内視鏡というツールがある。すごいものだ。たかだか数十年の歴史しかない、鼻から入るほど細っこくてひょろながいチューブのくせに、胃や大腸、気管支、胆管などの中身を克明にぼくらの眼前に示してくれる。
内視鏡はすごい。マジックハンドのようなマニピュレータや放水装置などを搭載している。ちょっとしたキズを縛ったり、胃や大腸の中から小指の爪の先くらいの検体を採ってきたり、水をまいて視界を良好にしたり、特殊な色素を噴出して病変に色を付けたりすることができる。
最初、カメラで胃を覗き始めた人々の興奮は、いかばかりだったか。
手術で採って、切り開かないとおがめなかった病変を、生きた人間の腹の中にあるうちに、直接観察できる。たまんなかったろうな。
まあ患者も最初の頃は苦しくてたまんなかったろうけど。
***
内科、外科、ということばがあるが、これらは考え方によっては「逆転している言葉」である。
内科は、体の外にしか触れないではないか。外科は、腹を切って、体の内部を触るではないか。内科が外から、外科が内からアプローチしてるじゃないか。逆だよなあ、ということである。
これは、単なる言葉のマジックで、よく考えると「内科は体の内から(薬などを用いて)治す、外科は体の外から(手をつっこんで)治す」のだから、何も間違ってはいないのだが……。
近年の消化器内科などというのは、実際、内視鏡を使って「外科的手技」をばんばんやってしまう。中から薬で、とか、外からメスで、などという分け方は、最初それしかできなかった時代に名付けられたものだ。人は、ツールを手にするごとに、名前を軽々と飛び越えて職務を果たそうとする。
さて、では、病理医はどう変わったか。
個人的に、病理医がいちばん変わったのは、「病の理(ことわり)に詳しいだけの人ではなくなった」ということかな、と思う。
病の理、すなわち病態生理に通じ、解剖学や細胞生物学を駆使して疾患を解き明かそうとした病理医の仕事は、どんどん細分化していった。
基礎研究方面では、
「○○という遺伝子変異を有する□□病で高発現している異常タンパクと結合したり離れたりしている可能性がある△△というタンパクをコードしている遺伝子をノックダウンした結果発現が向上したタンパクのメチル化について」
みたいな、もはや元はなんだったのか、そもそも患者と何の関係があるのかわからないような研究テーマを扱うこともある(まあめちゃくちゃ楽しいですけどね)。
臨床病理診断学の方面でも、
「食道胃接合部に胃酸逆流が生じることによって形成されるバレット粘膜のうちショート・セグメントのものに発生するがんのリスクと関連するかもしれない腸上皮化生の頻度と分布」
のような、すでに病からだいぶ離れた分野を丹念に読み解くことがひとつの価値だったりする(もちろん相当熱いんですけどね)。
ぼくは、自分のオタク性というかやっかいな部分を認識しているつもりだ。
臨床医に対するインフォームド・コンセント(臨床医に病理のことを納得し理解してもらうこと)が大事だと言い、臨床画像・病理対比などという仕事をして「コミュニケーションをとる病理医」の仮面を被ってはいるが、実際、「結局そこまで掘り進んだらもう何の役に立つんだか皆目わかんねぇよ」みたいな、純粋に細胞だけを追いかけていくような仕事にとてつもない魅力を感じるし、ノーベル賞受賞者に「何の役に立つんですか」とたずねた記者の尻の穴からホルマリンを注入してやりたい衝動に駆られる。
病理医の仕事もまた、内科医や外科医と同じように、多面的であり、複雑化している。
内科が外から、外科が内からの診療を行う時代だ。
病理医は、「病(やまい)の理(ことわり)」を修める医師であると同時に、「理(り)に病む」オタク学者であってもよいのではないか。
そんなことを考える日もある。
2016年11月30日水曜日
2016年11月29日火曜日
きっちょ(きっと)カラスが鳴いたからだよ
雪が降るとすごく静かになる。
おそらく、ぼくらの耳には、普段は気にも留めない「ベースレベルでの雑音」みたいなものが、絶えず飛び込んできているのだろう。かつて、タモリは「静かな部屋に入るとシーンという音が鳴っているように感じる」とかなんとか言っていた。
雪は、「シーン」すら吸収してしまうように思う。原稿仕事が続いていた。両耳にイヤホンをして、すごく古い洋楽を聴きながら、延々と「である」「なのである」「であるのだ」の入れ替え作業などをしていた。曲が終わり、さて次はどのアルバムにするかと、iTunesをいったん止めて伸びをして、イヤホンを耳から外したとき、シーンという音がしなかった。ああ、雪だろうなと思った。外は暗く、実際に雪が降っているかどうかはわからなかった。夜通し、時たまシーンという音が聞こえたり聞こえなかったりするように思えた。朝になっても無音は続いていた。いよいよ朦朧としてきた午前4時半ころ、カア、カアという鳴き声が聞こえ、窓の外をみたら、雪が止んでカラスが鳴いていた。シーンより先にカラスが、雪が止んだことを教えてくれていた。
カラスの鳴き声に何かを感じそうになるも、まあ、そういうものではないわな、と考え直したのは誰だったか。
「銀座のカラス」を書いた椎名誠の、カラスはあくまで比喩だったように記憶しているが、夜通し原稿用紙やらパソコンやらに向かい合う人間だったら、同様の経験は一度ならずともあるだろう。
カラスは、天気が小康状態に入ったことを教えてくれる。朝方のカラスの鳴き声は吉兆である。
ぼくは勝手にそう決めている。
おそらく、ぼくらの耳には、普段は気にも留めない「ベースレベルでの雑音」みたいなものが、絶えず飛び込んできているのだろう。かつて、タモリは「静かな部屋に入るとシーンという音が鳴っているように感じる」とかなんとか言っていた。
