2017年9月21日木曜日

病理の話(123)

ありとあらゆる医者は、タテマエ上、学生時代にほぼ全ての臨床科のことを「習っている」。

これは、義務教育の際にすべての小中学生が、日本の歴史について「習っている」というのと同じ構造だ。

習っている。

それだけである。




医学生は卒業後、まず第一に、手先を動かす訓練をする。

現場でここぞというときに、体が硬直しないように。

電子カルテの書き方。入院患者に対する基本的な対処法。外来での事務処理。

急変した患者の対応。救急外来での最適化された行動順序。

医師に求められている数々の手技。挿管、血液ガス採取、大血管へのカテーテル挿入。

「脳よりも先に体が動いてくれないと話にならないよ」という、現場からの期待が大変はげしい。

脳は置き去りにしてでも、身につけなければいけない。



脳に待っていてもらっている2年間で、「日本史」のことは、ほとんどすべて忘れていく。

どれだけしっかり勉強していても、ほとんどすべて忘れる。

ただし、「ほとんどすべて」だ。すべてではない。

自分が将来にわたって使い続ける知識については忘れない。



研修医は、自分が日本史の中で、「どの時代」を勉強したいかを見据えている。

 縄文時代の第一人者になるか。

 室町時代なら誰にも負けない人になるか。

 江戸時代の中期を学ぶか、末期を学ぶか、あるいは江戸時代成立前後を学ぶか。

 日清戦争のなりたち。

 田中角栄のやったこと。

これらは同じ日本史と言ってもまるで違うだろう。

田中角栄の業績に詳しいからと言って縄文土器を見極められるわけがない。

たとえば消化器内科と整形外科というのは、それくらい違う。




小中学生のころ習った「日本の歴史」だと、みんな、どこを一番覚えているだろう?

最初の方で学んだ、「前方後円墳」とか、「聖徳太子」とか、あのへんか。

多くのマンガやドラマで描かれている、「戦国時代」とか「織田・豊臣・徳川」とか、そのへんか。

ザビエルを思い浮かべる人もいるだろう。

平安京だけは忘れない人もいるに違いない。



循環器内科とか救急というのは、ザビエルとか平安京みたいなものだ。

昔習ったなあ、というのを強烈に覚えている科。

頭に残っている科。

「ぼくは日本史に詳しいよ」と人に言って回るときに、説明のしやすい科。




じゃあ病理は?

うーん、そうだな。少なくとも、特定の時代とか、特定の人物ではない。

「日本の文化史」とか。

「日本の外交史」とか。

何かひとつの視点で、すべての歴史を俯瞰しているようなイメージ。

「どこかの時代」を学ぶのではなく、すべての時代について、ある決まった視点でまとめ直すような感じ……。






医学生がときどきツイートしているのをみる。

「病理の試験めちゃくちゃきつい、将来病理医にだけはぜったいなんねー」

「顕微鏡実習マジで意味無い、病理は進路としては消えたな」

これは、学校で日本の歴史を学んだ小学生が、

「年号覚えられない、社会はきらい」

「歴史資料館の見学行ったけどちっともおもしろくない、歴史はつまらない」

と言っているのに似ているなあと思う。




そりゃあつまらんだろう。

病理が「そういうもの」だと思っている間は、つまらんだろうな。



昔、社会に苦労した子供達の中には、たまに、大人になって、もはや社会の勉強なんてしなくてもいいんだよというポジションについてから、ある日、大河ドラマみたいなちょっとしたきっかけで、

「あっ、今なら勉強できるかも、今なら社会がおもしろいかも」

という気になる人がいる。




病理というのはそういうアレだと思うんですよ。大河ドラマが好きなら病理が嫌いなわけないんだ。

2017年9月20日水曜日

カツセマサヒコを倒す

しゃべくり007を見ていた。

最近のイケメンや美女は、バラエティに出ると、

「実はこんな変なところが!」

とか

「意外とオタク!」

とか

「こう見えて爽やかではない!」

みたいにいじられている。

いじられて、イケメン本人も嬉しそうに笑っている。




たしかに。

かっこいいとか足が長いとか顔が小さいなんてことを前面にプッシュされても、ぼくはすぐに嫉妬してしまうから。

こんな完璧超人にも実はこんな弱点が、というところを笑えるスタンスでいじってくれた方が楽しく見られる。

世間的にも伸びるしバズる。



いじりと自虐を、いじめと他虐にならない程度にまぶした番組じゃないと、ぼくはチャンネルを変えてしまうだろう。



実際、いいものをいいと言い続けるだけで人の耳目を集めることは、極めて難しいと思う。

いいものをいいと言い続け、歩き回って人々の肩を叩き、誰かの横でうまそうにメシを食って幸福なため息をつき、よさみよさみ尊い尊いと念仏のように唱え。

それ「だけ」で、ものの良さを伝えて幸せを広めていける人。

いるにはいる。

なんと力強くやさしいことか。

……ぼくらみんなに、できるものだろうか?




いいものをいいと言い続けるだけのことを続けている人からは、なんというか、NHKのにおいがする。

すこし野暮ったいというか。

下品なことは言わないし。

大音量のCMもかからないけれど。

大声で笑うこともない。

スーツで、七三で、笑わない。



……はあ、参ったな。

ぼくは、「いいものをいいと言い続けている、シンプルな、優しい人」にすら、レッテルを貼ってしまっているようだ。





NHKに巨乳のスポーツキャスターが出たと言ってタイムラインが盛り上がっていた。

テレビ東京がニュース速報を出したと言ってタイムラインが怯えていた。




「いいものをいいと言い続けるだけ、それがシンプルでかっこいい」と思い込んでいたはずのぼくの脳にも、いくつかの付箋が貼られており、いくつかのしおりが挟まっていて、偏光フィルターとブルーライト軽減グラスがかかっている。





とりあえず無印良品を着こなすイケメンライターだけは滅ぼそうと心に決めているぼくの、目に、脳に、こびりついてしまったレッテル。


とりあえずカツセマサヒコだけは殴るけれど、その後のことはもう少し、考えていきたいと思っている。

2017年9月19日火曜日

病理の話(122)

人体を守る仕組みのひとつに、

「リンパ球がばいきんを攻撃する」

というシステムがある。

言葉で書くと簡単だ。

たとえ話をするならば、リンパ球は警察官で、ばいきんは犯罪者である。



けれど、リンパ球には「脳がない」。

細胞1個だ。脳も手足もない。単なる「まるいつぶ」である。

そんなつぶが、どうやって犯罪者を認識して、どうやって倒すというのか?

そもそも、まるいつぶにそんな警察官みたいな役割が果たし得るのか?



もともと受精卵という1個の細胞が、分裂を繰り返して、何兆という細胞にばけて、今のぼくらの体ができている。

その一部を、わざわざ「まるいつぶにして」、「警察官の役割を担わせて」、「犯罪者の顔を見分ける能力をあたえて」、「犯罪者を逮捕したり、直接罰したりする能力を与える」。

こんな複雑な命令、いったいどうやって与えているのだろう。



人体の細胞がどのように働くかを、適材適所、適切なタイミングで命令しているのは、ざっくりと言うならば、

「DNA」

によって記載されたプログラムであるという。

気が遠くなる。

いったいどれだけ精巧なプログラムを書いたら、こんな複雑な仕事ができるのだろう?




……と、このような記事を書いて、ブログにアップしているぼくは、ふと気づく。

このブログ作成ページだって、プログラムで書かれているわけだよね。




コンピュータプログラムはご存知の通り2進法だ。

0(電気を通さない)と1(電気を通す)の2通りを組み合わせて、無数の言葉を生み出す。

0と1だけで、日本語を自由に表示させたり、行を変えたり、ブログのデザインを決めたり、リンクを飛ばしたり、なんでもやってしまう。

さて、プログラマーは、実際に「0と1」を使ってプログラムを書いているのだろうかというと、確か、そうじゃなかったはずだ。

ぼくはあまり詳しくないけれど。

「言語」を使っているんじゃなかったか。

0と1だけでプログラムを記載するわけじゃなくて、もう少しだけ人が使いやすい言葉に置き直して、プログラムを書いているんじゃなかったかな。

C言語がどうとか、ジャバがどうとか、あったよ、確か。




では、人間の体をコードするプログラムはどうやって書かれているか。

4進法で書かれているのだ。

A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)。

0と1の2進法よりも、組み合わせが多い分、複雑なプログラムが書ける。

けれど、このATGCだけを使ってすべてのプログラムが書かれているわけではない。

プログラマーが、キーボードで010010110111010と入力してプログラムを書いたりしないように。

「生命をプログラムしたプログラマー」も、ATGCだけでプログラムを書くのはやばいと思ったのだろう。

ATGCを3つずつ組み合わせ、「言語」を用意した。

「AGC」のセットを、「セリン」という物質に対応させる。
「GAA」のセットを、「グルタミン酸」という物質に対応させる。

ATGCの4進法でそのままプログラムを書くのではなくて、ATGCから3つずつの組み合わせをつくり、これらを20種類の「アミノ酸」という物質に対応させた。



いきなり4種類の文字だけですべてを書こうとするのではなく、4種類の文字の「組み合わせ」(コドン)を言語として設定。

コドンAGCがプログラムに出てきたら、それはつまり「セリンという部品をここにおいてくれ」というサイン。

コドンGAAがプログラムに書かれていたら、「今度はグルタミン酸をここにおいてくれ」というサイン。

つまり、AGCGAA と書かれていたならば、セリンとグルタミン酸を隣同士においてくっつければいい。




4進法のプログラムを3文字ずつ読みながら、20種類のアミノ酸を次々と並べていく。

アミノ酸がつながっていく。

つながってできたものを、「タンパク質」と呼ぶ。聞いたことがあるだろう。タンパク質。



細胞というのは結局のところ、すべてこの「アミノ酸を連ねてできたタンパク質」によって作られていると考えてよい。

アミノ酸は20種類のレゴブロック。

20種類あれば、たいていの形をつくることができるだろう。レゴで作った建物とか乗り物がタンパク質に相当する。





この仕組みを細かく研究した人が、ある日、思った。「生命すげぇな、4進法でなんでもやっちゃってるよ」。

そして、こんなことを考えた。

「パソコン上の仮想空間に、4進法で記載される『単純な法則』を用意する。1秒あたりに1回、その『法則』が作用して、『ある図形』の形が変わるようにプログラムする。パソコン上で何十億年という時間を再現したら、その図形は”生きつづける”だろうか?」

生きつづける、というのはたとえ話だ。

「ごはんをたべて、周りに影響をあたえながら、ときに敵と戦い、繁殖をして、個体が死んでも種族としては生き続ける」。

コンピュータ上の図形を、あたかもそのように「みなす」。

コンピュータ上で放っておいてもうにょうにょ動き続け、形を変え続け、存在しつづけるかどうか。ほんとの生命ではない。遊びみたいなものだ。

「ライフゲーム」と呼ばれる。




DNAが4進法なのだから。

ゲームとはいえ、「4進法」はライフを生み出す可能性がある。

コンピュータ上で膨大な時間を再現すれば、単純な「ライフ的なもの」は作れるのではないか?




このライフゲームはあまりうまくいかなかった。

4進法だけだと、何度仮想空間を設定し直しても、途中で生命としての「複雑さ」が現れてこず、バリエーションに限界が生じて、結果、不測の事態に対応できずに、「ほろびて」しまう。

足りなかったので、ためしに5進法にしてみた。

文字を増やせばバリエーションが多くなるだろう、という発想。しかし、今度は、「複雑すぎて」、図形が途中でうまく変化しなくなってしまった。



机上の空論とは便利なことばである。

本来、「○進法」という概念には、小数点はそぐわない。

0と1での2進法というのはわかる。ATGCの4進法というのはわかる。

けれど、「4.2進法」と言われたって、想像がつかないだろう。

けれど、このライフゲームにはまっていた学者は、思った。

「4進法だと複雑さがたりない。5進法だとカオスに陥ってしまう。だったら、4.2進法くらいがちょうどいいんだけどなあ……。」

4.2文字で記載するというのは意味がわからないのだが、ためしに、やってみた。




すると、うまくいってしまった。図形はいつまでも、うにゃうにょと変化し続けて、それはまるで新種のアメーバかなにかを見ているかのようだった。

「え……? どういうこと……?」




生命の複雑さを記載するには、どうも、単なる4進法では複雑さが足りないらしい。

人間って、ATGCの4進法でプログラムされているはずなんだけどなあ……あっ!




学者は思いついた。

DNAはATGCの4文字だけど。

RNAになると、AUGCの4文字にかわるんだよな。確か。

T(チミン)が、なぜかU(ウラシル)と対応するんだ。

これ、文字を「ちょっとだけ増やしている」のかもしれない。



それに、DNAにはほかに「修飾」とよばれるシステムもある。

メチル化とか、アセチル化とか。文字にかざりが付くのだ。

これも、文字を「ちょっとだけ増やしている」のかもしれないな。




生命って、4進法じゃなくて「4.○進法」くらいなのかもしれない……。




(一部ぼくが適当にいじっているのでフィクション化してますが、そのような仮説が提唱されたことは実際にあるそうです。)

2017年9月15日金曜日

プロ野球選手がゲルマニウムのネックレスをする理由がわからない

ファッチューチョン、だったっけ。

あってた。佛跳牆。

バイブル・めしにしましょう(小林銅蟲)の3巻に乗っていた。

いわく、「山海の珍味を壺にぶちこみ、壺ごと蒸し煮する高級中華料理です。主な特徴として、値段に天井がない」。

乾物をはじめとする中華の食材をこれでもかこれでもかと大量にまぜこんで、力で蒸し煮にしたスープ。




「個々の食材の特徴は失われて巨大なうまみの塊が流れ込んでくる」

「味の余韻がめっちゃ長い」

「色々な生命の意識が入ってくる」

のだという。



人間の体ってこうだよなあ、と思った。

もはや何が元になっているのかわからない、味の塊。





昔、化学で習った。「緩衝液」という言葉を。

緩衝液というのは、多少の酸や多少のアルカリをぶちこんでも、pH(ペーハー)がほとんど変わらない液をいう。

酸を入れてもばんばん中和されてしまい、あまり酸性に傾かない。

アルカリを入れてもじゃんじゃか中和されてしまい、そんなに塩基性に傾かない。

そういう液体があるのだという。



人間の体ってこうだよなあ、と思った。

もはや何を入れてもそうかんたんにはぶれない、不屈の緩衝液。



生命というのは、無数の足を持つやじろべえである。

あまりに多くの要素でなりたっているために、一部の足を重くしても、一部の足をとっぱらっても、もはやバランスがあまり変わらない。

そんなやじろべえでいることに、メリットがある。

今日はごはんばかりを食べ、明日はバナナばかりを食べ、明後日はビールばかりを飲んだとしても、1週間程度ではさほど体調が悪化しない、ということ。これは、生存していく上ではとてつもなく大きなメリットなのである。

ある日は果実を手に入れた。

ある日はマンモスの肉を狩れた。

ある日は水しか飲めなかった。

それでも人は生きる必要があった。

それでも人間は「そのまま生き続けて」いなければいけなかった。

いつ、何が手に入るかわからないからこそ、生命はファッチューチョンでなければいけなかった。生命は緩衝液であることを選んだ。生命は無数の足を持つやじろべえになった。




「このドリンク一個でとても健康になれる」なんてことはあり得ない。

「このストレッチひとつで人生が変わる」なんてこともない。



すべてはバランスであり、るつぼであり、個々人がより分けて摂取したり排除したりして動かせるほど安直なシステムではない。






……ところで。

西洋医学というのはおそろしい。

この薬1個で、病気が治る、というのをやっているのだから。

無数の足を持つやじろべえがどちらかに傾いたとき、それを何かひとつのおもりで直そうとしても、普通は直るものではない。

でも、西洋医学は、それを直してしまう。

まるで奇跡ではないか?



西洋医学を奇跡にしないために、人は、統計をとる。

必死で臨床試験をやる。

万が一! たったひとつの物質が、人間のバランスをもとに戻してくれるかもしれない!

そういうアイディアをぶつけて、ぶつけまくって、生き残った「奇跡の一錠」だけが、西洋医学には採用されているのだ。




奇跡を確認し終わった結果が今の医療だと思えばいい。

ぼくらはいつも、奇跡に囲まれて生きている。

慎んで、学んで、ラッキーに感謝する。

そして、奇跡をオカルトにしないでくれた、統計学にもそっと手を合わせる。

2017年9月14日木曜日

病理の話(121)

手術で臓器をとってくる「理由」を考える。

たとえば、「がんだから」手術をします、という理由がある。これをもう少し深く掘り下げる。

「ある種のがんが、ある程度周囲に潜り込んだりしみ込んだりしているとき、手術をすることで患者にメリットがある。だから手術をする」

なるほど、ではそのメリットとは?



1.長く生きられる。

2.痛み、苦しみが減る。


だいたいこのどっちかである。




病理診断でがん細胞を見ているとき、あるいはがんに限らず、手術で採ってきた臓器をみるとき、

「この手術をすることによって、患者にはどういうメリットがあったのかなあ」

ということを考える。

実は、そんなに患者のことを考えなくても、病理診断することはできるんだけれど。

細胞ががんであるかどうかを判断するだけのことに、患者の顔を思い浮かべる必要はない。細胞のことをきちんと勉強しておけば、用は足りる。

それでも、ぼくらは、診断とは直接関係しない、「患者にとってのメリット」を思い浮かべながら診断をする。




――患者はこの手術によってどれくらい長生きできるんだろう、患者は医者とどのような相談をしてこの手術に臨んだんだろう、手術で失った部分があるならば、それだけデメリットもあるはずなのに、それでもなお手術を選ぶだけのメリットがあったということだ、そのメリットというのはいかばかりだろうか。

――手術をしなければどれだけの痛みがあったのだろう、どれほど苦しんでいたのだろう。この手術によって病巣がとりのぞかれ、その結果患者は苦しみから解放されたのだろう、さて、どれほど苦しみが減っただろうか。

細胞とは関係ないだろうけど、考える。



──医療統計の論文を読む。ある病気に対し、ある手術をすると、どれくらいの確率で患者がどれほどよくなるか。逐一論文になっている。ガイドラインと呼ばれる指針にまとめられている。数々の教科書に書いてある。それをきちんと読む。

細胞とは関係なくても、読む。



──臨床医が何を考えているのかを知ろう。書を捨てずに、医局に出よう。主治医には意図があり、こうなれ、と思った願いがある。患者に直接会わないぼくたちも、臨床医をはじめとする医療者であればいくらでも会うことができる。

細胞とは関係あるわけないけど、聞く。



その上で。

とうに患者から切り離されてしまったプレパラートの中に、患者の苦しみを見定めるヒントを探す。

顕微鏡で臓器をみるときに、がん細胞や病巣そのもの以外にも、あらゆる細胞を見る。

たとえば神経。たとえば手術のきれっぱし部分。たとえば病変とは関係ない部分の粘膜。たとえば筋肉、たとえば臓器の大きさ、血管の増え具合……。

これらがどのように変化しているかを探り、患者にはこんな苦しみが出ていただろうなと想像する。

細胞と関係ないことを聞いて、読んで、考えているからこそ、細胞をそれ以上に、診る。





「患者のことを想像しながら診断する」こと。実際、病理医にとって必要なスキル、とまては言えない。

だって、患者がどのように苦しんでいたとしても、もう手術は終わっているのだから。症状はすでに取り去られているのだから。顕微鏡をしっかり見ることが求められているのだから。

けれども。

「そこ」を想像せずに、がん「だけ」を見て仕事を終えてしまっては、いけないのだと思う。

単に理想論とか美談として語りたいのではない。




臨床医がやってくる。すでに診断を終えた患者の病理報告書を手にして。



「先生今ちょっといい?」

──いいですよ。

「これ、診断には何の文句もないんだけど、ちょっと聞きたいことがあって」

──どうぞどうぞ。

「この人、ふつうだったら背中が痛くなるはずの病気なんだよね。けど、今回は腹側が痛くなってた。関連痛ってことでいいのかもしれないけど、なんかちょっと解せなかったんだよな。もしかして病気の範囲が、腹側に及んでたのかな」

──なるほど、おまちください。ちょっとプレパラート出しましょう。一緒に見ましょう。

「ありがとう」

──ここですね、病気が神経にそって、前方に「這って」います。レポートにも書いてある神経周囲浸潤というやつですが、今回のは「ちょっと特殊な這い方」をしています。画像には映らなかったかもしれません、這っている細胞の量は決して多くないですから。けれど、這った先でだいぶ周囲に障害を与えていますね。ここは映っていたかもしれませんよ。

