2021年10月29日金曜日

あさまシーソー

けん玉が得意な人に「けん玉が得意だからと言って偉いわけじゃない」といちいちつっかかってどうする。油絵を趣味にしている人に「油絵以外にも人生には大切なことが山ほどある」と説教するなんて野暮だしかわいそうではないか。


それと同じように、勉強ができる人、学歴が高い人に向かって「学校の成績がいいからって偉いわけじゃない」とか「勉強以外にも人生には大切なことが山ほどある」と言うことは嫌がらせだと思う。「頭の良さが学校の成績だけで決まると思うなよ」の一言が持つ暴力性に自覚的でありたいといつも感じる。多くのハラスメントが次々と糾弾されていく中で、「演算能力が高いこと」や「記憶力が高いこと」は、いまだに茶化してもいいもの、叩いてもいい存在だと思われているように思う。


この話をすると「弱者が強者に立ち向かうのはいいことだ」というピントのずれた反論がくることがある。問題はそこにあるのではなく、そもそも、彼我の間に強弱を設定して高低差ありきの議論をすること自体がくだらない。弱い者が強い者を引きずり下ろすことは、強弱を入れ替えて弱い者いじめの構図を保存しているだけだ。




……という話も、きっと、哲学や倫理学の世界ではすでにトピックスになり終えたものなのだろうな、という予感はある。「その話もうやったわ」みたいなことがいっぱいある。先人達が議論し終えたのになお、現場レベルで解決がなされていないということは、構造的にこの問題は解決不能なのかもしれない、という気もする。あるいは、解決することでほかの問題がむしろ大きくなる、という類いの話なのかもなと思う。

人間には、自分を弱い側に置いて、高低差をしっかり意識してから強い者の側を攻撃するという「指向性」がある。文字にするとおぞましいが、克己の物語、逆転の物語、革命の物語、これらには本能を悦ばせる何かが潜んでいるように思う。「そんなことをして何になる!」とまっすぐ突っ込むことは、半分合っていて半分間違っているのだろう、「ストレス解消になる」という理由に反論するのは思った以上に難しい。

正直に書くが、ぼくは叩く側に回った自称弱者をあさましいと感じる。「弱者」というポジションを受け入れたからには強弱の論理を是としたんじゃん、という気持ち。「弱者」と名乗ることで逆説的に強者の存在を盤石にしちゃってるじゃん、という感情。このように、弱者を名乗る人たちを攻撃しはじめている自分に気づいてはじめて構造が回る。叩いてはだめなのだ。怒ってはだめなのだ。なじってはだめなのだ。これだけわかっていてもなお、心の襞の裏から飛び出してくる「自分のデコボコのデコをどこかにぶつけ、ボコで何かを受け止めたい感情」を抑えられない。そういうことに自覚的でありたい。何かをがまんしてその先にもう少しいい風景を見たい。このように書くとまた、「がまんできない人もいるんですよ」という叱責が飛んでくる。

2021年10月28日木曜日

病理の話(591) 色あせるものと色あせないもの

患者から採取された検体の話。


たとえば胃がんの手術で胃を切ったり、肝臓がんの手術で肝臓の一部を切ったりしたあとのことを考える。


切った臓器はフニャフニャだ。そのまま保存すると劣化する、というか、いやな言い方をすると腐る(細菌やカビなどが繁殖する)。そこで、後々まで見返せるように、「固定」という作業をする。


これについては昆虫の標本だとか獣の剥製(はくせい)を思い浮かべてもらうといいかもしれない。品質を長く保つにはケミカルな処理をする。人間の臓器であればかの有名なホルマリンを使う。


現在、病理検査室で用いているホルマリンは10%緩衝ホルマリンという。詳しい話はしないが、この調合が一番いいとされている。何にいいかというと、「臓器の中にある細胞の、さらにその中にある遺伝子の情報までも保存しやすい」のである。病気になった臓器をとってきた際に、そのカタチだけ保てばよいというのであれば、鹿や熊の剥製みたいにすればいいのかもしれないが、ぼくたち病理医は臓器を外から見るだけで診断するわけではない。


