2023年3月9日木曜日

病理の話(754) 理屈はあとからついてくるが先に行かせたいときもある

病理診断の現場では、細胞を目にした瞬間、あるいは数分考えたあとでもいいのだけれど、とにかくまずは直感的に「A病だな」「B癌だ」「C炎だ」のように診断名が思い浮かぶものである。

そこに理屈はほぼない。それまで勉強してきた経験が、森の中で互いに重なり合う枝葉のようにうっそうと茂っている、その総体、もしくは集合体の中からにじみ出てくるように、診断名という概念がブワッと浮かんで、診断者の自由意志が「ああ、それしかないな」と確信をするのである。この間:0コンマ数秒において、演繹も帰納も一切働いていない。AIが統計だけで理論なしに回答をはじき出すのに似て、診断名がプロセスをたどらずに、ブラックボックスの中からいきなりバンと飛び出てくる。


ただしその、診断名がバンと表示される直前くらいから、脳が猛烈な勢いで動きだす。フェードインで診断名がブワァッと表示される0コンマ00何秒の間に、直感的な診断名を支持する理屈、たとえば細胞の姿を言い表す「所見」がバシバシと文章になって、診断名の後を追いかけてくる。最終的に診断名が脳内の液晶スクリーンにバーンとはっきりくっきり表示されたら、その下には「根拠」が書き揃えられているのである。この、「診断」と「所見/根拠」との関係は、あたかもキャッチコピーとボディコピーの関係のようだなと思う。キャッチコピーは目を引くし、多くの人の印象に影響をあたえて行動を左右するが、具体的なことは特に言っていなくて、リードコピーやボディコピーを読むと伝え手の側がほんとうに言いたいことがわりと親切に書いてある。もっと言えば、ボディコピーの詳しい説明文を読むことで、あらためてキャッチコピーの部分が「芯を食った言葉」として納得できるようになる、そういう関係に近い。診断名はそれだけ圧倒的だ。ときにそれによって人は傷ついたり打ちのめされたりする。これは患者だけではない、主治医だってそうだ。しかし、説明文のところの所見、根拠、理由、これらによって理路が開けて理知的に受け止められるようになるので診断だけバーンとあってもそれはあまり効果がないのである。


これが病理診断のおよそ9割5分で起こっていることだ。直感が強烈な診断を与え、それにわずかに遅れて(ただし人の目に留まるタイミングで見ればほぼ同着で)詳細な所見、理論、根拠、解説が追いかけてくる。解説分のところには「なぜこの病気と診断したのですか?」という質問に整然と答えられるだけのことが書いてある。ただしその病理医に「診断が降りてきた瞬間」に、本当にその根拠も同時に駆動していたのかというと、じつはそうではないということをぼくは今書いた。


ちなみに残りの5%くらいのケースではこうはいかない。


直感が診断名を連れてきてくれない難しいケースがある。A病かD病か迷う、あるいは、AからZの中に本当に答えがあるのだろうかとわからなくなる。経験から練り上げられた直感がうまく仕事をしないというか、むしろ、「直感的に、勘だけで診断してはだめなのではないか」とブレーキがかかる感じに近いと思う。この細胞は見た通り・絵面通りに診断すれば悪性なのだけれど、ほんとうだろうか? こうして騙されるケースがあるのではなかったか? と、「最初の勘で走ろうと思っても、次の直感に袖を引かれてなんだかついその場に立ち止まってしまう」診断というのがあるのだ。

こういうときの病理医は、直感的で絶対的な診断が提示されないまま、細胞の所見をひとつひとつ拾い取りながら、筋道を一歩ずつ進めていくことをする。ゴールが見えないのだけれど道はこっちにしか通じてないから歩いていればいずれゴールにたどり着くに違いない、みたいな考え方をすることもある。でもたいていそういうときは道が分岐し……いや、そんな生やさしいものではない、三叉路とか迷路のように「しらみつぶし」にすればいつか正解のルートがわかるというものではなく、オープンワールドのゲームのように、そもそも道が示されていない状態に放り出される。荒野、海原、どちらにどれだけ進めばよいかが見えない。とりあえず足を丁寧に進め、オールをゆっくりと漕ぐ。少し動いては周りを見渡し、破綻に向かって進んでいないことをおびえながら確認する。


このモードで診断しているときは、先ほどの、「キャッチコピーが先でもうぜんとおいかけてきたボディコピーが後」みたいな診断の作り方にはならない。ああでもないこうでもないと、他者の診断の経験を借りながら……教科書や論文などを参照し、あるいは同僚やコンサルタントなどにも尋ねながら……「宣伝文句だけバーンと出すんじゃなくてそのはるかに前の段階の、商品の企画開発から一緒に考えていく」みたいな感じの作業になる。経験というジェンガを抜いては積み抜いては積み、ぐらぐら、抜いては積み、ぐらぐら、みたいなイメージである。

