2016年12月30日金曜日

耳かきをするとブログができる

耳かきを突っ込んでいたら脇腹のあたりがくすぐったくなる場所があり、ああ、これがツボなのだなあと感心した。ツボ、すなわち経穴は、WHOもその存在を認めている、などとものの本にはあるが、WHOが認めていたらなんなのだという気がしないでもない。

東洋医学は経験により裏打ちされており、メカニズムはほとんどわかっていなかったわけだが、直近の20年、漢方とかツボとかの理論を西洋医学と照らし合わせる試みが進んでいる。一方で、西洋医学が常にメカニズムを大切にしてきたと言い切るのは簡単だが、大切にしているからといってわかっているとは言いがたい。たとえば麻酔薬がなぜ効くのかは未だにきちんと解明されていないというし、西洋医学とはサイエンス、東洋医学とは経験知だと切って捨てるのも間違っている。洋の東西を問わず、なぜテレビが映るのか知らないままにテレビを見ているかんじで、なぜ人体がこうであるのかわからないままに人体をいじっている。そういうところでぼくたちは暮らしている。

ツボを突くだけで血圧が落ち着いたり胃腸がおだやかになったりするのは、中枢に向かう刺激が途中で交錯して近傍にある神経をうまいこと刺激するからだよ、とか、東洋医学の陰陽はすなわち交感神経と副交感神経のバランスに相当するんだよ、とか、自分の理解できない世界の言葉を自分がよく慣れた言葉に言い換えることで安心するというのは、人間がよくやる手法である。人の言葉が相手に届くかどうかは、相手の心の中にそもそもその言葉が「眠っていて」、それをピンポイントで揺り動かして覚醒させるかどうかにかかっている、相手の心に全くない言葉を投げかけてもそもそも受容できない、と言った人もいる。ぼくらはたいてい、大人になる途中で自分の使える言語をいくつか設定しており、これはそう簡単には入れ替わらない。他言語とのコミュニケーションをはかるために必要なのは一にも二にも翻訳作業だ。東洋医学を西洋医学に翻訳するのも、ぼくらがあくまで西洋医学の人間であるからに他ならない。

こういうことを書くとき、医学のことを書き始めたはずなのに、まるで夫婦関係のことを書いているようだなあとか、上司と部下のディスコミュニケーションについて語っているみたいだとか、教育現場における問題を揶揄しているのではないかとか、自分の好きな分野にも似たような関係が眠っているよと手をあげる人々の姿が見える。メカニズムと経験知の話は幾重にも積み重なった多重レイヤー構造、ないしは入れ子構造となっていて、ひとつの話題を皮切りに各人が自分の興味ある分野で似たような考察をする。ぼくは、同じカタチをした迷路に違う色のインクを流し込んでいるような、ある一つのプログラムを用意して初期値だけを入れ替えて結果を眺めているような、筋道は一緒なんだけど背景とか前提とか初期値を変えるだけの会話、というものを想像している。

ぼくの根幹となっている迷路、あるいは回路というのは何なんだろう、と探りを入れる。

なんとなくだけど、「複雑系」と、「今あるものは適者生存の結果」という2つの理論が、ぼくの全ての思考の背後にあるような気がする。

栄養剤ひとつで体がよくなるわけないじゃん、人体は複雑系であり巨大な緩衝系なんだから、と人を諭そうとしつつ、でもこの人は40年間、外界から刺激を受け続けた結果いまこうしているわけで、もはやぼくの言葉ひとつでどうこうなるわけがないんだよな、だって人の意識だって複雑系だもん、みたいに、自分の殻にこもる。

ぼくが作り上げた心の殻もまた、38年の生存の結果作り上げられた産物で、こうなるしかなかったし、こうなってよかったんだろうな、と落ち着いたりする。

耳かき一つでこういうめんどくさい話題を広げてくるタイプというのがどうにも苦手だ、そう、面と向かって言われたこともある。しかし、このブログに関して言えば、こういう話題をなんとか自分に取り込んで、自分の心の中にある迷路と比べて、違う色のインクでも流して見ようかな、と、思ってくれる人を読者対象として想定している。「大切にしているからと言ってわかっているとは言いがたい」、「ものごとを俯瞰して見られるのはせいぜい自分の過去までで、自分の現在を俯瞰しているとうそぶく人はほら吹きだ」、「言葉は何かをゼロから産み出すものではなく、すでに胎動していた何かをさらに激しく動かして、殻を内側から破らせる手伝いをする程度のものだ」、「何かを信奉している人をまるで宗教みたいだねと罵る人は、何かを信奉している人を全部宗教に例える教の信者である」、こういう言葉を見た時に、「ああ、まあ、自分ならこう言うだろうね、でもまあわかるよ」くらいのリアクションをしたがる人たちが、ぼくのブログを覗きに来てくれるのかもなあと思っている。

2016年12月29日木曜日

病理の話(33) がんの話(5) がんと足場の線維

異常増殖+不死化+異常分化+浸潤。

さいしょの2つで再現なく増えて、3つ目でチンピラ感を出し、4つ目で正常組織のスキマに入り込んだり、破壊したりしてしまうのが、がんである。

ここまでの「がんの話」、4回で、がんの性質四天王とでも呼ぶべきこれらの解説は終わった。

しかし、現実にがん診療をすると、ほかにも知っておくべきがんの特徴というものがある。


***


がんは、英語で cancer 。キャンサー。古い言葉で、カニという意味がある。ギリシャ・ローマの時代からあった言葉らしい。なぜそれがわかるかというと、十二星座のかに座が「CANCER」という表記だからだ。今、聖闘士星矢のコアなファンはうなずいていることだろう。星座を見ていたころから、人はカニのことをキャンサーと呼んでいた。

そして、そのころ、がんにはキャンサーという名前が与えられた。なぜ、当時の人は、がんをカニに見立てたのだろう。

それにはおそらく、2つの理由がある。

1つは、がんが「浸潤する」ということ。がんが、正常組織のスキマに入り込むように、激しく足を伸ばす様子が、カニの足のように見えたのではないか。

そしてもう1つは、がんが「硬い」ということだ。手術のなかった時代であっても、一部のがんは、体表から触れることができた。乳がんなどがいい例だ。ギリシャ・ローマの時代には平均寿命は今より短かったろうが、発症年齢の比較的早い乳がんであれば、当時もある程度の患者はいたに違いない。

一部の乳がんは、硬い。

そして、浸潤して、足を伸ばす。

昔の人は、「硬くて足を伸ばす魔物……カニの魔物が、ちぶさにとりついた」と考えたのかもしれない。



最近の研究では、
「がん細胞は、浸潤する先々で、自分の周りに『足場』を作り上げて、自分がぬくぬくと生きていける環境を作る」
ということがわかってきた。この「足場」というのは、好き勝手に増えて浸潤していくがん細胞に栄養を与える、アジトのような存在であるらしい。足場は線維によってできており、この線維が硬さの原因となる。

がん細胞によっては、足場とかアジトみたいなものをあまり必要としない場合もあるため、がんが全て硬いわけではない(こういう例外は、何にでもある)。

しかし、
「がんが、ある程度硬くなるものだ、周囲に線維を伴うものだ」
という認識が進んだことで、近年の画像診断学は長足の進歩を遂げた。がん細胞だけではなく、がん細胞の作り上げる「足場」を見つけることで、がんをも見つけてしまおうという試みが、CT, MRI, 内視鏡, 超音波などの画像診断においては、今まさに主流となっているのである。

(※以上のことは、放射線科医・病理医であればまず納得して頂けるのだが、医学生、さらには一部の医療者でさえ、知らない場合がある。がんの病理は、まとめて勉強する機会が思いのほか少ない)


がんとは。

異常増殖+不死化+異常分化+浸潤。そして、基本的に、線維性間質の誘導をする。

ここまでで、外堀も内堀も埋め立てた。次回はいよいよ、がんの「本丸」をあばくことになる。

続きます。

2016年12月28日水曜日

ひさ子です(笑)

あれは15年くらい前の話だ。

インターネットが大衆の眼前に降りてきたころだ。

mixiは、まだ招待制だったろうか。

エキサイトなんちゃらとか、なんとかビーチとか、出会い目的のおっさんがうようよしているような交流サイトの全盛期だったと記憶している。

ぼくもまた、「出会い系じゃないよ、交流が目的だよ」みたいな、きれいごとが書かれているサイトに登録していた。日記を書いて、コメントのやりとりがちらほら。現代のSNSには及ぶべくもないスローなやりとり。どこか泥臭く、そしてまだネットに夢を見ていた人たちがいた。

一人の女性と知り合った。その女性と仲良くなったきっかけは、ナンバーガールというバンドであった。自己紹介欄に「邦楽ロックが好きだ」と書いていたら、ナンバーガールは聴きますか、と問いかけられた、そんなきっかけだったと思う。

ぼくは、ナンバーガールというバンドを好きになったばかりだった。……思い出した、あれはやっぱり15年前だ。

知人のロック好きに教えてもらって、一発でハマったのはいいが、一度もライブに行ったことはなく、CDやスペースシャワーTVの映像特集、横流しで手に入れたライブ音源のコピーなどを数枚持っている程度だった。

ネットでコメントをくれた女の子は、「ナンバーガールが好きな人をようやく見つけた」と、はしゃいでいた。


今なら考えられない。ツイッターで「ナンバガ」とひと言ツイートすれば20ふぁぼはつくだろう。

でも、当時は、マイナージャンルの趣味嗜好を摺り合わせるには、おそろしくスレの動かないスローモーな交流サイトなどに書き込んで、粘り強く待つしかなかった。だから、生粋のナンバガ好きであったあの子も、ぼくを見つけてあんなに喜んだのだろう。

ぼくが、解散直前にようやくナンバガを知ったばかりの、「にわか」であるとも知らずに。



ネットで出会った女の子と、はじめてお酒を飲みに行った。こういうとき、やってくるのはマレーバクとかアフリカツメガエルみたいなタイプと相場が決まっているが、思いのほか可愛らしい女性がやってきた。

ナンバーガールのギター、「田渕ひさ子」にひっかけて、自分のことをこう名乗った。

「はじめまして。ひさ子です(笑)」

ぼくは、彼女のことが好きになるかもしれないなあと思った。



でも、話は単純だった。好きになるまでの悠長で怠惰なむずがゆい時間など、そこにあるわけもなかった。

家で音源だけを聴いて、ナンバガが好きだと言っていたぼくと、札幌に住みながら各地のライブに精力的に参加し、ライブ会場でしか手に入らない音源も多数持っていたひさ子(仮名)とでは、ナンバーガールに対する「深度」が違いすぎた。会ってすぐにわかった。

話が続かず、飲み会は1軒目で解散となった。ひさ子(仮名)は、約束していたライブ限定CDを焼いたやつをぼくにくれた。

翌日、ネット上であいさつを交わしたけれど、ぼくはそれ以降、サイト自体を開かなくなってしまった。




「にわか」が、練度の高い人間の中に入っていって、同じテンションで楽しむなんて、できるわけがない。今ならそう言える。38歳のぼくなら、それくらいすぐにわかる。

それもわからない程度の、23歳のぼくは、当時、研究者を目指したり、剣道をしたり、バイトをしたり、とにかく、何もかもをわかってやろうといきまいて、様々に走り回っていた。

にわかに燃え上がる気持ちのまま、カーテンを閉め切った体育館の中に土足で踏み込んで、転がっているボールをバスケのゴールに入れるような、ステージに乗ってひたいに手をかざすような、そういうやり方で、冷笑を浴びながら、自分が本当に好きになりそうなものを、ああでもない、こうでもないと、探し回っていた。



ツイッターで新しい本を見つけて読んだり、新しいバンドを教えてもらって聴いたりするたびに、「にわかの自分」を眺めるもう一人の自分の声がする。

好きならそれでいいんじゃない。

あるいはひさ子(仮名)の受け売りだったかもしれない、声が響く。

2016年12月27日火曜日

病理の話(32) がんの話(4) がんはしみ込んで破壊する

「3.がんは、しみ込んで破壊する。」の話。

ここまでに語ってきた、「増殖異常」+「不死化」+「分化異常」という3本の矢が揃うと、それは腫瘍 tumor と呼ばれる。

あるいは新生物 neoplasm という呼び名もある。

どこか、ヱヴァンゲリヲンっぽさがある。あってはならぬものだし、あるに決まっているものでもある。



「腫瘍」というと、酷く毒々しい印象があるが、腫瘍にも2種類ある。

良性腫瘍と、悪性腫瘍だ。

良いか悪いかという冠が付く。



良いか悪いかは何をもって決まるかというと、単純だ。放置しておくと基本死ぬのが、悪いということである。

悪性腫瘍=がんは、放置しておくと、基本、死ぬ。

良性腫瘍は、放置しておいても、生き死ににはあまり関与しない。

これが定義なのである。



良性腫瘍の代表は、子宮筋腫である。子宮筋腫は、中年女性の3人に1人、いや、2人に1人が持っているくらいありふれた腫瘍だ。放っておいても、筋腫によって人が死ぬことは、ほぼない。

ただし、症状が出る場合があるので、死なないから放っておいていいというわけではない。症状に応じて治療してもよい。

「良い腫瘍」というのは、必ずしも放っておいてよい腫瘍というわけではない。



逆に、「悪い腫瘍」は、放っておけばいずれ人を殺す。ただ、人が殺されるまでのスピードには差がある。

たとえばとあるがんが、「発見されてから100年後に死にます」というタイプだとする。

これはまあ、放っておいてもよいだろう。病気を治療する必要性は、病気だけを見ていては決められない。その患者さんごとの事情とか背景を斟酌する必要がある。


ま、そういう「治療の必要性」についての話は今回の主目的ではない。いずれ語ることもあるだろう。


***


さて。

腫瘍には良悪があるというのはわかった。

では、その良悪を決定づける、腫瘍細胞の性質の差とは何か。

それは、とても単純で、「しみ込んでいくかどうか」にある。

専門用語で、浸潤(しんじゅん)という。


体の中でいかに細胞が異常に増えようと(異常増殖)、いかにプログラム死から逃れていようと(不死化)、いかにきちんと働かなかろうと(異常分化)、しみ込む力がないならば、そのカタマリは

「まわりを押しながら、ごめんなさいごめんなさいと一カ所で広がっていくだけ」

なのである。

満員電車の中で一人のおじさんがとつぜんふくれていくところを想像するといい。

えらい迷惑だけれども。ただふくれていくだけならば。

駅員さんとか鉄道警察が、そのふくれていった風船ヤロウを、どこかに連れて行ってしまえば、車内には平和が戻る。

これが、良性腫瘍の姿である。その場でふくらんでいくだけで、周りにしみ込んで壊すということがない。だから、手術すると、基本は「スポンッ」と採れてくる。後には何も残らない。

後には何も残らないということは、再発の可能性がほぼないということにもつながる。「採り切れてしまう」からだ。



一方、悪性腫瘍……すなわち、「がん」は、周りにしみ込む。スキマを縫って、破壊する。刺さり込む。

こいつが非常にやっかいなのである。

満員電車の中で、「寄生獣」に出てくるようなバケモノが、手足をギャーンギャーンと伸ばして、周りの人の体を刺したり、電車のカベや床に爪を立てる。駅員さんや鉄道警察がヤツを排除しようとすると、周囲の善良な人々をも一緒に車外に出さなければいけない。なんなら、電車ごと破壊しないといけなくなるだろう。

倒さなければ被害が広がる。倒しても被害は広がる。



だんだんと、がんの全貌が見えてくる。

「増殖異常」+「不死化」+「分化異常」+「浸潤」。

四天王が揃った。


続きます。次回、いよいよ、「カニの話」となります。

2016年12月26日月曜日

北から目線アドバンスト

雪かきにはコツがある。

一度にいっぱいやろうとしないことと、腕でなんとかしようとしないこと、ふわふわの雪を固めて足場にした方がいい場所を最初に見極めておくこと、などだ。




北の人が、問われてもいないのに、雪かきのコツをあちこちに書くのはなぜか。

雪かきほど、甲斐のない仕事もないからだ。ここの雪をそこに運ぶだけのことに、ものすごい労力を割いて、やらなきゃ生活できないし、やっても誰もほめてくれない。なんとかラクをできないかと考えるんだけど、ガソリン製の雪かき機は高いしすぐ壊れるし、夏の間置き場所に困るし、燃費はかかるし、融雪槽だって近所の子供が落ちたらいやだなと思うし、ロードヒーティングこそ金がかかってしょうがないし、だいたいああいいうのは「今日は降らないだろう」と電源を落としているときに限って豪雪になる。結局、ぶつくさ言いながらも自分の体でなんとかするしかない。何がママさんダンプだ。手も足も顔も霜焼けになる。コシとか肩とかすぐ傷めてしまう。おまけに、雪かきは、たいしてカロリーを消費しないように思う。別に医学的根拠はないが、もう、そう信じている。雪かきで痩せた人なんて聞いたことがない。ただ疲れるだけで皮下脂肪は減らない、そんな「無駄な運動」がこの世の中に存在するなんて! 汗をかくほど暑くなるけど、ビールがうまくなるわけでもない。思い出した、市町村などが委託受注している除雪のタイミングも腹が立つ。いや、大変なのはわかる、全住民の希望に添えるわけなんてない、ほんと除雪業者がいなかったらと思うとぞっとする、いつも本当にありがとうございます、けど、ま、来て欲しいときに限って除雪は入らず、道は狭いし軽自動車はスタックしまくるし、来たら来たで圧雪アイスバーンが牙を剥くし、道の両脇には人力ではどかせないような強烈に硬い雪山ができあがったりする。極めつけは、「春になったら雪は解けてしまう」ということだ! 信じられない。最初から雨で降れ! 


以上を。

全員だ。全・雪害地域民が、思っている。何も得るものが無い。ただ疲れていくだけだ。

雪かきにはカタルシスがない。

せめて。せめてコツくらいは。ドヤらせてくれい。ついでに肩もんでくれい。




「雪かきにはコツがある。

一度にいっぱいやろうとしないことと、腕でなんとかしようとしないこと、ふわふわの雪を固めて足場にした方がいい場所を最初に見極めておくこと、などだ」

こういう文章をみたときには、全身全霊でほめちぎってくれないと困る。

いいね! だって15万くらいついていいと思う。

毛ガニくらい送られてきていいはずだ。

毎週抽選でハワイ旅行と金銀パールが当たってもおかしくない。

なのに、なんだこの! なんなんだこの!




冬ははじまったばかりです。

2016年12月22日木曜日

病理の話(31) がんの話(3) がんはできそこないだ

「2.がんは、できそこないだ。」の話。

例えば「胃がん」は、胃の細胞にちょっとだけ似ている。「肺がん」は、肺の細胞にちょっとだけ似ている。これを、「形態学的に、正常細胞を模倣している」と言う。

ただし、似ているだけで、実際の役には立たない。胃がん細胞は胃酸を産み出してはくれないし、肺がん細胞は酸素を血管内に受け渡してはくれないのだ。本来持つべき機能を消失しているのである。

体中に散らばっている細胞は、胃であれば胃の役割を、肺であれば肺の役割を果たすべく、手分けしている。持ち場にきちんと分かれて、職種に応じて、見事なまでに形を変えるのだ。

細胞が、果たすべき機能に応じた形をとることを、持ち場に分かれて変化する、という意味で、「分化する」という。

がんは、正しく分化ができていない。「分化異常」を持っている。

前回、増殖異常と、不死化のことを書いた。今回の分化異常で、役者がかなり揃ってきた。

増殖異常+分化異常+不死化で、ほぼ「腫瘍細胞」をあらわしたことになる。



では、「分化異常」があると、なぜ困るのか。がん細胞は、分化異常によって、どんな悪さをもたらすのか。これを語る上で、たとえ話をしようと思う。正確性をやや欠くが、イメージしやすい方を選ぶ。



分化異常があるとは、そこにいる細胞が本来の機能を来さないということだ。これを、チンピラに例える(まただ)。

八百屋さんで働く人。魚屋さんで働く人。道を整備する人。駅で働く人。それぞれの場所に、それぞれの「制服」を来た人々が収まって、きちんと働いている平和な町中に、ごくつぶしが現れる。

このごくつぶしは、その名の通り、穀を潰す。栄養ばかり奪っていくのだ。万引きはするし、店内のコンセントで勝手にスマホを充電するし、優先席のおばあさんを蹴飛ばして自分が座る。そして、何より、働かない。

本来、がんばって仕事をしなければいけない人々に迷惑をかける。町に流通する食べ物や電気は、町の善良な人々が暮らしていくには十分な量だったが、鼻つまみ者がかたっぱしからさらっていっては困る。町が弱る。がんばって流通を活性化させようにも、このチンピラはろくに働かないから、活気はどんどん落ちていく。


ここで、警察に登場してもらおう。体内における警察とは、「免疫」である。悪者がいたら倒す、それくらいのことは、この町にだってできるのだ。

警察の仕事は忙しい。この町には、時折、悪者がやってくる。「細菌」や「ウイルス」と呼ばれるモンスターが有名だ。ゴジラみたいにでかいのもいれば、ゾンビみたいにサイズは人と変わらないけど見るからに凶悪なやつもいる。「明らかに人じゃない」ので、警察も拳銃をガンガンぶっ放す。

一方、「がん細胞」だって悪い奴らだ。徒党を組んで、そのうち町を滅ぼしてしまう。チンピラだって侮れない。いずれはやくざになり、マフィアに育っていく。さあ、警察の出番である。ところが……。

「がん細胞」は、モンスターではない。人の形をしている。善良な市民と対して変わらない見た目をしている。実は裏でひどいことをやっているのだが、町を歩いているときには何食わぬ顔をしている。目も2個あるし鼻もついているし、服だって来てるし靴も履いている。

そう、「善良な市民を模倣している」のである。

だから、警察が、見逃してしまうことがある。すると、のさばる。徒党を組んで破壊行為を始めるころには警察も気づくのだが、今さら抑えきれない。

リーゼントに特攻服の「わかりやすいチンピラ」の場合は、警察もある程度見つけ出して応戦できるのだが(逆に言うと、わかりやすいチンピラのくせに生き残るやつは、腕っぷしが強く、警察にも負けないタイプだ)、おしゃれスーツのさわやか青年みたいな顔をしたサイコパスもいて、こういうのはしばしば警察の目をすり抜ける。


感染症とがんは、人間の永久の敵であると言われる。我々にとって、次々と現れるウルトラ怪獣(感染症)はもちろん脅威であるが、「人の敵は人」というのも、また事実なのだ。

続きます。

2016年12月21日水曜日

妄想派は舞台ではなく役者をいじる

医療現場で研修医などに「先生、逃げ恥みました?」などと尋ねられると、妙に気恥ずかしい。

仕事場で、なごむ話すんのかよ、しちゃうのかよと、半ば気色ばむ。

そして、それの何が悪いのか、と、脳内の穏健派が肩をそっとおさえる。

すると、たとえ自分同士だからってそうやってすぐ体に触んなよ、距離感考えろよ、と、脳内の繊細派がきつい目でにらむ。

直ちに、そうやって何でもかんでも杓子定規に自分のATフィールドを守ることばかり前面に押し出してたら柔軟な情報交流なんかできたもんじゃねぇんだよ、と、脳内の調整役がたしなめる。

そこで、理屈じゃなくて感情でいやだって言ってる人を理詰めで責めるのはかえって反発を招くんだよ、と、脳内の元いじめられっこが目を伏せる。

なぜか、あの女性研修医は日に日にメイクがうまくなってるんだけどきっと彼氏できたんだろうね、と、脳内の軽薄キャラが関係ない話でうまく話題がそれないかと気をもんでいる。

すかさず、そうやって仕事相手が女性だとなった途端にメイクがどうとか彼氏がどうとか考えちゃうの完全にセクハラ思考なんだけどお前落ちるところまで落ちたよな、と、脳内のポリコレ推進部隊が槍で攻めてくる。

