2017年2月28日火曜日

病理の話(53) 病理医は医者ではなく学者ではないのか

病理医というのは不思議な仕事で、病気に名前を付けたり、病気の進み具合を検討したりといったことを、日がな一日やっている。

つまりは、患者さんのおなかを押したり膝を叩いたりといった「診察」をまったくやらないし、血の巡りが悪いからあの薬を入れようとか息が苦しそうだからこの機械でサポートしようといった「治療」をまったくやらないし、これから一緒に病気と闘っていきましょうとか不安なことがあればいつでも言ってくださいといった「患者さんへの説明」をまったくやらないし、傷跡が落ち着いたからそろそろ退院してもらおうとか痛みが強そうだから痛み止めを増やそうといった「病棟の維持管理」をまったくやらないし、この先血圧が高いといろいろ問題になるだろうとかピロリ菌がいない方がこの人の胃にとっては将来いいことの方が多いだろうといった「患者さんの健康維持管理」をまったくやらないし、手術後すぐに歩き始めた方がいいだろうとか骨もくっついたからそろそろ運動して関節を動かそうといった「リハビリ」をまったくやらないし、低空飛行で死に向かう患者さんの様子をみながら食べたいものをどこまで食べさせようとか日常生活をどのように送ってもらおうといった「終末期ケア」をまったくやらない。

薬のことをあまり知らない。点滴のことがわからない。注射をしない。CTの予約ができない。傷が縫えなくて気管挿管もできなくて眼底も見られなくて心電図もたいして読めない。


それなのに医者と同じ給料をもらう。これが許されるのか、という話だ。



ずっと脳だけを使う。多少の事務仕事をしながら。ひたすら座学に励み、顕微鏡を見て、パソコンを使い、医療者とだけ会話をする。

そういう人がいないと医療は回っていかないから。

先生のおかげで診療が深まっているのだから。

大学とも連携してるんでしょう? 研究にも詳しいからすごいね。



そうなのだろうか。



ぼくは、世の中の人々が、病理医を全く知らなかった頃に比べて、少しだけ知名度が上がってきた今の方が、厳しい目線にさらされるのだろうなあという「危機感」を持っている。



ぼくらは本当に医者を名乗ってよいのか。





病理医というのは不思議な仕事で、病気に名前を付けたり、病気の進み具合を検討したり、病気がどういう背景に発生するのか、どういう像が現れたら病気と言えるのかを、教科書や論文、先人の経験や個人の勉強成果とすり合わせながら、調べて、記述して、説明して、臨床医や多くの医療者たちと相談をし、あるいは納得してもらうための言葉を探すために学会や研究会に出て、妥当か妥当でないかを言うために統計の勉強をして、遺伝学の基本に立ち返ったり分子生物学の深見にもぐったり発生学の古書をひもといたり、逆に聞き手であり商売相手でもある臨床医たちのスタイルを学ぶために臨床診断学を学び、画像診断学を探り、臨床検査学を復習しながら、病理診断を書き、症例報告をし、臨床研究の手伝いをしながら基礎研究の話に花を咲かせ……といったことを、日がな一日やっている。




これは、もしかすると、「学者さん」ではないのか。

学者を名乗るのもアレだけど、いちおう、孫悟飯はあこがれていたっけな。

2017年2月27日月曜日

アイアイ おさるさんだよ

「たとえば、インフルエンザの診療があるでしょう。子供が熱を出すわけです。昔であれば、外来にかかって、そこから2時間とか待っていなければいけなかった」

ーーそうですねえ。そうでした。

「でも、今は親御さんはとにかくそんな風邪まみれの外来で、待つのなんてイヤなんですよね。だから、病院側も、いろいろ知恵をしぼる」

ーー知恵を。病院側が、ですか?

