2023年1月13日金曜日

病理の話(735) 中間報告という強靱なタスク

このブログは年の瀬に書いている。仕事納めの日だ。今日は一年の中でもそこそこ特殊な業務をやる日。自分の手元からまだ離せないタイプの仕事にどんどん「中間報告」をする日。



病理診断というのは、早いものであれば、依頼書を1分で読み、顕微鏡を5秒見て、診断書を1分で書いて終わってしまう。顕微鏡を覗くのには一般的にさほどの時間を要しない。臨床医との関係が良好ならば多くの事前情報を効率的に入手した状態で顕微鏡をみることができ、そういうケースではチェックしなければいけない項目も明確なので余計に早い。

病理医といえば顕微鏡、みたいなイメージがあるけれど、プロ野球選手が試合の最中に一瞬ずつしかバットを振らないように(だいたいうろうろしたり守備をしたり座ったりしている時間のほうが長いだろう)、病理医もここぞというときに顕微鏡を「一閃」すればよい仕事である。


しかし、その一方で、たった1枚の診断書を書くのに数時間、数日を要することもある。

ひとりの患者から採取された検体をプレパラートにするときには、小指の爪の切りカスくらいの小さな検体ひとつをプレパラート1枚に載せて終わりのこともあれば、SDカードくらいのサイズの検体を載せたプレパラートを50枚以上用意することもある。目を通すべき検体の「面積」はさまざまであり、5秒ではとても見切れないケースがある。

ただ、プレパラートの枚数とか面積だけが負担の源というわけでもない。根本的に患者の病気が「難しい」場合がある。

依頼書を読んだあとに電子カルテを何時間も眺め、血液検査結果やCT/MRIなどの画像所見も念入りにチェックし、患者の複雑な情報を頭に叩き込まないと、「顕微鏡を見るところまでたどり着けない」ことがたまにある。原発不明癌、原因不明の胸腹水、血管炎疑い症例、膠原病疑い症例、造血器系腫瘍疑い症例……。

なんとかプレパラートを見始めても、そういう症例のときは、秒で診断が決まることはまずない。延々と教科書や論文を見比べながら、「免疫染色」を追加オーダーし(施行に日単位の時間がかかる)、外部の病理医に相談し、数日経って免疫染色が仕上がってきたらそれをまた見て……とやっていると、あっという間に1週間くらい経ってしまう。この間、別の仕事をしながらも、頭はなんとなくその患者の病理組織像に持っていかれている。


こうして、「時間がかかるタイプの病理診断」がある。

するとわきあがってくる問題。「診断がつくまでの間、患者や主治医は何を思うか」なのだ。

病理診断がつかなければ、患者や主治医はその分、待たされる。病理診断が決まらないと治療が進んでいかない。

そういうときに病理医はどのようにふるまうべきか。


1週間なら1週間、2週間なら2週間、時間を要する診断のときには、患者を直接担当している主治医とひたすらコミュニケーションしていく。これが大原則であり、病理医の仕事の要にあたる。「こっからは病理でやっとくんで、結果が出るまで問い合わせないでください」みたいな病理医は最悪である(しかしたまにいる)。

今こうして悩んでいます、今ここまではわかりましたがここがまだわかりませんと、主治医と情報を随時共有していくのがいい。ただし、四六時中ばんばん電話したらそれはそれで迷惑なので、あらかじめ「次の情報は○日後に出せそうなので、時間/興味があったら連絡してください」と主治医に伝えておくとよい。

なぜ「途中経過」を伝えたほうがいいのか。

まず、1,2週間の間、患者の状態が変わらないとは限らない。どんどん悪くなっているかもしれない。あるいは、逆に、ひどかったはずの病勢がすっと落ち着いてくるかもしれない。そういったものに主治医は逐一対応している。確定診断ができればピンポイントで病気と戦うための治療をはじめるが、仮に、確定まで至らずとも、「おそらくこの病気である」という情報さえあれば、ひとまずの1,2週間をやりすごすための中間的治療をはじめることができたりする。

