2017年4月26日水曜日

病理の話(73)

かつては、「腹立たしい依頼書」というのを、目にすることもあった。

今のように、ひとつの病院に勤め続けていると、臨床医と病理医双方が、お互いの顔を思い浮かべるようになるので、まあ、めったなことでは相手を怒らせるような言動は取らなくなる。

「病理組織診依頼書」にも、あまり失礼なこととか、突飛なことなどは書かれない。



ただ、お互いの腹の底が見えるためか、ちょっと間の抜けたことを書いてくるドクターはいる。

「○○病を疑う病変を、とつぜん見つけました。びっくりしました。御高診お願いします」

……その感想、いるか?

「○○を考えます。本人は最初いやがっていましたが、必死の説得の末に、生検採取」

……その経過、いるか?

「○○病の臨床診断。見た目は(ある野菜・伏す)。」

……その描写、いるか?



とても好意的に解釈すれば、すべて、病理診断の役に立つ文章ではある。1つ目の「びっくりしました」は、いつもと違うシチュエーション、いつもと違うボリューム感、いつもと違う患者背景などがあるのだろうなと、病理医に注意喚起をする役目を果たすだろうし、2つ目の「本人はいやがっていましたが」は、この検体ひとつでどうしても診断を決めないと、おそらく再度の検査は不可能なんだろうな、という危機感を示唆してくれるし、3つ目の「病気を食べ物などの形状に例える」は、イラストを描かずとも病理医に臨床像をあざやかに想像させるコミュニケーション手段である、などと、説明することができる。


……にしたってもうちょっとやりかたあるだろォ。




そういえば、ふと思い出した。かつて、信じられないほど汚い字で、とにかく依頼書に殴り書きで、読めない依頼を書いてくる某科の医師がいた。あまりに汚くてまったく読めないので、申し訳ないがきつめに注意した。

その後、電子カルテ化に伴って、依頼書をいちいち手書きしなくてもよいシステムが導入された(なお手書きでイラストなどを付けることもできる)とき、ぼくは、

「ああ、これであのクソ医師も、少しはわかりやすい依頼書を出してくれるだろう」

と、内心ほっとした。

後日、その医師からある依頼書が届き、ぼくはひっくり返ってしまった。

漢字変換がめちゃくちゃだったのだ。というか、ひらがなばかりである。

「他人が読むという前提で書くべき依頼書を、乱暴な字で書き殴るタイプの人が、電脳化くらいで自分のやりかたを変えるわけがない」

ということに、ぼくも気づくべきだった。

「○○びょううたがう。せいけん。おねがいしま」

せめて最後まで入力しろバカ野郎!





だんだん、こういう「失礼なやつら」の割合は減っているように思うが、その理由のひとつは、おそらくぼくにある。

ぼくが、病院の中で、言ってみれば「異分子」である間は、臨床医の方も、胸襟を開いてくれない。病院という世界、病理学会という世界、医療という世界で、ちょっとだけキャリアが増えてきたから、その分、周りの医師たちも、ぼくを人間として扱ってくれるようになったのだろう。


こっちもあんまり変なこと、言わないようにしないとなあ。医局で、先生のツイッターおもしろくないですね、とか話し掛けるのは、とりあえず、やめようかと思い始めた。

2017年4月25日火曜日

将来何になりたいですか、という問いをあまり投げかけられなかった子供時代だったかもしれない。

あるいは、そのような問いを聞き流す子供だったのかもしれないが。

いずれにしても、ぼくは、小さい頃に大人に向かって「○○になりたい」と言った記憶があまりない。覚えていない。



父母に尋ねてみたところ、幼稚園の時に、「地元のA高校に行きたい」と言ってたよ、という情報を得た。これは、ぼくも覚えている。A高校は進学校だが、ぼくがA高校に行きたかった理由は、ぼくが生まれたころにはすでに亡くなっていた曾祖父が、A高校で働いていたからだ。ひいおじいちゃんの高校に行きたいな、というそういうモチベーションだったはずだ。

思えばぼくは、将来どうしたいの、という問いと、まともに向き合わないまま成人した。

中学校のときは、よい高校に行こうと思っていた。

高校のときには、よい大学に行こうと思っていた。

大人になってから何になりたいかはよくわからないけれど、とりあえず目の前にはクリアする目標があるんだ。

ラスボスを知らないまま、目の前の敵を狩り続けるようなイメージだった。

そういえばドラクエIIも、ハーゴンまでたどりつけないまま、あきらめてしまったっけ。



ほんとうか? ほんとうに、なりたいものがなかったのだろうか?



今この文章を書きながら、ひとつ思い出したことがある。そうだ、ぼくは、スペースシャトルのパイロットになりたかった時期があった。

テレビ放送で生中継された、チャレンジャー号の打ち上げを見るその瞬間まで、ぼくは宇宙飛行士になりたかったと公言していたはずだ。

チャレンジャー号が目の前で爆発して、乗組員も全員死亡するという痛ましい事故のあと、ぼくは自然と、宇宙飛行士になりたいと言うのをやめてしまったのではなかったか。

そうだ、そうだった。

その後、何人かの大人との会話や、学校などで、将来何になりたいか、というのを書いたり話したりする機会があったけれど。

ぼくは、宇宙飛行士という夢がちりぢりになってしまったのがほんとうに悲しくて、また次になりたいものを思い浮かべるのがとても面倒になってしまったのだ。



小学校の文集にある、「将来なりたいもの」の欄には、不謹慎この上ないのだが、「天皇の親方」と書いた。いちおう言い訳をするならば、ぼくは、「天皇陛下にものを教えられるくらいの人になりたい」という意味で書いたのだ。しかし残念なのは国語力のほうで、数年たって文集を見返したぼくは、自らの絶望的なフレーズセンスに脱力した。

天皇の親方って……宮内を徒弟制度に作り替えるつもりかよ。

でも、わかってほしい。ぼくはもう、小学校卒業時には、自分のなりたいもの、将来像を、具体的に思い浮かべるのがイヤになってしまっていた。人に説明するのがおっくうだったのだ。




高校2年生のとき、父親に進路相談をした。東京大学に行って、宇宙物理学の研究をしたいのだと。

父親は、言った。

「科学と医学はおなじくらい広いんだから、医学でもいいんじゃないの。北大医学部が、偏差値的には東大理Iとおなじくらいでしょ」

納得した。なるほど。

実際には、うちの経済事情で、子供を東京に送り込むだけの財力がないからなんとか地元の大学に入って欲しいという親心もあったのだろうが、ぼくはこの、よくわからない理屈で医学部を目指すことになる。

そこに、医者になりたいとか、医学を研究して人を救いたいという精神はなかった。



今でも、公衆の面前で、「人を救うために」と発言するとき、ぼくはとても慎重である。夢とか理想の話にならないように。現実をきちんと伴わせられるように。

「ぼくは、あまり遠い将来のことを真剣に考えられるタイプではないのだ」という、自己分析がある。

目の前のイベントを乗り越え続ければ、いずれラスボスにたどり着くだろう、くらいの気分でいる。

夢を語ることが、難しく、恥ずかしく、また口にしてしまった以上はがんばらないと行けないし、潰えたときにとてもつらいのだと、そういう感覚が、心のどこかに残っている。




そして。




若い、とても若い、息子と同じくらいの年の人たちが、将来あれになりたい、これになりたいと夢を語るとき、ぼくはその夢を邪魔しないように、できればその夢が叶うまで、夢が夢として君臨し続けられるように、あるいは夢を語る人を邪魔する人が現れないようにと、だまって静かに、祈りながら見守っていきたいなあと、そう思っている。

2017年4月24日月曜日

病理の話(72)

前回、「がん以外の病気」でぼくはどんなものを診断しているかなあと少し考えて、いろいろリストアップしては見たのだが、少し時間を置いて見返してみると、あの病気もあるし、あの病気も書いてないと、ずいぶんと書き漏らしに気づいた。普段あまり意識していないあの病気もまれには目にするよなあとか、いつあの病気に出会っても大丈夫なようにまた勉強しておかないとなあとか、思い直したりした。


病理医は、勤めている病院や検査センターの「スタイル」によって、まるで違う病気をみることになる。ぼくも自然と、今勤めている病院や、出張で目にする検体に「頭がかたよってしまっている」。だから、ささっとブログを書こうとすると、どうしても内容に偏りが出てくる。


そんなの、どの医者でも一緒だよ、たとえばひとくちに整形外科と言っても、あの病院はひざの靱帯ばかり診ているし、あちらの病院は腫瘍ばかり診ているじゃないか。


……まあそうなんだけど、病理医の場合は、相手にする科すらバラバラだからなあ。


婦人科をぜんぜん相手にしない病理医もいるし、血液内科とご無沙汰だという病理医だっている。


あらゆる病気をみる仕事とは言うけれど、結局、自分の勤めている場所にいる「臨床医」のスタイルによって、みる病気が変わってくる、というわけである。




で、若い病理医は、考えるわけである。

将来、自分がどこでどのように勤務するかまだよく見えない時期に、いったいどこで研修をすれば、将来困らないような修練が積めるだろうか。

あの病院に行くと、軟部腫瘍は多いけど、肝臓は少ない。

あちらの病院は、胃腸がとても多くて、乳腺はあまりみないらしい。

研修期間が終わった後に、一人前となって勤めた病院で、はじめてある臓器に触れるなんてのは、怖すぎる。

それ以前に、病理専門医試験にはすべての臓器から問題が出されるのだ。オールマイティーに勉強しておかないと、受からない……。



ということでぼくは普段、「病理医を目指すなら、とにかく病理医の頭数が多いところで研修しなさいよ」と言う。

国立がん研究センターとか。埼玉国際医療センターとか。神戸大学病院とか。病理医が10人以上いるところ。各病理医ごとに専門性があって、いろんな臓器が集まってくるところ……。



……さて、この発想は、大筋では間違っていないと思うのだが、全国を丹念に見渡すと、「大学と市中病院とで緩く連携して、お互いの弱いところを補い合っている地域」というのもあるようだし、非常に教育力の高い指導医が2人ほどいて、検体数以上に勉強になる施設というのもあちこちに転がっているようだ。

ほんとうは、そういう、「病理の研修を積むならここだ!」みたいな施設を、全国見て回って、ブログとかに書けたらいいだろうなあとか、昔、考えたこともあった。

定年後の楽しみにとっておきます。

2017年4月21日金曜日

四次元ポッケ

エアポケットというのは具体的にどういうものを指すのか実はよくわかっていないのだが、エアポケットに落ちるとか、エアポケットに陥るみたいな表現を使うので、まあたぶん、飛行機が飛んでいるときに気流の関係でがくんとおっこちるあれをイメージしていれば間違いがないのだろう。

今日はメンタルがそういう感じの日で、なんだかがっつりと疲れてしまうできごとが多かった。仕事を複数抱えていたのだが、ひとつひとつの仕事をやっているときはいいとしても、次の仕事に移るまでの「思考の移動時間」でかなりロスをした。ふわふわと落ち着かない気分だった。

タイムラインを眺めていると、「今日は気圧が低いから、つらい気分になる人も多いだろう」というツイートが流れていて、なるほど、そういうのもあるのか、と少し納得して、なんだかちょっとだけ楽になった気がした。

そこでもう少し、自分を楽にする方法がないだろうか、と考えて、「エアポケット」を「エアポッケ」と言い換えてみたり、「気流の関係でがくんと落っこちる」を「わがまま気流でおてんばな動き」と言い換えてみたりしているうちに、夕方となり、安定を迎えた。



「人生低空飛行」みたいな書き初めをするのもいいかもしれない。書き初めというのは年の初めにやるものだと思っている人も多いかもしれないが、そもそも1年の間でいちども書道をしない人間であれば、何かを書いた日がそのまま書き初めになるのだ。そういえばぼくは子供の頃、パーマンセットを身につけて空を飛ぼうとするんだけど、どうしても体が50センチ以上浮かない、という残念な夢をよく見ていた。ドラえもんにそういうネタがあったのだと記憶している。

2017年4月20日木曜日

病理の話(71)

病理医をやっていると、普段仕事で扱う対象は「腫瘍」が多い。

腫瘍。できもの。体の中に本来存在しない、勝手に大きくなるカタマリ的な病気である。放置すると将来命に関わるものを、「悪性腫瘍」と呼んで特に重要視する。悪性腫瘍とはつまり、「がん」のことだ。放置しても命には直接関わらないカタマリのことは「良性腫瘍」と呼ぶ。子宮筋腫などが有名である。

で、まあ、病理で調べるものというとこの腫瘍がかなりの割合を占めるのだが、腫瘍以外の病気もそこそこ目にする。

するんだけど……これが……一般には、なじみのない病気ばかりなのである。



医療者以外の方々が思い浮かべる「腫瘍以外の病気」というと、なんだろう。

……かぜ。食あたり。心筋梗塞。肺炎。ケガ。腰痛。肉離れ。めまい。脳梗塞。胃潰瘍。乱視。虫歯……。

千差万別。そりゃそうだ、がん以外にも病気はいっぱいあるからね。

これらの中で病理診断が役に立つものは、ごく限られている。というか、今あげた中には、病理診断が必要なものはほぼ、ない。

かぜ、食あたり、肺炎、虫歯については、感染症というくくりに入る。感染症は、かかった部位と、かかった病原体の種類、そして体がそれにどのように反応しているのかというのが、治療をする上で重要なのだが、これらを見極めるために「病理医がプレパラートをみる」ことは、ほぼない。

顕微鏡自体は使う。グラム染色という方法を使って、菌を直接みる場合がある。ただ、病理診断とはちょっと異なり、細菌検査の手法のひとつである。

心筋梗塞とか脳梗塞のような、血管が詰まる系統の病気では、血管の詰まった場所を見極めて、血管を再開通させるとか、あるいは血管が詰まったことによる症状を抑えることが目的となる。この場合も、病理診断は特に必要とされない。

ケガ、腰痛、肉離れ。病理は用いない。

めまいとか乱視にも病理の出番はない。虫歯は……虫歯だけなら……まあ、病理は必要ない。



では、ぼくは普段、「腫瘍以外の病気」としてどんなものを目にしているだろうか。

・炎症性腸疾患。潰瘍性大腸炎とかクローン病といった、厚生省が難病認定しているやや珍しい病気。

・肝炎。ウイルス性のものが有名だが、近年はNASHと呼ばれる、脂肪肝に関係のある病気をみることが多くなった。

・虫垂炎(いわゆる、もうちょう)とか、胆石胆嚢炎など、腫瘍ではないけど、手術でとるやつ。

・子宮内膜症という病気。

・月経不順の方の、子宮内膜。

・好酸球性副鼻腔炎うたがいの、鼻粘膜。

・皮膚の病気。

・動脈硬化に対する手術で採ってきた血管。

頻度が高いところでは、こんなところだろうか。

当院には脳外科がないので、今の職場に勤めてからは脳神経系の病気はほとんど見ていないし、整形外科領域の検体も比較的少ない。泌尿器科が腎炎を扱っていないので、腎生検は長いこと目にしていない。一方、IBDセンターという炎症性腸疾患を専門に見る部門があるので、多くの病理医よりも炎症性腸疾患はよく見ているし、肝臓や胆膵領域も頻度が高い。

まあ、そういう「勤め先ごとの違い」はあるにしても、だ。



さっきの「かぜ、食あたり、心筋梗塞」などと比べると、病理医が目にする病気というのは全体的に聞き慣れない。これを読んでいる人の中には、「私はそれ知ってるよ」という方も多いだろうが、その知っている病気、自分の家族や友人に説明して、「知ってる知ってる」と言われそうですか?


