いつからかツイートの半分くらいが本の話になった。
ぼくのフォローする人間およびぼくをフォローしてくる人間たちは、基本的に、
「本はそんなにいっぱいは読まないけれど、多くの人がおもしろいおもしろいと読む本であれば、まあたまには読んでみてもいいかなー」
というタイプが一番多いように見受ける。
ほかにもいろんなタイプの人がいるんだろうけれど。
なんとなくリアクションをみてるとそう感じる。
本の話をすると、たいていは誰もいやな思いをしないし、興味がない人も「本の話ばっかりするなよ」とか言って怒り出したりはしない。
いやな思いをする人、怒り出す人、そういうのが少ない話題というのは、ツイートしたあとのリアクションがおだやかで、ぼくの心を削らない。
本の話がいちばんいいんだよ。
ぼくはツイッターに人生の8%くらいはかけている。ここから得られるものを大事にしているし、ここに注ぎ込むものにもそれくらいの熱量を込める。……でも今書いていて思ったのだが、人生全体の8%というよりは、人生に上乗せした8%かもしれないなー。
100%で生きている毎日に「税金」をのっけて108%生きている感じだなー。
となるとあまり無駄遣いはできないな。手間だってかかっている。せっかく余計に支払うのだったらそれを有効活用したいな。
あまり自分が腹を立てたり悲しくなったりする内容にはしたくないな。
支払ってなお損するみたいな気持ちになるからね。
となると周りの人を怒らせたり悲しませたりする内容をつぶやいてはだめなのだね。とにかく自分のためにね。
本の話に消費税を払い続けたおかげだろうか、自分の知らない世界の優れた人々を目にする機会は以前より多くなった。
自分の職種とか趣味に近い本も読むけれど。
近年は安楽死、ケア、当事者研究みたいな内容の話をよく好んで読んでいる。このへんはツイッターをはじめる前にはほとんど読んでいなかったと思うなあ。
病理医というのは医者ではあるけれど、ぼくは読書でまで死のことを読もうとは、以前はあまり思っていなかったはずだ。
そしてもちろん、子供のころはまず読まなかった内容である。大人になってようやく読めるようになったのだな。
……でも、冷静に考えてみると、ブンガクとか絵本なんてものは元来、死生観を大切に扱うジャンルなのであった。まったく読んでないわけではないんだ。
子供のころに「中動態」とか「早期緩和ケア」とか「無責」みたいな専門用語を読む機会はなかったけれども、人はなぜ死ぬのか、人はどのように死ぬのか、みたいな話は読む機会があった。
直接死に触れずとも、「何かをおおらかに観察するやり方」みたいなものだったらいくらでも触れることができた。
「かがくのとものもと」という、至高のクロニクルを読んでいて、思った。
「〇〇になりたい人はこれを読め」っていうタイプの啓蒙や教育って意味ねぇなー、って。
一見、自分のやることに関係がなくても、伝え方が優れているものをただ読むだけで、なんだか、いろいろ、つながっていくものなのかもしれないなー、って。
あんまり難しいこと考えずに本の話してゲラゲラやっていきてぇなー。
2019年6月11日火曜日
2019年6月10日月曜日
病理の話(331) 細胞の形状がどうおかしいかを人に伝える技術
病理医が細胞をみて「がんだ!」と言ったらそれは基本的にがんなのである。
もっと正確にいうならば、いったん病理医が「がん」と名付けたものを、それ以外の人間が「いや、これはがんではない。がんによく似ているが違う。」というように、意見をひっくり返すことは極めて難しい。
なにせ実際に病気そのものを見ているわけだから。強い。
CTとかMRIで、病気の「影絵」だけをみて、がんかもしれない、がんではないだろう、と診断する行為はあくまで「推理」である。では答え合わせをしましょう、といって細胞を採取して、細胞そのものをみて、「がんでした。」といえば、事前の推理などは歯が立たないのだ。
……とは言ってみたものの。
病理医だって人間なのである。自信がなくなることもある。また、錯覚だってすることもある。
「細胞が悪そうにみえた」からがん。では、その、「見え方」というのはどうやって決めているのか? なんだか話を聞いていると、ひどく主観的ではないか?
いやー病理診断ってのは客観的ですよ。そうやって病理医が抗弁すれば、もはや臨床医たちは反論ができない。
そうか、では客観的に病理診断してください。よろしくお願いしますよ。
疑念に満ちた目で、病理医を見つめることしかできないだろう。
病理医の診断に疑問を持ってしまうと、日常診療がちょっとだけつらくなる。だから、優れた臨床医ほど、「なぜあなた(病理医)は、これががんだと思ったのですか?」という疑問を、躊躇せずに、口に出す。直接病理医にぶつける。
そこで病理医がどうこたえるか。
きちんと、自分の診断の根拠を、臨床医に伝えることができるかどうか。
ここに、「病理診断が信頼されるか否か」の分水嶺がある。
いくつかの例をあげて説明する。今から出す例は、すべて、「Q.」と「A.」でできている。「Q.」は臨床医からの問い。「A.」はそれに病理医がどう返すか。
【例1】
「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」
「A. 核異型がはっきりしているから、がんです。」
まずこれが一番最悪のパターンだ。
「核異型」という言葉が専門用語なので、この時点でたいていの人は、「あーなんかわからない基準に従ったんですね」と、理解することをあきらめてしまう。
仮に、「核異型」という言葉の意味を知っていたとしても……。というかこの言葉はそれほど難しい言葉ではない。ありとあらゆる細胞の中には「細胞核」というのが含まれている。「異型」というのは、「正常からのかけ離れ」という意味だ。つまり「核異型」というのは、「細胞の中にある核が、正常からどれくらいかけ離れているか」という意味の言葉だ。
したがって、「核異型がはっきりしているから、がんです」は、「核が、正常と違うから、がんです」という意味になる。
