2017年9月11日月曜日

このブログのプロフィール写真がまさにそのホテルで撮ってみたやつですね

「周りの目」って大事だな。

「○○歳にもなって、■■してないなんて、恥ずかしい」

とか、

「そろそろ△△ができないと周りに迷惑かける」

とか。

さまざまな行動が、「周りからどう見られているか」でドライブされる。



足の速い動物が、速く走って獲物を捕らえないと生きていけないように。

社会性で生きる人間は、周りの目に一喜一憂しないと生きていけないのかもしれない。




釧路出張の夜、ホテルの部屋で、ローソンのパスタを食いながらビールを飲んでいた。デスクの横の壁には大きな鏡があって、飯を食っている自分の顔が映っている。すこし前傾姿勢の首。ストレートネックって、他人から、こうやって見えるのかあ。胸張って歩かないと貫禄的に厳しいなあ、飯食う時もあんまり前傾姿勢になるのやめとこ、小物っぽく見えちゃう……。

そこまで瞬間的に考えてから、ゆっくりと思った。

ホテルの部屋でひとりで飯食うときに、小物っぽく見えたから、どうだっていうのよ。




そういう、「だからどうだっていうのよ」みたいな話、いっぱいある。

歯を磨いているときに口元から歯磨き粉が垂れたらはずかしいと思ってふき取る。誰も見てねぇよ。

部屋着がよれよれになってきたので少しおしゃれなやつに買いなおす。誰も見てねぇよ。

誰も見ていないパンツにまでこだわることこそ、男のたしなみ? 知らねぇよ。自意識過剰かよ。




……って、思ってた世界に、SNSがいいねをつけてくる。

2017年9月8日金曜日

病理の話(119) とても役に立つ線維

人間の体の中にはさまざまなおトク物質がある。

多くの医療者が存在を知ってはいるものの、そのはたらきを正確に理解できていないものは、「線維」(せんい)だろうと思う。

今日は線維の話をする。



洋服の繊維、とは漢字が異なることに気を付けてほしい。体内で増えるセンイは「線維」と書く。なぜ漢字を書き分けているのか、理由は戦前の病理学もしくは組織学に端を発しているのではないかと推察するが、詳しくは知らない。

なお、「野菜をとると繊維がとれるからいいんだよぉ」の場合は、「繊維」でよい。元から体外にあったものについては繊維と書けばよい。ややこしい。



線維はどこではたらいているか?

一番身近なのは、ケガをしたとき、そのケガを「穴埋め」する線維である。

腕をどこかにぶつけて血が出たとしよう。

その部分、血が出ているからあんまり凝視したくはないのだが、実は、組織の欠損がある。欠けてしまっているわけだ。

欠けていると、まず第一に、防御力が下がる。ばい菌がはいってしまっては困るだろう。

次に、バランスが崩れる。周りの細胞が苦労して築き上げた構築がグラグラになってしまうのもまずい。

ということで、穴埋めをする。

一番かんたんな穴埋めは、みなさんご存じの「かさぶた」だ。

かさぶたは、血液の中を流れている血小板などによって、すみやかに形成される。仮のふたである。

自分ではがせるほど、もろい。

この仮のふたでひとまず穴をふさいでおいて……次に、人体は何をするか。

「線維」を作り出して、土のうで堤防をうめるように、空いたスペースを埋めていくのである。

このとき、線維はさまざまなはたらきをする。



まず、土のうとしての「強さ」がある。

そして、多少周りが動いたり歪んだりしてもびくともしない、「柔軟さ」がある。

さらに(ここからを知らない人が多いのだが)、この線維は、周りにある血管を自分の中に引き込んで、多くの栄養や酸素などを集める「人集め力」を持っている。これから時間をかけて修復していく必要がある場所の血流を豊富にすることは、災害現場に人を派遣するのと同じような意味をもつ。

また(これも知らない人が多いのだが)、線維はまわりの組織をぐっと引き寄せる「収縮力」を持っている。ヤクザの顔にある傷跡はひきつれているだろう。あの「ひきつれ」は線維によってもたらされる。なぜひきつるのか? それは、組織の欠損(穴)を埋めるために便利だからだ。ただふたをするよりも、傷口をぐっとひきつけて、穴を小さくしてしまったほうが、ふたがしやすいだろう。

