2017年3月9日木曜日

脳だけで恥をかく

ツイッターで他人を攻撃している人が目につくときはたいてい体調か精神状態がよろしくない。

何かを揶揄しはじめた人々を見ると目の周りの筋肉に力が入り始める。

そういうときには、スマホで表示できる絵文字を使ってギャグなどを作る。

笑いには幾種類かあるのだが、中でも「苦笑」は比較的かんたんに求めることができ、かつ、相手の方の力を抜き、自分の肺のすみっこにたまった澱のような空気を吐き出す助けになる。

ねこが屋外で草を食べて毛玉を吐き出すようなものだ。苦い笑いは、体内の悪いものを排出する手助けになる。

こういうことに気づけたのは、自分の中では「進歩」だと思っている。



⏰ <まったく、 めざましい しんぽだ



もう、これだけでだいぶラクになる。あなたも、わたしもだ。

苦笑を求めないまま、くそまじめな顔をしてタイムラインを警備するような真似はしないほうがいい。

それは、なんというか、精神にあぶない。



🌂 <おわっ! あんぶれーらぁ!



別に絵文字ギャグである必要はないのだが、時に、人は、目の前にある濁流に「流されまい、流されまい」と思いながら、なぜか足がそちらに向いてしまい、いつしか飲み込まれる、みたいなメンタルになってしまうことがある。気晴らしが必要だ。精神状態をずらす。がらっと変える。立ち位置自体を動かしてしまう。



🚀 <ろけっとしてる場合じゃないぞ!

🚜 <そうだ!逃げとく と 楽たー!

🎾 <かってにするんだ!

🚥 <んだ! だいじょうぶになる! しぐ なる!






🎪 <いったい何の話をしてんとか

🚣 <わかんぬー

🚪 <けど、あー、

🗿 <これも愛のかたちかと思ったり

🔜 <すーんのよ


2017年3月8日水曜日

病理の話(56) 疑惑と衝撃のわけ

病理診断というのは、常に、疑われている。

臨床医と会話をすると、それがよくわかる。

臨床的に「あまりがんっぽくないな」と思われていた病変から、検体をとってきて、それを病理でみたときに「がん」という診断をくだすと、ほぼ100%、電話がかかってくる。

「先生がんってマジすか!」

これは強調ではない。けっこう、こういう口調でかかってくる。


この質問に対し、

「だって細胞が悪そうなんだもん。核がでかいもん。」

と答えていたのでは、だめだ。

そんな、病理医にしかわからない基準、それも「大きい」とか「小さい」みたいな主観的な基準で、臨床医が納得してくれるわけがない。

けど、実際、よくこういう説明はなされるらしくて、だから病理はすぐ「ブラックボックスだ」とか「病理医の胸先三寸でがんかどうかが決まる」とか言われてしまう。




臨床医が「がん!? マジすか!」と電話をかけてきたらどのように対応するか。




とても大変で、毎回対応が変わるし、ケースバイケースでいろいろな返答をするのだけれど、一番大切なことは、

「臨床医がなぜびっくりしているのか」

をきちんと解析することだ。

理想を言えば、「臨床医がおどろくのも無理はない」というレベルまで、臨床像を病理医が読み解けるといい。

そうすれば、何を彼らが驚いているのか理解して、それに対して病理診断がどこまで力を持つのかを解説することができる。


……しかし、臨床診断だって、一朝一夕に真似できるものではない。

その道のプロが診断するに至る思考回路というのは極めて複雑だ。

所詮、病理医であるぼくが、「臨床医がなぜ疑問に思っているのか」を、彼らのやりかたでなぞることは難しい。


だから、聞くのである。教えてもらうのである。


「マジっすけど、その驚いた理由をぜひ教えてください。」



これを全部の科に繰り返していると、病理医は自然と、ありとあらゆる臨床科の「門前の小僧」状態になる。

なんとなく、臨床医と同じような診断ができるような気がしてくる。



まあ、門前の小僧が覚えられるのはお経の一部だけだ。

どういう顔をしてお経を唱えるか、お経を唱えるときどのような姿勢で、どのように木魚を持って叩くか、檀家さんにはどのようなお話を追加するか、そういった技術は絶対に身につかない。

