2021年11月10日水曜日

病理の話(595) どこまで細かく検索をするか

今から50年くらい前の話。

旧・築地市場の目の前に建っている、国立がんセンター中央病院病理部(当時の名称)では、「早期胃癌」の発生メカニズムを解明するために、猛烈な熱意で研究が行われていた。

胃癌の患者から、手術で胃がとられてくる。

胃には、見てわかる大きながんがある。そのがんを、こまかくスライスし、プレパラートを作成して、顕微鏡で詳しく検索する。

これは今も変わらず行われている「病理診断」だ。しかし、当時はこの検索に加えて、さらに追加で手間がかけられていた。

「がんのない粘膜」もすべて、プレパラートにされ、検索の対象となったのである。



たとえ話をする。

火災が起こったときに、燃え落ちた家やそのまわりに建っている「火の粉が及んだ家」に入って現場検証をするのは大事なことだ。火の出た原因を明らかにすれば、今後の防災にも役に立つだろう。

しかし、「火災が起こった町内のすべての家を家宅捜索」することに、意味はあるだろうか? それはさすがにちょっと、やりすぎではないだろうか?



「がん」のない粘膜を調べるというのは、この、「燃えた家以外もぜんぶ家宅捜索する」ということに似ている。異常な手間がかかる。胃ひとつを全部プレパラートにすると、その枚数は(胃のサイズにもよるが)200枚にも300枚にもなってしまう。切るのも大変だし、顕微鏡で見るのだって膨大な時間がかかる。

しかし、結果的にこの、「燃えた家以外もぜんぶ見る」ことが、その後の胃癌診療の発展に大きく寄与した。

これによって、「まだ進行していない、早期の胃癌」というのがときおり見出された。「ボヤ」が見つかったということだ。さらには、「胃癌の発生している胃に、ずっと進行していた病的な変化」もいろいろとわかってきた。「火の不始末がありそうな町内」であるということを確認できたのである。



胃の研究はすすみ、今では、切除された胃を毎回すべて切らずとも、胃カメラの段階で、あるいは病理医が胃を目で見るだけで、どこにどのような異常が生じているかをほとんど見分けられるようになった。「全割」と呼ばれる、採ってきた標本すべてを切りまくってプレパラートにするやり方は必要なくなった。


それでも、この「とことん調べる」という手法は、今もまだ有効である。とくに、まだメカニズムの解明されていない新しい病気や、まれな病気を検討する際には、採ってきた臓器を細かく切って多くのプレパラートを作り、網羅的に解析することが行われる。


「まだメカニズムの解明されていない新しい病気? そんなの、現代にまだ残っているの?」


と疑問に思う人もいるだろうか? いや、たぶん、いないだろう。新型コロナウイルス感染症だって「新しい病気」だ。この世の中に、まだまだわからない病気がたくさんあるってことは、医者でなくても、みんながなんとなく知っている。いつもいつも細かい検索をすればいいというものでもないのだが、いつでも細かい検索をできるように心の準備をしておく、そういう姿勢も病理医には求められていると思う。

2021年11月9日火曜日

ザッカーバーグはそのへんわかってんのか

「おちつけ」のピンバッジと「騒ぐと損」のキーホルダーとをデスクの横にかざっている。これらを見たからと言って、落ち着けるわけではない。そんな御利益はない。

ただし、「これらを見る、というムーブを思い出す自分」であれば、すでにそれは比較的落ち着いているということだ。

あれよあれよと移り変わっていく仕事の激流の、中州で孤立しているときにふと、「デスク横にこんなものを飾ってみた日もあったな……」と、自分の出演する動画の「時間軸バー」を戻す余力さえあれば、自分の力でなんとか落ち着きを取り戻すことができる。





「おちつけ」と「騒ぐと損」の向こうには、ROROICHIさんのボールペン画や幡野広志さんの写真が飾ってある。これらはいずれも、顕微鏡を見て考えるときにぼくの目が思わず泳ぐ先に配置してある。目の前が暗くなるほどものを考えているとき、光と影の正体をなんとなくわかっている人によって作られた視覚の魔法が視界に紛れ込むことで、交感神経の興奮はそのままに、副交感神経も活性化する。なんとも形容のし難い、ありがたい状態。天秤を天秤ごと持ち上げてしまうような。




自分を落ち着かせるためのセッティング。デスクトップの背景、スマホのロック画面のイラスト、これらにこだわっていたころもあった。でも、モニタの中に興奮したり困惑したりしながらさらにモニタの中で癒やされるというのは、ぼくはどうもあまり得意ではなかった、というか向いていなかったようで、いつしか、電脳の守備範囲外にアクセントを置くやりかたになっていた。カレンダーもそうだ。サボテンもそうだ。ふと、こういうのを本当の意味でのメタバースと呼ぶのではないかという気がした。ネットワークの喧噪に浮かれた人たちは、最近、「現実にも存在している仮想現実」を忘れているように思う。インターネットの中にしかイメージを転がすヒントがないなんて、それはわりと見識の狭い話だとは思わないか?

