2020年12月2日水曜日

病理の話(480) 臨床と研究と教育と

大学時代には至る所で耳にした話。


医者の仕事は三つあるのだという。臨床、研究、教育。


臨床というのはあらためて眺めてみると変なことばだが、「ベッドサイド」(患者の寝ている横にいること)の日本語訳である。患者に直接会って話して手をさしのべる一連の医療行為のことをいう。


でも医者の仕事はベッドサイドだけでは終わらない。医学の研究をして、新しい治療法を開発したり、病気の正体を今までよりもっと解像度高く見極めたりするのも、立派に「仕事」だ。


さらには教育。自分一人がフルで働いたら年間に1000人の患者を相手にするとして(それはだいぶ優秀なほうかもしれないが)、その勤務時間を削って、相手にする患者数を500人にまで減らしたとしても、かわりに「年間200人の患者を担当できる後輩を10人育てれば」、より多くの患者を救えるだろう。


「これらをすべてやるのが医者だ」。




……でも実際には、この三本柱の比率は一様ではない。人生の三分の一を臨床、三分の一を研究、三分の一を教育に当てている、というバランスの良すぎる医者を、ぼくは見たことがない。


大学にいる人間たちの多くは研究がメインだ。「いや、自分は大学にいるけれど、臨床がメインだよ」という人を15年も観察すれば、99%は大学以外の場所で働くようになっている。大学というのはそういう場所だ。


逆に、市中病院の多くは、研究をする環境が大学ほど整っていない。そして臨床がメインとなる。研究をしっかりやっている医者もいるのだけれど、よくよく話を聞くと、そういう医者は「市中病院に在籍してはいるけれど、実は大学にも籍を置いている」ことがほとんどである。


教育をメインにすえている医者をあまり見ない。教育を相当熱心にやっているなあ、と感じる医者は多いが、それでも、臨床と教育を半分ずつ、というくらいのバランスであって、教育が臨床を上回るような医者はほとんど存在しない。なぜなら、医者の世界で教育をしようと思うと、生意気な後輩達が、

「おまえ、偉そうに先輩面してるけれど、臨床の経験たいしたことねぇじゃねぇか」

と蔑んでくるからだ。教育をしっかりやろうと思ったら、臨床の経験を磨かないとうまくいかない。




じゃんけんよりもう少し複雑な三角関係がある。臨床・研究・教育をどの配分でこなすかというのは人それぞれ。


で、ぼくはどうなのか、という話。


ぼくの精神力の割り振りは、


臨床:40%

研究:20%

教育:40%


くらいではないかと感じる。昔はもう少し臨床が多かったのだけれど、「病理診断医が臨床診断にかける時間は年次をかさねるごとに短くなる」。勤め続ければ診断の速度は早くなる。おかげで教育の割合が増えてきた。


臨床医の場合はこうはいかない。診断のスピードが速くなったら、その分で患者に向き合う時間を延ばしたり、治療の判断や実施にかける時間を長くしたりすることができる。この場合、診断が早くなっても「臨床」に向き合う時間は短くならない。


しかし病理医は診断しかしない。だから診断が早くなれば、余った時間はまるまる、「研究」と「教育」に振り分けることができる。そしてこのことは、「病理医」という職業を考える上で、実はすごく大切なことなのではないか、と考えている。


いっしょに働く臨床医たちのために、忙しい臨床医たちに変わって、最新のガイドラインを読んで理解してただちに現場に反映させること。


臨床医たちに混じって、症例に病理学的な解釈を加えながら、臨床医の疑問を解消する方向に会を導くこと。


学生や修行中の若い医師への指導。これらの時間をどんどん増やしていくことで、トータルで医療の底力を上げるように立ち居振る舞うこと。


これらを「ドクターズドクター」(医者のための医者)と呼んでいる人があまりに多くて閉口する。ぼくらのやっていることは「ドクターズティーチャー」ではないか。「先生(医者)のための先生(教育者)」であろうとすること。センセイズセンセイ。




ま、人それぞれ、好きに配分すればいいんだけど。

2020年12月1日火曜日

脳だけが旅をする

休日、用もないのに出勤することはないのだが、わずかに用があるだけでうっかり出勤してしまい、そこから長く過ごしてしまうことはままある。


わずかな用を土日にこなす意味がどれだけあるものか? 月曜の朝、始業前にやればいいのだ。でも、なんだか気が急いて、土曜の夕方だとか、日曜の昼に、つい職場に足を向けてしまう。


