2017年12月11日月曜日

へこむしてますか

「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」が庵野秀明監督でアニメ化しねぇかなあと思ってるうちに師走が来た。師走だけが特に忙しい印象はない。むしろ、年末年始をひかえて、各臨床科が少しずつ年末モードに入っていくため、12月の後半は組織診の仕事が少し少なくなる。家に帰る時間も少し早くなる。読む本が少し増える。正月、それは読書天国、今年も読みたい本がある。年末年始には仕事をせずに本を読む。ありがたいことである。

カズオ・イシグロを読みたいな。ああいうのは喧噪の日常にはとても読む気がしないから。

ケン・リュウの長編とかもほんとは読みたいけど今回はパスかなあ。

今年もいくつか本を読んだ、特にぼくは何冊かの本に心を折られたのが印象的だった。どういう生き方してきたらこんなすごい本が書けるんだろう、そういう漠然とした敗北感みたいな感情を心地よくツマミにして文章に酔った一年だった。

こういうことを書くと、「上を見てもきりがありません、あなたは好きなものを書けばいいのです」みたいな見当外れのなぐさめをぶつけてくる人間がいるのだが、何もわかっちゃいないなあと思う。

ぼくが本当に書きたかった情動を、ぼくより優れた筆致で、ぼくが思いもつかない技法で書き記されたら、ぼくのオリジナルの情動なんてあっという間に吹き飛んで、整地されて、置き換えられてしまうのだ。

心の中だけは誰にもいじられない、なんてのは大嘘だ。心の中の名状しがたいなにものかを、誰か他人が文章という暴力で形にしてしまったら、ぼくはもう、その情動を他人の言葉でしか言い表せなくなってしまうのだから。




白状するとぼくは1月末を締め切りとして医療系のSFの執筆をしていたのだ。

本作は6編の短編を元に書き上げる長編で、まず6編の短編を書いておいて、それをメタに配置した世界で主人公がある悩みと向き合って最終的に筆を折るまでの……

いや、主人公は実はまだ決めかねていた。

作家そのものを主人公にするかどうかはわからなかった。作家の一番近くでその仕事を練り上げようともくろむ編集者を主人公にした小説を書くかもしれないな、と思っていたのだ。

短編を2本、3本と書き、4本目がほぼ書き終わったところで、ぼくの手帳はアイディアで真っ黒になった。書きたいフレーズはある、書きたいストーリーもある、しかし、書きたい感情がいまいちつかめないでいた。

そんな折に読んだのが「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」であった。ぼくはもうこれで完全に折られてしまったのだ。

ぼくの書きたかった感情がそこにはぼくの考えもつかなかった言葉で書き記されていたからだ。

ぼくはこの心の動きをこれとは違う形で書くことは永久にできない、それは優劣とかジャンルとかそういった言葉のモンダイではなくて、もっと根源的な、

「もう、読めばいい本がほかにあるのに、なぜぼくがあえて同じ所を書かなきゃいけないんだよ」

みたいな気持ちになってしまったのだった。




ぼくは某氏の編集者に「すみません、もう書けません」とメールを打った。送信するときにちらっと編集者のメールアドレスが目に入った。おたくの出版社からはこういう内容の本は山ほど出ているじゃないですか。ALSOKでも識別できない程度の小声でぼくはひとりごとを言っていたのだと思う、なぜならそのとき、ぼくの乾いた唇は振動かなにかで避けて、ワイシャツの胸元に点状の血液が、目をこらさなければいけないレベルでわずかに降りそそいでいたからだ。


2017年12月8日金曜日

病理の話(148) とある病理の選書目録

病理の話を誰かにして、わかってもらうために、頭の中にインデックスを作っている。



細胞について。障害と応答のメカニズム。

炎症。

組織再生。

循環メカニズム。

遺伝性疾患。

免疫。

腫瘍。

感染。

代謝、栄養。




さあ、病理の話をしよう……。そう意気込んで、インデックスを順番にたどり、いちから語ってみても。

医学で飯を食おうという人以外には、まず興味をもってもらえない。




基礎のところはいいからさ、もっと役に立つところを教えてくれないかな。

もっと身近な病気について説明してもらったほうがうれしいな。

勉強したいわけじゃないの。自分の知りたいところだけ知りたいの。



そんなふうに言われてしまうだろう。

つまり、ぼくのインデックスは、「医学好き」とか「病理好き」には役に立つだろうが、「医学ふつう」「病理ふつう」とか「医学きらい」「病理きらい」な人にとっては、さほど価値がない。