また、途中経過を共有することは、主治医や患者にだけメリットがあるわけではない。病理医の側にもメリットをもたらす。なぜなら、経過が変化していくこと自体に診断のヒントとなる情報が隠れているからだ。検体を提出した1週間前にはわからなかったことが、病理診断に頭を悩ませているうちに、臨床の検査でわかっているかもしれない。



というわけで病理医は、診断が確定したら報告書を書くが、「診断がまだ決まっていなくても」主治医と連絡をとる。

で、ここでひとつ落とし穴がある。

年末年始などの長期休みでは、主治医とも、あるいは患者とも、連絡が取りづらくなる。

となれば、この間、難しい病理診断は宙ぶらりんになる。

まったく診断がわかりません、のまま年越しをするというのは、患者にとっても、主治医にとっても、そして何より病理医にとっても、負担が大きくリスクもはらむ。

だから、仕事納めまでに決着がつかなそうな診断には、平時よりもさらに念入りに、「丁寧な中間報告」をしておく必要がある。


「どうがんばっても年内に診断は完遂できないが、現状ここまではわかっている、この治療だったらスタートすることもできるだろう、この治療はいったん待ったほうがいいかもしれない、年明けにこれくらいの時間をかけて診断を終わらせる」

といった綿密なレポートを、仕事納めの日には書くべきなのである。まあ、できれば仕事納めの前日くらいまでに書けるといいのだが、検体作成の都合でどうがんばっても仕事納めの日にしか仕上がらないプレパラートというものもあるので。


患者の病気は待ってくれないのに、カレンダーのせいで診断が遅れる、みたいなことは患者にとって腹立たしいだろうが医療者にとっても大きなストレスである。だからなるべくそのようなことが減るように、医療者たちは長年の経験を駆使して、「年末の遅れがなるべく患者に悪影響をもたらさないように」検査の順番を適宜早めたり、診断のプロセスが年末年始にかからないようにしたりする。それでも年末年始にひっかかってしまう「難しい病理診断」というのは、総数としては多くない、多くないが、必ずある。そのような症例に対し、精魂込めて中間報告を出すのが年の瀬の病理検査室の光景となっている。

2023年1月12日木曜日

ランスライフ

オーディオテクニカのマイクにかぶせるポップガード(息が当たる部分のカバー)、すごく単純な構造……というかまさかの輪ゴムでマイクにひっかける形式で、笑ってしまった。




ちょっとよじれてるけど見逃してほしい。直してもまたよじれるのだ。

最初に同梱されていた黒い輪ゴムは、あっという間に切れてしまった。しばらく普通の輪ゴムで代用していたのだけれど、色味がダサいので、検査室のあちこちを探して黒い輪ゴムを2本見つけて、今このようになっている。もうちょっとやりようがなかったのだろうかと思うが機能的にはたしかに問題がない。


こういう「やりすごし」は人生の醍醐味……とまでは言わないけれど、人生の醤油味……というのもへんか、人生の隠し味……カレーに牛乳みたいなものかもな……なんてことを少し感じる。



ところで大人の社会は雑なやり過ごしに厳しいものである。前にスーツを買い直したとき、ジャケットのボタンをきっちりとめていれば見られないだろうと思ってしまむらで見つけた1000円しないベルトをしていたら、同席者(医者)に「ベルトもちゃんとしてください」と言われたので心底おどろいた。これってロングスカートはいてたのにパンツ見られるみたいなものじゃないですか、と反論(?)したら、ぼくの例え話を完全にスルーした上で、いや、そういう細かいファッションに気を遣ってない人ってなんとなく見てわかるんで、ベルトとか目が行っちゃうんですよねと、未必の故意で痴漢しましたみたいなテンションでとうとうとぼくのファッションをセンスごと殴ってくるので、怖くなってニフラムを唱えたけれどぼくよりレベルが高かったので消えてくれなかった。ザラキも効かなかった。

その人はかつて、しょっちゅう飛行機に乗って用もないのに海外に行くのが趣味であり人生だと言って、英語の通じないくらいの外国で現地の医者とワインを飲みながら写真をインスタにあげ、「世界のどこにいても仕事はできるから」、「昨日はパリのカフェで論文の査読をした」、「今日はローマの高級ホテルから研究費の申請を出した」と、ノマド的にバリバリ仕事をしていた人で、ほんとバイタリティのある人だな(それにしてはなかなか偉くならないな)と思っていたのだが、感染症禍になって海外に行けなくなるやいなや、

