2019年10月21日月曜日

病理の話(376) 病態病理学e-learning敗北宣言

スタジオは秋葉原にあった。

なんていったっけあの橋……かつて、セガに教えてもらった橋。

そうだ、万世橋だ。

万世橋を曲がった先にあるあやしいビルが今日の目的地である。手前にあるローソンが肉の万世と癒合してしまっている。カツサンドを買ってほしそうな顔をしているローソンだったが普通のタマゴサンドイッチを買って、店の外にあるベンチで食ってみた。横には全身チャリンコレーサーみたいな男が無線機を抱え、ヘッドセットに向かって何やらまくしたてていた。やっぱりここは秋葉原の一角なんだな、と妙に腑に落ちる。万世橋の方向に向けてスマホをかまえ、インスタ用の写真を撮った。ここはモノクロフィルターしかないだろう。素人が撮るモノクロ写真、適度にこしゃくで最高だよな。

あやしいビルの入り口に重たい扉。一瞬オートロックのドアかと思ったが、ためしに思い切り引いてみたら普通にガチャっと大きめの音をたてて開いてしまった。全体的に古い。古民家系の古さではなく、遺跡系の古さ。朽ちた石のにおいがする。いちおうコンクリートづくりなのに。古代遺跡、洞窟、あるいは陸軍の古い施設といったたたずまい。いつ落下するかわからないエレベーターで上に上がる。無事上がれたことだけでもうめでたい。中層階でエレベーターのドアが開くと、そこはすなわち「インターネット放送用スタジオ」であった。さすが秋葉原、と思わずつぶやいてしまう。

ぼくはラジオ局に行ったことがないけれど、スタジオをぱっと見た印象は「これ、ラジオだ!」。

大量のコードが乱雑に置かれた棚。二重になったドア。収録スペースをのぞける大きな窓。でかい照明……そうか、ラジオと違って、ネット用スタジオは動画を撮るから、照明があるのか。

すでに待っていたのは日本看護協会の職員と、某看護系雑誌の編集部のスタッフであった。これから、e-learningの収録をする。e-learning、すなわち、インターネット講義だ。

ぼくは今日、看護師を対象としたe-learningの講師として、収録をする。





事前に用意したパワーポイントは、プロの雑誌編集者たちによって、めっちゃくちゃきれいに直されていた。フォントの配置がいい。色合いがやさしい。イラストがプロ仕様。デザイナー感覚の差をひしひしと感じる。やっぱ所詮ぼくは単なる医療者にすぎず、自分がわかりやすいと思って提示したプレゼンもプロの手にかかるとここまで直されてしまうんだな、と少し落ち込む。コーヒーを飲もうとしてこぼす。なにをやっているんだか。

視聴者の看護師たちは、金を払ってe-learningを申し込んで、少し上位の資格をとるための単位とする……らしい。よく知らない。ぼくはとにかくまじめに病理学を教えてくれればいいのだ、ということだった。言われたとおりにしよう。

ぼくの担当範囲は消化管である。全部で5コマもある。1コマがだいたい50分くらいの映像だろうか? 実際の収録時間はその何倍もかかるだろう、ということで、5コマとるためにまるまる2日間の予定を押さえられた。

咽頭、食道あたりはあまりぼくは詳しくない。なので、がっちり調べて、しっかり作り込んで、原稿もなるべく丁寧に。

胃は専門のど真ん中である。専門すぎるからなるべく平易になるように気を配ろう。

5コマ中2コマは「演習」というやつだ。問題をきちんと設定しておけば、さほど長くしゃべらなくていい。消化器がん患者を介護するにあたって注意すべき点を問うことにしよう。

そして大腸。これまで胃ほど綿密に研究してこなかったが、最近、ぼくの主戦場となりつつある……。





収録はおもいのほかうまくすすんだ。

「よくそこ、噛まずに言えますねえ」

「なめらかで聞き取りやすいです」

「申し分ありません」

はじめての収録だがおもしろいくらいにトラブルがない。

ぼくは若干気を良くしていた。「しゃべるの、むいてるのかも……」

咽頭・食道の項目。丁寧に。滑舌よく。はっきり、ゆっくりと。

特にダメ出しは出ない。

胃。作り込んだだけあって満足度が高い。同席しているスタッフたちも満足そうだ。

順調。2日間も用意してもらわなくてもよかったのではないか。



そして大腸編の収録。

ぼくは自分で興味がある大腸の講義に、これまでの収録で得た経験をプラスして、万全の状態で意気揚々と語った。

正直、手ごたえがあった! 収録が終わった! まわりをみまわす!



