2017年10月11日水曜日

この事ばかり気にかかる

「猫たちの色メガネ」を読んでいた。

ぼくはすぐ、読んだ本を何かにリンクさせたがる悪いクセがある。この本を読んで考えたことはアレに使えるなあ。この本みたいな風景を前にも何かの本で読んだぞ。ああ感動した、この感動はあれと同種の感情だ。これと同じジャンルの本はほかにあの人とあの人が書いていたなあ……。

「猫たちの色メガネ」を読みながら、ああ、そういう読み方ばっかりするようになったぼく、つまんねぇ男だなあ、と思ってしまった。



なんでもそうだ。一日の中で経験したことすべてに意味を求めている。

ツイッターでひとつリプライが来たなら、その経験をどこかに書き留めて、いつか別の話題でうまいこと放出しようと考えている。

日常でした何気ない会話のひとつをいつまでも大切にとっておいて、いつかブログの記事にしたらうまいこと書けちゃうんじゃないかと虎視眈々と狙っている。

なんだかつまんねぇなあ、と思ってしまった。



そこに起こった出来事に、意味はある。理由があり背景がある。積み重なった無数の選択がある。人の意志でどうにもならない、自分で選んでいるようで実は全く選択肢がない、選ばされている選択もある。

そして、ああ、なんかそういうことがただ、起こったのだなあ、と、写真1枚を撮って先に進むようなやりかたも、できるのだと思う。



インスタ慣れした世間はみなそうやって、あらゆる出来事に意味づけすることをもはやあきらめているようにも思う。

ぼくも、全ての出来事に理由を問いかけるのをやめてみたほうが、いいのではないか。




「猫たちの色メガネ」の本文中、「こ」だけは違うフォントが用いられている。

なぜだ? と問わないで、そういう本なんだなあ、と。

……生まれ変わらないと無理だな、問わずにいること。




あらゆる物事に何かをリンクさせたがるぼくは、「こ」に気づいた日の夜、ほとんど眠れずにずっと「こ」のことを考えていた。何かうまいこと書けないだろうか、と、考えながら。

2017年10月10日火曜日

病理の話(129) 絵合わせスラムダンク

見たことも無い細胞を目にする。

なんだこれは。

ふくれあがった核は輪郭がでこぼこで、核膜の厚さも一定せず、大量のクロマチンによってどす黒く染まっている。ひとつの細胞の中に複数の核があることも。悪性であることはまちがいない。いずれ人を殺す細胞である。

しかし、どんな腫瘍であるかが判然としない。

特定の方向への「分化」があるようで、ない。普通の腺癌ではない。普通の扁平上皮癌でもない。

……。これは、わからない。

わからないけれど、臨床医はもっとわからない。

患者はもっともっとわからない。

これは病理の仕事なのだ。




背景の血管が不思議に動かされている。

細胞のカタマリの中に、壊死がみられる。

細胞の配列に特徴があるか……?

