病気の発見にはさまざまなコツがいる。
たとえば、咳が出て熱が出て鼻水が出ていたら「あっ、かぜかな?」と気づくことができるだろう。
けれども、たとえば大腸のポリープなどというものは、ふつうは症状を呈さない。
症状を呈さないということは本人が気づけないということだ。気づかないから病院にかからない。だから見つからない。
「症状が出やすいかどうか」によって、病気の発見の難しさは変わる。
多くの「がん」は、かなり長い間……一説によると10年以上にわたって症状を呈さない。だから、患者本人は自分ががんであることに気づけない。
まあ、がんがすべて「早期発見すべき」とはならないのだが。この話は以前にも書いたので今日はやめておくけれども、とにかく、「がん」ということばに怯えて思考停止してしまってはいけない。
今日はとりあえず「病気の発見の難しさ」のことを書くので、「がんの多様性」についてはいったんおいておこう。
膵臓がんのうち、「通常型膵管癌」というタイプのがんがある。これはできるだけ早く見つけたほうがよいとされているがんだ。なかなか症状が出ない。症状が出るころにはけっこう進行してしまっている。
症状が出る前に見つかるのは、たいてい、CTとか超音波のような画像検査によって見つかったがんだ。
小さくてまだ症状を呈していないがんが、どうやって見つかるか?
画像検査に、「膵臓の中に周りとは違うものが映り込んでいる」ことで発見される。
この「周りとは違うもの」というのがくせ者である。
がん細胞というのは、正常の細胞と違う挙動を示すのだが、実は、正常の細胞と「そこそこ似ている」。
温泉に入っていて、裸の男性が何人かいるとして、そこにヤクザが混じっているかどうかをどうやって判定する?
みんな人間だ。みんな男性である。体がでかくてチンチンが豪華ならヤクザだろうか? ラグビー選手がみんなヤクザに見られてしまうのもかわいそうだろう。
入れ墨を彫っていればわかる。けど、仮想通貨の詐欺に関わるようなインテリヤクザタイプだとまず気づかないだろう。
がん細胞と正常細胞の違いもこれに似たところがある。要はどちらも「上皮細胞」という細胞の仲間であるから、そこまで大きく性状は違わないのだ。
だったら、画像検査ではがんはどういう感じで見えてくるのか?
まず、「徒党を組んでいる」。
普通の臓器には、さまざまな細胞が混在して決まったパターンを形成している。町中にスマホショップやパティスリーや交番が入り交じっているように。
その中に、「駐屯地」を作るヤクザの集団がいたら目立つだろう。まずは「異様なカタマリ」を探す。
次に、「アジトの形成がある」。
がん細胞と正常の細胞はけっこう似通っているのだが、がんというのは自分たちだけで増えることはできないで、多くの場合周囲に「自分が生きていくための足場、アジト」を作る。このアジトが実はかなりごてごてと派手なので、画像ではがん細胞そのものよりもむしろ、「がん細胞のアジト=線維性間質」が見えてくることが多い。
ヤクザだけだと見極められなくてもハコをみればそうとわかる。
そして、「正常構造を破壊している」。
症状を来していないからといってあきらめない。まだ症状は出ていないかもしれないが、がん細胞というのは多かれ少なかれ周囲を破壊し始めている。だから、「何かのカタマリの周りがぶちこわれはじめている像」に気を配る。
臓器の輪郭が乱れていないか? 周囲が引きつれ始めていないか?
こういうのをマクロレベルで探すのが、CTや超音波などの画像検査だ。画像でわかるくらいの変化があれば、医療者はまだ症状が出ていない段階であっても、「犯罪の痕跡」に気づくことができる。
けれど、これって、結局は、程度問題である。
破壊行為が派手ならば見つけることはできる。でも微細だったら?
引っ越してきたばかりのヤクザが手始めに近所のデニーズで店員に絡んだ、くらいの段階で、はたして街角の防犯カメラはヤクザを発見できるだろうか?
こういうときに、顕微鏡が役に立つ場合がある。
顕微鏡がみるのはミクロ、すなわちとても小さい範囲を拡大したものだ。がん細胞がわずかな悪さをしているところを見つけることもできる。
けどちょっと考えて欲しい。
あなたはヘリに乗って街を見下ろしている。どこかの建物の中で悪さをしているチンピラがいるとする。たとえばそれは3丁目5番地にあるデニーズの中かもしれない。ここで、「どの建物を拡大してみるか」によって、チンピラが発見できるかできないかが変わってしまうだろう。うっかり5丁目14番地のローソンの中を拡大したってチンピラは見つからないかもしれないではないか?