だから坊主のふりはできない。けれど、話ができるようになれば、しめたものなのである。





どうでもいいけど、医者の話をしているのに坊主に例えるというのはとてもまずいのではないか……。

いや、ま、医者も坊主も同業者ではある。説明して、納得して頂くというのが、我々に共通した職務である。

2017年3月7日火曜日

お腰につけたその靱帯

腰痛がひどかったことがある。

座り続けて延々とPCを覗き込んで、がりがりとシェーマを作っていた。どうにも腰が痛い。あっちきしょう、年を取るっていやだなあと思っていた。

腰をもんだりあたためたり、座り方を変えたりしていろいろ対処したのだが、悪化の一途だった。

あるとき、たまりかねて、マッサージ屋に行った。 整形外科にかかれよ、とつっこまれるかもしれないが、うん、医療費高騰が叫ばれる昨今、自分の体を慢性的にどうにかいい方向に持って行きたいと思ったら、ときにはこういう医療保険を使わない市中のサービスも役に立つもんだよ。

……要はめんどくさかったのである。さらっと入れる場所にあったマッサージ屋に入った。保険証もいらねぇし。もんでくれい。

そしたら、こう言われた。

「ふとももの裏の筋肉がすげぇこってますね。」

「ふとももっすか。腰じゃなく。」

「ええ、ふとももの裏ですね。」

「腰はどうなんすか。」

「ふとももの筋肉って、お尻につながりますよね。」

「つながりますね。つながるんでしたっけ。」←(素で解剖学を忘れていた)

「この筋肉、腰のこのあたりにつながってるんですよ。」

「ほう……。」

「座り仕事が多いとおっしゃってましたよね。ふとももの血流がめっちゃ悪いんですよ。長いこと座るでしょう。すると、ふともも、めっちゃ硬くなるんです。」

「ふむ……。」

「するとね、こう、硬くなった筋肉が、腰もひっぱっちゃうんですね。後ろ側に。」

「おっ……。」

「で、腰まわりに負担がかかることになって、腰痛になると。」

「あれっ、腰! 腰出てきました!?」

「出ました。」

「出ましたね。」

「だから、これを治すには、まず、ストレッチをしてください。」

「今ここでバキッつって治すんじゃないんですか。」

「だいたい、バキッって壊れる音ですよね。」

「確かにそうですね。」

「そういうバキバキ整体で、体のずれを治すとか、あれ、かなりあやしいですね。」

「あやしいですか。」

「その一瞬、ある程度よくなったように感じるでしょうけど、原因があってずれたわけでしょう? 原因をとりのぞかないと、またずれますし。そもそもずれをバキッって治すなんて、レゴとかプラモデルであっても、あんまりよくないと思いますよね。」

「思いますね(同調圧力を感じてきた)。」

「だから、やり方を教えますので。あなたの腰痛に効くストレッチは、前屈です。」

「前屈っすか。」

「そう。そして太もものうしろをやわらかくしましょう。そしたらラクになると思います。もんでみて思いました。」

「(いつのまにかもまれていた!)」




こうして腰痛が治りました。整体すげぇって思いました。

世の中にはこのように、腰が痛いのは腰のせいだと思ってたけど実はふともも、みたいなことがあるよなあ……という、糸井重里さんみたいな例え話ふうのいい話にしようかと思っていたんですけど、長くなったんでやめます。

2017年3月6日月曜日

病理の話(55) 本当の意味での解剖嫌悪

解剖というものについて、ぼくが多くを語ることはない。

それは、ぼくが、解剖のことを嫌いだからだ。




今までぼくは、だいたい300件くらいの病理解剖をしてきたと思う。たった300件だ。昔の病理医は、3000件とか5000件というオーダーの解剖をしていたらしい。

ぼくの解剖件数が少ないのは、ぼくが解剖を毛嫌いしていたからではない。そもそも、「病理解剖」自体が減っているからである。

今や、病理解剖は、”ほとんど” 必要のない手技となった。

(※刑事事件の際に行われる解剖は司法解剖と言って、病理解剖とは別なのですが、その話はまたいずれ。)




