2022年4月28日木曜日

流行りの役者を起用する

燃え殻さんが原作を書いておかざき真里先生がマンガにした『あなたに聴かせたい歌があるんだ』が、Huluオリジナルドラマになるのだけれど、伊藤沙莉が出演するというのでHulu契約しようかなあ……と思い始めた。普通にファンである。


ただしその役柄が「アイドルを夢見て上京する人」だと聞いて、ほう、と思った。マンガに出てきたから、どういう立ち位置のキャラクタかはわかる。そして、マンガ版では、ぼくが考える限りはほかにも「伊藤沙莉が演じそうな人」がいたと思う。

ドラマ版の配役を担当した人は、「あれ」が一番伊藤沙莉っぽいと思ったわけか。へえー。


ドラマや映画の監督が「原作を読んでいて自然とこの方の顔が思いました。この役者さんしかあり得ないだろう、とね」なんて言うとき、そのまま字面どおりに受け止めることはない。たいていのドラマや映画はそのとき旬の、出まくっている役者しか出てこない。選択肢は最初から決まっているのだ。この10年は本当に露骨である。20年前もそうだったかな。最近はモブですら同じ人だ。役者ってあんまりいないんだな、と思うことも多い。秒単位で視聴率管理をするテレビドラマならまだわかる、画面に誰が映ったとたんに視聴率が上がる・下がるがあるわけで、ちょい役・モブ役でも気は抜けないし、すでに「人の目を惹き付ける実績がある人」をチョイスするのは当たり前のことであろう。しかし映画でもサブスクでも同じとはね。


ただし、そのことを責めようとまでは思わない。じっさいぼくは伊藤沙莉が出ていれば、それがどの役柄であっても見ようかなと思うわけで、伊藤沙莉が燃え殻さんの『ボクたちはみんな大人になれなかった』に出演しており、今回また燃え殻さん原作のドラマに出ることを「またかよ節操ねぇな」と思うよりも、「燃え殻さん独特の、掠れ声の世界観みたいなものに、伊藤沙莉さんはぴったりだもんなあ」という気持ちのほうが大きい。


というわけで伊藤沙莉フィーバーはまあ喜ぶとして、ドラマや映画で同じようなキャストばかり呼んでしまう現象に関しては、ほかに思うことがある。

それは、ぼくが自分でしゃべるときやものを書くときのことだ。

たとえばこのブログにしてもそうなのだけれど、ぼくは、自分が直近で気に入ったフレーズや「書き回し方」みたいなものを、何か文章を書くたびに、あるいはしゃべるたびに「何度も出演」させていると思ったのである。

またムロツヨシをそこに置くのかよ、みたいな頻度で、「また俺の文章、複雑系の話でまとめてるな……」と感じることがある。松重豊並みの頻度で「偶然性」を語り、岸井ゆきの並みの頻度で「アフォーダンス」を語る。香川照之並みに登場するのが「俯瞰と接写をくり返すこと」であろう。

脳内風景をきちんと吟味して、脚本を読み込んで、世の中にいっぱいいる俳優の中から「これぞ!」という人に白羽の矢を立てることをせず、なんとなく最近テレビに映っていると目で追いかけてしまう役者、そういう人を便利に起用してしまうのだ。すると、シーンごとの演出はおろか、全体のストーリーまでもがその役者に依存して変化し、あたかも「当て書きのシナリオ」のように文章が整っていく。


ぼくはHuluやNetflixと同じメンタルなのである。ちかごろ、伊藤沙莉的に便利使いしてしまうのは「医療情報産業学」という言葉だ。たいていそこに収束させればすべての文章は今のぼくの中で流行っている方向に落ち着く。それがいいことなのか、本当は避けるべきことなのではないか、ということをたまに考える。ところで『映像研には手を出すな!』の、浅草氏の長ゼリフは本当によかったですよね。

2022年4月27日水曜日

病理の話(651) 凶悪細胞を取り締まり罪を未然に防ぐには

街を歩いている「悪そうな面構えの人」をタイホしよう!