雪は、「シーン」すら吸収してしまうように思う。原稿仕事が続いていた。両耳にイヤホンをして、すごく古い洋楽を聴きながら、延々と「である」「なのである」「であるのだ」の入れ替え作業などをしていた。曲が終わり、さて次はどのアルバムにするかと、iTunesをいったん止めて伸びをして、イヤホンを耳から外したとき、シーンという音がしなかった。ああ、雪だろうなと思った。外は暗く、実際に雪が降っているかどうかはわからなかった。夜通し、時たまシーンという音が聞こえたり聞こえなかったりするように思えた。朝になっても無音は続いていた。いよいよ朦朧としてきた午前4時半ころ、カア、カアという鳴き声が聞こえ、窓の外をみたら、雪が止んでカラスが鳴いていた。シーンより先にカラスが、雪が止んだことを教えてくれていた。
カラスの鳴き声に何かを感じそうになるも、まあ、そういうものではないわな、と考え直したのは誰だったか。
「銀座のカラス」を書いた椎名誠の、カラスはあくまで比喩だったように記憶しているが、夜通し原稿用紙やらパソコンやらに向かい合う人間だったら、同様の経験は一度ならずともあるだろう。
カラスは、天気が小康状態に入ったことを教えてくれる。朝方のカラスの鳴き声は吉兆である。
ぼくは勝手にそう決めている。
2016年11月28日月曜日
病理の話(22) 朝か夜かで診断が変わったらいやだよね
「病理医は患者をもたないから、夕方5時で仕事が終わるんだろ、楽だよな」……と、面と向かって言われたことは、ない。
しかし、ネットというのはおもしろいもので、面と向かっていないからだろうか、リプライならもらうことがある。「5時には帰れる仕事のくせに偉そうに」。まったくこの通りに言われたことがある。
へえ、こうやって言う人って、ほんとにいたんだ、都市伝説ではなかったのか。とても驚いた。
まあ、勤務時間について「いや待て、ほんとはもっと忙しいんだぞ」と反論するのも子供っぽいし、「そうだよ、それがなにか」と開き直るのも大人のやることではない。だから、今日は、「時間」ではなく「時刻」の話をしてみようと思う。
病理医は、プレパラートを見るとき、
「朝の方が良く見えて、夜の方が悪く見える」
という。
細胞が良く見えるというのは、視界が良好であるとか、隅々まで見渡せるという意味ではない。「良性よりに見えてしまう」ということ。
逆に、悪く見えるというのは、細胞の良悪を判定するときに、「悪い方」、すなわちがんに見えてしまう、ということ。
大変なことだ。
病理医が細胞の良し悪しを決めるのは、仕事の中でも一番大切な、一番ぶれてはいけないことのはずだ。
体の中から採ってきた細胞が、良性なのか、悪性なのかによって、患者さんの人生も、周りの医療者がこれからやることも、まるで違う。そこを白黒はっきりさせるのが病理医の大事な仕事のはずではないか。
それが、「朝と夜とで、見え方が違う」とは、どういうことなのだ。
ちなみに、ぼくだけがこう思っているのではない。複数の病理医が、全く同じことを言う。北海道から沖縄まで、日本人であればだいたい同じことを言う。さらにはアメリカ、香港など様々な国の病理医にも聞いてみたが、やはり結果は同じだった。
……すみません、香港の人には聞きましたがアメリカの人には聞いてませんでした。盛りました。けどまあ、言うだろう。
光学顕微鏡というのは、機械の下の方に光源があり、プレパラートを下から照らして観察する仕組みになっている。子供の雑誌の付録についてくるような安価な顕微鏡だと、太陽光を反射させる鏡がついていて、反射光でプレパラートを見ることもあるが、プロが使う顕微鏡には太陽光なんぞ必要ない。外界が明るかろうが暗かろうが、検体の見栄えにはあまり影響しない。
……と、思われがちなのだが……。実際には、部屋が明るいか暗いかで、如実に見え方が変わる。
なんなんだろうねあれは。錯覚なのかな。それとも、実際に光量が微妙に違うせいなのかな。あるいは、朝は元気で、夜は疲れている、すなわち眼精疲労のせいで見え方が変わるのかもしれない。けど、やっぱり、部屋の明るさが一番効いている気がする。詳しい理由は、きっと「仕事場の明るさと目に与える影響」みたいなのを研究している人に聞いてみればわかるんじゃないかなあと思う。
原因はともかくとして、全く同じプレパラートを見ても、周囲がより暗い夜の方が、検体の色が濃く、細胞核が少しだけダークに感じられる。
微妙な違いだ。しかし、病理医にとっては、そこそこ大きな違いなのだ。
こんな、病理医の主観で診断をころころ変えられたのでは、患者も臨床医もたまったものではない。
だから、(以前にも書いたけど、)病理医は自分の診断をとことん文章化し、理論的に説明できるようにする。なんとなく悪そうに見えた、なんとなく核が濃く見えた、のような、「なんとなく」を診断のヒントとして採用しないようにする。多少核が濃く見えようが、周囲にある正常細胞と丁寧に比較をしたり、色合い以外の情報をきちんと総合することで、結局は精度の高い診断を成し遂げる。
けど、まあ、精度の高い診断をすると言っても、人間だ。なるべく間違いの芽は摘み取っておきたい。
だから。どうしても白黒をきっちりつけなければいけない診断をする場合には、時刻にも気を遣う。
たとえば、診断をしたのが深夜だったら、必ず「翌朝にもう一度見直す」ようにする。「一人時間差」と呼んでいる(ぼくだけです)。こうすると、前の晩にはあんなに悪そうに見えたけど、朝になって冷静に見てみたら、もう少し臨床医と相談したほうがいいな……などと、時刻の違いによる誤診を防ぐことができる。
