2022年7月11日月曜日

小池栄子の記憶

『宙に参る』というマンガが好きでこのブログでもおそらく書いたことがある。その中に出てくる「判断摩擦限界」という言葉、というか概念に、ぼくはめちゃくちゃ納得していて、そのこともおそらくブログに書いたことがある。


だから今から書くのは二番煎じもしくはn番煎じの話である。しかし、メタな意味でも、今回は「何度も煎じた話」をしたほうがよいと思う。なぜなら執筆は記憶を更新する作業だからだ……みたいな話は今日の本筋ではないのでひとまずおく。


判断摩擦限界という用語は、肋骨凹介(なんちゅーペンネームだ)先生の創作であろう。ググっても『宙に参る』以外では言及されていない。

どういう意味で生み出された言葉かというと、


「リンジン(作中に登場する、いわゆるAIを搭載したロボット、まるで人のように思考する)は、過去のメモリーを元に現在の判断精度を上げていくが、時間と共にメモリーが増えると参照する情報が多くなりすぎて、判断・行動の前に考え込む時間が長くなってしまい、最終的に思考が続けられなくなる。これを判断摩擦限界と言い、端的に言えば人工知能の死に相当する」


とのことだ。最初に読んだときには本当にぶっとんでしまった。膨大な知識を忘れることなくインプットし続けるAIは、無限にかしこくなれるわけではなく、最終的に思考に用いる素材があふれてしまって演算速度が追いつかなくなり、「過剰参照によってフリーズ」するという。とあるひとつのSF作品の設定にすぎないけれど、ぼくはこれにめちゃくちゃ納得してしまった。たぶんそういうことは起こるだろうと腑に落ちてしまった。


覚え続けるというのはそういうことだと思う。考え続けるということもおそらくそういうことだ。


ただし、ぼくはAIではないので、自分の判断の役に立っている記憶・情報は、おそらく直近の5年程度に得られたものに限られており、これまでの情報すべてを素材にしているわけではないと思う。一例をあげると、20年前に「私立探偵濱マイク」で映画館の受付に座っていたメガネをかけた井川遥が好きだったが、今あの映像を見ても「ふーん」としか思わなくなっていて、当時とは好みが変わっていると感じる。現在の井川遥のほうがかわいい。これはぼくが若い頃からの記憶を「すべて」利用して今を生きているわけではなく、現在に直結する「近過去」の情報だけを用いて、遠い過去の情報は捨てて(忘れて)しまうことで、資料が過剰になりすぎないように配慮しながら脳を回しているために起こる、「指向性のキャリブレーション(微調整、較正)」とでも言うべきものだろう。


忘却というアプリがある分ぼくはリンジンよりも高性能だ。いや低性能というべきか? 


もっとも、すべてを忘れているわけでもない。自分では選べないし、なんの法則があるのかもわからないが、なにか、「無闇に覚えている」みたいなこともある。


かつて「電波少年」で、売れない芸人たちがアンコールワットまでの道を舗装するという、多分に網走刑務所的な発想で生まれたであろう企画があった。これに、当時グラビアで人気が爆発していた小池栄子が応援をしにいくという回があり、ただしその応援は小池栄子本人がきちんと企画説明を受けていいですよと答えてロケに行く形式ではなく、日本のテレビ局前でおなじみの「拉致」(行き先をまったく説明せずに芸能人をさらって海外に連れて行く本邦民放テレビ局の伝統的悪ふざけ)によって、唐突にカンボジアまで連行されるというものであり、当時まだ大学生だったぼくはテレビを見ながら、「グラビアアイドルがこんなことされたら泣くだろ」とスティグマむきだしの目でそれを眺めていた。しかし小池栄子は「いいじゃないですか、プレゼント届けますよ」と、当時としてはちょっと驚くくらいのノリの良さで、イヤな顔ひとつ(少なくともカメラ前では)見せずにカンボジアに行って現場の人びとにプレゼントを届けて、ぼくはそれを見て「小池栄子ってかわいいな」と感じた。今、中年になったぼくが当時の番組を見たらこんな「かわいいな」だけの感想が出てくるとは思えない。日本の芸人たちに海外の悪路の砂利を避けさせるという罰ゲーム感しかない見た目、それにグラビアアイドルをサンタコスプレさせて「慰問」に行かせるというあたかも古式軍隊の悪癖のようなシステム、44歳のぼくにとっては眉をひそめるような内容で、今や多くの芸能人が当たり前のように身につけているペルソナ技術のはしりみたいなものを小池栄子が用いているのだろうと邪推までして、かなり暗い気持ちになることは間違いない。しかし、当時の経験、当時の情報、当時の「判断基準」で見た小池栄子は、あの頃、確かにりりしくて美しかった。そのことは別に忘れてもいいはずなのになぜか覚えている。

