2018年2月9日金曜日

Carcommunication

札幌で聴けるFMラジオのうち、大手の民放は2つあって、それぞれ「Air-G」、「North Wave」という。ほかにもいくつか草の根FM局がある。

朝はこれ、夜はこれと決めているわけではないのだが、適当にチャンネルをいじって、どちらかの局をよく聴いている。

一番ラジオを聴くのは通勤中、車の中だ。エンジンをかけるとまずラジオがかかる。少し聴いてみて、そのときの話題に興味がないとか、なんだか人の声が耳に届いてこないような日には、CDに変える。

このあたり、行動を決めているのは単に「気分」だ。ラジオと音源とどちらが好き、というこだわりはさほどない。



ただ、出張の前後では話がかわってくる。

ぼくは飛行機で出張するとき、空港への移動手段として車を選び、高速道路を走ることが圧倒的に多い。

自分の車で移動する、というと、交通費の計算ができないといって出張先の人にぼやかれたり、帰りの飛行機でビールが飲めないじゃないですかと不思議がられたり、移動中に事故ったら責任の所在が難しくなるといさめられたりと、わりと世の中の人々には納得していただけない。

別に運転がすごく好きなわけではない。免許だってオートマ限定だ。これをいうとよくバカにされるがオートマハラスメント(略して大原)であろう。ぼくは車で移動するのが習慣になってしまっており、そちらのほうが心地よいのだから、しかたがない。

端的にいうとぼくは出張のときにはカーステレオでCDを聴きたい。験担ぎみたいなものなので理屈ではない。

車に置いているCDは全部で12枚くらい。ときどき入れ替える。LOSTAGEのアルバムはどれか1枚必ず含まれている。あとはばらばらで、ピアノジャックだったりレッチリだったりピロウズだったり坂本慎太郎だったりスプラトゥーンのサントラだったりする。ジャンルは特に決まっていない。

これらを、高速道路の上で、聴く。もともとポリシーみたいに掲げていたわけではなかったけれど、今やほとんど習慣となってしまった。

いつどういう理由でこんな習慣ができたのかよく覚えていないのだが、おそらくは過去に、「ひどく緊張した出張の前にCDを聴いてテンションを無理矢理あげていたら仕事がうまくいった」みたいなエピソードがあったのだろうと思う。

エピソードをきちんと覚えていたら、そこそこまとまった「すべらない話」が作れたのかもしれないが、今こうして身についてしまっている日常のゆえんをすべて思い出せるほど、ぼくの脳は高性能ではなかった。





と、ここまでの記事はずいぶん前に書いてあったものだ。なんだか最後のまとまりがなくて、公開しないまま下書き状態で放っておいていた。この間、車内にはZAZEN BOYS「すとーりーず」や、矢野顕子「Soft Landing」などが導入され、ぼくは釧路や東京、仙台などに出張を重ね、相変わらずの暮らしを送っていた。




先日、実家でダンボールを開けたり閉めたりしていたら、懐かしいCDが出てきた。

Smooth ace, SPARTA LOCALS, スネオヘアー, 宇多田ヒカルの初盤……。

UA, Number GirlのライブCD, Rachel Yamagata……。

引っ張り上げられるように蘇った記憶は大学院時代のものだ。

ぼくは薄暗いラボの片隅で、Western blotのメンブレンを破り捨てながら、夜通し実験したり論文を読んだりして、何もかもがうまくいかない日々を送っていた。

ラボに置かれていた古いCDラジカセ(!)に、これらのCDを順番にセットして、盲端になっているトンネルの中でひたすら音楽を聴いていた。

大学院卒業間近の、3月のある日、ラボに置いてあったCDたちをすべて撤去した。すずらんテープで縛ってリュックに入れた。帰りの車の中で、その中の1枚を聴いた。

その1枚というのが、今車に置きっぱなしにしているレッチリの1枚であった。ついさっき、思い出した。残りのCDはこうして実家の納戸の中でダンボールにくるまれて、15年ほど眠っていたことになる。

出張前に聴いて仕事がうまくいったとか、テンションがあがってうれしくなったとか、そんな記憶はあとから、油絵を塗りつぶすように上描きされたものだった。習慣なんてそんなものだ。日常はこうしてできていく。