「ん? あっ、これか……ちょっと離れたところのこれ。これも病気の範囲なのか。そうか、だから前方に痛みが出るのか」

──病理診断上、この方が将来どうなるかを予測する上ではどうでもいい所見なんですけど、手術前の痛みを解釈することができる所見でしたね。

「そうかそうか、ありがとう」

──いえ、ぼくもこれからこういう像が出ていたらきちんとレポートに書き加えます。勉強になります。





……これは「理想」ではなく、「現実」にすべき診療のスタイルではないかと思う。誰のための診断、誰のための治療、そういったことを考えれば、ぼくらが細胞を見る「だけ」でいてよいのかどうか、答えは出るはずだ。

2017年9月13日水曜日

ツイッタラーズハイ

今これだけ努力すれば、いつかきっと楽ができるからな、と言われてがんばって、無事望んだポジションにつくことができた人間が、今度はそのポジションを守るために、昔よりも多くの努力をしている。

そんなシーンを目にする。

「将来、努力をすることが苦にならないように、昔から努力しておいたんだ」

そんな文脈すら、ある。




まあ確かにそういうやり方ってあるよな。




毎日ランニングするなんてかったるくてしょうがないけれど、何とかかんとか理由をつけて走る習慣を付けると、いずれ走ることが楽しくてしょうがなくなり、走ることが一日のリズムを産み、走らないとなんだか不安になったり、走れば走るほど充実したりするやつ。

ランナーズ・ハイみたいな状態になってしまえば、人間は幸せ回路をオンにすることができてしまう。



もっとも、自分の幸せ回路が、はたしてランナーであればオンになるのかどうかは、試してみないとわからない。

走るのがいいのか、泳ぐのがいいのか、本を読むのがいいのか、勉強するのがいいのか、キャバクラに通って金をぶん投げるのがよいのか、働くのがいいのか。

どうも人によって違うようだ。





毎日ツイートをしている。これはもう苦痛としての側面が確実にある。皇居の周りをランニングして疲れがたまるのと一緒である。勉強して目や腰がつらくなるのと一緒である。なぜそんなに苦労してまで毎日続けてるの? と言われた時に、まあ確かに疲れるんだけどさ、と答えるのはもはやランナーの言い訳と一緒だと考えている。

ツイートをしていない時間に、ツイートについて考えているとき、ああ、ぼくもまた、安直に幸せ回路をオンにする仕組みにのっかってしまっているんだなあ、人類だなあ、とあきらめてしまうのだ。

2017年9月12日火曜日

病理の話(120)

よい教科書というのが世の中にはいっぱいある。

ああ、この一行目は、読んだあなたにお得情報を一つももたらしていないな。

なぜなら、自明だからだ。そりゃそうだろうと言われてしまうだろう。知ってるよ、と。

けれど、あえて強調しておきたい、「よい教科書はある」。

医療現場で働いているとそれを忘れてしまうから。




「学術論文を読んで最新の知識をきちんと集めなければだめだ! 論文は批判的に読め! 書いている内容を盲信するのではなく、どれだけ信頼できる情報なのかを吟味しながら読むのだ! 薬をひとつ使うにしても、手術をひとつ行うにしても、すべては論文からはじまる!」

「座学だけでもだめだ、手先から知恵を吸収するのだ! 実践こそは最高の教師である、頭でっかちになるな、手技を身につけろ、現場の感覚を研ぎ澄ませ、クリニカル・パール(臨床現場で役立つ豆知識)を探して回れ、ピットフォール(落とし穴)に気を付けるのだ!」

たいていの医療者は、なんとなくこういうかんじで、医療をやっている。やることがいっぱいある。実に忙しい。

ぼくらはもう、学生ではない。

机上の空論では困る。

実践的にレベルアップしていかないといけない。

いろいろな理由で、学生時代にあれだけ使っていた「教科書」を読まなくなる。

代わりに論文を読む。あるいは読まないで実践に飛び込む。




「論文」と教科書はどう違うか?

原則的に、論文1本に対しては、テーマが1つ設定されている(あくまで原則)。

論文ではたとえば、「ピロリ菌は胃がんの原因となるだろうか」みたいな検討を行う。

「塩分を多くとると胃がんになりやすいか」なんてのもある。

「ある薬Aは胃がんによく効くか」。

「胃がんにおける遺伝子の変化を調べた」。

書き方はいろいろだ。統計学的な処理のレベルもさまざまである。解析方法はMethod(メソッド)と言うが、メソッドも多種多様。患者をいっぱい集めてきて調べた、という論文もあれば、あるタンパク質や遺伝子に着目してラボで実験をした結果、という論文もある。

基本的に、「何かひとつ」が書かれている。


これに対し、教科書というのはどのように書かれているか。

まず、教科書の著者というのは、「すでに偉い」。論文などをいっぱい書いて、業界で偉くなった人が書いたり編集をしたりする。

多くの論文をチェックする目を持った著者が、「もっとも信頼できる」と思った論文を集めて、その内容をストーリーとして紡ぐ。

この「ストーリーとして紡ぐ」に、教科書としての良さがある。

たとえば、ある教科書には、「胃がんの原因には食事とピロリ菌と加齢とその他もろもろがあるのだ」と書かれている。

この一行を書くために、平均して20本くらいの論文が「参照」されている。

いずれも厳選された20本だ。世界各国で読まれ、検証されたものを用いる。論文は出版されたあとに、世界中で批判的に読まれる。「ほんとかよ」「うそじゃねぇだろうな」「おおげさなのでは」「まぎらわしくはないか」。

そういうフィルターを通過した、本当に役に立つ論文が、偉い人によって選ばれる。そして、紡がれる。



論文は確かに最新の知識である。しかしその知識は、のちに世界から非難されるかもしれない。どれだけ信頼してよいかもわからない。

最新がよいとは限らないのだ。

それよりも、多くの論文が時間とともに吟味された時点で、

「今、世界中の論文を読んでみたらさ、この領域についてはこういうことでいいみたいだよ」

とまとめた本を読んだほうが、役に立つ場面がある。

それが、医療界における「教科書」である。



お察しの通り。教科書というのは、編者や著者の能力によって、良くも悪くもなる。

どの論文を選んだか。どこを使える情報として抽出したか。レアではあるけれど教科書に載せてもらえると助かる情報。典型的なのでさまざまなイラストと共に説明して欲しい内容。

同じ分野を扱っていても、教科書が違うと、まるで理解のスピードが変わる。




……以上の話を医学生、さらには研修医にすると、

「でも教科書読み比べるヒマなんてないっすよ」

「そもそもそんなに教科書読める時間がないです」

「ていうか教科書高くて買えないです」

という答えが返ってくる。必ず返ってくる。

ぼくは幸いというか不幸にもというか、患者を相手にしない(検体を相手にする)仕事をしており、つまりは医療者を相手にする仕事をしている。クライアントは臨床医であり、医学生は言ってみれば取引先の新入社員にあたる。

だからサービスをするのだ。

自分で教科書を買って読み比べる。そして一番よかったやつをおすすめする。

金? たいへんだよ、そりゃもうすごいかかる。けどいいんだ。そこに金をかける人間がいないと、教科書を読む流れは広がらないから。



病理医ヤンデルと教科書のおすすめ: https://togetter.com/li/956911



今回の記事、「病理の話じゃないじゃん」と思った?

病理というのは「病の理」と書く。つまりは理を追求する仕事だ。これはつまり学問ということだ。

病理医ってのは、医療現場の学問を統括する立場でいたらいいんじゃないかな、と思う。これは完全に個人の意見であり、病理医みながそう考えているわけではないけれど、ぼくはもう信じている。病理医が勉強して、病理医が中心になって医療現場に学問を広めるくらいでちょうどいいんだ、忙しい医療現場で座学のプロをやるというのはそういうことだろう、と思っている。

2017年9月11日月曜日

このブログのプロフィール写真がまさにそのホテルで撮ってみたやつですね

「周りの目」って大事だな。

「○○歳にもなって、■■してないなんて、恥ずかしい」

とか、

「そろそろ△△ができないと周りに迷惑かける」

とか。

さまざまな行動が、「周りからどう見られているか」でドライブされる。



足の速い動物が、速く走って獲物を捕らえないと生きていけないように。

社会性で生きる人間は、周りの目に一喜一憂しないと生きていけないのかもしれない。




釧路出張の夜、ホテルの部屋で、ローソンのパスタを食いながらビールを飲んでいた。デスクの横の壁には大きな鏡があって、飯を食っている自分の顔が映っている。すこし前傾姿勢の首。ストレートネックって、他人から、こうやって見えるのかあ。胸張って歩かないと貫禄的に厳しいなあ、飯食う時もあんまり前傾姿勢になるのやめとこ、小物っぽく見えちゃう……。

そこまで瞬間的に考えてから、ゆっくりと思った。

ホテルの部屋でひとりで飯食うときに、小物っぽく見えたから、どうだっていうのよ。




そういう、「だからどうだっていうのよ」みたいな話、いっぱいある。

歯を磨いているときに口元から歯磨き粉が垂れたらはずかしいと思ってふき取る。誰も見てねぇよ。

部屋着がよれよれになってきたので少しおしゃれなやつに買いなおす。誰も見てねぇよ。

誰も見ていないパンツにまでこだわることこそ、男のたしなみ? 知らねぇよ。自意識過剰かよ。




……って、思ってた世界に、SNSがいいねをつけてくる。

2017年9月8日金曜日

病理の話(119)

人間の体の中にはさまざまなおトク物質がある。

多くの医療者が存在を知ってはいるものの、そのはたらきを正確に理解できていないものは、「線維」(せんい)だろうと思う。

今日は線維の話をする。



洋服の繊維、とは漢字が異なることに気を付けてほしい。体内で増えるセンイは「線維」と書く。なぜ漢字を書き分けているのか、理由は戦前の病理学もしくは組織学に端を発しているのではないかと推察するが、詳しくは知らない。

なお、「野菜をとると繊維がとれるからいいんだよぉ」の場合は、「繊維」でよい。元から体外にあったものについては繊維と書けばよい。ややこしい。



線維はどこではたらいているか?

一番身近なのは、ケガをしたとき、そのケガを「穴埋め」する線維である。

腕をどこかにぶつけて血が出たとしよう。

その部分、血が出ているからあんまり凝視したくはないのだが、実は、組織の欠損がある。欠けてしまっているわけだ。

欠けていると、まず第一に、防御力が下がる。ばい菌がはいってしまっては困るだろう。

次に、バランスが崩れる。周りの細胞が苦労して築き上げた構築がグラグラになってしまうのもまずい。

ということで、穴埋めをする。

一番かんたんな穴埋めは、みなさんご存じの「かさぶた」だ。

かさぶたは、血液の中を流れている血小板などによって、すみやかに形成される。仮のふたである。

自分ではがせるほど、もろい。

この仮のふたでひとまず穴をふさいでおいて……次に、人体は何をするか。

「線維」を作り出して、土のうで堤防をうめるように、空いたスペースを埋めていくのである。

このとき、線維はさまざまなはたらきをする。



まず、土のうとしての「強さ」がある。

そして、多少周りが動いたり歪んだりしてもびくともしない、「柔軟さ」がある。

さらに(ここからを知らない人が多いのだが)、この線維は、周りにある血管を自分の中に引き込んで、多くの栄養や酸素などを集める「人集め力」を持っている。これから時間をかけて修復していく必要がある場所の血流を豊富にすることは、災害現場に人を派遣するのと同じような意味をもつ。

また(これも知らない人が多いのだが)、線維はまわりの組織をぐっと引き寄せる「収縮力」を持っている。ヤクザの顔にある傷跡はひきつれているだろう。あの「ひきつれ」は線維によってもたらされる。なぜひきつるのか? それは、組織の欠損(穴)を埋めるために便利だからだ。ただふたをするよりも、傷口をぐっとひきつけて、穴を小さくしてしまったほうが、ふたがしやすいだろう。

最後に、組織の修復に成功した場合、線維は「吸収され、なくなってしまう」という性質をもつ。建築現場の足場は、工事が終わるととりはずされるだろう。あれに似ている。



このように、非常時に大変役に立つ「線維」であるが、ふだんは体の中にはあまりたいした量は存在していない。それはそうだ、工事の足場が常に街の中にあふれていては、ジャマでしょうがないだろう。

しかし、いざ! ケガをすれば、すかさず「線維芽細胞」と呼ばれる、文字通りセンイの芽となる細胞が集まって来て、そこに線維を作る。

この線維芽細胞を集める「号令システム」がまたとてもおもしろいのだが、長くなるので今日はやめておく。




おまけだが、線維の性質として「穴を埋める」と共に、栄養を集める「人集め力」があるのは非常に重要である。ここでうまく人が集まらない場合、ケガがいつまでも治らない。

また、このような便利な線維を、がん細胞もまた密かに「使えるやつ……」と狙っており、がんが増えるときには特殊な
「号令システム」により線維化を引き起こす。がんが「硬くなる」、「栄養を奪う」、「ひきつれる」のは、主にこの「本当は集まるタイミングじゃなかったのに集まってしまった線維」による。



人体の中にある仕組みというのは大変巧妙であるため、それをすり抜けたり、悪用したりする病気というのはもはや、インテリ詐欺師のようなたたずまいを見せる。線維ひとつとってもこれである。



おまけですが、これらの「線維」は、いわゆる食物センイ(漢字で繊維と書く方)とは全く関係がないです。これ書いておかないと、ケガをしたときにゴボウとかモヤシ食いまくるみたいな謎治療が提唱されかねないからな……。

2017年9月7日木曜日

びょうりいのりょうりび

買ってきたカルボナーラのレトルト、量が少なくてがっかりした。レンジでチンするためのプラスチック容器(タジン鍋型)にルーを入れてみたら、おい、こんなものかよ、となった。ゆであがったパスタに対して明らかに足りない。

冷蔵庫に牛乳とスライスチーズがある。それしかない。タマゴさえない。

ほかほかのパスタとチンする前のルーをほっぽらかしにして、近所のスーパーに走って、ハーフのベーコン(減塩)だけ買ってダッシュで帰宅し、てきとうに切ってルーに入れた。

ついでにスライスチーズを1枚、手でちぎって、これもルーにいれた。

最後にルーに、牛乳を1ドボ(単位。音が一瞬ドボって鳴る程度)入れて、まとめてチン。

かさまししたルー。

パスタにかけて食う。

ベーコンの塩味とチーズのコクが牛乳によってさらっさらに薄められて、パンチ力のダウンしたちょっと健康そうなカルボナーラを普通に食して、あとはビールでよくわからなくすることで無事一日を終えた。




こういうときだ。

こういうとき、ああ、自分が「計算尽くの料理」をできたらなあ、と、ほんとうに切なくいたましく思う。




世においては、尊敬する料理人として、「冷蔵庫の中身を見てすかさず何かを作れる人」というのがよく挙げられる。

ぼくは、そこまでじゃなくていい。

だって基本はレトルトでいいんだ。

ただ、とにかく、つい買ってしまう各種のレトルト……カレーとかパスタ、麻婆豆腐……に、「何か言いようのない不安」を覚えたある晩夏の夜、冷蔵庫で出番もないまま死んでいこうとしていた残りものと、ダッシュで4分くらいで買い足せる下ごしらえも何もいらない切れっ端みたいな食材を使って、レトルトがちょっと豪華になって少し笑顔になる、ついでに洗い物は増えない、みたいな料理が、あとちょっとだけ上手にできたら、ぼくは本当に幸せを手にしたと言えるのではないかと思うのである。

ああ、あのカルボナーラが、もう一声! うまくできていたらなあ……。



雑にうまそうなめしを作るひとたち、ぼくはあなたになりたかった。

「料理医」と聞き違えられたとき、「料理もしますけど病理医です。」と答えられる、そんな人生がよかった。

2017年9月6日水曜日

病理の話(118)

主治医が、あなたの体の中から細胞を採ってきた。それは胃カメラでつまんだ胃粘膜のカケラ(小指の爪の先よりもっと小さい)でもいいし、胆石で手術した胆嚢(たんのう)そのものでもいい。針で刺した肝臓の一部でもいい。なんでもいい。

主治医はあなたに「この細胞は病理で調べてもらいます」と告げる。

あなたは、どれくらいで結果が出るのですか、と聞く。

たいてい、「1週間から2週間くらいですね」という答えがくる。場合によっては1か月待ってくれと言われることもある。

この、数週間という時間は、あなたにとって、針のむしろの上の数週間である。

あるいは、まな板の上の数週間と言ってもいい。

「なぜそんなに時間がかかるのだろう……。まあ、これで病気を決めようというのだから、仕方がないかなあ」

あきらめ半分、緊張した日々を過ごすことになる。




なぜこんなに時間がかかるのか。




まず、体の中から採ってきた細胞は、そのままにしておくと、「くさる」、あるいは「とける」。

細胞というのは基本的に体の中にいるからこそ生きられる。栄養。酸素。温度。湿度。すべて、体の中が最適だからだ。もっとも心地よいゆりかごを離れると、細胞はとたんにやる気をなくす。

釣った魚をそのまま放っておいたらだんだん鮮度が落ちていくのと、理屈としてはあまり変わらない。

刻一刻と状態が悪くなる細胞の時間をすかさず止めてやらないと、その細胞がどういうものかを観察することはできない。

せっかく苦労して採ってきた細胞である。できれば、ただ瞬間的に見ておしまい、ではなく、末永く有効活用してほしいと思うのが、患者の、あるいは医療者の、共通の願いであろう。

だから、まず、「細胞の時間を止めるための処理」をする。ホルマリン固定という。

これに地味に1日かかる。その日のうちに細胞の観察に入ることは極めてまれなのだ。



1日後、その細胞を観察するための「標本づくり」がはじまる。

小指の爪の先くらいであれば、全体をいっぺんに観察することもできる。

しかし、採ってきたものが「肝臓の1/3」だったり、「胃の全部」だったりすると、これらをぜんぶ顕微鏡でみるのは大変だ。

だから、どこをプレパラートにして、どこを重要視して、どこを見れば病気の本質に迫れるかをきちんと考えて処理しなければいけない。

「どこをプレパラートにして顕微鏡で観察するか」を確認する作業日が必要となる。



そうそう、言い忘れたが、細胞をホルマリンに浸して「時間を止める」とき、採ってきた臓器が大きいと……具体的には、1 cmより分厚いとき、ホルマリンが組織すべてにしみわたるには、1日では足りない。

1日でできあがる漬物を「一夜漬け」と呼ぶが、何日も漬けておかないと味が染みない漬物もあるだろう。それと一緒だ。

2日、3日とホルマリンに漬けておかなければいけない場合もある。ここでまた時間がかかる。




さて、どこをプレパラートにするか決めた時点で、今度は病理検査室にいる専門の技師さんが、プレパラート作成作業に入る。ここにまた時間がかかる。なにせ、病院の中では「病理部門の臨床検査技師」にしかできない特殊技能だ。宮大工並みに繊細な、熟練のわざが必要となる。

まずホルマリンに漬かった組織を、顕微鏡で見られるようにするために、別の溶媒に浸しなおす。

ホルマリンというのは強力な液体すぎて、そのままではうまく細胞を染め上げることができない。そう、細胞というのは、うまいこと染めないと、ただ顕微鏡でのぞいてもうまく見えないのだ。

パラフィン、有機溶媒、さまざまなものに次から次へと浸して、時間を止めた細胞を観察できる状態にもっていく。

なんとこれにも1日かかる。

さあ、ようやく組織の「見られる準備が整った」。

ここでさらに、「実際に見るための作業」を行う。具体的には、組織を、4 μmという、向こうがみえるほどの薄さに仕立て上げる。

大根の中にダイヤモンドを埋めて外から見ることができるか?

