2018年4月27日金曜日

病理の話(195) 富嶽三十六景を病理診断する

顕微鏡をみたときに、みたものをどういう言葉で表現するか。それを読んだ人が、何を思い浮かべるのか。

これを、ひとつの絵を例に挙げて説明しようと思う。お題は「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」である。誰もが知っているあの有名な絵だ。


(画像はWikipediaからの引用)(おこられたら消しますごめんね)


1.ある人の説明

 ・神奈川の沖から富士山をみた絵です。富士山をモチーフとした一連の浮世絵の一枚で、とても有名です。

2.ある人の説明

 ・葛飾北斎「富嶽三十六景」の一枚です。波にゆられる舟、遠くに見える富士山が印象的です。

3.ある人の説明

 ・波の上に舟が3艘あって、そこにへばりついている人の表情がとても気になります。富士山は小さいです。

4.ある人の説明

 ・波しぶきがまるでシャッタースピードをすごく短時間にした現代のカメラで撮ったようで、葛飾北斎の目ってのはいったいどうなってんだと驚きます。



たとえばあなたなら、もっとうまく言い表せるかもしれない。あるいはあなたが絵の専門家なら、ぼくの知らない専門用語も用いて、もっと高度な解説ができるかもしれない。

ただ、1枚の絵を言い表すにはさまざまなやり方があって、どれが正解とよべるものではないというのは、わかっていただけるのではないか、と思う。


その上で。



顕微鏡で画像を眺めたときに、病理医がレポートに書くべきポイントは、(ぼくの個人的な意見ではあるが)以下の2つに集約されると思っている。

 1)この絵は結局どういうタイトルなのか。どういう絵に分類されるのか。

 2)まだこの絵をみていない人に、文章だけで、絵のだいたいの雰囲気が伝えられるだろうか。

1が、主診断文。
2が、所見文と呼ばれるものだ。

忙しくて要点だけを掴みたい臨床医(?)には、「主診断文」をとにかく読んでもらう。
そして、自分の患者に対する情報をとにかく事細かに知りたい、病理まで踏み込んでじっくり考えたい人むけに、「所見文」をしっかり書いておく。

両方用意してあるレポートが、よい病理診断報告書だと、ぼくは思っている。ただ、これは読み手のニーズに応じて調整すべきものでもある。

その上で。臨床医のニーズが「とことん所見を書いてくれ!」だったときに、ぼくが普段書く病理診断がどんな感じなのかを、富嶽三十六景の描写になぞらえて、以下、やってみる。先に言っとくけど長いよ。




診断:  葛飾北斎, 富嶽三十六景, 神奈川沖浪裏。

所見:
 多色刷りの木版画が提出されています。
 葛飾北斎の連作浮世絵、富嶽三十六景の一枚、神奈川沖浪裏と診断いたします。規約事項は以下の通りです。
  ・感動度:高度
  ・知名度:85%
  ・思わず語彙が:減る

 以下に詳細な観察所見を記載します。

 全体像: 「海上から、富士山の方向を見た風景」を想定して描かれた絵です。やや黄ばんだ紙に、海の波と、波にもまれる舟、そして波の向こうに遠く小さく富士山が刷られています。左上にタイトルが記載されており、神奈川沖浪裏、とあります。
 構図: 富士山をモチーフとした連作ながら、版画内に描かれている総量としては富士山よりも波の方がはるかに多く観察されます。画面の下3分の1は海で、その波は激しく猛って海面がへこんだり盛り上がったりしています。盛り上がりのうち最も激しいものは画面の左上に鎌首をもたげるかのような大波として描かれ、この波が画面中央から右側に向けて白くはじけて波しぶきとなっています。波しぶきは一つ一つが独立した中小の点(あるいは小楕円)として描かれており、あたかも実際の波を高速度写真で撮影したかのようで、「一瞬を切り取った絵」であることをはっきり意識させられます。鎌首をもたげる大波を含めたすべての海面は、画面の下1/3から左側にむけて複数の円弧を形成し、円弧の中心の部に遠方に望む富士山が小さく描かれています。
 拡大所見: 波間には舟が3艘描かれています。これらは当時活魚輸送などに使われた押送船であり、3艘の船の上には合計30人程度の男性が小さく描かれています。彼らは一様に、身を小さくして船のへりにへばりついており、船が波に大きくもまれて振り落とされるのをおそれしがみついているのだろうと推察できます。富士山は山頂に多くの雪をたたえ、全体が明るく影のない状態として描かれています。葛飾北斎の他の作では、時刻や太陽の角度に応じて富士山に細かく陰影を付ける技法が用いられていることから、おそらく観察者の背側から光が当たっている早朝もしくは夕暮れの時刻を描いていると推察でき、神奈川沖から富士山を眺めているとするならば本例は早朝の風景であると考えられます。富士山の裾野付近は波と同系列の深い青で塗られており、富士山がはるか遠方にあることを示唆します。なお、前述した波しぶきは遠方の富士山に「降りかかるように」描かれており、あたかも富士に降りそそぐ雪のような印象を絵に与えています。画面全体から寒々とした冬の海の印象を受ける一因であるとも考えられます。

