2017年8月31日木曜日

病理の話(116) 物理防御最前線

「防御力を完璧にしておきたい場所」というのが、人体の中にはいくつかある。

まず、皮膚。何を差し置いても皮膚。外的な攻撃をいちばん受けやすい場所だ。

皮膚は「扁平上皮(へんぺいじょうひ)」という強靱な細胞で覆われている。扁平上皮は、ジグソーパズルのようにすきま無く張り巡らされており、しかもジグソーパズルの溝の部分には「タイトジャンクション(がっちり結合)」と呼ばれる接着剤のような機構があり、文字通り水も通さない。

この強力な扁平上皮については、ぼくは「触手が届くところは扁平上皮である」という謎理論を導入するなどして、このブログで何度か書いてきた(触手、すなわち外的刺激が少しがんばって届きそうなところは、皮膚と同じような細胞によってガードされている、という話)。

口の中は、皮膚と似た扁平上皮。まるで見た目が違うように思うが、くちびるだって、扁平上皮で覆われている。なんと、その先の食道も、ずっと扁平上皮だ。胃に届いてはじめて、扁平上皮は姿を消す。

耳の中も。鼻の中も。

膣の中も扁平上皮で覆われている。愛撫で細菌が体内に侵入しては困るだろう。

これらはすべて、外的刺激を跳ね返すために、扁平上皮で覆われている……。




ただ、実は、人体というのはさらに細かい調節を行っている。

それはどこかというと、「尿道」なのである。

尿道や膀胱は、言ってみれば「触手が届く臓器」である。だから本来、扁平上皮で覆われていなければ、外的刺激を跳ね返すことができないはずだ。

しかし、尿道と膀胱(ぼうこう)には扁平上皮はみられない。かわりに、「尿路上皮」と呼ばれる独自の機構を用意している。

なぜ?

人体のあちこちで、「外部刺激が加わりそうなところ」をやたらめったら扁平上皮で覆ってきたくせに。

なぜ尿道とか膀胱だけは、扁平上皮を使わないのか……?



答え。

膀胱は、尿をためてがまんする臓器だから、がんがんに伸び縮みしないといけないのだが……。

扁平上皮は、尿をためるために伸縮する袋(膀胱)をつくるには、「硬すぎる」のだ。伸び縮みしづらい。

皮膚をひっぱってみよう。ほっぺたでもいい、腕でもいい。

多少は伸びる。けれど、膀胱はこの程度の伸縮では困るのである。膀胱が皮膚程度の伸縮しかしなければ、ぼくらはもっと簡単に失禁してしまうだろう。

だから、「扁平上皮にはかなわないけど、扁平上皮に準じるくらいのタイトさを持っていて、かつ、横方向に伸び縮みする細胞」というのを、人体はわざわざ膀胱のために用意したのである。

これにより、扁平上皮よりちょっとだけ防御力が弱くなる。さあ、人体に何か悪影響があったろうか……?

実は、思ったより、なかったのである。理由は、尿だ。

尿は一方通行なのだ。腎臓から、尿管、膀胱と進んで、尿道を通って外に出される。この流れは常に一方向であるため、体外から細菌などが膀胱に入るには、「流れを逆流しなければいけない」。これがけっこうな手間だったのである。

そのため、扁平上皮ほどの防御力がなくとも、尿路上皮程度の防御力さえあれば、外的刺激からの防御は十分事足りたのだ。

膀胱のために用意した尿路上皮は、隣近所である尿管や尿道、腎盂にも張り巡らされている。すなわち、尿が接するところはすべて尿路上皮ということにしてしまった。

これで、基本的に、問題ないのである。人体というのは実によくできている……。




ただし。尿路上皮はやはり、扁平上皮と比べると、少し弱い。

そのため、尿の逆流が起こりやすい状態(尿道が短い女性とか、前立腺肥大によって尿が出づらくなった男性とか)や、全身状態が悪く、免疫が低下している状態では、外界からの刺激を跳ね返しきれなくなることもある。

これが、膀胱炎や尿道炎、腎盂腎炎である。




人体というのはとてもよくできている。だからこそ、複雑な機能を満たすためにさまざまに「分化(ぶんか)」した細胞の、弱みみたいなものを、病気というのはしつこく突いてくる。