ほかの人、特に初期研修医や臨床医のような、病理を勉強し始めて間もない人がプレパラートを見て書いた診断を「チェック」するときも、その人が朝診断したものか、夜診断したものかをいちおう確認しておく。
夜診断したものの方が、より、「悪性より」に診断されていることが多い。そのことをこちらとしても把握しておく。
診断がどうしてもぶれてしまうと悩んでいる病理初学者に、「朝から晩まで診断してると、日内でも診断がぶれるんだよ」という話を教えるだけで、何か腑に落ちるのだろうか、診断制度がぐっと上がるということも経験した。
まったく人間の目、さらには脳というのは不思議だなあと思う。
さて、冒頭で、「病理医は9時5時で仕事が終わるからいいよな」の話をした。
ぼくは、実は、病院でプレパラートを見る時間は「昼3時まで」に限定している。夕方以降にはなるべく顕微鏡診断をしない。
夕方以降は、カンファレンスが多い。会議もある。研究会も夕方以降だ。それに、カンファレンスの資料を作ったり、画像・病理対比のプレゼンを作ったり、論文や原稿を書いたりといった、プレパラートを見ない仕事だってある。そういう仕事をなるべく夕方に回して、顕微鏡を見るのは極力「早朝から午前中」に集中させる。
どうしてもプレパラートを見なければいけないときも、良悪の判断が迫られる「生検」はできるだけ朝に回す。仮に、生検を夕方に見た場合には、前述したように、朝方、もう一度見直すようにしている。
周りが暗いときに顕微鏡を見ると悪く見えるとわかっているなら、明るいときにだけ診断をすればいい。
こうして、ぼくの出勤は基本的に「朝方」に変わった。病理医のワークスタイルはフレックスだ。自分の都合で、診断する時刻をいじることができる。
今後、「9時5時かよ! いいなお前の仕事、楽で!」と言われたら、「いや、3時には終わるわ。」と答えてやりたい。早くそういうリプライが来ないかなあと、楽しみに待っている。
しかし、ネットというのはおもしろいもので、面と向かっていないからだろうか、リプライならもらうことがある。「5時には帰れる仕事のくせに偉そうに」。まったくこの通りに言われたことがある。
へえ、こうやって言う人って、ほんとにいたんだ、都市伝説ではなかったのか。とても驚いた。
まあ、勤務時間について「いや待て、ほんとはもっと忙しいんだぞ」と反論するのも子供っぽいし、「そうだよ、それがなにか」と開き直るのも大人のやることではない。だから、今日は、「時間」ではなく「時刻」の話をしてみようと思う。
病理医は、プレパラートを見るとき、
「朝の方が良く見えて、夜の方が悪く見える」
という。
細胞が良く見えるというのは、視界が良好であるとか、隅々まで見渡せるという意味ではない。「良性よりに見えてしまう」ということ。
逆に、悪く見えるというのは、細胞の良悪を判定するときに、「悪い方」、すなわちがんに見えてしまう、ということ。
大変なことだ。
病理医が細胞の良し悪しを決めるのは、仕事の中でも一番大切な、一番ぶれてはいけないことのはずだ。
体の中から採ってきた細胞が、良性なのか、悪性なのかによって、患者さんの人生も、周りの医療者がこれからやることも、まるで違う。そこを白黒はっきりさせるのが病理医の大事な仕事のはずではないか。
それが、「朝と夜とで、見え方が違う」とは、どういうことなのだ。
ちなみに、ぼくだけがこう思っているのではない。複数の病理医が、全く同じことを言う。北海道から沖縄まで、日本人であればだいたい同じことを言う。さらにはアメリカ、香港など様々な国の病理医にも聞いてみたが、やはり結果は同じだった。
……すみません、香港の人には聞きましたがアメリカの人には聞いてませんでした。盛りました。けどまあ、言うだろう。
光学顕微鏡というのは、機械の下の方に光源があり、プレパラートを下から照らして観察する仕組みになっている。子供の雑誌の付録についてくるような安価な顕微鏡だと、太陽光を反射させる鏡がついていて、反射光でプレパラートを見ることもあるが、プロが使う顕微鏡には太陽光なんぞ必要ない。外界が明るかろうが暗かろうが、検体の見栄えにはあまり影響しない。
……と、思われがちなのだが……。実際には、部屋が明るいか暗いかで、如実に見え方が変わる。
なんなんだろうねあれは。錯覚なのかな。それとも、実際に光量が微妙に違うせいなのかな。あるいは、朝は元気で、夜は疲れている、すなわち眼精疲労のせいで見え方が変わるのかもしれない。けど、やっぱり、部屋の明るさが一番効いている気がする。詳しい理由は、きっと「仕事場の明るさと目に与える影響」みたいなのを研究している人に聞いてみればわかるんじゃないかなあと思う。
原因はともかくとして、全く同じプレパラートを見ても、周囲がより暗い夜の方が、検体の色が濃く、細胞核が少しだけダークに感じられる。
微妙な違いだ。しかし、病理医にとっては、そこそこ大きな違いなのだ。
こんな、病理医の主観で診断をころころ変えられたのでは、患者も臨床医もたまったものではない。
だから、(以前にも書いたけど、)病理医は自分の診断をとことん文章化し、理論的に説明できるようにする。なんとなく悪そうに見えた、なんとなく核が濃く見えた、のような、「なんとなく」を診断のヒントとして採用しないようにする。多少核が濃く見えようが、周囲にある正常細胞と丁寧に比較をしたり、色合い以外の情報をきちんと総合することで、結局は精度の高い診断を成し遂げる。
けど、まあ、精度の高い診断をすると言っても、人間だ。なるべく間違いの芽は摘み取っておきたい。
だから。どうしても白黒をきっちりつけなければいけない診断をする場合には、時刻にも気を遣う。
