2018年9月28日金曜日

病理の話(247) 斬鉄剣の限界

ものを観察するとき、我々は知らず知らずのうちに、見るべきターゲットに「フォーカス」をあわせている。

目ってのはほんとすごいね。

シャッと横向いたらビシッとカレンダーにピントが合うもんな。

9月28日は金曜日かあ、そう確認したあとに、手元に視線を移せば、今度はバキッとスマホ画面にピントが合う。



さらに付け加えれば、このピントは「点」であわせているわけではなくて、「ある程度の奥行きの情報をまとめてあわせている」。

カメラをやっている方向けには「被写界深度」という言葉を用いればわかりやすいだろう。

レンズが広角気味だったり絞りをしっかりかけていたりすると、手前から奥まで幅広くピントがあう。これを「被写界深度が深い」と表現する。

たとえば札幌時計台の前で記念写真を撮ろうと言う時に、手前にいる自分にだけピントがあって奥の時計台がぼけてしまっては記念写真にならない。

手前と奥、両方にピントが合うような撮影をすることで、記念写真というのは成り立つ。

そこらへんを調節するためにカメラマンはレンズを入れ替えたり絞りをいじったりするわけだが、人間の目はこれを一台(?)でやってしまうわけだからすごい。




で、今日の話はここからである。




胃カメラを使って胃粘膜を観察するときの話。

最近の胃カメラというのはほんとうによくできていて、粘膜にぐぐっと近づいてズームをあげていくと、粘膜の中に走っている細かな毛細血管の走行まで観察することができる。

人間の体には、至るところに毛細血管が張り巡らされている。胃粘膜だって同じだ。

あなたが指とか手とか腕のどこをカッターで切っても必ず血が出てくることからもわかるように、毛細血管というのはほんとうに無数に走っている。

毛細血管が無数に走っている理由は、全身の細胞にくまなく栄養を配るためだ。

皮膚に栄養をしっかり運ぶ。

胃粘膜にだって栄養をきちんと行き渡らせる。

今、ここで、胃粘膜にがんができると、がんだって栄養を欲しいので、正常の細胞と同じように、毛細血管を利用する。

がんというのは慎みがない。正常の細胞がつつましやかに栄養をとっているのとは異なり、とにかく毛細血管からやたらめったら栄養を奪おうとする。

このため、血流量も変わるし、血管の構造自体も変化するし、とにかく、「毛細血管が変化する」。整然と並んでいた毛細血管のネットワークがぐちゃぐちゃに変わってしまう。

胃カメラをのぞくドクターは、この「毛細血管の変調」をみることで、がんがそこにあることを判断する。 (※数ある診断方法の1つです)




さて、胃カメラでぐちゃぐちゃに見えていた毛細血管は、病理医にはどう見えるのだろうか。

胃粘膜をプレパラートにして、顕微鏡でのぞくと、毛細血管がばっちり見えるだろうか?




実はこれがとても難しいのだ。

理由は、「病理のプレパラートには奥行きの情報がほとんどないから」。



プレパラートを実際にみたことがある方はわかると思うのだが、プレパラートに載っている組織というのはとにかく薄っぺらい。向こうが透けて見えるくらいだ。具体的には約4マイクロメートル。ほとんど透明になるような激しい薄さで標本をつくり、そこにHE染色のような技術で色をつけて観察をしている。

プレパラートの世界の奥行きは4マイクロメートルしかない。

となると……

縦横無尽に走っていたはずの毛細血管(太さは5マイクロメートル~10マイクロメートルくらいのものが多い)のほとんどは、ネットワークとしては観察されず、

「断面」

としてしか観察できない。




あなたの頭の中に、漁師が使うような網を思い浮かべてもらいたい。

これをぐしゃぐしゃにまとめて、ボールをつくる。

つくった?

