカテーテル挿入。

「脳よりも先に体が動いてくれないと話にならないよ」という、現場からの期待が大変はげしい。

脳は置き去りにしてでも、身につけなければいけない。



脳に待っていてもらっている2年間で、「日本史」のことは、ほとんどすべて忘れていく。

どれだけしっかり勉強していても、ほとんどすべて忘れる。

ただし、「ほとんどすべて」だ。すべてではない。

自分が将来にわたって使い続ける知識については忘れない。



研修医は、自分が日本史の中で、「どの時代」を勉強したいかを見据えている。

 縄文時代の第一人者になるか。

 室町時代なら誰にも負けない人になるか。

 江戸時代の中期を学ぶか、末期を学ぶか、あるいは江戸時代成立前後を学ぶか。

 日清戦争のなりたち。

 田中角栄のやったこと。

これらは同じ日本史と言ってもまるで違うだろう。

田中角栄の業績に詳しいからと言って縄文土器を見極められるわけがない。

たとえば消化器内科と整形外科というのは、それくらい違う。




小中学生のころ習った「日本の歴史」だと、みんな、どこを一番覚えているだろう?

最初の方で学んだ、「前方後円墳」とか、「聖徳太子」とか、あのへんか。

多くのマンガやドラマで描かれている、「戦国時代」とか「織田・豊臣・徳川」とか、そのへんか。

ザビエルを思い浮かべる人もいるだろう。

平安京だけは忘れない人もいるに違いない。



循環器内科とか救急というのは、ザビエルとか平安京みたいなものだ。

昔習ったなあ、というのを強烈に覚えている科。

頭に残っている科。

「ぼくは日本史に詳しいよ」と人に言って回るときに、説明のしやすい科。




じゃあ病理は?

うーん、そうだな。少なくとも、特定の時代とか、特定の人物ではない。

「日本の文化史」とか。

「日本の外交史」とか。

何かひとつの視点で、すべての歴史を俯瞰しているようなイメージ。

「どこかの時代」を学ぶのではなく、すべての時代について、ある決まった視点でまとめ直すような感じ……。






医学生がときどきツイートしているのをみる。

「病理の試験めちゃくちゃきつい、将来病理医にだけはぜったいなんねー」

「顕微鏡実習マジで意味無い、病理は進路としては消えたな」

これは、学校で日本の歴史を学んだ小学生が、

「年号覚えられない、社会はきらい」

「歴史資料館の見学行ったけどちっともおもしろくない、歴史はつまらない」

と言っているのに似ているなあと思う。




そりゃあつまらんだろう。

病理が「そういうもの」だと思っている間は、つまらんだろうな。



昔、社会に苦労した子供達の中には、たまに、大人になって、もはや社会の勉強なんてしなくてもいいんだよというポジションについてから、ある日、大河ドラマみたいなちょっとしたきっかけで、

「あっ、今なら勉強できるかも、今なら社会がおもしろいかも」

という気になる人がいる。




病理というのはそういうアレだと思うんですよ。大河ドラマが好きなら病理が嫌いなわけないんだ。