その後、小池栄子はグラビア出身タレントとしては非常に順当なステップアップを果たし、今やバラエティから大河ドラマまで引っ張りだこ、しかもメディアからたまに漏れ聞こえてくる本人の発言は当時感じたものの延長とも言えるべきもので、屈託がなく裏表もなく、忖度もなく驕り高ぶることもなく、かつよく考えられていて理知的である。いや待て、芸能の世界で成り上がっていった人に裏表がないわけがないだろう、きっと当時の日テレがやった非道い企画、非道い売り方をその後もあらゆる場面でやった/やられたから今売れているのだろうと言われたら、それはそうかもしれないけれど、ぼくが当時、今よりはるかに情報が少ない状態で感じた「推せる」という気持ちが、今から見ても結果的にけっこう妥当だったことを、どう考えていいかは少し迷うところである。


知っていたほうがいい、よく考えたほうがいい、という原則を今さら外れようとは思わない。しかしぼくは現実に、昔の多くは忘れて今の判断をしているし、昔と違う判断をすることも多くなったわけだ。ただし今より情報が少なかったときの判断が全部間違っていたとも言えないから難しい。

今のぼくの複雑な感情と同じレイヤーに、「お医者さんはそういうけどさあ、自分の体のことは自分が一番よくわかるんだよ」と豪語してあまり医者の話を聞かず薬を飲むのをサボる患者がいる。「そういう主観的な印象を絶対視するのはよくない、きちんと情報と証拠に基づいた、エビデンスある判断をしてください」と、ツイッターなどでは思わず説教してしまいたくなることもあるのだけれど、うん、振り返って今思うことは、「わかる……」の一言なのである。

2022年7月8日金曜日

病理の話(675) 学生さんと話しながら

うちの病理にはよく学生さんが見学にいらっしゃる。半日、というパターンが多い。

そのときは実務をご覧頂く。見学ツアーだ。

オンザジョブトレーニング的に、なにかプレパラートをひとつ渡して、診断の手伝いをしていただく手もないわけではないのだが、それだと、顕微鏡を見て無言で考えて本を読んで、いわゆる「学校でもできるやろ、これ……」的展開になりがちである。

病理を短期に見学するならば、ぼくが診断したり作業したりするところを横で見てもらうのがやはり一番よいだろう。

2週間くらいいるなら診断の手伝いもやってもらうけれどね。



で、昨日も学生さんがいらっしゃったので、できあがったばかりのプレパラートを顕微鏡で一緒に見ながら(複数人が同時に顕微鏡を見られるシステムがある)、ぼくが考えたコトをそのまま口に出して伝える。


「これは乳腺の手術検体ですね。端から見ていくと、まずこのあたりには脂肪が豊富にあって、間質には血管や、線維、まれに神経といった構造物があります。『上皮』はこのプレパラートには見当たりません。上皮細胞を見つけてその異常を確認する作業は、病理医の顕微鏡業務のだいたい8割とか9割とかを占めます。それくらい上皮細胞はだいじ。上皮以外も見るけれど、上皮が見当たらないプレパラートでは少し検索は楽です。さあ次々とプレパラートを見ていきましょう。」


こういうのは一切減速しないでしゃべる。話し言葉というよりは歌に近い。なんとなく聞こえてくるなー、という程度でよいと思う。大事な話が出てくるまでは歌うように。聞いているほうもリラックスして流し聞くように。生真面目な学生だとそうもいかなかろうが、モノゴトにはなにごとも、メリハリというものが必要である。