2021年11月8日月曜日

病理の話(594) 盛り上がり方に違う名前を付けてみる

達人というのは自分の仕事のすべてを言い表せない人のことである。無形の技術、言外の技、手だけが覚えている熟練のテクスチャー。

その上でなお言うけれど病理診断というのは「できうる限りのすべて」を言語化しないとだめである。もちろんどうやっても言葉にできないニュアンスというのはあるが、それを「感覚的にさあーこれはどう見てもがんだよね」とか言い出したら職業的には敗北宣言だ。

なぜか?

それは、病理診断という仕事が、病理医の頭の中でだけ完結するものではなくて、依頼者である主治医と情報を共有してはじめて成り立つ類いのものだからである。

「がんです」だけでは、主治医が受け取る情報が少なすぎるのだ。もっと描写し尽くさなければいけない。なあに、大丈夫、微細な感情を言語化しろと言っているんじゃない。病気にまつわるエトセトラをとことん言葉にしなさいよ、というだけの話だ。




というわけで細かい言葉使いがいろいろある世界である。今日はひとつ、「ポリープ」のことを考えてみる。

大腸などにできる「ポリープ」というのは、病変の「かたち」を表す用語である。つまりは「四角いなにか」とか「ぐにゃぐにゃした何か」的な言葉といっしょで、「ポリープ状」という形状の話しか意味していない。

したがって、「ポリープはがんだった」とか、「ポリープはがんではなく、過形成だった」とか、「ポリープは良性の腺腫(せんしゅ)だった」のように、ひとことで「ポリープ」と言ってもそこにはいろいろな病気が含まれている。



ではポリープとは具体的にどのような形を指すのか? ここもじつはかなり幅がひろい。大腸ポリープのことを勉強したことがある人が、まっさきに思い付くのは、「キノコの形」だと言われている。しかし、ポリープという言葉で言い表す病変にはほかにも、「たけのこの形」であったり、「グミの形」であったり、「こんぺいとうの形」であったりと、バリエーションがある。

大腸の粘膜から「盛り上がっている病変」があったら、まずは安易にポリープと呼ぶ。しかしこれだけでは情報が絞り込まれていない。だから、我々病理医、そして内視鏡医たちは、ポリープ、もしくは隆起した何かをもっと細かく呼び分ける。



盛り上がりの丈の高さはどれくらいか?

盛り上がりのへりに、くびれがあるか?

