2017年6月29日木曜日

ブッチャーズにも似たタイトルの超名曲があります

自己啓発本がすごいなあと思うのは、すでにあるものごとの「見方を変える」とか「閾値の設定をしなおす」だけで新しいココロモチになることができるよ、と言っちゃうところだ。

つまりはコストがかかんないんだよな。何かをクリエイトするわけでもなく、何かを研磨するわけでもなく、とにかく「線を引く場所」を変えるだけでいいんだから。

そりゃあウケるわ……金払って読みたい人も出るわ……。



と、ここまで考えて、「あれ、コストかかってんじゃん」となる。



「買ったところで、気の持ちようしか書いていない本」を、「買ってでも」、「自分が将来コストをかけずにうまくやる方法」を、「知りたい」。

ここで金が回るんだな。うーん。



「人の経験を取り入れる」のに、どれだけの金がかかるんだろう。

話を聞くだけならタダ?

「今ある状態を少しでもらくに、たのしく、うれしく受け止めるための考え方を身につける」のに、いくらコストをかけるのがいいのだろう。

いい人がたまたま周りにいればラッキー?



魚戸おさむ「はっぴーえんど」というマンガを、例えばそういう視点で読んでみるとよいのではないか、と思う。

このマンガはあるいは金字塔になるかもしれないので、今から金を払って読み始めておいて欲しい。


「はっぴーえんど 1  (ビッグコミックス)   魚戸 おさむ」 https://www.amazon.co.jp/dp/4091895077/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_R0gtzbW0RWV2K


2017年6月28日水曜日

病理の話(94)

ほんとうに病理医は足りないのだろうか、ということを最近考える。

そもそも、世の中に「足りている職業」なんてあるのだろうか。

どこだって人手不足である。

医療業界で、スタッフ数が潤沢で、診断も治療も最新・最高を常に維持できていて、患者もみんな満足してニコニコしている場所なんて、どれだけあるのだろうか。

夜昼問わず尽力する善意の一人によって成り立っている救急医療現場。次から次へと訴訟のリスクを抱える出産現場。神の腕を求めて殺到する患者。学会出張に行くと閉じられる外来。年年歳歳右肩上がりに増える申し送り事項。払われたくない金。病気は医者の都合を待ってくれない。病気は科学の進歩を待ってくれない。足りない人。足りない科学。足りない幸福……。




病理医が足りないんじゃない、人はそもそも全部足りない。




今、病理医は全国に2300人、うち半分強が50代後半以上であり、半分強が大学と紐づけされており、病理診断に専任する人よりも大学の研究業務と兼任する人の方が多く……。

このままでは病理診断は立ち行かなくなる。すべての医療が止まる……。足りないから、ぜひ、病理医になってくれ。この国の医療を救ってくれ……。



どこか空々しい。

どこだって誰だって足りないのに。

病理がなくなったからって、医療が全部止まるわけじゃないのに。

それは心臓外科医であっても産婦人科医であってもリハビリ医であっても緩和ケア医であっても一緒。

ほかの医療者と同じように、

「病理医がいないことで、誰かがちょっとだけ苦労したり、誰かがちょっとだけ理想から遠ざかる場所が増える」。

国民の幸せの総量がちょっとだけ減り、どこかのがん患者がちょっとだけ早く死んだり、どこかの病人がちょっとだけ診断が遅れて人生をちょっとだけ悪くする。


「ちょっとだけ」だ。


誰かの人生を大きく動かす、ちょっとだ。やじろべえを最後に倒す、指の一押しみたいなものである。




ぼくは北海道という田舎にいるから、田舎のことにとても関心があるけれど、北海道のあちこち、本当にあちこちに、

「病理医がいなくて、病理診断が破綻している病院」

がある。いっぱいある。すでに、ある。

ではそこでは医療は終わっているのか? そんなことはない。もちろん、病理医がいる病院と比べると、ちょっとだけ不便で、ちょっとだけ高次医療ができなくて、ちょっとだけ患者の満足度も落ちるかもしれないけれど。

産婦人科が撤退した地方病院。救急医がみんな引き上げてしまった公営病院。医局に切られて外科医が足りなくなった中核病院。

起こっていることはすべて同じである。病理医だけが足りないわけじゃない。

医療は常に、充足していない。




だからぼくは言いたいのだ、病理医が足りないからみんな病理医になってくれではなく、この仕事にはやりがいがあるから、君が病理医になることで、ちょっとだけ医療がよくなると思うから、もちろん、君は何になっても、ちょっとだけ世の中をよくできると思うけど、それは病理であっても同じことなのだ、だから、病理ってのはけっこう働き甲斐があるいい仕事だから、

病理医になってみたらどうか。

と。

ぼくは、「病理医は足りていません」と言いながら、病理のリクルートをするやり方を、もはや、「筋が悪い」とすら思い始めた。

自分がかつて使っていたフレーズでも、ある。反省ばかりの毎日だ。

2017年6月27日火曜日

ちからのたてが手に入るとMP節約にめざめる

はぐれメタルを倒すと経験値が40200くらいもらえるんだけど、子供心に、たまたまかいしんのいちげきが1回出ただけで40200というのは多すぎるのではないかと思っていた。

けれどそういう話は現実世界にもいっぱいあるなあ、と思わなくもない。



たとえばはぐれメタルと戦いの最中に、いつしか好敵手としての間柄をお互いが意識しはじめ、敵味方を越えた「戦うもの同士、相通じるもの」が育まれ、必殺の一手が伯仲した瞬間に間合いをとって、お互いに

「お前、やるじゃないか」

「名前を聞いておこう」

「お前とはまた会う気がする」

「今度は俺に当てられるといいな」

「お互い様だ」

なんて会話が生まれたら、これはもう経験値としては80400くらいもらっても良いのではないか、と思うんだけど、実際には倒してないから経験値ゼロなのである。

こういう話も現実世界にいっぱいある気がする。



経験値を数値化するからいかんのか。

経験値を散文化してしまうとどうなるか。それはすなわち「おりびあののろい」に対する「あいのおもいで」である。本人たちしかわからない。先にあるのは呪いの消滅と周りのキョトンである。

やっぱりある程度の数値化は必要なのだろう。



そういえば経験値を溜めてレベルが上がっても、ぼくはそこまでうれしくなかったな。

どちらかというと、メラミを覚えたとか、ベホマラーを覚えたとか、そういう「レベルアップのついでに何か新しいまほうを覚えたとき」のほうが、はるかにうれしかった。

こういう話こそ現実世界に満ちあふれている気はする。



「ぶとうか」や「せんし」でいるよりも、「まほうつかい」や「けんじゃ」でいる方が、レベルアップに伴う快感は大きかった。

だから、一度ぶとうかとしてすばやさを上げまくったあとで転職するなら、まほうつかいがいい。

ダーマの周りにいるザコを殴るとすぐに数レベル上がる。

ギラもイオも瞬間的に覚えられる。

あれは正直、快感だった。しかし転職してから長い間、他のメンバーとのレベル差に苦しみ、敵のベギラマでひとりだけ瀕死になったりするのもセットである。

こういう話も、現実世界には多く見受けられる。




「だいじなことはみんなゲームが教えてくれた」みたいなまとめをタイトルに放つブログが嫌いなのだが、だいじなものをなんでも自分の理解が及ぶ話題にすりかえて語ってしまうやり方を、ぼく自身もよくやってしまう。

自分の言いたいことを何かに代わりにしゃべらせたり、自分の言いたいことを最初から最後まで例え話であてはめたりするとき、最初から最後まで統一した物言いができると、なんだかいい気持ちになってしまう。途中から、「それ、言いたいだけやろ」とつっこまれる。

統一した世界観の最後にオチをつけるのは難しい。

そこまでの話の流れを壊さず、かつ、長文の締めくくりにふさわしい、圧倒的な説得力のあるフレーズで、読む者にぐっと衝撃を与えなければいけないからだ。

ギガデイン? ただ攻撃力が強いだけだ。

ベホマズン? MP消費量が多すぎてどっちらけである。

「ドラクエ例え話」では何がオチになるんだろう。



パルプンテか。パルプンテなんだろうな。ああ、なんだかわかるなあ、とすごく納得したのである。どこかでおさらのわれるおとがした。

2017年6月26日月曜日

病理の話(93)

「じゃじゃ馬グルーミン☆UP」というマンガがあるのだが、主人公である駿平が父親に向かって、

「父さんの仕事なんか、書類を右から左に動かすだけの仕事じゃないか」

みたいなことを言って、母親にひっぱたかれる、というシーンがあった。

ぼくはあのシーンがずっと頭に引っかかっているのだ。

子供から見ると、事務作業、頭脳労働の一部は、駿平のように「書類を右から左へさばくだけ」のように思われているのではないか……。

病理診断というのはデスクワークの本流みたいなもので、書類仕事であり、パソコン仕事である。勉強して、調査して、記載して、確認を受けて、連絡をして、報告をして、相談をする……。

この仕事、そうだよ、「右から左へ」の類いではあるよな。



書類を右から左にさばくにもスキルが必要だ、と言ったところで、スキルが必要とかそういう話ではなく、やりがいがあるのか、やっていておもしろいのか、どうなんだ、と、余計に疑義の詰まった目で見据えられることになるだろう。

さて、あのとき、駿平の父さんは、なんと言ったんだったか。



(そんな風に見えてるのか)とだけつぶやいて、特に反論などはしなかったように、思う。







ドライブが好きという人にも何種類かある。

・運転そのものが好きだという人。

・自分で好きなように居場所を決められる、行き先を自由に変えられるのが好きだという人。

・運転自体はまあどうでもよいのだが遠くに行くのが好きなのだという人。

・車の中がなんとなく落ち着くのだという人。



仕事も実は一緒であり、デスクワークが好きだという人にも何種類かいて、

・デスクワークそのものが好きだという人。

・デスクワークの結果、達成される、なにがしかを見るのが好きだという人。

・デスクにいることにこだわりはないのだが、頭脳を使うのが好きだという人。

・デスクがなんとなく落ち着くのだという人。

などがいる。



「書類を右から左にさばくだけ」というのは、「運転なんて右足を踏んだりやめたりしながら、手でわっかをくるくる回すだけだろう」というのと同じなので……。

ドライブが好きな人に、「そのハンドルくるくるの何が楽しいの」という質問をしないのと一緒で、デスクワークが気に入っている人に「その書類を動かすのの何が楽しいの」と言っても、答えは返ってこないのではないか、と思う。




ちなみにぼくはたまっているプレパラートを次から次へと「診断済み」の棚にぶちこんでいくとき、ハナクソがごっそりとれたような快感を覚えるタイプだが、ハンドルをくるくる回すことにはそれほど快感を覚えない。

2017年6月23日金曜日

山廃という言葉もあったではないか

多くのおじさんがツイッターを発信に使い続けている中、10代の人間はツイッターアカウントに鍵をかけて、主に芸能情報などのニュースを集める、すなわち受信に使っているのだという。

ツイッターというツールは情報の受信にこそ向いているようだ、というのは、かつてNHK_PR1号が書いていた。

ぼくの実感としても、ツイッターは、情報収集にこそ向いている。それも「世の中からこれがよいと勧められる情報」ではなく、「自分でこれがよいとジャンルを偏らせた情報」を集めるのに便利だ。

そういうことに、おじさんたちが気づくのに10年ほどかかったし、まだ気づききっていない。

けれど、10代の人間はすでに、誰から教わるでもなく、「効率的なSNSの使い方」をしている。

発信と自己顕示はインスタ、受信はツイッター。極めて合理的だと思う。若者の適応力というのはすばらしい。




と、ここまで書いて、そしたら、10代の人間が受信するための情報は誰が発信するのか、という話になり、10代の受け手がいっぱいいるツイッターではおっさんが送信役に回り、10代の送り手がいっぱいいるインスタグラムではおっさんが受信役に回る、これこそが需要と供給の一致ではないか、という仮説を打ち立てる。

セッツァー風に言うと「大きなミステイク」であることにすぐ気づく。

10代の人間が受け取りたい情報は、おっさんからの情報ではない。

10代の人間が自分を見せたいターゲットは、おっさんの目ではない。

需要と供給はまったく一致していない。仮説は棄却される。

おっさんであるところのぼくは、誰に向けて情報を発信し、誰から情報を受け取れば、世間に迷惑をかけずにやっていけるだろうか。








ぼくが日頃エアリプでやりとりしている相手の99割が、おっさんである(やりとり相手がすべておっさん+その9倍くらい周りにもおっさんがいる、の意味)。

「SNSおっさん」は、狭いクラスタの中で、有象無象のバクテリアにまみれて、その形態をじわじわ変えていく存在である。人の役に立つ変化だった場合には「発酵」、人の役に立たず害をもたらす変化だった場合には「腐敗」と呼ぶ。

火入れ(炎上)をすると発酵が止まる。まるで日本酒のようだ。

アルコール添加しても発酵が止まる。まるで日本酒のようだ。

お酒の発酵には適度な管理と行政の締め付け、職人の目、運、天候、水、さらに、半可通的な買い手・飲み手が大量に必要となる。

日本酒のブームは来たり来なかったりする。ビールには勝てない。

おっさんは酒なのである。10代にはおすすめできない。




ぼくは普段から、「昔にもどりたい」とは全く思わない人間なのだが、今ひさびさに、10代に戻りたいかなあと思った。

10代に戻って、真新しい気持ちで、ツイッターを使い始めてみたい。

そしたらぼくらおっさんは、どのように見えるのだろうか。

赤ら顔、千鳥足、無色透明な、くさい存在。ときどき楽しそうにしている。

2017年6月22日木曜日

病理の話(92)

病理診断では、細胞の顔付きを見て、病気の正体をあばく、という。

しかし、この言葉は、正確ではない。いくつか例をあげて説明する。




1.患者さんが病院に来た、50歳代の女性である、しこりが胸にある、画像ではしこりがいびつに見える、周りにしみ込んでいるように見える、だから臨床医は「がんの可能性が高い」と考えている。

2.そこで胸のしこりから細胞を採る。出てきた細胞が「悪性」としての性質を持っている。

3.病理の結果は、臨床情報が強く疑っている「乳がん」を支持する。だから、乳がんであると確定診断した。



以上の文章を読んで、「おお、病理のおかげで確定診断が出せた」という感想が出る。……9割は間違っていないのだが、1割、間違っている。

実は、確定診断の過程において、病理で細胞をみたことが「決め手」にはなっているのだが、「それが全て」ではないのである。

別の例を出そう。



1.患者さんが病院に来た、50歳代の男性である、腕が腫れている、画像では皮膚の下のほうにしこりがある、いびつである、周りにしみ込んでいるように見える、だから臨床医はがんの可能性があると考えている。

2.腕のしこりから組織を採取する。細胞は、「悪性」の性質を示している。

3.では、皮膚の下から出た「がん」だと確定してよいだろうか?


さきほどの乳腺のときと話はとても似ているのだが、違いがある。

臨床医が「がん」をどれだけ強く疑っているかが、違う。

乳腺の例では、臨床医は乳がんを一番強く疑っていた。

しかし、腕の例では、臨床医は実はひそかに「結節性筋膜炎」の可能性を頭に入れている。

結節性筋膜炎という病気は少し珍しいのだが、がんではないのに、細胞の顔付きが妙に「がんっぽく見えることがある」という特徴を示す。

つまりは、細胞を見て「なんか悪そうな細胞だな」と思ったからと言って、すぐに「がん(軟部の悪性腫瘍)です」と診断してはいけない。



臨床医も、病理医も、どちらも!

見るべきは細胞の顔付きだけではない。

病気が出た場所、患者の年齢、病気の見た目、症状、統計学的な知識などから、「この病気とこの病気が疑わしい」と、ただしく「この人にとって、ありえそうな病気」を列挙した後に、はじめて細胞の情報を加味する。

加味するというのがポイントだ。




臨床情報というのは食材である。肉であり野菜である。正しくカットして熱を加えて、おいしい料理(医療)に仕立てていく。

料理の最中に、例えば味を際立たせるため、例えば味をしみ込ませるため、例えば料理の完成度を高めるために、塩こしょうをはじめとする多くの調味料を、「加味」する。

病理の細胞形態学というのは、この、調味料のような役割をしている。

食材そのものではない。

食材の性質を見極めてはじめて、ここで塩を入れると味がひきしまるとか、ここで酒を加えると肉がやわらかくなるとかいった、調味料の利点を発揮できる。

加味するのがポイントだ。加味の仕方があるのだ。



細胞だけ見てわかるというのは幻想である。

病理医のやっていることは、「細胞の理(ことわり)」を見ることではない。

「病気の理(ことわり)」を診ることだ。

ぼくらはみな、細胞だけではなく、臨床そのものを診る。その上で、「調味料には誰よりも詳しくある」というのが職務である。



このことを知らずに病理と付き合う臨床医は、「チャーハンなんて最後に塩こしょうふれば食えるじゃん」的なニュアンスで、「病理はまあ細胞だけ見てくれればいいからさ」などという。

このことを知らずに診断を出す病理医は、「ぼくらに食材のこと聞かれてもわからんけど、クレイジーソルトかけとけばだいたい食えるよ」などという。



料理を知らずに病理を語るのは、よくない。

2017年6月21日水曜日

GATALI

論文の書き方、という話をしていた。

ここで、話の大筋を「木の幹」に例え、枝分かれする関連事項を「枝」や「葉」に例える。

優れた著者の書く論文は、木の根元からこずえに向かって順番に話を進めていくのだという。一貫して木の幹が把握できるように、枝葉末節にこだわりすぎないように。分岐してもいずれは本幹に戻ってくるように、語る。

一方、日本人に多い「話がとっちらかって何を書いているのかわからない書き方」では、枝葉をいちいち丹念に書きすぎてしまうせいで、なかなか幹が見えてこない、というのだ。


「話の木」を、下から上に登っていくか、上から見下ろしてあちこち浮気しながら降りていくか、という違いだともいえる。

学術論文では、幹の太い方からきちんと登っていくほうが読みやすい。



なるほどなあ、と思い当たる。

ぼくは、わかりにくい語り方をしてしまうタイプだ。



論文には限らない。

日常の、相手のいる会話で、ぼくはしばしば、長尺の、寄り道の多い語り方をする。

以前に先輩にもたしなめられたことがあった。いっちーの話は、オチまでが長いよと。

枝葉を語る時間が長すぎる。

この語り口、いったい何に影響されているんだろうなあ、と考えた。



……落語? 漫談? 水曜どうでしょう……?



へたくそなラジオDJのようだなあと思った。視聴者はいる、意識もしている、しかし相槌を求めずに、自分の言葉ですべての展開をいったん終えてしまう。そして、10分以上語ったあとで、「ではお手紙をいくつか。」と、もらった感想に対してリアクションを述べる。

ほんとうに優秀なラジオDJは、独白であっても、センテンス1つ1つが短い。

そこに声はなくとも、視聴者が合間合間で相槌を打てるように、やりとりをしうるように、間が調整されている。



ツイートも一緒だ。ツイッターはラジオに似ている……。



ぼくはこの「水曜どうでしょう型漫談形式」の会話をこれからも続けていくのだろうか、ということを考えていた。

そうだな、続けるのかもしれないな。

だからツイッターも続けているのだろうな。



ほんとうに視聴率の高いTV番組は、ひとつの会話が1分続かない。極めて短くパックされたボケ・ツッコミが、字幕と共に短時間に叩き込まれる。

けれど、ぼくはどうも、そういう、「お互いが最高に楽しい会話」というのが、いまいち苦手なようで、深夜2時半のFMラジオから聞こえてくる環境音楽みたいな実のない独りガタリの方に、いい年してあこがれているのだ。




HiGEというバンドのボーカル、天才・須藤寿の、ソロプロジェクトの名前は、GATALI と言った。

どうもぼくは、売れそうで売れない、ニッチを攻める、忘れられた王道のような存在に、惹かれる傾向がある、

2017年6月20日火曜日

病理の話(91)

プレパラートで病気の細胞をみるとすべてがわかるのか、というと、そうではない。

病理組織診断がもっとも苦手とするのは、ダイナミズムの診断……「血流」の診断である。

病気を顕微鏡でみるとき、プレパラートには、ホルマリンという液体で固定され、パラフィンという物体を浸透させた、4μmという激薄ペラペラの組織が乗っている。

この組織は、もちろん、既に生きてはいない。生体内にあったときとほとんど同じ「配列」で、細胞が乗っかっているけれど、これらの細胞はもう活動していない。そして、もちろん、血流も流れていない。

これが実はけっこう問題なのである。



現代の画像診断の半分くらいは、「血流」というダイナミズムを用いて診断しているのだ。CTにもMRIにも超音波にも、さまざまな「造影剤」が用いられ、病気の中にどれくらい血液が入り込んでいるのか、どこにどのように血が分布するのか、使い終わった血液がどのように排出されるのかという、「血行動態」を細かく診断する。

たとえば肝臓ならば、肝細胞癌というがんは

・すごいスピードで動脈から病変の中に血液が流れ込み
・すごいスピードで病変から血液が外ににじみ出てくる

ということがわかっている。これに対し、同じ肝臓のがんであっても肝内胆管癌というがんの場合は

・じわじわと病変のふちから内部に血液がしみ込み
・そのまま病変の中でしばらく滞留、あるいは拡散して、なかなか出てこない

という動態を示す(ざっくり書きました。ほんとはもっともっと細かい)。

これらの違いによって、放射線科医や内科医、外科医は、肝臓のがんがどのような性質であるかを予測して治療に臨む。

いざ、採ってきた病変を顕微鏡で見る。細胞を見て、これは肝細胞癌だな、とか、これは肝内胆管癌だな、と、病理医が診断を下す。

そこで臨床医から電話がかかってくる。

「先生、あのね、この人、肝細胞癌だろうなと思って手術したんですけど、病理では肝内胆管癌だと診断されました。でも、画像でみると、病気の中に血液がすごく早く入り込んでいるんですよ。なんででしょう? どうして、肝細胞癌っぽく見えたんだと思いますか?」