逆に言えば、「ある年齢、ある性別、ある状態」である人がどのようなウィークポイントを持っているかをきちんと把握して、「城のここが弱いから、攻めてこられるとしたらここだろう」と予測できる医療者は、診断のスピードがとても速いのである。

2017年8月30日水曜日

札幌市中央区南5条西20丁目

難しい本をゆっくりと読んでいる。

この本の筆者はとても優しい。

「今の文章は、『あの本』が頭に入っているとスッとわかるように書いているんだよぉ」

そうか、そうなんだ! じゃあ「あの本」を読んでからにしようかな!

……とまでは、なかなか、ならない。ぼくは怠惰である。ひとつの本を読むために、前提となる知識を別の本から輸入してこなければいけないとき、申し訳ねぇ、申し訳ねぇと手刀を切りながら、スッとわかるはずのところをズッと読んでいる。



そういえば、符丁、という言葉もあるな。歌舞伎が怖くて見に行けない。宝塚も怖い。劇団四季でぎりぎりだ。関ジャニ∞は無理かもしれない。常連としての知識がないと楽しめない文化がとても怖い。怖いけど、楽しそうだ。

辛いけど、うまそうだ、のカレーの理論と似ている気がする。香辛料を減らしたカレーは甘くておいしい。そして、いつも思う、「いつかは本場の辛いカレーを食べてみたいなあ」。



ぼくはなんだかブログにときどきカレーのことを書いているんだけれど。

そこまでカレーに興味はないんだけれど。




札幌に、「ミルチ」というカレー屋があって、実家からは少し距離があったけれど、生活圏内だったのでときどき食べに行っていた。ここのカレーはうまい。ナンカレーをはじめて食べたのもここだ。

ナンカレーをはじめて食べるときですら、ぼくは激しいハードルを感じていた。もっと言えば、ぼくは若い頃、「店で飯を食べる」こと自体に臆していた。

ミルチに初めて行った日は忘れもしない20代のいつだったか(忘れとるやないか)、おっかなびっくり薄暗い店内に入り、フロアに庭石みたいに点在するテーブルのひとつに付いて、おばちゃんがメニューを取りに来るのを待った。

おばちゃんは言った、「いらっしゃいませ」

ぼくは答えた、「ど、どれがおすすめですか」

おばちゃんは目を少し開いてこう言った、

「上から順番でいいと思う(笑)」




ぼくはこの、「常連でない人間をうまく救うセリフ」に、人生の中で何度か救われている。




ツイッターをはじめとするSNSには符丁が多い。

SNS素人なのでよくわかりませんが、という言い訳からはじまるリプライをいただくこともある。

SNSは歌舞伎座みたいなもので、ある程度知ってからじゃないと楽しめない側面がある。

でも、ブログは、ミルチであったらよいなあと、ぼくは忘れもしない昨年の秋の確か9月か10月ころに、思ったのだった。忘れとるやないか。

2017年8月29日火曜日

病理の話(115) 診断とキュアとケア

「なぜ診断するのか」を考えないと、医療はいろいろわからなくなってしまう。



「診断? それはともかく治療してくれよ。治さなければ病院の意味がないだろう」

この考え方は極めて妥当である。患者が医療に求めているのはひたすら治療だ。ぼくら医療者だって、いざ自分が病院にかかることになれば、心の底から「早く治してくれぃ」という気分になる。

それが「普通」である。

ただし、医療の「普通」は、社会の文脈と共に少しずつ移り変わっている。

それに気づかないままではいられない。



かつて、ひとつの病気はそのまま、死への切符であった。

足にケガをすれば、歩けなくなり、正常の暮らしが遅れなくなり、ケガをした部位に細菌がつき、全身に回ってそのまま命を奪われた。

胃にできものができれば、それはそのまま大きく広がり、ご飯が食べられなくなり、栄養が奪われ、衰弱して死に至った。

関節リウマチは人の生活を著しく不便にした。ひとたびリウマチだと診断されれば、その中年はもはや老年と同じような生活をしているかのような気になり、自らの人生を悟った。