ここからは、ちょっとうがった言い方なので、ブログゆえの軽口なんだなあと思って聞き流していただいてもよいのだが。


「病理診断をしなくても診療方針が決まる病気」というのは、「細胞まで見に行かなくても征服できる病気」と言うことができる。細胞一つ一つの細かな挙動よりも、もっと大きなダイナミズムが問題を起こしている病気である。病気の貴賤がどうこうではなくて、性質の違いだ。

かぜ、食あたり、心筋梗塞と聞けば、(学術的にどうかは置いといて)ほとんどの人は「ああ、なんとなくああいう病気だよね」と想像がつくのである。それは、病気の引き起こす現象が「マクロ」だからだ、と言うことができる。

これに対して、「病理診断をしないと診療方針が決まらない病気」は、「ミクロ」なのである。体の中に何が起こっているか、ぱっと見ではわかりづらく、じっくり血液検査をしたり医師が問診や診察をしたりしても、本質がなかなか見えてこない。だから、顕微鏡で細胞をみる「病理診断」が大きな意味を持つ。



で、何がいいたいかというと、病理診断を必要とする病気、必要としない病気、世の中にはいろいろあるんだけど、こと病理の話をしようとすると、どうしてもこの「ミクロな変化に意味がある病気」の話をせざるを得なくて、これが、なんというか、

「世間一般が認知しているイメージがあんまりない病気ばっかり」

なのである。説明しづらいのだ。



自然と、腫瘍、がんの話をすることになる。

実際に病理医をやってると、必ずしも腫瘍のことばかり考えているわけではないんですよ、とかなんとか、言いたい日があったのだ。いつかというと、今日である。

2017年4月19日水曜日

中年ファイト

ブログの記事はだいたい15~20分くらいで書くようにしていて、一気に最後まで書き上げた記事を読み返し、「まとまりがある程度あるな」と思ったらひとまずは「採用」とする。

書いた日から1週間後に自動公開するのだが、この1週間のうちに気が向いたタイミングで少しずつ読み直し、細かい手直しなどをする。

これはぼくの性格というよりも弱点を考慮したやり方で、自分の作る「初稿」には、「自分の頭の中にだけは浮かんでいるんだけど、うまく文章にできていないところ」がとても多い。だから、とにかく一気に全体像をまず作ってしまい、できあがったものをロングで眺めたり俯瞰で見返したりして、伝わりにくい部分を少しずつ削る。

粘土細工を思い浮かべている。

全部消すことが2回に1回くらいある。だから、「初稿」にあまり時間をかけてしまうともったいない。15分くらいでざっと書ける内容を、とにかく選ぶ。

この「ざっと書ける内容からスタートしている」というのが、たぶんぼくが持っている発信力の限界そのものなのだなあと日頃思っている。

ざっと書ける内容はざっと読める。しかし、ぼくらが現代のSNSでいちばん読みたいのは、たいてい、

「めちゃくちゃじっくり考えた内容を、すごい筆力でざっと読めるように書いたもの」

なのだよな。





ぼくはときどき、SNSでみんなが喜んでくれるようなものを書こうと思って、昔から考えていたこと、めちゃくちゃ考えまくってきた内容を、ざっとブログに書くのだが。

たいてい、そういう記事は公開前に消してしまう。これが2回に1回ということだ。

なぜ、昔から考えていたことに限って、ブログにするとしっくりこなくて、消してしまうのか。

自分の中に作り上げた風景が複雑になりすぎて、写生する力が追いつかないのかもしれない。

有名な「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前の中ではな」と、毎日戦っている気がする。

2017年4月18日火曜日

病理の話(70)

人間の消化管の中で、もっともがんが発生しやすいのは、大腸である。続いて食道もしくは胃。十二指腸にあるファーター乳頭と呼ばれる領域がこれに続く。もっとも腫瘍発生が少ないのは、小腸。

日本人を含めた一部の東アジア人の場合は、ここに(東アジア型)ピロリ菌感染という刺激が加わるため、胃癌の頻度がぐっと増える。

欧米人など、肥満者の割合が高く、腹圧が高く、胃酸が食道に逆流しがちな人々は、食道のがんが増える。

大腸がんも、実は肉食との関係が深いと言われているため、人種間で発生の頻度に差がある。

おなじ人間同士であっても、遺伝子のタイプとか、食べているもの、ピロリ菌などの環境因子などによって、病気にかかるリスクが異なってくる。



それにしても不思議なのは小腸である。



消化管の中で最も長いのが小腸なのだから、そこにある細胞の数だって小腸が一番多い。細胞の数が多いということは、すなわち、ターンオーバーする細胞の数も多いということで、新陳代謝で細胞が入れ替わる頻度が高ければ、それだけエラーをもった細胞が出てくる頻度も高くなりそうなものなのに。がんがもっと、いっぱい発生してもおかしくないのに。

小腸がんというのはかなりまれだ。なぜだろう?



人間の体の中では、実は、「体外に近い部分ほどがんが出やすい」という原則がある。これは、単純に距離が近いというだけの話ではない。たとえば胃カメラのように、体外から突っ込んでいくものを想像してもらおう。胃カメラを想像できない奇特な人は触手でも想像したらいい。

触手は最初は、皮膚を外側からつんつんしている。

口の中に入って、食道の粘膜をつんつん。

胃まで進めて、胃粘膜をつんつん。

外側からやってきた触手が触れる部分は、「体外から接することができる」、すなわち、体外と体内との境界部分ということになる。これらは、触手に限らず、食べ物とか、酸とか、菌のような、体外からの刺激を受ける場所である。

自然と、エラーを起こしやすくなるというわけだ。



食道は、食べ物が物理的に激突する臓器であり、あるいは温度によっても、刺激を受ける。胃酸の逆流によっても刺激が加わる。

胃は、胃酸をばんばん出す臓器だし、ピロリ菌の関与とか、胆汁の逆流など、ほかにもいろいろと刺激が加わりうる。

大腸は、さまざまな常在菌がうようよ住んでいる。また、胃でいったんやわらかくされた食べ物が水分を失ってだんだん硬くなり、物理的な刺激をもたらすようにもなる。そもそも、体が不要と判断したゴミが通過する臓器である。刺激も多かろう。



小腸だって、細い専用のカメラを使えば(あるいは細い触手でもよいが)、体外から触ることはもちろん可能だ。ただ、単純に距離が遠すぎるのであろう。

ほかの臓器に比べると、刺激が少ないのかもしれない。



以上は単なる推測であって、証明されたものではないのだけれど……。

がんの話をするときに、「複数のリスク」を想定して、「なにがこの病気を引き起こすきっかけとなったのだろう」と考えていくと、物理刺激とかケミカルな刺激、菌のような微生物によるものなど、ほんとうに多くの因子が絡んできて、もはやわけがわからなくなってくる。そんなとき、「まあ、触手が一番届かなさそうだもんね」という言葉でざっと説明しておくと、なんとなく「腑に落ちる」ので、ぼくはたまーにこういう説明を使うようにしている。



ほんとはもっと奥が深いんだろうなあ。そう思ってくれる一部の人が、まれに病理学講座の門をたたいたりする。

2017年4月17日月曜日

ビクトル・ユーゴー 略して

風がものすごく強いんだけどこの「ビュゴォー」という音はなぜ鳴っているのだろうかと考える。

たぶん、建物のすきまとか、木々とか、そういったものに空気があたって音が鳴ってるんだろうな。

じゃあ空気がそういうのに当たるとなんで音が鳴るんだろう。

大きい壁にただ当たるだけでは音は鳴らないで、細いものとか細かいものに当たるとヒュオッって鳴るのはなぜだろう。

口笛のときに口をすぼめると音がなるけど、口を開けると同じ風量でも音が鳴らないのはなぜだろう。

うまく吹けないときと、きちんと音が鳴ったときの「中間」がないように感じるのはなぜだろう。

外の風の音を聞きながら、ひとつひとつ、自分の物理学の知識で回答を与えていく。

音は空気の振動だから……。共振が……。狭いところだと……。

途中までは回答できるが、最後の、「なぜ細いところを通る必要があるのか」については、高校までの物理の知識がうろ覚えになりつつある今は、即答できなかった。

たぶん、ググれば、どこかに書いてある。




ふと。

「風の音」すら記述できないんだな、ぼくの常識は……。

そういう気分になった。




難しいことは知らないままでも、人生は楽しくやっていける。

ほんとうだろうか?

学校の勉強よりも大切なことが世の中にはいっぱいある。

ほんとうだろうか?

学校の勉強くらい綿密に学び続けてよいのなら、ぼくはあるいは「学び続ける人生」を選んだかもしれない。




何かを知らないまま笑い続けることができない人もいるのだ、ということを、小声でささやいておく。風の音に吹き消される。

2017年4月14日金曜日

病理の話(69)

細胞をみればその病気がわかる、というのはある意味信仰に近い。

正しく言うならば、「細胞を見れば、その病気がどんな細胞からできているかわかる」だ。なんだか循環論法みたいだ。

どんな細胞からできているかを知ることが、患者さんのためになるだろうか?

なる、とも言えるし、ならない、とも言える。「可能性と限界」と意訳できる。



病気がどんな細胞からできているかわかることによるメリットは、たとえば「がん」の診療で顕著である。現代の医学は、「がん」というひと言だけでは治療が決められないほど進化して多彩になった。

細胞がどんな種類か(腺上皮と呼ばれるタイプ? 扁平上皮と呼ばれるタイプ?)、細胞がどんなタンパク質を持っているか(HER2は? SSTR2は?)、細胞の遺伝子にどんな変化が起こっているか(KRASの変異は? EGFRの変異は?)によって、抗がん剤の種類、手術の方式などを細かく変えることができる。オーダーメード治療と呼ばれるやつだ。

CTやMRI、エコーに内視鏡などがどんどん進化しているため、実は細胞をとらなくても、細胞の種類をある程度見極めることはできる。しかし、オーダーメードというのは、「かゆいところに手が届く」ことが必要なのだ。なんとなくざっくり分類するのではなくて、細胞までしっかり見てビシッと分類することこそが求められる。

こういうとき、「病気がどんな細胞からできているかを知れば、患者さんのためになる」と言える。


一方で。


肝細胞癌という病気がある。この病気は、肝臓にできるがんの中でもっとも多いものだが、たとえば2cmくらいのサイズで見つかり、病変のかたちがきれいな球形をしている場合には、

「細胞を採取せずに、ラジオ波で熱を加えて焼いてしまう」

という治療をする。

この場合は、病理診断が入るスキマがない。画像で見てがんだと判定して、焼いてしまうから、生きている細胞を採りに行くタイミングがないからだ。

さらに、統計学的な検証によって、「病理診断をしてもしなくても、患者さんのその後の経過にかわりがない」ことがほぼ示されてしまった。細胞を見ても見なくても治療方針が変わらない。だったら、細胞なんて見なくてよい。

小さくおとなしめの肝細胞癌においては、「病気がどんな細胞からできているかを知っても、患者さんのためにならない」ということがありうる。



医学が科学の中で少々特殊なのは、「真実を明らかにすること」よりも、「患者さんが苦痛から少しでも遠ざけられること」の方が大正義である、という点である。このことを踏まえると、

「あれをやればもっとよくわかるのに」

という検査に医療保険が下りなかったり、

「これを研究すればもっとよくわかるのに」

という研究室に予算が下りなかったりする理由も、少しは理解できる(共感はしないかもしれないが……)。





ところで、「知りたいということ」が「患者さんのために」を下回る場合、「知らなくてもよいだろう」と片付けてしまってよいものなのか?

うーん、ここは難しいんだけど……。

病理医が第一に大切にするべきは「患者さん」なのだが、直接のお付き合いがあり顧客でもある「医療者」も大切にしないといけない。

「患者さんのために」 ≧ 「医療者のために」

くらいの気分でいる。

医療者ってけっこう知りたがりなんだよなあ……。だったら……。

ま、患者さんに迷惑がかからず、社会にも負担を増やさない程度に、丹念に、だけども、知ろうとすることに答えていくのも、立派な業務なのではないか、と思ったりするのである。

2017年4月13日木曜日

ネッイームゥ

漫画家さんの「ネーム」をみる機会があったのだけど、あれはすごいものだね。

ほんとうにおどろいちゃった。鳥肌が立つ、っていうけどそんな生やさしいものじゃない。皮膚の、表皮と真皮の間が裂けるんじゃないかと思った。全身の薄皮が剥がれて脱皮してしまいそうだった。

構図がすごい。文章だったら何十行もかけて説明しなきゃいけない内容を1コマの中にスッと入れている。語りかけてくるような説得力。

セリフがないのにキャラクタがしゃべっているように見えた。表情一つ、顔の向き一つでここまで表現できるものなのか。

なにより、ぼくが本気で書いたイラストよりも漫画家さんがネームに書いたラフイラストの方が圧倒的に美しいのである。



「そりゃそうだろう」と思われるかもしれないが……。



ぼくはたぶん、絵のどこがどうすごいとかを分析することはできるし、上手な絵とヘタな絵の違いを文章にすることもできるんだけど、文章にできるからといって自分が上手に絵を描けるわけではない。それはもう、居酒屋でくだを巻いている野球好きのおじさんは日頃から推しチームの4番打者に向けて怒声をあびせているけれどバッティングセンターでは100キロのボールにかすりもしないのと一緒だし、三代目JSBのライブを無理矢理みせられた彼氏が「岩ちゃんって実は一番ダンスが下手だよね」と言ってみたいけれど自分は学生時代に流行ったムーンウォークで挫折しているのと一緒だし、カヨコ・アン・パタースンの英語をバカにする人の9割9分がたとえ日本語であっても銀幕に立つことなどないのと一緒である。

解説はできるが実践できないものばかりだ、世の中というのは。

いや、正確には「解説はできるが実践できないものばかりだ」なんて先刻承知であった。でも、あらためて実際に経験すると、びっくりしてしまった。

見事な入れ子構造である。



誰もが自分の得意なものを持っているかというと、世の中はそうそう優しくはできていない。

ぼくを含めた大多数の持たざるものたちが、今日もプロの仕事を当たり前のように消費しているんだけど、たとえば冒頭の「ネーム」のように、「仕事のすごさをいやでも体感させられるような体験」があると、なんだか脱皮した皮がさらに土下座をするのではないかという、圧倒的な何かを覚えて気が遠くなってしまう。

でもまあ、こういうときにぼくができる「最低限のこと」は何かなあって考えると、「すごかったよ……まねできねぇよ」と言い続けることなのだろうなあ、とか、その程度であろうなあ、とか。

2017年4月12日水曜日

病理の話(68)

ある細胞が「がん」なのか「がんではない」のかを決めるにはどうしたらいいのか。

病理医が見て決める、というのはまあ、そうなんだけど、じゃあ病理医は何を基準に細胞を判定しているのか。

ベテランの医師に尋ねると、例えばこういう答えが返ってくる。

「あれでしょ、核異型(かくいけい)とか、構造異型(こうぞういけい)とか、つまり、細胞のカタチ見て判断してるんでしょ。悪そうだとか、良さそうだとか」

まあほぼ合ってる。

でも、「ほぼ」だ。

この「ほぼ」はけっこう誤解を招く原因となる。

「カタチみてがんかそうじゃないか決めると言っても、たとえば、『まんまる』と『楕円』の境界をどこでひくかとか、『ごつごつ』と『つるつる』の境界をどこでひくかとかさ、あいまいじゃん、ファジーじゃん。そんなの主観じゃん。がんの診断って怖いよなー」




ぼくらは、より正確には、

「過去に多くの人が亡くなる原因となった病気に見られた細胞と似ているかどうか」

を判断している。

「亡くなった」という結果からさかのぼって、

「亡くなる前にはこういう細胞が見られることが多い」

「こういう細胞が出現しているといずれ亡くなる」

が延々と検討されてきたのだ。それが医学だ。

「この病気を放っておくと死んでしまう」

「放っておくと死ぬ病気にみられる細胞はこういうカタチをしている」

というのが、じっくり積み上げられてきたのだ。

積み上げてきた結果として、細胞の中でも核を見るとかなり精度の高い予測ができるということが明らかになった。

細胞のカタチだけではなく、細胞同士が徒党を組んで作り上げる構造も観察するとよい、とわかった。

わかった結果が、教科書に書かれ、受け継がれるごとに多くの人々の目に触れ、

「ここにはこうやって書いてあるけど、実際には違う場合もあるぞ」

みたいな厳しいご意見をどんどん集めて、教科書が少しずつ精度よく変化してきて、そして、今に至る。

現在の病理学の教科書には、積み上げられた結果の表層部分が主に書いてある。

積み上げてきた検討内容の、底の部分まで掘り下げて検討するのは、なかなか骨が折れるが、できなくはない。





「がんか、がんじゃないかなんて、病理医がその場の胸先三寸で決めてるんでしょう?」



ええ、そうですね、人類の歴史、医学の積み上げを学んで、多くの教科書や先輩達が伝えてきた内容を現代に合わせてアップデートし続けた、最新の医学を学んだ専門家の胸先三寸で決めているんですよぉ。

細胞の核が腫大しているかどうか、すなわち核内の遺伝情報が急激に増殖しようとしているかどうか。核分裂が頻繁に起こる細胞かどうか、すなわち核縁にひっついているヘテロクロマチンの分布が不均一になるかどうか、つまりは核膜の厚さが不均衡かどうか。核の形状がいびつかどうか。クロマチンの濃さはどうか、分布パターンはどうか。核小体が明瞭化しているか。非腫瘍細胞では見られないサイズの核小体が出ていないか……。

核だけではなく、細胞質、細胞の接着性、隣り合う細胞同士の不同性あるいは均一性、作り上げる構造が正常をどれだけ模しているか、周囲の構造を破壊していないか、脈管侵襲像はないか、神経周囲に沿うような進展はないか……。

いやあー、ほんとにいろいろ見所がありましてぇ、いろいろ教科書に見方があって、どの所見が強い力を持つかもきちんと書いてあってですね、これらをぉ、最終的にはぁ、「主観!」でぇ、見ていくんですよぉ。

歴史を学んだ人間の胸先三寸で、決めてるんですよぉ。

2017年4月11日火曜日

あとドラゴンボールとナンバーガールに例えることも多い

病理の話が少しずつ難解になっているようにも思うが、ぼくの中ではこのブログは、誰にもわかる話と、ぼくらしかわからない話、両方を書こうという気持ちでそもそもはじめているのだ。

だから、病理の話と、なんでもない話を、交互に書いている。

今日は難しかった? マニアックだった? ごめんなさい、明日もマニアックだけど、でももう少しわかりやすい話を書くね。でも、明後日はまたわかんない話にしようかと思ってる……。しあさってはわかりやすいように気を付ける。



「読者設定をして何かを書く」という作業に慣れすぎることに対する、抵抗感がある。

目的と手段、ということを考えた時に、目的が「より多くの人に病理を知ってもらいたい」であれば、対象となる読者をきちんと想定して、病理に興味を持つ人が一人でも増えるように手段を選べばいいのだが、どうもこのブログの目的はそことはちょっとずれていて、「自分が病理に対してどれだけ書けることがあるのかを知りたい」というところにある。

そして、もうひとつ、「自分とちょっと似た人に届く文章って何だろうな、それを知りたい」というのもある。



ちょっと前の話なのだが……。

興味のわいた映画があり、おっ、見てみようかなと思いかけていたところで、猛烈な勢いでその映画をプッシュする人の文章を読んだ(ちなみに書き手は、おそらく皆さんが知らない人です。なぜかというと、書き手はぼくの同級生であり、文章が公開されていたのは非公開のFacebookですから)。

とてもいい文章で、まだ見てもいない映画に対し、ぼくはおよその世界観とか見所を、ネタバレしない程度に味わうことができたのだが、全ての文章を読み終わったときに、

「うーん、彼以上にこの映画を楽しく見る自信がなくなっちゃったなあ」

と思って、映画を見に行くのをやめてしまった。



これは極端な例なのだけれども、ある世界に飛び込んでおいでよと説明してくれる人が、あまりに親切で初心者向けだと、その世界で何か尖ったことをしたり、何かを成し遂げたいと思っている人は、ちょっと興ざめしてしまう、なんてこともあるのではないか?