ふわっと盛り上がっていてどこからが「山の裾野」なのかわからないときと、「ここから明らかに盛り上がっている」というのが示せる場合とでは病気の種類が違うであろう。

盛り上がっているとして、それは、キノコのように茎を持つのか。

キノコと言ってもエノキなのか、椎茸なのか、マッシュルームなのか。

あるいは盛り上がりの部分に二つくらい山ができていたりはしないか。

みうらじゅんの描く目の飛び出た人の顔みたいな隆起だってあっていいのではないか。

海底にへばりつくサンゴのようにギザギザとうねる隆起と、日本庭園に置いてある庭石のようにゴツゴツと角張った隆起ではまるで意味が違う。

色はどうだ。色の話を忘れていた。周囲の粘膜と比べて、少し赤みがあるのか、それとも同じ色なのか。

どこか削げていたりはしないか。

いったん盛り上がってはみたけれど、やっぱりへこんでみようかな、みたいな形状のことだってある。



こう言った見分け・呼び分けを、個人の印象でやるのではなく、日本全国、あるいは世界中のどの医者が読んでも伝わるような表現で、病理診断報告書を記載する。

きのこたけのこ戦争などと言っている場合ではない。こちらは平和のために、見分けて書き分けていかなければいけない仕事なのである。

2021年11月5日金曜日

第6の味覚

タイトルを最初に決めてから、そのお題に合うように書く、というやつをやる。



一般に、味覚は5種類の成分によって成り立つとされている。

・甘み
・しょっぱみ(塩味)
・苦み
・すっぱみ(酸味)
・うま味

意外だがここに「辛い」はない、なぜなら辛さは温痛覚(あたたかくて、いたい)に基づくものだからである。先日ノーベル賞のネタにもなっていた。


「うま味」が明治期に日本で「科学的に定義」された味だというのはけっこう有名だ(ただし欧米がそれを認めたのはもっとずっと後のことだけれど)。「味の素」のモトを考えた人の伝記は本にもなっている。和食に欠かせない「昆布だし」を解明したかったというのが動機だともされているが、それはどうだろう。研究者というのは動機がなくても何かを見つけ出してしまうものである。京極夏彦が「動機のない殺人もある」と書いたとき、ぼくはとても納得した。……話がそれた。



この先、さらに味が発見されることはあるのだろうか?

たとえば、舌にさらに微弱な受容体みたいなものが発見される日がくるかもしれない。細胞の表面にあるタンパクはまるで解明し切れていないから十分にあり得る話である。細胞を構成する成分は、目で見てアレとコレとソレが含まれているなあと仕分けることができないくらいには小さくて複雑なので、いまだに見つかっていない成分だってまだまだいっぱいあるだろう。

……と、ここでWikipedia情報が手に入ったのだけれど、実際、「カルシウム味」や「脂肪味」、「デンプン味」などが、第6の味覚の候補として上がっているのだそうだ。でもこれらは名称としては流行らなさそうである。実際、「グルタミン酸(の)味」では和食の地位は上がらなかったであろう。「うま味」という納得の名称が対応していたからこそ、「第5の味覚」になり得たのである。たとえば脂肪の味は、昔からの言い方だと何に相当するのかな。料理人だとなんと表現するのかな。ソムリエはすぐオイリーって言うけど、あれは味覚というよりも舌触りにあたるものな気もする。油脂そのものの味に対応しているのかどうか。


ついでにWikipediaを流し読みしてしまおう。味覚以外の五感、たとえば嗅覚とか視覚が脳内で「味」に統合されていく過程を、基本味とはべつに「風味」と呼んでいるようだ。風味というのはそういうニュアンスだったのか、たしかに、舌で風味を味わうとは言わない気がする。



第6の味覚というのはまだ発見されていないかもしれないし、将来定義されるものなのかもしれないが、どちらにしても、「我々が毎日のように感じ取っていながら、言語にできていない部分」にそういったものが潜んでいるのであろう。あるかないかで言えば「ある」、しかしそれを「分ける必要があるのか」と言われてまた悩む。

今日の話はいつの間にか「分類論」なのだけれど、分類する理由を「必要性」にだけ求めるのもじつは少し違うかなと思うことがある。基礎研究や殺人が必ずしも動機を必要としない、というか「必要性を必要としない」ことがあるというのを、ぼくはわりと真剣に悩み考える。分類も「ついしてしまうもの」の筆頭である、自然とそういう考えに至る、考えようと思ってなかったけれど考えついてしまう、気がついたらその中にぽつんと取り残されたような状態になっている。りん、と風鈴が鳴る。

2021年11月4日木曜日

病理の話(593) ヒストロジーという耳慣れない言葉

顕微鏡で細胞をみることを、「組織学的検索」と言う。あまりタイムラインには流れてこない言葉だ。

ここで、「組織」という言葉が使われていることは、ふつうの日本人にとってはちょっと違和感があるかもしれない。「ん? 細胞を見ているんじゃないの? チームがどうしたって?」みたいな気持ちになりはしないだろうか。ぼくはかつて、なった。


顕微鏡で見るときに使う「組織学」は、英語のヒストロジー(histology)という単語に対応している。会社などで人が集まって作る組織をあらわす言葉はオーガニゼーション(organization)だから、そもそも違う言葉だ。つまり、英語だとまるで違う単語に、日本語で同じ「組織(学)」という言葉が使われていることになる。なんだか混乱してしまう。


でも、ヒストロジーに日本で「組織」という言葉を当てはめたことにも、たぶんちゃんと理由があると思う。


ヒストロジーは、「(顕微鏡で)なんらかの構造をさぐる学問」を指す。細胞ひとつを拡大して、核があるとかミトコンドリアが組み合わさってできているなあと「内部構造を探る」のも組織学だし、細胞どうしが織りなす”組み体操”、すなわち「細胞が構築する構造を探る」のも組織学である。


今、ぼくは、組み合わせとか組み体操のように「組む」という単語、さらには、「織りなす」という言葉を自然と使っていた(マジである)。組むと織るで組織ではないか。なるほどなあうまくできているなあ。