「ええ、病院側が、です。たとえばスマホで予約をできるようにする。何時間後に来てくれと表示を出す」

ーーああ、そういう。

「そうすれば、待たなくて済むわけです。で、いざ病院についてから、医者がやることが、まあおなかをそんなに丁寧に触るわけでもなくてね、時期的にインフルエンザが流行っていて、外来も大混雑の中で、とりあえずちょろっとお話を聞いて、それから鼻の奥に棒をつっこむわけですよ」

ーー迅速検査ですね。

「実際、お医者さんなんてのは、患者さんが入ってきたときの雰囲気とか、話してみたときの感じとか、バイタルサインとか、首を触ってリンパが張れているかどうかとか、肺音とか、いろいろ瞬間的に、見ていらっしゃる。

でも、患者とかその親からすると、そこまで見てもらってるようには見えないわけです。まあ達人技なんでしょうな。

つまり、患者さんの側としてはね、

『インフルで病院かかったらインフルの検査されて、インフルの薬出してくれた』

みたいな捉え方をしてる、ってことです。すごくシンプルだ」

ーー……。

「そしたらね」

ーーはい。

「今後、たとえばAI診断がめちゃくちゃ進んだとして、家庭でもスマホでだいたいの診断がつけられる時代ってのは、来ると思うんですよ。インフルエンザの可能性が89%、みたいに、情報が瞬時に表示される」

ーーうーん、そうですね。89%じゃ困るんだけどなあ。

「けど、それ、患者側は、どう思いますかね」

ーーどういうことですか?

「9割がたインフルだって教えてくれる。そして、そのころは、あるいはインフルエンザの特効薬なんてのは、薬局で薬剤師さんが出してくれるかもしれないんです」

ーー……。病院がいらなくなる、と……? でも、万が一の鑑別とかをしてくれる安心感とかは……。

「それを決めるのは、たぶん、医者じゃないです。お医者さんが、我々には存在価値がある、給料に見合った仕事をしているといくら声高に主張しても、そのときそのときの患者さんが、まあこれくらい……ちょっと熱はかって、棒つっこんで、陽性ならインフルで薬がポン……これくらいなら、医者じゃなくても、AIでいいやと判断するかもしれない。そしたら、それまでなんですよ」

ーー自動診断の世の中では、患者さんが医者のメリットとAIのメリットを天秤にかけてしまう、ということですか……?

「風邪くらいならいいだろう。インフルならいいんじゃないかな。癌ならともかく。そう考えてしまう患者さんの自己選択が、AIによって左右される。きっと、89%はうまくいくんです。そのような世の中で、高給をもらって専門職を遂行している医者の存在価値って、なんですか?」

ーー……。

「AIが医者の仕事を奪うなんてありえない、医師の仕事はもっと複雑だ、医師はAIを使いこなす立場なのだ、って、言うのは簡単ですけど。患者さんの側も、同じように考えるかどうかは、これから次第なんじゃないですか」

ーー……。







という話を、しました。

2017年2月24日金曜日

病理の話(52) 対比病理学へのいざない

バリウム技師さんが集まる会に、しょっちゅう出る。

胃のバリウム検査というのは、すでに古びた技術ではある。しかし、捨てたものではない。内視鏡(胃カメラ)で直接胃を眺めれば病気なんてすぐ診断できるだろう、というのは、ある意味医師のおごりである。

直接見たって、見えないものはある。

自分の姿を一番よく見ているのは自分だとお思いか?

鏡に映った自分の姿は、ほんとうにすべてを忠実に映しているだろうか?

魚眼レンズでゆがめられた像。はすにかまえて、病気を斜めから見通した姿。これらはときに、勘違いを生む。見逃しを呼ぶ。

もちろん、そうならないように、胃カメラは発展してきた。しかし、バリウム検査で映る胃の姿にも、読み応えがあり、意味があり、メリットもある。


だから、ぼくは、同じ胃という臓器を、異なるやり方で診断しようとする人たちが、それぞれに好きだ。胃カメラのプロのことも大好きだし、胃バリウムの達人と働くと心が躍る。超音波だって、CTだって、そうだ。