いやいや、そんなあまのじゃくばかりじゃないよ。

初心者向けの文章でまずはその世界に興味を持ってもらうことこそが、間口を広げて、ひいては世界人口を増やす一番の近道じゃないの……。

自分の中でずっと議論が続いていたのだが、先日、ある仮説にたどり着いてしまった。

病理医なんて基本的にあまのじゃくが指向する分野なんだから、本当に病理の世界に興味を持ってもらいたいのなら、あまり素直な文章ばかりじゃなくて、多少あまのじゃくな視点で好き勝手に書くくらいでも、ちょうどいいんじゃないのかな……。




まあ言い訳はともかくとして、「両輪で書く」というイメージがぼくの中にある。両輪というのはぼくの中にある人生のキーワードの一つだ。

キーワードとしてはほかに、「この世はすべて複雑系」とか、「共感しなくとも理解はできる」とか、「名言の多くは物事を動かさずにナワバリ線を引き直すだけ」とか、「演繹・帰納・アブダクション」などがあるが、この話はたぶんここでするのは2度目で、3度目に書くときにまた少し詳しく触れてみようかと思っている。

2017年4月10日月曜日

病理の話(67)

臓器がどのように発生したのかを考えるのはとてもおもしろい。

そもそも、タマゴ1個が分裂を繰り返して、こんな精巧な体を作り上げるというのが不思議でしょうがない。ブルゾンちえみによれば体の中には細胞が60兆個くらいあるという話だ。

細胞分裂の過程をどんどん追っていくと、どこかの段階で、単純に倍々ゲームだった細胞が、役割分担をすることになる。

君はここで何かを作りなさい。君はここで何かを支えなさい。君はここで道路になりなさい。君はあそこで柱になりなさい。君は体外に分泌するものを作ろう。君は血管の中に分泌するものを作ろう。君たちは集まってネットワークを作ろう。

君たちのグループはこの場所にないと、次の部署への受け渡しがうまくいかないから。

君たちが作る分泌液は、この臓器の中に放出するので、このあたりにいると近くて便利だから。

細胞は、ただ分裂するだけではなくて、居場所を定められる。

膵臓という臓器があるが、これは実に複雑な発生をしている。具体的には、腹側膵という部分と背側膵という部分が、発生の過程でドッキングしてできる。ガンダムが上半身と下半身に分かれていて、コアファイターを中心に引かれあって合体するようなイメージだ。

しかしこの合体にしても、単に腹側にある膵臓と背中側にある膵臓がくっつくだけではない。腹側膵はもともと、十二指腸に向かって左側に存在するのだが、

「十二指腸の周りをポールダンスするように、後ろにぐるりと回り込んで、背側膵と合体する」

のである。もう、わけがわからない。腹側に発生したから腹側膵という名前がついているのに、十二指腸の後ろを回り込んでドッキングするため、結果的には「背側膵に後ろから近づいてドッキング」してしまうため……

「大人の膵臓においては、腹側膵は背側膵の”背中側”にある」

という、もう書いていてわけがわからない状態が達成される。


これらには全て意味がある。腹側膵がわざわざ十二指腸の周りをポールダンスするのは、腹側膵が発生の段階で胆嚢や胆管を引きつれて十二指腸の後ろに回り込むためであり、胆管と膵管が正しくドッキングするためにはこうするしかなかった、という解釈だ。

まあ意味と言っても人間が後付けしただけなんだけど……。



なんでこんな、文章で書いてもわけがわからなくなる不思議な立体構造を解説したかというと。人体の中にある病気の一部は、「発生の段階でちょっと失敗しちゃった」というのが原因となって発生しているからだ。

病理学を学ぶためには解剖学もそうだが、発生学も知っておいた方が都合が良い。

例えば腹側膵と背側膵の癒合不全はdivism(ディビズム)という異常につながるのだが、このdivismが存在する人においては、胆管と膵管の合流異常もまた観察される場合が多いし、膵胆管合流異常がある人には(炎症などが起こりやすいためか)膵臓癌が発生しやすいという傾向がある。

このあたりは、発生学を理解していると、わりとわかりやすい。

(参考リンク: http://mymed.jp/di/tyc.html このサイト、信用して良いのかどうか微妙ですが、少なくともこのページの図についてはある程度妥当ではないかと考えています)


刑事物のドラマのラストシーンで、犯人が言い訳たっぷりに自分の不幸な生い立ちを語り始めると、ぼくみたいなゆがんだ視聴者は「そういうのいいから……」と冷めてしまうのだが、しかし、病気の原因を探ろうとするとその生い立ちに遡るというのは、確かに一定の効果がある。

なんでお前、こんなことになっちゃったんだよ、というのを解釈する作業は、病気の「動機」を探る作業に似ているのではないか。

2017年4月7日金曜日

札幌市にはUFO高校というのがあるのだとずっと思っていた

デスクの前の壁に、カレンダーを3セット貼っている。うち、2つは「1か月分のカレンダー」で、1つは「2か月分のカレンダー」である。

今が4月なら、カレンダーはそれぞれ、「4月」、「5月」、「6月と7月」のようにめくっておく。だいたい4か月先までの予定を書き込めるようにする。

正直な話、以前は、自分の予定をデスク前面にバァーンと表示することで、忙しさをアピールする目的があった。

病理医はすぐ9時5時でラクそうだとか言われるので頭に来たのだ。

用意するカレンダーも、「2か月分のカレンダーを3セット」として、半年分書き込んだ真っ黒なカレンダーで壁面を彩り、たずねてくる医療者達に圧力をかけていた。

ちょっと精神が幼かったのだと思う。

今の時代、Googleあたりのアプリを使って管理する人の方が多く、アナログなカレンダー管理自体にあまり優位性がないというのもあるが、ぼくはもうそういう忙しいアピールはやめることにした。通り過ぎたことに後悔はないが、もう戻りたいとも思わない。高校生活と似ている。



昔から、カレンダーにはたいてい美しい写真がついている。今貼ってあるのは野鳥の写真と、野草の写真だ。なぜ野山しばりなのかは偶然なのでよくわからない。

カレンダーに使ってもらえる写真なんて、一流だよなあ。いいなあ、こんな写真が撮れる人は。

野鳥の方は、「ヤマガラとシジュウカラのバトル」だそうだ。撮影地は札幌、とある。どうも素人の投稿写真らしい。

野草のほうは、エゾコザクラ。撮影地は富良野。なんだよ、これも北海道の写真かよ。



ぼくは被写体ばかりの土地で暮らしているのに、自分が検査室の備品からパクってきたカレンダーの写真にも気づかず、ただ予定を書き込んでやってくる人にドヤ顔で提示するだけで毎日を暮らしていたのかと思うとがっくりする。



どうせドヤ顔を晒すなら、こんどは自分で写真を撮って、カレンダーの代わりにデスクに飾って……。



卒業できていない。高校やり直しである。今度は定時制かもしれない。

2017年4月6日木曜日

病理の話(66)

少しマニアックな話をする。

現在、この世の中で観察されうる病気は、「激烈すぎないもの」が大半だ、という話だ。

たとえば、一瞬で空気感染して全ての人を瞬間的に死に至らしめるウイルスというのが存在したら、とっくに人類はほろんでいただろう。

……あるいは、歴史の中で、「ある生物種を全滅させたウイルス」というのもあったのかもしれないが、宿主(感染する相手)を瞬間的に滅ぼしてしまうウイルスなんてものは、「宿る先を失ってしまう」ので、そもそも現代まで生き残れない。

今に残るウイルスは、「人間をある程度生かしておく」という性質を持っている。

致死率の高いウイルスというのもいっぱいあるじゃないか、と反論されるかもしれないが、致死率が100%に近かろうが、決して100%ではないし、「感染、すぐ、即死」というウイルスもない。

宿主が即死したら、次の宿主に移る前に、ウイルスも逃げられなくなってしまうからだ。必ず潜伏期間があり、「人が無症状のままウイルスが増えている時間」というのがある。

ウイルス感染症に限らない。

今この世の中にある病気には、「潜伏期間」があり、「死までの猶予」がある。

逆に言えば、死までの猶予がない病気は、次世代や周囲に伝播しない。



死までの猶予は何によってもたらされるか。

病気が体内で育つ時間。

病気を体内の何かが攻撃して、戦うことで、その広がりを遅くする場合。

発症に年齢が関与する場合。若いときはかかりにくく、年を取ってからかかるような病気であれば、患者さんには次世代を残すだけの時間が与えられている。



「がん」が現代まで残っているというのは、これらの全てを満たす疾患だからだ。

がんを未だに撲滅できない、という言い方は正確ではない。

がんは、人間に「次世代を作るゆとり」を与える(高齢者がかかりやすい)疾患である。

人間同士の間で「かんたんには移らない」(原因となるウイルスがあるにしても、即座にはうつらない)疾患である。

かかってもすぐには命に関わらず、最終的に死に至るまでの時間が比較的長い疾患である。

もちろん、最後にはたいてい、人の命を奪う疾患。けれど、それまでに、猶予がある。

「この世に残るべくして残った、脅威」という考え方ができる。



多少、「擁護」するような言い方になってしまったが、憎むべき敵には違いない。がんを撲滅せずしてなんの医療者かと思う。だからこそ、真剣に、冷静に考えたい。ぼくらががん撲滅を考えるとき、このがんの性質に着目する。

体内にゆっくり蓄積していくリスクがあって発症する、原因から結果までが長い疾患。であれば、リスクの総和をどのように減らしたらいいだろうか? 加齢というリスクはもはやいじりようがない。リスクゼロというのは神話に過ぎない。累積するリスクに応じた早期発見方法を開発するのがよいのではないか?

少なくとも感染がきっかけとなり発症するタイプのがんについては、感染症対策をすることで罹患数を減らすことができるのではないか?

がんが体の中にできてからゆっくり発育する時期があるのなら、その「ゆっくり時期」を延長するような治療をすれば、がん自体を完全に直さずともよいのではないか? 具体的には、あと10年で死ぬがんを、あと200年で死ぬがんに改良するような治療ができれば、がんで死ぬ心配は減るのではないか?

がんが体の中で大きくなるのをふせぐ生体側の複雑な因子をうまく調節できないか? 複雑過ぎる人体を食品ひとつとか健康法ひとつでどうこうできるわけもないけれど、がんを生体が攻撃しやすくなるような環境を作る治療というのは考えられないか?



この世はすべて複雑系である。シンプルな解法というのが存在したら、とっくにその問題は解決している。人類を即死させるウイルスがあったら人類はとっくに滅亡していただろう。その逆もまた真なのだ。時間の経過と共に「現代に残った病気」が、そうカンタンに解決できるわけはない。

だから、こちらも、複雑に取り組まざるを得ない。

2017年4月5日水曜日

えー札幌の3月29日ってこんなに熱いもんなんでしょうかねぇ

このブログはだいたい公開の1週間くらい前に書き上げている。この記事を書いているのは3月29日(水)の朝である。ツイッターを休止した。30日(木)のお昼には復活する。

理由は、29日の朝方にテレビ東京系列で放送された「けものフレンズ」の最終回が、札幌ではリアルタイム地上波で視聴できず、30日(木)のお昼にならないとネット配信されないからだ。

ツイッターをやっていると、ネット配信を見る前に、実況勢によりだいたいのあらすじがわかってしまう。ずっと見てきたアニメの最終回くらい、ネタバレをされずに見たい。

さて、どうしようかと考えた。ツイッターを続ける限り、ネタバレは避けられない。ミュート機能を使ったところで、絵で回ってくるネタバレは避けられない。トレンドに「かばんちゃん」という言葉が並んだだけで泣いてしまうかもしれない。

だったらツイッターやめよう。ひどく簡単な発想である。

リプライの通知は元々切ってあるから、リプライが来ていても気づかない。

DMの通知は(相互フォローの人に限り)付けてあるのだが、まさかDMでネタバレしてくる奇特な人もそうはいないだろう。

木曜日の昼まで、一度もツイッターの画面を開かない。これで解決だ。




この6年間でおそらく初めて、目覚めてから出勤し働いている最中に、いちどもツイッターにアクセスしていないという日を過ごしている。

なんて快適なんだろう。

この楽しさを誰かに伝えたい。

気がついたら瞬間的にブラウザが立ち上がり「Twitter」と「Hootsuite」を立ち上げている自分の手を見て呆然とした。一連の動作が、脊髄前根より末梢くらいの部分だけで完結しており、脳を介していない。体が完全に最適化されている。あわてて脳から指令を送り、Chromeの×ボタンをクリックして画面を消した。

ここまで体と一体化しているとは思わなかった。

よくある「ラスボスがヒロインを吸収してしまう最終決戦」で、「もうわたしはラスボスと一体化してしまったの 体を引きはがせば死んでしまうわ わたしごと倒して!」みたいな展開を想像する。

ツイッターを引きはがすとぼくは死んでしまうのではないか?

勇者はツイッターごとぼくを斬るべきなのではないか?

勇者じゃなくてゴブリンくらいでも斬れるかもしれないけど。

うまくこのネタを展開させれば50RTくらい行くかも知れない。気づいたらChromeが開いていた。あわてて消す。



ゴブリンで思い出したけれど、初代ゼルダの伝説の解説を書いていたファミマガ(ファミリーコンピュータマガジン)の記事に、

「森に住むゴブリンだからモリブリンである」

という説明があって、なるほどなーと思った小学校時代の記憶がとつぜん蘇った。

ゼルダ最新作にもモリブリン出てくる! 俺おぼえていた! わーい!

……次の瞬間にはChromeが立ち上がっていてぼくはあわててブラウザを閉じる。



札幌の3月29日、ぼくは朝から汗をかいている。どうしてこうなってしまったのか。ちなみに本記事のタイトルは、ナンバーガールの解散ライブのMCをパクったものである。Bloodthirsty butchers, the Eastern Youth, Foul, the Blue Harb, Cowpers, まだ半分くらいしか聴いてないなあ。いつの間にかツイッターの画面が

2017年4月4日火曜日

病理の話(65)

「血の通った知識を身につけなさい」という言葉を、つい使ってしまう。

本で読んで覚えるだけではなく、現場で使えるようになってはじめて一人前だというニュアンス。しばしば、座学ばかりして実践をおろそかにする人間、あるいは座学すらしていない人間をたしなめる意味で用いる。

「使ってしまう」と書いたのは、この言葉、ちょっと卑怯だよな、と自戒しているからだ。



たとえば今日の研修医カンファでは、

「ぼくは病棟を持ってないからさあ、抗生剤の使い方とかはひたすら本で読むだけなんだよ。でも、長い既往をもつ患者さんがたまたま別の病気にかかったときに、どの抗生剤を選ぶか、みたいなのって、やっぱり本を読んだだけではわかりにくいんだよな。研修医のみなさんがぼくに教えてくれると助かるなあ、ぼくは病理医だからさ、わかるように教えてよ」

と、煽りまくって初期研修医達を苦しめた。もちろん勉強しておかなければいけないことなので、いちおう指導医をしているぼくがこのように言う資格はあるのだろうが、しかし、意地の悪い問いかけだ。

胆管炎の既往がある人に肺炎があるときにどの抗生剤を使うか、腎盂腎炎の治療をしている人に蜂窩織炎が出たらどの抗生剤を使うか、ステロイド服用によって感染リスクがどれだけ上がっているか、腎機能の悪化によって使えなくなる抗生剤はどれか……。

本を読みこめば書いてあるのだが、「読めば書いてあるだろう! 勉強不足だ!」となじってよいほど簡単な質問ではない。感染症専門医は「それを知っていないと医者ではない」くらいの勢いで解説をしてくれるだろう。けれど、覚えなければいけないことは他にもいろいろある。



「血の通った知識」を身につけるためには、知識をつなぐパイプどうしがねじれていてはだめだ。細くても、先が詰まっていてもだめだ。パイプの走行ができるだけ単純になるように、径が太くなるように、知識をうまくつなげる作業をして、はじめてそこに少しどろりとした血液が流れるようになる。

いつも高圧で血液をぐんぐん押し流している人はいいのだ。使用頻度が高いからと、ばんばん頻繁に血液を流している人は、自然と知識同士をつなぐパイプも太くなる。

しかし、そう簡単に「血は通わない」。現場では稀だが重要な症例なんてのはいくらでもある。稀な症例を目にする機会が多い専門医とは違い、研修医はきわめてよくある症例から順番に経験しなければいけないのだ。