ぼくは考える。血流か。

顕微鏡を見る。

……そこには、もはや、血流はない。

プレパラートの中では時間が止まっているのだ。「流れ」を見ることは極めて難しい。

しょうがないので、血管の分布、配置、太さ、性状を調べて、「おそらく生体内ではここにこうやって血液が流れていたんだろうなあ」という推測を繰り返す。



考古学の世界では、地面を掘り返したら穴の痕跡が見つかって、そこから竪穴式住居の存在に気づく……みたいな推測を行う。すでに時の彼方に消えてしまっている「過去」を推測するには、極めて精緻な推測手法と、言語化しきれない勘、そして語り部の説得力とが必要なのだ。

病理で血流をみるとは、すなわち、そういうことなのである。ぼくがしばしば、主に人文系の研究者が用いる論説形成法である「アブダクション(仮説形成法)」という言葉に敏感に反応するのも、病理にどこか考古学的な香りを感じているからなのかもしれない。

2017年6月19日月曜日

ちぬられた、と書くとちょっとかわいい

思えば自分のルーツとなっている音楽を探すと、それはたいてい、大学生の頃に聴いた……いや、正確には「見た」ものに端を発している。

大学3年生の夏までの間、ぼくは実家から大学に通っていた。実家には年老いた祖母がいて、テレビが好きな祖母のために父はケーブルテレビを導入した。

ケーブルテレビではちょっとエロい映画などやっているかと思ったが、そういうのは追加料金を払わないと見ることができなかった。

欧米のサッカーなどを見て悦に入ろうと思ったが、同級生や先輩にサッカーオタクがいて、バルセロナをすぐバルサと発音してイキるのを見ていると、海外サッカーにのめり込むのもシャクに思えた。

だから音楽を見た。プロモーション・ビデオ(PV)というのをそこで初めて知った。

宇多田ヒカル、ドラゴンアッシュ、BONNIE PINK、椎名林檎などが次々といかしたPVを発表していた時代、CDを買わなくても音楽が聴けて、見られることにぼくは興奮した。

あるとき、「ゆらゆら帝国」なるバンドや、「NUMBER GIRL」なるバンドを見て、ぼくはびっくりした。こいつら歌べつにうまくはないよな。でもかっこいい。

ぼくはバンドミュージックの世界に、映像から入った。ライブハウスから入るのが本当はかっこよかったんだろうけれど。



YouTubeやSNSなどで、いくらでも無料のプロモを見ることができるようになったぼくは、音楽にしても書籍にしても、かつてと同じように「無料」という門戸から入って、知り、買う……。

ケーブルテレビにも視聴料がかかっていたから、正確には無料じゃないんだけど。

ま、ネットだって使用料を払っているわけで……と、エクスキューズを取り回す。

同じ、同じ。



ただ、ひとつ、違うこともある。

昔のPVは、検索して見たいモノを見るのではなく、向こうが流してくれるものを順番に見ていたから、H jungle with Tにしても、モーニング娘。にしても、いつしか歌詞を暗記してしまうくらいに、よく見た。

今は、ぼくは、検索をするので、見たいものしか見なくなってしまった。

能動的に生きられるようになったのだ。

いいことであるけれど。

能動的な情報収集は、受動的な情報収集には、「広さ」という意味ではかなわない。押しつけられた情報の中に、輝く「まさかの出会い」があった。

「深さ」ばかりを知り続ける毎日がちょっとずついやになってきてはいる。




結果、ぼくは、今、ラジオをよく聴くようになった。

ラジオでは、聴きたくもない曲が、聴きたい曲と共に、ずっと流れている。これは本当に効率が悪くて、ちっとも情報が深まらない。

けれど、その広さが心地よくなってきたのだった。



昔、NHK_PR1号が、「ツイッターはラジオに似ている」的なことを書いていた。その意味は、「DJと視聴者とのやりとり、リスナーからのお手紙をDJが読む的な関係」にあったのだけれど、ぼくは今、別の意味で、「ツイッターをラジオとして使うとおもしろい」ように思い始めた。

リストにこだわりすぎるのをやめようと思う。

もっとタイムライン全体をぼうっと眺めてみようと思う。



「思いも寄らなかった領域との出会い」が、自分の20年後を支えているかもしれない。例えばぼくにとって、Bloodthirsty butchersというバンドとの出会いは、まさにそうだった。

ネット検索でブッチャーズに出会ったところで、まず、いい曲だなんて思わないだろう。ぼくはケーブルテレビが暴力的に押しつけてきたブッチャーズのおかげで、今、心の一部を保っているのだ。

2017年6月16日金曜日

病理の話(90)

がん、とひと言にまとめても、胃がんと肝臓がんと血液のがんと皮膚がんでは、細胞から、しみこみ方から、何もかも違うのである。

「がんは命に関わる」という共通点がある……けれど、逆にいうと、それくらいしか共通点がない。

「食べ物は食べられる」くらいの意味でしかない。リンゴはアップルパイになるけど、だんごはアップルパイにはできないのだ。名前はほとんど一緒だけれども。




似たようなことを、病理の視点から、よく考える。考えてくれと頼まれる。




たとえば、「肝炎ウイルス」というのがある。B型肝炎とかC型肝炎という言葉を聞いたことがある人もいるだろう。

これらに感染すると、肝臓に「炎症」という名の、どったんばったん大騒ぎが起こる。

肝臓の細胞が壊されて、すかさず体はそこを修復しようとがんばる。

破壊と再生が繰り返される。すると、肝臓は、だんだん荒廃してしまう。端的に言えば、「硬くなる」のだ。線維が増えて硬くなる。

ちょうど、傷跡のかさぶたをめくり続けていると、そこがだんだん硬くなって、痕が残ってしまうように。線維化(せんいか)という現象が起こる。

完全に荒廃してしまった肝臓を、「硬変肝」と呼ぶ。名称としては「肝硬変(かんこうへん)」の方がよく用いられる。



さて、先日より取り組んでいるテーマはこの肝炎とか肝硬変だ。

実は、肝硬変というのはすべてウイルスが原因で引き起こされるわけではない。

脂肪沈着・脂肪肝が原因の、肝硬変というのがある。

自己免疫性肝炎という病気によって肝硬変になることもある。

これらは、ぜんぶ、「肝臓が硬くなり、荒廃してしまう」のだけれども……とても細かい話をすると、「硬くなる様式が違う」のである。

具体的には。

ウイルス性肝炎、特にC型肝炎のときには、肝臓の中に、ビルの鉄骨みたいなぶっとい線維がばんばん張り巡らされる。

これに対して、脂肪肝とか脂肪沈着が原因の場合には、線維が張り巡らされるというのは一緒なんだけれども、「ルパン三世が金庫室に忍び込むときに赤外線のセンサーが縦横無尽に行き渡っているようなイメージ」の線維化が起こる。

線維の太さが異なるのである。



ひと言に「硬くなる」と言っても、鉄骨ばんばんと、赤外線センサーびゅんびゅんとでは、その硬さのイメージが違う。触ってみても違う。超音波で見ても違う。血液検査も微妙に異なってくる。

こう考えてみれば当たり前のことなんだけど……。

これらの違いを、しっかりイメージするというのが、実は極めて難しい。


その難しい「違い」を、言葉を並べて延々と説明するよりも、もっと簡単に見極める方法がある。

それが「顕微鏡で肝臓をみてみる」ということなのだ。



肝臓すべてを顕微鏡でくまなく見る必要は無い。肝臓の一部、60000分の1くらいのわずかな量を、「味噌汁の味見をするように」ちょっとだけ採ってきて、顕微鏡で見る。

するとそこには、鉄骨とか鉄骨になりかけているやつ、赤外線ビームとかビーム寸前のやつ、などが、ちらほら見えてくる、という寸法である。



病理とは「やまいのことわり」と書く。それだけに、「なんで? どうして? どこが違うの?」のような臨床の質問(クリニカルクエスチョン)に、なんとか答えることができる……。

できたらいいな……

できるかもしれない……

まちょっと覚悟はしておけ、ということになる。

2017年6月15日木曜日

途切れた日の話

書き終わったブログの記事をまるっと消した。

タイトルは「途切れた日の話」で、今年のはじめころにぼくがすっかりやられてしまったときのことを書いていた。

けれど、書き終えて、読み終わって、ちっともおもしろくなかった。だから消してしまった。


もう20年ほど前になるが、自分でホームページを作っていたころは、書いたものはすべてネットに載せていた。妙に浮かれた日もあれば、中二病そのものの落ち込み方をした記事もあったと思う。

読み返すことはほとんどなかった。バックナンバーだけがどんどんたまっていった。

300、500と記事が増えて、700くらいになったころ、大学院に入ったあたりで、更新がなかなかできない日が続いた。そして、あるとき、自分でもすっかり忘れてしまっていた記事を、いちからすべて読み直してみようと思いついた。

20個くらい読んでやめてしまった。

ああ、何かを書き続けて、それがログとしてずっと世の中に残って、それでもまだ読まれ続けている人と、自分とがどう違うのだろう、そう考えて、思い至ることがあった。



暗すぎるとだめだな。

明るすぎてもだめだけど。

ほどよい中間の、というか、中盤をしっかり守るボランチみたいな文章をきちんと書いている人の話は、いつ振り返っても、どこからでも読み直すことができて、その都度新しい発見があるけれど。

どこかに向かって尖ろう、尖ろうとするあまり、横も後ろもなんにも見ていない、二世代前のVRみたいな残念な一人称視点の話というのは、とかく、読みにくい。



さっき書き終えたブログの記事は、そういう記事だった。




ふと足を止めて、周りを見回して、鳥の鳴き声を身にしみこませたり、遠くの山を写真に撮ってみたり、足下のタンポポをよけてみたり、そんなかんじの、「静かにきょろきょろしている人」くらいの文章に、ぼくはあこがれるし、そういうのを書こう書こうとこれから20年やってみて、ようやく誰かに読んでもらえるものができるのかもしれない。

2017年6月14日水曜日

病理の話(89)

先日、内視鏡(胃カメラ)の医師4名と、定山渓温泉で合宿をした。ぼく以外にも病理医が1名参加したので、合計6名。

内視鏡医たちは、胃カメラの写真をいっぱい持ってくる。

映り込んでいる病気をみて、これはどのような病気なのか、そもそも病気と考えてよいのか、がんなのか、がんではないのか、がんだとしたらどれくらいのサイズなのか、どこまでしみ込んでいるのか……。

胃カメラドクターたちが激論を交わす。

そして、採られてきた病気に対して、今度は病理医が、顕微鏡像の説明をする。

なぜこの病気は、胃カメラであのように見えたのか。

プレパラートをPCに取り込んだ「バーチャルスライド(VS)」というシステムを使って、細かく対比をしていく……。


ぼくはこれらのディスカッションを、横で聞きながら、ずーっとPCを叩いていた。会議録を残すためである。

専門的な会話は、医学系出版社の編集者であっても、文字起こしが難しいときがある。だから、胃カメラと病理、両方の話がまあまあわかるぼくが、記録役を担当する。



定山渓温泉、と言いながら、風呂にも入らず、やってきた服のままで、ディスカッションは深夜に及んだ。

今ぼくは、書き上がった原稿を眺めている。

実は、ぼくもそこかしこでしゃべっている。書記役ではなく病理医役として参加しているのだから当然だ。

自分のセリフについては、しゃべりながら自分でキータッチをするのが大変で、さすがに自分では全て記録しきれておらず、編集者さんに録音から文字起こししてもらった(ありがとうございました)。




読んで、思ったことがある。

うわぁ、ぼくの病理の説明、長いな……。

必要なことをきちんと、丁寧に、正確にしゃべろうとするのはまあいいんだけど。同じ内容をくり返し語って冗長になっていたり、一つの文章の中で結論が二転三転したり、文字にすると、とてもわかりにくい……。



「文字にすると」? そうなのだろうか?

実際、聞いている方は、理解するのが大変だった、ということはないだろうか? あのときみんなは、どういう表情をしていただろうか。

うーん……。



病理医が、あれもこれも伝えようと、思い悩みながらしゃべること自体を「悪」とは思わない。

思い込みや自分の意見を語ってはいけない、わけでもない。

レポートを全部英語で書くことにこだわる病理医もいるし、論文化したデータ以外は絶対に口にしないと決めている病理医もいる。表現の仕方はさまざまである。みんな、それぞれに、一家言があり、自分のやり方に思い入れもあろう。

しかし。





ぼくは、病理医を言い表す言葉としての「ドクターズ・ドクター(医師のための医師)」という言葉があまり好きではない。むしろ嫌いである。ドクターということばを敬称のように用いるのがまずあまり好きではない。「先生」とは、研修医ひとりひとりの名前を覚える気が無い看護師が、毎年入れ替わる初期研修医をひとからげにして呼称するのに便利な、蔑称にすぎないとさえ思っている。

ただ、「ドクターズ・ドクターの理念」はわかる。

普通の医療者が、患者を相手に、説明や納得を得ることに腐心するのと同じくらい、病理医は(患者を相手にしないかわりに)医療者に対して説明をし、納得を得ることに腐心する。

普通の医療者のお客さんは患者。

病理医のお客さんは医療者。

普通の医療者が、少しでも患者がわかりやすいように話そうと工夫を凝らすのといっしょだ。「医療者がわかりやすいように話す」というのは、「病理医が職務としてやらなければいけないこと」である。やったほうがいい、とか、できればベター、というレベルの話ではない。絶対にやらなければいけないことだ。



ふだん、臨床医相手に会話をしていて、たまに、わかりやすいとか、おもしろいとか、言われて少し調子に乗っていた気がする。

ぼくのしゃべる言葉は、文章にしてみると、そこまでわかりやすくはないぞ。

少なくとも、文字起こししたものを見る限り、ぼくの言葉は、誰よりぼくが聞いてあまりわかりやすくないぞ。



これは一大事だ、と、思ったのである。職務に必要な能力をもっと磨かなければいけない。

人それぞれであろうが、ぼくが今やっている仕事に対して、もっとも必要な能力とは何か。それは、情報処理能力と、コミュニケーション能力なのである。

まずいまずい、コミュニケーション能力を磨かないと……。

2017年6月13日火曜日

大人論を語るのは全員子供

仕事の合間に本を読んでブログを書いて、3DSやswitchをやって、あまり運動はしていなくて、外食はコンビニ系が多くて、という今の生活、たぶんぼくが高校生くらいの時に思い描いていた理想の生活なんだけど、それはなぜかというと、とりあえず、

「自分のやったことが自分の責任のもとに自分に結果として返ってくるということ」

が守られているからであって、ああ、大人になってよかったなあと思う。



昔から、自分で考えたことを自分で実行しても、何かやらかしたときにほかの大人が責任を負わなければいけない状態というのが、なんだか申し訳なくてしょうがなかった。

たとえばこの受験に落ちたら親が悲しむんだろうなあ、みたいなことが激しいストレスとなって首の痛みを引き起こしたりしていた。



今、ぼくが何かやらかしたら、ぼくがひどい目にあうので、ぼくはやらかさないようにしようと思う。

今、ぼくが何か失敗したら、ぼくが悲しい思いをするので、ぼくはなるべく失敗したくないなあと思う。

これらの思考が「あたりまえ」になるのに、ぼくの場合、生まれてから24年ほどかかり……。

いや、24年ではすまないな。

医師免許をとっても、最初から医師として責任もって働けるわけではなかったし。

大学院でちっとも研究がうまく行かない時期も、所詮は大学院生だったわけで、指導教官の評判が落ちるだろうなあというのを申し訳なく思っていたし。

病理専門医を取るまでの間、全ての診断はボスのチェックを終えてからじゃないと出すことができなかったし。



……今でも、診断はダブルチェック(自分が見たものを誰か他の人にチェックしてもらう)だけど、かつてに比べると、だいぶぼくは、自分の仕事、自分の言葉に、自分ひとりで責任を負わなければいけないようになった。

まだ医師15年目だけど。そろそろ、ひとりでしっかり責任をとる場面も出てくる。



ぶっちゃけ、この瞬間を待っていた。ずうっと、待っていた。

責任は重いし取りたくない。けれど、自分のした何かのせいで、ひどく重い責任を、誰か他人、それも大事な他人に負わせなければいけなかった、今までのほうが、ずっとつらかった。



そうか、ぼくは、だいぶ大人になりたかったんだなあと思う。

2017年6月12日月曜日

病理の話(88)

病理学会の「社会への情報発信委員会」というのに参加することになり、こないだから「CCメール」がいっぱい回ってくるようになった。

今は、一般向けの「病理の告知動画」というのを作っていて、いかにも大変そうである。途中から参加したのであまりエッジの利いた関与ができていない。早くひっかきまわしたい。

「教授」であり「えらい」はずの人が作った、動画の絵コンテを、「もっと偉い」ひとたちが、「理事会」を開いて注文をつけている。申し訳ないが笑ってしまった。

社会への情報発信委員会の中だけでは完結できないんだなあ。いちいち拡大常任理事会にかけなければ広報できないのか……。

気持ちはわかる。しかし、この時代にそのスピードでは、刻々とうつりゆく社会の「ウケるポイント」を掴みきれず、動画の方向性もなかなか定まるまい。

あきれて眺めていたのだが、そのうち、少しずつ、ぐぐぐっ……と感じることがあった。何かがわいてきた。



そうだよな……、病理とひとことに言っても、当事者によっていろいろな「病理の仕事」があるよな。えらい人や年を取った人には、今までの輝かしい人生の中で、これと信じてやってきた道があるだろうし、病理をはじめたばかりの研修医がもっている病理のイメージも、ふわふわかもしれないが、きちんと像を結びはじめてはいるだろう。

老若男女それぞれが、みんなにもの申したい「俺はこんな仕事をしてるんだぜ」という像がある。

普段、誰に見せびらかすでも無く、ほこりをもってやっている仕事に、自分の心のなにがしかを投影して、まるで毎朝鏡を見てから出勤するときのように、「よし、今日もしっかりやっているな」と、自分に言い聞かせる、何か。



そこへ飛んで出た「動画作成事業」に、理事会のお偉方も、教授陣も、若い広報担当たちも、きっと今まで静かに秘めていた「病理とは、かくあれかし」みたいな像をぶつけているのだ。

動画の方向性が定まるわけがないのだ。

元気玉みたいに、みんなのエネルギーが集まるのをじっくりと待って、大きく育てて、ぶっぱなさないといけないものなのだ、学会とか学問を「広報する動画」なんてものは。

そう考えるに至って、ぼくは、委員会が迷走しているのではなく、むしろ我慢強く、みんなが納得できるような姿を求めて大人の耐えしのびをやっているのだなあと、気づいた。




人臭くておもしれぇよな。ぼくもこれから、とても広告代理店の皆様方にはお見せできないほどの、どろくさい広報とやらに本腰を入れて取り組むことにしようと思います。


一度、ツイッターでやろうと思っていたくらいだから、ぼくにだって、一家言はあるわけですよ。

2017年6月9日金曜日

おさむの予測変換で治虫が出てくることのすごさを噛みしめる

ここ数回の記事を書いている最中に思ったのだが、病理の話と言いながら必ずしも病理の話になっていないし、病理の話とタイトルに付けていない回でも病理に触れていたりしている。

そうだな、病理医なんだから、書く内容は毎回どこか病理医からの視点ではあるわけだし、病理の話とそれ以外、と、話をきれいに分けられるものではないよなあ。

そんなことを考えていた。


……けれど世の中にはすごい人がいて、自分の得意な領域とか専門としている分野をいくつも持っていて、その分野ごとに違うテーマで、違う読者層を相手に、ものを書いている人などというのもいる。

その代表は「手塚治虫」だと思う。

少女マンガも書けるし。子供向けも書けるし。エロも行けるし。


手塚治虫の絵というのは、どれもこれもぜんぶいっしょだ。「あっ、手塚治虫だ」とわかる。

しかし、ターゲットが違うと、ストーリーが変わり、コマ数が変わり、(マニアックだが)登場人物の表情の変化率が変わり、背景の書き方やセリフの量などもすべて変わっている。



一見しただけで「あっ、手塚治虫が描いてるな」とわかるほど特徴があるのに、読み進めていくうちに、「絵柄が同じであるにもかかわらず、描き方が違うとしか言えない」処理がされているのが、ほんとにすごいと思う。



ぼくは、病理の話を書くときも、それ以外のことを書くときも、たぶん句読点の打ち方とか、こまかな言い回しとか、脳内にある風景を展開するときの視点の高さとかはほとんど変わっていないのだろうと思うが、そこを変えずになお、ターゲットに応じて、受け取り手がよりわかりやすいような文章を書けるのだろうか……。

そ、そんなこと、無理なんじゃねぇのかなあ……。




ということでこんどから、ぼくは、こどもむけにかくことに、しますね! やんでるおじさん と よんでね!