「……あ、上皮がありましたね。これは癌かな。いや、癌ではないですね。」


このへんでしゃべるスピードを抑える。


「そろそろ癌が出てくると思います。肉眼的に病変を確認して、プレパラートで病気の部分が見られるように標本作製していますからね……ほら、言っているそばから、ここが癌です。では拡大を上げましょう。」


歌うような説明をやめて、チューター的なしゃべりにシフトする。最近の学生さんたちの情報受信用脳内OSは「倍速再生」を苦にしないが、ここぞというタイミングではやはり標準速度、もしくは1.25倍再生くらいの速度まで落としたほうがよいようだ。


「拡大を上げると、癌細胞は、周囲にある正常の上皮とくらべて、さまざまな異常を持つとわかります。核が大きく、核膜が不整で、核型がごつごつとしていて多彩性があり、内部のクロマチンの量が多くて分布が不規則。核小体もみられるし、少し探すと核分裂像もありますね……だから癌と診断できます。ただし……。」


いったん顕微鏡から目をはずす。学生はまだ顕微鏡を覗いているが、しばらく待つと、こちらを見てくれる。それを待ってしゃべる。


「ぼくは今、拡大を上げる前に、『ここが癌ですね』と言いました。強拡大倍率で、核の様子を逐一みなさんにご説明するより先に、もう、癌だと半ば確信していた。

それは、顕微鏡の拡大をあげなくてもぼくが『核所見』を判断できるほど視力が良いから……ではなくて、『癌細胞と周囲の構造とが醸し出す雰囲気』から癌だと仮診断しているからです。

弱拡大の段階で、雰囲気、第一印象から癌だろうとわかる。倍率を上げて核のようすを確認するのは、あくまで、それが間違いなく100%癌であることを確認するための、念のための作業。

そして、病理学をさほどわからない臨床医に対してこれが癌であると理解してもらうためには、そこにある異常を言語化することが大事です。病理医が自分の中だけで癌だとわかっていればOKというならば、言葉にしなくてもいいし、なんなら、拡大倍率を上げなくてもよい。しかし、病理診断は主治医に読んでもらう必要があり、患者やほかのメディカルスタッフと共有され、今後の診療方針を左右する情報として現場に残り続けます。病理医だけがわかっていてもしょうがない。

だから、不特定多数の人を説得するための言語化をする。

このとき、言語は、じつは自分をも説得するんですね。

癌を癌と言い切ることにはとても大きな責任がかかります。「なんとなく癌だと思いました、雰囲気で癌に違いないと考えました、私にはわかるんです」では、自信を持って診断し続けられません。自分の感覚がぶれたら診断もぶれるということに対する恐怖・不安はバカにできない。自分がなぜ癌だと思ったのかを、後付けでもいいのできっちりと言語化することは、他者とのコミュニケーションに役立つだけではなく、自分を安心させますし、診断自体のクオリティも保ってくれます。

『私というプロが癌だと言っているのだから他分野の人はそれを信じてください』を10年続けると、自分の診断基準が少しずつずれていきますね。そういう主観的な病理診断をやってはいけない。逆に言えば、病理診断が超絶難しい病気であっても、病理未経験の臨床医がわかる言葉で説明できるくらいに客観視して言語化できていれば、ぶれは少なくなります。

というわけで、我々は顕微鏡を見ながら、1秒にも満たない時間で、ああこれは癌だなとか、癌がここまで広がっているなということを察知するのですが、そこで仕事を終わりにせずに、必ず言語に追随させる。ここにけっこう時間がかかるのです。5分、10分、難しいときは数日かかることもあり得る。

たとえば今この視野に映っている細胞、ぼくが癌細胞だと思っているものを、写真に撮って、下に解説文をつけて、ツイッターで世界に公開したとしましょう。そしたら、『おい、それは癌じゃないんじゃないか?』というクソリプが飛んでくる。でも、飛んでくるようなら、その病理診断は二流なのです。細胞像を誰が見てもわかるように言語化し、解説して、世界の誰が見ても『確かに癌だな』と感じられるような文章にしておけば、クソリプは飛んできません。」