「世界はすっかり変わってしまった。」

みたいなクソキャッチコピーを毎日インスタに投稿するようになり(Facebookはもっとすごいと思うのだけれどあいにくFacebookの友人申請は消去した)、それでいて「昨日は論文の査読をした」「今日は研究費の申請を出した」と結局やっていることは大してかわらなかったりもする。お前の世界べつに変わってないんじゃないの? と言いたかったけれど、その人に言わせると、「私はその場を適当にやりすごすようなことはせず、いつも自分の最大の攻撃力で仕事をし、最高のコミュニケーションをとり続ける」のが信条なのだそうで、つまりは常時全力で生きていると言いたいらしい。そのくせ「年間何十万マイルも貯まってさすがに使い途がないw」みたいな生産性ゼロのクソツイートを平気で垂れ流しているので全力でそれかよと少しかわいそうにもなるのだけれど、ともかく、「やりすごさないタイプ」なのだという。

そういう人のもとには似た人ばかりが集まってきて、どんどん「やりすごさない系濃度」が高まり、結果的に浸透圧がすごいことになって、ある意味では水分をめちゃくちゃ引き込むグリコサミノグリカンもしくは尿素クリームみてぇな感じでいわゆる求心力を発揮しているのだけれど、ぼくから見るともはやその人は尿素というより尿細管に近いところがあって、つまりはおしっこを作り出すシステム、ナトリウムや水分ならぬお金や名声をいったん手放すのだけれど同じ界隈ですぐに再吸収して、結局クラスタの外にはもらさず内側にため込んでいく、そのためにATPを延々と使い続けているみたいな感じにも見える。もちろん、そういうシステムでばりばりやっている人がいるからこそ「世界」に適度な量のお金が流れていくし流れすぎることもないのだろうなあと感心しつつも、しょんべんみてぇな人生だなと少し笑ってザラキーマをぼそっと唱えてみたりもする。効かない。


必要なのはアストロンだと思うのだ。戦闘の切り札にはならないし、何かが少し好転することもないのだけれど、なんとなくその瞬間をやりすごしているうちに、「敵」のMPが少し減っている、みたいな姿勢。ベルトは買いました。

2023年1月11日水曜日

病理の話(734) 柱となるかネコとなるか

体の中にある細胞にはいろんな種類がある。形はさまざま、持っている道具(タンパク質や糖脂質など)もいろいろだ。粘液や漿液(しょうえき)と呼ばれる液体を細胞の外に分泌するタイプの細胞、ホルモンを血管の中に分泌するタイプの細胞など、仕事のしかたも人(細胞)それぞれである。


で、そういう、いかにも人が道具を使って何かを生み出したり加工したりするようなタイプの「仕事」とは別に、多くの細胞に共通する働き方がある。それは「柱」や「壁」になるということだ。


重力があり運動量がかかる状態で暮らす我々人類は、いかにおいしいものを食べたからとて、重力でほっぺたを地面に落とすことがあってはならない。ちょっと走り出したら首と胴が離れました、もだめだろう。「互いにくっついて、しっかりと形状を保つ」という働きが多くの細胞に搭載されている必要がある。


細胞はある程度の硬さを持っていなければいけないということだ。これを実現するために、細胞骨格と呼ばれる物質がさまざまな種類の細胞に認められる。たとえば上皮細胞というタイプの細胞には、サイトケラチンというタンパク質が含まれており、細胞のかたちを強固に保つ役に立っている。


一方で、すべての細胞が硬く構築を保っているというのも不具合をまねく。たとえば線維芽細胞という細胞は、体のどこかにスキマが空いたらそれを補修するためにスルスルと移動して、線維という名の「土のう」を作って穴埋めする。こいつは狭いところでもおかまいなしに移動できることこそが存在意義となる、言ってみればネコ的な柔軟さこそが必要であり、強靱な細胞骨格はむしろジャマになるからサイトケラチンは持たない。かわりにビメンチンというタンパクが細胞の形をそれなりに整えてくれる。