2018年2月8日木曜日

病理の話(168) 知ったかぶりクリニカル

ぼくはときどき、気づかぬうちに知ったかぶりをしている。そろそろ40になろうかという今ようやく実感して、改善しなければなあ、と思っている。

たとえばそれは、臨床医と話をしているときに起こる。

とある内視鏡医がこう言った。

「こないだある国で内視鏡してたら、バイオのパチモンがあってですね! 側面のロゴみたら『パイオ』って書いてあるんですよ、笑っちゃったなあ」

ぼくは破顔した。

「パイオですか! ハハハ! うける」

ぼくはこの「バイオ」を、疑うこともなくソニーのノートPC、VAIOのことだと思っていた。

1年ほど経ったある日、ぼくはとある研究会にいた。その会では有名な内視鏡医が、公開で内視鏡の技術を実演する、いわゆるライブデモという企画がなされていた。

ぼくは普段あまり見ない内視鏡医の手元をよく見てみようと思い立ち、演者の近くに座ってじっと彼の技術をみていた。

ポー、ポー、と音がする。何のビープ音かというと、内視鏡の先端から出たデバイスが病変を焼いたり切ったりするときに、高周波装置が発する効果音だった。

ポーポーうるさいそれを、ふと見た。

そこには、「VIO 300D」と書かれた箱形の機械があった。ああ、あれが高周波装置……。

あっ……。

「バイオ」とはVAIOではなくVIOだったのだ。はじめて気づいた。

某国に存在したパチモンというのは、「SOMYのPAIO」などではなくて、「PIO」なのだ。偽ブランドパソコンの話ではなく、偽ブランドの高周波装置だったのだ。





あのとき内視鏡医はこう言った。

「踏んでも熱があんまりかからないときがあるんですよ(笑)」

ぼくはそのことばを、知ったかぶりして流していたが、今にして思い出せば、とてもヘンである。

ノートパソコンを踏みつけて熱がどうとか言う話をする人がいるだろうか? いやまあそういう性癖の人もどこかにはいるかもしれないが、いくらなんでもそこで「おかしい、何の話だ?」となってしかるべきであった。

彼は、内視鏡に用いる、熱焼灼用の高周波装置の話をしていた。つまり、パチモンを使って内視鏡を操作しているとどこか日本のマシンと比べて性能が劣るんだ、それでもあの国では立派に胃カメラ・大腸カメラ業務をやってるんだ、という意味で笑っていたのだ。




バイオの話はまあ笑い話で済むかも知れない。

けれども、ぼくは続けて思った。ぼくは日頃から、内視鏡医たちが、あるいはもっと他の科の臨床医たちが、日常的に使いこなしている専門用語を、「いまさら聞けない」などの理由で知ったかぶりをしてやりすごしてはいないだろうか?



ロジスティック回帰分析。

FN(発熱性好中球減少症)。

ルー・ワイ・吻合。

アンチトロンビンIII値。

TAVI(経カテーテル大動脈弁留置術)。



ぼくが日頃から、便利に使っているつもり、のことばたちである。けれど、ぼくはこれらを、たとえば看護学生に、たとえば患者に、たとえば家族に、意味・機能・存在意義など正確に教えることができるだろうか?

できない。

ぼくは詳しく知らないものを、知ったフリをしている。

ライブデモの会場で、ぼくは少し赤面していたと思う。





病理医の仕事は、臨床医に向かって知ったかぶりをすることではない。そんなことに今さら気づき、ああ、40で不惑なんてうそっぱちだ、と、あらためて戸惑いながら、教科書をめくるしかない。

2018年2月7日水曜日

指定医ハンター

「ずるむけ」とか「もっこり」ということばを研究会で聞くことがある。フフッってなる。

この胃カメラの所見を説明するのにそのことば必要かよ、って思う。

もっと厳密なことばをきちんと使って欲しい。医者なんだからさ。




「ずるむけ」じゃなくて、

「粘膜下層を主座として発育した病変が、粘膜筋板を下から押し上げて粘膜下腫瘍様の隆起を形成すると共に、隆起表層の粘膜がびらんに陥って剥離し、粘膜下層の構造が表面に隆起しながら露出した状態」

ってちゃんと言えよ……って思う。

思うけれど……ううむ……「ずるむけ」って、便利なことばだなあ。ニュアンスはほぼ完璧なんだよなあ。



「もっこり」じゃなくて、

「粘膜内に何か、腫瘍細胞でも非腫瘍細胞でも炎症細胞でも構わないが何かが増生/増殖し、粘膜の丈が厚くなって隆起を来たした状態で、比較的立ち上がりが明瞭なことから限局性の変化であることが推測されるとともに、隆起部表層の粘膜にツヤ・光沢がみられることから緊満を感じる状態」

ってちゃんと言えよ……って思う。

思うけれど……ちきしょう、「もっこり」、便利だなあ!