学生さんのほうを見て、顕微鏡に目を戻す。


「……あ、今のは例え話ですよ。患者から得られたプレパラートの写真を安易にツイッターに載せちゃだめです。たとえ勉強目的であっても。もし自分がその患者だとしたらいやな気分になるでしょう。病理写真をツイッターに載せて勉強してる人って、たいてい、勉強したいんじゃなくて、『勉強している自分を世界に公開するのが好き』なだけだったりしますからね。そもそもそういう人が投稿するツイートは、写真のクオリティも低いし、診断根拠もあいまいで、あんまり頭良くない人がやってんなーってわかっちゃう……」


歌うようにクソツイッタラーをディスるぼくに学生さんは苦笑する。そしてぼくらは次の細胞を探して言葉を継いでいく。

2022年7月7日木曜日

つまらない本を大事に読みながら思うこと

「医療本」を読んでいたら夜が明けた。信頼できる医者が丁寧に書いた本を、これまでに何冊も読んできたが、きちんとしたエビデンスに基づいており、あやふやな情報を安易に掲載しないように気配りされている、その結果、だいたいどれも似通った、どこかで見たことのあるような文章ばかりになっている。「よい医者が書いた本ほど飽きる」。でも、飽きるけど役には立つから読んでいる。そしていろいろ考える。


医者の言うことに飽き飽きするというのは、もう、しょうがない。運動、睡眠、食事がだいじ。ぜんぶ聞いたことあるよ! 何度も聞いたことあるよ! でもこれらは、しゃべるほうの口が酸っぱくなり、聞く方の耳にたこができるほどに(これらの表現も「カビが生えるほど」古くさくて既視感があるが)、何度も何度もやりとりされるべきだ。そうやってようやく情報は世の中に浸透していく。古典落語のように語り継がれてほしいもの。


今、ふと落語のたとえを出したが、誰もが語っていることを今さら語り直すには、おそらく落語家のような「噺の上手さ」が要るのだろう。内容が同じであっても語りがうまいとスッと心に入ってくる。今、医者が情報を出すにあたっては、発信者がいかに「落語的能力」を身につけているかが重要なのである……。



といった、「結局は発信者が上手かどうかでしょ」というところに、どうしても話が戻っていくのがやるせないなあと思う。ボクトツで口下手であっても情報がおもしろすぎるので聴き入ってしまう、みたいな関係に、ぼくは以前よりも強くあこがれている。


たとえば、信頼関係ができあがった主治医と患者との間では、主治医が多少口下手であっても患者のほうが意図を汲んで、「あの先生はちょっとしかしゃべらないけど私にいいことを言ってくれてるのがわかるのよ」と、なんだかうまくいっている、みたいなことが起こる。そういう関係って大事だよなーと思う。噺家の熟練技術でなく、長い時間をいっしょに過ごした関係性によって情報を共有。これ、たぶん最強だと思う。信頼関係による情報伝達には、弱点がちょっとしかない。「信頼はあるけど情報がザコいパターン」と、「まだ信頼関係が構築できていない不特定多数の人に一気に情報をわたすのには使えない」くらいだろう。ちょっとだ……しかし、かなり大きい。ワクチンとかお薬手帳とか予防医療といった「多くの人にいっぺんに知って欲しい話」を、医者が、これまで出会ったことのない、「将来自分の患者になるかもしれない人」にいっぺんに伝えることが、いかに難しいか。



ワクチンの伝達はかなりうまくいったほうだ。ほとんど医療との関係がない人たちも含めた全国民の8割の人が打ち、6割の人が3回目まで打ったのだから。しかし、目の前で人びとがどんどん感染して病院が患者であふれ、町から人がいなくなるという「目に見えた恐怖」によって駆動された情報伝達が、いつもいつも使えるわけではない(し、本当はこんなことは二度と起こってほしくない)。この先だれがどう工夫をこらしていくべきか。医者は噺家になり、コミュニケーターになり、多くの人びとと緩い紐帯をむすび……どうも役者の数が足りていないのではないかと思う。医者の書いた本を読みながらそんなことを思った。この本はいい本だ、ただし、圧倒的につまらない……。