頭の中には病理のインデックスが全部入ってますよぉ、なんて偉そうに言ったところで、世間の多くの人からは単なる「医学知識オタク」とみられて終わりである。

みんなはもっと、実学的な、身に迫ってくるような、あじわいのある、「やまいの知恵」みたいなものを求めている。

そういう人達に、病理のおもしろさを伝えようと思ったら、ぼくの用意するインデックスは「今のまま」ではだめなのではないか。




ぼくはそもそもインデックス大好き派である。

理論が順番に組まれていることに安心を感じる。

だから、人に説明する時も、概念をきちんと整理して、分類をして、筋道を追って説明をしたい。

……けれど、それでは通じない場合がある。

そのことにようやく気づきはじめた。




今まで気づかなかったのは、自分が誰かに何かを伝えようとするとき、「伝えようとがんばっている自分」に満足していたからではないかと思う。辛辣な言い方だが、自分に対して言うのだからかまわない。

必死で伝えようとする人間をみていれば、相手も「まあがんばってるからな、わかったふりしとこ」となるだろう。

ぼくは相手の「気づかい」にあぐらをかいていたのではないか、と思う。




今ぼくが知りたいのは、「教科書を調べるときに、目次から順番になんか読まないよ派」の「生態」である。

彼らは、索引をひくだろう。

あるいは、ググるだろう。

いずれも、何か、ひとつの単語をあてにして……。

その単語は必ずしも、その人が知りたいことをきちんと連れてきてはくれない。

どう調べたらいいかわからない人に、「インデックスをおぼえろよ、最初から読めよ」と突き放してもしょうがない。

索引を調べる人、ネットで検索をする人が、「どんなことば」で病気を知ろうとしているのかを、まず、ぼくが知りたい。

そして、あることばAを使って検索をしている人に、「BとCも一緒に加えるといい検索ができるぜ」と伝えたい。





ぼくは今、病理学に対して、通常の教科書が採用している「オモテのインデックス」に対する、「ウラのインデックス」を作れないか、と思っている。

病理学をまとめて勉強するためにはオモテのインデックスに従った方がぜったいにいい。

けれど、世の中の多くの人は、目次から順番に病理学を読もうとはしない。する必要もない。

だったら、いっそ、世の多くの人が検索する語句を順番に最初からならべた、「ウラのインデックス」を見てみたい。検索ワードの上位から順番に目次を作ってしまう、ということだ。

「ウラのインデックス」をひとつひとつ説明することで、いつか、病理学の全体を説明できるようになるならば、それはとても楽しい事なのではないか。




・がん

・インフルエンザ

・ワクチン

・ケガ

・予防

・ダイエット

・老化

……。


なんだか書店のあやしい棚を見ている気分になる。

そうだよな、書店で売れている本というのはつまり、「単語で医療をまなびにくる人」をターゲットにしているんだもんな。

当たり前のことだった。





オモテのインデックスを、ウラのインデックスと同じくらい、おもしろく語ることができるだろうか……。

今のぼくの目標はそれである。たいへんに手強い。まだ3合目にも達していない。

2017年12月7日木曜日

脳だけが旅をする

旅はぼくを読者にしてくれる。

「移動の最中」はまとめて本を読むチャンスだ。

飛行機の中で、よく本を読む。あのミステリもあのSFも全部旅行中に読んだ……。

と、昔もブログに書いた覚えがある。



ただ、実は最近、旅行中にあまり本を読めていない。移動中、困憊してしまっており、座席についたら目的地までほとんど寝てしまうからだ。持ち歩いた本を一度も開かないままに職場に戻ってきて、かばんに入れた本をそのまま出して元通り本棚にしまい込むことも多い。



旅路は人生だという。しかしぼくはその人生で睡眠ばかりとってしまうようになった。結局、旅というのは、「どこかでひとやすみしながら移動すること」を言うのだろうな。ただ移動だけしても旅にはならない。優れたサラリーマンは休暇を適切にとるなどというが、優れた旅人もまた、ゆっくりぼうっとする時間を旅程に紛れ込ませているはずだ。