こんな答え方をする病理医は、ダメなのだ。
はっきりダメ出しをしてやるべきだ。
「核異型がはっきりしているからがんだって? じゃあその核は、正常と比べて、どう違うんだ? はっきりしているというが、どれくらいはっきりしているんだ?」
そう、この回答には、「具体的にどのようにかけ離れているか」、「どれくらいの程度、かけ離れているか」という、種別や量の概念がまったく含まれていないのである。
あるのは「はっきり」という、病理医自信が確信をもったのだろうなあという極めて主観的な言葉だけだ。
【例2】
「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」
「A. 核のサイズが、すごく大きくなっている。核腫大があるから、がんです。」
今度の病理医は少し丁寧になった。
細胞ががんであると判断するために、説明のなかに「何が」「どのように」を加えた。
「核のサイズが大きい」。
しかしこれもまだ主観的だ。「すごく」というのはどれくらいなのだ。
【例3』
「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」
「A. 核のサイズが、正常の細胞と比べて、2倍から3倍以上になっています。だからがんです」
だんだん具体的になってきた。「正常の細胞よりも2倍以上大きい」というのは、主観というよりは客観に近い説明方法だ。「すごく」というと「どれくらい?」と尋ねたくなるが、「2倍から3倍以上」となれば、より具体的にイメージしやすいだろう。
たとえばこれくらいのことを、日常的にレポートに書いていてくれれば、臨床医は「病理医の目の付け所」をよく理解するようになる。
ただ、これを読んだあなた方の一部が今感じたような……
「核が大きいとがんだってのはわかったけど、それはなぜなの?」
という疑問には、答えられていない。
だから、ほんとうに臨床医と仲良くやっていこうという病理医は、ときおり、臨床医に対してこのように説明を加える。
【例4】
「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」
「A. 核のサイズが、正常の細胞と比べて、2倍から3倍以上になっています。細胞核というのは、細胞の中にあるタンパク質の量や質をコントロールし、細胞の動きをつかさどる『染色体』の入れ物です。この入れ物が大きくなり、色合いも濃くなっているときは、染色体が非常によく使われていることを意味します。細胞が激しく増殖しようとしているときや、細胞が異常な活性を示しているときに、核は大きくなります。直径にして2倍になれば、断面積は4倍、体積は8倍大きいということ。核の直径が2倍でかいということは、染色体の入れ物が事実上は8倍でかくなっているということです。そんなことは、正常の細胞ではほとんどありえません。おまけにこれだけ増殖活性(といいます)が高くなっている細胞が、1つ、2つではなく、ある程度のボリュームである場所に固まって増えている。あちこちにぽつぽつと散らばっているのではなく、ある1か所に領域として固まって異常が起こっているということは、その場所の細胞たちがみな、同じように増殖異常をきたしているということになります。これは偶然ではありえません。領域全体が、異常増殖を示す細胞、すなわち腫瘍であると断定できます。腫瘍といっても良性と悪性がありますが……」
まあこうやって毎回説明できれば完璧ではあるだろう。
でもこんな文章を毎回病理診断報告書に書かれては、読むほうもたまったものではない。
くどい。
長い。
そう、完全な説明というのは厳密すぎるのだ。
日常診療の中で、毎回、客観的な判断の根拠を不足なく書き連ねると、過剰になってしまう。
過不足なく書ければいいのだが……不足はわりと簡単に埋められるけれど、過剰を避けるのは思った以上に難しい。
ということでぼくが考える現時点での最善手……。
「病理医が、ある細胞のどこがどのようにどれくらいおかしいのかを、臨床医に過不足なく伝える方法」
は、たぶん以下のようなものだ。
「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」
「A. 核のサイズが、正常の細胞と比べて、2倍から3倍以上になっています。だからがんです」(※なおこの病理医はどんな診断のときにも必ず客観的な指標を用意していて、ここに書いた以上の根拠と基準をきちんと持っているのだが、報告書を読む臨床医にとっては報告書があまり長文だと大変なので、とりあえず日常的な病理診断報告書はシンプルに書いているが、いざというときには長文で説明してくれるし、そもそもとても気さくで、電話をすればいつでも応じてくれるし、病理検査室を訪れればいつでもニコニコ応対してくれるし、知りたいことがあればどこまででもじっくりと答えてくれるので、今回の件についてもあとでじっくり話を聞こうと思えば聞ける。なお実はすごくいいやつなので、用がなくてもたまに話しかけたくなるタイプであるとする。)
もっと正確にいうならば、いったん病理医が「がん」と名付けたものを、それ以外の人間が「いや、これはがんではない。がんによく似ているが違う。」というように、意見をひっくり返すことは極めて難しい。
なにせ実際に病気そのものを見ているわけだから。強い。
CTとかMRIで、病気の「影絵」だけをみて、がんかもしれない、がんではないだろう、と診断する行為はあくまで「推理」である。では答え合わせをしましょう、といって細胞を採取して、細胞そのものをみて、「がんでした。」といえば、事前の推理などは歯が立たないのだ。
……とは言ってみたものの。
病理医だって人間なのである。自信がなくなることもある。また、錯覚だってすることもある。
「細胞が悪そうにみえた」からがん。では、その、「見え方」というのはどうやって決めているのか? なんだか話を聞いていると、ひどく主観的ではないか?