こういうときには自分を引っ張ってくれるのは直感ではなくあくまで理屈だ。そしてエビデンス(他者が作り上げた証拠)である。自分の中に埋もれた(あるいは逆に自分がその中に埋もれているとも言える)経験はなかなか目立って活躍してはくれない。でも全く役に立たないというわけでもない。「荒野をさぐりさぐり彷徨った経験」みたいなものもある。理屈に先行してもらって、そろりそろりと抜き足で地面を踏みしめていく過程で、ある瞬間に、パアッ! と周りが見えていっきに足取りが軽くなって走り出したくなる、そうやって診断がバシバシ決まることもある。そうやって視界が開けて走り始めると、亀の歩みであった理屈は置き去りとなり、天から降りてきたキャッチコピー的わかりやすいゴールが周りをさんさんと照らしていて、すべてが高解像度で見えるような時間の到来だ。そして、ここがポイントなのだが、そうやって降りてきた輝かしいゴールが時に間違いだったりもするので気を付けなければならない。細胞を見た瞬間にやってくる直感にも、悩んで悩んだ末に降りてきた直感にも言えることだが、直感だけにドライブさせているといつか必ず後悔をする。


ずーーーーっと理屈をこねくり回した経験が必要だ。そして直感に引きずられながら一気にゴールまで駆け抜けた経験も必要である。そういう両極端の経験を積んだ先達の書いた本を丁寧に読み、追体験をしないと、いつまでたっても昔の病理医と同じレベルでしか診断をできない。それだと「現代の病理医がだまされがち」な病気に何度もだまされることになる。駆使する必要がある。駆使するのだ。駆動し、使いこなすのである。自分の脳と他人の脳、両方をである。

2023年3月8日水曜日

季節の変わり目に

職場を出たら外気温が0度だという。あたたかくなった。風もない。春だ。手袋がいらないのでスマホをいじりながら歩く。イヤホンを耳に入れて電源を入れるのもこれこの通り、外でできてしまう。春だ。イヤホンを耳に刺すのもradikoをチューンするのも素手だからこそいとも容易くできる。春だ。昼間に地面が少し溶けて、これから朝にかけてまた凍るのだろうが、今のところはまだ靴底のグリップがしっかり噛む。春だ。

多少の粉雪が舞ってもレミオロメンを呪わなくて済む。嘘だ。コロナは滅んだという。嘘だ。 20代の人たちと一切会話が弾まなくなった。向こうがおもしろくなさそうな顔をしているのがよくわかる。なぜならぼくが全くおもしろくないからだ。嘘だ。粉雪をエンタメにしやがったバンドを許さないしマスクは外せないしぼくは若い人の話をおもしろいと思っているのに向こうはそう感じていない。春だ。

ずっと雪かきをしているような日々であった。あらゆる仕事がしんしんと降り積もり、その多くは時が経てばあるいは底のほうに堆積したり、逆に溶けてなくなったりするのだけれど、それを毎日こまめに、まじめに端によけ続ける。ある程度計算をして、効率を考えて、明日の雪かきで雪を放る場所をつぶしすぎないように、今日この脇道を通る人の足元が少しでも安全であるように。春が来ると雪かきは終わる。少し間をおいて、今度は草むしりの日々が始まるのだ。それが春だ。

2023年3月7日火曜日

病理の話(753) 病理医を目指す人におすすめの書籍

医学生、初期研修医、後期研修医(病理専攻医)の順番に、「将来ガチで病理医をやりたいと思っている人におすすめの書籍」を書いていきます。


1.まだ医学生だが今から病理診断についての知恵を高めておきたいという人へ



これが一冊目!? と驚く人がいるかもしれないが、ぼくは基本的にここからはじめるのがいいと思っている。第1章として「炎症の担い手:浸潤細胞」という項目があり、形質細胞、好中球、肥満細胞、リンパ球、好酸球、単球/貪食球/組織球についての細かな説明と豊富な写真が載っていて、これが必読なのである。

この際だからはっきり言うが、「腺癌かどうか、扁平上皮癌かどうか」なんてものは誰に教わらなくてもなんとなくわかる。医学部にすでにいる人間の頭脳であれば、ネットで落ちているアトラス(日本病理学会の「病理コア画像」などが有名)などを見れば十分に理解できてしまう。将来的に、がんの組織型の分類などはAIも用いて便利になされていくだろうし、そのへんの感覚は焦って本を読んで準備する必要もないと考える。

