2020年9月30日水曜日

そういえばカウボーイビバップもみてたわ

アニメをそんなにいっぱい見ていないので、アニメをきちんと履修している人からしばしばアニメをおすすめしてもらう。


お前はまず攻殻機動隊のイノセンスを見ろと言われている。あと、蟲師を見るべきだと言われた。小林さんちのメイドラゴンを見ろと言われた。四畳半神話体系を見ろと言われた。ほかにもいろいろと言われた。


なるほどなーと思うし、きちんと見たら「うれしいに決まってる」ことまでわかっている。


とりあえず空き時間をつぎはぎしているうちにいつかたどり着くだろうと思っている。




これまで見てきたアニメってなんだろうと思った。先日ポッドキャスト「いんよう!」の中では、自分が子どものころに見ていたアニメを中心に、ドラえもんガンダムドラゴンボールワタルエヴァンゲリオンパトレイバーくらいまでしか思い出せなかった。


ぼくのことを雑にオタクだと思っている知人が何人かいる。立ち居振る舞い職業的にはこいつオタクなはずだと決めつけている人たちだ。そういう人たちはインターネットとオタクとがほぼ同じ意味だと思っていたりする。でもぼくは気質がオタクっぽく見えるだけで、実績はちっともオタクじゃない。


そもそもぼくは「これは見るべき」と人がすすめたものはなるべく見ることにしている。「言の葉の庭」にしても、「けものフレンズ」にしても、「映像研には手を出すな!」にしても、短く強く「見るべき」と言われて、たまたまその日の夜に時間があったのですかさず見たら、しっかりとおもしろかった。人のおすすめに乗るといいことがある。


これ、どちらかというとオタク気質ではなくて、「スナオな気質」によるものである。


あえて対立概念として書いてしまったのだけれどここをしっかり説明する。ぼくから見た印象に過ぎないが、生粋のオタクはむしろ他人の意見に対してスナオではないほうが多い気がする。それは悪い意味ではぜんぜんなくて、「外部から入ってきた情報を、自分の中にあるものときちんとすりあわせて、整合性を確認してからでないと是非を判断しない」という慎重な姿勢だ。自分の中でコンテンツをコンテキストにまで練り上げるタイプの人は、他人から急に何かをおすすめされたからと言って、自分の身柄をそれに簡単にあずけたりしない。


でも、ぼくはわりとホイホイしらないおじさんの言う事についていく。防犯意識の芽生えていない子どものような精神だ。これはオタク気質とはおそらく競合する性格だろう。




ところで、世間にある情報の大半は、「本質的には既存の商品と何一つ変わらないものを、情報を付加することで新商品として売るため、すなわち元からあったものを無理矢理新しく見せかけるための道具」であると思う。


無防備にテレビやネットを見たとき、そこに映っているものは、「新しくもないのに新しいという顔をして何かを売っている姿」ばかりであると感じる。たとえばスマホ、毎シーズンごとに新商品が出るが、生産側の都合はともかく、ネットの表層から得られる情報としては前の商品の違いが一切わからない。そこにはただ「新しい」という言葉だけが踊っているように見える。もちろん掘り進んでいけば先進性があるのだろうが、そもそもネットワーク上の情報はそこまでたどりついていない、ただひたすら「新しくなったよ」と連呼するばかりだ、99%が古いのに、最後にラベルする情報の部分が新しいというだけで、ぼくらは「おっ、新製品か」と思えるように退化している。


細かな差異を拡張して「うわーここが新しい」と言うモードにみんなが慣れてしまっている。すると、自然と、「ちょっとおすすめされたくらいで全部吸収していたらこちらの身が持たない」ということに気づく。


つまり世に「おすすめ情報」が氾濫して、新しくないものを新しいとダマして売ろうとしている姿勢が氾濫するにつけ、我々はその情報のほとんどを廃棄して、自分なりに「これは本当に新しい」と思うものを選んで摂取するモードに入る。