……全員が同じ方向に、15度だけ首をひねった。びっくりした。あれ?



「早かったですね」


「早かった」


なんてことだ、ぼくは、消化管の中でも今自分で一番興味があり、ひとりでも多くの人に正しい知識を伝えたいと思っている大腸の講義において、なぜか一番プレゼンがへただったのだ。じゃああの手ごたえはなんなんだよ。



そこで、その場にひとりいた、医療系のスタッフではない、ラジオ収録専門のスタッフが小さく、しかしはっきりした声で言った。



「でもこれは撮り直してはだめだと思います。今のは、一番勢いがあって、……なんというか、気持ちが入っていました。早口だったり、間が早かったりした部分は、編集で直します。だから今のを採用しましょう。」






なんてありがたいことを言ってくれるんだろうとうれしかった半面、ぼくはべっこりへこんでしまった。

そうか。ぼくは、自分が一番思い入れていることを話そうとすると、早口になって、とっつきづらくなって、UI(ユーザーインターフェース)が旧式になってしまうんだ。





万世橋の夕暮れはうすっぺらかった。ぼくはふらふらしながらローソンでご飯を買ってホテルに帰る。

……またサンドイッチを買ってしまっていた。何べんパン食うんだ。全国チェーンのパンを。

2019年10月18日金曜日

頭を空っぽにするためには整理整頓が要る

テレビをつけたらサッカーワールドカップ予選をやっている。

おお、今度はサッカーか、てなもんだ。

ラグビーを何試合か見て以来、なぜかわからないけれど、「ワールドカップ」とか「世界大会」と名の付くものすべてがいとおしくなった。

今までもずっと、バレーボールも、陸上も、柔道も、水泳もやっていたのにな。

ラグビーの楽しさに触れたら、ほかのスポーツまであらためて楽しくなってきた。昔のわくわくを取り戻したかんじ。




いつからか、あらゆる競技の世界選手権が「世界〇〇」とか「絶対に負けられない」とか余計なコピーで彩られるようになって、ぼくは少しうんざりしていたのかもしれない。

普段やってないスポーツの選手に共感することはそんなに難しくない。けれど、「ほら! 今日はこのチャンネルで盛り上がってくれよ!」みたいなおぜん立てが当たり前になりすぎて、今やどんな競技をやっていようとも、その競技の独自性とかおもしろさがあまりわからなくなって、結局のところ、フジテレビ型の演出か、TBS型の盛り上げ方か、テレビ朝日型の絶叫か、くらいしか目に入らなくなっていたのだ。つまりはスポーツの種類なんてほんとにどうでもよくなってしまっていた。

もともと乱雑な心の中の、スポーツに関係する領域は、青春時代あたりでぐぐっとエントロピーが低下して、整然となって、集中して興奮できるようになっていたのに、その後なんだか過剰な演出や当事者感の足りない打算的盛り上げ方ばかりを見ているうちに、だんだんエントロピーが上昇してきたのだ。乱雑な感情を抑えられなくなって、あらゆるスポーツを楽しめなくなる一歩手前まで来ていた。

でもそれがラグビーひとつでまた凪いだ。視界がよくなって、競技性とか運命のいたずらとか、努力が才能を凌駕する一瞬の輝きみたいなものに、また目がとまるようになった。



ラグビーありがとな。きみのおかげでぼくは今日、楽しくサッカーをみられそうだ。

こんなこともあるんだなあってかんじだ。

2019年10月17日木曜日

病理の話(375) 看護師と病理学

電話が突然かかってきた。

ぼくが国立がん研究センター中央病院で研修していたときに一番お世話になった、現・関西医大の臨床病理の教授からだ。

病院の電話交換手が名前を告げたとき、ぼくは懐かしさのあまり思わず早口になってしまった。「はいぜひぜひ!」交換の人もびっくりしたのであろう、苦笑しながら電話をつないでくれた。




