2021年4月30日金曜日

陰ではググれない

「四六時中」はなぜ四と六なのだろう。疑問に思って、ググる……前に、少し自分で考えてみる。


ほんとうは四と八にしたかったんだけどゴロ的に六になった、とかかな。


あるいは落語の「時蕎麦」みたいな、昔の時間の数え方に由来するんじゃないかな。


ある程度想像を膨らませてからググる。


元は「二六時中」だったらしい。「丑三つ時」みたいな言い方で、昼と夜を六つずつにわけて、「六つ×2=一日中」ってことなんだね。四と八から変化して四六時中、ではなく、二と六から変化して四六時中。だいたい合ってたけどちょっと違った。採点するなら75点ってとこ。


ググる前に考える。より正確に言えば、「書く前にググる前に考える」。ソースのないことを書くと医者に怒られる。ソースがGoogleばかりのものを書くと非医療者に怒られる。じゃあそのバランスをどうする。どっちにしても怒られるならせめて自分がしっかりできるほうのやり方を選びたい、と思う。





Zoom会議をしながらキータッチをしている。Zoomの画面上では肘から下の動きが映っていないからぼくはまじめに前を向いているように見えるだろう。……でも、ほかの人が同じように仕事をしているとなんとなくわかってしまうものだ。ぼくもたぶんばれている。目が明らかにひとつの箇所に固定されており、肩から上の「奔放さがない」のを見て、なんとなく、「あっ何か書いてるんだろうな」というのはわかってしまうものだ。「こっそり裏で何かをやっていることを見抜く力」みたいなものが、人間には備わっている。今の返事はたった今ググったものなんだろう、的な洞察って、ある。そういうのはばれる。

2021年4月28日水曜日

病理の話(530) リュウジンオオムカデの簡易症例報告と病理診断という処方

「この患者にはいったい何が起こっているんだろう?」と疑問を掘り進んでいく医者がいる。

熱が出ている、痛い、しびれている、ふらつく、下痢がある、だるい、体重が減った……。

患者が訴えるさまざまな症状から、原因を探り、対処法を考える。


患者自身が特に症状を感じていなくても、医者が見ることで些細な徴候に気づく、なんてこともある。血液検査に潜んだわずかな違和感や、CTに偶然うつりこんだ影などから、まだ何の症状も来していない隠れた病気の存在が浮かび上がってくることも。


ひとたび患者の「内部」に疑問を持ったら、何が潜んでいるのかを考えよう。このとき、医者がたまに用いるのが、病理診断というワザである。

病理診断は、患者の体の中にある「カタマリ」を採ってきて顕微鏡で診ることで、病気の正体を(主治医とは違う角度から)明らかにする。


主治医はふだん、病気の正体を探るにあたって、いちいち患者を解剖することはしない(したら死んじゃう)。できればなるべく傷を付けずに、外から病気を推測していくことが求められる。それに比べると、病理診断というのはちょっと、「ずるい」。実際にモノを採ってきて直接見ちゃうんだもの……。ずるいし、強力である。これに勝てる診断方法というのはあまりない(引き分けならいっぱいあるが)。



さて、このとき、病理医が付けた「病名」を、主治医がいつもよくわかっているとは限らない。すごいマニアックなポイントなんだけど、現場ではわりとよくある話だ。

これ少しわかりにくいから、例え話にしよう。




これよりあなたは、パソコン修理センターの店員さんだと思って下さい。3,2,1,ジャンゴ。今、強力な催眠術がかかりました。「私はパソコン修理センターの店員……」。はいOK。


買ったばかりのパソコンがあります。おしゃれなやつ。マックの新作とか。薄くてカッコイイやつ。これがある日、とつぜんブーンって言って火を噴いたらしく、あなたの元に持ち込まれました。お客さんはびっくりしています。なんてこった。何が起こったんだ。早くなんとかしてくれ。


あなたは優秀なので原因がすぐわかりました。パソコンの中に虫が入り込んでいます! 虫は取り除いたからもう大丈夫ですよ~。

わかって安心。でも、気持ち悪いなあとも感じます。お客もぎょっとしています。えっ、ゴキブリか何かが入っていたんですか? いやだなあ、おうちにもゴキブリホイホイとか置かなきゃいけないかなあ……。