さて、胃バリウムで見た姿というのは、「影絵」に似ている。

胃に、バリウムという、X線を通さない物質を、厚く塗ったり薄く塗ったりすることで、X線で胃をみたときに、陰影、輪郭、粘膜の厚さ、さらには硬さまでも(空気量を変えたり、直接胃をおなかごしに(!)押したりして)見ることができる。

これらの影絵は、あくまで「影絵」でしかない。病気そのものを直接見に行っているわけではない。

けれど、得られる情報がとても多い。



一方の、病理。手術で採ってきた胃の、病気の部分を細かく切って、病気がどれだけしみこんでいるか、どれだけ広がっているかを確認し、さらに細胞の性状までも解き明かそうとする。

X線や胃カメラで見た「像」と、病理で我々がみる「細胞の姿」、どちらがより患者さんの今後を正確に占うか。



「今のところ」、病理の勝ちだと言われている。

今のところだ。


だから、画像をやる人はみんな、自分たちがみたものが、「病理の答え」とどれだけ肉薄したかをとても気にする。

現代の医学では、画像で得た情報は限りなく「病理の答え」に近い。

しかし、外れることもある。大変に細かいレベルで外れてくる。病気の範囲がちょっとずれていたり、病気のしみこみ度合いが少し違ったりすることがあるのだ。



これらの「ずれ」を是正するために、検討会とか、研究会とか、学会というものがある。みんなで画像を持ち寄って、ああでもないこうでもないと「読影(影を読む)」をし、病理の答えと突き合わせながら、どういう読み方がより説得力があるのかを競い合い、教えあい、共有して、明日につなげていく。



***



ぼくが最近この研究会や検討会で重視しているプロセスがある。

それは、「人はなぜ、間違って読むのか」を、できるだけ言葉にするという作業だ。

うっかり間違う、のならば仕方がない。

再現性をもって、誰が読んでも「間違ってしまう」画像というのがある。そこには、おそらく、それなりの理由がある。落とし穴。ピットフォールなどという。

このピットフォールを、病理の知識をもって洗いざらい明らかにする。こういうミスが起こりやすいのはどういうときか、というのを考えていく。

それが、「対比病理学」とぼくが勝手に呼んでいるものだ。



対比病理学のキモは、記述すること、説明すること、納得すること。

なぜ間違う? そうか、こういう現象があるからか。

どうしてずれる? そうか、こういう可能性も見なければいけないのか。

これらを、医療者がわかるようにきちんと記載し、お互いに通じるように説明をして、みんなで納得しなければいけない。



どうも、この作業だけは、AIにはできないのではないか……などということを、今ほんとうに、めちゃくちゃ真剣に考えているのだが……。


この話はたぶん、また忘れたころに、続きを話すことになる。ぼくは今、自分が使命をもっておもしろく取り組んでいる仕事を、きちんと記述して、人に説明して、納得してもらえるだろうか、という試みに、取り組んでいる。

2017年2月23日木曜日

いつの間にか 社会から ずれったんと

「Wikipedia(日本語版)は、けっこうあやしいことが書いてある」

これ、少なくともツイッターではよく知られた話だ。

でもぼくはWikipediaの「素人が紛れ込んで書いててもわかんないくらいに体裁と構文が整えられた、それっぽい文章」というのがきらいではないのだ。

「読まずにふぁぼる半可通」があたりまえのツイッタランドに生きていると、日本語版Wikipediaのあやしさなんてもう、ぜんぜん許容範囲である。

英語版のほうがしっかりしているかどうかは、ぼくの英語力がしっかりしていないので、わからない。





「下位文化、サブカルチャー (subculture) とは、ある社会で支配的な文化の中で異なった行動をし、しばしば独自の信条を持つ人々の独特な文化である。『サブカル』と略されることが多い。」