顕微鏡でみるというのもこれといっしょだ。「どこを採取してくるか」という、検体採取場所をきっちり考えておかないと、まるで見当違いの場所の細胞をじっくり見たって、いつまで経っても「がんの証拠」はみつからないのである。
現代の病理診断医というのはしばしば、CTや超音波などの画像所見に詳しくなり、「どこから細胞をとるべきか」というのを考えなければいけなくなる。昔に比べるとだいぶ仕事が増えている気がする。
まあ昔の病理医は昔の病理医で信じられないほど難しい仕事を難なくこなしていたんだけれども……。聞いた話だが、「ぼくは昔、グラマンが飛んでくるのを見つけて撃墜する仕事をしてたから、リンパ節の中のがん細胞1個をみつけるなんて造作も無いことだよ」といった病理医がいたとか、いなかったとか。
2018年3月30日金曜日
2018年3月29日木曜日
反芻の芻という字は成り立ち的に「w」「w」である
祖母が亡くなったときの話をずっと書いていた。
40分で20000字ほど書いた。そして先ほど消した。一度も保存しなかったので、それっきりとなった。
どうもまとめきれなかった。なんというか、書いていて、伝えられる自信が何一つ湧いてこなかった。
自分の中で「書いておこうかな」と思ったから書いたという「だけ」の文章だった。
「背負っているものを吐き出したら、なにかの作品になるかな」と、思っていた。
でもいざ書いてみるとだめだ。できばえは三流だった。
別に今まで、一流の文章を書いた記憶などないが、普段のブログの文章が二流だとすると、そこまでも達していなかったということである。
*
「背負っているものを文章にすると、さぞかし重厚なものが書けるだろう」という錯覚。
ときどき陥る。
「陥る」ということばが思わず指先から放たれた。うん、そうだな、脊髄が反射で選んだ語句ではあるけれども適切なセレクションである。
「背負ったものを書く」というのは陥穽だ。
書き手だけが深く文章に沈んでいく。掴んで離さない文章、などというが、掴むべき獲物は読者である。
自分の胸を掴みながら、自分だけが穴にはまりこんでしまってはいけない。
蟻地獄が自分の掘った穴に取り込まれて死んでしまうのに似ている。
ぼくの書いた文章は、そういうものだった。
*
自分の心の奥底からわき出てくるなにものかをあらわせば、それが芸術になる、とうそぶく人があちこちにいる。美術家。音楽家。小説家。
自分発の何者かに突き動かされて、それをただ筆にのせたり、コードにのせたり、キータッチしただけなのだ、と彼らはいう。
確かに彼らの主観はそうなのかもしれない。少なくとも対外的にはそういうことにしている、というケースもあるだろう。
自覚があるかないかは知らないが、彼らのクビから肩、腕のあたりには、ぼくが持っていないフィルターのようなものがある。
心から手の先に情念が辿り着くまでの間に、このフィルターを通過することで、情念が見る人に刺さりやすいかたちに整形される。
そんなフィルターを持っていないぼくが、彼らのマネをしてただ背負ったものを発しても、それは蟻地獄の自罰とかわらない。
技術なき情念は届かないのだ。
一度情念を吐き出したPCモニタを眺めて、再度飲み込む。反芻をする。
不格好な情念を幾度もかむ。
もとより噛みにくいしろものだ。何度も噛んでいるうちに味がなくなっていく。
ぼくは祖母の死に強い後悔がある。5年ほど経った今もなかなか色褪せず、また書くことができないでいる。味のしない肉を飲むときの、喉が抵抗する感触をずっと自覚している。
40分で20000字ほど書いた。そして先ほど消した。一度も保存しなかったので、それっきりとなった。
どうもまとめきれなかった。なんというか、書いていて、伝えられる自信が何一つ湧いてこなかった。
自分の中で「書いておこうかな」と思ったから書いたという「だけ」の文章だった。
「背負っているものを吐き出したら、なにかの作品になるかな」と、思っていた。
でもいざ書いてみるとだめだ。できばえは三流だった。
別に今まで、一流の文章を書いた記憶などないが、普段のブログの文章が二流だとすると、そこまでも達していなかったということである。
*
「背負っているものを文章にすると、さぞかし重厚なものが書けるだろう」という錯覚。
ときどき陥る。
「陥る」ということばが思わず指先から放たれた。うん、そうだな、脊髄が反射で選んだ語句ではあるけれども適切なセレクションである。
「背負ったものを書く」というのは陥穽だ。
書き手だけが深く文章に沈んでいく。掴んで離さない文章、などというが、掴むべき獲物は読者である。
自分の胸を掴みながら、自分だけが穴にはまりこんでしまってはいけない。
蟻地獄が自分の掘った穴に取り込まれて死んでしまうのに似ている。
ぼくの書いた文章は、そういうものだった。
*
自分の心の奥底からわき出てくるなにものかをあらわせば、それが芸術になる、とうそぶく人があちこちにいる。美術家。音楽家。小説家。
自分発の何者かに突き動かされて、それをただ筆にのせたり、コードにのせたり、キータッチしただけなのだ、と彼らはいう。
確かに彼らの主観はそうなのかもしれない。少なくとも対外的にはそういうことにしている、というケースもあるだろう。
自覚があるかないかは知らないが、彼らのクビから肩、腕のあたりには、ぼくが持っていないフィルターのようなものがある。
心から手の先に情念が辿り着くまでの間に、このフィルターを通過することで、情念が見る人に刺さりやすいかたちに整形される。
そんなフィルターを持っていないぼくが、彼らのマネをしてただ背負ったものを発しても、それは蟻地獄の自罰とかわらない。
技術なき情念は届かないのだ。
一度情念を吐き出したPCモニタを眺めて、再度飲み込む。反芻をする。
不格好な情念を幾度もかむ。
もとより噛みにくいしろものだ。何度も噛んでいるうちに味がなくなっていく。
ぼくは祖母の死に強い後悔がある。5年ほど経った今もなかなか色褪せず、また書くことができないでいる。味のしない肉を飲むときの、喉が抵抗する感触をずっと自覚している。
2018年3月28日水曜日
病理の話(184) 解剖必要論
「解剖は死因の究明を目的に行われる」。
たまにみかける説明文だ。
死因、とか、究明、という非日常的な熟語たちが緊張感を誘う。
このことばが最初に世間にやたらとつぶやかれるようになったのは「きらきらひかる」のときだったように思う。まあ当時はTwitterはなかったのだけれども。
今度はアンナチュラルだ。テレビの影響力ってのはすごいな。