サイトケラチンもビメンチンも、どちらもチュウ関係フィラメント……違う、それでも医師の持つPCなのか、しっかりしてくれ……中間径フィラメントというタンパク質だ。細胞骨格を担当するという意味ではいっしょなのだが、細胞にしっかりとした「柱」であってほしいのか、それとも「ネコ」的なふにゃふにゃであってほしいのかによって、骨格部分のタンパク質を変えているということである。


これらの細胞骨格を一切もたない細胞というのは少ないから、病理医は中間径フィラメントなどの細胞骨格担当タンパクに対する免疫染色をもちいて、その細胞が「本来はどういう働きをしたいやつなのか」をあきらかにすることができる。サイトケラチンが染まれば上皮系、ビメンチンが染まれば間葉系、といった感じで。

もっとも、ビメンチンが染まる細胞なんていっぱいあるので(線維芽細胞だけではなく、血球系もそうだし、脂肪細胞も染まるし、神経だって筋肉だって染まるのだ)、骨格だけで細胞の細かい差を見極めようというのもまた無理な話だ。レントゲンだけで善人と悪人を見分けることが難しいのと似ているかもしれない。


2023年1月10日火曜日

謝罪

「ニセ医学の人」とTwitter上でバトルすることで、相手の炎上商法に付き合ってしまうのがイヤだ、という意味のことを、ぼくはずいぶん長いこと言ってきた。

あるいは、やさしい医療情報を丁寧に発信することをせずに、ひたすら世のあちこちから不適切な医療情報を見つけてきてはこきおろす、みたいなタイプのツイバトル医療者から距離をとってきた。

しかし、今になって、少し思うことがある。



最近、「根拠の乏しい医療を声高に語る人」や、「暴力的な言動で標準医療を否定する人」を眺めていると、どうも、そのような人たちの一部は、過去に医療によって大きく傷つけられた経験があったり、あるいは医療に関連することで家族や大事な知人とトラブルになったことがある人のようだとわかってきた。

全員ではないと思う。

本来、個別に見ていかなければだめな話だ。

しかし、個別に見るのはゆっくりやるとして、全体をざっと眺めてみると、少なくとも一部には、過去につけられた傷、あるいは今抱えている傷によって強い人間不信に陥っている人が混じっている。

ぬぐいきれない医療への怒りが、ニセの医学によって医療体制を攻撃するためのモチベーションになっている。

そういう人たちのアカウントのホームを見に行き、ツイートを眺めると、医療にかぎらずあらゆる対話が攻撃によって組み立てられていたりする。誰かを殴ったことによる作用と反作用を使って、もっぱら意思疎通を試みている。

対人関係のコミュニケーションを怒りによって駆動している。



そういう人たちをぼくらが一斉に、「迷惑だなあ、いかに傷があるからって周りに攻撃性を向けられてはたまらない」という目で見て、距離をとれば、その人たちは孤立していくことになる。

しかし、どうも、攻撃的な人たちは今のところ孤立していない。

なぜか?

それは、一部の攻撃的な医療従事者が、彼らに対して「暴力で返す」というタイプのコミュニケーションを行っているからではないかと思う。



武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いを「両軍のコミュニケーション」と呼ぶなんてとんでもないことである。なにせそこでは人が死んでいるのだから。しかし、最良の形でのコミュニケーションではもちろんないにしろ、戦争もまたひとつのコミュニケートのかたちだ。結果的に互いの断絶をより深める結果になろうとも、殴り合っている間はそこに、差し出すモノと受け取るモノとの交換が成り立っていると、(残酷にも)言うことができる。



ぼくはかねてより、

「ニセ医学の人たちと真っ向から殴り合うなんてなんの効果もない、彼らをそれで黙らせることはできないし、むしろ周りに『こんなニセ医学もあるんだよ』と広告するような逆効果すら生まれている」

と言ってきた。この意見は今でも変わらない。

しかし、この意見とはまったく別の観点で、ニセ医学 vs 標準医療の戦いにはある意義があるのかもしれないと思う。

それは、「ニセ医学の人たちを本当の意味で孤立させない」というものだ。

攻撃的な人への、ケア。

多くの人びとを不適切な医療に巻き込み、公衆衛生をぐらつかせ、社会的には犯罪とすら言える行動をしている人たちを、一部の医療者たちは殲滅しようとして毎日ボコスカ殴りかかっている。しかしそれがこれまで実を結んだことはない。近藤誠さんもとうとう自説を保ったまま鬼籍に入った。あれだけわかりやすい悪の権化すら医療者たちは倒すことができなかった。