横から、外部に発信するセクハラは容認されないが内心思った感じたまで支配することなんて絶対にできないしするべきではないしそれは人間の感情に対する越権行為とも言える愚行だと、脳内の哲学半可通が真っ向勝負を挑む。

かたすみで、いちいち言葉尻とらえて問題だ問題じゃないとせせこましく言葉狩りする人間って知性がないんだよな、と、脳内の悟り世代がため息をつく。

それを、いつもまとめきれないのはこちらの不手際でして誠に恐縮です、と、脳内の座長がまとめにかかる。



「おっ、うまいこと、『恐縮です』で終わらせたね、逃げ恥につながったからこれでブログに書けるよ」と言う声がする。軽薄キャラの声であり、穏健派がお前なかなかやるじゃないかという顔をしている。元いじめられっ子は穏健派に対してなぜか冷たい目線を向けるが、下を向いて黙る。

2016年12月20日火曜日

病理の話(30) がんの話(2) がんは増える

「1.がんは、増える。」の話。



そもそも、たった1個の受精卵から、倍々ゲームで増えた細胞は、そのまま倍々で増え続けたら、単なる「カタマリ」になるはずだ。

でも、人間は、フロストギズモみたいなカタマリではない。手足があり、指があり、指の股がある。眼窩はくぼんで、そこにぴったりはまる眼球がある。激しい凹凸が、すごく細かく調節されている、ということだ。

すごいよね、目なんて、たぶん直径があと2mmも大きければ、眼窩の中でパンパンになっちゃって、うまく回れないだろう。日本の職人もびっくりのミリオーダー。


以上の構造の複雑さ・精密さは、細胞の増え方が、何かによって細かくコントロールされているということを意味する。

ここは増えて良い、ここは増えてはだめだと、シグナルが入るのだ。

たとえば、子供が大人になる成長の過程で、ある場所では細胞がすごく増えるし、ある場所では細胞があまり増えない。骨のはじっこには骨端線というのがある。あそこを中心にして、ぐんぐんと増える。だから、骨端線のある場所、すなわち骨の両端だけが、激しく伸びる。太さのほうは、新陳代謝とともに、じわじわ増していくにすぎない。

増殖スピードが、コントロールされている。

たとえば、皮膚。人間の体の中でもっとも薄いのはまぶたの皮膚だと言われている。「面の皮の厚いやつ」であっても、まぶたは薄い。一方、足の裏の皮はとても厚い。大人のかかとだと、小型の画鋲を刺しても血が出ないこともあるかもしれない(けど痛いから試さない)。

これ、うっかり、逆になったらどうなるだろう。足の裏の皮がまぶたみたいにペラッペラになり、まぶたがゴツンと厚くなる。

大変だ。歩く度に足の皮が破れるだろうし、まばたきの度に目に圧力がかかってしょうがないだろう。

これは、増殖スピードというよりも、新陳代謝のタイミングで調節されている。皮膚の細胞が下の方からせり上がってくる際、どれほど上に積もってから剥がれ落ちるかが、部位によって異なるわけだ。

メイクのCMなどで「お肌の角質」というだろう。あの、角質層が、いつどれほど剥がれ落ちるかをコントロールすることで、皮膚は厚さを保つ。


人体にある全ての細胞は、増殖と死が半ば「プログラム」されている。

そして、この「プログラム」が乱れると、「腫瘍」となる。乱れとはすなわち、

 ・異常なスピードでの増殖

と、

 ・不死化

である。


異常増殖が起こると、その場所での細胞数が異常に多くなる。従って、カタマリを作る原因となる。

ただ、細胞死がきちんとプログラムされていれば、ある程度のカタマリを作ろうとも、結局剥がれて落ちていくので、さほど問題にはならないのだ。過形成と呼ばれる状態では、細胞死プログラムはきちんとワークしている。

すなわち、腫瘍化する最大のポイントとは、「不死化」にある。細胞が死ななくなることは、かなり問題なのである。増えた細胞がいつまでもそこにあり続ける。カタマリを作るスピードが増してしまう。本来、そこにあるべきではない量の細胞が、満ちる。いろいろと不都合が出る。体内の免疫警察も出動することになる・・・・・・。



異常増殖と細胞の不死化。これが、腫瘍への大切なステップであるが、これだけでは「がん」を語ったことにはならない。

続きます。

2016年12月19日月曜日

ブログを喫茶店で更新するのは素人

半可通はウイスキーをストレートで飲みたがる、みたいな話がある。

本当のスコッチスノッブは、「トゥワイスアップ」と言って、ウイスキーと等量の水を加える(氷は加えない)ことで香りを引き立たせて飲むのだ、とかいう話を読んだことがある。

やってみたけど薄かった。



芋焼酎をロックで飲むな、もったいない、という意見に対して、蔵元が「うちの焼酎は牛乳で割るとおいしいよ」と言った、みたいな、創作実話っぽいツイートもみた。

やってみたけどこれでいいのかと不安になった。



中途半端な知識で一流を気取る背伸び紳士をバカにする気風、みたいなのがある。ぼくも、たまにやっている。シンの一流を目指せ。シンの紳士を目指せ。




先日、帯広で講演をした日、昼飯を食っても、駅から会場に向かうにはまだ1時間ほど早かった。手ごろな喫茶店に入ってコーヒーを飲むことにした。コーヒーには、陶器の小さなカップに入ったミルクが添えられていた。

そういえば、もう20年来、ぼくは「コーヒーはブラック以外認めない党」の党員だったな、と、ふと気になった。

ミルクを入れてみた。スプーンで混ぜてみた。

「にがり」みたいな味が、少し増した気がした。

ああ、ふつうにブラックで飲めばよかった。




スマホの電子書籍で「木曜日のフルット」を読んでいたら、ネコのフルットがカラスのマリアにバカにされていた。

「ひとの意見にコロコロ
左右されないで
自分の価値観持ちなさい
よ」

ぼくはわりとガチでシューンとなったのだ。

2016年12月16日金曜日

病理の話(29) がんの話(1) がんとは何なんだ

病理診断の主戦場は、がん。がんの診断である。だから、病理の話をしようとか、病理診断医のことを書こうとか、病理診断科で何が起こっているかを語ろうと思ったら、自然と、がんの話をすることになる。

今日から、「病理の話」では、しばらく、がんの話を続けることにする。十重二十重に、話す。



長くなるかもしれないから細切れにして書く。




「がん」は、なぜ、人の興味をひくのか。それは、人が死ぬからだと思う。

「がん」は、なぜ人を殺すのか。これに答えられる人は、実は少ない。医療者であってもまともに説明しようとすると骨が折れる。

テレビはなぜ映るのかわからないままでも楽しめる、というのと似ているかもしれない。

がんがなぜ人を殺すのかわからないままでも、怖い。


1.がんは、増える。

がんは、増える。元々そこにあるべきではない細胞が増えれば、それだけ栄養が必要となる。おまけに、がん細胞は、普通の細胞に比べて、燃費が悪い。めちゃくちゃに栄養を奪う。

だから、がんが増えていくと、人はやせ細る。「悪液質(カヘキシー)」と呼ばれる、独特の痩せ方をして、消耗して、死んでいく。

がんは、増えることで、人を殺す。


2.がんは、できそこないだ。

がんは、できそこないだ。例えば「胃がん」は、胃の細胞にちょっとだけ似ている。「肺がん」は、肺の細胞にちょっとだけ似ている。似ているけれど、役立たずだ。胃がんは胃酸をほどよく産み出してはくれないし、肺がんは酸素をほどよく血管内に受け渡してはくれない。

その場で正しく働いている、胃や肺の細胞と、似てはいるけれど、うまく働かない。そんな細胞が増えても、役には立たない。

がんは、何の役にも立たない穀潰であり、増えることで、人を殺す。


3.がんは、しみ込んで破壊する。

がんは、しみ込んで破壊する。がん細胞は、最初に出現した場所で増え続けるだけではなく、周りの正常の構造をどんどん壊したり、あるいはスキマにしみ込んでいく。肝臓にできれば、肝臓の中にあるパイプのような構造をつぶしてしまうし、膵臓にできれば、膵臓自体をぶちこわしてしまう。すると、肝臓や膵臓の機能が落ちる。

がんは、何の役にも立たない穀潰しであり、正常に働いている臓器を壊してしまうこともあり、増えることで、人を殺す。

4.がんは、がちがちに硬くなる。

がんは、がちがちに硬くなる。がんごとに「個人差」はあるのだが、がんは増えたりしみ込んだりする過程で、「がん細胞自身が安心して暮らすための足場」を作る。これが硬い。

大腸にがんができると、大腸のカベにカタマリができるが、これが硬い。硬くて、ごつごつしていて、ひきつれる。硬いカタマリができて引きつれると、大腸の穴がふさがってしまう。大腸がまともに食べ物を通せなくなる。

がんは、何の役にも立たない穀潰しであり、正常に働いている臓器を壊したり、ごつごつガチガチひきつれてぐしゃぐしゃにしながら、増えることで、人を殺す。

5.がんは、転移する。

がんは、転移する。一つの場所でだけ増えているわけではない。さまざまな手段で全身のいろいろな場所に移り住んで子孫を増やす。

これにより、「役立たずが増えるスピード」が何倍にもなるし、「しみ込んで破壊する場所」も「がちがち硬くなる場所」も何倍にもなる。今まで書いてきた、1から4までが、数十倍とか数百倍に増幅される。

そして、治療も難しくなる。至る所で同時に蜂起したテロリストを、限られた人数しかいない警察が鎮圧できるだろうか。

がんは、何の役にも立たない穀潰しであり、正常に働いている臓器を壊し、ごつごつ、ガチガチ、ひきつれなどを作りながら、全身の至るところで増えることで、人を殺す。




むかついてくるだろう。がんは、敵だ。

敵を知り、己を知るために、がんの話をはじめる。戦う・戦わないは、知ってから決めればよいことだ。

2016年12月15日木曜日

GIRA GIRA HIKARU

世代ごと、人ごとに、自分の何かを彩ってきた音楽というのがあるだろうな、とは思う。

何か、アタマがごしゃごしゃとなっていた時期に聞いていた音楽は、記憶に残る。
とてもいい思い出や、いやな思い出といっしょに、ある曲が忘れられなくなる。
記憶と歌詞がセットになっている。
リズムで風景が呼び起こされる。

音楽と記憶がリンクしている、っていうとかっこいいけど、いじわるに言うならば、曲が鳴ると黒歴史! 黒歴史! と吠え出す、パブロフの犬、みたいなものだ。


話は変わる。

かれこれもう15年くらい、ぼくと同姓同名の人間がブログをやっている。すごいポエムを載せている。研究会などで出会ったあまり面識のない人に、

「先生すごいよね、ツイッターのほかに、ブログもやってて」

とか言われることがある。前はブログはやってなかったので、「人違いです」と言えたのだが、今はこのブログをやっているので、ややこしくなった。念のため、尋ねる。

「それはあれですか? 脳がトラベルほうですか?」

たいてい、こうだ。

「いや、なんか死がどうとか書いてるほう。」

それはぼくではない方の市原君です。お間違えのないように。

正直、迷惑であった。ポエムを書いてないのに、ポエマーだと思われるのはつらいな……。



でも、まあ、最近思うことがある。人間、誰しも、自分ポエムを詠むよなあ、ということ。人は誰もが、音楽がからむと、すぐポエむ。

(ポエ-む:【動詞】詩を読んでドヤる。例「あいつまたーーってやがる」)

私ポエマーじゃないよとか、俺そんな痛い人間じゃねぇよとか、そういう「アンチポエム型」の人間に限って、べろべろに酔っ払った深夜2時過ぎにテレビから聞こえてくる昔のランキングに、「おわー懐かし!」みたいに大声で反応して、涙目になっていたりする。

そりゃ、ある種の、ポエムじゃねぇか。

言語を使わないでポエマーやってるだけじゃねぇか。

音楽が記憶を呼び覚ます、みたいな奴だろ? ポエムじゃん! 自分、ポエマーじゃん!

ずるいよなーと思う。ポエムのこと、バカにしといてさ。音楽がかかったら、感傷的になってさ、歌詞とか口ずさんでんじゃん。歌詞って詩じゃん。

ぼく「……果てしない闇の向こうに?」

元バスケ部の営業「ウォーウォー手を伸ばそう!」

ぼく「……どぶねずみみたいに?」

コテハン歴22年コアゲーマー「美しくなりたい!」

ぼく「……走る走る?」

ナンパの達人スタイリスト「俺たち!」

ぼく「ポエマーじゃねぇか」

3人「いいえちがいます。」



築地の国立がんセンターで、病理医になるための任意研修をしていたころ、毎日がぎちぎちに充実していて、ありがたいやら、つらいやら、もうズタボロだったときに、ある曲を聴いていた。

「モータウン」という曲で、ナンバーガールというバンドの曲である。ぼくは、この曲がかかると、つい、普段はバカにしている「ポエマー」になってしまう。せっかくなので、皆さんにも、「モータウン」の歌詞をご紹介しようかなあと思う。JASRACに怒られない程度に。



















※「モータウン」はインストゥルメンタルです。

2016年12月14日水曜日

病理の話(28) 病理医の雑用と守備

一般に、「雑用」と呼ばれる仕事をしている時間、さまざまなことを考えている。

「雑用」だから、あまりアタマを使っていないのだろうな。余計なこと、つまらないこと、やりかけていたこと、ずっと考えていることなどが、ふわふわと浮かんでは消えていく。

あまりにぼーっといろんなことを考えていると、雑用とはいえミスの元になるわけで、集中力の足りない自分はいつも、ヒヤリハットに気を付けようと背筋を正すんだけど、それはそれとして、この「雑用時の雑思念」が、長い目でみるとぼくの仕事生活を支えているようにも思う。


先日診断したあの胃生検でみつけた、ちょっと珍しいあの所見、最初気づかなかったけど、そろそろ教科書を読み直して「目合わせ」をしないとな……距離の中にある鼓動って歌詞がツイッターで評判いいと思ったらドラマでもテロップ出してやがった、やっぱりスタッフもネットをちゃんと見てるんだ……4か月後の出張は関西だけど早めに飛行機をとらなきゃいけないから、早割が発売になる日にちゃんと予約できるように、机の横にふせんを置かなきゃ……一昨年の標本交見会で講演してた東京のあの先生の資料に、こないだの腎臓の病変について書いてあったんじゃなかったっけ……こないだ思い付いた、アルミ缶の上にあるミカンみたいなギャグ、なんだっけな……先日コンサルトされた症例、そういえば数年前に新潟でみた症例と似てるかもしれない、これが終わったら検索してみよう……レジナビの相談だけじゃなくて、来年の院内勉強会に予算を出してもらう交渉をするんだった忘れてた、総務課に行かないと……。


***


病理医が、顕微鏡に特化した部門だと思っている人は多く存在するようだ。

「病理医の仕事って、一日中顕微鏡を覗いてなきゃいけないんですよね、大変じゃないですか?」

こう聞かれたら、ぼくは、こう答える。

病理医にとっての顕微鏡は、野球選手にとってのバットです。

攻撃時、出番が回ってきたら、極限まで集中して、投手の投げ込む球筋を読む、あるいは読まずとも勘で反応する、バットを振る。振らないと何も始まらないし、絶対に勝てません。

ところで、野球のおもしろいところは、攻撃と防御が交互にくるところです。バットを握らない時間というのがかなりある。守備ってのは、相手あっての行動ですし、自分が次にどう動けばいいかは予測しきれない。しかし、立派にゲームを引き締めようと思ったら、広い視野と運動量、とっさの判断の良さ、あるいは連係プレー、そして地肩の強さや脚の早さも駆使して守り切らないといけません。

病理医にとっての顕微鏡は、野球選手にとってのバットです。がっちり集中しなければいけない。没入する必要がある。だから、顕微鏡を覗いている病理医を知らない人がみると、なんというか、鬼気迫ったような感じに思えるそうです。

でも、病理医は、バットを握っていない時間も結構あるんです。様々なオーダーに対応し、様々な機器を駆使して、戦略を張り巡らせながら、いろんなポジションを守る時間がある。

論文を読んだり教科書を読んだりして自分の実力を付ける。問い合わせに答えたり、画像と病理の関係を繋げたり、病院間の連絡調整の懸け橋になったり、あるいは基礎と臨床の懸け橋になったりもする。

「守備」を、「雑用」だと言ってしまうと、途端に野球は、楽しくなくなるでしょう?

病理も、顕微鏡だけの世界だと思っていると、たぶんつまんないと……思うんですよ……思い出した、「イヨカン、いい予感」だ……ブログ書こう……。

2016年12月13日火曜日

ヤマムラをなぐらせろ

「スーパーマリオメーカー 3DS」というソフトを買った。あのマリオが飛んだり跳ねたりする「コース」を、自分で作ることができる。

WiiU版のやつをちょっとだけ見たことがあったんだけど、なかなか自分ちでテレビに向かってゲームする時間をとることはないな、と思い、結局は買わずに終わっていた。でも、3DS版なら気軽にできるかなと思った。

これが、当たりだった。まだはじめたばかりだけど、おもしろい。

マリオのコースなんて、素人が作ったって、奇をてらってスターがいっぱいあるだけの面とか、ファイアバーが多すぎて神タイミングじゃないと通り抜けられない面とか、なんかすごい飛び回ってるうちにへんなところに隠し扉がある面とか、その程度の発想力しかわかないだろうし、自分でうまく作れるわけがないと思っていたけど。

チュートリアルがあるのだ。むかつくハト(見ればわかります)が、なんかうまいこといろいろ教えてくれる。

この、チュートリアルが、長いけれど、とてもいい。

マリオの面を作って自分で遊ぶだけのゲームだと思ってはいたけれど、ハトのヤロウはしきりに、

「自分の作った面を見た人が、おもしろい、遊びたいと思ってくれるようなコースを作ろう。説明しないとわからないような自己満足なコースではだめです」

「ギミックは多ければいいというものではない。敵と障害物はただいっぱい置けばいいわけではない。バランスを考えよう。相性がある」

みたいなことをいうのだ。企画とか営業の達人みたいな空気をかもしている。ハトのくせに。

いちいち適切で、ぼくはコースを作るよりまず先に、このチュートリアルにはまってしまった。



はるか昔の「マリオペイント」を知ってる人は、そこかしこに潜むマリオペイントらしさに気づいてクスッとするだろう。

うまくマリオの面が作れると、たぶん人に見せたりやらせたりする楽しみも出てくるだろう。

バージョンが更新されると、ネットに自作の面を載せたり、逆にネットからおもしろそうな面をダウンロードすることもできるという。

ま、これらの「マリオメーカーのおもしろさ」については、ぶっちゃけ、買わなくてもわかっては、いた。



しかし、ぼくはチュートリアルにおもしろさを見つけたのだ。任天堂が今まで出してきた、あのマリオもこのマリオも、ぜんぶ、「ユーザーがどうやって楽しむかな、どこで苦しんで、どこで快感をおぼえるかな」というのを研究して、計算して、作ったり消したりを繰り返した末に生まれてきた、(当たり前だけど)作り手がいる、作品だったわけだ。でも、作り手のことにまで思いを馳せるような想像力は、あのころマリオばかりやっていたぼくには、なかった。「なんかすごい会社がなんかおもしろいものを作ったからやるぞ」というだけだった。

子供の頃もそうだが、なんなら、中年になった今も、「マリオは任天堂の傑作」とは知っていたけれど、「こっちの遊ぶ顔を想像しながら、いろいろと作戦を練ってコースを作り上げた達人がいたのだ」ということ、作り手の顔を想像することまでは、至っていなかったのだと思う。

けれど、マリオメーカーでチュートリアルを始めたら、そういった想像がいっきに大脳に流れ込んできた。ぼくは、マリオメーカーのチュートリアルの中に、30年もの間マリオの面を作り続けてきた人たちからの「こっちこいよ」という笑顔を感じてしまい、それはなんというか、大人になったぼくが、子供のときの恩を返すだけじゃなくて、まだ子供でいていいし、大人として遊ぶこともできるんだよ、と言われたようで、とてもうれしいのだった。


ミニファミコンはちょっとおいといて3DSばかりやっています。

2016年12月12日月曜日

病理の話(27) カンファレンスでの立ち位置

病院内にも、会議が多い。会議の中には、収支、会計、営業報告のような一般企業にありそうなものもあるが、一般に「カンファレンス」と呼ばれる、医療現場独特のものもある。

カンファレンスがなくとも、医療は回るけれど、カンファレンスがあったほうが、医療はよりよく回る……と思う。

しかし、まあ、カンファレンスだって、広義の会議である。くそくだらない会議を嘆くサラリーマンがいるのと同様に、つまらないカンファレンスを嫌う医療者だっている。



カンファレンスとは何をする場なのかというと、科とか職種ごとのコミュニケーションをとる場だ。いまどきの医療は、一人の裁量でどうにかできるレベルを超えている。特に、がん診療はとてつもない量の人間を巻き込む。キャンサー(癌の)ボード(会議)という、がん専門のカンファレンスが定期的に開催されている病院も多い。


胃癌を内視鏡で発見したのが消化器内科、それを手術で切るのは消化器外科、と言うように、医療というのはけっこうな確率で「科をまたぐ」。内科と外科のドクターの間で、意思の疎通がとれていないといけない。内科が手術に必要な検査を済ませているか? 外科医が知りたい情報はすでに検索されているか? これから追加しなければいけない検査はあるか?

手術お願いしますよ、はいはいわかりました、と、「廊下での立ち話」で済ませていた時代もあるとは伝え聞く。けれど、現代医学では、口先でちょろっと伝達する程度で、手術のような高度な生体侵襲作業に突入できるわけがない。

内科の発見した癌というのはどれくらい悪い癌なのか? どれくらい進行していると「読んで」いるのか? リンパ節転移の可能性は、どれくらいありえるだろうか?

内科と外科だけではない。麻酔科とも相談が必要だ。どのように麻酔をかけるべきか? 患者さんに麻酔のリスクがあるかどうか? 循環器内科に心臓のことを確認しておかなければいけない。不整脈などの病気はないか? 血液をさらさらにする薬を飲んでいるけれど、手術で切った時に血が止まりづらくなることはないか? ほかにも持病があるならば、それぞれの科のドクターと連絡調整を行わないといけない。

時に、放射線科も参戦する。放射線科医の「読み」では、癌はどれくらい広がっていると考えられるのか? 内科の医師は、それをどう考えているのか? 外科医はどの範囲を切除すれば癌を採り切れると考えているのか? その範囲を切った後、どういう副作用が想定されるのか?