2017年6月8日木曜日

病理の話(87)

医学部の6年間、どのように学ぶかというのは、大学によって少しずつ違うようだが、最初に学ぶ「医学らしい講義」は解剖学である事が多い。

このことは、部活・サークルの先輩からの「申し送り」でもよく触れられる。



ホワン ホワン ホワン メムメム~(回想に入る音)



「まずは解剖からだなーがんばれよー後輩ー」

「はいがんばります!」

「まあノート貸してやっから」

「はいありがとうございます!」

「でもな、ほんとは解剖ってな、卒業して10年くらい経ってから、すげぇやりたくなるんだと」

「どういうことすか」

「いや、つまりな、医学部の2年とかでやるけどさ、どうせ卒業するころには忘れちゃうんだよな」

「そりゃ普通そうでしょうけど」

「でも、忘れてからしばらくして、あっ、もう一回、今こそ解剖やりてぇ! って時期が来るんだと」

「ま、マジすか」

「現場に出て、はたらきはじめて、医学とか医療のことがだいぶわかるようになって、はじめて『あっ、あそこの血管をすげぇ見てみてぇ!』ってなるんだって」

「はあ、血管」

「ほら、はあ血管、ってなるだろ。それが普通だよ。解剖っつったらさ、普通はさ、心臓がどうとか、肺がどうとか、筋肉がグロいとか、そういうイメージじゃん」

「ていうか系統解剖ってそういうもんじゃないんすか」

「いやな、現場で働き始めるとな、どこに何の臓器がある、みたいな『医療者の常識』レベルの解剖知識じゃなくて、もっとすげぇマニアックな、血管や神経の走行とか、胆管と門脈と膵臓の関係とか、尿管と後腹膜の関係とかさ、どの動脈がどこから分岐して、それにはどれだけのバリエーションがあるとか、そういうのをめちゃくちゃ知りたくなるんだと」

「なんすかそれ」

「胸腔内穿刺するならこことここを避けなきゃだめだ、それはここに神経が走っているからだ、とかさ」

「ま、マニアック……」

「そうなんだよ……」


メムメム~



で、まあ、なんかみなさん見飽きたであろう「会話形式」のブログを書いてまで何を伝えたかったかというと、

「病理学」

というのもまさに解剖学と一緒なのである。

学生時代に学ぶ病理学は、医療のことも医学のことも事実上なにもわかっていない素人に、「学問としての医学」を叩き込むついでに教え込まれるもので、それはもちろんすごくアカデミックで重要な情報をいっぱい含んでいるんだけど……。

病理学つまんね、病理医になんかなんね、そう心に決めて臨床医になった人のうち、実に1/3の人々は、10年後、15年後くらいから急に病理を学びたくなってしまうのである。たとえば、がん診療に携わる人。放射線科で診断をする人。とにかく手術をする人。今あげた人々は、必ず言うのだ、「病理をもっとちゃんとやっておけばよかった……」。

正確には、学生時代の純学問的な病理学をいくら極めていても、臨床医になって10年もすると、もっと「実践的な病理」を学びたくなる。




病理学は、細胞がどうとか、核がどうとか、顕微鏡で見てどうとか、遺伝子変異がどうしたとか、メチル化がどうしたとか、そういう話がとにかく「すべてのキホン」なのだ。けれど、あくまでこれらは「とてもたいせつなキホン」に過ぎない。

解剖学で、学生時代には気にも留めなかった血管の走行が、臨床医になってから妙に気になるのといっしょで。

病理学では、学生時代大事だと思っていなかった「病気の肉眼的な形状」とか「細胞どうしの繋がり方」とか「腫瘍の周りに起こっている間質の反応」などが、臨床医になると途端に見てみたくなるのである。知りたくなるのである。



今、書いてて思ったんだけど……。


勉強には、「何の役に立つかわからない時期の勉強」と、「役に立てようと本気になっている時期の勉強」とがあって、それぞれの時期で学べる内容ってのはだいぶ違うんだよなあ。

そのことを知っていて、なお、「学生時代の講義をおもしろくできる人」というのがいたら……。

その人はきっと、とてもすごい人なので、ぼくは、そういう人の講義を聴きに行ってみたいなあと思うのだ。

幾人か心当たりがある。来年あたり、潜り込んでみようと思っている。

2017年6月7日水曜日

マッチングを2倍にしたらママッッ

この間から「人事」のことを考えている。人事という文字を見続けてゲシュタルト崩壊したあげく、「人妻」に見えてしまうくらいには脳が疲れている。

偶然ではあるが、人事と人妻、この2つの言葉には、共通するニュアンスが秘められている様に思う。あるいは、言葉がもつ「言霊」的なものがちょっとだけ似ているように思う。

多分にぼくの個人的な印象でしかないが、両方とも、「あなたのためだ、と言いながら、実はわたしのためでもあるんだよね」というニュアンスを潜在的に秘めているように感じる。

いい意味、悪い意味、どちらでもない。

人事とは、「ひとを扱う事」であり、雇われる人のためという雰囲気をかもしだしつつも、実際には「雇う方がこれから楽に仕事をするために他人を配置しよう」というはたらきのこと。

人妻とは、「ひとの妻である」と従属するような雰囲気をかもしだしつつも、実際には主従関係を望むわけではなく、「自分の人生をよくするために、誰かの伴侶である状態を選んだ人」のこと。


ここには、あやうさが潜んでいる。

人妻の話をしたいのはやまやまだが、今日は人事の話をしたい。あやうい人妻の話とは最高に魅力的ではあるが、あやうい人事の話を書く。もっと具体的には、リクルートの話、新人採用の話について書こうと思う。ぼくは病理医だから、これから病理医になろうと思う若い研修医をリクルートするときのことを例にあげる。



新人採用人事を巡るよしなしごとにおいて、一番状況を複雑にしているのは、先ほど少し書いた「あなたのためだ、と言いながら、実はわたしのためでもあるんだよね」という、建前とホンネの関係ではないか。

より悪意を込めて書くならば。

「立場を盾に取りながら、やっていることは結局個人的な都合の押しつけ」という人事が多いように思うのだ。




若い研修医が、将来、病理医になりたいと言っている。ありがたいことだ。さあ、どこで研修をしたらよいだろう。相談を受ける。

ぼくは、若い人に、

「うちに来てくれたら助かるなあ。うちも大変なんだ。がっちり指導するから、5年くらいで即戦力になってほしいなあ」

と言う。

すると、若い人は、

「5年ですか……できれば10年くらい、がっちり勉強をしたいんです。だいいち、5年で一人前になれるものですか?」

と不安になる。

「まあ、無理だよね……。だったら最初はうちじゃないほうがいいかなあ。うちは、ある程度病理の基礎ができている状態で来た方が、効率的な勉強ができると思う」

と、返事をする。研修医はうなずく。

「こないだ見学した病院では、いろいろな関連病院を回りながら、じっくり10年くらいかけてやりたいことを探せばいい、と言われました。そこで勉強して、一人前になってみせます。ぼくが一人前になったとき、先生の病院の枠が空いていたら、やとってくださいね(笑)」

「そうだね。がんばって」





「いろいろな病院を回りながら」ね。

それ、指導側の都合なんだよね。

指導医の数とか、症例数が、足りないと、ひとつのところでは指導がしきれないんだよね。

正直に、「うちの関連病院はどこも人が足りないから、あちこちでこきつかわれると思うけど、人脈が広がるし、症例数も手にはいるよ。そういう教育でよければ、うちにおいでよ」って言えばいいのに。




建前がだめでホンネがいいと言いたいわけではないのだ。

そうじゃなくて、ニュアンスがちょっとずつずれるようなリクルートをしていたら、「欲しい人材」と「働きたいと思っている人」とのマッチングも、ちょっとずつずれていくんじゃないのかなあ、と思っているのだ。

うーむ。

正直なだけでは、人は集まってこないよ、って? そりゃそうなんだけど、なあ。

2017年6月6日火曜日

病理の話(86)

最近あらためて思うこと。

臨床医が病理医に期待していることの多くは

「決めてほしい」

であるなあ、ということ。



病気の一部を採取してきて、がんか、がんではないのか、「診断名を決める」。

がんだとしたら、どういう種類のがんなのか、どのような治療が効くと予想されるのか、今後これがどのように育つのか、「詳細な分類を決める」。

画像で見えた病気が、「なぜこのように見えたのか」を、組織像を見て考えて、「画像の理由を決める」。

ある遺伝子変異があるとなぜ病気につながるのか、「メカニズムを決める」。



医療の現場において、決める、という作業は、ときに、残酷だ。



臨床医は、患者さんに向かって「あなたはこうです。」と断定することに大きな困難を感じるのだと言う。医学的にはいろいろな可能性が考えられ、確率とか統計の話をしなければいけないシーンでも、どこかで「決めて」話さなければ、患者と医療者の二人三脚は完成しない。

どこかでぐっと決めて踏み込まないといけない場面がある。

でも、医療とは本質的に、推測の技術である。「未来に少しでも長く生きられるように」「今後すぐ命が失われることのないように」「これから少しでも楽な生活ができるように」と、まだ定まっていない将来の話ばかりをターゲットにして、今どのようにかじ取りすればよいかと推定していくことこそが、医療なのだ。「予言」とか「予報」的な性質が強い。

そして、医療は、あやしい予言とは違う、あたらない天気予報とも違う、少しでも確度の高い予測をするために、統計学を持ち出し、疫学を振りかざし、エビデンスを装備する。

簡単には「決めきれない」。けれど、誠実でありたい。これが医療だ。




でも。

患者は、決めてほしい。

可能性とかいう言葉でお茶をにごさないでほしい。

決めきれない医療者は……医療者も……、内心、こう思っている。

「おれだって可能性とか確率の話なんざしたくねぇよ、あなたは100%この病気ですとか、これやったらスッと治りますとか、言えるものなら言ってみてぇよ!」




患者も、医者も、内心、医療の世界に「ビシッと決まる推測」があるなんて、ほんとうは思っていない。





そこに病理診断が出てくる。「細胞を見てるんだから、決められるでしょう」。期待がかかる。細胞の「良悪」どちらかは決めてくれよ。がんか、がんじゃないかを、決めてくれよ。

画像でなぜ造影効果に差があったのか、決めてくれよ。へりの部分と真ん中の部分でタンパクAの発現量が違う理由を決めてくれよ。がんの背景粘膜に起こっている所見との因果関係を決めてくれよ。

生きるか死ぬかを、決めてくれよ。




そのつらさを共有しながら、「ここまでは言える、ここまでは確定できる、ここから先はわからない」というラインを、医療者や患者と共に、引き直す。

できれば、細胞を採った分……検査がひとつ増えて大変だった分くらいは、確定ラインを先に進めたい。

採った検体を様々に活用する。Deeper sectionの作成、特殊染色や免疫組織化学のオーダー、遺伝子検査へつなげるかどうか……。

全部決めるなんて無理だよ、そう言いながらも、心のどこかで、「臨床医よりもう一歩だけ深く結論を出せるだろうか」と、争うように、煩悶する。

ぼくらの口から出た言葉が、「決まった」「決められなかった」のどちらになるかはわからないけれど、「決めてくれよ」と祈った人がいたのだということを知ったうえで、決めに行くのが仕事なのだ。

ちょっとだけフォワード感があるなあ、と思う瞬間でもあるのだ。

2017年6月5日月曜日

Can no say

気持ちのいい天気が続いている、と書こうと思ったが、これを書いている日の朝のニュースで「全国的に雨不足、農作業に懸念」と言っていたので、うーん、天気がいいって話だけでもナイーブになっている人はいるからなあ、と思って、書くのをやめようかと思った。いったん書こうと思った話をやめにする、という内容の話でスタートした記事を作成している途中、いったん書こうと思った手紙を事情あって破り捨ててしまったばかりの人が読んでつらい気持ちになっては申し訳ないと思うし、いったん書こうと思った話をやめにするのも人を傷つける可能性があるなあ、と思ったので、この話をやめるのをやめにして、やはり書くことにする。書くと思ったけど書くのを辞めたけど、でもやっぱり書くことにした、という右往左往を読んでいただいている最中ではあるが、以前に読んだ「病理診断の書き方」みたいなコラムの中に、「ひとつの文章の中に ~~ですが、~~ですが、~~、のように、何度も何度も意図をひっくり返すととたんに読みづらくなるから、可能性を列挙するのはいいけれども書き方には注意せよ」とあったのを思い出したので、あまり左右の考え方の間でぐらぐら揺れるような文章を書いてしまうと、読み手の脳に負担を与える可能性があるなあ、と考え直し、やはりこの文章を衆目に晒すのはやめようかなあ、と思い始めたところで、可能性という言葉が2連続で登場したことに気づき、いけないいけない、同じような言葉を連続して使うと読み手がひっかかるから、記事を作成している途中ではあるが、読んでいただいている最中でもあるけれども、あまり同じような言葉を連続して使って読み手をひっかからせるようなことはやめた方がいいなあと思い、書くと思ったけど書くのを辞めた記事をやっぱり書くことにした右往左往を読ませるのはやめようかなと書いて読んでいただこうと思った記事を公開するのをやめようかなあ、と思っているのだが、月曜日の朝だが、ここで公開しないと楽しみにしている人も多いだろうが、このままどこに着地するかを楽しみにしている人もいる可能性があると思い、公開することにする。

2017年6月2日金曜日

病理の話(85)

伝わるレポート・伝わらないレポートということを日々考えていると、意思疎通の際に重要なのは「お互いに歩み寄ること」だなあという当然の結論が、毎回チラチラ脳内で踊る。


たとえば、臨床医が「がん」だと思って採ってきた、小指の爪を切ったかけらよりもまだ小さいカケラに、がんが含まれていなかったとき。


「検体内にがんは含まれていません」とレポートを書くと、この言葉、受け取り手によって様々に拡大解釈される。

ある人はこのレポートを読んで、

「検体内に含まれていない、ということは、検体の外(採らなかった部分)にはがんがあるかもしれないんだな」

と受け止める。また、別の人は、

「なんだこの人はがんじゃないのかー」

と納得してしまう。


これらは似ているようで、まるで違うのだ。前者は、たとえば、がんだという確定診断を付けていないままに手術に臨んでしまうリスクを負っているし、後者は、たとえば、がんなのに検査をやめて放置してしまうリスクを負っている。


だから、病理医は、自分の書いた言葉が勝手に拡大解釈されては困ると、いろいろなコメントを付けることになる。その最たる言葉が、

「臨床情報とも併せてご検討ください」

である。


病理だけで話を全部決めつけてはいけないよ。臨床情報と照らし合わせることが必要だよ。毎回のようにこの言葉を添えて投げ返す。


けれど、やっぱり、ぼくは、この言葉だけで投げ返したところで、十全のコミュニケーションというのはできないだろうなあ、と思っている。


言葉というものは、連続して使えば使うほど、ありがたみが薄れてしまうものだ。病理レポートを書く度に「臨床情報と併せてご検討ください」と付記していれば、いつしか言葉は形骸化する。

ああそうだねわかってるよ、と、既読スルーされてしまうケースも増えていくように思う。



ぼくは臨床医が書いた依頼書を読んで、分からないことがあったとき、まず自分で調べて、内視鏡やCTの画像も自分で見てみて、この臨床医が何を知りたがっているのか、思考をトレースすることにしているのだが……。

基本的に、自分の脳内だけで相手を勝手に「予測」することは控えて、なるべく電話をするようにしている。

「先生、依頼書に『がん疑い』とお書きになってらっしゃいましたけれども、この人、ほんとうにがん疑いなのですか?」

たいてい、ぼくの想像と9割方同じ、つまりは1割「も」異なる声が聞こえてくるのだ。

「ええ、がん疑いなんですよ。患者さんにもボスにもそう言って検査に入ったんですけどね。でも内心ぼく、良性なんじゃないかと思ったんですよね。根拠は書かなかったんですけど、実は拡大内視鏡でこの所見が……」

がんを疑って採られた検体であれば、ぼくは無意識に、プレパラートの中にがんを探しに行く。

でも、がんじゃないかもしれないぞ、と思って採られた検体だと、プレパラートの見方は微妙に異なってくる。

話が違うのだ。おおっ、となるのだ。

ちょっとギアを変えないといかんなあ、となるのだ。




もちろん、常日頃から、臨床医の言葉がどのように綴られていても、プレパラート内にすべての世界を読めるように訓練しておくのが、病理医としてはベストな働きかたなのだろうな、とは思う。

けれどぼくはベターでもいいから、臨床医たちに教わりながらいっしょに仕事をするほうでありたいのだ。

同時に、自分の書いたひと言は、おそらく9割は伝わるだろう、1割はたぶん伝わらないな、と思っている。



言葉というのは難しい、慎重に書こうが大胆に記そうが、必ず「自分の意図、欲望、バイアスを乗せて、自分の読みたいように読み取ってしまう人」というのがどこかに現れる。

ぼくらはみな、自分とフィットする文字を、視界のどこかに探しながら日々を暮らしている。

それは病理診断の報告書であっても、一緒なのだ。だからこそ、読み手がいつも誤読するものだ、表現は必ず最後までは伝わらないのだ、と、肝に銘じてコミュニケーションしていかないといけないだろうなあ、と思っている。

2017年6月1日木曜日

ピコピコ招宴

ノスタルジーを楽しむというのはわりと普遍的な感情じゃないのかな、と思うのだけれど(普遍的という言葉が合ってるかどうかはおく)、中でもゲームの音楽というのは個人的にかなりツボなのである。

ゲームを全くやってなかった人は、昔の何を思い出すのだろう。風景? 音? におい? 風の肌ざわり?

ぼくは、ゲームをどこで誰とどうやっていたかはそこまで深く覚えていないのだが、とにかくゲームのピコピコ音をよく覚えている。

ファミコンソフトを買った順番に言える。

忍者じゃじゃ丸くん、ギャラガ、サッカー、スーパーマリオブラザーズ、本将棋、計算ゲーム、ハイドライド・スペシャル、ドラえもん、新人類……。

ぼくはこれらの音楽をほとんど覚えている。本将棋の場合は音楽というより「待った!」の音声だけど……。あと、ハイドライド・スペシャルだけは音楽を覚えていない。かわりにはじめからLV9になるパスワードを覚えている。「AQEG6BBAGMB2B4」である。



なんだろう、音の力ってこういうことなんじゃないのかなあって、けっこうおおまじめに思っているのだ。

人間の記憶の仕組みというのは完全に解明されていない。

長期間に亘って決して脳から離れない記憶なんてのは、どういうメカニズムで脳に定着しているのだろうか。

そもそも、そんなに長い間何かを覚えていなければならないというのは、生存に必要なことなのだろうか?

数十年にわたって脳から失われてはならない記憶というのは、人間という生き物が生存していく上でなにか有利になっただろうか?

細かい会話内容とか、各人との思い出とか、自分の考察内容などは、きっと、せいぜい5年とか10年も使い回せば次のものに更新していけたであろうし、30年以上も覚えている必要性がない。生存に有利なことが特に起こらなさそうだ。

もっとプリミティブな、たとえば、「くり返しさらされ続けた野獣の声」とか、「くり返し安堵を覚えた澤の水音」であるとか、そういう、自分を生涯にわたって安心の方向に持って行く「音」だったら、どうだろう。

いくつになっても、異形を示す遠吠えがすればおののき、そこから離れようとすることは役に立ったろう。逆に、敵がいないことをほぼ確信させる音というのもあったかもしれない。それは火のはぜる音だったかもしれないし、周りに人がいることでわき起こる不思議なリズムであったかもしれない。



ぼくは、音ばかりがこうして30年も残るのにも、もしかしたら何か意味があるんじゃないのかなあと、思っている。

2017年5月31日水曜日

病理の話(84)

病理では細胞の形を診断したり、細胞が作りなす構築を読み取ったりして、その病気がどういうものであるかを診断する。

細胞ひとつひとつを人間に例えるならば、「細胞核を見る」とは「その人の顔や髪型を見る」ようなかんじだ。

髪の毛がすごいリーゼントだとか、金髪坊主でそり込みが入ってるとか、なんかよくわからないものがいっぱいぶら下がっているとき、たいていそいつの素行もよろしくない。核異型を読むとはそういうイメージだ。

そして、人間ひとりを見るのではなく、似たようなヤカラが徒党を組んでどのような悪さをしているのか(細胞がどのような構築を作っているのか)を見るのも大切である。周囲の窓を割ってるとか、いてはいけないところにいるとか。構造異型とか浸潤の有無を読むとはそういうイメージだ。



さて、このような「かたち」を読むやりかたとは別に、免疫染色という手法も用いられる。これは、病理医が用いる追加検査として、もっとも有名な手法である。

細胞が持っているAとかBというタンパクだけを、茶色とか赤に染める。

イキった芸術カメラマンが大好きな撮影方法に、「ルージュの赤だけすごく目立つ、ほかはモノクロの写真」というのがあるでしょう。あのイメージに近い。

「くちびるだけ光らせる」と、「女性であることがはっきりイメージできる」みたいなかんじである。

このとき、リップの部分だけを光らせるために用いる抗体を、「anti-くちびる抗体」などと呼ぶ。アンチとかアンタイと発音する。「α-くちびる抗体」とも書く。



さて。リップを塗っていたら必ず女性だろうか?

つまり、調子こいたモノトーンかっこつけ写真で、くちびるが鮮やかに赤くハイライトされていたら、それは必ず女性だろうか?