最後に、組織の修復に成功した場合、線維は「吸収され、なくなってしまう」という性質をもつ。建築現場の足場は、工事が終わるととりはずされるだろう。あれに似ている。



このように、非常時に大変役に立つ「線維」であるが、ふだんは体の中にはあまりたいした量は存在していない。それはそうだ、工事の足場が常に街の中にあふれていては、ジャマでしょうがないだろう。

しかし、いざ! ケガをすれば、すかさず「線維芽細胞」と呼ばれる、文字通りセンイの芽となる細胞が集まって来て、そこに線維を作る。

この線維芽細胞を集める「号令システム」がまたとてもおもしろいのだが、長くなるので今日はやめておく。




おまけだが、線維の性質として「穴を埋める」と共に、栄養を集める「人集め力」があるのは非常に重要である。ここでうまく人が集まらない場合、ケガがいつまでも治らない。

また、このような便利な線維を、がん細胞もまた密かに「使えるやつ……」と狙っており、がんが増えるときには特殊な
「号令システム」により線維化を引き起こす。がんが「硬くなる」、「栄養を奪う」、「ひきつれる」のは、主にこの「本当は集まるタイミングじゃなかったのに集まってしまった線維」による。



人体の中にある仕組みというのは大変巧妙であるため、それをすり抜けたり、悪用したりする病気というのはもはや、インテリ詐欺師のようなたたずまいを見せる。線維ひとつとってもこれである。



おまけですが、これらの「線維」は、いわゆる食物センイ(漢字で繊維と書く方)とは全く関係がないです。これ書いておかないと、ケガをしたときにゴボウとかモヤシ食いまくるみたいな謎治療が提唱されかねないからな……。

2017年9月7日木曜日

びょうりいのりょうりび

買ってきたカルボナーラのレトルト、量が少なくてがっかりした。レンジでチンするためのプラスチック容器(タジン鍋型)にルーを入れてみたら、おい、こんなものかよ、となった。ゆであがったパスタに対して明らかに足りない。

冷蔵庫に牛乳とスライスチーズがある。それしかない。タマゴさえない。

ほかほかのパスタとチンする前のルーをほっぽらかしにして、近所のスーパーに走って、ハーフのベーコン(減塩)だけ買ってダッシュで帰宅し、てきとうに切ってルーに入れた。

ついでにスライスチーズを1枚、手でちぎって、これもルーにいれた。

最後にルーに、牛乳を1ドボ(単位。音が一瞬ドボって鳴る程度)入れて、まとめてチン。

かさまししたルー。

パスタにかけて食う。

ベーコンの塩味とチーズのコクが牛乳によってさらっさらに薄められて、パンチ力のダウンしたちょっと健康そうなカルボナーラを普通に食して、あとはビールでよくわからなくすることで無事一日を終えた。




こういうときだ。

こういうとき、ああ、自分が「計算尽くの料理」をできたらなあ、と、ほんとうに切なくいたましく思う。




世においては、尊敬する料理人として、「冷蔵庫の中身を見てすかさず何かを作れる人」というのがよく挙げられる。

ぼくは、そこまでじゃなくていい。

だって基本はレトルトでいいんだ。

ただ、とにかく、つい買ってしまう各種のレトルト……カレーとかパスタ、麻婆豆腐……に、「何か言いようのない不安」を覚えたある晩夏の夜、冷蔵庫で出番もないまま死んでいこうとしていた残りものと、ダッシュで4分くらいで買い足せる下ごしらえも何もいらない切れっ端みたいな食材を使って、レトルトがちょっと豪華になって少し笑顔になる、ついでに洗い物は増えない、みたいな料理が、あとちょっとだけ上手にできたら、ぼくは本当に幸せを手にしたと言えるのではないかと思うのである。

ああ、あのカルボナーラが、もう一声! うまくできていたらなあ……。



雑にうまそうなめしを作るひとたち、ぼくはあなたになりたかった。

「料理医」と聞き違えられたとき、「料理もしますけど病理医です。」と答えられる、そんな人生がよかった。

2017年9月6日水曜日

病理の話(118) お時間をいただかなければいけないわけがあるんです

主治医が、あなたの体の中から細胞を採ってきた。それは胃カメラでつまんだ胃粘膜のカケラ(小指の爪の先よりもっと小さい)でもいいし、胆石で手術した胆嚢(たんのう)そのものでもいい。針で刺した肝臓の一部でもいい。なんでもいい。