病気の大部分は、解剖などしなくとも、明らかになる時代である。

CTもMRIも、切れ味がすごいのだ。死後画像診断というのもある(わざわざAiなどと仰々しい呼び方をするのは好きではない。死後画像診断、という言葉はずっと昔からあった)。

医師の診断手法も多角化した。血液検査だって切れ味ばつぐんだ。腫瘍の正体が知りたいだけなら、解剖までしなくとも、亡くなったあとに細い針を一本刺させていただいて、肝臓あたりから腫瘍を採取すれば、だいたいの遺伝子検索はできてしまう。

わざわざ、ご遺族に断って死体をあずかり、傷をつけて臓器を取り出し、外からわかりにくいように縫って包帯をまいて、きれいな着物を着せて手を合わせてお返しする必要なんぞ、もはや、ごく限定的な場面でしか、なくなってしまった。





完全に死語となってしまったが、昔、病理医は以下のように揶揄されていた。

「内科医は何でも知っているが何もしない、
外科医は何も知らないが何でもする、
精神科医は何も知らないし何もしない、
病理医は何でも知っており何でもするが遅すぎる」

これは、病理の主戦場が解剖だった時代の言葉である。

今と違って、まともな画像検査など一つもなく、切れ味のある血液検査もなかったころ、多くの病気は正体がわからなかった。がんと言えば体表に変化が現れる皮膚がんと乳がんしかわからなかった時代。胃や大腸、肺や膵臓などに「がん」が出るなど想像もつかなかった。患者が日に日に弱ってついにはなくなってしまう。どこに悪魔がついたのか、何が患者に悪さをしたのか、患者本人はおろか医者も学者も何もわからなかったころに編み出されたのが、

「病理解剖」

だった。

そりゃあ、「遅すぎる」とも言いたくなったろう……。

でも。

亡くなってしまった患者から得られる情報は、「まだ見ぬ未来の新たな患者」を救うヒントになるかもしれない。

病理解剖は、遅すぎるどころか、「早すぎる」くらいの仕事なのだ。本来は。

誰だ? あの格言みたいな言葉を作ったのは。

何もわかっていないじゃないか。





病理医は、病理解剖の間違ったイメージのせいか、暗く、手遅れな分野のように語られるふしがある。

まったくもって理不尽だ。不愉快である。

だからぼくは解剖が嫌いなのだ。





病理解剖では、体内にある臓器をすべて取り出す。取り出したあと、臓器の検索に移る前に、ぼくは必ず一緒に解剖に入っている技師さんに、「患者さんの体を縫い始めてください」と言う。少しでも早く、ご遺体をご家族のもとにお返しするためだ。臓器を取り出すために必要なだけの傷はそれなりに大きい。丁寧にゆっくりと縫い合わせる。時間がかかるから、臓器の検索が終わるより先に、縫い始めてしまう。