「待っている患者がいるのだから一日でも早く仕事をするべきだ」というのは詭弁にすぎない。ぼくらの仕事はすべて主治医の口から患者に伝えられる。ぼくが土日に病理診断報告書を書いたところで、それを説明する主治医は出勤してきていないわけだし、患者だって土日に説明される心の準備もないだろう。つまり、ほんとうはぼくは、土日に休んでいいのだ。そんなことはわかっている。わかっているけれど、どうも、休めない。


元々土日には学会や研究会を詰めこんでいた。病理医は患者を持たないし、病棟の回診をするという作業も存在しないので、土日は医学に明け暮れていい。この仕事のいいところだ。しかし、感染症禍によって土日の学会はすべてオンライン化され、北海道からえっちらおっちら移動しなくてよくなったせいで、移動分の時間がごっそり余ってしまった。


その時間を自分のために使おうと思っても、うまく使えない。





尻に根が生えるほど過ごした職場のデスクは、見るだけで正直うんざりすることもあるのだが、気に入った本をデスクの回りに挿してある上に、20年以上前から集めたCDの一部も置いてあるから、座ってしまえばあとは快適なのである。通信環境だって完璧だ。過ごそうと思えばいつまででもいられる。


よくない傾向だ。


「仕事と休みとはメリハリをつけてきっちり区別したほうがいい」


そんなことはわかっているのだけれど、そうきっちりと分けきれるものでもないということは、これまで多くの日本人が証明してきただろう。





病理解剖の報告書を仕上げるために出勤した。15分程度で、この日やれることはすべて終わってしまった。まだ追加でいくつか染色をしなければいけない。でも、休日は検査技師が出勤していないから、染色のオーダーを出しても意味が無い。結局月曜日まで待たなければいけない。だいいち、15分くらいの仕事であれば、月曜の朝6時に出勤してからちゃちゃっとやってしまえばよかった。

……そんなことは百も承知で、日曜日にこうして職場にいる。ぼく自身、ほかに何をしていいか、どこにいていいか、よくわからなくなっている。



書店や映画館であれば感染のリスクは低いということはわかっている。服を選びに行けばいいし、なんなら紅葉を見に車を飛ばしてもよかった。それでも、マスクをつけてどこかに移動することに心底うんざりしてしまっていて、どうにも出る気がしない。


もし今、ぼくが感染したら、同じ部屋で仕事をしているほかの病理医や技師たちの感染防御がいくら完璧だとはいえ、やはり一部はPCR検査を施行することになるだろう。あるいは、仮に同僚達が検査をしないで済んだとしても、聞き取り調査や体調調査などで半日近くは無駄にすることになる。


かかったときのダメージがでかすぎて、「かかったらかかったときだ」と納得できない。割り切れない。


ぼくが感染するということは、最前線で診療をしているドクターたちが感染するのとはまた違った意味合いがある。


病理診断科は他科との関わりの数がとても多い。消化器内科や外科とだけ付き合っているわけではない、産婦人科も、耳鼻咽喉科も、泌尿器科も、さらには放射線科だって臨床検査科だって幾度となくコミュニケーションをとる。「100人以上の医者相手に仕事をしている医者が1人欠ける」ということを真剣に考えるとめまいがする。ありとあらゆる他部門の人々に、「本当にマスクをして2メートル離れて15分以内で会話を終わらせましたか?」と確認してまわる作業を考えるだけで頭が痛い。主任部長になってからは会議も多く、院内のお偉方と言葉を交わす機会だって増えている。そういう人たちが「万が一にも濃厚接触になっていないかどうか」なんて、ほんとうのところ、自信がない。「絶対に大丈夫」かどうかなんて誰にもわからない。ゼロリスクは存在しない。


だから休日の移動の足はにぶる。

「でかけなければ生きていけない」ということがないからこそ、でかけられない。




誰もいない職場はひっそりとしていて、感染のリスクなど一切感じられない。誰かに休日の過ごし方を詰問されても、「ここで一人デスクワークをしていた」と言えば、変な言い方だけれど「アリバイは完璧」なのだ。今日も出勤して、脳だけを世界に飛ばす。タイムカードを押さずにデスクに突っ伏して、脳だけが旅をする。

2020年11月30日月曜日

病理の話(479) 不安や不満が腹にたまるのはなぜか

前回の記事を書いていて思ったことをシンプルに書きますが。


われわれ、イライラしているときとか、不安なときとかに、「腹になにかが溜まるような」感覚を覚えることがある。これはなんだろう?