ぼくはがんセンター時代にこの人に会って、論文を丹念に読み続けることの重要さを教わった。

……「教わった」だと不正確かもしれない、「彼を見ることで、それがいかに大事かが腑に落ちた」。

腑に何かを落とそうと自分でがんばったのではなくて、自然と腑に落ちた(中動態)。

なんかそういう感じだった。つまりはぼくがその後勉強していく上でもっとも重要な「環境」あるいは「背景」のひとつとなったのが彼だった。




たとえばツイッターにもほむほむ先生のように、論文を丹念に読んでまとめてブログにまとめ続けているすばらしい方がいらっしゃる。いい時代だ。昔は関西医大の教授のすごさを説明する時には、ある程度言葉を尽くさないといけなかった。今ならひとことで済む。

「ほむほむ先生みたいなことを病理でずっとやってた人だよ」

日常的に学問を更新し続けている人。ぼくはそういう人たちに強くあこがれる。

あこがれるようになった。

あこがれていいんだよと思える側に連れてきてくれた人だ。




彼からの電話、用件はシンプル。

「看護師向けのe-learningの講師やってくれへん?」

あぁー。

「病態病理学、っていう単元なんやけど……」

あぁー。

ぼくは彼からすべてを聞く前に、いろいろ納得した。






医療はさまざまな分業によって成り立っているが、病院に勤める職員のざっくり半分くらいは看護師である。看護師の職務は、医師のサポートや病院における下働きではない。医者は(そしてなぜか患者も)医者が主役だと思ってるがたぶんあまりそれは正しくない。看護師のケアこそが医療の根幹である、と、少なくともぼく自身は考えている。

患者に寄り添い、病を背負ったことで生じたさまざまな不便を解消し、ときに患者の話し相手となり、体調の変化を敏感にモニタリングする。

これこそが医療のおおもとだ。エビデンスは道具にすぎない。難しい医学よりも丁寧な実践。「患者の体に何が起きているか、どのようなメカニズムで病気になったか」なんて、スマホがなぜつながるのかを説明するようなもので、そんなこと知らなくても多くの医療は回っていく。大事なのはスマホを使って何をするかだ。スマホを持ったままどういう人生を歩むかだ。




……とはいえ。




「病」という現象を間において、患者と医療者があれこれ悩みながら二人三脚をしていく中で、彼我を介在している「病」を多少なりとも詳しく知っておくことは、無駄ではない。わりと、役に立つ。

病理学というのは医療者にとっても患者にとっても、もっと知られておいていい学問である。スマホの基盤まで知らなくてもいいけど、4Gとか5Gって何のことなの、とか、Wi-Fiと地上波って何が違うの、くらい知っていても損はないだろう。

ところが病理の話はググってもなかなかまとまっていない。

おまけに、仮に専門職の人間であっても、キャリアを通じて病理学を習う機会自体が、実はとても少ない。

学校でも、病院という現場でも、医療者たちが日々忙しく修練して身につけていくのは医療の「実践」ばかりであって、病の理論ではないのである。国家試験でもあまり問われないし……。

実践ではなく理論のほうを継続して勉強するというのはかなり大変なのである。

だからこそほむほむ先生や関西医大の教授の偉さが際立つ。

日常のルーチンに押しつぶされてもおかしくないだけの仕事量をほこるのに、なお、学問という「すぐには役に立たないかもしれない、自分と仕事相手との間にあるだけの存在」にもきちんと注意を払っているその姿勢がすばらしい。

でもこれ言うほど簡単ではない。毎日論文読むなんてほんとに大変だからね。



ということで、最前線で身を粉にして働く看護師にも、たまには病理学をラクに学ぶ機会をご用意できたらいいのではないか……。そういうコンセプトのもとに、今回、ネット上で放送大学のように講義をうけられる病理学のe-learningが作られることになったわけである!!