でもその無益な(とぼくが断言していた)戦いによって、じつは「ニセ医学の人たち」は殴り合いというコミュニケーションを続けることができ、彼らは真の孤独に追い込まなくて済んだのではないか、という、極めて残酷な予想を、ぼくは頭の中から追い払うことができないでいる。



世界と没交渉になることは怖い。人間の尊厳にかかわることだ。

ワクチン忌避を煽り、検査、診断、治療に対する不適切なデマを流し続ける人であっても人間だ。どれだけ社会に悪影響を与えた人であっても、社会から「ロックダウン」していいとは、今のぼくは思わない。だったら一部の、攻撃していることで自分の脳が喜ぶような器質を有する医療者たちの戦いは無駄ではなかったのではないかと考えることができる。ぼくは攻撃的な医療者たちに謝らなければならない。あなたがたのおかげで、反科学、反医療的な人びとをケアすることができたのに、これまでずいぶんと失礼なことを言い続けてしまったことに対して。そして感謝しなければいけない。あなたがたのケンカのおかげで、ニセ医学の人たちも、最低限度の生きる権利を確保できたのだということに。

2023年1月6日金曜日

病理の話(733) どの物語を用いるか

かつて、フレンチ・パラドックスという言葉があった。


”フランスでは動物性脂肪の摂取量が非常に多いのに、心血管系イベントによる死亡率が低い。これはパラドックス(矛盾)だ!”


鼻息が荒い。

今にして思えば、心血管系イベントを語るにあたってリスクが「動物性脂肪」だけというのはずいぶん少ないな、と、目を細めて眺めてしまう。でも当時は、医療の専門家たちでさえもこのような「雑なストーリー」におおまじめに悩んでいた。



ある病気にかかる、あるいはそれで死ぬという現象は、1,2個のファクターで左右されるものではない。

「アルゼンチン代表はメッシのおかげで優勝した」と言うのはまあファン心理として許すにしても、「アルゼンチン代表のゴールキーパーがボールをとめたのはメッシのおかげだ」はさすがに言い過ぎだと思うだろう。

言うまでもなく、アルゼンチン代表がワールドカップで優勝したのは、メッシをはじめとする多くの代表選手、スタッフ、協会関係者、そして国民などの無数のファクターががんばったり圧をかけたりした結果であり、かつ、そこには絶対に運もあった。

なのに「ぜんぶメッシのおかげ」というのはそこそこ暴論だ。

それと一緒で、「心血管系イベントが増えるのは動物性脂肪によるものだ!」と考えるのも短絡である。ほかにもやまほどファクターがあるのだから。

でもこの短絡的なストーリーを、おおまじめに研究した人たちがいっぱいいた。荒唐無稽な物語であっても、「なぜ?」をつきつめるのはよいことだ。しかし、短絡的なものの考え方のままで突き進むと、結論もしばしば、ねじまがる。



かつての研究者たちは考えた。

”フランスでは動物性脂肪の摂取量が非常に多いのに、心血管系イベントによる死亡率が低い。パラドックス(矛盾)だ……なぜだろう? フランス人だけが、なにか、心臓や血管にいいことをしているのではないか。フランスの特徴……フランスのアイデンティティ……フランスの誇り……。そうか! 赤ワインだ!”