ぐっしゃぐしゃの編み目。

ここにルパン三世の一味の石川五ェ門を呼ぶ。

斬鉄剣でこの「網の球」を、ズバリと切ってもらう。

断面はどう見える?




ネットワークに見えるだろうか?

違うね。網の断面ばかりが並んで見えるのだ。

ランダムに全方向に走っている網は、うすく2次元に切り出すと、高確率で「断面」になってしまう。

ほんとうに運良く、4マイクロの切片と全く同じ方向に走っていた血管だけが、プレパラート上で「まっすぐ、血管として」見える。




そう、現代の病理組織診断における限界がこれなのだ。

薄切(4マイクロメートルの薄さに処理すること)により、3次元だった情報がほぼ2次元にまで落とされてしまう。

だから、3次元構築を見極めることがときに難しくなる。

胃カメラをのぞいたときに、被写界深度の分でうまく見えていた血管網が、プレパラート上では容赦なく断片になってしまうので、「胃カメラで何がどう見えていたのか」を直接プレパラート上で考えることが極めて難しい。




……まあ病理医もそんなことは先刻承知なわけでね。

実は3次元の情報をプレパラート上から読み取ることもできなくはないのだが……かなり専門的な話になってしまうので、今日のところはこれにて。

特性さえ知っていれば、恐れることはない。弱点というより性質なのである。

2018年9月27日木曜日

月は無慈悲な商売情報

月旅行に行きたいかという話をしていた。好き勝手な意見が並ぶ中、ひとりの冷静な人間が

「おいしいご飯屋さんがなく、圧倒的なインスタ映えだけをほこる、安全ではない観光地でしょ? ひとそれぞれだね」

と言って、居合わせた人間全員が

\そうだな そのとおりだ/

と学芸会のように納得して会話が終わった。




ぼくはちょっと月に行きたいが、それ以上にチェコに行ったりドイツに行ったりしたいし、五島列島でうどんを食べたいし、富士山にもまだ登っていない。ワインを飲み始めた人がいきなりロマネ・コンティを飲んでも味がわからないだろうというのといっしょで、いきなり月に行く前にまず見ておきたいものがいっぱいある。

けれどもぼくは月旅行のニュースをみて、いいな、行きたいなあと思わずつぶやいてしまうほうの人間でいたかった。

なにも計算をせず、行動がもたらす影響をおもんぱかったりせず、その場の直感でスッと選択をしても誰かがそっと尻拭いをしてくれるような、「人に生かされていると知るよしもないバカ」でいたかった。

財布をのぞきこむ。ウェブバンクの残高をみる。

月に行くには貯金が3ケタか4ケタか足りない。何ケタ足りないかすらぼくにはわからない。

ほうっと息を継いで次の休みに思いを飛ばす。SFでも読むか。

2018年9月26日水曜日

病理の話(246) 石田三成ツイッターアカウントも嘆いている

たとえば、胃カメラをして、胃の中に何かちょっと色の変わったふしぎなシミみたいな場所があったとする。

それはただの胃炎かもしれない。けれども、がんかもしれない。

胃カメラを行った内視鏡医は、さまざまな方法で、その病気がいったいなんなのかを予想する。

胃炎なら胃炎の治療を。がんならがんの治療を。

診断をきちんと決めないとその先に進めない。

そして、胃カメラの先から小さなマジックハンドを出して、色のかわったところを「小指の爪の切りカスくらい」、ちょっとだけつまんでとってくる。



これが病理検査室に運ばれる。

小さな検体を、ロウのようなものでかためてブロック上にし、プロフェッショナル仕様のスーパーかんなでペラッペラに薄く切り、向こうがすけてみえるくらいの断面を得て、それに色をつけて顕微鏡でみる。

すると細胞がみえる。

病理医はこの細胞をみて、胃カメラを行った内視鏡医の話を聞き、なんなら胃カメラを一緒にみて、「すべての情報をもとに」診断をくだす。

胃炎であると。あるいは、がんである、と。




さて病理診断というのはだいたいこのような流れで行われるわけだが、人体からとってくるモノは何も毎回小指の爪の切りカスみたいなサイズでとどまるわけではない。

たとえば胃をまるごととってくることがある。

もうすでに、胃がんと診断されている人の胃を、治療目的にとってくる。

この胃もまた、病理医によって顕微鏡診断されるわけだが……。

胃はどうやってプレパラートにするのか?

