2023年7月31日月曜日

積ん読と献本が嫌いすぎて嫌いすぎて

いわゆる「積ん読」するタイプではない。やむなく積んでも、なるべく早く読み終えたいと考えるほうであり、3か月以上本を読まずに積んでおくことはまずない。

一方で、「買うまでが読書」という言葉は大変よく理解できる。具体的にページをめくるかどうかなんてどうでもよくてまず買え! そして積め! 先に著者に金を送れ! という理屈はわりと好きである。しかし自分ではやらない。やらないというか積んだら読んでしまわないと気持ちが落ち着かない。自分のデスクに何かが未解決で置かれていることに居心地の悪さを感じる。

読まずに積んでおき、ちらちら表紙や背表紙を見て、いつか読む日に備えるというムーブは、ぼくからすると「書店でいつまでも買わずに眺めている本」と近い。あえて自分の部屋においておかなくとも書店においておけばいいだろう、という気持ちになってしまう。

こういう話をすると、本屋には「返本」の仕組みがあるので、自分でいつか読みたいと思ったらその時点で買って積んでおくべきだ、いつの間にか手に入らなくなるぞ、などと反論を受ける。でも積ん読している人だって結局、どこに積んだかわからなくなって読むのを忘れてゆくんだからいっしょだ。積みたいか積みたくないかという感覚が先にあって、理屈なんて誰もがあとづけで適当に用意しているんだから、積ん読する人とぼくとは根本のところでわかりあうことはないし、積ん読している人もぼくもどちらも万人がわかる理屈なんてもたずに性格の部分で好きなようにしているだけである。


ところがそんなぼくが、ちかごろは積ん読気味になっている。理由は明らかでゼルダの伝説のせいだ。いつもなら空き時間すべてで本を読んでいたけれど今は空き時間の半分くらいしか本を読めない。「積みゼルダ」も許せないのでしかたがない。単純にゲームの分だけキャパシティを越えた。そんなわけで読まずに積んである一連のシリーズがある。それは日本看護協会出版会から出されているNursing Todayブックレットだ。


https://jnapcdc.com/sp/ntb/


このシリーズ、たしか#10とか#11くらいまでは読んでいる。いいシリーズだ。しかし今ぼくのデスクの横には、#12「看護管理塾第7章/サルの罠」、#13「認知症と梗塞 尊厳回復に挑むナースたち」、#14「整理の貧困 #peroodpoverty」、#15「認知症高齢者とセクハラ」、#16「戦争のある場所には看護師がいる」、#17「コロナがもたらした倫理的ジレンマ」、#18「災害と性暴力」、#19「孤独と孤立」、#20「妊娠を知られたくない女性たち」が一気に積んである。抱えすぎである。一冊ごとはすごく薄くて読みやすいのに、いっぺんに手に入れたせいでかえって読み進められず、もう数ヶ月くらい積んだままだ。これが本当にストレスだ。

そしてこれらは献本なのである。いっぺんに手に入ったせいでいっぺんに積んで、手が出せないのである。

ぼくはもう何年も、Twitterなどで「献本はお断り 事前連絡なしに送ってもらった本はすべて送り返します」と言って、実際に知らない編集者などから送られた本を元払いですべて返品し続けている。送料だけでこれまでに20000円以上は自腹を切っているはずだ。その多くには手書きの手紙でおわびを一筆添えている。「事前のご連絡なしにいただいたご献本はすべてご返送申し上げておりますのでどうぞご理解ください」みたいなやつだ。一度この手紙を送れば次からその編集者は本を送ってこなくなるし、医療系の版元はほとんどこれを理解してくださっており、新刊が出てぼくに読ませたいときはメールで「出ました」とだけ送ってくれるようになる。こちらのほうがありがたい。自分で買って自分で読むほうが絶対に自分の中にスッと入ってくる、それは自分のタイミングで読めるからだ。

こうしてかたくなに献本おことわりムーブを貫いているのだが、じつは2019年に、日本看護協会出版会のNursing Todayブックレットシリーズの1冊目を、うっかり受け取ってしまった。送ってくださった方にSNS医療のカタチの選書企画かなにかでお世話になった直後で、いきなり返本はさすがにちょっと申し訳ないと思ってしまった。かつ、実際に読んでみたらすごくおもしろかったので、今でも送ってくださったことに感謝をしている。けれども、こういう例外をもうけるとろくなことにならない。