免疫染色を多数行う。どれかひとつふたつ、タンパク質の発現によって、この奇妙な腫瘍の「正体」が見つからないだろうか。

特殊染色も行う。グリコーゲンの分布は。粘液の微小な産生がないか。細網線維の増加パターンは。




どうしてもわからない。

教科書をひっぱりだす。Enzinger, Ackerman, Sternberg, AFIP atlas, 外科病理学, 腫瘍鑑別診断アトラス……。

すべてのページをめくる。

数千枚の写真を、ザッピングするように目の端に映していく……。





あった。あった。これだ。

たぶんこれだ。

本文を読む。10数項目の組織所見。一致。一致。これは一致しない。一致。これはどっちともとれる。一致……。

染色体検査が必要かもしれない。

大学に依頼をする。メールを打つ。

さらに免疫染色を追加する。






ぼくはひとりのちっぽけな病理医で、所詮、病のすべてをわかるわけもない。

知らない病気だってある。

見たことのない腫瘍も出てくる。




ぼくは最高の病理医ではないかもしれない。ぼくは病に勝てないかもしれない。

けれど、医学の歴史と集合知は負けんぞ……。





ゴリの顔を思い浮かべながら診断に潜る。臨床医が笑っている。患者の笑顔まで引きずり出せばようやく勝利である。

2017年10月6日金曜日

ヒューマンといえばファイプロ

医療系のドラマとか小説の惹句に「ヒューマンドラマ!」と書いてあるとその時点でもうなんかすごくあーあって思ってしまう(けど読むけど)。

ヒューマンドラマって何だよって思うからだ。

ヒューマンじゃないドラマを考えるのは難しい。

動物奇想天外みたいに、動物を主役にしたらアニマルドラマか? 結局、アニマルたちにヒト語をしゃべらせて、擬人化した感情をアフレコして、あるいはその動物と関わる人たち、飼育員とか飼い主とかの言葉を拾い挙げるわけだし。

人工知能が主役のスペースオペラか? R2-D2だってあれもうほとんどヒトだから。しゃべり方がカタコトなだけだから。

初音ミクは「ぼく」を歌うし。

ヒューマニティを除外したドラマなんてないのだ。

いや、まあ、言葉遊びの揚げ足取りって言われるかもしれないけれど……。

ヒューマンドラマ、とうたわれた時点で、「ほっこり」「じわり」「しみじみ」、あるいは「ドロドロ」「ジタバタ」「グチャグチャ」、ひらがな系かカタカナ系かはともかく、なーんかもういいかなって気分になってしまうのだから、しょうがない。





一度原稿仕事でお世話になった編集者から、「医療をめぐる現状と対比しながら、医療にまつわるブックガイドをお願いします」という依頼が来た。

医療を題材にした本とかドラマ、あまり読んでいない。

ノンフィクションの方が読んでいるかもしれない。

ぱっとは思い付かなかった。マンガが数冊浮かんだ。

小説かあ……。昔読んだ小説で、何か、ひとにおすすめできそうな本があったかなあ。

思い出すきっかけが欲しくて、医療系のキーワードをいくつかGoogleにぶちこんでみた。

出てきたことばは「医療ミステリー」だとか「医療サスペンス」。まあそうだろうな、ありとあらゆるジャンルが、ミステリーとかサスペンスになりうる。

さらに、「ヒューマンドラマ」、「問題作」、「意欲作」。

うーん。医療である必要がないな。




悩んだ末にいくつかの本をピックアップした。これをおすすめしたら、某誌の読者は興味をもってこの本を読んでくれるだろうか、ということを気にかけながら、再読に入る。

読みながら、ああ、ぼくはどうも、「フィクションから得た感性を用いて、現実で起きている医療を語る」ということを頻繁にやっているなあ、ということに気づいた。

さらに。

ぼくが医療を語る上で根幹としている創作物のほとんどが、「必ずしも医療現場を題材にしていない」。

少し驚いた。

ときにはSF。ときには歴史小説。工学系であったり、青春小説であったり、ありとあらゆるジャンルの本から少しずつわきあがってきたインプレッションが、医療に対する目を開かせている。



結局、現実の医療も、虚構の叙事詩も、なにもかもがヒューマンドラマだからなあ。

ジャンルなんて関係なく、優れた創作物は、医療を思うときにスパイスになりうるんだ。




自分の子供にサッカーを好きになって欲しいと思った親が、キャプテン翼を読ませる。

自分の子供に東大に入って欲しいと願った親が、ドラゴン桜を読ませる。

自分の子供に医者になって欲しいと切望する親が、医療小説を読ませる。

いまどきそんな短絡的な教育もないだろうが……。ぼくは心のどこかに、「ジャンル系」を読めばそのジャンルについての思索が深まるだろう、という、根拠のない思い込みを持っていた。




なんかあれだな、医療を考えるために本を読む、ってのつまらないな。

わかんないけど本を読んでたら、医療についても思いがふくらんだ、くらいでいいんじゃないかな……。




……それじゃ原稿にならないかな?