細胞の中にあるDNAやRNAといった微細で繊細な物質が、経年劣化しないように。あとから遺伝子の検索ができるように。そこまで考えて、固定をする。


もっとも、ホルマリンが無敵なわけではない。5年も経つと劣化は避けられない。10年経つと遺伝子の細かい解析は厳しくなってくることが多い。そこで、病理ではさらに特殊な保存方法を加える。


ホルマリン固定標本の一部を切り出して、パラフィンというロウで固める。このとき、外側をただロウで固めてしまうのではなくて、細胞内にある水分を抜いて代わりにロウで充填するのだ。こうしてできあがった臓器の一部は「パラフィンブロック」と呼ばれる。


このパラフィンブロックは通称「永久標本」と呼ばれる。その名の通り、半永久的に品質が劣化しない(遺伝情報もあとから検索可能になっている)。


そして、パラフィンブロックの表面をうすーく切って(薄くというのは具体的には4 μmくらい、つまり髪の毛の太さよりも薄い)、スライドガラスに乗せて色を付けたものが、おなじみ(?)の病理組織プレパラートである。ここまでしてようやく顕微鏡での観察が可能となる。ただ、じつは、ガラスプレパラートに付けた色は10年ちょっと経つと褪色(たいしょく=色あせること)してしまう。ガラスを大事に取っておいても、20年も経つと染色がかすんでしまってうまく細胞が見えない。


そういうときは、保管しているパラフィンブロックを取り出してきて、ふたたび薄く切るところからやり直して、ガラスプレパラートを作り直せばよい。50年前の症例であっても色鮮やかに顕微鏡観察することができる。




こうして見返すと、生き物の情報を後世に残すには膨大な手間がかかっていることがわかる。そりゃあ昔のことがわからないわけだ、時の選別は厳しい。むしろ、樹液にトラップされた蚊であるとか、火山灰に埋もれた化石であるとか、そうやって何万年もあとに「元のかたちを推定できるくらいの状態で発見される」というのがどれだけ奇跡的なことなのかと驚いてしまうわけなのだけれども……。

2021年10月27日水曜日

病二十病

タイムラインに「柴犬とチワワのミックス」の話が出てきた。ツイ主が「シババかわいい」と言ったらペットショップの店員に「柴チワかわいいですよね」とやんわり訂正された、という胸熱エピソードだった。そこから連想がどちらに言ったかというとヒンドゥーのカミサマのほうに飛んでいった。おわかりかもしれないがシヴァ犬である。


Wikipediaによればシヴァは形の無い、無限の、超越的な、不変絶対のブラフマンであり、同時に世界の根源的なアートマン(自我、魂)だ。見た目の特徴は、額の第三の目、首に巻かれた蛇、三日月の装飾具、絡まる髪の毛から流れるガンジス川、武器であるトリシューラ(三叉の槍)、ダマル(太鼓)などで、インド、ネパール、スリランカなど全土で信仰されているという。以上はコピペしただけなんだけどこうして読んでみるとかなり強めの神様だ。


しかしシヴァといえばぼくにとってはファイナルファンタジー(FF)シリーズの召喚獣である。神様からいきなり使役されるケダモノ扱いなので申し訳ない感覚がある。どこかの国のゲームで神武天皇あたりが召喚獣として用いられていたら日本人はもやもやするんじゃないかな、とびくびく気を回したりする。まあ神様であればそんな些細なことを今さら気にも留めないのだろうが。


シヴァはFFだと氷の魔法を使う。でもWikipediaのどこを読んでもシヴァに氷らしさはない。ファイナルファンタジーでトリオを組まされるイメージのあるラムウ・イフリートなども原典にはいっさい出てこない、というか、本来インドでシヴァと並び称されるのはヴィシュヌでありブラフマーだ。ううむここまでアレンジしてあるものなんだな。逆か、アレンジしないと堂々とは使えないのか。「名前は似てるけど響きがかっこいいからたまたま似ただけで別モノだよ」と理解したほうがいいのかもしれない。


と、ここでタイムラインで知ったのだがグランブルーファンタジーに出てくるシヴァは炎属性なんだって? ははーなるほどなー、本当にゲームごとに好き勝手に変えていくんだなあ。おもしれえなあ。