*



ぼくは、辞書編纂者(飯間さんとか)のツイートを読むのが好きだ。「舟を編む」も、とてもおもしろく読んだ。

ぼくらが日常的に使っていることばは、さまざまなニュアンスを含む複雑な状態を、あっさりと表現してくれていたりする。

ひとつの言葉も、掘り下げていくと、「ああ、確かにそういう意味を含むんだよなあ。」なんて、驚きと発見に満ちあふれていたりする。

医療の画像をみて、「ずるむけ」とか「もっこり」ほどはっきりした日常ことばではないにしろ、ぼくらはしょっちゅう、「ちょっとざらついた感じ」とか、「下から持ち上げてくるような」とか、「なんとなく派手な印象で」とか、そういうニュアンス性の強い言葉を用いる。

「なぜこういう言葉で表現したくなったのだろう、この像はぼくにとってどう見えているのだろう」というところをしっかり掘り下げる作業というのは、けっこうおもしろい。



けどやっぱり、もっこりはまずいんじゃないかなあと思う。

2018年2月6日火曜日

病理の話(167) パイプのトラブル8000円

血管と血液の流れの話をしよう。

ぼくらの体の中では、生きている限り、ずーっと血が循環している。

動脈は、きれいな酸素や栄養をあちこちに送り込むために全身に張り巡らされた「パイプ」だ。

大動脈という人体最大のパイプは、心臓から最初に出てくる幹であり、血管の親玉である。リコーダーくらいの太さがある。このリコーダーから、脳、ウデ、足など各所に向かってもう少し細い動脈が枝分かれする。総頸動脈はエンピツくらいの太さだ。

胃や腸、肝臓や腎臓など、あらゆる臓器にも動脈が向かう。最後は毛細血管と呼ばれる髪の毛より細いパイプとなって、指先にまで分布する。

水道管をイメージするとよい。

浄水場できれいになった水が、最初はでかいパイプによって運ばれる。市街地に入ると編み目のようにわかれて、それぞれの家庭へと伸びる。家の中でさらに台所とか洗面所とかトイレといった細部に行き渡る。



さて、血管というパイプは、80年以上にわたって保守管理をしなければいけない。これはよく考えるとすごいことである。80年放っておいて朽ちない水道管などありえないだろう。

水道管が破裂したら地方紙の一面を飾るほどのニュースとなるが、そうならないように、水道局の人々は水道管の経年劣化を監視したり、古くなったパイプをとりかえたりしてくれる。

でも、人体の中には水道局はない。どうやって破損箇所を探し出し、どのようにメンテナンスしているのか?



血管のメンテナンスは、考えれば考えるほど複雑で、とてもよくできている。

「あれでしょ、血小板とかが出てきて、ふさいでくれるんでしょ。見たことあるよ」

その通りなのだけれども、ちょっと待って欲しい。よく考えて欲しい。

血管の世界では、水漏れ修理なんて穴をふさげばよいではないか、と簡単に片付けてしまってはいけない。



大原則として、血管というパイプは、水漏れもやばいが、詰まらせてしまってもいけない。もし詰まったらその先の細胞たちはみんな酸素や栄養がもらえなくなって、ばたばた倒れていくことになる。

この「穴をふさぐのはいいが、絶対に詰まらせるなよ」という制限が、修理をとても難しくする。



水漏れ箇所にパッチをあてたとしよう。よーしこれで穴はふさいだぞー。

でも動脈の中にはギュンギュンと血液が流れている。血管というパイプの壁にも、血流の力がドコドコかかっている(※ずり応力の話は省略します)。

パッチをあてて穴をふさいだはいいが、そのパッチだって劣化する。劣化してぼろぼろになって、あるとき、血の流れにおされてぼろっとはがれる。パイプの中をビュンと流れる。先に詰まる。

たいへんだ。水漏れ修理が原因で、パイプが詰まってしまう。



じゃあ、血管のパイプ修理はどうすればいいと思う?