いやー病理診断ってのは客観的ですよ。そうやって病理医が抗弁すれば、もはや臨床医たちは反論ができない。
そうか、では客観的に病理診断してください。よろしくお願いしますよ。
疑念に満ちた目で、病理医を見つめることしかできないだろう。
病理医の診断に疑問を持ってしまうと、日常診療がちょっとだけつらくなる。だから、優れた臨床医ほど、「なぜあなた(病理医)は、これががんだと思ったのですか?」という疑問を、躊躇せずに、口に出す。直接病理医にぶつける。
そこで病理医がどうこたえるか。
きちんと、自分の診断の根拠を、臨床医に伝えることができるかどうか。
ここに、「病理診断が信頼されるか否か」の分水嶺がある。
いくつかの例をあげて説明する。今から出す例は、すべて、「Q.」と「A.」でできている。「Q.」は臨床医からの問い。「A.」はそれに病理医がどう返すか。
【例1】
「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」
「A. 核異型がはっきりしているから、がんです。」
まずこれが一番最悪のパターンだ。
「核異型」という言葉が専門用語なので、この時点でたいていの人は、「あーなんかわからない基準に従ったんですね」と、理解することをあきらめてしまう。
仮に、「核異型」という言葉の意味を知っていたとしても……。というかこの言葉はそれほど難しい言葉ではない。ありとあらゆる細胞の中には「細胞核」というのが含まれている。「異型」というのは、「正常からのかけ離れ」という意味だ。つまり「核異型」というのは、「細胞の中にある核が、正常からどれくらいかけ離れているか」という意味の言葉だ。
したがって、「核異型がはっきりしているから、がんです」は、「核が、正常と違うから、がんです」という意味になる。
こんな答え方をする病理医は、ダメなのだ。
はっきりダメ出しをしてやるべきだ。
「核異型がはっきりしているからがんだって? じゃあその核は、正常と比べて、どう違うんだ? はっきりしているというが、どれくらいはっきりしているんだ?」
そう、この回答には、「具体的にどのようにかけ離れているか」、「どれくらいの程度、かけ離れているか」という、種別や量の概念がまったく含まれていないのである。
あるのは「はっきり」という、病理医自信が確信をもったのだろうなあという極めて主観的な言葉だけだ。
【例2】
「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」
今度の病理医は少し丁寧になった。
細胞ががんであると判断するために、説明のなかに「何が」「どのように」を加えた。
「核のサイズが大きい」。
しかしこれもまだ主観的だ。「すごく」というのはどれくらいなのだ。
【例3』
「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」
たとえばこれくらいのことを、日常的にレポートに書いていてくれれば、臨床医は「病理医の目の付け所」をよく理解するようになる。
ただ、これを読んだあなた方の一部が今感じたような……
「核が大きいとがんだってのはわかったけど、それはなぜなの?」
という疑問には、答えられていない。
だから、ほんとうに臨床医と仲良くやっていこうという病理医は、ときおり、臨床医に対してこのように説明を加える。
【例4】
「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」
でもこんな文章を毎回病理診断報告書に書かれては、読むほうもたまったものではない。
くどい。
長い。
そう、完全な説明というのは厳密すぎるのだ。
日常診療の中で、毎回、客観的な判断の根拠を不足なく書き連ねると、過剰になってしまう。
過不足なく書ければいいのだが……不足はわりと簡単に埋められるけれど、過剰を避けるのは思った以上に難しい。
ということでぼくが考える現時点での最善手……。
「病理医が、ある細胞のどこがどのようにどれくらいおかしいのかを、臨床医に過不足なく伝える方法」
は、たぶん以下のようなものだ。
「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」
2019年6月7日金曜日
それほどでもないよ
そういえば最近ようやく出張のときに時間を余らせることができるようになった。
仕事にかける時間が短くなったからだろう。
仕事が早くなったというよりも体力がもたなくなった。
あまり長時間集中していても途中から効率がまったく上がらなくなる。これ以上はいくらやってもだめだな、というポイントがみえる。すると自然と時間が余るのだ。
もちろん時間の使い方がうまくなったというのもあるかもしれない。けれども単純に疲れやすくなったというのが大きいかもしれない。
こないだ、京急蒲田のあたりでポカっと4時間ほど余ってしまった。
だから京急川崎まで移動して、そこで映画をみた。今までだったら何もできないとわかっていてもとりあえずバッテリーが差せる喫茶店を探してパソコンを開いてみたりはしただろう。でもそういう努力はしたくなかった。もうできないのだ。
川崎ではプロメアというアニメをみたのだがおもしろかった。堺雅人が声優で出ているというから絶対見たかった。新谷真弓が出ていたのでさらにうれしかった。ぼくがいうのもあれだがアニメには強烈なケアの文脈がある。
出張の最中に映画をみるなんて……。
本も読まず、原稿を書くでもなく、映画をみるなんて……。
われながら……いいご身分だな……
などとは全く思わなくなった。
この「我ながら、どう思うか」の変化はでかいように思う。
「休む」「あそぶ」「ゆるむ」に対して罪悪感があると、なんかいろいろだめだったのだ。そういうのがスポンと消えてなくなって、ようやく、なにやら人生に湿度の高まりが出てくるというか、ひとつのカメラだけではとらえきれない大きな演芸場の全貌が見えてくるというか、まあよくわからんけれどぼくは少しマシな人間になったのではないか、という気がする。もちろん比較の問題だ。誰かとくらべてマシなのではない。昔のぼくと比べてマシだということだ。
40をこえてようやくぼくは、時間の「あまり」とか、行動の「むだ」を楽しめるようになった。あちこちでいろんな人が言っていることだけれど、こういうところでにこにこできるようになると、人生はたぶん、楽しい。
……楽しくなったかどうか、自分ではわからないけれど……。
まだ今のところ、「必死であまらせ」たり、「頑張ってむだを捻出したり」しているから、これがほんとうに楽しいかどうかは、あまり自信がない。
けれどもそろそろ「ぼくは楽しいよ」と声を張っていかなければいけないような気もする。
このへんで納得しないで、いつ納得するんだよ、という気持ちが、なくもないし、そういう社会的な要請に基づいた「楽しいよ」ではなくて、うん、もしかすると、ぼくは今楽しいのかもしれないなあ。
仕事にかける時間が短くなったからだろう。
仕事が早くなったというよりも体力がもたなくなった。
あまり長時間集中していても途中から効率がまったく上がらなくなる。これ以上はいくらやってもだめだな、というポイントがみえる。すると自然と時間が余るのだ。
もちろん時間の使い方がうまくなったというのもあるかもしれない。けれども単純に疲れやすくなったというのが大きいかもしれない。
こないだ、京急蒲田のあたりでポカっと4時間ほど余ってしまった。