さてここからはかわいい中二病の話になる。中学生のころにこっそりと書いていたゲームブック的小説がある。ぼくもきちんとそういう時代を過ごしていた。リングノートの小さいやつみたいなのにイラストもりもりでファンタジーを書きためた。もし今発掘されてネットに流れたら5G回線ごと世界を無にして私も消えよう。永久に。その中に出てきた登場人物の名前、かっこいいと思って付ける語彙、所詮は中学生であって、いくつも選択肢があるわけではないので、どうしても狭い観測範囲で「あっ」と思ったものから名付けることになる。そのうち一つは国語か社会の教科書に書いてあった「アーカンサス十字唐草文様」で、そのままアーカンサスという名前の登場人物がいた。書いていて血圧が300もしくは30になる(どちらであっても命にかかわっています)。

そしてもうひとり、これは後にけっこう「ああ……これいつか書こう……」と思ってもはずかしくてなかなか書けなかった話なのだけれど(一度たぶん書いたけど)、ヴュロスという名前のキャラもいた。たぶんウにテンテンのついた名前を使いたかったのである。元ネタはない、たぶんカタカナを書いて調整して作った。のちにふと思い出して、そういえばヴュロス的なかっこいい英単語とかないのかな、と思って検索したのだけれど、中学生が適当に考えた名前に後付けでかっこいい由来が生まれるわけもない。いろいろ探しているとbullous(水疱症)というのがちょっと近いかなと思ったけれどこれもウにテンテンではない(ビュだ)。そうこうしているうちに中二病は自然消退し、黒歴史は色と同じ棚の中にしまいこまれて引っ越しをくり返すうちに全て散逸してしまった。

そして今ふと、vullosで検索を書けてみると知らないものがヒットした。Vullo'sというピザ屋さんがドイツのKulmbachという田舎町にあるようなのである。ぼくはなんだか旅に出たくなってしまった、ちなみに検索したものを見てすぐに旅に出たくなるのは中二病と当たらずとも遠からぬものを感じる。病理医二十年目あたりでこのヤマイは重くなりそうな予感がある。2022年の4月になるとぼくは十九年目だ、もうすぐではないか、病二十病と名付けて警戒を怠らないようにする。

2021年10月26日火曜日

病理の話(590) アンケートのその他欄を大事にしましょうねという話

病理診断においては、顕微鏡を見て細胞のあれこれを確認したあとに「病理診断報告書」を書く。これ、慣例的に「レポート」と呼ばれることが多い。英語に忠実に読むならば「リポート」のほうが正しいのだろうが、医療現場ではもっぱらレポートと発音される。ちなみにreportをドイツ語読みするとレポートになるからその名残なのかもしれない。最近の医者が使うドイツ語なんて「カルテ」くらいだと思っていたが、たぶん、まだあったね。

レポートの書き方についてはいろいろと流儀がある。ただし、なんでも好き勝手に書いていいわけではない。たとえば「この臓器のこのタイプの癌だったらこのような項目を穴埋めしなさい」という統一した基準がある。あまり実際の例を挙げるのはよくないのだが、さすがに具体的に言わないとわからないだろうから、以下に軽く実例を出す。


<例1:胃癌>
・切除方法
・部位(長軸方向)
・部位(短軸方向)
・肉眼形態(隆起しているか陥凹しているかなどを決まった書き方で)
・病変の大きさ
・組織型(※)
・がんがどれほど深く壁の中に潜り込んでいるのか
・がんがまばらに染み込んでいるか、カタマリになっているか
・リンパ管や静脈といった細かい管にがんが入り込んでいないかどうか
・消化性潰瘍の合併があるか
・がんが採り切れているか
・リンパ節に転移があるか
・ほかの部位に転移があるか
・手術の際に行った「お腹の中を洗った水」の中にがん細胞が紛れていないか
・ステージング(病期)


<例2:皮膚癌――の中でも特に有棘細胞癌や基底細胞癌の場合>
・部位とサイズ
・病変の境界がはっきりしているかあいまいか
・初発か、再発か
・分化度(※)
・特殊な組織型(※)
・神経や血管の中にがんが入っていないか
・どれくらい深くがんが染み込んでいるか
・腫瘍の厚さ