最初に受け取ってしまった名残から、日本看護協会出版会のシリーズだけは献本を受け続けている。どのシリーズもはずれがない(特に #5 「看護学概論」がすごかった)のだが、毎回自分の読みたいタイミングではないときに送られてくるので、読むのに非常にエネルギーがいる。申し訳ないがここからは感謝ではなく愚痴の話になる。

今回まだ読んでいない #12 以降のシリーズはある日まとめて送られてきた。はっきり言ってぼくの性格からするとトータルで感謝よりも迷惑のほうが大きいのである。かつ読んだらおもしろいに決まっているので結局読むのだが、ゼルダの時間を削らないととうてい無理なのだ。それが悲しく、つらく、本当にストレスで発狂しそうなのである。ぼくのリンクは今、とある空島でゴーレムを殴っている真っ最中にセーブして停止している。それがもう2週間くらい続いている。リンクもそろそろ手足がしびれてきているだろう。ふびんでならない。

献本という文化は悪だ。異論はぼくのいないところで勝手にやっていてほしい。どうせ後付けの理屈を振り回すのだろう。だからぼくも自分にしか通用しない理屈を存分にふるわせてもらう。

積ん読するタイプではないぼくが、自分のペースで買えなかった、あるいは買わなかった本を受け取り続けることで抱えるストレスは、積ん読できるタイプの人には理解ができないだろうからこうまでして丁寧に語っているのだ。「読み切れない本を抱えるストレス」を解消する方法はふたつしかない。「自分のタイミング以外で本を増やさない」+「とにかく好きなものを好きなようにできるだけ読む」。献本はその両者に抵触するから悪なのだ。倫理にもとっている。

日本看護協会出版会の方は何も悪くないですし、いつもいい本をほんとうにありがとうございます。でも次からは本が出たという情報だけメールしてください。たとえば医学書院のメガネのイケメンなどは、自分が気になった本があると文字通り前略形式で「こういう本が出ました」と書名だけを送ってきて(アマゾンのリンクすら貼らない)、あとは涼しい顔をしています。そういうのが一番いいです。もうかんべんしてください。しかしこのシリーズおもしろいんだよ。それがまた輪を掛けて腹が立つのだ。

2023年7月28日金曜日

病理の話(800) 八百万の知恵のひとかけら

医療というのは心と都合と理論と確率がせめぎ合う場である。「この薬を飲んだらいいことがこれだけあって悪いことがこれだけ起こりますよ」と、データを前に理路整然と説得されたところで、患者の心になんらかのひっかかりがあったら、その医療はトータルではうまくいかない。データで心を動かすのは無理だ。心は心で向き合わないといけない。

ワクチンを打たないという選択をした人が感染症にかかってしまったらしく、多くの自称医療者からボコスカに「ほれみたことか」「ほれみたことか」と叩かれているさまを見た。それが医療者のやることかとがっくりしてしまった。データが正しければ患者の心を蹴ってもいいのか。理解の範囲を超えている、なぜそこまでして人を叩けるのか。何か理由があるのだろうか。ちょっと調べてみると、どうやらそのワクチンを打たなかった人は、自分だけではなく周りにもワクチンを打つなと言って回っていたらしく、さらにはワクチンを進める医師やジャーナリストたちをことあるごとに罵倒していたからその報いを受けていたのだという。なるほど、「自称医療者たちがここぞとばかりに叩きたくなる理由」は理解できた。しかしまったく共感はできなかった。データの使い方が間違っている。データで心を殴るな。勝手に報いるな。

しかしデータを無視するのもそれはそれでどうかしている。医療は心や都合だけで運用されるものではない。それは先人達の苦難の歴史から背を向ける子供じみた反抗に過ぎない。微調整の過程で得られた無数の知見を、常に最先端の未来に生きている我々が活用しないのはもったいない。心でデータを踏みにじるのだって同じくらいおかしい。理論だって必要なのだ。確率という暴風雨に耐えるだけのしなやかさを手に入れなければいけないのだ。

つまりは両方が必要である。そしてすべての因子はひとりの人の身に降りかかってくるものであり、統合されてはじめてひとつの人生を浮き上がらせるものである。誰かは心だけを、誰かはデータだけを扱えばいいというものではない。みんながみんな、それぞれに得意・不得意があるのは承知した上で、それでもすべてに向き合うことが望ましい。