だから京急川崎まで移動して、そこで映画をみた。今までだったら何もできないとわかっていてもとりあえずバッテリーが差せる喫茶店を探してパソコンを開いてみたりはしただろう。でもそういう努力はしたくなかった。もうできないのだ。
川崎ではプロメアというアニメをみたのだがおもしろかった。堺雅人が声優で出ているというから絶対見たかった。新谷真弓が出ていたのでさらにうれしかった。ぼくがいうのもあれだがアニメには強烈なケアの文脈がある。
出張の最中に映画をみるなんて……。
本も読まず、原稿を書くでもなく、映画をみるなんて……。
われながら……いいご身分だな……
などとは全く思わなくなった。
この「我ながら、どう思うか」の変化はでかいように思う。
「休む」「あそぶ」「ゆるむ」に対して罪悪感があると、なんかいろいろだめだったのだ。そういうのがスポンと消えてなくなって、ようやく、なにやら人生に湿度の高まりが出てくるというか、ひとつのカメラだけではとらえきれない大きな演芸場の全貌が見えてくるというか、まあよくわからんけれどぼくは少しマシな人間になったのではないか、という気がする。もちろん比較の問題だ。誰かとくらべてマシなのではない。昔のぼくと比べてマシだということだ。
40をこえてようやくぼくは、時間の「あまり」とか、行動の「むだ」を楽しめるようになった。あちこちでいろんな人が言っていることだけれど、こういうところでにこにこできるようになると、人生はたぶん、楽しい。
……楽しくなったかどうか、自分ではわからないけれど……。
まだ今のところ、「必死であまらせ」たり、「頑張ってむだを捻出したり」しているから、これがほんとうに楽しいかどうかは、あまり自信がない。
けれどもそろそろ「ぼくは楽しいよ」と声を張っていかなければいけないような気もする。
このへんで納得しないで、いつ納得するんだよ、という気持ちが、なくもないし、そういう社会的な要請に基づいた「楽しいよ」ではなくて、うん、もしかすると、ぼくは今楽しいのかもしれないなあ。
2019年6月6日木曜日
病理の話(330) プレパラートをつくるコツ
子どものころに、学研の科学雑誌などのふろくで顕微鏡がついてきたことがある。これを読んでいる方の中にも経験者がいるのではなかろうか。
仕組みはとても単純だ。ボディはチャチで軽い。子供用の顕微鏡。
これでまずは、おまけについてきたプレパラートをみると、きれいな模様が見られて大興奮する。
次になにか……小さなものを……見ようと思っても、子どもが見つけることができる「顕微鏡でみる小さなもの」などそうそう思い付かないのだった。
たとえば髪の毛をレンズの下に入れてみる。
……髪の毛くらい分厚いと、下から透過してくる光をさえぎってしまい、視野には真っ黒い影しかうつらない。
髪の毛でもだめなのかよ……。
困って、ティッシュの繊維であるとか、ぼろぼろになった落ち葉だとかを入れる。
サランラップにマッキーで字を書いたもの、なんてのも意外とよく見える。
そう、下から光をあてて、上から覗くタイプの顕微鏡では、半透明のものしか見ることができないのだ。
ある程度厚みがあると、光が遮られてしまい、影絵になってしまって細胞の中身などは全くみえなくなる。
人体の中からとってきた臓器を顕微鏡でみるときも、これと全く同じだ。
とってきたものをそのまま顕微鏡でみることはできない。
虫眼鏡のような見方では細胞は観察できないのである。
だから、とってきた臓器を、「半透明」にする必要がある……。
でもそんな都合のいい薬品は世の中には存在しない。
そこで昔の人は一計を案じた。
とってきたものを、うすーく切るのだ。
カツオブシを作るように。カンナをかけるかんじで。
臓器の表面の部分から、特殊なカンナで、シャッシャと、薄い膜のようなものを採取する。
具体的には、「厚さ 4 μm」という極薄の膜を作る。
元あった臓器からこの薄い膜を切り取るためのシステムが「薄切装置」だ。
この装置はいまや、病理検査室にいる臨床検査技師さん以外は、なかなか使いこなせない。昔の病理医は自分で薄切ができたというのだが、ぼくは、この薄切ができない。というかぼくより若い病理医はたいてい薄切ができないだろう。
さて、あるカタマリにカンナをかけて、4 μmの膜を取り出してくるためには、そのカタマリの表面部分に見たいモノがなければいけない。
カタマリの内部に見たいモノがあるときに、表面からカンナをかけては大変だ。削っても削っても中身が出てこない。
だから、薄切装置を使う前に、とってきた臓器を「割る」必要がある。
病変が表面に出てくるように、ナイフで臓器を切る。
切って、病変を目で見て、よーしここを顕微鏡でみるぞーと、あたりをつける。
そして病変の大事な部分だけを、「切って、出して」くる。
この作業のことを「切り出し」という。
プレパラートを作って細胞をみる一連の技術の中で、一番テクニカルなのは薄切、すなわち技師さんの仕事だ。ここは熟練の技術が要る。
そして、一番頭脳を使うのは、実は「切り出し」の部分である。
肉眼で病変を見極める段階で、病気のことがよくわからないと、顕微鏡をみても実はよくわからない。そもそも、顕微鏡でどこを見るか決められなければ、顕微鏡診断自体がはじまらないのだ。
顕微鏡をみるためには顕微鏡以前のところでワザと頭脳を使わなければいけないのだ、という、なんだか教訓みたいなお話である。
仕組みはとても単純だ。ボディはチャチで軽い。子供用の顕微鏡。
これでまずは、おまけについてきたプレパラートをみると、きれいな模様が見られて大興奮する。
次になにか……小さなものを……見ようと思っても、子どもが見つけることができる「顕微鏡でみる小さなもの」などそうそう思い付かないのだった。
たとえば髪の毛をレンズの下に入れてみる。
……髪の毛くらい分厚いと、下から透過してくる光をさえぎってしまい、視野には真っ黒い影しかうつらない。
髪の毛でもだめなのかよ……。
困って、ティッシュの繊維であるとか、ぼろぼろになった落ち葉だとかを入れる。
サランラップにマッキーで字を書いたもの、なんてのも意外とよく見える。
そう、下から光をあてて、上から覗くタイプの顕微鏡では、半透明のものしか見ることができないのだ。
ある程度厚みがあると、光が遮られてしまい、影絵になってしまって細胞の中身などは全くみえなくなる。
人体の中からとってきた臓器を顕微鏡でみるときも、これと全く同じだ。
とってきたものをそのまま顕微鏡でみることはできない。
虫眼鏡のような見方では細胞は観察できないのである。
だから、とってきた臓器を、「半透明」にする必要がある……。
でもそんな都合のいい薬品は世の中には存在しない。
そこで昔の人は一計を案じた。
とってきたものを、うすーく切るのだ。
カツオブシを作るように。カンナをかけるかんじで。
臓器の表面の部分から、特殊なカンナで、シャッシャと、薄い膜のようなものを採取する。
具体的には、「厚さ 4 μm」という極薄の膜を作る。
元あった臓器からこの薄い膜を切り取るためのシステムが「薄切装置」だ。
この装置はいまや、病理検査室にいる臨床検査技師さん以外は、なかなか使いこなせない。昔の病理医は自分で薄切ができたというのだが、ぼくは、この薄切ができない。というかぼくより若い病理医はたいてい薄切ができないだろう。
さて、あるカタマリにカンナをかけて、4 μmの膜を取り出してくるためには、そのカタマリの表面部分に見たいモノがなければいけない。