救急車がいっぱいくる病院の研修医が言った、「2年間研修してまともに救急対応もできないなんて、どれだけしょぼい初期研修したんですか」と。

よかったね、自分の中に、血が通った分野がひとつできたんだね。

でも君と違う回路に血を流すためにがんばった人もいるんだよな。



「血の通った知識を身につけなさい」という言葉は卑怯である。血液量が少ない時期には、そもそも血を通わせることが難しいからだ。



ところで、「病理学の知識」に血を通わせたがる医者は比較的少ない。付け焼き刃の知識だけで臨床をわたっていくことも可能である。

さて、じゃあ、ぼくがよく言う、「血の通った知識を身につけなさい」は、病理学に対してもあてはめてよいのだろうか。

ほとんどの医者は、病理回路に回す血流なんて、そんなに多くないはずなのだ。

だったら、現場を知れ、血を通わせろというよりも、いつ血液が流れ出してもいいように、パイプを太くし、つながりをシンプルにし、袋小路をなくする作業に努めておいたほうが、よいのではないかなあ。



以上のような理由で、最近は、「血の通った知識を身につけなさい」という言葉を、こと病理学をめぐる場においては、なるべく使わないようにしようかなあ、とも思うのである。つい言っちゃうけど……。

2017年4月3日月曜日

クラスチェンジできないのは勇者だからです

先日少し運動をしたら、足が筋肉痛になったのはまあいいとして、驚いたことに腰まで筋肉痛になってしまった。なんてこった。日本語に、「足腰」というひとからげのフレーズがある意味がようやく分かった気がする。別に腰の曲げ伸ばしを激しくしたり、重い物を持ち上げたわけではないのに、走り回っただけで腰痛が来るなんて……。

先日のドックの結果で拡張期血圧がちょっと高めに出たというのもじわじわとぼくを責め立てる。

気持ちばかりが若い人間にはなるまい、と思っていたが、自分の体の衰弱加減に精神が追いついていないのだから、相対的に気持ちだけが若い状態だ。

これはまずい、精神を倍速で老成させないと、肉体と精神の不一致が早晩生じてくるだろう。

そこでまずは読書として、封印していた山田風太郎に手を出そうと思う。これはずいぶん昔に勧められていたのだが、時代物はまあ、もう少し自分のメンタルが落ち着いてから読んだほうが楽しいんじゃないかな、なんて躊躇して、それっきり読んでいないのだ。

あとで聞くところによれば、山田風太郎の忍者ものはむしろ若いときに読むべきではないかと言われたりもしたが、そこらへんの齟齬はよくあることだ。

あと、宮部みゆきも一通り読んでいるくせに時代物についてはなぜか少し遠く離れたところで見守る感じでいる。これもよくない。

精神を正しく逐年させるために読む本として、「時代物」しか考え付かない時点でだいぶ発想がアレなのだが、ほかにも考え付いたものがあるぞ。それは神社仏閣めぐりだ。

そういえば、大学院のころ、先輩が神社仏閣めぐりは楽しそうだと言って、その後実際によく行っていたらしい。彼はいまのぼくより若かったぞ、しまった、神社仏閣をめぐるのはよいが、足腰が弱っていると十分に歩き回れないではないか。

結局、精神を程良く老いさせようとするには、若い頃から「老いを蓄積」していかないといけないのだ。

若い頃に若いことばかりやっていてはだめだったのだ。誰に何を言われようとも、自分が出会ったものをもっとだいじにすべきだったし「これは後回し」とかやっていてはいけなかったのだ。

もう手遅れですね、という言葉がリフレインする。とりあえずはジョギングからはじめようと思う。ウォーキングでもいいかもしれない。少しじじくさいかもしれないが、良きじじいになるためには今から修練を積んでおかなければ、いざというときにはじじいになるために必要なスキルポイントが足りていない可能性だってあるのだ。

2017年3月31日金曜日

病理の話(64)

何回説明されても、実際に自分で手を動かしたり考え続けたりしていないとなかなか身につかないもの、というのがある。

それはたとえば、ぼくにとっては、「血液ガス検査」である。田中竜馬先生の本を買って勉強して、そのときはわかった気になるんだけど、現場で運用しているわけではないぼくは、しばらく時間が経つと知識が穴だらけになってしまう。(でも、現場にいるひとにはすっげえいい本ですよ!おすすめ!)

市中感染と院内感染、それぞれの感染臓器の違いとか、起因菌の違い、抗生剤の使い方などもそうだ。きっちり知っておいたほうがいいに決まってる。でも、実際に患者さんを診ているわけではないぼくは、こういうのをすぐ忘れてしまう。

ひるがえって、病理の知識。これは、おそらく多くの医療者にとって、

「勉強しようと思えば勉強できるし、覚えることもできるのだけれど、日々プレパラートをみていない限りは、忘れてしまうもの」

なのだろうな。先ほど、ふと気がついた。



手が技術を覚える、というときがある。くり返しくり返し、動作を反復することで、最初はじっくりと考えないと動かせなかった手が、次第に無意識に動くようになっていく、というあれだ。

脳は、同じ動作を反復すると、おそらくなのだが、その動作に使ったニューロン・シナプス同士がうまいこと関連づけられて、セットですばやく動くようになる。

最初は、部屋のあちこちにあるクローゼットをひとつひとつ開けて、必要な工具箱を取り出し、異なる中身を順番に取り出して日曜大工をやっていたのだが、動作を繰り返すたびに、必要な道具をまとめてしまえるようになってくる、みたいな感じだ。

習うより慣れろ。

これと同じ事は、手とか足だけではなく、脳そのものを使うときにも起こっている。

だから、日々なにかに従事し続けている人の方が、知識が身になっている。知恵になっていると言ってもいい。



病理診断報告書に、ときおり、「結果」だけではなく、「説明」を添えるようにする。説明をだらだら書いても臨床医は読んでくれないよ、といろいろな人に言われたが、ボスはときおり、手短ながらも「なぜそう考えたか」という説明を書き足している。ぼくも、それを真似している。

10年、同じような所見を書いている病気もある。もうそろそろ臨床医も見飽きたんじゃないかと思っていたが、こないだ、件の臨床医と話をしていたら、こう言った。

「先生がときどき書いてくれるあの所見、こないだ講習会で見たんですけど、ぼく、あれ、なんかわかりましたよ。わからないままに読んではいたんですけど、わかるようになってました(笑)」



「納得してもらえるような説明」をするには、表現方法をブラッシュアップするとか、テイクホームメッセージを絞るとか、絵やシェーマ(模式図)を用いるとか、いろいろなやり方があるわけだが……。

何より、「反復する」という作業も大事なのかもしれないなあと思う。だから、今日も、所見の最後のところに、ちょっとだけ説明書きを添えるようにする。

2017年3月30日木曜日

宣伝ですwwwwwwwわかるかwwwwwwwフフッwwwwwwwww

昔から沢木耕太郎が好きだった。

須賀敦子のエッセイというのは、ぼくがツイッタランドで教えてもらった中ではもっとも大切なものだ。

ぱっと思いついた二人はいずれも随筆を書くが、彼らの文章を読んでいると、優れた日記は私小説と区別がつかないのだなとか、自分を語ることが世界を語ることになりうる人がいるのだなとか、ただひたすらにあこがれる。

旅路の末に、

「たどり着くべくして……ではなく、たどり着いてしまった場所で、なにごとかを思案した人」

というのに、深く惹かれている。

おだやかで激しい文章である。




ぼくの人生は十人並みに波乱万丈だ。

誰もが経験しうる、そして、誰もがさいころを1000回振れば6の1000乗の答えがあるように、誰ともぴったりとは一致しない、ありふれた独自の人生を歩んでいる。

たとえば沢木耕太郎の目がぼくについていたら、ぼくの人生は彼の筆によって、さびしくも芳醇に描かれただろうか。

須賀敦子の耳がぼくについていたら、ぼくの人生は彼女の筆によって、はかなくも陶然と描かれただろうか。

ぼくのあこがれはいつでも敗北感とやるせなさから生まれている。



彼らの紡ぎだす言葉をひとつひとつ辞書で引いたところで、出てくる結果には目新しいものはない。

使う50音はぼくと違わない。使う漢字はほとんど常用漢字だ。

それでも出てくるハーモニーにぼくは厳しい嫉妬を覚える。

ありふれた独自の人生を、ありふれていても誰もが心のどこかに閉まっている、経験したことのない思い出の箱に共鳴させるような書き方。

そんなことができたら、どんなにいいだろうかと、



「いい」と思って完成してしまっていない彼らだからこそ、随筆を書き続けたのかもしれないけれど。




ぼくがあこがれて、たどり着けないだろうとあきらめてしまっている人々は、おそらく、自らの完成形みたいなものに、たどり着いたとは思っていないだろう。

常に口渇に苦しんでいたようにも見える。

それが彼我を分ける差なのだとしたら、ぼくは、自分の人生を振り返って本をまとめて喜んでいる場合ではないのだ。

そう思いながら、来年の春に出す予定の、自分の本の最終章を書くことにする。

白紙がちっとも埋まらない。

2017年3月29日水曜日

病理の話(63)

ボスと一緒に顕微鏡を見ていて、たまーに、こういう会話になることがある。



「この胃の腫瘍、腺腫(良性)だと思う? 癌(悪性)だと思う?」

「うーん……ぼくはこれだと癌だと思いたいんですけど……」

「だよねえ……でも、どうしようね……」

「微妙なところですよね……」



えっ、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。

がんか、がんじゃないかを、そんな「気分」で決めてしまうなんて。

「微妙」だなんて。

だって、大違いでしょう。がんか、がんじゃないかによって。

死ぬか生きるかってことでしょう?

医療保険だって、「がん」とついたら、お金が下りることがあるわけで。



でも、実際には、病理診断にはこういう、「良悪の決定すら微妙」な瞬間がある。あるんですよ、実際に。



かの有名な「がんと戦うな理論」の人も、ここをつっこんでいたように思う。

がん診療なんて、病理医の胸先三寸で決まる、微妙な診断によって成り立っているものじゃないか、と。

がんと診断されるものの中には、「がんもどき」なる、実際には生き死にに関わらない病気もまぎれているのだと……。




この話を、ここで終えてしまっては、誤解ばかり招くだろう。だから、続きを書く。

なんでもそうだが、フクザツな事実の、途中までを切り取って人々に伝えると、実際のニュアンスが大きく異なってくることになる。



くだんのボスとの会話は、このように続く。



「結局さあ、この手の腫瘍は、良性か悪性かわからない、というくくりに落とし込んでおけばいいわけだよねえ」

「そうですね。この人のこの病気に関して言えば、直ちに命に関わることはない。内視鏡でこの部分だけをくりぬいてしまえば完治するし、あと三か月後にもう一度様子を見てもいい」

「このまま20年放置とかされては困るし、将来的には本物のがんに育つものかもしれないから、完全に放置されても困るけどね」

「良性と悪性の中間くらいの臨床対応をしてもらえればいいってことです」

「つまりは、癌かどうか微妙で、難しい、と、そのままきちんと書いた方がいいんだろうなあ。市原君ちょっと文章作ってみてよ」

「わかりました。ぼく自身は癌に見えるけれど、病理医によっては良性ととる場合もある、微妙な病変である。いずれにしても対応は一緒で、3か月後にもう一度観察する、もしくは粘膜切除によりここだけ切り取ることを勧める……患者の体力や背景粘膜の状態などを勘案して、ご検討ください、こんな感じですかね」

「そうだね」




結局、「がん」という言葉の言霊が強すぎるのだ。

人間は、「がん」と名付けられた病気に対して、おどろき、おびえ、思考停止してしまう。それは、無理のないことである。

しかし、中には、「がんだけどしばらく様子を見られる病気」もあるし、「がんだし、あっという間に悪くなる」ものも含まれている。

この世にあるあらゆるものは、多かれ少なかれ、程度の差がある。



そのあたりを、デジタルよろしく、0か1かの区別できっちりわけようとすると、いろいろ無理が出る。病理診断というのは、そのあたりのアナログな感覚に対しても、できれば、毎回丁寧に対処していきたいものなのだ。



世の中にある「がん診療」……手術とか、抗がん剤とか、放射線治療とか、そういったものは基本的に、「確実に命に関わるがん」に対して行われる。

これらの治療は、「がんか良性か微妙な病気」については、そもそも行わないことも多い。行わなくても命に別条がないことがわかっているからだ(ケースバイケースですよ)。



あのね。

「がんもどき」みたいな病気があること。

がん診療を担う人々は、先刻承知なのですよ。




「こりゃほっといたらまずいだろ」という「がん」を、「まだ放っておいても大丈夫だな」という「がん」と区別するくらいのことは、精一杯させてもらっている。

アナログな診療の先に、強い治療をするかしないかという「決断」をきちんと出していくことこそが、がん診療なんですよ。




ということで病理診断も結構アナログであっていい、と、ぼくは思っているんですけれども、こんな裏話をお話すると、不安になる人たちもいるんだろうなあ。

さらにおまけの話をするならば、AIにはアナログさはないから、繊細ながん診療は人でなければできない、という結論もまた、間違いだと思う。AIをアナログにするアート、みたいなものも、理論上は十分にありえるのだ。

あいまいとかフレキシブルとかの先にある診療を語るのは、本当に疲れるし、今後はそういう「紋切り型の思考」を、いかに解きほぐしていくかを考え、伝えていかなければいけないのだと思う。

2017年3月28日火曜日

病理の鉄人という名前のポスターを作ったことがある病理学講座は手を挙げなさい

それにしてもレトルト食品とか冷凍食品の進化と言ったらすごくて、カレーにしてもパスタの具にしてもそうだが、あんかけチャーハンとか、コロッケとか、グラタンみたいなのもあるし、ハヤシライスとビーフストロガノフとハッシュドビーフの違いが事細かに表現されているといううわさもある(出所はぼく)。

そして、レトルトとか冷凍食品と、手で作った食品の違いと言ったら、名だたる一流料理人であっても、

「親が子どもにかける愛情は必ず伝わるものです」

とか、

「配偶者のために作った料理は食べている時間だけではなく作っている時間も宝物なのです」

みたいにしか表現できなかったりする。


ぼく自身は、ほんとうは、一人で具材をああでもないこうでもないと調理して楽しむ、「めしにしましょう」の世界であるとか、フォロワーの中にもいる料理の得意なクラスタとかを心底尊敬しているし、いつか自分の興味と実力が料理に向かう日が来たら……というか、もうちょっと中年がこじれたタイミングで必ず料理をしようと考えてはいるのだが、いまのところ、

「料理をする時間があったら病理をする」

という感じになってしまっているので、結局、レトルトとか冷凍食品は本当にありがたくて、しょっちゅう使っている。



でも、なんだろうな、最近はもう少し適当になってきて、ドレッシングとか柚子胡椒とか、素材にちょろっとかけたら味が付くよ、みたいな調味料を2つほど常備して、交互に野菜にかけたりするタイプの料理でもういいんじゃないかとか、そっちの方にステージが移ってきており、そうするとこれはずぼらの極み飯みたいなことになるんだけれども、なんだかレトルトをただ温めたときよりもちょっとだけロハスなスローライフっぽさが醸し出されてきたりする。

そういうところどうなんだろうと思う。



「活力鍋」のおまけについてきた小さな一人用のフライパンがあって、これはとにかく何を炒めてもすぐ焦げ付くくらい熱伝導がいいんだけど、これにうっすらとお水を張って、ちぎったブロッコリーとかざくざく切ったかぼちゃみたいなのを1品目だけ乗せて、ふたをしめて軽くあぶって、ブロッコリーの色がよくなるくらいのタイミングで火を止めておしまい、マヨネーズを軽くつけるか塩を振って食べる。

これはおふくろに教えてもらった「もっともずぼらな調理法」なのだが、夜中にブロッコリーだけ蒸し焼きにして塩で食いながらビールを飲んでいる自分は、ヘルシーなのか不健康なのかまったくわからないけれども、うーん、なんだか一番自分に合っているような気がしないでもない。



「料理の四面体」という本を読みながら飲むビールも、これまたうまいのでぜひ試していただきたいと思う。

2017年3月27日月曜日

病理の話(62)

病理では顕微鏡でプレパラートを見て診断するのだが、このプレパラート標本の作り方にも何種類かある。

「薄切」といって、検体を4μmという向こうがみえる薄さに切る特殊なワザ(技師さんが得意)がある。

カツオブシを削るやつと同じ原理、といったら分かるだろうか。

カツオブシを削るときには、カツオブシを「刃の上を通るように」すべらせて、薄く削るのだが、病理の薄切の場合は逆である。

検体を特殊な装置において、その上を「刃が滑る」。

で、この「薄切」により、検体はペラッペラになり、ほぼ透明になる。そこにヘマトキシリン・エオジン染色などの染色法を加えることで、細胞の「断面」が見えるようになる。

これが「組織診」。


なぜこんな面倒なことをするかというと、ミクロの世界というのはとにかく光量が足りないのだ。

同じ光の量で照らされた物体を見る時も、拡大をしていくと、単位面積あたりの明るさがばんばん暗くなっていく。顕微鏡というのは、たとえば接眼レンズ10倍×対物レンズ60倍の世界だから、600倍にものを拡大すると、それだけ光量がなくなってしまうので、

「自然光のもとにおいて、レンズで拡大」とやっても、まず、見ることができない。

だから、検体をぺらっぺらにしておいて、下から強力な光源でばちっと照らし、「検体を透過した光」を観察する。これだと、よく見える。

ま、そういうわけで、検体を光が通り抜けるくらい薄くすることが必要なのである。



一方。

たとえば子宮頚部の細胞診検査とか、肺や膵臓のブラシ細胞診検査と呼ばれるものは、ブラシの上に細胞を1個、もしくは少量ずつくっつけて採取してくる手法だ。

細胞1個の厚さというのは大して厚くない。小さいものだと5μmくらい。大きくてもまあ、普通は10とか20μmくらいだ。

検体内から採ってきた肝臓とか胆嚢とか、胃からつまんできた小指の爪の切りカスくらいの、センチとかミリ単位の検体であれば、先ほどの「薄切」で削り節みたいにしないと、光を透過させることはできないが。