いっぽうで、炎症細胞の見え方や「こう見えたらこういう意味がある」という勘所は、たとえガチで病理医として勤務していようと、「教えられ方」が悪い場合は5年経っても10年経ってもふんわりとしか理解できない。ぼくより年上の病理医であっても炎症細胞の解釈にあまり興味がない人は山ほどいる。しかし、臨床医とコミュニケーションを取り続けると、じつは病理医から見える「炎症細胞の出現様式」ほど臨床医にとって役に立つ情報もなかなかないということに気づく。

初期研修では病理だけを勉強することはできず、むしろ臨床のさまざまな科で研修をしていく。そんな医学生・初期研修時代に、「どの科においてもそこそこ役に立つ炎症の話」を病理目線で予習しておくと、かなり役に立つのではないかと思われる。真っ先に勉強するなら、炎症だ。自分でいちはやく勉強するなら、炎症だ。



2.初期研修医の間に病理医についてのモチベーションを高めておきたい人へ

病理検査室の実務的な部分を予習したり、もうすぐ先輩になる病理医という人たちが具体的にどういう動きをしているのかをあらかじめ知っておいたりするのがよいだろう。医学生の時期にも言えることなのだが、初期研修医までの間はどれだけ病理組織の勉強をしたところで、実際に自分がなんらかの症例(リアルな患者)を担当していないと、知識が上滑りするばかりでなかなか症例ベースの勉強はできないものだ。一方で、これから一緒に働く人たちの信念や環境みたいなものがきちんと書かれた本は早めに読んでおいたほうが役に立つ。となるとまずはこの3冊ではないかと思う。





これらに共通しているのは「仮想オーベン(=指導医)」としての質の高さと、病理検査室での実務の風景が浮かぶような構成になっているということ。いずれも通読が可能な高いリーダビリティを誇るので、どれかを見つけたらぜひ読んでほしい。


3.後期研修医=専攻医となり、実際に病理診断をはじめている人へ

この時期からは生涯無限に本を読むことができる。おめでとうございます。ただし、切り出しを覚えたり病理解剖を覚えたりするのにまずは必死だろうから初期に読める本は少ないかもしれない。勤めている病院のルーティンのどれが自分に回ってくるかによって、読まなければいけない本も変わってくるだろう(大腸ポリープばかり勉強しなければいけない人もいるし、乳腺を多く診断する人もいるだろう)。

そういった各論的ずれはともかくとして、多くの人は文光堂の『外科病理学』(I, II)を手元に用意してあらゆる疾患に対応しているのではなかろうか。クソ高い本だが、どこの病理検査室にもまず間違いなく置いてあるので借りて読めばよい。なんならボスに命じられて出張した外勤先にもこの本が置いてある確率は高いだろう。電子版をiPadに入れている病理医もたまにいるが……どうせどこにでもあるからな、という感覚。でも個人で購入している人もけっこういると思う。初任給で買えばいいのでは?

どこの職場にもあり、かつ、全国津々浦々の病理医が診断に用いている本というと、文光堂の『腫瘍病理鑑別診断アトラス』(通称:白い本)も有名だ。がんを診断するなら何度も何度も首っ引きであろう。一方で、このシリーズは当たり前だががんのことしか載っていないので、卵巣の良性腫瘍・嚢胞とか、整形外科から出てくる良性腫瘍、炎症性腸疾患への生検、腎生検、骨髄所見などを調べて書く役には立たない。

「がんの診断については専門書が職場にいっぱいあるからいいとして、病理医として勉強を深めるために誰もが読んでおいたほうがいい本」みたいなのはあるか、という話。ある。たとえばこれだ。


病理診断においてさまざまな臓器で当たり前のように用いられる「専門用語」の解説が細かい。臓器横断的な病理診断の考え方のようなものがちりばめられている。同様のニュアンスを洋書で達成しているシリーズに、『Quick Reference Handbook for Surgical Pathologists』というのがあり、こちらは英語が得意だろうが苦手だろうが手元に置いておくと病理研修の序盤から中盤くらいで大活躍する(特に病理診断系の論文を読んで出てくるDeepLでも読み解けない謎の形態学用語を知るのにいい)。


あとは……

・皮膚病理系(斎田先生か阿南先生からはじめるのがいい。泉先生の本は基本をある程度勉強してから読むとぐっと読みやすくなる印象がある)
・婦人科の非腫瘍系(内膜の日付診や良性病変の細かい鑑別用。ぼくは古いものしか知らないので申し訳ないがあまりここには書かないほうがいいかも……)
・骨髄系(骨髄疾患診断アトラス/中外医学社がいちばんいいかなと思うが、臨床的な事項が書いたWHO血液腫瘍分類/医薬ジャーナル社なども検査室にあればたまに目を通すと役に立つ)
・非腫瘍系の骨・関節疾患(そのままずばり非腫瘍性骨関節疾患の病理/文光堂が強い)
・肝炎(全陽先生の組織パターンに基づく肝生検の病理診断/日本メディカルセンターが超強いのでこれが一番いいのではないかと思う)