ここに、「虫を調べる人」が登場します。「「なんでやねん」」。あなたとお客は思わずハモりました。別にそこ調べなくてもええやろ。もうパソコンは治ったんやからあんまり気持ち悪いことせんといて。あかんて。

でも、調べる人はまじめです。「なぜパソコンが壊れたのか、その原因になった虫をちゃんと調査しますよ」と言って聞きません。まあいいや、あんまりお金とらないでね。


そして調査報告書が返ってきました。そこにはこう書かれていました。


「これはリュウジンオオムカデですね。」


参考:

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210420/k10012984551000.html


ええー!? なんで!! ゴキブリとかじゃないのかよ!! あなたはびっくりします。いやリュウジンオオムカデってなんだよ。どんな虫だよ。まあムシには違いないんだろうな、それが入ったらパソコンが壊れそうだなってことはわかるし、取り除けばトラブルは回避できるというのもわかるけど、そのムカデがどこから来たのか、ほかにも客の家にまだ住んでいそうなのか、予防策はあるのか、パソコンの中で子ども産んでたりしないか、みたいなことが一切わからない。珍しすぎるからだ。普通知らないよね……。




今の例で、「パソコンに入っていたのはリュウジンオオムカデです」って書くのが一番かんたんな病理診断だ。


この報告書をみて、あなたはお客に説明することになる。


「あ、調査の結果が来てましたよ。リュウジンオオムカデでしたね。えーとこれはよくいるムカデですね」とはならない。ムカデマニアじゃないからだ。

修理センターの人はパソコン修理の専門であって、ムカデの専門家ではない。

でも、修理センターの店員とはお客さんを相手にするフロントマンである。説明するのは大事な仕事だ。知らないまま説明することはできない。

調査報告書に「リュウジンオオムカデ」と書かれているのを見たら、修理センター職員はそれを調べて、勉強して、説明できるようになってから客に電話をしないといけない。

これ、けっこう手間だよね。どうすればいいと思う?

原因が判明してから、そのことを調査するための時間を別に設けなければいけないだろう。1日か、2日か。十分に説明できるだけの資料、根拠、そういったものを集め終わってから、客に連絡をとり、「お店に来てくださいね~」と伝えることができる。




病理診断でもこういうケースがたまに起こる。ぼくの場合は年に2回とか3回とか……。病理診断は決まったが、そのまま報告書に書いても、患者はおろか主治医も「なんだそりゃ」ってなりそうなケースだ。

ここで想像力をふくらませるべきだと考えている。

「どうせ主治医(≒修理センター職員)がこれから調べ物をしなきゃいけなくなるんだから、これに詳しいぼくが先に調べて書いておこう。」


「あなたのパソコンに入っていたのはリュウジンオオムカデです」なんて、言ってみれば、AIのサポートを受けた医学生でも書けるしょっぼい病理診断だ。これでは現場の役に立たない。


「あなたのパソコンに入っていたのはリュウジンオオムカデです。最近沖縄で見つかった新種で、水中で10センチほどあるテナガエビの仲間を食べているのが確認されています。陸上の天敵を避け、生息域を広げるために、水中でも暮らせるように適応した可能性があるということです。(前述のリンクから引用しました)」


ここまで書いてようやく「現場の役に立つ病理診断」になる。調査員がこれを書くことで、修理センター店員が「調べる手間」を簡略化することができ(まあできれば自分でも確認してもらいたいのだが)、説明の手際のよさはそのまま客の利益に繋がる。具体的には「診療が10%ほど早くなる(体感)」。診療が早くなれば、客にとっては「治りが早くなる」かもしれないし、「早く安心できる」かもしれないし、「次にまたムカデに入り込まれないように生活環境を見直す」ことにもつながってくる。沖縄の海の中でパソコンをやらないでください。



以上のことをぼくは最近「病理診断を処方する」という言い方で若い病理医に説明している。ぼくら病理診断科は、診断しかしない部門なのだが、その行動を少し細やかにすることで、主治医や患者の意思決定や行動にうまく作用することが可能だ。これはある種の「処方」だと思う。

2021年4月27日火曜日

登山家どうし仲良くしてね

DeepLという翻訳サービス(アプリ)がある。これとgrammary(の有料版)という文法校正ソフトを使えばだいぶ戦える、という内容のツイートを見た。まったくだな、と思う。医学論文をいちから書くときにはこれらのツールはとても便利だ。