署に連れて行こう!

ドアを半開きにした個室で、窓際のイスに座らせて、刑事ふたりで取り調べを行おう!

「で? お前、なんかやったろ?」

「いや……何? いきなり……」

これでは成り立たないわけですよ。犯罪捜査はね。

その人がなんらかの悪人かどうか(罪を犯しているか、あるいは未遂であっても、これから罪を犯そうとしているか)は、その人をいきなり警察署に連れてきて、周りの環境と隔絶させてしまうと、よくわからなくなる。証拠がぜんぜんないんだもの。

確実な犯罪捜査は現行犯に限る!

その人が今まさに何かを破壊したり誰かをカツアゲしたり麻薬を注射したりしている瞬間を狙って証拠保全する。これなら誰にも文句は言わせない。

ただ、できれば、犯罪を未然に防ぎたいのがみんなの願いである。

「あっ、いまからこいつ、放火しそうだぞ! では現行犯で逮捕したいから、火を付けるまで待っていよう」ではだめだと思います。



犯罪者を、できれば犯罪が発生する前に捕まえたい。そこで参考にするのは何かというと、

1.持ち物

2.取り巻き(仲間)

あたりです。

1.→ ナイフや拳銃、麻薬をポケットに入れている人が、チャッカマンと文化焚き付けを持って家の前で古新聞を前にニヤニヤ笑ってたらもうそれは犯罪でいいじゃん。

2.→ その人が暴力団事務所みたいなところに出入りしており、前科100犯くらいある犯罪グループの構成員と同じイレズミをバリバリに背中に彫ってたら、なんかめちゃくちゃ怪しいやんけ。





これとほぼ同じ事を、病理診断でもやっています。

ある細胞が正常の細胞と比べて、核が異常にでかいとか、核小体がギラギラ顕在化しているとか、細胞質の色調が違うというように、「見た目がおかしい」と思ったら、そこでまずチェックをする。職務質問みたいなもんです。

その細胞が、現行犯で、建造物侵入(病理では浸潤と言う)していたら。あるいは、器物損壊(病理では浸潤先の臓器を破壊すること)していたら、それはもう現行犯逮捕です。お前は「犯人(がん)」だ、ということで確定。

ただし、現行犯じゃない場合は難しい。

まだ浸潤していない細胞。

「きみはまだ罪を犯していないから、放免~」としていいだろうか?

その半年後に、ばりばり臓器に侵入していたら、捜査員としては後悔しきれないだろう。

「がん」は早期発見したいですよね。

できれば「罪を犯す直前くらいで捕まえたい」。未然にね。



で、まだ罪を犯していない細胞を、いきなり署に連れて行く(その細胞だけをピンポイントで、顕微鏡で拡大して観察する)と、これは罪を立証するのが難しいのです。

だからいろいろと工夫をする。

1.免疫染色を用いて、異常な持ち物がないかどうかをチェック。
 →がん細胞は正常の細胞とは違うタンパク質を持っていることがあるのでね。

2.その細胞の周囲にある細胞をチェック。
 →「アジト」的なものを作って、似たような顔付きの細胞が徒党を組んでいたら、そいつらはまだ何もしていなかったとしても「犯罪集団では?」と予想することができる。



わたくし、がん細胞捜査としてはそこそこキャリアが長いんで、現場のカン的に申し上げますと、「1」も大事だけど、「2」がけっこうカギですね。これができるとできないとでは検挙率が違うし、捜査のスピードもまるで違う。




話は少し変わるけど、ちまたのAI病理診断のやりかたを見ていると、どこまでもその細胞だけを見て良性・悪性の判定をしている場合が多い。現行犯逮捕にこだわっていたり、あるいは、持ち物検査ですべてなんとかしようと思っていたり。