そこに入っていく、病理医がいる。

ここまで、いかにもかっこよさそうな展開で書こうと思っていたのだが、今日はここから先、けっこう、残念な話になっていく。

このブログでは、何度も偉そうに書いてきたけれど、病理診断報告書は、臨床医がきちんと読み解けるように書くのが基本なのである。だから、報告書さえあれば、診断を書いた病理医本人がカンファレンスに出席せずとも、要点は伝わっているのだ。

それでもあえて病理医がカンファレンスに顔を出すことに、どれだけメリットがあるのだろう。

あえて、あえて、書くけれど、中途半端な知識で「俺は臨床にも詳しいんだぜ」と半可通を気取る病理医がカンファレンスに出ると、現場のドクター達は困惑し、失笑するものなのである。

「いや、勉強したとか、昔やっていたとか、俺は診断はプロだからとか、その程度の自負でね、最新の診療に口出しをされましてもですね。テンションが違うというか、レベル的にもやもやすると言うか……。ご自身のお仕事さえしっかりしていただければいいんで、あまり横から出てこないで下さいよ」

こういう声も、実際に聞く。創作実話ではなく、本当に聞こえてくるから悲しいものだ。知人医師に聞くとこんなことを言った。

「病理医でへたに臨床かじってる人? うーん、ドラクエでさ、僧侶がさ、いちおう、敵を殴るじゃん。戦士ほどじゃないけど。で、たまにそれで、メタルスライムとか倒すじゃん。ああいう感じ。俺、物理もいけるよ、みたいな。なんかそういうイメージ」

決していいイメージではない。


もちろん、上記のイメージというのは、病理に限った話ではない。カンファレンスが頻繁になった現代医療において、科のカベを越えて「相手の専門領域に口を出す場面」というのが増えてきたからこそ顕在化してきた、「軋轢のかたち」なのだ。カンファレンスで、各科の意見をぶつけ合うといえば聞こえはいいが、実際にやっているのが

「俺の方が専門のてめぇよりも読めてるから。わかってるから」

みたいな、自己顕示のぶつけ合いであっては、誰のためにカンファレンスをやっているのか、わかったものではない。



ぼくはどちらかというと、悲観的な人間である。自分がでしゃばるのはたぶん好きだ。しかし、少しのタイムラグの後に、「余計なことをしてしまったのではないか」「相手は苦笑していたのではないか」ということを気にする。ぼくがカンファレンスに出てやってきたことは、

「自分、めっちゃ臨床のこと、勉強してるでしょう? 病 理 医 な の に ! 」

という、反骨精神だったり、歪んだ承認欲求だったりはしなかったろうか。そういうことを考えてしまう。



たぶん、ぼくは若さを失ったのだ。きれいに中年に突入しているから、こういうことが気になるようになった。それは年齢とか経験年数というものとは少し違う、精神的な摩耗によるものなのかもしれない。

「カンファレンスのお荷物とか目の上のたんこぶではなく、実際に病理医がカンファレンスにいて、周りがみんな助かると感じ、患者のためにもなるような、病理医の出方、あり方、仕事の仕方とは何だろうか」

これを、ずっと考えている。次回、書けたらよいなあと思うのだが、次回までにまとまらないかもしれない。


このブログ、ある程度計算して、最初からこれとこれとこれを書こうと決めて始めたのだが、30話くらいにこれを書こうと思っていた話題が、「病理医がカンファレンスで役に立つとはどういうことか」であり、正直、うまく書けるかどうか、まだわからないでいる。

「フラジャイル」で言えば、「岸先生のやり方」も、「高柴先生のやり方」も、一つの回答なのだと思うが、さて、ぼくが自分のコトバでここに書くとしたら、自分が普段やっていることをどのように記載できるのだろうか。


続きます。たぶん。

2016年12月9日金曜日

タモリ倶楽部読書特集回のゲストにあこがれた男

仕事が忙しい時ほど、わりと本も読んでいる。理由はたぶん、「移動時間が長くなるから」だろう。

出張が続くと、機上の人でいる時間が増える。札幌からの空路移動はどこも1時間以上かかるから、1時間は読んでいられる本を探しておく。

1時間ちょっとで読み終わる、あるいは1時間で閉じてまた数日後に開いても違和感なく読み進められる本であればベターである。


だからだろうか、一時期、「長編」から少し遠ざかり、ブログを本にまとめたような書籍をよく読んだ。ツイッタランドの中にはバケモノがいっぱいいるから、「よく読んだ」なんて書いてしまうと怒られるんだけど、札幌市中央区北3条東8丁目5番地周辺に住んでいる人の中ではおそらく一番読んでいるはずだ(これでも怒られるかも)。

で、ま、記憶に残った本は、数冊くらいかな。あとはほとんど読み捨てだった。それでもいい。そういう時間つぶしを求めているのだから。




みんな、「自分の一生を動かしてくれるような、新しい人生に突入するかのような体験」を語りたがっている。

ぼくだって、語りたい。

「この世界の片隅に」は絶対に見た方がいいらしいから、いずれ絶対見ようと思う。

「私は咳をこう診てきた」を読んだのはぼくにとってとてもいいことだった。

「ニーア・レプリカント」の記憶は一生消えないだろうなあ。


でも、最近のぼくは、自分がどういう人間かというのをとことん突き詰めて考えたところ、ある暫定的な結論を得ている。

瞬間的に通り過ぎてしまう文芸を積み重ねたところに、ぼくが立っている、ということ。

ぼくは、「何か偉大な一つのものに変えられて今こうしている」のではなく、「もう思い出せないほど無数の出来事と、無数の作品によって、細かく少しずつ脳にパンチをくらって、酔いながら今こうしている」のではないか、ということ。



どっぷりと濃厚な体験というものを、できればいいなと、いつかしたいなと、そういうことを言いながら、事実、いろいろなところでぼくは、そういう話をしてきたのだけれど、結局何年経ってもこの先、ぼくを作っていくのは「結果的に覚えていられない、短文の数々」なのではないかと、少し悲しい思いで、しかし確信に近い光景の中に、立っている。

2016年12月8日木曜日

病理の話(26) カタチにこめられた意味を思う

細胞、器官、臓器などが「あるカタチ」をしていることには、おそらく意味がある。

適者生存の論理というやつだ。長い長い生命の歴史の中で、一番いいカタチをしていたものが、結果的に今こうして残っている、と考える。

耳のカタチがなにやら複雑な形状なのも、鼻の穴が左右に分かれているのも、おそらくは、確率的に生き延びる率が高かったカタチだからだ。そう考える。

で、まあ、臓器とか指とか目とか、そういう大きなものだけじゃなくて、ミクロの世界にも、歴史によって選択されたカタチというのが存在する。

たとえば、胃粘膜は、場所によって微妙にカタチが異なるのだが、すごーくざっくりと説明すると、胃の出口側(十二指腸に近い方)では、粘膜はアコーディオンのような形状を示す。ただし、目に見えるアコーディオンではない。顕微鏡で見て初めてわかるくらいの、ミクロ・アコーディオン・ギザギザ。

これに対し、十二指腸に近い部分以外の、大部分の胃粘膜は、もっとつやつやとしていて、アコーディオン・ギザギザではない。

胃って、中に食べ物を一定期間閉じ込めておかなきゃいけない臓器なのだ。胃酸で食べ物をぶちこわすには、ある程度の時間が必要だからね。

その間、食べ物に対して胃酸や粘液をべっしゃべしゃぶっかけ続けるのが、胃の大事な役割である。

そして、破壊が終わると、食べ物をまとめて「十二指腸の方に送り出す」必要がある。

この、送り出すという動作のときには、粘膜がすごく伸び縮みする。だから、十二指腸に近い部分においては、粘膜がアコーディオンのようにギザギザになるんだ。


はじめてこの話を聞いたとき、うおっなるほど、すげぇ、となった。でも、この話を教えてくれたのは、病理医ではなくて、内視鏡医だったのだ。

内視鏡医、すなわち、胃カメラをやる消化器内科のお医者さんである。別に、顕微鏡を使いこなすわけではないし、病理組織像にすごく詳しいわけでもない。

けど、彼は、胃の診断が好きで好きで、「どうしてこうなっているんだろう」というのを毎日考えていて、ありとあらゆるアプローチで胃の正体を解き明かしたくて、とうとう、「胃・幽門部(十二指腸に近い部分)の粘膜がなぜギザギザうねっているのか」を考え出してしまった。


形態学というのは、病理医の専売特許ではない。「なぜだろう、どうしてこういうカタチをしているんだろう」と疑問に思うことは、顕微鏡ハカセだけの特権ではないのだ。


***


来年の病理学会のワークショップのテーマに、「内視鏡所見との対比から考える消化管病理診断」というのがある。このワークショップを取り仕切るのが、上で触れた「アコーディオン・ギザギザの理由を推測した先生」である。彼とはときどき一緒に仕事をするのだが、病理医と内視鏡医、それぞれが違う視点で一つの臓器、一つの病気に迫っていくと、常に新たな発見があるなあと、いつもワクワクさせてくれる、そんな人である。

2016年12月7日水曜日

観察医

「病理」「病理医」でツイート検索、というのを続けている。もう5年になる。毎日という程ではないが、数日に1度はチェックするようにしている。

そこで、わかったこと。

ドラマ「フラジャイル」が放送されてから、病理や病理医について語る人の数が、如実に増えた。

「推しキャラを病理医にした二次創作モノを嬉々として語る女性」。

何を書いているのかさっぱりわからない人もいるだろうが、いい。こんな日がくるとは思わなかった。

「病理医」が、まるで外科医や物理学者のように、観念的な、ある種のイメージを伴う、必ずしも現実とは一致しないかもしれないが、しかしアヤシイ魅力を持つコトバとなって、人口に膾炙していく様子を、ぼくはこの5年間、観察し続けてきたのである。

ときに、医学生なのだろう、こんなツイートわ見る日もある。

「病理実習めんどくせ、絶対病理医にはならね」

はじめてこのツイートを見たときのぼくの感想はこうだ。

「び、病理医が、選択肢に登場してる! 忘れ去られてないんだ!」



ぼくは、自分の家族や友人に、自分の職業を説明するのがとても楽になった。

長瀬くんのやつだよ。

これでいい。リアクションはこうだ。

「似ても似つかねえwww」

このやりとりができること、なんて幸せなんだろう。

2016年12月6日火曜日

病理の話(25) 病理報告書の書き方 プロ向け

「病理診断報告書の書き方」について、ぼくのやり方を述べる。特に、「診断がやや難しかった時」の書き方を記す。

まず。

臨床医が一番最初に目にする一行目に、結論を書く。

「本病変は、○○癌です。○○に転移があります。やや特殊な組織像であり診断に難渋する部分がありましたが、後述する根拠によって○○癌と診断します。」

次に、二行目から、いわゆる規約事項と呼ばれる、臓器毎に決まった「書かなくてはならない、書くことが推奨される事項」を箇条書きにする。

「以下に規約事項を記載します。
・サイズ
・形状
・WHO、UICC、日本の取扱い規約などが定める分類方法など
・病変が採り切れているかどうか
・ステージング、と呼ばれる総合評価」

そして、規約事項の箇条書きの「あとに」、詳細な組織解説文を書く。

「本病変の詳細な病理像です。肉眼的に……。組織学的に……。典型と異なり……。免疫組織化学染色による検討では……。従って、○○、□□を根拠とし、△△を参考所見と捉え、前述の如く診断しました。」



とにかく結論が知りたい人は、一行目を読んで満足する。

とにかく規約事項(おきまりの分類・記載項目)が知りたければ、二行目から十二行目くらいまでを読んで満足する。

ほんとうに病理にまで興味があれば、あるいは、この病気がまれだとか特殊であるという理由を知りたければ、最後まで読み、満足する。



以上の、どの段階で満足するかは、レポートを読む人の職種やポリシーによって様々である。だから、段階的に書く。いつでも同じ場所(理想的には、同じレイアウト)に、だいたい同じ「レベル」の内容を書くようにする。

なお、「病理医だけが知っていればいい、専門的でマニアックな知識」についても、最後の方になるべく記載するようにする。ぼくらが思う以上に、最近の臨床家たちは、病理のやり方を知ろうとしている。ブラックボックスを開けようとしている。だから、病理医の方で勝手に「知らなくていいよ」と判断しないことも大切だと思う。

なお、病理のマニアックな知識をきちんと書いておくと、数年経ってからふと思い出して、「あのマニアックな所見、意味があるな、よし、調べよう」となったときにも、検索システムで容易に探し出すことができる。

専門的でわかる人にしかわからないことを書くと、

「規約事項は、規約の改訂により古くなる。しかし、病理医のマニアックな目線がもたらしたオタクな所見は、何十年経っても形態学的に同じ意味を持ち続ける」




***


今回の記事も、下に進むに従って「病理医として実際に働いた人しかわからない内容」が書かれている。

こういう記事を「読みづらい」と考える人も、確かにいるようなので、まだまだ研鑽が必要だなあとは思うが、今のところ、ぼくはこの「グラデーション・メソッド」で診断書を書くようにしている。

2016年12月5日月曜日

二刀流のゆくえ

学生時代から、自分は図抜けて頭がいいと思っていたし、頭脳を最大限に活用できる場で全力で燃えさかってやろうと、全方位に向けて、ビームのようなものを激しく打っていた。

ぼくは、「患者を救いたいから医者になろう」と思った記憶はない。このことについては、何度も何度も考えて、自分の心づもりを確認してきたから、たぶん本当のことだ。

大学に入る前、入った後、大学院に進んでからも、それから病理医になってからも、ずっと記憶を更新してきたけれど、およそ1度も「患者を救う」ということがモチベーションの主軸であったことはない。

無論、モチベーションの「補佐」をしていた、とは思う。いくらなんでも自分が、「患者を救う」という美しすぎる言葉に、何も感じなかったとは思えない。

でも、あくまで、補佐だ。自分のやることが結果的に患者や多くの人間の役に立つならば、それはそれでけっこうなことですね、存分に使ってください、ただしぼくは自分と科学のために自分の脳を使いますから。患者のためではないです。科学のためです。

その程度だったと思う。




そしてぼくは、研究者になろうと思った。学生時代に試験勉強をしたり、USMLE(米国医師国家試験)の勉強をしたり、有志でケーススタディの勉強会をやったり、英語の教科書の抄読会をやったりしながら、もちろん他の医学部生と同じように、剣道をやったり、バイトをしたり、まあほとんどの学生達が大変だ大変だと愚痴をこぼしながらも一通り学生なりの青春を謳歌していくのと同じように、「マルチタスク」という名の……実際には単なる「焦点のボケた」生活を送りながら、研究者こそが自分の生きる道なのだと、酩酊していた。

もし、真剣に自分の頭脳を使って仕事をしようと考えていたならば、もっとほかにやりかたはあったかもしれない。

いろんなタスクに浮気をするのではなく、ストイックに学問を磨いた方がよかったのかもしれない。

そもそも、そんな頭脳は持っていなかったかもしれない。

ぼくはずっと、そんな、心の声に耳をふさいでいた。ぼくはいろいろなタスクの中に埋没することで、心の間歇泉からときどき吹き出してくる、

「お前は、本当に、世の中に数人しかいないレベルの天才なのか? お前はそんなに、八方美人に、いろんな方に目を向けていていいのか? お前は、そこまで、すごいやつなのか?」

という、か細い泣き声のような自問に対して、

「いいんだ、いろいろやっているからすごいんだ、ぼくはすごいんだ」

と、大声でかき消すようなことをしていた。


研究者を目指すべく大学院に入ったぼくは、そこで、薄々感づいていた自分の限界と、毎日向き合うことになった。


研究という名の実験助手をし、頭脳労働という名の論文抄読をこなしながら、ルーチンとして降りかかってくる「病理診断というバイト」だけは、しかし、ま、向こうに患者がいるのだから、と、真摯に向き合うような顔をしつつ、実際には、「病理診断はあくまでバイト。研究こそが自分の活躍できる場所」と、お経のように何度も、何度も、何度でも唱えながら、来る日も来る日も、病理診断と実験の二足のわらじを「マルチタスクだから」と称して、相変わらずのピンぼけた生活の中で、そう、うすうすはわかっていた。


ぼくはそこまで優秀ではない、ということ。



26歳のある日、ぼくはニューヨークでメシを食っていた。向かいには、研究で留学を決め、数日後からニューヨークの研究所で働き始める予定の、元同僚である女性が座っていた。市原君はこれからどうするの、と問われて、ぼくは確かに、こう答えた。

「研究と病理診断の、二刀流でしばらくは行ってみたいと思うんですよ」

これは、ぼくなりの敗北宣言でもあり、敗北を認めない逃げの台詞でもあった。

ぼくは、この頃、自分の研究能力の限界を悟っていた。どうがんばっても、自分は天才ではなかった。何よりも、基礎研究の世界に真摯に打ち込み続けるだけの、精神的な集中力が絶望的に足りなかった。ぼくは、マルチタスクだと自分を甘やかしながら、ただ圧倒的に何かに対して没頭する力が、欠如していたのだ。

けれど、「二刀流ならば。それは、すごいことだ。得がたいことだ」と、自分の敗北を認めず、価値観をずらすことで、自尊心を保とうとしていたのではないかと思う。

向かいの女性は、すかさずぼくを袈裟斬りにした。

「二刀流なんて、ね。投げても打っても一流の選手なんて、世の中にはいないの。どちらかにしたほうがいいと思う」



***



北海道日本ハムファイターズには大谷翔平という天才がいる。まだ22歳の若者を見て、ぼくは心底恐れ入ってしまった。未だだれも成し遂げたことのない、二刀流がここにいるのだ。

そして、彼の姿を報道で見る度に、しょっちゅう、思うことがある。

ニューヨークにいたあの12年前、もし大谷翔平が二刀流で活躍していたら、ぼくは自分の研究者人生をあきらめられたのだろうか。

マディソン・スクエア・ガーデン近くのパブであの日……今まさにイバラの(しかし、色とりどりのイバラの)留学人生をはじめようとする女性研究者を前に、ぼくは、ただ日本に帰って実験の手伝いをするだけのぼくは、透明度の高すぎるスカスカの言葉で必死に自分をとり繕って、彼女の確固たる実績とウソのない気づかいを前にして、それまで築き上げてきた脆弱な心の骨組みを全て脱灰され、がらんどうになった。

ぼくは、研究者にはなれないんだなと、確信した、あの日。

もし、大谷翔平が、今のように、二刀流で活躍していたら、ぼくは必ず彼女に言ったことだろう、「病理の世界でぼくは大谷翔平を目指そうと思うんですよ」。

そこには中身も計算も何もない。ただ、自分のマルチタスク人生を肯定できる格好のサンプルを見つけて、鼻っ柱が折れるまでの時間を先延ばしにするだけの、青春の終わりを先に延ばすような、むなしい抵抗になったことだろう。

それでもぼくは、思う。

もっと抵抗していたら、今、ぼくはどこにいて、どんなPCの前に座って、何を書く人間になっていたのだろう。



日本に帰ってきてからのぼくは、「病理医なら楽勝なはずだ、医師ならできるはずだ」という無知が生んだゆがんだプライドの数々を、優しい先達によってひとつひとつ、虫を潰すように粉微塵にされていった。それは、研究者人生をあきらめた日以上に、残酷で、おだやかな光に満ちあふれた日々だった。

仕事、家庭、人格もまた崩れていき、ぼくは、じっくりと再構築を続けていった。「マルチタスク脳」を、どう使えば、人と交じって働くことができるのだろうかと。ぼくは誰のために、何のために、自分をどこに置いておけばいいのだろうかと。




今ここにこうして、顔を真っ赤にしながら、全てを思い出しているぼくは、不器用だけれど前よりは少しだけ堅実に、誠実になったであろう、ぼくである。

あの日、大谷翔平がいなかったから、敗北と向き合わざるを得なかった、ぼくである。

仕事中に、ブログを更新することすらできる、マルチタスクな、ぼくである。

二つ名モンスター狩猟クエスト

研究会の懇親会で、斜め向かいに座っていた先輩医師に、
「せんせい、ブログもやってんのお!?」
と驚かれた。

「それは、検索すればすぐ出てくるの?」
と聞かれ、いえ、ツイッターにまずはお越し頂き……と返事しようとしたら、向かいに座っていた女性医師が、

「ヤンデルで検索すりゃ出ますよ。」

と吐き捨てた。ちょっと笑ってしまった。

「市原」として参加している研究会で唐突にヤンデルって呼ばれることに、いまだに慣れないことが、少しおもしろかった。


そういえば、先日東京で参加した感染症の勉強会や、札幌でぼくらが開催した感染症の勉強会は、どちらも「病理医ヤンデル」として企画・参加したので、会場でしきりに「ヤンデル」と呼ばれたのだが、いちいち横を通る店員さんの顔が気になってしまったし、少し耳たぶの下の方が赤くなった。


昔から、「ネットで使うハンドルネームは、リアルで呼ばれても大丈夫なように、あまりはっちゃけすぎないようにする」と決めていた。けど、ハンドルネームをリアルで呼ばれる機会自体がほぼ無かった。油断していたのだろうな。病理の病をとって「ヤンデル」にしよう、と考えた時は、リアルで名乗る日が来るとは正直思わなかった。気づいたら公衆の面前でヤンデルだ。もう、しょうがない。


ときおり、ぼくはネットで、検索避けなのだろう、「某病理医」とか「某ヤ」などと記載され悪口を書かれている。さすがにいちいち検索してチェックすることはしないが、探しに行かなくてもたまに飛び込んでくるので、そっとミュートしてそっと忘れるんだけど、この間は、「某病人」と書かれていた。検索避けもここに極まれり。


おかげさまで元気です。

2016年12月2日金曜日

病理の話(24) 病理医と訴訟と保険のはなし

病理医は、訴訟に備えて保険に入る。病理専門医として診断業務に携わっている場合、最高1億円の保障を有する保険に、ほぼ必ず入る。人によっては複数の保険に入っている。

今日はいきなり金の話だ。

夢も希望もなくて誠に申し訳ない。



なお、実際に病理医が訴えられて、億単位の賠償金を請求されたケースというのは、ぼくはまだ知らない。ぼくの知人にはいない。いたら大変なことだけど。

「……いやいや、医者なんて、どの科にいてもたいてい訴訟の対象になるでしょう。あの医療ミスとかあの医療事故だってさ、病院が訴えられてたじゃないの。いくら病理のブログだからって、病理医だけ特別扱いしなくていいんじゃないの?」

と、違和感を覚える人もいるかもしれない。

けれど、あえて「病理医が抱える、訴訟のリスク」を強調するのには、わけがある。



病理医の仕事は、ほぼすべて、公的文書として残る。「病理診断書」「病理組織報告書」などと呼ばれる「レポート」こそが、病理医が仕事をした証だ。

我々は患者さんと直接話をしない。その代わりと言ってはなんだが、臨床医をはじめとする多くの医療者と会話をし、コミュニケーションをとる。ディスカッションを行い、情報をすり合わせた末に、一つの診断を書いて、臨床医に託す。

患者さんに届くのは、この、診断書の「文面」だけだ。

医療者と話し合ったニュアンス、ひそかに懸念していた可能性、自信の深さなどは、患者さんには伝わらない。



たとえば、救急現場で一刻一秒を争うときに、医療者が瞬間的にとまどい、処置が2秒遅れたとする。その2秒が、結果的に、患者さんの命を奪うことが、あるだろうか。

あるかないかと言えば、おそらく、「わからない」と思う。

その2秒が、真に患者さんの命に肉薄するものだったかどうかなんて、誰にも評価できない。だいいち、高度な専門技術を要する局面を「適切だった、適切ではなかった」と評価するなんて、素人には絶対に無理だし、なんなら、医療者でも難しい。

すなわち、医療系の訴訟というのは、基本的に、もめる。

けれど、病理診断をめぐる訴訟というのは、比較的もめにくい。文書で「癌です。」と書いていたものが実は「癌じゃなかった。」となれば、誰もが「ああ、間違いだな」とわかるからだ。

病理医がとまどい、逡巡した瞬間があったとしても。病理報告書に書いておかなければ。「迷いました」と書かなければ。そのゆらめきは、患者さんには伝わらない。



病理医は常に「10割」を出さなければいけない、ということだ。実際には、診断が難しい症例など腐るほどあるし、3割、4割に悩んで、6割くらいの診断しか出せない、出したくないことだってある。

しかし、患者さんに届くのはいつだってレポート1枚だ。



この、レポートをめぐる「考え方」というのは、病理医によって少しずつ異なる。

大別すると、「断定的な、簡潔な書き方を好む病理医」と、「様々な可能性に言及する、あいまいな書き方を好む病理医」に分かれる。

レポートの書き方については、ぼく自身にもあるポリシーがある。自分が抱える訴訟のリスクが頭にちらつく一方、結局、誰のためのレポートであるかを考えた結果、ぼくはこのように書こう、と、今のところ決めているやり方がある。