添付画像1:ルーペ像。
添付画像2:署名部、拡大像。
参考:「逆巻く波の向こうに一瞬富士山が見えた瞬間」を描いた構図のダイナミックさ、遠近法、時間の描写などいずれも秀逸で、日本を代表する絵画として海外でも高く評価されています(参考文献:The British Museum Collection Online)。

(2018/04/19 病理診断医 市原 真)



あ、浮世絵の解説はもちろんですがWikipediaに教えてもらっただけです。ぼくそんなに浮世絵にくわしくないからね。

2018年4月26日木曜日

本は無慈悲な旅を所望

ハインラインの長編SFを買ってから数ヶ月経つ。まだ読んでいない。

定期購読の雑誌(「胃と腸」とか「本の雑誌」)、マンガ、タイムラインでおすすめされた本などを順番に読んでいると、あっという間に1か月くらい過ぎていく。



この数か月間、実は長期の出張がほとんどなかった。

釧路出張は、飛行機のフライト時間が40分ちょっとしかないからまとまった本を読む気がしない。

一度だけ岡山出張があったのだが、このときは行きの飛行機の中でもずっと講演のプレゼンを直していたので本を読めなかった。

ちょっとだけ空いた時間もあったのだが、スマホのKindleで「ぱらのま」とか「ゆるキャン△」を読んでいたら過ぎ去ってしまった。



できれば東京より西の地域に月3回くらい出張したい。そしたら、フライト時間がいっぱいあるから、もっと長編の本が読めるだろうなあ。



自分でこういうことを考えていて、いや、ま、別に、家で寝る前とかに読めばいいのでは? と自らつっこみ、ここのところ少し試してみた。寝る前の読書。

だめだった。寝る前に読書をするとそのまま寝てしまう。

この時間に読書をするのはやめろ、そのまま睡眠にあてなさい、と肉体が判断している。

これに対し、飛行機の移動時間は、「読書にあてたらいい。それはよい。」と、肉体がお許しくださっているのだろう。

肉体さまが他におゆるしくださるような、本を読んでよいタイミングというのは、いつだ。




以前に野田知佑氏の話を書いたかもしれない。彼はエッセイ「ユーコン川を筏で下る」の中で、ユーコンのほとりでジャック・ロンドンの伝記「馬に乗った水夫」を読んでいた。ぼくはそのシーンがとてもかっこいいなあと思い、自分でも「馬に乗った水夫」を購入して読んでみた。しかし、翻訳はそこまで硬くないのだけれどもあれはおそらく原文が硬いのだろうな、移動時間が極めて短い「仕事旅」の最中にはなかなか読み進めなかった。読み終わるのに1か月以上かけてしまった。

そのとき思った。そうだ、ぼくもゆっくり川下りをすれば本が読めるかもしれないと。読みたい本を読むために、出張のときに毎回川下りをするというのはどうだろうか?

どうだろうか? じゃない。そんな出張はありえない。しかし、川下りとまではいわないが、出張の際に似たような「スロー旅」をやっているドクターにはしばしば出会う。

たとえば新潟にいる拡大内視鏡の権威は、講演でどこかに呼ばれるたびに、旅程の一部(特に帰路)を鈍行で組み、3時間とか6時間という移動時間をわざわざ用意して、渓谷とか海沿いなどをゴトゴト走る列車でゆっくりとした時間を過ごして癒やされるのだという。釧路で講演があったら、翌日は釧路からすぐ帰らずに、釧網線というローカル鈍行にのって網走まで移動し、女満別空港から帰る、といった塩梅だ。すばらしい。ぼくもそういう立場になりたい。出張のたびにゆっくりと鈍行列車に乗りながら本を読むなんて最高だ。

