2017年8月21日月曜日

病理の話(112)

レゴブロックが無数にあったら、人間の形をきちんと再現できるだろうか。それはもちろん、できるだろう。

実際、レゴのお祭り(?)みたいなのに行くと、恐竜とか自動車とかエッフェル塔みたいなものを、レゴでうまいこと作り上げている。お城なんかも見る。あれはすごいよね。

ところで、外面の輪郭だけではなく、内臓まで作れるだろうか。

細かく、細かく、細胞の配列まで。

レゴブロックが無数にあれば、あと、広い広い作業スペースと、根性があれば。きっとできるだろう。

だから、今から、爆裂に広い体育館と、無数のレゴブロックと、自由に動かせるクレーンリフト(作業用)、すごく性能のいい接着剤、その他、ありとあらゆるインフラを各自の脳内で準備してもらいたい。

準備はよろしいか。




作業を始める前に。やたらめったら端から順番に臓器やら血管やら心臓やらを作る前に。

どのような形が「頻繁に登場するか」ということを考えておくと、レゴブロックを準備するときに、ラクで良い。

レゴの達人は、あらかじめ、パーツをきちんと小分けする。色とか形とか機能ごとにまとめて、工具箱のようなものにしまっておく。

その方が効率もよいし、必要な形をスバヤクつくることができる。

だから、我々も、「人体を作る上で、何度も使いそうなパーツ」をきちんとより分けておこう。




人体の中で、もっとも重要、かつ、しょっちゅう登場する構造というのは……

・パイプ

だ。

血管はパイプである。リンパ管というのもある。食道もパイプだ。尿道だってパイプだ(カットという言葉もあるだろう)。胃もふくらんだパイプ。乳管だって、尿管だって、胆管だって、精管だって、その名の通り管である。

パイプばかりなのだ。人体は。

それと、もうひとつ大切なのが、

・プレゼントボックス

である。中から水とか粘液とかが出てくる。

臓器というのは、たいてい、これらの組み合わせで作られている。

本物の人体には、ほかに、筋肉とか脂肪、そして神経があるんだけれど、レゴのように「動かさず、飾って楽しむもの」なら、神経を電線のように張り巡らせるのはパスしてよい。脳のあるべき場所にはパソコンでも叩き込んでおこう(ニューラルネットワークとはシャレが効いている)。筋肉や脂肪もハリボテでよかろう。



プレゼントボックスにはふたがついている。ふたが空く場所は基本的に1箇所だ。横とか下は空かない。

プレゼントボックスを横にならべて連結させる。そうすると、まとまった量の水とか粘液とかが出せる、「噴出口」ができる。

噴出させっぱなしでは、そこが噴水みたいになって終わりだ。だから、出てきた液体をパイプに集めて流す。目的の場所へと流す。

肝臓にあるプレゼントボックスは肝細胞という。パイプは胆管だ。プレゼントボックスから出てきた液体(胆汁)を、パイプに流し、パイプはそのまま十二指腸という大きなパイプに接続される。

乳腺にあるプレゼントボックスは乳腺腺房(せんぼう)細胞という。パイプは乳管だ。プレゼントボックスから出てきた液体(乳汁)を、パイプに流し、パイプはそのまま乳頭に開口する。

腎臓では少々複雑なことが起きている。パイプとしてまず血管がある。血管は細かく枝分かれしながら腎臓に入り込み、パイプに空いた細かい穴がボックスと接している。ボックスの中に、血液の中に入った不純物、いらないゴミが置いていかれる。プレゼントボックスというよりはダストボックスである。ダストボックスは、もう1種類のパイプ、すなわち尿細管(にょうさいかん)と呼ばれる管とも接続していて、こちらの管にはゴミをプレゼントする。尿細管は集合管に流れ込み、集合管は腎盂に流れ込み、腎盂は尿管に流れ込み、尿管が膀胱に接続し、膀胱が尿道にくっついて、最後は液体(尿)が体外に排出される。



人体ってのはつまるところ全部これなのだ。

やりとり、流れ、運搬。

つまるところ、なんて書いたが、「詰まって」しまっては大変なのである。

心筋梗塞: 心臓のパイプ(冠動脈)が詰まる病気

脳梗塞: 脳のパイプ(動脈)が詰まる病気

尿管結石: 尿を通すパイプ(尿管)が石で詰まる病気

胆嚢結石(たんせき): 胆汁を溜めるパイプ(というか袋)(胆嚢)が石で詰まる病気

これらは全て痛みを伴うし、ときには命にかかわる。



人体、特に内臓を作るときには、パイプとプレゼントボックスをうまく組み合わせることが肝要である。というか、それ以外あまり考えなくていい。

2つ並んだプレゼントボックスの、ふたとふたがくっついていたら開けられないだろう。

だからプレゼントボックスを並べるときには、ふたはみんな同じ側に揃えておこう。

パイプを試験管の形(盲端)にして、はしっこのあたりにプレゼントボックスのふたをいっせいに開口させたら、試験管は噴出口になるだろう。

パイプの角度をあまり頻繁にいじってしまうと、ねばねば粘液を運ぶときに詰まってしまうから、自然界の川のように自然な鋭角で流れ込むようにしよう。

プレゼントボックスを直接太いパイプに開口させると、太いパイプからの逆流でボックスが壊れてしまうから、なるべくパイプを枝葉のように分岐させて、プレゼントボックスは枝の一番先のあたりに開口させよう。

……レゴか、マイクラか、という感じで、このように、パイプとボックスの配置を考えて考えて、考えまくる。




考えた先が、人体なのだと、思っていただいて結構である。

だから解剖学とか組織学を勉強すると、あまりにうまくできた人体の仕組みにほれぼれすることになる。このレゴ作った奴すげぇなあー。

2017年8月18日金曜日

脳だけの旅をする

先日、どこかのブログで、「見る専クラスタ」という言葉をみた。若い学生の大半は、SNSのアカウントを持ってはいるが1か月に1回も更新せず、ただひたすらにタイムラインを眺めたり検索をしたりして、いいねも押さずに情報を集めたり笑ったりしているのだ、という話。

これは、とてもよくわかる。

釧路の看護学校で教えていると、学生達はみなツイッターアカウントを持っているが、そもそもツイート数ゼロという人間がかなり多い。一般に公開するツイートはゼロ、友人にあてたリプライだけが数万、というやつらもいる。それならLINEでいいじゃん、というと、LINEと違ってリアタイで返事するプレッシャーが少ないし、芸能情報検索するのに一日何度か見に来るからそれで十分、という返事が来た。これぞデジタルネイティブだ。





インタラクティブということばは時代遅れなのかもしれない。

もらったら返す、という関係は、たまにでいい。

一時期、テレビが「dボタン」などを使って双方向放送にこだわりはじめた時期があった。でも、結局、ちょろいアンケートとか子供が退屈しないためのミニゲーム的な役割しか果たせていない(しかもあのゲームはたいてい退屈だ)。

ぼくらはそこまで、四六時中ずっと双方向でありたいと願っているわけではないのだと思う。




だまって脳の中で旅をする時間が必要なのだ。何も言わず、問わず、責めず。入力と出力は、場所、時間ともに、一致していなくていい。




自分がつくりあげた想像のお城にもぐりこんで、広間で誰かと踊ったり、かかっている絵を見たり、テラスから風景を眺めたりしている間は、

・大声でひとの悪口を言う
・ネットで他人の醜聞を検索する
・だれかのアラ探しをする
・徒党を組む

などの行動はいっさいできなくなる。素晴らしいと思う。どこかの戦場に魔法をかけて、全員がけものフレンズの二次創作に没頭したら戦争は終わるだろう(別の意味ではじまるかもしれないが)。妄想にふけるという行動は、世界にとって「鎮静をかける」ようなはたらきをしているのかもしれない。ジョンレノンとオノヨーコは「ぼくらべたべた愛し合っている間は戦争しなくていいんだよ」みたいなメッセージを発していたけれど、パートナーがなければ戦争が避けられないなんてのはそれこそ筋が悪い。脳を愛すればそれで十分ではないか?



……そういえばよく考えたらイマジンという曲があったな。歴史というものはうまくできている。

2017年8月17日木曜日

病理の話(111)

病理医とはどういう仕事ですかと聞かれた時、一番インパクトがあって説明も簡単なのが「顕微鏡をみる仕事です」である。

顕微鏡をみる仕事は、えーとなんというか、固定観念的な映像が存在すると思う。

よくあるだろう、

”白衣を着て顕微鏡を覗き込むポニーテールの女性を横からアップで抜くカメラワーク”。



でも、ま、よく考えると、白衣の役割というのは、
・服に汚染がつかないように着る
・患者に医療者であると伝えるために着る
などである。そもそも、顕微鏡をみるときに白衣を着ている必要はあまりないのだ。

特に病理なら、顕微鏡をみる上で白衣を着ている必要は、ほとんどない。


万が一、顕微鏡でみる「試料」、あるいは「検体」が、なんらかの感染症を引き起こす可能性があるならば、我々はきちんとマスクをして、ゴーグルもつけて、白衣だけではなくディスポーザブル・ガウン(使い捨てのカッパみたいなやつ)を着て、手袋もして臨むべきだ。

けど、病理でみるプレパラートというのは、ホルマリンという強烈な変性効果をもつ液体で処理されているし、スライドガラスとカバーガラスで試料を挟んでいるし、9割9分のケースでは感染の危険はなく、素手で扱ってなんの問題もない。

白衣はいらんのだ。そもそも。


だから我々はいろいろなかっこうで仕事をしている。

白衣を着ている人もいる。ただそれは、通常の医療者とは異なる理由で着ている。



「医療者である」とわかりやすい見た目でいたい、とか。

白衣を着ると医療をやってる感が出て気持ちがひきしまる、とか。

顕微鏡はともかく、臓器切り出しのときには白衣を着てないと汚れが気になるから、とか。

ほかの医療スタッフがみんな着ているから、とか。



ぼくが1日の中で白衣を着るのは、ボスと二人で食堂に行って昼飯を食うときだ。

ふつう、食堂には「白衣を着てくるな」と言われる。それはそうだ。食べ物を扱う場所に、臨床の汚染を持ち込んでいいわけがない。

けれどぼくらは逆である。

「食事のときしか白衣を着ていない」のだから。

行ってみればぼくにとっての白衣は「スタイ(よだれかけ)」である。

ナポリタンはよく跳ねるんでちゅよ。




仕事場での衣類というのは実用目的もそうだが、仕事相手になめられないためとか、一人前の人間として見てもらうためとか、信用してもらうために必要だと思う。

ぼくは就職したころ29歳だった。病理医としてもそうだが、そもそも医者としても若すぎて、みんなまともにぼくの話を聞いてくれないだろうと思った。ほかに代わりのいる医者ならゆっくりと研鑽を重ねることだけ考えていればいい年齢だった。でも、29歳だろうが5年目だろうが、カンファレンスはあるし、病理の話は聞いてもらわないといけない。ぼくらが成長するためには、臨床医がぼくらをまともに見てくれることが絶対必要なのだ。画像を勉強しようと思ったら臨床検査技師や放射線技師に声をかけてもらわないと話にならない。ぼくは見た目をどうしたらいいかと考えた。ケーシー(白い上下)やスクラブ(コードブルーでみんなが着てるやつ)だと、いかにも研修医然としていてかんろくがない。だからぼくは毎日スーツで出勤して、ノーネクタイでジャケットを脱いで、カンファレンスルームの一番前でぐいぐい画像を読めばみんなのインパクトに残るだろう、そう思って、背伸びをしながら毎日スーツを着ていた。

そういうことを思い出しながら、テレビやYouTubeの映像で、病理医が白衣を着て顕微鏡をのぞいているシーンを見ている。



わかるわかる、だれかに訴えかけるならまずは服からだよな、と思いながら、やさしく眺めている。ポニテにするのはAVのアレと同じ効果を狙っているんだよな、とか、口に出さずに眺めている。

2017年8月16日水曜日

昼ご飯がライスバーガーだった場合はどうする

「おめでとうございます」とキータッチするつもりが、右手のポジションが少し内側にずれていたらしく、「おめで」が「いねで」と入力されていた。

稲で、すなわち、米のことを考えようと思った。




「朝ご飯、ごはんにする? パンにする?」

よく考えたら不思議な言葉である。ごはんが二度きみのドアをノックしている。

「朝ご飯、お米にする? パンにする?」

ならわかる。けれど、「朝ご飯はごはんにするかな」なんて、よく考えたら、馬から落ちて頭痛が痛いような言い回しなんだけど、自然に使ってしまっている。

「ごはんが ごはんが すすむくん」をパンにつけて食が進んだという例はあるのだろうか。

「ごはんですよ」をラーメンに乗せるのは……アリだろうが……まあ最初に考える事とは思えない。




「ごはん」ということばが「米のめし」というニュアンスを包含しているのは日本語だけなのだろうか?

日本人がみな米を食うようになったのは最近だと思うのだが、それまでは「ごはん」という言葉は存在したのか?

「御飯」すなわち「ありがてぇめし」だから、最初から米のめしのことを指していたのかもしれないな。

それがいつしか、「朝ご飯」「昼ご飯」「晩ご飯」などと、食事そのもののことを指すようにシフトして。

「今日の朝ごはんはパンです」みたいなファンキーな言い回しが生まれてきたのかもな。

「今日のご飯はナンカレーよ。」のひとことに含まれた複雑な歴史と矛盾を思うと、腹が減ってくる。




そういえばぼくは、食事のことを扱うコラムとかブログ記事の中に「腹が減ってくる」というフレーズをみると、あまりの陳腐さにブラウザを閉じてしまうタイプの人間だったのだが、実際、ご飯のことを考えていると、腹は減るものだなあと思うし、今までブラウザを閉じてしまった人々の記事には悪いことをしたなあと思う。

2017年8月15日火曜日

病理の話(110)

人間の体の中にはときおり、そんなもん出すなよ、という劇薬が作り出されている。

例として、胃液とか膵液とか胆汁など。

胃液には「胃酸」が含まれているけどこれはつまり塩酸なのである。理科の実験で使うやつ。それもけっこう濃いのだ。

そんなものを体内で作り出してたらえらいことになるだろう。内部からとけてラスボスみたいに消えてしまっては困る。

では、塩酸まで使って何をするかというと、これがなかなか有効で、食べ物を粉々にするはたらき、プラス口から入ってきた病原菌などをぶち殺すはたらき、その両方があると言われている。



しかし、塩酸を常にぽちゃぽちゃ持ってる胃というのは、いったいどうなっておるのか。消化管(胃腸の管)の中でもかなり特殊であることは間違いない。

口から肛門まで、消化管というのは繋がっているわけで。

胃に分泌された塩酸が、食道の方に戻っていったら、食道の壁がヤケてしまう。

小腸の方に降りていったら、やっぱり十二指腸がヤケてしまう。

これでは困る。では、どうやって塩酸を胃に留まらせようか?



胃の入り口には、噴門(ふんもん)と呼ばれる関所がある。

胃の出口には、幽門(ゆうもん)と呼ばれる関所がある。

この二つの関所が、胃の中にものを留める役割をする。具体的には、筋肉の力をつかってギュッと出入り口を絞る。

そうすれば胃の中身はもれない。

食べた後、多少運動しても、食べ物を吐かなくて済むのは、噴門のおかげだ。

食べものが、胃にある程度の時間とどまって、十分に塩酸で破壊されるのは、幽門のおかげだ。



それでも、これらの関所はずっと閉じっぱなしではない。いつかは必ず食べ物が通過する。

そしたら、食べ物といっしょに塩酸も出入りしてしまうだろう。これに、どう対処するか?



胃の入り口と出口にはそれぞれ「非常に小さいスプリンクラー」があって、塩酸を中和する粘液が分泌されているのである。入口のほうには「噴門腺」、出口のほうには「幽門腺」。

特に、出口側(十二指腸の方向)は、毎日必ず食べ物といっしょに塩酸も通過することになるので、幽門腺のほうが噴門腺よりもはるかに多く配置されている(噴門腺は痕跡程度しかないこともある)。

しかも、スプリンクラーは胃だけではなく、十二指腸にも配置されている。幽門腺とかたちはそっくりなのだが、名前だけが「Brunner腺(ブルンナー腺)」と変わる。



すごいきちんとした調節があるのだ。そうまでしても、塩酸を使うメリットがあったんだろうな。



さて。入口と出口に、塩酸を中和するスプリンクラーをそれぞれ発生させる機構は、なかなか複雑であるが、DNAによるプログラムはこのへんをうまく解決している。




こんな話を聞いたことがあるだろうか?

「沖縄に長く暮らす人々と、北海道の先住民族であるアイヌ民族は、顔付きが似ている」……。

もともと、日本列島に住んでいたひとたちは、いわゆる沖縄顔とかアイヌ顔だったのだが、そこにユーラシア大陸からいわゆる「大陸顔」の人々が移り住んできて、日本を中央から占拠し、元いた人々を北と南においやった。

だから、沖縄とアイヌ、とても離れているけれど、どこか顔立ちが似ているのだ……。



実は胃の入り口と出口にある「噴門腺」と「幽門腺」も、よく似ている。というか顕微鏡でみると区別がつかない。

つまり、発生の過程では、噴門腺とか幽門腺は最初「近くにいた」のだろう。ところがそこに、大陸顔ならぬ「塩酸部隊」がやってきて、二者を引き離しながら胃を作る。

そうすれば、入口と出口に同じ機能をもつ細胞が分布していることの説明がつく……。



このへんは「発生学」とリンクする。胃の発生は実際に上記の過程をたどっている。


細胞を観察して、「機能」と「類似点」に着目すると、生命が発生した期限まで想定することができる……できたらいいな……まちょっとは想像しておけ、というお話。

2017年8月14日月曜日

検査ホニャララの話

一度書いたことがあるかもしれない話なんですけど、とても大事で、かつ医療者がコレをわかっていないとマジで詰むので、あらためて書きます。




「99%の確率で、ある病気【ホニャララ病】を正しく診断できる検査キット」を用意します。

99%の確率で正しく診断できるんですから。

「100人患者がいたら、99人は正しく診断できて、1人だけまちがう」

となります。かなり高確率に見えます。

ただ、この話は、母数を100のまますすめてはいけません。

検査キットというのは、100人だけのために使うツールではないからです。

10万人、100万人を相手にするツールです。国民の多く、必要とする人みんなに使って欲しい。

すると、どうなるでしょうか。




ある病気【ホニャララ病】。10万人集めてきたら、だいたい100人がかかっていることが、すでにわかっています(毎年、全国の病院で、診断して治療している患者の数をきちんと集計すれば、だいたいこれくらいというのはわかります)。

・100000人集めると

・99900人が健康 + 100人が【ホニャララ病】

です。有病率が10万人あたり100人、と呼んだりしますが、ことばはまあどうでもいいです。




さて、さっきのキットを使いましょう。「99%の確率で、【ホニャララ病】であるか否かがわかる」。

10万人のうち、
 1.99900人の病気のない人にキットを使う:
   (1) 99900の99%=98901人が、【ホニャララ病】ではないことを証明される
   (2) 99900の1%=999人は、病気がないのに「ホニャララ病だ!」と診断されてしまう(1%の誤診)

 2.100人の病気の人にキットを使う:
   (1) 100の99%=99人は、【ホニャララ病】だ! と診断成功
   (2) 100の1%=1人だけだが、ホニャララ病を見逃されてしまう(1%の誤診)

こうなります。


で、ここからがキモなのですが。

結局、10万人のうち、キットを使って「ホニャララ病だ」と診断された人って、何人いましたっけ?

1.の(2):999人
2.の(1):99人
以上が、キットによって「ホニャララ病だ」と診断されたの総数なんです。あわせて、1098名。

でもよく考えてくださいね。

このうち、最初の999人って、「誤診」でしたよね。



きつねにつままれたような気分になるんですけれども……。

キットが「陽性だ!」と言った1098名のうち、誤診で陽性となっている人が999人もいるんですよ。なんと91%です。

「99%正確な検査です」とうたっているキットを使って、陽性と出たら、その結果の91%が「誤診」なんですよ。



えーー。



これは、検査する人の数が多くなればなるほど、あらゆる検査にまとわりついてくる問題です。

そもそも有病率が低い(10万人集めてきてもあまり病気の人がいない)病気では、検査キットのわずかな誤差であっても、大量の偽陽性者(キットは病気だって言うんだけどほんとは病気じゃない人)を拾ってしまうのです。




こんなことでは、どんな検査試薬も、なんなら画像検査も、病理検査だって、信用できなくなってしまいます。

「99%正確な検査」が信用できないなら、この世に信頼できる検査などはありません。

では、どうすればよいか?