このあたり、病理検査室にたいていあるだろうからそれらを借りてたまに読んでおくことをおすすめする。ところで腎生検や脳腫瘍などは専門性が高すぎるので書籍だけでがんばっても限界がある。ただ、腎生検はたまにいい本が出ているので個別にいろいろな人に聞いてみるといい(ここで書いてもいいのだがぼく自身があまり腎生検をまじめにアップデートしていないので責任が持てない)。


4.その他

自分でこうして2日に1回「病理の話」を書いておいてアレだが、「ブログで病理を勉強する」のは無理である。勉強をさんざんしている人が遊びで読んで「あらそんなこともあったのね」と次の勉強のきっかけにすることは誰もがやっていると思うが……はっきり言うと病理系で「優れたブログ」は存在しない。「おもしろいブログ」は結構あるので趣味でじゃんじゃん読めばいい、ただしブログベースで勉強をするのは無謀だ。これは海外のブログも含めてである。英語で書いてあればなんだか格調高いように思えるかもしれないが、実際にはそういうブログの著者はもっといい書籍を書いている(日本よりはるかに稼ぎにうるさい海外の病理医なのだから当たり前だと考えよう)。書籍は専門の編集者や共著者などの目を通している分、情報の精度が高いし画像のクオリティも良い。書籍>>>(超えられない壁)>>>ブログ、である。WHO分類やAFIPアトラスを端から通読していく手間を惜しんでブログを読んでいてはいけない。厳しいようだが病理医こそはそういう手間に精魂を込めるべきだ。ほかの臨床医が「時間がない」「気力がない」と言って読めなくなった本を病院の中で唯一……というほどではないけれど……読める人間が病理専門医でなければならないと思う。そこが我々の強みなのだ。

ところで、「自著」について、近頃はもうこういう本の紹介を目的とした記事ではなるべく紹介しないようにしている。そんなことをしたら今日のおすすめ全てが信用できなくなるではないか? 売上げとか人間関係とか自分の功名心などでバイアスがかかった本のおすすめほどクソなものはない(クソでもおもしろければいいのだけれど……)。ぼくは自分の本を一切読ませずに、他の人が書いた本だけで病理医を育て上げる自信があるし、病理医たるものそうでなければだめだろう。世の中には最高にいい教科書がたくさんあり、それを片っ端から読んでいける人間こそが病理医になるべきだからだ。



このブログ記事を見ている人の中にどれだけ病理を目指す医学生や研修医がいるかはわからない(ほとんどいないかもしれない)。それはそれで全くかまわない。ぼくはこうしてときおり自分の中でぼんやりまとまっている内容をブログの記事にすることで、現実にぼくのいる検査室を見学に来た医学生や研修医たちに、実際の本を手にとりページをめくりながら本の内容を流暢に紹介することができる、それだけで十分役に立っている。

あと、このブログを引用しながら「それよりもこっちの本がいいよ」とすすめてくれる病理医がもしいたら、そういう人を大事にしてほしい。人それぞれおすすめの本はあり、みながみな違った視点で病理の世界を切ろうと毎日格闘している。学ぶ人にとって今が一番いい時代だ、なぜなら、ネットを用いて指導医を無限に増やすことができるのだから。

2023年3月6日月曜日

脳だけが旅をする

今日は日曜日だがまあ月曜の朝を楽にするためにメールでもチェックするかと思って出勤してPCを開いたらモニタに目のピントが合わないのでびっくりした。しばらくメールを読んだり文章を書いたりしてみたけれど、老眼ならピントもそのうち合うだろうと思っていた期待は見事に裏切られ、10分経っても20分経っても司会はぼやけたまま。眼輪筋が衰えていてピントが合わせづらいのかと思ったがどうやらそうではない。モニタより近くにある外付けキーボードの文字はわりとちゃんと見えるからだ。つまり、どういうことか? 簡単だ、老眼かと思ったら近視が進行していたのである。そっちかよ! この歳になって、今さら? ひとまず視界という字を司会にミス変換していたことにもなかなか気づけないくらいには視力が落ちている。文字への集中力が削がれる。思考も散漫だ。まずい、いよいよ伊達メガネをあきらめて本物メガネをかけなければいけない。いやだなあ、メガネの医者なんてステレオタイプの真ん中すぎて嫌いなんだよ、という声が脳内の一箇所から響いてくる。ぼくの意識に対する古参のタニマチみたいな存在が脳の一角に棲み着いていて、たまにこうして声を上げる。ぼくもそれを聞いて今回ばかりはおっしゃるとおりだよなとうなずく。伊達メガネならいいが本物メガネはいや。視界はぼやけ続けているがそれとこれとは別問題なのだ。