しかしこのようなことをつぶやくと、本家本元の翻訳者の方々が、「あんなソフト、翻訳の入り口にも立っていませんよ」と指摘してくる。まあそれはそうなのだろうと思う。翻訳という仕事自体はほんとうに奥が深い。現在のAI翻訳程度ではまるでニュアンスが伝わらないんだろうなってことは肌身で感じる。


参考: 翻訳 訳すことのストラテジー

https://www.amazon.co.jp/dp/4560096856/ref=cm_sw_r_tw_dp_CWEAMANMM02GWR4DBGT7


先日、アカデミー賞をとった映画の中に出てくるセリフを紹介する本を買った。英文と日本語とを比べるとまるで違うことを書いていることに気づいて笑ってしまったし、読み比べるのがおもしろくて仕方ない。そのセリフを直訳しても絶対にこの日本語にはならない。直訳だとおそらくそのシーンで役者が、さらには脚本が言いたいことはまるで伝わらないだろう。


参考: その悩みの答え、アカデミー賞映画にありますhttps://www.amazon.co.jp/dp/4860295021/ref=cm_sw_r_tw_dp_2D5C9JQB6DBQYCXG8DG6 




ただし。

科学者は、英語を用いて「ニュアンスの話」をしたいわけではない。学術論文において、科学の論理が正しく伝わるかどうか考えるとき、DeepLとgrammaryの併せ技以上のAIを絶対に作るべきだ、とはぼくはあまり思わない。このふたつでたたき台を作ってしまえば、あとは英文「翻訳」ではなく英文「校正」をネイティブ研究者たちに有料でお願いするだけで十分通じる論文が書き上がる。

なにせ、英文論文でやりとりする相手が英語ネイティブの人たちとは限らない。ブエノスアイレスの学者もニースの研究者もハバロフスクの医者も重慶のポスドクも、母語に比べれば使い慣れていない第二言語を使って学術を行う。「翻訳AIでは拾いきれないようなニュアンス」を練り込んだ英文論文を書く生命科学者がどれだけいるだろうか? いい文章だなあと感心されたところで、他国の研究者に細やかさが伝わらないものを書けば学術の結果を引用される回数も減るから本末転倒であろう。文学や哲学の研究であればともかく、生命科学論文の文章は「ネイティブスピーカーでなくても意味をくみ取れる」ことが必要だ。


DeepLで書いた論文をネイティブに校正してもらって投稿。「ネイティブに校正してもらって」の部分を省略できる日が来たら、そのときは「AIの翻訳すごいなあ」と言えるだろう。これは翻訳者たちが言うとおり、まだ無理である。人力の校正なしで、DeepLとgrammary有料版だけで投稿する論文は編集部からはじかれてもしょうがない。ただし、「ネイティブやプロの翻訳者に最初から翻訳してもらわなければいけない」とまでは思わない。そこまですると研究費がいくらあっても足りないという悲しい現実もある。


翻訳者の中にはDeepLなどの実力を思い切り低く見積もって「あんなのは翻訳の入り口にも立っていない」と言ったりするが、少なくとも生命科学のジャンルにいるぼくは、DeepLもgrammaryも、十分「コミュニケーションの入り口に立っている」とみなしていいと思う。コミュニケーションという山をのぼるとき、初心者向けの登山道の入り口にDeepLが立ったからどうだというのだ。それでプロの翻訳者たちの矜持が折られるわけではない。プロにしか登れない山道、ロッククライミングのような激しい道からしか見られない景色、感じられない体験の価値は一向に揺るがない。だからあなた方はもう少し仲良くしてねと思うことがある。余計なお世話ではあるだろうが。

2021年4月26日月曜日

病理の話(529) 統合の役割を担うタモリ

病理医は多くの臨床医たちとコミュニケーションをする仕事なので、ときに、「複数の専門家たちの意見をたばねる」ことを求められる。

この話はなぜか病理医によって語られる機会が少ない。「確定診断」とか「がんの進行度を判定する」とか「基礎医学と臨床医学の橋渡しをする」というのは病理医の仕事としてよく話題にのぼるのだけれど、「コミュニケーションの中心にいる」という話はあまり取り上げられない気がする。めちゃくちゃ大事な仕事なんだけれどな。