だからもはやほとんどの人は「おすすめされたくらいでは動かない」。その意味では一億総オタク時代がすぐそこまで、いや、すでにその中にいるのかもしれないとすら思う。



ただぼくはその意味では脳のアップデートが遅れたのだろう。


「いいよ」と言われればそれを摂取する気持ちがまだけっこう残っている。


そして摂取して実際に、「すばらしいなあ」と、おどろきとよろこびを持ってそれに満足するのだ。これはオタク気質ではないと思う。


ぼくは、けっこうな量のコンテンツを、「誰かがうれしそうにおすすめしている姿を見るだけでうれしくなって、商品本来の価値が200%くらいにブーストされた状態」になってから「履修」している。最近は特にそうだ。「誰かの表情」を新しく付加することで価値を増やさなければ、ぼくはもはやコンテンツ自体をまっすぐ楽しむことができなくなるのかもしれない。それは、あるいは、「もう新しいものなんてない」と、心のどこかで強い絶望を抱えているからなのかもしれない。




と、思い付くままに書いてみたのだけれど、いい作品を見て感動しているときの自分の心は、「新しいかどうか」についてはほとんど触れていない。これははっきりしている。「新しい」ということはぼくの中で、特に言語化する以前の部分ではおそらく価値ではないのだ。それなのに、「もう新しいものなんてない」という文字の羅列を見ていると、ひどく悲しい気分になる。もしかするとぼくは、新しいかどうかに関わらずコンテンツを楽しむ人間であるのに、その一方で、「いつか新しいものを見てみたい」と熱望しているのだろうか?

2020年9月29日火曜日

病理の話(458) ISO15189

「国際標準化機構」という、人々の理解をはなっから拒むタイプの名称を有する団体がある。漢字が暴力的だ。ちなみに英語だと、International Organization of Standardizationという。長いので略称がある。ISO。

……IOSじゃないのかよ! なんでだよ! と思わずナイツの塙みたいなツッコミをしたくなる。

で、このISOが何をしているかというと、電気、通信、鉱工業、農業、医療などの分野で、「国際的にやりかたを統一しましょうよ」という呼びかけと、足並みを揃えるための号令をかけている。

公共性があって国民みんなの役に立つような業務においては、仕事内容を「さじ加減」で好き勝手にやっては困る。

そこで、たとえば医療でいうと、そうだな……例をあげると……

だれもが理解しやすい例がいいよな……

「病理検査室の業務」などはISO認証を受けることができるのである。あれっ意味がわからないですね。すみませんね。




まあ何を言いたいかというと、病理検査室のありようも、ISOという外の野郎ども……じゃなかった第三者機関によって、「きみんとこはしっかりやってるね」「きみんとこはここがちょっと雑じゃないかな?」などとチェックをうけることができるのだ。病理検査室がこのチェックをうけて認証をうけたからといって、病院がめちゃくちゃ儲かるなんてコトはないのだけれど、ほかの分野では病院がちょっと儲かる(インセンティブが得られる)場合もあるので、まあ病理もしっかりやっとくかーてなことになるのである。

ぼくの勤める野戦病院でも、病理検査室のISO認証をそのうち受けようね、という話は考えている。まだやってないけど。たぶんそのうちやる。これすごく大変なのだ。委員長みたいな人たちに一日見回ってもらわないといけない。委員長はツンデレである。




さて病理検査室が外部から「よくやってるね」と評価される基準にはどんなものがあるか?