できない。

大根がジャマだからだ。

だから、大根を切って、ダイヤモンドが見られる場所にたどりつかないといけない。

さらに、大根とダイヤモンドであれば、太陽の光で十分観察することができるだろうが。

実際にはホコリより小さい細胞の配列を観察しなければいけないので。

ただ光をあててもうまく見えない。

だから、「透過光」を用いる。細胞の下から光をあてて、上から覗き込む。これが通常われわれが使っている光学顕微鏡である。

細胞の下から光をあてて、上から覗くためには、組織の厚さがそうとう薄くないといけない。ペラッペラにしなければいけない。そうしないと、光が透過しない。

ステンドグラスとかセル画を見るイメージなのだ。

細胞って英語でCell(セル)だからな。セル画。フフッ。今おもいついた。



巨大なカンナのようなマシンを手動で動かして、組織のうわっつらを薄く切る。「薄切」(はくせつ)と呼ぶ。

ペラッペラにした標本を、複数の染色液に漬けて、染め上げる。

この染色作業に半日かける。

ようやく、「セル画」ができる。



病理医の元にセル画……プレパラートが届くのは、最短で、標本採取の1日後。ここまでをじっくり読んだ方は、あれ、もう少しかかるんじゃなかったっけ? と疑問に思うかも知れないが、小指の爪の先より小さな検体を処理するときには、ここまで「1日」と書いてきた行程を、「3時間」とか「2時間」に短縮しているので、ほんとうに一番はやくて翌日にはプレパラートが完成する。

けれど、この「1日」は、患者さんに「ぜったい1日でできますから!」と約束できるほど確実ではない。

どうしたって予備日を設定しなければいけない。なにせ繊細な作業だからだ。

ということで、「平均2日」くらいでかんべんしてもらうことになる。

大きな手術だと、作業量が何倍にもなるし、ホルマリンほかの浸透スピードにも時間がかかるので、「そもそもプレパラートができるまで1週間かかってしまう」ことはしょっちゅうだ。



1日~1週間かけてできあがったプレパラートを、病理医が診る。その場で診断ができればいいのだが。

プレパラートは一日何百枚もあがる。

たどりつくまでにも時間がかかる。

そして、1枚のプレパラートを見て、「あっ、これは難しい」となったときには、さらにプレパラートを作り直し、「違う染色」を施して、違うやり方で細胞を観察することがある。

これにまた数日を要する。

さらに、病理医が、「これは顕微鏡だけで診断するのが本当に難しい」と思った場合、主治医に問い合わせながら、臨床画像(CTとか胃カメラなど)の確認を行ったり、検査データとの照合を行ったりもする。




けっきょくのところ。

病理診断は、患者さんの体の中から細胞を採った「翌日」に完成することもあるが、小さな検体であっても診断が難しければ1週間以上を要することもあるし、大きめの手術検体の場合は最短で1週間前後、最長では3週間くらいを要する。




……そういう細かいところはいいから、「がんなの? がんじゃないの? そこだけ教えてよ!」

患者の気分としてはこうだろう。主治医だってそういう気持ちでいる。

けれど……「がんか、がんじゃないか」なんて人生の一大事、ちょっと慎重に決めたくなるときだって、ある。



病理診断がすごいスピードで出る場合、病理医の腕がよいということか?

そうだ、とも言える。違う、とも言える。

腕がよければよいほど、「細胞が垣間見せる、こまかい違和感」に気づくから、診断に時間がかかったりする。

病理医の腕が普通であっても、技師さんや、臨床医がとても優秀だと、そもそも標本作製までの手間を早めることができたり、あるいはセル画以前の情報でかなり診断を絞り込んでいたりするので、診断が早くなる。

細胞をあまりてきとうに扱ってしまうと、たとえば将来、遺伝子治療に入ろうと思った際に、採取して保存してある細胞の状態が悪すぎて、追加の検査ができない、となる場合もある。これでは本末転倒だ。

一度採ってきた細胞は、何度でも何度でも、患者さんの状態や、そのときの医学の発展度合いに応じて、くり返し利用できることが望ましい。

細胞をとってくるにしたって、痛みを伴うこともある。苦痛に感じる患者もいる。

だったら、きちんと、保存させてほしい。きれいな標本を作っておきたい。




すみません、いつも、お時間をいただいております。

2017年9月5日火曜日

ししとうも焼く

ホルモンやナンコツばかり食っていた。

ヘルシーだとかブームだとか言う単語を、頭のまわりにまるでグラディウスのオプションのように連れ回しながら。

「一周回ってさあ、ゴリゴリのカルビよりも、ホルモンの方がうまいと思うんだよな」

とも言った記憶がある。牛タンとか薄いしすぐ焦げるじゃん、も言った。

ホルモンやナンコツだけで5,6年ほど過ごしているかもしれない(焼き肉屋の中での暮らしに限る)。



なぜ自分がこの数年、判で押したようにホルモンやナンコツばかり食べてきたのか、今となってはよくわからない。こだわってきた、とすら言える。

「こだわり」というのはなんだか「意地を張っている状態」と似ているなあ、と思う。

いや、まあ、意地を張っているからよくない、と言いたいわけではない。ぼくらは日頃、意地を張るという言葉を、「意地を張るのはよせよ」みたいに、「よせよ」とセットで扱いがちだけれども。

意地を張ってこだわって、その結果、楽しそうだ、という人もけっこういるように思う。

張れる意地なら張ってみるのも手だ。

しかし……。人生の重大な決断というならばともかく、「ホルモンやナンコツを食べる自分にこだわる」というのはなんだか、小物感がすごい。

そこまでこだわるほどのものか? ホルモンとかナンコツは。





思い出せないのだ。

かつて、「よぉし、ぼくはこれから、ホルモンやナンコツを食っていこう」と選択した日があったのか。

選択のきっかけとなった「出来事」があったのか。

ぼくに何か「強い意志」みたいなものがはたらいたのか……?

そんな、「ホルモン記念日」は、存在しなかったと思う。

「よぉしナンコツを食べよう、これからのぼくは。」と脳内団結式をやった覚えもない。

様々な流れがあったのだ。ただ、それだけだ。

社会でホルモンがブームだったかもしれない。たまたま好きな女性がホルモンを好きだった日があったのかもしれない。入った店がホルモン専門店だったのかもしれない。あるいは、「意志」というには弱すぎる程度の「意識」が、「今日は塩ホルモンみたいな変化球がうまそうだ」と、偶然何連続かでぼくの脳に響いていたのかもしれない……。

いろんなものがちょっとずつ積み重なった結果、選択らしい選択をした覚えもないけれど、今のぼくがこのように構成されている。

自分の意志で選んだ、とか、なんらかのポリシーに基づいて作り上げた、とかではなく、ただ単純に、「今のぼくが在る」「だけ」。



ぼくらはすぐに過去を振り返って、「選択肢」について議論をするけれど。

そんなものはなかった。

選択肢があって、自分の意志で選んで、その結果が今だよ、みたいな話、あちこちで本当にしょっちゅう耳にするけれど。

ぼくは、「選択らしい選択をしないままなんとなく成り立った自分」に、毎日動揺している。むしろ選択した覚えのない自分の姿にこそ、今とても興味があるのだ。







先日、久々にカルビを食った。なんだこのうまい食い物は。おどろいた。寿司よりうめぇじゃねぇか。ロースも食った。おお、「肉ってうまいんだな」。これがあるからホルモンとかナンコツがメニューの下のほうに押しやられるんだな。牛タンを食った。おい参ったなたまらんぞ。

脂っこい肉をがんがん食った。

翌日を待たず、その日のうちに、胃もたれしたけれど。

このことをきっかけに、ホルモンやナンコツしばりを緩めて、カルビや牛タンを食うように、シフトバーをチェンジすることになるだろうか?

いや、ならないだろうな。

ホルモンもナンコツも、こだわりとかじゃない。「癖」になってしまっている。

だからこれからもホルモンとかナンコツを食うんだけれど、そんなぼくを見て、誰かが、

「あいつこないだ無理してカルビ食って胃もたれしたんだわ、だからああやってまたホルモン食べることにしたんだな」

と、ありもしないぼくの「選択」について語ることが、あるのかもしれない。




そういえば別れた妻はサガリが好きだった。サガリは肉っぽいけど脂身が少ないからうまいよ、と言っていた。一緒に焼肉を食うときにはサガリをよく注文していたように思う。

そうかそうか、そういうきっかけ「も」あったかもしれないなあ、くらいの思考で、ぼくはまたおそらくホルモンを焼くことになる。

2017年9月4日月曜日

病理の話(117)

風景や人物の写真を、わざとモノクロで撮ったりセピアにしたりすると、ぐっと立ち上がってくる叙情のようなものがあるだろう。

人間は、ものを見るときに、ものの形……というか輪郭だけを見ているわけではない。

色調とか、色の差のようなものにすごく解釈をゆだねている。

それがわかるのは、プレパラートを「異なる染色法」で染めたときだ。




通常、プレパラートは、HE染色(ヘマトキシリン・エオジン染色)という方法で染める。

ちょっとネットから拾ってこよう。高知の病理センターのJPEG画像を勝手にお借りする。



左がHE染色。何が染まっているかというとこれは胃粘膜なのだが、まあ今回そういう解説はやめておく。

右側には、「EVG染色(エラスティカ・ワン・ギーソン染色)」が掲載されている。

ふたつを見比べると、「輪郭がおなじ」ことがわかるだろう。「全く同じ場所」を、2つの染色方法で染め分けて比べているのである。

まるで見え方が違うことはおわかりかと思う。ただ、実際、輪郭は同じだ。細胞や臓器の形をみるだけなら、どちらで染めても良さそうなものである。

この染め分けは、どうして行うのか?




臓器を顕微鏡で観察するとき、プレパラートを作るわけだが、このプレパラートには、障子紙よりもはるかに薄い「4μm」の厚さの試料が乗っている。

薄切(はくせつ)と言って、臓器をカンナのおばけみたいなやつでペラッペラに薄く切る。4μmというと髪の毛よりも薄い。ペラペラに切った試料は、向こう側が透けて見えるほど薄い。そして、基本的に「透明」である。

指のささくれとか唇の薄皮だって、うすーく剥くと向こうが透けて見えるだろう。それと一緒だ。

このままでは、細胞の輪郭など絶対に見えないから、染色をする。特に、細胞の核と細胞質という構造物はきちんと見極めたい。

この、細胞の核とか細胞質を見極めるという作業、あるいは臓器の全体をきちんと観察する作業に最も向いているのが、HE染色であると言われている。

ぶっちゃけて言えば、「コントラストがはっきりしていて、見やすい」。




左のHE染色と、右のEVG染色を見比べると、画面の上半分……胃の粘膜(ねんまく)と呼ばれる部分の見え方がだいぶ異なることに気づく。左は、グラデーションがきれいである。粘膜と一口に言っても、いろいろな細胞の種類があるのだなあ、ということが、このHE染色を見るだけで一目瞭然だ。

これに対し、右のEVG染色では、粘膜の部分はなんだかセピアで、どこに何があるのか一見してわかりにくい。



だから病理医は、ほぼ100%のプレパラートを、最初、HE染色で見るのである。これが万能なのだ。HE染色だけで、8割以上の診断を付けることができる。

ただ。

染色を変えることで、HE染色よりも見やすくなる構造物というのもあるのだ。

もう一度、さっきの図を見てみよう。


図の真ん中あたりに、クリームパンのように波打った横長のリングがある。

これは、血管である。

HE染色だと、ピンクのべたっとした壁として認識できる。

一方、みぎがわのEVG染色だと、なんだか黒っぽいふちどりが見える。このふちどり(というか、血管の梁(はり)のようなもの)は、HE染色ではよく見えない。

実はEVG染色は、血管を見やすくする目的で使用される染色である(ほかにもオタクな使用法がいっぱいあるのだが)。

別にHE染色でも血管はよく見えているじゃないか、と思われるかもしれない。ただ、ちょっと考えてみて欲しい。左側の画像の中で、「ピンク」に染まるものは血管以外にもいっぱいある。

たとえば筋肉。たとえば線維化。たとえば硝子化。HE染色でピンクに染まるものというのはほんとうにたくさんあるのだ。実際、HE染色の画像のベースはピンク(あちこちにピンクがある)というのはおわかりだろう。



図の下側で、帯状のピンク色として染まっているのは、筋肉(平滑筋)である。この中に血管が埋まっていたとしたら、HE染色でぱっと気づくことができるだろうか?

EVG染色なら気づけるのである。なぜならば、HE染色では見えない、黒緑色のふちどり(弾性線維)が見えるからだ。




おもしろいことに、いったんEVG染色で血管を確認したあと、HE染色をよーく見直すと、輪郭のこまかな違いなどで、HE染色でも血管(あるいは弾性線維)を見極めることができるようになる。人間の目、あるいは脳に、「ここを見たら良いよ」という気づきを与えると、見て理解できる範囲がぐっと広がるのだ。

HE染色の画像にフォトショップなどで処理を加えたら、EVG染色のような効果が得られるだろうかと、いろいろいじってみたこともあったが……。今のところ、個人の趣味レベルではEVG染色を超えることはできないでいる。



EVG, Azan, Gitter, PAS, DFS, Grocott...

HE染色以外の染色(特殊染色)はたくさんある。

さらに、これに、免疫組織化学(いわゆる免疫染色)という手法も追加することができる。




カメラマンが、露出をいじったり、補正をかけたりしながら、かつ実物を超えた加工にならない程度に、被写体をうまく浮かび上がらせるように。

病理では特殊染色によって、「被写体」がきちんと浮き上がってくるような試みがなされているのである。




なお、これらの染色は、「臨床検査技師」の手によって行われる。昔の病理医は染色も自分でしたというけれど、今のぼくにはこれらの染色をきちんと仕上げる技術がない。うちの技師さんたちは優秀で、プレパラートは極めて美しい。いつもお世話になっております。

2017年9月1日金曜日

100%

デスクの上や標本棚の一角に、旅先で買った根付のようなおみやげや、ガシャで取ったミニフィギュアのようなものを置いている。まあ、それはいい。好きでやっているからだ。

ただ、埃がすごい。困っている。

定期的に、ひとつひとつどかしながら頻繁に掃除すれば、いつまでもきれいなデスクであり続けるのだろうが。

そこまで努力しなければいけない、ということを、小品を買い集めていた段階で、思い付かなかった。

おかげで今は、デスクの上や標本棚の一角が、小物まみれだし、埃まみれである。




思えばぼくは、よかれと思って置いてみたインテリアがゴミにまみれてなんだか汚くなってしまいそのうち捨てる、ということをずっと繰り返している。

大学3年生のとき、大学のそばに、はじめて部屋を借りた。はじめてのひとり暮らしである(といっても週末は同じ札幌にある実家に帰っていたのだが)。自分の城だ、コーディネートをしたくてしょうがない。

ムダにものを買ったなあ、と思い出す。

なんかサボテンとか。あと……なんだっけ……そう、パキラ!

パキラという名前の観葉植物を買った。デスクに乗る程度の小さいやつ。ハンズでよく売っていたやつだ。

ほかにも、アメリカの車についているナンバープレートみたいなやつとか、ちょっと気の利いたマグカップとか。4プラの上、狸小路の隅などの雑貨屋を巡って、買い集めた。

あれぜーんぶ埃まみれになって、部屋が汚くなっただけだったなあ。




「部屋を上手に飾る人」を見ていると感心する。ぼくにはそういう才能と、努力する気がない。

自分のデスクを見返してみる。作業スペースはきちんと整頓してあるが、それは「仕事で使う部分」だからだ。「遊びの部分」で、自分をきっちりとコーディネートするのがへたくそだ。

服のセンスがないのもいっしょなのかもなあ。スーツとかばんは選べるが、私服が選べない……。






先日、実家に帰ったら、断捨離の真っ最中だった。本棚をひとつ潰して古い本を捨てたり、カーペットとかソファを入れ替えたり、物置のものをまるごと整理したりしていた。

ぼくが暮らしていた部屋も、こぎれいにまとまっていたのだが、そこに、あまり見た記憶のない、ぼくのふとももくらいまである観葉植物が置いてあった。きちんと手入れされている。ちょっとエキゾチックな感じだけれど、緑が部屋にあるのはよいことだ。

なにげなく、土に刺さっている札を読むと、

「パキラ」

と書かれていた。

母に尋ねる。「これ真くんが大学のときに買って、その後引っ越ししたときにいらないからってうちにくれたやつでしょう(笑)。そのまま育ててたら、こんなにおっきくなったわ」

お前、あのときの、卓上パキラかよ。

「インテリアとか観葉植物をきちんと管理できる血、ぼくにも半分流れているはずなんだけどねえ」と答えながら、なんだか可笑しくて、笑ってしまった。

2017年8月31日木曜日

病理の話(116)

「防御力を完璧にしておきたい場所」というのが、人体の中にはいくつかある。

まず、皮膚。何を差し置いても皮膚。外的な攻撃をいちばん受けやすい場所だ。

皮膚は「扁平上皮(へんぺいじょうひ)」という強靱な細胞で覆われている。扁平上皮は、ジグソーパズルのようにすきま無く張り巡らされており、しかもジグソーパズルの溝の部分には「タイトジャンクション(がっちり結合)」と呼ばれる接着剤のような機構があり、文字通り水も通さない。

この強力な扁平上皮については、ぼくは「触手が届くところは扁平上皮である」という謎理論を導入するなどして、このブログで何度か書いてきた(触手、すなわち外的刺激が少しがんばって届きそうなところは、皮膚と同じような細胞によってガードされている、という話)。

口の中は、皮膚と似た扁平上皮。まるで見た目が違うように思うが、くちびるだって、扁平上皮で覆われている。なんと、その先の食道も、ずっと扁平上皮だ。胃に届いてはじめて、扁平上皮は姿を消す。

耳の中も。鼻の中も。

膣の中も扁平上皮で覆われている。愛撫で細菌が体内に侵入しては困るだろう。

これらはすべて、外的刺激を跳ね返すために、扁平上皮で覆われている……。




ただ、実は、人体というのはさらに細かい調節を行っている。

それはどこかというと、「尿道」なのである。

尿道や膀胱は、言ってみれば「触手が届く臓器」である。だから本来、扁平上皮で覆われていなければ、外的刺激を跳ね返すことができないはずだ。

しかし、尿道と膀胱(ぼうこう)には扁平上皮はみられない。かわりに、「尿路上皮」と呼ばれる独自の機構を用意している。

なぜ?

人体のあちこちで、「外部刺激が加わりそうなところ」をやたらめったら扁平上皮で覆ってきたくせに。

なぜ尿道とか膀胱だけは、扁平上皮を使わないのか……?



答え。

膀胱は、尿をためてがまんする臓器だから、がんがんに伸び縮みしないといけないのだが……。

扁平上皮は、尿をためるために伸縮する袋(膀胱)をつくるには、「硬すぎる」のだ。伸び縮みしづらい。

皮膚をひっぱってみよう。ほっぺたでもいい、腕でもいい。

多少は伸びる。けれど、膀胱はこの程度の伸縮では困るのである。膀胱が皮膚程度の伸縮しかしなければ、ぼくらはもっと簡単に失禁してしまうだろう。

だから、「扁平上皮にはかなわないけど、扁平上皮に準じるくらいのタイトさを持っていて、かつ、横方向に伸び縮みする細胞」というのを、人体はわざわざ膀胱のために用意したのである。

これにより、扁平上皮よりちょっとだけ防御力が弱くなる。さあ、人体に何か悪影響があったろうか……?

実は、思ったより、なかったのである。理由は、尿だ。

尿は一方通行なのだ。腎臓から、尿管、膀胱と進んで、尿道を通って外に出される。この流れは常に一方向であるため、体外から細菌などが膀胱に入るには、「流れを逆流しなければいけない」。これがけっこうな手間だったのである。

そのため、扁平上皮ほどの防御力がなくとも、尿路上皮程度の防御力さえあれば、外的刺激からの防御は十分事足りたのだ。

膀胱のために用意した尿路上皮は、隣近所である尿管や尿道、腎盂にも張り巡らされている。すなわち、尿が接するところはすべて尿路上皮ということにしてしまった。

これで、基本的に、問題ないのである。人体というのは実によくできている……。




ただし。尿路上皮はやはり、扁平上皮と比べると、少し弱い。

そのため、尿の逆流が起こりやすい状態(尿道が短い女性とか、前立腺肥大によって尿が出づらくなった男性とか)や、全身状態が悪く、免疫が低下している状態では、外界からの刺激を跳ね返しきれなくなることもある。

これが、膀胱炎や尿道炎、腎盂腎炎である。




人体というのはとてもよくできている。だからこそ、複雑な機能を満たすためにさまざまに「分化(ぶんか)」した細胞の、弱みみたいなものを、病気というのはしつこく突いてくる。

逆に言えば、「ある年齢、ある性別、ある状態」である人がどのようなウィークポイントを持っているかをきちんと把握して、「城のここが弱いから、攻めてこられるとしたらここだろう」と予測できる医療者は、診断のスピードがとても速いのである。

2017年8月30日水曜日

札幌市中央区南5条西20丁目

難しい本をゆっくりと読んでいる。

この本の筆者はとても優しい。

「今の文章は、『あの本』が頭に入っているとスッとわかるように書いているんだよぉ」

そうか、そうなんだ! じゃあ「あの本」を読んでからにしようかな!