細胞がごく少数ずつ、ばらけて採れてくるタイプの検査だと、そのままプレパラートに載せても、透過光で見ることができる。

「細胞診」は、この、「細胞をそのまま載っけた検査」のことを言う。

「組織診」は、削り節のほうである。



それがどうした。いっしょじゃねぇか、と言われてしまう。けど、けっこう違う。

組織診(削り節)は、断面だ。細胞の輪切りをみる。

これに対して、細胞診は、細胞の厚さがそのままプレパラート上に表現される。削り節ではなくて、ええと……盛り土……? は、まずいか……。

ごくわずかな違いではあるが……この、「細胞の高さ」を用いて、診断することができる、細胞診(盛り土)は、ときに、組織診(削り節)よりも、細胞そのものの性状を判断しやすいことがある。



もうひとつ。



細胞診を見るのは、技師さんの方が、たいてい得意なのだ。なぜ? と言われると説明がめんどくさいのだが、普段、盛り土の方は技師さんがいっぱい見ている。削り節の方は病理医が主に見る。

森井は岸よりも、盛り土をいっぱい見ているということである。森井土。なんでもないです。


2017年3月24日金曜日

今やっているのが10倍界王拳なんじゃ

「このメイクをすると、小顔に見えるんで、今すごく流行ってるんですよ~!」

という特集を見たあとに、件のメイクをしている人に出会うと、そうか、顔を小さく見せたいのか……と察してしまう。

「このパンツ、くるぶしが見えるくらいの長さではくと、足が長く見えるんですよ~!」

というCMを見たあとに、くるぶしパンツをはいている人に出会うと、なるほど、足を長く見せたいんだな……と勘ぐってしまう。


「○○を改善できるんですよ~!」系の商品やCMを使っている人は、多かれ少なかれ、世間から「○○が気になってしかたない人なんだな」と思われる。覚悟しておかなければならない。

ぼくは、常々、恐そうに見えるから伊達メガネをかけたり、ザコっぽく見えるからスーツで出勤したりしている。だから、そのへんの「コンプレックスが産み出す、購買力」がとてもよくわかる。

Nintendo Switchを買ったんです、やる時間がないけどつい買ってしまいました! みたいなツイートをしたときも、内心、おそらくはコンプレックスが購買につながったんだ、と思った。

この場合のコンプレックスとは、

 ・病理医ってひまそう
 ・なんか遊び方がへたそう
 ・人生をたのしんでなさそう

と周りに思われているのではないかということである。

だから、

 ・ひまじゃないよ
 ・けど遊ぶよ
 ・たのしいんでるよ

を全部盛り込んだ結果、よくわからない購入報告につながったのではなかろうか。



人間が自分を語る言葉は、多かれ少なかれコンプレックスによって突き動かされているのではないか、という仮説。

これは、おそらく、ぼくがコンプレックスによって行動することがあまりに多いために、ぼくだけだと恥ずかしいので、広く一般論にしてしまえばぼくが一人にならなくてさみしくないだろう、という、「木を隠すなら森、気を隠すなら界王拳理論」の末に導き出されたものではないかと推測できるのだ。

2017年3月23日木曜日

病理の話(61)

病理医の主戦場というと、やはり「がん診療」である。

では、がん診療においてぼくらがやっていることは何か。

患者さんから採ってきた細胞が、「がんか、がんでないか」を判断するという、イエスかノーかの二択に挑むこと。

たしかにこれがいちばんわかりやすい。

だから、医療者の多くは、たとえばフラジャイルを見た人から「病理医って何なの、知ってる?」と聞かれた時に、

「あー、病院の奥の方で、これはがんだとか、これはがんじゃないとか、そういうのを決めてくれる人たち。」

などと答えているようだ。



ただ実際には、ぼくらはもう少し、細胞を細かく見ている。

「がんか、がんじゃないか」に加えて、いろいろな評価をする。

その評価は臓器ごと、がんごとにあまりに多彩なので、各種の学会から、「がん取扱い規約」などという指針が示されている。

規約に従って、がんを事細かに評価していく。

たとえば、大腸がんなら、こうだ。


・占拠部位(がんがある場所)
・肉眼型(がんが作る、カタマリのかたち)
・大きさ
・断端(手術をしたときに、がんが、採り切れているかどうか)
・深達度(がんがどれだけ深く臓器にしみ込んでいるか)
・リンパ節転移の数
・遠隔転移の数(大腸以外の臓器にどれだけ転移しているか)
・組織型(がんの中でも、何がんに当たるか。細胞レベルでのがんのかたち)
・間質量(がんの周りにどれくらい線維が増えているか)
・浸潤増殖様式(がんがどれくらいばらけてしみ込んでいるか)
・脈管侵襲(血管やリンパ管の中にがん細胞が入り込んでいるかどうか)
・簇出(がんがカタマリからちぎれるような挙動を示しているかどうか)
・神経侵襲(神経の周りにがん細胞が這っていっているかどうか)
・ステージ(がんの総合的な進行度)
・遺残の有無(体の中にがんが残っているかいないか)


これらが、特に手術の後に出される病理報告書には、細かく記載される……。




さて、今の箇条書きを、丁寧に読み込んだ方というのは、どれくらいいらっしゃるだろう。

多くの方は、読み飛ばしたのではないか。

読み飛ばさずにしっかり読んでくださった方も、これによって頭の中に、何か具体的ながんのイメージというものを思い起こすことができただろうか。

ぼくは、この箇条書きをみるだけで、がんを思い浮かべるのは、相当難しいだろうなあと思っている。



実際、臨床医にとっては、これらの項目をすべて埋めてさえくれれば、病理の仕事としては十分なのである。箇条書きの結果をコンピュータに読み込ませて、今後、この患者さんの病気がどうなるだろうかとシミュレーションを考えたり、治療方針を決定したりすることができる。

ただ、実は、臨床医であっても、これらの箇条書きを眺めただけでは

「実際に、がんがどういう感じで広がっていたのか、体の中で何を起こしていたのか」

は想像がつかない。

この箇条書きは、統計を取ったり、ベッドサイドで治療方針を決めるために最適化された「記号」なのである。実体を記号に置き換えて記載した以上、逆に、記号を元の姿に戻すこともできそうなものだが、高度に効率化された病理診断の記号は、元のイメージがつかみにくいものになってしまっている。

いや、ま、慣れていればできるんだけれども。

よっぽど病理に興味がある臨床医でなければ、これらの箇条書きだけをみて、実際のがんの姿を想像することなんでできないのだ。



実はここに、「病理医が人でなければならない意味」が隠されているのではないか、と最近考えている。

具体的には、「記号で事実を処理したときに、ぼくらの心の中に生じる、なんだか煙に巻かれたような感覚」が、患者さん、さらには医療者にとって、無視できない程度のストレスになるのではないかなあ、それはきちんと説明していかないといけないんじゃないかなあ、ということなのだが……。


続きはまたいずれ。最近書いていることは、どれもこれも、ひとつのテーマに向かっています。おわかりかもしれませんけど。

2017年3月22日水曜日

しゅっちょうにしょっちゅう行くからな

ひさびさに、学会や研究会ではない出張の予定が入っている(この記事を書いているのは3月14日、出張があるのは3月18,19日ですので、記事が公開されるころには終わっているはずです)。

研修医の勧誘イベントに病院から派遣される、という仕事。日曜日の朝から夕方まで、東京ビッグサイトで研修医相手に病院の説明などをする。

たいせつなお仕事ではあるんだけど、自分で何かプレゼンを作って持って行くわけではないし、どちらかというと「そこにいることが大切」なお仕事なので、まあ、気楽である。

19日土曜日には、ちょっとした飲み会の予約を入れた。1年くらい前から飲もう飲もうと誘われていた案件であり、東京出張のたびに、すみません今回も仕事です、すみません今日は日帰りなのですと、お断りし続けてきたのだが、今回晴れて、ご一緒できるはこびとなった。

楽しみにしている。

集まる人々はみんな職業が違うのだが、ぼくを含めてある程度共通点があって、その共通点により昔からお互いをマークしていた。そんな関係である。


なーんてことを、知人に話していたら、

「まあそういう飲み会の話はどうでもいいんですけど、要は、仕事じゃない日に移動して、のんびり寝て、日曜日には仕事っぽくない仕事をして帰ってくるってことですよね。

そしたら、行きの新千歳空港でビール飲めますね。いいなあ」

と言われた。

く、空港で、ビール!!!!

考えもしなかった!!!!!!

そもそもぼくは空港まで車で行くことが多いので、帰りはもちろん飲めないのだけれど、行きも、到着後すぐ仕事のことが多かったので、ビールを飲むなんてもってのほかだった。

おおお……そ、そんな幸せが……ありえるのか……。



と、この先も、3月18日土曜日に飲むであろうビールに対する期待内容をえんえんと書いていこうと思ったのだが、ぼくの性格を考えると、結局空港ではビールなんて飲まず、ちょっと本でも読み機内では居眠りをし、東京ではそそくさと飲み会の30分前に会場周辺に到着して、「必要以上に早く着いた人」っぽくみられないように周囲の喫茶店などを眺めたり道ばたで電話をするふりなどしたり、つつましやかに目立たないようにいつもと違うことはしないように極めて保守的にやっていくんだろうなあ、と、ほとんど確信に近い予想が思い浮かんでしまったので、この話はここでおしまいとするが、それにしても、出張の行きの飛行機でビール飲んだらいいんじゃないですか、と提案してくれる人というのは、いったい普段どういう出張をしているのだろうかと、そちらが心配になって仕方がないし、行きの飛行機に乗る前に一度ビールなんて飲んでしまおうものなら次から毎回飲みたくならないだろうか、とか、そういえば行きの飛行機に乗る前に「この世界の片隅に」を見てあれはとてもいい映画だったっけなあと思い出したりしているのであった。

2017年3月21日火曜日

病理の話(60)

学術には、数学も物理学も生命科学も社会学も歴史学も含まれ、みんなそれぞれの持ち場でそれぞれに真実を探しているわけでああ、人間があちこちでそういう探究をしているのは、とてもいいことだなあ、すてきだなあ、我ときどき思う、ゆえに我あり、となる。

学術あるいは科学といったものには、さまざまなやり口、というか方法論があって、それは発見するものごと、解明するなにものかの性質にも関わっている。ヴァレリーってすげぇクソリプ使いじゃん。

たとえば、天王星の外に海王星が存在することは、当初、惑星の動きから「予測」され、極めて高い精度で場所を絞り込み、そこを「観察」したことで「実証」された。これは、「今まさにそこにあるはずのものを見つけた成果」である。

一方、ニュートンがリンゴが落ちるのを見ながら「予測」したものは、実は法則というか、目に見えない引力という概念であって、これは観察によって裏付けを得ることはできるのだが、しかし、誰も引力そのものを目にできるわけではない。引力子みたいなものを「観察」して「実証」したわけではないのだ。この場合、「目には見えない概念を考えて、その概念によってすべてが説明できることを示した成果」ということになる。

海王星の証明と、万有引力の証明は、どちらも証明という言い方をするけれど、どちらも科学の成果ではあるけれど、人々に「あっ本当だ」と納得してもらうためのやり方がまるで違うのだ。

かつて、日本には、神武天皇が存在したという。これはもう、目でみるという海王星のやり方では、確かめようがないのである。タイムマシンがない限り、直接見に行くことができないからだ。しかし、神武天皇について触れられた複数の書物から、「まあたぶん存在しただろう、そりゃ間違いないよね」と、傍証の積み重ねによって説明されている。万有引力のような「法則」とはまた違った、直接目には見えないものの証明である。ナポレオンはいただろう。大正天皇は間違いなくいた。……間違いなく? ほんとうに? 今を生きるぼくらが全員、今から2日ほど前に、記憶と存在をすべて同時に植え付けられたアンドロイドだったとしたら、「大正天皇がいた」という記録ごと作り上げられた存在だったとしたら? いろんな仮説を無理やり考えることはできるんだけど、無数の仮説にはそれぞれ「ほんとっぽさ」のレベルがあり、なんだか、ぼくらが2日前に作り出されたなんて、可能性としては極めて低いんじゃないかなあって思う。だから、やっぱり、大正天皇はいたんじゃないかな。鯛しょってたことはないと思うけど。

じゃ、医学は? 医学を科学として考えた場合、それはいったいどういう類のものなのだろうか。

ステロイドホルモンのように、発見され、機能が解明された「物質」がある。

膵液はたんぱく質を分解する。見ることができる。

遺伝子変異が蓄積すると、がんになる。……これは本当?

たぶん、最初は、「がんを調べてみたら、遺伝子変異がいっぱいあった」。これは観察できたこと。では、その逆は正しいのだろうか。遺伝子変異がいっぱいあると、がんになるの?

結果から原因を推測。その原因は、本当に、原因だろうか?

どうやったら証明できるだろう。時間をさかのぼるようなことはできない。今そこにあるがんの、時計を巻き戻して、遺伝子変異ができる瞬間までさかのぼれる? それががん化に大切だったと証明するにはどうしたらいい?

実験で、細胞に、遺伝子変異を「人為的に導入」して、その結果細胞が「がん化」することを観察した。わぁい、これはどうやら本当らしいぞ?

そう?

たまたまその細胞だけががんになったんだとしたら?

遺伝子変異を起こすために用いた薬剤が、遺伝子変異とは別に、細胞がん化の原因になっていたとしたら?

仮説を立てる。その仮説が、どういう結果をもたらすだろうと考える。証明するために実例を集める。なるべくたくさん集める。統計をとる……。

実際に目で見えるものを見つけたり、目では見えない理論を考えたり。

病理医の仕事を考えよう。

内視鏡を見て、病理診断が「推測」された状態で、病理組織像という「事象」を見て、ああ、病理がこうだから内視鏡がこうなったんだ、と、演繹的に内視鏡像が導かれることを確認、ある疾病を結論として導き、その疾病を「前提」として演繹して、過去の「統計」の結果をもとに帰納的に蓋然性が高いと考えられた予後といういまだ目に見えない未来を「推定」し、それに合わせて妥当性のもっとも高い治療を考察・実施。その繰り返しの中で生じた「ずれ」を「観察」して、なぜこの齟齬が生じたのかと「仮説」を作り、新たな仮説に基づいて演繹的に今の事象が「説明」しうるかどうかを考えて、仮説の妥当性を評価するための「実験」や「統計学的検討」を探る。数々の文献から導かれる、まだ人がたどり着いていない演繹的結論をシステマティックレビュー。レアケースによる反証例はないか? 新たな仮説の形成。演繹。帰納的拡張。仮説形成的拡張。演繹。

病理医の、形態を見るという視点がもたらす、総説(過去の文献を統括して当然の結論を探る作業)は、演繹的な科学だね。ぼく、去年、一本だけ書いたよ。

症例を見て考えて診断を出すと、それを前提として臨床医が治療方針を決めるの、演繹的な医療実践だな。毎日やってるよ。

ときおり現れる珍しい症例、不思議な現象に気づくこと。なぜだろうと考えること。仮説形成(アブダクション)的科学なんだな。大好き。

その仮説を実証するために、症例報告を作ったり、ケースシリーズという複数症例のまとめを作ったりするの、帰納的科学だね。研究会! 学会!

帰納法だけではいつ反証例が現れるかわからない。統計学だ。統計解析をしよう。そうすれば、仮説から演繹した結果が妥当かどうかを帰納的に解釈できるね……もっと統計の論文書かなきゃな。



医学もまた、科学として、複数のフクザツな「証明方法」を要求している。ポパーさん、爆発してそうですね。ベーコンさん、油は味わいだよね。



医学が普通の科学と比べて、あえて違うところがあると言ったら、それは何?