答えは、「10万人に検査キットを使うのではなく、10万人の中からあらかじめ、その病気になっている可能性が高い人だけを別の方法で絞り込む」です。

「10万人に100人しかいない【ホニャララ病】」というのを、きちんと調べていくと、もっと詳しく絞り込むことができます。

たとえば……【ホニャララ病」というのが、男性の方が圧倒的にかかりやすいとすれば。

10万人の男女を調べるよりも、5万人の男性を調べた方が効率的ですし(早くも半分になりました)。

60代以上の男性がかかりやすいとか、ある血液データが高いとかかりやすい、などがわかれば、次々と母集団(元は10万人)を絞り込んでいくことができます。

そして、最終的に、


「絞りに絞った200名! この200名のうち、50名はホニャララ病である!」

というあたりまで絞ることができれば、先ほどのキットはとても役に立ちます。



200のうち、
 1.150人の病気のない人にキットを使う:
   (1) 150の99%=148.5人が、【ホニャララ病】ではないことを証明される
   (2) 150の1%=1.5人は、病気がないのに「ホニャララ病だ!」と診断されてしまう(1%の誤診)

 2.50人の病気の人にキットを使う:
   (1) 50の99%=49.5人は、【ホニャララ病】だ! と診断成功
   (2) 50の1%=0.5人だけだが、ホニャララ病を見逃されてしまう(1%の誤診)

これだと、ホニャララ病と診断された人の総数は「1.5+49.5=51名」。

うち、1.5人(というのもへんですが)は、残念ながら誤診です。しかし、49.5名は、正しく診断できている。

ある検査キットで「陽性」と言ったときの信頼度がまるっきり変わってしまっています。極めて高精度で「陽性という結果」を信頼できるようになっている。




数字のマジックみたいですけど、覚えて置いたらいいことは1つです。

「検査する前に、そもそも、どれくらいその病気である確率が高いのかを、きちんと調べて絞り込んでおかないと、どんな検査も信用できなくなってしまう」




前も書いたよね? たぶん……。

2017年8月10日木曜日

病理の話(109)

「生命はタダのタンパク質のかたまり」

なのだが、

「タダのタンパク質のかたまりでいれば『安定』しているにもかかわらず、なぜわざわざ『相互作用して局所のエントロピーを減少させる時限的な存在』となり、そんな偏った状態を『継代』してまでエネルギーの高い状態での安定をもくろむのか、なぜそんな現象が自然に起こり得るのか」

を考えるのがおもしろい。


「実際にはタンパク質のかたまりではなくて、脂質も関与してるし、ペプチドと糖鎖が混在している場合もあるし、電解質の移動も生命そのものだし、だいたい水分だってすごく多いし、生命に含まれてるタンパク質の総量(質量比)は体重の2割を超えてこないからタンパク質のかたまりと言うのはかなり語弊がある」

みたいなことを考えるのもおもしろい。



「生命の中にあるすべての要素を床にならべてかたまりにしても生命にはならないわけで、これらがいかに配置して、いかに相互に連絡をとりあって、どのように新陳代謝をして、どうやって集団でひとつの機能をなしているのか」

なんてことを考え始めると夜が終わる。




そうかい? まあそうかもしれないね。
くらいの感想を持ってくれた人は、全員、生命科学研究のことをおもしろいと言ってくれるはずである。

は? 何言ってるかわからん。
くらいの感想の人も、まあ、生命科学研究だったら興味をもってくれるかもしれないけれど。





生命科学研究にはいろいろな種類があって、それはたとえば、

1.カレー粉の中にふくまれているクミンという香辛料はいったい何からできていて何の味を作っているのだろう、というように、構成している物質ひとつに着目するもの

2.カレー粉はクミンとコリアンダーと唐辛子と……と配合されているがこれらの配合を変えると味はどうなるだろう、というように、構成している物質の比やかけあわせに着目するもの

3.カレー粉を使わずにカレーの味を出すには

4.カレールーにライスやナン以外に何をマッチさせるとうまいか

5.カレーに合う飲み物は

6.カレーを食べた後のにおいを消す方法

7.カレー屋として食っていくためにはいくらで仕入れていくらで売るのがよいか、もうけを出しつつカレーをうまくするのにぴったり合う食材とは

8.スープカレーはカレーなのか

9.カレーの味を研究する人むけにルーに差し込むと辛さを客観的に判定してくれる機械を作る

10.ハヤシライスとカレーの違い

11.カレーを長期保存していつでもカレーが食えるようにするシステムづくり

12.悪くなった食材をカレーにアレンジすることで再び食えるようにできるか

13.

14.

とまあ、同じカレー研究と言ってもいっぱいあって、じゃなかった、あくまでカレーは例えだったはずなんだけれど気合いが入ってしまった、ひとくちに生命科学研究と言っても千差万別なのである。カレーひとくち。




「病理」というのは「病の理」と書くので、これはつまり、カレーについて考える学問を「カレー理学」と書くようなもので、ほんらい、カレー理学と言っても多種多様であるのとおなじく、病理学もまた多種多様である。

つまり病理学をひとくち……ひとことで説明するのは大変難しいのだが、「カレーはうまいから好きだよ」みたいなとっかかりがあると、いろいろあるのはともかくとして、病理もおもしろいんだなあと思っていただけるかもしれず、そしたらどこかの誰かが病理学の一分野で大活躍してくれるかもしれないのである。




そういえば今思い出したが、順天堂大学の病理の教授はカレーが好きすぎてDr. Curryというあだ名で世界的に有名であり、出張のたびにカレーを食うし自宅でカレーを作って学生に食わせたり客に食わせたりしている。消化管病理学の世界では非常に有名であるが、カレーの世界でも有名であるそうで、天は二物を与えたなあと思う。

2017年8月9日水曜日

暗い蟻だけが人じゃない

誰のためのサービスなんだよ、みたいなことを考えていると、たとえばTwitterで「いいね!がタイムラインに流れてしまう仕様は誰のためか」ということに思いが及ぶ。

誰かが「いいね!」と思った、取っておこうと思った、大事に思った、少なくとも相手に悪意はないことを伝えようと思った、みたいな感情の流れを、狭いクラスタ内でやりとりするのに、Twitterは便利だけれど、当のTwitter社からすれば、「人々の興味をストーミングして、そこに商売がうまれてくれないと困る」のである。

だれかがいいねと思ったものが高速でシェアされる場所、だからこそ、広告が付いて、ようやくTwitter社が喜ぶのだ。

つまり、「いいね!がタイムラインに流れるのは、Twitter社のためになる」のである。ユーザーにとってはさほど役に立たない。

もっとも、ユーザーにとっては、Twitter社がなんらかの形で利益を得て、ずっと続いてくれないと、このだらしなくも居心地がよい場所そのものが失われてしまうわけで、遠回しにはTwitter社の利益はユーザーの利益に結びつく。




病院の受付がオープンするのは朝7時半からです。それより前にいらっしゃった方は待合でおまちください。このように言うと、「おまえら早く来てるんならさっさと受付を開始してくれよ」と怒る人というのが必ずいる。

「患者が来ているから、受付を早く開ける」なんてのは、患者のためにはなるだろうけれど、病院職員のためにならない。そりゃあ具合悪くて病院に来ている人だ、多少フレキシブルに対応したいと思うのはやまやまだが、サービスを提供する側がつらみを飲み込んで、疲弊して働き続けていればいつか必ずサービスそのものが破綻し、結果的に多くの患者を困らせることになる……。

だから、普通に歩いて病院に来ている人が「早く受付を開けろよ、サービス悪いなあ」と怒っても、すみません、こちらもこれで回さないと大変なんですよ、と言う(あるいは言わずに謝る)しかない。




ぼくはTwitter社がいいね!をTLに流すのと、病院職員が決まった時間に出勤して決まった時間に帰るのは、似たニュアンスだなあと思うのだ。

別にそれ、クライアントのためではなくてぼくらのためだけど、なんか、許して欲しいんだよなあ、ってかんじ。




さあてぼくは最近、どんな不満を「サービス側」に持ったかな。

コンビニに気に入ったおにぎりがなかったとか。

ガソリンスタンドが早朝に空いてなくて困ったとか。

自動車保険料が値上げされてて悲しかったとか……。



プンプンするのも手だけれど、少しだけ考えを深くしてみるのもありかなあと思うのである。

2017年8月8日火曜日

病理の話(108)

尊敬する病理医が何人もいるのだが、みんな爆裂に「話すのがうまい」。因果が逆かもしれない。話すのがうまいから、尊敬しているのかもしれない。

ぼくが考える、「話すのがうまい病理医」にはある共通点がある。それは、彼らの脳内に、「ぼくがいる」ということだ。





「先生、この消化管生検、難しくて難しくてもうぜんぜんわからないんですが……」

「ちょっと見ていい?」

「もちろんです、お願いします」

「……これはね、難しいやつ。フフ、でもわかっちゃった。偉い?」

「……偉いです……」

「おしえてほしい?」

「教えて欲しいです」

「じゃあね、結論を先に言おう。○○病」

「ぎえっ、○○病!? そんなこと考えもしませんでした……」

「では次に進もう。なぜぼくが○○病って気づいたか、なぜ君は現段階でこの病気に気づけないのか、そのあたりを探ってみよう。ちょっと時間かかるけど今でいい?」

「お願いします」



これを、病理医になりはじめたころ、最初期に、ある人にやられた。

ものすごい衝撃だった。

自分がわかっていることを教えてくれるだけじゃない。

わからないでいるぼくの脳を読んで、

「これをわかりたいと思うんだったら、お互いの脳や目が見ているものの違いを比べてみよう」

というセリフ。

しびれあがった。




病理診断は、主観の学問であるとされる。核が大きいとかクロマチンが濃いとか、そんな、人によっていくらでもズレが出てきそうな基準で病気を分類している。病理医の胸先三寸で、がんかそうでないかが決まる、なんて揶揄されることもある。

風評被害が出るのも、無理はない。

形態診断学は、確かに、客観性を担保するのが難しい。レギュラー(整っている)をどれだけ外れたらイレギュラー(乱れている、不整である)とするか、という基準を設定するのはとても難しいからだ。

まして、その基準を言葉で説明するとなると、これはもう、極めて困難である。

極めて困難だけど、やらなければいけない。

ぼくらは、説明した相手に、「主観で決めてんじゃねぇよ」と言われないように、さまざまに客観性を確保する。

サイズはきちんとμmの単位で計ろう、とか。

特殊染色で細胞をより差異がみやすいようにハイライトしよう、とか。

そういう細かい努力をする。



診断を聞かせる相手に、「てめぇの主観じゃねぇか」と言われたくない。

だったら、どうしたらいいか?

「てめぇだけじゃなく、ぼくも理解できるなあ」と、思ってもらえればいい。

相手の主観を自分の主観と同調させる。

複数の人がみな、思い思いの主観でとらえた映像が「共通」しているならば、それはすでに客観なのである。

そんなこと、可能なのだろうか?




話じょうずな病理医というのは、それができる。

話のうまい病理医に、ぼくが質問をすると、彼らの頭の中には、「ぼくの主観」がきちんとインプットされる。

ぼくが現状どこにひっかかっているか。ぼくがこれから説明を受けたときに、どこに疑問を持ちそうか。どの順番で説明すれば、ぼくが「わかる!」と言うか。

そういうのがきちんとある。



尊敬する病理医と話すとき、彼らの脳内にはいつしか「ぼくがいる」。

だからこそ、彼らのしゃべっていることは、ぼくにとって、極めてわかりやすい。正直、かなわんなあと思う。



「先生はこの免疫染色の所見を参考に、こう考えているみたいだけど、私の意見は違う。……この免疫染色は、固定条件などに、あてにならないときがある。盲信できない。ホルマリン固定液の種類、検体が手術場で常温にどれだけ置かれていたか、そういった、病理医の手元に来るまでの処置の差が、診断を難しくしている可能性がある」

ぼく「そんなこと、考えもしませんでした……」

「もちろん、私が見ても、このプレパラートの診断は極めて難しい。しかし、私はこのプレパラートの奇妙さに気づけた。それは、私が君と比べて、プレパラートになる前の段階にトラブルが多いということを、経験的によく知っているからだ。わかるかな」

ぼく「なるほど、ぼくにはそこが足りないのか……」




今まで何遍、「なるほど」と言ったろう。

2017年8月7日月曜日

与謝蕪村って音だけ聞くと外人

時間という概念がよくわからない。

Aという事象とBという事象の「間隔」を量るために、水晶の振動をもとにしてなんらかの基準というか、目盛りを用意するというのは、わかる。時間という言葉に「間」が入っているのは、わかる。

ところが、「時が流れる」と言い出すと、ぼくにはもう、よくわからなくなる。

流れるとか言うと、まるで上流をたどれるかのようではないか。

過去が存在するような気になるではないか。

未来が存在するような気がするではないか。

けれどそんなものはない、と言うのを、なぜ未だに科学的に証明できないのかが、不思議である。

不満ではない、不思議だ。



おおまじめに「過去がある」とか「未来がある」と言う説が未だにある(だからタイムマシンがどうとか言う)のが、なぜ物理学的に許容されているのか、物理学とかの根本をよく知らないぼくは、いまいち理解できていない。

あるわけねぇじゃねぇかと思う。思うんだけど、うまく説明できない。



これは、「信仰」だろうか?

科学ではなく、感覚で、「過去とか未来という概念はともかく、実際に事象としては存在しない」と思ってしまうのは、根拠がないけど信じている、というやつだから、信仰と呼ぶべきなのだろうか?



毎日、医療と医学のことを考えていて、科学とか、心情とか、そういったことを少しずつ切り分けるように注意して、それぞれを尊重できるように、と考えてことばを選んでいくのだけれど。

いつのまにか、「科学とかよくわかんないけど心情的にその医療は許せん」みたいなことを言う人々の、気持ちがわからなくなってくる。

いいから科学を信じてくれよ、と言いたくてしょうがなくなる。



ぼくは、過去とか未来とか宇宙とか次元みたいな話の、ほんとうに深いところを、勉強しないまま一生を終える予定となっている。それでよいと思っている。誰かはもっと深いところで会話をしている。ぼくはそういう難しいことを知らないまま、感情と信仰だけで時間や世界を計っている。

それで事足りてしまっているからだ。

そして、医学や医療に対して、感情と信仰だけでよしと思っている人たちの気持ちに、寄り添えるだろうかと、ちょっと不遜なことを考えている。

2017年8月4日金曜日

病理の話(107)

顕微鏡をみるとき、教科書を見て細胞像だけを覚えても、「意味」がわからないと、微妙な(しかし重要な)違いに気づくことができない。



たとえば、肝炎を顕微鏡で診断しようと思ったら、肝臓の正常の機能や構造、肝炎がなぜ起こるのか、それによってどういう変化が起こるのかまでを勉強してからでないと、ただ顕微鏡を見ても、何も見えてこない。



肝臓は非常にたくさんの機能を果たす臓器だが、主に

・腸管で吸収した栄養を、使える形に加工して貯蔵する(倉庫)
・全身で使うタンパク質の一部を作る(工場と流通)
・胆汁というサラサラ液を作って胆管を通して十二指腸に流し込む(産地直送)

などの役割がある。

一次産業も二次産業も、なんなら六次産業くらいまで担当する、ひとつの街のような臓器だ。

ここで重要なのは、「工場」があることと、流通のための血管や胆管といった「道路」があること。

これらが整然と揃っていれば、人体にとってとても役立つ。

逆に、工場が破壊されているか、道路が破壊されているか、それらの両方が破壊されているかすると、人体には悪影響が出る。

どのような悪影響が出るだろうか?

工場が壊れていれば、工場(あるいは倉庫)の中にあった製品が、血中に漏れ出てしまう。

これを血液検査でみるのが、よく人間ドックなどで聞く「肝機能検査」である。

道路が破壊されていると、工場から出荷した商品が「渋滞」を引き起こし、あふれた道で事故が起こるなどして、今度は出荷した製品が、血中に漏れ出てしまう。

これもまた、「肝機能検査」でみることができる。

おもしろいのは、倉庫の中にある商品と、すでに出荷してトラックに載っている商品、あるいは倉庫に入る前の(加工前の)素材、これらがすべて血液検査では違うデータとして現れてくるということである。

だから、肝臓の専門医は、血液データを何種類も見比べて、


「うーん、今回の患者さんは、まだ加工する前のオサカナが血中にいっぱい漏れちゃってるなあ。ということは、倉庫に入る前の段階で何か不都合が起こっているんだなあ」

とか、

「今日の患者さんは、とりあえず加工して倉庫に貯蔵しているサカナ加工素材が血中にいっぱい漏れてるなあ、工場そのものが破壊されているのかなあ」

とか、

「今度の患者さんは、きちんとパッケージしてラベルを貼った、出荷済みのオサカナ製品が漏れまくってるなあ、たぶん道路、輸送段階で破壊されているなあ」

というのを見極める。



それぞれ治療が少しずつ違う。工場を直すには工場用の薬を使わなければ。



さて、以上のことをわからないで肝臓をプレパラートで見ても、

「なんかリンパ球が出てて正常の構造が破壊されているなあ」

くらいしかわからない。

しかし、肝臓内科の知識をある程度勉強してから見ると、



「うーむ今回の肝生検では、炎症が肝細胞(工場)よりも胆管(道路)周囲に強いなあ。肝細胞も破壊されているけれど、どちらかというと胆管に近い部分の肝細胞ばかりがダメージを受けていて、胆管から離れたところの肝細胞には変化が少ないなあ」

ということが、見えてくる。



こういう視点は、臨床医が迷っているときには極めて有効だ。

工場が壊れているようにも思う……道路が壊れている気もする……どっちがメインなんだろう? 血液データだけだといまいち判別が付かないなあ。

そんなときに、肝臓の組織を針の先で少しいただいてきて、顕微鏡を見る。

すると、「ああ、臨床医が迷うのもわかるなあ、肝細胞も胆管も少しずつ破壊されているけれど、その度合いが強くない。けれど、顕微鏡で見て、強いて言うならば、今回のダメージは胆管がメインだな。だから、胆管に障害を起こすような病気を考えた方がいいんじゃないかなあ」

とコメントすることができる。



「なぜそうなるのか」「どうしてそう見えるのか」を勉強しないで顕微鏡を見るというのは、子供が望遠鏡を見てなんかお月様きれいだねえと言っているのと一緒だ。

それ自体にも輝きはある、楽しさもある。

けれど、「なぜ」を知ってから見た方が、ずっと深くおもしろいものが見えてくる。




……患者さんが辛い思いをしている結果、出てきたプレパラートを、「おもしろい」と言いながら見るというのは、ちょっとまずいよなあ……、という懸念はずっとあるのだが、すみません、正直、おもしろいと感じてしまうことはあります。申し訳ございません。真剣にやります。

2017年8月3日木曜日

となりのトートロ

替え歌をツイートしたら「それ、嘉門達夫さんのネタにありますよ」と言われてフラッシュバックが生じたのだが、こんな妙ちきりんな流れで気軽にフラッシュバックするなんて、脳というのはちょいちょい無駄なことしてるなあ、と思う。

なんでこんなこと考えてしまうんだろう、みたいな、思考の負のサイクル。

どうしてこんなこと思い付いたんだろう、みたいな、意外すぎる連想。

これらは、一見ムダに思えてしまうのだが、進化の過程……適者生存の過程で、実装していた方がちょっとだけ生存に有利だったから、今こうして機能(?)として残っているんだろうなあ、とか、そういうことをよく考える。



ただ、人間の体に今ある機能とか構造の、すべてが「今必要だから残っている」とは限らない。

尾てい骨とか。男性の乳首とか。これらは、今必要なものというよりは、「痕跡」である。

尾てい骨なんて今ほとんど役に立っていない。体のバランスを保っているわけでもないし。造血機能にとりたてて優れているわけでもないし。

(最新の研究で尾てい骨は実は機能があると示された、みたいなことが有り得るから医学は難しいのだけれど)

男性の乳首だって、人間の体が元来「女性」として作られていて、男性ホルモンによって男性型に改変されるときに痕跡として残っただけであるから、やっぱり役に立っていない。

(男性にも愛撫の気分を味わってもらうという機能があるぞと酒の席で声高に詰め寄られたことがあり、怖かった)



今世の中にあるものがすべて役に立っているというのはある種の幻想かもしれない。

一見ムダに見えるものも、多様性の確保という意味合いで、そこにあるべくしてあるマイノリティなのだと考えるのも、ちょっとご都合主義なのかもしれない。

そうだ、幻想とかご都合主義みたいな観念って、humanだけにあるものなのだろうか?

ご都合主義なネコとか、幻想にはまるイヌというのも、いそうだけれど、どうなのだろうか?

ヒトがときおり「それはちょっと都合良すぎる考え方じゃないの?」っていう思考に落ち込んでしまうのも、適者生存の果てに残った大切な意味を持っていたりしたら、どうか?



という、「ご都合主義があるのは意味があるというご都合主義」のトートロジーに遊ぶ。これもまたおそらくは進化の末に人間の脳に残された「遊び」なのではないかと考えている。

2017年8月2日水曜日

病理の話(106)

病理診断は顕微鏡によってなされるというのが一般的な(?)理解であるが、実際には、臓器を肉眼で見た段階、あるいは臓器を見る以前に各種の検査データをはじめとする臨床情報を見た段階で、9割5分まで確定できる。

顕微鏡を見るころには診断はほとんど終わっている、ということだ。

もっと言うと、世の中の病気のほとんどは、顕微鏡で細胞を見る「必要」がない。だから、病理医がいない病院であっても、診断と治療は行われているのである。



たとえば胃癌。顕微鏡で癌細胞がどのような種類のものであるか、癌細胞が胃の壁にどれほど深く食い込んでいるか、癌細胞が胃の中でどれだけ広がっているか。

これらは、事前の胃カメラやCTなどでほとんど診断が可能である。

この、「ほとんど」というのがくせ者だ。



おみくじをひく。

箱の中には、大吉が100本、中吉と小吉がそれぞれ2本ずつ、凶が1本入っている。

これは、「ほとんど大吉」という状態だ。

臨床診断の「ほとんど」というのはそういうことだ。

エビデンス・ベースト・メディスン(EBM)というのも、つまりはこの、「おみくじの本数・内訳をきちんとわかってから診断と治療をしよう」ということである。

医療というのは、ほぼ勝つことがわかっているおみくじをいかにうまく引くか。

大吉が少なそうならば、中吉や小吉を引ける確率はどれくらいであるか。

いかに凶を引かないか。

凶を引いたとして、そのときにどう対処をするか。

これらを考えていく作業である。



顕微鏡を見なくても、大吉の本数はもうわかっている。これが臨床医学。

では顕微鏡とは何を見るのか?