主治医はあなたに「この細胞は病理で調べてもらいます」と告げる。

あなたは、どれくらいで結果が出るのですか、と聞く。

たいてい、「1週間から2週間くらいですね」という答えがくる。場合によっては1か月待ってくれと言われることもある。

この、数週間という時間は、あなたにとって、針のむしろの上の数週間である。

あるいは、まな板の上の数週間と言ってもいい。

「なぜそんなに時間がかかるのだろう……。まあ、これで病気を決めようというのだから、仕方がないかなあ」

あきらめ半分、緊張した日々を過ごすことになる。




なぜこんなに時間がかかるのか。




まず、体の中から採ってきた細胞は、そのままにしておくと、「くさる」、あるいは「とける」。

細胞というのは基本的に体の中にいるからこそ生きられる。栄養。酸素。温度。湿度。すべて、体の中が最適だからだ。もっとも心地よいゆりかごを離れると、細胞はとたんにやる気をなくす。

釣った魚をそのまま放っておいたらだんだん鮮度が落ちていくのと、理屈としてはあまり変わらない。

刻一刻と状態が悪くなる細胞の時間をすかさず止めてやらないと、その細胞がどういうものかを観察することはできない。

せっかく苦労して採ってきた細胞である。できれば、ただ瞬間的に見ておしまい、ではなく、末永く有効活用してほしいと思うのが、患者の、あるいは医療者の、共通の願いであろう。

だから、まず、「細胞の時間を止めるための処理」をする。ホルマリン固定という。

これに地味に1日かかる。その日のうちに細胞の観察に入ることは極めてまれなのだ。



1日後、その細胞を観察するための「標本づくり」がはじまる。

小指の爪の先くらいであれば、全体をいっぺんに観察することもできる。

しかし、採ってきたものが「肝臓の1/3」だったり、「胃の全部」だったりすると、これらをぜんぶ顕微鏡でみるのは大変だ。

だから、どこをプレパラートにして、どこを重要視して、どこを見れば病気の本質に迫れるかをきちんと考えて処理しなければいけない。

「どこをプレパラートにして顕微鏡で観察するか」を確認する作業日が必要となる。



そうそう、言い忘れたが、細胞をホルマリンに浸して「時間を止める」とき、採ってきた臓器が大きいと……具体的には、1 cmより分厚いとき、ホルマリンが組織すべてにしみわたるには、1日では足りない。

1日でできあがる漬物を「一夜漬け」と呼ぶが、何日も漬けておかないと味が染みない漬物もあるだろう。それと一緒だ。

2日、3日とホルマリンに漬けておかなければいけない場合もある。ここでまた時間がかかる。




さて、どこをプレパラートにするか決めた時点で、今度は病理検査室にいる専門の技師さんが、プレパラート作成作業に入る。ここにまた時間がかかる。なにせ、病院の中では「病理部門の臨床検査技師」にしかできない特殊技能だ。宮大工並みに繊細な、熟練のわざが必要となる。

まずホルマリンに漬かった組織を、顕微鏡で見られるようにするために、別の溶媒に浸しなおす。

ホルマリンというのは強力な液体すぎて、そのままではうまく細胞を染め上げることができない。そう、細胞というのは、うまいこと染めないと、ただ顕微鏡でのぞいてもうまく見えないのだ。

パラフィン、有機溶媒、さまざまなものに次から次へと浸して、時間を止めた細胞を観察できる状態にもっていく。

なんとこれにも1日かかる。

さあ、ようやく組織の「見られる準備が整った」。

ここでさらに、「実際に見るための作業」を行う。具体的には、組織を、4 μmという、向こうがみえるほどの薄さに仕立て上げる。

大根の中にダイヤモンドを埋めて外から見ることができるか?