望ましい。

そう簡単ではない。

だからそれぞれにサポートセンターがある。心をサポートしてくれる人がいる。都合をサポートしてくれる人がいる。理論を、確率を、専門家がきちんとサポートしてはじめて全人的な医療がなんとか形になる。

「病理の話」とはデータをサポートするための知恵のひとかけらだ。それだけのことでしかない。それだけのことを800回書いている。一万分の一も書けていない。

2023年7月27日木曜日

利己的な因子で

あたりさわりないことを言ったりやったりしているとだんだん埋没していく。緩やかに人生の坂を下る。


それが気にくわない人をたまに見かける。彼らは、「法律」や「空気」によって発露を禁止されている暴力衝動を、言葉という賛否両論ある伝達道具を用いて、Twitterのような悪意拡散ツールにかけあわせ、実際には殴っていないぞといいながら実際に殴っている。そうやって自らが埋まり混んだ泥の中から顔と拳ひとつだけ突き出してみせ、ほら、ほら、まだ目立てる、みたいなことをやる。


そういうやり方は下品だと思う。だから距離を置き、なおいっそう、あたりさわりのない方向に向かってゆるゆると下る。そういう感じの毎日を過ごしている。




今年の春に日本医学会総会の仕事がひとつ終わった。この頃のぼくはほかにも日本病理学会や日本超音波医学会など、いくつかの仕事を抱えていたのだが、特に日本医学会総会の仕事の負担が大きかった。個人で具体的にやらなければいけないことはさほど多くなかったのだけれど、毎日考えることがいっぱいあって、そういうのが半年くらい続いていた。なので、多くの仕事を、「できれば日本医学会総会の仕事が終わるまで待ってください」と言って先延ばしにしてもらった。


そのはねかえりが今になって来ている……と書こうと思った。でも冷静に考えると、今はそこまで仕事の量が莫大には増えていない。たしかに告知が必要な仕事の成果などがぽろぽろ出てきており、対外的な仕事はコロナ前と同じかそれより少し増えたかなと思うが、にしても、思っていたほどではない。自分の仕事のスピードが速くなっている分、むしろ帰宅が早くなっている日もあるくらいだ。あれ、こんなものだっけ、もっと猛然と忙しくなると思っていたなあと思って、あらためて医学会総会開催直前のメールを振り返って見ると、「時間をおいてあらためてオファーさせていただきます」と言ってきた人の半分くらいがそれっきり仕事をぼくに振ってきていないということに気づいた。

ああ、これはつまりタイミングを逃したということなのだろう。せっかくできかけた縁をつぶしてしまった、と、悪く考えることもできるが、そこまででもなく、一瞬交わるはずだった二つの矢印が微妙にずれて「ねじれの位置」になってそのまま互いに違う方向へ飛び去っていった、くらいの感覚である。さらに強い縁があればまたお目にかかることもあるだろう。ただ、ぼくはなんとなく、「一度声をかけてくれた人はなんとなくまた声をかけてくれるんだろうな」と思っていたらしくて、肌の奥にあるその気分が今、肩すかし感となって表面ににじみ出てきているのだろう。


それでもオファーをいただくときはいただくが、講演にしても、解説にしても、自分でやったほうが早い仕事を若い人たちにそのままパスする機会が増えてきた。この「仕事振り」によって、2年後くらいにぼくはポカンとヒマになるのではないかという予感もある。臨床画像・病理対比の仕事、病理AIの仕事、学会広報の仕事。自分でどこまでやれるかとずんずん潜り込んで、対比について言えば15年くらいを費やしたが、そろそろ総決算というか、「このテンションでこれくらい取り組めばこれくらいいいものができる」という感覚が身についてしまって、ここから先の成長は難しいかもしれないな、という気持ちが出てきた。ぼくはやれるところまでやれたのだろう。これ以上は次のチャレンジャー達にチャンスを渡すほうがいいのだと思う。AIにも飽きた。学会広報は……もうちょっと泥をかぶったほうがいいかもしれない。大事な仕事だがキャリアの得にならないので若い人もやりたがらないだろう。そういうのは自分でやり続けたほうがいいかもな。


ところで、SNS医療のカタチのメンバーを増やしたり更新したりしてはどうかというアイディアについて、メンバー4名といろいろ考えたことがあった。結局、「この取り組みはぼくらができなくなったら解散でいいんじゃないの、若い人たちは若い人たちで新たにもっといいものを作るだろう」と誰かが言ったときに、まあそんなもんだよな、とみんなが薄く納得して手打ちになった。つまり「若い人に渡す」だけではなく、「ぼくのところで引き取って引き上げる」という方向のまとめ方である。