それは、医学はできれば、人の病気を治すためであってほしいと願う人が、少なからず……というか、いっぱい……存在する、ということ。

病気はなぜ病気なんだろう。そう思い悩む、哲学的な思考を助けるのも、医学であるということ。

病気や病院をめぐり、説明をしてもらったり、納得をしたりするためにも、医学が必要になるのだ、ということ。



演繹、帰納、アブダクション……。そして、説明のための、対話、ことば。



パースさんのおかげで、考えて考えて、顔面のパースくるっちゃうよ。ちょっとデカくなっちゃルト。

2017年3月17日金曜日

ニュースが静かに伸びてるよ ニュー スッ

油断していると負を集めに行ってしまう。

だいたい、新聞を隅から隅へと読むというのは不健全だと思う。政治にも経済にも社会にもスポーツにもひとしく興味を持ち、同じように関与しながら生きているわけがないじゃないか。いやそういう人もいるのかもしれないが、ぼくは違う。要は、読んでいる部分の半分くらいは、岡目八目で面白半分に首を突っ込んでいるだけだ。

面白半分ならまだいい。

見て、考えて、不快になり、怒りを爆発させるような情報を、わざわざ拾いに行ってしまうときがある。

どうなのか、と思う。

つい、社会面を見てひさんな事件のその後を追ってしまったり、政治面をみて世論ならぬ社論に腹を立てたり、しなくてもいいことをする。

ツイッターで少しでも暗いニュースや人への罵倒をつぶやいている人を見かけたら、即刻でミュートすればいいかなとも思ったけど、気がついたらどのツイートをミュートするか悩みつつ、今日もどれかをミュートしなきゃという義務感にかられて、ミュートするツイートを探して回ったりしている。



負が流れてきたときに、何も感じず、何も反応せずにいるにはどうしたらいいのか。

負と無は響きが似ている。無として扱えばよいのか。

こう考えたらよいのか、こういうとらえ方をすればよいのか、なるほどなるほど。

では、次に負が流れてきたら、やってみよう。さあ、負はいつ流れてくるかな。負はまだかな。



また、くり返しだ。きりがないのである。



だからしきりにだじゃれを考える。脳が止まっている時にはすかさず下ネタだじゃれ親父ギャグの類いで、脳に張り巡らされたパイプの中にとにかく循環液を流し込んでしまう。余計な思考が紛れ込まないように。思い悩まないために。



いかに悩まないかが大切で、悩まずに生きるのは難しく、できれば悩まないための道を見つけ出そうと、毎日悩んでしまうのがいやだから、悩むことなくスキマをだじゃれで埋める。



そういう暮らしの先に出てきた仕事の結晶が、ときおり、中年のだじゃれの感性を帯びている時があり、あっ、混線しちゃったなと思う一方、もし紛れ込んでいたのがだじゃれではなく、陰惨なニュースや頭にくる論戦のたぐいだったら、ぼくはきっとこの仕事、めちゃくちゃにいやになったんだろうなあと、胸をなで下ろしたりする。

2017年3月16日木曜日

病理の話(59)

病気の診断をする仕事では、「真実」がどこかにあると考えがちである。

いや、まあ、真実はいつだってどこかにはあるのだろう。ただ、診断というのは、「真実を求める仕事」とはイコールではない。

診断というのは、主に2つの理由で行われる。

・今後どうなるかを予測するため
・治療するため

極論すると、科学者ではなく医者が患者をみる場合に、

・今後どうなるかだいたいわかる
・治療の選択肢はすでに決まっている

のならば、診断名を正しく決める必要はないのだ。



たとえば、鼻水がとまらず病院に行ったときに、

「○○ウイルス感染による△かぜで、□□という薬で治すことができます」

まで診断する必要は、ほとんどない。

「なんらかのウイルスによるかぜ」

であるとわかれば、それで様子見が正解だからだ。そもそも、ウイルス性のかぜに対する特効薬は(今のところ)ない。

症状を抑えるための薬なら投与することもできるが、

「すでに鼻水が出ている患者に、鼻水をとめる薬を出す」

のは、診断を決めなくても、やろうと思えばできることなのである。



肝腎なのは、この鼻水が「ほんとうにかぜなのか? あるいは、アレルギーとか、別の病気ではないのか?」ということに気を配ることだ。その意味で、まったく診断をしなくていい場面というのは、おそらく病院には存在しない。

けれど、「かぜ」だけを決めてしまえば、「何ウイルスによるものか」までは決めなくてよい。



将来、かぜのウイルスごとに違う特効薬が開発されたら?

そのときは、あるいは、かぜは今よりもっと詳しく診断されるかもしれないが……。

だまっていても3日もたてば治ってしまう「かぜ」に、そこまで研究費が投入され、それほど高精度な薬を開発する未来が、この先、くるかどうかはわからない(くるかもしれませんけどね)。



医師というのは、このあたりのバランスを知らず知らずに身に着ける。

診断をどこまで進めるべきなのか、診断がある程度(あいまいでも)決まった段階で、できる治療に移るのか。

これをきちんとやっていく医者こそは、患者にも、社会にも、大きく貢献する。



で、病理医の話をすると、ぼくらも、「どこまで診断を詳しくするべきか」というのを、日ごろある程度考えている。

けれど、「これは良性」「これは悪性」のようなざっくりした診断で終わることは、基本的に許されない。

ぼくらは、臨床医よりももうちょっと、診断を詳しく出すよう求められる立場だ。

・患者さんが今後どうなるかを予測するために
・治療の選択肢を決めるために

という2つの意義に加えて、もうひとつの意義がかなり大きくのしかかる。

それは、こうだ。


・結局、何なのか知りたい。



それを知ったからって患者さんに何か影響あるのかよ。治療に差が出るのかよ。こんな疑問が日々聞こえてきて、それでも、ぼくらはもうちょっとだけ先を見る。



病(やまい)の理(ことわり)をみる医者、という名前がよくないのだと思う。

こんな名前をつけるから、ぼくらもその気になってしまうのだ。



「今のところ、ここまで詳しく分類したからといって、あまり喜ぶ人はいないんですけどね、もしかしたら、将来この差が、治療につながるかもしれないんで……」

てへへって感じで頭を書きながら、とても細かい話を診断書のすみっこに、申し訳なさそうに書いておく。



そこにアイデンティティがある気もする。

2017年3月15日水曜日

靴だけが旅をする

そういえば最近、靴を買いたい。



靴が買いたくなると、街に出て、行き交う人々の足元ばかり見る。

自分と背格好の似た男性を目で追い、上から下までのコーディネートをチェックしたうえで、靴がそれに似合ってるか、似合っていないのかを考える。

ファッション雑誌を買って考えるのもいいのかもしれないけど、38歳のおじさんが参考にするべきファッション雑誌というのは、最近はどれもこれも、「年甲斐もなくナンパしたがるおじさん向け」のテイストをスパイスに利かせている気がして、どうも、しっくりこない。

街で楽しそうに歩き回っている人たちを探して、その人が良かれと思って身に着けているファッションを見て考えた方が、なんぼか気が楽なのである(たぶん一部が北海道弁ですが解説は省略します)。




講演を頼まれて出張するたびに、現地でいちばんスーツが似合っていた人のファッションを覚えて帰ろうと思う。

たいてい、ぼくより背が高く、ぼくより顔が小さくて、シュッとしてシャッとしているから、結局参考にはならないんだけど、それでも、スーツを着た偉い人の中には、ときおり、背は大して高くないけれど、すげぇおしゃれだな、かっこいいな、という人もいる。

スーツもワイシャツも、とても高そうだ。靴だって見たことのない形をしていてすごい光っている。持ってるカバンも、さりげないけど、実にいい。

この人、別に、この一着だけが勝負服ってわけじゃないだろうな。何着も持っていて、今日たまたまこれを着ているだけで、それがこんなにかっこいいってことなんだろうな。

ぼくが今、こんなスーツを買っても、今もってるスーツとの落差がありすぎて、これ着てるときだけ妙に浮き上がって見えちゃうんだろうな。

ああ……めんどくさいな……靴だけでも覚えて帰ろ……。




芸能人を見ているとき、靴に目が行く。

テレビではなかなか靴までは映らないけれど。

髪型やトップスばかりが映るんだけど。

この髪型は、この人だから似あうんだよな。

このトップスを1枚買ったとしても、今あるパンツとうまく合わないだろうな。

何着も持ってる人が着まわすからこうやってなじむんだよな。

ああ、結局、スッと買える可能性があるのは、靴くらいだなあ。




そういえば最近、靴を買いたい。こう、書き出してはみたけれど。

よく考えると、ぼくはもう20年くらい、靴ばかり買いたい。

靴以外は、いらない。

2017年3月14日火曜日

病理の話(58)

ぼくは、日ごろ、

「自分の人生を堅実に歩みながら、周囲への気配り心配りを忘れず、周りの人を動かしながら、コツコツとした積み重ね、あるいは一瞬のひらめきと切れ味などで、スタイリッシュに大きな仕事を成し遂げた人」

のことをいちばん尊敬している。

そういう人の仕事を、とても評価している。




ところが、世にある「すごい仕事」というのは、必ずしもこんな「人にやさしい仕事」ばかりではない。

極めてブラックな労働環境の末に、信じられないクオリティの仕事が出来上がってくる場合もある。

ぼくは、そんな、「人の執念でしか成し得なかった仕事」のことを、実は、必ずしも評価していない。

だって、誰かがすごい努力をした結果、成し得た仕事ってのは、誰かが何かを犠牲にしないとできあがらなかったものだろう?

そのとき、誰が何を犠牲にしたか、ということに思いが及ぶと、どうにもやるせない気持ちになってしまう。

ぼくが今まで積み上げてきた仕事なんてのは、そんなものばかりだ。

徹夜を繰り返したあげくに作ったシェーマ(模式図)。

健康を害しながら書き上げた論文。

ぼくは、自分の人生と健康を切り崩さなければ自分の仕事ができなかったということを、けっこう、恥ずかしく思っている。





執念の医者というのを何人か知っている。

内視鏡の診断を極めようとするあまり、自分の胃に○○○○○(市販品だが厳に秘す)を薄めて巻いて観察した医者がいた。

毎日夕方の5時に職場を出て子供を迎えに行き、子供とともに9時に寝て、夜中の2時ころに目を覚まし、そこから朝7時までの5時間で論文を書く、というルーチンを組み上げた医者もいた。

彼ら・彼女らは、楽しそうに笑う。

自分のやりたいことができている、と、実にうれしそうに言う。

ぼくは、「その人がすごいからできる仕事」なんて、けっきょくその人一代で潰えてしまうじゃないか、後輩がまねできないほどの努力と犠牲を払って仕事を積み上げるのなんて、業界にとってはそれほどうれしいことじゃないんじゃないか、と思っているけれど、執念の医者たちの楽しそうな顔と、達成してきた業績の数々を見ていると、黙り込んでしまう。





病理医という仕事は9時5時でいける。ワークライフバランスが良好である。子育てをしながら、自分のやりたいことをしながら働ける仕事。

この切り口で、病理医という仕事を世に問うた結果が、今だ。

あらゆる医師の中で、一番、人数が少ない科のひとつとなっている。

ぼくは、それがなんだかとてもいやで、

「この仕事は、どこまでも打ち込める。いつまでも働いていられるんだぞ。」

と唱えながら、自分の人生と健康を犠牲にして、どこまでもどこまでも働こうとした時期があった。

忙しく楽しそうな臨床医に向かって、「俺だって」と、我を張りたかった。





ぼくは、そろそろ、5時に帰る生活を目指そうと思う。

その上で、誰もが納得するくらいの仕事を積み上げていきたいと思う。

そう、自分に言い聞かせている。

何度も何度も、脳内で繰り返し、唱えている。

「いっぱい働けばいいってもんじゃないんだ。何かを犠牲にして働くのは美徳じゃないんだ。」

しつこいくらいに唱えて、うるさいくらいに心に刻んで、それでいて、今、まだ、ときおり、徹夜を誇る臨床医たちの姿を見て、ああ、ちょっと、うらやましいかもな、と思うことも、ある。

2017年3月13日月曜日

息子がかつて雪だるま壊そうと歌ったときぼくは元ネタを知らず笑ってあげられなかった

なにか新しいドラマをやるとか映画をやるとかいうとき、2,3人の決まった俳優がテレビのバラエティに連続で出演していくような状況というのが、ここ数年、続いている気がする。

テレビはつまり、番組そのものを売るよりも、何か別の番組の宣伝として作り上げるほうが、今のところいちばん「儲かる」ということなんだろう。

テレビ。

どれだけの人がテレビに関わっていると思っているんだ。どれだけの人がテレビのおかげで食えていると思っているんだ。どれだけのお金がテレビのおかげで動いていると思っているんだ。

儲かることが第一義でいい。そのほうがいい。それが一番いいと思う。

同じ俳優ばかりをゲスト出演させて、あのバラエティもこのトーク番組も、ぜんぶ似たような人で作り上げていく今のテレビが、一番お金と心を動かしているということなんだ。

これは、たぶん、統計の結果もたらされたものだ。

医療でいうところの「エビデンス」みたいなものが、テレビ業界にもあるんだ。これがいいと判断されたんだ。




ぼくはたとえば広瀬すずちゃんみたいなかわいらしい、自分の半分も年齢がいってない女優さんが毎日毎日あらゆるテレビに出ている状況というのは、決して嫌いではない。

けっこう毎日のように、寝る前には必ずテレビをつけている。

録画してみるほどではないんだけど、寝る準備をしながら必ずテレビを見る。

毎日、かわいくて今旬の女優さんや、かっこよくて今はやりの若い男性タレントなどを、見る。

それはやはり眼福だし、こういう「はやり」というのは、うまいこと人の脳にしみこんで、世の流れを作り上げながら、何倍ものお金と心を動かしていく。



ぼくは、正直、そういうときに「動くほう」の自分でありたかったと思う。



みんなと楽しそうに、動いて、動かされて、ゆさぶられる側でいられたら、どれだけ幸せだったろうかと、思ってしまう。


そういう人たちが世の流れを作っていくのだ。そういう人たちが作った世の中でこれからもずっと暮らしていくのだ。



つらくないほうが、いいじゃないか。



わかりあえるほうが、いいじゃないか。




ぼくは常に屈折した思いでテレビが作り出す流行をながめていたし、そのテレビが全力で番宣しているものなんて虫唾が走るほど嫌いだったけど、それでも「アナと雪の女王」はほんとうにいい映画だったし、やっぱり、自分が単純にゆがんで間違っているんじゃないかなって、ひざを抱えて自分の好き嫌いを見直すような毎日を送っているんだ。

2017年3月10日金曜日

病理の話(57)

とんでもない病理診断、というのを見ることも、ある。

なぜこれを見逃したのだろう、どうしてこれをこのように評価したのだろう、いくら論理的に考えても、答えはない。だって、かの人の診断は、そもそも一から十まで間違っていて、整合性などとりようがないからだ。



人間の間違いにもいろいろある。

多くの人が陥りがちな錯覚。

知らないと判断をあやまってしまう落とし穴。

さまざまな理由が積み重なり、間違っても仕方のない状況に陥ってしまうこともある。

そして、これらと同じくらいの頻度で、

「なぜ間違ったのか説明がつかない。誰が見ても間違いなのに、なんなら、時間とタイミングを変えれば本人も間違いだと気づくだろうに、間違ってしまう」ということもある。


こればかりは、ほんとうに、はたから見ていて、間違いの構造が解明できない。


なんでこんな間違いをしたんだろう。


思わず声に出してしまうこともある。

いや、そもそも、人間というのは、そういう生き物なのだ。

誰もが赤だと思っている色を、光の加減でオレンジに見間違えたり、目が疲れていて紫に見間違えたりすることばかりが、間違いではない。

赤を黒に見間違う。赤を緑に見間違う。

赤を透明に見間違うことすらある。それが、ミスというものなのだ。





今よりもっとずっと若かったころ、「先輩」と言って差し支えないくらいの年齢差しかない病理医が、信じられないような間違いをおかすシーンを目の当たりにして、「なにやってんだ」「勉強不足だ」などと、なじったこともある。

しかし、今は、ただひたすらに怖い。

いつ、自分が、「誰が見たとしても、言い訳ができないくらい、完膚なきまでに、間違えてしまう」かは、わからないのだ。それが怖い。





飛行機事故のときに、ブラックボックスとかいう箱を回収して、飛行機が落ちる前にどんなことがあったのかをことこまかに解析するという作業があるのだという。

人間は、誰かのミスや、誰かが陥った落とし穴を解析することで、その人の揚げ足をとるでもなく、ただひたすらに、「二度と繰り返すまい」と反省を深めていくことができる。

数々の「誤診例」を集めて、ぼくは、自分の恐怖を高めていく。

Z会という通信教育サービスが、かつて、「不合格体験記」というのを特集していた。

合格体験記のような成功の記録よりも、失敗した人から学ぶほうが、役に立つことだってある。

そういう理屈ではじめられた企画だったはずだ。

ぼくはこの企画が大好きだった。

そして、いまだに、「病理診断医として不合格なミス」を集めてさまよっている。

いつか、自分が、取り返しのつかないミスをする日がこないことを願って、後ろ暗く、不合格体験記を探し求めている。




できれば、自分の間違いは、取り返しがつく段階で気づいておきたいものだなあ、と、いつも思っている。

2017年3月9日木曜日

脳だけで恥をかく

ツイッターで他人を攻撃している人が目につくときはたいてい体調か精神状態がよろしくない。

何かを揶揄しはじめた人々を見ると目の周りの筋肉に力が入り始める。

そういうときには、スマホで表示できる絵文字を使ってギャグなどを作る。

笑いには幾種類かあるのだが、中でも「苦笑」は比較的かんたんに求めることができ、かつ、相手の方の力を抜き、自分の肺のすみっこにたまった澱のような空気を吐き出す助けになる。

ねこが屋外で草を食べて毛玉を吐き出すようなものだ。苦い笑いは、体内の悪いものを排出する手助けになる。

こういうことに気づけたのは、自分の中では「進歩」だと思っている。



⏰ <まったく、 めざましい しんぽだ



もう、これだけでだいぶラクになる。あなたも、わたしもだ。

苦笑を求めないまま、くそまじめな顔をしてタイムラインを警備するような真似はしないほうがいい。

それは、なんというか、精神にあぶない。



🌂 <おわっ! あんぶれーらぁ!



別に絵文字ギャグである必要はないのだが、時に、人は、目の前にある濁流に「流されまい、流されまい」と思いながら、なぜか足がそちらに向いてしまい、いつしか飲み込まれる、みたいなメンタルになってしまうことがある。気晴らしが必要だ。精神状態をずらす。がらっと変える。立ち位置自体を動かしてしまう。



🚀 <ろけっとしてる場合じゃないぞ!

🚜 <そうだ!逃げとく と 楽たー!

🎾 <かってにするんだ!

🚥 <んだ! だいじょうぶになる! しぐ なる!