だいたいこのようなかんじで、場所や病気の種類ごとに、箇条書きでチェックする項目が変わってくる。

でも、このような、アンケート用紙にチェックを入れていくように穴埋めだけしていればレポートが完成するかというと、そうでもない。

アンケートだけで仕事になるのは、日によるけれど、病理医が一日に診断する量のうち、4~7割くらいだ。少ない日でも3割、多いときには6割くらいの症例は、アンケートの「その他欄」にいろいろ書き込まなければいけない。


なぜ「アンケートのその他欄」がだいじなのか?


それは、ある病気が示す像……病像……が、必ずその人固有のものであるからだ。われわれは常に、ある病気をどこかに分類して、それに応じて治療を選ぼうとするのだけれども、世に同じ顔をした人が基本的にいないのといっしょで、「同じ顔付きをした病気」もまた存在しない。一期一会のくり返しである。

もちろん、治療や対処方法は無限に存在するわけではないから、どこかに落とし込まないといけない。でも、その「落とし込み」は科学が進歩するごとに少しずつ変わっていくので、注意しなければいけない。

たとえば、むかしは「風邪」といったらいろいろな概念を含んだ。鼻水が出ても風邪だし、喉が痛くても風邪だし、頭が痛くても風邪だしお腹をこわしても風邪と呼んでいた。しかし新型感染症がうるさい昨今、「風邪」といってもいろいろあるということは周知の通りである。インフルエンザと新型コロナウイルスとそれ以外のウイルスによる風邪とではすべて対処方法が微妙に異なるだろう、学校を休む期間だって違う。科学がすすむと、病気の分類はより精度が高くなる。

これといっしょで、たとえばかつて大腸で「充実型低分化腺癌」と呼ばれていた病気の一部は、今は「髄様癌」という別の名前が付けられることがある。名前が変わっただけならばさほど影響はなさそうだけれど、じつは髄様癌と名付けられる病気はほかの病気と違う性質を示すのではないかと言われ始めた。

このとき、たとえば20年前に診断した大腸癌のレポートに、ただアンケートの穴埋めをしただけで

□高分化型
□中分化型
□低分化型(非充実)
☑低分化型(充実)
□その他(具体的に:       )

と診断してしまっていると、これが髄様癌なのかどうかはまるでわからない。もう一度プレパラートを見直さないと確認ができない。

しかし、病理医が勤勉で、アンケートの「その他」欄に、以下のように書いてあると……

□高分化型
□中分化型
□低分化型(非充実)
☑低分化型(充実)
□その他(具体的に: 腫瘍胞巣は充実性で胞巣内部にTリンパ球の浸潤が目立ち、病変から離れた周囲腸管内にCrohn-like reactionを伴っている。)

これは後に見出された「髄様癌」だろうな、ということが、その他欄を見ただけでわかるのだ。





病気の本質を科学が常に言い当てているとは限らない。科学というのは常に進歩し続ける性質のもので、ある時点で用いている「科学的な分類=診断」は、未来には必ずより適切なかたちで更新される。これを「昔は間違っていた」という意味でとらえては不正確であり、常に最新のものが一番「本質に近づいている」と考える。詭弁のようだがここをしっかりわかっておく必要がある。

そして、「診断は古びるが、所見は古びない」。アンケートの分類項目をあとから変更すれば、アンケートの大半は無効になってしまうだろう、しかし、「その他欄」に書かれた内容には影響しない。その他欄に細かく記載のあるアンケートは何年経って見直しても意味を取り出すことができる。病理診断レポートでも、それと同じ事をやっている。その他欄に何も書かない病理医は瞬間に生きている。……今のは一部の病理医に忖度しただけで本当はこう言うべきだ、「その他欄に何も書かない病理医は未来に残せるレポートを書く気が無い」。