石川五ェ門の斬鉄剣みたいなやつで何千枚もの細切れにするか?

そんなにいっぱいプレパラートを作っていたら、病理医がいまの10倍いても足りないだろう。




大きな検体をとってきたときには、その「どこをプレパラートにしたら一番情報が増えるか」というのを計算した上で、一部分だけをプレパラートにする。

胃がんの治療のためにとってきた胃であれば、どこかに「カタマリ」とか「へんなかたちの色変わり」とか「でこぼこ」があるはずだ。

そこにはがんがいて、胃壁の中にしみ込んでいたり、周りに広く拡散していたりする。

すべてをプレパラートにするのではなく……。

まず、「目で見る」。マクロ情報で診断をはじめる。

十分にみる。大きさ、高低差、表面の模様がでこぼこなのかつるつるなのか、ぷちぷちした顆粒がみえるか、光があたったときの反射はどうなっているか、色調はどうか、持って曲げてみたときに固いか、押したらへこむか、周囲の正常の胃とくらべてどう違うか……。

「顕微鏡をみる前」の、このマクロ診断の段階で、実に病理診断の90%は終わっている。

それくらい、目で見る診断には力がある。

その上で、「ここだけはどうしても顕微鏡でみるべきだ。がんが一番力をもって、周りに今まさに攻め込んでいこうとする、勘所がここにあるはずだ!」と判断をして、その部分だけを切って取り出す。



これを切り出しという。




ちかごろ、ぼくはこの切り出しを、「戦場カメラマン」に例えている。

現代の戦場でなくてもいい、たとえば関ヶ原の戦いの時代にカメラマンがいたとする。戦場報道に命をかけるプロフェッショナルだ。

彼は広い広い関ヶ原で、東西にわかれた大軍が、どこでどう激戦を繰り広げているかを、まず俯瞰して調べる。

ドローンを飛ばしてもいい。

そして、この戦いをあとで記載する上で、どこにフォーカスをあてて写真をとったら、見る人が一番納得するかを考えて、そこに走っていって写真をとるのだ。

戦争の間、すべての戦場を写真にとることはとてもできない。戦況だって刻一刻と変わる。

常識的なカメラマンであれば、徳川家康と石田三成の本陣をまずはおさえようとするであろう。両者の顔色を写真にとっておくだろう。

さらに、東西の主力同士が激突している主戦場については、必ず写真を撮るだろう。これぞ戦争だからだ。

そして、勘所がよく、ピューリッツァー賞をとるような奇跡のカメラマンは、小早川秀秋に接触してその動きを写真に撮るに違いない。



「……関ヶ原が始まった時点で小早川秀秋に目を向けることができるわけないじゃん。それは後世の人がわかって見るから言えることだよ。」




がんを診断するというのも結局そういうことなのだ。

振り返ってみれば、「あの部分を観察していればその後の転移が予測できたかもしれない」なんてこともある。





切り出しというのはカメラマンがどこを写真に撮り、視聴者に何を伝えるかを決める、もっとも大事な作業である。

病理診断医の給料の半分はこの「切り出し」に払われているといっても過言ではない。

2018年9月25日火曜日

デッドオアライブハウス

本とラジオの暮らしに何の文句もないのだが、ときに演劇とかライブであるとかそういった場所へのあこがれがふつりとわいてくることがある。

大きめの箱の中で空気がそよそよとゆらぐような気持ちを味わいたいときがある、と言ってもいい。

大自然の風に吹かれたいとか人智を圧倒する景色の中に埋もれたいという欲望もないではないが、部屋でひとりでいる孤独と、地球のでこぼこの中にひとりでいる孤独と、どちらか両極端しか楽しめないというのはちょっとつまらない。