何が溜まっているのだろう? 重苦しいというか……「うえっぷ」となる感覚……。




今ぼくがわかっている限りでこの質問に答える。



自分にとって敵にあたるものを感じてイライラするとき、これから何が起こるのだろうかとおびえて体をちぢこまらせ、不安におびえるとき。


体の中では、交感神経がガッと興奮している。


交感神経は、「Fight and flight」にかかわる神経だ。日本語に訳すると、「バトルか、逃げるか」である。かつて森の中で暮らしていた人類が、肉食動物にばったり出会ってしまったとき、そこで踏みとどまって戦うか、あるいは脱兎の如く逃げ出すか。いずれにしても、人体はある程度共通の仕組みを発動する。


心臓をばくばくと動かして、全身の筋肉に、栄養を送り込んで、いつでも動けるように準備する。戦うにしろ、逃げるにしろ。


汗をかけ!


筋肉や脳以外に余計な栄養を送っている暇はない! メシ食ってる場合か! おしっこしてる場合か!


だから胃腸の動きをとめる。ご飯を消化するはたらきも最低限にする。胃腸がうごめくことはけっこうカロリーを使うのだ。戦うか、逃げるか、そんなときに腸を動かすことはリスクでしかない。ましてウンコしたくなったら困るだろう。膀胱だって勝手に収縮してもらってはだめだ。




すなわち「戦うか、逃げるか」というシチュエーションにであうと、あらゆる臓器、さらにはホルモンが総出で、「走ったり叩いたりする動きを最適化するために」人体が調整されるのである。




イライラする、あるいは不安でドキドキするとき、胃腸は動きをとめてじっとしており、動きの悪くなった胃腸は重く張ったように感じられる。


昔の人が「自分の胸に聞いてみろ!」と言ったのは、無意識に心臓がドキドキすることを自覚して「心は胸にある」と感じたからだろう。「溜飲が下がったわ~」とか、「腹オチしたわ~」というのは、リラックスをとりもどして胃腸がうごきはじめ、ウップと詰まっていた胃腸のはたらきが元のように戻ったことを意味するのではないかと思う。


ほかにもホルモンの話とかいろいろしなきゃいけないんだけど、今日はざっくりでいいや。

2020年11月27日金曜日

陰口

ある人の目に留まらない場所で、あるいは、「ぎりぎり目に留まるかもしれないけれど、目に留まらないだろうという建前のもとで」、人が人の悪口を言っている。


本人に直接言っているわけではないので、これはつまり「相手のことを思って」言っているわけではないのだと思う。ものかげで言う悪口のことを「かげ口」というが、まさに、光あるところではなく、何かの陰に隠れるようにして、自分のために行う行為だ。


陰口は、「陰口を言った本人にとってメリットがあるから行われる行為」。


メリット? そんなもんないよ、言いたいから言っているだけだ、と思っている人もいるかもしれない。しかし人間というものは、あるいは脳というものは、とてもうまくできていて、無意識の行動、無自覚の行動にも長い目で見てみるといろいろと合理性があることが多い。


では、陰口というのは、脳が何を目標として行っているものなのか?




腹の中に不満がたまっていく、という表現がある。人間はストレスを抱えたときにぼんやりとした不満のような感情を腹部で知覚することがある。おそらく、あなたも経験したことがあるのではないか。

そして、この腹の中にたまった不満をゲボッと吐き出して楽になりたいとき、人間は陰口を言う。「溜飲を下げる」という言葉があるが、むしろ溜飲が上がって上がって口から漏れてしまったものが陰口なのだ。

まとめると、陰口とは感情の吐瀉物なのだと思う。




ここまで何も新しいことは言っていないし、これからも新しいことは言わないが、今日のブログに書いておきたいのは、ここから先のことだ。





SNSで誰かが誰かの陰口を言っている。


それに「いいね」を付ける人。


あれはなんなんだ。


他人の吐瀉物を愛でている。


本人はもしかすると、吐くほど不満をため込んだ人がようやくゲボッと吐き出した汚い陰口を目にして、吐いた人の背中をさするつもりで、いたわっているつもりで、おつかれさん、もっと吐いていいんだよ、と、「いいね」を付けているのかもしれないが。


タイムライン上に残るのは、「いいねにまみれた吐瀉物」のほう。そのことに想像力が到らないのだろうかと、本当に不思議な気持ちになる。


陰口もまた自分を守る行動だ。だから、陰口を言っている人に「寄り添い」、「傾聴する」タイプの人は、その人をだいじに思う気持ちを出してやればいい。それは良いことだと思う。