……とまでは、なかなか、ならない。ぼくは怠惰である。ひとつの本を読むために、前提となる知識を別の本から輸入してこなければいけないとき、申し訳ねぇ、申し訳ねぇと手刀を切りながら、スッとわかるはずのところをズッと読んでいる。



そういえば、符丁、という言葉もあるな。歌舞伎が怖くて見に行けない。宝塚も怖い。劇団四季でぎりぎりだ。関ジャニ∞は無理かもしれない。常連としての知識がないと楽しめない文化がとても怖い。怖いけど、楽しそうだ。

辛いけど、うまそうだ、のカレーの理論と似ている気がする。香辛料を減らしたカレーは甘くておいしい。そして、いつも思う、「いつかは本場の辛いカレーを食べてみたいなあ」。



ぼくはなんだかブログにときどきカレーのことを書いているんだけれど。

そこまでカレーに興味はないんだけれど。




札幌に、「ミルチ」というカレー屋があって、実家からは少し距離があったけれど、生活圏内だったのでときどき食べに行っていた。ここのカレーはうまい。ナンカレーをはじめて食べたのもここだ。

ナンカレーをはじめて食べるときですら、ぼくは激しいハードルを感じていた。もっと言えば、ぼくは若い頃、「店で飯を食べる」こと自体に臆していた。

ミルチに初めて行った日は忘れもしない20代のいつだったか(忘れとるやないか)、おっかなびっくり薄暗い店内に入り、フロアに庭石みたいに点在するテーブルのひとつに付いて、おばちゃんがメニューを取りに来るのを待った。

おばちゃんは言った、「いらっしゃいませ」

ぼくは答えた、「ど、どれがおすすめですか」

おばちゃんは目を少し開いてこう言った、

「上から順番でいいと思う(笑)」




ぼくはこの、「常連でない人間をうまく救うセリフ」に、人生の中で何度か救われている。




ツイッターをはじめとするSNSには符丁が多い。

SNS素人なのでよくわかりませんが、という言い訳からはじまるリプライをいただくこともある。

SNSは歌舞伎座みたいなもので、ある程度知ってからじゃないと楽しめない側面がある。

でも、ブログは、ミルチであったらよいなあと、ぼくは忘れもしない昨年の秋の確か9月か10月ころに、思ったのだった。忘れとるやないか。

2017年8月29日火曜日

病理の話(115)

「なぜ診断するのか」を考えないと、医療はいろいろわからなくなってしまう。



「診断? それはともかく治療してくれよ。治さなければ病院の意味がないだろう」

この考え方は極めて妥当である。患者が医療に求めているのはひたすら治療だ。ぼくら医療者だって、いざ自分が病院にかかることになれば、心の底から「早く治してくれぃ」という気分になる。

それが「普通」である。

ただし、医療の「普通」は、社会の文脈と共に少しずつ移り変わっている。

それに気づかないままではいられない。



かつて、ひとつの病気はそのまま、死への切符であった。

足にケガをすれば、歩けなくなり、正常の暮らしが遅れなくなり、ケガをした部位に細菌がつき、全身に回ってそのまま命を奪われた。

胃にできものができれば、それはそのまま大きく広がり、ご飯が食べられなくなり、栄養が奪われ、衰弱して死に至った。

関節リウマチは人の生活を著しく不便にした。ひとたびリウマチだと診断されれば、その中年はもはや老年と同じような生活をしているかのような気になり、自らの人生を悟った。

しかし、抗菌薬によって感染症が制御されはじめ、外科手術によって腫瘍の根治という概念が生まれ、さまざまな内服薬によって内科的疾患が「命までは奪われない」状態へと封じ込められるようになると、病気の概念もまた少しずつ変化してゆく。




かつて、ピンピンコロリという言葉があった。

ピンピンコロリはひとつの理想である。死ぬ直前まで病魔を意識せずに人生を謳歌し、あるとき心臓や脳の血管が詰まって本人も気づかぬうちにコロリと亡くなってしまう、江戸っ子でいうところの「粋」な人生……。じわじわ死ぬような病気はいやだ、死ぬならひと思いにやってくれ。

今でもこの死に方を望む人は多い。苦痛を伴った死を回避するための方策がほとんどなかった昔は、もっと多かった。けれど、現代医療では、人生のゆるやかな着地をある程度準備することが可能である。苦痛を軽減させながら、軟着陸するように「死を準備する暮らし」。

コロリと死んでは困るんだよな、と思う人だっている。




一病息災、という言葉もある。人間、ひとつ病気にかかると、病気をなんとかしようと病院にかかるが、その結果、他の病気に対する監視の目が強くなる。ぐうぜん他の病気を発見して、治療できてしまうこともある。

あるひとつの病気を持つことで、健康への意識が目覚め、医療の関与も頻繁になるために、かえって長生きできることもある、という、ライフハック。それが、「一病息災」である。





病気という言葉は、もともと、生死を予測するだけの言葉だった。死ぬか、生きるか。

しかし、今は違う。ある病気Aが、進行度B%であるという「現状」次第で、その後の人生があまりにも多彩に展開しうる。

もはや病気とは「終わり」を意味する言葉ではない。「今」を表す言葉だ。

死神というよりは背後霊。さらには、(一病息災のように)守護霊のような存在ですらありうる。



治療ができれば生? 治療ができなければ死?

たとえ病気を持ったままでも、病気とともに100年生きることができるならば、その病気は「治ってなくてもかまわない」。

生と死の中間に病気という状態があると考えることもできる。

「病気という状態は生を否定しない」。




そうなると医療のあり方も変わるのである。

キュア(病を完全に治癒させること)だけが目標ではない。

キュアと共に、ケア(病をもったまま、よく生かすこと)が、現代医療の根なのである。




「診断ばかりして、病気を治せない医者に、価値があるの?」という人々に、ぼくは沈黙する。

「病気の治らない人生に価値があるの?」という問いと同じ根を持つこの質問を、真っ向から否定できるほど、ぼくは子供ではない。その気持ちは、極めて妥当だからだ。

ただ、心の奥底で、静かにつぶやく。

「診断とは、死を推測するだけのものではなく、生の有り様を識ることなんだ。生を識ろうとすることに、価値がないわけがない……」。





今あなたがどういう状態にあるか。診断。

今のあなたをどう生かすか。ケア(維持)。

願わくば、悩みのタネよ、消えてなくなれ、なくなったらいいな。キュア(治療)。

誰もがキュアを望む。けれど、これからは、キュアと一緒にケアを考える時代だ。そして。

生か死かの二択ではない。

「どのような生か」を見極める、「診断」の価値を知ってほしい。




病理診断医は100%を診断にささげる職業である。だから、診断に価値があると唱えることは、ある意味手前味噌かもしれない。

それでも。

多くの人々にとっての医療が、いろいろわからなくならないように。

キュアとケアを見据えて、「なぜ診断するのか?」を考え続けることは、やはりぼくらの仕事だよなあ、と思うのだ。

2017年8月28日月曜日

グラとハム

カメラを買ったまま何も撮らずにいる時間は幸せである。

ああ、次、あそこに行くとき、カメラを持って行こう。そう心に抱いて過ごすことができる至福の時である。

これはなんというか、「将来を見て、うれしくなる」という感情だと思う。

反対に、来月頭には試験があるなあ、とか、来週はプレゼンを2回しないと、みたいに、将来を見てつらくなることも、ある。

これらの相反する気持ちは、もしかすると、「同じ脳の回路」に、「違う液体」を流し込んだだけの、表裏一体とも言える感情なのではないかな、と考えている。


同じ回路に違う液体を流すという表現は、さまざまに応用することができる。同じ方程式に違う数値を代入する、でもいい。ぼくはそういう、「なんらかの変換を行うシステム」というのに若干興奮するあぶない性質を持っている。

たぶん、「ブラックボックスの中を開いてみたいという欲求」よりも、「ブラックボックスの中を見ずに、何をぶちこんだら何になって出てくるのだろうという好奇心」のほうが、ちょっとだけ強い。そういう性格を持っている。

きれいな絵がくるくると移り変わる、万華鏡のようなものをずっと眺めていたい。自分がそのとき単純に、おっすごいなあ、何かが起こったなあ、思いも寄らないことになったなあ、きれいだなあ、とはしゃいでいられたら最高だ。


ただ、結局のところ、ブラックボックスフェチはそのまま、ブラックボックスを開けたり、あるいは作ったりする世界に、片足をとられる。中には興味はない、と言っておきながら、結局ふたを開けてしまう。もう引き返せない。

どんな法則を作ったら、どんな突拍子もないデータが出てくるのか。とても気になる。

どんな法則にのっとって、世の中が動いているのか。開けてみたくてしょうがない。

どんな法則を用意したら、自分の入れたモノから自分のほしいモノを取り出すことができるのか。考えるだけでわくわくする。



小林銅蟲「寿司 虚空編」を読みながら、そんなことを思っていた。

ぼくの回路にはもう病理学を流し込んでしまったから、数学を流したときのおもしろさはたぶん来世にならないとわからない。あるいは回路自体が全く異なるようにも思う。

それでも、読んで雰囲気を感じることができるなんて、ことばというのはほんとうに罪作りだと思う。ぼくは自分の回路と液体が世界に唯一の、最高のとりあわせであると、誰かにだまし続けていてほしかった。いいなあ、そっち、楽しそうで、うらやましい。

2017年8月25日金曜日

病理の話(114)

臨床医がやってきて、「研究会」の相談をした。


研究会というのは独特の文化である。


たとえば胃カメラ、たとえば腹部CT、たとえば超音波といった、「画像で臓器のなんたるかを見てやろうという検査」があるとする。画像にはさまざまに、病気の姿が映し出される。

ただし、その姿というのは、究極的にはかならず「影絵」である。そのもの本質までは絶対にみることができない。

医療というのはなんでもそうだ。心臓に詳しい医者が、心臓の病気を治すとき、心臓を取り出していじって治すことはできないだろう。「取り出して」しまってはいけないのだ。そこにあるがまま、胸の筋肉や脂肪や骨という障壁を乗り越えて、外から中を想像して、おもんぱかって、薬なりなんなりを投与して、治す。

医療とは基本的に安楽椅子探偵なのである。現場までは赴かない……というか、赴けない。あくまで遠隔地にいて、そのものがどうであるかを推理し、直接手を触れることなく、対策を施す。

「えっ、胃カメラだったら病気を直接見てるんじゃないの?」

「皮膚の病気なら直接見られるじゃん」

これもまた、一面の真実ではあるが、正しくはない。胃カメラで見えるのは、病気の表面だけだ。皮膚の病気だって、外から見た模様の違いしか、直接見ることはできない。

「中でどうなっているか」はわからないのだ。




だから、医療者というのは、常に不安である。

見てきたかのように診断したけれど、ほんとに合ってたんだろうな……?




これをなんとかしようというのが、いわゆる「画像系の研究会」である。

胃カメラ、腹部CT、超音波……。実際に患者さんに当ててみて、得られた画像を、主治医だけでなく、多くの医療者が眺めて、それぞれに意見を言う。ここにはこれが映っている、ここは見逃してはいけない変化ではないか、これはちょっと珍しい画像だなあ。

ここに、病理医も参加する。




病理は、病院の中で唯一、「実際に採ってきた臓器を見られるところまでとことん見尽くす」部門である。胃の病気だろうが肝臓の病気だろうが乳腺の病気だろうが皮膚の病気だろうが、手術で採ってきたからには、あるいは一部をつまんできただけであっても、表面、割面、内部性状、細胞のなんたるかまでとことん見てしまう。

つまりは画像で予測したものの「答え」的なものを提示できる、唯一の部門であるということだ。だから、たいてい研究会には「答え合わせの役割」として呼ばれることになる。

ただし……。




ピアノの音が聞こえてくる。ああこれはドとソの和音だなあとわかった人がいたとする。ドとソであると言い当てるだけではなく、実際に奏者がどの鍵盤を叩いているかを予測することができる。

画像から病気の正体を予測するというのは、これだ。

影絵を見て元の絵を当てる、みたいな単純な作業では、必ずしもない。

ドとソは、右手で同時に弾かれているかもしれないし、もしかしたらボールペンで押されているかもしれない、足の指で弾いているかもしれない、これらは音を聞いただけではなかなかわからない(わかる人もいるかもしれないが)。

病理というのは、この、「ああ、足で弾いているなあ」というのをずばり言い当てることができるのだが、往々にして、

「足で弾いてますねえ、まあ、どの鍵盤を押しているかはわかんなかったんですけど」

なんて回答を出すことがある。

臨床医は、ドとソという音を聴いており、病理医は、足で鍵盤を叩く姿を見ている。

……これらは、噛み合っているようで、噛み合っていない。

どちらがほんとうに、患者さんにとって大事な情報であるのかは、ケースバイケースである。「ドとソである」方が重要なケースが多いが、「足で弾いている」方が重要なケースだってあるのだ。




病理医が研究会に出る時、そこに求められているのは、「答え合わせをする」という役割では、ない。

ひとつのものを、下から見るか、横から見るか、それによって何か深みが表れないだろうか、という試みに参加するということである。

ぼくらは一つの打ち上げ花火を、瞬間の楽しみで終わらせてはいけない。

どこまでも見て、話していく。花火の残響がすっかり消え去って、煙もかききえてしまった後も、花火の写真を見ながら、あれはこういう花火だったんだなあ、と、どこまでもどこまでも研究していくのである。

2017年8月24日木曜日

Vガンダムのヒロインが定規をもちました

経口補水液「OS-1」の側面表示を見てみると、

「医師から脱水状態時の食事療法として指示された場合に限りお飲みください。医師、薬剤師、看護師、管理栄養士の指導に従ってお飲みください」

とある。ぼくは医師だけど、「指示されてない」から飲めない(ということになる)。あるいは、鏡に向かって、自分で自分に「飲め!」と指示していいものなのだろうか。

二日酔いの日にコンビニで買って普通に飲んでしまった。飲んだあとに側面表示に気づいて、あっやべっとなった。

杓子定規に、そういうことである。





昔、アゴにできた小さな粉瘤(ふんりゅう)を、うちの病院の皮膚科にかかって採ってもらったことがある。局所麻酔で10分くらいで採ってくれた。

粉瘤とは「できもの」であるが、厳密には腫瘍(しゅよう)ではない。詳しくは説明しない。まあ採ってしまえば安心、というか、ぼくの場合は、見た目的に困っていたのが気にならなくなる、くらいのものであった。

病院で体から採ってきたモノは、ほぼ例外なく、病理検査室に運ばれて、病理医が診断することになる。

ぼくは自分の体から採ってきた粉瘤を、自分で処理し、自分で顕微鏡で見た。

……ただ、ここで気づいた。たしか、医者というのは、自分で自分の診断をしてはいけないのではなかったか?



たとえばぼくが呼吸器内科医だったとして、自分にぜんそくやアレルギーの薬を処方することはできない。そんなことをしたら、ほしい薬をいくらでも手に入れられてしまうから、と言われている(たぶんほかにも理由はある)。胃薬とか頭痛薬のようなものも、自分で気軽に手に入れることはできない。睡眠薬もだ。

それは厳密なルールである。

ただ、病理医はどうなのだろう。病理診断はどうなのか。

病理診断とは立派に保険診療に組み込まれたシステムであるから、やっぱり自分の病気を自分で診断するのはまずいのかもしれない。

ほんとうは法律とかをちゃんと読むと書いてあるのかもしれない。けれどいろいろめんどうになって、ボスに診断しなおしてもらうことにした。

杓子定規に、そういうことを気にした。





「荒野の赤信号で止まるか」みたいな例え話をよく聞く。ぼくは荒野の赤信号を見たら止まるだろうか。

たぶん、電線がどこから引かれているのかが気になって、もう信号どころではなくなって、いつのまにか青信号になっているだろうな。

ルールを守ったときに出るアドレナリン、みたいなのがあるのかもしれないなあ、と思う。

「ルールに縛られたくない」みたいなことを言うやつはコドモだ。

ぼくはオトナだから、縛られても気持ちいい瞬間を探すのである。ちょっとニュアンスが変わった気がするが。

2017年8月23日水曜日

病理の話(113)

「病理医は客商売である」と感じる瞬間がけっこうある。



大学院を出て、今の病院に勤めてから、すなわち現場のいち病理医として働き始めてからは、その思いが非常に強くなった。

学生時代や大学院時代までは、病理診断とは「脳だけで働く仕事」であり、手技も処置もしないで、ひたすら顕微鏡と語り合う、沈黙のタスクだと思っていたが、実際には

・クライアントがいて
・何かを要求され
・プレゼンをして
・納得してもらう

という仕事であった。

クライアントとは医療者である。要求とは「この人の病気を詳しく知りたい」ということ。プレゼンとは病理診断報告書やカンファレンスでの説明である。




多くの医療者は病理医に言う、「患者を相手にしない仕事だから~」「患者を相手にしない仕事はいいよな~」「患者を相手にしない仕事でモチベーション保てるの~」……。

ぼくらは、患者と全く相対しないが、医療者を相手に仕事をしているのだ。心配には及ばない。





ただ、病理医の中にも、違う考えの人はいる。

「顕微鏡だけ見ていれば仕事ができる」と考えている病理医も実際にいる。

そういう病理医が勤める病院では、かなりの高確率で、

 ・臨床医が病理医に興味がない

 ・病理医も臨床医に興味がない

という、ウィンウィン? の関係が成り立っている。

それでも医療は回る。それでも患者は治る。

だから、ぼくは一概に、「人とのコミュニケーションを放棄した病理医は悪である」とは思っていない。




毎日おいしいものを食べなくても生きていける。

しょっちゅう楽しいテレビを見なくても暮らしていける。

どこかに旅行に行かなくても人生は続く。

病理医がコミュニケーションしなくても臨床は回る。





ぼくは、「患者とのコミュニケーションに自信がない人」に、病理医になってはどうかと勧めることがある。その人と話す。患者と話すのは辛いか、苦しいか、自分に合わないか、いろいろと聞いてみる。

最後に、「でもまあ、今こうして、ぼくと話す分にはそこまで苦しそうじゃないよね、あなたは」と問いかけてみる。

「まあ、患者でなければ、はい、それなりには。」

「だったら、あなたは医療者と会話する道を選べばいいように思う」





患者とのコミュニケーションと、医療者とのコミュニケーションでは、使うスキルが微妙に異なる。得意、不得意のありようも少し違う。

医療者とのコミュニケーションが辛い、というタイプの医者もいる。

ただし、ぼくは思う、顕微鏡をみて組織像とコミュニケーションすることができる人間であれば、きっと医療者とのコミュニケーションだって、たどたどしくも続けることはできるだろう、と。

上手じゃなくてもいいので、会話をしてほしい。

たまにでいいので、医療者と会話をしてほしい。





病理医は客商売である。ただしその客は身内である。比較的、寛容な身内である。

そういう世界があることを知っておいてほしい。医学部にいる、1%くらいいる、君のような人、早朝にツイッターのリンクからブログを見に来るような人に。患者じゃなくていい、医療者を相手に話せばいい、なんなら細胞や分子と語り合うのでもかまわない。

コミュニケーションは社会がいうほど一様なスキルではないということを、少なくともぼくは知っている。

他人の定義した「コミュニケーション」がへたであっても一向に構わない。

もっと広義のコミュニケーションを試してみてはどうか。

病理検査室ではそれができる。

2017年8月22日火曜日

夏を終わらせるなんて簡単だ ぼくはもう何度も終わりを見てきた

夏が終わってしまった。札幌の夏は例年以上に短かったように思う。もともとぼくが小さい頃は、お盆が終わるとスッと寒くなるのが一般的だったと記憶しているが、ここ数年、札幌でも残暑が感じられていたので、油断していた。まだ夏はあるだろうと信じていた。

夏が終わってしまった。

そういえば今年は、7月の頭くらいがとても暑かった。35度近くあった。本州のどこよりも暑い日もあった。春の終わりは暑かったのに、いざ夏になってみたら、短かったなあ。




……という書き方も、へんだな、なんかおかしいなあ、と思い始めたのが今である。




もしぼくが、カレンダーのない世界に暮らしていたら、今年の夏はちょうどよい期間続いていたのではないだろうか。

「札幌の7月上旬は、まだ夏ではない」という固定観念のせいで、せっかくの夏日を夏っぽく過ごせなかった。

「札幌のお盆ころに寒くなったら、もう暑い日はそうそう戻ってこない」という固定観念のせいで、お盆が終わったら自動的に夏も終わった気分になってしまった。




カレンダーのない世界だったらな。

今が何月なのかよくわからない。何月、という概念もない。曜日もないだろう。誕生日もわからなくなる。

何日か働いて、疲れたら休むことにする……でもいいけれど、それだと自分の休むタイミングがばらばらで、客に迷惑をかけるから、いちおう定期的に休むようにはしたい。

カレンダーはなくとも、7日おきくらいのリズムであれば、まあ忘れずにはいられるだろう。

季節についてはすごくあいまいになるに違いない。

思えば最近は半袖だとちょっと寒いなあ、と感じたら、その日をなんとなく秋と呼ぶことにする。

秋だと思っていたけれど今日は妙に暑くてジャケットを着ていられない、と感じたら、その日だけは夏の再来と認定しよう。

それが何月であっても、である。

ぼくは、ちかごろ、ほとんど盲信していたのだ、カレンダーを。

「8月なんだから夏だよな」

「12月と言ったら冬だよ」

「今日はたいへん暖かく、7月下旬なみの気温になるでしょう」みたいな天気予報のおねえさんのセリフ。これでもう、聞かなくて済む。

季節はその日、感じたままを言う事にしよう。

今日は夏だなあ。

昨日は冬だったね。




誕生日が覚えていられなくなるのは少し悲しいかも知れない。亡くなった祖母のように、「わたしの生まれた日はだいたい雪がつもりはじめる日でねえ」などと、生まれた日と季節を感じさせる出来事とが重なっている人であれば、自分の生まれた季節をなんとなく感じることができるだろう。