もはやギャグでは? とツッコみたくもなるが、くり返すけれども研究者たちはおおまじめである。ファクターが無数にあるということを考慮せず、かってに作り出した虚構のパラドックスに慌て、それを単一ファクター「赤ワイン」で解決しようとした。

まず、何人かの研究者が、「赤ワインを適量飲むと体にいい」というデータを提出した。フランスは勢いづいて、国をあげて、大規模な医療統計プロジェクトに取り組んだ。「赤ワインを飲む人」と「赤ワインをあまり飲まない人」の 2 群を比較する観察研究を行ったのである。

でも、そこはさすがに研究者。「赤ワインを飲む人の側に、過剰に健康な人が含まれていないかどうか」みたいな偏り(バイアス)を、慎重にとりのぞくことにした。街からランダムに「赤ワインを飲んでいる人」を連れてきて研究をしてはだめ。たまたま選んだその人たちだけにあった特有の事情が、心血管系イベントになんらかの影響をおよぼしているかもしれない。

年齢・性別など多くの因子について、きちんと「標準化」を行った。片方の群だけ年齢が妙に高いとか、男性の量が妙に多いとか、喫煙者が多いといった、といったバイアスをできるだけ減らした。

そして……大規模なデータ解析の末に「赤ワインを飲んでいるほうが、どうやら健康らしいぞ!」というデータが出た。お国もお酒会社も大喜びである。

でも、周囲がお祭り騒ぎで国の威信(赤ワイン)を褒めそやす中、本当の研究者たちはそこで立ち止まろうとはしなかった。いくつもの別の統計を確認していった。すると、研究によっては、どうも、赤ワインの効果はあまり大きくない……というか、別に効果はないのでは? というデータもけっこう出てくる。ただその結果はけっこう長い間、あまり知られなかった。

なんとこのときの影響は今にも及んでいる。赤ワインのポリフェノールが体にいい、レスベラトロールが寿命を延ばす、みたいな話、聞いたことないだろうか? これらはすべて、当時の研究に端を発したものだ。



その後、ある研究者が、ひとつの事実に気づいた。「赤ワインをたしなむ人」は、「赤ワインを飲まない人」に比べるとちょっとだけ年収が高いということに。

年収?

そんなものが死亡統計に影響を与えるのだろうか……と、なかば半信半疑ながらも、データを再整理した。年収による差が出ないように、母集団を調整したのである。すると、赤ワインを飲む人も飲まない人も、心血管系イベントの発生頻度は変わらなくなってしまった。

こうして、「赤ワインが健康にいい!」というストーリーは、(統計データを基に組み上げたはずだったが)どうやら信用してはいけないらしいぞという結論が遅ればせながら世に広まった。



直感的には信じがたいかもしれないが(あるいは逆にめちゃくちゃ納得されるかもしれないが)、血圧とか脂質などという血液のデータをしらべるよりも、「年収」のほうが健康を繁栄している場合がある。

残念ながら、かつての医療研究者たちは、被験者に年収なんて尋ねなかった。でも、年収こそは、健康に影響を与える大きな、しかも複合的なファクターだった。年収が違うと、「赤ワインを飲んでいる時間以外の行動」に差が出る。おつまみとして健康によさそうな食品を食べているかどうか、ストレスが日常的にかかっているかどうか、職場環境の日照条件や空気のきれいさ、家族や周りの人びととのコミュニケーションが良好かどうか……。こういったファクターを一切アンケートで聴取せずに、「赤ワインを飲んでいる側と飲んでいない側、ワイン以外のファクターはぜんぶ揃えておきました」なんて、言うのは簡単だけど実際にはすごく難しい。

結局、当時の研究者たちは、「年収の差を考慮にいれないデータ」を大量に用いて統計をとり、「赤ワインは健康にいいらしい!」という不適切な結論にたどり着いてしまった。でも、まあ、個人的には、当時の研究者を責めることはできないなあとも思う。や、そりゃ、言われないと、わかんないよな。

医療系の研究をする際のアンケートといえば、タバコは吸っていますか、運動はしていますか、昔なにか大きな病気をしましたか、家族に病気の人はいますか、あたりが定番である。こうして聞き取った結果を基に統計処理を行う。しかし、そもそも、このような「yes or no」の質問だけで、その人の暮らしすべてが聞き取れるだろうか? ここが統計の難しいところだ。


フランスの悲劇は、おそらくもうひとつある。研究者たちも、国民も、どこか、「赤ワインが健康によかったらいいな……」という希望をデータに託してしまった。本来であれば、「赤ワインだけで健康が統計学的にぐっとよくなるなんて、何か、ほかにファクターがあるのではないか?」と疑ってかかるくらいがちょうどいいのだけれど、「やったあフランスの誇り! 赤ワインが買った!」となって思考停止してしまった。