パッチは用があるときだけカタチを保っていて、用が済んだらすぐ溶けて無くなるようにする。

そんな都合のいいパッチ、水道工事の世界には存在しないわけだが、血管工事の世界にはちゃんと存在するのだ。

すさまじい技術(?)である。細かい秘訣がいろいろある。話すと長くなるがひとつだけ。



パッチを必要な時に自由に作ったり溶かしたりするために、血管の中では、「たとえ水漏れが起こっていなかろうとも」、パッチを作るはたらきと、溶かすはたらき。これらを常に同時に稼働させている、という。

一見ムダにみえるが、この仕組みは優秀だ。

パッチが必要なときには「作る量を増やし、溶かす量を減らす」。

パッチが要らなくなりそうなら、「作る量を減らし、溶かす量を減らす」。

システムを常時、低速で稼働し続ける……言ってみれば「アイドリング」をすることで、いざというとき、システム立ち上げのタイムラグをなくすことができる。また、パッチの分量をリアルタイムで細かく調製することができる。

人体の中に水道局はいない、と書いたのだが、実は日頃から血液の中にはフィブリノゲンとかプロトロンビン、各種凝固因子などの無数の「水道局員」が溶け込んでいる。これらはぼくらの目に見えないレベルで、常時勤務している。常に血液の中で、パッチを作ったり溶かしたり、まるでアイドリング運転のように、低速運転しながらじっと待っている。

いざ! 血管がやぶれたら、あるいはやぶれそうになったら、アクセルをギュン! と踏む。すかさずパッチが大きくなってその場をふさぐ。アクセルが戻るとまた溶ける。




このシステムじゃないと、80年以上にわたる血管の保守管理はうまく回らないようなのだ。凝固・線溶(かためる、とかす)の仕組みはとても複雑で、医学部時代には授業で必ず寝てしまうくらい難しい(ラリホーマと呼ばれる)のだけれど、あらためて勉強してみるととても面白い。

なお今日の話はまだ「動脈」の話しかしてない。下水道、つまり「静脈」の話はしてないし、外因子と内因子の話もしてないし、一次止血と二次止血の話もしてないし、FDPとかD-dimerがなぜ検査として汎用されているのかも話もしてない。この世界は奥深いぞ。

2018年2月5日月曜日

オイル抜きで老いる

スーパーで売ってる、味がすでに付けられてるプルコギ的肉とか、生姜焼き的肉などを買ってきて、フライパンで焼いてのっけて食う。野菜が足りないなと思ったら玉ねぎを適当に切って一緒に焼く。味付けはスーパーにまかせているので自分ではもうほとんど加えない。

まず第一に油を使うのが面倒なので、フライパンで熱する料理しかやらない。ごま油を入れると香りがよくなって……みたいな話もわかってはいるし前はやっていたのだが、今ではほんとに最初に数滴たらすくらいだ。肉がもってる油だけで事足りてしまう。味の差はあるだろう、しかし、自分でさっと作ってぱっと食えることが、価値なのだ。丼モノは洗い物も少なくていい。



昔自分で買った本が読みたくなって、通りがかりのコーチャンフォー(本屋)でまとめて買ってしまった。実家に行けば同じものが揃っているのだが、再読したいほど好きな本なのだから、読むたびに作者に金を送るのは決して悪いことではないだろう。

この話を人にしたら、「そういう無駄遣いする人は嫌われますよ」とか「だらしないかんじがします」などといわれた。

先日は、ずっと買おうと思っていた曲の作者をツイッターで見かけて、「今だ!」と思ってiTunesでダウンロードをしたのだが、前に似たようなことを人に話したときも、「なんでそんなにホイホイ音楽買うかなあ、でもまあ、やっぱり医者ってのは金もってるからそういうことをするんだよねえ」といわれた。




ぼくは彼らにいつもいいたいことがある。

なぜ油料理をするのだ。なぜ油をひくのだ。油を買わなければいけないだろう。油を捨てるのだって面倒だ。油のついた食器は洗いにくい。油がなくたっていくらでもおいしい料理はあるのに。なぜ油をわざわざ買うのか?

彼らはなんと反論するだろうか。

ぼくは油を買わないが、本を買い音楽を買う。そこになんの違いもありはしないだろうと思う。




思うのだが、言うと、怒られる。

ちょっと怒られるのに疲れたので、ここはおとなしく、「油料理のコツ」が書かれた本を買って、よみはじめた。

「油料理も覚えようかなって思って、本買ってみたんですよ」

という話をしたら、「なんでそうやってすぐ本買うんですか? いくらでもネットに転がっているだろうに、もったいない」と軽蔑された。



アーウーアーである。

2018年2月2日金曜日

病理の話(166) 記憶は芋づる式

中学校のとき、「学年目標」みたいなのがあった。スローガンというやつだ。

ある年、ぼくのいた学年の人数が166人であるという理由で、

「想像ゆたかに166」

という標語がかかげられた。意味がわからなかったが、語呂がよかったせいか、当時は頭にスッと入った。

でも、しょせんは中学校時代の話である。もう25年経つ。もちろん最近はすっかり忘れていた。

ところが、このブログ記事を用意しようとして、「病理の話が166回目かぁ」、というあたりでふと思い出した。いうまでもなく「166つながり」である。

人間の記憶というのはふしぎだなあ。

そこを思い出させてくれるのか。

日頃なら思い出そうと思っても思い出せないことが、「連想」によってつるつると滑り出てくる。「166」という数字がぼくの中でエピソードと紐付けされていて、眠っていた記憶を引き出し得るなんてこと、ついさっきまでは思いもよらなかった。