しかし吐瀉物にいいねしてどうする。


なぜそれが見えないのか。




嘔吐は反射だ。自分では制御できないことがある。究極的なことを言えば、陰口というのは本人にとってアラートサインであり、言ってはいけないとわかっていてもつい口から出てしまう類いのものであったりもする。


だから、仮に自分がその陰口の対象だったとしても、陰口ひとつで激怒することはないし、「よっぽど腹に不満をため込んでいるんだな」くらいの想像でなんだか落ち着いてしまうものなのだけれど。


誰かへの陰口に「いいね」がついているのを見るときのほうが、怖い。愛でるという行為は反射ではないからだ。「いいね」は自覚的に行うものである。「吐瀉物をよかれと思っていいねする」ほど汚い5・7・5があろうか?


「反射的に推す」というオタクの方便がある。「尊すぎて判断力がなくなった」というオタクもいる。しかし、そういうオタクは往々にして、多弁で、語彙も豊富であり、むしろ大脳新皮質を無限にブン回して「推し」を慎重に吟味している。「反射的にいいねを推す」と公言する人に限って、いいねの対象は論理的に選ばれているものだ。


吐瀉物に反射していいねをつけている人がいるのだとしたら。


ぼくはそれは、だいぶ異常なことだと思う。

2020年11月26日木曜日

病理の話(478) 人体はウイルスとうまく戦う

こないだ読んだ本(『本当に使える症候学の話をしよう』じほう/髙橋良)に書いてあっておもしろかったことを紹介。



インフルエンザにかかったときなどに、「関節が痛くなる」ことがありますね。くだんの本には、「それって悪いことですか?」と書いてある。まあそこで一回驚く。


いや悪いに決まってるやんけ。


しかし、そこから著者は、「ではウイルス感染でなぜ関節が痛くなるのかを考えてみましょう」と話を展開する。


まず、ウイルスに感染したとき、人体はさまざまな方法でウイルスと戦おうとするのだが、このときに、「緊急警報発令」をして、全身の細胞にさまざまな対策を取らせる。警報の種類がいっぱいあるのだが、たとえばその一つはサイトカインと呼ばれている。


サイトカインと横文字を使うといきなり難しくなる気がしてならないが別に難しくない。


ウイルスがいるぜ、注意せよ、となったときに一部の細胞が、サイトカインという物質を血中に放出する。これは血液に乗って全身の細胞にはたらきかける。サイトカインとサイレンという言葉が、雰囲気としては少し似ているだろう。だからサイレンだと思えば良い。


ウィーンウィーン。サイレンが鳴る。


たとえば鼻にある細胞たちがサイレンを聞く(実際には血液に乗って流れてくるものを受け取る)。


すると、鼻の血管の中から、液体成分を周囲にじゃんじゃん漏れ出てくる。いや、そんなことしちゃだめだろ、と思いがちだが、この液状成分はウイルスにやられている細胞をぶっ倒すための「はたらく細胞」たちを運んだり、あるいは洪水の役割を果たして悪いやつらを押し流したりする。ウイルスと戦うためには血管の壁をスカスカにして液状成分を回りに漏らすことが役に立つのだ。


で、そんな洪水とかが起こるとどうなるかというと、鼻水が止まらなくなるのである。サイレンがなると鼻水が出る。


同様のことはあちこちで起こるのだけれど、たとえば、サイレンが鳴ったときに、鼻水ならぬ「肺水」が出てしまうとどうなる? 呼吸するためにスポンジのようにスカスカと空気を含んでいる肺に水が出てきたら、人間は溺れてしまうだろう。だから、このサイレンは、「肺には効かない」。人体というのはうまくやっているのだ。サイトカインが全身をめぐっても、肺はそれになかなか応答しない(というか、してしまった場合には重症肺炎となる)。


また、たとえば、サイレンが鳴ったときに、鼻水ならぬ「脳水」が出てしまうとどうなる? 脳というのは頭蓋骨に押し込められているから、ここに水が増えてくると一気に内圧が上がって、ひどいときは命に関わる。だからサイレンは基本的に「脳にも効かない」。人体というのはうまくやっているのだ。サイトカインが全身をめぐっても、脳はそれになかなか応答しない(というか、してしまった場合には脳炎とか髄膜炎になることもある)。


というわけで、人体は、外敵であるウイルスがやってきたときにサイレンならぬサイトカインを発して全身に反応してもらうのだけれど、このとき、サイレンが全部の臓器で同じように働くわけではない。ちゃんと呼応させる部分を選んでいる。


で、関節に関しては、「サイレンが効く」のだ。関節の中に水がじゃぶじゃぶ出て、鼻水ならぬ「関節水」状態になる。すると内圧が上がって、動くと痛くなる。これが、「インフルエンザにかかったときに関節が痛い」の正体だ。


ここで疑問をもとう。


なぜ肺や脳はきちんと守るのに、関節は守らないのか?