脳の真ん中に自由意志の本体のようなものがある。その右前、左前、右後ろ、左後ろに4名の「本体に反応する分身」がいる。前にいる二人はぼくの本体と連立与党を組んでいるイメージで後ろの二人は野党だ。基本的に応援してくれて牽引してくれるのが前の二名で、何をしても反対するのが後ろの二名。賛同と反論を参照しながらぼくの思考はヨチヨチと前に進んでいく。なお、今回の「伊達メガネならいいが本物メガネはない」と言っているのはじつは前にいるほう、すなわち連立与党側であり、二対二なら真ん中の自由意志がわりと冷静に是非を検討してやっていくのだが、今回のように三対一に均衡が崩れると「本物メガネ」を指示する声は脳内ではまったく存在感を失う。医学的にどうだとか生活を考えたらどうだとか安全のためにどうだとかそもそも伊達メガネと本物メガネの違いなんてはたから見たらわかんないだろうみたいな「正論の一名」なんて脳内多数決の中では何の役にも立たない。

「メガネの医者はいやだ。伊達メガネなら許せる。本物メガネはありえない」可決。

脳内では筋の通った理路だ、なんべん脳内で議論を行ってもこの理屈に破綻は見いだせない。しかしもちろん脳外から見ると奇異である。なんなら、ぼくの脳に外付けされているぼくの耳にも不思議に聞こえるし、今こうしてぼやけたままの視界の中でもなんだか変な感じに映る。あるいは、およそ世の中でよく目にする「論理性が破綻した言動」というのも、これと一緒なのではないかと思う。脳内では確かに矛盾なく繋がっているのだが、しかし、それはあくまで、脳内と脳外が物理法則も時間の概念も論理法則も倫理のありようまでも別様である「異国」であるからだ。国境を越えた途端に解釈は噛み合わなくなり紛争が起こる。



釧路の看護学校の定期試験の採点を終える。締め切りは3週間後だが無事終わった。東京の大学教授といっしょに来月やる予定のウェブ講演会2つの資料を作り終わる。講演は1か月後だが無事できあがった。診断以外の仕事の遅れを日曜日の午前中を用いて片付けていく。「3週間? 1か月? ぜんぜん余裕がないじゃないか、もし1か月かかる仕事が突然入ったらどうするつもりだったんだ」「ごめんね、ほんとうだよね、今度からもっと早く取り組むようにするよ 日曜日にもう少しがんばればいいと思う」「おいおいそれじゃ困るぞ、日曜日に出張すると一発で破綻するじゃないか 平日にちゃんとやれよ」「そうだね」議論が終わる。ながまきさんが作ったYouTubeリストの音楽を片っ端から聴きながら次の仕事へ、次の仕事へと進んでいく。6月の講演のプレゼンを作る。こうすれば平日にきちんと顕微鏡を見て診断ができるし共同研究の論文も書くことができる。

仕事と休みのバランスみたいな話はもう見飽きた。「メリハリある生活をしたほうがいいですよ」とぼくに10年前にアドバイスをしてくれた人たちよりもぼくのほうがたいていツイートの回数が多いし論文の数も負けていない。まったく、脳外の論理はいつも破綻している。「バランス」? なんで天秤にかける? 載せる場所が2箇所しかない測定器具を使ってなぜ人生の豊富なありようを可視化しようとするのか。オロカだ。

日曜日くらいゆっくり休んで本でも読んだらいいではないかと言われても、あと4時間がんばれば決着できるとわかっている仕事を放置したまま本を読んだところで内容が頭に入ってこないのだから現場感のないコメントだとしか思えない。日曜日に職場にいるのはひとえに自分が癒やしの時間に集中するための下準備である。つまりは今こうして働くことで休んでいるとも言える。なぜそれがわからないのか? 脳外はいつも破綻している。脳内の4名が1名を取り囲んで談笑している。1名は体育座りで目をこすりながら近視の進行を未だに疑っている。

2023年3月3日金曜日

病理の話(752) 専門家マトリョーシカ

病理医という職業はまーまーレアである。日本なんちゃら専門医機構というところが基準を決めて認定する「専門医」なるエラそうな資格のひとつに、「病理専門医」というのがあって、これを持っている人は現在日本全国に2700人くらい。ぼくがツイッターはじめたときは2300人くらいだったはずなのでなんとなく増えてる。超レアってかんじでもない。もっとも、外科専門医だと20000人くらいいる。やっぱレアといえばレアかも。


で、このややレアな病理専門医だが、じつはさらに「専門性」にわかれている。病理医が担当する臓器は全身あらゆる部分であり、脳、皮膚、目、鼻、耳、くち、ノド、食道、胃、十二指腸、胆管、胆嚢、膵臓、脾臓、肝臓、空腸、回腸、虫垂、大腸、肛門、心臓、肺、腎臓、尿管、副腎、甲状腺、唾液腺、膀胱、尿道、子宮、卵巣、精巣、膣、ホネ、筋肉、血液、リンパ節と思い付く限り上からざっと列挙してもこれくらいあって、しかもこれだと胸膜とか腹膜を書き忘れているし、脊髄や神経も忘れててアチャーとなっている。