できない。

大根がジャマだからだ。

だから、大根を切って、ダイヤモンドが見られる場所にたどりつかないといけない。

さらに、大根とダイヤモンドであれば、太陽の光で十分観察することができるだろうが。

実際にはホコリより小さい細胞の配列を観察しなければいけないので。

ただ光をあててもうまく見えない。

だから、「透過光」を用いる。細胞の下から光をあてて、上から覗き込む。これが通常われわれが使っている光学顕微鏡である。

細胞の下から光をあてて、上から覗くためには、組織の厚さがそうとう薄くないといけない。ペラッペラにしなければいけない。そうしないと、光が透過しない。

ステンドグラスとかセル画を見るイメージなのだ。

細胞って英語でCell(セル)だからな。セル画。フフッ。今おもいついた。



巨大なカンナのようなマシンを手動で動かして、組織のうわっつらを薄く切る。「薄切」(はくせつ)と呼ぶ。

ペラッペラにした標本を、複数の染色液に漬けて、染め上げる。

この染色作業に半日かける。

ようやく、「セル画」ができる。



病理医の元にセル画……プレパラートが届くのは、最短で、標本採取の1日後。ここまでをじっくり読んだ方は、あれ、もう少しかかるんじゃなかったっけ? と疑問に思うかも知れないが、小指の爪の先より小さな検体を処理するときには、ここまで「1日」と書いてきた行程を、「3時間」とか「2時間」に短縮しているので、ほんとうに一番はやくて翌日にはプレパラートが完成する。

けれど、この「1日」は、患者さんに「ぜったい1日でできますから!」と約束できるほど確実ではない。

どうしたって予備日を設定しなければいけない。なにせ繊細な作業だからだ。

ということで、「平均2日」くらいでかんべんしてもらうことになる。

大きな手術だと、作業量が何倍にもなるし、ホルマリンほかの浸透スピードにも時間がかかるので、「そもそもプレパラートができるまで1週間かかってしまう」ことはしょっちゅうだ。



1日~1週間かけてできあがったプレパラートを、病理医が診る。その場で診断ができればいいのだが。

プレパラートは一日何百枚もあがる。

たどりつくまでにも時間がかかる。

そして、1枚のプレパラートを見て、「あっ、これは難しい」となったときには、さらにプレパラートを作り直し、「違う染色」を施して、違うやり方で細胞を観察することがある。

これにまた数日を要する。

さらに、病理医が、「これは顕微鏡だけで診断するのが本当に難しい」と思った場合、主治医に問い合わせながら、臨床画像(CTとか胃カメラなど)の確認を行ったり、検査データとの照合を行ったりもする。




けっきょくのところ。

病理診断は、患者さんの体の中から細胞を採った「翌日」に完成することもあるが、小さな検体であっても診断が難しければ1週間以上を要することもあるし、大きめの手術検体の場合は最短で1週間前後、最長では3週間くらいを要する。




……そういう細かいところはいいから、「がんなの? がんじゃないの? そこだけ教えてよ!」

患者の気分としてはこうだろう。主治医だってそういう気持ちでいる。

けれど……「がんか、がんじゃないか」なんて人生の一大事、ちょっと慎重に決めたくなるときだって、ある。



病理診断がすごいスピードで出る場合、病理医の腕がよいということか?

そうだ、とも言える。違う、とも言える。

腕がよければよいほど、「細胞が垣間見せる、こまかい違和感」に気づくから、診断に時間がかかったりする。

病理医の腕が普通であっても、技師さんや、臨床医がとても優秀だと、そもそも標本作製までの手間を早めることができたり、あるいはセル画以前の情報でかなり診断を絞り込んでいたりするので、診断が早くなる。

細胞をあまりてきとうに扱ってしまうと、たとえば将来、遺伝子治療に入ろうと思った際に、採取して保存してある細胞の状態が悪すぎて、追加の検査ができない、となる場合もある。これでは本末転倒だ。