箱の中で手が掴んだくじを、箱から取り出す前に、覗き込むこと。






という文字を直接読むこと。確率を超えて事実の元に診療をしようとすること。

箱から実際に取り出したくじが、汚れて、かすれて、うまく読めないときに、その文字をきちんと読むということ。

「なんとなく大吉って読めるなあ」を、「確実に大吉だ」と読み切るということ。




病理診断のレポートに、「可能性」という言葉が書いているとき、臨床医はとてもいやがる。

「おい、なんで実際にくじを掴んで見ているはずの人間が、可能性なんて言葉を使うんだよ。事実を言えよ、そのための病理診断だろう」

まあそうなのだ。そこが期待されているわけだから。

でもねえ、くじというのはねえ、往々にして、





って書いてたり、




って書いてたりするものなのよ。そこに出てきて、「この士と口とは合わせて吉にして読みます」とか、「この太いという字にまぎれている点は偶然まぎれこんだものです」とか、言わなきゃいけないってところに、病理診断の奥深さと人間らしさが潜んでいるのである。

2017年8月1日火曜日

ちなみにボーカル

「ボーカル以外のメンバーが総入れ替えとなっているバンド」というのがたまにある。たとえばSuiseiNoboAz(スイセイノボアズ)というのがそうだ。

声から想像するボーカルの顔と、実際にみたボーカルの顔がだいぶ違うのがおもしろい。

いくつか出ているアルバムを全て聞き比べると、バンドメンバーが替わったとたんに音がまるで変わってしまっている。これほど明らかに変わるのは珍しい。

ボーカルの色合いすら変わって聞こえる。ただ、まあ、いつの時代のも好きなのでよく聞く。



SuiseiNoboAzのアルバム1枚目をプロデュースしたのが向井秀徳なので、しばしばZAZEN BOYSと比べられる。似ているようでまるで違うバンドであり、かつ、どこかわずかに共通する部分がある。

SuiseiNoboAzは「バビロン」というフレーズをアルバム1枚につき1つ程度使っている。向井秀徳が「冷凍都市」という言葉をしばしば使うのと似ているといえば似ている。

変拍子、ザ・ブルーハーブに少し似たラップ。テレキャスとストラト。

最初とメンバーが変わってしまっていること。それでも続いているということ。



ぼくはbloodthirsty butchersのように、オリジナルメンバーが揃わなくなった瞬間に音楽活動を終えたバンドを大変尊敬しているが、ボーカリストだけが残り、形をしたたかに変えながらそれでも音楽を続けているバンドにも、また違った種類のリスペクトを覚える。

自分ではまったく音楽をやらないのだけれど、もしぼくがバンドを組んでいたとしたら、果たして、オリジナルメンバーにとことんこだわったであろうか、自分がフロントマンであればメンバーが変わってもやっていけると信じることはできたであろうか、そもそもボーカルを選ぶだろうか、みたいなことを、ときどき考える。まあ、ぼくみたいな人間は、仮に人生のどこかで平行世界に突入して、今とはまったく違うパラレルワールドの人生を送っていたとしても、おそらくバンドを組むことはなかったであろうけれど、




……思い出した、ぼく21歳のときにバンド組んだんだった。そうだそうだ、最近すっかり忘れていた、完全に他人事だった、なんだ、なぜ忘れていたのだろう、と驚いたけれど、この話はまたいずれとする。書かないかもしれない。

2017年7月31日月曜日

病理の話(105)

「1つのものが10個に増える時間と、10個のものが100個に増える時間は、同じであると考える」。

……なんて話を、たとえば和菓子職人の前ですると「そんなわけねぇだろう」と怒られるだろう。

だって、前者は「9個増えた」、後者は「90個増えた」である。増えた量が10倍違う。労力だって10倍、時間だって10倍かかるに決まっているではないか。

けれど、今の話を、細胞生物学職人(?)の前ですると、「ああそうだよね」となる。

細胞は倍々ゲームで増える。足し算では無くかけ算で増える。

だから、1が10になるとはすなわち「10倍になった」、10が100になるのも「10倍になった」。どちらも同じだ。

細胞1個が10個に増える時間と、細胞10個が100個に増える時間は変わらない(至適栄養が保たれているなどの条件があるが)。



このことは、病気を考える上で、とても大切なのである。

細胞1個を見極めるというのは顕微鏡を使わないととても無理だ。

10個も厳しい。

100個でもきつい。肉眼では細胞100個くらいだとまるでカスでありゴミである。

けれど、細胞が1000個もあると、おぼろげに肉眼で小さく見え始める。

細胞が10000個もあれば普通の人なら小さく視認できるだろう。

100000個となると、立派な「かたちあるカタマリ」として、人の目で認識できそうである。

細胞が「正常の細胞」だと、こんなに再現なく倍々ゲームでは増えない。

正常の細胞というのは、増える量がきちんとコントロールされているのだ。

もし、細胞の増えるスピードがきちんとコントロールされていないと? 右手の人差し指だけ妙に長くなってしまい耳くそがめちゃくちゃいっぱいとれる、とか、まぶたが目を覆うくらい大きくなってしまい日中よく寝られる、みたいな、ちょっと不都合なことがいっぱい起こってしまうだろう。

しかし、「がん細胞」は違う。

がんというのは、空気を読まないのだ。栄養がある限り、倍々ゲームで増えようとする。



倍々ゲームだから、たった1個のがん細胞が10倍になるのにかかる時間と、1000個のがん細胞が10000個になるのにかかる時間が、理論上、同じになる。

すると、昨日までカタマリが何も見えなかったところに、今日とつぜんカタマリが出現するということが、実際にありえる……。



実際には体の中にはがん細胞に対する抵抗勢力(免疫)があり、ことはそう単純には進まないにしろ。

去年検査で何も見つからなかったのに、今年突然カタマリが出てくる、ということは、往々にして経験される。



以上の話は、「がん細胞を早期に発見する」ことを考える上で、キーとなる考え方である。

「増殖異常」という言葉の重みを知ると、人間の体のすさまじさと、その統率をかいくぐるがんの巧妙な生存戦略の一端が、腑に落ちる。




腑に落ちるという言葉を、病理の話で用いるのは、ハマった感がすごくて、なんか、アリだと思う。

2017年7月28日金曜日

そうかんたんにわかるんですか

パソコンのキーボードが削れている。

特に、「K」と「M」と「N」と「A」のあたりの劣化がすごい。「O」もなかなかだ。

「S」に至っては完全に穴が空いてしまったので、「|」(画面右上にある縦棒)と入れ替えて使っている。




この記事を作る前、ほかに記事を3本書いた。3本目に至っては、

「この記事を作る前、2本記事を書いたが、消してしまった。あなたがこの記事を見ているということは、3本目の記事が消されずに残ったということである。」

なんていう書き出しでスタートしていたのだが、結局消してしまった。

今日は、アウトプットが荒く、自分のために、自分のためにと書いては消し、書いては消してしまっている。




キーボードを見ながら、ときおり、

「キーが削れるくらい発信してきたんだなあ」

と少し天狗になることもあった。

けれど、よく考えたらぼくは、書いた物をすぐ消してしまう。ブログの記事に至っては、公開する前に、2回に1回くらいのペースで全部消して書き直している。

キーが削れたほどには発信していなかった。

失ったもので得たものを量ることは出来ない。




アウトプットの量を多くすればクオリティが上がるだろうと内心思っていた。けれど、雑なアウトプットは全体の精度を上げてくれない。手癖で書く文章、反射で引っ張り出す構文、脳の大半を休ませたまま、惰性で産み出される劣化コピーのようなものばかりがころころと脳の隅に転がっている。

そういうときはインプットだよ。

アウトプットがうまくいかないときはインプットがいいんだ。

そうだそうだ、手を大きく振ってKindleに籠もり、インプットを繰り返す。

インプットの量を多くすれば何かのクオリティが上がるだろうか?

あるいは、やはり、何か別のキーが摩耗するのだろうか?



いろいろ摩耗するなら、たまにはアウトプットもインプットもしないことを選ぶ。

ただ、脳がパソコンと違う点がひとつあって、それは、「アウトプットもインプットもしていない時間に、膨大なメモリを食いながら、内部で思考が循環する」ことだ。

アウトプットもインプットもしていなくても、脳の場合は、どこかでキーが削れているということである。

興味深いことに、失ったもので失ったものを量ると、相関に気づくこともある。

相関と因果はまた別の話であるが。

2017年7月27日木曜日

病理の話(104)

生命の定義についていろいろとおもしろいことを言う人というのがいる。いまだに頭に染みついて忘れられない定義は、(かなりテクニカルであるが)以下のようなものである。

「生命とは、局所的なエントロピーの減少を持続させている状態である」

これだと、日本の字で書いてあるけれども日本語とは思えないので、言い換える。

「自然界はそのまま放っておくと必ず乱雑になり、偏りがほぐれる。しかし、生命があるとそこだけは、秩序が保たれ、偏りが保たれる」

わかったようでわからない定義なので、さらにもう少し掘り進む。




「砂漠にごま塩」という表現がある。砂の上にごま塩を振ると、振った直後は、ああ、ここにごま塩が振られたんだなと見てわかる。淡い茶色の砂粒まみれの地面に、白と黒のごま塩が、「偏って」いるので、そこだけが特別なのだなあと気づくことができる。

しかし、5分、1時間、1日と時間が経つに連れて、風やら雨やらのせいで、ごま塩は少しずつ周りの砂と混じる。仮に、砂に指で丸を書いて、その中にごま塩を振っていたとしても、数日も経てばごま塩は丸を越えて周りに拡散してしまい、いずれはごま一粒、塩一粒が砂とまぎれて、もはやごま塩とは呼べない、ただの汚い砂地になる。

ごまや塩がそれぞれ消滅したわけではないのだが、ある程度のボリューム、ある程度の秩序で、ある程度の範囲に「偏って」置かれていなければ、それはもうごま塩とは呼べないのだ。

このように、「自然界では、時間が経つと乱雑さが必ず増していく」。これを、「エントロピーが増す(上昇する)」と呼ぶ。

エントロピーは増える。しかし、基本、減りはしない。

砂漠でごま塩がふたたび集合することがないように。

汚い部屋が、ある日突然自動的に整頓されることがないように。




しかし……。

たとえば砂の上に描いた丸が細胞膜だったら。

その細胞膜の中にごま塩……の代わりに、ナトリウムとかカリウム、カルシウムといったイオンを振り、あるいは酸素を振り、とやるとどうなるか。

細胞膜が、あるいは膜に囲まれた「細胞」が生きている限り、膜の中の「偏り」は保たれる。

不必要な塩を外に出したり、足りなかったごまを膜の外から中に取り込んだりしながら、細胞が一番よい環境になるように、「偏り」を保ち続ける。

必ずしも最初振ったごま塩……最初に投入したイオンや酸素ほかの栄養の割合を保つわけではないのだが、細胞にとって一番都合がよい「偏り」が保持される。

これを、「エントロピーが上昇しないまま、低く保たれる」と呼ぶ。砂漠のある一箇所に、毎日ごま塩がそうとわかる状態で集まっている。部屋がいつまでもきれいなままである。

これはすごいことなのだ。生命とはすごいことをしている。




生命がすごくあるために重要なのは、細胞膜だ。

細胞膜がどれだけきちんと機能しているかによって、細胞の中の「偏り」がきちんと保持されるかどうかが決まる。





病理医が細胞を見るとき、しばしば、「細胞膜」に注目する。細胞膜は脂質二重膜と呼ばれる特殊な構造をしており、様々なタンパク質や糖鎖が刺さりこんでいる。

細胞膜とは単なる境界線(面)ではない。おそらくは細胞の持つ構造の中でもトップレベルに複雑である。脂肪とタンパク質と糖が全て関与するというのはまさに「オールスター」状態。

脂肪、タンパク質、糖のうち、病理医がもっとも観察しやすいのはタンパク質だ。免疫染色という技術を使うことで、ある一種類のタンパク質だけをハイライトして、その存在や分布をチェックすることができる。病理医は、細胞膜を調べるときに、主にタンパク質を調べる。

細胞になんらかの異常があるとき、膜にも何かが起きている。

通常の細胞であれば、Aというタンパク質とBというタンパク質とCというタンパク質が刺さりこんでいるはずで……しかし、病気の細胞には、Dという特殊なタンパク質が刺さっていて……という具合だ。

「Dというタンパク質をハイライトする免疫染色を使って診断する」というのは、すなわち、「生命が正しく偏るために必要な細胞膜が、何かおかしいことになっていないかどうかチェックする」ということにつながる。

※細胞膜の働きは「偏りの調節」だけではない。特に多細胞生物であれば、「細胞同士のコミュニケーション」とか「細胞の居場所を決定する」とか「細胞の機能を調節する」など様々である。ただ、その話はまた別の機会に譲る。




砂漠に固まっているごま塩が、なぜかクレイジーソルトになっていた。何が起こっているんだ。どういうことなんだ。クレイジーソルトに含まれているハーブやスパイスを観察するのはとても大切であるが、同時に、砂漠に指で書いた丸をチェックしよう。お前、何やったんだよ。CD20というタンパク質が膜に異常に刺さりこんでいる。このやろう、悪性B細胞性リンパ腫じゃねぇか。

これが診断。

CD20が異常に刺さっている細胞というのは普通ありえない。だから、「膜に刺さりこんだCD20を認識して攻撃する薬を使おう」。

こんな治療もある(実際にあります)。




「ああ、治療の役に立つの? それなら役に立つねえ」

こんなことを言われることもある。役に立つと思って頂ければ何よりである。ただ、ぼくは、砂漠の砂に何かが起きてるぞ、なんなんだ、どうしてなんだ、それが役に立つかどうかはともかく、なぜこんなことが起こるんだ、そこんところにも興味があるので、まあ、役に立つとは言えない場面でも、細胞膜についてはなるべくチェックしておこうと思っているのである。

2017年7月26日水曜日

リングを購入

「わかったふりをしない」というのは結構いろんなことのキーポイントになっているように思う。

わかったふりをしないことで何がよいかというと、話している相手に嫌われなくて済むということだ。

嫌われないままの関係でいれば、ちょっとずつ「普通、やや好き」くらいのポジションに置いてもらえる。

「普通、やや好き」くらいの人は、こちらの意図をけっこう汲んでくれる。

会話のときに、ぼくの言葉が足りなくても、ぼくの考えが浅くても、助け船を出してくれたり、こちらの表現が整うまで待ってくれたりする。

これはとてもありがたい。うれしい。

ありがたくうれしい状態を招くために、なんだかんだでとても大事なのが、「わかったふりをしない」ことなのではないかと思っている。





そういえばぼくは、誰かが何かを「わかっている」から、「好き」だと思ったことが、たぶん、あまりない。

わかっているんだと言われても、そうなんだ、すごいね、で終わる。

感情がより動くのは、適切なタイミングで「わからない」と言える人の方だ。

「話し相手に向かって、自分がわからない状態であることを告白できる性格」というのが、いい。

まあ好き嫌いの話だから、実務的な関係の相手には、どうでもいい話かもしれない。

でも、仕事のつきあいであっても、「普通・やや好き」くらいだと、いろいろありがたくうれしくなるものだ。




「それはこうだよ」と口を挟むこと。

「きっとこうなんじゃないかな」と解釈をすること。

「それは違う」と否定をすること。

これらが機能するのは、少なくともお互いがお互いのことを、嫌いではない、普通・やや好き、くらいに思えるようになってからではないか。

まずは、「わからない」を言える相手であるかどうかをチェックする。

わかったふりをしないと会話が続かないような関係になっていないかどうかを確かめる。




書いていて思ったのだが、「わかったふりをしないと会話が続かないような関係」の人を先に好きになってしまうときがあるなあ、と思った。人間の脳というのは、元来、世界のままならなさに悩むようにあらかじめ作られているのかもしれない。ほんとうのところはわからない。わかったふりをして記事にする。

2017年7月25日火曜日

病理の話(103)

顕微鏡でミクロの世界を覗いて、細胞まで見ればなんでもわかるかというと、そんなことはもちろんないのだ。

まず、ダイナミズムがわからない。体の中では生きてうごめいていた細胞も、つまんで採ってきて、ホルマリンやアルコールに浸すことで、その活動を停止してしまう。すると、「うごめき」だけはどうやっても観察することができない。

細胞内外を、水やナトリウム、カリウム、カルシウムなどが行き来する。細胞の周りを、血管が取り巻いて、酸素や栄養を運んでくる。これらは体の中で脈々と動いて、ぼくらの体を維持してくれている生命活動そのものだけれど、ホルマリンで時間停止したプレパラート上ではなかなか観察することができない。

プレパラート観察とは、とてもよく保存された廃墟を観察しているかのようだ。

廃墟にはテーブルや椅子、キッチン、お手洗いなどがあり、食器も、水道管も、トイレットペーパーもそのまま残されているから、中で人々がどのように活動していたのかを類推することはできる。

けれど、動いていた人そのものに話し掛けることはできない。

細胞を見るというのはつまりそういうことだ。ダイナミズムだけは類推しかできない。

だから、循環器内科(心臓とか血液の流れを見る科)と病理との相性は悪い。そもそも循環器系の臨床科はほとんど病理診断を用いない。内分泌・代謝内科なども同様である。

「廃墟を見ることが役に立つ科」だけが、病理診断科をうまく利用することができる。




先ほど、プレパラートに現れる組織構造を「とてもよく保存された廃墟」と書いたが、これも実は、語弊がある。

プレパラート上に見ることができる細胞の「配列」は、確かに生体内にあったときそのままなのだが、実は「間隔」が微妙に異なっている。「サイズ感」と言ってもいい。

「ホルマリン固定」という作業の際に、細胞内外の水分が失われる、すなわち脱水効果があるためだ。水を失うことで、細胞は最大で1割ほど小さくなるし、細胞と細胞との距離はもっと大きく変わることもある。

もとは8畳だった部屋が6畳半くらいに縮む。廃墟から元の構造を想像する際に、頭の中で少し間隔を開いてやらないと、うまく対応しないことがあるのだ。

……大した問題ではない、細胞の並び自体は保たれているから、病理診断には支障を来さない……。

けれども、生体内にその細胞があったときに関わっていた、多くの臨床医からすると、プレパラートを見た時に、「あれ、こんなボリュームだったっけ?」と、違和感を覚える。

病理医にとっては大して困らないけれど、画像を大事にする臨床医療者にとって大きな問題。「廃墟がちょっと縮んでいた問題」。

このことをそもそも知らない病理医もいる。自分たちがさほど困らないので、問題意識として共有できていない。しょうがない。




あと。




病理医は、細胞そのものの変化に敏感なので、そこにがん細胞があるかどうかを常に気にするし、がん細胞がどのような性質をしているかについても繊細だ。

一方、臨床医療者が診ているものは、ミクロではなくマクロである。「がんそのもの」ではなく、「がんが引き起こす現象もろもろ」を見ている。

だから、しばしば、臨床の医療者がほんとうに知りたい情報と、病理医がミクロで観察する細胞の所見とは、うまく対応していないことがある。


「なぜ造影CTの染まりがいつもと比べて少し早いんだと思います?」

「それはあれですよ、がん細胞が特殊だからですよ」


このやりとりは、うまく噛み合っていない。お互いに専門用語を用いているから、はたからみている非専門家にはちんぷんかんぷんだろうが、実は当の臨床医も病理医も、相手が言っていることを正確に理解できていない。



ダイナミズム。サイズ感。ニュアンス。

ミクロの限界とはこのへんにある。

これを知ってから病理診断を勉強し直すと、あれもこれも、不十分だ、不親切だ、不明瞭だとつっこみたくなる。

さんざんつっこんでから、昔から病理診断をしている先輩のレポートを読んでみると、なんのことはない、ぼくが今まで「これは書かなくていい情報だなあ」と思って無視していた、しかし先輩は必ず書いているという所見の中に、臨床の人間が本当に知りたいことが書いてあったりする。

知性で勝負する場であっても経験がものを言うことが、あるんだなあ、と頭を下げる。

2017年7月24日月曜日

原宿いやほん

もう6年くらい使っているイヤホンがある。高い。5000円くらいする。ツイッターをはじめたばかりのころ、「音が違うのだ」とおすすめされて購入した。

あのときはどうかしていたのだ。イヤホンだぞ。ヘタすると100均でも売っている。

職場ではずっと音楽を聴いているのだが、周囲の病理医や技師、臨床医などがいつ話し掛けてくるかわからないから、イヤホンは耳に「軽く腰掛けている程度」にしか挿していない。音量もかなり絞っている。電話や迅速診断のコールを聞き逃すわけにもいかない。

つまりは、5000円の意味なんて、なかったと思う。ほとんど無駄だった。



けれど、ぼくは、この6年間、毎朝、イヤホンを耳に挿す度に、「これはいいイヤホンだからなーあ」と、ものすごく小さく悦に入っていた。

いいものを買って働いているんだというよろこびを、毎日少しずつ、値段を思い出すことで、得ていた。

たぶん、この5000円を使わずに大切にとっておいて、ほかのいかなる5000円のものを買ったとしても、ここまで長時間に亘って、スイカに塩をかける程度の、カレーにスライスチーズを入れる程度の、ささやかな幸せを「毎日得続ける」ことはできなかったと思う。

このイヤホン、とてもいい買い物だったと思っている。



ぼくは元々、5000円をきっちりけちっていく男だ。

スーツの半額セールで、25000円の安売りスーツと20000円の安売りスーツが並んでいたら、絶対に25000円の方は買わない。

25000円のスーツは、元値50000円。

20000円のスーツは、元値40000円

このどちらを選ぶかについて、人々にはいくつかの考え方がある。

25000円のスーツのほうが、「安くなった値段がでかい、すなわちお得である」という考え方。

20000円のスーツのほうが、純粋に安いという考え方。

25000円と20000円の違いは無視して、純粋にスーツのデザインで勝負すべきという考え方。

ぼくは、「並んでいる中で一番安いものを買う」という基本姿勢である。

そのためか、今まで、数々の失敗をしてきた。買ったものが、基本ださい。

けれど、スーツがださくても、仕事がきちんとできていればかっこよく見えるからいいのだと、よくわからない言い訳でここまでやってきた。




そのぼくが、6年前に5000円のイヤホンを買ったことに、純粋に驚いているし、そして喜んでいる。

いいものを買ったなあ!