ぼくは旅人であることをやめてしまっている。

日帰りの出張が増えた。翌日を移動で半日潰さないために。あるいは、一刻も早く家に帰りたい、と願って。

移動中はずっとぐったり寝ていて、本も読めず、翌日は翌日で、日帰りのダメージを背負ったまま目を伏せがちに働く。




いそいで日帰りする苦労を繰り返して疲れた、ということを言いたいだけだ、今のぼくは。

徹夜すれば努力したことになる受験生と何も変わらない。

成長がない。





自分より若い病理医が、夜中の2時まで診断をしているとか、毎週出張で飛び回っているとか、論文を毎月書いているとか、そういうことを言う。ぼくもじわじわと焦っている。高密度で長く働けなければ社会人ではない、と、いつのまにか唱えている。

本を読む時間を削って仕事をして、それが成功したとして、そのぼくは、なんなんだろう。




デスクの後ろの本棚に、「読むつもり」の本を2冊ほど積んでいる。

この2冊が、5冊くらいに増えることはあるが、それ以上になることはまずない。積ん読というのが苦手なので、本が読めなそうなときには次の本を買わないからだ。

今ある2冊のうち、1冊は「小説」。もう1冊は「教科書」。

たいていいつも、小説やエッセイのような仕事と関係のない本と、仕事に多少なりとも関係ある教科書とを、1冊ずつ用意しているのだが……。

教科書の方は順調に読み進めているのだが、小説が、2か月ほど変わっていない。読めていない。



*



「タウマタ」という名の写真集を買った。まだ届いていない。どういう写真集かもわからないが、ぼくはきっと、その写真を眺めているうちに、旅に出たくなるのではないかと思う。

実際に旅行をするかどうかはわからない。けれど、旅に出た気分になる方法は知っている。本を読めばいい。

読書はぼくを旅人にしてくれる。

2017年12月6日水曜日

病理の話(147) びょうりいっておいしゃさんだよ

知人から、近所の小学生が「病理医」ということばを知ってるんだよー、という話をされた。病理医を知ってるってマニアックだなあと思ったら、そのあとに続くことばがおもしろい。

その知人が、

「ほかにどんな医者を知ってるの」

とたずねたら、

「えっ、びょうりいってお医者さんなの!」

と言われたらしい。ずっこけである。



そのあと、どんな医者を知っているのかと聞いてみたところ、

「内科。外科。産婦人科。あとコードブルーの人。以上。」

とのこと。

あきらかにテレビの影響である。

そして、びょうりいという単語は知っていたし、あれが病院で働く職員だということもわかっていたが、医者だとは思っていなかった、とのこと。



昔、警察官にはなりたくない、青島刑事になりたい、と答えた子供もいたと聞く。




医者に対する強力なイメージがすでに広まっている状況で、たとえば病理医とか病理という仕事を「特殊な医者だよ」と説明すると、誤解を招きそうだ。

もっと「病理医」に対してストレートにイメージを喚起するような説明が必要なのかもしれない。

どう表現すればよいだろうか?

ぼくは、「特殊なお医者さんなんだよ」と説明することに慣れすぎてしまっている。

医者という巨大なイメージに対抗しながら語彙を使い果たしてしまう。

もっと違う方向からアプローチできないだろうか?