一度採ってきた細胞は、何度でも何度でも、患者さんの状態や、そのときの医学の発展度合いに応じて、くり返し利用できることが望ましい。

細胞をとってくるにしたって、痛みを伴うこともある。苦痛に感じる患者もいる。

だったら、きちんと、保存させてほしい。きれいな標本を作っておきたい。




すみません、いつも、お時間をいただいております。

2017年9月5日火曜日

ししとうも焼く

ホルモンやナンコツばかり食っていた。

ヘルシーだとかブームだとか言う単語を、頭のまわりにまるでグラディウスのオプションのように連れ回しながら。

「一周回ってさあ、ゴリゴリのカルビよりも、ホルモンの方がうまいと思うんだよな」

とも言った記憶がある。牛タンとか薄いしすぐ焦げるじゃん、も言った。

ホルモンやナンコツだけで5,6年ほど過ごしているかもしれない(焼き肉屋の中での暮らしに限る)。



なぜ自分がこの数年、判で押したようにホルモンやナンコツばかり食べてきたのか、今となってはよくわからない。こだわってきた、とすら言える。

「こだわり」というのはなんだか「意地を張っている状態」と似ているなあ、と思う。

いや、まあ、意地を張っているからよくない、と言いたいわけではない。ぼくらは日頃、意地を張るという言葉を、「意地を張るのはよせよ」みたいに、「よせよ」とセットで扱いがちだけれども。

意地を張ってこだわって、その結果、楽しそうだ、という人もけっこういるように思う。

張れる意地なら張ってみるのも手だ。

しかし……。人生の重大な決断というならばともかく、「ホルモンやナンコツを食べる自分にこだわる」というのはなんだか、小物感がすごい。

そこまでこだわるほどのものか? ホルモンとかナンコツは。





思い出せないのだ。

かつて、「よぉし、ぼくはこれから、ホルモンやナンコツを食っていこう」と選択した日があったのか。

選択のきっかけとなった「出来事」があったのか。

ぼくに何か「強い意志」みたいなものがはたらいたのか……?

そんな、「ホルモン記念日」は、存在しなかったと思う。

「よぉしナンコツを食べよう、これからのぼくは。」と脳内団結式をやった覚えもない。

様々な流れがあったのだ。ただ、それだけだ。

社会でホルモンがブームだったかもしれない。たまたま好きな女性がホルモンを好きだった日があったのかもしれない。入った店がホルモン専門店だったのかもしれない。あるいは、「意志」というには弱すぎる程度の「意識」が、「今日は塩ホルモンみたいな変化球がうまそうだ」と、偶然何連続かでぼくの脳に響いていたのかもしれない……。

いろんなものがちょっとずつ積み重なった結果、選択らしい選択をした覚えもないけれど、今のぼくがこのように構成されている。

自分の意志で選んだ、とか、なんらかのポリシーに基づいて作り上げた、とかではなく、ただ単純に、「今のぼくが在る」「だけ」。



ぼくらはすぐに過去を振り返って、「選択肢」について議論をするけれど。

そんなものはなかった。

選択肢があって、自分の意志で選んで、その結果が今だよ、みたいな話、あちこちで本当にしょっちゅう耳にするけれど。

ぼくは、「選択らしい選択をしないままなんとなく成り立った自分」に、毎日動揺している。むしろ選択した覚えのない自分の姿にこそ、今とても興味があるのだ。







先日、久々にカルビを食った。なんだこのうまい食い物は。おどろいた。寿司よりうめぇじゃねぇか。ロースも食った。おお、「肉ってうまいんだな」。これがあるからホルモンとかナンコツがメニューの下のほうに押しやられるんだな。牛タンを食った。おい参ったなたまらんぞ。

脂っこい肉をがんがん食った。

翌日を待たず、その日のうちに、胃もたれしたけれど。

このことをきっかけに、ホルモンやナンコツしばりを緩めて、カルビや牛タンを食うように、シフトバーをチェンジすることになるだろうか?