最高だ、が、それをやるには結局、偉くならないといけない。ぼくは本を読むために偉くなろうと思う。

2018年4月25日水曜日

病理の話(194) 患者の幸福とは何だ

医療の目的はなにか。

「患者の幸福」というのがまあ一番なんじゃないかな。

これに反論する人もいるかもしれないけれどいったんおいとく。

で、「患者の幸福」の定義は、それほど簡単ではない。



たとえば、糖尿病という病気は、

 ・食後などにおいて血糖値が高め

 ・だけど特に症状とかはない

という時期が、比較的長く続く。

この時点で、血液検査などによって”ひっかかる”ことが多い。

ひっかかるというのもまた一筋縄ではいかない言葉だ。なんとなく投げやりなニュアンスを含む。

ひっかかった人はどう思うかというと……。

「えっ、俺、病気なの?」

「なんともないのに?」



そこに医者からコメントが入る。

「このままの状態を続けると、いずれやばいですから。食生活を見直しましょうね。運動をしましょうね。」




この一連の流れは、患者にとって「幸福」だろうか?

とつぜん病気だといわれて生活を制限されるのだから、ま、ちっとも幸福ではないように思える。



医療を巡る諸問題のキモはここにあると思う。

患者は「今幸福なんだから、ほっといてくれ」と思う生き物だ。

けれども、医療者は、

「将来その幸福がごっそり減ることが ”予想される” から、今から対策をして、将来できるだけ不幸にならないようにしようぜ」

と提案したい生き物である。




冒頭、ぼくはこのように書いた。

 医療の目的はなにか。

 「患者の幸福」というのがまあ一番なんじゃないかな。



でも医療者からすると、こう書きたくなるのだ。

 医療の目的はなにか。

 「患者の現在および将来における幸福」。ただし幸福は相対的である。




医療者というのは多くの患者と触れるうちに、

「この患者にこれをしないとあとでつらくなる」

「この患者にあれをやめさせないとあとがきついぞ」

「その患者にこう介入しなければ将来不幸になる」

「この患者はどのみち不幸になっていくのだが、それでもこれをすることで、いちばん軽い不幸でおさまる」

というように、「将来の予測」を自然と用いるようになる。

ところが患者にはこの「予測」がわからない。将来を実感できない。

「タバコやめないと苦しんで死にますよ、だって? ハッ、人間だれだって死ぬときは苦しまァ!」

と豪語した元気な中年男性が、のちに重度の肺気腫で「おぼれながら毎日を過ごす」ようになる、ということを、医療者はなんとなく予測して、ぼそりとつぶやく、「だから言ったのに」。

一方、まだ肺気腫がそれほどひどくなっていないころ、タバコを吸い続けながら「医者のいうことなんざ笑い飛ばしてやったよ!」と笑い飛ばしていた人は、その瞬間、あるいは幸せだったかもしれない。

「そんな幸せはにせものだ」と、あなたは言えるだろうか?

患者の幸福とはなんだ?





将来のことは誰にもわからない。医者だってわかっているのは確率だけだ。

まだサイコロをふってもいない状態から負けると決めつけて、負けに備えて準備をしなさい、そのために今の幸せを少し削りなさいとはどういうことだ、といいたくなる患者の気持ちもわかる。





ぼくは、医療の目的を真に達成するためには、患者の現在と将来を、患者と医療者が「二人三脚で予測」して、どの段階での幸せを優先するかしっかり話し合うことが必要だと思う。

 ・現在だけではだめだ。医療者は将来がみえる。現在ばかり気にしている患者をみると、「将来をみろよ」といいたくなる。

 ・将来だけではだめだ。患者は今に生きている。将来ばかり気にしている医療者をみると、「今の俺をみてくれよ」といいたくなる。






問おう。

安楽死ということばは、「死という将来、あるいは死後という将来」のために行うことか?

それとも、「現在の生」のために行うことか?

なぜ医療者の多くは安楽死に反対するのか?

なぜ患者の多くは安楽死を導入したほうがいいと思っているのか?