ぼくの誕生日には、そういう、季節の変わり目的な何かはないと思うから、たぶん、自分が生まれた日がいつ頃なのか、だんだんわからなくなってゆくだろうな。

何か、誕生日のころに咲く花でも勉強しておこうか。

桜が咲いた日に生まれた人のことが少しうらやましくなってくる。

桜が散る日であってもいっこうにかまわない。





日本は四季がはっきりした国だから美しい、というのは、ちょっと微妙だなあと思う。

秋になればテレビのアナウンサーが「今日は夏のような暑さでした」と言う日が必ずあるし、春になっても気象予報士が「今日は冬に逆戻りです」と言っていたりする。

四季ははっきりしてないのだ。はっきりしているのは、カレンダーのほうだ。

日本はカレンダーがはっきりしている国だから美しいのです、なら、まだわかる気がする。

そうだ、ぼくは、しっかりかっきり決まっているものの中でぬくぬく過ごすのが、美しいと思っていたふしがある。





今日感じる限りでは、夏は終わってしまったように思う。

けれどまだ暑くなるかもしれない。夏はいつでも戻ってくる。

2017年8月21日月曜日

病理の話(112)

レゴブロックが無数にあったら、人間の形をきちんと再現できるだろうか。それはもちろん、できるだろう。

実際、レゴのお祭り(?)みたいなのに行くと、恐竜とか自動車とかエッフェル塔みたいなものを、レゴでうまいこと作り上げている。お城なんかも見る。あれはすごいよね。

ところで、外面の輪郭だけではなく、内臓まで作れるだろうか。

細かく、細かく、細胞の配列まで。

レゴブロックが無数にあれば、あと、広い広い作業スペースと、根性があれば。きっとできるだろう。

だから、今から、爆裂に広い体育館と、無数のレゴブロックと、自由に動かせるクレーンリフト(作業用)、すごく性能のいい接着剤、その他、ありとあらゆるインフラを各自の脳内で準備してもらいたい。

準備はよろしいか。




作業を始める前に。やたらめったら端から順番に臓器やら血管やら心臓やらを作る前に。

どのような形が「頻繁に登場するか」ということを考えておくと、レゴブロックを準備するときに、ラクで良い。

レゴの達人は、あらかじめ、パーツをきちんと小分けする。色とか形とか機能ごとにまとめて、工具箱のようなものにしまっておく。

その方が効率もよいし、必要な形をスバヤクつくることができる。

だから、我々も、「人体を作る上で、何度も使いそうなパーツ」をきちんとより分けておこう。




人体の中で、もっとも重要、かつ、しょっちゅう登場する構造というのは……

・パイプ

だ。

血管はパイプである。リンパ管というのもある。食道もパイプだ。尿道だってパイプだ(カットという言葉もあるだろう)。胃もふくらんだパイプ。乳管だって、尿管だって、胆管だって、精管だって、その名の通り管である。

パイプばかりなのだ。人体は。

それと、もうひとつ大切なのが、

・プレゼントボックス

である。中から水とか粘液とかが出てくる。

臓器というのは、たいてい、これらの組み合わせで作られている。

本物の人体には、ほかに、筋肉とか脂肪、そして神経があるんだけれど、レゴのように「動かさず、飾って楽しむもの」なら、神経を電線のように張り巡らせるのはパスしてよい。脳のあるべき場所にはパソコンでも叩き込んでおこう(ニューラルネットワークとはシャレが効いている)。筋肉や脂肪もハリボテでよかろう。



プレゼントボックスにはふたがついている。ふたが空く場所は基本的に1箇所だ。横とか下は空かない。

プレゼントボックスを横にならべて連結させる。そうすると、まとまった量の水とか粘液とかが出せる、「噴出口」ができる。

噴出させっぱなしでは、そこが噴水みたいになって終わりだ。だから、出てきた液体をパイプに集めて流す。目的の場所へと流す。

肝臓にあるプレゼントボックスは肝細胞という。パイプは胆管だ。プレゼントボックスから出てきた液体(胆汁)を、パイプに流し、パイプはそのまま十二指腸という大きなパイプに接続される。

乳腺にあるプレゼントボックスは乳腺腺房(せんぼう)細胞という。パイプは乳管だ。プレゼントボックスから出てきた液体(乳汁)を、パイプに流し、パイプはそのまま乳頭に開口する。

腎臓では少々複雑なことが起きている。パイプとしてまず血管がある。血管は細かく枝分かれしながら腎臓に入り込み、パイプに空いた細かい穴がボックスと接している。ボックスの中に、血液の中に入った不純物、いらないゴミが置いていかれる。プレゼントボックスというよりはダストボックスである。ダストボックスは、もう1種類のパイプ、すなわち尿細管(にょうさいかん)と呼ばれる管とも接続していて、こちらの管にはゴミをプレゼントする。尿細管は集合管に流れ込み、集合管は腎盂に流れ込み、腎盂は尿管に流れ込み、尿管が膀胱に接続し、膀胱が尿道にくっついて、最後は液体(尿)が体外に排出される。



人体ってのはつまるところ全部これなのだ。

やりとり、流れ、運搬。

つまるところ、なんて書いたが、「詰まって」しまっては大変なのである。

心筋梗塞: 心臓のパイプ(冠動脈)が詰まる病気

脳梗塞: 脳のパイプ(動脈)が詰まる病気

尿管結石: 尿を通すパイプ(尿管)が石で詰まる病気

胆嚢結石(たんせき): 胆汁を溜めるパイプ(というか袋)(胆嚢)が石で詰まる病気

これらは全て痛みを伴うし、ときには命にかかわる。



人体、特に内臓を作るときには、パイプとプレゼントボックスをうまく組み合わせることが肝要である。というか、それ以外あまり考えなくていい。

2つ並んだプレゼントボックスの、ふたとふたがくっついていたら開けられないだろう。

だからプレゼントボックスを並べるときには、ふたはみんな同じ側に揃えておこう。

パイプを試験管の形(盲端)にして、はしっこのあたりにプレゼントボックスのふたをいっせいに開口させたら、試験管は噴出口になるだろう。

パイプの角度をあまり頻繁にいじってしまうと、ねばねば粘液を運ぶときに詰まってしまうから、自然界の川のように自然な鋭角で流れ込むようにしよう。

プレゼントボックスを直接太いパイプに開口させると、太いパイプからの逆流でボックスが壊れてしまうから、なるべくパイプを枝葉のように分岐させて、プレゼントボックスは枝の一番先のあたりに開口させよう。

……レゴか、マイクラか、という感じで、このように、パイプとボックスの配置を考えて考えて、考えまくる。




考えた先が、人体なのだと、思っていただいて結構である。

だから解剖学とか組織学を勉強すると、あまりにうまくできた人体の仕組みにほれぼれすることになる。このレゴ作った奴すげぇなあー。

2017年8月18日金曜日

脳だけの旅をする

先日、どこかのブログで、「見る専クラスタ」という言葉をみた。若い学生の大半は、SNSのアカウントを持ってはいるが1か月に1回も更新せず、ただひたすらにタイムラインを眺めたり検索をしたりして、いいねも押さずに情報を集めたり笑ったりしているのだ、という話。

これは、とてもよくわかる。

釧路の看護学校で教えていると、学生達はみなツイッターアカウントを持っているが、そもそもツイート数ゼロという人間がかなり多い。一般に公開するツイートはゼロ、友人にあてたリプライだけが数万、というやつらもいる。それならLINEでいいじゃん、というと、LINEと違ってリアタイで返事するプレッシャーが少ないし、芸能情報検索するのに一日何度か見に来るからそれで十分、という返事が来た。これぞデジタルネイティブだ。





インタラクティブということばは時代遅れなのかもしれない。

もらったら返す、という関係は、たまにでいい。

一時期、テレビが「dボタン」などを使って双方向放送にこだわりはじめた時期があった。でも、結局、ちょろいアンケートとか子供が退屈しないためのミニゲーム的な役割しか果たせていない(しかもあのゲームはたいてい退屈だ)。

ぼくらはそこまで、四六時中ずっと双方向でありたいと願っているわけではないのだと思う。




だまって脳の中で旅をする時間が必要なのだ。何も言わず、問わず、責めず。入力と出力は、場所、時間ともに、一致していなくていい。




自分がつくりあげた想像のお城にもぐりこんで、広間で誰かと踊ったり、かかっている絵を見たり、テラスから風景を眺めたりしている間は、

・大声でひとの悪口を言う
・ネットで他人の醜聞を検索する
・だれかのアラ探しをする
・徒党を組む

などの行動はいっさいできなくなる。素晴らしいと思う。どこかの戦場に魔法をかけて、全員がけものフレンズの二次創作に没頭したら戦争は終わるだろう(別の意味ではじまるかもしれないが)。妄想にふけるという行動は、世界にとって「鎮静をかける」ようなはたらきをしているのかもしれない。ジョンレノンとオノヨーコは「ぼくらべたべた愛し合っている間は戦争しなくていいんだよ」みたいなメッセージを発していたけれど、パートナーがなければ戦争が避けられないなんてのはそれこそ筋が悪い。脳を愛すればそれで十分ではないか?



……そういえばよく考えたらイマジンという曲があったな。歴史というものはうまくできている。

2017年8月17日木曜日

病理の話(111)

病理医とはどういう仕事ですかと聞かれた時、一番インパクトがあって説明も簡単なのが「顕微鏡をみる仕事です」である。

顕微鏡をみる仕事は、えーとなんというか、固定観念的な映像が存在すると思う。

よくあるだろう、

”白衣を着て顕微鏡を覗き込むポニーテールの女性を横からアップで抜くカメラワーク”。



でも、ま、よく考えると、白衣の役割というのは、
・服に汚染がつかないように着る
・患者に医療者であると伝えるために着る
などである。そもそも、顕微鏡をみるときに白衣を着ている必要はあまりないのだ。

特に病理なら、顕微鏡をみる上で白衣を着ている必要は、ほとんどない。


万が一、顕微鏡でみる「試料」、あるいは「検体」が、なんらかの感染症を引き起こす可能性があるならば、我々はきちんとマスクをして、ゴーグルもつけて、白衣だけではなくディスポーザブル・ガウン(使い捨てのカッパみたいなやつ)を着て、手袋もして臨むべきだ。

けど、病理でみるプレパラートというのは、ホルマリンという強烈な変性効果をもつ液体で処理されているし、スライドガラスとカバーガラスで試料を挟んでいるし、9割9分のケースでは感染の危険はなく、素手で扱ってなんの問題もない。

白衣はいらんのだ。そもそも。


だから我々はいろいろなかっこうで仕事をしている。

白衣を着ている人もいる。ただそれは、通常の医療者とは異なる理由で着ている。



「医療者である」とわかりやすい見た目でいたい、とか。

白衣を着ると医療をやってる感が出て気持ちがひきしまる、とか。

顕微鏡はともかく、臓器切り出しのときには白衣を着てないと汚れが気になるから、とか。

ほかの医療スタッフがみんな着ているから、とか。



ぼくが1日の中で白衣を着るのは、ボスと二人で食堂に行って昼飯を食うときだ。

ふつう、食堂には「白衣を着てくるな」と言われる。それはそうだ。食べ物を扱う場所に、臨床の汚染を持ち込んでいいわけがない。

けれどぼくらは逆である。

「食事のときしか白衣を着ていない」のだから。

行ってみればぼくにとっての白衣は「スタイ(よだれかけ)」である。

ナポリタンはよく跳ねるんでちゅよ。




仕事場での衣類というのは実用目的もそうだが、仕事相手になめられないためとか、一人前の人間として見てもらうためとか、信用してもらうために必要だと思う。

ぼくは就職したころ29歳だった。病理医としてもそうだが、そもそも医者としても若すぎて、みんなまともにぼくの話を聞いてくれないだろうと思った。ほかに代わりのいる医者ならゆっくりと研鑽を重ねることだけ考えていればいい年齢だった。でも、29歳だろうが5年目だろうが、カンファレンスはあるし、病理の話は聞いてもらわないといけない。ぼくらが成長するためには、臨床医がぼくらをまともに見てくれることが絶対必要なのだ。画像を勉強しようと思ったら臨床検査技師や放射線技師に声をかけてもらわないと話にならない。ぼくは見た目をどうしたらいいかと考えた。ケーシー(白い上下)やスクラブ(コードブルーでみんなが着てるやつ)だと、いかにも研修医然としていてかんろくがない。だからぼくは毎日スーツで出勤して、ノーネクタイでジャケットを脱いで、カンファレンスルームの一番前でぐいぐい画像を読めばみんなのインパクトに残るだろう、そう思って、背伸びをしながら毎日スーツを着ていた。

そういうことを思い出しながら、テレビやYouTubeの映像で、病理医が白衣を着て顕微鏡をのぞいているシーンを見ている。



わかるわかる、だれかに訴えかけるならまずは服からだよな、と思いながら、やさしく眺めている。ポニテにするのはAVのアレと同じ効果を狙っているんだよな、とか、口に出さずに眺めている。

2017年8月16日水曜日

昼ご飯がライスバーガーだった場合はどうする

「おめでとうございます」とキータッチするつもりが、右手のポジションが少し内側にずれていたらしく、「おめで」が「いねで」と入力されていた。

稲で、すなわち、米のことを考えようと思った。




「朝ご飯、ごはんにする? パンにする?」

よく考えたら不思議な言葉である。ごはんが二度きみのドアをノックしている。

「朝ご飯、お米にする? パンにする?」

ならわかる。けれど、「朝ご飯はごはんにするかな」なんて、よく考えたら、馬から落ちて頭痛が痛いような言い回しなんだけど、自然に使ってしまっている。

「ごはんが ごはんが すすむくん」をパンにつけて食が進んだという例はあるのだろうか。

「ごはんですよ」をラーメンに乗せるのは……アリだろうが……まあ最初に考える事とは思えない。




「ごはん」ということばが「米のめし」というニュアンスを包含しているのは日本語だけなのだろうか?

日本人がみな米を食うようになったのは最近だと思うのだが、それまでは「ごはん」という言葉は存在したのか?

「御飯」すなわち「ありがてぇめし」だから、最初から米のめしのことを指していたのかもしれないな。

それがいつしか、「朝ご飯」「昼ご飯」「晩ご飯」などと、食事そのもののことを指すようにシフトして。

「今日の朝ごはんはパンです」みたいなファンキーな言い回しが生まれてきたのかもな。

「今日のご飯はナンカレーよ。」のひとことに含まれた複雑な歴史と矛盾を思うと、腹が減ってくる。




そういえばぼくは、食事のことを扱うコラムとかブログ記事の中に「腹が減ってくる」というフレーズをみると、あまりの陳腐さにブラウザを閉じてしまうタイプの人間だったのだが、実際、ご飯のことを考えていると、腹は減るものだなあと思うし、今までブラウザを閉じてしまった人々の記事には悪いことをしたなあと思う。

2017年8月15日火曜日

病理の話(110)

人間の体の中にはときおり、そんなもん出すなよ、という劇薬が作り出されている。

例として、胃液とか膵液とか胆汁など。

胃液には「胃酸」が含まれているけどこれはつまり塩酸なのである。理科の実験で使うやつ。それもけっこう濃いのだ。

そんなものを体内で作り出してたらえらいことになるだろう。内部からとけてラスボスみたいに消えてしまっては困る。

では、塩酸まで使って何をするかというと、これがなかなか有効で、食べ物を粉々にするはたらき、プラス口から入ってきた病原菌などをぶち殺すはたらき、その両方があると言われている。



しかし、塩酸を常にぽちゃぽちゃ持ってる胃というのは、いったいどうなっておるのか。消化管(胃腸の管)の中でもかなり特殊であることは間違いない。

口から肛門まで、消化管というのは繋がっているわけで。

胃に分泌された塩酸が、食道の方に戻っていったら、食道の壁がヤケてしまう。

小腸の方に降りていったら、やっぱり十二指腸がヤケてしまう。

これでは困る。では、どうやって塩酸を胃に留まらせようか?



胃の入り口には、噴門(ふんもん)と呼ばれる関所がある。

胃の出口には、幽門(ゆうもん)と呼ばれる関所がある。

この二つの関所が、胃の中にものを留める役割をする。具体的には、筋肉の力をつかってギュッと出入り口を絞る。

そうすれば胃の中身はもれない。

食べた後、多少運動しても、食べ物を吐かなくて済むのは、噴門のおかげだ。

食べものが、胃にある程度の時間とどまって、十分に塩酸で破壊されるのは、幽門のおかげだ。



それでも、これらの関所はずっと閉じっぱなしではない。いつかは必ず食べ物が通過する。

そしたら、食べ物といっしょに塩酸も出入りしてしまうだろう。これに、どう対処するか?



胃の入り口と出口にはそれぞれ「非常に小さいスプリンクラー」があって、塩酸を中和する粘液が分泌されているのである。入口のほうには「噴門腺」、出口のほうには「幽門腺」。

特に、出口側(十二指腸の方向)は、毎日必ず食べ物といっしょに塩酸も通過することになるので、幽門腺のほうが噴門腺よりもはるかに多く配置されている(噴門腺は痕跡程度しかないこともある)。

しかも、スプリンクラーは胃だけではなく、十二指腸にも配置されている。幽門腺とかたちはそっくりなのだが、名前だけが「Brunner腺(ブルンナー腺)」と変わる。



すごいきちんとした調節があるのだ。そうまでしても、塩酸を使うメリットがあったんだろうな。



さて。入口と出口に、塩酸を中和するスプリンクラーをそれぞれ発生させる機構は、なかなか複雑であるが、DNAによるプログラムはこのへんをうまく解決している。




こんな話を聞いたことがあるだろうか?

「沖縄に長く暮らす人々と、北海道の先住民族であるアイヌ民族は、顔付きが似ている」……。

もともと、日本列島に住んでいたひとたちは、いわゆる沖縄顔とかアイヌ顔だったのだが、そこにユーラシア大陸からいわゆる「大陸顔」の人々が移り住んできて、日本を中央から占拠し、元いた人々を北と南においやった。

だから、沖縄とアイヌ、とても離れているけれど、どこか顔立ちが似ているのだ……。



実は胃の入り口と出口にある「噴門腺」と「幽門腺」も、よく似ている。というか顕微鏡でみると区別がつかない。

つまり、発生の過程では、噴門腺とか幽門腺は最初「近くにいた」のだろう。ところがそこに、大陸顔ならぬ「塩酸部隊」がやってきて、二者を引き離しながら胃を作る。

そうすれば、入口と出口に同じ機能をもつ細胞が分布していることの説明がつく……。



このへんは「発生学」とリンクする。胃の発生は実際に上記の過程をたどっている。


細胞を観察して、「機能」と「類似点」に着目すると、生命が発生した期限まで想定することができる……できたらいいな……まちょっとは想像しておけ、というお話。

2017年8月14日月曜日

検査ホニャララの話

一度書いたことがあるかもしれない話なんですけど、とても大事で、かつ医療者がコレをわかっていないとマジで詰むので、あらためて書きます。




「99%の確率で、ある病気【ホニャララ病】を正しく診断できる検査キット」を用意します。

99%の確率で正しく診断できるんですから。

「100人患者がいたら、99人は正しく診断できて、1人だけまちがう」

となります。かなり高確率に見えます。

ただ、この話は、母数を100のまますすめてはいけません。

検査キットというのは、100人だけのために使うツールではないからです。

10万人、100万人を相手にするツールです。国民の多く、必要とする人みんなに使って欲しい。

すると、どうなるでしょうか。




ある病気【ホニャララ病】。10万人集めてきたら、だいたい100人がかかっていることが、すでにわかっています(毎年、全国の病院で、診断して治療している患者の数をきちんと集計すれば、だいたいこれくらいというのはわかります)。

・100000人集めると

・99900人が健康 + 100人が【ホニャララ病】

です。有病率が10万人あたり100人、と呼んだりしますが、ことばはまあどうでもいいです。




さて、さっきのキットを使いましょう。「99%の確率で、【ホニャララ病】であるか否かがわかる」。

10万人のうち、
 1.99900人の病気のない人にキットを使う:
   (1) 99900の99%=98901人が、【ホニャララ病】ではないことを証明される
   (2) 99900の1%=999人は、病気がないのに「ホニャララ病だ!」と診断されてしまう(1%の誤診)

 2.100人の病気の人にキットを使う:
   (1) 100の99%=99人は、【ホニャララ病】だ! と診断成功
   (2) 100の1%=1人だけだが、ホニャララ病を見逃されてしまう(1%の誤診)

こうなります。


で、ここからがキモなのですが。

結局、10万人のうち、キットを使って「ホニャララ病だ」と診断された人って、何人いましたっけ?