長くなるので、次回に続こう。

2016年12月1日木曜日

禁 禁 禁止 モンスト禁止

ニンテンドークラシックミニを、買いませんでした。

めっちゃ買おうかと思ったんだけど、すげぇ迷って、まあいらないかなーとも思ったし、結局、買いませんでしたけど。うーん。

入ってるソフト30本のうち、24本はやったことある。15本くらいは、めちゃくちゃいっぱいやった。6本はやったことない。

でもまあどれもよく遊んだよなあ。懐かしいなあ。うーん、買えばよかったかなあ。でもどうせ家でテレビに向かってゲームする時間なんてないよなあ。




「○○しない」という選択肢に対して、後悔している。以上の行動は、いわゆる自己啓発本と呼ばれるたぐいの指南書では、御法度とされることが多い。

「やらないで後悔するくらいなら、やって後悔しろ!」

たいていはそうやって、諭される。

この定型文を、いつも疑問に思う。

「……そうかねえ。やって後悔するくらいなら、やらないで後悔していたほうが、ましじゃないのかねえ。精神のぐじぐじにさえ耐えれば、時間も金も、なにも失わないんだから、やらないで後悔した方が、どちらかっていうと、お得なんじゃないのかねえ。

ぼくが何かをやらないことで困るのは、むしろ、世の中のほうじゃあないのかねえ。お金が回らないとかさ。人が動かないとかさ。

別に、いいじゃん、しないという選択肢。」




ぼくはそういう人間で、できれば、「やらないでぐっと我慢する自分」の方が、なんというか、思慮深くて、用心深くて、趣深くて味わい深いだろうと思っている。

日ごろ、検査室とか研修医室とか友人間とかツイッタランドなど、ありとあらゆる場所で、

「とりあえず新しいものとかさ、市原がやるからさ、俺ら、待ってようぜ」

と、バカにされている。

いつも、浅慮、短慮、軽薄な鉄砲玉であり毒見係であるぼくは、自分のなりたい「やらなくてぐじぐじ後悔するタイプの人間」になれず、「やって後悔する役目」についてしまっている。



ニンテンドークラシックミニを注文しました。

2016年11月30日水曜日

病理の話(23) 多面化する内科うらがえる外科そして病理のこと

内視鏡というツールがある。すごいものだ。たかだか数十年の歴史しかない、鼻から入るほど細っこくてひょろながいチューブのくせに、胃や大腸、気管支、胆管などの中身を克明にぼくらの眼前に示してくれる。

内視鏡はすごい。マジックハンドのようなマニピュレータや放水装置などを搭載している。ちょっとしたキズを縛ったり、胃や大腸の中から小指の爪の先くらいの検体を採ってきたり、水をまいて視界を良好にしたり、特殊な色素を噴出して病変に色を付けたりすることができる。

最初、カメラで胃を覗き始めた人々の興奮は、いかばかりだったか。

手術で採って、切り開かないとおがめなかった病変を、生きた人間の腹の中にあるうちに、直接観察できる。たまんなかったろうな。

まあ患者も最初の頃は苦しくてたまんなかったろうけど。


***


内科、外科、ということばがあるが、これらは考え方によっては「逆転している言葉」である。

内科は、体の外にしか触れないではないか。外科は、腹を切って、体の内部を触るではないか。内科が外から、外科が内からアプローチしてるじゃないか。逆だよなあ、ということである。

これは、単なる言葉のマジックで、よく考えると「内科は体の内から(薬などを用いて)治す、外科は体の外から(手をつっこんで)治す」のだから、何も間違ってはいないのだが……。

近年の消化器内科などというのは、実際、内視鏡を使って「外科的手技」をばんばんやってしまう。中から薬で、とか、外からメスで、などという分け方は、最初それしかできなかった時代に名付けられたものだ。人は、ツールを手にするごとに、名前を軽々と飛び越えて職務を果たそうとする。


さて、では、病理医はどう変わったか。


個人的に、病理医がいちばん変わったのは、「病の理(ことわり)に詳しいだけの人ではなくなった」ということかな、と思う。

病の理、すなわち病態生理に通じ、解剖学や細胞生物学を駆使して疾患を解き明かそうとした病理医の仕事は、どんどん細分化していった。

基礎研究方面では、

「○○という遺伝子変異を有する□□病で高発現している異常タンパクと結合したり離れたりしている可能性がある△△というタンパクをコードしている遺伝子をノックダウンした結果発現が向上したタンパクのメチル化について」

みたいな、もはや元はなんだったのか、そもそも患者と何の関係があるのかわからないような研究テーマを扱うこともある(まあめちゃくちゃ楽しいですけどね)。

臨床病理診断学の方面でも、

「食道胃接合部に胃酸逆流が生じることによって形成されるバレット粘膜のうちショート・セグメントのものに発生するがんのリスクと関連するかもしれない腸上皮化生の頻度と分布」

のような、すでに病からだいぶ離れた分野を丹念に読み解くことがひとつの価値だったりする(もちろん相当熱いんですけどね)。



ぼくは、自分のオタク性というかやっかいな部分を認識しているつもりだ。

臨床医に対するインフォームド・コンセント(臨床医に病理のことを納得し理解してもらうこと)が大事だと言い、臨床画像・病理対比などという仕事をして「コミュニケーションをとる病理医」の仮面を被ってはいるが、実際、「結局そこまで掘り進んだらもう何の役に立つんだか皆目わかんねぇよ」みたいな、純粋に細胞だけを追いかけていくような仕事にとてつもない魅力を感じるし、ノーベル賞受賞者に「何の役に立つんですか」とたずねた記者の尻の穴からホルマリンを注入してやりたい衝動に駆られる。

病理医の仕事もまた、内科医や外科医と同じように、多面的であり、複雑化している。

内科が外から、外科が内からの診療を行う時代だ。

病理医は、「病(やまい)の理(ことわり)」を修める医師であると同時に、「理(り)に病む」オタク学者であってもよいのではないか。

そんなことを考える日もある。

2016年11月29日火曜日

きっちょ(きっと)カラスが鳴いたからだよ

雪が降るとすごく静かになる。

おそらく、ぼくらの耳には、普段は気にも留めない「ベースレベルでの雑音」みたいなものが、絶えず飛び込んできているのだろう。かつて、タモリは「静かな部屋に入るとシーンという音が鳴っているように感じる」とかなんとか言っていた。

雪は、「シーン」すら吸収してしまうように思う。原稿仕事が続いていた。両耳にイヤホンをして、すごく古い洋楽を聴きながら、延々と「である」「なのである」「であるのだ」の入れ替え作業などをしていた。曲が終わり、さて次はどのアルバムにするかと、iTunesをいったん止めて伸びをして、イヤホンを耳から外したとき、シーンという音がしなかった。ああ、雪だろうなと思った。外は暗く、実際に雪が降っているかどうかはわからなかった。夜通し、時たまシーンという音が聞こえたり聞こえなかったりするように思えた。朝になっても無音は続いていた。いよいよ朦朧としてきた午前4時半ころ、カア、カアという鳴き声が聞こえ、窓の外をみたら、雪が止んでカラスが鳴いていた。シーンより先にカラスが、雪が止んだことを教えてくれていた。

カラスの鳴き声に何かを感じそうになるも、まあ、そういうものではないわな、と考え直したのは誰だったか。

「銀座のカラス」を書いた椎名誠の、カラスはあくまで比喩だったように記憶しているが、夜通し原稿用紙やらパソコンやらに向かい合う人間だったら、同様の経験は一度ならずともあるだろう。

カラスは、天気が小康状態に入ったことを教えてくれる。朝方のカラスの鳴き声は吉兆である。

ぼくは勝手にそう決めている。

2016年11月28日月曜日

病理の話(22) 朝か夜かで診断が変わったらいやだよね

「病理医は患者をもたないから、夕方5時で仕事が終わるんだろ、楽だよな」……と、面と向かって言われたことは、ない。

しかし、ネットというのはおもしろいもので、面と向かっていないからだろうか、リプライならもらうことがある。「5時には帰れる仕事のくせに偉そうに」。まったくこの通りに言われたことがある。

へえ、こうやって言う人って、ほんとにいたんだ、都市伝説ではなかったのか。とても驚いた。

まあ、勤務時間について「いや待て、ほんとはもっと忙しいんだぞ」と反論するのも子供っぽいし、「そうだよ、それがなにか」と開き直るのも大人のやることではない。だから、今日は、「時間」ではなく「時刻」の話をしてみようと思う。



病理医は、プレパラートを見るとき、

「朝の方が良く見えて、夜の方が悪く見える」

という。

細胞が良く見えるというのは、視界が良好であるとか、隅々まで見渡せるという意味ではない。「良性よりに見えてしまう」ということ。

逆に、悪く見えるというのは、細胞の良悪を判定するときに、「悪い方」、すなわちがんに見えてしまう、ということ。

大変なことだ。

病理医が細胞の良し悪しを決めるのは、仕事の中でも一番大切な、一番ぶれてはいけないことのはずだ。

体の中から採ってきた細胞が、良性なのか、悪性なのかによって、患者さんの人生も、周りの医療者がこれからやることも、まるで違う。そこを白黒はっきりさせるのが病理医の大事な仕事のはずではないか。

それが、「朝と夜とで、見え方が違う」とは、どういうことなのだ。



ちなみに、ぼくだけがこう思っているのではない。複数の病理医が、全く同じことを言う。北海道から沖縄まで、日本人であればだいたい同じことを言う。さらにはアメリカ、香港など様々な国の病理医にも聞いてみたが、やはり結果は同じだった。

……すみません、香港の人には聞きましたがアメリカの人には聞いてませんでした。盛りました。けどまあ、言うだろう。




光学顕微鏡というのは、機械の下の方に光源があり、プレパラートを下から照らして観察する仕組みになっている。子供の雑誌の付録についてくるような安価な顕微鏡だと、太陽光を反射させる鏡がついていて、反射光でプレパラートを見ることもあるが、プロが使う顕微鏡には太陽光なんぞ必要ない。外界が明るかろうが暗かろうが、検体の見栄えにはあまり影響しない。

……と、思われがちなのだが……。実際には、部屋が明るいか暗いかで、如実に見え方が変わる。

なんなんだろうねあれは。錯覚なのかな。それとも、実際に光量が微妙に違うせいなのかな。あるいは、朝は元気で、夜は疲れている、すなわち眼精疲労のせいで見え方が変わるのかもしれない。けど、やっぱり、部屋の明るさが一番効いている気がする。詳しい理由は、きっと「仕事場の明るさと目に与える影響」みたいなのを研究している人に聞いてみればわかるんじゃないかなあと思う。

原因はともかくとして、全く同じプレパラートを見ても、周囲がより暗い夜の方が、検体の色が濃く、細胞核が少しだけダークに感じられる。

微妙な違いだ。しかし、病理医にとっては、そこそこ大きな違いなのだ。



こんな、病理医の主観で診断をころころ変えられたのでは、患者も臨床医もたまったものではない。

だから、(以前にも書いたけど、)病理医は自分の診断をとことん文章化し、理論的に説明できるようにする。なんとなく悪そうに見えた、なんとなく核が濃く見えた、のような、「なんとなく」を診断のヒントとして採用しないようにする。多少核が濃く見えようが、周囲にある正常細胞と丁寧に比較をしたり、色合い以外の情報をきちんと総合することで、結局は精度の高い診断を成し遂げる。

けど、まあ、精度の高い診断をすると言っても、人間だ。なるべく間違いの芽は摘み取っておきたい。

だから。どうしても白黒をきっちりつけなければいけない診断をする場合には、時刻にも気を遣う。

たとえば、診断をしたのが深夜だったら、必ず「翌朝にもう一度見直す」ようにする。「一人時間差」と呼んでいる(ぼくだけです)。こうすると、前の晩にはあんなに悪そうに見えたけど、朝になって冷静に見てみたら、もう少し臨床医と相談したほうがいいな……などと、時刻の違いによる誤診を防ぐことができる。

ほかの人、特に初期研修医や臨床医のような、病理を勉強し始めて間もない人がプレパラートを見て書いた診断を「チェック」するときも、その人が朝診断したものか、夜診断したものかをいちおう確認しておく。

夜診断したものの方が、より、「悪性より」に診断されていることが多い。そのことをこちらとしても把握しておく。

診断がどうしてもぶれてしまうと悩んでいる病理初学者に、「朝から晩まで診断してると、日内でも診断がぶれるんだよ」という話を教えるだけで、何か腑に落ちるのだろうか、診断制度がぐっと上がるということも経験した。

まったく人間の目、さらには脳というのは不思議だなあと思う。



さて、冒頭で、「病理医は9時5時で仕事が終わるからいいよな」の話をした。

ぼくは、実は、病院でプレパラートを見る時間は「昼3時まで」に限定している。夕方以降にはなるべく顕微鏡診断をしない。

夕方以降は、カンファレンスが多い。会議もある。研究会も夕方以降だ。それに、カンファレンスの資料を作ったり、画像・病理対比のプレゼンを作ったり、論文や原稿を書いたりといった、プレパラートを見ない仕事だってある。そういう仕事をなるべく夕方に回して、顕微鏡を見るのは極力「早朝から午前中」に集中させる。

どうしてもプレパラートを見なければいけないときも、良悪の判断が迫られる「生検」はできるだけ朝に回す。仮に、生検を夕方に見た場合には、前述したように、朝方、もう一度見直すようにしている。

周りが暗いときに顕微鏡を見ると悪く見えるとわかっているなら、明るいときにだけ診断をすればいい。

こうして、ぼくの出勤は基本的に「朝方」に変わった。病理医のワークスタイルはフレックスだ。自分の都合で、診断する時刻をいじることができる。


今後、「9時5時かよ! いいなお前の仕事、楽で!」と言われたら、「いや、3時には終わるわ。」と答えてやりたい。早くそういうリプライが来ないかなあと、楽しみに待っている。

2016年11月25日金曜日

惹句・レモン

東京に出張するときは、羽田空港第2ビル・京急線改札前にあるプロントで昼飯を食うことが多い。たいてい、カルボナーラにグレープフルーツジュースを注文する。かれこれ10年にわたって、ずっとこの組み合わせである。ほかのパスタは食べないし、ほかのドリンクも飲まない。

競技場に入るときには左足から入るとか、大事な試合の朝にはカレーを食うとか、スポーツマン風のこだわりなら、ま、かっこよかったかもしれないが、ぼくの場合はどちらかというと、こだわっているというよりも、平時より余計に精神力を消費する出張のときには余計なことに頭を使いたくない、ある程度の結果がわかっているものにさっと全身を預けて楽になってしまいたい、という、韜晦、堕落に過ぎない気がする。


あるとき、いつものようにカルボナーラを頼んだら、パスタの上にレモンが乗っていた。

ぼくはもうそれだけで、腰が抜けるほど驚いてしまった。

あ、あの、タマゴが執拗に絡みついた、さらにその上に嫌がらせのように温泉卵まで乗っかった、コレステロールまみれのカルボナーラは!どうしたんだ!

皿1個にいくつタマゴ使ってるんだよ、という、プロントのアホっぽいカルボナーラが、好きだったのに。

……レモン乗せやがった。タマゴ減らして、レモン乗せやがった。

北海道大学のそばにあったラーメン屋がつぶれる半年前に突然レモンラーメンを提供し始めた時の、疲れ切ったおじさんの顔を思い出した。

からあげにレモンかけていいですか、と言いながらザンギにレモンをかけようとした後輩を「からあげとザンギが一緒だと思ってるのか?」と問い詰めた先輩のことを思い出した。

ギャンブラー哲也で「唐辛子をつまみに酒を飲めば、胃が荒れて腹がふくれたような気分になるから、金がかからず飲めるんだ」と書いていたのを読んでしばらくのちに、「そうだ、レモンをかじりながらビールを飲んだらうまいだろうか」と、レモンスライスを用意してビールを飲み始めて2秒で飽きてしまい途方にくれた大学時代を思い出した。

レモンに金属板を2枚刺して電球に灯りをともした小学校時代を思い出した。



レモン乗せやがった。プロントめ。レモン乗せやがった。



ぼくはもうプロントでカルボナーラは食わないのだと思う。

ぼくは、これからも、いろいろなお店で飲食をしてみたいし、自分でも様々に料理を作ってみたいし、あらゆる酒の飲み方をしたい。しかし、東京についた日に、それからの半日をどう過ごすか、脳をどうやって使おうかと沈思しながら胃に入れる、別にうまくもなければすごくもない、ただタマゴだけが妙に多い、あのカルボナーラが好きだったのに。

2016年11月24日木曜日

病理の話(21) 病理とカラーのこと

色の話をしよう。

臓器は、いろんな色をしている。病理医は、 臓器や病変の色を見て、さまざまな推測を行う。

推測の答えは、顕微鏡を見ることで解決されることが多い。つまりは、臓器の色合いを見ても見なくても、結局は顕微鏡標本を作って細胞を見てしまえばいいわけで、実は色にこだわる必要は、 そこまでない……?

それに、臓器の色、特に病変そのものの色調を実際に目にするのは、ごく限られたシチュエーションを除けば病理医だけである。つまり、臓器が何色をしているから異常だと騒いだところで、その情報が 臨床の医療者達に活かされる機会は、少ない……?

いや、色は、熱い。色こそは色々与えてくれる。

まず、病理医というのは、なんでもかんでも顕微鏡で見なければ仕事にならないわけではないのだ。というか、実のところ、病理医の診断は、

「臓器や病変を目で見たときに9割完了している」

ことが望ましい。

 たとえ話をする。手術で採ってきた胃の中に、 3センチ大の病変がひとつ、そして、5ミリ大の病変がひとつ、あったとしよう。

 胃をすべてプレパラートで見ようと思うと、実はプレパラートが150~200枚必要となる。プレパラート1枚ではそんなに多くの範囲を観察できないからだ。

ここで、我々は「切り出し」という作業を行い、 顕微鏡で見る価値のある場所だけを切り出してきて、プレパラートにする。診断に必要十分な部分をうまく探し出せば、200枚ものプレパラートと格闘する必要はない。

このとき。病理医が、3センチ大の病変を見逃すことはないだろうが、5ミリ大の病変を見逃したとしたらどうなるだろうか?

 「病気があることに、永久に気づけないまま、検索が終わる」

ことになる。だってプレパラートになってないから。顕微鏡で、見ようがないから。

だから、目で見て探ることは、とても大切だ。同時に、目で見た像からいかに顕微鏡像を予測するかも、プレパラートをどれくらい作るか、どのように切り出すかを考える上で、重要になる。

じゃあ、どうやって見る? 病変を病変だと認識する?

周りと比べて、あっ、ここはおかしいぞ、と気づくのは、色だ。色。

加えて、高低差、模様の違い、なめらかさやゴツゴツ感、そういった表面性状によって見極める。

だったら、正常の組織はどういう色をしているのか、異常があるとどういう色に変わるのかを、知っていなければならない。

前項で説明した「写真」も駆使して、肉眼像から得られる情報をきちんと抽出する。



組織が、どういう色になるかを決める因子というのがある。

専門的だが、少し書いておく。

まずは血流だ。血の巡りがよければ、それだけ赤みが増す。

炎症があれば血の巡りはよい。 打ち身が赤く腫れ上がるでしょう。あれと一緒。

腫瘍も血流がおかしくなる。正常ならざる、おかしな増殖をする細胞の周りでは、 栄養補給のスタイルもまたおかしくなる。

そして、脂肪だ。脂肪は黄ばむ。黄色い。生体内で黄色いものはいくつかあるが、その多くは脂肪に関係がある。

そもそも、あらゆる細胞は「細胞膜」を持っているのだが、 細胞膜とはリン脂質二重膜といって、脂肪を含んでいる。細胞が盛大にぶち壊れると、細胞膜がカケラとなって降り積もる 、すなわち、脂肪成分が降り積もる。

必然、「壊死(えし)」とか、「膿瘍(のうよう。うみのこと)」は、黄ばむ。


まあ、こんなことをつらつらと覚えておく。そして、たまに切り出しを目にする臨床医や研修医の前で披露し、情報を共有する。

たいていは、一緒に考えてくれる。


***


かなり専門的だが、ある腫瘍の話をしよう。あまり具体的には書かない。

ある腫瘍は、細胞密度が高く、壊死や線維化が少ないという特徴を持つ。まあ細かいことはいいのだが、こういう腫瘍は、

「色調が、ホタテの身」

に似ている。色調だけじゃなくて、硬さ・弾力性なども似ている。形は似ていないけど。

イメージしやすかろう、と思って、研修医に、「○○は色や硬さがホタテなんだよ」
と教えた。すると彼はどん引きなのである。

「ワッー! やっぱ病理医って臓器を食べ物みたいに見てるんスねェー!」

色を失うとはこのことだ。

2016年11月22日火曜日

中年の定義

たとえば「私立探偵濱マイク」を見て、映画館の屋上に住んでみたいと思ったり、「紅の豚」を見て、アドリア海の孤島に暮らしたいと思ったりした場合に、これを人に言うと、あー、中学生みたい、だとか、男のコだよねえ、とか、いろいろと解釈をされて、そういう解釈をぶつけてくる人はたいてい女性だったので、やっぱ女のコだなあ、だとか、いちいち論評家気取りかよ、などと言い返すなどし、互いに奥襟を奪い合うようなことも、あった。

それがぼくの若さだということには気づいていなかった。

若いということは、分析力が甘く、発言が軽く、決断が早く、見通しが甘いことだ、と、レッテルを貼っていたから、若いということが、「人を評価したがり、自分の評価に噛みつくこと」だなどとは、思ってもいなかった。

若さとは、必要以上に分析し、用もないのに重いことを言い、決断のタイミングが自分の都合であり、見通しが狭いことなのであって、決して若者の分析は甘くないし(ただし偏っている)、若者の言うことが軽いわけでもないし(ただし重すぎるきらいがある)、若者の決断は早くも遅くもあるし(ただしひどく身勝手だ)、若者の見通しは時に深い(ただし偏っている)。

たとえば、「大人はみんなわかっていない」という言葉は、「わかっていても言わない、わかっていてもあきらめるということを選択する人がいるのだ」、ということを、わかっていない人だけが発することができる。

そして、若者はみんなわかっていないからこそ、知らないからこそ、何かを切り開き……


と、必要以上に分析し、用もないのに重い話をはじめた、ぼくはおそらくまだ若い方に入るのだろうし、気持ちだけは若いのよね、と、分析されれば、もちろん、カチンと来て、なんだこのと言い返したりもするし、大人が、中年が、こんなに若いままで勤まるものだとは、正直、知らなかったなあと思うし、やはり中年を定義するには、白髪か下っ腹か息切れかオヤジギャグの切れ味をもってするしかないのではないかと思う。

2016年11月21日月曜日

病理の話(20) 病理医と写真とスケッチのはなし

病理医が、医療者に、「病理診断の根拠」を述べる場合、文章だけでは難解で伝わりにくい。

だから、適切な写真を撮る。マクロ、ミクロと、撮る。この話、病理の話(19)の続きである。



さて、病理の写真は構図が命……というか、「何を主人公にするのか」「何を脇役として写し込むか」がとても大切だ、という話をしてきた。きっちりと構図を考えて撮られた写真には、文章で何行書いても伝わらないほどの意味が内包される。

ただし。

実際に写した写真を、無言で医療者にわたして、
「さあ、いい構図で撮っておきましたから! じっくりと味わって、ぼくが言いたいことを感じ取ってください!」
と、芸術さながらに丸投げすることには、何の意味もない。

ここはアートの出番じゃないのだ。受け手の感性によって、受け手の得られる情報やリアクションが、変わってしまっては困るのだ。

だから、我々は、写真にキャプションをつける。

ここは病変の境界部ですよ、と、写真の上に、色を変えたペンで線を引く。

「ここには、壊死があります」「こちらは炎症が強いです」「ここからは少し、癌の雰囲気が変わっており、より悪いヤツに変貌しています」「周りには、こんな別病変があります」などと、写真に直接、書き込んでやる。