2021年10月25日月曜日

脳だけが旅をする

瞬間的に通信速度が低下していたらしく、ブログ投稿用ページを開いたら多くのアイコンが表示されずに「□」になっていた。




昔、たしか『火の鳥』で、事故で体を機械に取り替えた主人公が見る風景がぜんぶ「カクカク」になってしまう、という話を読んだ覚えがある。心が機械に近づいてしまうと、有機物(タンパク質を含む生命)がすべて無機物(金属など)に見えてしまう、という意味の描写だったのだろうな。今思い出しても(一部うろ覚えではあるけれど)とんでもない想像力だ、いったいどんな「経験」を経るとそんな情景を考え付くのかと、ため息が出る。

さてこのような描写は本当に「経験」に裏打ちされたものなのだろうか、という話。

手塚治虫のすさまじい描写というと『アドルフに告ぐ』の巨大ドクロ的コマであるとか、『火の鳥 鳳凰編』で我王が(これもすばらしいネーミングだが)火の鳥のシルエットをバックにわかったわかりましたと悟得するシーンであるとか、いわゆる抽象表現のほうをすぐに想起してしまうのだけれど、先ほどの「無機物に見える」のように抽象どころかある意味具体の極みだな、という描写もあるから平伏するしかない。

手塚治虫はべつにブログをやっていなかったからぼくの今見ているような「□の並んだ風景」のような気づきがあったわけでもなかろう、というかそもそもあの時代にはインターネットがない。小説や映画の元ネタがあるのかもしれないが、あれだけ多作で忙しかったマンガ家が果たしてどこまで「インスピレーションのための取材」をできていたものか。



「クリエイティブのためにはさまざまな作品をどんどん読んで目を養うべきだ」という文章を書く人を、そろそろ信用できなくなってきた。猛烈な量の作品を読んだ、映画を観た、旅行をしたというわりに、書くことがみんな一緒だからクリエイティビティを感じない。説得力がないのである。「自分はクリエイションをさらさらっとやれてしまうから時間が余っており、稼いだカネもあるから、いっぱいいろんなコンテンツを体験できてすごいだろう、うらやましいだろう」というマウント以外に内容がないのであきれてしまう。そもそも、ほんとうにさまざまな表現に触れたのならば、そこから立ち上がってくる「その人のシルエット」がないと本来おかしい。猛烈な量のテクスチャがキャンパスにコラージュされていく中で、撥水加工をされたエンブレムのように、周りの喧噪に飲み込まれないぽかんと空いたスキマがあって、その内部に熱ばかりが蓄積されていくのだ、ぼくはそこに目が釘付けになって、空洞の向こうから遠雷のように腹に響く、誰に借りた言葉でもないその人自身の心の奥底から発せられる「呼びかけ」みたいなもの、そのようなものが一切感じられない「クリエイティブのためにはさまざまな作品をどんどん読んで目を養うべきだ」にはうんざりしている。

逆に、手塚治虫にしろ、藤子F不二雄にしろ、「マンガを描く以外の作業ができないほど忙しかったはずなのに生涯にわたってアイディアを出し続けた人」の脳にぼくは強烈な吸引力を感じる。もちろん彼らも若い頃から旅をしたりSFを読んだり、先行者たちのすばらしいものをいっぱい摂取していたのだろうけれど、もっともいい作品を生み出していた全盛期に「クリエイティブのために」コンテンツを取り込むことをやっていたようには思えない。脳内に若い頃の経験をいくら貯金していたとしても、仕事を続けている間にとっくに枯渇していただろう。なのに彼らはクリエイティブであり続けた、それはいったいどういうことなんだろう、心のどこに潜り込めばあんなに誰も知らない言葉を掘り出すことができるのか?

映画をいっぱい観れば役に立つ、なんて気分で映画を観ている人とは話が合わない。脳だけで旅をして、妄想を妄想のままに留めずに自分の皮膚の外縁から外界に滲み出させることに全力でいる、そういう人たちの言葉のほうがふくよかであると感じる。よいコンテンツを経験することを「出力のため」だなどと、もし本当にそう考えてやっているのだったら、その人はもはやクリエイティブなことはできていないしこれからもできないと思う。心が求めている以外の理由で経験を積まないでほしい。積んだ経験が生み出した表現だなどという恥ずかしいことを言わないでほしい。脳はもっと何億倍も複雑な畳み込み式回路だ。「○○のために」という呪いの言葉に囚われてはいけない。やりたいからやる、やるべきことをやる。「のために」の向こう側で何かをインプットし、「のために」を蹴り飛ばしながら何かをアウトプットするのだ。