飛行機は着陸のときが一番難しい、みたいなことを言う人もいるが、本当に難しいのは離着陸や水平飛行をトラブル込みでぜんぶ責任もって運用できるパイロットを育てることだ。優秀なパイロットさえいれば、「一番難しいこと」もなんだかんだでやってくれるわけで、目標はいつだって、難問に立ち向かっていく勇士の数を増やすことにある。教育をしよう。教育しかできない。まだ野心があったとしても、まだ欲望があったとしても、自分の成長に費やしてきた利己的なエネルギーをそのまま、利己的な香りをまんま残したまま、あくまで自分のために教育に注ぎ込むのだ。

2023年7月26日水曜日

病理の話(799) 体温のふしぎ

人間、身長も体重も表情も人それぞれで、見た目が全く同じ人というのはまずいない。双子であっても育っていくうちに少しずつずれていくものだ。

それなのに、「体温」については大半の人が36度前後で、ほとんど差がない。これはよく考えるとふしぎだなと思う。

こういう話をすると、「いや! わたしは平熱が34度5分です!」みたいな人も必ず出てくるのだが、じつはそういう人も深部体温(腸の中などで測る)は36度くらいになっていることが普通である。

それに、そもそも身長なら(極端な人は除いたとしても)上は180センチくらい、下は150センチくらいまで、つまり20~30%くらいの誤差はあるのに、体温だとせいぜい1,2度の差しかない。体温というのは極めてよくコントロールされているんだなあという印象である。


なぜ体温が狭い範囲にコントロールされなければいけないのか? この疑問に対して、おそらくたくさんの理由がある。その全部は完全に証明されているわけではなく仮説にとどまるが、以下、このブログではまとめて「そういう感じです。」というふわっとした結論でおさめる。

まず、生命の中で活動する「酵素」が一番元気になる温度が37度付近だ。化学反応には至適温度というのがあり、これをずれると活動がにぶり、効率が悪くなり、平衡が崩れる。

また、液状のものにタンパク質などをたくさん溶かして体中に配置している都合上、あまりに温度が上がり下がりしてしまうと、析出や過剰融解などの危険が生じる。これは……チョコを溶かしてお菓子を作ったことがある人だとわかりやすいかもしれない、テンパリングのあれだ。微妙な温度差で、チョコの粒子がとけたり出てきたりするやつである。


ほかにも「体温を狭い範囲でコントロールすべき理由」はいっぱいあるし、その一部は、「むしろ体温を狭い範囲で固定することを前提に、体内のあちこちに化学反応の種を仕込んである」という、因果が逆転した話にもなっていくのだけれど、この話をしていくとあるところでふと「あれ?」と別の疑問に気づく。


「たとえば昆虫とか魚とか、触っても冷たいよね? あれも生命なのに体温はだいぶ低いけど、なんで? カエルとかめっちゃ冷たいけど? 哺乳類が体温をわざわざ高めにしているのはなんで?」


体温を狭い範囲に定めるだけでなく、そもそも(深部で)37度付近という自然界よりもやや高めの温度(最近の関東東海あたりはこれくらいの気温になってしまうが……)に設定している理由はなんなんだろうか?


これについては確たる答えはまだ出ていない気がする。ひとまず、「体温が高いほうが雑菌の繁殖が抑えやすい論」というのがある。体温を上げたら上げただけ、感染の原因となる菌やウイルスが住みづらくなるというのだ。

しかしこれはちょっと雑な話で、細菌なんてものはどんな温度でも適応するやつがそれなりにいる。そう簡単な話でもないのでは……と思うけれど、あらゆる温度の中で36.5度前後が総合的に菌やウイルスの防御に向いていた可能性はたしかにある。

しかし体温を高く保とうと思ったらそれだけエネルギー消費が必要なので、生命が無駄にエネルギーを使っているとも思えないからなんらかの理屈はあるのだろう。むしろ、敵となる菌やウイルスを抑え込むというよりも、「味方になってほしい菌」にとって一番有利な温度を選んだ、という可能性はないだろうか。