2022年7月6日水曜日

病理の話(674) 良性か悪性かその中間か

今年の春に、10月末しめきりの原稿依頼が来た。半年くらいかけて書いていいというのだからめちゃくちゃのんびりである。なんだ楽勝だな、文字数もせいぜい6000字だしすぐ書けそうだ。どれどれテーマは……と手紙の下の方に目を移して、思わず天を仰ぐ。


「病理医が『ある病気』の細胞を顕微鏡でみて、良性か悪性かを判断する基準について、思いの丈をぶちまけてください」


いわゆる「良悪」の問題。これこそ、病理医の仕事のど真ん中であり、病理医はさまざまな基準を設けていて、「絶対にがんを良性と誤診することのないように」(あるいはその逆)と、日々研鑽を続けているのだから、まさに得意分野、ではある。


しかし、ぶっちゃけ、ギャー、と心で悲鳴である。『ある病気』かあ……。

この『ある病気』は、良悪の判断が非常に難しいことで有名だ。正直に言えば、判定の難しい例にかんしては、病理医どうしで意見が合わないことがある(つまり、Aさんはがんと言い、Bさんはがんじゃないと言う可能性がある)し、同じ一人の病理医が朝顕微鏡を見たときには「良性」に見えて、夜顕微鏡を見たときには「悪性」に見える、なんてこともある。


えっ、病理医って、その日の気分や体調によって細胞の判定が変わることがあるの!?


と言われれば、「人間のやることはぜんぶそうですよ」としか言いようがない。いわゆるヒューマンエラーは絶対にゼロにはできない。だからかわりに、「人間はミスをするものだ」という前提に立って、システムでそのエラーを回収できるような仕組みを作ることのほうが大事だ。『ある病気』の良悪判定についても、同じことが言える。


『ある病気』の病理診断においては、「良悪判定」という二択問題が難しすぎるので、二択にしない、という戦略をとる。

もう少し詳しく説明しよう。





ある細胞を見て、悪性か良性か、と考えることは、「その細胞がどこかに転移するリスクがあるかないか」と考えることに等しい。

転移しない場合は、病気がその場所に留まっている。このときは手術で病気を採りきってしまうか、あるいは放射線で病気をぜんぶやっつけてしまえば、病気を制圧することができる。

しかし、病気が血液やリンパの流れに沿って、体内のあちこちに散らばってしまうと、どこかを倒してもゲリラ的に次の場所で復活してきて、病気を制御できない。

つまりは「転移する」イコール「(体の将来に)悪い」である。


診断をする際に、すでに別の場所に転移しているならば、それは誰が見ても悪性(がん)という診断になる。しかし、医療者も患者も、できれば「転移する前に見つけたい」だろう(当然ですよね)。

このため、医学においては、「転移したものをがんと言います。」だけではなく、「放っておくと転移しそうなものもがんと呼びます。」と定義する。診断の基準に時間軸が導入されるのだ。


では「転移しそう」などという予測をどのように行うか? 幸い、多くの病気では、「細胞の見た目が転移しやすさと相関する」ことがわかっている。



たとえば上の図の一番左のように、「放っておいても100年以上は転移しなさそう、体に悪さをしなさそう」なものを良性と言い、そういう細胞は、核が小さくて、決まった場所に収まっている。逆に、一番右のように、「もうどこかに転移して悪さをしている細胞」だと、核が大きくて、黒々としていて、細胞の形もおかしなことになっている。


一番ひだりは「良性」と断定してよい。一番みぎは「がん」と断定してよい。これらは病理医ごとの意見も一致するし、もちろん、ある一人の病理医が朝に顕微鏡を見ようが、夕方に顕微鏡を見ようが、診断はぶれない。


で、このどちらかにおさまることが圧倒的に多いのだが……中には、難しいケースがある。それは図で言うと中にあるふたつの細胞だ。

左から二番目は、どちらかというと「良性より」だが、ちょっと核が大きくなっていて気になる。三番目は、どちらかというと「悪性より」だが、絶対にがんである細胞とくらべると、まだ迫力に欠ける。

ではこの二番目と三番目を良性と判定するか? 悪性と判定するか? ここはもう、病理医ごとに、意見がわかれてしまうのである。

しかし……じつは、病理医の意見がわかれていても、さほど問題がない。なぜなら、中間的な部分だとわかれば、それが良性だろうが悪性だろうが、主治医がやることはわりと同じだからだ。





厳密に検討すると、左から二番目の細胞は、「10年以内にがん化するかもしれない」細胞で、左から三番目の細胞は「まだ転移してないけど1年以内にどこかに転移するかもしれない」細胞だとする。ではこれらの2つに、それぞれ違う治療をするかというと?