2021年10月22日金曜日

病理の話(589) タンパク質ばっかりに偉そうな顔させんなよ

人体のあらゆる細胞には「核」が含まれており、核の中にはDNAが格納されている。DNAは設計図のようなはたらきをしており、細胞がもつ様々なパーツをどのように作るかが記載されている。

DNAという設計図には日本語や英語が書かれているわけではない。A,T,G,Cという四つの文字が並んでいるだけだ。

DNAに書かれた謎の文章を実際に読んでみよう。たとえば、AGCTTCGAAという文字列があったら、AGC, TTC, GAA, のように、3つ刻みで解読するといい。これらはそれぞれセリン、フェニルアラニン、グルタミン酸のようなアミノ酸という「レゴブロック」に対応する。さっきのAGCTTCGAAという文字列は、「セリン…フェニルアラニン…グルタミン酸の順番でレゴブロックを1列につないでくださいね」という意味に読める。

レゴブロックをつなげたものがタンパク質と呼ばれる。タンパク質にはアミノ酸レゴが何百万個も含まれている(もっと少ない場合も、もっと多い場合もある)。

レゴを一列につなげただけでは、さまざまな機能を持つタンパク質にはならない。つながったアミノ酸たちはなんかいろいろあって、絡まる、すなわちダマになる。ダマになって途中でブチブチ切れたり繋ぎ直されたりする。こうして最終的にタンパク質になる。


ここまでが「おさらい」。でも大事なことです。今日はこれをふまえて別の話。


人体のあらゆる物質が基本的にはタンパク質でできている。しかし、タンパク質だけだとサポートしきれない機能もある。普通に考えて、レゴだけで人体は作れないと思うだろう。そこで、人体は「DNAを読んでアミノ酸を並べてタンパク質をつくる」以外にも、(知名度的に)マイナーな仕組みをいくつか持っている。


そのひとつが脂肪の活用であり、もう一つは糖の活用だ。脂肪も糖もタンパク質ではないので(食べ物に表示されている栄養分でおなじみだからなんとなくおわかりだろうが)、DNAプログラム→アミノ酸配列の仕組みじゃないところで人体のパーツになるためにさまざまに加工される。もっとも、体内で脂肪や糖を運んで組み上げる物質自体がタンパク質でできているので(目が回りそうな文章だ)、結局はDNAって裏でなんでもやってんな、という話にはなるのだけれど。


脂肪のはたらきとしてとても大切なのは「細胞膜になる」ということである。つまりは細胞の入れ物、器の役目をする。これはとても大事なことだ。器によって「ここまでがひとつの細胞ですよ」という境界をはっきりさせることができる……でもこの説明だと抽象的すぎるなあ、より化学的に説明するならば、「細胞膜という境界があることで、境界の内外に濃度の差を作ることができる」というのが大事である。ここはブログが2000本くらい書ける話になるのであまり深煎り、じゃなかった深入りしないけれど、雑なたとえで説明しよう。波ひとつ経たないような静かな湖では水力発電はできないけれど、高低差があって水が流れ出して川になれば発電はできる。さらに言えば、ダムを造って高低差を強化することで、水力発電はより効果的に行える。ここで大事なのはダムという「差をつくるためのせき止め」だ。細胞膜は、細胞がさまざまな発電的活動をするためのダムの役目を果たす。アァー細胞警察がやってきて「ほかにも細胞膜の機能は2000個くらいあるだろ!」と怒られそうだけれど今日はこれくらいにさせてください。話を脂肪に戻そう。ラーメンのどんぶりに浮かぶアブラのように、脂肪は水をはじく性質がある。これがみずみずしい細胞において「ダム」としての役目を果たす。