「マッピング」と呼ばれたりする作業である。

マッピングという言葉は、正確には、マクロ写真(臓器を直接写真に撮ったもの)に対して使われる病理用語だ。ミクロ写真(顕微鏡写真)に注釈を書き込む作業もあるのだが、こちらには名前が付いていない。ま、どちらも、「写真にキャプション(注釈・解説)を入れる作業」である。言葉はどうだっていい。

たとえば、医者が患者さんに説明するとき、丁寧に絵や図を書きながら話す場合がある。これと同じように、病理医も、医療者に説明するときには、マッピングなどの細かい手間をかけたほうが、よりわかりやすいし、医療者も納得してくれやすい。

「医療者に対するインフォームド・コンセント(説明して納得してもらうこと)」を行うのが病理医だ。説明は、必要十分な内容を、わかりやすく迅速に、論理立てて行う必要がある。写真をただ見せて、あとは読んで考えなさい、では、だめだ。医療者は納得してくれない。

写真に説明書きを付け加えることを想定して、写真の構図を決める、ということもやる。

多少、ターゲットが小さめに写っていても、解像度がしっかり担保されていればOK。周りに空いた隙間に、説明を書くと、まるで教科書のような(マッピング付き)写真ができあがる。

解説をつけることまで含めての、「病理写真」なのだ。


さて、ほんとうに難解な症例になると、ぼくは、写真のほかに、「シェーマ」と呼ばれる模式図を書く。

シェーマは、スケッチに似て非なるものだ。模式的に書くものであるから、必ずしも正確である必要はないのだが、強調すべきところを強調し、省略するところがあってもいい。大切なのは、受け手が欲しがるであろう情報、受け手に与えたい情報をきちんと盛り込むということだ。意味のある取捨選択をした絵でなければいけない。

決して、「精密模写」ではない。

シェーマを書くには、病理に対する知識が必要となる。知識がなく、精巧な静物写生をすることには、意味がない。


***


昔から、医学部の病理学や組織学の講義では、「顕微鏡のスケッチ」という課題が与えられることがある。今でも多くの大学で導入されたままであると聞く。

ぼくは、あれが、あまりよくないやり方だなあ、と思っている。

病理学の知識もなしに、スケッチをさせるから、医学生の約1/3は、色鉛筆を駆使して見えたものをただきれいに書こうとするし、1/3は顕微鏡を見ながら絵を描く慣れない作業に飽きて、ひたすら病理が嫌いになる。残りの1/3くらいは、最初から「シェーマとして描く」ことをなんとなく理解しているので、大事なところはどこだろうと教科書を見ながら考えたりもする。

1/3にきちんと勉強をさせるために、1/3には勘違いをさせ、1/3は脱落させてしまう、というのは、効率としてあまりよろしくない。

だったら、組織スケッチの時間は、「講師がスケッチをし、それを鑑賞してもらう」時間としたほうがよいのではないか。

プロジェクタで、学生に知っておいてもらいたい腎臓糸球体だとか、サイトメガロウイルスに感染した血管内皮とかの写真を映し出す。肝細胞癌の断面図や、非浸潤性乳管癌のマッピング図でもいいだろう。

これらを、リアルタイムで、教員がスケッチすればいいのだ。それを、学生は「鑑賞する」。

自分が見ている写真を、ただ写実的にうつしとるのではなく、意味を与え、知恵を付与して、「臨床医でもわかるようなシェーマ」にする過程を見れば、医学生も何かを感じる頻度が多くなるのではないか、と思う。

なんでもかんでも自分で手を動かせ、体を動かせという、体育会系の理屈から、一番遠いところにいるはずの医学部教育で、いまだに「知識が不十分なままにシェーマを書かせる」などという非効率的な学習方法を選んでいるのは、ぼくは、無駄が多いように思う。

周りにいる医者はほぼ間違いなく、
「学部時代のスケッチ、何の役に立ったんだろうなあ」
と言う。病理医の人気を下げ、知名度を低くし続けてきた歴史の一端は、「組織スケッチ」によって形成されたのではないかと、ぼくは割と真剣に勘ぐっている。

2016年11月18日金曜日

神田 富士そば 月見 340円

ぼくは、とりたててそばの味にうるさい人間ではない。

温かく、なんらかの出汁を感じれば、それはうまいものだと感じる。

中年になってからは、一味を振るようになった。そばなら一味、牛丼には七見、 塩ラーメンには胡椒。備え付けの香辛料に手が伸びるようになるのがおじさんの証だ、と胸を張っている。



先日、出張から帰ってくる日、早朝に入った、神田駅前の富士そば。

ただそばを食った、ま、うまかった、それだけの店、と思った。

ツイートをした。ごちそうさまです、と書いた。

すると、断続的に二通のリプライが届いた。異口同音に、こう書かれていた。

「まだ早朝オープンの喫茶店がない頃からそこにあった富士そば。早朝に温かいものを食わせてくれた富士そば。いいお店でしょう」

そうだな。

その通りだ。

食い物を評価するのは、「食事のために食事をする人」ばかりではない。

忙しい生活の隙間にはめ込むように、密度から逃げ出すように、「何かを食いに入る」。そんな時間が、生活を潤すと同時に、「味」にも意味を与える場合がある。



そういえば、小さい頃、雪の日に空き地に作ったかまくらは、0.5 畳のワンルームで、ガスも水道もなく、トイレもなく、しかし、ただひたすらに暖かかった。いくつものワンルームに暮らしたけれど、あれがぼくにとっての富士そばだったのかもしれないなあと、そんなことを思う。

退店時のあいさつとしては「ごっそさーん」が似合う気がした。

2016年11月17日木曜日

病理の話(19) 病理と写真のど真ん中をまじめに語る

複数回にわたり、「病理の話」の中で、「写真はだいじなのだ」ということを書いた。

いよいよ、今日から、写真の話をする。病理と写真の関わりについて、書こうと思う。



病理医が撮る写真には、大きくわけて2種類ある。肉眼写真と、組織写真だ。

肉眼写真というのは、体の中からとってきた臓器や病変を、そのまま、あるいは包丁で切って割面を出すなどして、デジタルカメラで撮った写真。

これに対し、組織写真というのは、プレパラートを顕微鏡で拡大したものを特殊なカメラで撮影した「ミクロの世界の写真」である。

組織写真をミクロ写真とも言う。これに対し、肉眼写真のことはマクロ写真と呼んだりする。



「病理医ヤンデル」というツイッターアカウントを作る前に、どんなアカウント名にしようかと考えていた際、「病理少女 まくろ☆ミクロ」という候補があった。

ま、それくらい、マクロとミクロは大事なのだということなのだが、今あらためて、病理少女にしなくてよかったなあ、と、安堵する次第である。


(※「次第である」は深爪さんのパクリですが、深爪さんほど切れ味あるブログが書けたらどれだけいいだろうか、と、あこがれています。)


***


マクロ、ミクロ、いずれも非常に大切だ。

「病理の話(18)」でも書いたが、
「病理医が顕微鏡でみて思ったことを、すべてコトバだけで説明すると、病理医以外の人がパンクしてしまう」
という事情がある。やはり、形態診断学(カタチを見て診断する学問)は、写真を活用して説明するのがダントツにいい。

説明に便利であるという理由。これはとても大きい。

加えて、ほかにも、病理医が写真を大切にすべき理由がある。写真が趣味の人であれば、わかりやすいかもしれない。

ぼくたちは、写真を撮ろうとするとき、それも、よりよい写真を撮ろうとするとき、対象を「よく見よう」とする。

写真を撮る前の段階で、ファインダーを覗きながら、「この光景を、誰かに、いかにうまく伝えようか」、あるいは、「将来自分で見直したときに、この感動を思い出せるように」などと、考えながらシャッターを切る。

これが、対象を、より深く、真剣にみることにつながる。

目の前に広がっているものをただ漫然と眺めるのではなく、意味を探しながら見る。写真1枚の中に、いかに多くの情報をぶち込むか、あるいは逆に、いかに重要な情報だけを選んで他をそぎ落とすかを、考えた上で、見る。

写真を大事にする病理医は、診断に切れ味がある。教科書や論文を読んでいても、わかる。適切な写真を選ぶ人が書いた論説は、鋭く、わかりやすいものだ。


***


少し専門的な話をする。病理医が撮影する写真でいちばん大事なのは何か?

ぼくは、構図だと思っている。

写真を趣味にする人は、写真の軸(傾き)や、アップ・ロングの使い分け、ぼかし方、露出、色温度などさまざまなファクターを複合的に調節しているようだが、こと、病理診断を説明する上で必要なのは、構図である。

写真のフレームを3×3で9分割し、分割した線や交点の上に着目したいものを配置するという「3分割法」というのが写真の世界には存在するという。よい構図で写真を撮りたいなと思ってググるとすぐ出てくる。

しかし、ぼくがここで強調したい構図は、おしゃれな画角を選べということではないので、3分割法よりも、もっと単純だ。

ただひたすら、
「見たいものをど真ん中にドーンと置いてくれい! それも、見やすいサイズに、適切に拡大して、置いてくれい!」
これだけ。

これこそ、適切な病理写真を撮る上で、いちばん大切なポイントだと思っている。

なんだあ、簡単だ……?

実はこれが、そう簡単でもない。

臓器の中には、顕微鏡像の中には、アイドルやモデルはいないからだ。風光明媚な大草原もないし、美しい西日の沈む水平線もないし、卒業式に弾む学生達も、いないからだ。

写真の中で、全力で強調し、推すべき対象を、自分で考えなければいけない。構図にはめるべき「主役」を考えるところからスタートしなければいけないからだ。

だれを主役にするのか? ぼくらはまず、そこから考えなければいけない。主役を探し出して、構図にあてはめることが、病理写真を撮影する作業の9割を占める、と言っても過言ではない。

誰を主役にして、最高の構図で写真を撮るか。

なんなら、「主演女優」だけではなく、「助演男優」、「いぶし銀の脇役」などもフレームインさせよう。こうなってくると、さらに難しい。病理という劇場、臨床医療者という観客のことをわかっていないといけない。

たとえば、胃の病気を写真に撮るなら、病変部だけをぐぐっと拡大するのがいいこともあるが、同時に、病変の周りの「背景胃粘膜」をきちんとフレーム内におさめたほうがいいことの方が、ずっと多い。「胃に、なぜその病気が出たのか、原因までも推測できるような写真」を撮ると、臨床の医療者たちは、「おっ、わかってるなあ……」と思ってくれる。病理レポートに、ぐっと説得力が出る。


ああ、構図だけしか話してないのに、こんなに長くなってしまった、困ったな。えーと、続きます。

2016年11月16日水曜日

藤岡先生と、その弟子のこと

すこし前の話になる。

ある高名な病理医が亡くなった。

北海道大学医学部を首席で卒業、病理学の路に進み(今、path of pathologyだなあと思った)、ありとあらゆる人体学に精通し、ちょっと常人では理解しがたいほどの記憶力と、ただひたすらに洗練された言葉使い、おどろくほどおだやかな人柄で、誰にも好かれ、また畏怖されていた。

これらはみな、弔文にありがちな文句であるが、これ以外に書き用がない。

ぼくは彼に直接教えを請うたことはないのだが、ぼくの師匠の多くが、彼に教わっている。



エピソードとして有名……というか、これはもう都市伝説ではないか、と思われる類いのものが、いくつもある。その中でも最も「ああ、彼っぽい」と思ったのは、以下のような話だ。

あるとき、大学院生が、彼にこう尋ねた。

「藤岡先生、5,6年前なんですけども……□□病の解剖、ありましたよねえ……? 探しててなかなか見つからないんですが、あれ、どこの病院でしたかねえ」

すると、彼は、こう答えたのだという。

「ああ、19○○年△月に、○○病院で、私とあなたで入った解剖ですね。あのときのおばあちゃんは確か□□病で、○さん(技師さん)にあれとあれの写真をお願いしましたので、たぶん○さんに聞けばわかりますよ。」

大学院生は腰を抜かすほど驚いたという。

はじめてこのエピソードを聞いたとき、ぼくは、「うそくせぇ」とも、「うおっ、リアルでノイマンみたいな人がいるのか」とも思わず、ただ、「あー、藤岡先生なら、ありそうだな」と思った。

ある重篤な患者さんの解剖を行った際、体の外に一滴も血をこぼさずに解剖を終えたこともあったという。これがどれだけすごいか、解剖をやったことがない人にはまず伝わらないだろうが、一言、神業、というほかない。

彼が某大学の教授になることが決まり、それまでいた講座を去ったとき、「ああ、藤岡先生がいなくなるのなら、パソコンがもっといっぱいないとだめだ」となって、病理情報を取りまとめる専用のPCとデータベースが配備された、という、ウソみたいな本当の話もある。



ぼくは、二度ほど、彼に会った。同席した機会はもう少し多いが、まともに話をできたのは2回だけだ。

一度は講習会だった。見事な解剖技術を、淡々と、優しい言葉で、恐ろしく美しい写真を出しながら、語られていた。

一度は、ぼくの通っていた大学院の講座で会った。すこし前に聞いた講習会の内容がすごかった、ということを伝えながら、標本を1件見てもらった。「フラジャイル」に出てくる一柳教授にも少し似た、細身でやや小柄だが凛としたたたずまいの先生であった。

小声でしゃべっているのに、聞き取りづらいということがない。手足はおろか、声の先にまで気配りが行き届いているような人だった。ぼくは、彼の脳は、山のようだなと思った。それも、「モネラ族にとっての山」である。宇宙そのものではないか、と思った。




彼が亡くなったあと、ぼくの師匠の一人(現在は某大学の教授)が、ご遺族や関係者にあてた手紙を書いた。その中には、このように書かれていた。手紙が今手元にないので、うろ覚えだが、まあ、こんな感じだ。

「藤岡先生は、ありとあらゆる病理学の達人でありましたが、とくに解剖を大切にしておられました。特に、患者さんには最大限の敬意を払うべしと諭され、解剖の際に患者さんの皮膚にちょっとでも血液がついたらすぐ洗い流しなさい、と言われ、解剖が終わったあとには、患者さんに自らサラシや靴下を巻いて、どうもありがとう、勉強させて頂きました、と、お礼を述べられるのでした」



追悼文を見たぼくは、胸が締め付けられるような思いを一人で抱えきれなくなり、職場のボスに声をかけた。

ボスは、くだんの天才と、一緒に働いていた時期がある。

「ずいぶん叱られたよ」

へえ……。すこし、意外だ。おだやかそうに見えたけどな。

「しっかりした人でね」

「学問に対して、とても厳格だった」

「ぼくは、怒られてばかりだったなあ」

だんだん、ニュアンスが伝わってくる。

ボスは椅子に座って前を向いたまま、そっとひざを掴んでいた。

「総胆管は、そうかんたんには見つからないんだよ、って、ダジャレをよく言ったんだ。フフフッ」

ああ、そのダジャレは、さっきの教授も、追悼文に、書いていたなあ。




元・北海道大学助教授、元・杏林大学教授、藤岡保範先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

我々、北大第2病理の出身者は、みな、あなたの残された手技を元に、今でも切り出しを行い、解剖をし、病理医をやっております。切り出しのまな板は、ぶっちがいに立てかけておくんでしたよね。

2016年11月15日火曜日

病理の話(18) 主観を主観で終わらせないためにどうするかってこと

病理診断は、主観的な作業であると言われる。

「腫瘍細胞の、核が、とても悪そうに見えるので、がんです!」

ぶっちゃけ、これがまかりとおる世界なのだ。

知らない人にとってみれば、まさにブラックボックスである。入口から検体を入れると、出口から「がん」とか「がんじゃない」と書かれた手紙が一通サラッと落ちてくる。中で何が起こっているのか、覗き込んでみると、気むずかしそうな200歳くらいのじいさんたちが揃いも揃って「クロマチンが多いのじゃ」「核縁が不整なのじゃ」「ゴルジ野が不明瞭なのじゃ」「すなわち、がんじゃの」「フォホホ」と円卓会議をやっている。

こんな、言ったモノ勝ちの病理診断なんぞに、「医療・診断の要点」をまかせて、よいのだろうか?


***


以下の「クイズ」をご覧頂きたい。

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これを見て、四角い文字だなと思った人はまばたきを。

ごつごつしている文字だなと思った人は手拍子を。

右側が刺さりそうだなと思った人はスキップをしましょう。

さあ、正解はどれ?

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ーーいやいや。こんなの、見ようによっても人それぞれだし、設問次第でどうにでも見えるでしょ。

でも、病理診断って、そういうことだ。

「見ようによってはね、核はでかいよね」

これくらいで、「がんである。」と診断される。

ブラックボックスの中身なんて、覗かない方が幸せなのかもしれない……。




以上は、ぼくが大学院生のときに、そのまま思っていたことだ。

今になって、当時のぼくに、教えてあげたいことがある。

「ブラックボックスは、開けて良い。

そして、箱の中にいる病理医は、内側から、みずから、ブラックボックスを開けてあげたほうがいい場面がある。

思考過程や、判断した根拠を、筋道立てて述べ、臨床家にとって病理をブラックボックスに感じさせなくする、努力。

我々は、そういう努力を、訓練をしてもよいのではないか。」




Q. 細胞の核がでかい、という判断根拠は何か?

A. 横に、リンパ球(がんとは関係ない細胞)がある。このリンパ球の核と比べてみてください。ほら、この細胞の核は、リンパ球よりも、直径にして、2倍くらい大きいですよね。直径が2倍ということは、面積は4倍です。体積は8倍だ。つまり、単純に考えて、リンパ球よりも8倍も「遺伝子の器」が多きいってことですよ。これは、明らかに異常です。「増殖異常」が生じていると考えて、よい。


  いつ、臨床医に尋ねられても答えられるように。

  自分の判断の根拠を、「武装」しておく。


Q. 核異型がある。その根拠は?

A. 核のサイズに大小不同がある。直径にして、最大で3倍ほどの不同性がある。体積にして27倍もの差があるわけで、増殖の異常が見てとれる。さらに、核の形が不整だ。普通の核は、球形をしている。ところが、この細胞の核は、これも、あれも、それぞれ異なる形をしている。こんぺいとうのような形。ホームベースのような形。角張っているというのは、おかしい。安定していれば、球状になるはずだ。つまり、安定性がない。これも増殖の異常を示す所見となる。核のフチにも着目しよう。核膜と呼ばれる構造が、厚かったり、薄かったりする。核を覆っている膜は本来薄さが変わるわけはないのだが、核にはしばしば「クロマチン」、すなわち染色体が付着する。この付着にムラがあると、核膜の厚さにもムラが生じてしまう。これも、細胞増殖のペースが速く、異常であることを示す。そもそも、この核と、あの核では、色合いが違う。濃さが異なっている。一つの視野を、おおざっぱに十字に切って、右上・右下・左上・左下と、4分轄してみるとわかりやすい。どの領域同士を比べても、中にある細胞の色が、ひとつとして同じ色に留まっていない。とても多彩である。加えて、核内に、核小体と呼ばれる構造物がちらちら見える。結構な頻度で見える。正常の細胞ではこんなに見えてこない。細胞分裂に関与する核小体が、これだけの割合ではっきり見えてくるということは、すなわち、細胞分裂の頻度が普通よりもかなり多いことを示す。

以上より、核異型があると考える。

Q. もうヤメテーーーーーーーーーー

A. やめない。次は極性と軸性、細胞質の所見、さらには細胞が作る構造の異常について語る。さらに分化の異常があるということ、浸潤所見を順番に説明し、……



 ……世界中の、どこであっても、誰が聞いても、どんなタイミングで何度聞き直しても、ああ、確かにこの細胞はがんなのだなあと、納得してもらえるように、コトバで描写をする。

実は、病理診断というのは、うまくハマっている分野では非常に「診断者間の、診断誤差」が少ないと言われる。こんなに主観的な診断なのに。

その理由のひとつは、診断者が「どこの病理医にみせても、納得してもらえるレポートを書くために、主観を主観で終わらせないように、論理を使っている」からだ。



***



さてと、ここまで読んでいただくのは大変だったろう。ぶっちゃけ、読み飛ばした人もたくさんいるだろうと思う。

主観的な病理診断を、「客観的に」するためには、論理がいる。しかし、その論理は難解だ。

だったら、論理を、わかりやすく伝える作業をしなければいけない。

それは読む人、聞く人をおいてきぼりにするような、受け手の気持ちを考えずにひたすらまくしたてるような、「しゃべる方のコミュ障」であってはいけないのではないか、と思う。

この場合、文章でつらつらと述べるよりも、もう少しだけ伝わりやすい方法がある。

それが、「プレパラートの写真を撮る」ということ……「組織写真」である。


病理医が自分の診断根拠を、きちんと、筋道立てて説明できることはとても大切だ。しかし、専門的な、難しい話を、「ほら!わかれよ!ほら!」と臨床医に突き立てることは、「コミュニケーション」ではない。

 「いつでも説明できる、論理は完璧だ。
  そして、そのことを、わかりやすく、絵などを用いて、説明する。」

病理医は、写真を撮る。それも、2種類。「肉眼写真」と、「組織写真」。これらを、そろそろ、説明しなければいけないね。

2016年11月14日月曜日

パブロ に やられた !

いきいきと学ぶ初期研修医を見ていると、医学部生なんて勉強ばっかりしてるからつまんないんでしょ、とか、医者はユーモアを介さない人種だ、とか、そういう類いの風評って誰がどこから流してるんだろう、と不思議な気分になる。

つまんなくてユーモアを介さない人種なんてそこらじゅうにいっぱいいるのにな。


***


ともあれ。ぼくが大学生だったころ、医学部6年間のうち、さいしょの1年半は「教養」と言って、医学部の専門講義とはほとんど関係がない授業を受けて、単位をとった。必修科目の中には、英語、選択第二外国語(ドイツ語とか中国語とか)、数学(特に統計学)、化学などが含まれていた。自由選択科目として、これはもう、ほんとうに雑多な講義があり、シラバスと呼ばれるお食事メニューを元に、単位が取りやすそうなものや、実際に聴いておもしろそうなものを選んでいった。

「湿原の科学」とか、「古典に親しむ」みたいなのを受けた記憶がある。内容はほとんど覚えていない。ラムサール条約、だけ覚えている。

「教養」の時期に、実際に大学生として、あるいは社会人になるための教養を身につけた人はどれだけいただろうか。

単位をかきあつめ、レポートをごしごし書きながら、それでも腐るほど余る時間を、バイトや運動、サークル活動にあけくれる毎日、という人の方が、ちょっとだけ多いのではなかったか。

それはそれで、社会に出るために、なんとなく身につけておいた方がいい、宙ぶらりんの関係性や、空気を読む読まない的な調整力や、他人と自分の境界線をどこに引くかの眼力や、自分が確かに大学生であり、人生の最中であるという錯視にも似たアイデンティティの構築であったりしたはずで、

たしかに、「教養の時期」ではあったのだろうな、と思う。


***


くだんの研修医に、「俺のときよりも医学部の勉強、多くて大変だろう」という話をしていたら、「今はうちの大学、教養が半年しかないんですよ」と言われた。

そうか、教養が半年しかないのか。かわいそうだな。今は、医師免許をとるためには、6年のうち5年半を、医学部生でいなきゃいけないんだなあ。大学生でいられる時間は、半年だけなんだなあ。

それにしちゃ、こいつは、音楽もやるし、運動もやるし、頭もいいし、気立てもよくて、まわりの女子研修医に対する人当たりも気持ち悪くないし、教養だってきちんと兼ね備えているし、ま、けっきょく、大学時代のあの1年半で、ぼくに身についた教養なんて、たかがしれてたってことなんだなあ。


そんなことを考え、ふと、あのころの1年半に、自分にどんなイベントがあったろうかと思い出して見たけど、ゲルニカみたいに絡み合う思い出たちがすでに原型を整えていなくて、精神もまたキュビズムとなった。

2016年11月11日金曜日

病理の話(17) むかしむかしあるところに受精卵がいました

むかし、生命は、1個の細胞だった。

1個の細胞(単細胞)は、「自分が自分であろうとした」。

周りと自分とは違う。オレはオレである。

そういうために必要なのは、彼我の境界……。

周りと自分とを隔てる、しきりが必要だった。

だから、自分を、膜で覆った。

中と外とをわけたのである。


中と外とが分かれると、困ることがある。

中で自立するためには、外から栄養を取り込んで、中からウンコを出さなきゃいけないのだ。

外……外界には、敵もいれば味方もいる。ばい菌とか毒みたいな悪い奴らを締めだそう。栄養とか水分、酸素だけを取り込もう。

膜の部分に、空港のゲートみたいなものを用意して。

敵は締め出し、味方だけを通そうぜ!