でも、本当は犯罪捜査って、ある細胞「だけ」を見て良悪の判断をするんじゃなくて、周囲との関係がすごい大事だと、少なくともぼくは思っています。AIもたぶんそうだよ。これはカンだけどね。

いずれ現職の刑事さんにも捜査のコツを聞いてみたいものだ。

2022年4月26日火曜日

二日酔いで苦しんでいるときに横でやいのやいの

飲んだことのないハイボールの缶を見つけて買って、ビール→レモンハイのあとに飲んでから寝たところ、翌朝けっこうな頭痛に悩まされた。「安酒は悪酔いする」という言葉が頭をよぎ……らない。頭はかすんでしまって、あまりモノが考えられないのである。


とりあえず水分をとってアルコールの分解を進めようと思い、そういえば過去の医学的な知見によればアルコールの分解時には水だけではなくタンパク質が重要だったな……と回らない頭でぎりぎり思い付いて、炊けたご飯をよそい、タマゴを割り入れて、海苔といっしょに食べる。食後5分もしないうちに胃がけいれんしてきて(直接見えているわけではないから予想)、これはもしや、胃腸もやられているのでは、と気づいて、そりゃそうだ、二日酔いなのだ、なぜそんなことに頭が回らなかったのかと(もちろん二日酔いだから全体的に回っていないのだけれど)、頭を抱えた。何の薬を飲めばこの頭痛とむかつきと消化管のけいれんを解消できるのかわからず、ひとまず出張カバン(何故?)をあさってみたところロキソニンが入っていたので飲んでみた。


30分くらいで脳の悲鳴がおさまる。体のあちこちに向けて発していた救難信号が弱まったせいだろうか、消化管もおとなしくなって、その後ためしにお茶を飲んでみたところ問題なくスッと飲むことができた。ひさびさの二日酔いは振り返ってみれば軽かった。ただし、頭痛に襲われている最中は思考レベルが、毎朝ぼくが車で通りすがる家の窓枠に全裸で立ってちんちんを外に向けてふりかざしてカーテンの向こうからお母さんに必死で回収される園児より低くなっていた。病魔ってほんとこういうことなんだよな……とため息をつく。


ちなみに二日酔いのときに体が脱水気味になっているのは本当なので、水分をちびちび頻繁にとるとよいのだけれど、「アルコールの分解にはタンパク質も必要」だからと言って二日酔いの真っ最中にタンパク質を摂取してもそれが分解されて吸収されて体内で活用されるまでにはかなりのタイムラグがあるので、あわてて卵かけご飯を食べてもタンパク質的な意味では役に立たない。医学的に考えれば当たり前だ。ただし弱っているときにはそういう簡単なことがわからなくなっている。ご飯を食べると二日酔いがよくなった気がする、ということは確かにあって、それはおそらく食物に含まれている水分を少しずつ吸収することができるからではないのかな、という気がする。点滴を入れるようなものだが点滴を入れるまでもないということ。うす味のお吸い物を飲むと二日酔いがおさまるってのもそういうこと。浸透圧的にちょうどよく、少し熱くしておけば一気にグビッといかなくてすむから胃もビックリしないのであろう。こういう話をたとえば二日酔いで苦しんでいるときに横からやいのやいの言われたら殺意しかわかないだろう。なお妻はこういうときは大変そうだねと気持ちにだけ寄り添ってくれるし余計なアドバイスなど一切しないのでありがたいことである。


「二日酔いで苦しんでいるときに横でやいのやいの」


これがたぶん医療面接、さらには医療情報発信で失敗するときのパターンなんだろうなということをしみじみと実感する。言うにもタイミングが要るし、あっているからといってまくし立ててもだめだ。「しみじみと」の部分でしじみを思い出す。お味噌汁が飲みたい。そう、これはすべて、今朝起こったことなのである。