1.の(2):999人
2.の(1):99人
以上が、キットによって「ホニャララ病だ」と診断されたの総数なんです。あわせて、1098名。

でもよく考えてくださいね。

このうち、最初の999人って、「誤診」でしたよね。



きつねにつままれたような気分になるんですけれども……。

キットが「陽性だ!」と言った1098名のうち、誤診で陽性となっている人が999人もいるんですよ。なんと91%です。

「99%正確な検査です」とうたっているキットを使って、陽性と出たら、その結果の91%が「誤診」なんですよ。



えーー。



これは、検査する人の数が多くなればなるほど、あらゆる検査にまとわりついてくる問題です。

そもそも有病率が低い(10万人集めてきてもあまり病気の人がいない)病気では、検査キットのわずかな誤差であっても、大量の偽陽性者(キットは病気だって言うんだけどほんとは病気じゃない人)を拾ってしまうのです。




こんなことでは、どんな検査試薬も、なんなら画像検査も、病理検査だって、信用できなくなってしまいます。

「99%正確な検査」が信用できないなら、この世に信頼できる検査などはありません。

では、どうすればよいか?



答えは、「10万人に検査キットを使うのではなく、10万人の中からあらかじめ、その病気になっている可能性が高い人だけを別の方法で絞り込む」です。

「10万人に100人しかいない【ホニャララ病】」というのを、きちんと調べていくと、もっと詳しく絞り込むことができます。

たとえば……【ホニャララ病」というのが、男性の方が圧倒的にかかりやすいとすれば。

10万人の男女を調べるよりも、5万人の男性を調べた方が効率的ですし(早くも半分になりました)。

60代以上の男性がかかりやすいとか、ある血液データが高いとかかりやすい、などがわかれば、次々と母集団(元は10万人)を絞り込んでいくことができます。

そして、最終的に、


「絞りに絞った200名! この200名のうち、50名はホニャララ病である!」

というあたりまで絞ることができれば、先ほどのキットはとても役に立ちます。



200のうち、
 1.150人の病気のない人にキットを使う:
   (1) 150の99%=148.5人が、【ホニャララ病】ではないことを証明される
   (2) 150の1%=1.5人は、病気がないのに「ホニャララ病だ!」と診断されてしまう(1%の誤診)

 2.50人の病気の人にキットを使う:
   (1) 50の99%=49.5人は、【ホニャララ病】だ! と診断成功
   (2) 50の1%=0.5人だけだが、ホニャララ病を見逃されてしまう(1%の誤診)

これだと、ホニャララ病と診断された人の総数は「1.5+49.5=51名」。

うち、1.5人(というのもへんですが)は、残念ながら誤診です。しかし、49.5名は、正しく診断できている。

ある検査キットで「陽性」と言ったときの信頼度がまるっきり変わってしまっています。極めて高精度で「陽性という結果」を信頼できるようになっている。




数字のマジックみたいですけど、覚えて置いたらいいことは1つです。

「検査する前に、そもそも、どれくらいその病気である確率が高いのかを、きちんと調べて絞り込んでおかないと、どんな検査も信用できなくなってしまう」




前も書いたよね? たぶん……。

2017年8月10日木曜日

病理の話(109)

「生命はタダのタンパク質のかたまり」

なのだが、

「タダのタンパク質のかたまりでいれば『安定』しているにもかかわらず、なぜわざわざ『相互作用して局所のエントロピーを減少させる時限的な存在』となり、そんな偏った状態を『継代』してまでエネルギーの高い状態での安定をもくろむのか、なぜそんな現象が自然に起こり得るのか」

を考えるのがおもしろい。


「実際にはタンパク質のかたまりではなくて、脂質も関与してるし、ペプチドと糖鎖が混在している場合もあるし、電解質の移動も生命そのものだし、だいたい水分だってすごく多いし、生命に含まれてるタンパク質の総量(質量比)は体重の2割を超えてこないからタンパク質のかたまりと言うのはかなり語弊がある」

みたいなことを考えるのもおもしろい。



「生命の中にあるすべての要素を床にならべてかたまりにしても生命にはならないわけで、これらがいかに配置して、いかに相互に連絡をとりあって、どのように新陳代謝をして、どうやって集団でひとつの機能をなしているのか」

なんてことを考え始めると夜が終わる。




そうかい? まあそうかもしれないね。
くらいの感想を持ってくれた人は、全員、生命科学研究のことをおもしろいと言ってくれるはずである。

は? 何言ってるかわからん。
くらいの感想の人も、まあ、生命科学研究だったら興味をもってくれるかもしれないけれど。





生命科学研究にはいろいろな種類があって、それはたとえば、

1.カレー粉の中にふくまれているクミンという香辛料はいったい何からできていて何の味を作っているのだろう、というように、構成している物質ひとつに着目するもの

2.カレー粉はクミンとコリアンダーと唐辛子と……と配合されているがこれらの配合を変えると味はどうなるだろう、というように、構成している物質の比やかけあわせに着目するもの

3.カレー粉を使わずにカレーの味を出すには

4.カレールーにライスやナン以外に何をマッチさせるとうまいか

5.カレーに合う飲み物は

6.カレーを食べた後のにおいを消す方法

7.カレー屋として食っていくためにはいくらで仕入れていくらで売るのがよいか、もうけを出しつつカレーをうまくするのにぴったり合う食材とは

8.スープカレーはカレーなのか

9.カレーの味を研究する人むけにルーに差し込むと辛さを客観的に判定してくれる機械を作る

10.ハヤシライスとカレーの違い

11.カレーを長期保存していつでもカレーが食えるようにするシステムづくり

12.悪くなった食材をカレーにアレンジすることで再び食えるようにできるか

13.

14.

とまあ、同じカレー研究と言ってもいっぱいあって、じゃなかった、あくまでカレーは例えだったはずなんだけれど気合いが入ってしまった、ひとくちに生命科学研究と言っても千差万別なのである。カレーひとくち。




「病理」というのは「病の理」と書くので、これはつまり、カレーについて考える学問を「カレー理学」と書くようなもので、ほんらい、カレー理学と言っても多種多様であるのとおなじく、病理学もまた多種多様である。

つまり病理学をひとくち……ひとことで説明するのは大変難しいのだが、「カレーはうまいから好きだよ」みたいなとっかかりがあると、いろいろあるのはともかくとして、病理もおもしろいんだなあと思っていただけるかもしれず、そしたらどこかの誰かが病理学の一分野で大活躍してくれるかもしれないのである。




そういえば今思い出したが、順天堂大学の病理の教授はカレーが好きすぎてDr. Curryというあだ名で世界的に有名であり、出張のたびにカレーを食うし自宅でカレーを作って学生に食わせたり客に食わせたりしている。消化管病理学の世界では非常に有名であるが、カレーの世界でも有名であるそうで、天は二物を与えたなあと思う。

2017年8月9日水曜日

暗い蟻だけが人じゃない

誰のためのサービスなんだよ、みたいなことを考えていると、たとえばTwitterで「いいね!がタイムラインに流れてしまう仕様は誰のためか」ということに思いが及ぶ。

誰かが「いいね!」と思った、取っておこうと思った、大事に思った、少なくとも相手に悪意はないことを伝えようと思った、みたいな感情の流れを、狭いクラスタ内でやりとりするのに、Twitterは便利だけれど、当のTwitter社からすれば、「人々の興味をストーミングして、そこに商売がうまれてくれないと困る」のである。

だれかがいいねと思ったものが高速でシェアされる場所、だからこそ、広告が付いて、ようやくTwitter社が喜ぶのだ。

つまり、「いいね!がタイムラインに流れるのは、Twitter社のためになる」のである。ユーザーにとってはさほど役に立たない。

もっとも、ユーザーにとっては、Twitter社がなんらかの形で利益を得て、ずっと続いてくれないと、このだらしなくも居心地がよい場所そのものが失われてしまうわけで、遠回しにはTwitter社の利益はユーザーの利益に結びつく。




病院の受付がオープンするのは朝7時半からです。それより前にいらっしゃった方は待合でおまちください。このように言うと、「おまえら早く来てるんならさっさと受付を開始してくれよ」と怒る人というのが必ずいる。

「患者が来ているから、受付を早く開ける」なんてのは、患者のためにはなるだろうけれど、病院職員のためにならない。そりゃあ具合悪くて病院に来ている人だ、多少フレキシブルに対応したいと思うのはやまやまだが、サービスを提供する側がつらみを飲み込んで、疲弊して働き続けていればいつか必ずサービスそのものが破綻し、結果的に多くの患者を困らせることになる……。

だから、普通に歩いて病院に来ている人が「早く受付を開けろよ、サービス悪いなあ」と怒っても、すみません、こちらもこれで回さないと大変なんですよ、と言う(あるいは言わずに謝る)しかない。




ぼくはTwitter社がいいね!をTLに流すのと、病院職員が決まった時間に出勤して決まった時間に帰るのは、似たニュアンスだなあと思うのだ。

別にそれ、クライアントのためではなくてぼくらのためだけど、なんか、許して欲しいんだよなあ、ってかんじ。




さあてぼくは最近、どんな不満を「サービス側」に持ったかな。

コンビニに気に入ったおにぎりがなかったとか。

ガソリンスタンドが早朝に空いてなくて困ったとか。

自動車保険料が値上げされてて悲しかったとか……。



プンプンするのも手だけれど、少しだけ考えを深くしてみるのもありかなあと思うのである。

2017年8月8日火曜日

病理の話(108)

尊敬する病理医が何人もいるのだが、みんな爆裂に「話すのがうまい」。因果が逆かもしれない。話すのがうまいから、尊敬しているのかもしれない。

ぼくが考える、「話すのがうまい病理医」にはある共通点がある。それは、彼らの脳内に、「ぼくがいる」ということだ。





「先生、この消化管生検、難しくて難しくてもうぜんぜんわからないんですが……」

「ちょっと見ていい?」

「もちろんです、お願いします」

「……これはね、難しいやつ。フフ、でもわかっちゃった。偉い?」

「……偉いです……」

「おしえてほしい?」

「教えて欲しいです」

「じゃあね、結論を先に言おう。○○病」

「ぎえっ、○○病!? そんなこと考えもしませんでした……」

「では次に進もう。なぜぼくが○○病って気づいたか、なぜ君は現段階でこの病気に気づけないのか、そのあたりを探ってみよう。ちょっと時間かかるけど今でいい?」

「お願いします」



これを、病理医になりはじめたころ、最初期に、ある人にやられた。

ものすごい衝撃だった。

自分がわかっていることを教えてくれるだけじゃない。

わからないでいるぼくの脳を読んで、

「これをわかりたいと思うんだったら、お互いの脳や目が見ているものの違いを比べてみよう」

というセリフ。

しびれあがった。




病理診断は、主観の学問であるとされる。核が大きいとかクロマチンが濃いとか、そんな、人によっていくらでもズレが出てきそうな基準で病気を分類している。病理医の胸先三寸で、がんかそうでないかが決まる、なんて揶揄されることもある。

風評被害が出るのも、無理はない。

形態診断学は、確かに、客観性を担保するのが難しい。レギュラー(整っている)をどれだけ外れたらイレギュラー(乱れている、不整である)とするか、という基準を設定するのはとても難しいからだ。

まして、その基準を言葉で説明するとなると、これはもう、極めて困難である。

極めて困難だけど、やらなければいけない。

ぼくらは、説明した相手に、「主観で決めてんじゃねぇよ」と言われないように、さまざまに客観性を確保する。

サイズはきちんとμmの単位で計ろう、とか。

特殊染色で細胞をより差異がみやすいようにハイライトしよう、とか。

そういう細かい努力をする。



診断を聞かせる相手に、「てめぇの主観じゃねぇか」と言われたくない。

だったら、どうしたらいいか?

「てめぇだけじゃなく、ぼくも理解できるなあ」と、思ってもらえればいい。

相手の主観を自分の主観と同調させる。

複数の人がみな、思い思いの主観でとらえた映像が「共通」しているならば、それはすでに客観なのである。

そんなこと、可能なのだろうか?




話じょうずな病理医というのは、それができる。

話のうまい病理医に、ぼくが質問をすると、彼らの頭の中には、「ぼくの主観」がきちんとインプットされる。

ぼくが現状どこにひっかかっているか。ぼくがこれから説明を受けたときに、どこに疑問を持ちそうか。どの順番で説明すれば、ぼくが「わかる!」と言うか。

そういうのがきちんとある。



尊敬する病理医と話すとき、彼らの脳内にはいつしか「ぼくがいる」。

だからこそ、彼らのしゃべっていることは、ぼくにとって、極めてわかりやすい。正直、かなわんなあと思う。



「先生はこの免疫染色の所見を参考に、こう考えているみたいだけど、私の意見は違う。……この免疫染色は、固定条件などに、あてにならないときがある。盲信できない。ホルマリン固定液の種類、検体が手術場で常温にどれだけ置かれていたか、そういった、病理医の手元に来るまでの処置の差が、診断を難しくしている可能性がある」

ぼく「そんなこと、考えもしませんでした……」

「もちろん、私が見ても、このプレパラートの診断は極めて難しい。しかし、私はこのプレパラートの奇妙さに気づけた。それは、私が君と比べて、プレパラートになる前の段階にトラブルが多いということを、経験的によく知っているからだ。わかるかな」

ぼく「なるほど、ぼくにはそこが足りないのか……」




今まで何遍、「なるほど」と言ったろう。

2017年8月7日月曜日

与謝蕪村って音だけ聞くと外人

時間という概念がよくわからない。

Aという事象とBという事象の「間隔」を量るために、水晶の振動をもとにしてなんらかの基準というか、目盛りを用意するというのは、わかる。時間という言葉に「間」が入っているのは、わかる。

ところが、「時が流れる」と言い出すと、ぼくにはもう、よくわからなくなる。

流れるとか言うと、まるで上流をたどれるかのようではないか。

過去が存在するような気になるではないか。

未来が存在するような気がするではないか。

けれどそんなものはない、と言うのを、なぜ未だに科学的に証明できないのかが、不思議である。

不満ではない、不思議だ。



おおまじめに「過去がある」とか「未来がある」と言う説が未だにある(だからタイムマシンがどうとか言う)のが、なぜ物理学的に許容されているのか、物理学とかの根本をよく知らないぼくは、いまいち理解できていない。

あるわけねぇじゃねぇかと思う。思うんだけど、うまく説明できない。



これは、「信仰」だろうか?

科学ではなく、感覚で、「過去とか未来という概念はともかく、実際に事象としては存在しない」と思ってしまうのは、根拠がないけど信じている、というやつだから、信仰と呼ぶべきなのだろうか?



毎日、医療と医学のことを考えていて、科学とか、心情とか、そういったことを少しずつ切り分けるように注意して、それぞれを尊重できるように、と考えてことばを選んでいくのだけれど。

いつのまにか、「科学とかよくわかんないけど心情的にその医療は許せん」みたいなことを言う人々の、気持ちがわからなくなってくる。

いいから科学を信じてくれよ、と言いたくてしょうがなくなる。



ぼくは、過去とか未来とか宇宙とか次元みたいな話の、ほんとうに深いところを、勉強しないまま一生を終える予定となっている。それでよいと思っている。誰かはもっと深いところで会話をしている。ぼくはそういう難しいことを知らないまま、感情と信仰だけで時間や世界を計っている。

それで事足りてしまっているからだ。

そして、医学や医療に対して、感情と信仰だけでよしと思っている人たちの気持ちに、寄り添えるだろうかと、ちょっと不遜なことを考えている。

2017年8月4日金曜日

病理の話(107)

顕微鏡をみるとき、教科書を見て細胞像だけを覚えても、「意味」がわからないと、微妙な(しかし重要な)違いに気づくことができない。



たとえば、肝炎を顕微鏡で診断しようと思ったら、肝臓の正常の機能や構造、肝炎がなぜ起こるのか、それによってどういう変化が起こるのかまでを勉強してからでないと、ただ顕微鏡を見ても、何も見えてこない。



肝臓は非常にたくさんの機能を果たす臓器だが、主に

・腸管で吸収した栄養を、使える形に加工して貯蔵する(倉庫)
・全身で使うタンパク質の一部を作る(工場と流通)
・胆汁というサラサラ液を作って胆管を通して十二指腸に流し込む(産地直送)

などの役割がある。

一次産業も二次産業も、なんなら六次産業くらいまで担当する、ひとつの街のような臓器だ。

ここで重要なのは、「工場」があることと、流通のための血管や胆管といった「道路」があること。

これらが整然と揃っていれば、人体にとってとても役立つ。

逆に、工場が破壊されているか、道路が破壊されているか、それらの両方が破壊されているかすると、人体には悪影響が出る。

どのような悪影響が出るだろうか?

工場が壊れていれば、工場(あるいは倉庫)の中にあった製品が、血中に漏れ出てしまう。

これを血液検査でみるのが、よく人間ドックなどで聞く「肝機能検査」である。

道路が破壊されていると、工場から出荷した商品が「渋滞」を引き起こし、あふれた道で事故が起こるなどして、今度は出荷した製品が、血中に漏れ出てしまう。

これもまた、「肝機能検査」でみることができる。

おもしろいのは、倉庫の中にある商品と、すでに出荷してトラックに載っている商品、あるいは倉庫に入る前の(加工前の)素材、これらがすべて血液検査では違うデータとして現れてくるということである。

だから、肝臓の専門医は、血液データを何種類も見比べて、


「うーん、今回の患者さんは、まだ加工する前のオサカナが血中にいっぱい漏れちゃってるなあ。ということは、倉庫に入る前の段階で何か不都合が起こっているんだなあ」

とか、

「今日の患者さんは、とりあえず加工して倉庫に貯蔵しているサカナ加工素材が血中にいっぱい漏れてるなあ、工場そのものが破壊されているのかなあ」

とか、

「今度の患者さんは、きちんとパッケージしてラベルを貼った、出荷済みのオサカナ製品が漏れまくってるなあ、たぶん道路、輸送段階で破壊されているなあ」

というのを見極める。



それぞれ治療が少しずつ違う。工場を直すには工場用の薬を使わなければ。



さて、以上のことをわからないで肝臓をプレパラートで見ても、

「なんかリンパ球が出てて正常の構造が破壊されているなあ」

くらいしかわからない。

しかし、肝臓内科の知識をある程度勉強してから見ると、



「うーむ今回の肝生検では、炎症が肝細胞(工場)よりも胆管(道路)周囲に強いなあ。肝細胞も破壊されているけれど、どちらかというと胆管に近い部分の肝細胞ばかりがダメージを受けていて、胆管から離れたところの肝細胞には変化が少ないなあ」

ということが、見えてくる。



こういう視点は、臨床医が迷っているときには極めて有効だ。

工場が壊れているようにも思う……道路が壊れている気もする……どっちがメインなんだろう? 血液データだけだといまいち判別が付かないなあ。

そんなときに、肝臓の組織を針の先で少しいただいてきて、顕微鏡を見る。

すると、「ああ、臨床医が迷うのもわかるなあ、肝細胞も胆管も少しずつ破壊されているけれど、その度合いが強くない。けれど、顕微鏡で見て、強いて言うならば、今回のダメージは胆管がメインだな。だから、胆管に障害を起こすような病気を考えた方がいいんじゃないかなあ」

とコメントすることができる。



「なぜそうなるのか」「どうしてそう見えるのか」を勉強しないで顕微鏡を見るというのは、子供が望遠鏡を見てなんかお月様きれいだねえと言っているのと一緒だ。

それ自体にも輝きはある、楽しさもある。

けれど、「なぜ」を知ってから見た方が、ずっと深くおもしろいものが見えてくる。




……患者さんが辛い思いをしている結果、出てきたプレパラートを、「おもしろい」と言いながら見るというのは、ちょっとまずいよなあ……、という懸念はずっとあるのだが、すみません、正直、おもしろいと感じてしまうことはあります。申し訳ございません。真剣にやります。

2017年8月3日木曜日

となりのトートロ

替え歌をツイートしたら「それ、嘉門達夫さんのネタにありますよ」と言われてフラッシュバックが生じたのだが、こんな妙ちきりんな流れで気軽にフラッシュバックするなんて、脳というのはちょいちょい無駄なことしてるなあ、と思う。

なんでこんなこと考えてしまうんだろう、みたいな、思考の負のサイクル。

どうしてこんなこと思い付いたんだろう、みたいな、意外すぎる連想。

これらは、一見ムダに思えてしまうのだが、進化の過程……適者生存の過程で、実装していた方がちょっとだけ生存に有利だったから、今こうして機能(?)として残っているんだろうなあ、とか、そういうことをよく考える。



ただ、人間の体に今ある機能とか構造の、すべてが「今必要だから残っている」とは限らない。

尾てい骨とか。男性の乳首とか。これらは、今必要なものというよりは、「痕跡」である。

尾てい骨なんて今ほとんど役に立っていない。体のバランスを保っているわけでもないし。造血機能にとりたてて優れているわけでもないし。

(最新の研究で尾てい骨は実は機能があると示された、みたいなことが有り得るから医学は難しいのだけれど)

男性の乳首だって、人間の体が元来「女性」として作られていて、男性ホルモンによって男性型に改変されるときに痕跡として残っただけであるから、やっぱり役に立っていない。

(男性にも愛撫の気分を味わってもらうという機能があるぞと酒の席で声高に詰め寄られたことがあり、怖かった)



今世の中にあるものがすべて役に立っているというのはある種の幻想かもしれない。

一見ムダに見えるものも、多様性の確保という意味合いで、そこにあるべくしてあるマイノリティなのだと考えるのも、ちょっとご都合主義なのかもしれない。

そうだ、幻想とかご都合主義みたいな観念って、humanだけにあるものなのだろうか?