カタマリの内部に見たいモノがあるときに、表面からカンナをかけては大変だ。削っても削っても中身が出てこない。
だから、薄切装置を使う前に、とってきた臓器を「割る」必要がある。
病変が表面に出てくるように、ナイフで臓器を切る。
切って、病変を目で見て、よーしここを顕微鏡でみるぞーと、あたりをつける。
そして病変の大事な部分だけを、「切って、出して」くる。
この作業のことを「切り出し」という。
プレパラートを作って細胞をみる一連の技術の中で、一番テクニカルなのは薄切、すなわち技師さんの仕事だ。ここは熟練の技術が要る。
そして、一番頭脳を使うのは、実は「切り出し」の部分である。
肉眼で病変を見極める段階で、病気のことがよくわからないと、顕微鏡をみても実はよくわからない。そもそも、顕微鏡でどこを見るか決められなければ、顕微鏡診断自体がはじまらないのだ。
顕微鏡をみるためには顕微鏡以前のところでワザと頭脳を使わなければいけないのだ、という、なんだか教訓みたいなお話である。
2019年6月5日水曜日
むきの反対はふむきではなくゆうき
香川県観音寺市にある「大阪大学微生物病研究会(阪大微研)観音寺研究所瀬戸センター」というところにいる。
観音寺市は、香川県の左端にある。ほぼ県境だ。愛媛県がすぐそこ。
そんな、香川のはしっこの海に近い場所に、妙にきれいで豪華なビルが唐突に建っている。
今いるのは、講師控室がわりの小さな会議室だ。3階にある。写真だとなんだかそんなに高さがない建物みたいにみえるが、視界の後ろ側にニョキっとビルがもちあがっている。
早く着きすぎたので、ポケットWi-Fiのスイッチをいれてパソコンをたちあげた。
1時間後にはじまる研究会で講演をするが、予行もしたのですることがない。持ってきた本は1冊をのぞいてすべて読んでしまった。帰りの飛行機に1冊とっておきたいからここでは読まない。急ぎの原稿は昨日の夜に大急ぎで終わらせてしまった。こんな空き時間があるなら、今書けばよかったな、と少し後悔している。
暇をもてあましたのでブログを書くことにした。最近はあまり旅先でブログを書かないようにしているのだけれど。なんだかあとで読み返すと、わかってしまうのだ。旅先ではメンタルの一部が過敏になっているせいか、文章も少しナイーブになっていて、ぼくはあまりそういうのが好きではない。もっと淡々と書けるようになりたい。無理だというのはわかっているけれど。
このビルはきれいすぎるなあと思いスタッフにたずねてみると、せいぜい5年しか経っていないのではないか、と言われた。ここは国内のインフルエンザワクチンの6割が作られているといううわさもある。水も空気もきれいだからもってこいなのかな。そういうのは関係ないのかな。
それにしても建物がきれいすぎる。
研究所なのかと思ったが建物の多くは実質「ワクチン工場」なのかもしれない。
なんだかいろんなメーカーの思惑が入り込んで建てられた「殻」という空気がある。
「具体的に働く人たち」の気配が希薄だなと思う。まあ土曜日だからなあ。
研究所という場所が365日不夜城であるべきだ、というのは、枯れた中年の固定観念なのかもしれない。土曜は閑散としていていいのかもしれない。アメリカっぽい。
あるいはここではない建物に研究員がごっそりいて働いているのかもしれない。人間、半径10メートルくらいしか見渡せないわけで、あまり無責任なことは書けない。
けれどさっきから人の気配がないんだよな。
無駄にきれいな会議室には絵が飾ってある。
この絵はこれから何年かけて、何人の目に留まるのだろう。
あと1時間すると、四国あちこち+岡山から、膵臓や胆道の画像診断に興味があるひとたちがここに集まってくる、という。
なんだかまだ実感がわかない。窓の外は明るく曇っている。時間が経過するふんいきがない。
スタバってこんなロゴだったっけ。
いつも一人でいたいと言っているわりに、見知らぬ場所でちょっと一人になると、途端に、「さっきまで自分が暮らしていた世界の法則と、今いる場所の法則が、ちょっとずれはじめているのではないか」という妙な恐怖がわいてくることがある。
ぼくはいろんなことに向いていない。物思いにふけることに。ひとりでコーヒーを飲むことに。休日に出張先で出番を待ちながらブログを更新することに。
大丈夫か? そこのドアを開けて、外に出たら、実はぼく以外のすべての有機物が消滅してはいないか?
観音寺市は、香川県の左端にある。ほぼ県境だ。愛媛県がすぐそこ。
そんな、香川のはしっこの海に近い場所に、妙にきれいで豪華なビルが唐突に建っている。
今いるのは、講師控室がわりの小さな会議室だ。3階にある。写真だとなんだかそんなに高さがない建物みたいにみえるが、視界の後ろ側にニョキっとビルがもちあがっている。
早く着きすぎたので、ポケットWi-Fiのスイッチをいれてパソコンをたちあげた。
1時間後にはじまる研究会で講演をするが、予行もしたのですることがない。持ってきた本は1冊をのぞいてすべて読んでしまった。帰りの飛行機に1冊とっておきたいからここでは読まない。急ぎの原稿は昨日の夜に大急ぎで終わらせてしまった。こんな空き時間があるなら、今書けばよかったな、と少し後悔している。
暇をもてあましたのでブログを書くことにした。最近はあまり旅先でブログを書かないようにしているのだけれど。なんだかあとで読み返すと、わかってしまうのだ。旅先ではメンタルの一部が過敏になっているせいか、文章も少しナイーブになっていて、ぼくはあまりそういうのが好きではない。もっと淡々と書けるようになりたい。無理だというのはわかっているけれど。
このビルはきれいすぎるなあと思いスタッフにたずねてみると、せいぜい5年しか経っていないのではないか、と言われた。ここは国内のインフルエンザワクチンの6割が作られているといううわさもある。水も空気もきれいだからもってこいなのかな。そういうのは関係ないのかな。
それにしても建物がきれいすぎる。
研究所なのかと思ったが建物の多くは実質「ワクチン工場」なのかもしれない。
なんだかいろんなメーカーの思惑が入り込んで建てられた「殻」という空気がある。
「具体的に働く人たち」の気配が希薄だなと思う。まあ土曜日だからなあ。
研究所という場所が365日不夜城であるべきだ、というのは、枯れた中年の固定観念なのかもしれない。土曜は閑散としていていいのかもしれない。アメリカっぽい。
あるいはここではない建物に研究員がごっそりいて働いているのかもしれない。人間、半径10メートルくらいしか見渡せないわけで、あまり無責任なことは書けない。
けれどさっきから人の気配がないんだよな。
無駄にきれいな会議室には絵が飾ってある。
この絵はこれから何年かけて、何人の目に留まるのだろう。
あと1時間すると、四国あちこち+岡山から、膵臓や胆道の画像診断に興味があるひとたちがここに集まってくる、という。
なんだかまだ実感がわかない。窓の外は明るく曇っている。時間が経過するふんいきがない。
スタバってこんなロゴだったっけ。
いつも一人でいたいと言っているわりに、見知らぬ場所でちょっと一人になると、途端に、「さっきまで自分が暮らしていた世界の法則と、今いる場所の法則が、ちょっとずれはじめているのではないか」という妙な恐怖がわいてくることがある。
ぼくはいろんなことに向いていない。物思いにふけることに。ひとりでコーヒーを飲むことに。休日に出張先で出番を待ちながらブログを更新することに。
大丈夫か? そこのドアを開けて、外に出たら、実はぼく以外のすべての有機物が消滅してはいないか?