ぼくはそうとは限らないと思う。男性かもしれない。



タンパク1個をハイライトするというのはつまりそういうことだ。ナイフを持っていればチンピラですか? いや、それは、コンビニで、フルフェイスヘルメットをかぶって、ふところに、ナイフを隠し持っているというならかなりの確率で不審者だろうけれども、バーミヤンの厨房で、シェフ帽をかぶって、右手にナイフ、左手にパイナップルを持っていたらそれはかなりの確率でコックさんではないか。



免疫染色(本当は免疫組織化学というんだけどここはどうでもいいので割愛)の難しいところは、これである。

光った、光らない、という二者択一でものごとを見たくなるんだけど、実際には、「周りがどういう状況であるか」をきちんと判断してからじゃないと、あるいは判断してからでも、スッと診断を決められるわけではない。

専門的に言うと、「検査前確率をきちんと設定して、その免疫染色の尤度比がどれくらいであるかを考えて、検査後確率を慎重に想定しないと、病理診断はできない」となる。



この世の中にあるほとんどのものは、単一のパラメータで判断することはできない。

「結局、自分が好きかきらいか、だよね。」みたいなまとめで終わるブログがいまいち心に入ってこないのも、同様の懸念がどこかに浮かんでしまうからではないか、と思っている。

2017年5月30日火曜日

かんなんなんじをたまにす をスッと変換できるのはドラえもん読者

感染性腸炎になり、一番ひどかった日はさすがに仕事を早退してしまった。

次の日は出勤した。ただ、周りが気にするだろうなあと思った。そりゃそうだ、感染だったら家に引っ込んでてくれないと困る。うつされたらたまったもんじゃないし。

ということで、翌日のぼくは、マスクと手袋で一日過ごした。なるべく人と接触せず、もとからデスクは部屋の一番奥にあるから、必要のない会話もしないようにして。

キータッチが狂う。

手袋というのは思った以上に動きを変えてしまうのだなあ。外科医は偉いなあ。

「限局性」と入力したつもりが、「げんkちょくせい」になっていた。

あーあー、と思ったところで、ま、試しに変換してみようかなと思って、スペースキーを押す。

すると、「げんkちょくせい」と入力していたものが、きちんと「限局性」と表示されるではないか。

おおーATOKすごいな。そんな誤入力の訂正までしてくれるのか……。



Googleは、検索語句を入力ミスしても、本人がたどり着きたかった結果を表示できるようなアルゴリズムを使っているという。いわゆる「もしかして」というやつだ。

うん、人間のミスを、コンピュータがミスにしなくしてくれる時代なんだなあ。

ぼくはとても感心したのである。



ためしに一つ、誤入力をしてみよう。

「名探偵こんな」と入力して検索してみた。

出てきたのは、


・名探偵コンナン
・名探偵こんなんでました
・名探偵こんなんおかしいやろ

などの、ネタ化された、コナンくんであった。



そこはスッとコナンくんだけ出してくれてよかったんだけどな。

ネタまで察するのは人間にまかしといてくれていいんじゃないかな。

2017年5月29日月曜日

病理の話(83)

生検(せいけん)という検査手法は、そこに何が起こっているのかを知るためにとても便利使いされている。

一番有名なのは、「そこにがんがあるか、ないか」を調べる目的での生検だ。ただ、必ずしも対象ががんとは限らない。

たとえば皮膚炎とか、胃炎などの、「炎症」と呼ばれる病気を調べるときにも、生検が用いられることは多い。

レゴブロックについてくる人形の「手」の部分みたいな、マジックハンドの先っぽをすごく小さくしたやつで、粘膜をプチっとつまんでとってくる。

あるいは、ごく小さな、中空の針を刺して、組織をちょっとだけとってくる。

「ちょっとだけ」というのがポイントだ。



ときおり、学生講義などで、このような話をする。

「仮に、まったく患者のことを考えないでよいと言われたら、一番確実な検査とは、患者の全身を切り刻んですべて調べることです」

……死んじゃうよね。だめだね。そんなことをしたらだめ。だから、こう続ける。

「でも、そういうわけには行きませんね。理想の検査とはすべてを見ることですが、次善の理想というのがあります。それは、一部分を見ることで、全体が予測できるような検査です」

生検はちょっとしかつままない。この「ちょっと」というのがとても大切なのだ。小さければ小さいほど、採取したときの痛みも少ないし、血もあまり出ないし、患者の精神的負担も少ない。


たとえば、肝生検という検査法がある。肝臓に針を刺して、肝炎や肝硬変といった病気がどれくらい進んでいるのかを調べたり、肝臓の中にあるできものの性質を調べたりする。

この肝生検で採られてくる検体の量というのは、実に、肝臓全体の「60000分の1」にすぎない。

たった60000分の1を見るだけで、肝臓の何がわかるというのか?



有名なツイートに、

「選挙の時の出口調査は、お味噌汁の味見をするのといっしょ。味見をするのにお味噌汁を全部飲んだら意味無い。一部飲むだけで味はだいたいわかるよね」

というのがある。ぼくは、検査というのも、これと似たところがあるなあと、いつも考えている。

ただ、ここで大事なのは……。



お味噌汁はきちんとかき混ぜれば、だいたいどこを味見しても同じ成分が含まれている。

しかし、人体とか組織というものは、こちらが勝手に「かき混ぜる」わけにはいかない、ということ。

つまり、「採る場所もきちんと吟味しなければいけない」のだ。これが生検の難しさである。



「がんがありますか?」と書かれた病理の依頼書を見て、プレパラートを見て、がんが含まれていなかったとする。そのとき、病理医であるぼくが、報告書に書くべき内容は……。

1.がんはありません

2.代わりに、○○が採られています

3.この○○が、がんのように見えたのかも知れません

あるいは、

1.がんはありません

2.代わりに採られているのは□□です

3.この□□が、がんのように見えるとは思えませんが、病変の場所がうまく採れていないかも知れませんよ

このように書く。



所詮は一部分しか検討できない生検。しかし、それでも、患者の一部をむしってきたことに変わりはない。がんを狙って採取した標本にがんが無かったとしたら、「がんはないです。おしまい」で終わるのではなく、「なぜそこにがんが採られていないのか」までを解説したいなあと思う。

「全体のごく一部しか見ていないからです」

「採取部位がわずかにずれているのではないでしょうか」

「がんに見間違える可能性がある、別の病気が採られていますよ」



ここまで診断してなんぼだろう、と思うのだ。

2017年5月26日金曜日

かたよりも普通にこしまわりが好き

たとえば、こういうぼくという人間に話しかけてくる人は、多くが「ぼくに話しかけるのが苦にならない人」である。「ぼくに話しかけるのが嫌で嫌でしょうがない人」は、そもそも話しかけてこない。

なんらかの理由でぼくとの会話をこばむ人……それはぼくの年齢や性別によるものかもしれないし、何かからにじみでる信条をおもんぱかられているのかもしれないし、あるいは職業とか人種とか、単に見た目によるものかもしれないが、そういうものをはなから受け入れられない人は、「平和な文脈」でぼくと会話をすることがない。

だから、ぼくが「他人との会話」で得る経験には、さいしょからカタヨリがある。




学生や研修医の教育をしている人にありがちな言動として、「最近の学生は~」論が挙げられる。「近頃の若い人間と話をしていると、~~なところがだめだ」と言うエースやベテランを、目にすることが多い。

こういう、若い人にダメ出しをしたがるタイプの指導者に、わざわざ会話を「してあげる」若者、という時点で、かなり偏っているのではないか、と思う。

「教育の現場で、指導相手を分析してこきおろすのがクセになっている人」なんて、ぼくだったら、頼まれても会話はしたくない。必要に迫られて話すことがあるとしても、要件だけやりとりして、さっさとその場から離れたいと思う。

若者を批判する指導者が、「若者との会話」で得る経験なんて、偏っているだろうなあ、と考えている。




ぼくは日ごろ、そういう「若者を指導しててこんないやな目にあったよ」という指導者たちの話を、しょっちゅう聞く。

ぼくがそういう人たちと「会話をしやすいタイプの人間」なのかもしれない。

ほんとうは、世の中には、もっと「若者を大切に育てていくタイプの指導者」も、いっぱいいるのかもしれないが、ぼくが会話する相手はたいてい、「若者をダメだダメだと否定していくタイプの指導者」なのだ。

そうか、うーん、偏っているんだろうなあと、結論が見えてくる。

2017年5月25日木曜日

病理の話(82)

欧米人、特に米国の医師と、胃や大腸、食道などの消化管の病気について話すとき、日本人が気にかけていることがある。

「アメリカのドクターだ。こんにちは。うーん、きっとこの人も、『日本人は、がんという言葉を過剰に使いすぎている』と思っているんだろうな……」

まるで呪文のように唱えて、「考え方」を向こうに適応させようと努力する。

「まだ人を死に至らしめるまでに5年も10年もかかるような、粘膜の中にとどまっている腫瘍を、『がん』と名付けるのは日本人だけだ。欧米では、こういう病変のことを、がんではなく、異形成(ディスプラジア dysplasia)と呼ぶ。もし国際学会で、安易に『粘膜内がん』なんて言葉を使うと、狭い日本でしか通用しない言葉を使う鎖国地域の人みたいに思われてバカにされる。いやだなあ、気をつけよう」

日本人は国際学会で、とてもナイーブである。うちはうち、よそはよそ、そうはいきませんのよ。




ただ、しっかりと話を聞いてみると、当の欧米人は、「ディスプラジア dysplasiaはがんじゃない」とは言うのだが、「ディスプラジアはがんと違うから、対処しなくてよい」とまでは言っていない。

「ディスプラジアは将来がんになる病変なのだから、場合によってはきちんと対処することで、将来のがんを防止することができる」と言っている。

日本人は臆病で、欧米人はバッサリ、というイメージがあるのだが、実際、欧米人もそこらへんはきちんと思考を尽くしているし、有名な教科書にも、よく読むと書いてある。




医療のゴールをどこに設定するか、という問題をきちんと考えなければいけない。

「欧米人ががんじゃないという病変を、日本人はがんと呼んで大騒ぎする」という言葉は、医療のゴールを「定義」とか「名づけ」に置いた場合の考え方である。

問題は、そこじゃないように思う。



・学者とか医者がこだわることばとか定義うんぬんじゃなくて、将来患者がどうなるのか、それを少しでもよい方向にもっていくためには何が必要なのかこそを、見極めるべきだ

・がんなのか、がんじゃないのか、という言葉の問題で思考停止してしまってはいけない

・ただ、人間は情緒の生き物であるから、自分が将来どうなるかに加えて、自分が今どのような状態にあるのかをきちんと名付けてほしいという欲求だって、しっかりある

・さらに人間は社会の生き物だ。ひとたびがんと名前のついた病気をもつ人は、社会によって保障されなければいけない。だから、「名づけ」を無視はできない

・おまけに人間は科学の生き物だ。遺伝子とか統計などの多角的な情報に基づいて、がんとそれ以外がどう違うのかをきちんと決めていくことには学術的な意味もある

・「がんじゃないから安心だ」というのは呪いのような言葉だ。「がんじゃないのに治療するのは過剰だ」が真実かどうかも、ケースバイケースで考えてみないといけない

・欧米人は言うほどバッサリものごとを切っているわけではなく、きちんとあいまいな部分を思考に組み込んだうえで、「そんなことはぼくだって考えたよ。けど、どちらかに決めないといけないならこっちだ!」という発信姿勢がはっきりしている

・ぼくらの考え方にもいいところがある。彼らの考え方にも興味深さがひそんでいる。欧米人もまた対話を望んでいる。ぼくらはそのやり方を理解したうえで、共感するしないに関わらず、立場を打ち出して議論をしていくしかない






「そんな簡単なものじゃないんだよ」という言葉がきらいである。

ものごとを単純化した先で、ぼくらの情緒が動くことはしょっちゅうあるからだ。

けれど、

「誰かが簡単に批判したり、臆病になったり、後ろめたい思いをしたり、怒り出したりする部分を、もう少し丁寧に掘ってみると、いろいろ見えてくる」

ということは、あるのだと思う。




今回の話はカギカッコが多すぎてごめんなさいね。

2017年5月24日水曜日

アップデートが終わんないところだったよ、あっぷでーなぁ

Windows updateを眺めているのだが、かなり時間がかかっていて、もののブログなどを調べてみたところ、アップデート時にはパソコンの中をチェックする作業が入っているようで、パソコン全体を確認してからインストールがはじまるために時間がかかるのだ、などということが書いてあった。本当なのかどうかは知らない。

しかし、アップデートのたびに自分をチェックするなんて、人間にはとうていできないワザである。

新しいニュース、新しい人間関係、新しいルール、新しい方針が目の前に降ってくる度に、自分の信条、過去あったこと、気質などをいちいちチェックしてから適応しようとする人が、どれだけいるというのか?

そう考えるとWindows updateというのは誠実だなあ、と、すっかり止まってしまった更新画面を眺めながら、思った。



知識のアップデートというのは大変だ。

あるときに自分が見つけた知識が、その後うそだった……うそまではいかないけど、大げさだった、そこまででもなかった、なんてこと、しょっちゅうだ。

ただ勉強するだけではなくて、自分が常識と思っていることが妥当なのかを検証しなければいけない。

けれど、ぼくらは、しばしば、知識のアップデートにおける「検証」をないがしろにして、ただひたすら情報を読みあさっていくことまでで満足してしまうことがある。



20年ほど前、アメリカでは「高タンパク質、メガビタミン、スカベンジャー物質の接種。以上が健康にいい」という説が流行ったそうだ。ぼくは、高校の時に、このフレーズを友人から聞いた。剣道部だったぼくは、筋トレの効率をあげるためにこれらを取り入れられないかと考えてみたのだが、高タンパク質はともかく、メガビタはデカビタCを飲むことでしか達成できなかったし、スカベンジャーに至っては何をとればいいのかわからなかった。

高タンパク質は、現在流行している「糖質制限」とも似た概念だったのかもしれない。メガビタミン(サプリでビタミンをとりまくる)は廃れてしまった。スカベンジャーってのはそもそもなんだったんだ? 今でもわからない。

でも、最初にこれを聞いた高校生のぼくは、「アメリカほど訴訟にうるさい国で流行ってるからには、きっと根拠があるんだろうな」くらいにしか感じていなかった。



今ならわかる。本当に体にいいこと、本当に社会にとっていいことが、「高校の友人から聞こえてくるお得情報」のレベルでしかぼくにやってこないなんてこと、あり得ないのだ。

本当にいいことなら、社会がもっとワッショイワッショイ推進して、公的機関もがっちり金をかけて回収しに回る。

「おばあちゃんの知恵袋」が役に立つのは、おばあちゃんの知恵が家庭で達成される「小さな幸せ」に照準をあわせているからだ。社会の健康状態みたいな大きな標的を、「ここだけの話」が撃ち抜く道理はないのだった。



こういう事例を、自分でも経験し、他人からも聴くに及び、「検証なき知識のアップデートは、害悪に近い」という立ち位置が、ぼくの中で明らかになっていく。

けど、ま、高タンパク質・メガビタ・スカベンジャーと聞いて信じてしまったぼくも、ただちに実行にはうつせなかったわけで、中途半端にアップデートした知識であっても、大ケガまでたどりつくことは少ないんだろう。

……だから、大ケガするまでは、気づかないんだろうなあ。

すっかりフリーズしてしまったパソコンを見てそんなことを考え、お手洗いに行って戻ってきたら、なぜかあれだけ進捗していなかったはずのWindows updateが全て終わっていた。

お前、ほんとうに、適切にアップデートされたんだろうな……?

2017年5月23日火曜日

病理の話(81)

統計というのはとても面倒で、しかも、「なんだ統計って、人間をものみたいに仕分けしやがって、もっとひとりひとりの顔を見て語れ!」とか怒られてしまうことすらあるので、おそらく大半の人にとって、なんだかあまり通り過ぎたくない、できれば関わらずにいたい、表札の下に猛犬注意と書かれた家の前の小路のようなものである。

……ブログの更新画面というのはいいなあ。

今のをWordで書いていたら、「助詞の連続」とか言って怒られてたろう。



統計というのは誰のためにやるものなのか?

えいやっと方針を決める医者のため。医者から聞いた方針を患者が納得するため。

一例を出そう。

胃に8ミリ大のポリープができた人。胃カメラでこれをプチッと採ってきた。てっきり「過形成性ポリープ」と呼ばれる命に関わらない病気かと思っていたら、「がん」だったという。

がん! びっくりするのである。

しかし、がんならみな命に関わるというわけではないんですよ、と言われる。

このがんは、胃粘膜の中に留まっていますから……。


「留まっているとは、なんですか?」



患者は尋ねる。医者は説明をする。

「がんというのは、しみこむ性質があります。しみこんで、転移をする。全身に広がってしまうと、一部分を採ってもすぐ再発をしてしまうので、手術ではなく抗がん剤などを使って、全身一気に治療をしてしまわないといけなくなります」

患者はおびえる。しかし、話には続きがある。

「でもこのがんは、粘膜内に留まっていますからね。まず、転移の心配はないわけです」

……まず、というところが気にかかる。

「正確には、粘膜内にとどまっているがんであっても、1%未満の確率で、リンパ節に転移します」

でた、確率。

「でも、1%未満ですから、このまま、様子をみましょう」

患者は釈然としないのだ。

1%未満であっても、確率が「ゼロではない」。

だったら、100人とか1000人が同じ病気であれば、その中のだれかは「がんが転移する」ということではないか。

いろいろ調べてみると、「リンパ節転移の確率があるならば、手術で胃を採ることも必要だ」と書いてある。

あわてて主治医に尋ねてみた。

「1%未満とおっしゃいましたけど、転移の確率がわずかでもあるならば、念のために胃をとってしまったほうが、安全なのではないですか?」

主治医は答える。

「でもねえ……胃をとる手術って、すごく安全ですけど、手術関連の合併症が出る確率だって、ゼロではないんですよ」

ああ……また、ゼロではない、だ。

「ごくわずかな確率でリンパ節転移をしているかもしれない症例で、ごくわずかではあるけれど死んでしまうかもしれない手術をする。これは、メリットとデメリットをてんびんにかけるような話ですから。あなたがぼくの家族なら、手術はおすすめしませんね。手術というのは、0.0何%程度とはいえ、副作用がある手技です。そういうのは、転移の確率が5%とか10%とか有り得る人にこそやるべきだ。転移する確率があなたよりはるかに高いときに考えるのがスジです」


確率、確率、確率……。

確率はいいよ。「わたし」はどうなんだ。「わたしの場合」はどうなるんだ……。






こういう感想が出ること自体、無理はない。

世の中には「絶対当たる予測」というものは存在しない。すべては確率によって定義される。あるのは結果だけ、いつも結果を完全に予測し得ることはない。

有名なフレーズがひとつある。

「世界に、絶対、と言い切れることがひとつだけある。それは、

  『世の中に絶対というのは絶対無い』

 ということだ。」

なんて。

でもそこでぶちあたるのは「確率」である。

確率はグラデーションだ。シロかクロかではない。グレーな部分を考えるためのものだ。

天気予報に、明日は絶対晴れると言って欲しい。

降水確率0%だ、と言っていた。やったあ!

でも明日になってみたら、雨が降った。なんだよ、天気予報はずれたじゃん!

……これは、天気予報の「当たる確率」が100%じゃないから、起こったことである。

予報するのが天気でなくてもいっしょだ。100%当たる予報というのはない。



「がんです」と病理診断を書くとき、「ぼくのこの診断がはずれる確率はどれだけあるだろう」と考える。その確率に応じて、書き方を変える。

「ほぼ間違いなくがんですが、臨床画像が非典型的な場合には一度ご連絡ください」

「がんの可能性が高いですが、臨床的にがんではない可能性があるならば再検討が必要です」

「がんか、良性腫瘍か、五分五分です。再度検査をして、もう一度病理診断をさせてください」



ぼくらが「絶対だ」と言えることが一つだけある。それは、「わからないことをこねくり回しても、わかるようにはならない」ということ。

わからないならば、そのわからない理由をきちんと述べる。

どうしたらわかるようになるのかを、臨床医に投げ返す。そして、投げ返した球と同じスピードで、あるいは投げ返した球を追い越すくらいのスピードで、臨床医に電話する。

「わかんないんですよ。だから、こうしましょう」

進言して、一緒に悩んで、先に進む。



その先にいる患者が今日も困っている。「確率って言われたって……」

たぶん、この病理レポートを見たら、患者は悩んで苦しむだろうなあ。

その想像、臨床医と同じくらい、病理医だって、持っていてしかるべきなのである。

2017年5月22日月曜日

さあて先週のサザエさんは

モンゴルに行く前に、モンゴルから帰ってきた翌日のブログを書いている。もともと1週間分の記事ストックをしているので平常運転である。

「何を見て何を感じて帰ってきているのか、この頃のぼくは」と書いておけば、自分なりの感慨にひたることができるだろうな。



それはそれとして自分の記憶の使えなさには辟易する。かつて、美しい風景だとか、おいしい食事だとか、いろいろ見てきたこともあったはずなのに、歴代のすばらしい記憶とやらを思い出そうとしても、脳内の風景にいまいちピントが合わない。

あそこに行ったときのあの風景はどうだったろうかと写真を引っ張りだそうにも、スマホの遙か昔のバックアップデータを探り当てるのがまず一苦労だ。みつけた風景写真には、人が写っていないせいか、どうも感情移入できない。自分が映り込んでいない風景写真というのは、時間をおいて見てみると、単に構図がちょっとへたくそな素人の写真でしかなく、そこにあったはずの色素、臭い、音といったメタデータがすべて消えてしまっている。

まいったな。

自撮りしとけばよかったのか。



自撮りした写真というのは多くないが、学会などでえらい先生方と一緒に撮っていただいた写真というのがあるはずだ、と思って、学会写真フォルダを開いてみた。

えらい先生方の名前をもはや覚えていない。ぼくはいつも似たスーツ、似たネクタイでそこに写っている。似たポーズでこっちを見て、似た笑顔である。

まいったな。

自撮りであってもだめか。




香川のうどんを食いまくって楽しかった日の記憶、思い出すのは「あれから何度も、香川のうどんはおいしいよと人に言って回ったなあ」という記憶ばかりだ。後日談で当日の思い出が塗り替えられてしまっている。




エントロピー(乱雑さ、片付かなさ)の局所的減少こそが生命の本質であるはずなのに。

ぼくの記憶はふつうに時間通りのエントロピー上昇を来してしまっているのだった。




先日、実家にて昔の写真をみた。ぼくによく似た父親と、ぼく、そして弟が写った写真を見つけた。この写真の記憶自体がない。はじめて見る写真のようだ。

そこに写った小学生時代のぼくは、父親と同じポーズで、両方のポケットに手を入れて、こちらを見て笑っていた。

今とは少し違う笑顔をしていた。

おそらくは、写真を撮った母親を見て、笑顔になったのだろうと、わかる写真だった。




ぼくは今、写真に写り込んでも写り込まなくても、笑顔を向ける相手が自分なのだな、だから毎回、似たような顔しかできないで、特別な記憶として残すこともできないでいる。

さてモンゴルではどのような笑顔を撮ったのか、明後日のぼくは。

それを見返して、何か違うものを見ることができたのか、来週のぼくは。

2017年5月19日金曜日

病理の話(80)

ぼくら、「お気軽にご連絡ください」という立場である。レポートによく書く。わかんないことがあったらどんどん連絡してね!