いや、うん、原稿にしよう。ぶつぶつ、キョロキョロして、じっくり、ガッと書く。

2017年10月5日木曜日

病理の話(128) 全部署マニュアルを創業者が持っていないといけないという話

ぼくらの体はすべて、1個の受精卵が分裂してできあがったものだ。

なんというか気の遠くなるような話である。

ブルゾンちえみの言うことにゃ、体の中には60兆くらい細胞があるそうだが、その60兆がすべて1個の細胞に由来しているというのだ。

女王バチがぜんぶのハチを産んだんですよー、みたいな話を聞いて、ヒェッ……と思ったりしていたが、なんのことはない、(昔の)ぼくのほうがよっぽどがんばっていたんじゃないか。




受精卵もまた1個の細胞である。「核」がある。核にはDNAが入っている。DNAには人体の設計図……というか、人体をコードするプログラムが「すべて」入っている。

すべてだ。

受精卵の中のDNAを読み解くと、そこには、「汗をつくる細胞」になるためのプログラムも、「筋肉として伸び縮みする細胞」になるためのプログラムも、「胃酸を出す細胞」になるためのプログラムも、「目の透明な部分」をつくるためのプログラムも、ぜーんぶ入っているのである。

なんだかすごい話だ。

受精卵を新入社員に例えてみれば、その「異常さ」がわかる。

新入社員は普通、入社時にはどの部署に配属されるかわからない。営業? 人事? 経理? どこで働くことになったとしても、その部署に入ってから、先輩とか先輩が残したマニュアルとかに従って仕事を覚えていく。

けれど、受精卵は、入社の段階で、「すべての部署のマニュアル」を持っている。これはすごいことだ。

しかも、よく考えたら、「入社の段階」どころか、会社がないのだった。

受精卵はひとりで荒野に立ち、そこで分裂して同僚を増やし、会社を作り上げてしまうのだ。

ああ、だったら、「全部のマニュアル」をもって産まれてこないといけないよなあ。

聞く相手もいないわけだから。

同僚すら自分で作っていかなければいけないのだから。




……と、このたとえ話を進めていくと。

いろいろと、生体内で細胞がやりくりしている様子が、わかるようになる。




まず、受精卵の段階で、いきなり「人事」とか「営業」のプログラムをひもとく必要があるだろうか?

ない。それどころではない。まずは同僚を増やさなければいけないだろう。

つまり、「細胞はまず第一に、増殖するところからスタートする」。

そして、社員が十分にて、分業が進み、部署が完成したら。

毎回、万能の新入社員をリクルートするよりも、最初から「営業向きの人」とか「経理が得意な人」を、部署ごとに登用した方が楽だろう。

だから、部署ごとに社員を増やす。このとき、たとえば「胃」という部門で増える細胞は、最初から、「胃で働くように特化している」。「肝臓」という部門で増える細胞は、最初から、「肝臓ではたらくためのマニュアルだけを稼働させる」。

分業が進んでいるのだ。生命科学のことばでは、分業ではなく、「分化」と呼ぶ。




これらはすべて「正常の細胞」で起こっていることである。

逆に言うと、「病気の細胞」、特に「がん細胞」では、「プログラムのひもとき方」が間違っている。

今そこで増えるなよ、というところで増えるし、ちゃんと分業してくれよ、適材適所でいてくれよ、というタイミングで決まった仕事をしてくれない。

増殖異常、分化異常。




裸一貫、一代で巨大な企業をつくりあげたぼくらの受精卵は、ご苦労なことにすべてのプログラムをもって産まれてきた。同僚を増やし、代を重ねるごとに、この部門ではプログラムの何ページを使おう、こっちの部門ではプログラムの何章を使おうと、細分化して分業を重ねていくけれど、ぼくらの細胞は今この瞬間にも、核の中にすべてのプログラムを大事にしまい込んでいる。