いや、ならないだろうな。

ホルモンもナンコツも、こだわりとかじゃない。「癖」になってしまっている。

だからこれからもホルモンとかナンコツを食うんだけれど、そんなぼくを見て、誰かが、

「あいつこないだ無理してカルビ食って胃もたれしたんだわ、だからああやってまたホルモン食べることにしたんだな」

と、ありもしないぼくの「選択」について語ることが、あるのかもしれない。




そういえば別れた妻はサガリが好きだった。サガリは肉っぽいけど脂身が少ないからうまいよ、と言っていた。一緒に焼肉を食うときにはサガリをよく注文していたように思う。

そうかそうか、そういうきっかけ「も」あったかもしれないなあ、くらいの思考で、ぼくはまたおそらくホルモンを焼くことになる。

2017年9月4日月曜日

病理の話(117) レンズを変えるように染色を変える

風景や人物の写真を、わざとモノクロで撮ったりセピアにしたりすると、ぐっと立ち上がってくる叙情のようなものがあるだろう。

人間は、ものを見るときに、ものの形……というか輪郭だけを見ているわけではない。

色調とか、色の差のようなものにすごく解釈をゆだねている。

それがわかるのは、プレパラートを「異なる染色法」で染めたときだ。




通常、プレパラートは、HE染色(ヘマトキシリン・エオジン染色)という方法で染める。

ちょっとネットから拾ってこよう。高知の病理センターのJPEG画像を勝手にお借りする。



左がHE染色。何が染まっているかというとこれは胃粘膜なのだが、まあ今回そういう解説はやめておく。

右側には、「EVG染色(エラスティカ・ワン・ギーソン染色)」が掲載されている。

ふたつを見比べると、「輪郭がおなじ」ことがわかるだろう。「全く同じ場所」を、2つの染色方法で染め分けて比べているのである。

まるで見え方が違うことはおわかりかと思う。ただ、実際、輪郭は同じだ。細胞や臓器の形をみるだけなら、どちらで染めても良さそうなものである。

この染め分けは、どうして行うのか?




臓器を顕微鏡で観察するとき、プレパラートを作るわけだが、このプレパラートには、障子紙よりもはるかに薄い「4μm」の厚さの試料が乗っている。

薄切(はくせつ)と言って、臓器をカンナのおばけみたいなやつでペラッペラに薄く切る。4μmというと髪の毛よりも薄い。ペラペラに切った試料は、向こう側が透けて見えるほど薄い。そして、基本的に「透明」である。

指のささくれとか唇の薄皮だって、うすーく剥くと向こうが透けて見えるだろう。それと一緒だ。

このままでは、細胞の輪郭など絶対に見えないから、染色をする。特に、細胞の核と細胞質という構造物はきちんと見極めたい。

この、細胞の核とか細胞質を見極めるという作業、あるいは臓器の全体をきちんと観察する作業に最も向いているのが、HE染色であると言われている。

ぶっちゃけて言えば、「コントラストがはっきりしていて、見やすい」。




左のHE染色と、右のEVG染色を見比べると、画面の上半分……胃の粘膜(ねんまく)と呼ばれる部分の見え方がだいぶ異なることに気づく。左は、グラデーションがきれいである。粘膜と一口に言っても、いろいろな細胞の種類があるのだなあ、ということが、このHE染色を見るだけで一目瞭然だ。

これに対し、右のEVG染色では、粘膜の部分はなんだかセピアで、どこに何があるのか一見してわかりにくい。



だから病理医は、ほぼ100%のプレパラートを、最初、HE染色で見るのである。これが万能なのだ。HE染色だけで、8割以上の診断を付けることができる。

ただ。

染色を変えることで、HE染色よりも見やすくなる構造物というのもあるのだ。

もう一度、さっきの図を見てみよう。


図の真ん中あたりに、クリームパンのように波打った横長のリングがある。

これは、血管である。

HE染色だと、ピンクのべたっとした壁として認識できる。

一方、みぎがわのEVG染色だと、なんだか黒っぽいふちどりが見える。このふちどり(というか、血管の梁(はり)のようなもの)は、HE染色ではよく見えない。

実はEVG染色は、血管を見やすくする目的で使用される染色である(ほかにもオタクな使用法がいっぱいあるのだが)。

別にHE染色でも血管はよく見えているじゃないか、と思われるかもしれない。ただ、ちょっと考えてみて欲しい。左側の画像の中で、「ピンク」に染まるものは血管以外にもいっぱいある。

たとえば筋肉。たとえば線維化。たとえば硝子化。HE染色でピンクに染まるものというのはほんとうにたくさんあるのだ。実際、HE染色の画像のベースはピンク(あちこちにピンクがある)というのはおわかりだろう。



図の下側で、帯状のピンク色として染まっているのは、筋肉(平滑筋)である。この中に血管が埋まっていたとしたら、HE染色でぱっと気づくことができるだろうか?