ところがそんなことは無理だった。いや、ま、あくまで単純な、ひどくざっくりとしたやりとりはできるんだけど、精度が悪すぎた。空港のゲートのレベルでは制御ができないのだ。人間が武器を隠し持っていないかをチェックするだけであれだけでかい機械が必要なのに、水分に付着した毒物をチェックしつつ、栄養だけを奪いつつ、ばい菌とかウイルスみたいな敵をうまくはじきかえすなんて、もう、しっちゃかめっちゃかである。


だから、生命はどうしたか。


役割を分けることにした。自分の最外層にある膜の、ここには「出国専用ゲート」、こちらには「入国専用ゲート」を分けて用意して、それ以外の部分には「敵も味方も通さない、強固なカベ」を作ることにした。

でも、生命が進化して、高度な構造をもち、自然と必要とするエネルギーが多くなると、ゲートだけで振り分けるスタイルも、だんだんしんどくなってくる。

イメージしていただきたい。東京ドームのような、ドーム状の細胞を思い浮かべよう。へりのあちこちに、出入り口のゲートがいっぱいついている。この、入口専用ゲートと出口専用ゲートの配置が、めちゃくちゃ、ランダムだとしたらどうなるだろう? 客は不便だし、周りは大渋滞。いつまでたっても試合は始まらないのである。

そこで。

いつしか多細胞化していた生命は、自分の構造を複雑にすることができたので、一計を案じた。

敵を跳ね返し、栄養を取り込むために、ゲートを用意するだけではなく、自らを変形させることにしたのである。

どうやったか?

へこませたのである。からだを。

□ → 凹

へこんだ部分を、出入国担当にするのだ。へこみの部分でだけ、「外界とのやりとり」を行う。栄養を取り込んだり、水分を取り込んだり、酸素を取り込んだりする。

へこんでいない部分はぜんぶ、カベ。水も漏らさない、敵も入れない。

この形が、実は、相当便利だった。

ただし、酸素のような気体はともかくとして、ねっとりした栄養(脂肪など)は、入口と出口がいっしょだと、渋滞を起こして、詰まってしまうことがある。

だから、いっそ、へこみじゃなくて、トンネル状にしようと思った。流れを、基本一方通行にしよう。

□ → 凹 → 

(なんかいい漢字がないかな……)

□ → 凹 → 呂

(……90度横にむいちゃったな……)

□ → 凹 → 明

(……なんかいらん横棒とか入ったな……)

□ → 凹 → 0 0

(まあこれでいいや!中にパイプが貫通したかんじ!わかるだろ)


ここまで一生懸命に何を語ってきたと思う?

そう、人体の中を貫通する、「消化管」の話をしているのである。

口から肛門までつながる、パイプ。人間はもちろん、魚類にも両生類にもあるし、アリにもカブトムシにもアニサキスみたいな虫にもある。

人間は、手で触るだけでは、栄養の摂取ができない(人造人間19号は、そういえば、完全なロボットだったな)。

体の表面はすべて、重層扁平上皮粘膜(じゅうそうへんぺいじょうひねんまく)という、ガード専門のカベによって覆われているからだ。へこみ……というか、パイプの内面にしか、ゲートを用意しないことにした。

カベ、すなわち「重層扁平上皮」である。

口の中も、まだ重層扁平上皮粘膜だ。食道の中も。このあたりは、まだ、食べ物が「硬い」。異物といっしょだ。ゴロゴロ硬いモノが、血管の中にでも詰まったら、死んじゃう。だから、胃酸でトロットロにぶちこわすまでの間は、扁平上皮(へんぺいじょうひ)でがちっとガード。ゲートの出番は、まだ早い。

胃にたどり着いた。胃の表面は、「腺上皮粘膜(せんじょうひねんまく)」で覆われる。ここでは胃酸が「出る」。胃の細胞内から、胃酸という分泌物が「出国」する。ゲートが必要である。

ゲート、すなわち、「腺上皮」である。

小腸に至ると、腺上皮粘膜の形状が変わり、絨毛と呼ばれる形になる。ここには入国ゲートがいっぱいあって、栄養をばんばん吸収しはじめる。

大腸に至ると、入国するものは水くらいになる。栄養はもうすっからかんだ。むしろ、カスが増えてくる。小腸絨毛より、ちょっとだけ防御力を高くし、水だけ通せばいい構造に変わる。入国ゲートの種類を変える。

そして肛門。ここではもう吸収は必要ない。硬くなった便で粘膜がちぎれないように、「皮膚の硬さを取り戻す」。つまり、ゲートをなくして、またカベに戻す。すなわち、重層扁平上皮粘膜で覆われる。



栄養と水分を摂取し、敵(ばい菌、ウイルス、毒……)をはじきかえすために、生命は、穴を開けた。ねっとりして渋滞を起こしそうなものに対しては、消化管という名のパイプを用意した。酸素の取り入れと二酸化炭素の排出については、パイプまでは必要ない。空気はさらさらだから、流れだけを起こしてやれば(横隔膜や胸の筋肉を使えば)、袋状であっても十分に換気ができる。

ほかに出入りが必要なもの……精子。それまでは体外に大量に卵子をばらまき、精子をぶっかけていたけど、複雑な遺伝子をようやく伝えた子供(タマゴ)が一瞬で他のおサカナに食われるのが腹立たしいから、消化管・肺とは別に、もうひとつの「袋」を作った。これが子宮である。



敵をはじき返すカベ。栄養や酸素などの吸収に携わる、出入国ゲート。

これらは、もともと、体の外側にあるはずだった。分業して、部署をわけて、専用の小部屋にしたり、一方通行のレーンにすることで、体の中側に落ちくぼんでいるけれど。

すべて、外側≒上にへばりついていたものなのだ。

だから、そこにある細胞を、みな、「上皮」と呼ぶ。



この説明はかなり長い。めんどくさいから、普段、看護学校で説明するときには「触手で触れるところが上皮だよ。」と教える。

この教え方の評判はよく、ぼく個人の評判は下がるので、すこし書き方を変えてみた。長いけど、ま、今度講義でもしゃべってみようと思う。

2016年11月10日木曜日

病は毛から

鼻の中で鼻毛が一本、変な方向に生えていた。

それでくしゃみがいっぱい出た。

くしゃみは鼻水を呼ぶ。気道のもっとも端にある鼻の穴から、異物を取り除こうとする反射は、くしゃみを起こし、同時に鼻水の分泌を増やす。

鼻水が出ると、一分は喉の奥に落ちる。すると、咳が出る。後鼻漏(こうびろう)と呼ばれる現象である。

くしゃみを連発し、咳も出ることになる。

くしゃみは、意外と体力を使う。気道の異物を吹き飛ばすために、横隔膜や腹筋などが急激に収縮するからだ。

何回もくしゃみをすると、だんだん、体が火照ってくる。

熱・くしゃみ・鼻水・咳が揃うことになる。

これは、一般に、風邪と呼ばれるものに似ている。

原因は、ウイルスではなく、鼻毛なのであるが。ただ一本、変な方向にたまたま曲がった、鼻毛のせいなのであるが。

外から見ると、風邪となかなか区別がつかないし、本人も、風邪をひいたときのように、つらいのだが、原因は、ウイルスではないし、本当は、風邪ではないのだが、本人は、風邪のようにつらいし、風邪かどうかは、ぶっちゃけ、くしゃみをしている最中は、どうでもよくなってしまうのだが。

 なお、これを「風邪」と診断したならば、ヤブイシャ、である。それが医者というものだ。


  ***


たまたま医療っぽい話をしたけれど、実際。ときおり、こんな「鼻毛」みたいなことが、人生のあちこちに、転がっているなあ……と、思うことがある。

おだいじにどうぞ。

2016年11月9日水曜日

病理の話(16) 一番時間がかかる迅速組織診

今の病院にはじめてやってきた、10年ほど前。「迅速組織診」という仕事を担当するにあたり、ぼくが心に決めていたのはひとつ。

「とにかく大きい声を出そう。はっきりとしゃべろう」

だけであった。

当院での迅速組織診は、複数のベテラン病理医が、診断に携わる。だったら、やってきたばかりの、若輩者であるぼくができることと言ったら、インターフェースとしてきちんと情報を伝えることくらいしか、なかった。



***


迅速組織診とはどういう仕事か。手術の最中、患者さんのおなかがまだパッカリ開いているままの状態で、採れたての臓器に対してある程度の病理診断を下す、という業である。

・胃を切除した直後に、胃の切れ端の部分に「がんが及んでいないか」を確認

・手術の前に「がんか、がんじゃないか」決められなかった肺のカタマリを、直接胸を開けてほじくりかえし、その場で病理診断をキメて、がんだとわかったら即座に周りの肺をきちんと切除する、がんではないとわかったらそれで胸を締めて手術終了(余計な手術を回避できる)

などといった使われ方をする。

医者が採ってきた臓器の一部が、手術室から直接病理に持ってこられる。

まだ温かい。

これをすかさず写真撮影し、一部を切り取り、「コンパウンド」などと呼ばれる特殊な……寒天……にぶちこみ、直ちに有機溶媒などを使って強力に冷却する。カチカチになった検体を、その場で技師さんが薄く切り、すぐに染色して、プレパラートを作る。

普通、プレパラート1枚を作るのには、なんだかんだで半日くらいかけるのだが、迅速組織診においては「患者さんがおなかを開けて待っている」のであり、一刻の猶予もない。特殊な手法を用いて、10分ちょっとでプレパラートを作ってしまう。急いで作る分、クオリティは少しだけ低いのだが、そんなことは言っていられない。

即座に診断をする。急いで診断をする。だから、「迅速組織診」という。

よく、「病理医が病院に必要な理由」の筆頭として挙げられる。




ただ、ま、ごく限定的な場面でしか用いられない技術だ、これは。

うちは年間1000件くらいの外科手術+それよりちょっと少ないくらいの婦人科・泌尿器科・耳鼻科ほかの手術があるが、迅速組織診が行われるのは年間で150~200回くらいである。手術の真っ最中に、どうしても病理で決めなきゃいけないことなんて、そう多くはない。

多くないけど、そのかわり、「まだ患者さんがおなかをパッカリ開けている最中、まだ胸をガバッと開いてる最中に、ある程度の時間をロスして、病理診断をしなければいけないケース」というのは、つまり、相当に重要だと言い換えることもできる。

病理医の一言が直接、医者の次の一手、そして患者の生き死にを左右することになる。

だから、実は、「迅速組織診」という名前はついているけれど、プレパラートを作るのが早いだけであって、病理医が診断する速度はむしろ、「普通の組織診より、遅い」。

おなじプレパラートを何度も見る。何人もが同時に見る。手厚く、慎重に見る。

ひとこと、医者に、「断端陰性です!」とか、「腺癌です!」と伝えたら、もう後戻りはできない。10分後に、「あっ……あそこ……まずいんじゃないか……?」と気づいても、もう遅い。じっくり、ゆっくり、しかし急いで見るのだ。





「迅速組織診」は、「病理医が病院に常駐していないとだめだ!」とする理論の根幹をなしている。病理が外注だと、迅速組織診はかなり難しい。

逆に言うと、これだけ限定的でマニアックな仕事状況をクローズアップしないと、「病理医は病院に必要だ論」を保てない、ということでもある。

迅速組織診は、普通の病理診断と比べて「ポジか、ネガか」の二択で答えることが多いので、AI(人工知能)診断向きであり、遺伝子診断向きでもある。将来的にはなくなるかもしれない。

ただ、今のところは、迅速組織診は、外科医から見ても、看護師とかほかの医療者から見ても、「病理医が役に立ってるなあ……」とわかりやすい診断である。病理医が直接感謝される仕事でも、ある。


***


今の病院にはじめてやってきた、10年ほど前。「迅速組織診」という仕事を担当するにあたり、ぼくが心に決めていたのはひとつ。

「とにかく大きい声を出そう。はっきりとしゃべろう」

だけであった。

迅速組織診では、病理の部屋から直接、手術室に電話を掛ける。インターフォンのおばけみたいな機械の受話器をとり、術場(じゅつば)を呼び出す。

ピンポーン。ピンポーン。

「病理です!」

\はーい!(外科医たちの声)/

「○○さんのお部屋でよろしいですか!」

\はーい!(外科医たちの声)/

「胃切除・口側断端です!腫瘍の進展を認めません!ネガティブです!」

\ありがとうございましたー(外科医たちの声)/

「よろしくおねがいしまぁーす!!!」

\!?/


あっ、と思った。最後の「よろしくおねがいします」はちょっと意味がわからないぞ、というか、うん、まあ、悪くはないけど、必要はなかったぞ……。

病理医が外科医や麻酔科医、術場看護師、あるいは患者に「何をお願いするのか」はわからないし、上から目線で患者を頼むと言いたいわけでもないし、なんか、勢いである。

でもまあ、リズムとして、ありだろう。その後も、迅速組織診の最後には、必ず「よろしくお願いします」を言うことにした。



案の定というか、年末の忘年会で、ぼくは初めて会う術場の看護師さんや麻酔科医たちに囲まれ、

「あのwwww迅速のwwwwww報告wwwwwwwwwwwwせんせいでしょwwwwww元気よくてwwwwwwwwwwwいいねwwwwwwwwwwwww」

と、さんざんにいじられ倒すことになる。

2016年11月8日火曜日

あおぞら・輪廻ハイライト

おしゃれな靴が欲しいなあと思う。

人が履いている靴を見て、「おっ、かっこいい!」と思う。ある程度、好きな靴の、傾向も決まっている。つまり、靴の「好み」がある。

ところが、いざ買い物に出かけて、見つけて、かっこいいと思って買った靴が、数ヶ月後もしないうちに、

「なんか微妙だな……悪くはないけど……今着てる服と、別に合ってない気がするし……」

となることがある。


自分自身を見て「かっこいい」とか「ださい」と思う感覚の精度があまり高くないのだろう。他人を見て「かっこいい」とか「ださい」と思う感覚の方が、容赦ないし、一貫しているし、鋭敏である。


他人の描くイラストを見て、なんか目のバランスが変だなあ、と思ったり、逆に訳知り顔で「手塚治虫の絵はほんと、色気のある線だなあ」と言ってみたりすることもある。

シーズンでずっと4番を打っていた打者が、短期的に調子を崩したときに、体の軸が前につっこんでるんだよ、とか、悪い時はスイングがアッパー気味になる、などと、スルドク解説することができる。

人気のアイドルが歌う歌を聴いて、平板でおもしろみのない声だと言ってみたり、前頭洞に声が響いてないからボイトレの成果がいまいちなんだなと思ってみたりすることも、できる。

もちろん、自分で絵は描けないし、ホームランは打てないし、歌唱力もないのに、だ。


「そういうもんだよ」と片付けるのは簡単なのだけれど、ときおり、こう思うことがある。

「自分の持つ能力を越えている相手であっても、”評価”だけはすることができる、っていうのは、もしかすると、本能なのかな?」

草食動物は、肉食動物に、闘争力で勝つことはできない。しかし、相手の能力を見極めて「戦闘を避ける」ことで、生存の確率を上げることができる、とか。

インプットされた情報を脳内で様々に選別し、知恵としてストックしておけば十分で、社会性を武器として生存してきた人類においては、全てを自分が成し遂げる必要はなく、場合に応じて能力のある人間が対処すればいいのだ、とか。

なんか、そういう、「生存戦略上、知ったかぶりは重要だったんですよ。」みたいなこと、ないだろうか。


***


ところで、「○○なんてのは、人間の本能だから」という論が、基本的に嫌いである。

なんでも本能ひとつで片付けるなよ、電車の痴漢を「本能」で片付けるのかよ、と、思ったりもする。

本能を理性と知性で抑え込んで、はじめて、人間だろう。

……だからこそ、自分の行動のうち、どこまでが「本能のなせるわざ」なのかを、知っておきたいなあという、気持ちがある。嫌いだと言っておきながら、しかし、気になっている。

まあ、知っておいたところで、それを活用できるかどうかは、また別なのだけれど。

2016年11月7日月曜日

病理の話(15) ブドウの輪切りとブドウ一房と

顕微鏡で細胞をみる仕事には、実は二種類ある。

「組織診」と、「細胞診」だ。

両者は細かく異なる。


組織診(そしきしん)は、
「検体をパラフィンの中に埋め込んで、薄く4マイクロメートルに切って、染めて、顕微鏡でみる」
ものだ。

以前にも書いたたとえ話だが、検体をブドウやサクランボなどのくだものに、パラフィンを寒天にたとえて、「涼やかな真夏の創作和菓子」のような、フルーツの寒天詰めを想像していただくとよい。組織診標本を見るというのは、寒天にナイフを入れて、フルーツの断面を見る作業である。

一方、細胞診(さいぼうしん)は、ガラスに直接細胞を乗せて、そのまま観察する手法である。検体にナイフを入れない。フルーツをそのまま外から見ることになる。なお、極小の細胞はほとんど半透明なので、外から見ても、内部まで見通すことができる。

「断面を見る」のと「外から見る」のでは、見え方が異なる。この違いは、病理に携わっていないと、まず学ぶことがない。ほとんどの医療者は知らない。

もう少し、詳しく説明しよう。

組織診では、寒天(パラフィン)の中に、生体内から採ってきた組織をそのままぶちこむ。手術で切ってきた大きな臓器であれば、「切り出し」という作業をして、病変部などから3×2cm大のカタマリを選別したあと、まるごと寒天の中に入れて、そのまま薄切(4マイクロメートルに切る)。

すると、細胞が、「生体内に存在していたときと同じ配置で」顕微鏡観察できる。これは、大きな強みだ。フルーツボックスの中にブドウ、リンゴ、みかん、ナシ、スイカがそれぞれ複数詰められているものを、まるごと「斬鉄剣」でバッサリ。断面に出てくるのは、ブドウやリンゴの断面であり、これらの配列まで観察することができる。すなわち、細胞そのものだけではなく、細胞たちが作る「高次構造」をも観察することができる。

ブドウがリンゴたちの間にどれくらい分け入っているかを見る。これが、「浸潤をみる」ということだ。

これに対し、細胞診は……。

フルーツボックスに並んでいるフルーツの、表面をなでて、そこにある細胞をピックアップする。採れてくるフルーツもあれば、落ちてしまうフルーツもある。採れてくるのはリンゴ1個、ナシ1個、あるいは、ブドウ「一房」である。フルーツの種類によって、1個ずつしか採れてこないものもあれば、ブドウのように小さなカタマリで採れてくるものもある。

これをそのまま見るのが細胞診だ。必然的に、元々ブドウがリンゴの横にあったのか、ナシの横にあったのかは、見ることができない。

「組織診よりも情報が少ない」と思われる、ゆえんである。

しかし。テクニカルだが、細胞診は、「ブドウ一房」をそのまま観察することができる。ブドウもリンゴも斬鉄剣で切ってしまった組織診と異なり、細胞診だと、ブドウ一房に連綿とぶらさがったブドウのカタマリを、そのまま観察することができる。

細胞が、小さい範囲で、どのように積み上がっているのかを見るには、細胞診の方が見やすいこともある、ということだ。

「腺癌」と呼ばれる病気は、ブドウの房のように、もりもりと積み重なるという特徴があるが、組織診ではこの「もりもり感」があまり見えてこない。細胞診だとよく見える。

組織診のほうが細胞診よりも優れているとは、必ずしも言い切れない。

細胞診にも弱点はある。基本的に、特殊染色・免疫染色と呼ばれる作業は不向きである(できなくはない)。

これらはあくまで、使い分けなのだ。


ぼくらは「細胞をみる仕事」と自称する。臨床医が患者さんをみる際に、血液検査、画像検査、問診、診察などを駆使するのと同じように、病理医が細胞をみる際にも、様々なツールを用いて総合的な診断を下す。

ここに飛び込んでくるのが、「フルーツを食っちまって、味で判断しようぜ。」という、遺伝子検査、染色体検査などの手法なのだが……これはまた、別の記事に譲る。

2016年11月4日金曜日

諸葛亮いわく、ほかにすることはないのですか

ツイッターにて相互フォロー関係にある「ぷしこま先生」という方は、ときおり、手帳のようなものに、自分の負の感情を書き連ねているという。「ゲスノート」という名前だそうだ。

人の名前を書くと暗黒面に堕ちそうな名前だ。

負の感情とひとくちに言ってもさまざま、誰を罵倒するかもさまざまだろう。自分自身に向けた罵詈雑言なのか、近しい他者への苦言なのか、遠い他人への怨念なのか、それはわからない。

負の感情を世間に「公開」するやり方が、一般に広く普及している状態で(それこそツイッタランドである)、あえて「公開しない、日記」という形をとるというのは、古典的なようで、今もずっと新しいのではないか、と思う。


***


感情に飲み込まれる、という言葉がある。

この場合、感情に飲み込まれる主体とは、何か。

感情、とは別に、個人、のようなものがあって、それが飲み込まれるのだろうか。

本体とか、本質とか、そういったものが、感情という外敵のような存在に洗い流されて、もともとあるべきだった姿を失ってしまう、といったイメージを呼び起こすフレーズだ。

果たして、そういうものなんだろうか。

自分の本質というのは、感情から見た場合に、どこに存在するのか。感情の外にあるのか。隣にあるのか。あるいは、中にあったり、そのものであったりも、するのか。

鏡を見ながら右の頬を触ろうとするとき、鏡に吸い込まれたような気分になって、うっかり左頬を触って、あれ、鏡の中だと右頬だなあ、とか、細かく誤読をしてしまうことも、あるだろうか。

「感情を記載する」という俯瞰視を行うことで、高みから自分をのぞきこむことで、かこさとしが言った「宇宙では、高いと遠いが同じ概念になってしまうんですよ」みたいに、高かったつもりが遠ざかってしまうことも、あるのだろうか。


***


そんなことをずっと考えていて、うん、そうだな、「ゲスノート」こそは非公開であるべきだ、さすがぷしこま先生だなあ、と思っていたら、先日彼は、このような短いツイートをなさっていた。

「ときおり、ゲスノートと、ツイッターが、”裏返る” ことがある」

非公開という場で感情を記載する作業を、彼はときおり、あるいは無意識に? 狙って、部分的に「公開」することで、かえって「非公開の場」の効果を高めていらっしゃるのかも、しれない。