「病理と臨床 2020 Vol.38 No.9 826-831」の中で、丸顔でおだやかで人当たりがやさしいことで有名な柳内先生が解説されているのでこれを使って簡単に説明すると……

・プレパラートの作製方法がきちんとしているか
・免疫染色がうまく染められているか
・術中迅速組織診がきちんとやれているか
・細胞診がしっかりやれているか
・病理診断はばっちりか

みたいな感じである。うわーこれだけだとすごいあいまい。

で、具体的には、運用マニュアルが整備されているか、業務で出す文章のチェック機構が働いているか、品質管理や精度管理(※今は精度保証ということも多い)ができているか、みたいなことを逐一チェックされる。すげーみられる。

そもそも人が足りてるか、みたいなことも勘案される。




で、なんかそういうチェック項目を全部見ていて、フフッと思ってしまったことがひとつあったので、今日はそれを紹介して終わる。


「施設、環境」というチェック項目の中に、「静かで中断されない検査環境の提供」という項目があるのだ。これ、一瞬見逃してしまうところだった。

「静かで中断されない」ってどうやってチェックするのかな?

柳内先生の文章を読み進めていくとこう書いてあった。



「細胞診のスクリーニングで、(検査士の)肩が触れるような動線や配置は問題となる」




おーそんなとこまでチェックするのか。まあ職場環境って結局そういうことだよなあ。




項目をみる限り、うちの検査室はすべての項目に適合しているようには見える。でもこういうのは、自分たちで「やってるやってる」と宣言するだけではなく、外部の目からチェックしてもらうことにも意義はあるんだろう。まだ市中病院で病理検査室のISO認証を獲得している病院はあまり多くないのだけれど、これに関しては、ぼくが主任部長であるうちに、獲得しておいたほうがいいだろうな、と思っている。

2020年9月28日月曜日

脳だけが旅をする

 自分の稼働キャパを越えたときにツイートをする。ぼくはこれはよくやる。「やべええ」とか「忙しいいい」などとつぶやくやつだ。


しかし実際、自分の稼働キャパを下回っているときのツイートのほうが、問題なのかもしれない。


「まだやりたい、まだやれる」ってやつ。「時間を持て余している」。「ひまをひまとして享受できない」。



もっとのんびりしたらいい。やることがないならツイートなんかしないで「なにもしないことをする」をやったほうがいいのだ。なのに、つい、城の石垣を作る際に大きい石を積み終わってからスキマに小さい石をはめ込んでいくように、空いた部分、空いた部分、すべてに石を積めようとする。




水曜どうでしょうのディレクターの嬉野雅道さんが昔書いていた、とぼくも何度か書いた話題。


彼の奥さんはとにかく何かをしていないと落ち着かないタイプだそうだ。しかし、バイクを駆って旅をしているときは、旅先の宿でも落ち着いている。「のんびり」している。嬉野さんはそれに気づいて尋ねてみた。


「旅先だとのんびりできているみたいだけど、どうして?」


すると奥さんはこう答えたそうだ。


「そういえばそうだね。たぶん、『旅をしている』からかなあ。旅先ではのんびりしていても、決して何もしていないわけじゃない。そのときは『旅をしている』ということで、納得できている」




ぼくは最近よく、嬉野さんの奥さんの境地がいいなと思う。もはや自分の「何かをしていないと落ち着かない」という気性は治らないし治すものでもない。というかそれは異常ですらないのだ、おそらく。


だとしたら、ぼくが根本的に「ゆっくり、何もしない」ためには、バックグラウンドに何か、旅のようなものを配置しておけばよいのだろう。そうすれば、「今のぼくは旅をしているから、他に何もしなくていいだろう」という考えにたどり着ける。そして休める。




……なんてことを何度か書いているこのブログの名前。

たぶん由来の一部はそのへんにある。

2020年9月25日金曜日

病理の話(457) 病理医以外にとっての病理学

「いい医者になるために学ぶべきコト論」みたいなものは定期的に話題になっている。


「何はなくても接遇! 人と触れあう仕事です! 接し方を学ぶことこそは授業でやるべき。」


「いやいや統計学だろう。エビデンスが構築されるときのイメージを持っていなければ西洋医学の徒としては働けない。」


「感染症じゃないか? あらゆる科に勤務するにあたって絶対に感染症の知識だけは使うのだから。」


「ケアの話が大事だ。キュアは誰もが国家試験で勉強する。病を視るのではなく人を看ろ。」


「経営についてのセンスが大事だ。商売で医療をやっていこうとするならね。」



お察しのとおり、これはもう、きりがない。義務教育で何を学ぶべきか論と似ている。あちらを学べばこちらに注ぎ込む時間がなくなる。優先順位を付けようにも、人の働き方は多様すぎて、大事なものリストは個々人ごとに異なってくるので難しい。