仕事が落ち着いた夜、そういえばこのイヤホンの「本気」ってどうなんだろうと、気になった。

人はいない。電話もかかってこない。

イヤホンを耳に深く挿す。

LOSTAGE「In Dreams」にしよう。スリーピースなのに音が厚い。リフが泣ける。置いたベースが響く。ドラムが沁みる。

20分。30分。名曲を聴き続ける。

……いい曲たちだ。




帰るころには、イヤホンを試していたのだということを完全に忘れていた。「イヤホンによる良さ、違い」は全くわからなかった。ただ名曲を聴いたというだけである。

5000円返してくれ。俺は100円のでよかった。

2017年7月21日金曜日

病理の話(102)

体の表面、すなわち皮膚には、扁平上皮という細胞がある。その名の通り平べったい。顕微鏡で上から見ると、まるでジグソーパズルのようにぴっちりと敷き詰められている。しかも、このジグソーパズルは1層ではなく、何層にも折り重なっている。地層みたいになっている。

扁平上皮細胞は、地層の最下層付近(厳密には最下層の一段上くらい)で細胞分裂を起こして、増える。細胞を作る工場が下の方にある。少しずつ形が平べったく変化しながら、上の層に上がっていく。最後にはジグソーパズルとなり……。

実は、ジグソーパズルでは終わらない。その後、細胞は「脱核」といって、最も大切な核が無くなり、抜け殻(燃え殻でもよい)になる。ぼろぼろになり、少し剥がれやすくなるのだが、それでもまだ、皮膚の最表層にひっついている。

これが角質と呼ばれる成分だ。軽石でこするととれる。

角質は、すでに、生きた細胞とは呼べない。それでも体の一部なのである。これが実はめちゃくちゃに重要だ。



皮膚扁平上皮細胞は、外界からの敵をはねかえす「バリバリの実のバリア細胞」である。何もかもはじきかえす。おふろに入ったときに、水を吸って太る人というのはいないように、ジグソーパズルはスキマのない完全な接着で、水すらほとんど通さない。

ただ、それにも限界があるのだ。いくら完璧なジグソーパズルと言っても、所詮は細胞、キズもつくし、細かい細菌などが表面にひっついたまま長居することもある。

だから、人間は、バリアの「最後の壁」として、角質層を用意している。これが実ににくらしい働きをする。



「三國志」などで、城の外壁をよじのぼって兵が城を攻めるシーンがあるが、あの外壁がときおりガラガラッと崩れたらどうなるか。

登ってきた兵士ごとぜんぶ落っこちてしまうだろう。結果、城への兵士の侵入を守ることができる。

扁平上皮の最外層に角質層があるのは、この、「壊れやすい外壁」の役目だと考えることができる。完全なバリアのさらに外側に、もろく崩れやすい壁を用意しておくことで、しつこい外敵を定期的に剥がれ落とすことができる。



人間を含めた全ての生物は、「境界」がある。ここからここまでが人間でーす、と、境界線を引くことができる。ただし、その最も外部は、なるべくもろく、ふわふわに作っておく。そうすることで、周囲からへばりついた外敵を簡単にそぎ落とすことができ、人体への敵の侵入を防ぐことができる。

こういう現象は他の部位にも存在する。扁平上皮が存在しない、胃や腸などにおいては、角質層はないのだが、かわりに「ねばねばの粘液」をそれぞれ分泌する。粘液はさらさらしていないので、簡単には壁から剥がれないのだが、ゆっくりと移動しながら、最外層の外敵を洗い流す役割を果たす。

……ただし、消化管は、洗い流すだけではだめだ。栄養だけはうまく取り込まないといけない。何でもはがして捨てて良い皮膚扁平上皮との違いがここにある。粘液だけではなく、さらさらの漿液、胃酸、蛋白分解酵素などを、部位に応じて様々に分泌するなどして、工夫をこらす。

消化管にある細胞は「腺上皮」と呼ぶ。腺という字は、にくづきに「泉」と書く。いかにもいろいろなものを分泌しそうではある。



今回、生体が外敵と触れる部分の話を、「外側のもろいもの」に着目して書いたが、この項目はほかにも「触手」で説明を試みたことがある。上皮と呼ばれる細胞がいかに複雑に、その場その場で役割を果たしているか、というモンダイは、語りがいがあり、病理学の根幹を為している概念でもある。

2017年7月20日木曜日

おぶせのマスコットが槍装備したよ

たとえばある趣味に入れ込んでいる人というのは、その趣味が「最高に楽しい」から続けているのか、「向き不向きで言うと向いている」ことがわかっているから続けているのか、それとも、「他にやることがない」から続けているのか。

ぼくは、ひとつの趣味に専念することがなかなかできない。

これは確かに楽しいけど、ほかにも楽しいことがあるかもしれないからなあ、と考えてしまう。

釣り、キャンプ、草サッカー、ランニング……。

どれもかじってはいるのだが、どれかに本腰を入れようとは思わない。どれもこれも気が向いたらちょっとやってみようかな、くらいだ。

そして、このまま、人生が過ぎていくのだと思う。

「よーしそろそろこのへんで、何か一本軸となる趣味を決めるぞ!」となる人をいっぱい見てきた。

ぼくも、彼らと同じように、何度か、「全力を注げる趣味はないだろうか」という目でキョロキョロしながら暮らしてみたことがある。

趣味用の雑誌を立ち読みしてみたり、趣味人のブログを読んでみたりもした。

カメラとかシューズのように、実際にお金をかけてもみた。

けれど、ま、わかってはいたけれど、「一本」は決まらない。

ぼくは、たぶん、今後も決められないでいると思う。




ツイッターを見ていると、何かひとつの趣味に専念している人間の方が珍しい。ある一つの趣味だけに没頭している人というのは、珍しい。おまけに意志が強く、発信力もある。

珍しい分、目にとまる。

ちょっとあこがれてみたりもする。

そうやって、あこがれる人が、タイムラインに何人もいる。

だれかひとりではなく、多くの人にあこがれている。

一本軸となるあこがれの人はいなくて、いっぱいあこがれる相手がいる。




よく今ひとつの職業でやりくりしているなあ、と、正直思う。

2017年7月19日水曜日

病理の話(101)

がんを、「死ぬ病気だ」というひとことでまとめてしまうのは、ずいぶん乱暴だ。

がんと言っても、いろいろである。食道がんと乳がんと甲状腺がんは、まるで違う。効く薬も違うし、がんがより進行したときに現れる症状だって違う。

同じ食道がんであっても、「食道の粘膜のごく浅いところだけに留まっているがん」と、「食道の壁に深々としみこんだがん」では、その進展範囲が違う。範囲が違うとは、影響を与える箇所の多さが違うということだ。

考えてみれば当たり前なのである。

「アリ」と言っても普通の黒いアリとシロアリでは住む場所や人に迷惑をかける度合いが違う。「シロアリ20000匹」は家の柱をぶちこわしそうだが、「シロアリ12匹」ならなんとかなりそうだ。同じことである。

ぼくらは、病気をみるときに、「それが何なのか」という大まかな分類だけではなく、「もっと細かい分類」とか「どれくらい存在しているのか」などを、きちんと評価していくことになる。




病気は一言であらわせない、とても細かく評価しないといけない、という事実に気が付くと、

「胃の筋肉にまでしみこんだ胃がん」

と言っても、まだまだ十分な評価ではないんだなあ、ということに気づく。

筋肉にしみこむと言っても、その量はどれくらいなのか。

1 mmに満たない範囲で、細胞数個が、わずかにパラパラとしみこんでいるのか。

5 cm × 5 cmの幅で、無数のがん細胞が、どっぷりとしみこんでいるのか。

同じ「筋肉にしみこんだがん」と言っても、想像できるイメージはまるで異なる。




これは、「画像診断」を考えるときに大問題となる。

画像の教科書には、「胃がんが筋肉にしみこんだときに、CTや胃カメラがどのように見えるか」が書いてある。しかし、筋肉にしみこむと言っても度合いは様々だ。自然と、画像の出方、現れ方だってバリエーションが出てくる。

このことが、放射線科医、診療放射線技師、臨床検査技師などを悩ませる。



「悪性リンパ腫と一言で言っても、びまん性大細胞型リンパ腫とMALTリンパ腫では、病変の形が異なる」とか。

「GISTという病気には内部に空隙ができる場合があるが、球状だったり三日月状だったりスリット状だったりする」とか。

「膵臓NETという病気は基本的にくりっと整った球状をしているが、境界部がごつごつしている場合もなくはない」とか。



「アリ」の一言で、日本のアリと海外のアリとシロアリとモハメドアリをまとめて語ることができないのと一緒だ。

あらゆる病気にバリエーションがある。形の差が。含まれる成分の差が。放っておくとどうなるか。どのように治療したらよいか。




病理診断では、「病気が何か」だけではなく、「もっと具体的に、どのような病気であるか」までを診断する。これらはしばしば、国産のアリとヒアリを見分けるような作業であり、極めて難しいこともしばしばだ。

病理医がこの分類をきちんと行い、「どのように見分けているか」をきちんと臨床と共有することは重要である。「ぼくがヒアリと言ったらヒアリなんですよ」では困る。「足がどうで、腹がどうで、色がどうで、顔がこうだから、ヒアリなんですよ」と説明することで、画像診断に関わる人々が、それぞれの世界で抱えている「疑問」を解決できるようになる。

「そうか、だったら足と腹の違いを画像で読み分けてみようかな」と、画像屋さんたちが思ってくれると、ぼくらの仕事のやりがいも増すのである。

2017年7月18日火曜日

何がメメントモリだよバカ野郎とも思っていた

たいそうよく売れていた。浜崎あゆみ、TRF、Globe、ミスター・チルドレン、B'z、GLAY、スピッツ……。もちろん、ぼくも聞いていた。口ずさめるほどに、よく聞いていた。

けれど、これらの音楽が、「たいせつな思い出」には、なっていない。

これらの曲は、そしてアーティストたちは、どこか心根の根本が「安定」していたからだと思う。

甘く切ない青春を歌っていても、若い日のあせりを歌っていても、はかなさを歌っていても、さみしさを歌っていても、彼らは決して仏頂面ではなかった。泣き顔には見えなかった。ぼくは、子供心に、それが何かずるいなあと思っていたのだ。シングルが100万枚も売れていた頃の話である。どれだけ稼いでいるんだろうと、そっちがセットで気になった。

これだけ売れてまださみしいとか悲しいとか言えるのはよっぽど、「精神が根本的に泣きたがっているタイプの変人」であろう。すなおに、そう思っていた。

商売がうまく行こうが、泣きたい夜はあるだろうさ。そんなこと、子供のぼくだってわかってはいる。けれどぼくは、音楽番組にミスチルの桜井君が笑顔で出演して、タモリか誰かと楽しそうに会話をしたあとに、平気でマシンガンをぶっ放せとか歌っていたとき、心のどこかで

「この大嘘つき野郎!」

という気持ちになってしまったのだった。



ミスチルは今でも一通り覚えている。音楽家が嘘つきだからって、その曲が嘘ばかりだからと言って、ミュージックそのものを嫌いになるわけではない。

けれど、ぼくは、自分の人生の何かつらい部分とか、ふわふわ浮いた部分とか、もしゃもしゃとしてかきむしりたい部分とか、そういった、どこか陰を背負った青春の記憶を、「当時の音楽」とされる売れ筋の曲を聴いても、一向に思い浮かべることができない。




先日、ネットの友人に、「君はどこか、不安定感とかエモみがある音楽を好むよね」と言われた時、そういえばぼくは、人生がほとんど大失敗しているようなバンドの音楽ばかり好んで聴いていた時期があったなあ、何なら今でもそうだけれども、と思い至った。

そうか、ぼくの青春は、いわゆるインディーズに近いバンドミュージックと共にあったのか。

そう思って、iTunesの古いバンドを片っ端から聴いてみた。そうすれば、あの青春時代を少しでも思い出すことができるのではないか。




思い出されるのは、自室のCDラジカセの前に座って、ヘッドホンを両手で抱えて、目をつぶり、ずっと音楽を聴き続けていたときの、あのごわごわとしたカーペットの「尻触り」ばかりだった。何も変わらない、ぼくは音楽を何か思い出とセットにして聴くのが、元来苦手なようだった。ミスチルには悪いことをしたなあと思う。

2017年7月14日金曜日

病理の話(100)

向こうに患者がいる。

わたしの病気は何なんですかと、主治医に尋ねている。

主治医はあまり専門用語を使いすぎないように、患者に説明する。

自分の脳の中では専門用語をふんだんに脳内で踊らせ、病気の正体を探ろうと試みながら。

そして、患者が帰った後に、主治医は病理医の元に歩いてきて、尋ねる。

この人の病気は何なんですか。




病理医はあまり専門用語を使いすぎないように、主治医に説明する。

「あまりにも専門用語をぶちこんでしまうと、主治医もわかんなくなっちゃうだろうな」

病理医は、臨床医にわかる言葉で病理報告書を書く。

病理報告書を読んだ主治医は、患者に病状を説明する。説明の際には、

「こんな難しい言葉だったら患者はわからないだろうから、もう少し簡単に言い換えてあげよう」

と気を遣う。

主治医は、患者にわかる言葉で説明を試みる。



患者のために行われている医療。

その中では、言葉は何度も、言い換えられている、ということ。



あるいは、看護師だって、病院の事務だって、待合室で眺めているニュースのアナウンサーだって、そのニュースの中に登場する政治家だって、政治家に意見を具申した厚生労働省の職員だって、その職員に情報を提供した医療者だって、みんな、相手がわかりやすいように、わかりやすいようにと、言葉を言い換え続けている。

医療だけに限った話じゃない。言葉はいつでも、言い換えられ続けている。

専門用語を言い換えずに働くというのは、不親切だ。

それに、「病理の専門用語」も、細胞に起こっている形態変化を、ことばという形に近似して、表現しているだけである。

「専門用語を言い換えなければより真実に近い」かどうかは疑問である。医療とは、近似、近似の伝言ゲーム。




似た言葉を探し、より伝わりやすい言葉を選び続ける医療コミュニケーションの場において、もっとも大事なのは、つまり、「それはどういう意味ですか?」と、お互いが問いやすい環境を作ることではないか。

お互いが相手の得意に寄り添い、相手の不得意を補い合う環境を作ること。

とりあえず、ぼくもここで意志を持って仕事に参画しているんですよぉと、名札をかかげてアピールしておくこと。

いつでも話しましょう、いつでも答えますよ、いつでも聞きたいんです、いつでも教えてください、と、言いまくっておくこと。

あちこちで臨床の医療者と一緒に仕事をする。話をする。相談をする、相談に乗る。

病理のことばを、臨床の用語で言い換えるなら、どういう言葉を使うのが一番いいのか。

病理のことばが、患者の元に届くまでに、どれほど形を変えているのか。

毎日、実感する。書く。読む。

これが大事だと信じて、人とも書物とも会話を続けていく。





そんな日々を繰り返しているうち、病理医だけが使っている言葉の特殊性に、あらためて向かい合うことになる。

細胞とは。細胞質、細胞膜、核膜、核質とは。

異型性とは。異形成とは。

凝固壊死、融解壊死、乾酪壊死。

極性。軸性。

濃縮、微細顆粒状、泡沫状。

好酸性、好塩基性、両染性。

多結節状、結節集簇状、分葉結節状、粗大顆粒状。

シダの葉、サカナの骨、鹿の角。

おそらく世の人々の0.01%すら使わないであろうこれらの表現もまた、病理という狭い世界の中で、コミュニケーションするために生まれてきたフレーズだったのだろうなあ、と、思いを馳せる。



誰かに伝わるかな、伝わるといいな、伝えよう、と思って作り上げられた言葉が、輝いている。ぼくは、たとえばそういう病理ことばを抽出して、ためしに患者の前にそのまま投げてみたらどうなるだろうかと想像する。もちろん実際にはやらないけれど。


うん、案外、何かを越えて、伝わるということも、ある、かもしれないなと思う。もちろん実際にはやらないけれど。

2017年7月13日木曜日

フジファブリック一番の名曲は花屋の娘

とある大学の外科教授と話をしていたら、ぼくの知り合いの醜聞をぼくよりもよっぽど詳しく知っていて、うーむ、アンテナの広さはさすがだなあと思ったのだが、それ以前にこんなどろどろした話ばかり抱え込んで、精神は大丈夫なのだろうかと心配になった。だから、直接聞いてみた。


「先生、そんなに人のやばいネタばっかり仕入れて、自分の精神保てるんですか」


そしたら彼は笑ってこう言った。


「うん、だってすぐ忘れるもん。他人の話だし」


なるほど彼は、仕入れては売る、仕入れては売るを繰り返しているだけで、知識を「倉庫の在庫」にはしていない。彼はあくまで情報という素材を分配しているだけだ。自分がその情報を加工して、返り血で自分のエプロンを汚すようなことはしない。


なんだかなあ、と思いながら、情報をめぐる人のありようを考えていた。


この教授はえげつない。やってることは死の商人と一緒だ。武器を売るけど自分では撃たないよ、みたいなものである。けれど、彼はそういう荒事だけではなく、美談も学術もおなじように仕入れては売る。ハブとして一流であり、だから人の中心に立っているのだろう。


マスコミという仕事の中心にいる人達が高給をとっているのも同じ理由に違いない。


ぼくは、彼らをさげすむのではなく、そのメソッドを学んで、よりよい情報を集めたり広めたりするために自分の身にしていかなければいけないと、わかっているのだけれど……。


しかもたぶん、ぼくは、元来そういうゴシップとか汚いネタとかを集めて再度拡散させるのが、わりと得意な方なのだろう、けれど……。


軽トラに死体を積む人もいれば、花を積んで運ぶ人もいる。きっと、死体をいっぱい積み込める能力があれば、花だって上手に積み込めるだろう。けれど、花を積むために死体を積む練習をしなければいけないものなのだろうか、と思う。花を積んでも商売にはならないが、それでも花だけを積むほうが、トラックも運転手もきれいなままでいられるのではないか。


車の窓からいつも、ちょっとだけいいにおいがしたほうがよいのではないか。


教授はぼくにいうのだ、「先生だってそろそろ、あこがれていたアカデミアでいい仕事ができるようになるかもしれないんだ」


けれどぼくは答えるのだ、「そこにはきっと、そういうのが得意な人がいるべきなのです」


そしてぼくは考える、(得意な、というか、うん、好きな、でいいかもしれないなあ)


なおもぼくは考える、(きっと、ぼくは、得意で好きなことをやっている自分しか認められない、残念なタイプなんだなあ)


そしてぼくは黙る、(花屋を目指そう」


教授が驚いて言う、「なんで? 今から花屋やるの?」


ぼくは自分の口に驚いて言う、「あっいや、昔、花屋の娘っていう名曲があってですね、あの妄想が好きだったんですけど、先生ご存じですか、フジファブリック」





なんと、ご存じであった。だから博識な人間と話をするのはいやなんだ。

2017年7月12日水曜日

病理の話(99)

ひとりの患者、ひとつの病気をいろんな視点から見れば、さぞかし多彩な情報が集まるだろう。

たとえば、血液検査。

たとえば、画像検査。

たとえば、病理検査。

たとえば、患者自体が話す声を聞くこと。

たとえば、患者の体に出ているものを見たり聞いたり押したりすること。



これらのどこに特化するか、という考え方と、これらをいかに網羅するか、という考え方があって、前者はスペシャル、後者はジェネラルとか言われたりする。



では、通常の臨床医はどことどこに長けておくべきか?

「それはもちろん、患者の話すことばに耳を傾けること。これが一番だよ。」

ああ、名医くさい。

「問診と診察と検査値と画像とを見比べて矛盾がないかどうか探す知力こそがカギだよ。」

ああ、名医くさい。

「それはもちろん、病理だよ」

なぜかこれだけは、ヤブ医者くさい、と言われてしまう。

病理は、別なのだ。

病理だけは、どうも、「臨床(ベッドサイド)」のくくりには、入れてもらっていないのだ……。

診断を考える上で、病理だけはすごく浮いている。なぜだろう?