大腸菌などは37度くらいが一番元気に育つ。こいつらが腸の中で為している仕事は人間たちにとって非常に大きく、粘膜の防御にも、栄養の吸収にも、免疫機能などにもバリバリ関与しているので、大腸菌にとって一番住みよい温度を維持することがヒトにとっても都合がよかったのかもしれない。

大家であるヒトは住人(大腸菌)にとって暮らしやすい環境を整備し、そこにいわゆる「善玉」の菌がすみつくことで、界隈のふんいきが特段によくなる、みたいな感じか。大家さんだって相当投資しないといけないんだよ。

2023年7月25日火曜日

前方にどんどん加速する未来

全エクソーム解析のデータダウンロードが終わらない。3つのファイルはそれぞれ数十GB程度だが、職場の有線LANは5Gではないので遅々たるスピードである。いや、ま、十分早いのかもしれないけれど、2時間の映画を2秒でダウンロードできるという噂の5Gを、スマホより先にPC回線に実装してほしい。時代の恩恵、結局だれが享受しているのだろうか。


胸回りに脂肪がついたためだろう、これまでちょうどよかったはずのワイシャツの、肩の辺りが少しだけきつくなったけれどそれはまだ許せる。しかし問題はむしろ腕丈のほうだ。肩からうしろに布がひっぱられているようで、丈が少しだけ短くなってしまった。ぜんぶ同じサイズで買いそろえているのでどのワイシャツも一様に短い。スーツの袖口からワイシャツが、あまり長く出てくるのも興ざめだが、短すぎるのもどうかと思う。いや、正確には、「短すぎるというほどではないのだがちょっとだけ短い」みたいな感じだ。買い換えるかどうするか、ちょっと微妙なラインではある。

昔イオンに入っていて、今はもっぱらネットで注文しているワイシャツの店があって、さほど高くない上に洗濯に強くてバリエーションも豊富なので便利に使っているのだが、「ちょっと太ったボタン」みたいなものは見当たらなかった。ぼくは胸回りが少しだけきつくなって袖丈が2 cmくらい短くなったわけだが、ではどのサイズを選べばいいのかと、いろいろ見て調べてググってようやくほどよいサイズを見つけた。以前に設定していたマイサイズのひとつ上だった。こういうのが一瞬でスッとわかるのがAI時代なんじゃないのか。時代の恩恵が末端まで届いていないことを実感する。



ロサンゼルスオリンピックの開会式で飛んだという「ロケットベルト」、ぼくは生では見ていないのだが、きっとあれをリアルタイムで目撃していたら、すげー、これいつかぼくも使えるようになんのかな! と未来にすごく期待したと思う。しかしもちろんあんな危ない装置が一般に普及することはなく、中学校一年生のときにスーパーファミコンの「パイロットウイングス」でロケットベルトの操作がめちゃくちゃうまくなった以外には人生のなかであのような装置と携わることはなかった。あの技術は今何に応用されたのだろう。ぼくの知らないところで世界が進歩して、ぼくは今日もまた一つの技術に置いていかれてさみしい思いをする。バーチャルスライドスキャナっていつ当院に入るの? 自動運転の車っていつごろ乗れるようになるの?

2023年7月24日月曜日

病理の話(798) さじ加減をくどくど説明する

「医者のさじ加減」という言葉は、語義をまっすぐ受け取るならば、「粉薬の配合の比率」ということだろう。生薬を乾燥させて粉にして、まぜあわせて調合することで、患者にあわせた薬が作られていた時代がある。今の世に残っている漢方薬の多くもまた、「このブレンドだと効きがよい、キレ味がよいと歴史に選ばれた配合」でできている。


葛根湯は葛根、大棗、麻黄、甘草、桂皮、芍薬、生姜のブレンド。比較的体力がある人の風邪のひき始めに使い、発熱、悪寒、頭痛、関節痛、首や肩のこわばりなどがあり、汗をかいていないときに用いるとよい。

一方、麻黄湯は杏仁、麻黄、桂皮、甘草。こちらは、葛根湯と使いたいシーンが似ているものの、項背部のこわばりよりも関節痛、筋肉痛、腰痛などが強い場合によりよいとされる。

葛根湯と麻黄湯、どちらも似たような生薬が含まれていて、ほとんどいっしょじゃん! と思いたくなるのだが、このような微妙な差があって、漢方医は「証」などを見ながらうまく使い分けていく。これぞ、まさに、さじ加減である。