……でも、臨床の医療者は、決して気軽には病理に連絡できないようだ。

というか、ぼくらは互いに、「科をまたいだ連絡」に対して、とても抵抗がある。

自分と違うタイムスケジュールで働いている専門家の時間を、電話やメールで削ってしまうことに対して、かなり躊躇してしまう。相手がどれだけいいよいいよと言ってくれても、である。

だって仲良くなればなるほど、相手の忙しさ、大変さが見えてくるし、余計な仕事増やしたくない(たとえそれが患者さんのためだったとしても、本来相手の仕事ではないものを相談するというのは、こと同僚にとっては「余計」なのではないか、と、邪推してしまうのが人の常である)。

「気軽に連絡をとりあえる」という関係は、なかなか達成できない。



臨床科同士の横の連携が密になっていると、診断の精度は上がるだろうなという予感がある。しかし、その予感と同じくらい、「ま、結局最終的に診断を下すのは自分だから……」と、連携をめんどくさがる感覚も、ある。

とりあえずガイドラインに表記されている事項を遵守していれば、細かいクリニカル・クエスチョン(臨床現場で医療者がもつ細かい疑問)をすべて解決しなくても、医療は回っていくし……。



あるいは、病理の勉強をしている臨床医などは、自分でもある程度「病理学的な事項」について判断ができるようになっているので、かえって「まあこの細かい疑問は病理医に聞くまでもないか」と自己解決してしまって、病理との連携をめったに取らなくなる……なんてケースもある。



とかく医療者は、とくに医師は、「自分ですべて解決できる」ということに、武勇伝的な何かを感じがちだ。

一方では、「お互い忙しいんだから、細かい疑問くらいなら自分で解決できるようにならんとな」という心遣いから出た行動であったりする。責める筋合いのものでもない。

けどぼくは、医療者のそういう「まあ相手も忙しいだろうし、聞きに行くまでもないか」は、さまざまな機会逸失につながる、「悪行」であると考えている。

善意から出た行動であっても、悪い何かをひっぱってくる可能性があるのなら、それは悪習としてきちんと是正していった方がいいと考えている。



細かいクリニカル・クエスチョンを、病理をはじめとする他科と連携せずに解決すると、いつしか病理医は「臨床で細かい検討が行われていること」に気づかなくなる。

医療は日進月歩なのに、いつまでも過去に必要とされたデータだけを出し続けるマシーンとなって、いつのまにか臨床の中で取り残されてしまう。

「こんな細かいことを病理にたずねるの、悪いかなあ」ではない。

「こういう細かいことがあると、病理をライブ・アップデートしてやろう」くらいの気持ちでいていただかないと、ぼくらはついていけなくなるのだ。

逆に、ぼくらが臨床に新たな気づきを与える情報を、別ルート(たとえば病理学会など)から持っているかもしれない。臨床のアップデートを病理から発信する機会は結構多いのだ。



お互いのために、連携は絶対必要なのである。



さて、お互いに連携を取る方がよいと言いながら、心理的障壁によって電話するのを躊躇する臨床の医療者たちを、どのようにアクティベートしていくか。

正解はないのだが、ぼく自身は、いくつか「こうしたらよいのではないか」という武器を実装している。



まず、病院の集まりに参加する。それは会議でもカンファレンスでもキャンサーボードでも飲み会でもなんでもいい。顔を見てもらう。血の通った人間がおたくの病理を担当しているんですよと、ちゃんと周知する。

次に、病理レポートを書いているときに、ちょっとでも何か臨床情報にひっかかることがあったら、ばんばん電話する。相手の時間を奪うことになる。迷惑かもしれない。だから、外来の担当時間などを逐一チェックし、各科の処置(手術など)のスケジュールをチェックして、「少なくとも今は大丈夫だろう」という時間に電話をかける。

病理レポートにも血の繋がった文章を書く。データベースを作りたいであろう臨床医が邪魔にならない程度に、「付記」欄を設けるようにして、その付記に「疑問なら答えるから連絡してこい」という雰囲気をばりばりにおわせる。

問い合わせがあったら秒で答える。とにかく自分の仕事を後回しにしてでも(どうせフレックスだ)、臨床からかかってきた電話にはその場で全て対応する。

プレゼン作成の依頼があったらなるべく詳細に解説を作る。パワーポイントのコメント欄に、時間がなくても読める、しかし必要条件をちょっとだけ越えるくらいの細かい説明を添えておく。




コミュニケーション重視の病理を心がける。それが、「次善の策」であろうと考えている。




……次善の策、と書いた。これらはすべて姑息的手段である。

本当は、いちばんいいのは、「あいつに聞けばものすごくいろいろ解決する」という実績をきちんと積み上げることである。

知人に、普段むだぐちをほとんど叩かない、病理検査室の奥に籠もって丹念な仕事を紡ぐ、ほとんど影のような存在の、それでいて病院内外から圧倒的な信頼感を得ている、しょっちゅう問い合わせの電話がかかってくるタイプの病理医がいる。

誰が呼んだか、彼のあだ名は「ジーニアス」。撮る写真が美しい。なんでも知っている。参考文献がスッと出てくる。

ああいう病理医を知ってしまうと、コミュニケーションのためにFacebookにいいねを付けまくるぼくなんぞ、合戦前にさんざんしゃべってフラグを立てたあげくに関羽に一合で斬られる魏のモブ武将みたいなもんだよなあと、自戒してしまうのだ。

2017年5月18日木曜日

モンゴルさん

この原稿は、ぼくがモンゴルにいる間にアップされる予定です。ツイッターで告知できないかもしれません。わざわざ読みに来てくださった方、いつもありがとうございます。




今回のぼくのモンゴル出張、目的は、ANBIG workshop ( http://www.anbig.org/ ) に出席することである。

Asian Novel Bio-Imaging and Intervention group, 略してANBIG。Iが2回あるけど、1回しか読んでいない。こういう、無茶な略称を付けた研究会には、たいてい「その略称でなければいけなかった理由」がある。

きっと、Asian NBI groupと読んでもらうためだろうなあ。

「NBI」とは、オリンパスという企業が作った胃カメラ・大腸カメラの技術の名前(narrow band imaging)に等しい。つまりはCMをかねているのだろう。

オリンパスだけではなく、複数の企業が協賛して、このぜいたくな研究会を支えている。





ANBIG workshopの正体は、エキスパート内視鏡医(胃カメラや大腸カメラの達人たち)が、アジア各国で技術を伝えて回る会だ。

過去にベトナム、香港、ミャンマー、インド、タイ、オーストラリア、台湾、中国、シンガポール、サウジアラビア、韓国、スリランカ、マレーシア、インドネシアで複数回開催されている。うーん、すごい数。

これだけの国で、しかもそれぞれ複数回開催されているとなると、さぞかし歴史ある研究会なのだろう、と思ってさかのぼってみて、驚いた。

中国で開催された第1回は2013年12月のこと。たかだか3年半しか経っていないのに、これだけの国に行ったというのだろうか?

過去の記録をふりかえってみた( http://www.anbig.org/activities/ )。なんと、「毎月」開催しているのである。

毎月、国際研究会を、各国で開催するだけのお金……?

いくら多数の企業が協賛していると言っても、なかなか運営できる回数ではない。




ANBIGでは、毎回、「先生役」にあたる医師が、2名ほど現地に乗り込んで、内視鏡を用いた最新の技術を、その国のエース達に「伝授」する。

呼ばれる「先生役」の多くは日本の内視鏡医だ。病理医のぼくですら聞いたことのあるような有名な名前が、ずらりと並ぶ。




これだけの国に、これだけの頻度で、毎回日本から、国際線に乗っけて偉い人を運ぶだけの「ニーズ」と「商売のタネ」が、この世界に存在する、ということ。

ちょっと、気が遠くなる。




胃カメラ、大腸カメラがターゲットとするのは、食道がん、胃がん、大腸がん。内視鏡医たちは、これらのがんをカメラで見て「診断」し、さらに、その場でカメラから特殊な電気メスのようなデバイスを出して「治療」をする。

胃カメラや大腸カメラですべてのがんを治療できるわけではない。進行したがんは、カメラの先から出る小さなデバイスだけでは治療がしきれないので、外科手術を行ったり、放射線治療や抗がん剤を使うなどして治療を行う。

ただ、「ある程度小さいがんであれば」、手術をしなくても、放射線や抗がん剤を使わなくても、カメラだけで治療できてしまうことがある。

これは本当にすごいことだ。

お腹を切り開かなくても、抗がん剤の副作用に耐えなくても、がんを根治させることができる、そんな素晴らしいことはない。限られたケースでしか適用できないにしても、だ。

だから、世界各地の「胃腸のお医者さん」は、最新の内視鏡治療がやりたくてしょうがない。




すごいお金が動いて、アジアのあちこちで研究会が開催されるのも、納得なのである。




そんなところになぜぼくが呼ばれていくのか……。

実はまだ、このブログを書いている時点では、モンゴルにたどりついてもいないし、講演も終わっていないので、ぼく自身、答えを持っていないのだが、ある理由を推測している。



理由。

胃カメラや大腸カメラを「極めよう」と思ったら、病理の知識について勉強したくなるのは当たり前と言える。

研究会が成熟し、モンゴルでも通算3回目の開催となったANBIG。「そろそろ病理医を呼びたいな」となったこと自体は、まったく不思議ではない。

内視鏡の進歩はすさまじく、それこそ前述のNBI(オリンパス)やFICE(富士フィルム)などの光学強調技術、さらには超拡大内視鏡(エンドサイトスコピー)と呼ばれる技術によって、消化器診療は今や、

「カメラを見るだけで、病気を形作る細胞の姿まである程度わかってしまう」

時代に突入した。

病気を切り出してきて、顕微鏡で覗かなくても、胃カメラや大腸カメラの画像を細かく解析すれば、病理診断に匹敵する確定診断ができるかもしれない。

「病理診断に匹敵する」ために必要なのは、「病理診断に精通する」ことだ。

実際、日本では、多くの内視鏡系の学会・研究会があるが、その多くで病理医が参画している。

だから、ANBIGでも、このたびはじめて、病理医を呼ぶことになったのであろう。



……なぜぼくなのだ?

それは、ぼくが、「ほどよいザコ」だからではないか。



海外の研究会に、病理で有名な教授なんて読んで講演を頼んだら、交通費・宿泊費に加えてさらに、「講演料」を払わなければいけない。

その点ぼくなら、偉くないから、交通・宿泊以外のお金を払わなくていい(実際、講演料は出ません)。

多少強行日程であっても、体調を崩しても、日本の病理学が揺らぐわけでもないし。

なにより、「病理の会」じゃなくて、「内視鏡医の会」なんだから、多少経験が少ない病理医でも、なんとかなるんじゃねぇの?




……みたいな理由を考えないと、なぜぼくが呼ばれたのか、どうもよくわからんのである。謙遜とかではない、ふつうにびびって、モンゴルでスマホやPCを充電するための変換プラグを用意したり、モンゴル語の勉強をして現地の人に嫌われないようにしたり、予防接種の準備をしたり、パスポートの写真がしょぼかったことを根に持ったり、仁川国際空港での乗り継ぎの仕方をブログで勉強したりしているのだが、そのあいまにぶつぶつと、不安だ、なんでぼくなんだ、ちゃんとやれるんだろうか、MIATモンゴル航空のeチケットにリザーブナンバーが書いてないのはなぜなんだ、とつぶやき続けているのである。

そんなぼくは、飛行機の乗り継ぎに成功している場合は、いま、ウランバートルのホテルでそろそろ目が覚めるはずなのです。Wi-Fiはほんとうにつながっているのだろうか。

2017年5月17日水曜日

病理の話(79)

ぼくら医療者が、何か珍しい病気に遭遇したとき。

あるいは、病名自体はあふれているのだが、珍しい展開(いつもと違う経過、いつもと違う見た目)をとる病気と出会ったとき。

医療者は、「症例報告」というものを行う。

学会で、みんなの前で発表するとか、論文にして雑誌に投稿し、雑誌の査読者(さどくしゃ)にチェックを受けて掲載してもらうとか、やり方はさまざまだ。形式はともかく、珍しいことにであったら報告する、というのは、医療者にとって半ば「義務」である。


珍しい病気の診療においては、「診断がしづらい」とか、「思ったように治療が進まない」とか、「ひとあじ違った手技が求められる」など、さまざまな困難を伴う。

その困難さを乗り越えたあと、ああ、珍しかったなあ、で終わらせてしまってはいけない。

自分が感じた珍しさ、特殊性などを、同業者や後の人々に伝えて、残してあげなければいけない。

そうしないと、世界のどこかで「同じように」まれな病気に出会った人が、自分と同じ悩みを繰り返さなければいけなくなる。




……ということで症例報告は、昔も今も市中病院の研究活動としてはとてもメジャーである。さてここからが病理の話なのだが、病理医をやっていると、

・他科のドクターが、珍しい症例に出会った際に、病理の部分を担当するようにお願いされる

ことが比較的多い。

珍しい経過をたどったがんの「顕微鏡写真」を撮って欲しいと言われたり、珍しい形をしていた病気の肉眼写真から顕微鏡写真までをパワーポイントにわかりやすくまとめて欲しいと言われたりする。

ぼくは、臨床の医療者から「写真を撮って欲しい」と言われた症例をざっくりとエクセルにまとめているのだが、今日このブログを書いている段階で、通し番号が

(198)

となっていた。

今の病院に勤めて約10年になる。年間20件くらい、臨床家の症例報告や、ケースシリーズの作成などに付き合っている、ということだ。

この、「他科のドクター、あるいは技師さんのために写真を撮る」ことが、苦になってしょうがない、という病理医もいる。

まあわかる。自分の本来の仕事ではない、という意味だろう。

症例報告をするから手伝えと言われて病理医が手伝っても、実際に病理医自体の名前が報告に残ることは2割にみたない。気の利いた医療者だと病理医の名前も報告に入れてくれるのだが、学会や雑誌の規定で、(主治医ではなく、臨床の学会に入っていない)病理医の名前を載せられないケースも多いのである。

けれど、ぼくはこの「他人の仕事をこっそり手伝う」のがそんなに嫌いではない。症例報告の病理を解説してくれと言われ、パワーポイントに解説を組み上げて渡すのが、むしろ好きなのである。

なにせ、症例解説を頼まれる症例というのは、臨床の医療者達が「症例報告したい」と思うくらい、珍しいものばかりなのだから。

稀少なケースをじっくり勉強するのにもってこいだし、どこに困難が潜んでいたのかと考えて、また次回このような症例がきたらもっと華麗に診断を決めようとモチベーションも上がる。



今まで、「病理医は縁の下の力持ちである」みたいな説明を、ぼくは嫌ってきた。患者さんに会わないからとか、最前線にいないからというのを「縁の下」と表現されるのがイヤで、

「宇宙戦艦ヤマトの艦長の席にいる」

とか、

「軍師として高台から戦況を見つめて指示を与えている」

などと吹聴してきた。



ただ、「医療者の学会発表の手伝い」をしているときのぼくはまさに「縁の下の小仕事」をしているつもりでやっていて、うーん、あれだな、ぼく、縁の下も別に嫌いではないんだなあと、思ったりするのである。

2017年5月16日火曜日

芳一的思考

日中、歯を食いしばってしまう悪いクセができた。ぼくは元々、ハナクソをほじるとかびんぼうゆすりをするとか頭をぽりぽりかくなど、あまりお行儀がよいとは言えない行動を無意識にとってしまうタイプの人間である。

ハナクソをほじるとかびんぼうゆすりをするというのは、「人目に付く」。だから、自分でも意識して控えようという気持ちになるのだが、アゴに力が入るくらいだと周りの目にはつかない。まあいいかと思って放置していたら、治療後の歯の根が少しきしむようになってしまった。

食いしばりすぎである。

プロ野球選手の中には、スイングの際に歯を食いしばるあまり、奥歯がすべて欠けてしまう人もいると聞く。噛む力はとても強いのだ。ばかにはできない。

「かさぶたをはがして遊ぶ」とか、「爪の横にできたささくれをむいて遊ぶ」とか、「ヒゲをつまんで抜く」などは、いずれも「ライトな自傷行為」と言い換えることができる。とるにたらない刺激を与えて瞬間的な快感を得る行動。

これらが、社会の文脈で「はしたない」「お行儀が悪い」と注意して頂ける世に生きていることは、ぼくにとって好都合である。無意識で自分をむしる行動は、はしたない以前にあまり体によいものではなかろう。そこまでひどく悪いわけでもないが。

ということで、どうしたらこの「食いしばり」をやめることができるだろうかと、考えている。

食いしばりをやめよう、と考えていると、アゴが気になってしかたがない。あーもう。




意識すると、忘れられなくなるという現象は、脳の必要悪なんだろう。

集中が必要な人に、「舌ってどこに置いてあるんだったっけ?」と問いかけるいやがらせをしたことがある人もいるだろう。一度意識してしまうと、なかなかスッと忘れることができなくなる。

これはたぶん、「脳が、情報に重み付けをする」という機能の副産物だ。

すべての情報を等価に記憶していたのでは、何かが起こる度に記憶の引き出しを端っこから順番に開けていかなければいけなくなる。だから、「ひとたび意識したならば、その記憶は取り出しやすいところに一時ストックする」機能があるのではないかと推察する。

このことを逆手にとって、仕事をしているとき、ストレスがかかっているときに、歯を食いしばるのではなく、何かほかの行動を無意識下に選択できるよう、脳の引き出しの整理をすれば、食いしばりというクセは奥深くにしまわれて、再び出てこなくなるのではないか。

たとえばペンを回すとか……。

腹筋に力を入れるというのもいいかもしれない。6パックになるかもしれない。

ふくらはぎを動かしてエコノミークラス症候群の予防をするというのはどうだ。




結果、現在、髪の毛、鼻の穴、耳の中、アゴ、指先、腹筋、背筋、ふくらはぎ、足の裏などが気になったまま仕事をするという地獄のような毎日を送っています。

2017年5月15日月曜日

病理の話(78)

78回目となるがそろそろ自分が前にどこに何を書いたのか思い出せなくなっており、前にも書いたかもしれないことをうっかりまた書いてしまうかもしれないのでご容赦いただきたい。


つまり何が言いたいのかというと、文章というものは、書いただけでは「自分がかつて何を書き残したか」を覚えられないのである。よっぽど頭のいい人なら別なのかもしれないが、頭がよくないと使えないシステムというのは困る。

何の話かというとこれは「病理レポートの検索」の話である。



病理診断は、結果がすべて文章化されている。精度の高い、確定診断に近い情報を、「レポート」に記載している。

多くの臨床医療者や研究者は、病理のレポートを「検索」し、自分の施設にどのような症例が過去に存在したのか、その症例ではどのような疾患名が適用されたのか、いかなる進行度、いかなるステージ、いかなる組織像であったのかを、過去に遡って検討するのだ。

あらゆる病理診断科は、「データベース」として活用されなければならない。だから、ぼくらは、「あとで検索されるかもしれない」という予測のもとに病理診断レポートを書く必要がある。



「毎回違う表現」で書いて喜ばれるのは、文学に限った話である。

科学は、「毎回同じ表現」で記載すべきだ。

「腺癌」と「adenocarcinoma」は同じ意味の言葉なのだが、ある日は気分で「腺癌」と書き、またある日は気分で「adenocarcinoma」と書く、なんてことをしてしまったら、腺癌の症例を検索するときには2つの語句で「or検索」をかけなければいけない。

Carcinoid tumorと書くか、カルチノイド腫瘍と書くか、neuroendocrine tumor (NET)と書くか。

印環細胞癌と書くか、signet-ring cell carcinomaと書くか、sigと略称で書くか。

こういうのはきちんと統一しておかないと、後で検索するときに痛い目に遭う。



見やすいレポートを書くために、「行替え」を使ったとする。このとき「長くなった英文をハイフンでつないで2行に連続させる」なんてことをしてはいけない。

合胞体栄養細胞(syncytiotrophoblast)が長い言葉で、行の最後にかかってしまったからと、「syncytio-trophoblast」とわけて改行させてしまったら、もう検索では見つからなくなってしまう。



見やすいレポートを書くために、「インデント」で行の頭を揃えてやったとする。以下はその例である。

  表皮の肥厚によって構成された外向性の隆起性病変です。組織学的
  に、類基底型の細胞が増殖する病変で、基底部には色素沈着を伴い
  ます。病変内部にはpseudohorn cystの形成がみられます。脂漏性
  角化症と診断いたします。

たとえばこれ、丁寧に改行して、行の頭を2字だけ下げて揃えてあるんだけど、この処理をしてしまうと、「脂漏性角化症」という言葉では検索でhitしなくなる。「脂漏性角化症」が二つのことばにちぎれてしまっているからだ。おわかりだろうか。



病理のレポートは、まず第一に医療者に伝わりやすいように、意識して書く。見やすく、読みやすくすることはとても重要だ。

しかし同時に、

「後世の医療者や病理医、さらには数年後の自分が、検索でふたたびこの症例に戻ってこられるように」

という側面をも見据えて文章を作るべきである。

稀な症例、教訓となる症例を、ただ通り過ぎるだけではだめだ。

いつでも自分の経験した症例、さらには他の病理医が経験した症例に舞い戻って、患者さんとの「一期一会」を無駄にしないように、努めていかなければいけない。

そのためには、PC検索という文明の利器を最大限に活用できるよう、文章作成の際にもきちんと決まり事を作っておくことが大切なのである。




以上のことをじっくりと考えていると、最終的に、

「病理レポートの重要な項目はすべて英語で書くべきだ」

という結論に至る。英単語は、日本語よりも、改行などに伴う禁則処理がきちんとなされている(単語の途中で改行はされない)上に、表記ブレが少ないからだ。

日本語だと漢字やひらがなのバリエーション(頚部と頸部、鼠蹊部と鼠径部、びらんと糜爛)が含まれる怖さもある。英語で気を付けなければいけないのは、略称くらいか。

一方で、

「日本人が書き、日本人が読むためのレポートを全て英語で書くのはどうなんだ」

という、至極ごもっともなクレームにも対応する必要がある。結局、ぼくは、

「後に検索の対象になるかもしれない重要な疾患名や所見の名前などは、英語と日本語両方で表記する」

というやり方をとっている。

「腫瘍細胞は篩状構造 cribriform patternを形成し」

とか、

「大細胞神経内分泌癌 large cell neuroendocrine carcinoma」

とか。



記載と表現について、科学や医学には古くから伝わるルールがある。病理医は、まずこの「古典的な病理学の記載方法」というのをきちんと学ばなければならない。

そこに加えて、技術の進歩(PC検索とか、データベースの構築とか)を意識し、後の時代に生きる人間ほど「昔をいっぺんに検索できる方法はないかな」と考え続けなければいけない。