今日はその一例として、「病理解剖」のことを書く。


患者が病死したあと、病理解剖が行われることがある。解剖を執刀するのは病理医。依頼するのは主治医だ。主治医は、自分の患者の「病気のふるまい方」になんらかの疑問を感じたとき、病理医に解剖を頼む(もちろん遺族にも許可をとる)。

患者がめずらしい病気だった、とか。

期待していた治療がぜんぜん効かなかった、とか。

いつもよりも圧倒的に速いペースで悪くなってしまった、とか。

そもそも生前に診断までたどり着けなかった、なんてケースもある。こういうとき、病理解剖は、亡くなった患者に何が起こっていたかを解き明かす手伝いになる。



ここで、患者の体に起こったことを疑問に感じる主治医は、「ひとりではない」ということを強調しておく。

高齢化社会が加速すると、患者の中には複数の疾患があることが当たり前になる。腰痛と膝の痛みで整形外科に通い、高血圧とコレステロールの薬をもらうために循環器内科へ通い、アレルギーのために耳鼻科へもかかり、脂肪肝もあるような患者が大腸がんにかかったとしたら、主治医はこれだけで4,5人は必要である。

大腸がんの診療を担当する医師が、これまでの患者のトラブルをすべて引き受けることができれば話は楽だ。しかし、なかなかそうはいかない。現在の医療は高度に専門化されている。「餅は餅屋」、すなわち、「整形外科関連のトラブルは整形外科にまかせたほうがよい」。他科の医者と連携しながらみんなで患者を診ていくのがあたりまえだ。

かりに、「かかりつけ医」がいたとしても、話は同じ事である。患者にとってはかかりつけ医が共通の門戸となり、さまざまな科を受診する手間を減らせるから、かかりつけ医の存在はとてもいいことだが、実際にその医者が自分だけで複数の専門的な診療を完全に背負えるかというと、そういうわけではない。ここぞというときに、適切なタイミングで、4,5人の「遠くにいる専門医」たちにその都度相談をする。関わる医者の数が減ったわけではない(患者の目からすると減るのだけれど)。


となれば、「患者の腰について疑問があった整形外科医」と、「患者の血圧について疑問があった循環器内科医」と、「患者の大腸がんについて疑問があった外科医」のように、複数の主治医が、それぞれ異なる疑問を持つことがこれまたあたりまえとなる。


複数の医者から寄せられた疑問を、病理解剖はすべて解決しにかかる。解剖というのは全身の臓器を相手にする仕事であり、病理医というコンサルタントのもとにはすべての臨床科の医者がクライアントとして訪れる。


ここで、「病理医がコミュニケーションの中心地にいる」という状態が完成する。


病理解剖で患者の体の中を細やかに探っていくとき、複数の主治医たちがこちらを向いてさまざまな質問をぶつける。そのすべてに病理医がたった一人で答えられるとは限らない。解剖がなんでもかんでも答えを与えるわけではないからだ。でも、病理医のもとに主治医が一同に介するようなシーンを作り上げられれば、その会議室では、主治医同士が共通の患者の話題で交流をすることができる。「病理医がカンファレンスを開催しますよ」というタテマエで、たくさんの科の医者が集まって来て、そこで心置きなくコミュニケーションを取れること自体に強い意義がある。


CPC(クリニコ・パソロジカル・カンファレンス)と呼ばれる、病理医主導の会議。


じつを言うとぼくは、病理解剖という若干古びつつある手技が万能だとは思っていない。解剖をすることがそのまま直接患者に良いことを及ぼすわけではない、ということを普段から力説している。しかし、CPCの開催に関してはかなり前向きにとらえている。病理解剖なんてきっかけにすぎない、とすら思えるケースもある。


ぼくが解剖をし、その手元に複数の専門家たちの目が集まることで、議論が沸騰して疑問が次々と解消されていく


このとき、解剖はそれ自身で役に立ったと言えるだろうか? 言える……かもしれない。でもより正確に言うならば、「病理解剖+その後のCPC(カンファレンス)」こそが、疑問を解決するためのカギになっているのだと思う。



「複数の主治医と話をしなければいけない病理医」こそがたどり着ける場所がある。なんとなく、ミュージックステーションでずっと司会をやっているタモリのまわりで歌手同士が会話をするイメージに近いなと思う。病理医こそは交流の中心にいる、ただし、タモリの司会のように、けっこういろいろ工夫しなければ成り立たない、名人芸に近いことをやらなければならない気はする。