まあここまでわりとぼくの妄想で、ほんとうは「先にe-learningがあって」「病理もいれときゃいんじゃね、的な判断があって」「関西医大の教授を通してぼくに依頼がきた」というのが真実なんだけど……。

なんか現場ではたらく人たちのために、実践の真っ最中にちょっと思い出すと役に立つような「ヤマイの理」を解説できないかなーと思って、e-learningの収録に挑んだ。

そのようすはまた次回の「病理の話」ででも説明しようと思う。これがまた一筋縄ではいかなかったのである。難しいよ収録。

2019年10月16日水曜日

そろそろ西村賢太に手を出す

「多弁」にメリットがねぇなあと気づかされる毎日だ。

昨日まで更新していた「病理の話」にしても、結局、ある研究会で10分くらいしゃべっただけのことなのに、週をまたいで3話もの長さでブログにしてしまっている。わりと狂っている。

そんなに引き延ばさなくても……というか、逆か、ちゃんと短くまとめる能力がないのか。

細部を過不足なく書きたいなーと思って局所でちまちま文字数を重ねることで、できあがって俯瞰するとだいぶいびつで巨大な楼閣になっている、みたいなかんじだ。子どもがレゴブロックで大きな城を作ろうとする際にやることに似ている。門のところばかり凝っていて、なかなか屋根がつかない。庭にとても多くの動物がいるが、部屋の壁が分厚すぎて、部屋の中のスペースが狭くてベッドしか置けない。




こないだラマチャンドランの名著「脳のなかの幽霊」(角川文庫)を読み始めた。角川なんだなあ。単行本が出たのは1999年。今となっては多くのテレビや雑誌などで取り上げられすぎて、アレンジされすぎて、もはや一般常識みたいになってしまった「左脳と右脳の話」。これを最初に世に広めた本ではないかとも言われており、今に到るまで続く脳科学ブームの先鞭を付けた本だと言われている(茂木健一郎ががんばったからだ、と言いたい人はいるだろうが、いちおうこの本がかなり大きく貢献したことは間違いない)。

この本、なぜかぼくは未読だった、一番先に読んでいてもいいような本なのだが……このたびあらためて読んでみて、ああすごい読みやすいなあ、なんて訳文が上手なんだ、とまず思った。しかしすぐに思い返して、(もちろん翻訳はとても上手なんだけれど)ラマチャンドランの脳が信じられないくらい整然と片付けられているんだろうなあという印象をもった。まだ読み途中だけれどね、科学の本なのにここまで読みやすいとため息しかでない。かなり高度なことも書いてあるのになあ。

そこそこの長さの本で、まだ読み終わってはいないのだがとにかく多くのエピソードや多くの思考が流れ込んできて大河に浮かんでいるような気持ちになるのだけれど、途中、ふと、

(ラマチャンドランの文章はひとつひとつが絞られているなあ、むしろスリムだな)

と感じるようになった。多弁で冗長という感じがしない。一流臨床医の為せる業か? 多くの言葉と多くの知恵を練り込んでいても、段落や一文がさほど長くなくて、結論が明快でスッと頭に入ってくる。

たぶんぼくはそういうところを本当は目指して訓練していかないといけないんだろうな、と思った。なのに最近のぼくは純文学とか私小説みたいなドロドロして結論が見づらくて懊悩しているタイプの文章ばかり読んでいる。そういうところだぞ、と声が響く。

2019年10月15日火曜日

病理の話(374) 早期胃癌研究会あたふた顛末記その3

ついにぼくらの発表の出番がやってきた! といっても病理医の出番は基本的に最後だ。だから最初はヒマである。寝て待っていればいい。

……というわけにいかないので難しい。

まず、担当する症例をもってきた臨床医がひとこと告げる。ビシッとダブルのスーツで決めている。やはり彼にとっても晴れ舞台なのだろう。



「症例は、○○歳の○性(男性 or 女性を告げる)。場所は○○結腸です。ではご読影よろしくお願いいたします。」



彼の出番はこれでほぼ終わりである。そのためだけにダブルのスーツかよ、と思わずつっこみたくなる。

ここから先は、彼とその上司が自分の病院でシコシコ作ったパワーポイントファイルを会場の数百人が眺めながら、最前列で「読影委員」たちが、内視鏡画像の示す意味をひたすら議論し合う。意見は衝突する。がんがでかいのか、小さいのか。深くしみ込んでいるのか、浅いのか。さらには表面の構造の細かな違いから、背景に存在する遺伝子変異までを見通そうとする、マニアックでオタクな一流の読影合戦。