サブカルチャー、を調べたらこのように書いてあった。

ぼくは、病理医ってサブカルっぽさがすごいんじゃないのかな、という文脈で、サブカルという聞き慣れた言葉を、あらためて調べ直そうとしていた。



「1980年代サブカルチャーに共通していえることはマイナーな趣味であったということであり、この段階で既に本来のサブカルチャーの持っていたエスニック・マイノリティという要素は失われていた。確かに幾つかの要素は公序良俗に反すると見なされたという点で既存の価値観に反抗していたが、それらは1960年代のサブカルチャーが持っていた公民権運動や反戦運動などの政治的ベクトルとは無縁であった。もともと社会学におけるサブカルチャーという用語は若者文化をも含んでいたが、エスニック・マイノリティという概念の無い1980年代の日本においては少数のサークルによる若者文化こそがサブカルチャーとなっていた。この含意の転回には日本における民族問題意識の希薄さ以外にも、サブカルチャーという概念の輸入が社会学者ではなく、ニュー・アカデミズムの流行に乗ったディレッタント(英、伊: dilettante。好事家。学者や専門家よりも気楽に素人として興味を持つ者)によって行われたことも関連している。研究者ではない当時の若者たちにとっては学術的な正確さよりも、サブカルチャーという言葉の持つ、差異化における「自分たちはその他大勢とは違う」というニュアンスこそが重要であったともいえる。」

好事家(こうずか)。

そうかあ。

学者や専門家よりも、気楽に素人として興味を持つ者。

なるほどなあ、じゃあ、病理医がサブカルだなんて言ったら怒られるかもなあ。



それにしても、この項目、書きっぷりが、クソサブカルくせぇなあ。




ぼくの、「病理医ってサブカルなんじゃね」という気づきは、「治療して患者さんに感謝されたり、救急で一刻一秒を争いながら重症患者の服にハサミを入れて電気ショックを与えたりする医者こそが、メインストリーム、本道である」という、世間が共有するイメージに対しての、なんというか、あこがれというか、屈曲した嫉妬というか、そういったものに由来しているのだと思う。

「病理医は、治療もしないし日も当たらないけど、それをむしろ誇ったり、スカしたりしている」

これって、なんだかサブカルっぽいな、くらいのイメージだった。

けど、サブカルチャーという言葉をきちんと(?)調べると、なんか安易にサブカルって言葉を使うのもどうかな、という気持ちになってくる。




「近年では、教養そのものが揺らいでおり、従来ハイカルチャーを支えてきた知識人も大衆文化やオタク文化に注目しているのが現状である。趣味・嗜好の多様化・細分化や価値観の転倒により、従来サブカルチャーと見られていたものが一般に広く評価されるようになったり、ハイカルチャーの一部であったものがサブカルチャーとして台頭するという逆転現象も見られるようになっている。例えばかつては、歴史や古典文学について最低限の知識を持つことは当然で、そうした知識に精通することはハイカルチャーと考えられていた。しかし、近年では知らないことを恥じるどころか、歴史や古典文学についてある程度の知識を得ることさえもオタク趣味の一つとみなす傾向が指摘されている(とくに日本文学や日本史にこの傾向が強い。[要出典])このように、ハイカルチャーとサブカルチャーの境界、色分けは曖昧となってきている。」



ぼくこの「要出典」、大好き。





「一般にサブカルチャーは、個々の主観によって自立して成立する行動様式の理念として昇華した、『顔の見える文化』だといえる。とはいえこのサブカルチャーは『顔の見えない』側面も持っていることがある。」


「も」「ことがある」


ああ、うん、よく使うなあ、この言い回し。



そうか、病理医ってサブカルじゃね? の前に、病理医ってWikipediaに似てね? を検証すべきだったのかもしれないし、うん、病理医という広い主語を使うとまたツイッタランドで怒られるだろうなあとか、そう言ったことが次から次へと気になりだしている。