・病気を調べる学者だよ

 →学者というイメージにひっぱられる。メガネのオタクで顕微鏡で試験管をふってそうで、医学系研究者の一部として処理されそう

・顕微鏡で細胞を見て病気を調べる仕事だよ

 →たしかにそうなんだけどいつも思う、本来の病理医の仕事の一部しか語っていないくせに地味。どうせ一部しか語れないならもう少しはなやかに説明したい

・医者の相談役だよ

 →フィクサーみたい。気持ち悪い

・お医者さんより病気に詳しくてお医者さんの相談にのる人だよ

 →少しマイルドにしたけど……おばあちゃんの知恵袋感がある

・病院が国家だとすると病理医は軍師かな

 →この例えを思い付いた自分があいかわらず気持ち悪い

・病気にやたら詳しい学者なんだけど給料はなぜか医者と一緒なんだよ

 →「なぜか」をつっこまれると死ぬ

・医者になるだけの資格を持っているのに医者にならなかった変なおじさんだよ

 →最近は変なおねえさんの方が多い

・勉強してたらお給料が入る仕事だよ

 →みもふたもない




たぶんこういう話を、居酒屋トークみたいな緩い感じでもいいから、本当にずーっとずっと考え続けていくことで、世間のこの職業に対する認知が変わると思う。

そして同時に、副産物として、

「今、病理医として働いているひとたちが、自分の仕事をより正しくとらえることができる」

みたいなことが生まれる。

ぼくはこっちも意外と大事なのではないかと思っている。





ぼくらは医者の資格を持っているけれど、実際、医者とはまるで違う仕事をしている。ぼくらの本質は学者に近い。

医師免許を持ち、学者にしては高い給料をもらい、病院にも勤務することが可能な、生命科学者。





……そこまで考えているはずのぼくが、知人から「えっ、びょうりいってお医者さんなの」の話を聞いて、無意識にずっこけてしまう。

なんだろう、医者ということばにしばられているのはぼくの方なのか。

なれたはずの臨床医にならなかった、という「ストーリー」を自分に与えたくてしょうがないのだろうか。そんなところがぼくの中にあるのだろうか。

あるかもしれないな。おもしろいなあ、と思う。




「見たもの、経験したものを博物学的に並べたあと、ストーリーを与えて仮説を形成する」というのが病理医の仕事の本質である、と、思わせぶりに最後に書いておく。

2017年12月5日火曜日

ちなみにときおりLDLが高いです

古いドイツ車に乗っているのだが、冬が来たらまたエラーのランプが点灯した。去年もこういうことがあった。触媒コンバータの故障を意味するランプだ。

ウェブサイトで確認すると、アクセルを控えめに走行して早くディーラーに持って行け、とあるので、ご指示に従ってディーラーに行ってみた。するとまったく違うことを言うのだ。

「これはですね……その……いわゆる『かぶっちゃった』ってやつでですね」

コンバータじゃないのか。

かぶる、なんてのはずいぶん昔のアメ車乗りがいっていた言葉だ。エンジン内の燃焼が悪いときに、イグニッションの部分に不完全に燃焼したガソリンが「かぶってしまう」ことで、エンジンの始動がいまいちうまくいかなくなる。

ディーラーの整備士は言うのだ。

「えー、黄色のランプってのは黄信号で、ですね……まあその……気を付けて走行すれば大丈夫でして……えーと、近所のコンビニに5分くらいで着いて、すぐエンジンを切るような運転をしてると、こうなりやすくなります。あとはー、冬になるとなんかいろいろこうなります。けど高速道路を走ったり、回転数をあげて走ったりするとそのうちランプも消えますよ」

いったい何を言っているのだ、こいつは。

おかしくなって笑ってしまった。自分が何もわからないものに乗っていること、ウェブサイトであれだけアラートを鳴らしているにもかかわらず、整備士が至って呑気で、むしろ、「この程度ならまだ大丈夫ッスよ」とでも言いたげなこと……。



今年も冬が来てまたランプがついた。

さてどうしようと思ったのだが、ひとまず高速道路で新千歳空港に行く用事がある。

黄色アラートが点灯した状態で高速走行など絶対にやりたくない危険な行為だろう……と、以前は考えていた。しかし、昨年の整備士のお説によれば、

「回転数をあげて長時間走行するとエンジンが安定するんすよ ランプも消えますし」

なのである。

十分に注意して高速に乗り、制限速度ぎりぎりでじっくりと1時間ほど運転してみた。

翌日にはランプが消えていた。

また笑ってしまう。はは、ぼくは何にもわからないまんまに車に乗っている。

整備士がほんとのことを言っているかどうかも確かめようがない。

ググっても違う情報が出てくる。知人はそれぞれ好き勝手な事を言う。

ランプがついてもまた消えるというなら、ランプの意義とはなんなのだ……。





病院に来る患者なんてのは、みんなこういう思いをしているのだろうなあと思った。

血液検査の結果を見ておどろく。黄色のランプがともっている。

どうすればいいんだろう、あんなに糖質制限してるのに不健康なの、どういうこと?