心臓を見る。すでに動いていない。ぬくもりは、あるときもないときもある。グロさはない。ここは、とても大事なところだ。

グロさはない。ただ、精巧すぎて、神の存在を一瞬信じざるを得なくなるような、そんな気分になる。

宇宙飛行士は、地球を眺めて、そのあまりにも美しく、宇宙空間において孤独でひよわな奇跡を感じて、なんらかの宗教に入信したくなる……。そんな話を聞いたことがある。

ぼくは宇宙にはいかないだろうけど、神の存在なら、臓器を見ればある程度は信じることができる。

臓器というのはそういうものだ。

ホラー映画や、グロ画像と言われる類のものが描写する「臓器」なんぞ全部うそっぱちだ。

本物をみると、キョトンとする。

これが体の中で、何十年にもわたって、人間ひとりを支えていたのか。

敬虔な気持ちがわきあがり、そこからすべてのシナプスが猛然と発火し始めるような錯覚を覚える。

縦隔気腫の分布がアーチファクトかどうか判断せよ。

乳腺を見逃すな。

下腿をもちあげて深部血栓の有無を探れ。

肝十二指腸間膜を切る時には胆汁の漏出を確認せよ。

副腎を同定するなら血管を触れておけ。

下大静脈は一発でほぼ全長を見渡せるように。

尿管を傷つけずに腎臓を秒単位で取り出せ。

枝追いをしながら肺にホルマリンを入れろ。

人間をかたちづくるすべての臓器に、あらゆる作法をもって挑み、患者の遺志と遺族の意志を次につなぐ。

すべてに、高度な専門技術と、先人たちが積み重ね、練り上げてきた「勘の付け所」が要求される。

不謹慎を承知で言おう。

人間のすべてを見てやろうとする解剖が、おもしろくないわけがないのだ。




……ほら、こうやって書くと、みんな、すごく引くだろう?

だから、ぼくは、解剖が嫌いなのだ。




ぼくは解剖がやりたくて病理に入った人間ではない。

そういう目で見られるのも腹が立つ。

学生実習のときは、顕微鏡を見るだけで酔っていた。

解剖実習で後ろの方に立っていたら、気持ちが悪くなってしまった。

そんなぼくは、乱視補正のかかった高級な顕微鏡で酔い知らずの毎日を送っているし、自ら体内を覗き込めばグロ画像からは程遠い「精巧で緻密な世界」が眼前に広がることに気づいて解剖の奥深さに触れ、今の仕事についている。





まんまとこうなっているのが嫌いなのだ。

2017年3月3日金曜日

だがもう少し時間がかかる

気が散っている。 

何をするにしても、気が散っている。

いつもなら、音楽をイヤホンで聞き流しながらメールを書くこともできるし、昼飯を食いながら午前中の診断について考えることもできる。スポーツを見ている最中に先日読んだマンガの内容を思い出すこともできるし、寝ながらツイートのネタを思いつくこともある。

しかし、今、とても気が騒いでしまっており、どうにも、複数のことに目を配れない。

何をしていても、考え始めてしまった新しい講演スライドの構成のことばかり思い浮かんでしまい、なにも手に着かない。

こないだ、食事中に、同席者に指摘されてしまった。

「どうした、ぼーっとして。気が散ってるみたい。」

「そうなの。気が散ってるの。すまんね。」

「何に気が散ってるの?」

「講演スライドなんだけどね。」

「講演スライド?」

「あの内容とあの内容を盛り込もう、あれとあれも入れよう、もう8年くらい考えていたアレもこれも全部入れてしまおう……そうやってずーっと考えているんだよね。」

「それさあ、」

「うん」

「気が散ってないじゃん。一途じゃん。」

「ん?」

「集中しちゃってんじゃん。だから他に気が回んないんじゃん。」

「ん?」

「気が散ってないじゃん。」

「そうか。」

「気が散ってるみたいに集中しちゃうの?」

「そうみたいだね。」

「ふーん。」

「そうみたいだね。」

「今、一回返事が多かったよね。」

「そうみたいだね。」



気が散っていなかったらしい。

逆なのだそうだ。

ということは、気が集まっている、ということか。



魔貫光殺法であるな。

「当たらなければ意味がない」ってやつだ……。

2017年3月2日木曜日

病理の話(54) ストーリーを語り合おう

医療における「診断」は、ほんとうに膨大な量の、先人達の知恵や経験の積み重ね、さらには学術的にきちんと整えられた統計学(エビデンス、というやつだ)によって、支えられている……。

けれど、この、知恵とか経験とかエビデンスだけで、実際に医療者が、例えば医師が、ぜんぶ納得して診療をできているのだろうか、ということを考える。



1.息切れで受診した患者さんがいて、話を聞いて、こういう症状があって、診察であんな所見があって、検査でこの値が陽性になったら、「薬(1)」を投与する。そうするとよくなる。エビデンスが示している。