さらには、病気の概念自体が時代と共に移り変わっていくことも忘れてはならない。

10年後、20年後に、今この名前で診断している病気が違う名前に変わっている、なんてこともあるのだ。

これらを踏まえて考え続けている人間が、各病院に1人いるかいないかで、その病院から出てくるデータの信ぴょう性というのもまた少しずつ変わっていくのではないか、そんなことを考えている。



たった今、「信ぴょう性」と「信憑性」の表記ブレが気になったところである。

2017年5月12日金曜日

利口なやりかた

時代とともに価値観が移り変わるのではなく、価値観が移り変わるから時代という定義が行われるのだと思うのだが、この話をしたところで誰も幸せにはならないし、利口な人間はそういうの全部わかっていると思うので、おしまいとします。

なにはともあれカメラを買った。日常の風景がすべて「写真におさまりそうか」という観点で見えてくるので、迷惑なことである。この感覚を飼いならすと、女子高生になれるかもしれないという、淡い期待もある。インスタグラムの何がおもしろいのか、人に自分の撮った写真を見せてどうなるのか、という質問自体が成り立たないし、世間がファインダー越しに見えるのではなくインスタグラム越しに見えているのだし、載せないという価値観はないし、撮らないという時代感もない。

で、ま、撮らないでいる。自分が撮った写真は、世界を矮小に切り取っているようにしか思えない。代わりに、人が撮った写真にいちいち感動できるようになった。こんなのウツシエじゃん、としか思っていなかった自分が、新たな時代に突入した、「世界を切り取れる人と切り取れない人がいて、切り取れる人はすばらしい」。

そういえば自分の見たものしか信じないというタイプの人もいるけれど、君の目なんてのは世界を眼球の形に切り取ったにすぎないのに、真実がどうのとしゃらくさいよな、なんて思うようにもなった。



Nikon D5500はとてもいいカメラで、大変たのしいのですが、ぼくはやはり今度GRIIも買おうと思います。だいいちRICOHもなんかあぶねぇって言うし、今買っとかないと後悔するからな。

2017年5月11日木曜日

病理の話(77)

細かすぎて伝わらない話よりは、おおざっぱであっても日常にリンクする話の方がいいのだろうなあ、と思うのだが、そういう「人に伝え、興味をもっていただく話」ばかりしていると、マニアックなおもしろさというのは失われてしまう。病理学ってのはたぶん、そのマニアックなところにこそ、「働き続ける甲斐」が転がっている。神は細部に宿るとか偉そうに言う人がいるのだけれど(たいていは芸術とかそっち方面の人だ)、細部に宿るのはどちらかというとオタクだ。まあ、オタクはよく「神」という言葉を使うのでたいして違いはないのである。つまりは今日はなんの話をするかというと、マニアックな、細部の話をする。


細胞がならんで何らかの形を作る、ということ。よく考えるととても異常なことである。

自然界で、なにかが並んで「偶然かたちを作る」というのは、心霊写真、UFO、宇宙人といった文脈でしか起こりえない。ふつう、自然に存在するものというのはすべて、アットランダムな配列にばらけてしまうものだ。

ところが、人の体の中では、細胞と細胞が手を取り合って、意味のある形を成す。

人体の中で一番多くつくられる形は、「パイプ」である。「通路」でもいい。生命はとにかく物流なのだ。栄養を行き渡らせる。酸素を分配する。そのために必要なのは、

・道路
・トラック
・物資そのもの

である。血管、リンパ管といった細かい生活道路、さらには胃とか大腸とか、おっぱいの乳管だって、唾液が出る導管だって、あれもこれもパイプばかりなのだ。

この「パイプ」を作るためには、細胞がきちんと手を取り合って「輪」を作らないといけない。

輪を作るのに必要なのは、なにか?



□ ←細胞だとします。



□□□□


□□□

↑これ、まだ途中ですけど、続けていけば、パイプ(輪切り)になりそうね?




□□□□□
□   □
□   □
□□□□□

↑こうなればいいよね? では、この形をつくるのに「失敗する」ことがあるとしたら、どういう感じだろうか。



□□□□□
□ □ □
□ □ □
□□□□□

↑ざっくりいうとこういうことなのだ。余計な仕切りができてしまった。これではパイプとしては不適切である。パイプの中身(穴)のサイズが、狙い通りの大きさになっていない。

パイプの成功パターンと失敗パターンでは、細胞の配列に、はっきりとした「違い」がある。それはなんだろうか?

成功パターンにおける細胞の配列は、以下の2種類しかない。

□□


□□□

これに対して、失敗パターンにおける細胞の配列には、もう1種類ある。

□□□
 □

これだ。

細胞の気持ちになって考えよう。主人公を黒く染める。

■□


□■□

成功パターンの2種類では、黒い細胞が「両手」を使って、両脇にいる細胞と手をつないでいる。連結している細胞が、左右の1個ずつだ。

これに対し、失敗パターンだと?

□■□
 □

黒い細胞は、3個の細胞と連結している。



「細胞の気持ちになって考える」と。

両脇2個の細胞と手をつないでいてくれれば、自然と「輪」はできるのだ。

しかし、余計な気を起こして、3本目の手を出してしまうやつが現れると、「輪」という構造はうまく作れなくなってしまう。



人体の中で、細胞が並んで何かの構造を作るときは、今説明した「2次元」ではなく、「3次元」でものごとが運ぶ。だから、もっともっと複雑な解析が必要になるのだけれど、構造を解析するというのは結局こういうことだ。

細胞にはある程度の「制限」がかかっている。つなぐ手がおおければいいというものではない、手は2本でいいといったら2本でいい。そこに新たな3本目の手が現れてくるときは、なんらかの「限定的な機能追加」があるか、あるいは単純に「空気の読めないおかしいやつ」だということだ。

空気の読めないおかしいやつとはつまり、「がん」だったりする。



病理学用語で、「cribriform pattern」というのがある。日本語に訳すると、「ふるい状」となる。ふるいとは米とか麦とか豆とかをより分ける、穴のいっぱいあいたアレだ。

□□□□□
□ □ □
□□□□□□□
□ □ □ □
□□□□□□□

これがcribriform patternである。ひとつの輪郭の中に、穴がいっぱいあいている。
おとなしくパイプの形に並んでいればよいものを、余計な手を何本も出してしまうがん細胞のせいで、穴があきまくってしまった状態である。


細胞をみると、病気がわかるというのは、こういう「解釈」を積み重ねた結果だったりするのだ。

2017年5月10日水曜日

うさどさんさ

水曜どうでしょうというテレビ番組があって、DVDなどが今でも出続けているのだが、そのディレクター陣が書いた「どうでしょう本」というのがかつて2冊だけ発売された。

まあ大した本ではないのだが今まで読んだ本の中で一番おもしろかった本のひとつだ。

大したことはないのだが創刊号で「うどん」の話を特集していたのだ。

大した内容ではないのだがそのうどんの話がとても好きだったので、ぼくは、本を読んだあとに、香川県に行って実際にディレクター陣が行ったうどん屋というのを全部回ってみたのだ。

2泊3日で14軒回ったのだが、当時はぜんぶ食べられた。香川のうどんは一杯ごとの量が少なめで(多くもできるけど)、1日5食くらいは余裕で行けるのだ。

山越、池上のような超有名店からスタートし、がもう、たむら、日の出製麺は午前中しかやってないから行けない、なかむらは系列店がいっぱい、香の香は釜揚げ、山田家は定食、おか泉はてんぷら、A店の弟子がB店でそっちのほうがはやってる、C店はセルフだけどD店よりむしろ手がかかってる……。

香川県にはその後何度もプライベートで訪れた。毎回、1泊しかしない。一度に約7軒で食べる。食べても食べても飽きない。ぼくは、基本的に、遊び目的では「一つの場所に複数回訪れることがない」のだが、香川だけは別である。通算で訪れたうどん屋、50軒までは数えたのだがもうよくわからなくなってしまった。ブログにでもまとめておけばよかったと少し後悔しているのだ。



さて自慢話はいくらでもできるのだが、自慢というより人体の神秘みたいな話をする。

毎回、うどん旅行をするたび、朝から夕方までがっちりうどんを食いまくって、いざ晩飯になると、「脳が炭水化物をうけつけなくなる」。米を注文する気にならない。ラーメンとかそばとかパスタとか全く頼めない。「骨付き鶏」だけ食べて寝てしまう。いつも、我ながらほんとうに不思議である。

「空腹にはなっているのに、脳が炭水化物をうけつけない状態」

人に説明しづらいのだが、口の中に、「もうごはん系はいらんわ」という味が「デフォルトで広がっている」みたいな感じになっているので、晩飯では炭水化物がとれなくなってしまう。

人体というのは「昼間にうどんを食いすぎたからそのへんにしておけ」というのを、きちんと調整しているのだなあ、と、毎度毎度、ほれぼれする。




ただしビールだけは飲めるので、ああ、飲酒というのはやはり、人を太らせるなあと納得したりもするのだ。

2017年5月9日火曜日

病理の話(76)

病理学会に来ている。

人体には「何かをするための、あるひとつのルート」というのはどうも存在しないようだ。

ぼくらはつい、

「ヤマトのお兄さんは、荷物を運ぶために生きている」

とか、

「ローソンのお姉さんは、パンやコーヒーを売るために生きている」

という見方を、体の中に適用してしまう。


でも、ヤマトのお兄さんが動くとき、そこには「配送トラック」があって、配送トラックにはガソリンを入れる場所が必要で、あるいは、ヤマトのお兄さんがいっぱい動くならばそのとき佐川やゆうパックのおっさんたちもまた仕事が増えたりして、ときには、ヤマトのトラックがここを通るときに後ろをついていけばマンションのドアを開けるお姉さんがいるだろう、みたいな、下種なストーカーが潜んでいたり、そのストーカーに気を配る警察がいたり、とにかく、

「何かひとつが動いたときの影響は、一本道ではない、あっちもこっちも、様々に連動して動く」

というのが、体の中の大原則なんだと思うのだ。



HGFとかHGFAとかHAIとかそのへんを35年にわたって調べ続けた宮崎大学の先生の宿題報告を聞いていた時、HGFがトロンビンによっても刺激されるという話を聞いて、

「そうか、組織傷害が起こるとき、そこには欠損とか出血とかが生じているだろうから、トロンビンもまた役割をもつわけだけど、トロンビンは単に凝固系に関与するだけじゃなくて、HGF系の組織再生にもついでに関与してるのかもしれないなあ……」

なんていうことを、つらつらと考えていたのだ。



難しくて、半分くらい夢の中だったから、トロンビンを2倍にして遊んだりしていたんだけど……。

2017年5月8日月曜日

クリスマスに さげたら さげすます

フォロワーさんがポスターつくってくれたので貼っておきます。



すごいねこれ、どこからぼくの写真みつけたんだろうね、まあ自分でいつかネットに出したやつなんだけど。ポスター作って下さった方どうもありがとうございます。


ということで、今度、北海道大学の大学祭にあわせて開催される「医学展」というイベントで講演をする。一般向けの講演。医療者以外に講演したことないから緊張するな、って思ったけど、よくかんがえたらツイッターもツイキャスも別に医療者向けじゃなかったし、まあいいかってなってる。

講演っていうと、作家とか、ノーベル賞の人とか、どこぞの病院の院長とか、そういうのが定番だなって思ってたけど、最近はユーチューバ―とかネット金融業のひととかも講演してるし、うん、もはや「うさんくさい」というのとセットになっているのだと思う。そこにこの「ツイッターでおなじみ」というかんばんをひっさげて乗り込むわけだ。



うさんくささ、というのをもっとも上手に笑いに変えているのは大阪のひとたちだ。逆に言うと、大阪以外の土地では、うさんくさいという形容詞は決して褒め言葉とセットにはならない。ならなかった。当然だ。ただこの当然の価値観が近年少しずつひっくり返ってきているようにも思う。

ひっくり返したのは、ツイッターなのだと思う。SNS、特にツイッターについてはぼくは話したいことがいっぱいあるんだけれど、最近いちばん強調したいなあと思っている点は、

「うさんくささをもったまま愛される人」



「しっかりしているとアピールしているのにさげすまれる人」

とが、共存している場所、だというところである。



ぼくはしっかりものなので、講演がんばってきます。

2017年5月2日火曜日

病理の話(75)

生命は、周りの環境(非生物)と比べると、そこだけ持っているエネルギーが高い。

「持っているエネルギー」なんて言うとなんかスピリチュアルなイメージが湧いてしまうが、そういう意味ではなくて、単純に、物理的・化学的なエネルギーを抱え込まないと、生命としての活動はできない。



ごましお。

ごましおをイメージする。

「世界」はごましおだ。ゴマと、塩が、複雑に入り交じっている。一度混じってしまうと、もう両者を完全に仕分けることはできない(膨大な時間と手間がかかる)。

一方、世界に対しての「生命」というのは、ゴマや塩のどちらか一方、あるいは砂糖とか小麦粉みたいな何かが、「周りに比べて濃度が高い」状態でいる。

「世界」には、米粒もコーヒーの豆もハナクソも混じっているのだが、「生命」の部分にはそういうものがほとんど含まれていなかったりして、「周りに比べてなにかの濃度が低い」状態でもある。

「世界」のほうが雑多に混じっていて、「生命」は物品の濃度にかたよりがあるということだ。


物品の濃度を偏らせるには、エネルギーがいる。

何かを取り入れ続け、何かを排除し続けないと、濃度の偏りは維持できない。



砂漠にごま塩をばらまく。最初は、「あっ、ここにごま塩をこぼしたぞ」とわかるが、ものの数日、あるいは数時間で、ごま塩はほかの砂とまじって、もはやごま塩なのかどうかわからなくなってしまう。

ごま塩がごま塩のまま存在するには、そこに「なんらかのエネルギーを使い続ける」ことが必要なのだ。拾って集めて、砂を捨てる。



「なんらかのエネルギーを使い続けることによって、特定のものだけを集めて、いらないものは排除するというシステム」

これは、生命の定義の一つであると言える。



エントロピーとかそういう話は有名なので、何をいまさら、と思われるかもしれないのだが、この話は「細胞膜」とか「核膜」などを理解する上でも役に立つ。

膜、すなわち境界面が存在しないと、生命としての「濃度の偏り」を維持し続けることは困難となる。



濃度の偏りを維持するのは、バイトのA君の勤勉さとか、事務のBさんの時間外労働などではなく、膜に存在するなんらかのタンパクであるとか、膜自体のもつ力(浸透圧とか浸透膜という言葉を勉強するのはこれを理解するためでもある)である。



そんなこんなで、ぼくらが細胞を観察するときには、しばしば、細胞膜や核膜のような「膜」にとても注意を払うことになる。「膜」を「腹」と書き間違うのは医学部3年生くらいまでの「あるある」なのだが、さすがに今は書き間違えることは減った。

だってパソコンで打っちゃうからね……。

2017年5月1日月曜日

グールグール

デジタルの時計には水晶は入っているのかな。いなそうだけど。もともと、時間は水晶か何かの振動で正確に計っているんじゃなかったかな。

いったい、「正しい時間」というものを、どのようにプログラムして出力しているんだろう。

1秒という長さをどのように計測しているのだろうか。調べればすぐわかりそうなものだが、今知識のない状態で考えてみても、いまいちよくわからない。

昔と比べて、CPUの計算速度は信じられないくらい早くなっているのに、1秒のカウント方法を変えないままでいられるというのは、どういうことだ。



電波時計だから。どこかに正確な時間があるから。PCはそれをダウンロードしてきてるだけだから。

だったら、その「どこかにある正確な時間」というのはどうやって刻んでいるんだろう。



こういう話は、たとえば、遠く離れた異星人とたまたま交信できたと仮定して、右とか左といった方向の概念をどういう言葉で説明したらいいだろうか、みたいなSF的小話でもよくみられる。

「なんちゃら原子がスピンする方向は宇宙で共通だから、それを元にしてしゃべればいいんだよ」

地球人って普段、右とか左を人に説明するときに、そんな知識を引っ張り出さないと説明できないんだったっけ?



国語辞典を編纂している人なんかはこういう問いと毎日戦っているんだろうな。

外国の言葉とはじめて触れあった人は、いったいどうやって言葉を交わしたんだろう。

石を指さして「いし」「ストーン」「なるほど」みたいな説明を見たことがある。これを繰り返せば、言葉を学ぶことができます。

ほんとかよ。

それでどうやって「幼少期のトラウマ」とかを説明するんだ?



ぼくらは、イメージを共有していない同士で、何かを伝え合うという作業について、きちんと言語化できていないもので、何か脳の方があとはよろしくやってくださっているという状況に甘えて、なあなあでコミュニケーションを取っている。それで事足りる。

だから、ときどき、思うのだ。

秒の定義って、さいしょ、どうしたんだ。

今、どうしてるんだ。

ググればわかると人は言う。最初にグーグルができたとき、ググったらどれくらいのことがわかったんだろうな。

2017年4月28日金曜日

病理の話(74)

研修医や医学生に、将来病理医になりたいのだが、どういうところで初期研修をすればよいだろうか、と尋ねられることは多い。

もっと言えば、病理医に限らず、将来「○○科」に進みたい、どこで初期研修をすればよいか、と尋ねられることの方が圧倒的に多い。まあそれはそうだ。病理医なんてのは医者の0.6%くらいしかいないそうだから。

さらに言うと、「将来何科に進みたいかはちっともわからないが、どこで初期研修をすればよいだろう」と尋ねられることが一番多い。

夢なんてこんなもんだ。自分で自分の夢を決定づけてしまうことに臆病な……というか、よくわからない人というのが一番多いのである。



さて、そういうときに、なんと答えるか。カウンセラーでもなければ研修教育を統括する厚生労働省の人間でもないぼくが、自信をもってお答えできることがどれだけあるか。

正直、そんなにないので、最近はこのように答えている。



(1)将来、明確に進みたい科がある場合には(例えばそれをA科とします)、あなたはおそらく、A科にいい思い出があるか、A科が具体的にイメージできているのではないかと思います。では、A科で有名な医者や、A科でこの人の元で働きたいと思えるボス、A科の後期研修で有名な病院がありますか?

もし、10年後の将来がなんとなく見えているなら、10年後にここで働きたいという場所の候補がいくつかあるならば、そこから逆算をしてください。

10年後にいたい病院を調べて、その病院にいるスタッフが、どこで後期研修をしたのかを探ります。次に、そこの後期研修医がどこで初期研修をしたのかを探ります。

目標から遡るわけです。そうすれば、自然と初期研修先が見えてくる。



(2)将来、まだどこに行きたいかわからない場合、なんとなくの方向性は見え始めている、あるいは方向性すら見えていないという場合には、なるべく多くの医者がいて、なるべく多くのコネが作れそうな、比較的大きめの病院で初期研修をするのがいいです。

あなたは、今までの自分の経験で将来を決められていない。ならば、そこに経験を上乗せするしかないのですが、選択肢が見えていない状態では、できるだけ多くの選択肢を見る、あるいは見たつもりになったほうが、後悔しないでしょう。

ベッド数と医者の数、専門医の数などを参考にしつつ、できれば、そこで初期研修した人達が、将来どこに進んだか、まできちんと調べる。初期研修を終わった人達の選んだ進路の、バリエーションが多ければ多いほど、あなたの将来選ぶ選択肢が増えると思って頂きたい。



(3)でも、大きい病院ならいいってもんじゃない、肝心なのは自分が生涯尊敬できるボスと出会えるかどうかだ、だから小さい病院もみておいた方がいいんじゃないか……それもまた一面の真実なのですが、ぶっちゃけ、小さい病院で研修をして大きくなれるのは、「小さい病院を積極的に選ぶだけの見通しが現段階で立っている人」がメインです。「大きい病院と小さい病院、どちらがいいかわからない」くらいの人は、選択肢を残したがるタイプなのですから、最初から大きい病院に行った方がいろいろ安全です。

私のこの言葉で、「大きい病院は何か違うな」と明確にひっかかりを持った人だけが、小さい病院を選んでも後悔しないのだと思いますよ。




病理の話とはちょっと違うけど、自分が選んだ道に責任を持って欲しい、誇りを持って欲しいと思いながら「病理医のキャリアパス」の話をしつづけていると、自然と話は、「病理以外」に向いていく。

そして、「病理以外」を選んだ人とばかり、一緒に働き続けていくのが、この仕事なのである。

2017年4月27日木曜日

腰がかっくん

腰や首に爆弾を抱えるようになって5年が経過した。

デスクワークの宿命、というよりも、これはストレートネックの宿命というやつで、同じようにデスクワークに励んでいる諸氏がみな体幹部の痛みに苦しんでいるわけではないし、ま、「姿勢の問題」というやつなのだろうが、最近は職場で姿勢の問題だなどと口にしようものならパワハラの疑いをかけられてしまうので、骨が弱いんすよーとか適当な言葉でお茶を濁すことになる。

骨というか筋肉だけど……。

以前に書いたことがあるかもしれないが、かつて、午後になると腰痛がひどくて、しびれまで感じるようになり、これはもうぜったいあれだ、ヘルニアとかそういうやつだ、と思って、困り果てて知人の神経内科医に相談してみたことがある。

寝るときの姿勢などを丹念に教えてもらい、多少の緩和は得られたものの、腰回りがガチガチなままだったので、整体をやってるお店に行ってみた。

すると、彼はぼくの腰よりも太ももをマッサージしながら、こういうのだ。

「太ももの裏ががっちがちなんですよ。長い時間座ってらっしゃるのと、運動が足りないのと、原因はその辺なんでしょうけど。

太ももの筋肉ってのは、付け根が腰にあるんですよね。

で、太ももの筋肉が硬くなるということは、腰を下側にひっぱる力が強くなる、というか……

ゴムが硬くなれば、ゴムがゆわえつけてあるところをひっぱっちゃうんです。想像できますよね。

ですから、あなたの場合、腰痛を治そうと思えば、腰を揉むんじゃなくて、太ももの裏をケアするといいんです。

痛いところに原因があるわけじゃないんですよ」

そしてストレッチを教えてくれた。単なる前屈である。こんなの中学校でやったわ。ほんとか? ほんとにこれで治るのか?