たとえば、診断をしたのが深夜だったら、必ず「翌朝にもう一度見直す」ようにする。「一人時間差」と呼んでいる(ぼくだけです)。こうすると、前の晩にはあんなに悪そうに見えたけど、朝になって冷静に見てみたら、もう少し臨床医と相談したほうがいいな……などと、時刻の違いによる誤診を防ぐことができる。
ほかの人、特に初期研修医や臨床医のような、病理を勉強し始めて間もない人がプレパラートを見て書いた診断を「チェック」するときも、その人が朝診断したものか、夜診断したものかをいちおう確認しておく。
夜診断したものの方が、より、「悪性より」に診断されていることが多い。そのことをこちらとしても把握しておく。
診断がどうしてもぶれてしまうと悩んでいる病理初学者に、「朝から晩まで診断してると、日内でも診断がぶれるんだよ」という話を教えるだけで、何か腑に落ちるのだろうか、診断制度がぐっと上がるということも経験した。
まったく人間の目、さらには脳というのは不思議だなあと思う。
さて、冒頭で、「病理医は9時5時で仕事が終わるからいいよな」の話をした。
ぼくは、実は、病院でプレパラートを見る時間は「昼3時まで」に限定している。夕方以降にはなるべく顕微鏡診断をしない。
夕方以降は、カンファレンスが多い。会議もある。研究会も夕方以降だ。それに、カンファレンスの資料を作ったり、画像・病理対比のプレゼンを作ったり、論文や原稿を書いたりといった、プレパラートを見ない仕事だってある。そういう仕事をなるべく夕方に回して、顕微鏡を見るのは極力「早朝から午前中」に集中させる。
どうしてもプレパラートを見なければいけないときも、良悪の判断が迫られる「生検」はできるだけ朝に回す。仮に、生検を夕方に見た場合には、前述したように、朝方、もう一度見直すようにしている。
周りが暗いときに顕微鏡を見ると悪く見えるとわかっているなら、明るいときにだけ診断をすればいい。
こうして、ぼくの出勤は基本的に「朝方」に変わった。病理医のワークスタイルはフレックスだ。自分の都合で、診断する時刻をいじることができる。
今後、「9時5時かよ! いいなお前の仕事、楽で!」と言われたら、「いや、3時には終わるわ。」と答えてやりたい。早くそういうリプライが来ないかなあと、楽しみに待っている。
2016年11月25日金曜日
惹句・レモン
東京に出張するときは、羽田空港第2ビル・京急線改札前にあるプロントで昼飯を食うことが多い。たいてい、カルボナーラにグレープフルーツジュースを注文する。かれこれ10年にわたって、ずっとこの組み合わせである。ほかのパスタは食べないし、ほかのドリンクも飲まない。
競技場に入るときには左足から入るとか、大事な試合の朝にはカレーを食うとか、スポーツマン風のこだわりなら、ま、かっこよかったかもしれないが、ぼくの場合はどちらかというと、こだわっているというよりも、平時より余計に精神力を消費する出張のときには余計なことに頭を使いたくない、ある程度の結果がわかっているものにさっと全身を預けて楽になってしまいたい、という、韜晦、堕落に過ぎない気がする。
あるとき、いつものようにカルボナーラを頼んだら、パスタの上にレモンが乗っていた。
ぼくはもうそれだけで、腰が抜けるほど驚いてしまった。
あ、あの、タマゴが執拗に絡みついた、さらにその上に嫌がらせのように温泉卵まで乗っかった、コレステロールまみれのカルボナーラは!どうしたんだ!
皿1個にいくつタマゴ使ってるんだよ、という、プロントのアホっぽいカルボナーラが、好きだったのに。
……レモン乗せやがった。タマゴ減らして、レモン乗せやがった。
北海道大学のそばにあったラーメン屋がつぶれる半年前に突然レモンラーメンを提供し始めた時の、疲れ切ったおじさんの顔を思い出した。
からあげにレモンかけていいですか、と言いながらザンギにレモンをかけようとした後輩を「からあげとザンギが一緒だと思ってるのか?」と問い詰めた先輩のことを思い出した。
ギャンブラー哲也で「唐辛子をつまみに酒を飲めば、胃が荒れて腹がふくれたような気分になるから、金がかからず飲めるんだ」と書いていたのを読んでしばらくのちに、「そうだ、レモンをかじりながらビールを飲んだらうまいだろうか」と、レモンスライスを用意してビールを飲み始めて2秒で飽きてしまい途方にくれた大学時代を思い出した。
レモンに金属板を2枚刺して電球に灯りをともした小学校時代を思い出した。
レモン乗せやがった。プロントめ。レモン乗せやがった。
ぼくはもうプロントでカルボナーラは食わないのだと思う。
ぼくは、これからも、いろいろなお店で飲食をしてみたいし、自分でも様々に料理を作ってみたいし、あらゆる酒の飲み方をしたい。しかし、東京についた日に、それからの半日をどう過ごすか、脳をどうやって使おうかと沈思しながら胃に入れる、別にうまくもなければすごくもない、ただタマゴだけが妙に多い、あのカルボナーラが好きだったのに。
競技場に入るときには左足から入るとか、大事な試合の朝にはカレーを食うとか、スポーツマン風のこだわりなら、ま、かっこよかったかもしれないが、ぼくの場合はどちらかというと、こだわっているというよりも、平時より余計に精神力を消費する出張のときには余計なことに頭を使いたくない、ある程度の結果がわかっているものにさっと全身を預けて楽になってしまいたい、という、韜晦、堕落に過ぎない気がする。
あるとき、いつものようにカルボナーラを頼んだら、パスタの上にレモンが乗っていた。
ぼくはもうそれだけで、腰が抜けるほど驚いてしまった。
あ、あの、タマゴが執拗に絡みついた、さらにその上に嫌がらせのように温泉卵まで乗っかった、コレステロールまみれのカルボナーラは!どうしたんだ!