解剖は、①司法解剖と、②病理解剖に分けられている。厳密にはもうひとつ、行政解剖というのがあるが、まあそこはおいておく。
①司法解剖は「事件」とか「事故」による死を扱い、
②病理解剖は「病気」による死を扱う。
①
事件や事故は、人体に外部から加わるもの、と考える(これを外因という)。
物理的な衝撃、激しい温度変化、吸引する空気の組成がかわること、そして毒物など。これらはいずれも外因、すなわち外から訪れて死を招く。
②
これに対して、病気というのは、人体の中に起こる異常であり、内因、と呼ぶことができる。
※厳密には、感染症のように、外から微生物が入り込むことで起こる病気もあるのだが、ま、そのへんを説明しはじめると長く複雑になるので、ここでは「病気は内因です。」ということだけお伝えしておく。
外因死なら①司法解剖。内因死なら②病理解剖。
外因か内因かわからない死の場合は……? そういう細かいところも、今日のところはおいておこう(いずれ語る機会もあろう)。
外因によって、ある人に死が訪れたとき、「まだ生きている人にとって」、いくつか気になることがある。
亡くなった人は、もう何も気にならない。いつだって気になり考えさせられるのは残されたほうの人だ。
解剖は「世界に残されて、これからも生きていかなければいけない、生きていきたい人々」のために行われる。
死の原因が何であろうが、残された人は、大きく分けて2つのことが気になる。
1.死んだ人のこと。
・亡くなった人には何が起こったのだろう、つらかったろうか、苦しかったろうか、案外苦しさは感じなかったのだろうか。まだ生きられたろうか、よくがんばったのだろうか。
2.まだ生きている人のこと。
・次に誰かがこの人と同じ状況に陥ったら、やっぱり死んでしまうだろうか。だったら、次の死をどうやって防ぐのがよいか。
これらは、墜落した飛行機の中から「ブラックボックス」を回収する作業に似ている(以前にもこのブログで書いたかもしれない)。
落ちてしまった飛行機は元には戻らないし、亡くなった人の命は取り返せない。
それでも、墜落の前に何が起こったのか、墜落は防げなかったのかを知らないと、「残された我々」は気になってしまう。繰り返そう、大きく分けて2つのこと。
1.死んだ人のこと。
2.まだ生きている人のこと。
解剖を手遅れの医療だと呼ぶ人がいる。こういうタイプの人は、朝5時台のニュースを読むアナウンサーのことを「昼には帰れるんだからいい仕事だよな」と呼んだり、火曜日に定休日を設けている美容室を「平日に酒が飲めていいよな」とやっかんだりする。放っておくほうがよい。
解剖とは過去だけでなく未来のために行う医療だ。
ところで、①法医解剖と、②病理解剖では、扱うものが「①外因」か「②内因」かの違いがあるので、解剖の仕方がかなり異なる。
ぼくは病理診断医なので、①法医解剖は、(資格的にはギリギリできなくはないが)やりかたがわからない。
ただ、「内因死だと思って病理解剖が依頼されたケースで、これは外因死ではないのかと気づいて、法医解剖にスイッチすることを提案する」技術だけは持っている。
めったにないことだが、法医学の講座とは仲良くやっていなければいけない。法医学の講座には友人がいる。彼らはアンナチュラルを見て何を思っているのだろう、ちょっと尋ねてみようかと思ったが、ま、元々語ることがうまいやつらである、いずれ本人達の口から何事か語られるだろうから、それを待つことにする。
たまにみかける説明文だ。
死因、とか、究明、という非日常的な熟語たちが緊張感を誘う。
このことばが最初に世間にやたらとつぶやかれるようになったのは「きらきらひかる」のときだったように思う。まあ当時はTwitterはなかったのだけれども。
今度はアンナチュラルだ。テレビの影響力ってのはすごいな。
解剖は、①司法解剖と、②病理解剖に分けられている。厳密にはもうひとつ、行政解剖というのがあるが、まあそこはおいておく。
①司法解剖は「事件」とか「事故」による死を扱い、
②病理解剖は「病気」による死を扱う。
①
事件や事故は、人体に外部から加わるもの、と考える(これを外因という)。
物理的な衝撃、激しい温度変化、吸引する空気の組成がかわること、そして毒物など。これらはいずれも外因、すなわち外から訪れて死を招く。
②
これに対して、病気というのは、人体の中に起こる異常であり、内因、と呼ぶことができる。
※厳密には、感染症のように、外から微生物が入り込むことで起こる病気もあるのだが、ま、そのへんを説明しはじめると長く複雑になるので、ここでは「病気は内因です。」ということだけお伝えしておく。
外因死なら①司法解剖。内因死なら②病理解剖。
外因か内因かわからない死の場合は……? そういう細かいところも、今日のところはおいておこう(いずれ語る機会もあろう)。
外因によって、ある人に死が訪れたとき、「まだ生きている人にとって」、いくつか気になることがある。
亡くなった人は、もう何も気にならない。いつだって気になり考えさせられるのは残されたほうの人だ。
解剖は「世界に残されて、これからも生きていかなければいけない、生きていきたい人々」のために行われる。
死の原因が何であろうが、残された人は、大きく分けて2つのことが気になる。
1.死んだ人のこと。
・亡くなった人には何が起こったのだろう、つらかったろうか、苦しかったろうか、案外苦しさは感じなかったのだろうか。まだ生きられたろうか、よくがんばったのだろうか。
2.まだ生きている人のこと。
・次に誰かがこの人と同じ状況に陥ったら、やっぱり死んでしまうだろうか。だったら、次の死をどうやって防ぐのがよいか。
これらは、墜落した飛行機の中から「ブラックボックス」を回収する作業に似ている(以前にもこのブログで書いたかもしれない)。
落ちてしまった飛行機は元には戻らないし、亡くなった人の命は取り返せない。
それでも、墜落の前に何が起こったのか、墜落は防げなかったのかを知らないと、「残された我々」は気になってしまう。繰り返そう、大きく分けて2つのこと。
1.死んだ人のこと。
2.まだ生きている人のこと。
解剖を手遅れの医療だと呼ぶ人がいる。こういうタイプの人は、朝5時台のニュースを読むアナウンサーのことを「昼には帰れるんだからいい仕事だよな」と呼んだり、火曜日に定休日を設けている美容室を「平日に酒が飲めていいよな」とやっかんだりする。放っておくほうがよい。
解剖とは過去だけでなく未来のために行う医療だ。