EVG染色なら気づけるのである。なぜならば、HE染色では見えない、黒緑色のふちどり(弾性線維)が見えるからだ。




おもしろいことに、いったんEVG染色で血管を確認したあと、HE染色をよーく見直すと、輪郭のこまかな違いなどで、HE染色でも血管(あるいは弾性線維)を見極めることができるようになる。人間の目、あるいは脳に、「ここを見たら良いよ」という気づきを与えると、見て理解できる範囲がぐっと広がるのだ。

HE染色の画像にフォトショップなどで処理を加えたら、EVG染色のような効果が得られるだろうかと、いろいろいじってみたこともあったが……。今のところ、個人の趣味レベルではEVG染色を超えることはできないでいる。



EVG, Azan, Gitter, PAS, DFS, Grocott...

HE染色以外の染色(特殊染色)はたくさんある。

さらに、これに、免疫組織化学(いわゆる免疫染色)という手法も追加することができる。




カメラマンが、露出をいじったり、補正をかけたりしながら、かつ実物を超えた加工にならない程度に、被写体をうまく浮かび上がらせるように。

病理では特殊染色によって、「被写体」がきちんと浮き上がってくるような試みがなされているのである。




なお、これらの染色は、「臨床検査技師」の手によって行われる。昔の病理医は染色も自分でしたというけれど、今のぼくにはこれらの染色をきちんと仕上げる技術がない。うちの技師さんたちは優秀で、プレパラートは極めて美しい。いつもお世話になっております。

2017年9月1日金曜日

100%

デスクの上や標本棚の一角に、旅先で買った根付のようなおみやげや、ガシャで取ったミニフィギュアのようなものを置いている。まあ、それはいい。好きでやっているからだ。

ただ、埃がすごい。困っている。

定期的に、ひとつひとつどかしながら頻繁に掃除すれば、いつまでもきれいなデスクであり続けるのだろうが。

そこまで努力しなければいけない、ということを、小品を買い集めていた段階で、思い付かなかった。

おかげで今は、デスクの上や標本棚の一角が、小物まみれだし、埃まみれである。




思えばぼくは、よかれと思って置いてみたインテリアがゴミにまみれてなんだか汚くなってしまいそのうち捨てる、ということをずっと繰り返している。

大学3年生のとき、大学のそばに、はじめて部屋を借りた。はじめてのひとり暮らしである(といっても週末は同じ札幌にある実家に帰っていたのだが)。自分の城だ、コーディネートをしたくてしょうがない。

ムダにものを買ったなあ、と思い出す。

なんかサボテンとか。あと……なんだっけ……そう、パキラ!

パキラという名前の観葉植物を買った。デスクに乗る程度の小さいやつ。ハンズでよく売っていたやつだ。

ほかにも、アメリカの車についているナンバープレートみたいなやつとか、ちょっと気の利いたマグカップとか。4プラの上、狸小路の隅などの雑貨屋を巡って、買い集めた。

あれぜーんぶ埃まみれになって、部屋が汚くなっただけだったなあ。




「部屋を上手に飾る人」を見ていると感心する。ぼくにはそういう才能と、努力する気がない。

自分のデスクを見返してみる。作業スペースはきちんと整頓してあるが、それは「仕事で使う部分」だからだ。「遊びの部分」で、自分をきっちりとコーディネートするのがへたくそだ。

服のセンスがないのもいっしょなのかもなあ。スーツとかばんは選べるが、私服が選べない……。






先日、実家に帰ったら、断捨離の真っ最中だった。本棚をひとつ潰して古い本を捨てたり、カーペットとかソファを入れ替えたり、物置のものをまるごと整理したりしていた。

ぼくが暮らしていた部屋も、こぎれいにまとまっていたのだが、そこに、あまり見た記憶のない、ぼくのふとももくらいまである観葉植物が置いてあった。きちんと手入れされている。ちょっとエキゾチックな感じだけれど、緑が部屋にあるのはよいことだ。

なにげなく、土に刺さっている札を読むと、

「パキラ」

と書かれていた。

母に尋ねる。「これ真くんが大学のときに買って、その後引っ越ししたときにいらないからってうちにくれたやつでしょう(笑)。そのまま育ててたら、こんなにおっきくなったわ」

お前、あのときの、卓上パキラかよ。

「インテリアとか観葉植物をきちんと管理できる血、ぼくにも半分流れているはずなんだけどねえ」と答えながら、なんだか可笑しくて、笑ってしまった。