その中間の孤独に対する思いがときどき強まる。

人を隠すなら人の中。

人がほどよくいる場所に紛れ込み、まわりのため息が聞こえる場所で自分もほうっと心をなでおろしてみたい。本でもラジオでもなく、グランドキャニオンでもグレートバリアリーフでもなく、劇場とかライブハウスに紛れ込んで静かにうつむいていたい。




よく言われることだが、以上のような欲望を満たそうと思うと東京という場所がとにかく圧倒的に便利である。ぼくの住む札幌だって大都市であり、しょっちゅう劇団が公演をしているし、音楽のイベントだって毎日開催されてはいるのだが、質はともかく量は東京の100分の1くらいだろう。「無数にあって経営が成り立っている」というのは強い。普通そうはならないからだ。札幌に同じ数のイベントがあったとしても絶対にペイしないだろう。

大阪、神戸、福岡あたりの人と話をしていても、最後には同じ話になる。

有象無象が新陳代謝しながらひたすらアクトしているってのは東京だよな、と。

消えてなくなりたいような気分のときに、実際に消えなくても、人の中に紛れて事実上消えてしまうことができるのは東京だけだよなあ、と。




誰が降りるんだこんな駅、というところで100人くらいがうごめいていた。

誰が入るんだこんな雑居ビル、みたいな場所に、誰がつけたんだこのフスマ、みたいな引き戸(なぜだ)があって、誰が塗ったんだこの壁を横目に、誰が産んだんだこの男みたいな人に金を払って、誰が見るんだこんな演劇、を座って眺めている人間が40人くらいいる。

ああ、贅沢だなあと思う。多くの場合、そういう演劇はつまらない。けれどもときに自分のつまらない部分にめちゃくちゃにヒットするときがある。出演者たちのあれとあっちは付き合ってるんだろうな、みたいなのが見えたり、演出家という名刺を持っているのであろうフリーターが裏で何本も電話をかける声が一番神がかった演技を披露していたり、災害のときにはこちらからお逃げくださいというアナウンスのあとに非常灯をみたら完全にぶち壊れていたりする。ああ、贅沢な時間だなあと思う。

人生はかけがえのないものだからこそ、かけがえのない一瞬に、かけがえのない一期一会を、もりにもってかけにかけて、うっかりかけ違えたような日に雑踏の中で、ああ、今日は生きたなあ、と不満足する。



そういうテンションで飲み食いに行くとたいてい外れる。そして札幌に早く帰りたいなあと口走ってしまう。店内の32人中32人がもう帰りたいとつぶやいている。

2018年9月21日金曜日

病理の話(245) このあたりから病気と大河ドラマの関係を考え始めていたとわかる記事

ここだけの話だが教科書を書いている。

するとどうなるかというと、「病理の話」を更新するネタが尽きるのだ。

だって病理の教科書だから。

それこそ、「病理の話」を総括するような本になるわけだから。

ブログのネタは尽きる。



……と思っていたのだがそうでもなかった。

実は本を書き始めたのはかなり前のことである。

ふつうにブログのネタが毎回出てくる。

病理の話というのは多角的すぎて、1,2冊本を書いたくらいではとうてい書き尽くすことはできないのだった。

それはそうか……。

60兆とか100兆とかあるといわれている細胞、それぞれが勝手に働いて、ひとつの「人体」という都市を形成しているとすると、人体という都市は私たちが今暮らしている地球そのものよりもはるかに大きなメガロポリスということになる。