2018年4月24日火曜日

覇王丸「アッタマにきたぜぇ」

腹筋が弱ってきたので、油断をすると、腹がぽこんと出る。

頚椎症なので、油断をすると、手がしびれる。

だからいつも油断をしないようにふるまっている。

あたかも隙がないようにふるまっている。

背筋をのばして、武術の達人のような姿勢でPCに向かう。

仕事をする。諸事、侍の気分だ。

律すればうまくいく。

律しよう。

なんだかそうやってがちがちにしていないと、腹は出てくるし、手はしびれてくるしで、仕事中に気が散ってしょうがない。




休みにソファでのんびりうつぶせに寝転んで本を読んでいたのだが、だんだん首がきつくなってきたとき、「あっ」と思った。

昔は長時間寝転んで本を読むことになんの不自由もなかったけれど、今のぼくは、「長時間ゆっくりすること」が体力的に厳しくなっている。

姿勢をかえた。あおむけになる。本を持ち上げる。

どうにも腰や首が落ち着かないが、これでしばらくがまんをする。

うーん、のんびりするのって体力がいるんだな。

根負けする。ソファにきちんと座り直す。足も組まずにまっすぐ背中を伸ばす。

本を前にかかげて読み続けた。まるで儒学の徒のような気分だ。




祖父が好きだった時代劇を、祖父が亡くなったあと、ぼうっと見ていた。昔は今と違って夕方などにときどき時代劇というドラマをやっていたのだ。

時代劇に描かれる武士や僧侶などは、夜、うすぐらい灯りのもとで、きれいに正座して本を読んでいた。ぼくはそれを寝転びながら見て、

「昔の人って本読むときにあんなに真剣にならなきゃいけなかったんだな、たいへんだな、今みたいに寝転んでマンガ読めるのは幸せだな」

などと思っていた。

けれども、今になって思う。




中年は寝転んでマンガを読むのがつらい。

一事が万事、「サムライ化」しないと、いろいろと不具合が出る。

ぼくはあの時代劇はきちんと中年を描いていたのではないか、などと今になって思うのだ。

2018年4月23日月曜日

病理の話(193) 細胞を書くにはことばが肝心

「異型腫瘍細胞が異型腺腔構造を形成して増殖する腺癌です。」

病理報告書に、たとえばこういう説明文が書いてあるとする。

あなたが非医療者であれば、なんのこっちゃ? であろう。専門用語だからね。

でも、実は、あなたが担当医であっても、なんのこっちゃ? となる。

この文章、医者じゃないからわからないのではない。医者であってもわからない。病理というのはそういう世界だ。

さらにいうと、仮にあなたが病理医であっても、この診断文を読むと「なんのこっちゃ?」となるかもしれない。




いきなりいじわるをしてしまった。

今の文章は、厳密にいえば、不適切な診断文なのである。

実際に診断の現場でいろんなレポートを読むと、こういう文章に出会うことはままある。

あるが、十分に経験を積んだ病理医がこういう文章を書くことはまずない。




この文章の何がおかしいのかをちょっと考えてみよう。

「異型腫瘍細胞が異型腺腔構造を形成して増殖する腺癌です。」




2回用いられている「異型」がまず気になる。

異型とはなんだ。

異なる型、と書くから、何かのかたちが違うんだろう、くらいの想像はつくことだろう。



Q1.かたちが違うというのは、何と比べて?

  A1.正常の、そこにあってよい細胞と比べて。

Q2.かたちが違うというのは、どのように?

  A2.正常の臓器にあってよいかたち、あってよくないかたちというのがある。

Q3.かたちが違うということは、何を意味する?

  A3.それが、がんかもしれないということ。ただ、がんでなくても、異型が出ることはある。


「異型」という短いことばにはこれくらいの「含み」がある。

そもそもは、「がんの可能性があるとき」にまず用いることばである。

ただ、異型があるというだけでがんだと言い切ることはできない。


ということは、だ……。

冒頭の、

「異型腫瘍細胞が異型腺腔構造を形成して増殖する腺癌です。」

を、詳しく説明すると、このようになる。

「がんかもしれないけれどがんではないかもしれない、かたちの違いを有する腫瘍細胞が、がんかもしれないけれどがんではないかもしれない腺腔構造を形成して増殖する、(腺癌という)がんです。」




なんじゃこりゃ。

長ったらしく説明したのはいいけれど、結局、「がん or not? がん or not?」と迷わせておいて、最後に突然ドーンと「がんです」と書いてあるだけの文章ではないか。