ところで、①法医解剖と、②病理解剖では、扱うものが「①外因」か「②内因」かの違いがあるので、解剖の仕方がかなり異なる。
ぼくは病理診断医なので、①法医解剖は、(資格的にはギリギリできなくはないが)やりかたがわからない。
ただ、「内因死だと思って病理解剖が依頼されたケースで、これは外因死ではないのかと気づいて、法医解剖にスイッチすることを提案する」技術だけは持っている。
めったにないことだが、法医学の講座とは仲良くやっていなければいけない。法医学の講座には友人がいる。彼らはアンナチュラルを見て何を思っているのだろう、ちょっと尋ねてみようかと思ったが、ま、元々語ることがうまいやつらである、いずれ本人達の口から何事か語られるだろうから、それを待つことにする。
2018年3月27日火曜日
したがきになる
出張して学術講演をした際に、うっかり間違ったことを言ってしまった。出席者のメールアドレスに次々とおわびのメールを出した。
ひとりひとりに少しずつ違う文面を送るため、内容のコアの部分をコピペしながら、少しずつ言い回しをかえていった。
そしたら最後の人にメールを送るころにはとても読みやすくなっていた。
最初にメールを送った相手への文面は、振り返ってみると、ちょっと読みづらかったな。申し訳ない。
*
学術、エッセイ、ブログ、そして日々の病理診断書、それぞれ使っている脳の領域はたぶんバラバラなはずであるが、「文章をつくるときの取り組み方」は似ている。
「しめ切り」が決まったら、ぼくはとにかく一刻もはやく原稿を作ってしまうことにしている。しめ切り直前まで迷ったとか、ぎりぎり最後の夜に書き上げた、などという記憶はない。
書き上がったものを、いったん寝かせて、脳に残っている「書いたときに持っていた強烈なイメージ」を消す。消えないにしても、薄める。「作者の気分」を忘れるまで待つ。そして時間が経ってから、自分が「読者の立ち位置」になるのを待って、文章を読み直し修正を加える。
あちこちに、ほころびがいっぱい見えてくる。たいてい、「作者はすべてを書かなくてもすべてを知っているが、読者は書いていないことは知りようがないので、読んでいて情景がいまいち浮かんでこない」ことが多い。
しめ切りが近くなるにつれて、すなわち、作者としての観点が弱まり、読者としての観点に近づくにつれて、文章が少しずつマシになっていく。
*
ブログ記事ならともかく病理診断書の文章を同じやり方で書いてるってことはないだろう。そう思われる方もいらっしゃるかもしれない。
でも、やってることは同じだと思う。
プレパラートを見たら、まずハイスピードで仮入力をしてしまう。全ての標本にいったん目を通し、書けるところをどんどん埋めておく。それから、心ゆくまでじっくりと時間の許す限り、細かく難しい顕微鏡所見を追い求めたり、文章を読みやすく書き換えたりする。
ぼくの「文章の作り方」は、まちがいなくPC入力文化がもたらしたものだ。同じことを手書きでやれる自信が全く無い。ぼくの性格も仕事の適性も今の立ち位置も、すべてPCが現代にあるから成り立っているものである。
PCがなかったら、どういう書き方をしてどうやって生きていたのだろうなあ。
そういえば、芥川賞作家の西村賢太氏の日記を読んで、紙にペンで原稿を作る人であっても「下書き」をする場合があると知った。よく考えれば当然のことだ、昔の文豪だって下書きをきちんとした人はきっといただろう。でも、ぼくは正直おどろいたのだ。文章を何度も何度も書き直すなんて、恋文じゃあるまいし、職業作家が毎回「書き直し」をやっていたら時間がどれだけ経っても足りないではないか、とすら思った。
それこそ、中には、脳内の情景を言葉にするのがうますぎるため、下書きなどは不要、一度書いたらそれが完成原稿です、という人もいるのかもしれないけれど……。
デバイスが進歩して、ひとつひとつの作業のスピードがはやくなると、試行錯誤できる回数が段違いに増え、手間もおどろくほど少なくなる。
あくまでぼくの場合だけれども、とにかくまず全景をみてみないと、細部にこだわることもできないし、全体のバランスを整えることもできない。できるだけ下書きを早めに作ることこそが大切だ。
各方面にお詫びメールを出し終わってふと思った。「その場で質問されて、口頭で答える」という作業には、下書き的なプロセスが存在しない。口から出た言葉を「書き直す」ことはできない。相手と会話をしながらボケたりつっこんだりしておもしろさを探っていく「しゃべくり」ならば、いちど発した言葉に多少のあやまりがあっても瞬発力とウィットでなんとかやっていけるだろう。でも、学術講演会における質疑応答のように、短時間で論理をわかりやすく正確に相手に伝えなければいけない場所……下書きなしの一発勝負でぼくがどれだけ脳内の情景を言葉にして相手に伝えられるかが問われる場所は、「まず下書きをさっさと仕上げるタイプ」のぼくにとっては鬼門なのだ。
あの芸能人もあの実業家もあの国会議員もみんな「早く正確に正しいことを言え」とせっつかれていたっけなあ、とあわれみの感情すらわいてくる。主戦場が書き文字の場を選んだ過去のぼくは卓見だったのだ。
ひとりひとりに少しずつ違う文面を送るため、内容のコアの部分をコピペしながら、少しずつ言い回しをかえていった。
そしたら最後の人にメールを送るころにはとても読みやすくなっていた。
最初にメールを送った相手への文面は、振り返ってみると、ちょっと読みづらかったな。申し訳ない。
*
学術、エッセイ、ブログ、そして日々の病理診断書、それぞれ使っている脳の領域はたぶんバラバラなはずであるが、「文章をつくるときの取り組み方」は似ている。
「しめ切り」が決まったら、ぼくはとにかく一刻もはやく原稿を作ってしまうことにしている。しめ切り直前まで迷ったとか、ぎりぎり最後の夜に書き上げた、などという記憶はない。
書き上がったものを、いったん寝かせて、脳に残っている「書いたときに持っていた強烈なイメージ」を消す。消えないにしても、薄める。「作者の気分」を忘れるまで待つ。そして時間が経ってから、自分が「読者の立ち位置」になるのを待って、文章を読み直し修正を加える。
あちこちに、ほころびがいっぱい見えてくる。たいてい、「作者はすべてを書かなくてもすべてを知っているが、読者は書いていないことは知りようがないので、読んでいて情景がいまいち浮かんでこない」ことが多い。
しめ切りが近くなるにつれて、すなわち、作者としての観点が弱まり、読者としての観点に近づくにつれて、文章が少しずつマシになっていく。
*