2022年4月25日月曜日

病理の話(650) 言葉の使い方ひとつで細胞の配列がわかったりわからなかったりする

将来病理医を目指している研修医に、「病理診断の下書き」を書いてもらっている。


手術で採ってきた臓器(胃や肝臓、肺など)を見て、トリミングナイフで病変のある部分をカットし、プレパラートにして観察する。今回のプレパラートはぜんぶで12枚。病変をちょっとだけ切る……のではなく、「切れてるチーズ」のように、短冊状にきれいに切るのがポイントだ。臓器をきれいに切れば、顕微鏡を見たあとに「切る前の写真」と照らし合わせやすくなる。

胃のどの部分が盛り上がっていて、どの部分がへこんでいたかを、細胞の分布とマッチさせて考えて、「細胞がどのように異常だと、肉眼でどのように見えるのか」を鋭く追及する。


研修医は、病変をみて、診断書をこのように書いていた。

「○×○ mm大の病変です。病変の辺縁には周堤があり、内部には陥凹を伴います。」

どれどれ、と、ぼくは臓器の写真を見る。

胃の検体だ。

ふくろ状の胃がはさみで切り開いて展開してある。

粘膜のある面をみると、たしかにそこに、○×○ mm大の、周囲とは模様があきらかに異なる病気を見てとれる。


ただ、研修医の書き方から想像していたものとは、少し異なる印象であった。ここはきちんと「言葉の使い方を揃えておかなければ」と感じる。


「周堤」というのは、まわりにある堤防、というニュアンスだ。ある病変(たいていはがん)の、へりの部分がグアッと、ゴリッと、堤防のように盛り上がっているときに使われる。専門用語である。

写真を見ると、たしかに、病気のへりの部分が周りよりも高く盛り上がっている。しかし、周囲の盛り上がりはそこまでグアッと高いわけではなく……そうだな、例えていうならば、

「国技館の土俵の、俵の部分」

みたいな感じ。

つまりは細く盛り上がっているだけだ。内部も、めちゃくちゃへこんでいるというよりは、それこそ俵の中と外とのように、本質的な高低差があるわけではなく、俵の部分だけが盛り上がっているために中が相対的に低く見えるにすぎない。


そこでぼくは研修医と一緒に、文章を書き直す。


「○×○ mm大の病変です。病変の辺縁には周堤があり、内部には陥凹を伴います。」

「○×○ mm大の病変です。病変の辺縁は全周性・環状に、軽度隆起しており、内部は相対的に陥凹しています。」



以上の修正は、少なくとも、病理医が絶対にやらなければいけないことではない。臨床医も患者も気にする最も大事な項目、「がんか、がんでないか。どれくらい悪いがんなのか。どこまで進行しているのか。」とはあまり関係がない。要は、表現の問題にすぎない。

しかし、これがすごく大事だとぼくは考えている。

ひとりの病理医が見て書いた文章を、ほかの病理医が違うように解釈しては困る。また、臨床医が異なるニュアンスを受け取るのもだめだ。

病気の見た目を言い表すときには、多くの病理医がこれまで納得してきた言葉をきちんと使う。「共通言語」をおろそかにしない。そして、「この病理医はいつも統一した書き方をしているから、慣れてくると写真を見なくても、文章だけで細胞のつくる模様がわかるんだ」と、読む人に思わせなければいけない。



なお、ぼくが先ほど書いた、「病変の辺縁は全周性・環状に、軽度隆起しており、内部は相対的に陥凹しています」という文章は、読む人が読めば、これが「早期胃がん」と呼ばれている病気の、ある種のタイプであろうと予測することができる。きちんと文章を整えておけば、顕微鏡で細胞写真を見なくても、その病気のありようが頭に浮かんでくるのである。