2019年6月4日火曜日
病理の話(329) 流通量をみて悪人の存在を推定する名探偵
がんをはじめとする多くの病気を調べる際に、「造影検査」というものをやる場合がある。
ぞうえいけんさ。
濁音からはじまるコトバなので、重々しさがある。
今日はこの造影検査の話をする。
血管の中に、CTやMRIで検出できる「造影剤」というものを流す。
すると、全身の血管に造影剤がいきわたる。
血管を道路に例えてみよう。
血管という道路の中には、赤血球などの血球が、自動車よろしく走り回っている(なお基本的に一方通行だ)。
この道路に、ビッカビカに明るく輝く、油性インキを流す。
街の上空にドローンを飛ばせば、街の中に張り巡らされた道のところだけがピカリと光って、ハイライトされる。
光るのは、大きな道路だけではない。
臓器の中に細かく入り込む、京都の小路のような細かい生活道路まで、すべてにいきわたる。
なお実際の血管はドライな道路ではなく、内部に血液が充満しているウェットな水路だ。
ここにインキを流せば、血流の速度によって、ビカビカの広がり方も変わる。これも重要な情報となる。
さあ、人体をくまなく観察するために、ドローンならぬCTをとってみよう。
血管から造影剤を入れる。そんなにいっぱいはいらない。きちんと調整されているからね。
すると血流に乗って、全身の血管に、造影剤がいきわたっていく。
たとえば肝臓という大きな臓器の中にも、いきわたっていく。
肝臓に流れ込む幹線道路のような「肝動脈」が光る。
幹線道路から小路に入り込んで、肝臓全体の細かい血管が光る。
たいへん細かい血管だ。網目のように肝臓に入り込んで、肝臓全体が明るく輝く……。
ところがある日。ある人の肝臓を見ていると。
全体がじわじわ造影剤によって光っていく中で、明らかに1か所だけ、「周りよりも早く光り始める」部分がある。
ふつう、肝臓という街に入り込む道路の数は一定で、肝臓の中では右も左も均等に、だいたい同じ量の血液が流れ込んでいるから、造影剤だって、均質にいきわたる。
ところが今回、一か所だけ、造影剤がすごく早く入り込んでいる領域がある。
ここに何が起きている?
造影剤が早く入り込むということは、そこになんらかの異常があるということだ。
たとえば、「周りよりも優先して道路をひき、大量の血液を誘導して、大量の栄養をかすめとっているやつがいる」かもしれない。
正常の細胞よりも圧倒的に多くの栄養を食ってしまう、燃費の悪いヤツ。
その代表は、がんだ。
がんというのは、ろくに働かず、まわりに迷惑をかけ、無制限に増えようとするチンピラである。ヤクザである。こいつらは周りの迷惑をかえりみずに、みんなが同じ量だけ配給されて受け取っている血液を、自分だけ独占して大量に使おうとする。
だから造影剤を使うと、がんのところには造影剤が早く多く流れ込むことがある。
がんそのものをCTでみるのはけっこう難しいのだけれど、道路や輸送に目を向けて、物流をハイライトすることで、「あそこで何か無駄遣いをしているバカ野郎がいるな」と、がんを見つけることができるのだ。なかなかの名推理だと思う。
ただ気を付けなければいけないこともある。
たとえば、生まれつき、肝臓の中の「道路の配置」がちょっと乱れている人、というのがいる。
悪人が栄養をかすめとっているのではなくて、「道路の建設でちょっとミスっちゃっただけ」という人がけっこういるのだ。
これは「血管腫」という病変である。造影剤の流れ方がそこだけ変わってしまうから、造影CTをすると、そこだけ周りと比べて変化がでるけれど、がんではない。放っておいても何の問題もない。
そう、造影剤を使った診断というのは、あくまで、「輸送量をみて、そこに悪いヤツがいるのではないかと推理する検査」という側面がある。実際に悪いヤツそのものを見ている検査ではないので、解釈はなかなか難しい。それだけに、造影CT, 造影MRI, 造影超音波などの検査をきちんと解釈するには熟練の技がいる。これらに長けているのは放射線科医だ。ぼくは彼らのことを激しく尊敬している。
おまけだが「実際に悪いヤツそのもの」を見るのは基本的に病理医の仕事である。
ぞうえいけんさ。
濁音からはじまるコトバなので、重々しさがある。
今日はこの造影検査の話をする。
血管の中に、CTやMRIで検出できる「造影剤」というものを流す。
すると、全身の血管に造影剤がいきわたる。
血管を道路に例えてみよう。
血管という道路の中には、赤血球などの血球が、自動車よろしく走り回っている(なお基本的に一方通行だ)。
この道路に、ビッカビカに明るく輝く、油性インキを流す。
街の上空にドローンを飛ばせば、街の中に張り巡らされた道のところだけがピカリと光って、ハイライトされる。
光るのは、大きな道路だけではない。
臓器の中に細かく入り込む、京都の小路のような細かい生活道路まで、すべてにいきわたる。
なお実際の血管はドライな道路ではなく、内部に血液が充満しているウェットな水路だ。
ここにインキを流せば、血流の速度によって、ビカビカの広がり方も変わる。これも重要な情報となる。
さあ、人体をくまなく観察するために、ドローンならぬCTをとってみよう。
血管から造影剤を入れる。そんなにいっぱいはいらない。きちんと調整されているからね。
すると血流に乗って、全身の血管に、造影剤がいきわたっていく。
たとえば肝臓という大きな臓器の中にも、いきわたっていく。
肝臓に流れ込む幹線道路のような「肝動脈」が光る。
幹線道路から小路に入り込んで、肝臓全体の細かい血管が光る。
たいへん細かい血管だ。網目のように肝臓に入り込んで、肝臓全体が明るく輝く……。
ところがある日。ある人の肝臓を見ていると。
全体がじわじわ造影剤によって光っていく中で、明らかに1か所だけ、「周りよりも早く光り始める」部分がある。
ふつう、肝臓という街に入り込む道路の数は一定で、肝臓の中では右も左も均等に、だいたい同じ量の血液が流れ込んでいるから、造影剤だって、均質にいきわたる。
ところが今回、一か所だけ、造影剤がすごく早く入り込んでいる領域がある。
ここに何が起きている?