これらの細胞および病気すべてに詳しいというのはまあぶっちゃけ不可能だ。「昔はぜんぶ見られる病理医がいたぞ!」とかいう話も聞くし、ぼくもたまに言うのだが、昔と今ではひとつの臓器に関する知識の深さが違う。遺伝子検索はおろか免疫染色もほとんどしなかった時代と今とでは話のスケールが異なる。


というわけで、病理専門医の中にもさらに細分化の波がおしよせているのだけれど、この先については「専門医制度」みたいなお墨付きはないのである。なにを言いたいかというと、たとえば、

「認定・胃病理専門医」

とか、

「殿堂入り・脳腫瘍病理専門家」

みたいな称号がないのだ。


自動車免許に例えるとわかりやすいだろうか。普通免許があって、大型特殊の免許がべつにあって、でもその先の重機ごとの認定資格みたいなのは(あるかもしれないけれどぼくは知らないのでいちおう)ない。クレーン専門免許とかフォークリフト達人証明書とかはないということである(あったらすみません)。

医者もこれといっしょで、医師免許があって、病理専門医の認定があるが、その先でどの臓器を専門にしていくかというものに対しては「おすみつき」がない。

だから言ってみれば名乗ったものがちなのだ。

専門領域でいっぱい論文を書いているとか、講演会などでめちゃくちゃしゃべっているなどで、この人がなんとなく専門家っぽいなというのをおしはかることはできる。しかし、人前でしゃべること、あるいは論文を書くことと、「顕微鏡を覗いてそこに潜んだ科学をあますところなく引き出す能力」とが絶対に一致するかというと、どうやらそういうことでもない。


診断がめちゃくちゃすごい病理医というのは確実にいる。専門家の中にいる。しかし、専門家といっても幅があって、「自称専門家」もたまにいて、まあ最低限のクオリティは保っているので患者にさほど悪影響は与えないし、なんなら主治医から見ても「いい病理医だなあ」と思われている人が圧倒的に多いのだけれど、病理医が見るとわかる「真の専門家」みたいな人はそんなに多くはない……いやまあいるけどね。


ところで、臓器ごとの専門性というのはどうやって身につけるのか、あるいはどうやって目指すのかという話もしておこう。

自分が興味のある臓器の勉強をして専門家になっていく?

原則はそうだ。でもちょっと違うニュアンスもある。

どちらかというと、「自分が過ごしている環境にあわせてだんだん決まっていく」というイメージ。カメレオンやコウイカ、ナナフシあたりを想像してもらうのがいい。済んでいる場所の背景色に適応して色彩が変わっていくだろう。病理医もいっしょである。自分がそのとき勤めている病院の「臓器ごとの手術の数」とか、自分が長年世話になったボスのスタイルに似ていくとか、そういう部分でわりと「病理医の一生を鋭く光らせる専門性」というものが受け身に決まっていくことが多い……と思う。


ちなみにぼくの勤める病院では、胃癌や大腸癌、肝臓癌、膵癌、胆管癌、肺癌、乳癌などが多く手術される。ほか悪性リンパ腫とかも多く診断されているし炎症性腸疾患の診断頻度も多い。だからぼくの専門性も自然と胃腸、肝臓、胆膵、肺、乳腺などに偏っていく。ぼくはほかにも興味のある臓器があって、そっちも勉強しようと昔は思っていたのだけれど、やっぱり圧倒的に日々戦っているジャンルにどうしたって強くなる。そして、強くなってきたおかげで、その領域でさらに強く診断している人たちの背中がかろうじて見えるようになり、ああそうか、ああいう場所を目指さないとだめなのかと日々背筋がのびる。

2023年3月2日木曜日

生徒ビンビン物語

人の数だけ個性があり、生き方、大事にするもの、「良かれ」の方向など、さまざまなバリエーションがあるということを毎日噛みしめている。金、仕事、生き甲斐、人間関係。


参った! ギブアップである。こんなに人それぞれじゃあ、もうぼくはついていけない。しかしじつはこのプロレス、ギブアップしても試合が終わらない。いくらタップしても締め上げる腕が緩まない。すとんと意識が遠ざかり、ぼくは落ちる。落ちても試合は終わらない。目が覚めたらまだ締められている。ギブアップ! しかし試合は終わらない。