結局のところ、学ぶ方が、「自分はこれをやろう」とまっすぐ前を向いて、いいモチベーションをもって学ぶことのほうが大事である。教えるほうが一方的に「これを知っていないとだめだ」と語りかけることには、意味はあると思うのだが、なにせ力がない。


そういうことがわかっている教育者たちは、「使うか使わないかは君たちの自由だけど、いつでも学べるようにここに置いておくからね」と、情報をストックすることになる。





さて、医師、あるいは医療者のほとんどが「病理学」を学ぶべきかどうかというのは難しい問題だ。「病の理」という意味の広い病理学は必ず習っているのでそこはベースラインとしてここでは問わないこととする。もっとアドバンスの知識、「病理医が日常的に用いている応用病理学」を学ぶべきなのか? 医療者として人生の中で一度は「病理医のもとで」学んだ方が役に立つのだろうか?


人による、としか言えないのだが、いちおうぼくは「役に立つような学び方はある」とだけ書いておく。いつかこれを読んで、「なるほど自分のモチベーションと合いそうだな」と思う人のために。




まず、病理医がやるような「顕微鏡の勉強」というのはほとんどしなくてもいい。それはテレビを見るためにテレビ内部の構造を理解する、あるいはパソコンを使うためにCPUの理論を理解することに近い。ほとんど必要ないと思う。


では何をするか? 2つのシチュエーションに応じて2つの回答を置いておく。


【1.あなたが形態診断をする医者だったら】


「形態診断」というのは、CTやMRI、超音波、内視鏡などを使って、「病気のカタチ」をみることで診断をする仕事だ。放射線科医というのがその代表だが、たとえば外科医は手術の前に必ずこれらの画像をみて、体内で病気がどのように広がっているのかを確認するし、内視鏡医(消化器内科、呼吸器内科など)は、カメラで病気を目視して診療方針を考える。


こういう人たちにとって、病理診断という「もうひとつの形態診断」のエッセンスを学ぶことは、直接日常診療の役に立つ。自分が画像で/肉眼で見たモノは、病理で顕微鏡を使うとこうやって見えるのか、なるほど! と、「見えると見えるを照らし合わせる」。


これに必要な訓練期間はだいたい3か月である。自分が診療に使う臓器「だけ」、自分が興味をもっている病気「だけ」をじっくり照らし合わせて理解する作業の、レベル1とレベル2くらいの部分はだいたい3か月で修得できる。もちろんそれ以上の時間を投入してもいいのだが、レベル3以上を目指すには半年あっても1年あっても足りないことも多い。そもそも自分の本職で忙しいひとたちが、3か月以上もの長い期間を病理のために使うことは難しい。従って、「3か月で初歩を習い、かつ、3か月で病理医と仲良くなって、それ以降はいつでも相談できるような関係性を築く」ことができれば十分である。



【2.あなたが全身を診る内科タイプであったら】


病気というのはすべてがすべて「カタチ」をもち「カタマリ」を作るわけではない。というか、心不全にしても糖尿病にしても、肺炎にしてもSLEにしても、潰瘍性大腸炎にしても慢性肝炎にしても、IgA腎症にしても便秘にしても、これらはマクロ(肉眼)でどこかにカタマリができることが病態の本質なのではなく、血液をはじめとする液性の因子や、さらには体内がさまざまな物質を用いてクロストークし、歩調を合わせて体調を整えているはたらきそのものが乱れることによって起こる。