議論が白熱する。病理医であるぼくは、えんえんと、議論の内容を頭に叩き込んでいく。

はじめてこの症例を目にする全国の優秀な内視鏡医たちが、どこに着目して、どこを疑問に思っているかというのを、その場でリアルタイムでなるべく細かく聴き取り、頭の中で再構成して、あとで自分がどうやって「病の理(やまいのことわり)」を解説するかに活かさなければならない。

臨床医A「これは○○病変だと思います、なぜならば最表層においてこのような変化が……」

病理医ぼく「なるほど、最表層の模様についてきちんと言及する必要があるのだな」

臨床医B「しかし病変の不均一性からすると……」

病理医ぼく「なるほど、病変が均一か不均一かをちゃんと読み分けているのだから、病理もそこに着目して解説したほうがよさそうだな」

臨床医C「一見簡単そうに見えますが実は難しい症例で……」

病理医ぼく「簡単そうなのに難しいってなんだよ」

臨床医D「過去にこの会で提示された、○○病院が提唱したこの病気に似ているきがします」

病理医ぼく「やべえ! 過去データ! 検索検索(スマホ高速フリック)」

無言でずっと忙しい。ここで脳が一度死ぬ。





いよいよぼくの病理解説がスタートする。事前にこの症例のプレパラートをみて写真をとり、それをパワーポイントにはりつけて解説を書き込み、巨大スクリーン左右2面にそれぞれ違う写真が出るようにパワポファイルを2つにわけて編集したものを投影する。カウントダウン・クロックの残り時間は……12分! これなら病理解説を5分で終わらせれば十分ディスカッションの時間がとれる。さあ行こう。

マイクの前に立つ。今ぼくは会場で、数百人の聴衆に背中を向けてスクリーンの側を向いているから、きっと、華奢でたよりないシルエットに見えていることだろう。最近すこし太ったけれど。

最前列に座っている大御所病理医達がこちらを……

見 て な い 。 みんなスクリーンを見てる。もうすこしぼくの方みてくれよ、と思わなくもないが、彼らはもう症例のことで頭がいっぱいなのだ。

全員がスクリーンのほうを見ている。だれもぼくの背中なんて見ていないのである。だからぼくもスクリーンに向き合う。症例検討会では、どんなに目立とうとも、どんなにはしゃごうとも、どんなに悔しがろうとも、どんなに恥ずかしい目に遭おうとも、その人の個人的な部分なんて誰も見ていない。とにかく、みんな、症例を見ている。



ぼくは解説をはじめた。



「ご施設での診断を提示します。――私も基本的にはこれと同意見ですが細かい解説を加えます。まず、病変に対して関心領域が4箇所指定されました。この4箇所における病理組織像をご提示しましょう。関心領域Aについてです。対面作成したプレパラートを並べて提示します。拡大を一段ずつ上げていきます――――――」

たった5分だが、1回噛むたびにクレームの電話が5000件くらいかかってくるテレビ局の気分なので、疲労困憊する。遺伝子解析の結果まで含めて、解説はすべて終わった。

前回、約1年前、ここで解説を担当したときには、それこそ病理医からもフロアにいる大御所臨床医たちからもボコボコに攻撃されたものだった。

さあ、今日はどうd……あっ! 知ってる髪型の老人が立ち上がった……!