例えてみればこういう文章なのだ。

「悪人面をした人が悪人っぽい服を着ています。ヤクザです。」

お、おう、ってなもんだ。根拠はどこに書いてあるのだ。偏見と主観のかたまりではないか。

こんなものを診断とは呼ばないのである。




異型ということばは、それ単独では、むしろ迷いしか生まない種類の言葉だ。

「どのような」異型なのか、それが「どれくらい」がんっぽいのかを説明しないまま、手を抜いて「異型がある」とだけ書いても、読んでいるほうからすると、情報が増えない。

”読んでいるほうからすると、情報が増えない” というのは、「いやな病理診断」を考えるときのひとつのキーワードである。

病理診断なんて、自分がわかってりゃいいじゃねぇかよ、は、完全にダメとはいわないが、ぼくはおすすめしない。




ここまでの文章を読んで、一部の、病理を研修している初学者などは、ぎょっとするかもしれない。

「えっ、異型ってことばを使っちゃいけないの?」



使い方が肝心なのだ。

異型ということばを使うならば、自分の立ち位置を明確にせよ。

「がんか、がんじゃないか、わからない」と本気で思ったならそう書けばよい。

しかし、最後に「がんだと思う」と書くつもりならば、読んだ人が「なるほど、がんだな」と納得できるだけの説明を、きちんと書かなければいけない。

異型という、一見べんりで、かつ何もいっていない言葉を用いるにはコツがいる。

たとえば、こうだ。



「核の大小不同や核小体の明瞭化、核膜の不整、核の輪郭の不規則さが明らかな異型核と、偏在した微細顆粒状の細胞質を有する上皮細胞が、gland-in-glandやback-to-backなどの構造異型を有する腺管構造を構成して浸潤性増殖する像がみられます。腺癌です。」




あなたが非医療者であれば、なんのこっちゃ? であろう。専門用語だからね。

でも、実は、あなたが担当医だと、「おっなるほど。ちゃんと見てくれてるんだな」くらいに変わる。

そしてこの文章、仮にあなたが病理医であれば、「うん、確かにがんだね。」と読める。




まずはここからだ。

ここから、順番に、「担当医がもっとよくわかる文章」を目指し、最終的には「非医療者にもわかるような文章を書くべきタイミング」というのをはかるようになっていく。

2018年4月20日金曜日

あたりまえだけど12月は寒い

北海道はいつ暖かくなるんですか、と問われたとき、答え方に少し苦労した。

「もうあったかいじゃないか。」

ぼくはそういいたかった。

4月の頭。いつもなら多少残っていてもおかしくない路肩の雪は、今年はすっかり解けてしまっていた。年によってはゴールデンウィーク直前まで根雪が残ってしまうこともあるのに。今年はあっさりだな、暖かいなあ、という感想しかなかった。

でも、まあ、確かに。

朝夕にはコートがかかせない。風は身を切る冷たさで。

これは一般的には、「まだあったかくない」という状態だろう。

「いつあたたかくなるのか」という質問に対し、残雪がないからもうあたたかい、では回答になっていない。

基準は、気温だ。

あたりまえだ。

あたりまえだけど。

ぼくの主観では、「残雪がなければそれはあたたかい」なのだった。

ぼくはなぜか不機嫌になっていた。




北海道はいつ暖かくなるのだろう、ということを、「他人の基準」で考える。

「ゴールデンウィークでも夜半に寒いなって思うことはあるんだよ。」

「ええー、さすが北海道ですねえ。」

うん、無事、会話はうまくいった。








「リキッド・レインボウがやってきて、俺たちみんなを助けてくれる。

リキッド・レインボウがやってきて、俺たちみんなを助けてくれる。」




ぼくはSuiseiNoboAzというバンドの「liquid rainbow」という曲は相当な名曲だと思う。

歌詞を引用するなと怒られたらごめんねってして記事ごと削除しよう。

このあたりは主観で決定されていく。

ていうかもう何年も12月なんじゃないか。

2018年4月19日木曜日

病理の話(192) 病理入門編

それぞれ学習の進度が異なる研修医のみなさんを眺めていると、病理診断というものが、当初医学生や研修医たちにどのように思われており、それがどうやってプロの仕事に近づいていくか、という過程を眺めているような気持ちになってなかなかおもしろいのである。


まず、病理にはじめてやってきて、学生実習以来はじめて顕微鏡をのぞく人は、顕微鏡のクオリティに驚く。

実習で使った顕微鏡とは見え方がまるで違うのだ。よく見える。はっきり見える。びしびしピントが合う。なんだかボタンがいっぱいついている。

横からぼくがやってきて、少し光量を落とすことを教える。解像度のよい顕微鏡は、あまり明るくしなくても細胞がきちんと見える。光量が強いとすぐ目が疲れてしまうから、疲れないように。