(参考:『絵でわかる漢方処方』/南山堂)←コンパクトで医療者にお勧め 非医療者はもう少しわかりやすい本のほうがいいです



西洋医学ではそういうお薬のブレンドとかはしないんじゃないの? と思われるかもしれないが、さじ加減は別に配合比率だけのことを指すわけではない。

あらゆる薬は、体内で効くときのことだけでなく、効き終わったあとに分解して排出されるときのことを考えて使う。薬効成分は、腎臓で尿にまぜられて捨てられたり、肝臓でアルコールを分解するかのように分解されて捨てられたりする。薬によって、どこでどう壊されるか(代謝されるか)は異なる。

壊されすぎて効き目が弱くなっては困るし、壊され足りなくていつまでもダラダラ効いているのも(副作用のデメリットが大きくなるので)困る。

したがって、薬を出す際には、患者の腎臓の強さとか、肝臓がどれだけ余裕な表情をしているかといった情報をめんみつに考えて、患者にあわせて出す薬の種類や量、投与のスピードなどを変える。現代のさじ加減だ。

ちなみに処方のうちわけは、医師の主観的な感覚だけでどうこうするものではなく、多くの研究者たちがさまざまな形で検証をしたデータを用いる。患者の状態にあわせてこのように調節したらよいという目安はけっこう存在する。

それでも、最後の最後の微妙な部分は「ひとさじを加えたりすくいとったり」くらいの感覚で医師に委ねられている。

ガイドラインが整備され、名医とヤブ医者との差は生まれにくい世の中だ。しかし、「超絶名医」と「普通の名医」くらいの差はおそらく存在して、たぶん、さじ加減くらいの微妙なバランスでその細かな評価が分けられている。


内科医の処方だけではない。手術だってそうだ。臓器をどこまで取ったら病変を切り取れるのか、残った臓器できちんと人体を保つことができるのかというバランスには一種の「さじ加減」が生じる。

放射線治療などもそうである。患部にどれだけ当てるか。たくさんの研究を元に「その時点での最適解」は示されているけれど、患者には無限のバリエーションがあるから、一期一会の患者にベストな放射線の当て方というのはその都度細かく調整される。


で、まさかと思われるかもしれないが、なんと「診断」においてもさじ加減は存在する。


もっとも、「がんか、がんじゃないか」のような治療の分水嶺となる部分でそういう曖昧さは許されない。そうではなく、もっと細かくてマニアックな部分、たとえば「がんの中でも、低異型度か、高異型度か」みたいな細部の詰めのところだ。

結局どちらも「がん」なので、その後の診療方針にはあまり影響しないにせよ、将来どれくらいの確率で再発するかとか、ほうっておくとどれくらいのスピードで大きくなりそうかといった、「がんごとの個性」をより細かく見抜こうとするとき、そこには診断者の主観がどうしても入る。

それを「よし」とは思わない。できるだけ主観をなくしたいといつも考えている。


したがって病理医は、「みずからのさじ加減」を言語化する機会が多い。「私はこれをこのように解釈したから、この細胞は高異型度だと思うのです」というように説明する。

自分の説明で多くの人が納得すれば、それは「さじの加減を理論化できた」ということになる。


○○という論文に書いてあった基準を参照しました。

数値で計測すると△△なので。

Aという所見とBという所見とCという所見がすべて揃っていますから。


「さじ加減」という言葉には、なんとなくだけど、最後はその医者がエイヤッと決めるというニュアンスが含まれている気がする。でも、「エイヤッ、俺がこう言うんだからこうなんだ! でもその理由はね……」と、くどくど説明していく部分こそが、ぼくは病理医っぽいなあと思う。

2023年7月21日金曜日

そうは言ってもたまには見直しなさいよ

ぼくはよく、ひとつの文章の中にたくさんの枝葉をまぜた書き方をする。これはぼくの作文スタイルが「音声ベース」だから起こることだろうと自分なりに予想している。


「あるひどく暑い夏の日、いつものデスクで仕事をしていたぼくはエアコンの真下にいたにも関わらずだくだくと汗をかいていた。仕事用PCの横にある窓から輻射熱がじわりじわりと、ワイシャツを腕まくりした肘元に伝わってきて、そこから肩のほうに熱が上がってきて、耳もきっと(直接見えはしないが)真っ赤にゆであがっている。そういえば足の静脈も拡張しているようで足の裏はパンとむくんだ感じがする。自前のラジエーターシステムは限界なのだ。しかしぼくはそれでもとにかくこの文章だけは晩飯の前に書き終えてしまいたかったのだ。」