病理は、専門性が高すぎるから? そうは思わない。胃の拡大内視鏡診断にしても、肺の間質性肺炎CT診断にしても、心エコーにしても、どれもめちゃくちゃ専門性は高いではないか。病理と大きく違うとは思えない。

病理が一部の場面でしか用いられないから? これもたぶんうそだ。だって、腎臓内科は胃の拡大内視鏡を用いないし、皮膚科は心エコーの細かい設定を知らない。あらゆる医療技術は限定的な場面でしか用いられない。

病理医の数がそもそも少ないから? TAVI(血管内カテーテルを使って心臓の人工弁をいじる手術)をできる循環器内科医だってほとんどいない。エンドサイトスコピー(超拡大内視鏡)を使いこなせる消化器内科医も数えるほどしかいない。でも彼らは胸を張っているぞ。

なぜ病理だけが、「ぽくない」と思われているんだろう。







と、まあ、このように書いて、考えて、問いかけることを、このブログで、ときおりやってきた。

病理ってマイナーで、臨床扱いされてなくて、ニッチで……。

ところが最近、ぼくが会う人々は、実は、このように言うのである。

「病理って大事ですよねえ」

「病理勉強しはじめてから診断学が楽しくなりましたよ」

「後輩の放射線技師にも病理教えたいんですけど、いい教科書ないですか」

あれ、思ったより、ビョウリって悪く思われてないし、仲間はずれでもないな。

あいかわらず一般的な認知度は低いけど、「どうせ病理なんて仲間はずれだろ」みたいに卑屈になっていたぼくは、ちょっと先入観にとらわれていたみたいだ。

思ったより、臨床の人達は、病理のこと、ご存じだ。




ぼくは、輸液のことがよくわからない。縫合のこともよくわからない。窓口でクレームに頭を抱える総務課のつらさも、ドラッグ・インフォメーションをどんどん更新していく薬剤部の精緻さも、グリーフ・ケアも、レセプトも、病診連携も、NSTも、廃用症候群の予防も、認知症のことも、麻酔のことも、なにもしらないけれど、医療者であった。

親を亡くしたことがなく、祖父の死に目には会えず、自分ががんになったことはなく、身内の狭心症におびえたことがなく、親族をがんで亡くしたことはあり、自分が入院した経験はなく、任意保険をどうしたらいいのかわからず、告知されたこともなく、出産に立ち会ったことはあり、性病になったことがあり、骨折したことはなく、介護する立場になったことがないけれど、患者でもあった。



そんなかんじで、病理について、自分の知っていることを書いていけばよいのだろうなあと、思った。

病理って、ご存じな方もご存知ない方も、いらっしゃるんですよ。

2017年7月11日火曜日

おいがつおつゆの「おいがつ」って何だ

今年の札幌は雨ばかりだ。確か記録的だったはずである。

毎年、天気はきちんと記録しているんだから、いつだって「記録的」だろう、とかつっこまないでほしい。そういうことではない。

追うぜ、どこまでも。てめーをぶっ倒すまでな! それは「ミロク的」である。わからない人はいい。

ビーフステーキを略したらビーステじゃん。カードバトルできそうだよね。違う、それは「ビフテキ」である。わかればいい。

もともと6年4組だったはずの教室も、生徒が減ったら別の部屋に変わっちゃったんだね。「多目的」である。もういい。



こういう文面で記事を書くと自分がにやにやしているのが透けて見える気がしていやだ。



雨が多いと、いろんな感想を聞くことができる。同僚のひとりは、「今年は庭の芝生に水をやらなくてもいいからラクなんだ」と言った。また、他のひとりは、「子供を連れてイチゴ狩りに行こうと思ったんだけど、日照が足りてなくてイチゴがなかったよ」と言った。雨ひとつとっても、これだけ違いがある。受け止め方というのは人それぞれだ。これらの会話を聞いたぼくの感想もまた違い、「どいつもこいつもマイホームに幸せ家族かよ! カーッ! てめぇんちの窓枠ぜんぶカビろ!」である。



北海道には梅雨がないと言われているけれども、実は「蝦夷梅雨」と呼ばれる雨量の多い時期がある。従来は6月~7月にかけての短い時期であるはずが、今年は蝦夷梅雨が6月いっぱい続いてしまった。行楽シーズンだというのに残念なことだ。

ただ、おかげさまで、北海道では雨が続いていても、湿度はそれほど上がらない。本州からやってきた人には「これが梅雨だって? ハッ! いいじゃんこんなさわやかに雨降ってさあ! ぜいたくだよぜいたく!」とか言われて、バカにされる。

本州の人間は、何かにつけて北海道を「最高の土地」「うらやましい土地」「いつか行きたい土地」「でも住めねぇよあんな田舎」と、激しく持ち上げてからたたき落とすのが大好きだ。だからぼくも、首の骨を折らないように上手に受け身をとるクセが付いている。「そうね、おかげさまで、過ごしやすくて、料理もおいしくて、ドライブも快適で、かわいい子もいっぱいいて、およそ他の土地とは比べものにならないくらいの天国なので、すっかり精神が軟弱になってしまって、この程度の雨でもちょっとしんみりしてしまうんどすえ~」。内地の人はこうやって、自虐と謙遜にみせかけてマウント取り返すんですよね? ぼくネットで見ましたよ!




ブログが更新されるころにはきっと天気も良くなっており、この記事もなんだかテンションを読み違えたものに変わっているはずなのだが、できればそろそろカラッと晴れてほしい。北海道の夏はダイヤモンドの輝きである。そのカラットではない。

2017年7月10日月曜日

病理の話(98)

病理診断報告書に、

「○○を考えます。しかし、□□が見られる点が気になります。」

などという文章を書く人がいる。

はじめてこの文章を見たとき、ぼくはひっくり返りそうになった。

「き、気になりますって! 思春期か! 乙女か! これが正式な診断書のフレーズとして許されるのか! あまりにふざけている……!」



「気になります」が、実はかなり普遍的な病理用語であると知ったのはずいぶんあとのことだ。




英語では"worrisome feature"などという。

Worrisome。気にかかる、心配になる、やっかいな、などという意味の言葉である。動詞のworryに相当する言葉。

Worrisome feature, すなわち「気になる所見」と訳される。

あいまいを好む、責任回避が好きな日本人、という先入観でいては見えてこない。

欧米人も病理診断報告書に「気になります」と書いているのである。



実は、臨床医療者は多くの場面で「気になる」を診療のヒントとして用いている。

「この咳、たぶん、ぜんそくによるものだろうな。しかし、年齢がやや高いのが気になる……」

「この腹痛は、おそらく、食中毒でよいだろう。ただ、下痢が血便であったことと、吐き気を伴っていないことは気にかかる……」

患者を診療する最中に、現時点で最も疑わしい病気は何であるか、それをくつがえす証拠があるとしたら何だろうか、というのを丹念に追い求めていくと、しばしばこのような表現方法を用いることになる。



診断の過程においては、「無限に集まる情報」を正しく選び取り、一番ありえそうな疾患名を思い浮かべていくことになる。このとき、ある疾患名「A」が瞬時に決まり、他の疾患名B,C,Dを完全に否定できることは少ない。

風邪だと思っても低確率でもっとやばい病気のことがある。

がんだと思っても実はがんではないこともある。

医療者にとって、まあ、「たいていの」病気は、素直に直感に従っていれば当たる。

しかし、何か「ひっかかり」がある場合には注意が必要だ。

そのひっかかりを探っていくと、思いも寄らない病気が陰に潜んでいたり、今までの検査結果を全て覆すようなものの見方の変更を余儀なくされることが、「まれに」ある。



「たいていの」ものごとから、「まれな」ものごとを抽出するために必要なのは、「ひっかかり」に気づくことだ。



NHKのドクターGという番組が優れているなあと思うことは、番組に出演した研修医たちが

「これは○○という病気だと思います」

と発言した直後に、指導医が、

「○○として、合致しない点はどこかな?」

とたずねるところである。

「○○」の可能性が高いと踏んでいる人間に、あえて、「○○ではない場合」をきちんと考えてみよう、「○○ではない根拠」はなんだろうか、と問いかけることが、思考を強靱にする。

このとき、しばしば、研修医は、「……うーん、○○とすると、□□である点が気になります。ここはちょっと合致しない」などと発言する。

ほら、出た、「気になります」。




以上の考察を通じて、ぼくは、病理診断書に書いてある「気になります」を許すようになった。

でもまあ、ぼくだったらこんな乙女言葉は使わない。もっとレポートにふさわしい言葉に代えてしまう。

「Aという病気であろうと自分が疑う根拠は○○だ。一方、Aという病気にそぐわないのは□□だ」

というのを列挙する。「気になります」のように、主観が見え隠れしてしまうと、病理診断書をよりどころとしている医療者の一部は

「てめーの主観に俺の診断をまかせなきゃいけないのかよ」

とがっかりしてしまうからだ。




……ここで記事を終えても良かったのだが……。




ぼくが考える「理想の病理医」は、ときに、臨床医に電話をしている。

彼は、臨床医に話し掛ける。

「あの患者の標本、診ましたよ。ええ、たぶんAという病気ですね。ただね、気になるんですよ……」

すると臨床医は即座に理解する。

「あー先生が気になるってことは、ちょっとじっくり考えていただいたほうがよさそうですね。先生が気になるってなら、よっぽど難しいんだなあ……」




ぼくは、医療が「主観」で行われているのはもはや当たり前だと思い始めている。もちろん、その主観は、膨大なエビデンス(証拠)、堅実な統計・疫学、豊富な知識に裏付けされていなければならないが、結局、人である我々が診断を下すときに、主観は切り離せない。

だからこそ、その主観が「ありがたい」と思ってもらえるような、信頼関係を築かなければいけない。これが極めて難しい。

もっとも優秀な病理医とは、「気になるんですよ」という主観バリバリの言葉を臨床に投げかけたときに、臨床医療者がみな背筋をただして、「あいつの主観がやばいと言っているぜ」と警戒してくれるようになるような人であろう。




そう考えると、「気になります」というフレーズひとつが、気になってしょうがない。

2017年7月7日金曜日

脳だけが旅をする

雨の信州路、乗合タクシーには7人が乗車していて、みんな他人同士で無言だった。Wi-Fiが搭載された車内でぼくはツイッターで見つけたブログ記事やツイ4のマンガなどを読みながら夢を見た。夢の中でぼくはハンドルを握らずに運転をしており、強い雨でフロントガラスが波打つのをはらはらしながら見守っていた。

アメリカ留学している同期がずっと業績の話をしている。彼はインパクト・ファクターという言葉を何度も使いながら、合間に自分の娘に対していかに時間を割いているか、明るいうちに自宅に帰ってテニスコートやプールに行く生活がいかに家庭と仕事を輝かせているかを、完成された再放送のようなフレーズで懇々と説法していた。

雨が上がった音がしたので目が覚めた。スマホのページはバナークリックした覚えのないエロマンガサイトにつながっており、ぼくは高速バス会社の職員があとでこのログを見つけたときにどういう独り言をつぶやくのだろうと考える。

思索の荒野という言葉を繰り返しメロディに乗せた向井秀徳は、思索が広がって薄まって虫に集られ夕日に焦がされ石が砂となるように風化していくさまを思っていたのだろうか、ぼくは何かを考えているときにたいてい、広かったはずの道を車で飛ばして行くうちにだんだん車線が減り、中央分離帯が細くなり、対向するトラックに水しぶきを盛大にぶっかけられ、あわててワイパーで殴りつけながら、早くパーキングエリアで休みたい、マルボロに火を付けたい、ひとつ吸った途端に、早く走り出さないと目的地にいつまでたっても着かないとやきもき、コーヒーも買わずにまた雨の高速道路にしぶしぶ戻っていく、そんなイメージを持っているので、思索の荒野に道を通した人は偉いなあ、ぼくはそこを走るだけでこんなに雨男なのに、と、また降り出した雨の音が拘束された罪人の頭を打つ水の拷問のようだなと、そういえばあの同期はそもそも医者ではなかったし子供もいなかったし高校の時に死んだのだったなと、あわてて手を合わせて少し脳を閉じた。

2017年7月6日木曜日

病理の話(97)

あちこちに話を飛ばしながら「病理の話」をし続けてきた、(101)くらいになったら、昔書いたネタでもどんどん書き直して行こう。

「その話題は12回目に書いてありましたよ」とか、「24回目と62回目と同じ話でしたね」とか言われても、再利用はやめない。

ひとつのブログをいちいち遡る時代ではない。昔書いたからと言って、今日の読者がそれを読んでいる保証はない……。







「病理診断報告書」を書くときも、ちょっとだけ似たことを考えている。

レポートを読む対象として、「常連」だけではなく、「今回はじめて病理の話を読む人」を想定しておこう、ということだ。

ぼくの書いたレポートを読むのが「消化器内科の20年目のドクター」であれば、ぼくの病理レポートを何度も何度も読んでいる。ぼくのレポートに慣れている。この珍しい病気も、あの珍しい概念についても、説明したことがある。必要事項だけ書いておけば通じる。わかってくれる。

けれど、後期研修医(5年目)のドクターが読むかもしれないとなると、多少細かく診断の説明を書いた方がよい。参考文献も付けておいたほうがいいし、うちの病院ではこれが4例目となる珍しい症例だとコメントするところまでやる。今後の対応についても多少コメントして、わからなければ電話してくれと付記しておく……。

今回は、わかりやすくするために、今たまたま手元にあった教科書の写真を適当に選び、それについて架空のレポートを書いてみる(教科書をパラパラめくって決めました)。

レポートの書き方として、2種類。

ひとつめは、ベテランのドクターに向けて書くバージョンを。

ふたつめは、ベテランだけでなく、消化器内科にやってきたばかりのドクターにも読んでもらう場合のバージョンを書く。



1.常連・ベテランだけにあてた、レポートの例:

------------------

胃癌: Gastric carcinoma with lymphoid stroma (GCLS), ○×○ mm, pType 0-IIa+IIc, pT1b2(SM2, 1800μm), med, INFa, ly0, v0, pPM0, pDM0, pN0, Stage IA.

EBER-ISH(+).

------------------

病理診断報告書というのは、実はこれでほとんど用を為している。

読者諸氏は、上記の文章を単なる記号にしか思えないだろう。

でも、記号でよいのだ。というか、記号化するのが病理医の仕事のひとつなのである。

記号さえあれば、ベテランの消化器専門医は、必要な情報を抽出して、今後の診療に役立てることができる。




一方、後期研修医1年目くらいだと、上のレポートを見てもその意味を十全には理解できない。

あるいは、この患者を診ている他科の医師がいるかもしれない。この患者が例えばほかに心臓や腎臓などに病気を持っていて、別の科にもかかっていたとしたら、そこの医師は(たとえ自分の診療領域と関係ない胃であっても)病理レポートを読む必要がある。しかし、消化器専門医でないと、上記の内容はおそらく理解しきれない。



であるから、ぼくは、レポートを以下のように記述することになる。


2.研修医や他科の医師が読むことをも想定した、レポートの例:

------------------
胃癌: Gastric carcinoma with lymphoid stroma (GCLS), ○×○ mm, pType 0-IIa+IIc, pT1b2(SM2, 1800μm), med, INFa, ly0, v0, pPM0, pDM0, pN0, Stage IA.

腫瘍浸潤部周囲に濾胞形成を伴うリンパ球浸潤像が認められ、リンパ球浸潤癌(胃癌取扱い規約第14版)に相当する組織像です。
EBER-ISHにて腫瘍細胞の核に陽性像が得られ、本病変はEBウイルス関連胃癌であることが示唆されます。
------------------

そこまで細かくは書かない。なにより、記号のひとつひとつについて解説はしていない。

けれど、こちらのレポートには、先ほどと大きく違う点として「取扱い規約の第14版を参照せよ」というメッセージが含まれている。

わからない人が、読み、調べるよりどころを書く。些細だがこれがとても大きい。とっかかりが必要なのだ。

医者は科が違うと、使う教科書も文献もまるで異なるが、これらを俯瞰的に眺めているのは病理医と放射線科医くらいのものだ。だから、我々は、道しるべを置くようにする。





ところで、ぼくは、もう一つの書き方を持っている。

より正確に言うと、自分では「第3の書き方」はしていないのだが、ぼくの元で病理を学ぶ研修医には必ずやってもらう書き方、というのがある。

それは、先ほどの1よりも2よりも、圧倒的に長く、細かい書き方だ。


3.読者がベテランか研修医かに関わらず、書く方が勉強している場合の、レポートの例:

------------------
胃癌: Gastric carcinoma with lymphoid stroma (GCLS), ○×○ mm, pType 0-IIa+IIc, pT1b2(SM2, 1800μm), med, INFa, ly0, v0, pPM0, pDM0, pN0, Stage IA.

後述する理由により本病変をリンパ球浸潤癌(胃癌取扱い規約第14版)と診断します。リンパ節転移は認められません。断端は陰性。

【肉眼所見の詳細】
 胃体上部後壁に、○×○ mm大の発赤調病変を認めます。病変の立ち上がりは粘膜下腫瘍様のなだらかな立ち上がりを呈し、病変の中心部ではわずかに浅い陥凹を伴うType 0-IIa+IIc病変です。病変内に向かうひだの引き込み、粘膜集中像はみられません。背景胃において大弯のひだは消失傾向にあり、open typeの萎縮がみられます。
【組織所見の詳細】
 肉眼病変部のうち、陥凹部にほぼ一致して粘膜内癌病巣を、周囲のなだらかな隆起におおむね一致して粘膜下層に浸潤する癌病巣をみます。粘膜内では吻合状~レース状の形態を示す腺癌像であり、粘膜下層浸潤部では背景に濾胞形成を伴う高度のリンパ球浸潤を伴いながら腫瘍細胞が個細胞性~少数細胞性に浸潤しています。浸潤部に線維化(desmoplastic reaction)は目立たず、病変全体が粘膜を粘膜筋板の下から柔らかく押し上げています。浸潤先進部は粘膜下層の中層付近に留まり、固有筋層への浸潤はみられません。病変の厚みに比して硬さはそれほど上昇していません。
 EBER-ISHにて、腫瘍細胞の核に陽性像が得られ、本病変はEBウイルス関連胃癌であることが示唆されます。
 以上よりリンパ球浸潤癌 gastric carcinoma with lymphoid stroma (GCLS)と診断します。
 脈管侵襲像はありません。リンパ節転移は認められません。断端は陰性(口側断端は迅速組織診にて確認)。
 背景胃粘膜にはピロリ菌関連胃炎の像があり、病変周囲には腸上皮化生を散見する軽度~中等度の萎縮をみます。
------------------

これは、「長すぎ」である。

まるで、問われてもいないモビルスーツの機能を延々と語り続けるだれかさんのようだ。

実際、このボリュームのレポートをぶつけられると、臨床医は驚いてしまう。

しかし、臨床医もわかっている。「ああ、病理で勉強している研修医が書いているな」ということを(署名もしてもらうのでわかる)。

研修医に病理の勉強をしてもらうため、肉眼や顕微鏡でみた「所見」を、きちんと文章化するトレーニングをしているのだな、ということをわかってくれる。

なお、臨床医たちの利便性を損ねないように、レポートの序盤には「必要事項」をまとめて書いておく。序盤さえ読めば、あとは読み飛ばしてもいいですよ、ただこちらはこちらで教育目的にも使わせて頂きます。そんなメッセージを込める。

「後述する理由により」

「所見の詳細は以下に」

のようなフレーズを付けることで、指導医ならピンと来てくれる。




病理診断報告書は、最終的にはすべて「患者のため」に書かれるものなのだが、実際にはこのように、多様な医療者を想定し、それらがみな役立てられるように考えて書く。

ときに、読者だけではなく、著者の方にもいいことがあるように書く。




……以上の内容は、このブログでは実は何度か触れてきた話ではあるのだが、まあ、著者にとって、いいことがあるので(新しいネタを探さなくてもいいので)、書いておこうと思う。

2017年7月5日水曜日

帰ってきたら何だろうお腹のあたりがシュッちょしたんじゃないか

出張先で仕事や勉強が終わった後に、ホテルに引きこもってビールを飲んで寝てしまう。中年男性があこがれる、「ふらっとひとりで現地の居酒屋に入る」みたいなことをやった記憶がない。「駅前を所在なくぶらつく」とか「風俗に突撃する」とかもやらない。とにかくホテルでいつもより少しだけ高いビールを飲んで寝てしまう。

たまにもったいないと言われる。

せっかくなのでご当地のおいしいものを食べたらどうかと言われたりもする。

でも、今のぼくは、

「もう、十分に旅をしているんだから、この上さらに非日常を重ねなくても、満足なんだ」

「ホテルの部屋でふだん見ないバラエティやニュースを見ながら缶ビールを飲むことが旅の醍醐味なんだ」

と思っている。



これは、「人生を攻めて楽しむこと」ができなくなった人間の言い訳かもしれない。

あるいは、摩耗とか萎縮とか呼ぶのがふさわしい、矮小な人間性が表面に出てきただけのことなのかもしれない。

けれど、出張のときに飛行機の中で本をまとめ読みすることも、観光地に寄らずにホテルにひきこもっていることも、帰りに空港であわただしくおみやげを何種類も買い込むことも、ひとしく旅の色彩として腹におさめてしまっている。

それで心が満たされてしまう。

それで早く家に帰りたくなってしまう。

安上りの旅を繰り返しながら、ああ、ぼくはわりと旅行が好きですよ、などと周囲に言って回る。

うそは一つもついていない。




ところで、モンゴルから帰ってきたときに腹痛で寝込んでしまったのは、いつもやっていない「観光」を旅程に組み込んだからだ。

ぼくはこの、「めったに自覚しないレベルの腹痛」によって得られた非日常が、今ふりかえる分には、そこまでいやではなかった。それが、自分で、ちょっとおどろきであった。

もう少し年をとって、もう少し出張の主目的自体に興味をなくす日が来ると、あるいは、旅先で景勝地を見て回ったり、外食に出かけたりするのだろうか。

……そもそも、「出張」を「旅」と言い張るクセが、治るだろうか。

2017年7月4日火曜日

病理の話(96)

マンガ「フラジャイル」の根底を貫くテーマというのがいくつかあるように思うのだが、その一つは、

「嘘」

だと思う。

たとえば病理医のタマゴであり本編の狂言回しであり主演女優でもある宮崎先生という人は、「自分の中にいろいろ満ちてしまった」という表現を用いながら、患者との対話の中で自分がついてきた嘘について思いを巡らせる。

宮崎と岸との師弟関係の中に、「だからその紙(病理診断報告書)には嘘を書くなよ」という意味のセリフが出てくる。

最新エピソードでも、患者に対する「嘘」というのは果たして誰のためなのか、というテーマがにじむ。



必ず良くなるからがんばって、というセリフは、いつ、どこで、だれが、なんのために、どのようにして用いるのか。

生命、疾病を考えたとき、「必ず」が通用するのはふたつあり、「いつか必ず人は死ぬ」ということと、「生きている毎秒が人生である」ということ。

前者は絶対的な「必ず」で、後者は散文的な「必ず」である。

今を元気に、明るく生きるためについた「嘘」が、のちに人を苦しめることはある。

必ず治ると言われたのに結局治らなかった人というのは、かつて話した「必ず治るよ」という言葉を、嘘として思い返すだろうか。

では、たとえば、進行したがんの患者が周囲に「必ず治るよ」と言われて、「そうか、そうだよな、必ず治るよ」と信じて毎日を楽しく暮らして、ある夜、寝ている間にふと死んでしまったら、本人は幸せだろうか。

周りはその嘘を振り返ってどう感じるだろうか。

それ以前に、がんが必ず治ると信じたまま、「うまく死ねた」人というのは、世の中にどれだけいるのだろうか。

実際に、がんが治った人は、かつて周りがついた「必ず治るという嘘」を、どう振り返るのだろうか。




「嘘」の反対は「真実」ではなく、「不定」である。

未来のことは誰にもわからない、というのは、真実ではなく、道理である。

嘘をつかないということはしばしば、「それは誰にもわからない」と言い続けることにつながる。



嘘をつかずに生きていく上で一番効果があるのは、統計を知ることだ。確率で計ることだ。可能性までで思考を停止することだ。

だから、しばしば、嘘をつかずにいようとする医療者は、確率の話をする。



残念ながら、ぼくらは道理では幸せになれず、真実と信じることで幸せになっている気がする。




その紙に嘘を書いてはならぬと言われたとき、どれだけの医療者が「真実」をもって語ることができるだろう。

ぼくの知る限り、真実を追究する残酷な人間というのは、たいてい、病理にいて、道理をわきまえた上で残酷な科学を語り、嘘を許容せずに日々を送る。

そんな人間が医療業界にあふれていたら、いろいろと、まずいのだと思う。

ぼくは最近、病理医なんてのは少なくてよいのではないか、と思い始めている。

嘘と道理の狭間でゆらゆら動く患者と医療者は、そのままゆらゆらしていたほうが、やじろべえとして針の上で立っていやすい。

時に優しい嘘を撃ち抜く役目を担う人は、稀少でよい、日陰でよい、ただしどこかにいなければいけない。





かつて草水敏という人は、「ぼくの考える主人公とはダークヒーローでなければいけない。話すことすべてが正しい必要はない。むしろ読者は主人公を見て怒りに震えたり、大きな違和感を覚えたり、悩んだりしてもらいたい」という意味のことを言っていた。