皿1個にいくつタマゴ使ってるんだよ、という、プロントのアホっぽいカルボナーラが、好きだったのに。
……レモン乗せやがった。タマゴ減らして、レモン乗せやがった。
北海道大学のそばにあったラーメン屋がつぶれる半年前に突然レモンラーメンを提供し始めた時の、疲れ切ったおじさんの顔を思い出した。
からあげにレモンかけていいですか、と言いながらザンギにレモンをかけようとした後輩を「からあげとザンギが一緒だと思ってるのか?」と問い詰めた先輩のことを思い出した。
ギャンブラー哲也で「唐辛子をつまみに酒を飲めば、胃が荒れて腹がふくれたような気分になるから、金がかからず飲めるんだ」と書いていたのを読んでしばらくのちに、「そうだ、レモンをかじりながらビールを飲んだらうまいだろうか」と、レモンスライスを用意してビールを飲み始めて2秒で飽きてしまい途方にくれた大学時代を思い出した。
レモンに金属板を2枚刺して電球に灯りをともした小学校時代を思い出した。
レモン乗せやがった。プロントめ。レモン乗せやがった。
ぼくはもうプロントでカルボナーラは食わないのだと思う。
ぼくは、これからも、いろいろなお店で飲食をしてみたいし、自分でも様々に料理を作ってみたいし、あらゆる酒の飲み方をしたい。しかし、東京についた日に、それからの半日をどう過ごすか、脳をどうやって使おうかと沈思しながら胃に入れる、別にうまくもなければすごくもない、ただタマゴだけが妙に多い、あのカルボナーラが好きだったのに。
2016年11月24日木曜日
病理の話(21) 病理とカラーのこと
色の話をしよう。
臓器は、いろんな色をしている。病理医は、 臓器や病変の色を見て、さまざまな推測を行う。
推測の答えは、顕微鏡を見ることで解決されることが多い。つまりは、臓器の色合いを見ても見なくても、結局は顕微鏡標本を作って細胞を見てしまえばいいわけで、実は色にこだわる必要は、 そこまでない……?
それに、臓器の色、特に病変そのものの色調を実際に目にするのは、ごく限られたシチュエーションを除けば病理医だけである。つまり、臓器が何色をしているから異常だと騒いだところで、その情報が 臨床の医療者達に活かされる機会は、少ない……?
いや、色は、熱い。色こそは色々与えてくれる。
まず、病理医というのは、なんでもかんでも顕微鏡で見なければ仕事にならないわけではないのだ。というか、実のところ、病理医の診断は、
「臓器や病変を目で見たときに9割完了している」
ことが望ましい。
たとえ話をする。手術で採ってきた胃の中に、 3センチ大の病変がひとつ、そして、5ミリ大の病変がひとつ、あったとしよう。
胃をすべてプレパラートで見ようと思うと、実はプレパラートが150~200枚必要となる。プレパラート1枚ではそんなに多くの範囲を観察できないからだ。
ここで、我々は「切り出し」という作業を行い、 顕微鏡で見る価値のある場所だけを切り出してきて、プレパラートにする。診断に必要十分な部分をうまく探し出せば、200枚ものプレパラートと格闘する必要はない。
このとき。病理医が、3センチ大の病変を見逃すことはないだろうが、5ミリ大の病変を見逃したとしたらどうなるだろうか?
「病気があることに、永久に気づけないまま、検索が終わる」
ことになる。だってプレパラートになってないから。顕微鏡で、見ようがないから。
だから、目で見て探ることは、とても大切だ。同時に、目で見た像からいかに顕微鏡像を予測するかも、プレパラートをどれくらい作るか、どのように切り出すかを考える上で、重要になる。
じゃあ、どうやって見る? 病変を病変だと認識する?
周りと比べて、あっ、ここはおかしいぞ、と気づくのは、色だ。色。
加えて、高低差、模様の違い、なめらかさやゴツゴツ感、そういった表面性状によって見極める。
だったら、正常の組織はどういう色をしているのか、異常があるとどういう色に変わるのかを、知っていなければならない。
前項で説明した「写真」も駆使して、肉眼像から得られる情報をきちんと抽出する。
組織が、どういう色になるかを決める因子というのがある。
専門的だが、少し書いておく。
まずは血流だ。血の巡りがよければ、それだけ赤みが増す。
炎症があれば血の巡りはよい。 打ち身が赤く腫れ上がるでしょう。あれと一緒。
腫瘍も血流がおかしくなる。正常ならざる、おかしな増殖をする細胞の周りでは、 栄養補給のスタイルもまたおかしくなる。
そして、脂肪だ。脂肪は黄ばむ。黄色い。生体内で黄色いものはいくつかあるが、その多くは脂肪に関係がある。
そもそも、あらゆる細胞は「細胞膜」を持っているのだが、 細胞膜とはリン脂質二重膜といって、脂肪を含んでいる。細胞が盛大にぶち壊れると、細胞膜がカケラとなって降り積もる 、すなわち、脂肪成分が降り積もる。
必然、「壊死(えし)」とか、「膿瘍(のうよう。うみのこと)」は、黄ばむ。
まあ、こんなことをつらつらと覚えておく。そして、たまに切り出しを目にする臨床医や研修医の前で披露し、情報を共有する。
たいていは、一緒に考えてくれる。
***
かなり専門的だが、ある腫瘍の話をしよう。あまり具体的には書かない。
ある腫瘍は、細胞密度が高く、壊死や線維化が少ないという特徴を持つ。まあ細かいことはいいのだが、こういう腫瘍は、
「色調が、ホタテの身」
に似ている。色調だけじゃなくて、硬さ・弾力性なども似ている。形は似ていないけど。
イメージしやすかろう、と思って、研修医に、「○○は色や硬さがホタテなんだよ」
と教えた。すると彼はどん引きなのである。
「ワッー! やっぱ病理医って臓器を食べ物みたいに見てるんスねェー!」
色を失うとはこのことだ。
臓器は、いろんな色をしている。病理医は、 臓器や病変の色を見て、さまざまな推測を行う。
推測の答えは、顕微鏡を見ることで解決されることが多い。つまりは、臓器の色合いを見ても見なくても、結局は顕微鏡標本を作って細胞を見てしまえばいいわけで、実は色にこだわる必要は、 そこまでない……?
それに、臓器の色、特に病変そのものの色調を実際に目にするのは、ごく限られたシチュエーションを除けば病理医だけである。つまり、臓器が何色をしているから異常だと騒いだところで、その情報が 臨床の医療者達に活かされる機会は、少ない……?