2021年4月23日金曜日

炭になっている

積み本がゼロになったのでスマホのKindleに入っているマンガでも読もうと思った。しかし、先日、Kindleがエラーでうまく動かなくなった際にアプリをアンインストール→再度インストールをした結果、スマホの中にマンガが1冊もない状態であった。購入済みのマンガは何度でもダウンロードできるから、今回、お金の心配はしなくていいのだが、あらためてダウンロードしなおすのに時間を要する。


スマホを充電器に挿しながらダウンロードを続ける。この間、何をして過ごそうか。いい機会だからSwitchで最新のモンハンでもダウンロードしようかと思ったが、これだってダウンロードに時間がかかることに代わりはない。こういうとき、ゲームというのはやはり形あるカセットが一番便利なんだよな、ということを考える。ゼルダをダウンロードで買ったのは失敗だった。クリア後、容量を圧迫していたので一時的にSwitch本体から削除したところ、再びダウンロードするのがおっくうでそれっきりやらなくなってしまった。追加コンテンツもあったのに、もったいないことである。


家の中をあさって、マンガを物色。ワンピースやGIANT KILLINGあたりを1巻から読み返せば1日以上つぶすことができるが、今日(日曜日)はこのあと出勤しなければいけないから、重厚なマンガを読み始めてしまうのはもったいない。ぶつぶつと言いながら本棚を漁っていると、一度しか読み通していないハリーポッター全巻が奥のほうから出てきたり、何度も読み過ぎてぼろぼろになっている深夜特急に目がいったりして、だんだん、「ああ、今日はこのまま本棚の整理をして終わるんだろうな」ということを思った。


近頃あまり物語を文章で読んでいない気がする。最後に小説を読んだのはいつだろう? 知念実希人『傷痕のメッセージ』だろうか? いや、カズオ・イシグロ『クララとお日さま』だった。あれはすばらしかったな。たまに小説を読んでそれが「当たり」というのはうれしい。そうだ、ちょっと前には今さらゴールデンスランバーを読んだのだ。あれもまあおもしろかった。


なんのことはない、最近はむしろ小説をよく読んでいる。きちんと思い出したらちゃんといっぱい出てくる。医学書や人文系の書籍も前と同じくらい読んでいるので我ながらいつ読んでいるのかと思ったが、土日に家にいる時間が増えた分、知らず知らずのうちに小説に手が伸びていたのだ。


うっすら気づいていて認めたくないことがある。前のように職場で寝泊まりする元気がない。仕事はすべて以前の10倍以上のスピードでこなせるようになり、クオリティもあがり、空いた時間で次の仕事をすればいいのだろうがそこの気概が落ちている。おそらく人よりは働いているけれど、昨日の自分よりさらに働こうというモチベーションが10年前ほど感じられない。燃え尽き症候群という言葉があるけれど、今のぼくは差し詰め「炭」だ。火が目に見えない状態になり、熱だけを発し続けるような燃え方に変わった。燃え尽きるという概念はしっくりこない、ただ、おそらく生き方というか燃え方は変わった。今までと同じ気分で働いていると、人のために焼き鳥や野菜をあたためようにも網との距離感がイマイチ遠くてなかなか火が通らない、といったことが起こるのかもな、と感じる。遠赤外線で焼くとおいしいんですよ、というシェフの言い分は信用しない。あいつらは「直火焼きチキン」のこともおいしいんですよと言う。


炭といえば竈門炭治郎だ。作中、炭焼きの息子だから料理がうまい、というシーンがある。炭治郎は米もうまく炊けるし料理もいちいち上手だ。ひるがえってぼくは今、炭になった。となると料理がうまくなる必要があるしキャンプの達人であるべきなのだろう。書を捨てて野山に出ろということか。たしかに家で本を読んでいようが外でタープを建てていようが感染の心配はまずない。合理的ではある、ただし、問題は今のぼくの車が中途半端に壊れかけていることと、キャンプ道具がいちいち大がかりな数人用のでかいのしかないこと、そして、まだ北海道は外で過ごすにはきびしい気候だということ。一人用のテントをAmazonでつらつら見ていたら今日の休み時間は終了した。スーツを着て職場に向かう。なぜぼくはZoom会議のためにいちいち出勤しなければいけないのか。複雑な事情が山ほどあり、一部は解消できなくもないんだけれどあきらめて放置している。昔のぼくはこういうところを決して放置しなかった。やはり炭になっている。