記憶。

ぼくが昨日食べたごはんのメニュー。昨日みたテレビの内容。昨日すませた仕事。

さあ、思い出せ! と言われてもふだんのぼくはよく思い出せない。

けれど、さきほど仕事の書類を眺めていたときは、「昨日の仕事」について細部までほとんど完璧に思い出すことができた。

「仕事の書類を見ることで、仕事モードの記憶を引っ張り出す」。

実に合理的だなあと思う。

デート中に仕事のことばかり話す人は嫌われる、みたいなライフハックも聞いたことがあるけれど。




記憶は、常にほかの記憶と紐付けされているのだろう。何かが起こったとき、その場その場で関連する記憶を芋づる式に掘り出すシステム。

自転車で走っていて目の前に犬が飛び出してきた! アッと叫んで脳はいろいろな記憶のふたを開く。自転車のブレーキを握れば自転車が止まるのだ、という記憶。ハンドルがぶれないようにがんばらないと転んでしまうぞ、という記憶。急停車で体が前に持っていかれないようにふんばるべきだ、という記憶。衝突の衝撃に備えて目を細める反射も、広い意味で記憶に含めてしまおうか。

これらの、「自転車に乗っていて何かが起こったらどうするか」的な記憶は、必要なときに一斉に蘇ってくる。ほとんど無意識に。セットで。まとめて。

……もし、人の記憶というものがそれぞれ紐付けされておらず、すべて並列に扱われていたら? 根っこに芋がじゃんじゃんぶらさがる感じの整頓ではなく、番号付けされて本棚とかハードディスクにしまわれる感じの整頓をされていたら?

「犬が飛び出してきた」に辿り着く前に、あ行からずーっと記憶を検索しなければいけなかったろう。そんなことではブレーキは間に合わない。犬のしっぽを踏んでしまい犬に噛まれることになる。




膨大な量の記憶は、紐付けされている必要がある。縦横無尽に張り巡らされた紐。一箇所を用いようと手をのばせば、同時に紐で結ばれた関連した記憶が持ち上がってくるかんじ。

ニューロンのネットワークを思い浮かべた人もいるだろう。電気信号がネットワークになっているというのと、記憶という不可思議なものがネットワークになっているはずだというのと、実はだいぶサイズ感覚が違う話をしているのだけれど、感覚的に相似だなあと思う。フラクタルというやつなのかもしれない。




「夢は記憶の紐付けを整理する作業ではないか」という有名な仮説がある。

昼間に得た記憶を、睡眠中に組み換えて、紐付ける場所を最適化することで、将来自分に何かが起こったときにすばやく記憶を引き出せるように下準備をしている、というのだ。

イイ夢よりも悪夢をみる機会が多いのは、やっぱり人間、悪いことに備えておいたほうがいいから。

悪夢で経験しておけば、現実の世界で経験するころにはもう少し記憶がスムーズに引き出せるだろうということ。

イイ夢の一部が性的なのはなぜだろう。性的な記憶はほかの記憶にくらべて紐付け作業に気を遣うのだろうか。わかる気もする。もっとも、性的な夢というのはいいところで終わると相場が決まっている。「あとはわかるだろ」的な。「ここから先は記憶に頼るんじゃねぇよ」みたいなことか。脳はイケメンだ。

夢にめったに懐かしい人が出てきてくれないのは、「懐かしい人と会ったときのできごと」を将来また再現する可能性が低いから、だったりして。

懐かしい人と為したことは、その人のために為したことであり、もう同じことは繰り返さなくてよいのだ、と、脳が考えているのかもしれない。脳はハードボイルドでもある。




脳もときにはこっそり悪巧みをする。ぼくの知らないところでぼくを気遣っていてくれている。かもしれませんね。

2018年2月1日木曜日

CARDのWHITE LINEを聴くのもよいだろう

ちらりとのぞいたタイムラインは、「都内で雪が降っている話」でもちきりだった。上から順番に延々と再生しているiTunesからは「若者のすべて」が聞こえてくる。

今書いているこのブログ記事の掲載はきっと10日後くらいになる予定なので、これを読む人はもう、都内の雪の話なんかとっくに忘れているかもしれない。



札幌の気象予報士が、「湿った雪がたっぷり降った次の日は気温が下がりやすい」とテレビで言っていた。北海道の、とくに日本海側で冬にしばしば経験される法則のようだ。関東であてはまるかどうかは微妙である。