岸京一郎は最低の病理医なので、彼を見ることでぼくは病理医としてどう歩いて行こうかという話を、何時間も、何日も、何年も考え続けることができる。

ぼくは「彼」のやり方をなぞっている。「彼」がどの彼なのかは、可能性の話に留めておこうかと思う。

2017年7月3日月曜日

略して としこ

このブログを書く直前に、仕事のメモを見ていて、「そういえばあの講演のスライドまだ作ってないなあ」くらいの、プチストレスがかかった。

プチで済んだ。

「プチで済むようになった」というのは、年の功的なやつかもしれない。

昔だったら、「抱えている仕事の進捗状況を間違って把握していた」、という状態は「近年まれにみるストレス」「最悪の年と言われた2010年に匹敵するストレス」みたいにボジョレー化して表現されていただろう。

今はもう、ボジョレー化しない。

経験したことがあるストレスについては、何度も回数を重ねていくうちに、感覚がマヒしたのか、対処法が身についたのかはともかく、自覚症状が軽くなったように思う。



経験したことのないストレスについて語ることは難しいが(なにせまだ経験していない)、この先どういうストレスがかかっても、「まあだいたいこれくらいつらいだろうな」と予測できてはいる。

今なら、10代のころほど、経験してもいないストレスについて必要以上に煩悶することはないだろう、と思う。



こうやって、大丈夫大丈夫、自分はわりとストレスを飼い慣らせるようになってきたぞ、というイメージを文章化して、自分に言い聞かせる。

だって中年だからさ、というもっともらしい理由をきちんと添える。

ここまでが一連の技術である。中年の持つ技術である。



ほんとうは何も変わっていないかもしれないけれど、「中年だ、年の功だよ、経験値の差だから、それくらいはね」と、口に出すことで、本当に変わっているんだよと、自分に思い込ませる。




これを年の功と呼ぶのだと思う。

2017年6月30日金曜日

病理の話(95)

将来、ありとあらゆる「遺伝子変異」を瞬間的に検査できるようになると、すべてのがん診療が自動で行えるようになる……。

がん細胞から遺伝子を抽出して解析することで、それぞれに一番あう抗がん剤を選んでがんを叩けばいいので、今ある治療が大きく変わる……。

これらは半分ほんとうなのだが、残りの半分は、「おおげさ」と「夢みすぎ」と「まちがい」のブレンドなのである。



たとえば、そこらへんで元気に遊んでいる子供を適当にみつくろって、へんとうせん(扁桃)から細胞を採ってくると、ときどき、「遺伝子の異常」が見つかることがある。

生体内には「遺伝子の異常」……すなわち、体のあちこちを制御するプログラムのエラーというのは、思ったより多く存在している。

その異常が、実際に人体に害を及ぼすかどうかは、ケースバイケースである。遺伝子に異常がある細胞は常にがんであるかというと、まったくそんなことはない。

例えば……がん100例を集めてきて、しょっちゅう見つかる遺伝子変異があったとして。その遺伝子変異を、今あらたに見つけてきた細胞に見出した。じゃあその細胞はがんであると確定できるか?

できないのである。がんではないことも十分にありえる。というか、がんでないことの方が多いかも知れない。

 →(1)遺伝子異常イコールがんではない。

仮に、「ある遺伝子変異があると、100%がん細胞であると言える」という変異が見つかったとする。たとえば、胃で。

しかし、その遺伝子変異は、胃ではがん細胞の形成に関わるかもしれないが、肝臓では関わらないとか、脳ではがん細胞になるためのキーなのだが、肺では全く関係ないとかいうように、臓器が変わると重要性も変わってしまう。

 →(2)遺伝子異常は臓器や細胞ごとに意味合いと種類が異なる。

がん、と言っても一枚岩ではない。

犯罪者、と言っても、コソ泥もいれば痴漢もいれば殺人犯もいるように。

がん、と言ってもいろいろなのである。

あるがんは、人を殺すだけ大きくなるのに200年かかるかもしれない。

 →(3)仮に遺伝子変異があるがんだと診断しても、そのがん自体にバリエーションが多すぎる。



つまり……「遺伝子変異」というのは疾病のキモではあるが、疾病そのものとイコールで結べないのだ。

今、患者の状態がどうであるか、というのを考えるときに、遺伝子だけ採ってきて調べればわかる、というのは今のところ完全に幻想である。


脳腫瘍や肺癌など、一部の臓器では、遺伝子変異などを細かく調べることで、病理診断よりも正確にがんの挙動を予測できる、というのが現代の常識である。

しかし、これは医療者にとっては当たり前なので言及されていないだけなのだが、実は「遺伝子変異などを調べる前に、無意識のうちに医療者は、がんの広がり方、転移している場所、患者の体力、背景にもっている疾患などを頭に入れて、その上で遺伝子変異を便利使いしているにすぎない」のである。

そこにいる患者の顔も見ず、お腹に手も当てず、画像検索も行わず、顕微鏡でがんである確認もせずに、「ただ遺伝子だけを採ってきてすべてがわかった」なんてことはないのだ。

遺伝子変異だけではステージ確定は不可能である。

遺伝子変異だけでは化学療法や手術導入のための患者の体力評価もできない。

遺伝子変異だけではそもそもがんと確定できない。




……ぼくらはそれをわかった上で、その上で、

「うおー遺伝子変異ぜんぶ見られる世の中めっちゃ早くきてほしい……超期待してんだけど……!」

となっているのだ。そこに、「遺伝子変異が全部わかるようになったら病理診断なんて要らなくなるよな」みたいな見通しは、残念ながら(?)、ないのである。

2017年6月29日木曜日

ブッチャーズにも似たタイトルの超名曲があります

自己啓発本がすごいなあと思うのは、すでにあるものごとの「見方を変える」とか「閾値の設定をしなおす」だけで新しいココロモチになることができるよ、と言っちゃうところだ。

つまりはコストがかかんないんだよな。何かをクリエイトするわけでもなく、何かを研磨するわけでもなく、とにかく「線を引く場所」を変えるだけでいいんだから。

そりゃあウケるわ……金払って読みたい人も出るわ……。



と、ここまで考えて、「あれ、コストかかってんじゃん」となる。



「買ったところで、気の持ちようしか書いていない本」を、「買ってでも」、「自分が将来コストをかけずにうまくやる方法」を、「知りたい」。

ここで金が回るんだな。うーん。



「人の経験を取り入れる」のに、どれだけの金がかかるんだろう。

話を聞くだけならタダ?

「今ある状態を少しでもらくに、たのしく、うれしく受け止めるための考え方を身につける」のに、いくらコストをかけるのがいいのだろう。

いい人がたまたま周りにいればラッキー?



魚戸おさむ「はっぴーえんど」というマンガを、例えばそういう視点で読んでみるとよいのではないか、と思う。

このマンガはあるいは金字塔になるかもしれないので、今から金を払って読み始めておいて欲しい。


「はっぴーえんど 1  (ビッグコミックス)   魚戸 おさむ」 https://www.amazon.co.jp/dp/4091895077/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_R0gtzbW0RWV2K


2017年6月28日水曜日

病理の話(94)

ほんとうに病理医は足りないのだろうか、ということを最近考える。

そもそも、世の中に「足りている職業」なんてあるのだろうか。

どこだって人手不足である。

医療業界で、スタッフ数が潤沢で、診断も治療も最新・最高を常に維持できていて、患者もみんな満足してニコニコしている場所なんて、どれだけあるのだろうか。

夜昼問わず尽力する善意の一人によって成り立っている救急医療現場。次から次へと訴訟のリスクを抱える出産現場。神の腕を求めて殺到する患者。学会出張に行くと閉じられる外来。年年歳歳右肩上がりに増える申し送り事項。払われたくない金。病気は医者の都合を待ってくれない。病気は科学の進歩を待ってくれない。足りない人。足りない科学。足りない幸福……。




病理医が足りないんじゃない、人はそもそも全部足りない。




今、病理医は全国に2300人、うち半分強が50代後半以上であり、半分強が大学と紐づけされており、病理診断に専任する人よりも大学の研究業務と兼任する人の方が多く……。

このままでは病理診断は立ち行かなくなる。すべての医療が止まる……。足りないから、ぜひ、病理医になってくれ。この国の医療を救ってくれ……。



どこか空々しい。

どこだって誰だって足りないのに。

病理がなくなったからって、医療が全部止まるわけじゃないのに。

それは心臓外科医であっても産婦人科医であってもリハビリ医であっても緩和ケア医であっても一緒。

ほかの医療者と同じように、

「病理医がいないことで、誰かがちょっとだけ苦労したり、誰かがちょっとだけ理想から遠ざかる場所が増える」。

国民の幸せの総量がちょっとだけ減り、どこかのがん患者がちょっとだけ早く死んだり、どこかの病人がちょっとだけ診断が遅れて人生をちょっとだけ悪くする。


「ちょっとだけ」だ。


誰かの人生を大きく動かす、ちょっとだ。やじろべえを最後に倒す、指の一押しみたいなものである。




ぼくは北海道という田舎にいるから、田舎のことにとても関心があるけれど、北海道のあちこち、本当にあちこちに、

「病理医がいなくて、病理診断が破綻している病院」

がある。いっぱいある。すでに、ある。

ではそこでは医療は終わっているのか? そんなことはない。もちろん、病理医がいる病院と比べると、ちょっとだけ不便で、ちょっとだけ高次医療ができなくて、ちょっとだけ患者の満足度も落ちるかもしれないけれど。

産婦人科が撤退した地方病院。救急医がみんな引き上げてしまった公営病院。医局に切られて外科医が足りなくなった中核病院。

起こっていることはすべて同じである。病理医だけが足りないわけじゃない。

医療は常に、充足していない。




だからぼくは言いたいのだ、病理医が足りないからみんな病理医になってくれではなく、この仕事にはやりがいがあるから、君が病理医になることで、ちょっとだけ医療がよくなると思うから、もちろん、君は何になっても、ちょっとだけ世の中をよくできると思うけど、それは病理であっても同じことなのだ、だから、病理ってのはけっこう働き甲斐があるいい仕事だから、

病理医になってみたらどうか。

と。

ぼくは、「病理医は足りていません」と言いながら、病理のリクルートをするやり方を、もはや、「筋が悪い」とすら思い始めた。

自分がかつて使っていたフレーズでも、ある。反省ばかりの毎日だ。

2017年6月27日火曜日

ちからのたてが手に入るとMP節約にめざめる

はぐれメタルを倒すと経験値が40200くらいもらえるんだけど、子供心に、たまたまかいしんのいちげきが1回出ただけで40200というのは多すぎるのではないかと思っていた。

けれどそういう話は現実世界にもいっぱいあるなあ、と思わなくもない。



たとえばはぐれメタルと戦いの最中に、いつしか好敵手としての間柄をお互いが意識しはじめ、敵味方を越えた「戦うもの同士、相通じるもの」が育まれ、必殺の一手が伯仲した瞬間に間合いをとって、お互いに

「お前、やるじゃないか」

「名前を聞いておこう」

「お前とはまた会う気がする」

「今度は俺に当てられるといいな」

「お互い様だ」

なんて会話が生まれたら、これはもう経験値としては80400くらいもらっても良いのではないか、と思うんだけど、実際には倒してないから経験値ゼロなのである。

こういう話も現実世界にいっぱいある気がする。



経験値を数値化するからいかんのか。

経験値を散文化してしまうとどうなるか。それはすなわち「おりびあののろい」に対する「あいのおもいで」である。本人たちしかわからない。先にあるのは呪いの消滅と周りのキョトンである。

やっぱりある程度の数値化は必要なのだろう。



そういえば経験値を溜めてレベルが上がっても、ぼくはそこまでうれしくなかったな。

どちらかというと、メラミを覚えたとか、ベホマラーを覚えたとか、そういう「レベルアップのついでに何か新しいまほうを覚えたとき」のほうが、はるかにうれしかった。

こういう話こそ現実世界に満ちあふれている気はする。



「ぶとうか」や「せんし」でいるよりも、「まほうつかい」や「けんじゃ」でいる方が、レベルアップに伴う快感は大きかった。

だから、一度ぶとうかとしてすばやさを上げまくったあとで転職するなら、まほうつかいがいい。

ダーマの周りにいるザコを殴るとすぐに数レベル上がる。

ギラもイオも瞬間的に覚えられる。

あれは正直、快感だった。しかし転職してから長い間、他のメンバーとのレベル差に苦しみ、敵のベギラマでひとりだけ瀕死になったりするのもセットである。

こういう話も、現実世界には多く見受けられる。




「だいじなことはみんなゲームが教えてくれた」みたいなまとめをタイトルに放つブログが嫌いなのだが、だいじなものをなんでも自分の理解が及ぶ話題にすりかえて語ってしまうやり方を、ぼく自身もよくやってしまう。

自分の言いたいことを何かに代わりにしゃべらせたり、自分の言いたいことを最初から最後まで例え話であてはめたりするとき、最初から最後まで統一した物言いができると、なんだかいい気持ちになってしまう。途中から、「それ、言いたいだけやろ」とつっこまれる。

統一した世界観の最後にオチをつけるのは難しい。

そこまでの話の流れを壊さず、かつ、長文の締めくくりにふさわしい、圧倒的な説得力のあるフレーズで、読む者にぐっと衝撃を与えなければいけないからだ。

ギガデイン? ただ攻撃力が強いだけだ。

ベホマズン? MP消費量が多すぎてどっちらけである。

「ドラクエ例え話」では何がオチになるんだろう。



パルプンテか。パルプンテなんだろうな。ああ、なんだかわかるなあ、とすごく納得したのである。どこかでおさらのわれるおとがした。

2017年6月26日月曜日

病理の話(93)

「じゃじゃ馬グルーミン☆UP」というマンガがあるのだが、主人公である駿平が父親に向かって、

「父さんの仕事なんか、書類を右から左に動かすだけの仕事じゃないか」

みたいなことを言って、母親にひっぱたかれる、というシーンがあった。

ぼくはあのシーンがずっと頭に引っかかっているのだ。

子供から見ると、事務作業、頭脳労働の一部は、駿平のように「書類を右から左へさばくだけ」のように思われているのではないか……。

病理診断というのはデスクワークの本流みたいなもので、書類仕事であり、パソコン仕事である。勉強して、調査して、記載して、確認を受けて、連絡をして、報告をして、相談をする……。

この仕事、そうだよ、「右から左へ」の類いではあるよな。



書類を右から左にさばくにもスキルが必要だ、と言ったところで、スキルが必要とかそういう話ではなく、やりがいがあるのか、やっていておもしろいのか、どうなんだ、と、余計に疑義の詰まった目で見据えられることになるだろう。

さて、あのとき、駿平の父さんは、なんと言ったんだったか。



(そんな風に見えてるのか)とだけつぶやいて、特に反論などはしなかったように、思う。







ドライブが好きという人にも何種類かある。

・運転そのものが好きだという人。

・自分で好きなように居場所を決められる、行き先を自由に変えられるのが好きだという人。

・運転自体はまあどうでもよいのだが遠くに行くのが好きなのだという人。

・車の中がなんとなく落ち着くのだという人。



仕事も実は一緒であり、デスクワークが好きだという人にも何種類かいて、

・デスクワークそのものが好きだという人。

・デスクワークの結果、達成される、なにがしかを見るのが好きだという人。

・デスクにいることにこだわりはないのだが、頭脳を使うのが好きだという人。

・デスクがなんとなく落ち着くのだという人。

などがいる。



「書類を右から左にさばくだけ」というのは、「運転なんて右足を踏んだりやめたりしながら、手でわっかをくるくる回すだけだろう」というのと同じなので……。

ドライブが好きな人に、「そのハンドルくるくるの何が楽しいの」という質問をしないのと一緒で、デスクワークが気に入っている人に「その書類を動かすのの何が楽しいの」と言っても、答えは返ってこないのではないか、と思う。




ちなみにぼくはたまっているプレパラートを次から次へと「診断済み」の棚にぶちこんでいくとき、ハナクソがごっそりとれたような快感を覚えるタイプだが、ハンドルをくるくる回すことにはそれほど快感を覚えない。

2017年6月23日金曜日

山廃という言葉もあったではないか

多くのおじさんがツイッターを発信に使い続けている中、10代の人間はツイッターアカウントに鍵をかけて、主に芸能情報などのニュースを集める、すなわち受信に使っているのだという。

ツイッターというツールは情報の受信にこそ向いているようだ、というのは、かつてNHK_PR1号が書いていた。

ぼくの実感としても、ツイッターは、情報収集にこそ向いている。それも「世の中からこれがよいと勧められる情報」ではなく、「自分でこれがよいとジャンルを偏らせた情報」を集めるのに便利だ。

そういうことに、おじさんたちが気づくのに10年ほどかかったし、まだ気づききっていない。

けれど、10代の人間はすでに、誰から教わるでもなく、「効率的なSNSの使い方」をしている。

発信と自己顕示はインスタ、受信はツイッター。極めて合理的だと思う。若者の適応力というのはすばらしい。




と、ここまで書いて、そしたら、10代の人間が受信するための情報は誰が発信するのか、という話になり、10代の受け手がいっぱいいるツイッターではおっさんが送信役に回り、10代の送り手がいっぱいいるインスタグラムではおっさんが受信役に回る、これこそが需要と供給の一致ではないか、という仮説を打ち立てる。

セッツァー風に言うと「大きなミステイク」であることにすぐ気づく。

10代の人間が受け取りたい情報は、おっさんからの情報ではない。

10代の人間が自分を見せたいターゲットは、おっさんの目ではない。

需要と供給はまったく一致していない。仮説は棄却される。

おっさんであるところのぼくは、誰に向けて情報を発信し、誰から情報を受け取れば、世間に迷惑をかけずにやっていけるだろうか。








ぼくが日頃エアリプでやりとりしている相手の99割が、おっさんである(やりとり相手がすべておっさん+その9倍くらい周りにもおっさんがいる、の意味)。

「SNSおっさん」は、狭いクラスタの中で、有象無象のバクテリアにまみれて、その形態をじわじわ変えていく存在である。人の役に立つ変化だった場合には「発酵」、人の役に立たず害をもたらす変化だった場合には「腐敗」と呼ぶ。

火入れ(炎上)をすると発酵が止まる。まるで日本酒のようだ。

アルコール添加しても発酵が止まる。まるで日本酒のようだ。

お酒の発酵には適度な管理と行政の締め付け、職人の目、運、天候、水、さらに、半可通的な買い手・飲み手が大量に必要となる。

日本酒のブームは来たり来なかったりする。ビールには勝てない。

おっさんは酒なのである。10代にはおすすめできない。




ぼくは普段から、「昔にもどりたい」とは全く思わない人間なのだが、今ひさびさに、10代に戻りたいかなあと思った。

10代に戻って、真新しい気持ちで、ツイッターを使い始めてみたい。

そしたらぼくらおっさんは、どのように見えるのだろうか。

赤ら顔、千鳥足、無色透明な、くさい存在。ときどき楽しそうにしている。

2017年6月22日木曜日

病理の話(92)

病理診断では、細胞の顔付きを見て、病気の正体をあばく、という。

しかし、この言葉は、正確ではない。いくつか例をあげて説明する。




1.患者さんが病院に来た、50歳代の女性である、しこりが胸にある、画像ではしこりがいびつに見える、周りにしみ込んでいるように見える、だから臨床医は「がんの可能性が高い」と考えている。

2.そこで胸のしこりから細胞を採る。出てきた細胞が「悪性」としての性質を持っている。

3.病理の結果は、臨床情報が強く疑っている「乳がん」を支持する。だから、乳がんであると確定診断した。



以上の文章を読んで、「おお、病理のおかげで確定診断が出せた」という感想が出る。……9割は間違っていないのだが、1割、間違っている。

実は、確定診断の過程において、病理で細胞をみたことが「決め手」にはなっているのだが、「それが全て」ではないのである。

別の例を出そう。



1.患者さんが病院に来た、50歳代の男性である、腕が腫れている、画像では皮膚の下のほうにしこりがある、いびつである、周りにしみ込んでいるように見える、だから臨床医はがんの可能性があると考えている。

2.腕のしこりから組織を採取する。細胞は、「悪性」の性質を示している。

3.では、皮膚の下から出た「がん」だと確定してよいだろうか?


さきほどの乳腺のときと話はとても似ているのだが、違いがある。

臨床医が「がん」をどれだけ強く疑っているかが、違う。

乳腺の例では、臨床医は乳がんを一番強く疑っていた。

しかし、腕の例では、臨床医は実はひそかに「結節性筋膜炎」の可能性を頭に入れている。

結節性筋膜炎という病気は少し珍しいのだが、がんではないのに、細胞の顔付きが妙に「がんっぽく見えることがある」という特徴を示す。

つまりは、細胞を見て「なんか悪そうな細胞だな」と思ったからと言って、すぐに「がん(軟部の悪性腫瘍)です」と診断してはいけない。



臨床医も、病理医も、どちらも!