しかし、抗菌薬によって感染症が制御されはじめ、外科手術によって腫瘍の根治という概念が生まれ、さまざまな内服薬によって内科的疾患が「命までは奪われない」状態へと封じ込められるようになると、病気の概念もまた少しずつ変化してゆく。




かつて、ピンピンコロリという言葉があった。

ピンピンコロリはひとつの理想である。死ぬ直前まで病魔を意識せずに人生を謳歌し、あるとき心臓や脳の血管が詰まって本人も気づかぬうちにコロリと亡くなってしまう、江戸っ子でいうところの「粋」な人生……。じわじわ死ぬような病気はいやだ、死ぬならひと思いにやってくれ。

今でもこの死に方を望む人は多い。苦痛を伴った死を回避するための方策がほとんどなかった昔は、もっと多かった。けれど、現代医療では、人生のゆるやかな着地をある程度準備することが可能である。苦痛を軽減させながら、軟着陸するように「死を準備する暮らし」。

コロリと死んでは困るんだよな、と思う人だっている。




一病息災、という言葉もある。人間、ひとつ病気にかかると、病気をなんとかしようと病院にかかるが、その結果、他の病気に対する監視の目が強くなる。ぐうぜん他の病気を発見して、治療できてしまうこともある。

あるひとつの病気を持つことで、健康への意識が目覚め、医療の関与も頻繁になるために、かえって長生きできることもある、という、ライフハック。それが、「一病息災」である。





病気という言葉は、もともと、生死を予測するだけの言葉だった。死ぬか、生きるか。

しかし、今は違う。ある病気Aが、進行度B%であるという「現状」次第で、その後の人生があまりにも多彩に展開しうる。

もはや病気とは「終わり」を意味する言葉ではない。「今」を表す言葉だ。

死神というよりは背後霊。さらには、(一病息災のように)守護霊のような存在ですらありうる。



治療ができれば生? 治療ができなければ死?

たとえ病気を持ったままでも、病気とともに100年生きることができるならば、その病気は「治ってなくてもかまわない」。

生と死の中間に病気という状態があると考えることもできる。

「病気という状態は生を否定しない」。




そうなると医療のあり方も変わるのである。

キュア(病を完全に治癒させること)だけが目標ではない。

キュアと共に、ケア(病をもったまま、よく生かすこと)が、現代医療の根なのである。




「診断ばかりして、病気を治せない医者に、価値があるの?」という人々に、ぼくは沈黙する。

「病気の治らない人生に価値があるの?」という問いと同じ根を持つこの質問を、真っ向から否定できるほど、ぼくは子供ではない。その気持ちは、極めて妥当だからだ。

ただ、心の奥底で、静かにつぶやく。

「診断とは、死を推測するだけのものではなく、生の有り様を識ることなんだ。生を識ろうとすることに、価値がないわけがない……」。





今あなたがどういう状態にあるか。診断。

今のあなたをどう生かすか。ケア(維持)。

願わくば、悩みのタネよ、消えてなくなれ、なくなったらいいな。キュア(治療)。

誰もがキュアを望む。けれど、これからは、キュアと一緒にケアを考える時代だ。そして。

生か死かの二択ではない。

「どのような生か」を見極める、「診断」の価値を知ってほしい。




病理診断医は100%を診断にささげる職業である。だから、診断に価値があると唱えることは、ある意味手前味噌かもしれない。

それでも。

多くの人々にとっての医療が、いろいろわからなくならないように。

キュアとケアを見据えて、「なぜ診断するのか?」を考え続けることは、やはりぼくらの仕事だよなあ、と思うのだ。

2017年8月28日月曜日

グラとハム

カメラを買ったまま何も撮らずにいる時間は幸せである。

ああ、次、あそこに行くとき、カメラを持って行こう。そう心に抱いて過ごすことができる至福の時である。

これはなんというか、「将来を見て、うれしくなる」という感情だと思う。

反対に、来月頭には試験があるなあ、とか、来週はプレゼンを2回しないと、みたいに、将来を見てつらくなることも、ある。

これらの相反する気持ちは、もしかすると、「同じ脳の回路」に、「違う液体」を流し込んだだけの、表裏一体とも言える感情なのではないかな、と考えている。


同じ回路に違う液体を流すという表現は、さまざまに応用することができる。同じ方程式に違う数値を代入する、でもいい。ぼくはそういう、「なんらかの変換を行うシステム」というのに若干興奮するあぶない性質を持っている。