ご都合主義なネコとか、幻想にはまるイヌというのも、いそうだけれど、どうなのだろうか?

ヒトがときおり「それはちょっと都合良すぎる考え方じゃないの?」っていう思考に落ち込んでしまうのも、適者生存の果てに残った大切な意味を持っていたりしたら、どうか?



という、「ご都合主義があるのは意味があるというご都合主義」のトートロジーに遊ぶ。これもまたおそらくは進化の末に人間の脳に残された「遊び」なのではないかと考えている。

2017年8月2日水曜日

病理の話(106)

病理診断は顕微鏡によってなされるというのが一般的な(?)理解であるが、実際には、臓器を肉眼で見た段階、あるいは臓器を見る以前に各種の検査データをはじめとする臨床情報を見た段階で、9割5分まで確定できる。

顕微鏡を見るころには診断はほとんど終わっている、ということだ。

もっと言うと、世の中の病気のほとんどは、顕微鏡で細胞を見る「必要」がない。だから、病理医がいない病院であっても、診断と治療は行われているのである。



たとえば胃癌。顕微鏡で癌細胞がどのような種類のものであるか、癌細胞が胃の壁にどれほど深く食い込んでいるか、癌細胞が胃の中でどれだけ広がっているか。

これらは、事前の胃カメラやCTなどでほとんど診断が可能である。

この、「ほとんど」というのがくせ者だ。



おみくじをひく。

箱の中には、大吉が100本、中吉と小吉がそれぞれ2本ずつ、凶が1本入っている。

これは、「ほとんど大吉」という状態だ。

臨床診断の「ほとんど」というのはそういうことだ。

エビデンス・ベースト・メディスン(EBM)というのも、つまりはこの、「おみくじの本数・内訳をきちんとわかってから診断と治療をしよう」ということである。

医療というのは、ほぼ勝つことがわかっているおみくじをいかにうまく引くか。

大吉が少なそうならば、中吉や小吉を引ける確率はどれくらいであるか。

いかに凶を引かないか。

凶を引いたとして、そのときにどう対処をするか。

これらを考えていく作業である。



顕微鏡を見なくても、大吉の本数はもうわかっている。これが臨床医学。

では顕微鏡とは何を見るのか?



箱の中で手が掴んだくじを、箱から取り出す前に、覗き込むこと。






という文字を直接読むこと。確率を超えて事実の元に診療をしようとすること。

箱から実際に取り出したくじが、汚れて、かすれて、うまく読めないときに、その文字をきちんと読むということ。

「なんとなく大吉って読めるなあ」を、「確実に大吉だ」と読み切るということ。




病理診断のレポートに、「可能性」という言葉が書いているとき、臨床医はとてもいやがる。

「おい、なんで実際にくじを掴んで見ているはずの人間が、可能性なんて言葉を使うんだよ。事実を言えよ、そのための病理診断だろう」

まあそうなのだ。そこが期待されているわけだから。

でもねえ、くじというのはねえ、往々にして、





って書いてたり、




って書いてたりするものなのよ。そこに出てきて、「この士と口とは合わせて吉にして読みます」とか、「この太いという字にまぎれている点は偶然まぎれこんだものです」とか、言わなきゃいけないってところに、病理診断の奥深さと人間らしさが潜んでいるのである。

2017年8月1日火曜日

ちなみにボーカル

「ボーカル以外のメンバーが総入れ替えとなっているバンド」というのがたまにある。たとえばSuiseiNoboAz(スイセイノボアズ)というのがそうだ。

声から想像するボーカルの顔と、実際にみたボーカルの顔がだいぶ違うのがおもしろい。

いくつか出ているアルバムを全て聞き比べると、バンドメンバーが替わったとたんに音がまるで変わってしまっている。これほど明らかに変わるのは珍しい。

ボーカルの色合いすら変わって聞こえる。ただ、まあ、いつの時代のも好きなのでよく聞く。



SuiseiNoboAzのアルバム1枚目をプロデュースしたのが向井秀徳なので、しばしばZAZEN BOYSと比べられる。似ているようでまるで違うバンドであり、かつ、どこかわずかに共通する部分がある。

SuiseiNoboAzは「バビロン」というフレーズをアルバム1枚につき1つ程度使っている。向井秀徳が「冷凍都市」という言葉をしばしば使うのと似ているといえば似ている。

変拍子、ザ・ブルーハーブに少し似たラップ。テレキャスとストラト。

最初とメンバーが変わってしまっていること。それでも続いているということ。



ぼくはbloodthirsty butchersのように、オリジナルメンバーが揃わなくなった瞬間に音楽活動を終えたバンドを大変尊敬しているが、ボーカリストだけが残り、形をしたたかに変えながらそれでも音楽を続けているバンドにも、また違った種類のリスペクトを覚える。

自分ではまったく音楽をやらないのだけれど、もしぼくがバンドを組んでいたとしたら、果たして、オリジナルメンバーにとことんこだわったであろうか、自分がフロントマンであればメンバーが変わってもやっていけると信じることはできたであろうか、そもそもボーカルを選ぶだろうか、みたいなことを、ときどき考える。まあ、ぼくみたいな人間は、仮に人生のどこかで平行世界に突入して、今とはまったく違うパラレルワールドの人生を送っていたとしても、おそらくバンドを組むことはなかったであろうけれど、




……思い出した、ぼく21歳のときにバンド組んだんだった。そうだそうだ、最近すっかり忘れていた、完全に他人事だった、なんだ、なぜ忘れていたのだろう、と驚いたけれど、この話はまたいずれとする。書かないかもしれない。

2017年7月31日月曜日

病理の話(105)

「1つのものが10個に増える時間と、10個のものが100個に増える時間は、同じであると考える」。

……なんて話を、たとえば和菓子職人の前ですると「そんなわけねぇだろう」と怒られるだろう。

だって、前者は「9個増えた」、後者は「90個増えた」である。増えた量が10倍違う。労力だって10倍、時間だって10倍かかるに決まっているではないか。

けれど、今の話を、細胞生物学職人(?)の前ですると、「ああそうだよね」となる。

細胞は倍々ゲームで増える。足し算では無くかけ算で増える。

だから、1が10になるとはすなわち「10倍になった」、10が100になるのも「10倍になった」。どちらも同じだ。

細胞1個が10個に増える時間と、細胞10個が100個に増える時間は変わらない(至適栄養が保たれているなどの条件があるが)。



このことは、病気を考える上で、とても大切なのである。

細胞1個を見極めるというのは顕微鏡を使わないととても無理だ。

10個も厳しい。

100個でもきつい。肉眼では細胞100個くらいだとまるでカスでありゴミである。

けれど、細胞が1000個もあると、おぼろげに肉眼で小さく見え始める。

細胞が10000個もあれば普通の人なら小さく視認できるだろう。

100000個となると、立派な「かたちあるカタマリ」として、人の目で認識できそうである。

細胞が「正常の細胞」だと、こんなに再現なく倍々ゲームでは増えない。

正常の細胞というのは、増える量がきちんとコントロールされているのだ。

もし、細胞の増えるスピードがきちんとコントロールされていないと? 右手の人差し指だけ妙に長くなってしまい耳くそがめちゃくちゃいっぱいとれる、とか、まぶたが目を覆うくらい大きくなってしまい日中よく寝られる、みたいな、ちょっと不都合なことがいっぱい起こってしまうだろう。

しかし、「がん細胞」は違う。

がんというのは、空気を読まないのだ。栄養がある限り、倍々ゲームで増えようとする。



倍々ゲームだから、たった1個のがん細胞が10倍になるのにかかる時間と、1000個のがん細胞が10000個になるのにかかる時間が、理論上、同じになる。

すると、昨日までカタマリが何も見えなかったところに、今日とつぜんカタマリが出現するということが、実際にありえる……。



実際には体の中にはがん細胞に対する抵抗勢力(免疫)があり、ことはそう単純には進まないにしろ。

去年検査で何も見つからなかったのに、今年突然カタマリが出てくる、ということは、往々にして経験される。



以上の話は、「がん細胞を早期に発見する」ことを考える上で、キーとなる考え方である。

「増殖異常」という言葉の重みを知ると、人間の体のすさまじさと、その統率をかいくぐるがんの巧妙な生存戦略の一端が、腑に落ちる。




腑に落ちるという言葉を、病理の話で用いるのは、ハマった感がすごくて、なんか、アリだと思う。

2017年7月28日金曜日

そうかんたんにわかるんですか

パソコンのキーボードが削れている。

特に、「K」と「M」と「N」と「A」のあたりの劣化がすごい。「O」もなかなかだ。

「S」に至っては完全に穴が空いてしまったので、「|」(画面右上にある縦棒)と入れ替えて使っている。




この記事を作る前、ほかに記事を3本書いた。3本目に至っては、

「この記事を作る前、2本記事を書いたが、消してしまった。あなたがこの記事を見ているということは、3本目の記事が消されずに残ったということである。」

なんていう書き出しでスタートしていたのだが、結局消してしまった。

今日は、アウトプットが荒く、自分のために、自分のためにと書いては消し、書いては消してしまっている。




キーボードを見ながら、ときおり、

「キーが削れるくらい発信してきたんだなあ」

と少し天狗になることもあった。

けれど、よく考えたらぼくは、書いた物をすぐ消してしまう。ブログの記事に至っては、公開する前に、2回に1回くらいのペースで全部消して書き直している。

キーが削れたほどには発信していなかった。

失ったもので得たものを量ることは出来ない。




アウトプットの量を多くすればクオリティが上がるだろうと内心思っていた。けれど、雑なアウトプットは全体の精度を上げてくれない。手癖で書く文章、反射で引っ張り出す構文、脳の大半を休ませたまま、惰性で産み出される劣化コピーのようなものばかりがころころと脳の隅に転がっている。

そういうときはインプットだよ。

アウトプットがうまくいかないときはインプットがいいんだ。

そうだそうだ、手を大きく振ってKindleに籠もり、インプットを繰り返す。

インプットの量を多くすれば何かのクオリティが上がるだろうか?

あるいは、やはり、何か別のキーが摩耗するのだろうか?



いろいろ摩耗するなら、たまにはアウトプットもインプットもしないことを選ぶ。

ただ、脳がパソコンと違う点がひとつあって、それは、「アウトプットもインプットもしていない時間に、膨大なメモリを食いながら、内部で思考が循環する」ことだ。

アウトプットもインプットもしていなくても、脳の場合は、どこかでキーが削れているということである。

興味深いことに、失ったもので失ったものを量ると、相関に気づくこともある。

相関と因果はまた別の話であるが。

2017年7月27日木曜日

病理の話(104)

生命の定義についていろいろとおもしろいことを言う人というのがいる。いまだに頭に染みついて忘れられない定義は、(かなりテクニカルであるが)以下のようなものである。

「生命とは、局所的なエントロピーの減少を持続させている状態である」

これだと、日本の字で書いてあるけれども日本語とは思えないので、言い換える。

「自然界はそのまま放っておくと必ず乱雑になり、偏りがほぐれる。しかし、生命があるとそこだけは、秩序が保たれ、偏りが保たれる」

わかったようでわからない定義なので、さらにもう少し掘り進む。




「砂漠にごま塩」という表現がある。砂の上にごま塩を振ると、振った直後は、ああ、ここにごま塩が振られたんだなと見てわかる。淡い茶色の砂粒まみれの地面に、白と黒のごま塩が、「偏って」いるので、そこだけが特別なのだなあと気づくことができる。

しかし、5分、1時間、1日と時間が経つに連れて、風やら雨やらのせいで、ごま塩は少しずつ周りの砂と混じる。仮に、砂に指で丸を書いて、その中にごま塩を振っていたとしても、数日も経てばごま塩は丸を越えて周りに拡散してしまい、いずれはごま一粒、塩一粒が砂とまぎれて、もはやごま塩とは呼べない、ただの汚い砂地になる。

ごまや塩がそれぞれ消滅したわけではないのだが、ある程度のボリューム、ある程度の秩序で、ある程度の範囲に「偏って」置かれていなければ、それはもうごま塩とは呼べないのだ。

このように、「自然界では、時間が経つと乱雑さが必ず増していく」。これを、「エントロピーが増す(上昇する)」と呼ぶ。

エントロピーは増える。しかし、基本、減りはしない。

砂漠でごま塩がふたたび集合することがないように。

汚い部屋が、ある日突然自動的に整頓されることがないように。




しかし……。

たとえば砂の上に描いた丸が細胞膜だったら。

その細胞膜の中にごま塩……の代わりに、ナトリウムとかカリウム、カルシウムといったイオンを振り、あるいは酸素を振り、とやるとどうなるか。

細胞膜が、あるいは膜に囲まれた「細胞」が生きている限り、膜の中の「偏り」は保たれる。

不必要な塩を外に出したり、足りなかったごまを膜の外から中に取り込んだりしながら、細胞が一番よい環境になるように、「偏り」を保ち続ける。

必ずしも最初振ったごま塩……最初に投入したイオンや酸素ほかの栄養の割合を保つわけではないのだが、細胞にとって一番都合がよい「偏り」が保持される。

これを、「エントロピーが上昇しないまま、低く保たれる」と呼ぶ。砂漠のある一箇所に、毎日ごま塩がそうとわかる状態で集まっている。部屋がいつまでもきれいなままである。

これはすごいことなのだ。生命とはすごいことをしている。




生命がすごくあるために重要なのは、細胞膜だ。

細胞膜がどれだけきちんと機能しているかによって、細胞の中の「偏り」がきちんと保持されるかどうかが決まる。





病理医が細胞を見るとき、しばしば、「細胞膜」に注目する。細胞膜は脂質二重膜と呼ばれる特殊な構造をしており、様々なタンパク質や糖鎖が刺さりこんでいる。

細胞膜とは単なる境界線(面)ではない。おそらくは細胞の持つ構造の中でもトップレベルに複雑である。脂肪とタンパク質と糖が全て関与するというのはまさに「オールスター」状態。

脂肪、タンパク質、糖のうち、病理医がもっとも観察しやすいのはタンパク質だ。免疫染色という技術を使うことで、ある一種類のタンパク質だけをハイライトして、その存在や分布をチェックすることができる。病理医は、細胞膜を調べるときに、主にタンパク質を調べる。

細胞になんらかの異常があるとき、膜にも何かが起きている。

通常の細胞であれば、Aというタンパク質とBというタンパク質とCというタンパク質が刺さりこんでいるはずで……しかし、病気の細胞には、Dという特殊なタンパク質が刺さっていて……という具合だ。

「Dというタンパク質をハイライトする免疫染色を使って診断する」というのは、すなわち、「生命が正しく偏るために必要な細胞膜が、何かおかしいことになっていないかどうかチェックする」ということにつながる。

※細胞膜の働きは「偏りの調節」だけではない。特に多細胞生物であれば、「細胞同士のコミュニケーション」とか「細胞の居場所を決定する」とか「細胞の機能を調節する」など様々である。ただ、その話はまた別の機会に譲る。




砂漠に固まっているごま塩が、なぜかクレイジーソルトになっていた。何が起こっているんだ。どういうことなんだ。クレイジーソルトに含まれているハーブやスパイスを観察するのはとても大切であるが、同時に、砂漠に指で書いた丸をチェックしよう。お前、何やったんだよ。CD20というタンパク質が膜に異常に刺さりこんでいる。このやろう、悪性B細胞性リンパ腫じゃねぇか。

これが診断。

CD20が異常に刺さっている細胞というのは普通ありえない。だから、「膜に刺さりこんだCD20を認識して攻撃する薬を使おう」。

こんな治療もある(実際にあります)。




「ああ、治療の役に立つの? それなら役に立つねえ」

こんなことを言われることもある。役に立つと思って頂ければ何よりである。ただ、ぼくは、砂漠の砂に何かが起きてるぞ、なんなんだ、どうしてなんだ、それが役に立つかどうかはともかく、なぜこんなことが起こるんだ、そこんところにも興味があるので、まあ、役に立つとは言えない場面でも、細胞膜についてはなるべくチェックしておこうと思っているのである。

2017年7月26日水曜日

リングを購入

「わかったふりをしない」というのは結構いろんなことのキーポイントになっているように思う。

わかったふりをしないことで何がよいかというと、話している相手に嫌われなくて済むということだ。

嫌われないままの関係でいれば、ちょっとずつ「普通、やや好き」くらいのポジションに置いてもらえる。

「普通、やや好き」くらいの人は、こちらの意図をけっこう汲んでくれる。

会話のときに、ぼくの言葉が足りなくても、ぼくの考えが浅くても、助け船を出してくれたり、こちらの表現が整うまで待ってくれたりする。

これはとてもありがたい。うれしい。

ありがたくうれしい状態を招くために、なんだかんだでとても大事なのが、「わかったふりをしない」ことなのではないかと思っている。





そういえばぼくは、誰かが何かを「わかっている」から、「好き」だと思ったことが、たぶん、あまりない。

わかっているんだと言われても、そうなんだ、すごいね、で終わる。

感情がより動くのは、適切なタイミングで「わからない」と言える人の方だ。

「話し相手に向かって、自分がわからない状態であることを告白できる性格」というのが、いい。

まあ好き嫌いの話だから、実務的な関係の相手には、どうでもいい話かもしれない。

でも、仕事のつきあいであっても、「普通・やや好き」くらいだと、いろいろありがたくうれしくなるものだ。




「それはこうだよ」と口を挟むこと。

「きっとこうなんじゃないかな」と解釈をすること。

「それは違う」と否定をすること。

これらが機能するのは、少なくともお互いがお互いのことを、嫌いではない、普通・やや好き、くらいに思えるようになってからではないか。

まずは、「わからない」を言える相手であるかどうかをチェックする。

わかったふりをしないと会話が続かないような関係になっていないかどうかを確かめる。




書いていて思ったのだが、「わかったふりをしないと会話が続かないような関係」の人を先に好きになってしまうときがあるなあ、と思った。人間の脳というのは、元来、世界のままならなさに悩むようにあらかじめ作られているのかもしれない。ほんとうのところはわからない。わかったふりをして記事にする。

2017年7月25日火曜日

病理の話(103)

顕微鏡でミクロの世界を覗いて、細胞まで見ればなんでもわかるかというと、そんなことはもちろんないのだ。

まず、ダイナミズムがわからない。体の中では生きてうごめいていた細胞も、つまんで採ってきて、ホルマリンやアルコールに浸すことで、その活動を停止してしまう。すると、「うごめき」だけはどうやっても観察することができない。

細胞内外を、水やナトリウム、カリウム、カルシウムなどが行き来する。細胞の周りを、血管が取り巻いて、酸素や栄養を運んでくる。これらは体の中で脈々と動いて、ぼくらの体を維持してくれている生命活動そのものだけれど、ホルマリンで時間停止したプレパラート上ではなかなか観察することができない。

プレパラート観察とは、とてもよく保存された廃墟を観察しているかのようだ。

廃墟にはテーブルや椅子、キッチン、お手洗いなどがあり、食器も、水道管も、トイレットペーパーもそのまま残されているから、中で人々がどのように活動していたのかを類推することはできる。

けれど、動いていた人そのものに話し掛けることはできない。

細胞を見るというのはつまりそういうことだ。ダイナミズムだけは類推しかできない。

だから、循環器内科(心臓とか血液の流れを見る科)と病理との相性は悪い。そもそも循環器系の臨床科はほとんど病理診断を用いない。内分泌・代謝内科なども同様である。

「廃墟を見ることが役に立つ科」だけが、病理診断科をうまく利用することができる。




先ほど、プレパラートに現れる組織構造を「とてもよく保存された廃墟」と書いたが、これも実は、語弊がある。

プレパラート上に見ることができる細胞の「配列」は、確かに生体内にあったときそのままなのだが、実は「間隔」が微妙に異なっている。「サイズ感」と言ってもいい。

「ホルマリン固定」という作業の際に、細胞内外の水分が失われる、すなわち脱水効果があるためだ。水を失うことで、細胞は最大で1割ほど小さくなるし、細胞と細胞との距離はもっと大きく変わることもある。