ブログ記事ならともかく病理診断書の文章を同じやり方で書いてるってことはないだろう。そう思われる方もいらっしゃるかもしれない。
でも、やってることは同じだと思う。
プレパラートを見たら、まずハイスピードで仮入力をしてしまう。全ての標本にいったん目を通し、書けるところをどんどん埋めておく。それから、心ゆくまでじっくりと時間の許す限り、細かく難しい顕微鏡所見を追い求めたり、文章を読みやすく書き換えたりする。
ぼくの「文章の作り方」は、まちがいなくPC入力文化がもたらしたものだ。同じことを手書きでやれる自信が全く無い。ぼくの性格も仕事の適性も今の立ち位置も、すべてPCが現代にあるから成り立っているものである。
PCがなかったら、どういう書き方をしてどうやって生きていたのだろうなあ。
そういえば、芥川賞作家の西村賢太氏の日記を読んで、紙にペンで原稿を作る人であっても「下書き」をする場合があると知った。よく考えれば当然のことだ、昔の文豪だって下書きをきちんとした人はきっといただろう。でも、ぼくは正直おどろいたのだ。文章を何度も何度も書き直すなんて、恋文じゃあるまいし、職業作家が毎回「書き直し」をやっていたら時間がどれだけ経っても足りないではないか、とすら思った。
それこそ、中には、脳内の情景を言葉にするのがうますぎるため、下書きなどは不要、一度書いたらそれが完成原稿です、という人もいるのかもしれないけれど……。
デバイスが進歩して、ひとつひとつの作業のスピードがはやくなると、試行錯誤できる回数が段違いに増え、手間もおどろくほど少なくなる。
あくまでぼくの場合だけれども、とにかくまず全景をみてみないと、細部にこだわることもできないし、全体のバランスを整えることもできない。できるだけ下書きを早めに作ることこそが大切だ。
各方面にお詫びメールを出し終わってふと思った。「その場で質問されて、口頭で答える」という作業には、下書き的なプロセスが存在しない。口から出た言葉を「書き直す」ことはできない。相手と会話をしながらボケたりつっこんだりしておもしろさを探っていく「しゃべくり」ならば、いちど発した言葉に多少のあやまりがあっても瞬発力とウィットでなんとかやっていけるだろう。でも、学術講演会における質疑応答のように、短時間で論理をわかりやすく正確に相手に伝えなければいけない場所……下書きなしの一発勝負でぼくがどれだけ脳内の情景を言葉にして相手に伝えられるかが問われる場所は、「まず下書きをさっさと仕上げるタイプ」のぼくにとっては鬼門なのだ。
あの芸能人もあの実業家もあの国会議員もみんな「早く正確に正しいことを言え」とせっつかれていたっけなあ、とあわれみの感情すらわいてくる。主戦場が書き文字の場を選んだ過去のぼくは卓見だったのだ。
2018年3月26日月曜日
病理の話(183) ベルトコンベアー的システムを読む
生きていくためには、「昨日と同じ自分で居続ける」ことが必要である。
いや、ま、成長とかね、勉強とかね、そういう意味では、「昨日と同じ自分」でいてはだめなんだろうけれども、そういうことじゃなくて。
脳が脳として。心臓が心臓として。
胃は胃として。肝臓は肝臓として。
昨日と変わらずクルクル働いてくれないと。
精神の成長もへったくれもないであろう。
だから、生命がもっている「自分を維持しようとする働き」というのはとても大切だ。
少し専門用語を使うと、「恒常性を維持する」ということ。恒常性の恒は、恒星の恒。「つねにありつづける」みたいな意味だ。
恒常性(ホメオスタシス)の維持のために、人体はさまざまなシステムを用意している。
定期的に栄養とか酸素を摂取するのは、細胞を常にみずみずしく保ったり、細胞が活動するためのエネルギーを補給したり、細胞が新陳代謝するための材料を補給したりするために必要だ。
ばい菌とかウイルスのような、「敵」が体内に入ってきたときに戦ってくれる、「免疫」。これだって、昨日まではいなかった敵を今日も明日も追い出し続けようとするはたらきである。
これらについては当ブログで何度か触れてきた。今後も書くだろう。
そして、今日はちょっとだけマイナーな視点から話をしたい。
まずは例え話だ。
あなたの家の中をきれいに保つために必要なものは何か? と考えてほしい。
たとえば食材とか、生活必需品はきちんと届くと仮定する。
けれども、届いた必需品が玄関に置きっ放しではいけないだろう。これらを、「あなたが使う場所に運ぶ」という作業が必要だ。
また、暮らしていればゴミが出る。ほこりも出る。きれいにおそうじして、ゴミ袋にまとめる。この「ゴミをどこかに捨ててくる」のも、あなたの仕事である。
必要な物資が「ある」だけではだめ。
ゴミを「まとめる」だけではだめ。
食材は、放っておいても冷蔵庫には入らない。ゴミは、放っておいても勝手に誰かが捨ててくれたりしない。
家に住む人々が、自分で、食材を運んだり、ゴミをゴミ捨て場まで持っていかなければいけない。
例え話はここまでにして、話を人体に戻す。
体内では、食べ物やゴミを、どうやって運ぶのか?
食道から胃、十二指腸、小腸、大腸と続いていく管の中を食べ物が通り過ぎ、さまざまに消化・吸収されたのちに、便というコンパクトなゴミが完成する。
この食べ物やゴミを運搬するのは、「ぜんどう(蠕動)」という、消化管自体のうごきだ。消化管の壁には平滑筋という、われわれの意志とは関係なく動く筋肉が完備されていて、これが管を波立たせ、口側から肛門側へと一方通行の流れを作り出す。
よく考えると極めて高度なしくみだ。歯磨き粉のチューブを思い浮かべて欲しい。あなたは「平滑筋」になった気分で、チューブをぐいぐい押して中身を外に出そう。ただし、チューブの入口は一箇所ではない。チューブの両端に出口があると思って欲しい。さあ、うまく押して、「片側からだけ」歯磨き粉を出してみて欲しい。
これ、意外と難しいだろうと思う。食べ物や便を逆流させてはいけないというのは誰でもわかるだろう。求める機能は実にシンプルだ。しかし、それを「筋肉のしぼりだけで実現」するというのはいかにも高度ではないか。
実はこの「筋肉によってしぼりあげることで運搬するシステム」は、消化管だけではなく、いろいろなところに備わっている。たとえば、唾液腺の「導管」の周囲には筋上皮細胞という「しぼり」がある。乳腺の「乳管」の周囲にも、膵臓の「膵管」の周囲にも、腎臓から膀胱への道である「尿管」の周囲にも、みな、一方通行で物資を運ぶための「しぼり上げシステム」が存在する。
ずいぶんとマニアックな話をしているなあ、と思ったかな?