2022年4月22日金曜日

色相環のあっちとこっちとそっちをパレットで溶く

「市原先生のお仕事の方向をこちらから縛ってしまうより、ある程度自由に動いていただいたほうがよい気がしました。」


という文言付きで原稿を依頼されることがある。けっこうある。2回に1回くらい、そうだと思う。


ありがたいことだ! 自由にやっていいなんて! という気持ちと、企画作りの段階からこっちに投げられちゃったけど報酬は原稿執筆分だけなんだよなあ、という気持ちと、ふたつが同時に湧き上がってくる。これらはべつに相反する感情ではなく、ふつうに同棲できる。二項対立にせず、そのままどっちも抱えて働くことができる。



ところでなぜ人はこのような原稿依頼をするのか。



たとえばSNS医療のカタチという活動で、医療従事者に講演をお願いすることがあるのだけれども、そのときのぼくがまさに、「どんなことをしゃべっていただいても大丈夫です」と言っている。

こちらから講演の依頼をするのだから、普通に考えたら「この人にはこういう内容をしゃべってほしい!」と、お題を指定するのが本来の礼儀である。

しかし、なんというか、礼を失したことをしたいのではもちろんなく、


「この人はどんなことをしゃべっても絶対におもしろいことを言うに違いないから、ぼくごときが余計な『縛り』をかけるより、その日にしゃべりたいことを自由にしゃべってほしいなあ!」


ということを本心で考えている。

……そして、同時に、「しゃべる人の業績を全部ゴリゴリ調べて、何をしゃべってもらうかを考える時間がないので、お題までおまかせできるならそのほうがありがたい」と思っている。つまりは依頼するほうもたぶん両方の感情でやっているのだろう。





両方の感情、と書くと、対立概念のようでしっくりこない。たぶんこういうのは、色に例えるといい。赤と緑は、色相環に置けばいちおう反対側にあることになっているけれど、混ぜて毎回真っ黒になるわけではない。パレット上での色の溶き方にもよるし、筆の置き方にもよる。赤い感情と緑色の感情とを混ぜながらぼくらは何かを考える。おまけにたいてい混ぜているのは黄色と緑だったり、青と赤だったりして、きれいに混ぜ切らないで、マーブルみたいな状態のままで、いろいろな絵を描いている。頼む方も、頼まれる方も、黙ってひとりでやっている人もだ。

2022年4月21日木曜日

病理の話(649) 手助けの顛末

臨床医は「○○病」を疑っていた。そして、ほかにも、さまざまな病気の可能性を疑っていた。


「○○病」かどうかを確定診断するために、病理医の手助けがいる。彼女らはそう信じていた。そこで、人体のある部位から小さな検体が採取された。


ぼく(病理医)は、それを顕微鏡で見た。


ところがそこには、「○○病」であることを示すナニモノカはなかった。


代わりに、■■病や△△病のときに「見られることがある」像がちらほらと観察できた。


そこでぼくは診断書に、「○○病の証拠はありません。■■病や△△病のときに見られがちな所見がいくつかあります(具体的に列挙)。臨床医としてはどう思いますか?」というようなことを書いて、電子カルテに向けて送信をした。


すぐに電話がかかってきた。「先生、○○病じゃないんですか!」と。


そこでぼくは、自分の書いた病理診断報告書を読み直し、たっぷり1秒考えた。

ぼくはここに「○○病の証拠はない」と書いている。それはまるで、日本語のニュアンス的に、「○○病を否定する」ように読めた。

電話で、謝罪をする。

「すみません……説明が足りなかったです。○○病の検体を病理で見て、○○病である証拠がみつかるのは、体感で、1~2割程度です。たいていはスカ。何も見つかりません。しかし、証拠が見つかる頻度が低いだけで、その証拠がないからといって、○○病を否定できるわけではありません。」

すると臨床医はテンション高くこう言った。

「よかった! じゃあ○○病としてもぜんぜんおかしくないんですね。だったら治療をはじめてしまおうかなあ」


さあ、説明が必要なのはここからだ。もう一度謝罪をする。

「すみません、報告書だけでは届かないニュアンスなので、最初から電話すべきでしたね。」

そしてじっくりと説明をする。



今の状況では、○○病を否定はしないが、肯定もできない。

病理に見られる「証拠」の出現割合が低頻度だからといって、「それがなくても○○病と診断してOK!」とざっくり議事進行してしまえるならば、そもそも、病理診断をする意味はない。