対処が同じなのである。10年以内にがんになるにしても、1年以内に転移するにしても、「今、採ってしまう」という選択肢を選べば大差ない。


「完全に良性」と「完全に悪性」の間に、中間として、「良悪の中間です。」という診断を許容する。病理医ごとに「良性っぽいな」「悪性っぽいな」と判断がわかれてしまうような病気なら、そこがエラーにならないように、対処法でカバーするのである。




というわけで、現実には、病理医の診断は現実に即しており、「ぶれ」が生じないように工夫されている。ただし……。


冒頭の話を覚えているだろうか? ぼくに来た原稿依頼のこと。


「病理医が『ある病気』の細胞を顕微鏡でみて、良性か悪性かを判断する基準について、思いの丈をぶちまけてください」


そう……主治医や患者が「中間があるよね」とわかってくれている状況で、「真ん中の細胞」の良悪はあえて決めなくてもよいにもかかわらず、病理医どうしでは、「まあそうは言うけどさ、グラデーションの部分も区別できたらそのほうがかっこいいよね」と、謎の美意識をもってそこを区別しようとがんばっているのである。

専門的なことを言うと、患者の対処法が変わらずとも、細胞の性状だけで病気をさらに細かく分類していくことにはすごく大きな意味があって、それは研究面であったり、創薬面であったりと、さまざまに応用も効くので、無駄ではないし、意義もあるのだが……。


それはそれとして!


わかんねぇから中間をもうけたのに、そこは病理医どうしでもめるとわかっているのに、どうしてぼくに原稿依頼をしてくるのか! いやがらせか! じつに繊細な原稿を書かなければいけない。ぶっちゃけ半年あっても足りないのである。10年くらい考えさせてほしい。

2022年7月5日火曜日

笑い話の凄さ

ワンピースってまとめて読んだほうがおもしろいな、ということを、何度目かわからないけれどさっきも考えた。毎週ジャンプで欠かさず読んでいるけれど、コミックスになってから直近の10巻分くらいをまとめて読み返すとうねりが段違いだなあと感じる。


世に満ちあふれている「ネットで連載されているマンガ」をそのまま本にしたものを読むと「ああ、ネットで連載していたやつだなあ」と感じてしまうことがある。初出がネットだと知らずに読み始めていてもわかる。おそらく、全編を貫く一貫性みたいなものが、ネット連載の忙しさではとろけてしまうのだろう。短い締め切りにあわせてその場で微調整をかけ続けるような執筆方法だと、あとでまとめたときに整合性がとれなかったり、「行き当たりばったりの展開」が多くなる。序盤に仕掛けた伏線を回収するために後付けで設定をねじ曲げなければいけなくなったりもする。


その点ワンピースは連載当初から、1年後の絵、10年後の絵、1000話分の絵がある程度見えた状態で描かれている。週刊連載用に断裁することでむしろ毎話の勢いは削がれてしまうのだけれど(それでも凡百のマンガよりおもしろいが)、あとでまとまったものを読むと「ははーなるほどなー」となる。


だいたいマンガは単行本になる際の修正が(小説と比べても格段に)大変なのだ。ところがワンピースの場合は「あまり修正しなくてもなんとかなっている」。これはすごい。ほんとうに立派な創作だと思う。




そして今日の本題はそこではない。ワンピースと比べると自分の人生のノンフィクション性が際立ってくるという話をしたい。ぼくは20年以上前に自分が考えていたことを一切思い出せない。自分が「ジャンプの誌面」に登場したタイミングを何歳と考えるかはともかくとして、たとえば「単行本1巻のときのぼく」が口にしていたことを現在の「単行本102巻を生きているぼく」はすべて忘れてしまっている。週刊どころか秒刊で連載されている自分の人生は、毎話更新されるたびに本筋が微調整されており、過去に貼られた伏線はほぼすべて消失してしまっているか無意味化している。むしろ、瞬間的に意味化した部分だけで暮らしているというか、意味のエントロピーが限局的に低下した部分を選んで歩いている印象がある。ドラクエIで「たいまつ」を使わずに洞窟を歩いている。