終わったのか。




ぼくは二度目の精神的な死を悟る。




老齢の伝説はかくしてマイクを持ち、しゃべりはじめた。




「あーよかったと思いますよ。免疫染色についてはこれとこれを追加してください。解釈についてはこういう考え方もありますね。でもあとは同意見です」




\ オオー /
ΩΩ ΩΩ ΩΩ ΩΩ

(脳内観客たち)




一年前のこの会では、「あいつ最近インターネットに忙しいらしいぞ」などの揶揄が聞こえるようにささやかれていたのだが、今回はなんだか全体的に会場があったかかった。モンゴルで病理の講演をしたり、いくつかレビューを書いておいたりしたことが功を奏したのかも知れない。彼らは目に見える業績が少ない若手には厳しいが、それなりに文字を残した中堅にはやさしい。




ぼくの戦いは終わった。どっと汗をかいていた。一緒に発表した臨床医もぺこりぺこりと頭を下げていた。自席に戻って息をつく。5分の発表と5分のディスカッションのために失ったカロリーはたぶん50000kcalくらいあったろう。それにしてはやせない。不思議なものだ。

2019年10月11日金曜日

劇的かどうかビフォーアフター

部屋においてあるアナログな気圧計。

ひんまがったガラスの柱の中に水が入っていて、気圧によって水位が変わる。

https://www.amazon.co.jp/dp/B0772PTYHP/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_CQSLDb4456GSB 

(↑こんなやつ)


おとといと、昨日と今日とでだいぶ違う。

秋はくるくると気圧が変わるんだなあ。




『天気の子』の中で、じいさんが、

「異常気象とか言うけど、こんなの異常気象でもなんでもない。800年とか1000年という周期でみればたいしたことない。」

みたいなことを言うシーンがある。

とってもよく覚えてる。




まあそうなんだよなー、今の気圧計にしてもさ。

天気がほとんど変わらない日でもこれほど気圧がバコバコ変わってるなんてことは、これ、あれだろ、「グラフの縦軸を広げ過ぎちゃったウソ統計学」といっしょだろ。

世界にとってはそれほどの差でもないのに、こうして測定器(のしょぼいやつ)を使っちゃったせいで、細かい差が目に見えるようになって、おかげでぼくは毎日とるにたらない気圧差をみて、「秋は変化がはげしいな」とか言っちゃってる。




「人は、差分を認識できる限りで、『差』を語る。」




可視光の範囲が目によって規定されていたり。

音波と超音波の区別が聴覚によって規定されていたりする。




だからきっと世の中にあるものの中で、「この差はなんとか詰めないとなあ」なんて思うとき、そこにどれだけぼくらの脳が関与しているかを考えるのは、大事なことなんじゃないかなーと思う。

2019年10月10日木曜日

病理の話(373) 早期胃癌研究会あたふた顛末記その2

早期胃癌研究会の会場は、泉岳寺にある笹川記念講堂というところだ。

1階ロビーから、羽田空港なみに長いエスカレーターを上がっていく。威圧感のあるつくりをしている。吹き抜けには競艇の巨大ポスター。配色豊かなボートレース。渡辺直美の好感度の高さがすばらしい。渡辺直美の爪の垢を煎じて、庭の畑の土に混ぜてトマトを色鮮やかに育てたい。

たどりついた会には大量の受付おねえさんがならぶ。

いまどきおねえさんなんだな。古い。

参加費1000円を払う。サンドイッチか小さな巻き寿司を引き換えにもらえる。

バックには製薬会社と出版社がついている。しかしこいつら完全に赤字だと思う。

出版社のブースが申し訳程度にある。立ち寄ると見知った顔がいた。すこし痩せましたねと言ったら、だいぶ白髪増えましたねと返され……てません。創作です。そんな失礼なことは言ってないので大丈夫です。医学書院のウォーリーさんは礼儀正しい男です。上司の方ここを見て彼を飛ばす準備をはじめないでください。どうしても飛ばしたいならMさんのほうにしてください。

学会や研究会の発表を控えて緊張しているときに見知った顔に出会うと緊張がほぐれるという人が居る。ぼくはあれ、理解はできるのだが共感ができない。逆だからだ。知っている人がいればいるほど緊張する。他人には失敗を見せてもいいけれど知人には見せたくない、みたいな感情がぼくの中層付近に漂っている。中層で表層を支える粘膜筋板みたいな存在である。わからない人はわからなくていいです。