いや、色は、熱い。色こそは色々与えてくれる。
まず、病理医というのは、なんでもかんでも顕微鏡で見なければ仕事にならないわけではないのだ。というか、実のところ、病理医の診断は、
「臓器や病変を目で見たときに9割完了している」
ことが望ましい。
たとえ話をする。手術で採ってきた胃の中に、 3センチ大の病変がひとつ、そして、5ミリ大の病変がひとつ、あったとしよう。
胃をすべてプレパラートで見ようと思うと、実はプレパラートが150~200枚必要となる。プレパラート1枚ではそんなに多くの範囲を観察できないからだ。
ここで、我々は「切り出し」という作業を行い、 顕微鏡で見る価値のある場所だけを切り出してきて、プレパラートにする。診断に必要十分な部分をうまく探し出せば、200枚ものプレパラートと格闘する必要はない。
このとき。病理医が、3センチ大の病変を見逃すことはないだろうが、5ミリ大の病変を見逃したとしたらどうなるだろうか?
「病気があることに、永久に気づけないまま、検索が終わる」
ことになる。だってプレパラートになってないから。顕微鏡で、見ようがないから。
だから、目で見て探ることは、とても大切だ。同時に、目で見た像からいかに顕微鏡像を予測するかも、プレパラートをどれくらい作るか、どのように切り出すかを考える上で、重要になる。
じゃあ、どうやって見る? 病変を病変だと認識する?
周りと比べて、あっ、ここはおかしいぞ、と気づくのは、色だ。色。
加えて、高低差、模様の違い、なめらかさやゴツゴツ感、そういった表面性状によって見極める。
だったら、正常の組織はどういう色をしているのか、異常があるとどういう色に変わるのかを、知っていなければならない。
前項で説明した「写真」も駆使して、肉眼像から得られる情報をきちんと抽出する。
組織が、どういう色になるかを決める因子というのがある。
専門的だが、少し書いておく。
まずは血流だ。血の巡りがよければ、それだけ赤みが増す。
炎症があれば血の巡りはよい。 打ち身が赤く腫れ上がるでしょう。あれと一緒。
腫瘍も血流がおかしくなる。正常ならざる、おかしな増殖をする細胞の周りでは、 栄養補給のスタイルもまたおかしくなる。
そして、脂肪だ。脂肪は黄ばむ。黄色い。生体内で黄色いものはいくつかあるが、その多くは脂肪に関係がある。
そもそも、あらゆる細胞は「細胞膜」を持っているのだが、 細胞膜とはリン脂質二重膜といって、脂肪を含んでいる。細胞が盛大にぶち壊れると、細胞膜がカケラとなって降り積もる 、すなわち、脂肪成分が降り積もる。
必然、「壊死(えし)」とか、「膿瘍(のうよう。うみのこと)」は、黄ばむ。
まあ、こんなことをつらつらと覚えておく。そして、たまに切り出しを目にする臨床医や研修医の前で披露し、情報を共有する。
たいていは、一緒に考えてくれる。
***
かなり専門的だが、ある腫瘍の話をしよう。あまり具体的には書かない。
ある腫瘍は、細胞密度が高く、壊死や線維化が少ないという特徴を持つ。まあ細かいことはいいのだが、こういう腫瘍は、
「色調が、ホタテの身」
に似ている。色調だけじゃなくて、硬さ・弾力性なども似ている。形は似ていないけど。
イメージしやすかろう、と思って、研修医に、「○○は色や硬さがホタテなんだよ」
と教えた。すると彼はどん引きなのである。
「ワッー! やっぱ病理医って臓器を食べ物みたいに見てるんスねェー!」
色を失うとはこのことだ。
2016年11月22日火曜日
中年の定義
たとえば「私立探偵濱マイク」を見て、映画館の屋上に住んでみたいと思ったり、「紅の豚」を見て、アドリア海の孤島に暮らしたいと思ったりした場合に、これを人に言うと、あー、中学生みたい、だとか、男のコだよねえ、とか、いろいろと解釈をされて、そういう解釈をぶつけてくる人はたいてい女性だったので、やっぱ女のコだなあ、だとか、いちいち論評家気取りかよ、などと言い返すなどし、互いに奥襟を奪い合うようなことも、あった。
それがぼくの若さだということには気づいていなかった。
若いということは、分析力が甘く、発言が軽く、決断が早く、見通しが甘いことだ、と、レッテルを貼っていたから、若いということが、「人を評価したがり、自分の評価に噛みつくこと」だなどとは、思ってもいなかった。
若さとは、必要以上に分析し、用もないのに重いことを言い、決断のタイミングが自分の都合であり、見通しが狭いことなのであって、決して若者の分析は甘くないし(ただし偏っている)、若者の言うことが軽いわけでもないし(ただし重すぎるきらいがある)、若者の決断は早くも遅くもあるし(ただしひどく身勝手だ)、若者の見通しは時に深い(ただし偏っている)。
たとえば、「大人はみんなわかっていない」という言葉は、「わかっていても言わない、わかっていてもあきらめるということを選択する人がいるのだ」、ということを、わかっていない人だけが発することができる。
そして、若者はみんなわかっていないからこそ、知らないからこそ、何かを切り開き……
と、必要以上に分析し、用もないのに重い話をはじめた、ぼくはおそらくまだ若い方に入るのだろうし、気持ちだけは若いのよね、と、分析されれば、もちろん、カチンと来て、なんだこのと言い返したりもするし、大人が、中年が、こんなに若いままで勤まるものだとは、正直、知らなかったなあと思うし、やはり中年を定義するには、白髪か下っ腹か息切れかオヤジギャグの切れ味をもってするしかないのではないかと思う。
それがぼくの若さだということには気づいていなかった。
若いということは、分析力が甘く、発言が軽く、決断が早く、見通しが甘いことだ、と、レッテルを貼っていたから、若いということが、「人を評価したがり、自分の評価に噛みつくこと」だなどとは、思ってもいなかった。