自分でハンドルを動かしてみて、あまり酔わないことに気づく。

なぜ酔わないのだろう。レンズがいいからだろうか。

実は、「光軸の設定」が完璧だと、酔わない。というか、実習で使っている安い顕微鏡は光軸がずれており、いわゆる「乱視」みたいな状態になっていることが多いので、しばらく見ていると酔ってしまうことが多いのだ。

あれを顕微鏡だと思わないでほしい。

病理の最初は、まず、「顕微鏡ってすげぇんだな」を知るところからはじまる。



そして、ひととおり顕微鏡で遊んだ後、ぼくのしゃべる内容にほとんど顕微鏡の話が出てこないことに気づく。これが第二段階だ。

病理診断は顕微鏡をみる前に9割終わっているのだ、ということを理解してもらう。

病理診断学は、顕微鏡診断学とイコールではない。

病理診断学の一部に顕微鏡診断学があるに過ぎない。

そのことに、きちんと「ショック」を受けてくれる研修医は伸びる。

「顕微鏡をみる前に、あるいはみている最中も、ほかにやることがいっぱいあるんですね。」

これをわかってくれると、病理部の存在が単なる「顕微鏡屋」には見えなくなってくる。



その上で、病理診断報告書の書き方を学ぶ。

「箇条書き」と揶揄されるレポートの中には、統計学の番人たる病理医の矜持が籠められていることを知る。

「病理医にしかわからない自己満足の長文解説」が、臨床医や患者と離れた場所で病理医が担保しなければいけない診断均てん化に果たす役割を学ぶ。

そして、「臨床が求める美しいレポート」のありようを探る。

読みやすく、かつ、文章を追うだけでまるで顕微鏡像が思い浮かぶような「名文」を考える。

名文の先にある「神報告書」だと、なんと文章を読むだけで臨床医がみていたCT, MRIなどの画像情報や、患者さんの顔色までが見えてくるのだ、ということを知って、笑う。



いいレポートを書きたい、と思ったら、顕微鏡の見方が洗練されてくる。

教科書に載っている典型像を、必死で顕微鏡で探すだけの、「絵合わせ診断」は卒業だ。

何がみえたらまずいのか。何を探してみつけに行くのか。そういったことを考えて顕微鏡をみるようになる。




「いいなあ病理医は、細胞だけみてりゃいいんだから」とイヤミをいってくる臨床医の気持ちを忘れないうちに。

臨床医がなぜ、病理医に対してそんな卑屈な感情を抱くに至ったのか、思いを巡らせ。

臨床医がいつか、「あの病理医に細胞をまかせておけば安心だ」という日がくるように。

どうしたらよいコミュニケーションがとれるかを夢想する。




臨床医と良好な関係を築けるような病理医を目指しているある日、病理学の教科書が気になる。

そこには、しばしば、臨床医の方を全く向かずに、顕微鏡だけで組み立てた「真実」が載っている。

そういうものが、むしろ、逆に、気になってしょうがなくなる。

医師免許をとりながら、あえて顕微鏡の世界だけに暮らした人々というのがいる。

臨床医とがっちり会話しながら、患者に思いを馳せる病理学はとても楽しい。そんなこと、昔の病理医だってわかっていたはずなのに。

なぜ昔の病理医は、「ただひたすらに顕微鏡をみること」を、そんなにおもしろいと思えたのか?

……逆に、気になってくる。

だから読む。しばし読む。じっくりと読む。

行間から、「どうだ、病理学だぞ」というプライドのようなものが立ち上がってくる。

その奥に、本当に繊細なプロの仕事がみえてくる。




このブログを毎日欠かさず読んでいる人というのは、全国に1000人くらいしかいらっしゃらない。たったの1000人だ。

その中に、病理の研修をしている研修医というのが何人含まれているだろうか。

もしかしたら1人もいないかもしれない。それでもいちおう、書いておく。




あなたは今日の記事の、どこに一番「共感」したくなったろうか。

必ずしも順番が一緒ではないかもしれない。

あるいはひとつも共感できなかったかもしれない。

でも、たいていの病理研修医たちは、これらをある程度順番通りに通過していく。

病理医の人生みたいなものが、おぼろげに見えてくる気がして、とてもおもしろいなあと思う。