治ったのである。度肝を抜かれた。



筋肉とか骨とか、整体的なもの。それまでぶっちゃけ、なめていた。奥が深い。



なにより、「痛みが出た場所だけをケアするのではなく、原因に遡る」という説明が、ぼくの気質にぴったりフィットであった。家訓にしてもいいくらいだと思ったのだ。

2017年4月26日水曜日

病理の話(73)

かつては、「腹立たしい依頼書」というのを、目にすることもあった。

今のように、ひとつの病院に勤め続けていると、臨床医と病理医双方が、お互いの顔を思い浮かべるようになるので、まあ、めったなことでは相手を怒らせるような言動は取らなくなる。

「病理組織診依頼書」にも、あまり失礼なこととか、突飛なことなどは書かれない。



ただ、お互いの腹の底が見えるためか、ちょっと間の抜けたことを書いてくるドクターはいる。

「○○病を疑う病変を、とつぜん見つけました。びっくりしました。御高診お願いします」

……その感想、いるか?

「○○を考えます。本人は最初いやがっていましたが、必死の説得の末に、生検採取」

……その経過、いるか?

「○○病の臨床診断。見た目は(ある野菜・伏す)。」

……その描写、いるか?



とても好意的に解釈すれば、すべて、病理診断の役に立つ文章ではある。1つ目の「びっくりしました」は、いつもと違うシチュエーション、いつもと違うボリューム感、いつもと違う患者背景などがあるのだろうなと、病理医に注意喚起をする役目を果たすだろうし、2つ目の「本人はいやがっていましたが」は、この検体ひとつでどうしても診断を決めないと、おそらく再度の検査は不可能なんだろうな、という危機感を示唆してくれるし、3つ目の「病気を食べ物などの形状に例える」は、イラストを描かずとも病理医に臨床像をあざやかに想像させるコミュニケーション手段である、などと、説明することができる。


……にしたってもうちょっとやりかたあるだろォ。




そういえば、ふと思い出した。かつて、信じられないほど汚い字で、とにかく依頼書に殴り書きで、読めない依頼を書いてくる某科の医師がいた。あまりに汚くてまったく読めないので、申し訳ないがきつめに注意した。

その後、電子カルテ化に伴って、依頼書をいちいち手書きしなくてもよいシステムが導入された(なお手書きでイラストなどを付けることもできる)とき、ぼくは、

「ああ、これであのクソ医師も、少しはわかりやすい依頼書を出してくれるだろう」

と、内心ほっとした。

後日、その医師からある依頼書が届き、ぼくはひっくり返ってしまった。

漢字変換がめちゃくちゃだったのだ。というか、ひらがなばかりである。

「他人が読むという前提で書くべき依頼書を、乱暴な字で書き殴るタイプの人が、電脳化くらいで自分のやりかたを変えるわけがない」

ということに、ぼくも気づくべきだった。

「○○びょううたがう。せいけん。おねがいしま」

せめて最後まで入力しろバカ野郎!





だんだん、こういう「失礼なやつら」の割合は減っているように思うが、その理由のひとつは、おそらくぼくにある。

ぼくが、病院の中で、言ってみれば「異分子」である間は、臨床医の方も、胸襟を開いてくれない。病院という世界、病理学会という世界、医療という世界で、ちょっとだけキャリアが増えてきたから、その分、周りの医師たちも、ぼくを人間として扱ってくれるようになったのだろう。


こっちもあんまり変なこと、言わないようにしないとなあ。医局で、先生のツイッターおもしろくないですね、とか話し掛けるのは、とりあえず、やめようかと思い始めた。

2017年4月25日火曜日

将来何になりたいですか、という問いをあまり投げかけられなかった子供時代だったかもしれない。

あるいは、そのような問いを聞き流す子供だったのかもしれないが。

いずれにしても、ぼくは、小さい頃に大人に向かって「○○になりたい」と言った記憶があまりない。覚えていない。



父母に尋ねてみたところ、幼稚園の時に、「地元のA高校に行きたい」と言ってたよ、という情報を得た。これは、ぼくも覚えている。A高校は進学校だが、ぼくがA高校に行きたかった理由は、ぼくが生まれたころにはすでに亡くなっていた曾祖父が、A高校で働いていたからだ。ひいおじいちゃんの高校に行きたいな、というそういうモチベーションだったはずだ。

思えばぼくは、将来どうしたいの、という問いと、まともに向き合わないまま成人した。

中学校のときは、よい高校に行こうと思っていた。

高校のときには、よい大学に行こうと思っていた。

大人になってから何になりたいかはよくわからないけれど、とりあえず目の前にはクリアする目標があるんだ。

ラスボスを知らないまま、目の前の敵を狩り続けるようなイメージだった。

そういえばドラクエIIも、ハーゴンまでたどりつけないまま、あきらめてしまったっけ。



ほんとうか? ほんとうに、なりたいものがなかったのだろうか?



今この文章を書きながら、ひとつ思い出したことがある。そうだ、ぼくは、スペースシャトルのパイロットになりたかった時期があった。

テレビ放送で生中継された、チャレンジャー号の打ち上げを見るその瞬間まで、ぼくは宇宙飛行士になりたかったと公言していたはずだ。

チャレンジャー号が目の前で爆発して、乗組員も全員死亡するという痛ましい事故のあと、ぼくは自然と、宇宙飛行士になりたいと言うのをやめてしまったのではなかったか。

そうだ、そうだった。

その後、何人かの大人との会話や、学校などで、将来何になりたいか、というのを書いたり話したりする機会があったけれど。

ぼくは、宇宙飛行士という夢がちりぢりになってしまったのがほんとうに悲しくて、また次になりたいものを思い浮かべるのがとても面倒になってしまったのだ。



小学校の文集にある、「将来なりたいもの」の欄には、不謹慎この上ないのだが、「天皇の親方」と書いた。いちおう言い訳をするならば、ぼくは、「天皇陛下にものを教えられるくらいの人になりたい」という意味で書いたのだ。しかし残念なのは国語力のほうで、数年たって文集を見返したぼくは、自らの絶望的なフレーズセンスに脱力した。

天皇の親方って……宮内を徒弟制度に作り替えるつもりかよ。

でも、わかってほしい。ぼくはもう、小学校卒業時には、自分のなりたいもの、将来像を、具体的に思い浮かべるのがイヤになってしまっていた。人に説明するのがおっくうだったのだ。




高校2年生のとき、父親に進路相談をした。東京大学に行って、宇宙物理学の研究をしたいのだと。

父親は、言った。

「科学と医学はおなじくらい広いんだから、医学でもいいんじゃないの。北大医学部が、偏差値的には東大理Iとおなじくらいでしょ」

納得した。なるほど。

実際には、うちの経済事情で、子供を東京に送り込むだけの財力がないからなんとか地元の大学に入って欲しいという親心もあったのだろうが、ぼくはこの、よくわからない理屈で医学部を目指すことになる。

そこに、医者になりたいとか、医学を研究して人を救いたいという精神はなかった。



今でも、公衆の面前で、「人を救うために」と発言するとき、ぼくはとても慎重である。夢とか理想の話にならないように。現実をきちんと伴わせられるように。

「ぼくは、あまり遠い将来のことを真剣に考えられるタイプではないのだ」という、自己分析がある。

目の前のイベントを乗り越え続ければ、いずれラスボスにたどり着くだろう、くらいの気分でいる。

夢を語ることが、難しく、恥ずかしく、また口にしてしまった以上はがんばらないと行けないし、潰えたときにとてもつらいのだと、そういう感覚が、心のどこかに残っている。




そして。




若い、とても若い、息子と同じくらいの年の人たちが、将来あれになりたい、これになりたいと夢を語るとき、ぼくはその夢を邪魔しないように、できればその夢が叶うまで、夢が夢として君臨し続けられるように、あるいは夢を語る人を邪魔する人が現れないようにと、だまって静かに、祈りながら見守っていきたいなあと、そう思っている。

2017年4月24日月曜日

病理の話(72)

前回、「がん以外の病気」でぼくはどんなものを診断しているかなあと少し考えて、いろいろリストアップしては見たのだが、少し時間を置いて見返してみると、あの病気もあるし、あの病気も書いてないと、ずいぶんと書き漏らしに気づいた。普段あまり意識していないあの病気もまれには目にするよなあとか、いつあの病気に出会っても大丈夫なようにまた勉強しておかないとなあとか、思い直したりした。


病理医は、勤めている病院や検査センターの「スタイル」によって、まるで違う病気をみることになる。ぼくも自然と、今勤めている病院や、出張で目にする検体に「頭がかたよってしまっている」。だから、ささっとブログを書こうとすると、どうしても内容に偏りが出てくる。


そんなの、どの医者でも一緒だよ、たとえばひとくちに整形外科と言っても、あの病院はひざの靱帯ばかり診ているし、あちらの病院は腫瘍ばかり診ているじゃないか。


……まあそうなんだけど、病理医の場合は、相手にする科すらバラバラだからなあ。


婦人科をぜんぜん相手にしない病理医もいるし、血液内科とご無沙汰だという病理医だっている。


あらゆる病気をみる仕事とは言うけれど、結局、自分の勤めている場所にいる「臨床医」のスタイルによって、みる病気が変わってくる、というわけである。




で、若い病理医は、考えるわけである。

将来、自分がどこでどのように勤務するかまだよく見えない時期に、いったいどこで研修をすれば、将来困らないような修練が積めるだろうか。

あの病院に行くと、軟部腫瘍は多いけど、肝臓は少ない。

あちらの病院は、胃腸がとても多くて、乳腺はあまりみないらしい。

研修期間が終わった後に、一人前となって勤めた病院で、はじめてある臓器に触れるなんてのは、怖すぎる。

それ以前に、病理専門医試験にはすべての臓器から問題が出されるのだ。オールマイティーに勉強しておかないと、受からない……。



ということでぼくは普段、「病理医を目指すなら、とにかく病理医の頭数が多いところで研修しなさいよ」と言う。

国立がん研究センターとか。埼玉国際医療センターとか。神戸大学病院とか。病理医が10人以上いるところ。各病理医ごとに専門性があって、いろんな臓器が集まってくるところ……。



……さて、この発想は、大筋では間違っていないと思うのだが、全国を丹念に見渡すと、「大学と市中病院とで緩く連携して、お互いの弱いところを補い合っている地域」というのもあるようだし、非常に教育力の高い指導医が2人ほどいて、検体数以上に勉強になる施設というのもあちこちに転がっているようだ。

ほんとうは、そういう、「病理の研修を積むならここだ!」みたいな施設を、全国見て回って、ブログとかに書けたらいいだろうなあとか、昔、考えたこともあった。

定年後の楽しみにとっておきます。

2017年4月21日金曜日

四次元ポッケ

エアポケットというのは具体的にどういうものを指すのか実はよくわかっていないのだが、エアポケットに落ちるとか、エアポケットに陥るみたいな表現を使うので、まあたぶん、飛行機が飛んでいるときに気流の関係でがくんとおっこちるあれをイメージしていれば間違いがないのだろう。

今日はメンタルがそういう感じの日で、なんだかがっつりと疲れてしまうできごとが多かった。仕事を複数抱えていたのだが、ひとつひとつの仕事をやっているときはいいとしても、次の仕事に移るまでの「思考の移動時間」でかなりロスをした。ふわふわと落ち着かない気分だった。

タイムラインを眺めていると、「今日は気圧が低いから、つらい気分になる人も多いだろう」というツイートが流れていて、なるほど、そういうのもあるのか、と少し納得して、なんだかちょっとだけ楽になった気がした。

そこでもう少し、自分を楽にする方法がないだろうか、と考えて、「エアポケット」を「エアポッケ」と言い換えてみたり、「気流の関係でがくんと落っこちる」を「わがまま気流でおてんばな動き」と言い換えてみたりしているうちに、夕方となり、安定を迎えた。



「人生低空飛行」みたいな書き初めをするのもいいかもしれない。書き初めというのは年の初めにやるものだと思っている人も多いかもしれないが、そもそも1年の間でいちども書道をしない人間であれば、何かを書いた日がそのまま書き初めになるのだ。そういえばぼくは子供の頃、パーマンセットを身につけて空を飛ぼうとするんだけど、どうしても体が50センチ以上浮かない、という残念な夢をよく見ていた。ドラえもんにそういうネタがあったのだと記憶している。

2017年4月20日木曜日

病理の話(71)

病理医をやっていると、普段仕事で扱う対象は「腫瘍」が多い。

腫瘍。できもの。体の中に本来存在しない、勝手に大きくなるカタマリ的な病気である。放置すると将来命に関わるものを、「悪性腫瘍」と呼んで特に重要視する。悪性腫瘍とはつまり、「がん」のことだ。放置しても命には直接関わらないカタマリのことは「良性腫瘍」と呼ぶ。子宮筋腫などが有名である。

で、まあ、病理で調べるものというとこの腫瘍がかなりの割合を占めるのだが、腫瘍以外の病気もそこそこ目にする。

するんだけど……これが……一般には、なじみのない病気ばかりなのである。



医療者以外の方々が思い浮かべる「腫瘍以外の病気」というと、なんだろう。

……かぜ。食あたり。心筋梗塞。肺炎。ケガ。腰痛。肉離れ。めまい。脳梗塞。胃潰瘍。乱視。虫歯……。

千差万別。そりゃそうだ、がん以外にも病気はいっぱいあるからね。

これらの中で病理診断が役に立つものは、ごく限られている。というか、今あげた中には、病理診断が必要なものはほぼ、ない。

かぜ、食あたり、肺炎、虫歯については、感染症というくくりに入る。感染症は、かかった部位と、かかった病原体の種類、そして体がそれにどのように反応しているのかというのが、治療をする上で重要なのだが、これらを見極めるために「病理医がプレパラートをみる」ことは、ほぼない。

顕微鏡自体は使う。グラム染色という方法を使って、菌を直接みる場合がある。ただ、病理診断とはちょっと異なり、細菌検査の手法のひとつである。

心筋梗塞とか脳梗塞のような、血管が詰まる系統の病気では、血管の詰まった場所を見極めて、血管を再開通させるとか、あるいは血管が詰まったことによる症状を抑えることが目的となる。この場合も、病理診断は特に必要とされない。

ケガ、腰痛、肉離れ。病理は用いない。

めまいとか乱視にも病理の出番はない。虫歯は……虫歯だけなら……まあ、病理は必要ない。



では、ぼくは普段、「腫瘍以外の病気」としてどんなものを目にしているだろうか。

・炎症性腸疾患。潰瘍性大腸炎とかクローン病といった、厚生省が難病認定しているやや珍しい病気。

・肝炎。ウイルス性のものが有名だが、近年はNASHと呼ばれる、脂肪肝に関係のある病気をみることが多くなった。

・虫垂炎(いわゆる、もうちょう)とか、胆石胆嚢炎など、腫瘍ではないけど、手術でとるやつ。

・子宮内膜症という病気。

・月経不順の方の、子宮内膜。

・好酸球性副鼻腔炎うたがいの、鼻粘膜。

・皮膚の病気。

・動脈硬化に対する手術で採ってきた血管。

頻度が高いところでは、こんなところだろうか。

当院には脳外科がないので、今の職場に勤めてからは脳神経系の病気はほとんど見ていないし、整形外科領域の検体も比較的少ない。泌尿器科が腎炎を扱っていないので、腎生検は長いこと目にしていない。一方、IBDセンターという炎症性腸疾患を専門に見る部門があるので、多くの病理医よりも炎症性腸疾患はよく見ているし、肝臓や胆膵領域も頻度が高い。

まあ、そういう「勤め先ごとの違い」はあるにしても、だ。



さっきの「かぜ、食あたり、心筋梗塞」などと比べると、病理医が目にする病気というのは全体的に聞き慣れない。これを読んでいる人の中には、「私はそれ知ってるよ」という方も多いだろうが、その知っている病気、自分の家族や友人に説明して、「知ってる知ってる」と言われそうですか?


ここからは、ちょっとうがった言い方なので、ブログゆえの軽口なんだなあと思って聞き流していただいてもよいのだが。


「病理診断をしなくても診療方針が決まる病気」というのは、「細胞まで見に行かなくても征服できる病気」と言うことができる。細胞一つ一つの細かな挙動よりも、もっと大きなダイナミズムが問題を起こしている病気である。病気の貴賤がどうこうではなくて、性質の違いだ。

かぜ、食あたり、心筋梗塞と聞けば、(学術的にどうかは置いといて)ほとんどの人は「ああ、なんとなくああいう病気だよね」と想像がつくのである。それは、病気の引き起こす現象が「マクロ」だからだ、と言うことができる。

これに対して、「病理診断をしないと診療方針が決まらない病気」は、「ミクロ」なのである。体の中に何が起こっているか、ぱっと見ではわかりづらく、じっくり血液検査をしたり医師が問診や診察をしたりしても、本質がなかなか見えてこない。だから、顕微鏡で細胞をみる「病理診断」が大きな意味を持つ。



で、何がいいたいかというと、病理診断を必要とする病気、必要としない病気、世の中にはいろいろあるんだけど、こと病理の話をしようとすると、どうしてもこの「ミクロな変化に意味がある病気」の話をせざるを得なくて、これが、なんというか、

「世間一般が認知しているイメージがあんまりない病気ばっかり」

なのである。説明しづらいのだ。



自然と、腫瘍、がんの話をすることになる。

実際に病理医をやってると、必ずしも腫瘍のことばかり考えているわけではないんですよ、とかなんとか、言いたい日があったのだ。いつかというと、今日である。

2017年4月19日水曜日

中年ファイト

ブログの記事はだいたい15~20分くらいで書くようにしていて、一気に最後まで書き上げた記事を読み返し、「まとまりがある程度あるな」と思ったらひとまずは「採用」とする。

書いた日から1週間後に自動公開するのだが、この1週間のうちに気が向いたタイミングで少しずつ読み直し、細かい手直しなどをする。

これはぼくの性格というよりも弱点を考慮したやり方で、自分の作る「初稿」には、「自分の頭の中にだけは浮かんでいるんだけど、うまく文章にできていないところ」がとても多い。だから、とにかく一気に全体像をまず作ってしまい、できあがったものをロングで眺めたり俯瞰で見返したりして、伝わりにくい部分を少しずつ削る。

粘土細工を思い浮かべている。

全部消すことが2回に1回くらいある。だから、「初稿」にあまり時間をかけてしまうともったいない。15分くらいでざっと書ける内容を、とにかく選ぶ。

この「ざっと書ける内容からスタートしている」というのが、たぶんぼくが持っている発信力の限界そのものなのだなあと日頃思っている。

ざっと書ける内容はざっと読める。しかし、ぼくらが現代のSNSでいちばん読みたいのは、たいてい、

「めちゃくちゃじっくり考えた内容を、すごい筆力でざっと読めるように書いたもの」

なのだよな。





ぼくはときどき、SNSでみんなが喜んでくれるようなものを書こうと思って、昔から考えていたこと、めちゃくちゃ考えまくってきた内容を、ざっとブログに書くのだが。

たいてい、そういう記事は公開前に消してしまう。これが2回に1回ということだ。

なぜ、昔から考えていたことに限って、ブログにするとしっくりこなくて、消してしまうのか。

自分の中に作り上げた風景が複雑になりすぎて、写生する力が追いつかないのかもしれない。

有名な「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前の中ではな」と、毎日戦っている気がする。

2017年4月18日火曜日

病理の話(70)

人間の消化管の中で、もっともがんが発生しやすいのは、大腸である。続いて食道もしくは胃。十二指腸にあるファーター乳頭と呼ばれる領域がこれに続く。もっとも腫瘍発生が少ないのは、小腸。

日本人を含めた一部の東アジア人の場合は、ここに(東アジア型)ピロリ菌感染という刺激が加わるため、胃癌の頻度がぐっと増える。

欧米人など、肥満者の割合が高く、腹圧が高く、胃酸が食道に逆流しがちな人々は、食道のがんが増える。

大腸がんも、実は肉食との関係が深いと言われているため、人種間で発生の頻度に差がある。

おなじ人間同士であっても、遺伝子のタイプとか、食べているもの、ピロリ菌などの環境因子などによって、病気にかかるリスクが異なってくる。



それにしても不思議なのは小腸である。



消化管の中で最も長いのが小腸なのだから、そこにある細胞の数だって小腸が一番多い。細胞の数が多いということは、すなわち、ターンオーバーする細胞の数も多いということで、新陳代謝で細胞が入れ替わる頻度が高ければ、それだけエラーをもった細胞が出てくる頻度も高くなりそうなものなのに。がんがもっと、いっぱい発生してもおかしくないのに。

小腸がんというのはかなりまれだ。なぜだろう?