たぶん、「ブラックボックスの中を開いてみたいという欲求」よりも、「ブラックボックスの中を見ずに、何をぶちこんだら何になって出てくるのだろうという好奇心」のほうが、ちょっとだけ強い。そういう性格を持っている。

きれいな絵がくるくると移り変わる、万華鏡のようなものをずっと眺めていたい。自分がそのとき単純に、おっすごいなあ、何かが起こったなあ、思いも寄らないことになったなあ、きれいだなあ、とはしゃいでいられたら最高だ。


ただ、結局のところ、ブラックボックスフェチはそのまま、ブラックボックスを開けたり、あるいは作ったりする世界に、片足をとられる。中には興味はない、と言っておきながら、結局ふたを開けてしまう。もう引き返せない。

どんな法則を作ったら、どんな突拍子もないデータが出てくるのか。とても気になる。

どんな法則にのっとって、世の中が動いているのか。開けてみたくてしょうがない。

どんな法則を用意したら、自分の入れたモノから自分のほしいモノを取り出すことができるのか。考えるだけでわくわくする。



小林銅蟲「寿司 虚空編」を読みながら、そんなことを思っていた。

ぼくの回路にはもう病理学を流し込んでしまったから、数学を流したときのおもしろさはたぶん来世にならないとわからない。あるいは回路自体が全く異なるようにも思う。

それでも、読んで雰囲気を感じることができるなんて、ことばというのはほんとうに罪作りだと思う。ぼくは自分の回路と液体が世界に唯一の、最高のとりあわせであると、誰かにだまし続けていてほしかった。いいなあ、そっち、楽しそうで、うらやましい。

2017年8月25日金曜日

病理の話(114) 安楽椅子探偵どうしの集い

臨床医がやってきて、「研究会」の相談をした。


研究会というのは独特の文化である。


たとえば胃カメラ、たとえば腹部CT、たとえば超音波といった、「画像で臓器のなんたるかを見てやろうという検査」があるとする。画像にはさまざまに、病気の姿が映し出される。

ただし、その姿というのは、究極的にはかならず「影絵」である。そのもの本質までは絶対にみることができない。

医療というのはなんでもそうだ。心臓に詳しい医者が、心臓の病気を治すとき、心臓を取り出していじって治すことはできないだろう。「取り出して」しまってはいけないのだ。そこにあるがまま、胸の筋肉や脂肪や骨という障壁を乗り越えて、外から中を想像して、おもんぱかって、薬なりなんなりを投与して、治す。

医療とは基本的に安楽椅子探偵なのである。現場までは赴かない……というか、赴けない。あくまで遠隔地にいて、そのものがどうであるかを推理し、直接手を触れることなく、対策を施す。

「えっ、胃カメラだったら病気を直接見てるんじゃないの?」

「皮膚の病気なら直接見られるじゃん」

これもまた、一面の真実ではあるが、正しくはない。胃カメラで見えるのは、病気の表面だけだ。皮膚の病気だって、外から見た模様の違いしか、直接見ることはできない。

「中でどうなっているか」はわからないのだ。




だから、医療者というのは、常に不安である。

見てきたかのように診断したけれど、ほんとに合ってたんだろうな……?




これをなんとかしようというのが、いわゆる「画像系の研究会」である。

胃カメラ、腹部CT、超音波……。実際に患者さんに当ててみて、得られた画像を、主治医だけでなく、多くの医療者が眺めて、それぞれに意見を言う。ここにはこれが映っている、ここは見逃してはいけない変化ではないか、これはちょっと珍しい画像だなあ。

ここに、病理医も参加する。




病理は、病院の中で唯一、「実際に採ってきた臓器を見られるところまでとことん見尽くす」部門である。胃の病気だろうが肝臓の病気だろうが乳腺の病気だろうが皮膚の病気だろうが、手術で採ってきたからには、あるいは一部をつまんできただけであっても、表面、割面、内部性状、細胞のなんたるかまでとことん見てしまう。