ぼくなら不満に思わないような部分を思い悩む人。どう声をかけていいのかいつも困る。

ぼくなら気にも留めないようなことを何度もリフレインして沈み込んでいく人。「わかるよ」と言えないことがこんなにしんどいとは。

ぼくが気づきもしない石ころにつまづく人。

ぼくが感知しない花粉でずっと鼻水をたらしている人。

かける言葉はなくなる。ああそうか、昔の人が「背中で学べ」と言った理由がいまならよくわかる。かつての師匠達は、弟子たちと面と向かって話すことがめんどうだったのだろう。自分よりあとからやってくる人とわかりあえる気がしなかったのだ。そうに違いない。

ちなみにきょうび、「背中で学べ」をやると、それで傷つく人もいる。だからもうできないと思う。

向かい合えば無。

背を向ければ死。


そのうち少しずつ少しずつ、自分の話が通じる人とだけやりとりしたくなる。

クラスタに分かれていく。

思考が凝り固まり、仲良しグループでだけ会話するようになる。

だめだぞ、そんなことでは。いえ、大丈夫です、ご心配には及びません。

なぜならぼくには、「話が通じる人」の心当たりがないからだ。寄り合いにはまる心配はない。派閥に巻き込まれるおそれもない。

本当は、「互いにわかる人」とだけ会話をしていたい。良いものを良いと、つらいことをつらいと言いあえる人と、目配せをし、肩をポンポンと叩きながら、酒でも飲みつつ苦笑いをしたい。言葉と視線と感覚を交わすのだ。肉声で。肉眼で。肉体で。

でも、そんな都合のいい人はいない。

誰あろうぼくがそもそも、昔から、他人が不満に思わないような部分で思い悩み、他人が気にも留めないようなことを何度もリフレインして沈み込んだ。人のつまづかない根っこにつまづき、人の感じないホコリにアレルギーだった。

そもそもわからなかった、わかられなかった自分が、今、他人を、若者を見て、わからないわからないと言っている。



どうしたものかと考えて10年以上が経つ。直接顔を合わせたってわかりあうことなんてできないのだから、そこはもうあきらめて、ネットの力で、不便な言葉をすべらせて、感情の表層だけをやりとりする。表層だけしかやりとりしない。深いところにあるものなんて誰にもわからないし、誰のもわからない。そういう感覚を知ってなおここにいる人たちが、何万人、何十万人、みんな違う。みんなわからない。わかられない。それでもなぜか、「ぼくと同じようなモチベーションでここにいる人」がいることだけはわかる。

何百万人という他人がそれぞれ内心で何を考えているか、何に悩み何につまづいて何に涙を流しているかは一切わからない。しかし、わからない数千万人はみな、むき身の自分でリアルでフィジカルにぶつかりあってもなお、誰にもわかられなかった人たちである。じつは全員そうなのだ。誰も互いをわからない。

「この手紙程度ではぼくのことは何も伝えられない」と肩を落としながら大海にガラス瓶を流している人が数億人いる。

ぼくはその、「ビンに手紙を詰めて流す感覚」だけが、ぼくら全員に共通しているのではないかと思って、ネットに文字をすべりこませてきた。



その感覚すら共有されていないのだ、と知るまで、そんなに時間はかからなかった。



2023年3月1日水曜日

病理の話(751) 病理診断実況のコツ

病理医は、細胞を顕微鏡で見て、そこにあるものを読み取り、意味を与えて、診断を下して報告書に記す。

あるものをあるまま見ればいいんだから簡単だろうって? うん、簡単なこともあるが、そうだな、じつはけっこうマニアックな難しさがあるので、今日はその話をする。


まず、顕微鏡を覗いたときに「何に着目するか」がとても大切だ。視野に広がる無数の細胞の中から、患者の現在の状態を反映する細胞もしくは細胞集団を選び取る必要がある。


さあ例え話の出番だ。

あなたはプロ野球のバッター。マウンドではピッチャーが振りかぶっている。ここで、目に映るものすべてを「実況」するとどういうことになるか?


「日はとっぷりと暮れており、ここは野外球場で、風はライトからレフトに向かって吹いていて、外野スタンドにも内野スタンドにも客がぎっちり詰まっていて、今はライトスタンド側が立ったり座ったりしながら激しく応援をしている。内野手は定位置からやや左にずれている。ランナーは一人も出ていない状況だ。ピッチャーがモーションに入ると同時にショートとサードが少し腰を落として、セカンドも続けて腰を少し落として、うしろからキャッチャーが座り直す音がわずかに聞こえて、ピッチャーはワインドアップから、あっ今少し風が吹いてピッチャー後方のロージンバッグから粉が飛んで、センターはリラックスしていてレフトはひざに手を置いてショートがカカトを少しあげてピッチャーが左足を挙げてバックスクリーンのモニタがピッチャーを後ろから見た映像が映って正面から見た自分とキャッチャーと審判の顔が映っているいつものテレビの画面に切り替わってここでセカンドがさらに深めに腰をピッチャーが体重を少しずつ前に移動してライトの歓声が一段と高くなって鳩が二羽飛んでいたなあと思ったらピッチャーの手からボールが離れたと思ったらサードが腰を落としてショートが少しはずんでそういえばバットを少し長く持ちすぎていたかもしれ\ストラーイク!/」