「見つかればラッキーだけど、なくても○○病と診断していい」くらいのチョロい行動選択のために、患者の一部を傷つけて、あるかどうかもわからない病気の証拠探しをするのが、病理診断……ではないとぼくは思っている。



「一緒に顕微鏡を見ましょう。ぼくは○○病でもいいとは思う。ただし、それだけなら報告書にそう書いています。■■病や△△病の可能性を否定してもらわないと困るから、証拠としてあのように書いた。先生はカルテ上では、■■病としては合わない、△△病としても典型的ではない、と書かれていますが、病理組織をみる限りは、○○病としても非典型的なんです。つまりこれは、非典型 vs 非典型のバトルになっている。

だからもう少しニュアンスを詰めましょう。最終的に○○病の治療をするにしても、もう少し、意見のすりあわせをしておいたほうがいい。

病理は何を気にしてあのような報告書を書いたのか。あなたがた臨床はなぜ○○病を一番に疑っているのか。そのあたりを全員が理解してから先に進んだほうがいいと思います。迷った末に、最後にエイヤッとどこかに診断を決めるならば、その責任をかかわった人間全員がきちんと背負うべきです。」



臨床医はニコニコしながら病理にやってきた。集合顕微鏡をいっしょに覗いて細胞をみる。ほら、この所見はある。ほら、あの所見はない。あるとない。ゼロイチ。しかしそこから考えをファジーなほうに伸ばす。○○病と診断することの意味。診断しないことの意味。治療をどうするか。「○○病」かどうかを確定診断するために、病理医の手助けがいる。彼女らはそう信じていた。そこで、人体のある部位から小さな検体が採取された。ならば我々病理医がやることは、「病理診断報告書を書く」という仕事だけでは終わらない。我々は「臨床医を手助けする」のだ。それが仕事である。


2022年4月20日水曜日

ぼくは仕事が早いから

つきあいのある編集者の仕事環境がよくなく、精神状態が悪く、そのつらさが一緒に働いているこちらにも浸みだしてくる。人のつらさに共振してぼくも一緒につらくなる。よくないことだと感じる。

つらく働いている編集者たちから、ぼくはそろそろ距離をとろうと思う。とりあえずツイッターのアカウントはミュートした。

「今まさにつらい編集者を見捨てるなんて薄情だ、お前が書けば楽になるかもしれないのに……」という考え方もあるだろう。しかし一緒に沈んでしまえば救助もできない。

これが仕事相手でなく、仮に家族や友人だったとしても、一蓮托生的にストレスを共有してしまうことはよくない。他人だからできる距離の取り方というのがある。そういうのが結果的に双方にとってつらさを減らすことにつながる。


つらいつらいと仕事をする編集者たちの仕事を手伝って、少しでも楽にできたらいいなという気持ちはずっとあった。これまではそのようにやってきた。しかし、ぼくがいくら原稿を早く仕上げても解決したためしはない。たとえば、締切より1か月早く原稿を出しても、いつのまにか校了は締切直前になっている。ぼく一人が仕事を早めたところで、出版物やネット記事というのは著者の原稿だけでできあがるものではなく、デザインもあり、イラストもあり、何より編集者が心行くまで調整をかけるのに時間がかかる、そういった他の仕事がすべて早まらなければ、全体の進行は早くならない。余裕をもって進めたはずの仕事は、いつのまにかぼくにとってもぎりぎりの進行になって戻ってくる。