つまりは画像で予測したものの「答え」的なものを提示できる、唯一の部門であるということだ。だから、たいてい研究会には「答え合わせの役割」として呼ばれることになる。

ただし……。




ピアノの音が聞こえてくる。ああこれはドとソの和音だなあとわかった人がいたとする。ドとソであると言い当てるだけではなく、実際に奏者がどの鍵盤を叩いているかを予測することができる。

画像から病気の正体を予測するというのは、これだ。

影絵を見て元の絵を当てる、みたいな単純な作業では、必ずしもない。

ドとソは、右手で同時に弾かれているかもしれないし、もしかしたらボールペンで押されているかもしれない、足の指で弾いているかもしれない、これらは音を聞いただけではなかなかわからない(わかる人もいるかもしれないが)。

病理というのは、この、「ああ、足で弾いているなあ」というのをずばり言い当てることができるのだが、往々にして、

「足で弾いてますねえ、まあ、どの鍵盤を押しているかはわかんなかったんですけど」

なんて回答を出すことがある。

臨床医は、ドとソという音を聴いており、病理医は、足で鍵盤を叩く姿を見ている。

……これらは、噛み合っているようで、噛み合っていない。

どちらがほんとうに、患者さんにとって大事な情報であるのかは、ケースバイケースである。「ドとソである」方が重要なケースが多いが、「足で弾いている」方が重要なケースだってあるのだ。




病理医が研究会に出る時、そこに求められているのは、「答え合わせをする」という役割では、ない。

ひとつのものを、下から見るか、横から見るか、それによって何か深みが表れないだろうか、という試みに参加するということである。

ぼくらは一つの打ち上げ花火を、瞬間の楽しみで終わらせてはいけない。

どこまでも見て、話していく。花火の残響がすっかり消え去って、煙もかききえてしまった後も、花火の写真を見ながら、あれはこういう花火だったんだなあ、と、どこまでもどこまでも研究していくのである。

2017年8月24日木曜日

Vガンダムのヒロインが定規をもちました

経口補水液「OS-1」の側面表示を見てみると、

「医師から脱水状態時の食事療法として指示された場合に限りお飲みください。医師、薬剤師、看護師、管理栄養士の指導に従ってお飲みください」

とある。ぼくは医師だけど、「指示されてない」から飲めない(ということになる)。あるいは、鏡に向かって、自分で自分に「飲め!」と指示していいものなのだろうか。

二日酔いの日にコンビニで買って普通に飲んでしまった。飲んだあとに側面表示に気づいて、あっやべっとなった。

杓子定規に、そういうことである。





昔、アゴにできた小さな粉瘤(ふんりゅう)を、うちの病院の皮膚科にかかって採ってもらったことがある。局所麻酔で10分くらいで採ってくれた。

粉瘤とは「できもの」であるが、厳密には腫瘍(しゅよう)ではない。詳しくは説明しない。まあ採ってしまえば安心、というか、ぼくの場合は、見た目的に困っていたのが気にならなくなる、くらいのものであった。

病院で体から採ってきたモノは、ほぼ例外なく、病理検査室に運ばれて、病理医が診断することになる。

ぼくは自分の体から採ってきた粉瘤を、自分で処理し、自分で顕微鏡で見た。

……ただ、ここで気づいた。たしか、医者というのは、自分で自分の診断をしてはいけないのではなかったか?



たとえばぼくが呼吸器内科医だったとして、自分にぜんそくやアレルギーの薬を処方することはできない。そんなことをしたら、ほしい薬をいくらでも手に入れられてしまうから、と言われている(たぶんほかにも理由はある)。胃薬とか頭痛薬のようなものも、自分で気軽に手に入れることはできない。睡眠薬もだ。