造影剤が早く入り込むということは、そこになんらかの異常があるということだ。
たとえば、「周りよりも優先して道路をひき、大量の血液を誘導して、大量の栄養をかすめとっているやつがいる」かもしれない。
正常の細胞よりも圧倒的に多くの栄養を食ってしまう、燃費の悪いヤツ。
その代表は、がんだ。
がんというのは、ろくに働かず、まわりに迷惑をかけ、無制限に増えようとするチンピラである。ヤクザである。こいつらは周りの迷惑をかえりみずに、みんなが同じ量だけ配給されて受け取っている血液を、自分だけ独占して大量に使おうとする。
だから造影剤を使うと、がんのところには造影剤が早く多く流れ込むことがある。
がんそのものをCTでみるのはけっこう難しいのだけれど、道路や輸送に目を向けて、物流をハイライトすることで、「あそこで何か無駄遣いをしているバカ野郎がいるな」と、がんを見つけることができるのだ。なかなかの名推理だと思う。
ただ気を付けなければいけないこともある。
たとえば、生まれつき、肝臓の中の「道路の配置」がちょっと乱れている人、というのがいる。
悪人が栄養をかすめとっているのではなくて、「道路の建設でちょっとミスっちゃっただけ」という人がけっこういるのだ。
これは「血管腫」という病変である。造影剤の流れ方がそこだけ変わってしまうから、造影CTをすると、そこだけ周りと比べて変化がでるけれど、がんではない。放っておいても何の問題もない。
そう、造影剤を使った診断というのは、あくまで、「輸送量をみて、そこに悪いヤツがいるのではないかと推理する検査」という側面がある。実際に悪いヤツそのものを見ている検査ではないので、解釈はなかなか難しい。それだけに、造影CT, 造影MRI, 造影超音波などの検査をきちんと解釈するには熟練の技がいる。これらに長けているのは放射線科医だ。ぼくは彼らのことを激しく尊敬している。
おまけだが「実際に悪いヤツそのもの」を見るのは基本的に病理医の仕事である。
2019年6月3日月曜日
育たなかった舌と育った舌の話
鳥貴族行ったことない。たぶん、ぼくが大学生のときには札幌になかったと思う。
安い居酒屋については、大学生時代に行った店ばかりが良く見えてしまう。「自分がオトナになってから札幌にできた居酒屋」には、それほど行く気がしない。だから鳥貴族未経験マンだ。
「もういい年だから汚い店に行きたくない」とは思わない。ただ、「どうせ行くなら昔なじみの汚い店がいい」と思う。
最近、一緒に飲む相手が、「お互いに気を遣う相手」であることが多くなってしまった。
こういうとき中年は不便だなと思う。
先日東京で飲んだときは、妙にこじゃれたイタリアンの店でビールを飲んだ。グラス1杯に含まれるビールの量が少なすぎてこっそり一人で笑ってしまった。飲みすぎることなく、乱れることなくすごすことができ、その意味ではあのグラスで正解だった。
でもぼくは汚い居酒屋が懐かしくなり、途中でなんだか悲しくなってしまった。
そんなタイミングで横にいた人が突然口笛をふいたので驚いた。あの口笛はいったいなんだったんだろう、と思うし、飲み会で口笛をふくなんて小粋だなあ、と思った。それはいい人生だろうなあ。どんな店でも関係ないんだ、口笛を吹きながら飲める人は、うらやましい。
いい年して汚い居酒屋でホッピーを飲む、みたいなことを必要以上に持ち上げて語るのはあまり好きではない。そういう、「一周回ったステータス」的なものがあることは事実だと思う。
たたき上げ、雑草魂、ハングリーさ、苛烈な青春時代、などのアイコンとして用いられることがある、ホッピー、土手煮、ウーロンハイ。
「もっと高い酒を飲めるけど俺はこれが好きなんだ。」というセリフににじむ、名状しがたいマウンティング感覚。
ぼくは学生時代にずっとウーロンハイならぬコーヒーハイ……甲類焼酎のボトルの中に砂糖とコーヒー豆を入れた安酒……を飲んでいた。
懐かしい味だ。今飲んでも絶対にうまいだろう。
でも、今、飲む機会はない。
ぼくはどちらかというと打たれ弱いし疲れやすい。
老眼・腰痛・白髪・肌荒れがではじめた今日この頃は、やっぱりきれいで落ち着いた店で飲みたい。
ぼくの中に積み上がってきた文脈とか理念みたいなものは、「そろそろいい服を着て、落ち着いたいい店で飲むべきだ」と語りかけてくる。
実際、きれいな畳の個室でゆっくり飲む日本酒は、学生時代に飲んだどの酒よりもいい味をしている。
けれどもいい味がする酒を飲むというのと、しみじみおいしく時間ごと飲むというのはおそらくイコールではないんだ。
ぼくは最近気づいた。しゃれた場所で飲んでいるときのぼくは、「しゃべりすぎる方のコミュ障」になっている。
世間すべてが敵になり、自分のテリトリーを守るために言の葉を弾幕のように張り巡らせて、相手から何かぼくの対処できない話題が出てこないようにその場を操縦しようとしている。
一緒にいた人たちが笑いすぎて体をひねりはじめてからおもむろに、「はぁ、なんの話でしたっけ」で締めるお決まりのパターン。
繰り返しだ。メンツは目新しくても会話は目新しくならない。
裏返ったステータスづくりだと思われてもいい。
「俺はこういう安い店で飲めるようなフランクな男なんだ」というアピールに見えても関係ない。
ぼくは、文脈を捨て、理念も捨て、ほんとはコーヒー焼酎を飲んでいたいんだと思う。