見るべきは細胞の顔付きだけではない。

病気が出た場所、患者の年齢、病気の見た目、症状、統計学的な知識などから、「この病気とこの病気が疑わしい」と、ただしく「この人にとって、ありえそうな病気」を列挙した後に、はじめて細胞の情報を加味する。

加味するというのがポイントだ。




臨床情報というのは食材である。肉であり野菜である。正しくカットして熱を加えて、おいしい料理(医療)に仕立てていく。

料理の最中に、例えば味を際立たせるため、例えば味をしみ込ませるため、例えば料理の完成度を高めるために、塩こしょうをはじめとする多くの調味料を、「加味」する。

病理の細胞形態学というのは、この、調味料のような役割をしている。

食材そのものではない。

食材の性質を見極めてはじめて、ここで塩を入れると味がひきしまるとか、ここで酒を加えると肉がやわらかくなるとかいった、調味料の利点を発揮できる。

加味するのがポイントだ。加味の仕方があるのだ。



細胞だけ見てわかるというのは幻想である。

病理医のやっていることは、「細胞の理(ことわり)」を見ることではない。

「病気の理(ことわり)」を診ることだ。

ぼくらはみな、細胞だけではなく、臨床そのものを診る。その上で、「調味料には誰よりも詳しくある」というのが職務である。



このことを知らずに病理と付き合う臨床医は、「チャーハンなんて最後に塩こしょうふれば食えるじゃん」的なニュアンスで、「病理はまあ細胞だけ見てくれればいいからさ」などという。

このことを知らずに診断を出す病理医は、「ぼくらに食材のこと聞かれてもわからんけど、クレイジーソルトかけとけばだいたい食えるよ」などという。



料理を知らずに病理を語るのは、よくない。

2017年6月21日水曜日

GATALI

論文の書き方、という話をしていた。

ここで、話の大筋を「木の幹」に例え、枝分かれする関連事項を「枝」や「葉」に例える。

優れた著者の書く論文は、木の根元からこずえに向かって順番に話を進めていくのだという。一貫して木の幹が把握できるように、枝葉末節にこだわりすぎないように。分岐してもいずれは本幹に戻ってくるように、語る。

一方、日本人に多い「話がとっちらかって何を書いているのかわからない書き方」では、枝葉をいちいち丹念に書きすぎてしまうせいで、なかなか幹が見えてこない、というのだ。


「話の木」を、下から上に登っていくか、上から見下ろしてあちこち浮気しながら降りていくか、という違いだともいえる。

学術論文では、幹の太い方からきちんと登っていくほうが読みやすい。



なるほどなあ、と思い当たる。

ぼくは、わかりにくい語り方をしてしまうタイプだ。



論文には限らない。

日常の、相手のいる会話で、ぼくはしばしば、長尺の、寄り道の多い語り方をする。

以前に先輩にもたしなめられたことがあった。いっちーの話は、オチまでが長いよと。

枝葉を語る時間が長すぎる。

この語り口、いったい何に影響されているんだろうなあ、と考えた。



……落語? 漫談? 水曜どうでしょう……?



へたくそなラジオDJのようだなあと思った。視聴者はいる、意識もしている、しかし相槌を求めずに、自分の言葉ですべての展開をいったん終えてしまう。そして、10分以上語ったあとで、「ではお手紙をいくつか。」と、もらった感想に対してリアクションを述べる。

ほんとうに優秀なラジオDJは、独白であっても、センテンス1つ1つが短い。

そこに声はなくとも、視聴者が合間合間で相槌を打てるように、やりとりをしうるように、間が調整されている。



ツイートも一緒だ。ツイッターはラジオに似ている……。



ぼくはこの「水曜どうでしょう型漫談形式」の会話をこれからも続けていくのだろうか、ということを考えていた。

そうだな、続けるのかもしれないな。

だからツイッターも続けているのだろうな。



ほんとうに視聴率の高いTV番組は、ひとつの会話が1分続かない。極めて短くパックされたボケ・ツッコミが、字幕と共に短時間に叩き込まれる。

けれど、ぼくはどうも、そういう、「お互いが最高に楽しい会話」というのが、いまいち苦手なようで、深夜2時半のFMラジオから聞こえてくる環境音楽みたいな実のない独りガタリの方に、いい年してあこがれているのだ。




HiGEというバンドのボーカル、天才・須藤寿の、ソロプロジェクトの名前は、GATALI と言った。

どうもぼくは、売れそうで売れない、ニッチを攻める、忘れられた王道のような存在に、惹かれる傾向がある、

2017年6月20日火曜日

病理の話(91)

プレパラートで病気の細胞をみるとすべてがわかるのか、というと、そうではない。

病理組織診断がもっとも苦手とするのは、ダイナミズムの診断……「血流」の診断である。

病気を顕微鏡でみるとき、プレパラートには、ホルマリンという液体で固定され、パラフィンという物体を浸透させた、4μmという激薄ペラペラの組織が乗っている。

この組織は、もちろん、既に生きてはいない。生体内にあったときとほとんど同じ「配列」で、細胞が乗っかっているけれど、これらの細胞はもう活動していない。そして、もちろん、血流も流れていない。

これが実はけっこう問題なのである。



現代の画像診断の半分くらいは、「血流」というダイナミズムを用いて診断しているのだ。CTにもMRIにも超音波にも、さまざまな「造影剤」が用いられ、病気の中にどれくらい血液が入り込んでいるのか、どこにどのように血が分布するのか、使い終わった血液がどのように排出されるのかという、「血行動態」を細かく診断する。

たとえば肝臓ならば、肝細胞癌というがんは

・すごいスピードで動脈から病変の中に血液が流れ込み
・すごいスピードで病変から血液が外ににじみ出てくる

ということがわかっている。これに対し、同じ肝臓のがんであっても肝内胆管癌というがんの場合は

・じわじわと病変のふちから内部に血液がしみ込み
・そのまま病変の中でしばらく滞留、あるいは拡散して、なかなか出てこない

という動態を示す(ざっくり書きました。ほんとはもっともっと細かい)。

これらの違いによって、放射線科医や内科医、外科医は、肝臓のがんがどのような性質であるかを予測して治療に臨む。

いざ、採ってきた病変を顕微鏡で見る。細胞を見て、これは肝細胞癌だな、とか、これは肝内胆管癌だな、と、病理医が診断を下す。

そこで臨床医から電話がかかってくる。

「先生、あのね、この人、肝細胞癌だろうなと思って手術したんですけど、病理では肝内胆管癌だと診断されました。でも、画像でみると、病気の中に血液がすごく早く入り込んでいるんですよ。なんででしょう? どうして、肝細胞癌っぽく見えたんだと思いますか?」

ぼくは考える。血流か。

顕微鏡を見る。

……そこには、もはや、血流はない。

プレパラートの中では時間が止まっているのだ。「流れ」を見ることは極めて難しい。

しょうがないので、血管の分布、配置、太さ、性状を調べて、「おそらく生体内ではここにこうやって血液が流れていたんだろうなあ」という推測を繰り返す。



考古学の世界では、地面を掘り返したら穴の痕跡が見つかって、そこから竪穴式住居の存在に気づく……みたいな推測を行う。すでに時の彼方に消えてしまっている「過去」を推測するには、極めて精緻な推測手法と、言語化しきれない勘、そして語り部の説得力とが必要なのだ。

病理で血流をみるとは、すなわち、そういうことなのである。ぼくがしばしば、主に人文系の研究者が用いる論説形成法である「アブダクション(仮説形成法)」という言葉に敏感に反応するのも、病理にどこか考古学的な香りを感じているからなのかもしれない。

2017年6月19日月曜日

ちぬられた、と書くとちょっとかわいい

思えば自分のルーツとなっている音楽を探すと、それはたいてい、大学生の頃に聴いた……いや、正確には「見た」ものに端を発している。

大学3年生の夏までの間、ぼくは実家から大学に通っていた。実家には年老いた祖母がいて、テレビが好きな祖母のために父はケーブルテレビを導入した。

ケーブルテレビではちょっとエロい映画などやっているかと思ったが、そういうのは追加料金を払わないと見ることができなかった。

欧米のサッカーなどを見て悦に入ろうと思ったが、同級生や先輩にサッカーオタクがいて、バルセロナをすぐバルサと発音してイキるのを見ていると、海外サッカーにのめり込むのもシャクに思えた。

だから音楽を見た。プロモーション・ビデオ(PV)というのをそこで初めて知った。

宇多田ヒカル、ドラゴンアッシュ、BONNIE PINK、椎名林檎などが次々といかしたPVを発表していた時代、CDを買わなくても音楽が聴けて、見られることにぼくは興奮した。

あるとき、「ゆらゆら帝国」なるバンドや、「NUMBER GIRL」なるバンドを見て、ぼくはびっくりした。こいつら歌べつにうまくはないよな。でもかっこいい。

ぼくはバンドミュージックの世界に、映像から入った。ライブハウスから入るのが本当はかっこよかったんだろうけれど。



YouTubeやSNSなどで、いくらでも無料のプロモを見ることができるようになったぼくは、音楽にしても書籍にしても、かつてと同じように「無料」という門戸から入って、知り、買う……。

ケーブルテレビにも視聴料がかかっていたから、正確には無料じゃないんだけど。

ま、ネットだって使用料を払っているわけで……と、エクスキューズを取り回す。

同じ、同じ。



ただ、ひとつ、違うこともある。

昔のPVは、検索して見たいモノを見るのではなく、向こうが流してくれるものを順番に見ていたから、H jungle with Tにしても、モーニング娘。にしても、いつしか歌詞を暗記してしまうくらいに、よく見た。

今は、ぼくは、検索をするので、見たいものしか見なくなってしまった。

能動的に生きられるようになったのだ。

いいことであるけれど。

能動的な情報収集は、受動的な情報収集には、「広さ」という意味ではかなわない。押しつけられた情報の中に、輝く「まさかの出会い」があった。

「深さ」ばかりを知り続ける毎日がちょっとずついやになってきてはいる。




結果、ぼくは、今、ラジオをよく聴くようになった。

ラジオでは、聴きたくもない曲が、聴きたい曲と共に、ずっと流れている。これは本当に効率が悪くて、ちっとも情報が深まらない。

けれど、その広さが心地よくなってきたのだった。



昔、NHK_PR1号が、「ツイッターはラジオに似ている」的なことを書いていた。その意味は、「DJと視聴者とのやりとり、リスナーからのお手紙をDJが読む的な関係」にあったのだけれど、ぼくは今、別の意味で、「ツイッターをラジオとして使うとおもしろい」ように思い始めた。

リストにこだわりすぎるのをやめようと思う。

もっとタイムライン全体をぼうっと眺めてみようと思う。



「思いも寄らなかった領域との出会い」が、自分の20年後を支えているかもしれない。例えばぼくにとって、Bloodthirsty butchersというバンドとの出会いは、まさにそうだった。

ネット検索でブッチャーズに出会ったところで、まず、いい曲だなんて思わないだろう。ぼくはケーブルテレビが暴力的に押しつけてきたブッチャーズのおかげで、今、心の一部を保っているのだ。

2017年6月16日金曜日

病理の話(90)

がん、とひと言にまとめても、胃がんと肝臓がんと血液のがんと皮膚がんでは、細胞から、しみこみ方から、何もかも違うのである。

「がんは命に関わる」という共通点がある……けれど、逆にいうと、それくらいしか共通点がない。

「食べ物は食べられる」くらいの意味でしかない。リンゴはアップルパイになるけど、だんごはアップルパイにはできないのだ。名前はほとんど一緒だけれども。




似たようなことを、病理の視点から、よく考える。考えてくれと頼まれる。




たとえば、「肝炎ウイルス」というのがある。B型肝炎とかC型肝炎という言葉を聞いたことがある人もいるだろう。

これらに感染すると、肝臓に「炎症」という名の、どったんばったん大騒ぎが起こる。

肝臓の細胞が壊されて、すかさず体はそこを修復しようとがんばる。

破壊と再生が繰り返される。すると、肝臓は、だんだん荒廃してしまう。端的に言えば、「硬くなる」のだ。線維が増えて硬くなる。

ちょうど、傷跡のかさぶたをめくり続けていると、そこがだんだん硬くなって、痕が残ってしまうように。線維化(せんいか)という現象が起こる。

完全に荒廃してしまった肝臓を、「硬変肝」と呼ぶ。名称としては「肝硬変(かんこうへん)」の方がよく用いられる。



さて、先日より取り組んでいるテーマはこの肝炎とか肝硬変だ。

実は、肝硬変というのはすべてウイルスが原因で引き起こされるわけではない。

脂肪沈着・脂肪肝が原因の、肝硬変というのがある。

自己免疫性肝炎という病気によって肝硬変になることもある。

これらは、ぜんぶ、「肝臓が硬くなり、荒廃してしまう」のだけれども……とても細かい話をすると、「硬くなる様式が違う」のである。

具体的には。

ウイルス性肝炎、特にC型肝炎のときには、肝臓の中に、ビルの鉄骨みたいなぶっとい線維がばんばん張り巡らされる。

これに対して、脂肪肝とか脂肪沈着が原因の場合には、線維が張り巡らされるというのは一緒なんだけれども、「ルパン三世が金庫室に忍び込むときに赤外線のセンサーが縦横無尽に行き渡っているようなイメージ」の線維化が起こる。

線維の太さが異なるのである。



ひと言に「硬くなる」と言っても、鉄骨ばんばんと、赤外線センサーびゅんびゅんとでは、その硬さのイメージが違う。触ってみても違う。超音波で見ても違う。血液検査も微妙に異なってくる。

こう考えてみれば当たり前のことなんだけど……。

これらの違いを、しっかりイメージするというのが、実は極めて難しい。


その難しい「違い」を、言葉を並べて延々と説明するよりも、もっと簡単に見極める方法がある。

それが「顕微鏡で肝臓をみてみる」ということなのだ。



肝臓すべてを顕微鏡でくまなく見る必要は無い。肝臓の一部、60000分の1くらいのわずかな量を、「味噌汁の味見をするように」ちょっとだけ採ってきて、顕微鏡で見る。

するとそこには、鉄骨とか鉄骨になりかけているやつ、赤外線ビームとかビーム寸前のやつ、などが、ちらほら見えてくる、という寸法である。



病理とは「やまいのことわり」と書く。それだけに、「なんで? どうして? どこが違うの?」のような臨床の質問(クリニカルクエスチョン)に、なんとか答えることができる……。

できたらいいな……

できるかもしれない……

まちょっと覚悟はしておけ、ということになる。

2017年6月15日木曜日

途切れた日の話

書き終わったブログの記事をまるっと消した。

タイトルは「途切れた日の話」で、今年のはじめころにぼくがすっかりやられてしまったときのことを書いていた。

けれど、書き終えて、読み終わって、ちっともおもしろくなかった。だから消してしまった。


もう20年ほど前になるが、自分でホームページを作っていたころは、書いたものはすべてネットに載せていた。妙に浮かれた日もあれば、中二病そのものの落ち込み方をした記事もあったと思う。

読み返すことはほとんどなかった。バックナンバーだけがどんどんたまっていった。

300、500と記事が増えて、700くらいになったころ、大学院に入ったあたりで、更新がなかなかできない日が続いた。そして、あるとき、自分でもすっかり忘れてしまっていた記事を、いちからすべて読み直してみようと思いついた。

20個くらい読んでやめてしまった。

ああ、何かを書き続けて、それがログとしてずっと世の中に残って、それでもまだ読まれ続けている人と、自分とがどう違うのだろう、そう考えて、思い至ることがあった。



暗すぎるとだめだな。

明るすぎてもだめだけど。

ほどよい中間の、というか、中盤をしっかり守るボランチみたいな文章をきちんと書いている人の話は、いつ振り返っても、どこからでも読み直すことができて、その都度新しい発見があるけれど。

どこかに向かって尖ろう、尖ろうとするあまり、横も後ろもなんにも見ていない、二世代前のVRみたいな残念な一人称視点の話というのは、とかく、読みにくい。



さっき書き終えたブログの記事は、そういう記事だった。




ふと足を止めて、周りを見回して、鳥の鳴き声を身にしみこませたり、遠くの山を写真に撮ってみたり、足下のタンポポをよけてみたり、そんなかんじの、「静かにきょろきょろしている人」くらいの文章に、ぼくはあこがれるし、そういうのを書こう書こうとこれから20年やってみて、ようやく誰かに読んでもらえるものができるのかもしれない。

2017年6月14日水曜日

病理の話(89)

先日、内視鏡(胃カメラ)の医師4名と、定山渓温泉で合宿をした。ぼく以外にも病理医が1名参加したので、合計6名。

内視鏡医たちは、胃カメラの写真をいっぱい持ってくる。

映り込んでいる病気をみて、これはどのような病気なのか、そもそも病気と考えてよいのか、がんなのか、がんではないのか、がんだとしたらどれくらいのサイズなのか、どこまでしみ込んでいるのか……。

胃カメラドクターたちが激論を交わす。

そして、採られてきた病気に対して、今度は病理医が、顕微鏡像の説明をする。

なぜこの病気は、胃カメラであのように見えたのか。

プレパラートをPCに取り込んだ「バーチャルスライド(VS)」というシステムを使って、細かく対比をしていく……。


ぼくはこれらのディスカッションを、横で聞きながら、ずーっとPCを叩いていた。会議録を残すためである。

専門的な会話は、医学系出版社の編集者であっても、文字起こしが難しいときがある。だから、胃カメラと病理、両方の話がまあまあわかるぼくが、記録役を担当する。



定山渓温泉、と言いながら、風呂にも入らず、やってきた服のままで、ディスカッションは深夜に及んだ。

今ぼくは、書き上がった原稿を眺めている。

実は、ぼくもそこかしこでしゃべっている。書記役ではなく病理医役として参加しているのだから当然だ。

自分のセリフについては、しゃべりながら自分でキータッチをするのが大変で、さすがに自分では全て記録しきれておらず、編集者さんに録音から文字起こししてもらった(ありがとうございました)。




読んで、思ったことがある。

うわぁ、ぼくの病理の説明、長いな……。

必要なことをきちんと、丁寧に、正確にしゃべろうとするのはまあいいんだけど。同じ内容をくり返し語って冗長になっていたり、一つの文章の中で結論が二転三転したり、文字にすると、とてもわかりにくい……。



「文字にすると」? そうなのだろうか?

実際、聞いている方は、理解するのが大変だった、ということはないだろうか? あのときみんなは、どういう表情をしていただろうか。

うーん……。



病理医が、あれもこれも伝えようと、思い悩みながらしゃべること自体を「悪」とは思わない。

思い込みや自分の意見を語ってはいけない、わけでもない。

レポートを全部英語で書くことにこだわる病理医もいるし、論文化したデータ以外は絶対に口にしないと決めている病理医もいる。表現の仕方はさまざまである。みんな、それぞれに、一家言があり、自分のやり方に思い入れもあろう。

しかし。





ぼくは、病理医を言い表す言葉としての「ドクターズ・ドクター(医師のための医師)」という言葉があまり好きではない。むしろ嫌いである。ドクターということばを敬称のように用いるのがまずあまり好きではない。「先生」とは、研修医ひとりひとりの名前を覚える気が無い看護師が、毎年入れ替わる初期研修医をひとからげにして呼称するのに便利な、蔑称にすぎないとさえ思っている。

ただ、「ドクターズ・ドクターの理念」はわかる。

普通の医療者が、患者を相手に、説明や納得を得ることに腐心するのと同じくらい、病理医は(患者を相手にしないかわりに)医療者に対して説明をし、納得を得ることに腐心する。

普通の医療者のお客さんは患者。

病理医のお客さんは医療者。

普通の医療者が、少しでも患者がわかりやすいように話そうと工夫を凝らすのといっしょだ。「医療者がわかりやすいように話す」というのは、「病理医が職務としてやらなければいけないこと」である。やったほうがいい、とか、できればベター、というレベルの話ではない。絶対にやらなければいけないことだ。



ふだん、臨床医相手に会話をしていて、たまに、わかりやすいとか、おもしろいとか、言われて少し調子に乗っていた気がする。

ぼくのしゃべる言葉は、文章にしてみると、そこまでわかりやすくはないぞ。

少なくとも、文字起こししたものを見る限り、ぼくの言葉は、誰よりぼくが聞いてあまりわかりやすくないぞ。



これは一大事だ、と、思ったのである。職務に必要な能力をもっと磨かなければいけない。

人それぞれであろうが、ぼくが今やっている仕事に対して、もっとも必要な能力とは何か。それは、情報処理能力と、コミュニケーション能力なのである。

まずいまずい、コミュニケーション能力を磨かないと……。

2017年6月13日火曜日

大人論を語るのは全員子供

仕事の合間に本を読んでブログを書いて、3DSやswitchをやって、あまり運動はしていなくて、外食はコンビニ系が多くて、という今の生活、たぶんぼくが高校生くらいの時に思い描いていた理想の生活なんだけど、それはなぜかというと、とりあえず、

「自分のやったことが自分の責任のもとに自分に結果として返ってくるということ」

が守られているからであって、ああ、大人になってよかったなあと思う。



昔から、自分で考えたことを自分で実行しても、何かやらかしたときにほかの大人が責任を負わなければいけない状態というのが、なんだか申し訳なくてしょうがなかった。

たとえばこの受験に落ちたら親が悲しむんだろうなあ、みたいなことが激しいストレスとなって首の痛みを引き起こしたりしていた。



今、ぼくが何かやらかしたら、ぼくがひどい目にあうので、ぼくはやらかさないようにしようと思う。

今、ぼくが何か失敗したら、ぼくが悲しい思いをするので、ぼくはなるべく失敗したくないなあと思う。

これらの思考が「あたりまえ」になるのに、ぼくの場合、生まれてから24年ほどかかり……。

いや、24年ではすまないな。

医師免許をとっても、最初から医師として責任もって働けるわけではなかったし。

大学院でちっとも研究がうまく行かない時期も、所詮は大学院生だったわけで、指導教官の評判が落ちるだろうなあというのを申し訳なく思っていたし。

病理専門医を取るまでの間、全ての診断はボスのチェックを終えてからじゃないと出すことができなかったし。



……今でも、診断はダブルチェック(自分が見たものを誰か他の人にチェックしてもらう)だけど、かつてに比べると、だいぶぼくは、自分の仕事、自分の言葉に、自分ひとりで責任を負わなければいけないようになった。