2.息切れで受診した患者さんがいて、話を聞くと、さっきの人とはちょっと症状が違っていて、診察も少し違って、検査も少し違ったので、この場合は「薬(2)」を投与する。さっきの薬だと効かない。エビデンスが示している。



このような文章を、実際に専門用語でダァーッと書き連ねたものを、医療者がえんえんと座学で頭に詰め込んで、さて、実際に訪れた患者さんの前で、正確に思い出して薬を選べるものなのだろうか?

ぼくは、ぶっちゃけ、無理ではないかと思う。

そんなの、暗記マシーンみたいな人じゃないと無理だ。

いや、確かに、世の中には暗記マシーンみたいな人もいるけれど、病気の種類なんてもう無数に存在するわけで、その全てを暗記するなんて、絶対に無理だろう。

しかも、暗記したデータは、統計情報が日々更新されていることで、どんどん入れ替わっていくのだ。



だから、多くの医療者は、診断や治療において、

「プロセス」

とか

「ストーリー」

をとても大切にするのだと思う。



さっきの話を少し具体的にして、ストーリーをつけてみよう。


1.息切れで受診した患者さん。調べてみると、心臓の動きが弱い。心臓の動きが弱いと、肺の血液循環も悪くなってしまう。血液の中に酸素を取り込み、血液の中から二酸化炭素を追い出すための肺で、循環が悪くなると、全身に酸素が足りなくなり、二酸化炭素が溜まってしまう。だから、「息切れ(呼吸が苦しい、酸素が足りないように感じる)」という症状になる。

 こういうときは、心臓を手助けしてあげる薬がいい。薬(1)は、心臓を手助けする力がある。

 心臓を手助けすれば、血液の巡りがよくなって、肺の血の巡りもよくなる。そうすれば、息苦しさも解消するだろう。



2.息切れで受診した患者さん。調べてみると、体の中の血液の量が減っていることがわかる。ポンプである心臓はすごくがんばっていっぱいドクドク動いているんだけど、ホースの中身(血液)が少ないから、やっぱり血の巡りはあまりよろしくない。

 こういうときは、心臓を手助けしてはだめだ。心臓はもうめいっぱいドクドク動いているからだ。これ以上、心臓をがんばらせてしまうと、かえってへたばってしまう。

 心臓を手助けするのではなく、血液の量を足してあげるのが先決だ。また、ホースを少し締めるような薬(2)を入れる。ホースの太さを絞れば、中身が少なくても、流れるスピードが上がるだろう(庭に水をまくときに、ホースを指でつぶせば勢いが増すように)。




このようなストーリーがあればどうだ。

診断についても、治療についても、一気に覚えやすくなる。ただの文字の暗記ではない、風景と共に病態を理解することができるようになる。




さて、以上の話を「病理の話(54)」として掲載したのはなぜか。



今、病理医の数は足りていない、とされる。実際、多くの病院は自前の病理医を欲しがっているが、病理医の人数が少ないので、自分の施設に専任してくれる病理医を雇うのはなかなか難しい。

そのため、多くの病院は、「検査センター」と契約をして、病理診断を「外注」する。

これで、実は、日本の医療はけっこうなんとかなってしまっている。

病理医が足りない、足りないと言っても、実際に多くの手術は行われているし、診断も治療もそれなりに滞りなくできてしまっているのだ。

検査センターさまさまである。

では、検査センターではなく、自施設に常勤病理医がいるメリットというのはどれくらいあるのか。



臨床医達が、日頃の診療において「ちょっとした疑問」とか、「どうしても納得できないこと」があったときに、病理医が常勤していると、すぐ聞きに行ける。一緒に画像を見て、考えて、病理診断の理由を聞いて、そして、