で、この言葉をより鋭く追いかけていくと、病理医が顕微鏡で細胞を見るときには、単独の何かを見つけ出すという感覚よりも、組み合わせの妙や、織物的・タペストリー的なパターンを読み解く感覚に近いということもよく理解できる。たまーに不勉強な医者が「細胞ひとつ見たからって何がわかるんだよ」みたいなことを言っているのだが(近頃はめったに見なくなった、絶滅したのか)、病理組織学的な目というのは細胞ひとつを見るわけではない、というのも「組織」という言葉からニュアンスとしてにじんでくる。


ヒストパソロジー(histopathology)という言葉もある。ヒストロジー(histology: 組織学)と、パソロジー(pathology: 病理学)を合い挽き肉みたいにあわせた言葉だ。これだと、顕微鏡を使って細胞の織りなす姿から病のコトワリを探り出す学問、という意味になるだろう。じつに含蓄深い名称であり、国際病理学会(IAP)の英国支部が発行している歴史有るの雑誌のタイトルにも用いられている。


https://onlinelibrary.wiley.com/journal/13652559


たまには単語の話。たまにね。

2021年11月2日火曜日

航行の軌跡

思考がうねるとき、心が思考に翻弄されて浮ついてしまうことがある。思考は波であり、心は小舟に乗ってその上にたゆたっている。心がゆらゆらと揺れるとき、思考の水面も波立っている。思考の方向が定まって、決まった向きで流れ出すと、心を乗せた小舟もそれに連れて移動していく。黒潮のような思考の上で、親潮とぶつかるまで快適な旅が続く。


心はときに思考に向かって小石を投げる。波紋が立ってそのひとつが舟の側面にも打ち付ける。反射して干渉し、波は次第に消える。波が十分に消えたらまたひとつ小石を投げる。


思考が凪いでいるとき、心は落ち着いて周りを見渡し、舟に寝転がって空を見たり、海中に釣り糸を垂らしてみたりする。


思考は時に荒れ狂う。思考を乱しているのは思考自身ではなく、強く吹き付ける雨風の方だ。しかし、いつの間にか、波が次の波を連れてきて、ぶつかり合って、舟の上に降りそそいでいるのが雨粒なのか、砕けた波しぶきなのかわからなくなることもある。


このような思考と心の隠喩はどこまでも続けることができる。しかし、冷静に自分の脳を探ると、思考と心を分けることがそもそも可能なのかどうかがよくわからない。この場合の心というのは感情や情念のような「ままならず、あるもの」を指すのだろう、自分で書いておいて「指すのだろう」も何もないのだが、実際、そこにただそのようにあるものを、勝手に理屈で思考だの情念だの心だのと分類することがどれだけ正しいことなのかもわからないのだ。カラスをハシブトガラスとハシボソガラスにわざわざ分けることに何の意味があるか、鳥類学者以外にはわかるものではない。はるか上空から見下ろせば波も小舟もいっしょなのだ、ただそこには白く跳ね返る何かが見えるだけなのである。水平線は遠くて丸い。

2021年11月1日月曜日

病理の話(592) ヒト病理医がいないとだめだなと思う瞬間

病理学会が出したステートメント「人工知能AIと病理医について」はけっこう物議をかもした。


文字がちっちゃめ。要約すると、「AIができたからって病理医の仕事の重要性はかわりませんし、ヒトが病理医である意味はありますよ!」。

このステートメント、あえて誤解をおそれずに言うと、「こめかみに血管を浮き出させながら抗弁している文章」に読める。「必 死 だ な w」みたいに突っ込まれるんじゃないか。老婆心ながら気にかかる。でも、こういう文章を出したくなる気持ちもわかるので、無慈悲にツッコミするわけにもいかない。

現場でまじめに働いている病理医たちは、AIがどれだけ発展しようが自分たちの仕事がなくなることはないとわかっている。理由はこのステートメントに書いた以外にもいろいろあるのだけれど、たとえば、

「臨床医と、病理診断に関して電話でやりとりして、患者を救った経験」

が一度でもある病理医は、この先どれだけAIが発展しても、自分の仕事が奪われるとは思わない。AIは参考診断を出すことはできても、「病理診断報告書を主治医との間に置いて会話する」ことはできないからである。