自分たちが選び取りたかったストーリーを統計の中に見出してしまったことが、フレンチ・パラドックスをめぐる研究失敗のひとつの原因だったとぼくは考える。




バイアスをとりのぞくにはかなり専門的な知識が必要だし、何より手間がかかる。現場から出てきたデータはすべて貴重なものだが、そのデータが合っているか間違っているか以上に、「それをどう解釈するか」にあたっては本当に慎重な姿勢と透徹な知性と冗長な時間が必要になる。「フレンチ・パラドックスの誤解決」によって世界はそのことに気づいた。しかし、それをすぐに忘れてしまうのもまた世界である。

人は、「自分の都合のいいようにデータを読み解く」という楽観性によって、このつらい世の中をやり過ごしているのかもしれない。研究者か非医療者かを問わず、だれもが。

2023年1月5日木曜日

最近のドラクエは道具袋にも名前を付けられる

職場で使っている膝掛けがプーさんなのでそろそろ買い換えたい。プーさんが「HI YA !」って言ってる。ひや? 日本酒か?


買い換えたところで誰かが見るわけでも評価するわけでもないのだけれど、これはぼくが毎日見る。そして毎日すこしずつなんらかの形で心を微弱に動かされている。人間はひたすら脳の微調整をくり返しながら生きていくので、毎日「HI YA?」と些細な刺激を受け続けていれば10年後にはなんらかのかたちで変成が起こっているだろう。プーさんによって。それはどうもあまりうれしいことではないんじゃないかなと考える。




手袋の毛玉、ニットのほつれ、靴紐の黒ずみ、そういったものも、もはや誰も見ていないとしても自分の五感に何かの信号を送り続けているので、だから、買い換える。そうやって購買行動を正当化する。


とかくいろいろなことを正当化して暮らしている。こうするには理由があるんだ、これを選んだからには論理があるのだと、誰に告げる必要もないケースであっても自分の中にはたいていなんらかの言い訳を用意している。そういう種類の臆病さと同居し、そういう種類の卑怯さに餌をやって飼い慣らす。




まだ正式に決まった話ではないのだが、ある有名な人と対談をしませんかという企画をもちかけられて、直感的に「うわぁ楽しそう」と思って、ひとまず近しい関係者の間ではやりましょうやりましょうということになった。もちろん今後の感染状況やらイベントスペースの都合やらによって左右されるのだけれど、たぶん実現するだろう。このタイミングでふわりと思い出したことがある。かつてぼくは渋谷パルコのイベントスペース「ほぼ日曜日」で写真家の幡野広志さんと対談をさせてもらった。あのときも会場に向かう道すがら、「ぼくは今日、あそこで対談をしていいんだ」という理由をいくつも考えて脳内の道具袋にしのばせておいた。中盤のきついダンジョンに突入する際に、「いのりのゆびわ」を預かり所から受け取って道具袋に大事に入れておくように。MPが足りなくなったときに備えて、あるいは、実際に使わないにしてもお守りのように。


稚内に本を売りに来た浅生鴨さんに会いに行ったときも、オンラインイベントでZoom越しに壇蜜さんと話したときも、ウェブコンテンツの取材で小籔千豊さんと出会ったときもぼくは、誰にたずねられたわけでもないのに「そうすることになった理由」を綿密に用意しておいた。実際、誰にもたずねられなかった。世の中の誰がどこで何をしていたからといって、お互いにそれに因果の調査などいちいちしない全放置時代。ぼくが何かの理由を語らなければいけないことはない。ぼくは何も説明しなくていい。わかっているのに、それとは別に、おそらくは自分の微調整のために、自分で自分のシグナル伝達経路を解き明かすようにぼくは行動の理由を用意して袋の中にストックする癖が止まらない。

2023年1月4日水曜日

病理の話(732) イチゴ大福を考えた人は天才だと思う

患者の体の中からとってきたものをプレパラートに加工する。それを顕微鏡で見るのが病理医の仕事だ。


この「プレパラートに加工する」の部分は臨床検査技師という専門職が行う。むかしの病理医はプレパラート作成をできる人がいたというが、ぼくはできないし、ぼくと同世代の人でプレパラートが作れる人もほとんどいないだろう。高度な技術なのでそこは分業した方がいいのである。素人が作ったプレパラートは汚くて見づらいし……。