2021年4月22日木曜日

病理の話(528) 医学に派閥は存在するのか

※この記事はnoteにも書いたんですが、もともとブログに載せようと思っていたものなのでシレッとブログにも載せます。


人が集まれば派閥ができるのは、人間社会の常である。


だったら当然、医療現場においても派閥があるだろう……と考えるのは自然なことだ。


医療現場にも派閥っぽいものは、ある。


「B'z派」とか「アンチB'z派」とかね(これはフィクションです)。




ただし、医療の活動原理の根底には「医学」という学問が存在する。


学問においては、「派閥」という言葉を使うよりも、もっといい言葉がある。


それは「学派」。


学派は、一般に言う派閥とは少しだけ性格が異なっている。




学派というのは具体的にはどういう「派閥」だろうか?


具体例をあげて考えてみよう。


たとえば、「邪馬台国はかつてどこにあったのか」という命題がある。これには論争があり、かつて、「九州派」と「近畿派」という二つの学派が存在した(今もかな? あまり詳しくは知らないんですが、例え話ですので大目に見てください)。


それぞれの学説を支持する人々は、互いに証拠を見せ合いながら、争う。


「真実はいつもひとつ!」と決められればいいのだが……。


なにせ、遠い昔の話だ。仮説と仮説を戦わせて、どちらがより「今をうまく説明できるか」という形でしか、論争は前に進まない。


タイムマシンが開発されない限り、「正解」は手に入らない。


かけ算や割り算とは異なり、歴史に何が起こったかを考える作業には、たった一つの正解は存在しない。だからこそ、「学派」が生まれ、学問的な争いが起こる。




ただし、このとき……。


二つの学説が、まるっきり反対のことを言っているわけではないということに注意してほしい。




二つの学派が争っているのは、あくまで、邪馬台国が「どこにあったか」についてであって、邪馬台国の「有無」については争っていない。


「昔の日本には人が住んでいた」ということはまず間違いがないし、それが邪馬台国という集まりを作っていたこともおそらく間違いがないし、「邪馬台国があったのは関東や東北ではなさそうだ」ということもほとんど間違いがない。


「ここまではたぶんみんな同意だよね~」という基礎の共通認識がある。




学問は、「ここまではOKかな、ここまではいいよね」という作業をずっとくり返して作られている。今日の記事の序盤に書いた話でいうと、


起承転承転承転承転承転承転承承承承承承転承承承承承承承承承承承承承承転承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承転承承承転承承承承承承転承承承承承承承承転承承承承承承承承転転承転承


みたいに、「転」を織り交ぜながら、「承」がめっちゃ続いているイメージだ。




たくさんの証拠を集め、多くの仮説をぶつけ合った結果、「みんなもここまではいいよね」という地固めがなされる。


学派が戦うのは常に「承」の先だ。多少過去に戻ったところから「転」でやり直すこともあるが、「起」まで戻るということはない。あり得ない。


ここで、歴史のことをまったく知らない人が、途中から議論に入ってきて、「邪馬台国って本当はなかったんじゃないか。日本人は全部宇宙から連れてこられた可能性もあるよな」と言い出すことには、かなりの無理がある……と思う。


えっ、「起」に戻っちゃったの? みたいな。




「邪馬台国は存在しない説+日本人は昨年宇宙から連れてこられて記憶を植え付けられた説」を突然提唱して、「学派」として名乗りをあげられるかというと、


それはなんかまあ、無理じゃないかなーと思う。






先人達が慎重に語り合った学問の歴史の先端部、「ここまではいいよね」の先で、「今なお決着がついていない部分」について争うのが学問だ。




さあ、話を医学に戻そう。




医学にも派閥(学派)は存在する。しかし、学問における対決は、あくまで、「現時点までに積み上げたことの先で、細部を微調整するように戦う」ものだ。


そこにある「派」は、一般的な意味での「派」とはだいぶ雰囲気が違う。




たとえば、非医療者の中には、医学の世界に「反ワクチン派」があると思っている人がいる。しかしこのような学派はそもそも存在しない。


なぜなら、ワクチンという道具が有効であることは、天然痘、ポリオ、日本脳炎、麻疹、風疹など、さまざまな証拠が揃いすぎていて、「そこを疑うのは医学としてはちょっとね……」というくらい当たり前のことになっているからだ。そこは「起」である。