人間の体の中では、実は、「体外に近い部分ほどがんが出やすい」という原則がある。これは、単純に距離が近いというだけの話ではない。たとえば胃カメラのように、体外から突っ込んでいくものを想像してもらおう。胃カメラを想像できない奇特な人は触手でも想像したらいい。

触手は最初は、皮膚を外側からつんつんしている。

口の中に入って、食道の粘膜をつんつん。

胃まで進めて、胃粘膜をつんつん。

外側からやってきた触手が触れる部分は、「体外から接することができる」、すなわち、体外と体内との境界部分ということになる。これらは、触手に限らず、食べ物とか、酸とか、菌のような、体外からの刺激を受ける場所である。

自然と、エラーを起こしやすくなるというわけだ。



食道は、食べ物が物理的に激突する臓器であり、あるいは温度によっても、刺激を受ける。胃酸の逆流によっても刺激が加わる。

胃は、胃酸をばんばん出す臓器だし、ピロリ菌の関与とか、胆汁の逆流など、ほかにもいろいろと刺激が加わりうる。

大腸は、さまざまな常在菌がうようよ住んでいる。また、胃でいったんやわらかくされた食べ物が水分を失ってだんだん硬くなり、物理的な刺激をもたらすようにもなる。そもそも、体が不要と判断したゴミが通過する臓器である。刺激も多かろう。



小腸だって、細い専用のカメラを使えば(あるいは細い触手でもよいが)、体外から触ることはもちろん可能だ。ただ、単純に距離が遠すぎるのであろう。

ほかの臓器に比べると、刺激が少ないのかもしれない。



以上は単なる推測であって、証明されたものではないのだけれど……。

がんの話をするときに、「複数のリスク」を想定して、「なにがこの病気を引き起こすきっかけとなったのだろう」と考えていくと、物理刺激とかケミカルな刺激、菌のような微生物によるものなど、ほんとうに多くの因子が絡んできて、もはやわけがわからなくなってくる。そんなとき、「まあ、触手が一番届かなさそうだもんね」という言葉でざっと説明しておくと、なんとなく「腑に落ちる」ので、ぼくはたまーにこういう説明を使うようにしている。



ほんとはもっと奥が深いんだろうなあ。そう思ってくれる一部の人が、まれに病理学講座の門をたたいたりする。

2017年4月17日月曜日

ビクトル・ユーゴー 略して

風がものすごく強いんだけどこの「ビュゴォー」という音はなぜ鳴っているのだろうかと考える。

たぶん、建物のすきまとか、木々とか、そういったものに空気があたって音が鳴ってるんだろうな。

じゃあ空気がそういうのに当たるとなんで音が鳴るんだろう。

大きい壁にただ当たるだけでは音は鳴らないで、細いものとか細かいものに当たるとヒュオッって鳴るのはなぜだろう。

口笛のときに口をすぼめると音がなるけど、口を開けると同じ風量でも音が鳴らないのはなぜだろう。

うまく吹けないときと、きちんと音が鳴ったときの「中間」がないように感じるのはなぜだろう。

外の風の音を聞きながら、ひとつひとつ、自分の物理学の知識で回答を与えていく。

音は空気の振動だから……。共振が……。狭いところだと……。

途中までは回答できるが、最後の、「なぜ細いところを通る必要があるのか」については、高校までの物理の知識がうろ覚えになりつつある今は、即答できなかった。

たぶん、ググれば、どこかに書いてある。




ふと。

「風の音」すら記述できないんだな、ぼくの常識は……。

そういう気分になった。




難しいことは知らないままでも、人生は楽しくやっていける。

ほんとうだろうか?

学校の勉強よりも大切なことが世の中にはいっぱいある。

ほんとうだろうか?

学校の勉強くらい綿密に学び続けてよいのなら、ぼくはあるいは「学び続ける人生」を選んだかもしれない。




何かを知らないまま笑い続けることができない人もいるのだ、ということを、小声でささやいておく。風の音に吹き消される。

2017年4月14日金曜日

病理の話(69)

細胞をみればその病気がわかる、というのはある意味信仰に近い。

正しく言うならば、「細胞を見れば、その病気がどんな細胞からできているかわかる」だ。なんだか循環論法みたいだ。

どんな細胞からできているかを知ることが、患者さんのためになるだろうか?

なる、とも言えるし、ならない、とも言える。「可能性と限界」と意訳できる。



病気がどんな細胞からできているかわかることによるメリットは、たとえば「がん」の診療で顕著である。現代の医学は、「がん」というひと言だけでは治療が決められないほど進化して多彩になった。

細胞がどんな種類か(腺上皮と呼ばれるタイプ? 扁平上皮と呼ばれるタイプ?)、細胞がどんなタンパク質を持っているか(HER2は? SSTR2は?)、細胞の遺伝子にどんな変化が起こっているか(KRASの変異は? EGFRの変異は?)によって、抗がん剤の種類、手術の方式などを細かく変えることができる。オーダーメード治療と呼ばれるやつだ。

CTやMRI、エコーに内視鏡などがどんどん進化しているため、実は細胞をとらなくても、細胞の種類をある程度見極めることはできる。しかし、オーダーメードというのは、「かゆいところに手が届く」ことが必要なのだ。なんとなくざっくり分類するのではなくて、細胞までしっかり見てビシッと分類することこそが求められる。

こういうとき、「病気がどんな細胞からできているかを知れば、患者さんのためになる」と言える。


一方で。


肝細胞癌という病気がある。この病気は、肝臓にできるがんの中でもっとも多いものだが、たとえば2cmくらいのサイズで見つかり、病変のかたちがきれいな球形をしている場合には、

「細胞を採取せずに、ラジオ波で熱を加えて焼いてしまう」

という治療をする。

この場合は、病理診断が入るスキマがない。画像で見てがんだと判定して、焼いてしまうから、生きている細胞を採りに行くタイミングがないからだ。

さらに、統計学的な検証によって、「病理診断をしてもしなくても、患者さんのその後の経過にかわりがない」ことがほぼ示されてしまった。細胞を見ても見なくても治療方針が変わらない。だったら、細胞なんて見なくてよい。

小さくおとなしめの肝細胞癌においては、「病気がどんな細胞からできているかを知っても、患者さんのためにならない」ということがありうる。



医学が科学の中で少々特殊なのは、「真実を明らかにすること」よりも、「患者さんが苦痛から少しでも遠ざけられること」の方が大正義である、という点である。このことを踏まえると、

「あれをやればもっとよくわかるのに」

という検査に医療保険が下りなかったり、

「これを研究すればもっとよくわかるのに」

という研究室に予算が下りなかったりする理由も、少しは理解できる(共感はしないかもしれないが……)。





ところで、「知りたいということ」が「患者さんのために」を下回る場合、「知らなくてもよいだろう」と片付けてしまってよいものなのか?

うーん、ここは難しいんだけど……。

病理医が第一に大切にするべきは「患者さん」なのだが、直接のお付き合いがあり顧客でもある「医療者」も大切にしないといけない。

「患者さんのために」 ≧ 「医療者のために」

くらいの気分でいる。

医療者ってけっこう知りたがりなんだよなあ……。だったら……。

ま、患者さんに迷惑がかからず、社会にも負担を増やさない程度に、丹念に、だけども、知ろうとすることに答えていくのも、立派な業務なのではないか、と思ったりするのである。

2017年4月13日木曜日

ネッイームゥ

漫画家さんの「ネーム」をみる機会があったのだけど、あれはすごいものだね。

ほんとうにおどろいちゃった。鳥肌が立つ、っていうけどそんな生やさしいものじゃない。皮膚の、表皮と真皮の間が裂けるんじゃないかと思った。全身の薄皮が剥がれて脱皮してしまいそうだった。

構図がすごい。文章だったら何十行もかけて説明しなきゃいけない内容を1コマの中にスッと入れている。語りかけてくるような説得力。

セリフがないのにキャラクタがしゃべっているように見えた。表情一つ、顔の向き一つでここまで表現できるものなのか。

なにより、ぼくが本気で書いたイラストよりも漫画家さんがネームに書いたラフイラストの方が圧倒的に美しいのである。



「そりゃそうだろう」と思われるかもしれないが……。



ぼくはたぶん、絵のどこがどうすごいとかを分析することはできるし、上手な絵とヘタな絵の違いを文章にすることもできるんだけど、文章にできるからといって自分が上手に絵を描けるわけではない。それはもう、居酒屋でくだを巻いている野球好きのおじさんは日頃から推しチームの4番打者に向けて怒声をあびせているけれどバッティングセンターでは100キロのボールにかすりもしないのと一緒だし、三代目JSBのライブを無理矢理みせられた彼氏が「岩ちゃんって実は一番ダンスが下手だよね」と言ってみたいけれど自分は学生時代に流行ったムーンウォークで挫折しているのと一緒だし、カヨコ・アン・パタースンの英語をバカにする人の9割9分がたとえ日本語であっても銀幕に立つことなどないのと一緒である。

解説はできるが実践できないものばかりだ、世の中というのは。

いや、正確には「解説はできるが実践できないものばかりだ」なんて先刻承知であった。でも、あらためて実際に経験すると、びっくりしてしまった。

見事な入れ子構造である。



誰もが自分の得意なものを持っているかというと、世の中はそうそう優しくはできていない。

ぼくを含めた大多数の持たざるものたちが、今日もプロの仕事を当たり前のように消費しているんだけど、たとえば冒頭の「ネーム」のように、「仕事のすごさをいやでも体感させられるような体験」があると、なんだか脱皮した皮がさらに土下座をするのではないかという、圧倒的な何かを覚えて気が遠くなってしまう。

でもまあ、こういうときにぼくができる「最低限のこと」は何かなあって考えると、「すごかったよ……まねできねぇよ」と言い続けることなのだろうなあ、とか、その程度であろうなあ、とか。

2017年4月12日水曜日

病理の話(68)

ある細胞が「がん」なのか「がんではない」のかを決めるにはどうしたらいいのか。

病理医が見て決める、というのはまあ、そうなんだけど、じゃあ病理医は何を基準に細胞を判定しているのか。

ベテランの医師に尋ねると、例えばこういう答えが返ってくる。

「あれでしょ、核異型(かくいけい)とか、構造異型(こうぞういけい)とか、つまり、細胞のカタチ見て判断してるんでしょ。悪そうだとか、良さそうだとか」

まあほぼ合ってる。

でも、「ほぼ」だ。

この「ほぼ」はけっこう誤解を招く原因となる。

「カタチみてがんかそうじゃないか決めると言っても、たとえば、『まんまる』と『楕円』の境界をどこでひくかとか、『ごつごつ』と『つるつる』の境界をどこでひくかとかさ、あいまいじゃん、ファジーじゃん。そんなの主観じゃん。がんの診断って怖いよなー」




ぼくらは、より正確には、

「過去に多くの人が亡くなる原因となった病気に見られた細胞と似ているかどうか」

を判断している。

「亡くなった」という結果からさかのぼって、

「亡くなる前にはこういう細胞が見られることが多い」

「こういう細胞が出現しているといずれ亡くなる」

が延々と検討されてきたのだ。それが医学だ。

「この病気を放っておくと死んでしまう」

「放っておくと死ぬ病気にみられる細胞はこういうカタチをしている」

というのが、じっくり積み上げられてきたのだ。

積み上げてきた結果として、細胞の中でも核を見るとかなり精度の高い予測ができるということが明らかになった。

細胞のカタチだけではなく、細胞同士が徒党を組んで作り上げる構造も観察するとよい、とわかった。

わかった結果が、教科書に書かれ、受け継がれるごとに多くの人々の目に触れ、

「ここにはこうやって書いてあるけど、実際には違う場合もあるぞ」

みたいな厳しいご意見をどんどん集めて、教科書が少しずつ精度よく変化してきて、そして、今に至る。

現在の病理学の教科書には、積み上げられた結果の表層部分が主に書いてある。

積み上げてきた検討内容の、底の部分まで掘り下げて検討するのは、なかなか骨が折れるが、できなくはない。





「がんか、がんじゃないかなんて、病理医がその場の胸先三寸で決めてるんでしょう?」



ええ、そうですね、人類の歴史、医学の積み上げを学んで、多くの教科書や先輩達が伝えてきた内容を現代に合わせてアップデートし続けた、最新の医学を学んだ専門家の胸先三寸で決めているんですよぉ。

細胞の核が腫大しているかどうか、すなわち核内の遺伝情報が急激に増殖しようとしているかどうか。核分裂が頻繁に起こる細胞かどうか、すなわち核縁にひっついているヘテロクロマチンの分布が不均一になるかどうか、つまりは核膜の厚さが不均衡かどうか。核の形状がいびつかどうか。クロマチンの濃さはどうか、分布パターンはどうか。核小体が明瞭化しているか。非腫瘍細胞では見られないサイズの核小体が出ていないか……。

核だけではなく、細胞質、細胞の接着性、隣り合う細胞同士の不同性あるいは均一性、作り上げる構造が正常をどれだけ模しているか、周囲の構造を破壊していないか、脈管侵襲像はないか、神経周囲に沿うような進展はないか……。

いやあー、ほんとにいろいろ見所がありましてぇ、いろいろ教科書に見方があって、どの所見が強い力を持つかもきちんと書いてあってですね、これらをぉ、最終的にはぁ、「主観!」でぇ、見ていくんですよぉ。

歴史を学んだ人間の胸先三寸で、決めてるんですよぉ。

2017年4月11日火曜日

あとドラゴンボールとナンバーガールに例えることも多い

病理の話が少しずつ難解になっているようにも思うが、ぼくの中ではこのブログは、誰にもわかる話と、ぼくらしかわからない話、両方を書こうという気持ちでそもそもはじめているのだ。

だから、病理の話と、なんでもない話を、交互に書いている。

今日は難しかった? マニアックだった? ごめんなさい、明日もマニアックだけど、でももう少しわかりやすい話を書くね。でも、明後日はまたわかんない話にしようかと思ってる……。しあさってはわかりやすいように気を付ける。



「読者設定をして何かを書く」という作業に慣れすぎることに対する、抵抗感がある。

目的と手段、ということを考えた時に、目的が「より多くの人に病理を知ってもらいたい」であれば、対象となる読者をきちんと想定して、病理に興味を持つ人が一人でも増えるように手段を選べばいいのだが、どうもこのブログの目的はそことはちょっとずれていて、「自分が病理に対してどれだけ書けることがあるのかを知りたい」というところにある。

そして、もうひとつ、「自分とちょっと似た人に届く文章って何だろうな、それを知りたい」というのもある。



ちょっと前の話なのだが……。

興味のわいた映画があり、おっ、見てみようかなと思いかけていたところで、猛烈な勢いでその映画をプッシュする人の文章を読んだ(ちなみに書き手は、おそらく皆さんが知らない人です。なぜかというと、書き手はぼくの同級生であり、文章が公開されていたのは非公開のFacebookですから)。

とてもいい文章で、まだ見てもいない映画に対し、ぼくはおよその世界観とか見所を、ネタバレしない程度に味わうことができたのだが、全ての文章を読み終わったときに、

「うーん、彼以上にこの映画を楽しく見る自信がなくなっちゃったなあ」

と思って、映画を見に行くのをやめてしまった。



これは極端な例なのだけれども、ある世界に飛び込んでおいでよと説明してくれる人が、あまりに親切で初心者向けだと、その世界で何か尖ったことをしたり、何かを成し遂げたいと思っている人は、ちょっと興ざめしてしまう、なんてこともあるのではないか?

いやいや、そんなあまのじゃくばかりじゃないよ。

初心者向けの文章でまずはその世界に興味を持ってもらうことこそが、間口を広げて、ひいては世界人口を増やす一番の近道じゃないの……。

自分の中でずっと議論が続いていたのだが、先日、ある仮説にたどり着いてしまった。

病理医なんて基本的にあまのじゃくが指向する分野なんだから、本当に病理の世界に興味を持ってもらいたいのなら、あまり素直な文章ばかりじゃなくて、多少あまのじゃくな視点で好き勝手に書くくらいでも、ちょうどいいんじゃないのかな……。




まあ言い訳はともかくとして、「両輪で書く」というイメージがぼくの中にある。両輪というのはぼくの中にある人生のキーワードの一つだ。

キーワードとしてはほかに、「この世はすべて複雑系」とか、「共感しなくとも理解はできる」とか、「名言の多くは物事を動かさずにナワバリ線を引き直すだけ」とか、「演繹・帰納・アブダクション」などがあるが、この話はたぶんここでするのは2度目で、3度目に書くときにまた少し詳しく触れてみようかと思っている。

2017年4月10日月曜日

病理の話(67)

臓器がどのように発生したのかを考えるのはとてもおもしろい。

そもそも、タマゴ1個が分裂を繰り返して、こんな精巧な体を作り上げるというのが不思議でしょうがない。ブルゾンちえみによれば体の中には細胞が60兆個くらいあるという話だ。

細胞分裂の過程をどんどん追っていくと、どこかの段階で、単純に倍々ゲームだった細胞が、役割分担をすることになる。

君はここで何かを作りなさい。君はここで何かを支えなさい。君はここで道路になりなさい。君はあそこで柱になりなさい。君は体外に分泌するものを作ろう。君は血管の中に分泌するものを作ろう。君たちは集まってネットワークを作ろう。

君たちのグループはこの場所にないと、次の部署への受け渡しがうまくいかないから。

君たちが作る分泌液は、この臓器の中に放出するので、このあたりにいると近くて便利だから。

細胞は、ただ分裂するだけではなくて、居場所を定められる。

膵臓という臓器があるが、これは実に複雑な発生をしている。具体的には、腹側膵という部分と背側膵という部分が、発生の過程でドッキングしてできる。ガンダムが上半身と下半身に分かれていて、コアファイターを中心に引かれあって合体するようなイメージだ。

しかしこの合体にしても、単に腹側にある膵臓と背中側にある膵臓がくっつくだけではない。腹側膵はもともと、十二指腸に向かって左側に存在するのだが、

「十二指腸の周りをポールダンスするように、後ろにぐるりと回り込んで、背側膵と合体する」

のである。もう、わけがわからない。腹側に発生したから腹側膵という名前がついているのに、十二指腸の後ろを回り込んでドッキングするため、結果的には「背側膵に後ろから近づいてドッキング」してしまうため……

「大人の膵臓においては、腹側膵は背側膵の”背中側”にある」

という、もう書いていてわけがわからない状態が達成される。


これらには全て意味がある。腹側膵がわざわざ十二指腸の周りをポールダンスするのは、腹側膵が発生の段階で胆嚢や胆管を引きつれて十二指腸の後ろに回り込むためであり、胆管と膵管が正しくドッキングするためにはこうするしかなかった、という解釈だ。

まあ意味と言っても人間が後付けしただけなんだけど……。



なんでこんな、文章で書いてもわけがわからなくなる不思議な立体構造を解説したかというと。人体の中にある病気の一部は、「発生の段階でちょっと失敗しちゃった」というのが原因となって発生しているからだ。

病理学を学ぶためには解剖学もそうだが、発生学も知っておいた方が都合が良い。

例えば腹側膵と背側膵の癒合不全はdivism(ディビズム)という異常につながるのだが、このdivismが存在する人においては、胆管と膵管の合流異常もまた観察される場合が多いし、膵胆管合流異常がある人には(炎症などが起こりやすいためか)膵臓癌が発生しやすいという傾向がある。

このあたりは、発生学を理解していると、わりとわかりやすい。

(参考リンク: http://mymed.jp/di/tyc.html このサイト、信用して良いのかどうか微妙ですが、少なくともこのページの図についてはある程度妥当ではないかと考えています)


刑事物のドラマのラストシーンで、犯人が言い訳たっぷりに自分の不幸な生い立ちを語り始めると、ぼくみたいなゆがんだ視聴者は「そういうのいいから……」と冷めてしまうのだが、しかし、病気の原因を探ろうとするとその生い立ちに遡るというのは、確かに一定の効果がある。

なんでお前、こんなことになっちゃったんだよ、というのを解釈する作業は、病気の「動機」を探る作業に似ているのではないか。

2017年4月7日金曜日

札幌市にはUFO高校というのがあるのだとずっと思っていた

デスクの前の壁に、カレンダーを3セット貼っている。うち、2つは「1か月分のカレンダー」で、1つは「2か月分のカレンダー」である。

今が4月なら、カレンダーはそれぞれ、「4月」、「5月」、「6月と7月」のようにめくっておく。だいたい4か月先までの予定を書き込めるようにする。

正直な話、以前は、自分の予定をデスク前面にバァーンと表示することで、忙しさをアピールする目的があった。

病理医はすぐ9時5時でラクそうだとか言われるので頭に来たのだ。

用意するカレンダーも、「2か月分のカレンダーを3セット」として、半年分書き込んだ真っ黒なカレンダーで壁面を彩り、たずねてくる医療者達に圧力をかけていた。

ちょっと精神が幼かったのだと思う。

今の時代、Googleあたりのアプリを使って管理する人の方が多く、アナログなカレンダー管理自体にあまり優位性がないというのもあるが、ぼくはもうそういう忙しいアピールはやめることにした。通り過ぎたことに後悔はないが、もう戻りたいとも思わない。高校生活と似ている。



昔から、カレンダーにはたいてい美しい写真がついている。今貼ってあるのは野鳥の写真と、野草の写真だ。なぜ野山しばりなのかは偶然なのでよくわからない。

カレンダーに使ってもらえる写真なんて、一流だよなあ。いいなあ、こんな写真が撮れる人は。

野鳥の方は、「ヤマガラとシジュウカラのバトル」だそうだ。撮影地は札幌、とある。どうも素人の投稿写真らしい。

野草のほうは、エゾコザクラ。撮影地は富良野。なんだよ、これも北海道の写真かよ。



ぼくは被写体ばかりの土地で暮らしているのに、自分が検査室の備品からパクってきたカレンダーの写真にも気づかず、ただ予定を書き込んでやってくる人にドヤ顔で提示するだけで毎日を暮らしていたのかと思うとがっくりする。



どうせドヤ顔を晒すなら、こんどは自分で写真を撮って、カレンダーの代わりにデスクに飾って……。



卒業できていない。高校やり直しである。今度は定時制かもしれない。