見すぎである。


もう少しピッチャーの様子に集中したほうがいい。これでは打てないのだ。あるものを全部語ってもだめなのである。そもそも上の文章、ぜんぶ読んだ人も半分くらいしかいないのではないか。報告書になんでもかんでも書いてもだめだ。読む方の気持ちも考えなければいけない。


だから大事なものを選び取るのだ。情報を刈り込む。

何も考えずに顕微鏡を覗くと、そこには粘膜を構成する上皮細胞のほかに、膠原線維とか、血管内皮とか、血管周囲に少量だけもれでた炎症細胞、浮腫を示す空隙、脂肪、検体作成のときにちょろっと漏れたのであろう赤血球、パラフィンの粉、ホルマリンに混じっていたゴミなどがぜんぶ含まれている。

それらの中から、「今回、自分が患者に診断を付けるために必要な情報」だけを見る。

先ほどの野球の例えでいうと、自分が向き合うべき「ピッチャー」の、「手元」にあたる部分がどこかと考えるわけだ。たとえば、がんの診断をするならば、あまたある情報の中から「上皮細胞の異常」を特に鋭敏に拾い上げるように、脳のチューニングを合わせていく。

ちなみに、野球の例えでなんとなく思い付いたことをついでに書いておくと、「ボールが手を離れてからでは遅い」みたいな感覚も使う。「このような手の動かし方ならここにボールが来るだろう」と予測する、みたいなことを、顕微鏡を見るときにもやっている。「このような細胞配列だと、放っておけばきっとこういう悪さをするだろう」みたいな予測こそが病理診断の醍醐味だなあと思う。すでにミットに入ってしまったボールを見てもしょうがないのだ(でも、ちゃんと見てカウントはする)。


そして、いきなり逆説的なことを言うようだけれど、ピッチャーの手元だけ見ていてもいいバッターにはなれない。上皮細胞の良し悪しだけ見ていて診断が終わるのは研修医までだ。上皮細胞に異常があるとき、多かれ少なかれ、その上皮と相互に影響を与え合っているほかの細胞や環境にもなにかしらの変化があらわれる。

野球のたとえで言うと、ピッチャーがモーションに入ったときに内野陣がいっせいに「少しだけ左に動いた」のであれば、バッターがおもわず左に打球を打つようなボールをこれからピッチャーが投げる、ということだろう。右打者の膝元に落ちるような変化球をひっかけさせて、三遊間にゴロを打たせるような球をこれからピッチャーが投げるからこそ、内野陣はそれに合わせて重心を三塁方向に移動させて対処しようとしているわけだ。

これと同じで、がんの診断をするときには上皮細胞だけを見るのではなく、その上皮の挙動を受けて反応している周囲にもすこしだけ目を配っておく。すると、上皮細胞だけを見ているのと比べて、「診断のキレ味があがる」のである。


そうやって勘所を押さえて、「所見」をとる。細胞の挙動の意味を感じ取る。これまでの研究で示されている結果と照らし合わせて、細胞がこのような状態になっているならば将来患者はこうなるはずだという未来像をきちんと示す。

その示し方はあたかも、一流のラジオ中継のように的確であるべきだ。

さっきみたいに、球場の何もかもを目に収めてかたっぱしから実況しても、聞いているほうは何がなんだかわからない。

勘所だけをビシッと。しかし、なるべく情景が伝わるように。


「夏の夜の甲子園からお送りします 巨人対阪神の第22回戦 ピッチャーは先発の佐藤、次が55球目。内野陣が腰を落とし、さあピッチャーワインドアップから第2球目を 投げた インコース振りに行った鈍い音、引っかけた サード高橋定位置落ち着いて取った 一塁送球 アウト」


「広範な腸上皮化生を背景に一部胃底腺の残存する粘膜で軽度の慢性炎症細胞浸潤を伴っています。体中部前壁やや小弯、肉眼的に隆起と陥凹の混在した病変の陥凹部に一致して 異型を有する高分化型管状腺癌がみられ、一部中分化の混在。低分化成分はありません 切片12で粘膜下層の浅層に浸潤。進達距離は250 μm 消化性潰瘍の合併なし。脈管侵襲はありません、リンパ節転移陰性。断端陰性」


まあこのまんま書くわけじゃなくてもう少しプロっぽく書いてるけど、いずれにしても、なるべく滑舌よくしゃべるのがコツ。文字であってもだ。