そのプログラムを間違ってめくってしまうとき。たとえばがんが生じるわけで。

「あっ、こいつ、プログラム変な開き方してる!」

と気づくために行うのが、「顕微鏡で細胞の核を見る」ということなのである。

2017年10月4日水曜日

彼の名は玉井大翔

ひいきのチームの成績がふるわないとき。

野球でもサッカーでもラグビーでも、ああ、チームと書いたが、ゴルフでもテニスでもフィギュアスケートでもいいんだけれども。

応援している人(たち)がいまいち調子がよくないときに、球場に行って応援をしていると、心のどこかに

「今おれはボランティアをしてやっているぞ」

みたいな、よくない感情がわくことがあった。

「見てやってるんだからな」

「勝つ方を応援した方が楽しいに決まってるけど、あえて負けつつある君を応援してやろう」

「ほら、金を払って見に来たんだぞ、今日くらい勝てよな」



なんとも小汚い感情だ。

ぼくにはそういう小汚いところがあったのだ。




感情は消そうとしても消えるものではない。

だから、なぜ自分がそんな気分になり得るのか、を深く掘っていった。




見に行ってやってる。

金を払って、時間を使って、わざわざ。

プロなんだから、楽しませてくれよ。

それが仕事だろう。

なんなんだよ、こっちだって別に暇じゃないんだ。

いい気持ちにさせてくれよ。

金、もらってんだろう。

それがお前のアイデンティティなんだろう。

ほら、生きてみせろよ。

見ておいてやるから。





いつもいつもこういう気分でいたわけではない。

けれど、たまに……。まれではない、くらいの頻度で……。

「スポーツが楽しくてスポーツを見ているわけではない」という日が、今までに、何度もあったのだ。




自分の時間を他人に説明する上で「スポーツ観戦」と言えば聞こえが良いだろう、くらいの理由でスポーツを見てしまっているときがあった。

野球を見に行くぼくは人生を楽しんでいるだろう?

サッカーを語れるぼくはガリ勉タイプじゃないよな?

フィギュアスケートの採点くらいできるよ、にわかファンじゃねぇんだから。

仕事ばっかりじゃつまらんだろう、スポーツはたしなみだよ。





ふと思った。

これらの感情は、もしかするとぼくにとって、スポーツ観戦の「思春期」にあたるものなのかもしれない。

子供だった頃、大人たちは言った。

スポーツは素晴らしいと。

夢があると。

やるのも、見るのも、ほがらかだと。

それを信じて育っているうちに、大人をまねしてスポーツを楽しんでいるうちに、いつしか、「ぼくにとってのスポーツ」というものがじわじわと、アイデンティティのように、各方面にトゲを出し始めたのではないか。

誰かの価値観ではなく、自分が打ち立てた価値観の中で、ぼくにとってのスポーツがぼくの中で立ち上がるために、スポーツを過剰に神格化してみたり、逆に卑近に貶めてみたり。

いつしか、純粋にスポーツを見て楽しむことを忘れ、「スポーツを見ている自分」がどうであるかばかりを気にするようになっていた。

これは思春期というやつではなかったか。





今年の日本ハムファイターズはふるわない。

中田が三振するたびに胸がえぐられる。

斎藤佑樹がひさびさに1勝をあげたとき、さまざまな人々の人生を思った。

名前を思い出せない若き中継ぎピッチャーが、北海道のある地方都市出身で、地元から応援にやってきた高校生たちが外野スタンドの一角で横断幕をかかげる中、負け試合でがんばってアウトを重ねるシーンで涙が出そうになった。