ぼくという連載はまとめて読むと別におもしろくはないのだ。毎秒きちんと誌面で読んでいるとそれなりに盛り上がりもあるし、ダレたシーンも山盛りだが、微弱な電流のようなカタルシスを感じる瞬間も何十万秒かに一回は現れてくる。ただこれを単行本化しようと思うなら、作者の特権としてかなりの修正をかけないと、読者にとっては何を読まされているのかわからなくなってしまう。セリフは変えるし、キャラの顔も変えるし、ひどいときは数話まとめて差し替えたり、単行本オリジナルエピソードを書き下ろしたりしないと「商品としての単行本」にはならない。その点ワンピースは偉い。「効かないねェ ゴムだから」の表情が100巻跳び越えても通用するなんて話、常人にはまず、生きることができない。

2022年7月4日月曜日

病理の話(673) MRIはピアノ

体の中を見るための検査はいろいろあるが、CTとならんで「MRI」という検査があることをご存じの方も多いだろう。

CTとMRIは、一般的にはどちらも、体を輪切りにして断面を見ているような画像である。

本当は輪切りだけではなくて「任意の断面」を表示することができるのだけれど、その話はいったん置いておく。



CTがやっていることは、じつは胸部X線(レントゲン)と同じだ。体の片方からX線という「目に見えない光」を当てて、反対側にフィルムを置いて感光させる。骨はX線をあまり通過させないし、肺は空気が多く含まれていてスカスカなのでX線をいっぱい通過させる。この通過度合いの差がフィルム上に出てくるだけであり、ぶっちゃけ、「影絵」である。X線の当て方を細かく調節したり、影絵の描出方法をコンピュータ処理したりすることで、体の断面の情報を取得するのがCT。


CT=超・高度な影絵、というわけである。




一方でMRIは影絵ではない。きちんと説明するとすごく難しい話になるのだが、ごく簡単に言うと、「人体に当てるものと、フィルム(じゃないけど)に受け取るものとがそもそも違う」のである。なにそれ。


この「なにそれ」をイメージで説明するときに、ぼくがよく使う表現が、ピアノだ。


目の前にピアノがあって、そこに音楽の先生が座っているとする。


音楽の先生は何やら簡単な曲を弾いている。


ぼくらはそれを教室で聴く。


ド・ド・ソ・ソ・ラ・ラ・ソ。ファ・ファ・ミ・ミ・レ・レ・ド。


キラキラ星だ。耳から音が入ってくる。


目をつぶって、頭の中で、「先生がどの鍵盤に指を置いているか」を想像することができる。





これ! 今のがMRIである!




MRIは、すごーく簡単に細部を省略しまくって言うと、「聞こえてくる音から、運指を思い浮かべる」ような検査である。音と指の位置というのはまるで違う情報だが、これらはピアノという楽器を通じて、ほぼ一対一に結びついているから、ドレミのどれかが聞こえてきたらたぶん指はここにあるだろうということが連想できる。


「MRIのT2強調が高信号なのでおそらくここには水分がある」


みたいな言い方をする。CTの「影絵」を想像しているとびびる。「は? 画像を見るだけで、ものの輪郭がわかるんじゃなくて、水分があるとかないとかいう物性がわかるの?」そう、わかるのである。


「MRIのT1強調画像、in phaseとopposed phaseで信号強度に差があるからここには脂肪がある」


みたいな言い方もする。なあに、恐れることはない。「聞こえてきた音から指を予測する」ことだって、子どもや動物には理解できない高度な話ではないか。それと同じなのだ。





……「恐れることはない」と書いたが、本当のことを言うと、MRIの解析は非常に難しいので、医者の多くもぶっちゃけ「恐れている」し、「自分の専門領域の臓器以外はうまく意味を掴めない」こともある。キラキラ星なら運指が思い浮かぶけど、ショパンのエチュードとかだと普通の人には無理だろう。それと一緒だ。MRIの画像の解釈をどこまでもやっていける専門家が病院には必要で、それが誰かというと、放射線科医と、診療放射線技師なのである。やつらは音楽家なのだ。