ぼくは仕事が早いから、なぜか締切に追いつかれてしまった仕事もまたすぐに仕上げてふたたび余裕をもうける。いつの間にか溶けてなくなった1か月の余裕、どうして再校の時間が1日半しか与えられないのだろうと不思議に思いながら、原稿を2時間で手入れして、逆に1日の余裕を再度作って送り返す。その間、ぼくの他の仕事はパニックのように忙しくなるが、「編集者がつらそうにしているからその忙しさを飲む」。これまではそうしてやってきた。その間ずっと編集者たちは裏アカウントで仕事がつらいと愚痴を言い続けている。これは何なのか? といつもぼんやり不思議に思っていた。

何なのか、というか、出版とはそもそもそういう世界なのだろう。出版業界のやり方が彼らにとって悪いものだから直せとは、外にいるぼくからは言えないし言うべきでもない。ただ、それがぼくの世界を少しずつ侵食してきているような気はする。なぜぼくが休憩も睡眠も削って1か月以上早く仕上げた原稿の著者校に、たった1日しか時間が与えられないのか?


かつて、古賀史健という人が、プロのもの書きとアマチュアのもの書きの差は「プロの編集者がきちんとついて著者と伴走しているかどうか」にあると言った。たしかに、編集者がいるといないとでは文章に雲泥の差が出てくる。編集者にたよらずに一人で何かを書いて世に出すと、どこかに間違いがあったり、不適切であったり、届きづらい部分があったり、曲解されたり、そういった不都合がいっぱい起こる。

でも、ふと思う。プロの書籍編集者を名乗る人間であっても、本当に著者と伴走できているタイミングはそんなに多くないのではないか? 彼らは基本的に出版側のルールで忙しさにおぼれ、自分がもがいて竜が淵から脱出するために、著者をビート板代わりにわしづかみにして必死にバタ足をくり返す。それは果たして伴走だろうか。爆発的に売れた本の担当編集者が顔を出して語る記事を読んだあと、どれだけよい本なのかと思ったら、著者の思いではなく編集者の思いばかりが伝わってきて、「著者がその人である必要性」が埋没してしまうということがある。著者と編集者が「そのコンビでなければ生み出せない関係」になっている本に出会えることはまれだ。そして、自分がこの先そこまでの関係を編集者と築いていけるかどうかの……自信が無い


ああそうか、つまりぼくはプロの著者になれていないのだ。ぼくがプロになれていないのだ。今、書いていて思った。「プロの編集者がいないから」ではなく、「ぼくがプロの編集者と仕事をできるクオリティに届いていない」。だから編集者もプロの仕事を発揮できない。

ぼくが最初の原稿で編集者をうならせていれば、そもそもあんなに校了ぎりぎりまで編集者が頭を悩ませてぼくの書いたものを直す必要がない。ぼくのせいで編集者たちの仕事が増えるのだ。ぼくは仕事が早いのではなく、時間をかけて集中してぎりぎりまで粘っていいものを出そうとしていなくて、仕事の手離れが早いだけなのだ。「泳げるから大丈夫」と言って池に飛び込んだぼくがそのまま沈んでいこうとしているのを、編集者たちは必死で救助していた。ぼくは「一人で大丈夫なのになんでこいつらぼくを掴んで必死でバタ足してんだ?」と思っていた。


彼らのつらさの原因は、ぼくにある。そう考えれば、「ぼくが出版から距離を置こうとしている」という言葉のニュアンスもだいぶ変わってくる。

締切ぎりぎりまで粘れる人以外は原稿を書く資格なんてない。ぼくの仕事が早いうちは、執筆なんてしてはいけない。ぼくはゆっくり書く練習をするべきなのだ。ぎりぎりまで真剣に向き合うことをこれまでやってこなかった報いだ。今、ようやくそのことを知ったのだ。


今にして思えば、ぼくが好きな作家、エッセイスト、そういった人びとはみな、締切ぎりぎりまで自分の原稿を練り込みまくって、初稿と出版物とが9割がた別モノになっているような人ばかりだった。なぜぼくは、尊敬する人たちのやり方を今まで一度もマネすることなく、あらゆる原稿をさっさと書き上げてきてしまったのか。