ぼくはファイターズが勝った日のほうが機嫌がよく、負けた日は悲しく思う。

けれど、もう、「見てやってる」とか、「せっかく金をはらったのに」とは、思わなくなった。

これはぼくが成長したとか、性格が直ったとかいう問題ではないのだと思う。





ぼくはスポーツ観戦においても中年になったのだろう。

毎日、さまざまなスポーツを見て、他人の人生を思うことをしみじみと味わっている。

2017年10月3日火曜日

病理の話(127) 嫉妬と引き下ろしとプロの力

臨床家は、ときにこういうことを言う。

「ケッ、そりゃ直接病気を見られりゃ誰だってわかるよ」

病理は細胞を直接見てるんだから、病気のことがわかって当たり前だ。けれど、そもそも医術というのは、直接細胞を見たりしなくても病を言い当てるべきだし、そうしないと患者のためにならない。

内科学は、病を「言い当てる」ことを本流とする。直接答えを見に行くというのはすなわち「邪道」。



こんなかんじで、ときおり、病理はバカにされる。「お前ら直接見てんじゃん。そりゃわかるわ」。

(おおげさだ、そこまで言う医者なんかいない、と思いましたか? 残念、実際に言われた事があります。それもネットではなく、現実の話)




もしもの話をしよう。

病気、例えば胃がんとか肝臓がん、肺がんなどのがんにかかった人を「完璧に診断する」ことだけを目的として、もう何をしてもOK、いくらでも金を出してくれる、処理もぜんぶ誰かがやってくれる、患者もその家族も全てを許してくれるとなったら、究極的にはどうやって検査したらよいだろうか?

答え。人体を細かく切り刻めばよい。それこそ、短冊切りみたいに、頭のてっぺんから足の先まで。

病気の本体がどこにあるか。

病気はどのような形をしているか。

どこにどれだけ転移しているか。

全部わかるであろう。

もちろん患者は絶命するけれども。

病気の正体はすべてわかることであろう。

なんなら全ての細胞をぜんぶ遺伝子検査に回しても良い。

人体を全部薬品で溶かして全解析するというのもアリかもしれない。腸内細菌のゲノムまで混じってすごいことになるだろうが。

マンガ「もやしもん」で、樹教授も言っていた(正確には長谷川に予測されていた)。究極のところは「人体実験」ができればいろいろ解決するのだと。




でも、それはやらない。できない。当たり前である。

検査の本質とはここだ。「いかに対象を大きく破壊せずに、一部だけから全体を読み取るか」。

内科の診察で、口の中をのぞき、胸の音を聞き、腹を指で叩き、手で押し、あるいは話を聞き、病気の姿を浮き上がらせるというのはまさに検査の本質である。中を直接見ず、触らずに、言い当てる。これが「医の本道」である。




ただ、がん診療は、それでは足りない。どれだけ精度の良い「類推」であっても、最新の治療の恩恵を十分に受けようと思ったら、足りないのだ。「カタマリがある」だけではだめだ。「カタマリによって体が弱っている」だけではだめだ。カタマリがどんな細胞によって構成されており、その細胞がどのような性質をもち、体の中にミクロのレベルでどれくらい分布しているのかを、きちんと見る必要がある。

がん細胞がミクロの世界でふるまう挙動ひとつひとつが、将来像を予測するヒントになり、治療の選択にも関わる。

たかだか5 μm程度しかないリンパ管と呼ばれるパイプの中にがん細胞が1個入り込んでいるのを見つけただけで、「あっ、まずいな、転移の可能性が高くなったぞ」と警戒し、追加の治療を検討するというのが、現在行われているオーソドックスながん診療である。髪の毛の太さが100 μmくらいだ。体の外から見て触って、どうにかなるレベルではない。

だから細胞を見に行く。「しぶしぶ」細胞まで見に行く。病理医に細かく見てもらう……。




勘の良い方はお気づきだろう。

病理医は、嫉妬のような心に晒されている。

君ら、細胞見てズバズバものを言ってくれてるけどもさあ。

そりゃ俺らはそこまでわかんないけれどもさあ。

そんなの、医術じゃないじゃん。

それに、君らしかわかんない言葉で説明されてもさあ。

その5 μmのリンパ管に入ってるのががん細胞だって、もはや俺らには区別つかないんだけどさあ。

それホントのことなの? 君の胸先三寸で決まっちゃうんじゃないの?