2017年2月22日水曜日

病理の話(51) チンピラはいつあらわれるのか

いろんなところに書いているようで、実はきちんと書いていないことを書く。


「腫瘍」というと、がんのイメージが強いが、必ずしも腫瘍とはがんを意味する言葉ではない。もっと幅広い言葉だ。

このあたりの詳しい説明は昔このブログでも書いたことがあるので、今日はあまり繰り返さないが(「がんの話」シリーズがあります)、ちょっとだけおさらいをする。



正常の細胞を一般の善良な人々に例えると、腫瘍細胞は「チンピラ」に当たる。

善良な人々は、規則正しい生活を送る。仕事をしている。いるべき場所を守る。

ちゃんと仕事をしない。いてはいけない場所にいようとする。群れて増えるごくつぶしである。

正常細胞と腫瘍細胞の違いは、こんなところだ。以上の言葉は専門的には、分化異常、増殖異常、分布の異常、浸潤、不死化、異常代謝などの言葉であらわされるけれど、チンピラの悪行三昧と覚えておけばよい。

さて、このチンピラもまた、人間である、という話をする。



チンピラが完全にエイリアンとかモンスターのような異形のものであれば、攻撃するにあたっても目標を認識しやすいのでべんりなのだが、チンピラはしばしば、善良な人々と同じような姿をとる。

大腸がんの細胞は、もともと大腸の表面に存在する「大腸の上皮」に似た性質を示す。

膵がんの細胞は、もともと膵臓の「膵管」という構造に存在する「膵管上皮」に似ていることが多い。

乳がんの細胞は、もともと乳腺の「乳管」という構造に存在する「乳管上皮」に似ていることが多い。

胃がんの細胞は、「胃腺窩上皮」や「胃で腸上皮化生を起こした上皮」という細胞に似ている。



で、これらを、医学生も、医者も、このように表現することがある。

「胃がんというのはですね、胃にある粘膜の、腺窩上皮という細胞が悪くなったもので……」

「膵がんはですね、膵管上皮から発生していまして……」

難しい言い方であるが、つまりは、

「善良に暮らしていた人々が、なにかのきっかけでグレて、チンピラになってしまった。」

ということを言っている。




これは、おそらく、正解ではないだろう、というのが最近の学説である。




人間の世界ではそういうこともあろうが、細胞に関しては、

「善良なまま大人になった人は、めったなことではチンピラにはならない」

だろうと言われているのだ。




では、チンピラになるのは誰か?

チンピラになるのは、赤ん坊なのだ。これから大人になろうとする、生まれたばかりの細胞。これが、かなり初期の段階で、チンピラとしての人生を歩み始める。




大人がチンピラになるか、赤ちゃんのころからチンピラへの人生を歩むか。

細かい違いだけれど、重要なのである。治療に関する研究をする上でも、あるいは、がんを早期発見するための研究をする上でも。






ある日、ぼくが、このような病理報告書を書いたとする(今さらっと考えたフィクション症例ですし、こういうのは実はやまほどあります。特定のモデルは存在しません)。


「本病変は、免疫組織化学により、MUC5ACが表層部に陽性。MUC6, pepsinogen Iが中層から深部においてさまざまに陽性。H+/K+ ATPaseが散在性に陽性となります。すなわち、胃の腺窩上皮に分化を示しつつ、深部では頚部粘液細胞、主細胞への分化も示す病変であり、いわゆる胃底腺粘膜型胃癌と呼ばれるものです」


この一文には、「チンピラがもつ性質」を書きつつ、「もしこのチンピラが、善良な人々として育つ ”if” の世界があったら、どんなところで働いていたであろうか」ということを書いてある。


手練れの内視鏡医たちは、この文章を見ながら、

「そうか……頚部粘液細胞とか主細胞の性質を持つのだったら、粘膜の深いところでこっそりと横や下に広がりたがるわけもわかるかもしれない……だから胃カメラでは、このがんが妙に ”スネーク” してるように感じたんだな……こいつは暗躍するタイプのがん細胞なんだ」

ということを想像してくれる。



最初に出てきた、おとながチンピラになったか、赤ちゃんからチンピラになったか、関係なくない? と思われた方もいるかもしれないが、そのあたりのイメージが正しく備わっている人のほうが、より「がん細胞の気分を適切におしはかる」ことができる。