もとは8畳だった部屋が6畳半くらいに縮む。廃墟から元の構造を想像する際に、頭の中で少し間隔を開いてやらないと、うまく対応しないことがあるのだ。

……大した問題ではない、細胞の並び自体は保たれているから、病理診断には支障を来さない……。

けれども、生体内にその細胞があったときに関わっていた、多くの臨床医からすると、プレパラートを見た時に、「あれ、こんなボリュームだったっけ?」と、違和感を覚える。

病理医にとっては大して困らないけれど、画像を大事にする臨床医療者にとって大きな問題。「廃墟がちょっと縮んでいた問題」。

このことをそもそも知らない病理医もいる。自分たちがさほど困らないので、問題意識として共有できていない。しょうがない。




あと。




病理医は、細胞そのものの変化に敏感なので、そこにがん細胞があるかどうかを常に気にするし、がん細胞がどのような性質をしているかについても繊細だ。

一方、臨床医療者が診ているものは、ミクロではなくマクロである。「がんそのもの」ではなく、「がんが引き起こす現象もろもろ」を見ている。

だから、しばしば、臨床の医療者がほんとうに知りたい情報と、病理医がミクロで観察する細胞の所見とは、うまく対応していないことがある。


「なぜ造影CTの染まりがいつもと比べて少し早いんだと思います?」

「それはあれですよ、がん細胞が特殊だからですよ」


このやりとりは、うまく噛み合っていない。お互いに専門用語を用いているから、はたからみている非専門家にはちんぷんかんぷんだろうが、実は当の臨床医も病理医も、相手が言っていることを正確に理解できていない。



ダイナミズム。サイズ感。ニュアンス。

ミクロの限界とはこのへんにある。

これを知ってから病理診断を勉強し直すと、あれもこれも、不十分だ、不親切だ、不明瞭だとつっこみたくなる。

さんざんつっこんでから、昔から病理診断をしている先輩のレポートを読んでみると、なんのことはない、ぼくが今まで「これは書かなくていい情報だなあ」と思って無視していた、しかし先輩は必ず書いているという所見の中に、臨床の人間が本当に知りたいことが書いてあったりする。

知性で勝負する場であっても経験がものを言うことが、あるんだなあ、と頭を下げる。

2017年7月24日月曜日

原宿いやほん

もう6年くらい使っているイヤホンがある。高い。5000円くらいする。ツイッターをはじめたばかりのころ、「音が違うのだ」とおすすめされて購入した。

あのときはどうかしていたのだ。イヤホンだぞ。ヘタすると100均でも売っている。

職場ではずっと音楽を聴いているのだが、周囲の病理医や技師、臨床医などがいつ話し掛けてくるかわからないから、イヤホンは耳に「軽く腰掛けている程度」にしか挿していない。音量もかなり絞っている。電話や迅速診断のコールを聞き逃すわけにもいかない。

つまりは、5000円の意味なんて、なかったと思う。ほとんど無駄だった。



けれど、ぼくは、この6年間、毎朝、イヤホンを耳に挿す度に、「これはいいイヤホンだからなーあ」と、ものすごく小さく悦に入っていた。

いいものを買って働いているんだというよろこびを、毎日少しずつ、値段を思い出すことで、得ていた。

たぶん、この5000円を使わずに大切にとっておいて、ほかのいかなる5000円のものを買ったとしても、ここまで長時間に亘って、スイカに塩をかける程度の、カレーにスライスチーズを入れる程度の、ささやかな幸せを「毎日得続ける」ことはできなかったと思う。

このイヤホン、とてもいい買い物だったと思っている。



ぼくは元々、5000円をきっちりけちっていく男だ。

スーツの半額セールで、25000円の安売りスーツと20000円の安売りスーツが並んでいたら、絶対に25000円の方は買わない。

25000円のスーツは、元値50000円。

20000円のスーツは、元値40000円

このどちらを選ぶかについて、人々にはいくつかの考え方がある。

25000円のスーツのほうが、「安くなった値段がでかい、すなわちお得である」という考え方。

20000円のスーツのほうが、純粋に安いという考え方。

25000円と20000円の違いは無視して、純粋にスーツのデザインで勝負すべきという考え方。

ぼくは、「並んでいる中で一番安いものを買う」という基本姿勢である。

そのためか、今まで、数々の失敗をしてきた。買ったものが、基本ださい。

けれど、スーツがださくても、仕事がきちんとできていればかっこよく見えるからいいのだと、よくわからない言い訳でここまでやってきた。




そのぼくが、6年前に5000円のイヤホンを買ったことに、純粋に驚いているし、そして喜んでいる。

いいものを買ったなあ!




仕事が落ち着いた夜、そういえばこのイヤホンの「本気」ってどうなんだろうと、気になった。

人はいない。電話もかかってこない。

イヤホンを耳に深く挿す。

LOSTAGE「In Dreams」にしよう。スリーピースなのに音が厚い。リフが泣ける。置いたベースが響く。ドラムが沁みる。

20分。30分。名曲を聴き続ける。

……いい曲たちだ。




帰るころには、イヤホンを試していたのだということを完全に忘れていた。「イヤホンによる良さ、違い」は全くわからなかった。ただ名曲を聴いたというだけである。

5000円返してくれ。俺は100円のでよかった。

2017年7月21日金曜日

病理の話(102)

体の表面、すなわち皮膚には、扁平上皮という細胞がある。その名の通り平べったい。顕微鏡で上から見ると、まるでジグソーパズルのようにぴっちりと敷き詰められている。しかも、このジグソーパズルは1層ではなく、何層にも折り重なっている。地層みたいになっている。

扁平上皮細胞は、地層の最下層付近(厳密には最下層の一段上くらい)で細胞分裂を起こして、増える。細胞を作る工場が下の方にある。少しずつ形が平べったく変化しながら、上の層に上がっていく。最後にはジグソーパズルとなり……。

実は、ジグソーパズルでは終わらない。その後、細胞は「脱核」といって、最も大切な核が無くなり、抜け殻(燃え殻でもよい)になる。ぼろぼろになり、少し剥がれやすくなるのだが、それでもまだ、皮膚の最表層にひっついている。

これが角質と呼ばれる成分だ。軽石でこするととれる。

角質は、すでに、生きた細胞とは呼べない。それでも体の一部なのである。これが実はめちゃくちゃに重要だ。



皮膚扁平上皮細胞は、外界からの敵をはねかえす「バリバリの実のバリア細胞」である。何もかもはじきかえす。おふろに入ったときに、水を吸って太る人というのはいないように、ジグソーパズルはスキマのない完全な接着で、水すらほとんど通さない。

ただ、それにも限界があるのだ。いくら完璧なジグソーパズルと言っても、所詮は細胞、キズもつくし、細かい細菌などが表面にひっついたまま長居することもある。

だから、人間は、バリアの「最後の壁」として、角質層を用意している。これが実ににくらしい働きをする。



「三國志」などで、城の外壁をよじのぼって兵が城を攻めるシーンがあるが、あの外壁がときおりガラガラッと崩れたらどうなるか。

登ってきた兵士ごとぜんぶ落っこちてしまうだろう。結果、城への兵士の侵入を守ることができる。

扁平上皮の最外層に角質層があるのは、この、「壊れやすい外壁」の役目だと考えることができる。完全なバリアのさらに外側に、もろく崩れやすい壁を用意しておくことで、しつこい外敵を定期的に剥がれ落とすことができる。



人間を含めた全ての生物は、「境界」がある。ここからここまでが人間でーす、と、境界線を引くことができる。ただし、その最も外部は、なるべくもろく、ふわふわに作っておく。そうすることで、周囲からへばりついた外敵を簡単にそぎ落とすことができ、人体への敵の侵入を防ぐことができる。

こういう現象は他の部位にも存在する。扁平上皮が存在しない、胃や腸などにおいては、角質層はないのだが、かわりに「ねばねばの粘液」をそれぞれ分泌する。粘液はさらさらしていないので、簡単には壁から剥がれないのだが、ゆっくりと移動しながら、最外層の外敵を洗い流す役割を果たす。

……ただし、消化管は、洗い流すだけではだめだ。栄養だけはうまく取り込まないといけない。何でもはがして捨てて良い皮膚扁平上皮との違いがここにある。粘液だけではなく、さらさらの漿液、胃酸、蛋白分解酵素などを、部位に応じて様々に分泌するなどして、工夫をこらす。

消化管にある細胞は「腺上皮」と呼ぶ。腺という字は、にくづきに「泉」と書く。いかにもいろいろなものを分泌しそうではある。



今回、生体が外敵と触れる部分の話を、「外側のもろいもの」に着目して書いたが、この項目はほかにも「触手」で説明を試みたことがある。上皮と呼ばれる細胞がいかに複雑に、その場その場で役割を果たしているか、というモンダイは、語りがいがあり、病理学の根幹を為している概念でもある。

2017年7月20日木曜日

おぶせのマスコットが槍装備したよ

たとえばある趣味に入れ込んでいる人というのは、その趣味が「最高に楽しい」から続けているのか、「向き不向きで言うと向いている」ことがわかっているから続けているのか、それとも、「他にやることがない」から続けているのか。

ぼくは、ひとつの趣味に専念することがなかなかできない。

これは確かに楽しいけど、ほかにも楽しいことがあるかもしれないからなあ、と考えてしまう。

釣り、キャンプ、草サッカー、ランニング……。

どれもかじってはいるのだが、どれかに本腰を入れようとは思わない。どれもこれも気が向いたらちょっとやってみようかな、くらいだ。

そして、このまま、人生が過ぎていくのだと思う。

「よーしそろそろこのへんで、何か一本軸となる趣味を決めるぞ!」となる人をいっぱい見てきた。

ぼくも、彼らと同じように、何度か、「全力を注げる趣味はないだろうか」という目でキョロキョロしながら暮らしてみたことがある。

趣味用の雑誌を立ち読みしてみたり、趣味人のブログを読んでみたりもした。

カメラとかシューズのように、実際にお金をかけてもみた。

けれど、ま、わかってはいたけれど、「一本」は決まらない。

ぼくは、たぶん、今後も決められないでいると思う。




ツイッターを見ていると、何かひとつの趣味に専念している人間の方が珍しい。ある一つの趣味だけに没頭している人というのは、珍しい。おまけに意志が強く、発信力もある。

珍しい分、目にとまる。

ちょっとあこがれてみたりもする。

そうやって、あこがれる人が、タイムラインに何人もいる。

だれかひとりではなく、多くの人にあこがれている。

一本軸となるあこがれの人はいなくて、いっぱいあこがれる相手がいる。




よく今ひとつの職業でやりくりしているなあ、と、正直思う。

2017年7月19日水曜日

病理の話(101)

がんを、「死ぬ病気だ」というひとことでまとめてしまうのは、ずいぶん乱暴だ。

がんと言っても、いろいろである。食道がんと乳がんと甲状腺がんは、まるで違う。効く薬も違うし、がんがより進行したときに現れる症状だって違う。

同じ食道がんであっても、「食道の粘膜のごく浅いところだけに留まっているがん」と、「食道の壁に深々としみこんだがん」では、その進展範囲が違う。範囲が違うとは、影響を与える箇所の多さが違うということだ。

考えてみれば当たり前なのである。

「アリ」と言っても普通の黒いアリとシロアリでは住む場所や人に迷惑をかける度合いが違う。「シロアリ20000匹」は家の柱をぶちこわしそうだが、「シロアリ12匹」ならなんとかなりそうだ。同じことである。

ぼくらは、病気をみるときに、「それが何なのか」という大まかな分類だけではなく、「もっと細かい分類」とか「どれくらい存在しているのか」などを、きちんと評価していくことになる。




病気は一言であらわせない、とても細かく評価しないといけない、という事実に気が付くと、

「胃の筋肉にまでしみこんだ胃がん」

と言っても、まだまだ十分な評価ではないんだなあ、ということに気づく。

筋肉にしみこむと言っても、その量はどれくらいなのか。

1 mmに満たない範囲で、細胞数個が、わずかにパラパラとしみこんでいるのか。

5 cm × 5 cmの幅で、無数のがん細胞が、どっぷりとしみこんでいるのか。

同じ「筋肉にしみこんだがん」と言っても、想像できるイメージはまるで異なる。




これは、「画像診断」を考えるときに大問題となる。

画像の教科書には、「胃がんが筋肉にしみこんだときに、CTや胃カメラがどのように見えるか」が書いてある。しかし、筋肉にしみこむと言っても度合いは様々だ。自然と、画像の出方、現れ方だってバリエーションが出てくる。

このことが、放射線科医、診療放射線技師、臨床検査技師などを悩ませる。



「悪性リンパ腫と一言で言っても、びまん性大細胞型リンパ腫とMALTリンパ腫では、病変の形が異なる」とか。

「GISTという病気には内部に空隙ができる場合があるが、球状だったり三日月状だったりスリット状だったりする」とか。

「膵臓NETという病気は基本的にくりっと整った球状をしているが、境界部がごつごつしている場合もなくはない」とか。



「アリ」の一言で、日本のアリと海外のアリとシロアリとモハメドアリをまとめて語ることができないのと一緒だ。

あらゆる病気にバリエーションがある。形の差が。含まれる成分の差が。放っておくとどうなるか。どのように治療したらよいか。




病理診断では、「病気が何か」だけではなく、「もっと具体的に、どのような病気であるか」までを診断する。これらはしばしば、国産のアリとヒアリを見分けるような作業であり、極めて難しいこともしばしばだ。

病理医がこの分類をきちんと行い、「どのように見分けているか」をきちんと臨床と共有することは重要である。「ぼくがヒアリと言ったらヒアリなんですよ」では困る。「足がどうで、腹がどうで、色がどうで、顔がこうだから、ヒアリなんですよ」と説明することで、画像診断に関わる人々が、それぞれの世界で抱えている「疑問」を解決できるようになる。

「そうか、だったら足と腹の違いを画像で読み分けてみようかな」と、画像屋さんたちが思ってくれると、ぼくらの仕事のやりがいも増すのである。

2017年7月18日火曜日

何がメメントモリだよバカ野郎とも思っていた

たいそうよく売れていた。浜崎あゆみ、TRF、Globe、ミスター・チルドレン、B'z、GLAY、スピッツ……。もちろん、ぼくも聞いていた。口ずさめるほどに、よく聞いていた。

けれど、これらの音楽が、「たいせつな思い出」には、なっていない。

これらの曲は、そしてアーティストたちは、どこか心根の根本が「安定」していたからだと思う。

甘く切ない青春を歌っていても、若い日のあせりを歌っていても、はかなさを歌っていても、さみしさを歌っていても、彼らは決して仏頂面ではなかった。泣き顔には見えなかった。ぼくは、子供心に、それが何かずるいなあと思っていたのだ。シングルが100万枚も売れていた頃の話である。どれだけ稼いでいるんだろうと、そっちがセットで気になった。

これだけ売れてまださみしいとか悲しいとか言えるのはよっぽど、「精神が根本的に泣きたがっているタイプの変人」であろう。すなおに、そう思っていた。

商売がうまく行こうが、泣きたい夜はあるだろうさ。そんなこと、子供のぼくだってわかってはいる。けれどぼくは、音楽番組にミスチルの桜井君が笑顔で出演して、タモリか誰かと楽しそうに会話をしたあとに、平気でマシンガンをぶっ放せとか歌っていたとき、心のどこかで

「この大嘘つき野郎!」

という気持ちになってしまったのだった。



ミスチルは今でも一通り覚えている。音楽家が嘘つきだからって、その曲が嘘ばかりだからと言って、ミュージックそのものを嫌いになるわけではない。

けれど、ぼくは、自分の人生の何かつらい部分とか、ふわふわ浮いた部分とか、もしゃもしゃとしてかきむしりたい部分とか、そういった、どこか陰を背負った青春の記憶を、「当時の音楽」とされる売れ筋の曲を聴いても、一向に思い浮かべることができない。




先日、ネットの友人に、「君はどこか、不安定感とかエモみがある音楽を好むよね」と言われた時、そういえばぼくは、人生がほとんど大失敗しているようなバンドの音楽ばかり好んで聴いていた時期があったなあ、何なら今でもそうだけれども、と思い至った。

そうか、ぼくの青春は、いわゆるインディーズに近いバンドミュージックと共にあったのか。

そう思って、iTunesの古いバンドを片っ端から聴いてみた。そうすれば、あの青春時代を少しでも思い出すことができるのではないか。




思い出されるのは、自室のCDラジカセの前に座って、ヘッドホンを両手で抱えて、目をつぶり、ずっと音楽を聴き続けていたときの、あのごわごわとしたカーペットの「尻触り」ばかりだった。何も変わらない、ぼくは音楽を何か思い出とセットにして聴くのが、元来苦手なようだった。ミスチルには悪いことをしたなあと思う。

2017年7月14日金曜日

病理の話(100)

向こうに患者がいる。

わたしの病気は何なんですかと、主治医に尋ねている。

主治医はあまり専門用語を使いすぎないように、患者に説明する。

自分の脳の中では専門用語をふんだんに脳内で踊らせ、病気の正体を探ろうと試みながら。

そして、患者が帰った後に、主治医は病理医の元に歩いてきて、尋ねる。

この人の病気は何なんですか。




病理医はあまり専門用語を使いすぎないように、主治医に説明する。

「あまりにも専門用語をぶちこんでしまうと、主治医もわかんなくなっちゃうだろうな」

病理医は、臨床医にわかる言葉で病理報告書を書く。

病理報告書を読んだ主治医は、患者に病状を説明する。説明の際には、

「こんな難しい言葉だったら患者はわからないだろうから、もう少し簡単に言い換えてあげよう」

と気を遣う。

主治医は、患者にわかる言葉で説明を試みる。



患者のために行われている医療。

その中では、言葉は何度も、言い換えられている、ということ。



あるいは、看護師だって、病院の事務だって、待合室で眺めているニュースのアナウンサーだって、そのニュースの中に登場する政治家だって、政治家に意見を具申した厚生労働省の職員だって、その職員に情報を提供した医療者だって、みんな、相手がわかりやすいように、わかりやすいようにと、言葉を言い換え続けている。

医療だけに限った話じゃない。言葉はいつでも、言い換えられ続けている。

専門用語を言い換えずに働くというのは、不親切だ。

それに、「病理の専門用語」も、細胞に起こっている形態変化を、ことばという形に近似して、表現しているだけである。

「専門用語を言い換えなければより真実に近い」かどうかは疑問である。医療とは、近似、近似の伝言ゲーム。




似た言葉を探し、より伝わりやすい言葉を選び続ける医療コミュニケーションの場において、もっとも大事なのは、つまり、「それはどういう意味ですか?」と、お互いが問いやすい環境を作ることではないか。

お互いが相手の得意に寄り添い、相手の不得意を補い合う環境を作ること。

とりあえず、ぼくもここで意志を持って仕事に参画しているんですよぉと、名札をかかげてアピールしておくこと。

いつでも話しましょう、いつでも答えますよ、いつでも聞きたいんです、いつでも教えてください、と、言いまくっておくこと。

あちこちで臨床の医療者と一緒に仕事をする。話をする。相談をする、相談に乗る。

病理のことばを、臨床の用語で言い換えるなら、どういう言葉を使うのが一番いいのか。

病理のことばが、患者の元に届くまでに、どれほど形を変えているのか。

毎日、実感する。書く。読む。

これが大事だと信じて、人とも書物とも会話を続けていく。





そんな日々を繰り返しているうち、病理医だけが使っている言葉の特殊性に、あらためて向かい合うことになる。

細胞とは。細胞質、細胞膜、核膜、核質とは。

異型性とは。異形成とは。

凝固壊死、融解壊死、乾酪壊死。

極性。軸性。

濃縮、微細顆粒状、泡沫状。

好酸性、好塩基性、両染性。

多結節状、結節集簇状、分葉結節状、粗大顆粒状。

シダの葉、サカナの骨、鹿の角。

おそらく世の人々の0.01%すら使わないであろうこれらの表現もまた、病理という狭い世界の中で、コミュニケーションするために生まれてきたフレーズだったのだろうなあ、と、思いを馳せる。



誰かに伝わるかな、伝わるといいな、伝えよう、と思って作り上げられた言葉が、輝いている。ぼくは、たとえばそういう病理ことばを抽出して、ためしに患者の前にそのまま投げてみたらどうなるだろうかと想像する。もちろん実際にはやらないけれど。


うん、案外、何かを越えて、伝わるということも、ある、かもしれないなと思う。もちろん実際にはやらないけれど。