「日本は24年前に来日した宇宙人が全部つくりました派」が歴史学に存在しないのといっしょ。


ワクチンの科学的な議論は、もはやそんなところには収まっていない。




少し前に、「新型感染症についてファイザー製のワクチンを1回だけ打つか、2回打つか、どちらがより効果が高いか?」という「議論」が繰り広げられた。ただしこの議論、一般にはあまり知られていないかもしれない。なぜなら、これは人と人がテレビに出て口角泡を飛ばして「議論」を行ったわけではなく、各国で行われた臨床試験によって、つまり「データのぶつけ合いによって」検討されたからだ。


すでに、「ファイザー製のワクチンを打つなら2回がいいだろう」という証拠が集まっており、実際に日本国内でもそのように運用されていることは、みなさんご存じの通りである。


話はとっくに先に進んでいる。いまさら「反ワクチン派」が出る幕はない。医学のプロセスの中ではもう存在していない。


えっ、「起」に戻っちゃったの? という話。




顕微鏡がなかった時代、人体には四つの体液があり(血液、 粘液、胆汁、黒胆汁)、これらのバランスで人間は元気になったり病気になったりする、という説を唱えた人たちがいたそうだ。医学の「起」の部分。


19世紀以降、このような段階の議論は誰もしなくなった。「今はもう、そういうレベルの話はしなくてよくなった」。


これが、科学の進歩。


これぞ、「科学は、変化する。」ということ。







「科学がすべてなんですか」「反医学はありえないんですか」という意見もたまーに目にする。


はっきり言うが、「反医学」はあり得ない。それは「起」だ。ただし、「医学の中でなお、慎重に議論を戦わせるべき部分」は存在する。


「変化する」ということと、「共有できる部分がある」ということ。


たったふたつの冴えたやり方で、科学は進んできたし、これからも進んでいくのだ。

2021年4月21日水曜日

つぶやくのをやめる

何年か前のアップデート以来、Windows PCとiTunesの相性が悪くなり、何千曲かため込んでいた音源を聴くのが少しだけおっくうになった。ほんの少しの差なのだ。ログインし直すとか、その程度で前と同じように使えるのだ。でもそのマウスの数センチ、数回のクリックが、ぼくと音源との距離を開けてしまった。そこから1年とちょっと、YouTubeでLo-fi hiphopのライブストリームを聴いていたが、主任部長になってからは問い合わせの電話がかかってくる回数が激増し、電話が鳴る度にイヤホンを耳から外すのがおっくうで、結局職場ではほとんど音楽を聴かない状態になった。


何をばかな、そんなの当たり前だろうと思っている人たちは、ぼくの2~3倍くらい長く自宅で過ごしている。ぼくの5倍くらい休日を取っている。仕事中にTwitterとか許せない、という人が寝ている間もご飯を食べている間も映画館やショッピングモールに行く間もぼくは仕事をしている。どちらがすごいとか偉いという話にはならない。時間の使い方が、人生の使い方が違うとしか言いようがない。何度かそのようにツイートしようとした。でも、タイムラインには、攻撃的な言葉を届けたい本人よりも、黙って見ている普通のフォロワーのほうが10万倍くらい多い。結局、つぶやくのをやめる。



「つぶやくのをやめる」。



数年前から何度もぼくを中傷している医師たちがいた。所属はマイナー系だったり、専門性の高い内科だったり。そういう人たちはぼくのことをときに「某病理医」と呼んだり「北の病理医」と呼んだりする。向こうはたいていぼくのことをブロックしているのだが、ぼくはHootsuiteというPCアプリを使っていて、検索機能がブロックされていても関係なくツイートを拾ってくる。「病理医」「病理」「病理診断」で10年検索をかけているぼくの目に、そういうツイートがときおり飛び込んで来る。


ところがある時期から、誹謗中傷がぱたりとやんだ。いよいよ興味をなくされたのか、と感じていたが、その後ほどなくして、医者が主導するクラウドファンディングが増えて、ぼくのところにDMが舞い込むようになった。クラウドファンディングと、DM、一見関係がなさそうだが大ありなのだ。「知ってはいたが最近相互フォローになったばかり、みたいな距離感の人」からばんばんDMが来るのである。内容はこうだ。