若さとは、必要以上に分析し、用もないのに重いことを言い、決断のタイミングが自分の都合であり、見通しが狭いことなのであって、決して若者の分析は甘くないし(ただし偏っている)、若者の言うことが軽いわけでもないし(ただし重すぎるきらいがある)、若者の決断は早くも遅くもあるし(ただしひどく身勝手だ)、若者の見通しは時に深い(ただし偏っている)。
たとえば、「大人はみんなわかっていない」という言葉は、「わかっていても言わない、わかっていてもあきらめるということを選択する人がいるのだ」、ということを、わかっていない人だけが発することができる。
そして、若者はみんなわかっていないからこそ、知らないからこそ、何かを切り開き……
と、必要以上に分析し、用もないのに重い話をはじめた、ぼくはおそらくまだ若い方に入るのだろうし、気持ちだけは若いのよね、と、分析されれば、もちろん、カチンと来て、なんだこのと言い返したりもするし、大人が、中年が、こんなに若いままで勤まるものだとは、正直、知らなかったなあと思うし、やはり中年を定義するには、白髪か下っ腹か息切れかオヤジギャグの切れ味をもってするしかないのではないかと思う。
2016年11月21日月曜日
病理の話(20) 病理医と写真とスケッチのはなし
病理医が、医療者に、「病理診断の根拠」を述べる場合、文章だけでは難解で伝わりにくい。
だから、適切な写真を撮る。マクロ、ミクロと、撮る。この話、病理の話(19)の続きである。
さて、病理の写真は構図が命……というか、「何を主人公にするのか」「何を脇役として写し込むか」がとても大切だ、という話をしてきた。きっちりと構図を考えて撮られた写真には、文章で何行書いても伝わらないほどの意味が内包される。
ただし。
実際に写した写真を、無言で医療者にわたして、
「さあ、いい構図で撮っておきましたから! じっくりと味わって、ぼくが言いたいことを感じ取ってください!」
と、芸術さながらに丸投げすることには、何の意味もない。
ここはアートの出番じゃないのだ。受け手の感性によって、受け手の得られる情報やリアクションが、変わってしまっては困るのだ。
だから、我々は、写真にキャプションをつける。
ここは病変の境界部ですよ、と、写真の上に、色を変えたペンで線を引く。
「ここには、壊死があります」「こちらは炎症が強いです」「ここからは少し、癌の雰囲気が変わっており、より悪いヤツに変貌しています」「周りには、こんな別病変があります」などと、写真に直接、書き込んでやる。
「マッピング」と呼ばれたりする作業である。
マッピングという言葉は、正確には、マクロ写真(臓器を直接写真に撮ったもの)に対して使われる病理用語だ。ミクロ写真(顕微鏡写真)に注釈を書き込む作業もあるのだが、こちらには名前が付いていない。ま、どちらも、「写真にキャプション(注釈・解説)を入れる作業」である。言葉はどうだっていい。
たとえば、医者が患者さんに説明するとき、丁寧に絵や図を書きながら話す場合がある。これと同じように、病理医も、医療者に説明するときには、マッピングなどの細かい手間をかけたほうが、よりわかりやすいし、医療者も納得してくれやすい。
「医療者に対するインフォームド・コンセント(説明して納得してもらうこと)」を行うのが病理医だ。説明は、必要十分な内容を、わかりやすく迅速に、論理立てて行う必要がある。写真をただ見せて、あとは読んで考えなさい、では、だめだ。医療者は納得してくれない。
写真に説明書きを付け加えることを想定して、写真の構図を決める、ということもやる。
多少、ターゲットが小さめに写っていても、解像度がしっかり担保されていればOK。周りに空いた隙間に、説明を書くと、まるで教科書のような(マッピング付き)写真ができあがる。
解説をつけることまで含めての、「病理写真」なのだ。
さて、ほんとうに難解な症例になると、ぼくは、写真のほかに、「シェーマ」と呼ばれる模式図を書く。
シェーマは、スケッチに似て非なるものだ。模式的に書くものであるから、必ずしも正確である必要はないのだが、強調すべきところを強調し、省略するところがあってもいい。大切なのは、受け手が欲しがるであろう情報、受け手に与えたい情報をきちんと盛り込むということだ。意味のある取捨選択をした絵でなければいけない。
決して、「精密模写」ではない。
シェーマを書くには、病理に対する知識が必要となる。知識がなく、精巧な静物写生をすることには、意味がない。
***
昔から、医学部の病理学や組織学の講義では、「顕微鏡のスケッチ」という課題が与えられることがある。今でも多くの大学で導入されたままであると聞く。
ぼくは、あれが、あまりよくないやり方だなあ、と思っている。
病理学の知識もなしに、スケッチをさせるから、医学生の約1/3は、色鉛筆を駆使して見えたものをただきれいに書こうとするし、1/3は顕微鏡を見ながら絵を描く慣れない作業に飽きて、ひたすら病理が嫌いになる。残りの1/3くらいは、最初から「シェーマとして描く」ことをなんとなく理解しているので、大事なところはどこだろうと教科書を見ながら考えたりもする。
1/3にきちんと勉強をさせるために、1/3には勘違いをさせ、1/3は脱落させてしまう、というのは、効率としてあまりよろしくない。
だったら、組織スケッチの時間は、「講師がスケッチをし、それを鑑賞してもらう」時間としたほうがよいのではないか。
プロジェクタで、学生に知っておいてもらいたい腎臓糸球体だとか、サイトメガロウイルスに感染した血管内皮とかの写真を映し出す。肝細胞癌の断面図や、非浸潤性乳管癌のマッピング図でもいいだろう。
これらを、リアルタイムで、教員がスケッチすればいいのだ。それを、学生は「鑑賞する」。
自分が見ている写真を、ただ写実的にうつしとるのではなく、意味を与え、知恵を付与して、「臨床医でもわかるようなシェーマ」にする過程を見れば、医学生も何かを感じる頻度が多くなるのではないか、と思う。