チンピラにも人生があり、性格があり、得手不得手がある。これを読み解くのが、細胞分化を読むということなのだ。





ぼくらは、人が不幸になる原因である「腫瘍」、あるいは「がん」を、よく、人に例える。

プレパラートの中に、「がんがいる」と表現する。

これを、嫌う人もいる。

がんは、ものだ。敵だ。

「いる」なんて言わなくてもいい。「ある」でいい。



でも、つい、人に例えてしまう。

もし、違う世界線であれば、善良な細胞に分化できたであろうチンピラのことを思い、その性質をおしはかって、その上で、容赦なく倒しに行く。

少しだけ後味の悪い想像を抱えながら、がん診療は続いていく。

2017年2月21日火曜日

感想欄には来年も後輩に性病の話をしてあげてくださいと書かれていた

とある看護学校の、病理学の授業を担当している。先日、試験が終わったので、採点をしなければいけない。この採点がとても時間がかかる。

「記述式の大問4問」なのだが、ぼくの試験では事前に試験問題を公開しており、公開した問題に応じて
「試験の3週間くらい前から、対策を練らせる」
ということをやっている。

A4一枚の紙に総務課のハンコを押したものを配付し、その表裏にぎっしりと、「試験の対策」を書いてきてもらう。当日は、「対策プリント」を書き写せばそのまま回答になる。

コピペ自由、友人どうしでの共有も自由。

そして、対策プリントに40点という配点をつけ、当日の試験問題が60点。合格は60点以上、平均点は90点くらいになる。まあ確実に全員合格する。

そう、これは、「テスト」という名の、2段階レポートシステムなので、きちんとレポートを作って提出してもらえば単位にはなるのだ。



さて、このレポートの採点はとても大変だ。そこかしこにコメントをつけていく。30人分の採点をするには、ほんとうに30時間くらいかかってしまう。1か月くらいかけてひいひい言いながら採点をする。

最初、よさげに点を付けてしまうと、あとあと出てきた「もっとすごい答えを書いた子」に対する点数が不当に低くなってしまうので、一通り目を通してコメントしてから「2周目」に入り、そこではじめて点数を付ける。



これをやってきて、思うことがある。



小学校、中学校の先生なんてのは、ああ、ほんとうに、偉かったなあ……。

毎日まいにち、子供たちのプリントにあれこれとコメントを付け続けてくれていたっけなあ……。

きっと、疲れた日には、カトちゃんケンちゃんでも見ながらビール飲んでさっさと寝たかったろうになあ……。

夜通し、採点だけし終えて、翌日の準備なんかしてたら、ほとんどプライベートなんてなかったんじゃないかなあ……。



ぼくらは常日頃、「自分の仕事はとても大変である」という文脈を、必死に押し殺して生活しているような気がする。誰よりもつらい。誰よりも忙しい。厳重にフタをしめ、紐でグルグル巻きにした、本音の壺の中から、「俺なんか」「俺こそが」という声が漏れ聞こえてくる。

でも、それは、他の人の生活を想像できないからなんだろうなあ、ということを考えている。

自分ではない他人が、目の前にある仕事にどのように取り組み、どのように苦しみ、どのようにサボるかなんて、ほんとうにその人と同じ立場になってみないと、もう、絶対に思いも寄らないのだ。

なのに、自分がいちばん忙しいなんて、どの口が言えるというのだろう。

自分がいちばん大変だなんて、思わないとやっていけなかったのだろうか。

担任の努力に気づくまでに30年も必要とする程度の人間が、何をどう、比べてきたのだろうか。

2017年2月20日月曜日

病理の話(50) 相談しようそうしよう

病理診断は、比較的フレックスな仕事だ。患者さんと直接会話するわけではない。みるのは、プレパラートだ。つまりは、患者さんが病院に来ているタイミングに仕事をする必要がない。