ではここで問題である。
「乳管」に似た形をしているけれども、周囲に「しぼり」を担当する筋肉がない状態……というのがありえる。
これは、いったい、なにか?
病理医が、そういう、「しぼり」のない管を見つけたら、なんと言うだろう。
「……乳がんだ……。」
しぼりがなければその管は正常に働けないのだ。正常に働けないくせに、正常の構造のふりをしてそこらじゅうに散らばっているもの。これはすなわち「がん」の可能性がある。
人体を支える機能はとても複雑で、それぞれに意味がある。その機能を「省略」しているものが平気でのさばっているとしたら、それは生体の秩序を乱す「がん細胞」かもしれない。ぼくらはときどき、そういう目で、顕微鏡を見ている。
2018年3月23日金曜日
脳だけが旅をする
LOSTAGEを聴きながら診断していたら日が暮れていた。ふとわれにかえったタイミングで、心の向こう側から自分の声がした。
(……そうだなあ、「自己責任」とか「自業自得」みたいなことばは、誰も救わないなあ。)
何時間か前に読んだブログの感想が、いまごろ頭に浮かんだのである。
へんな気分だ。タイムスリップをした気になった。
仕事をしている間、脳のほかの機能が停止していたのだろうか?
アイドリングしていた心の声が、よーいどんで飛び出してきたのだろうか?
このタイミングでこんなことを唐突に考えつくなんて、心の声というのは実に、不思議で、不如意だ。
ぼくはしばし、仕事の手を止めて、読んだブログに再度アクセスし、内容をもう一度読みながら、いくつか考え事をした。
心の声は、常日頃、どこにどうやって駐屯しているのだろう。
自分が意図しているいないに関わらず、ときどきぽっとやってきて、ぼくの思考を奪う。そんな思考の遊軍みたいな存在を、今日の記事では「心の声」と呼ぶことにする。
心の声は、脳にとって何か役に立つのだろうか?
立つだろうな。
「何かが降りてくる」とか、「ひらめく」とか、そういった現象は誰もがあこがれるものだと思う。自分の意志とはあまり関係なく、ふとした瞬間に突然聞こえてくる心の声。ときに硬直化した思考を拡張し、よりよく生き延びる可能性を上げてくれるだろう。
……まあ、心の声がいつもいつも役に立つわけではない。むしろ、取るに足らないナゾの思いつきに過ぎないことのほうが多いように思う。それもまた、いいんだろうな、たぶん。
無意識に、「自分の意志とはあまり関係なく」と書いていた。
そう、心の声は、「意志」とはちょっと違うように思う。
一般に、自分の意志で決めたことです、という場合、そこには「能動性」が含まれている。
けれど、心の声は、自分でも制御できないタイミングで、自分でも思いも寄らないような内容を、脳内に直接ぶちこんでくるようなイメージであり、能動とはちょっと違う。
そうだった、「中動態の世界」という名著をまた読み返してみよう。人間は、実は思ったよりも能動的には生きていないのだ、ということ。あの本を読んだぼくは何度も膝を打ったものだ。
PCをどんどんパワーアップさせ、ハードディスクの記憶容量をどんどん大きくすれば、あっという間に「人の脳が記憶できる容量」を超えることができる。
おまけに、「意志のようなもの」も、すでに現状のAI(人工知能)は搭載しているように思う。目標に向かって能動的に解析を進めていくことは、人間でなくてもできる。
もはや、脳の「記憶」と「能動的な作業」については、人間は機械に勝てない。
その一方で、「心の声」は、今のところ人工物には備わっていないと思う。
ときに突拍子もないことを、ときに脈絡もないことを思いつき、大事なデータをいくつかつまんで、もてあそびながらふわふわと考え、なんか別にどうでもよかったな、と思ってまた記憶にしまいこむような行動。
無駄が多く、きわめて人間くさい。ぼくはこの「心の声」こそが、「意識」というふしぎな現象の中核を担っているものなのではないかと思う。
散発的に放たれる心の声を少しずつ拾ってブログを書こうとする。2回に1回は、書いている内容がうまくおさまらない。まとめられずに発散したり、妙に収束してしまったりする。この作業を毎日のように繰り返して、自分が意志ある人間として何か為しているような気分になることもある。
けれど、今日の記事を書いてみてわかった。ぼくのブログは、必ずしもぼくの能動的な意志で書かれたものではない。たまたま縁あって、書ける状態が続いているぼくが、心の声にときどきせかされて、中動態的に「書かさってしまったもの(北海道弁)」を集めて置いてあるだけだ。
なるほどなあ。
きみはそんなことを考えていたのか。
心の声から連想した文章が、手首より先のあたりでかたかたとキータッチをしていくのを、ぼくの目が眺めて感心をしている。
(……そうだなあ、「自己責任」とか「自業自得」みたいなことばは、誰も救わないなあ。)
何時間か前に読んだブログの感想が、いまごろ頭に浮かんだのである。
へんな気分だ。タイムスリップをした気になった。
仕事をしている間、脳のほかの機能が停止していたのだろうか?
アイドリングしていた心の声が、よーいどんで飛び出してきたのだろうか?