2022年7月1日金曜日

ラジオ流行り

ラジオが大好きなんだけど、今この世で「ラジオがいいぞ」と言う人たちの中に、うさんくさい勢力が混じりつつあるのが少しだけ気になっている。

いや、まあ、べつに、広告とか商売の都合でラジオ番組がどんどんできる分には……コンテンツが増えること自体は、リスナーとしてうれしいことのほうが多いのだが……。

「ラジオ番組をとくに聞いてはいないし好きでもなかったけど、しゃべるといろいろ得だからしゃべる」みたいな人が増えていくことに、「うっ」というひるみがある。

でもまあ……それでもなお……。ラジオが盛り上がっていくのはうれしい。




なぜ広告や商売の世界でラジオが見直されているのかと考えると、すでにいろんなところでも書かれているけれど、たぶん、ラジオが、

・ながら聞きができるくせに

・まとめて聞かないと意味がとれない

という、一見相反しそうなふたつの性質を持っているからだろう。


コンテンツ飽和の時代に、「ながら」はとても大切な技術である。もちろん車や自転車を運転しながらスマホを見るのは危ないので絶対にやめてほしいけれど、電車に乗り「ながら」スマホでゲームをするとか、料理をし「ながら」音楽を聴くとか、若い人の中ではテレビを見「ながら」TikTokをいじり続けているみたいな人も多い。「ながら」にフィックスできるツールの人気が高まり、人が集まってくるのは当然である。だいたい世の中にコンテンツが多すぎるから、「ながら」でも使いながらまとめて摂取しないと追いつかないんだよね。


ただし、「ながら」ツールの多くは、ユーザーがいまいち本気にならないというか、親身にならないというか、没頭できないというデメリットがある。デメリット? いや、メリットかな? ぼくらユーザーにとっては、ライトな使い方が心地よいことはあるよな。でも、広告とか広報をやる人間からすると、まじめにコンテンツと向き合ってくれる人の総数が減るのは問題なのだろう。


そこでラジオである。音声コンテンツは「一部だけを聴く」ことがすごく難しい。サムネが作れない。映像だと切り抜き動画であっても魅力を伝えやすいが、ラジオだと、盛り上がりポイントを切り抜いたら途端に「会話の熱」が一気に冷めてしまう。入り口は「ながら」であっても、わかるためには、「ある程度の時間はまとまって、連続で」聴く必要がある。


多くの動画・文章・マンガコンテンツが断片的、サムネ的見せ方に変わり、広告が付くなんてとんでもない、ジャマ以外のなにものでもない、金を払うから広告をどけろ、みたいな風潮がどんどん強まっている中で、ラジオという「ユーザーの時間を(ながらであっても)ある程度まとまって確保するライブコンテンツ」に、広告屋の目が向くのは当然だろう。



ところで、単純に、「いい声」を聴きたい欲があるよね。もしくは、「いい熱量」を聴きたい欲もあるね。

逆に、ラジオから聞こえてくるものが、「いい声」でもなく、「強い気持ち」でもなく、ただどこかの業界で偉いだけの人が、広告効果があるからという理由だけでプロのパーソナリティ相手に何かを聴き出されているやつは、聴く気がしないな。

ラジオの場合は、ほかの媒体以上に、しゃべり手そのものがコンテンツの核であってほしい。リスナーがラジオの主と、同じ時間を過ごすこと。すっ飛ばし・省略・要約全盛の時代に、ながらであっても、一期一会であっても、「ある人間と時間的にシンクロしている」という体験こそが大事なんだろうなと思う。

だからリスナーとシンクロする気のないラジオはしんどいんだよね。仮に、話している内容が難しくて「リスナーを振り落とすような内容」だったとしても、リスナーがその振り落とされ感を「ライブで楽しんでいる」ならば、そこにはある種独特の「シンクロ」があると思う。ジェットコースターとシンクロする、みたいな感じだろうか。