街をモチーフにした創作物が書き尽くされることはない。

アド街ック天国がすべての都市を紹介し追えて最終回を迎えるなんて考えられない。

ブラタモリ的なアプローチもあれば、もやさま的なアプローチもある。

都市という巨大な複雑系を語ることは永遠に終わらない。

人体もいっしょだ。

人体に発生した犯罪を記した事件簿は永遠に完結しない。

コナン君がちっとも最終巻を迎えないのにも似ている。



ここだけの話、ぼくの書いている教科書には、今までブログで書いた内容も何度か出てくる。

ただ、ぼくは自分の記事をほとんど読み直さないので、「引用」しているわけではなくて、「そういえば昔こんなことも考えたなあ」という感じで同じ事をくり返し語っているにすぎない。

それも悪くはないかなあと思っている。NHK大河ドラマだって、関ヶ原の戦いを何度も何度も描いているけれど、毎回新たな感動があるだろう。




そうか病理の話というのは確かに大河ドラマ的だなあ。

みんなが知らないことも、多少は知っているけれど詳しくは知らないことも盛り込んで、いつまでもいつまでも続いていくのだ。

となると病理の話を書き続けるうえでは、都市もののバラエティ番組とか、歴史物とか、あのへんの演出方法が参考になるのではないか……。

というあたりを今考えている。

2018年9月20日木曜日

新作7泊8日セール

「こういう話、本当は言いたくないんだけど、誰かが言わないといけないことだから、言わせてもらう」

という前置きで語り始める人はたいていいつだって「言いたい人」だ。

「本当は言いたくないんだけど」をつければ自分の過激な発言や説教めいた発言、上から目線の発言が免罪されると知ってしまったから惰性で付けている。

ぼくにもそういうところがある。



たとえば今の、「ぼくにもそういうところがある。」は、ぼくの得意技だ。

誰かほかの人を非難するときに、「ぼくにもそういうところがある。」とひと言付け加えるだけで、そうか自戒しているのか、だったら苦言を呈していてもよかろう、と、人々の目を優しくそらすことができる魔法のフレーズなのだ。

「自戒しておきたい。」を最後に付けるのも効果がある。

「誰かもかつて言っていたことだが」というのも使い勝手がよい。



形式にハマった言論が目に付くようになった。おそらく、ワンフレーズに力のある人のことばが昔よりも遠くまで届くようになったことと関係がある。同時に、長く難しい文章を最初から最後まで読まないと伝わらないような論考は以前よりもさらに伝わりづらくなった。

「以前よりもさらに」。

「伝わりづらくなった」。

これらもすべて定型文である。ぼくの作文は徹頭徹尾、「借文」になっている。




「枚挙にいとまがない」はたいていすぐに数え終わる。

「今後も継続して考えていきたい」の瞬間に考察が終わる。

「戦い続けていくしかないのだ」と言いながら休んでいる。

「一人一人の力が小さくても」と語る人は自分の力が大きいと信じている。

「いつか伝わると信じて」に強い同調圧力がある。

「人はわかりあえない」をわかって欲しくて書いている。




心を直接揺さぶることばは突然矢のように飛んでくる。

「心を直接揺さぶる」なんていう陳腐なフレーズとは次元が違う。

「ほんとうのことば」を使いこなす人と実際に会ったことが何度かある。

そのとき、自分の口からリアルタイムで出てくることばに愕然とした。今でも辛い思い出だ。手汗が反応する。

自分が選ぶことばがどれもすべて、レンタル期限がとっくに過ぎているものばかりなのだ。空気が氷室のように冷えていく。外気と混じって氷がとけて、みやみずにうでわを付けて、ひのえさまに怒られる。




借り物のことば、かりそめのオリジナリティの中で、まれに出会う尊敬すべき人たちと語ることばがわからない。このわからないところがまさにぼくのアイデンティティなんだろう。