こういう病気を扱う人たちが、病理診断を「顕微鏡でカタチをみるもの」だと考えている場合、病理診断科に3か月いようが1年いようがほとんど何も学べない。「見えると見えるを照らし合わせる」にならないからだ。


すなわち、この場合、病理学のコアにある、「見えないものを見えるものと照らし合わせる」をやらないといけない。この訓練をするにはコツがいる。


具体的には何をすれば「肉眼ではよく見えない病気を、病理学で診る」ことが学べるのか? これにはひとつの模範的な回答がある。CPC(クリニコ・パソロジカル・カンファレンス)と呼ばれる、院内のでかいお祭りみたいなカンファにしっかり出るということだ。それも、「病理医側の人間として、カンファの準備をする」ことで。


CPCでは、解剖例をはじめとする「全身に異常がある状態」の患者を振り返り、主治医が患者とともに歩んだ顛末を確認し、すべての検査値を遡って、最終的には病理解剖を行った病理医がみたありとあらゆる「見えた変化」と照らし合わせる、ということをする。この中に入ってしっかり学ぶと、一人の死んでしまった患者から、ものすごい量の知識と経験をセットにして自分の中に吸収することができる。


ただし、現在、全国の病院ではこのCPCの数が激減している。なぜならば解剖の数が減っているからだ。解剖というのは患者や遺族、主治医にとって、疑問を解消するために行う側面が強いが、医学が進歩すると「現場での疑問」の多くは解剖などせずともほぼ解決してしまう。


ただ、疑問がないからといって解剖をやらないのは、「学び終わった医師」にとっては悪いことではないのだが、本当は「学び終わった医師」などというのはこの世にいない。全員が「学び中」なので、解剖をやると必ずあっと驚くような発見がある。それは、体の中にあるのが「カタマリを作る病気」であるかどうかとは関係がない。


ある一つの病気を軸に、全身でどのようなことが起こったのかを、病理医が必死で考える。臓器をみながら。


病理医がそこまでやってくれるということを知って、臨床医は、だったらできる振り返りを全部やってやろうじゃないかと、あらゆるデータを再確認していく。照らし合わせる。


これがめちゃくちゃに役に立つ。しかし、しっかりやらないと役に立たない。


今、感染症禍において、「感染防御のシステムを備えた解剖室」自体が少ないため、解剖の例数は激減している。さらに言えば、感染症禍の前から、解剖数自体は減少の一途を辿っている。くり返すが臨床医も患者も家族も、患者が亡くなっても「ほとんど」疑問はないので、解剖をやるモチベーションまで届かないのだ。しかし、一部の大学病院などでは、今でも数多くの解剖をやっており、CPCも多数行っている。


狙い目はそこだ。臨床医として病理学を学ぶことで自分の診療の役に立てようと思ったら、「CPCを無限にやっている病理」で学ぶのが一番強力だと思う。そしてこの場合、解剖の件数、CPC開催までの準備期間などを考えると、おそらく3か月では研修は足りない。半年以上はかかる。




……【1.】と【2.】で文章量が違う。手間もしんどさも違うのだ。だからぼくは基本的に、臨床医が「形態診断」をやりたい場合には積極的に病理診断科に短期留学することを勧めている。しかし、臨床医が「内科としての実力を伸ばしたい」という意図で病理研修を希望する場合、これらのことを話し合いながら、「それはほんとうに病理でやったほうがいいのか」「あなたは結局何が学びたいのか」「それは病理医と友達になるだけで解決する願いだったりはしないか」というのを綿密に相談するようにしている。