🎪 <いったい何の話をしてんとか

🚣 <わかんぬー

🚪 <けど、あー、

🗿 <これも愛のかたちかと思ったり

🔜 <すーんのよ


2017年3月8日水曜日

病理の話(56)

病理診断というのは、常に、疑われている。

臨床医と会話をすると、それがよくわかる。

臨床的に「あまりがんっぽくないな」と思われていた病変から、検体をとってきて、それを病理でみたときに「がん」という診断をくだすと、ほぼ100%、電話がかかってくる。

「先生がんってマジすか!」

これは強調ではない。けっこう、こういう口調でかかってくる。


この質問に対し、

「だって細胞が悪そうなんだもん。核がでかいもん。」

と答えていたのでは、だめだ。

そんな、病理医にしかわからない基準、それも「大きい」とか「小さい」みたいな主観的な基準で、臨床医が納得してくれるわけがない。

けど、実際、よくこういう説明はなされるらしくて、だから病理はすぐ「ブラックボックスだ」とか「病理医の胸先三寸でがんかどうかが決まる」とか言われてしまう。




臨床医が「がん!? マジすか!」と電話をかけてきたらどのように対応するか。




とても大変で、毎回対応が変わるし、ケースバイケースでいろいろな返答をするのだけれど、一番大切なことは、

「臨床医がなぜびっくりしているのか」

をきちんと解析することだ。

理想を言えば、「臨床医がおどろくのも無理はない」というレベルまで、臨床像を病理医が読み解けるといい。

そうすれば、何を彼らが驚いているのか理解して、それに対して病理診断がどこまで力を持つのかを解説することができる。


……しかし、臨床診断だって、一朝一夕に真似できるものではない。

その道のプロが診断するに至る思考回路というのは極めて複雑だ。

所詮、病理医であるぼくが、「臨床医がなぜ疑問に思っているのか」を、彼らのやりかたでなぞることは難しい。


だから、聞くのである。教えてもらうのである。


「マジっすけど、その驚いた理由をぜひ教えてください。」



これを全部の科に繰り返していると、病理医は自然と、ありとあらゆる臨床科の「門前の小僧」状態になる。

なんとなく、臨床医と同じような診断ができるような気がしてくる。



まあ、門前の小僧が覚えられるのはお経の一部だけだ。

どういう顔をしてお経を唱えるか、お経を唱えるときどのような姿勢で、どのように木魚を持って叩くか、檀家さんにはどのようなお話を追加するか、そういった技術は絶対に身につかない。

だから坊主のふりはできない。けれど、話ができるようになれば、しめたものなのである。





どうでもいいけど、医者の話をしているのに坊主に例えるというのはとてもまずいのではないか……。

いや、ま、医者も坊主も同業者ではある。説明して、納得して頂くというのが、我々に共通した職務である。

2017年3月7日火曜日

お腰につけたその靱帯

腰痛がひどかったことがある。

座り続けて延々とPCを覗き込んで、がりがりとシェーマを作っていた。どうにも腰が痛い。あっちきしょう、年を取るっていやだなあと思っていた。

腰をもんだりあたためたり、座り方を変えたりしていろいろ対処したのだが、悪化の一途だった。

あるとき、たまりかねて、マッサージ屋に行った。 整形外科にかかれよ、とつっこまれるかもしれないが、うん、医療費高騰が叫ばれる昨今、自分の体を慢性的にどうにかいい方向に持って行きたいと思ったら、ときにはこういう医療保険を使わない市中のサービスも役に立つもんだよ。

……要はめんどくさかったのである。さらっと入れる場所にあったマッサージ屋に入った。保険証もいらねぇし。もんでくれい。

そしたら、こう言われた。

「ふとももの裏の筋肉がすげぇこってますね。」

「ふとももっすか。腰じゃなく。」

「ええ、ふとももの裏ですね。」

「腰はどうなんすか。」

「ふとももの筋肉って、お尻につながりますよね。」

「つながりますね。つながるんでしたっけ。」←(素で解剖学を忘れていた)

「この筋肉、腰のこのあたりにつながってるんですよ。」

「ほう……。」

「座り仕事が多いとおっしゃってましたよね。ふとももの血流がめっちゃ悪いんですよ。長いこと座るでしょう。すると、ふともも、めっちゃ硬くなるんです。」

「ふむ……。」

「するとね、こう、硬くなった筋肉が、腰もひっぱっちゃうんですね。後ろ側に。」

「おっ……。」

「で、腰まわりに負担がかかることになって、腰痛になると。」

「あれっ、腰! 腰出てきました!?」

「出ました。」

「出ましたね。」

「だから、これを治すには、まず、ストレッチをしてください。」

「今ここでバキッつって治すんじゃないんですか。」

「だいたい、バキッって壊れる音ですよね。」

「確かにそうですね。」

「そういうバキバキ整体で、体のずれを治すとか、あれ、かなりあやしいですね。」

「あやしいですか。」

「その一瞬、ある程度よくなったように感じるでしょうけど、原因があってずれたわけでしょう? 原因をとりのぞかないと、またずれますし。そもそもずれをバキッって治すなんて、レゴとかプラモデルであっても、あんまりよくないと思いますよね。」

「思いますね(同調圧力を感じてきた)。」

「だから、やり方を教えますので。あなたの腰痛に効くストレッチは、前屈です。」

「前屈っすか。」

「そう。そして太もものうしろをやわらかくしましょう。そしたらラクになると思います。もんでみて思いました。」

「(いつのまにかもまれていた!)」




こうして腰痛が治りました。整体すげぇって思いました。

世の中にはこのように、腰が痛いのは腰のせいだと思ってたけど実はふともも、みたいなことがあるよなあ……という、糸井重里さんみたいな例え話ふうのいい話にしようかと思っていたんですけど、長くなったんでやめます。

2017年3月6日月曜日

病理の話(55)

解剖というものについて、ぼくが多くを語ることはない。

それは、ぼくが、解剖のことを嫌いだからだ。




今までぼくは、だいたい300件くらいの病理解剖をしてきたと思う。たった300件だ。昔の病理医は、3000件とか5000件というオーダーの解剖をしていたらしい。

ぼくの解剖件数が少ないのは、ぼくが解剖を毛嫌いしていたからではない。そもそも、「病理解剖」自体が減っているからである。

今や、病理解剖は、”ほとんど” 必要のない手技となった。

(※刑事事件の際に行われる解剖は司法解剖と言って、病理解剖とは別なのですが、その話はまたいずれ。)




病気の大部分は、解剖などしなくとも、明らかになる時代である。

CTもMRIも、切れ味がすごいのだ。死後画像診断というのもある(わざわざAiなどと仰々しい呼び方をするのは好きではない。死後画像診断、という言葉はずっと昔からあった)。

医師の診断手法も多角化した。血液検査だって切れ味ばつぐんだ。腫瘍の正体が知りたいだけなら、解剖までしなくとも、亡くなったあとに細い針を一本刺させていただいて、肝臓あたりから腫瘍を採取すれば、だいたいの遺伝子検索はできてしまう。

わざわざ、ご遺族に断って死体をあずかり、傷をつけて臓器を取り出し、外からわかりにくいように縫って包帯をまいて、きれいな着物を着せて手を合わせてお返しする必要なんぞ、もはや、ごく限定的な場面でしか、なくなってしまった。





完全に死語となってしまったが、昔、病理医は以下のように揶揄されていた。

「内科医は何でも知っているが何もしない、
外科医は何も知らないが何でもする、
精神科医は何も知らないし何もしない、
病理医は何でも知っており何でもするが遅すぎる」

これは、病理の主戦場が解剖だった時代の言葉である。

今と違って、まともな画像検査など一つもなく、切れ味のある血液検査もなかったころ、多くの病気は正体がわからなかった。がんと言えば体表に変化が現れる皮膚がんと乳がんしかわからなかった時代。胃や大腸、肺や膵臓などに「がん」が出るなど想像もつかなかった。患者が日に日に弱ってついにはなくなってしまう。どこに悪魔がついたのか、何が患者に悪さをしたのか、患者本人はおろか医者も学者も何もわからなかったころに編み出されたのが、

「病理解剖」

だった。

そりゃあ、「遅すぎる」とも言いたくなったろう……。

でも。

亡くなってしまった患者から得られる情報は、「まだ見ぬ未来の新たな患者」を救うヒントになるかもしれない。

病理解剖は、遅すぎるどころか、「早すぎる」くらいの仕事なのだ。本来は。

誰だ? あの格言みたいな言葉を作ったのは。

何もわかっていないじゃないか。





病理医は、病理解剖の間違ったイメージのせいか、暗く、手遅れな分野のように語られるふしがある。

まったくもって理不尽だ。不愉快である。

だからぼくは解剖が嫌いなのだ。





病理解剖では、体内にある臓器をすべて取り出す。取り出したあと、臓器の検索に移る前に、ぼくは必ず一緒に解剖に入っている技師さんに、「患者さんの体を縫い始めてください」と言う。少しでも早く、ご遺体をご家族のもとにお返しするためだ。臓器を取り出すために必要なだけの傷はそれなりに大きい。丁寧にゆっくりと縫い合わせる。時間がかかるから、臓器の検索が終わるより先に、縫い始めてしまう。

心臓を見る。すでに動いていない。ぬくもりは、あるときもないときもある。グロさはない。ここは、とても大事なところだ。

グロさはない。ただ、精巧すぎて、神の存在を一瞬信じざるを得なくなるような、そんな気分になる。

宇宙飛行士は、地球を眺めて、そのあまりにも美しく、宇宙空間において孤独でひよわな奇跡を感じて、なんらかの宗教に入信したくなる……。そんな話を聞いたことがある。

ぼくは宇宙にはいかないだろうけど、神の存在なら、臓器を見ればある程度は信じることができる。

臓器というのはそういうものだ。

ホラー映画や、グロ画像と言われる類のものが描写する「臓器」なんぞ全部うそっぱちだ。

本物をみると、キョトンとする。

これが体の中で、何十年にもわたって、人間ひとりを支えていたのか。

敬虔な気持ちがわきあがり、そこからすべてのシナプスが猛然と発火し始めるような錯覚を覚える。

縦隔気腫の分布がアーチファクトかどうか判断せよ。

乳腺を見逃すな。

下腿をもちあげて深部血栓の有無を探れ。

肝十二指腸間膜を切る時には胆汁の漏出を確認せよ。

副腎を同定するなら血管を触れておけ。

下大静脈は一発でほぼ全長を見渡せるように。

尿管を傷つけずに腎臓を秒単位で取り出せ。

枝追いをしながら肺にホルマリンを入れろ。

人間をかたちづくるすべての臓器に、あらゆる作法をもって挑み、患者の遺志と遺族の意志を次につなぐ。

すべてに、高度な専門技術と、先人たちが積み重ね、練り上げてきた「勘の付け所」が要求される。

不謹慎を承知で言おう。

人間のすべてを見てやろうとする解剖が、おもしろくないわけがないのだ。




……ほら、こうやって書くと、みんな、すごく引くだろう?

だから、ぼくは、解剖が嫌いなのだ。




ぼくは解剖がやりたくて病理に入った人間ではない。

そういう目で見られるのも腹が立つ。

学生実習のときは、顕微鏡を見るだけで酔っていた。

解剖実習で後ろの方に立っていたら、気持ちが悪くなってしまった。

そんなぼくは、乱視補正のかかった高級な顕微鏡で酔い知らずの毎日を送っているし、自ら体内を覗き込めばグロ画像からは程遠い「精巧で緻密な世界」が眼前に広がることに気づいて解剖の奥深さに触れ、今の仕事についている。





まんまとこうなっているのが嫌いなのだ。

2017年3月3日金曜日

だがもう少し時間がかかる

気が散っている。 

何をするにしても、気が散っている。

いつもなら、音楽をイヤホンで聞き流しながらメールを書くこともできるし、昼飯を食いながら午前中の診断について考えることもできる。スポーツを見ている最中に先日読んだマンガの内容を思い出すこともできるし、寝ながらツイートのネタを思いつくこともある。

しかし、今、とても気が騒いでしまっており、どうにも、複数のことに目を配れない。

何をしていても、考え始めてしまった新しい講演スライドの構成のことばかり思い浮かんでしまい、なにも手に着かない。

こないだ、食事中に、同席者に指摘されてしまった。

「どうした、ぼーっとして。気が散ってるみたい。」

「そうなの。気が散ってるの。すまんね。」

「何に気が散ってるの?」

「講演スライドなんだけどね。」

「講演スライド?」

「あの内容とあの内容を盛り込もう、あれとあれも入れよう、もう8年くらい考えていたアレもこれも全部入れてしまおう……そうやってずーっと考えているんだよね。」

「それさあ、」

「うん」

「気が散ってないじゃん。一途じゃん。」

「ん?」

「集中しちゃってんじゃん。だから他に気が回んないんじゃん。」

「ん?」

「気が散ってないじゃん。」

「そうか。」

「気が散ってるみたいに集中しちゃうの?」

「そうみたいだね。」

「ふーん。」

「そうみたいだね。」

「今、一回返事が多かったよね。」

「そうみたいだね。」



気が散っていなかったらしい。

逆なのだそうだ。

ということは、気が集まっている、ということか。



魔貫光殺法であるな。

「当たらなければ意味がない」ってやつだ……。

2017年3月2日木曜日

病理の話(54)

医療における「診断」は、ほんとうに膨大な量の、先人達の知恵や経験の積み重ね、さらには学術的にきちんと整えられた統計学(エビデンス、というやつだ)によって、支えられている……。

けれど、この、知恵とか経験とかエビデンスだけで、実際に医療者が、例えば医師が、ぜんぶ納得して診療をできているのだろうか、ということを考える。



1.息切れで受診した患者さんがいて、話を聞いて、こういう症状があって、診察であんな所見があって、検査でこの値が陽性になったら、「薬(1)」を投与する。そうするとよくなる。エビデンスが示している。

2.息切れで受診した患者さんがいて、話を聞くと、さっきの人とはちょっと症状が違っていて、診察も少し違って、検査も少し違ったので、この場合は「薬(2)」を投与する。さっきの薬だと効かない。エビデンスが示している。



このような文章を、実際に専門用語でダァーッと書き連ねたものを、医療者がえんえんと座学で頭に詰め込んで、さて、実際に訪れた患者さんの前で、正確に思い出して薬を選べるものなのだろうか?

ぼくは、ぶっちゃけ、無理ではないかと思う。

そんなの、暗記マシーンみたいな人じゃないと無理だ。

いや、確かに、世の中には暗記マシーンみたいな人もいるけれど、病気の種類なんてもう無数に存在するわけで、その全てを暗記するなんて、絶対に無理だろう。

しかも、暗記したデータは、統計情報が日々更新されていることで、どんどん入れ替わっていくのだ。



だから、多くの医療者は、診断や治療において、

「プロセス」

とか

「ストーリー」

をとても大切にするのだと思う。



さっきの話を少し具体的にして、ストーリーをつけてみよう。


1.息切れで受診した患者さん。調べてみると、心臓の動きが弱い。心臓の動きが弱いと、肺の血液循環も悪くなってしまう。血液の中に酸素を取り込み、血液の中から二酸化炭素を追い出すための肺で、循環が悪くなると、全身に酸素が足りなくなり、二酸化炭素が溜まってしまう。だから、「息切れ(呼吸が苦しい、酸素が足りないように感じる)」という症状になる。

 こういうときは、心臓を手助けしてあげる薬がいい。薬(1)は、心臓を手助けする力がある。

 心臓を手助けすれば、血液の巡りがよくなって、肺の血の巡りもよくなる。そうすれば、息苦しさも解消するだろう。



2.息切れで受診した患者さん。調べてみると、体の中の血液の量が減っていることがわかる。ポンプである心臓はすごくがんばっていっぱいドクドク動いているんだけど、ホースの中身(血液)が少ないから、やっぱり血の巡りはあまりよろしくない。

 こういうときは、心臓を手助けしてはだめだ。心臓はもうめいっぱいドクドク動いているからだ。これ以上、心臓をがんばらせてしまうと、かえってへたばってしまう。

 心臓を手助けするのではなく、血液の量を足してあげるのが先決だ。また、ホースを少し締めるような薬(2)を入れる。ホースの太さを絞れば、中身が少なくても、流れるスピードが上がるだろう(庭に水をまくときに、ホースを指でつぶせば勢いが増すように)。




このようなストーリーがあればどうだ。

診断についても、治療についても、一気に覚えやすくなる。ただの文字の暗記ではない、風景と共に病態を理解することができるようになる。




さて、以上の話を「病理の話(54)」として掲載したのはなぜか。



今、病理医の数は足りていない、とされる。実際、多くの病院は自前の病理医を欲しがっているが、病理医の人数が少ないので、自分の施設に専任してくれる病理医を雇うのはなかなか難しい。

そのため、多くの病院は、「検査センター」と契約をして、病理診断を「外注」する。

これで、実は、日本の医療はけっこうなんとかなってしまっている。

病理医が足りない、足りないと言っても、実際に多くの手術は行われているし、診断も治療もそれなりに滞りなくできてしまっているのだ。

検査センターさまさまである。

では、検査センターではなく、自施設に常勤病理医がいるメリットというのはどれくらいあるのか。



臨床医達が、日頃の診療において「ちょっとした疑問」とか、「どうしても納得できないこと」があったときに、病理医が常勤していると、すぐ聞きに行ける。一緒に画像を見て、考えて、病理診断の理由を聞いて、そして、

ストーリーを一緒に編むことができる。



検査センターに外注していると、この「ストーリーの摺り合わせ」ができない。



ストーリーをいちいち想定しなくても、暗記能力さえ高ければ、医療というのは遂行できるものである。

最初に書いた通りだ。

そして、ぼくは、臨床の診療というものを、全て暗記で解決するのは不可能だろうと思っている。

だから、病理医がいると、診療のレベルが……そこまで目に見えてはあがらないのだけれど、「医療者達の満足度」は確実に上がる。



病理診断がAIに置き換わった未来を想定したとき、AIは果たして「語り部」になってくれるだろうか、「相談相手」になってくれるのだろうか。

そんなことを少し考える。

2017年3月1日水曜日

違いの分からない人の∪⊂⊂コーヒー

「カメラを買う買うと言いながら、まだ買っていない。しかし、そろそろ買おうとは思っている。

たぶん、自分には写真のセンスがない。けれど、ギミックの搭載されたメカは好きなので、いずれ買って、人に迷惑をかけない程度に楽しもうと思っている……。」



このように書く場合の「センスがない」とは、たぶん、

「上手にできない」

という字面通りの意味では、ない。



そうではなくて、
「圧倒的に人の心を動かすようなプロの仕事のレベルには達しない」
くらいの意味だ。

謙遜といえば謙遜である。ただ、ちょっと居丈高にも聞こえる。



こういう言い方をよくしてきたのは、ぼくである。

どうも、ぼくは、趣味にしろ特技にしろ、「プロとして人を感動させられるレベルになれなければ意味がない」みたいな建前を、大事にしすぎているのだな、ということに気がついた。

この話は、ぼくに限った話ではないようだ。

写真を掲載しているブログやインスタグラムなどを眺めていると、ほとんどの撮り手が、低頻度ではあるが、「プロほどはうまく撮れないけどね」という言い訳を、どこかのタイミングで発信していた。

ネットに記録を残す趣味人達の間では、普遍的な謙遜なのかもしれない。

本の感想を書く人は、「プロの書評家ではないけれど、自分の思ったことを書き留めておきたい」と、言い訳をする。

スポーツを楽しむ人も、「別に大会に出て勝つのが目的ではないけれど」と、言い訳をする。

なぜ、わざわざ、「自分が楽しめればいいので。」と、前を向く前に、

「自分にはセンスがないけれど」

とか、

「プロのレベルには達しないけれど」

と言い訳をしないと、気が済まないのだろうか?