それは厳密なルールである。

ただ、病理医はどうなのだろう。病理診断はどうなのか。

病理診断とは立派に保険診療に組み込まれたシステムであるから、やっぱり自分の病気を自分で診断するのはまずいのかもしれない。

ほんとうは法律とかをちゃんと読むと書いてあるのかもしれない。けれどいろいろめんどうになって、ボスに診断しなおしてもらうことにした。

杓子定規に、そういうことを気にした。





「荒野の赤信号で止まるか」みたいな例え話をよく聞く。ぼくは荒野の赤信号を見たら止まるだろうか。

たぶん、電線がどこから引かれているのかが気になって、もう信号どころではなくなって、いつのまにか青信号になっているだろうな。

ルールを守ったときに出るアドレナリン、みたいなのがあるのかもしれないなあ、と思う。

「ルールに縛られたくない」みたいなことを言うやつはコドモだ。

ぼくはオトナだから、縛られても気持ちいい瞬間を探すのである。ちょっとニュアンスが変わった気がするが。

2017年8月23日水曜日

病理の話(113) 病理医と新しいコミュニケーションのかたち

「病理医は客商売である」と感じる瞬間がけっこうある。



大学院を出て、今の病院に勤めてから、すなわち現場のいち病理医として働き始めてからは、その思いが非常に強くなった。

学生時代や大学院時代までは、病理診断とは「脳だけで働く仕事」であり、手技も処置もしないで、ひたすら顕微鏡と語り合う、沈黙のタスクだと思っていたが、実際には

・クライアントがいて
・何かを要求され
・プレゼンをして
・納得してもらう

という仕事であった。

クライアントとは医療者である。要求とは「この人の病気を詳しく知りたい」ということ。プレゼンとは病理診断報告書やカンファレンスでの説明である。




多くの医療者は病理医に言う、「患者を相手にしない仕事だから~」「患者を相手にしない仕事はいいよな~」「患者を相手にしない仕事でモチベーション保てるの~」……。

ぼくらは、患者と全く相対しないが、医療者を相手に仕事をしているのだ。心配には及ばない。





ただ、病理医の中にも、違う考えの人はいる。

「顕微鏡だけ見ていれば仕事ができる」と考えている病理医も実際にいる。

そういう病理医が勤める病院では、かなりの高確率で、

 ・臨床医が病理医に興味がない

 ・病理医も臨床医に興味がない

という、ウィンウィン? の関係が成り立っている。

それでも医療は回る。それでも患者は治る。

だから、ぼくは一概に、「人とのコミュニケーションを放棄した病理医は悪である」とは思っていない。




毎日おいしいものを食べなくても生きていける。

しょっちゅう楽しいテレビを見なくても暮らしていける。

どこかに旅行に行かなくても人生は続く。

病理医がコミュニケーションしなくても臨床は回る。





ぼくは、「患者とのコミュニケーションに自信がない人」に、病理医になってはどうかと勧めることがある。その人と話す。患者と話すのは辛いか、苦しいか、自分に合わないか、いろいろと聞いてみる。

最後に、「でもまあ、今こうして、ぼくと話す分にはそこまで苦しそうじゃないよね、あなたは」と問いかけてみる。

「まあ、患者でなければ、はい、それなりには。」

「だったら、あなたは医療者と会話する道を選べばいいように思う」





患者とのコミュニケーションと、医療者とのコミュニケーションでは、使うスキルが微妙に異なる。得意、不得意のありようも少し違う。

医療者とのコミュニケーションが辛い、というタイプの医者もいる。

ただし、ぼくは思う、顕微鏡をみて組織像とコミュニケーションすることができる人間であれば、きっと医療者とのコミュニケーションだって、たどたどしくも続けることはできるだろう、と。

上手じゃなくてもいいので、会話をしてほしい。

たまにでいいので、医療者と会話をしてほしい。





病理医は客商売である。ただしその客は身内である。比較的、寛容な身内である。

そういう世界があることを知っておいてほしい。医学部にいる、1%くらいいる、君のような人、早朝にツイッターのリンクからブログを見に来るような人に。患者じゃなくていい、医療者を相手に話せばいい、なんなら細胞や分子と語り合うのでもかまわない。

コミュニケーションは社会がいうほど一様なスキルではないということを、少なくともぼくは知っている。

他人の定義した「コミュニケーション」がへたであっても一向に構わない。

もっと広義のコミュニケーションを試してみてはどうか。

病理検査室ではそれができる。