このタイミングでこんなことを唐突に考えつくなんて、心の声というのは実に、不思議で、不如意だ。
ぼくはしばし、仕事の手を止めて、読んだブログに再度アクセスし、内容をもう一度読みながら、いくつか考え事をした。
心の声は、常日頃、どこにどうやって駐屯しているのだろう。
自分が意図しているいないに関わらず、ときどきぽっとやってきて、ぼくの思考を奪う。そんな思考の遊軍みたいな存在を、今日の記事では「心の声」と呼ぶことにする。
心の声は、脳にとって何か役に立つのだろうか?
立つだろうな。
「何かが降りてくる」とか、「ひらめく」とか、そういった現象は誰もがあこがれるものだと思う。自分の意志とはあまり関係なく、ふとした瞬間に突然聞こえてくる心の声。ときに硬直化した思考を拡張し、よりよく生き延びる可能性を上げてくれるだろう。
……まあ、心の声がいつもいつも役に立つわけではない。むしろ、取るに足らないナゾの思いつきに過ぎないことのほうが多いように思う。それもまた、いいんだろうな、たぶん。
無意識に、「自分の意志とはあまり関係なく」と書いていた。
そう、心の声は、「意志」とはちょっと違うように思う。
一般に、自分の意志で決めたことです、という場合、そこには「能動性」が含まれている。
けれど、心の声は、自分でも制御できないタイミングで、自分でも思いも寄らないような内容を、脳内に直接ぶちこんでくるようなイメージであり、能動とはちょっと違う。
そうだった、「中動態の世界」という名著をまた読み返してみよう。人間は、実は思ったよりも能動的には生きていないのだ、ということ。あの本を読んだぼくは何度も膝を打ったものだ。
PCをどんどんパワーアップさせ、ハードディスクの記憶容量をどんどん大きくすれば、あっという間に「人の脳が記憶できる容量」を超えることができる。
おまけに、「意志のようなもの」も、すでに現状のAI(人工知能)は搭載しているように思う。目標に向かって能動的に解析を進めていくことは、人間でなくてもできる。
もはや、脳の「記憶」と「能動的な作業」については、人間は機械に勝てない。
その一方で、「心の声」は、今のところ人工物には備わっていないと思う。
ときに突拍子もないことを、ときに脈絡もないことを思いつき、大事なデータをいくつかつまんで、もてあそびながらふわふわと考え、なんか別にどうでもよかったな、と思ってまた記憶にしまいこむような行動。
無駄が多く、きわめて人間くさい。ぼくはこの「心の声」こそが、「意識」というふしぎな現象の中核を担っているものなのではないかと思う。
散発的に放たれる心の声を少しずつ拾ってブログを書こうとする。2回に1回は、書いている内容がうまくおさまらない。まとめられずに発散したり、妙に収束してしまったりする。この作業を毎日のように繰り返して、自分が意志ある人間として何か為しているような気分になることもある。
けれど、今日の記事を書いてみてわかった。ぼくのブログは、必ずしもぼくの能動的な意志で書かれたものではない。たまたま縁あって、書ける状態が続いているぼくが、心の声にときどきせかされて、中動態的に「書かさってしまったもの(北海道弁)」を集めて置いてあるだけだ。
なるほどなあ。
きみはそんなことを考えていたのか。
心の声から連想した文章が、手首より先のあたりでかたかたとキータッチをしていくのを、ぼくの目が眺めて感心をしている。
2018年3月22日木曜日
病理の話(182) コントロールがないとカリン様もなやむ
たまに顕微鏡をみるときの話もしよう。
……今の1行目を読んだだけで、今200人くらいがブラウザを閉じた。
カリン様「なんと わかるのか! それが……」
悟空「オラ、(閉じた人々を)退治に行ってくる!」
突然のカリン様と悟空はほっといて話を先に進める。
病理診断のうち、組織診(そしきしん)と呼ばれる領域では、ぼくら病理医が顕微鏡で細胞をみて、診断を行う。病気かそうでないか、病気だとしたらどれくらい悪いものなのか、どれくらい進行しているのかなどを、見た目で判断する。
見た目ってつまり、主観だよな?
病理医の主観、すなわち胸先三寸で細胞の良悪を決めて、患者の人生を予測したり、治療を決定したりしてよいものなのか?
病理医が悪だと言ったら悪……。それって、危険ではないか?
……なんてことを、当の病理医も考えている。病理医だけではなく、一般に「形態診断」と呼ばれる、臓器や病変のかたちを見て診断している人たちはみんな同じ悩みを抱えている。「主観をできるだけ排除して、客観的な判定をするには、どうしたらいいだろう」。
例をあげよう。
「細胞の核がでかくなっていると、その細胞は悪性であることが多い」。これは事実だ。
では、具体的に、細胞の「核がでかい」というのを、どう判断するのか?
顕微鏡をみた病理医が、「あっなんか今日は大きく見えるぞ」と言ったら悪性なのか?