それは、「関節が痛むこと」によって、人体が損をするわけではなく、実は得をするからなのだ。どんな得をすると思う?




関節が痛い → 動くのがしんどい → 黙って寝ているしかない → 安静になる!




これだ! つまり一部のウイルスに感染したときには、人体は、「関節をあえて痛くする」ことで、人間がそれ以上無理して活動しないように休ませる、というのである。医者が口をすっぱくして「安静にして休んでください」と言っても、早めのパブロンだとか絶対に休めないあなたへエスタックだとか無茶なCMを見ながら人間は動いてしまうわけだが、ここでサイトカインが口をすっぱくして(?)、関節にサイレンを鳴らして痛みを出せば、さしもの有吉もそれ以上動けなくなるというわけである。





インフルエンザにかかったときなどに、「関節が痛くなる」ことがありますね。くだんの本には、「それって悪いことですか?」と書いてある。まあそこで一回驚く。

いや悪いに決まってるやんけ。

そして中身を読む。なるほど! よくできてるなあ!

そしてあらためて質問されてみよう。「関節が痛くなる、それって悪いことですか?」




……やっぱり悪いことだとは思うが……まあ……言いたいことはわかったよ!


2020年11月25日水曜日

拙者

「一人称が変な人が苦手」である。その人の全体が発する雰囲気と、その人が自称する「自らを呼ぶときのやりかた」が合っていないとき、うーん、大丈夫かなこの人……と思う。そして、嫌な予感はだいたい当たる。


他者に対して自分をどう呼称するかというのは意外と奥が深いと思う。「ぼく」はブログの一人称ではひらがなの「ぼく」を使うことが多いがこれもケースバイケースだ。「私」がマッチする場面というのもある。「私」で引っ張らないと完成しない文章があると感じる。「僕」のほうがいいと思う人もいるだろう。極論すれば「小生」がマッチするラジオ投稿というのもあるわけで、これはおそらくネクタイの色を選ぶとか(あるいはそもそもネクタイを締めないとか)、季節に応じて靴の色味を変えてみるのと同じ感覚でやるべきことなのではないか。


ぼく自身は、これまでにインターネットで構築してきたキャラクタに対して「ぼく」が一番しっくりくるのではないか、と思って「ぼく」を選んでいるのだけれど、「その一人称、変ですね」と誰かに言われたら再検討に入ってすごく悩むことになるだろう。自分は自分の最初の読者だが、最初だから一番尊重すべきとは全く思わない、「二番目の読者」が変だと言ったら一気に自信を無くす。「自分が他の目にどのように映っているか」を厳しく吟味しないで書いた文章というのはどのみち誰にも伝わらないのだ、そう、未来の自分ですら「この文章結局何を言いたいのかわからないな」と、過去の自分にダメ出しをすることがある。ましてや現在の他人に向けて何かを書くというときには。


と、ここまで書いていて思ったのだけれど、自分のことを何と呼ぶか、みたいなことは究極的にはどうでもいいことで、ぼくが誰かを瞬間的に判断するときには「その呼称を自分の前にコトンと置いてみて、その人自身がどのような目で眺めているか」という、メタ認知の視点……というと流行りの言葉であまりおもしろくないのだが要は俯瞰の度合いを見て「こいつ大丈夫かな」というのを推しはかっている。ここまでさらに書き足して思ったのだけれど、誰が何をどうやっていても本当のところはどうでもよく、最終的には他人がやる有様を自分にはね返してきて、「自分は他者にとってどうありたいか」というのを微調整することのほうがぼくにとっては大事だ。


40代になっても未だに一人称が下の名前である人を見て、周りにいる人たちがそれを「うわっ、キモ……」と口に出したときに、当の本人がニヤリとして「計算通り」とつぶやいているのかどうか。ぼくはそういうところを見ながら目の前にいる人間たち全ての不気味さを感じ取り、ひるがえって自分というものの境界線を何度も何度も何度も引き直しては「ぼく」の有り様を探っている。