脂肪はダムとして水のせき止めを行うだけでなく、脂肪の仲間を自由に通過させたり取り込んだりする性質もあってこれも地味に役に立つ。「トントン」「誰だ」「水です」「くせもの!通さん!」「トントン」「誰だ」「脂肪です」「よし、入れ!」という感じである。ところでさっきラーメンのたとえを用いたが、クセと香りの強い香辛料や魚のアラなどを油で炒めてから、その油を用いてラーメンのスープを作ると、「油に香りを移す」ことができるらしい(自分でやったことはない)。これは、油が油(香りの成分のひとつ)と混ざりやすい性質を利用しているようだ。一部のうまみ成分のように水に溶けてくれるものならば、コンブやカツオブシで出汁をとるように、お湯に成分を移せばよいのだけれど、香りの主成分は油脂を含むので、アブラに成分を移すことで香味油として用いることで料理に用いる。なんの豆知識だ。豆と言えば豆板醤ってすばらしい調味料ですよね。


さて、脂肪の話をすると、体内で水は邪魔者扱いを受けている気分になってくるが、あたりまえだけれど水は生命の要である。細胞の各所に水をきちんと保持しておきたいシーンは多い。脂肪で水をはじくだけではなく、なんらかの物質で水を保つことも考える。

人体内で水分を保つためには、水を通さない容器やパイプの中に密閉して循環させるのがいい。血液を心臓・血管に閉じ込めて循環させるというのがまさにこれだ。実に合目的で、優れた機能である。しかし、血管の外で水をある一定の箇所に保ち続ける方法もほしい。あちこちの細胞でも水は使いたい。

そこで登場するのが、糖だ。


糖は、べたべたする。


うわー小学生みたいな一文を書きました! でもこれが本質である。糖があるとそこには水が寄ってくる。イメージとしては水飴(アメ)みたいな状態を作れる。水分を保つならばそのまま置いとくより水飴にしたほうが扱いやすい(水のまんまで置いとくと流れちゃう)。では、人体の中で水飴的なものってなんだろう? 2秒あげるので考えてみてください。なおこの2秒はあなたが光速に近い移動をすることで引き延ばすことができます。


(とても早く移動)


はい地球上では2秒たちました、ではお答えします。人体の中で水飴みたいなものといえば粘液である。粘液? 見たことないが? という人は鼻をかんで欲しい。さらさらの鼻水しか出ないかもしれないがときにはねっとりした鼻水が出ることもあるだろう。あれが粘液だ。


粘液というのは液状成分であってタンパクがどうとか関係ないんじゃないの? と思いがちだがあそこには「粘液コアタンパク」と呼ばれるタンパク質が含まれている。さらに、このタンパク質には糖がぶっ刺さっている。「糖鎖修飾」と言って、タンパク質のカタマリに糖を刺すことで、水を引き寄せるはたらきを強化している。ベトベトにするために糖を使う。


脂肪を使って水をよけ、糖を使って水を引き寄せる。あらまあ、いろいろやっていらっしゃること。


脂肪や糖はタンパク質よりも研究の歴史が浅いが、20年くらい前にはすでにトピックスになっていたし、今も活発に研究が進んでいる。DNAやアミノ酸、タンパク質ばかりに偉そうな顔させんなよ、という声が聞こえてきそうだ。

2021年10月21日木曜日

ぞうよぞうなのよ

岸田奈美さんがなんでも手伝ってくれるというので、ぼくはいろいろ考えた。noteの好意的読者数が日本一多い作家である岸田さんがひとたび「推す!」と言ったらば、ものすごい宣伝効果になるわけで、こんなありがたい話に、その場でスッと「じゃああの医療系イベントの広報を手伝ってください!」と言えればよかったのかもしれないけれども、具体的なイメージを膨らませようとしてもなぜかイメージが途中でブロックされるような感覚があり、しのごのと言いよどんだ。