2020年9月24日木曜日

追いつかれる

油断をすると追いつかれる。何に追いつかれるかというと、「焦って目の前の仕事をひたすらこなさなければいけない自分」に追いつかれる。


たとえばこのブログをぼくは基本的に5日分書きためている。たとえば今日のこれは、公開の1週間前の同じ曜日に書いている。平日毎日更新して、土日は更新がないので、5日分ストックすると、「もし自分が1週間くらいブログが書けない事態に陥っても」更新をストップさせなくてすむ。


しかしこれの本末が転倒する。まあ、最初からこうなるだろうということはわかってはいたのだが。


「3日ほど忙しくなって、ブログが書けなくなって、ふと息をついたときにストックが2日分になっていると、あわてて記事を3つ書いてストックを5日分に戻さなければ気が済まない」。


こうして、「念の為」で余裕を持たせていた部分だったはずが、それがノルマに変化してしまっていて、ぼくは「5日分もストックがあれば安心だ」の人間から、「2日分しかストックがない、もうだめだ」の人間へとすみやかに移行している。





 油断をすると追いつかれる。何に追いつかれるかというと、「焦って目の前の仕事をひたすらこなさなければいけない自分」に追いつかれる。


仕事そのもののデッドラインに追いつかれるわけではないのだ。「ここまでやっておかないと不安だ」という気持ちに追いつかれる。だからぼくはいつも仕事の締め切りを必ず守る、どれだけ忙しくても依頼より遅れて何かを出すということはまずあり得ない。しかしそこに余裕は一切無いのだ。たとえば締め切りが10月30日の原稿があったとしたら、自分で勝手に締め切りの線を9月30日に引き直して、そこまでに終わらないと世界が終わる、という気分になっている。本当は1か月も余裕があるのに。


いつも焦って目の前の仕事をひたすらこなしている。「それ、そんなに急いでやるべきことなの?」と言われても。



なんだかそういうのがいやになってきたので最近は仕事自体をあまり受けなくなった。といってもここでいう「仕事」というのは、本来は空き時間にやっていたはずの、片手間の書き仕事、業務や学術とは関係がない一般向けの文章を揃えるものであり、いつの間にかこれがぼくのなかで完全に「仕事」になっているのでほとほとうんざりする。これは本当は仕事ではなかったはずなのだ。締め切りはほんとうは1か月以上先だったはずなのだ。なのに、今日もぼくは、「明日がしめきりの! 仕事が! おわらない!」と言って頭を抱えている。

2020年9月23日水曜日

病理の話(456) 診断の意味が時代ごとにかわっていくということ

それなりに昔。食道がんという病気を見た医師は、「手術」を頭のどこかにおいて診療していた。


この患者に手術をすれば命を延ばせるだろうか……?


そういうことをたいていの食道がん患者の前で考えていた。


このとき、病理医は、主治医の判断を後押しする。その食道の病気がほんとうに「食道がん」なのかどうかを、細胞を直接みるという裏技で確定する。


「食道がんかあ……じゃあ手術だな」と考えて手術したら、実はがんではありませんでした、ということでは困るからだ。「たぶん食道がんだろう」を「まず間違いなく食道がんである」と決めるのに病理医は活躍したし、その先には「手術」という選択肢が控えていた。




そして時代が進むと治療が進歩する。


「手術」のほかに……食道がんがまだあまり深くしみこんでいなければ、胃カメラ(食道カメラ)を使って、スコープの先端から出るマジックハンドを使ってがんの部分だけ切り取ってしまうという手法。


あるいは、食道がんの場合は放射線照射とか抗がん剤がかなり効くということがわかり、手術をせずに(あるいは小さく切り取ってから)放射線と抗がん剤を使って「複合的に倒す」という方法。