コーヒー焼酎や、マイヤーズ少々にコーラを注いだラムコークを、だまってひとりで、3時間でも6時間でも、ずっと無言で飲みながら、暗く小さな飲み屋でマスターと2人、しずかに水曜どうでしょうを見ていた、あのときの口数少ないぼくが、一番ぼくだった。
これから出会う人たち、一緒にはたらく人たちのことは、きっと、「昔のああいう店に連れて行っても、怒らないかなあ」という目で見てしまう。
気づいてしまったら、もう、忘れることはできない。
誰かがしゃべっているのを聞きながら、本当はそこに混ざりたいのに混ざれないというアツアツの気持ちを手の中で右、左、と跳ね回らせながら、その気持ちが室温になじむまで、いつまでもいつまでも黙ってサザンの古いアルバムを聴いていた、学生時代の飲み方を、ぼくは最近よく思い出すようになった。
ぼくはもともと、しゃべれない方のコミュ障だったんだなあと、たまたま見つけたウェブアーカイブを掘り出しながら、この文章を書いたり消したりしている。
安い居酒屋については、大学生時代に行った店ばかりが良く見えてしまう。「自分がオトナになってから札幌にできた居酒屋」には、それほど行く気がしない。だから鳥貴族未経験マンだ。
「もういい年だから汚い店に行きたくない」とは思わない。ただ、「どうせ行くなら昔なじみの汚い店がいい」と思う。
最近、一緒に飲む相手が、「お互いに気を遣う相手」であることが多くなってしまった。
こういうとき中年は不便だなと思う。
先日東京で飲んだときは、妙にこじゃれたイタリアンの店でビールを飲んだ。グラス1杯に含まれるビールの量が少なすぎてこっそり一人で笑ってしまった。飲みすぎることなく、乱れることなくすごすことができ、その意味ではあのグラスで正解だった。
でもぼくは汚い居酒屋が懐かしくなり、途中でなんだか悲しくなってしまった。
そんなタイミングで横にいた人が突然口笛をふいたので驚いた。あの口笛はいったいなんだったんだろう、と思うし、飲み会で口笛をふくなんて小粋だなあ、と思った。それはいい人生だろうなあ。どんな店でも関係ないんだ、口笛を吹きながら飲める人は、うらやましい。
いい年して汚い居酒屋でホッピーを飲む、みたいなことを必要以上に持ち上げて語るのはあまり好きではない。そういう、「一周回ったステータス」的なものがあることは事実だと思う。
たたき上げ、雑草魂、ハングリーさ、苛烈な青春時代、などのアイコンとして用いられることがある、ホッピー、土手煮、ウーロンハイ。
「もっと高い酒を飲めるけど俺はこれが好きなんだ。」というセリフににじむ、名状しがたいマウンティング感覚。
ぼくは学生時代にずっとウーロンハイならぬコーヒーハイ……甲類焼酎のボトルの中に砂糖とコーヒー豆を入れた安酒……を飲んでいた。
懐かしい味だ。今飲んでも絶対にうまいだろう。
でも、今、飲む機会はない。
ぼくはどちらかというと打たれ弱いし疲れやすい。
老眼・腰痛・白髪・肌荒れがではじめた今日この頃は、やっぱりきれいで落ち着いた店で飲みたい。
ぼくの中に積み上がってきた文脈とか理念みたいなものは、「そろそろいい服を着て、落ち着いたいい店で飲むべきだ」と語りかけてくる。
実際、きれいな畳の個室でゆっくり飲む日本酒は、学生時代に飲んだどの酒よりもいい味をしている。
けれどもいい味がする酒を飲むというのと、しみじみおいしく時間ごと飲むというのはおそらくイコールではないんだ。
ぼくは最近気づいた。しゃれた場所で飲んでいるときのぼくは、「しゃべりすぎる方のコミュ障」になっている。
世間すべてが敵になり、自分のテリトリーを守るために言の葉を弾幕のように張り巡らせて、相手から何かぼくの対処できない話題が出てこないようにその場を操縦しようとしている。
一緒にいた人たちが笑いすぎて体をひねりはじめてからおもむろに、「はぁ、なんの話でしたっけ」で締めるお決まりのパターン。
繰り返しだ。メンツは目新しくても会話は目新しくならない。
裏返ったステータスづくりだと思われてもいい。
「俺はこういう安い店で飲めるようなフランクな男なんだ」というアピールに見えても関係ない。
ぼくは、文脈を捨て、理念も捨て、ほんとはコーヒー焼酎を飲んでいたいんだと思う。
コーヒー焼酎や、マイヤーズ少々にコーラを注いだラムコークを、だまってひとりで、3時間でも6時間でも、ずっと無言で飲みながら、暗く小さな飲み屋でマスターと2人、しずかに水曜どうでしょうを見ていた、あのときの口数少ないぼくが、一番ぼくだった。
これから出会う人たち、一緒にはたらく人たちのことは、きっと、「昔のああいう店に連れて行っても、怒らないかなあ」という目で見てしまう。
気づいてしまったら、もう、忘れることはできない。
誰かがしゃべっているのを聞きながら、本当はそこに混ざりたいのに混ざれないというアツアツの気持ちを手の中で右、左、と跳ね回らせながら、その気持ちが室温になじむまで、いつまでもいつまでも黙ってサザンの古いアルバムを聴いていた、学生時代の飲み方を、ぼくは最近よく思い出すようになった。
ぼくはもともと、しゃべれない方のコミュ障だったんだなあと、たまたま見つけたウェブアーカイブを掘り出しながら、この文章を書いたり消したりしている。
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