ここで登場するのが「コントロール」という概念だ。
ぼくらが普段もちいているコントロールという言葉は、主に操作するという文脈で用いられると思うが、今回は違う意味で使っている。日本語にすると……「比較する対象」だ。「比較する基準」でもいい。
細胞核の大きさは、観察視野の中にたいてい含まれている「リンパ球」とか、周囲に存在する「間違いなく正常の細胞」と比べることで評価すればよい。
「リンパ球をコントロール(比較対象)にすると、この細胞の核は……直径が、リンパ球の核の3倍くらいあるなあ。だいぶ核腫大が起こっているということだな。」
「正常の腎臓尿細管上皮細胞をコントロール(基準)とすれば、このがん細胞の核は……直径が、正常細胞の2倍くらいあるから、だいぶ増殖活性が高いのだな。」
コントロールをきちんと置いて、比較することで、誰がみても「ああ、そうだな、大きいな」と判断できるようになる。
ぼくらは顕微鏡をみて様々な主観を発動している。その主観を主観で終わらせず、「誰がみてもその通りだと納得してもらえるように、客観的に記載する」作業こそが病理診断の根本にある。コントロールなんてのはその好例だ。
でも、もっというと、コントロールを置くことが大事だけど、それ以上に、「きちんと客観性を保って診断しました」と、声に出して相手に届けることがもっと重要なのである。
「核がでかい……と書きたいけれど、これは主観だなあ。よし、核が正常細胞の2~4倍くらいに大きくなっている、と書こう。これならみんなわかるだろう。」
「免疫染色でHER2陽性……と書きたいけれど、もっと客観的に書こう。ええと、観察範囲のほぼすべてにおいて、がん細胞の細胞膜、とくに管腔面に沿って染色性がみられるから、HER2は3+(陽性)と判定します、と書こう。」
「大腸粘膜に中等度の炎症……と書きたいけれど、軽度とか中等度とか高度をどうやって判定しているかも書いておこうかな。粘膜固有層の表層から深層までムラなくびまん性にリンパ球や形質細胞が浸潤しており、複数箇所で陰窩の上皮内にも好中球浸潤がみられるが、表層上皮の剥離までは呈していないから、中等度の炎症です。これでまあわかってくれるんじゃないかな。」
主観で決めてるんじゃないんだ、と宣言する上でもっとも重要なのは、「自分がこう診断した理由を客観的に記載できる文章力」かなあと思う。
……実際には、毎回診断のたびに客観性を示す文章を長々と書くと、冗長になる。読む方もうんざりする。だから、ある程度省略することになる。ただし、省略するのが許されるのは「臨床医に信頼されている病理診断」だけだ。
臨床医が、
「あいつは普段は文章あまり書かない病理医だけどさあ、いざってときにはきちんと文章で説明してくれるからさあ、きちんと客観的に見てると思うんだよな。だから今回はこの診断書の『がんです。以上』を、信じるよ。特に説明が書いてなくてもな。」
と信じてくれているときのみ、ぼくらは「短い診断書」を書くことを許される。
……今の1行目を読んだだけで、今200人くらいがブラウザを閉じた。
カリン様「なんと わかるのか! それが……」
悟空「オラ、(閉じた人々を)退治に行ってくる!」
突然のカリン様と悟空はほっといて話を先に進める。
病理診断のうち、組織診(そしきしん)と呼ばれる領域では、ぼくら病理医が顕微鏡で細胞をみて、診断を行う。病気かそうでないか、病気だとしたらどれくらい悪いものなのか、どれくらい進行しているのかなどを、見た目で判断する。
見た目ってつまり、主観だよな?
病理医の主観、すなわち胸先三寸で細胞の良悪を決めて、患者の人生を予測したり、治療を決定したりしてよいものなのか?
病理医が悪だと言ったら悪……。それって、危険ではないか?
……なんてことを、当の病理医も考えている。病理医だけではなく、一般に「形態診断」と呼ばれる、臓器や病変のかたちを見て診断している人たちはみんな同じ悩みを抱えている。「主観をできるだけ排除して、客観的な判定をするには、どうしたらいいだろう」。
例をあげよう。
「細胞の核がでかくなっていると、その細胞は悪性であることが多い」。これは事実だ。
では、具体的に、細胞の「核がでかい」というのを、どう判断するのか?
顕微鏡をみた病理医が、「あっなんか今日は大きく見えるぞ」と言ったら悪性なのか?
ここで登場するのが「コントロール」という概念だ。
ぼくらが普段もちいているコントロールという言葉は、主に操作するという文脈で用いられると思うが、今回は違う意味で使っている。日本語にすると……「比較する対象」だ。「比較する基準」でもいい。
細胞核の大きさは、観察視野の中にたいてい含まれている「リンパ球」とか、周囲に存在する「間違いなく正常の細胞」と比べることで評価すればよい。
「リンパ球をコントロール(比較対象)にすると、この細胞の核は……直径が、リンパ球の核の3倍くらいあるなあ。だいぶ核腫大が起こっているということだな。」
「正常の腎臓尿細管上皮細胞をコントロール(基準)とすれば、このがん細胞の核は……直径が、正常細胞の2倍くらいあるから、だいぶ増殖活性が高いのだな。」
コントロールをきちんと置いて、比較することで、誰がみても「ああ、そうだな、大きいな」と判断できるようになる。
ぼくらは顕微鏡をみて様々な主観を発動している。その主観を主観で終わらせず、「誰がみてもその通りだと納得してもらえるように、客観的に記載する」作業こそが病理診断の根本にある。コントロールなんてのはその好例だ。
でも、もっというと、コントロールを置くことが大事だけど、それ以上に、「きちんと客観性を保って診断しました」と、声に出して相手に届けることがもっと重要なのである。
「核がでかい……と書きたいけれど、これは主観だなあ。よし、核が正常細胞の2~4倍くらいに大きくなっている、と書こう。これならみんなわかるだろう。」
「免疫染色でHER2陽性……と書きたいけれど、もっと客観的に書こう。ええと、観察範囲のほぼすべてにおいて、がん細胞の細胞膜、とくに管腔面に沿って染色性がみられるから、HER2は3+(陽性)と判定します、と書こう。」
「大腸粘膜に中等度の炎症……と書きたいけれど、軽度とか中等度とか高度をどうやって判定しているかも書いておこうかな。粘膜固有層の表層から深層までムラなくびまん性にリンパ球や形質細胞が浸潤しており、複数箇所で陰窩の上皮内にも好中球浸潤がみられるが、表層上皮の剥離までは呈していないから、中等度の炎症です。これでまあわかってくれるんじゃないかな。」
主観で決めてるんじゃないんだ、と宣言する上でもっとも重要なのは、「自分がこう診断した理由を客観的に記載できる文章力」かなあと思う。
……実際には、毎回診断のたびに客観性を示す文章を長々と書くと、冗長になる。読む方もうんざりする。だから、ある程度省略することになる。ただし、省略するのが許されるのは「臨床医に信頼されている病理診断」だけだ。
臨床医が、
「あいつは普段は文章あまり書かない病理医だけどさあ、いざってときにはきちんと文章で説明してくれるからさあ、きちんと客観的に見てると思うんだよな。だから今回はこの診断書の『がんです。以上』を、信じるよ。特に説明が書いてなくてもな。」
と信じてくれているときのみ、ぼくらは「短い診断書」を書くことを許される。
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