医者にたずねる。

炭水化物減らしたせいでかえってタンパクとか脂質が過剰になってるんですよ。そのせいで中性脂肪が高くなってるんですね。

もう何を言っているのかわからない。

こうしろって書いてある通りにしたのに。

医者に言われて食生活を変えればよいのか。

そもそもこの「黄色ランプ」は、自分にどういう危険をもたらすのか。

ググると違うことを言っている人がいっぱい出てくる。

医師免許を持っている人なら安心かと思ったけど。

ウェブサイトに「医師です」と書いてあるのをそもそも信じてよいのかわからない。

食事のことなら栄養士に聞く方が安心かなあ。

でも、聞いたところで、結局なにを言っているのかわからなかったらいやだなあ……。



*



今朝はとても寒かった。氷点下にふるえながら、運転席に座り、キーを回し、助手席においていたひざかけを手にとり、さて発進しようと思ったら黄色いランプが点いていた。

古いドイツ車はだめだな。

でも、車ってのはそう簡単に乗り換えられるもんじゃないんだ。

ちょっと血圧が高いからって来世に期待する人間がどこにいるだろう?

問題は、この黄色ランプが、高血圧くらいの意味なのか、高コレステロールくらいの意味なのか、ぼくにはさっぱりわからないということなのだが……。

2017年12月4日月曜日

病理の話(146) 語る時間と語らない時間

臨床医からの信頼が極めて厚い病理医というのは、「臨床医との対話の回数が多い」。

そして、勘違いしやすいのだが、「ずーっと仕事中臨床医と会話している人」が病理医として優れているわけではない。



病理医の強みというのは、何百種類もの色のレゴブロックが作り上げた医療という造形物の中で、病理医だけが持つ色・形を持っている、という一点にある。

その強みとは顕微鏡を見て細胞について思いを馳せることができるということだ。

細胞を見ることをおろそかにし、臨床医によりそうように、臨床医療のなんたるかだけを考えている病理医であっては、赤や青、緑で作られたレゴの中にキラリとまじったクリスタルカラーであることはできない。



先日、「濱口秀司さんのアイデアのカケラたち。」という連載の中で、目を引く記事があった。

http://www.1101.com/hamaguchihideshi/2017-11-27.html

いろいろな読み方があるだろうが、ぼくは、コミュニケーションとコラボレーションによって何かをクリエイトするとき、その作業の中に

・ひとりで沈思黙考する時間

と

・他人のアイデアに触れて、自分の中にあるバイアス(偏り)を排除する時間

の両方があることが重要なのだな、ということを感じた。




病理医が臨床医に寄り添いすぎて、診断学の要諦や治療のありよう、医療のメジャーな問題点などにあまりに共感しすぎてしまうとどうなるか?

それは、「臨床医だって普段から考えていること」を、病理医が一緒になってやっているにすぎない。病理医じゃなくてもできることだ。むしろ、臨床医が得意なことに病理医が興味本位で首を突っ込んでいるようにも思える。

病理医に求められていることは、「臨床医ができること」ではない。

臨床医が持っているバイアスや、臨床医が抱えている死角を、病理独自の視点で潰すこと、病理固有のスキルで問題を大きく揺り動かして解決することなのだ。


*



多くの仕事を世に送り出している臨床医には、たいてい、懐刀(ふところがたな)とでもいうべき病理医がいる。

先日、ある学会に出ていたとき、ひとりの肝臓内科医と話をした。彼は日頃、「頼りになる病理医」とメールのやりとりをするのだという。

「今日の学会にもいらしているんですか?」

ぼくは尋ねた。すると、彼はこう答えた。

「今日は病理の先生は別のお仕事だからいないよ。あんまり一緒の会には出ないね。ぼくは彼とね、うん、そうだな、年に2回も会わない。何週間に一度くらいのペースで、メールで短くやりとりをするだけ」

ぼくはそれを少なく感じた。コミュニケーションが足りないのではないかとさえ思った。しかし彼はこう続けた。

「でもねえ、その一瞬のメールが、ぼくの考えていなかった部分のフタを開けるんだなあ。ほんとうに、おもしろいくらいに、音を立てて、パッカッって開く。そこからまず、自分で考える。前提を疑う。見ていなかったものを見る。そして、何かまとまったな、と思ったときに、またメールをするんだ。するとね……」

そのアイデアは、さぞかし素晴らしい進歩をしているんでしょうね。ぼくは相づちを打つ。彼はまとめるようにこう言った。

「そう、まず、すごいねってほめてくれる。そしてそこでさらに、ぼくがこれだけひとりで考えまくって完成したアイデアを、さらにひっくり返す……というか、画竜点睛を入れてくるんだな。あれにはほんと参るよ。頼りになる病理医ってやつだ……」