なぜ素人が作ると汚くて見づらくなるかというと、もちろん、「熟練の技術」がいくつか使われているからだ。


髪の毛の何倍も薄い、4 μmという薄さに組織を切る「薄切」と呼ばれる作業は、カンナがけのような工程で行われる。このカンナ=ミクロトームをうまく使うのが難しい。パラフィンというロウに埋め込んだ組織をミクロトームというおばけカンナでシャッ、シャッと切って、ぺらりとはがれてきた薄い切片をピンセットでそっとつまんで水の上にうかべる。すると水の上で薄い切片がハラッ……と少し広がる。ここがくしゃっとなると台無しだ。そのあと、ガラスにそっと拾い上げて、温めながら少し乾燥させる。和紙づくりを思わせるような機材にかこまれて、マクロとミクロの接点みたいな部分で標本作製が行われる。


さて、ちょっと想像していただきたいのだけれど、硬いところとやわらかいところが混ざった検体をシャッと切るのは大変なのだ。フワッフワッのシュークリームの上にブドウをひとつぶのせ、ブドウとシュークリームをいっぺんにナイフで真っ二つに切ることを考えて欲しい。ブドウに刃物をのっけて力を入れたらシュークリームがべちゃっとなるであろう。こういうときはまずシュークリーム側から切っていって、シュークリームを切り終えたあとにブドウに力を入れればいいじゃん、みたいなことを、我々はモノを切るときに無意識にやっているのだけれど、これ、ブドウがシュークリームの上にのっかっているからできる技であって、ブドウとシュークリームが交互に、ミルフィーユ的に混じっていたらそうもいくまい。ていうかブドウとシュークリームって味の組み合わせがよくない。なんでブドウにしたんだ。関係ないけどイチゴ大福を考えた人は天才だと思う。

組織片もただそのまま切るだけだと、硬いものと柔らかいものとが入り混じっていたときにうまく均一に切れない。そこで、先ほど少し話したパラフィンというロウに埋め込む。このとき、ロウは組織の周りだけではなく、組織内部にも浸透させておく。ロウ人形状態にするのだ。そうすれば、組織片は中からも外からもロウに支えられて、わりと硬さが均質になるので、切りやすくなる。


この「組織片をロウ人形化する」際に、さまざまな液体を使用する。パラフィンを組織にしみ込ませるにあたって水分が多いとジャマなので、まずはアルコールに付けて、検体の中の水分をとりのぞく。しかしアルコールもパラフィンにとってはジャマなので、別の有機溶媒を用いて今度はアルコールをとりのぞく。だったらなんでアルコール使うの! とツッコミたくなるが、この順番でやらないとうまくいかないのだ。念入りに複数の溶液に浸ける過程で、組織の中からは水分や油分が浸みだし、かわりにその部分にパラフィンが入り込んでいく。マニアックな豆知識だが、プレパラートを顕微鏡でみたときに、丸い細胞膜につつまれた泡のような空隙があったら、それはもともと脂肪があった場所である。アルコールやキシレンに次々と浸しているうちに脂肪が流れ出してしまったところが空間として白く残るのだ。


化学の実験の手順みたいなことを延々と読まされて朝からうんざりした人もいるかもしれないが、病理医はこういう内容を覚えておかないと、顕微鏡を見たときに、「ここなんで穴が空いてるんだろう? そうか! この病気は細胞を穴だらけにするのか!」みたいなとんちんかんなことを言い出す。顕微鏡で見えているものは、プレパラートを作る過程で本来の組織がすこしだけ成分変化したものだということを忘れてはいけない。「ワクチンを打ったあとの組織を顕微鏡でみたらここに血栓がこんなに!」という写真をインターネットで見つけてどれどれと見に行ったら血栓ではなく動脈硬化の石灰化、みたいなことがあった。ただ見ればいいってもんじゃない。理屈を知らないと意味が浮かび上がってこない。見たいように見るというのは不誠実だ。本来の姿を脳内で補完しながら見てこその顕微鏡なのである。