まだ医師15年目だけど。そろそろ、ひとりでしっかり責任をとる場面も出てくる。



ぶっちゃけ、この瞬間を待っていた。ずうっと、待っていた。

責任は重いし取りたくない。けれど、自分のした何かのせいで、ひどく重い責任を、誰か他人、それも大事な他人に負わせなければいけなかった、今までのほうが、ずっとつらかった。



そうか、ぼくは、だいぶ大人になりたかったんだなあと思う。

2017年6月12日月曜日

病理の話(88)

病理学会の「社会への情報発信委員会」というのに参加することになり、こないだから「CCメール」がいっぱい回ってくるようになった。

今は、一般向けの「病理の告知動画」というのを作っていて、いかにも大変そうである。途中から参加したのであまりエッジの利いた関与ができていない。早くひっかきまわしたい。

「教授」であり「えらい」はずの人が作った、動画の絵コンテを、「もっと偉い」ひとたちが、「理事会」を開いて注文をつけている。申し訳ないが笑ってしまった。

社会への情報発信委員会の中だけでは完結できないんだなあ。いちいち拡大常任理事会にかけなければ広報できないのか……。

気持ちはわかる。しかし、この時代にそのスピードでは、刻々とうつりゆく社会の「ウケるポイント」を掴みきれず、動画の方向性もなかなか定まるまい。

あきれて眺めていたのだが、そのうち、少しずつ、ぐぐぐっ……と感じることがあった。何かがわいてきた。



そうだよな……、病理とひとことに言っても、当事者によっていろいろな「病理の仕事」があるよな。えらい人や年を取った人には、今までの輝かしい人生の中で、これと信じてやってきた道があるだろうし、病理をはじめたばかりの研修医がもっている病理のイメージも、ふわふわかもしれないが、きちんと像を結びはじめてはいるだろう。

老若男女それぞれが、みんなにもの申したい「俺はこんな仕事をしてるんだぜ」という像がある。

普段、誰に見せびらかすでも無く、ほこりをもってやっている仕事に、自分の心のなにがしかを投影して、まるで毎朝鏡を見てから出勤するときのように、「よし、今日もしっかりやっているな」と、自分に言い聞かせる、何か。



そこへ飛んで出た「動画作成事業」に、理事会のお偉方も、教授陣も、若い広報担当たちも、きっと今まで静かに秘めていた「病理とは、かくあれかし」みたいな像をぶつけているのだ。

動画の方向性が定まるわけがないのだ。

元気玉みたいに、みんなのエネルギーが集まるのをじっくりと待って、大きく育てて、ぶっぱなさないといけないものなのだ、学会とか学問を「広報する動画」なんてものは。

そう考えるに至って、ぼくは、委員会が迷走しているのではなく、むしろ我慢強く、みんなが納得できるような姿を求めて大人の耐えしのびをやっているのだなあと、気づいた。




人臭くておもしれぇよな。ぼくもこれから、とても広告代理店の皆様方にはお見せできないほどの、どろくさい広報とやらに本腰を入れて取り組むことにしようと思います。


一度、ツイッターでやろうと思っていたくらいだから、ぼくにだって、一家言はあるわけですよ。

2017年6月9日金曜日

おさむの予測変換で治虫が出てくることのすごさを噛みしめる

ここ数回の記事を書いている最中に思ったのだが、病理の話と言いながら必ずしも病理の話になっていないし、病理の話とタイトルに付けていない回でも病理に触れていたりしている。

そうだな、病理医なんだから、書く内容は毎回どこか病理医からの視点ではあるわけだし、病理の話とそれ以外、と、話をきれいに分けられるものではないよなあ。

そんなことを考えていた。


……けれど世の中にはすごい人がいて、自分の得意な領域とか専門としている分野をいくつも持っていて、その分野ごとに違うテーマで、違う読者層を相手に、ものを書いている人などというのもいる。

その代表は「手塚治虫」だと思う。

少女マンガも書けるし。子供向けも書けるし。エロも行けるし。


手塚治虫の絵というのは、どれもこれもぜんぶいっしょだ。「あっ、手塚治虫だ」とわかる。

しかし、ターゲットが違うと、ストーリーが変わり、コマ数が変わり、(マニアックだが)登場人物の表情の変化率が変わり、背景の書き方やセリフの量などもすべて変わっている。



一見しただけで「あっ、手塚治虫が描いてるな」とわかるほど特徴があるのに、読み進めていくうちに、「絵柄が同じであるにもかかわらず、描き方が違うとしか言えない」処理がされているのが、ほんとにすごいと思う。



ぼくは、病理の話を書くときも、それ以外のことを書くときも、たぶん句読点の打ち方とか、こまかな言い回しとか、脳内にある風景を展開するときの視点の高さとかはほとんど変わっていないのだろうと思うが、そこを変えずになお、ターゲットに応じて、受け取り手がよりわかりやすいような文章を書けるのだろうか……。

そ、そんなこと、無理なんじゃねぇのかなあ……。




ということでこんどから、ぼくは、こどもむけにかくことに、しますね! やんでるおじさん と よんでね!

2017年6月8日木曜日

病理の話(87)

医学部の6年間、どのように学ぶかというのは、大学によって少しずつ違うようだが、最初に学ぶ「医学らしい講義」は解剖学である事が多い。

このことは、部活・サークルの先輩からの「申し送り」でもよく触れられる。



ホワン ホワン ホワン メムメム~(回想に入る音)



「まずは解剖からだなーがんばれよー後輩ー」

「はいがんばります!」

「まあノート貸してやっから」

「はいありがとうございます!」

「でもな、ほんとは解剖ってな、卒業して10年くらい経ってから、すげぇやりたくなるんだと」

「どういうことすか」

「いや、つまりな、医学部の2年とかでやるけどさ、どうせ卒業するころには忘れちゃうんだよな」

「そりゃ普通そうでしょうけど」

「でも、忘れてからしばらくして、あっ、もう一回、今こそ解剖やりてぇ! って時期が来るんだと」

「ま、マジすか」

「現場に出て、はたらきはじめて、医学とか医療のことがだいぶわかるようになって、はじめて『あっ、あそこの血管をすげぇ見てみてぇ!』ってなるんだって」

「はあ、血管」

「ほら、はあ血管、ってなるだろ。それが普通だよ。解剖っつったらさ、普通はさ、心臓がどうとか、肺がどうとか、筋肉がグロいとか、そういうイメージじゃん」

「ていうか系統解剖ってそういうもんじゃないんすか」

「いやな、現場で働き始めるとな、どこに何の臓器がある、みたいな『医療者の常識』レベルの解剖知識じゃなくて、もっとすげぇマニアックな、血管や神経の走行とか、胆管と門脈と膵臓の関係とか、尿管と後腹膜の関係とかさ、どの動脈がどこから分岐して、それにはどれだけのバリエーションがあるとか、そういうのをめちゃくちゃ知りたくなるんだと」

「なんすかそれ」

「胸腔内穿刺するならこことここを避けなきゃだめだ、それはここに神経が走っているからだ、とかさ」

「ま、マニアック……」

「そうなんだよ……」


メムメム~



で、まあ、なんかみなさん見飽きたであろう「会話形式」のブログを書いてまで何を伝えたかったかというと、

「病理学」

というのもまさに解剖学と一緒なのである。

学生時代に学ぶ病理学は、医療のことも医学のことも事実上なにもわかっていない素人に、「学問としての医学」を叩き込むついでに教え込まれるもので、それはもちろんすごくアカデミックで重要な情報をいっぱい含んでいるんだけど……。

病理学つまんね、病理医になんかなんね、そう心に決めて臨床医になった人のうち、実に1/3の人々は、10年後、15年後くらいから急に病理を学びたくなってしまうのである。たとえば、がん診療に携わる人。放射線科で診断をする人。とにかく手術をする人。今あげた人々は、必ず言うのだ、「病理をもっとちゃんとやっておけばよかった……」。

正確には、学生時代の純学問的な病理学をいくら極めていても、臨床医になって10年もすると、もっと「実践的な病理」を学びたくなる。




病理学は、細胞がどうとか、核がどうとか、顕微鏡で見てどうとか、遺伝子変異がどうしたとか、メチル化がどうしたとか、そういう話がとにかく「すべてのキホン」なのだ。けれど、あくまでこれらは「とてもたいせつなキホン」に過ぎない。

解剖学で、学生時代には気にも留めなかった血管の走行が、臨床医になってから妙に気になるのといっしょで。

病理学では、学生時代大事だと思っていなかった「病気の肉眼的な形状」とか「細胞どうしの繋がり方」とか「腫瘍の周りに起こっている間質の反応」などが、臨床医になると途端に見てみたくなるのである。知りたくなるのである。



今、書いてて思ったんだけど……。


勉強には、「何の役に立つかわからない時期の勉強」と、「役に立てようと本気になっている時期の勉強」とがあって、それぞれの時期で学べる内容ってのはだいぶ違うんだよなあ。

そのことを知っていて、なお、「学生時代の講義をおもしろくできる人」というのがいたら……。

その人はきっと、とてもすごい人なので、ぼくは、そういう人の講義を聴きに行ってみたいなあと思うのだ。

幾人か心当たりがある。来年あたり、潜り込んでみようと思っている。

2017年6月7日水曜日

マッチングを2倍にしたらママッッ

この間から「人事」のことを考えている。人事という文字を見続けてゲシュタルト崩壊したあげく、「人妻」に見えてしまうくらいには脳が疲れている。

偶然ではあるが、人事と人妻、この2つの言葉には、共通するニュアンスが秘められている様に思う。あるいは、言葉がもつ「言霊」的なものがちょっとだけ似ているように思う。

多分にぼくの個人的な印象でしかないが、両方とも、「あなたのためだ、と言いながら、実はわたしのためでもあるんだよね」というニュアンスを潜在的に秘めているように感じる。

いい意味、悪い意味、どちらでもない。

人事とは、「ひとを扱う事」であり、雇われる人のためという雰囲気をかもしだしつつも、実際には「雇う方がこれから楽に仕事をするために他人を配置しよう」というはたらきのこと。

人妻とは、「ひとの妻である」と従属するような雰囲気をかもしだしつつも、実際には主従関係を望むわけではなく、「自分の人生をよくするために、誰かの伴侶である状態を選んだ人」のこと。


ここには、あやうさが潜んでいる。

人妻の話をしたいのはやまやまだが、今日は人事の話をしたい。あやうい人妻の話とは最高に魅力的ではあるが、あやうい人事の話を書く。もっと具体的には、リクルートの話、新人採用の話について書こうと思う。ぼくは病理医だから、これから病理医になろうと思う若い研修医をリクルートするときのことを例にあげる。



新人採用人事を巡るよしなしごとにおいて、一番状況を複雑にしているのは、先ほど少し書いた「あなたのためだ、と言いながら、実はわたしのためでもあるんだよね」という、建前とホンネの関係ではないか。

より悪意を込めて書くならば。

「立場を盾に取りながら、やっていることは結局個人的な都合の押しつけ」という人事が多いように思うのだ。




若い研修医が、将来、病理医になりたいと言っている。ありがたいことだ。さあ、どこで研修をしたらよいだろう。相談を受ける。

ぼくは、若い人に、

「うちに来てくれたら助かるなあ。うちも大変なんだ。がっちり指導するから、5年くらいで即戦力になってほしいなあ」

と言う。

すると、若い人は、

「5年ですか……できれば10年くらい、がっちり勉強をしたいんです。だいいち、5年で一人前になれるものですか?」

と不安になる。

「まあ、無理だよね……。だったら最初はうちじゃないほうがいいかなあ。うちは、ある程度病理の基礎ができている状態で来た方が、効率的な勉強ができると思う」

と、返事をする。研修医はうなずく。

「こないだ見学した病院では、いろいろな関連病院を回りながら、じっくり10年くらいかけてやりたいことを探せばいい、と言われました。そこで勉強して、一人前になってみせます。ぼくが一人前になったとき、先生の病院の枠が空いていたら、やとってくださいね(笑)」

「そうだね。がんばって」





「いろいろな病院を回りながら」ね。

それ、指導側の都合なんだよね。

指導医の数とか、症例数が、足りないと、ひとつのところでは指導がしきれないんだよね。

正直に、「うちの関連病院はどこも人が足りないから、あちこちでこきつかわれると思うけど、人脈が広がるし、症例数も手にはいるよ。そういう教育でよければ、うちにおいでよ」って言えばいいのに。




建前がだめでホンネがいいと言いたいわけではないのだ。

そうじゃなくて、ニュアンスがちょっとずつずれるようなリクルートをしていたら、「欲しい人材」と「働きたいと思っている人」とのマッチングも、ちょっとずつずれていくんじゃないのかなあ、と思っているのだ。

うーむ。

正直なだけでは、人は集まってこないよ、って? そりゃそうなんだけど、なあ。

2017年6月6日火曜日

病理の話(86)

最近あらためて思うこと。

臨床医が病理医に期待していることの多くは

「決めてほしい」

であるなあ、ということ。



病気の一部を採取してきて、がんか、がんではないのか、「診断名を決める」。

がんだとしたら、どういう種類のがんなのか、どのような治療が効くと予想されるのか、今後これがどのように育つのか、「詳細な分類を決める」。

画像で見えた病気が、「なぜこのように見えたのか」を、組織像を見て考えて、「画像の理由を決める」。

ある遺伝子変異があるとなぜ病気につながるのか、「メカニズムを決める」。



医療の現場において、決める、という作業は、ときに、残酷だ。



臨床医は、患者さんに向かって「あなたはこうです。」と断定することに大きな困難を感じるのだと言う。医学的にはいろいろな可能性が考えられ、確率とか統計の話をしなければいけないシーンでも、どこかで「決めて」話さなければ、患者と医療者の二人三脚は完成しない。

どこかでぐっと決めて踏み込まないといけない場面がある。

でも、医療とは本質的に、推測の技術である。「未来に少しでも長く生きられるように」「今後すぐ命が失われることのないように」「これから少しでも楽な生活ができるように」と、まだ定まっていない将来の話ばかりをターゲットにして、今どのようにかじ取りすればよいかと推定していくことこそが、医療なのだ。「予言」とか「予報」的な性質が強い。

そして、医療は、あやしい予言とは違う、あたらない天気予報とも違う、少しでも確度の高い予測をするために、統計学を持ち出し、疫学を振りかざし、エビデンスを装備する。

簡単には「決めきれない」。けれど、誠実でありたい。これが医療だ。




でも。

患者は、決めてほしい。

可能性とかいう言葉でお茶をにごさないでほしい。

決めきれない医療者は……医療者も……、内心、こう思っている。

「おれだって可能性とか確率の話なんざしたくねぇよ、あなたは100%この病気ですとか、これやったらスッと治りますとか、言えるものなら言ってみてぇよ!」




患者も、医者も、内心、医療の世界に「ビシッと決まる推測」があるなんて、ほんとうは思っていない。





そこに病理診断が出てくる。「細胞を見てるんだから、決められるでしょう」。期待がかかる。細胞の「良悪」どちらかは決めてくれよ。がんか、がんじゃないかを、決めてくれよ。

画像でなぜ造影効果に差があったのか、決めてくれよ。へりの部分と真ん中の部分でタンパクAの発現量が違う理由を決めてくれよ。がんの背景粘膜に起こっている所見との因果関係を決めてくれよ。

生きるか死ぬかを、決めてくれよ。




そのつらさを共有しながら、「ここまでは言える、ここまでは確定できる、ここから先はわからない」というラインを、医療者や患者と共に、引き直す。

できれば、細胞を採った分……検査がひとつ増えて大変だった分くらいは、確定ラインを先に進めたい。

採った検体を様々に活用する。Deeper sectionの作成、特殊染色や免疫組織化学のオーダー、遺伝子検査へつなげるかどうか……。

全部決めるなんて無理だよ、そう言いながらも、心のどこかで、「臨床医よりもう一歩だけ深く結論を出せるだろうか」と、争うように、煩悶する。

ぼくらの口から出た言葉が、「決まった」「決められなかった」のどちらになるかはわからないけれど、「決めてくれよ」と祈った人がいたのだということを知ったうえで、決めに行くのが仕事なのだ。

ちょっとだけフォワード感があるなあ、と思う瞬間でもあるのだ。

2017年6月5日月曜日

Can no say

気持ちのいい天気が続いている、と書こうと思ったが、これを書いている日の朝のニュースで「全国的に雨不足、農作業に懸念」と言っていたので、うーん、天気がいいって話だけでもナイーブになっている人はいるからなあ、と思って、書くのをやめようかと思った。いったん書こうと思った話をやめにする、という内容の話でスタートした記事を作成している途中、いったん書こうと思った手紙を事情あって破り捨ててしまったばかりの人が読んでつらい気持ちになっては申し訳ないと思うし、いったん書こうと思った話をやめにするのも人を傷つける可能性があるなあ、と思ったので、この話をやめるのをやめにして、やはり書くことにする。書くと思ったけど書くのを辞めたけど、でもやっぱり書くことにした、という右往左往を読んでいただいている最中ではあるが、以前に読んだ「病理診断の書き方」みたいなコラムの中に、「ひとつの文章の中に ~~ですが、~~ですが、~~、のように、何度も何度も意図をひっくり返すととたんに読みづらくなるから、可能性を列挙するのはいいけれども書き方には注意せよ」とあったのを思い出したので、あまり左右の考え方の間でぐらぐら揺れるような文章を書いてしまうと、読み手の脳に負担を与える可能性があるなあ、と考え直し、やはりこの文章を衆目に晒すのはやめようかなあ、と思い始めたところで、可能性という言葉が2連続で登場したことに気づき、いけないいけない、同じような言葉を連続して使うと読み手がひっかかるから、記事を作成している途中ではあるが、読んでいただいている最中でもあるけれども、あまり同じような言葉を連続して使って読み手をひっかからせるようなことはやめた方がいいなあと思い、書くと思ったけど書くのを辞めた記事をやっぱり書くことにした右往左往を読ませるのはやめようかなと書いて読んでいただこうと思った記事を公開するのをやめようかなあ、と思っているのだが、月曜日の朝だが、ここで公開しないと楽しみにしている人も多いだろうが、このままどこに着地するかを楽しみにしている人もいる可能性があると思い、公開することにする。

2017年6月2日金曜日

病理の話(85)

伝わるレポート・伝わらないレポートということを日々考えていると、意思疎通の際に重要なのは「お互いに歩み寄ること」だなあという当然の結論が、毎回チラチラ脳内で踊る。


たとえば、臨床医が「がん」だと思って採ってきた、小指の爪を切ったかけらよりもまだ小さいカケラに、がんが含まれていなかったとき。


「検体内にがんは含まれていません」とレポートを書くと、この言葉、受け取り手によって様々に拡大解釈される。

ある人はこのレポートを読んで、

「検体内に含まれていない、ということは、検体の外(採らなかった部分)にはがんがあるかもしれないんだな」

と受け止める。また、別の人は、

「なんだこの人はがんじゃないのかー」

と納得してしまう。


これらは似ているようで、まるで違うのだ。前者は、たとえば、がんだという確定診断を付けていないままに手術に臨んでしまうリスクを負っているし、後者は、たとえば、がんなのに検査をやめて放置してしまうリスクを負っている。


だから、病理医は、自分の書いた言葉が勝手に拡大解釈されては困ると、いろいろなコメントを付けることになる。その最たる言葉が、

「臨床情報とも併せてご検討ください」

である。


病理だけで話を全部決めつけてはいけないよ。臨床情報と照らし合わせることが必要だよ。毎回のようにこの言葉を添えて投げ返す。


けれど、やっぱり、ぼくは、この言葉だけで投げ返したところで、十全のコミュニケーションというのはできないだろうなあ、と思っている。


言葉というものは、連続して使えば使うほど、ありがたみが薄れてしまうものだ。病理レポートを書く度に「臨床情報と併せてご検討ください」と付記していれば、いつしか言葉は形骸化する。

ああそうだねわかってるよ、と、既読スルーされてしまうケースも増えていくように思う。



ぼくは臨床医が書いた依頼書を読んで、分からないことがあったとき、まず自分で調べて、内視鏡やCTの画像も自分で見てみて、この臨床医が何を知りたがっているのか、思考をトレースすることにしているのだが……。

基本的に、自分の脳内だけで相手を勝手に「予測」することは控えて、なるべく電話をするようにしている。

「先生、依頼書に『がん疑い』とお書きになってらっしゃいましたけれども、この人、ほんとうにがん疑いなのですか?」

たいてい、ぼくの想像と9割方同じ、つまりは1割「も」異なる声が聞こえてくるのだ。

「ええ、がん疑いなんですよ。患者さんにもボスにもそう言って検査に入ったんですけどね。でも内心ぼく、良性なんじゃないかと思ったんですよね。根拠は書かなかったんですけど、実は拡大内視鏡でこの所見が……」

がんを疑って採られた検体であれば、ぼくは無意識に、プレパラートの中にがんを探しに行く。

でも、がんじゃないかもしれないぞ、と思って採られた検体だと、プレパラートの見方は微妙に異なってくる。

話が違うのだ。おおっ、となるのだ。

ちょっとギアを変えないといかんなあ、となるのだ。




もちろん、常日頃から、臨床医の言葉がどのように綴られていても、プレパラート内にすべての世界を読めるように訓練しておくのが、病理医としてはベストな働きかたなのだろうな、とは思う。

けれどぼくはベターでもいいから、臨床医たちに教わりながらいっしょに仕事をするほうでありたいのだ。

同時に、自分の書いたひと言は、おそらく9割は伝わるだろう、1割はたぶん伝わらないな、と思っている。



言葉というのは難しい、慎重に書こうが大胆に記そうが、必ず「自分の意図、欲望、バイアスを乗せて、自分の読みたいように読み取ってしまう人」というのがどこかに現れる。

ぼくらはみな、自分とフィットする文字を、視界のどこかに探しながら日々を暮らしている。

それは病理診断の報告書であっても、一緒なのだ。だからこそ、読み手がいつも誤読するものだ、表現は必ず最後までは伝わらないのだ、と、肝に銘じてコミュニケーションしていかないといけないだろうなあ、と思っている。