うーむ。

自己顕示欲がどうとか、承認欲求がどうとか、そういう言葉だけだと取りこぼしてしまう、自分と感情との、戦いのようなものがある。

この戦いは、外交のようにも、内政のようにも、見える。

2016年11月2日水曜日

病理の話(14) なぜ臨床医が病理の部屋を訪れるのかについて

臨床医がぼくのデスクに来る理由は、いくつかある。


ふだんの診療における、病理に対するちょっとした疑問とか、出たばかりの病理報告書に疑問があるとき。直接、詳しい説明が聞きたいとき。

ぼくは札幌厚生病院という市中病院で、札幌厚生病院の臨床医を相手に仕事をしている常勤医である。普段から、どの臨床医がどういうやり方で診療をしているか、どういう心情をもって働いているか、何に興味があるか、どれくらい病理を信用しているか、というのを、まあ、だいたいはわかっている。これは、同じところにずっと勤めている強みだ。どの臨床医がどういう疑問をもっているか、だいたいは知っているし、逆に臨床医の側も、ぼくがどういうレポートを書く病理医か、よく知っている。

というわけで、たいていの疑問は、電話一本で解決してしまう。

「先生、こないだの○○だけど、やっぱりアレなの?」

「そう、下の方に書いときましたけど、アレですね」

「そうかアレかー。いやー久々に見たなーと思って。わかった、ありがとう」

実際に、こういう電話をすることもある。お互い、報告書を挟んで、ほとんど疑義はない状態だ。珍しい、という感覚を共有したり、ぼくがどれくらいのテンションでこれを診断したのかを探るために、一本の電話の手間を惜しまない臨床医。なかなかかっこいいシーンだなあと思う(伝わらないでしょうけど)。

ときには、より深く、本質的な議論が必要な場合もあるが、いろいろな科で毎週「キャンサーボード」(cancer board, 直訳すると、がん会議)というのが開かれており、症例について臨床医と病理医、放射線科医が揃ってディスカッションをし、定期的にコミュニケーションを取っているので、たいていはキャンサーボードで疑問を共有できてしまう。わざわざそれ以外の時間にデスクまでお越し頂く機会は、昔より減っている。

もっとも、病理の部屋はわりとアクセスがよいところにあるので、臨床医の中には、「たいした用がなくても」病理にふらっとやってきて、世間話ついでに最近の症例について会話をしたいタイプ、というのもいる。こういうのは、正直、ありがたい。病理の部屋に、リアルな臨床の空気を取り入れてくれるからだ。

まれに、超難解症例で、どうしても直接話がしたい、と言われることもある。そういうときにはわりとガチで「鳥肌が立つ」。



さて、ここまではいずれも、臨床医が「日常診療に関係した話」をしに病理に来るケースであった。しかし、実際のところ、ぼくのデスクに臨床医が来るパターンとして一番多いのは、

「学会・研究会の手伝いを頼みに来るケース」

である。

医療者はよく、学会報告をする。論文を書く人もいる。論文といってもいろいろな種類があるのだが、その中に、「病理の写真を使いたい、病理の解説を入れたい」場合がある。

診断が難しかった症例を学会報告する場合。「答え」としての病理診断を明記する必要があるし、できればプレパラートにある「細胞像」を写真にとって、論文に添付したい。説得力が段違いなのだ。

特殊な治療を学会報告する場合。治療の対象となった疾患を提示する際にも、「病理診断」があると、報告が引き締まる。

レアなケース、何十万人に1人しかかからないような稀な病気を学会報告する場合には、病理診断の記載はほぼ必須である。ぼく自身は、病理診断が常に確定診断だとは思っていないが、世の中でまだほとんど診断されたことがないような疾患をきちんと定義するには、病理診断がしっかり責任を負わないとダメだろうとも思っている。

このようなとき、臓器の肉眼写真を解析し、プレパラートの顕微鏡写真を撮影して、パワーポイントファイルにしたり、論文に添付したりするのには、ちょっとしたコツと、「プレパラート写真撮影用の機械」が必要となる。

だから、臨床医は、病理医のところに、「ちょっと写真撮ってくれませんか」と、お願いに来る。病理と写真との関わりは深く、この話は、また日を改めてじっくりと書きたい。



さて、ほかにも、臨床医がやってくる理由はある。

「教科書を借りたい」

なんてのもある。病理には教科書がいっぱいある。WHO分類、AFIPアトラスといった世界のスタンダードとなるべき本をはじめ、病理、解剖関係の本は図書館よりも多い。

なお、病理ではなくあえてぼくのデスクを指定してやってくる臨床医、あるいは研修医の中には、ぼくが集めている「臨床診断学の本」や「内視鏡診断学の本」、「痛みの考え方の本」、「医療統計・疫学の本」、さらにはアフタヌーンやジャンプの最新号、フラジャイル全巻などを求めてやってくる人もいる。

さすがにぼくがここで働くモチベーションの全てであるとは言わないけれど、「本を探すために、病理に来ました」と言われるのは、うーん、もしかすると、一番うれしい、かもしれない。フラジャイルくらい買えとも思うが。

2016年11月1日火曜日

脳だけが旅をする

そういえば、書道とかピアノとか、数独とかムシキングとか、カスピ海ヨーグルトとか珊瑚礁でのシュノーケリングとか、テイルズオブのシリーズとか信長の野望とか、合コンとかTOEICとか、私立高校とかヨーロッパ旅行とか、経験していないものが山ほどあるのに、

「自分はある程度普通の感覚を身につけた、一般的な人類である」

と誇れるのはなぜなんだろうな、と考えることがある。

世の中には、

「ぼくは人とは違う、特別な人間だ!」

と主張したくて仕方ない人もいるだろうけれど(それもいっぱいいるだろうけど)、ぼくはどちらかというと、できるだけ、一般的で、ごく普通の、感覚を持っていたいと思うし、ごく普通の感覚を持った上で、何かを得意でいられることのほうが、かっこいいと思っている。


***


美容室に行って髪を切る。床屋でなくて美容室にするのは、以前になじみの床屋に「ゆるふわパーマ」をかけてもらおうと思ったらアイパーみたいなのをかけられて以来、床屋がトラウマになったからだ。まあそんなことは今となってはどうでもいい。もう38歳だし、なんならアイパーでもいいんじゃないかとは思うけど。

髪を切ってもらいながら、雑誌を読む。

さまざまな書籍を電子版に切り替えてきたぼくだけど、媒体としてスマホしか使っておらず、iPadのようなタブレットを使っていないからか、雑誌の類いは電子版だと読みづらい。紙の方がラクだ。

ぼくの顔や年齢から推測するのか、美容室の若いお兄さんは、勝手にいくつかの雑誌をセレクトする。北海道の観光・飲食を紹介する雑誌「HO」が2冊、あと、なぜかはわかんないけどぼくが手に取ったことのないファッション雑誌をたいてい1冊。ファッション雑誌までたどり着くことは、まずない。これでも読んで、もう少しおしゃれにしたほうがいいですよ、という暗黙のアドバイスなのかもしれないけど、残念ながら作戦に乗ったことがない。

「HO」。行ったことのない土地の、そば屋とか、地方食材をふんだんに使ったレストランとか、名物おかみの居酒屋、博物館の体験記などを、次々読んでいく。髪を切るお兄さんに向かって、ときおり、いいですねえ、行きたいなあ、など、言う。しかしまあもちろんのこと、ほとんどの店に行くことはない。脳だけが旅をする。

さて、「普通」は、どうなんだろうな、と考える。

飲食の雑誌、ファッションの雑誌、カルチャーの雑誌……。今の「普通」の人々は、どれくらいの頻度で読むんだろう。

音楽、メディア、マンガ、あるいは文学、さらにはマイナーな趣味系の雑誌まで、よくもまあ毎週これだけの雑誌が出るものだなと、本屋に行くたびに思っていたけれど、今の「普通」の人々は、どれくらいこれらに金をかけて、読んでいるのだろう。

近い将来、美容室とか、歯医者の待合とか、そういう場所でしか雑誌は読まれなくなったりしないのかな。もう、そうなっていたりしないかな。

ぼくは「普通」になりたくて雑誌を読んでいるんだろうか。「普通とちょっと違う、おトク」が欲しくて雑誌を読んでいるんだろうか。

そういうことを考える。

お兄さんに尋ねられる。

「最近忙しいんですか」

「いやあ、いっしょですね」

「そうですか。どこか飲みに行ったりしてますか」

「うーん、あんまり行けてないですね 行きたいんですけどね」

「そうですか。ぼくこないだあそこ行きましたよ、○○」

「お、それ、こないだ雑誌で見ましたよ。何の雑誌だったかな」(もちろん、ここ、美容室で、彼、お兄さんに出してもらった雑誌で読んでいるのである。)

「そうですか。ぼくも雑誌で読んだのかな、それで、行ってみようかと思ったんですよね」

「やっぱ読むと行きたくなりますよねー」

「そうですか。そうですねー」

「ぼくは行きたがるばっかりで、行かないんですけどねー」

「そうですか? そうですかー」


彼はぼくに出す雑誌をたまに自分でも読むのだろう。そして、ぼくと同じ記事を読み、ぼくと違って、体ごと旅に出た。

友だちが増えたような、友だちが去っていったような、気持ちになる。


たぶん、だけど、この記事を読んでいる人には、脳だけが旅をする人のほうが、ちょっとだけ多いような気がしている。しかし、それが「普通」なのかどうかは、わからない。

2016年10月31日月曜日

病理の話(13) 病気あれこれのそもそも

病気、とはそもそも、何なのか。

①できものができる
②流れが悪くなる
③何かが減る
④敵と戦って戦争になる

看護学校で講義するとき、病気はおおきくわけてこの4つなんだよ、と教える。




できものができる、というのは、体の中に本来あってはいけないカタマリができたり、本来いるべきではない細胞が暮らしていたりする状態を指す。一番大切なのは「腫瘍」、それも悪性腫瘍……つまりがんだ。

大腸にできものができて、大腸の壁にしみこんで、いずれ全身に転移をするのが大腸がん。

乳腺にできものができて、乳房の中にしみこんで、いずれ全身に転移をするのが乳がん。

血液の中でだけ「本来いてはいけない細胞」が増えてしまう状態が白血病。

いずれも、「できもの」ができることが、病気の本態である。できもの自体は目で見えることも見えないこともあるが、顕微鏡まで使うと、ほぼ間違いなく、見ることができる。




流れが悪くなる、というのは、なんだか東洋医学とか漢方をほうふつとさせる言い方だなあと思う。ただ、流れが悪くなることで起こる病気は、別に東洋医学の専売特許というわけではない。

たとえば、脳の血管が詰まって、本来流れるべき血液が先に流れなくなれば、それは脳梗塞(のうこうそく)。心臓の表面を走っている血管が詰まって、心臓に栄養がいきわたらなくなれば、それは心筋梗塞(しんきんこうそく)。どちらも人間をごく短時間で死に至らしめることがある。

これだけじゃない。胆嚢や胆管に石が詰まって、胆汁がうまく排出できなくなれば胆石症。尿管に石が詰まって、尿が膀胱までうまく運べなくなれば尿管結石である。いずれも、痛みを伴うし、放っておくといろいろと面倒なことが起こる。

万物は流転するというが、人体もまた常に流れ続けている。この流れを止めてしまうと、人間の活動はあっという間に継続困難となる。




何かが減る、というのは、ホルモンだとか、肺胞の数とか、赤血球とか、本来、体の中にこれだけなければいけない、というものが足りない状態をさす。更年期障害もそうだ。貧血もそうだ。甲状腺機能低下症、骨粗鬆症……。「耐糖能が減る」という言い方で、血糖が増えている状態(糖尿病)を含めてもいいと思う。





敵と戦って戦争になる、というのは主に感染症、あるいはそれと戦う免疫のことだ。体の中に、外界のチンピラ(細菌とかウイルス)がやってくると、体内の警察官(免疫担当細胞)がこいつらを追い出そうとする。問題は、この警察官が、非常に激しく武装しており、ナパーム弾のような強烈な攻撃をチンピラもろとも住宅街にぶち当ててしまうことがある、ということだ。感染症そのものよりも、感染症をなんとか倒そうとする体内の活動のほうが、かえって人間の命を危険にさらしているということは多い。





このように病気を分類したうえで、だ。

「病(やまい)の理(ことわり)を知る医者」と書く「病理医」は、あるいは病理診断は、どこまで病気に迫ることができるのか。

実は、おおむね、①しか相手にしない。





②の「流れ」というのは、顕微鏡でみる必要はない。というか、プレパラートを作った時点で検体の時間を止めてしまう病理診断にとって、「流れ」を見るというのは最も苦手なことなのだ。

すなわち、「循環器」「救急」の領域については、病理医はほぼ無力だということになる。


③の「何かが減る(あるいは増える)」についても、同様である。増えた、減った、は血液検査が得意とする領域であるし、体の一部分をピックアップする病理診断にとって、「定量的評価」もまた苦手分野である。

つまり、「代謝」「内分泌」「一般内科」、あるいは筋骨格・神経・脳の摩耗をも扱うならば「神経内科」「整形外科」なども、病理医が役に立ちづらい分野であるといえる。


④は「感染症」そして「免疫」。これらも詳細は省くがやはり病理医が必ずしも得意な分野とは言えないため、「呼吸器内科の一部」「肝臓内科の一部」、あるいはそのまま「感染症内科」なども、病理医の介入が少ない分野である。



「病(やまい)の理(ことわり)」と名乗りながら、ずいぶんと多くの病を無視している分野。それが病理である。

「顕微鏡を使ったところで、直接みることなどできないよ。流れとか分量とか、あるいは免疫のフクザツなシステムに思いを馳せないと、病気のことなんてわからない」というほうが、多い。

「見れば当たる」病気の方が、圧倒的に少ないのである。



病理はすごいよ、病理医はおもしろいよ、と書いた本、語った人が、ぼくの周りにも、あなたの周りにも、今までどれだけあっただろう、いただろう。

病理学は、確立した学問だ。

病理診断には、確固とした魅力がある、

それでも、今まで、ほとんど語る人などいなかったではないか。

結局、病理を選ぶ人など、ほとんどいなかったではないか。

不自然だと思わないか。

なぜ、それほどすごい仕事が、今までマイナーなままでいられたのだ。



ちゃんと理由があるのだ。

病理医がみている「病」は、人体がやられうる病気の、ほんの一部でしかない。

あらゆる医師が、病気のごく一部しか診療できないように。

ぼくらもまた、病気のごく一部しか診断できない。



ほかの科の医師は、「診療」をする。

病理医は、「診断」しかしない。「療」をしない。治療をしないのだ。

その分、マイナーであることの、言い訳が利かなくなる。

マイナーであることを誇り、あるいは納得して、自分にできることを探す、あるいは、これが好きなのはぼくがぼくだからだ、と、自分を見る。

このことに気づけている人を、世界は、オタクと呼ぶことがある。

ぼくらはオタクなのだと思う。それ以上でも以下でもある、オタクなのだと思っている。


2016年10月28日金曜日

1999年春からのぼくは自力を信じてやってきた歴史を今ここに

自作のホームページに、エッセイを書いていたことがある。

1999年、大学3年生のとき、ぼくはホームページを作り始めた。「ホームページビルダー」というソフトを使って、最初は3日にいっぺん。忙しくなってからも、週に1度くらいは更新していたと思う。

今は、そのサイトは、もうない。ずっと残しておくつもりだったのだが、離婚して家を出た後、何年か経って、別れた妻子が引っ越しする際にプロバイダを解約したら、そのまま、プロバイダのサーバに載っていたホームページのデータまで、全て消してしまった。

あっ、と思ったのは数ヶ月後だ。

ホームページのデータは、古いノートパソコンのどれかには残っている。けど、もう、古すぎるパソコンを開ける気がしない。そもそも、あのノートパソコンは今、どこにあるのだろう。


「Webarchive」というサービスがある。ネットの海をクロールし続けるこのサービスでは、すでに消えてしまったサイトであっても一部を閲覧することができる。


Webarchiveを使っても、断片的にしかたどることはできない。ほとんどは逸失した。けど、ごく一部を、見ることができた。



画像は取得されていない。

最後の更新日は「4月4日」。Webarchiveがこのページをクロールして保存した日時が、2011年4月29日と表示されていた。つまり、ぼくが最後にホームページを更新したのは2011年4月4日ということになる。


ぼくがツイッターをはじめたのは、2010年11月。病理医ヤンデルというアカウントをはじめたのは、2011年4月15日のこと。

ツイッターをはじめたことで、ホームページの更新から遠のいたのだろう。


12年ほど続けていたホームページのアクセスカウンターは、10万に届いていない。その程度の実力の人間にとっては、その程度の発信力しかもたらされない、そういう時代だった。


当時書いていた文章も、いくつか見つけた。句読点の数が少ない、いわゆる黒歴史にあたる文章だ。


懐かしさに息ができなくなった。



現在、ぼくがやっているのは、ツイッター、フェイスブック、このブログ。そして、ツイートをログにまとめたブログが2つ。

なお、世の中には同姓同名の人間というのがおり、ポエムなどを書いて載せるブログをやっていらっしゃる。内心「なんだこのポエム……なんて迷惑なんだ……ぼくじゃないのに……」と辟易していたのだが、こうして今回、自分が昔書いていたホームページを断片的に読んでみると、大差ねぇな、と思ったし、ホームページとかブログとかをやっている人間は、結局のところ、全員バカ野郎である。

バカが語り続けるところを見ていると、じわじわと泣けてくる。なぜなんだろうな。

2016年10月27日木曜日

病理の話(12) 病理診断がわからないときのこと

「極めて難しい病理診断」を担当する機会が、たまにある。これには、いくつかの種類がある。


・診断そのものが決まらない。

これが一番困る。採取されてきたものが、腫瘍なのか、腫瘍ではないのか、それすらわからないときが、ある。

例えば、「胃炎」なのか、「胃癌」なのかが、わからないとき。「胆管炎」なのか、「胆管癌」なのかが、わからないとき。「肝臓の限局性結節性過形成」なのか、「肝臓癌」なのかが、わからないとき。

胃炎なら飲み薬その他で完治できるかもしれないが、胃癌だと飲み薬では治せない。がんか、そうでないかでは、ご存じの通り、対応が真逆である。臨床医も、患者さんも、一番知りたがっている情報なのに、確定できない。

なんのための病理か、となる。



・診断の方向性は決まるが、詳しい分類がわからない。

これもたまにある。

例えば「悪性リンパ腫」であることはわかるのだが、「T細胞が豊富なB細胞性リンパ腫」なのか、「T細胞性リンパ腫」なのかの区別が難しいとき。「膵臓癌」であることはわかるのだが、「通常型膵管癌」なのか、「腺房細胞癌の亜種」なのかがわからないとき。

臨床医にまず電話をかける。「がんはがんなんですよ。ただ、どのがんかがわかんなくて、ちょっと待っててください」。

がんならみんな同じ治療をするわけではない。がんのタイプによって治療も、推測できる将来像も、全く異なる。これが決まらないとなると、やっぱり、

なんのための病理か、となる。



・診断、その分類も決まるが、病気の「範囲」や「どれだけ進行しているか」が決められない。

テクニカルだが、これも多い。

例えば「胃癌」であることはわかるのだが、「胃癌がどれだけの範囲に広がっているか」がわからないとき。主に手術で採ってきた検体で問題となる。

多くのがんは、正常の組織との境界を決めやすい(逆に言うと、正常との境界があることが、がんである根拠のひとつとなる)のだが、たまに「正常組織の間にとろけるように広がるタイプのがん」がある。こういうタイプは、そもそも手術前の検査の段階で、各種の画像検査(CTとか、内視鏡とか)を使っても、どれだけがんが広がっているかわかりづらい。だから、事前に、病理にも「範囲がわかんないんすよ」と連絡がされている。

よし、あとは病理にまかせろ!と言えればどれだけラクか……。なんのための病理か。



・採取された検体の量が足りない、あるいは検体がぼろぼろである

生検(つまんできた検体)のときによく経験される。きちんと採取された検体なら診断もできたろうに、ぼろぼろになっていてよくわかんねぇな、ということである。

例えば「気管支鏡を使って、肺から採取してきた検体が小さい」とき。「内視鏡を使って、胃から採取してきた検体がぼろぼろ」なとき。子宮内膜を削ってきた検体。膵管から拾ってきた細胞。どれもこれも、診断に十分な量が常に採取できるわけではない。

だったら、病理としては……「もっと採ってくれ!」そのひと言で終わらせればよい? いや、実はそう簡単ではない。そもそも、病気の人から、小指の爪の切れ端よりもさらに小さい一部分を採ってくるというのは、言うほどラクな作業ではない。たとえば、世の中にはけっこうな割合で、血液をサラサラにする薬を飲んでいる人がいて、こういう人は「どこかをつまむと、それだけで血が出やすい」というやっかいな副作用がある。いっぱい検体を採ると出血してしまうから、小さくしか採れない。

無理してなんとか採ってきた検体なんだよ、頼むよ、なんのための病理か。



こういうときの病理診断は、「100%」を出さなければならない。しかし、その「100%」の意味を間違えてはいけない。

「100%、正しい診断」を出せる人間はいない。また、その時点で100%正しくても、時間経過と共に正しくなくなることもある。病理学的には正しくても、臨床医や患者さんにとっては100%の答えではないことだって、ある。

難しい病理診断をするときに、ぼくらが目指す100%は、「こういう情報があり、こういう検討をして、このように考えた」という思考のプロセス、そして、今後医療側は何をすべきかという方向性を、「あますところなく共有する」ことだ。

「今回の診断は極めて難しい。なぜなら、背景に炎症があり、それに伴う細胞異型が出現しているからだ。がんの可能性はある、しかし、通常のがんほどはっきりした所見をとれない。臨床画像で見ているこの点と、この点は説明できるが、こちらとあちらは説明がつかない。今後、この検体に対し、AとBという追加検索を行うが、○○%くらいの確率で診断がここまでしか確定できない。だから、患者さんにはこのように伝えて、追加の検査を行うかどうかを相談してほしい。あるいは、この結果までをもって、ここまでなら臨床対応を進めることができる。どうでしょうか。あなたは、どう考えますか。相談をしましょう。会話をしましょう。ぼくが見たものを、シェアしてください」



病理医が出す100%の中には、「ある妥当な理由があって、わからない。」という文言が含まれてよい。

「わからない? だったら、なんのための病理か」

と聞かれたら、それに答えて、

「なんのためだ」と、

「誰のためだ」と、説明するところまでが、100%だと思う。


岸京一郎は「10割出しますよ」と言う。同じ彼は、「わからない」と言った宮崎に、「はい 正解 その答えでいい」とも言う。彼は、常に、100%を出そうとしている。

2016年10月26日水曜日

一番モヤモヤしていた夏

「モヤモヤさまぁ~ず2」のWikipediaを見に行くと、

「タイトルに『2』とあるが、『1』にあたる番組は存在しない。」

とある。そうだったろうか、あの夏の記憶はなんだ、と思い返す。Wikipediaをさらに読み進めていく。

200713日にさまぁ〜ずと大江麻理子アナウンサーによって特別番組として放送されたものが好評を受け、同年4月に深夜帯でレギュラー放送が開始された。」

とある。

なるほど。

何がなるほどか、というのを、今から文章一つで書く。

・ぼくが2007年の夏に見た「モヤモヤさまぁ~ず」は、録画だったんだ。

もう少し説明を足す。

・ぼくが2007年の夏、馬込にあるレオパレスの部屋で見た、「モヤモヤさまぁ~ず」は、20071月に単発で放映された番組の、録画だったんだ。

足す。

・ぼくが2007年の夏、国立がんセンター中央病院での任意研修時代、日曜日の夜に、馬込にあるレオパレスの部屋で、体育座りで脚を抱え、近所のサンクスで買ったジム・ビームに氷を入れて飲みながら、レオパレス入居者にサービスされる有料放送カードを使って見た「モヤモヤさまぁ~ず」は、20071月に単発で放映された番組の、録画だったんだ。

足す。

・ぼくが2007年の夏、国立がんセンター中央病院での任意研修時代、半年しかない東京生活を満喫するどころか、いちから勉強をしなおさなければいけないという危機感が強くて、毎日勉強をしないと不安で眠れず、毎日朝から晩までがんセンター病理に缶詰状態、いよいよへとへとになり身も心もささくれだっていたある日曜日の夜、馬込にあるレオパレスの一室で、体育座りで脚を抱え、近所のサンクスで買ったジム・ビームに氷を入れて飲みながら、レオパレス入居者にサービスされる有料放送カードを使って最初はAVを見ようと思ったんだけど、よく考えたらレオパレスの有料放送カードでAVなんか見られるわけがなくて、じゃあ何が入ってるんだと思ったら「お笑い」という項目があって、その中から選んだ聞いたことのない番組「モヤモヤさまぁ~ず」が、なんだかゆるくておもしれぇなあと思って、あれをくり返し何回か見た記憶があって、でも札幌に帰ってきても誰もそんな番組のことを知らなくて、あれはなんだったんだろうなってずっと不思議だったけど、いつからかテレビ東京で「モヤモヤさまぁ~ず2」がやっていて、ほら、やっぱり! 2って書いてある! あれが1だったんだよ! って思ったけど、Wikipedia見ると「1」はないって書いてあるし、不思議だなって思ってた奴、20071月に単発で放映された番組だったんだ、ぼくが見たのはその録画だったんだな。

そんなことを、こないだ、久々に「モヤさま」を見ながら、思い出した。

あの夏の記憶はもうほとんど残っていない。すっかり消化されて、養分となって、全身に行き渡り、今ぼくが病理医であることの一部となっていたけれど、モヤさまだけは、未消化のまま、そのままの形で、脳の一部に棲み着いている。


寄生虫みたいだ。


2016年10月25日火曜日

病理の話(11) ディーパーシリアルセクションのすすめ

ひとつ切っては患者のため、ふたつ切っては医者のため、ヘイヘイホー。ディーパーカット。

Deeper cutという手技がある。日本語では「深切り切片作成」などという。ふかぎり。コーヒーが香るような語感だ。

なにを「より深く」切るのか。



プレパラートに乗せるのは、4マイクロメートルという極薄の検体である、という話を、以前にここで書いたことがある。これくらい薄くないと、染色したときにうまく細胞の断面が見えてこない。検体を4マイクロメートルに薄く切るのは「薄切」といい、病理の技師さんの専門技術である。

これ、検体を4マイクロメートルの薄さに切っても、「元の検体」は当然、まだ残っている。うまく削るために何度か表面にカンナをかけ、いざ、エイヤッと4マイクロメートルの薄さで標本を1枚作り出しても、まだ検体はけっこう残っている。この残った検体は、病院で半永久的に保存される。

なお、検体は、そのまま保存されるわけではなく、実は、パラフィンと呼ばれる物質の中に沈められて固められた状態にある。

寒天の中にフルーツを埋め込んだ、夏の涼やかな創作和菓子を想像してほしい。ぶどうとかさくらんぼのような小さなフルーツを寒天でかためたあと、ナイフで縦にスッと切ると、フルーツの断面がきれいに出てくるだろう。病理標本作成でやっていることは、そういうことだ。寒天がパラフィン。フルーツが検体に相当する。この寒天、フルーツを切りやすくする「台」として働くと同時に、検体を末永く保存するための「保存媒質」としても作用する。

さて、4マイクロメートルで切り出した検体をプレパラートにして、じっくりと見る。そこに、少しでも……細胞1,2個でも、何かアヤシイ所見があったとする。

優秀な病理医であれば、たとえ細胞1,2個の変化であったとしても、必ず見極めて、正しい診断を下す……?