2020年11月24日火曜日

病理の話(477) 運動不足解消のために医局に向かいます

「医局」という言葉にはいろいろな意味があるのだけれど、ぼくのように市中の中規模病院に勤めている場合、およそ2つの意味で使っている。

1.自分が所属している大学の科名のこと。

2.勤め先の医師休憩スペースのこと。


【1.自分が所属している大学の科名】
たとえばA大学の第一外科、略して一外(いちげ)出身で、B病院に勤めている外科医がいたとする。直接大学で勤めているわけではないのだが、一外の教授が人事権をもっていて、B病院で数年はたらいたら次はC病院に行きなさい、みたいに命令をされる。外科医の人生としてはよくあるパターンだ。さて11月も半ばをすぎて、一外の秘書さんからメールが届く。

「12月○日には医局の忘年会です」

この場合、「医局」という言葉は、外科医が所属する「第一外科」という科名そのものを指す。「あなたの/ぼくの所属先」くらいの意味だ。

この外科医は医局の忘年会に出席し、他病院でがんばっている友人や先輩たちと飲みながら、「今後の医局の動向」についてこっそりと話し合ったりもする。



【2.勤め先の医師休憩スペース】

なぜこちらにも医局という言葉を当てるのかよくわからない。ナースの詰め所のことをナースステーションというように、医者の詰め所のことはドクターステーションと呼べばいいような気もするのだが、必ずといっていいほど「医局」と呼ぶ。昔の中規模病院は、科ごとに医局がある(消化器内科と外科と産婦人科はそれぞれ個別に休憩スペースがある)ことが普通だったようだが、今では総合医局と言って、ひとつの大部屋に休憩スペースがあり、パーテーションで個人のデスクが仕切られていることが多い。

ぼくの勤める病院も総合医局制。初期研修医・後期研修医あわせて20名をのぞくすべての医者(120名くらい)が大きな部屋の中でパーテーションに仕切られて過ごす。もっとも、医者が医局のデスクにいる時間はあまり長くない。病棟にいることも、外来にいることも多いからだ。

医局には個人のデスクのほかに、20名くらいなら一緒に過ごせる程度のソファやテレビが置いてあるスペースもある。メジャーリーグで日本人が大活躍しているとか、オリンピックが盛り上がっているとか、大規模災害など、昼間っからテレビがうるさいときには医局のテレビ前に医者が集まっていることもある。コーヒーメーカーやポットが置いてあり、電子レンジも冷蔵庫もある。ただ、電子カルテ端末が複数設置されていることもあり、休憩スペースでダラダラすごす医者はあまり多くない。なんとなく仕事モードのまま小休止をする感覚だ。





ぼくは「医局」で過ごす時間はほとんどない。なぜなら、病理検査室の中にデスクがあり、そっちがメインだから。したがって医局のデスクは倉庫にしている。版が古くなった教科書や、学会が発刊する雑誌など、めったに読み返さない本を整頓して医局の本棚に並べる。あと、郵便物は基本的に医局に届く。

ぼくが医局を訪れるのは1日に1回、郵便をチェックしにいくときだけだ。もし、郵便物が病理のデスクに直接届けられるならば、ぼくは医局に顔を出さなくなるだろう。基本的にいつも病理にいるほうがラクである。

ただ、医局に顔を出さないと、他科の医師とのコミュニケーションチャンスが減ることもまた事実だ。医局の自分の机には、名刺を磁石で貼り付けて、横にメモを置いて、「基本的に病理にいます 市原」と書いておく。とにかく居場所をみんなに教えておく。そして郵便回収で医局に行くときは、さりげなく通りすがるドクターの顔を見る。何か言いたそうにしている人がたまにいる。そこで立ち止まって「はい」と声をかける。するとたちまちスルスルとそのとき困っている症例の話を教えてくれたりもする。



最近思うのだが、病理医のスキルとしてもっとも大事なのは「謎の存在にならないこと」ではないか。ふとしたときに相談できる関係でありたい。「そういえば病理にあいつがいたな……」と連想される人間でありたい。コミュニケーション能力と言ってしまうと大雑把すぎる気がする。ウェイ系のノリは必要ない。ただ、「あ、ちょっと相談してみっかな」までに相手の心を柔らかくする工夫というのはいるだろう。医局に郵便を取りに行くのは運動不足解消のためだけではない。一人でも多くの医師に「そういえばあの件……」と話しかけてもらうチャンスを、こっそり仕込んでおくということ。