臨床医からの信頼が厚い病理医というのは、「臨床医との対話の回数が多い」。

さらに言えば、臨床医からの信頼が究極に厚い病理医というのは、「臨床医にひとりで考えさせるだけの力をもったひと言」の重みを知っている。

コミュニケーション、コラボレーションというのは奥が深い。

口数が多ければよいというものではないようだ。ぼくは幸い、口数がそこまで多くない方の病理医だったよな。そう思ってツイッターのホームを覗くと、「38万ツイート」ということばが踊っていた。


2017年12月1日金曜日

むりだっちゅうねん

最近ちょっと腹の減り方が激しくなった気がする。

この腹からの欲求にそのまま答えたら、中年太りをするのではないか。

ふと、そう思った。



偉そうに言っているがぼくは、すでに中年としての「太り道」の途上にある。体重は青年期よりも3キロほど増えた。筋肉が落ちたのに体重が増えているというのはつまり、そういうことだろう。

今のところ、着やせするような服を選ぶことで、体型を維持しているふりをしている。

もはや待ったなしだ。このまま太っていくのだろう。できれば踏みとどまりたいとは思う。今まで着ていたスーツのズボンが入らなくなるのは残念だ。




本能に従って生きるという言葉には注意しなければいけない。本能のまま食ったら太ってしまうのだから。

本能というのは、理屈とか人の情念を超えたところで、「何かを保とうとする働き」である。一見、従っていれば間違いないように思える。

なんとなく、本能に従って生きれば一番いいじゃないか、と言いたくなる。けれどここには落とし穴がある。




本能が保とうとする一番大きなところは、本人の生命の維持……ではない。

種の存続だ。

自分が命を終えても、種族の遺伝子が後世に残っていくこと。本能というのはぶっちゃけ、そこにつながっている。

本能というとすぐ食欲と性欲と睡眠欲の話になるだろう。種の存続なんていうとなおさらだ。みんなセックスのことばかり考える。

けれど、種族の遺伝子を後世に残すことは、生殖だけでは達成できない。

生殖活動だけしても、いわゆる「子育て」をしないと、ヒトは生命を保てないからだ。脳ばかり大きく闘争と逃走の能力が不完全な、未熟な状態(つまりは赤ちゃん)で生まれてくるヒトは、ただ生めばいいというものではない。

セックスだけが本能であっては困るのである。その先にもさらに本能がないといけない。

社会を形成して子育てをすること。

徒党を組んでお互いを守るということ。

親子だけでは無理なのだ。

兄弟だけでもだめなのだ。

孤独であっては生きられない。

……家族単位では孤独であっても、真の意味で孤独な人間というのはいない。買い物をするだろう。本を読みテレビを見るだろう。言葉を知っているだろう。戸籍という意味ではなく、人間同士のつながりを手段として有している時点で、それは動物的な孤独とは少々異なる。

荒野で一匹遠吠えをするオオカミと、自分は孤独だと泣くヒトとは、周りに冷酷な社会があるかどうかの差分だけ、違う。




ヒトには、自分が生き残りたいとか子種を残したい以外にも本能がある。

だから、少なくとも、本能に従えば、社会を形成するために必要な自分でいることはできるのだ……。



いやまてまて。暴飲暴食をすると命を縮めるというではないか。それはいいのか?

いいのである。

暴飲暴食をすると、統計学的には、50代を超えて生きるのが難しくなる。高血圧、脂質異常症、糖尿病などは、人生の下半期に重くのしかかる病気だ。けれど、50を超えてから死んでも、種の存続にはあまり関係がない。すでに子を産み、ある程度まで育て終わった年齢だ。社会を形成する役割についても、半分くらいは達成できている。

ヒトの本能は、「50歳を超えて生きようと思っている我々のエゴ」には付き合ってくれない、ということだ。





ぼくは50で死にたいとは思わない。

けれど、本能はぼくの50歳以降を助けてくれないはずである。





この悲しい関係に、叛逆をおこすために、何が出来るか。

ぼくは自分が生きていくために、社会を存続させていかないといけないと感じる。

多少の空腹感をおぼえながらも、もっと若いひとたちが社会を便利に使えるように、自分のカロリーを社会に注いでいく。

他人の手伝いであくせくはたらき、きっちりとカロリーを消費してから、食べる。

そうすれば、にっくき中年太りをも、ある程度予防できるのではないか、と考えるのだ。


……そんなことが、可能だろうか……(タイトルに戻る)。