ストーリーを一緒に編むことができる。



検査センターに外注していると、この「ストーリーの摺り合わせ」ができない。



ストーリーをいちいち想定しなくても、暗記能力さえ高ければ、医療というのは遂行できるものである。

最初に書いた通りだ。

そして、ぼくは、臨床の診療というものを、全て暗記で解決するのは不可能だろうと思っている。

だから、病理医がいると、診療のレベルが……そこまで目に見えてはあがらないのだけれど、「医療者達の満足度」は確実に上がる。



病理診断がAIに置き換わった未来を想定したとき、AIは果たして「語り部」になってくれるだろうか、「相談相手」になってくれるのだろうか。

そんなことを少し考える。

2017年3月1日水曜日

違いの分からない人の∪⊂⊂コーヒー

「カメラを買う買うと言いながら、まだ買っていない。しかし、そろそろ買おうとは思っている。

たぶん、自分には写真のセンスがない。けれど、ギミックの搭載されたメカは好きなので、いずれ買って、人に迷惑をかけない程度に楽しもうと思っている……。」



このように書く場合の「センスがない」とは、たぶん、

「上手にできない」

という字面通りの意味では、ない。



そうではなくて、
「圧倒的に人の心を動かすようなプロの仕事のレベルには達しない」
くらいの意味だ。

謙遜といえば謙遜である。ただ、ちょっと居丈高にも聞こえる。



こういう言い方をよくしてきたのは、ぼくである。

どうも、ぼくは、趣味にしろ特技にしろ、「プロとして人を感動させられるレベルになれなければ意味がない」みたいな建前を、大事にしすぎているのだな、ということに気がついた。

この話は、ぼくに限った話ではないようだ。

写真を掲載しているブログやインスタグラムなどを眺めていると、ほとんどの撮り手が、低頻度ではあるが、「プロほどはうまく撮れないけどね」という言い訳を、どこかのタイミングで発信していた。

ネットに記録を残す趣味人達の間では、普遍的な謙遜なのかもしれない。

本の感想を書く人は、「プロの書評家ではないけれど、自分の思ったことを書き留めておきたい」と、言い訳をする。

スポーツを楽しむ人も、「別に大会に出て勝つのが目的ではないけれど」と、言い訳をする。

なぜ、わざわざ、「自分が楽しめればいいので。」と、前を向く前に、

「自分にはセンスがないけれど」

とか、

「プロのレベルには達しないけれど」

と言い訳をしないと、気が済まないのだろうか?

自分だけが楽しむということに、何か、「謙遜の圧力」のようなものが、かかっているのかもしれないな。

楽しむという感情は、ほかの喜怒哀に比べると、何か、世間にお許しを得なければいけないような感覚を伴うものなのかもしれない。




ぼくがとてもきらいな言葉がある。

「何が楽しいのかわからない。」

わからないのはあなたの勝手だ。人それぞれ、楽しみのポイントは違う。けれど、なぜ、自分の楽しさのレセプターと相手の楽しさのレセプターが合わないときに、不快をもって語ろうとするのか。

なぜ、自分と同調していない楽しみを持つ人間を、若干の不快感をもって扱おうとするのか。




きらいな言葉だが、それ以上に、怖かった。




「何が楽しいのかわからない。」

そう言われるのが怖くて、

「いや、ぼくのやっているこれ、ちょっとあんまり楽しく無さそうに見えるかもしれませんけれど、これはこれで、とても味があるんですよぉ。」




「それをやって何になるの? プロにでもなりたいの?」

そう言われるのが怖くて、

「いえいえ、まさか、自分にはそこまでのセンスはないんですけどね、その、プロの人々が全身使って表現するようなレベルには全く達しないんですけれども、単純に、趣味というか、自分が楽しめればそれでいいかなあと。」




うーむ。

つまりぼくは、いつか誰かがぼくのことを

「わからない」

と声をかけてくるのが怖くて、それで、自分がほんとうにやりたいことのすぐ側に、「自分にはそこまでセンスがないんですけど」というフレーズを、脇差しのように添えておいたというのだろうか。




ほんと、いったい、何がしたいのかわからない。