もっとも、未来のAIが「ドラえもん並みに自律して思考する」ならば、話は別だ。仮にそんなAIができたら病理医どころかありとあらゆる仕事の意味が変わる。外科医も内科医もいらなくなって、薬剤師による患者への細やかな服薬説明、看護師による生活指導、ソーシャルワーカーによる社会的支援、リハビリ関連のもろもろ、などがあれば医療はほぼ成り立つようになる。医者だけが要らなくなる。でもそのためにはドラえもん型AIが必要だ。なお、ぼくはこのことを『いち病理医の「リアル」』(丸善出版)に書いたことがある。

話を戻そう。たいていの病理医は、「AIが発展しても自分たちの仕事の価値は減らない」とよくわかっている。そして、そのことは、病理医と仲良く仕事をしている臨床医たちもわかっている。つまり現場では「言わずもがな」だ。しかしSNSが発達して、あまり病理の仕事を知らない外野の人たちがいっちょ噛みできるようになり、状況が微妙に変わった。ものを知らない一般人が悪気もなくこういうことを言うようになった。

「AIが発展したら病理医なんて要らなくなるよなー」

無知から出る発言だからあまり目くじらをたててもしょうがない。病理診断の現場なんて一般の人にはわからない。こういうのはある意味、「煽りツイート」に似ている。芸能人があることないこと言われて叩かれるのと構図としては同じだ。でも、クソリプ耐性がないお偉方はそれを聞いてすごく怒る。真に受けてしまうのである。

「なんだと!? 病理医の仕事を知りもしないで適当なことを言うな!」

だからこういう血管ブチ切れ系のステートメントが出る。そしてくり返すがその気持ちはわからなくもない。実際、大学などに勤めていると、極めて優秀だが現場のことは知らない医学生が、「病理医には未来がないのかあ」と絶望してほかの科に進んでしまうことは経験されるようである。あのクソリプさえなければ病理医のタマゴが一人増えたのに! と憤懣やるかたないお偉方が、ステートメントと称して医学生の興味をつなぎ止めようとするのは理解できる。


ところで、たまに、病理医さえもが、「AIが発展したら自分の仕事はどうなるかわからない」と言ったりするので混乱に拍車がかかっている。誰かが「自分の仕事」と言ったらそれは文字通り「その人の仕事」であって、ほかの病理医はともかく自分のやってる仕事はAIでもやれる程度のことなんですよテヘへ、くらいの意味で読めばいいのだけれど……。



さて、このようないわくつきのステートメントを深く理解して、イメージイラストを描いてくださった方がいる。北海道大学医学部の学生なので、ぼくの遠い後輩にあたる。いまどきの医学生にはこんなことまでできる人がいるのかと、びっくりしてしまった。





北海道大学医学部 佐々木美羽さんによるイラストの解説:

私がステートメントを読んでひらめいたイメージを、イラストにしてみました。まず思い浮かんだのは、病理医がAIを従え仕事するという主従関係です。AI単独では診断を下すことはできません。病理医が仕事の一部でAIを使うことで、より効率よく、精度の高い仕事ができる。この関係は、人と警察犬や救助犬などの関係にとても似ていると考えました。そこで、AIを犬(ロボット犬)に見立てて、病理医が組織の中を歩きながら診断していくというイメージにしようと決めました。

病理検体を見る作業は「組織のなかをくまなく探検して病変を探していくこと」なのだなと思っています。ですから、イラストでも顕微鏡の中の世界で組織の上を歩き回り冒険し、AIとともに病変部を探していくような世界を表してみました。

AIを用いた病理診断は現在試用段階で、これから実践的に導入されて当たり前のものになっていくだろうと言われています。ですから、未来の世界をイメージするように、ロボット犬や空間に浮かぶモニター、パネル、最近増えている女性の病理医がスタイリッシュに仕事をこなすところ、そんな要素を詰め込んでみました。



うーんすばらしい。個人的には病理医とAIロボ犬が歩く組織の「フロア」、おそらく血球系の腫瘍を探しているのだろうと思われる点にぐっと来た。血球系腫瘍はAI診断との相性が、「まだ悪いけど、たぶん、この先すごく良くなる」と思われるジャンルである(アフォーダンス診断の精度が上がれば一気に弁別能が上がりそう)。このセレクトは意図的なのか偶然なのかわからないけれど、意図的だとしたら大したものだ。偶然だとしてもカンがいい。


こんなイラストを医学生が考えて描いてくれるってこと自体が尊い。ほんとうは日本病理学会公式アカウントにツイートしてほしかった、そうしたらいろんな人に届いただろう。でもまあ今回はぼくがツイートしてブログの記事にする、このような取り組みが今後も若い人の中から練り上がってくることを楽しみにしている。