ゆるやかな斜面になったでかすぎる大講堂を、前の方に向かってトットッとかけおりていく。下におじいさんがいるときはハイジのまねをしよおう。そう、たいてい最前列にはおじいさんたちがいる。どれだけ早めに会場入りしてもたいてい待っている。歴戦の勇士達。消化管病理の大御所達だ。内視鏡医よりもベテラン病理医のほうが会にやってくる時間が平均的に早い。おじいちゃんだからだろう。ぼくは廃人じゃなかったハイジの顔で、明るく彼らの方に駆け下りていくことにする。途中で少しずつ身をかがめて絶対に見つからないように最終的には段ボールの中に隠れてそろそろと移動する。

最前列から3列ほど後ろ、左側に、いわゆる読影委員と呼ばれるコアメンバーたちが主に座る聖域があるのだが、症例を提示する全国のドクターたちもここにやってくる。

いた。

今回ぼくが病理担当する症例を提示する、臨床医が二人……。

とてもリラックスして談笑している。

余裕だなあ。

寄っていって声をかける。緊張してないみたいですね!

すると二人は何言ってんだこいつという目をしながらぼくに答える。

「だって……ぼくら写真出したらそれで終わりですからね。しゃべるのは、画像をみて考えを述べる読影委員の方々と、あと病理のあなたですし……」

……。確かに……。彼らは写真の選定と、研究会への症例応募という最もストレスのかかる仕事をすでに終えて、あとは会場で料理されるのを待つだけの存在であった。にしても、この症例がぼろくそにけなされる可能性もなくはないのに、たいした自信である。そしてその自信ももっともだ。実際いい症例だとぼくも思った。

まあそんなわけでぼくはこのとき緊張が200倍(中拡大)になった。もう1個倍率をあげて400倍になると、強拡大になる。わからない人はわからなくていいです。



ぼくらの発表は2番目だ。

まず、1番目。本州のはしっこにある病院からの症例提示がはじまる。




……美しい!




第一印象がそれだった。あまり普段聞かないような名前の(失礼)病院だが、内視鏡写真がとてもきれいだ。ポートレートや風景写真ではなく、大腸カメラの画像なわけで、ライティングとか絞りみたいなことは基本的にあまり操作できない。画角もあまり凝ってしまうとかえって見づらくなるからみんな似たようなものだ。

それでも画像が美しいと思える理由、それは、病変に対する迫り方・距離感が適切であり、事前に病変のある部分をきちんと生理食塩水で洗い流している丁寧さであり、非常に細かいピント調節を手間を惜しまずにやっていることであり……。

何より、ひとつひとつの画像が秘める「この意図でここを拡大観察しているから、ぜひ読み取ってくれ!」という、写真撮影者……主治医の心意気がきちんと伝わってくること。

つまりはメッセージ性がしっかりしている。

さすが早期胃癌研究会提示症例だ。にわかに緊張が高まる。ふと横の臨床医をみると、彼らは別にこんなの普通だよと顔をしながら画面を凝視していた。複雑な闘争心を思ってうれしい気持ちになる。




ステージに近いところで症例を見ているぼくの目に、はしっこに設置された大型のストップウォッチ的表示が目に入る。無情のカウントアップ。あれが30分をこえたときぼくはしぬんだ。そういう気持ちにさせられる。前回も書いたが時間厳守。自分の症例が極めて重要だからといって時間オーバーは許されない。なぜなら出てくる症例がぜんぶ重要だからである。

1例目の症例、いよいよ病理解説がはじまった。そつがない。問題ない。きちんとやりきったな。そう思った。発表者も安堵のため息をついたようにみえた(シルエットだけだが)。そこにすかさず飛び込んでくる刺客! 会場から剛力勇士たちが次々と襲いかかってくる! ひとりめは還暦近い有名病理医! ふたりめは喜寿近い超有名病理医! さんにんめは傘寿こえてんじゃねぇのもしかするとレジェンド超絶怒濤有名病理医! ただちに提示施設の病理医は粉微塵に……

ならなかった。

髪一重でふみとどまった。

感動する。涙が出る。鼻の方向に。だから鼻をかんだ。




さあぼくのばんである。長くなったのでその3(来週火曜日)に続く。