他人が躊躇する心持ちを察するのが極めて早い(人生ランキングでいうと第2位、1位はぼく)岸田さんは、すかさず、

「たとえば、副音声とかどうです?」

と具体例を挙げてくださった。副音声? なんだそれは? とはぼくは全く思わない、このとき岸田さんの脳にあるイメージは過不足無く伝わった。ぼくは自分の気質の部分に「岸田分」(栄養分と同じ発音で)を40%くらい含んでいるから、岸田さんの想定した光景をそのまま理解することができた。「ノールックで脳内コンパネのスイッチをパチンパチン指で倒しながら、ゼロコンマ数秒で周囲360度から飛びかかってくるミサイルを迎撃するようなしゃべり」ができる岸田さん(とぼく)は、UIもCPUもメモリも、副音声解説という芸に向いている。わかる……と思った。それは強力だ……とうれしくなった。しかし、次の瞬間には、「岸田さんを『副』においておくなんてもったいない、この方はほんらい『主』であるべきだ」という正義感のようなものにせき止められて、風船のようにふくらむイメージの元栓をひねってとめるのであった。どうでもいい話だが、かつてnote社がイベントを開いたときに、岸田さんを出演者にせずに「遊撃隊」にしてもっぱらツイッター担当をさせたことがあった(と思った。勝手にそう見ていた)のだが本当におろかな話だ。岸田さんを広告塔にしか使えないなんてクリエイティブという言葉をはき違えていると思った。閑話休題。

そんな岸田さんが与えてくれたチャンスにぼくはなぜ即答できないのか。理由についてはひとまずその場で言語化しておいた(ただし口には出さなかった)。端的に言えば「ぼくの活動を岸田さんに応援してもらうことで岸田さんにとって何かいいことがあるのか?」というところが気になるのだ。いや、わかる、情けは人のためならずという言葉もある、剣道部の先輩もかつて、「俺がおごった金額は俺に返さなくていいから、お前の後輩にその分おごってやれ」と言った、それと一緒なのだ、このように申し出てくださる人というのは「自分のためになるかどうか」というのを同じ時間軸で考えていない。利潤を活動と同じ平面上に載っけない。レイヤーが違う。だから岸田さんが何かしてくれると言ったときに、「でもこの活動で岸田さんに何かいいことが起こるかというと……」と躊躇するのはピントがずれている。そんなことはぼくもわかっている。

だからその後考え直し、「贈与なんだから受け取ったらいいのに」というのはぼくの躊躇を説得できる理由にはならないのだということを確認した。ぼくは、岸田さんに何かをしてもらってぼくの活動をパワーアップすることよりも、おそらく心のどこかで、「岸田さんとぼくが組んだら何かおもしろいことがやれるのではないか」という、すでに育っている若木に水をやるのではなくて種から作って森を目指すほうがいいんじゃないか、みたいなことを内心考えていたのだ。だから、「ぼくの何かを手伝いますよ」と言われたときに瞬間的に「もったいない!」と考えてしまったのだと思う。岸田さんとならできる、岸田さんとなら可能性がある、なんてことを岸田さんの都合も聞かずにぼくのなかでここしばらく温めていたのだからこちらのほうが厚顔無恥だし無礼なのかもしれない。おとなしく「あの件の広報を手伝ってください」のほうが岸田さんにとってもかえって負担は少ないであろう。しかし……なんというか……


岸田さんに家に来てもらって掃除を手伝わせ料理を持ってきてもらってホームパーティーを華やかにするよりも、岸田さんといっしょに旅に出たほうがおもしろいんじゃないのか……(※すべて接頭語「脳内で」を付けて読んでください)


という気持ちがあった。よりおぞましい話になった気がしないでもないが、これがおそらくぼくの根本にある考え方なのだ。他人に贈与をするときの最上の形は、基本的に物ではなく旅路を贈ることで達成されるのではないかと思う。このことがわかっている医学書院のメガネのイケメンは、かつてぼくのツイッターでの(本をめぐる)やりとりを聞いて、


「エアリプでのコール&レスポンスってすごいですね。

もはや贈与でしょう、これは。」


と言った。贈与というのは返礼を期待せずにモノを贈る行為、それはまあ合っているのだけれど、贈与というのはたぶん、世界をよくするためにモノを隣に手渡し続ける、という太古の人類の風習などでは説明しきれない概念で、エアリプがいつのまにかタイムラインを作っているようなものなのだと思う。


というわけでぼくは岸田さんとそのうち旅をする可能性がある。脳だけが旅をするというブログをやっていると、こういうとき助かる、なぜならば、意味が複数用意できるからだ。