なんでもかんでも自分で手を動かせ、体を動かせという、体育会系の理屈から、一番遠いところにいるはずの医学部教育で、いまだに「知識が不十分なままにシェーマを書かせる」などという非効率的な学習方法を選んでいるのは、ぼくは、無駄が多いように思う。
周りにいる医者はほぼ間違いなく、
「学部時代のスケッチ、何の役に立ったんだろうなあ」
と言う。病理医の人気を下げ、知名度を低くし続けてきた歴史の一端は、「組織スケッチ」によって形成されたのではないかと、ぼくは割と真剣に勘ぐっている。
だから、適切な写真を撮る。マクロ、ミクロと、撮る。この話、病理の話(19)の続きである。
さて、病理の写真は構図が命……というか、「何を主人公にするのか」「何を脇役として写し込むか」がとても大切だ、という話をしてきた。きっちりと構図を考えて撮られた写真には、文章で何行書いても伝わらないほどの意味が内包される。
ただし。
実際に写した写真を、無言で医療者にわたして、
「さあ、いい構図で撮っておきましたから! じっくりと味わって、ぼくが言いたいことを感じ取ってください!」
と、芸術さながらに丸投げすることには、何の意味もない。
ここはアートの出番じゃないのだ。受け手の感性によって、受け手の得られる情報やリアクションが、変わってしまっては困るのだ。
だから、我々は、写真にキャプションをつける。
ここは病変の境界部ですよ、と、写真の上に、色を変えたペンで線を引く。
「ここには、壊死があります」「こちらは炎症が強いです」「ここからは少し、癌の雰囲気が変わっており、より悪いヤツに変貌しています」「周りには、こんな別病変があります」などと、写真に直接、書き込んでやる。
「マッピング」と呼ばれたりする作業である。
マッピングという言葉は、正確には、マクロ写真(臓器を直接写真に撮ったもの)に対して使われる病理用語だ。ミクロ写真(顕微鏡写真)に注釈を書き込む作業もあるのだが、こちらには名前が付いていない。ま、どちらも、「写真にキャプション(注釈・解説)を入れる作業」である。言葉はどうだっていい。
たとえば、医者が患者さんに説明するとき、丁寧に絵や図を書きながら話す場合がある。これと同じように、病理医も、医療者に説明するときには、マッピングなどの細かい手間をかけたほうが、よりわかりやすいし、医療者も納得してくれやすい。
「医療者に対するインフォームド・コンセント(説明して納得してもらうこと)」を行うのが病理医だ。説明は、必要十分な内容を、わかりやすく迅速に、論理立てて行う必要がある。写真をただ見せて、あとは読んで考えなさい、では、だめだ。医療者は納得してくれない。
写真に説明書きを付け加えることを想定して、写真の構図を決める、ということもやる。
多少、ターゲットが小さめに写っていても、解像度がしっかり担保されていればOK。周りに空いた隙間に、説明を書くと、まるで教科書のような(マッピング付き)写真ができあがる。
解説をつけることまで含めての、「病理写真」なのだ。
さて、ほんとうに難解な症例になると、ぼくは、写真のほかに、「シェーマ」と呼ばれる模式図を書く。
シェーマは、スケッチに似て非なるものだ。模式的に書くものであるから、必ずしも正確である必要はないのだが、強調すべきところを強調し、省略するところがあってもいい。大切なのは、受け手が欲しがるであろう情報、受け手に与えたい情報をきちんと盛り込むということだ。意味のある取捨選択をした絵でなければいけない。
決して、「精密模写」ではない。
シェーマを書くには、病理に対する知識が必要となる。知識がなく、精巧な静物写生をすることには、意味がない。
***
昔から、医学部の病理学や組織学の講義では、「顕微鏡のスケッチ」という課題が与えられることがある。今でも多くの大学で導入されたままであると聞く。
ぼくは、あれが、あまりよくないやり方だなあ、と思っている。
病理学の知識もなしに、スケッチをさせるから、医学生の約1/3は、色鉛筆を駆使して見えたものをただきれいに書こうとするし、1/3は顕微鏡を見ながら絵を描く慣れない作業に飽きて、ひたすら病理が嫌いになる。残りの1/3くらいは、最初から「シェーマとして描く」ことをなんとなく理解しているので、大事なところはどこだろうと教科書を見ながら考えたりもする。
1/3にきちんと勉強をさせるために、1/3には勘違いをさせ、1/3は脱落させてしまう、というのは、効率としてあまりよろしくない。
だったら、組織スケッチの時間は、「講師がスケッチをし、それを鑑賞してもらう」時間としたほうがよいのではないか。
プロジェクタで、学生に知っておいてもらいたい腎臓糸球体だとか、サイトメガロウイルスに感染した血管内皮とかの写真を映し出す。肝細胞癌の断面図や、非浸潤性乳管癌のマッピング図でもいいだろう。
これらを、リアルタイムで、教員がスケッチすればいいのだ。それを、学生は「鑑賞する」。
自分が見ている写真を、ただ写実的にうつしとるのではなく、意味を与え、知恵を付与して、「臨床医でもわかるようなシェーマ」にする過程を見れば、医学生も何かを感じる頻度が多くなるのではないか、と思う。
なんでもかんでも自分で手を動かせ、体を動かせという、体育会系の理屈から、一番遠いところにいるはずの医学部教育で、いまだに「知識が不十分なままにシェーマを書かせる」などという非効率的な学習方法を選んでいるのは、ぼくは、無駄が多いように思う。
周りにいる医者はほぼ間違いなく、
「学部時代のスケッチ、何の役に立ったんだろうなあ」
と言う。病理医の人気を下げ、知名度を低くし続けてきた歴史の一端は、「組織スケッチ」によって形成されたのではないかと、ぼくは割と真剣に勘ぐっている。
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