まあ、あるかないか、見てればわかることなんだからさあ。

間違わないでくれよな。

まかせてるけどさ。

俺らにはわかんねぇんだからさあ。





ぼくは、「無理もないよな」と思う。

病理は医の本道ではないのだ。直接見てしまっているのだから。うらやましがられて、当然。

だから、もう少しだけ努力をしようと思い始めて、そろそろ10年が過ぎる。




臨床医も今や多くの武器を持つ。それはCTやMRIのような断層診断機器であったり、内視鏡(胃カメラや大腸カメラ)のような光学機器だったり、エコーのような音響工学機器であったりする。

内科医も、実は直接見ようとしている。

病理にまかせきりにせずに……。

「医の本道は類推である」と言いながら、その実、見に行くようになったし、手を出すようになった。

循環器内科医は、心臓カテーテルを入れて、直接心筋梗塞を治療しに行く。

消化管内科医は、胃カメラからナイフを出して、がんを切り取って治療してしまう。





「ケッ、そりゃ直接病気を見られりゃ誰だってわかるよ」

こう言われるのがつらいなあ、と思って、無理もないよなと思って、もう少し臨床に近づいてみようと考えていたちょうどその頃。

臨床医も、直接病気を見ようとしはじめていたのだ。




そして、臨床と病理は、ときどき、おなじものを見ている。

「ケッ、そりゃ直接病気を見られりゃ誰だってわかるよ」

から、

「同じ病気をお互いに違う角度から見ているわけですけれど、そっち、どうっすか?」

に、いつしか変わってきたように思う。




こうなってくると。

病理という役割の重要性が知れ渡ってうれしい、となる反面。

もはや病理医だけが細胞を見ているわけじゃないからな、という、「アドバンテージの消失」にも気づく。

「俺ら、さすがに細胞の核がどうとかいうオタクっぽいところはわかんねぇけどさあ、細胞がどういう形でつながってるかとか、どこで細胞が死んでるとか、それくらいなら自分で見られるから、いちいち病理医が説明してくれなくても大丈夫だよ」