いや、実は、優秀な病理医ほど、小さい検体でいきなり診断を下すことはしない。

Deeper cutをするのだ。

保存してあるパラフィンブロック(寒天固めだ)を取り出してきて、技師さんにお願いして、4マイクロメートルの検体を、追加で15枚くらい作ってもらう。

検体が、少しずつ削れていく。すると、「面が少しずつ変わる」。

寒天にうめこんだフルーツを、次から次へと4マイクロメートルで切っていこう。フルーツの断面は少しずつ変わっていくだろう。

たった4マイクロメートルずつ切り進んでいくだけではあるけれど。例えば、赤血球の直径はせいぜい6マイクロメートルくらいしかない。ぼくらが戦っているのは、そんなミクロの世界だ。ミクロの世界で、4マイクロメートルの標本を15枚も作ると、60マイクロメートルほど、「検体がずれる」。これはでかい。

このずれを使って、さっきは1,2個しかなかったアヤシイ細胞、そしてその周りが、どうなっていくのかを観察するのだ。

Deeper cutを作ると、アヤシイ領域がぐっと広がることがある。あるいは、見えづらかった細胞が見やすくなることがある。最初の標本には全く出ていなかった、腫瘍細胞や、周囲の変化が見えてくることもある。

この、Deeper cutを、どれだけ使いこなしているかというのは、実は、病理医だけがわかる、「病理医を見極めるヒント」となる。

Deeper cutをオーダーしたことのない病理医は、あまり診断の経験がないか、そもそも「病理診断」って仕事に興味がない((c)岸)。

あるいは、逆に、「自分の診断能力に絶対の自信があり、オリジナル(一番最初)の標本だけで診断をつけられる、ものすごい病理医」のことも、ある。

うん、この世界、ものすごい病理医も、いっぱいいますよね。



ところでぼくがこのdeeper cutを使い始めたのは、今の病院に来てボスに厳しく指導を受けてからだ。

それまでは、そもそも、deeper cutがこんなに強力な情報をもたらすことを、知らなかった。まあ、見ている検体の種類にもよるのだが、それにしても、ぼくは本当に、今の何十倍も未熟だったのだ。今もだけど。

もちろん、deeper cutにも制限はある。ときに、微小な検体がdeeper cutですっかり消失してしまうことがあるから、検体のサイズによっては注意が必要だ。あえてdeeper cutをせず、step section(説明略)にしておくとか、HE1枚+免疫染色(説明略)を選択した方がよい結果をもたらすこともある。また、手術検体では、そもそもdeeper cutが必要ないケースの方が圧倒的に多い。

けど、ま、胃生検とか大腸生検、肺生検、胆管・膵管生検などでは必須のテクニックですのでね。お若い病理医の方はぜひ、覚えておいてください。

……結局マニアックな方を書いてしまった。ぼくはいったい何と戦っているんだ。

2016年10月24日月曜日

論理的であります

一緒に映画見て帰ってきた人たちと喫茶店かどこかで語り合ったとしたら、たぶん話題に上るであろうこと、「予告編ってすげぇよね」ってことだ。これはもう、ほんとに、みんなあちこちで言ってるから、今更……と思われるかもしれないけど、こないだ久々に映画を見て、改めてそう思ったんだから仕方ない。誰にも頼まれてない、誰にも言い訳しなくていいブログには、そういうことを書いたって許されるはずだ。

今度、スタートレックの新作やるらしいじゃない。こないだシン・ゴジラを見に行ったときに知ったんだけど、予告編の最初からずーっと、「スタートレック」って言葉が出てこないのよ。でも、すごく、スタートレックくさい感覚が、じわーっとわいてくるような、宇宙戦争みたいなシーンが続くんだよ。断片的に。ゴオッ、って言いながらだ。で、2分とか5分とか経った時に、極めて瞬間的に「ミスター・スポック」が出てきて、「それは非論理的であります」って言うんだよ。あっ!!! ってなるじゃん、そこで。た、確かに、あの宇宙船、あの制服、いやーまさかと思ってたけど! ってなるじゃん。ま、まさか、今からスタートレックの新作やんの!!? ってなるじゃん。

で、予告の最後の最後に、

「B E Y O N D」

って表示されてから、数秒遅れで

ス タ ー ト レ ッ ク
 B E Y O N D

って、表示されるんだよ。これ、カタルシスだよ。この数秒遅らせた人、えらいよ。すごいよ。わぁーっ、ってなってから、ま、はじまるのは「シン・ゴジラ」なんだけど。

シン・ゴジラすごいおもしろかったよ。で、映画館から帰ってくるとき、まあ夜中なんだけど、車に乗りながら、映画館っていい場所だなあ……って反芻するわけ。レイトショーは人が少なくて、公開してだいぶ経った映画だとなおさら、「もう何度も見た」みたいな人とか、「疲れ切ってなんでもよかった」みたいなお客さんしか来てないわけ。そんな中に、音を立てないようにすごく気を遣いながらポップコーン食ってる中年とか、椅子にすわるなり脱いでたコートをめちゃくちゃていねいにたたんで膝に揃えてじっと待ってるお姉さんとか、ぽつり、ぽつりと座ってる空間が、もう、すてきなわけだよ。予告編なんてさっさと終わって欲しいって、子供のころは思ってたけど、今は逆なの。予告編の時間もとても楽しかった。わぁー! うれしいー! ってなるんだな。そこから全部反芻するんだ。シン・ゴジラはあちこちで考察もされてるし、正直ツイッターでさんざんネタバレ読んじゃってたんだけど、それでも、脊髄にひびく音と、画面以外飛び込んでこないくらい視界いっぱいに広がるスクリーンのでかさが、文章で読んだのとは段違いのゆさぶりをかけてくるじゃない。ああー、映画ってやっぱりいいなあ……大学時代、やることがない日に、すすきのの端っこにあるシアター・キノで、誰も見てないモディリアーニの映画みたいなのを見た時、ああ、ぼく、映画見るの好きかもしれない、って、なんなら「ドラえもん・のび太の日本誕生」以来はじめて気づかされたんだけど、あれからもう18年くらい経って、映画なんて金もかかるし時間もかかるし、駐車場が空いてるかどうかわかんないし、自分の見たい時間に始まらないし、どうしても足が遠のいていたわけなのに、予告編でミスター・スポックが出てきた瞬間から、「しまった、そうか、足りないのは、映画だったんだ!」ってなったんだな、で、シン・ゴジラを見て、なんかもう感動しちゃった。

38歳のすれた中年を喜ばせるほどの空間が、2000円も払わずに手に入るなんてこと、ぼくが18年も無視してきた世界に誰かが毎日たずさわって、どこかの中年はきっと毎日この感動をひそかに味わっていたんだなあ、ってこと。


まあ、ぼく、スタートレックにはそこまで思い入れないんですけど。

2016年10月21日金曜日

病理の話(10) 解剖ツンデレ論

解剖を、若い人に見せることがある。

解剖は、今や、ほとんど必要のない技術だと言われることすらある。古い。

解剖でわかることは、患者の死の直前まで頭をひねった医療者が本当に知りたいことの、ごく一部でしかない。

その程度のことなのに、解剖が、ときに病理医のアイデンティティの一つとして語られることがある。

ぼくは、そういうのは、あまり好きではない。

ぼくは、解剖が嫌いだ。

解剖は、とても残酷だ。

そこに横たわる、ついさっきまで心臓が動いていた方に、メスを入れる瞬間、きつくて、うんざりする。ただ目を閉じている人に刃物を入れるのと、感触的に区別がつかない。心がねじきれそうになる。

そして、いざ、おなかの中を探り出すと、目の前から、「人間のもつ表情」や「けれん味」、「死への畏怖」といったものが、すっかり消失してしまう。

不思議なのだ。すべてを超えて、好奇心が勝ってしまうのだ。

かつて、学校に人体模型があった。筋肉とか骨の有り様を雄弁に、ときにグロテスクに語ってくれる人体模型のイメージが、多くの人が想像する解剖というものだ。

あるいは、ゾンビ、スプラッタ映画……血まみれに描かれる、しかし決して現実的ではない、せいぜい小腸をはみでさせた程度で人を驚かせようとする、安いびっくり箱。不思議なことに、医学生であっても、はじめて解剖を見る前には、ああいう「気持ち悪さ」を想像してしまう。

しかし、解剖で見るのは、まず普段は目にすることのない、精巧すぎる臓器、計算され尽くした配置。まず間違いなく「はじめてみる光景」に、たいていの人は気持ち悪さよりも驚きが先にやってくる。創造物への知的好奇心に全身が支配され、先ほどまで心に満ちていた
「医学で死を語ろうとすることへの申し訳なさ」や、「人の体に傷を付けることへのおびえ」などを、きれいさっぱり忘れてしまう。

解剖は、情報を、濁流のようにぼくに流し込んできて、良心を全て洗い流し、精神を学術探求心で満たしてしまう。

ぼくは、そういうのが嫌なのだ。

ぼくを学術マシーンにしてしまう、解剖という儀式は、最悪だ。

解剖は大嫌いである。



あ、あと。

解剖を見学するならば、部屋の隅っこから見ていてはだめだ。

遠目に見ると、人体に刃物をたてているように見える。不気味そのもので、めまいがしたり気持ち悪くなったりしてしまう。

見るならば、絶対、一番近くがいい。

科学的な目で、至極ドライに、生命の奇跡に触れることができる。あたかも、テレビを分解して喜ぶ男の子のように。目を輝かせることができる。

人の体に、そんな好奇心を向けてしまうなんて……という罪悪感も、博物館のガイド音声を聞くような気分でぼくの話を聞いているうちに、だんだん生命への尊敬の気持ちに上書きされていくことだろう。

解剖室を出る頃には、医学に侵略された自分に驚くことだろう。死者が生者に施す、最高の講義に、感謝すら湧き上がるだろう。

死者と、家族、担当医、担当スタッフ、みんなの無念に焼かれるのは、ぼくたち解剖執刀医だけでいい。

ぼくは、解剖が大嫌いだ。そして、たいていの医療者は、「また解剖を見学してみたい」という。

2016年10月20日木曜日

やがみっつ

製薬会社の営業さん(MRさん)は、病理のところにはやってこない……などと言われていた。でも、市中病院で働いていると、けっこうMRさんがデスクにやってくる。

製薬会社の人は、かつて、病理医には冷たかった、と言われる(本当かどうかは、かつての人間ではないので、知らない)。

病理医は、彼らの商品であるおくすりを処方しないのだから、そもそも客じゃないのだ。実際、白衣を着ていないぼくが病院の廊下を歩いていて、彼らとすれ違っても、スーツの他人同士がすれ違ったようにしか見えないし、お互いそのように思っている。

けど、最近のMRさんは、けっこう病理医のところにも来てくれる。研究会の案内をただデスクの上に載っけて帰っていくのではなく、顔をみて挨拶してくれる。それがうれしい。

でも、たぶん、ぼくは、いつのまにか……医師15年目になり、少し摩耗していたのかもしれない。



少し前、ぼくのデスクに、ある製薬会社のMRさんが2人やってきた。1人はこの地域を担当する人、もう1人は初めて見る顔であった。先日の研究会で使った資料を返却しに来てくれたのだ。ぼくはお礼を言ったが、初めて見る顔の方が名刺を取り出そうとしていた。

ああ、そうか、ご挨拶。はい。致しましょう。えーと病理のイチハラと申しま……。

そっけなく名刺を見たぼくの体は、そのままの角度で固まってしまった。名前に見覚えがある。車で、トンネルの中を通り過ぎる時に、窓を開けていると聞こえるような音が、一瞬鳴った。

彼は、ぼくの小学校時代の同級生だった。さほどめずらしい名前ではなかったが、なんというか、リズムがある名前というか、「や」が名字と名前の中にあわせて3つも入っていて、ついフルネームで呼びたくなる名前、というか……。とにかく、よく覚えていた。

26年ぶりに見る彼の顔は、だいぶ節くれ立った、精悍なものに見えた。彼にはぼくはどう見えたのだろうか。

「こないだ、研究会でお会いして、いやー、覚えてるかどうか不安だったんですが、名刺をお渡ししたときの表情を見て、あ、覚えてくれるなーって、うれしかったですよ!」

心の中に、桜でんぶみたいなピンクのふわふわしたものが一気に広がった。なんか、陳腐なんだけど、うれしくてしょうがなかった。

覚えていてくれた人と、こうやって会えるなんて!


仕事中であるぼくらはそんなに長いこと話はしなかったのだが、今度どこかでメシを食おう、そのときはそうだ、あの同級生も誘おうと、ひとしきり盛り上がった。

ちらりと彼の後ろを見ると、最近ぼくを担当するようになった、「無味乾燥な人」だと思っていたMRさんが、破顔していた。「よかったですねえ」という顔をしていた。


ああ、ぼくは、知らず知らずのうちに、MRさんが1人の人間であることを、MRさんたちの商売とは別に彼らが人生を持っていることを、その人たちと出会うこともまた一期一会であることを、忘れて……というか、摩耗してしまって、名刺交換もすっかりおざなりに、礼儀正しさもあくまで慇懃無礼に、こなしてしまっていたのだなあ。

外資系の製薬会社はなーんかずるい感じがしますよね。

MRが持ってくる参考資料なんて絶対に勉強のアテにしちゃだめだよ。

研究会にはいくけどボールペンは持って帰らないよ。

タクシーチケット? もらうわけないじゃない。

ランチョン? うけないよ。薬屋さんの太鼓持ちで講演なんてするもんか。

これらは、ぼくが、「正しい医師」であろうとするために、あるいは「現代に生き、清廉を求められる医師」として過ごすために必要な、「言い聞かせ」であった。偉いドクターはみなこう言った。そして、いつしか、ぼくの中でも、少しずつ、MRさんは「ていねいに接するけど、決して踏み込ませない他人」となっていった。


今回、小学校時代の同級生がMRさんとしてやってきたことも大きかった。けど、それ以上に、「ぼくの担当」だったMRさんが、小さな同窓会が目の前で展開されているのを見て、とてもよさそうな笑顔をしていたことに、ぼくは撃たれた。


彼らも、ぼくらも、みな人だったのに。

中年は一瞬で忘れていくのだ。きっと、ほかにも、忘れているのだ。

2016年10月19日水曜日

病理の話(9) わりと真っ正面から遺伝子と病気のことを

「遺伝子」と聞くと、なんというか、全能感がある。

「遺伝子に変異があり、○○病になった」と聞けば、原因は確実に遺伝子にあるだろうと、半ば信じ込んでしまう。多くの医学生、さらには医師すら、「遺伝子変異を見つければ病気の診断につながる」と思い込んでいる。……こうやってぼくが書けば、読んでいる人は、「まあそう簡単ではないんだな」と、想像はつくだろう。

しかし。実際には、「遺伝子変異を見つければ病気の診断なんて簡単だ」と思い込んでいる医療者が、どれほど多いことか……。



一番勘違いされるのはこうだ。

「病理で、がんか、がんじゃないか、難しいって言われたんですけど。もっと技術が進んで、遺伝子変異までズバッと検索できるようになれば、そんなものすぐわかるようになるでしょう? 将来は病理診断なんて全部遺伝子検査で置き換えられるはずだ」

これは、夢としては大きいが、実現する可能性がきわめて小さく、(少なくとも現代においては)現実感に乏しい「世迷い言」だと考えている。

遺伝子を調べても、病気の「全て」は絶対にわからない。もちろん、「一部」はわかる。しかし全部を補うことはできない。



たとえば、Peutz-Jeghers syndromeという病気がある。「ポイツ・イェガース症候群」。この病気にはいくつもの症状が現れるが、有名なところでは、「消化管にポリープ(できもの)ができる」。

このポリープ、実は、腫瘍ではない。放っておくといずれ転移して命に関わるとか、そういう「悪いモノ」ではなく、過形成と呼ばれる状態である。もちろん、過形成だろうが腫瘍だろうが、できものがあることで症状が出ることもあるので、過形成だから放っておいて平気とは限らないけど、がんかがんじゃないかといえば、「がんではない」。

しかし、このポリープには、STK11遺伝子に変異があることがわかっている。遺伝子変異はあるけど、がんではない。

この、「がんじゃないくせに、遺伝子変異だけはある」という病気は、我々を非常に困らせる。

まあ、SKT11遺伝子に変異があるとたいていポイツなので、その意味では「遺伝子変異は病気をみるのに役に立つ」んだけど、そもそも、ポイツの診断にわざわざSKT11遺伝子を調べる必要はあまりない(そこまでしなくてもわかることが多い)。

どっちかというと、「腫瘍じゃなくても、遺伝子変異なんてありえるんだぜ」と言われてしまったのが、我々にとって、「痛い」。がんを診療する際に、「遺伝子変異の有無を参考にはできるけど、絶対ではない」ということになる。

これでは、病理診断と一緒ではないか、という話になる。「参考にはできるけど、絶対ではない」。



別の例をあげよう。

悪性リンパ腫や白血病という病気では、ときに「染色体検査」が施行される。異常な細胞に「正常細胞にはみられないはずの染色体異常」が観察される。濾胞性リンパ腫のIgH/Bcl2転座[t(14;18)]などは有名だ。この染色体異常は、正常の細胞には見られないし、血球細胞が腫瘍になる直接の原因となっている。

ところが。ちょっと風邪を引いてノドが腫れた小児のへんとうせんから細胞を採取すると、まれに、「よくわからない染色体異常」が観察されることがある。

うわっ、染色体がおかしい! み、見たことがない染色体異常パターンだけど……これは……悪性リンパ腫の初期像ではないだろうか!? そう疑って、風邪が治ってからもずーっと病院にかかり続ける。それっきりノドは腫れない。おかしい、おかしいと思って再び細胞を採取する。もう異常な染色体は見つからない。あれはいったいなんだったんだろう……。

こんなことが、まれにある。へたに染色体検査なんかオーダーしなけりゃよかったね、などと言われる。不必要な検査が現場も患者さんも困らせてしまう例だ。

染色体に異常をもつ細胞というのは、ある一定の確率で出現するらしいのだが、これが「人に影響を及ぼす、腫瘍」になるかどうかはケースバイケース。多くは人体の免疫機構によって、駆逐されてしまう。また、染色体に異常があろうと、問題ないケースもあるようだ。

「腫瘍じゃなくても、染色体異常なんてありえるんだぜ」と言われてしまったのは、我々にとって、「痛い」。がんを診療する際に、「染色体異常の有無を参考にはできるけど、絶対ではない」ということになる。

まただ。遺伝子変異や、病理診断と一緒ではないか、という話だ。「参考にはできるけど、絶対ではない」。


ありとあらゆる診断学は、基本的に、「たった一つの検査値だけでは決定できない」のだ。そこに風邪ウイルスがいるから風邪です、が成り立たないのと一緒で、そこに遺伝子変異があれば腫瘍です、もまた成り立たない。



コンピュータによる自動診断(AI)が今のところ不完全なのは、膨大な量の検査値を「総合的に、知性をもって」判断しないと、病気かどうかを決められないからである。病理診断みたいな形態学は、いずれAIに切り替わるだろう、などと言う人もいるが、それはだいぶ先の話だ。形態学はもちろんのこと、仮に遺伝子・染色体などを毎回フルで検査できたとしても、異常がある・ないの二元論では腫瘍かどうかすら決められない。

人間と同じくらい思考し、しゃべってくれるコンピュータが登場すれば……「ドラえもん」が実用化すれば、診断学は完全にAIに移行することができるだろう。おそらく、今まで医者がやってきた仕事のほとんどは、人間よりも頭がよいコンピュータによって深く思考され、機械によって実施されるようになる。

逆に言えば、そこまでしないと、遺伝子や染色体、あるいはタンパクを見てデジタルな判断をくだすだけでは、病理診断は確定できない。

たぶんそんな日は来ないだろう、と思った人もいるかもしれない。ならば、病理医はなくならない。

たぶんそんな日が来るだろうな、と思った人もいるかもしれない。ならば、病理医は他の臨床医と同じように不要になるし、「人間にしかできない仕事」をしなければいけなくなる。

それは何かというと、くり返し書いてきた、「説明して、納得してもらうこと」なのではないか、と考えている。特に、「納得してもらう」は難しい。のび太くんがドラえもんと喧嘩をし、仲直りをするという技術、22世紀でほんとうに実現していたら、それはすごい、すばらしいことだ、かもしれませんね。((c) SAMURAI)