「Twitterではいつもお世話になっております、DMでははじめまして。このたび私たちは、崇高な使命の元に、かならず人びとの役に立つ、誰が見ても文句のない慈善事業をはじめます。つきましては、おいそがしいところ誠に恐縮ですが、拡散のお手伝いをしていただけないでしょうか。」


どういうことかな、とクラウドファンディングを見に行く。たしかにいい企画だ。そして、発起人や、コメント欄の最古参に、ぼくの悪口を何度もツイートしていた顔がひっそりとまぎれている。あまりに悪口ばかり言っているから覚えてしまった人が、あそこにも、あっちにもいる。


ああ、まあな……と、腑に落ちることがあった。人は、自分が誰かの役に立っていると確信しているときは他人の悪口を言う暇も無くなるものだ。でも、こうまでわかりやすく誹謗中傷の総量が減ると、少し笑ってしまう。ぼくは最近、あまり悪いことを言われなくなった。


声をかけてきたクラウドファンディングにも、声をかけてこなかったクラウドファンディングにも、医者がやっている慈善事業については内容を精査したあとに毎回おなじ額を寄付する。拡散してと言われても言われなくても基本的にツイートをする。医者が医者に悪口を言ったというのは医者側の問題だ。当事者たち、患者たちにとっては関係がない。そして、「声をかけられたからと言って額を増やすわけではなく、ツイートを変えるわけでもない」というのは、冷静に考えると、小さな復讐なのかもしれないな、という自覚はある。



なお、最初からこうやって達観できていたわけではない。当初は、「この感情」をどうしたものか持て余した。単純に腹が立ったのだ。何をいけしゃあしゃあと……という気持ちが確かにあった。

細部をわからなくしてツイートして発散してしまうというのはありかもしれない、と、何度もツイートを作って、「つぶやくのをやめる」。

何度かそういうことがあってから、ぼくは、何気ない日常のツイートの中にも誰かを遠回しに揶揄しているニュアンスが潜まないかどうかが気になった。胃の周囲の脂肪織がすべて燃焼しきるくらいには怒りの熱量をため込んでいたから、どうしたって何かは漏れていくだろうな、と思った。この時期、いくつものツイートについて、過剰なくらいに「つぶやくのをやめる」ことになった。



最終的にぼくの方向性を決めたのは「ぼのぼの」に出てくるダイねーちゃんであった。彼女はシマリスくんのお姉ちゃん(の大きい方)で、いつも眉毛の間にしわをよせている。ダイねーちゃんはこう言う。


許して忘れるのです。


許して忘れるのです。


難しいな。許すのが難しいし忘れるのも難しい。いがらしみきおはよくそういうタイプのセリフを編む。許せないし忘れることもできないとわかっている。でもダイねーちゃんが言うのだ。許して忘れるのです。ならそうするしかない。




その後もDMは何通もきた。ときには医療者以外からもやってくる。「いつもTwitterではお世話になっております。DMでははじめまして。このたび、本を書きました。ぜひ先生にも読んでいただきたく、一冊お送りしたいのですが、送り先をおうかがいしてもよろしいでしょうか。」お世話をした覚えはない。会話した覚えもない。本はただちにAmazonで購入して、購入完了画面をスクショして送り、「もう買いましたのでご献本は結構です。ご紹介ありがとうございました。」と、ATOKが覚えてしまった文章をなかば自動入力して返事をする。そして、読む。

これがたいていおもしろいのが、なんというか、腹が立つ。

ぼくに本を送ろうとする人はほぼすべて、「ぼくだったら楽しく読むだろう」と類推した上で連絡をとってきているのだ。本1冊は営業の値段として決して安くはない。投資する先を慎重に選ぶのは商売人の常である。裏でしんと黙って知らん顔をしている編集部の人間がいる。ぼくが読んだ本をおもしろかったとツイートすると真っ先にRTしてくるのが編集者である。そういう世界に生きている。本に責任はない。いちど、ツイートしようと思ったこともあったが結局「つぶやくのをやめる」。


なお以上のことは基本的に3年以上前に起こったことを元にアレンジして書いた。ぼくはもう、あったことをそのまま記すようなことはしない。許して忘れるための秘訣と言えば秘訣、それは、「つぶやくのをやめる」。