てきとうに今起こっていたことを書いた文章である。ぼくの頭の中でぼくがしゃべった声をそのまま書いた。伝えるべき内容はそんなにない、夏の夕方に暑くて汗が出たというだけの話だ。しかしまあ見事に、たいていの品詞に一つか二つの修飾語がついている。よりみちが多くてなかなか結論までたどり着かない。これがぼくの本来の「書き癖」なのであろう。そしてこの書き癖とはそのまま、「語り癖」である。


何度か自分のしゃべりことばを文字おこししたことがある。ある症例について複数の専門家たちと語り合う「座談会」を書籍化した。このとき、ぼくのしゃべる内容がまさに、さっきの文章と同じような感じなのであった。


「胆嚢にも層構造があるわけです。胆嚢に限らず消化管というものは、内腔にあるやわらかい粘膜、その少し外側の粘膜下層、そのさらに外にある固有筋層、それをとりまく漿膜下層もしくは漿膜下組織といったように、同心円状、あるいはこの場合は同心筒状と言った方がいいかもしれませんが、バームクーヘンのようになってうねうねぜん動しつつ『内部にある外』、『トポロジー的な体外』を流れる物質との相互作用を目的として機能しているからなのですね。」


こんなことを平気で言っている。文章にすると何を言っているのかいまいちわからない、というかくどい。座談会のときには周りの人はうんうんとうなずいており、きちんと理解もしてくださっていたので、なにか、言葉とか音声とかではこれでも通じるニュアンスがあるのだろうが、文章だとどうにも読みづらい。そこで次のように整理をする。


「胆嚢には、層構造があります。内腔から順番に、粘膜、粘膜下層、固有筋層、漿膜下層と、バームクーヘンのように層が重なっています。粘膜によってつつまれた内腔部分は、トポロジー的には『体外』にあたり、胆嚢の内腔には胆汁がため込まれています。」


省略どころか単語や文章を足したりしていて、まるで違う文章なのだけれど、読むならこっちのほうが伝わるし、ほかの人が座談会で話した前後の内容ともこっちのほうがきちんとつながる。

ぼくの脳内で鳴り響いている「しゃべり声」は常に過剰だ。そしてリズムに乗っている。聞く人に「結局なに言ってたかはよく覚えてないけどなんかすごかったな」みたいなことを感じさせる。

その過剰さをそぎ落としてようやく人が読める文書になる。できれば語り言葉でもそぎ落としたほうが丁寧だよな、と思って、講演をするときなどはなるべく意図して、一文を短く、よけいな修飾語を用いず、ストーリーに一直線に進んでいくようなしゃべり方を選ぶ。



しかし最近よく考える。ぼくの本体は「過剰さ」そのものなのだと。中に何か、本質的な芯があるのではなくて、中には誰でも言えるようなどうでもいい芯を申し訳程度に一本通して置いてあとは周りをゴテゴテキラキラ、デコレーションしていく姿こそがぼくのアイデンティティを一番反映しているのだと。クリスマスツリーは飾りが大事なのだと。それがなければ単なる針葉樹なのだと。


まわりが困惑するのは、ぼくがわかりにくいしゃべり方をするからではなく、ぼくが本質的に困惑されるべき人間だからだ。うまくしゃべれば困惑されない、のではなく、自分らしさを抑え込めば困惑されない。逆に言えば、人びとを困惑させているときのぼくにこそ、他でもないぼくがここで何かをしている意義というか交換不可能性がある。


いつからかBlogger(このブログ)の文章をあまり推敲しなくなった。ときに誤字もあるのでたまにフォロワーに指摘される。たとえば今の一文、「ときに誤字もあるのでたまにフォロワーに指摘される。」は、たった1回見直せばすぐに。「誤字をフォロワーに指摘されることもある。」で十分だとわかる。しかしぼくはそれをやらない。なぜなら、ぼくの脳内に響いたぼくの声は、「ときに誤字もあるので、たまにフォロワーに指摘される。」としゃべっているからだ。それを画面にそのまま表示して、そこから何が自分に跳ね返ってくるのかと、じっと鏡をみるように、自分の声を読むためにこのブログはある。自分の痕跡を消すような推敲はほどほどにしたほうがいい。読者のためならまだしも、自分のために書いているのなら。