くらいには、なっている。



この構造、何かに似ているように思っていた。

さきほど、気づいた。




SNSを毎日眺めていると、タイムラインには本当にたくさんのマンガや写真が流れてくる。

中には、プロの漫画家やプロの写真家かと見まがうくらいのクオリティの、「趣味創作」もいっぱい目にする。

そういうのを見て、ああ、今の時代、プロの漫画家とか写真家として食ってくのは大変だなあ……と、思っていた。

だって誰でもできるんだもんなあ、発表の場所だってこうしてSNS上にあるわけだしなあ。




先日、札幌のデパートで、羽海野チカの原画などを展示する展覧会をやっていたのだが、原画をみて本当に驚いてしまった。

うまい、とか、きれいだ、とかではなく、語りかけてくるエネルギーが段違いなのである。

ああ、これがプロの仕事なんだなあと思った。

その仕事で食おうとする人の、プロとしての「力の籠め方」に、圧倒された。




もしかして、現代医療において「病理でメシを食っていく」というのは、これと同じ構造なんじゃないか。

「プロレベルの同人作家」と同じように、「細胞をめちゃくちゃ理解している臨床医」が増えてきた今、「プロとしての漫画家」に対応するのが「病理医」なのではないか……。




原画展をゆっくり見て回っていた。会場は大盛況で、文字通り老若男女がさまざまな原画の前で足を止め、見入っていた。

ここにいる人の幾人かは、将来、漫画家になろうと思うのだろうか。

それとも、マンガが好きな、別の世界の人として暮らしていくのだろうか、と、考えていた。

2017年10月2日月曜日

夢を語るな手足を語れ

車に乗っているときにはラジオを聴く。先日、「福のラジオ」で福山雅治がこのように言っていて思わず唸ってしまった。

「最近の子って、反抗期を経ないまんま、オトナになることがあるらしいんですよ」

「イェッヒェエッヒエエッヒエエエェエ」

……まちがえた、今のは福山雅治といっしょにラジオやってる放送作家(今浪さん)のものまねでした。もういちどやります。



福「最近の子って、反抗期を経ないまんま、オトナになることがあるらしいんですよ」

今「どういうことですか?」

福「あのね、反抗期って、もともと子供の成長というか自我の確立に必要なイベントらしいのね。子供って、小さいころから親の価値観を吸収して成長していくでしょう。思春期になると、それまで疑問なく受け入れていた親の価値観に疑問を持って、それに反発して、はじめて『自分』というものができあがっていく、ということらしいのね。

けれど、最近の子供ってのは、親だけじゃなくて、いろいろな価値観に触れているじゃない。SNSとかのせいで」

今「ああ……」

福「だから、『親が価値観の全てじゃない』から、あえてアイデンティティを作る時期に親に反発しなくてもよい。親以外にも多様な価値観に触れて自分を形成していくから」

今「ああなるほど……それはすっごいわかりますねえ」




こういう感じだった(別に文字起こしとかしてませんのでだいぶ違うかもしれないけれど、内容はこうです)。

ぼくはとても納得したのだ。

今のひとたちは、親や教師の数が多いのだろう。誰かひとりの師匠という存在はレアになり、どれかひとつの絶対的な価値というものも見出しがたい。徒弟制度の発言力も落ちている。座右の銘は瞬間的にふぁぼられて忘れられていく。

昔よりも「キャリアパス話」がウケるようになっている気もする。誰かを師匠にして暮らそうと決めることが難しい現代において、自分がどうやって生きていこうかと計画することは非常に複雑である。うまいことやっている他人が、そこまでにどうやって歩んできたかをきちんと解析して、いいところだけを吸収したい。

さて、そんな時代だなあとわかった上で、ぼくのところに仕事の依頼が来ている。



「研修医を指導する役割の人間(指導医)にむけて、何かしゃべってほしい」。



うーむ。

昔と違って、「指導医」というあり方もまた変わっているんじゃないかなあ、と思う。

誰かひとりの優秀な指導医についていればいい医者になれる、という価値観、科によってはある程度アリなのかもしれないけれど、いまどきの研修医たちにはたぶん、しっくりこないんじゃないかなあ。

あるいは、全国的に名前が轟いている医者に師事して、自分もひっぱりあげてもらおう、みたいな価値観で動いている研修医もいるとは思うけれど……。

そういう研修医を弟子にとってガリガリ指導するのは、「すでに名前が轟きまくっている医者」だけがやれることであって、9割9分の「普通の指導医」は、もう研修医を弟子扱いしてやっていくことは難しいんじゃないかなあ。




指導医ができることというのは、たぶん、「仕事によって自分はいい思いをしているぞ」というところを研修医に見せること、ではないかと思う。

「あるいはこの先輩と同じポジションに付くかもしれないわけだが、少なくともこの先輩は、このポジションでこうやって働いて、いい思いをしているのだな」と、「いいね」をひとつ付けてもらう。

研修医たちが、SNSでライトに「いいね」を付けるのと同じくらいの労力で、指導医にも「いいねの目」を向けてもらう。

たかが「いいね」一つであるが、そのいいねはきっとフォローのきっかけとなり、拡散のきっかけとなる。単一の師匠にはなれないけれど、何百人も、何千人もいる「フォローしているひとたち」の一人になれば、きっと、何か伝えることができる。




「夢に手足を」という言葉があるが、指導医の語る夢は研修医には届かない。

優れた手足を持った人間が、夢を稼働させているところを見てもらい、察してもらわないとはじまらないのではないか。

そんなことを思いながらプレゼンを編んでいる。