さらには、「がん細胞に特殊な薬を投与して、その薬によってレーザー光への感度を上昇させておいて、レーザーをあててがんだけをぶっ倒す」という方法。




こうやって「治療」が進歩すると、「食道がんかあ……手術しようかな」と考えていた主治医の、やることが増える。




「食道がんかあ… → 手術しようかな

         → カメラで切ろうかな

         → カメラで切ってから放射線と抗がん剤かな

         → カメラで切って考えてから追加で手術かな

         → カメラで切ってあとしばらく様子をみてから考え直すかな

         → …… 」




判断が増える。すると、病理医のやることも、増える。


細胞をみるという裏技で、「それががんであるか」だけではなく、「どういう性質のがんか」「どういう治療法をすれば制御できるか」みたいな観点で、病気をどこまでも追いかけていくことになる。






昔の教科書より、今の教科書の方が、必ず分厚い。


科学はいつだって後の世の方が複雑になる。病理診断もそれはいっしょ、なぜなら、診断の向こうには治療があり、臨床医の判断があり、その判断は時代ごとに必ず複雑になっていくからだ。ブロッコリーがどんどん細かく分岐していくように、サイエンスは細かく分岐し、病理医はそれを幹のほうからみて、さあどこまで追いかけるかなと考える。

2020年9月18日金曜日

まとまったことを話さない

「あとで文字にする前提」でしゃべらなければいけないことがある。


たいていの場合、いらっとする。自分に。


仕事のとき、よくある。病理学的な解説をするとか。学生相手に講義をするとか。


最近、医学以外の局面でもそういうことをたまにやっている。対談をする内容が文字おこしされますよ、とか、あとでこの会話は記事になるのでよろしくお願いします、とか。


その場の瞬発力だけでやりとりをしようとすると、思ってもいなかった内容を振られたときにしどろもどろになる。だからある程度、「こう来たらこう返す」という想定問答集みたいなものを用意しておかないといけない。


いけないのだが、最後までやらない。やれない。


完全に文章化したものを事前に準備してそれを読むだけとなると、もう、その会話自体に興味をなくしてしまう。「だったら最初から対話形式にせず、原稿で世に出せばいいではないか」と思って飽きてしまうのだ。


結局、そういうつまらないこだわりのために、人前で、よく恥をかく。





自分がしゃべった内容をあとで聞き返し、文章化すると気付くことがある。


ぼくの会話はやけに遠回りが多かったり、省略が多かったり、繰り返しが多かったりする。


本質的な議論を少しそれた部分で細部に延々とこだわっていたりすることもある。


頭を抱えてしまう。




やはり、過不足なく理路整然と原稿を読むようなしゃべりをやるべきなのか?


たぶん、「やるべき」なのだ。それはわかっている。





そもそもぼくは自分の「即興」をあまり信用していない。


完全にスジナシで進行する演劇的なものを見ていると、「はいはい才能を見せたいんだね」と鼻白んでしまうというのもあるが、実際そのとおりで、ラップバトルにしても、大喜利にしても、あれらを自分の即興力だけでやれるとは全く思わない。才能も努力も届いていないのがわかる。


だから、完全にその場の勢いでなんとかなるなんて全く思っていない。


人前で話すときは、「事前に準備を十分にやっておきたい」し、「会話内容を深く考えた末にきちんと言葉を選びたい」のだが、それを事前に「文字のかたちで原稿にまでしてしまう」と、思考の言語化しきれなかった部分をおっことしてしまう気がしていやなのだ。


究極的な理想を言えば……


「言語の直前」まで考えて、あともうひと研磨すれば「文字になる」というところまで思考を準備してそこでやめたい。


「原稿」にする直前の、ぎりぎりの状態でしゃべりたいのだ。




……うまくいくわけがない。





きれいにまとまったことを話したくない。事前にまとめきりたくない。その場でまとめたい。このバランス感覚は単なる美意識のようなもので、根拠に理屈が通ってはいないのだ。でも、そうしたいから、そうしていくことになる。残念なことだ。それで人に迷惑をかける。かけ続けている。これからもかける。




このブログにしても、本当はあと「ひと練り」したほうが、通常の文章になるのかもしれないのだが、どうもぼくは研磨の余力を残した状態のものを置いておきたいのだと思う。