「わからないところがまさにぼくのアイデンティティなんだろう」を、たぶん一度どこかで読んだことがある。

2018年9月19日水曜日

病理の話(244) 物流情報での犯人捜し

がんの診療方法にはいくつものやり方があり、その説明方法もまたさまざまだ。

メカニズムが複雑だから、どの視点からがんを語るかによって、毎回違う切り口でがんの説明をしていることになる。

すると聞いているほうも、「こないだはああ言ってたのに、今日は比喩が違うなあ」みたいな混乱を起こす。

とにかく、単純な話に落とし込むのが難しい。

だから、今日の説明も、ぶっちゃけ「例え話」にすぎない。すぎないけれど「がん」の一端をつかむことはできるかと思う。



ある病気が「放っておいてもいいもの」か、「そのまま放っておくと際限なく増殖して体にダメージを与えるもの」かを判断する。

放っておくと際限なく増殖して体にダメージを与えるもの、というのがぶっちゃけ「がん」だ。

では、体の内部にあるがんが、将来(!)際限なく増えるかどうかを今見極めるにはどうしたらいいか……?

予言士でもないとそんなことはできないのだが、まあそれをなんとかやってみようぜ、と考えて調べた人がかつて何十万人もいた。今も何百万人もいる(単位はてきとう)。

で、そういう人たちが見つけた「がんのヒント」が、なかなかしゃれている。




がんはヤクザみたいなもので、がん細胞を直接顕微鏡でみればその姿形がどことなくいかつくて頭がおかしそうだということがわかるのだが、がんを直接みるというのはつまり、「がんを採ってこなければいけない」。

体を開かなきゃいけないわけだ。あるいは胃カメラとか大腸カメラをつっこむ。

がんだとわかっているなら、そういう負担も甘んじて受けよう。

けれどもまだがんだとわかっていない段階で、上から胃カメラ、下から大腸カメラ、お腹のあちこちをずばずば開かれてはたまったものではないだろう。

「がんとわかっていない段階」で、「顕微鏡でみればがんかどうかわかるよ」というのは、けっこう酷な話だ。

だから「がんのヒント」は、できれば体の外からあまり体に傷をつけずにアプローチできる方法で拾い挙げなければいけない。

どうすればいいか?




がんというヤクザが将来めちゃくちゃに増えるとき、「物資を集める」。

それも、周りに暮らしている善良な人々とは違うやり方で、こっそりと、泥棒をするように、大量に、「物資を集める」。

そうしないと思う存分増えられないからだ。

人間の社会といっしょで、ヤクザだというだけで商売は制限され、社会活動もかなり禁じられるから、やつらはつねに「周りの人々とは違うやり方」を選ぶ。

つまり……。

ヤクザそのものを直接みて調べることができないとき。

体のどこかで「物流が乱れていること」をみれば、そこにヤクザがいるのではないかと疑うことができるのだ。




体の中における「物流」とはなにか。

それは血流である。

血液の流れ方を調べる。

それも、臓器に入り込む細かい血管を逐一チェックする。

「造影剤」と呼ばれる薬を使って、CTやMRIなどで、臓器における「物流」をチェックする。

部分的に、正常の臓器とくらべて「乱れている」ところがあれば、そこはヤクザとしてどんどん増えようとしている悪の巣窟かもしれないとわかる。




造影剤を血管の中に流し込んで、CTでみるというのは、いってみれば「影絵」だ。体を開かなくても、外から光(X線)をあてることで、中の姿があらわになる。造影剤を使えば血流がより強調されて見やすくなる。

こうして、「がんを探す」ことができるようになる。




この例え話を進めていくといろいろわかる。

ヤクザが1人とか10人くらいで小規模に活動していたら物流の変化だけでは見つけられないだろうな、とか。

ヤクザ以外の理由でも、例えば事故や災害などで物流がいかれることもあるだろうな、とか。

極めてかしこいインテリヤクザは、周りの物流をまったくいじらずに生き延びることがあるだろうな、とか。

これらはすべて、がん診療を悩ませる原因になりうるのである。