正直なことを言えば、1日のうちいつ仕事をしてもいい。

とは言っても、病理医は多くの医療者と会話をしながら仕事をするので、あまり他のスタッフと異なる時間に出勤するのはよろしくない。自然と、日中をメインとして働くことにはなる。

けれど、ときに、夜になっても朝になっても、診断が決まらないことがある。

診断が、難しいときだ。



自分の診断に自信が持てない。そもそも、診断がわからない。

いつまでも教科書とにらめっこして考えているわけにはいかない。

患者さんにだって都合がある。生活がある。プレパラートには外来の時間制限はないけれど、病気は待ってくれるとは限らない。ちんたら1か月も2か月も診断に手間取っていたら、その間に病気は進行してしまうかもしれない。

待たされる患者さんはさぞかし不安だろう。

医療者だって困る。次の診療のステップに移れない。予定が立てられない。



そういうとき、病理医は、「相談」をする。同じ病理医に。マンガ「フラジャイル」にも出てくるので、知っている人は知っているだろう。



ぼくもまた、診断の相談をする。たいていはうちのボスと相談する。ボスは頼りになる。

「頼りになるボスがいる施設に就職したこと」は、ぼくの大ファインプレーだ。思い切りほめられていい。

ほかにも、肺や悪性リンパ腫で難しいなあと思ったときにはあの大学へ、軟部腫瘍で難しいなあと思ったときにはあの大学へ、電話をかけ、プレパラートを持って、聞きに行くことがある。

「コンサルテーション」という。

コンサルテーションは、人に診断を決めてもらうためのもの、ではない。あくまで参考意見を聞くために行うものだ。診断の責任はいつだって、「主治医」である自分にある。偉い人に話を聞いて、自分の頭がすっきりしたり、いい勉強になったなあ良かったなあと感動するなりしたあと、必ず「自分で」責任もって診断を出す。

自分がほんとうに優秀な病理医になれば、コンサルテーションは必要なくなるだろうか? コンサルトが必要になるのは、自分が未熟だからなのだろうか?

そういうわけでもなさそうだ。

これだけ医療が細分化すると、自分ひとりで全ての領域を完全に把握するというのは困難である。

診断に必要な試薬などが自分の病院だけでは揃えられないこともある。

だから、日本病理学会では、公式に「コンサルテーションシステム」を作っている。病理学会にメールをしてお金をふりこむと、その臓器、病気に詳しい「コンサルタント」を全国から探し出して、紹介してくれる。

そんなこともやっている。



さて。

ぼくは「コンサルテーションをうける」方に回ることもある。ぼくは消化管病理が少し得意なので、胃や大腸などの病気について相談をもちかけられることがあるのだ。日本病理学会のコンサルテーションシステムにコンサルタントとして登録されているわけではない(そこまで偉くない)から、仲の良い病理医の方々などに、ちらっとたずねられ、ちょっと見てみてよ、くらいのノリだ。

コンサルテーションにくる症例というのはたいてい難しい。だから、とても困る。他の人が見て難しいものを、自分が簡単に見てわかるということが、どれだけあるだろうか、と思う。

必死でコンサルトを受け続けていると、世の中の病理医が、どんな診断に困っているのか、何が難しいと思っているのかが、少しわかってくるような気がする。

彼らの感じた難しさは、ぼくも常日頃から感じていることである。だから、お返事に、このように書くことが多い。


「標本、拝見致しました。先生のおっしゃるように、診断の難しい病変です。私は○○と△△という根拠をもって□□という診断に一票を投じますが、根拠、結論とも、先生のお考えとほとんど一緒です。大変貴重な症例を拝見させていただき誠にありがとうございました。」

実際に、下線を引いたりもする。


あんまり、相談者の役に立っていない気はする。どちらかというと、こんな難しい症例を検討させていただくという貴重な機会をくれてありがとう、と、頭を下げることが多い。

「低姿勢すぎるコンサルタント」として笑われたことがあった。

「~~すぎる」のくくりの中では、ずいぶんとまあ残念なあだ名だなあ、と思う。