大陸からやってくる低気圧が雪を降らせながら通り過ぎると、その後ろから、まるでビッグバイパーのオプションのように強烈な寒気が入り込んでくるのだという。湿った雪の翌日は気温低下に注意しなければいけない。

つい数日前にも、札幌で少し気温があがって湿った雪が降った翌日に、厳しい冷え込みがきた。さて、関東の雪が積もったあとはどういう天気がくるのかなあ、と、ぼうっと天気予報をながめている。

この予報があたったか外れたかについても、10日後のぼくは知る事ができるはずだ。

けれど、今日のぼくの疑問が10日後のぼくの「だいじなものリスト」に入っているとは思えない。




ツイッターは言った、「いまを見つけよう」。

それに対して、NHK_PR1号はかつてこのようなことを言った、「ツイートはいつ読まれるかわからないんだから、いまのことをただつぶやいても伝わらないことがあるんですよ」。

ぼくは納得する。今ぼくがやっているブログにおいても、「いまのこの感情を書き殴ったはいいが、数日後に記事を公開するころになるとだいぶ感情の温度が落ち着いてしまった」なんてことを、頻繁に経験しているからだ。

ぼくは、過去の自分がちょっと熱かったのを見てフフッってなるのがなんだか楽しくて、いつしか「書きため」を多めに用意するようになり、書いた時の自分となるべく時間をおいて記事を読むことで過去の自分とのギャップを楽しむようになった。セルフ・ギャップ萌えと命名する。

前は5日分ほど書きためていたが、今では記事のストックが10日分くらいになった。




ある人が怒っていた。

自分の仕事を「取材」にきてくれたのはありがたいが、来るのが遅すぎる、もっと早く来なかったのはなぜか、と、報道してくれた相手に対しておかんむりであった。

ぼくはその人のコメントを読んだとき、

「猛スピードで取材をして、猛スピードで記事を仕上げたとしても、読者がその記事を猛スピードで読むとは限らないんだから、別にどうでもいいじゃんか」

と思った。





けれど、同時に別のことも考えた。

たとえばツイッターのタイムラインに、1年前の話題がのぼることはあまり多くない。SNSに限らず、世の中に流れていてぼくらの目を惹き付けるようなキラキラした情報の大半は、直近の話だ。ドラマで誰が何を言ったとか、芸能人が記者会見で何を言ったとか、アメリカで大統領が何を言ったとか、どのチームがどのチームに勝ったとか。

古い芸能ニュースや古いスポーツニュースをしみじみ見ようとする機会など、元々それほど多くはないのである。

「ある感情が冷めないうちにすぐ届ける」という、ホカ弁デリバリー的な情報配信こそが、今の時代……あるいはずっと昔から、人々が群がっている蜜なのであった。





都内の雪は、もう解けたろうか。札幌はまだ真冬のままであろうと思うがどうか。

ぼくは10日後に何を聴いているだろう。




冬の深夜、真っ暗闇に対向車のヘッドライトが必要以上にきらめいて見えることがある。低温のせいか、大気中の水分量が極めて少ないせいか。アンシャープマスクがかかったような視界に少しおびえながら、凍結した道をそろそろと走る車の中では、「宇宙コンビニ」を聴くとよい。「宇宙コンビニ」のCDを買ったのはもうずいぶん昔で、なぜこのバンドに気づいたのか自分ではよく覚えていないのだけれど、とてもいいバンドである。解散してだいぶ経つ。

すっかりiTunesでしか音楽を聴かない日々だけれど、カーステレオだけはいまだにCDが現役である。ネットで音源を直接購入してしまうと、車の中では聴けない。だから車の中で聴いている音楽は少し古いCDが多くなる。

iPodを使えば車の中でも最新の音源が聴けるではないか、といわれてぼくはむっとしたのだ。どこもかしこも最新にして何がおもしろいのか。いましか見ていない若者たちに、「過去を見つけよう」、そう答えてぼくは偉そうにふんぞりかえったのだ。