自分だけが楽しむということに、何か、「謙遜の圧力」のようなものが、かかっているのかもしれないな。

楽しむという感情は、ほかの喜怒哀に比べると、何か、世間にお許しを得なければいけないような感覚を伴うものなのかもしれない。




ぼくがとてもきらいな言葉がある。

「何が楽しいのかわからない。」

わからないのはあなたの勝手だ。人それぞれ、楽しみのポイントは違う。けれど、なぜ、自分の楽しさのレセプターと相手の楽しさのレセプターが合わないときに、不快をもって語ろうとするのか。

なぜ、自分と同調していない楽しみを持つ人間を、若干の不快感をもって扱おうとするのか。




きらいな言葉だが、それ以上に、怖かった。




「何が楽しいのかわからない。」

そう言われるのが怖くて、

「いや、ぼくのやっているこれ、ちょっとあんまり楽しく無さそうに見えるかもしれませんけれど、これはこれで、とても味があるんですよぉ。」




「それをやって何になるの? プロにでもなりたいの?」

そう言われるのが怖くて、

「いえいえ、まさか、自分にはそこまでのセンスはないんですけどね、その、プロの人々が全身使って表現するようなレベルには全く達しないんですけれども、単純に、趣味というか、自分が楽しめればそれでいいかなあと。」




うーむ。

つまりぼくは、いつか誰かがぼくのことを

「わからない」

と声をかけてくるのが怖くて、それで、自分がほんとうにやりたいことのすぐ側に、「自分にはそこまでセンスがないんですけど」というフレーズを、脇差しのように添えておいたというのだろうか。




ほんと、いったい、何がしたいのかわからない。

2017年2月28日火曜日

病理の話(53)

病理医というのは不思議な仕事で、病気に名前を付けたり、病気の進み具合を検討したりといったことを、日がな一日やっている。

つまりは、患者さんのおなかを押したり膝を叩いたりといった「診察」をまったくやらないし、血の巡りが悪いからあの薬を入れようとか息が苦しそうだからこの機械でサポートしようといった「治療」をまったくやらないし、これから一緒に病気と闘っていきましょうとか不安なことがあればいつでも言ってくださいといった「患者さんへの説明」をまったくやらないし、傷跡が落ち着いたからそろそろ退院してもらおうとか痛みが強そうだから痛み止めを増やそうといった「病棟の維持管理」をまったくやらないし、この先血圧が高いといろいろ問題になるだろうとかピロリ菌がいない方がこの人の胃にとっては将来いいことの方が多いだろうといった「患者さんの健康維持管理」をまったくやらないし、手術後すぐに歩き始めた方がいいだろうとか骨もくっついたからそろそろ運動して関節を動かそうといった「リハビリ」をまったくやらないし、低空飛行で死に向かう患者さんの様子をみながら食べたいものをどこまで食べさせようとか日常生活をどのように送ってもらおうといった「終末期ケア」をまったくやらない。

薬のことをあまり知らない。点滴のことがわからない。注射をしない。CTの予約ができない。傷が縫えなくて気管挿管もできなくて眼底も見られなくて心電図もたいして読めない。


それなのに医者と同じ給料をもらう。これが許されるのか、という話だ。



ずっと脳だけを使う。多少の事務仕事をしながら。ひたすら座学に励み、顕微鏡を見て、パソコンを使い、医療者とだけ会話をする。

そういう人がいないと医療は回っていかないから。

先生のおかげで診療が深まっているのだから。

大学とも連携してるんでしょう? 研究にも詳しいからすごいね。



そうなのだろうか。



ぼくは、世の中の人々が、病理医を全く知らなかった頃に比べて、少しだけ知名度が上がってきた今の方が、厳しい目線にさらされるのだろうなあという「危機感」を持っている。



ぼくらは本当に医者を名乗ってよいのか。





病理医というのは不思議な仕事で、病気に名前を付けたり、病気の進み具合を検討したり、病気がどういう背景に発生するのか、どういう像が現れたら病気と言えるのかを、教科書や論文、先人の経験や個人の勉強成果とすり合わせながら、調べて、記述して、説明して、臨床医や多くの医療者たちと相談をし、あるいは納得してもらうための言葉を探すために学会や研究会に出て、妥当か妥当でないかを言うために統計の勉強をして、遺伝学の基本に立ち返ったり分子生物学の深見にもぐったり発生学の古書をひもといたり、逆に聞き手であり商売相手でもある臨床医たちのスタイルを学ぶために臨床診断学を学び、画像診断学を探り、臨床検査学を復習しながら、病理診断を書き、症例報告をし、臨床研究の手伝いをしながら基礎研究の話に花を咲かせ……といったことを、日がな一日やっている。




これは、もしかすると、「学者さん」ではないのか。

学者を名乗るのもアレだけど、いちおう、孫悟飯はあこがれていたっけな。

2017年2月27日月曜日

アイアイ おさるさんだよ

「たとえば、インフルエンザの診療があるでしょう。子供が熱を出すわけです。昔であれば、外来にかかって、そこから2時間とか待っていなければいけなかった」

ーーそうですねえ。そうでした。

「でも、今は親御さんはとにかくそんな風邪まみれの外来で、待つのなんてイヤなんですよね。だから、病院側も、いろいろ知恵をしぼる」

ーー知恵を。病院側が、ですか?

「ええ、病院側が、です。たとえばスマホで予約をできるようにする。何時間後に来てくれと表示を出す」

ーーああ、そういう。

「そうすれば、待たなくて済むわけです。で、いざ病院についてから、医者がやることが、まあおなかをそんなに丁寧に触るわけでもなくてね、時期的にインフルエンザが流行っていて、外来も大混雑の中で、とりあえずちょろっとお話を聞いて、それから鼻の奥に棒をつっこむわけですよ」

ーー迅速検査ですね。

「実際、お医者さんなんてのは、患者さんが入ってきたときの雰囲気とか、話してみたときの感じとか、バイタルサインとか、首を触ってリンパが張れているかどうかとか、肺音とか、いろいろ瞬間的に、見ていらっしゃる。

でも、患者とかその親からすると、そこまで見てもらってるようには見えないわけです。まあ達人技なんでしょうな。

つまり、患者さんの側としてはね、

『インフルで病院かかったらインフルの検査されて、インフルの薬出してくれた』

みたいな捉え方をしてる、ってことです。すごくシンプルだ」

ーー……。

「そしたらね」

ーーはい。

「今後、たとえばAI診断がめちゃくちゃ進んだとして、家庭でもスマホでだいたいの診断がつけられる時代ってのは、来ると思うんですよ。インフルエンザの可能性が89%、みたいに、情報が瞬時に表示される」

ーーうーん、そうですね。89%じゃ困るんだけどなあ。

「けど、それ、患者側は、どう思いますかね」

ーーどういうことですか?

「9割がたインフルだって教えてくれる。そして、そのころは、あるいはインフルエンザの特効薬なんてのは、薬局で薬剤師さんが出してくれるかもしれないんです」

ーー……。病院がいらなくなる、と……? でも、万が一の鑑別とかをしてくれる安心感とかは……。

「それを決めるのは、たぶん、医者じゃないです。お医者さんが、我々には存在価値がある、給料に見合った仕事をしているといくら声高に主張しても、そのときそのときの患者さんが、まあこれくらい……ちょっと熱はかって、棒つっこんで、陽性ならインフルで薬がポン……これくらいなら、医者じゃなくても、AIでいいやと判断するかもしれない。そしたら、それまでなんですよ」

ーー自動診断の世の中では、患者さんが医者のメリットとAIのメリットを天秤にかけてしまう、ということですか……?

「風邪くらいならいいだろう。インフルならいいんじゃないかな。癌ならともかく。そう考えてしまう患者さんの自己選択が、AIによって左右される。きっと、89%はうまくいくんです。そのような世の中で、高給をもらって専門職を遂行している医者の存在価値って、なんですか?」

ーー……。

「AIが医者の仕事を奪うなんてありえない、医師の仕事はもっと複雑だ、医師はAIを使いこなす立場なのだ、って、言うのは簡単ですけど。患者さんの側も、同じように考えるかどうかは、これから次第なんじゃないですか」

ーー……。







という話を、しました。

2017年2月24日金曜日

病理の話(52)

バリウム技師さんが集まる会に、しょっちゅう出る。

胃のバリウム検査というのは、すでに古びた技術ではある。しかし、捨てたものではない。内視鏡(胃カメラ)で直接胃を眺めれば病気なんてすぐ診断できるだろう、というのは、ある意味医師のおごりである。

直接見たって、見えないものはある。

自分の姿を一番よく見ているのは自分だとお思いか?

鏡に映った自分の姿は、ほんとうにすべてを忠実に映しているだろうか?

魚眼レンズでゆがめられた像。はすにかまえて、病気を斜めから見通した姿。これらはときに、勘違いを生む。見逃しを呼ぶ。

もちろん、そうならないように、胃カメラは発展してきた。しかし、バリウム検査で映る胃の姿にも、読み応えがあり、意味があり、メリットもある。


だから、ぼくは、同じ胃という臓器を、異なるやり方で診断しようとする人たちが、それぞれに好きだ。胃カメラのプロのことも大好きだし、胃バリウムの達人と働くと心が躍る。超音波だって、CTだって、そうだ。




さて、胃バリウムで見た姿というのは、「影絵」に似ている。

胃に、バリウムという、X線を通さない物質を、厚く塗ったり薄く塗ったりすることで、X線で胃をみたときに、陰影、輪郭、粘膜の厚さ、さらには硬さまでも(空気量を変えたり、直接胃をおなかごしに(!)押したりして)見ることができる。

これらの影絵は、あくまで「影絵」でしかない。病気そのものを直接見に行っているわけではない。

けれど、得られる情報がとても多い。



一方の、病理。手術で採ってきた胃の、病気の部分を細かく切って、病気がどれだけしみこんでいるか、どれだけ広がっているかを確認し、さらに細胞の性状までも解き明かそうとする。

X線や胃カメラで見た「像」と、病理で我々がみる「細胞の姿」、どちらがより患者さんの今後を正確に占うか。



「今のところ」、病理の勝ちだと言われている。

今のところだ。


だから、画像をやる人はみんな、自分たちがみたものが、「病理の答え」とどれだけ肉薄したかをとても気にする。

現代の医学では、画像で得た情報は限りなく「病理の答え」に近い。

しかし、外れることもある。大変に細かいレベルで外れてくる。病気の範囲がちょっとずれていたり、病気のしみこみ度合いが少し違ったりすることがあるのだ。



これらの「ずれ」を是正するために、検討会とか、研究会とか、学会というものがある。みんなで画像を持ち寄って、ああでもないこうでもないと「読影(影を読む)」をし、病理の答えと突き合わせながら、どういう読み方がより説得力があるのかを競い合い、教えあい、共有して、明日につなげていく。



***



ぼくが最近この研究会や検討会で重視しているプロセスがある。

それは、「人はなぜ、間違って読むのか」を、できるだけ言葉にするという作業だ。

うっかり間違う、のならば仕方がない。

再現性をもって、誰が読んでも「間違ってしまう」画像というのがある。そこには、おそらく、それなりの理由がある。落とし穴。ピットフォールなどという。

このピットフォールを、病理の知識をもって洗いざらい明らかにする。こういうミスが起こりやすいのはどういうときか、というのを考えていく。

それが、「対比病理学」とぼくが勝手に呼んでいるものだ。



対比病理学のキモは、記述すること、説明すること、納得すること。

なぜ間違う? そうか、こういう現象があるからか。

どうしてずれる? そうか、こういう可能性も見なければいけないのか。

これらを、医療者がわかるようにきちんと記載し、お互いに通じるように説明をして、みんなで納得しなければいけない。



どうも、この作業だけは、AIにはできないのではないか……などということを、今ほんとうに、めちゃくちゃ真剣に考えているのだが……。


この話はたぶん、また忘れたころに、続きを話すことになる。ぼくは今、自分が使命をもっておもしろく取り組んでいる仕事を、きちんと記述して、人に説明して、納得してもらえるだろうか、という試みに、取り組んでいる。

2017年2月23日木曜日

いつの間にか 社会から ずれったんと

「Wikipedia(日本語版)は、けっこうあやしいことが書いてある」

これ、少なくともツイッターではよく知られた話だ。

でもぼくはWikipediaの「素人が紛れ込んで書いててもわかんないくらいに体裁と構文が整えられた、それっぽい文章」というのがきらいではないのだ。

「読まずにふぁぼる半可通」があたりまえのツイッタランドに生きていると、日本語版Wikipediaのあやしさなんてもう、ぜんぜん許容範囲である。

英語版のほうがしっかりしているかどうかは、ぼくの英語力がしっかりしていないので、わからない。





「下位文化、サブカルチャー (subculture) とは、ある社会で支配的な文化の中で異なった行動をし、しばしば独自の信条を持つ人々の独特な文化である。『サブカル』と略されることが多い。」

サブカルチャー、を調べたらこのように書いてあった。

ぼくは、病理医ってサブカルっぽさがすごいんじゃないのかな、という文脈で、サブカルという聞き慣れた言葉を、あらためて調べ直そうとしていた。



「1980年代サブカルチャーに共通していえることはマイナーな趣味であったということであり、この段階で既に本来のサブカルチャーの持っていたエスニック・マイノリティという要素は失われていた。確かに幾つかの要素は公序良俗に反すると見なされたという点で既存の価値観に反抗していたが、それらは1960年代のサブカルチャーが持っていた公民権運動や反戦運動などの政治的ベクトルとは無縁であった。もともと社会学におけるサブカルチャーという用語は若者文化をも含んでいたが、エスニック・マイノリティという概念の無い1980年代の日本においては少数のサークルによる若者文化こそがサブカルチャーとなっていた。この含意の転回には日本における民族問題意識の希薄さ以外にも、サブカルチャーという概念の輸入が社会学者ではなく、ニュー・アカデミズムの流行に乗ったディレッタント(英、伊: dilettante。好事家。学者や専門家よりも気楽に素人として興味を持つ者)によって行われたことも関連している。研究者ではない当時の若者たちにとっては学術的な正確さよりも、サブカルチャーという言葉の持つ、差異化における「自分たちはその他大勢とは違う」というニュアンスこそが重要であったともいえる。」

好事家(こうずか)。

そうかあ。

学者や専門家よりも、気楽に素人として興味を持つ者。

なるほどなあ、じゃあ、病理医がサブカルだなんて言ったら怒られるかもなあ。



それにしても、この項目、書きっぷりが、クソサブカルくせぇなあ。




ぼくの、「病理医ってサブカルなんじゃね」という気づきは、「治療して患者さんに感謝されたり、救急で一刻一秒を争いながら重症患者の服にハサミを入れて電気ショックを与えたりする医者こそが、メインストリーム、本道である」という、世間が共有するイメージに対しての、なんというか、あこがれというか、屈曲した嫉妬というか、そういったものに由来しているのだと思う。

「病理医は、治療もしないし日も当たらないけど、それをむしろ誇ったり、スカしたりしている」

これって、なんだかサブカルっぽいな、くらいのイメージだった。

けど、サブカルチャーという言葉をきちんと(?)調べると、なんか安易にサブカルって言葉を使うのもどうかな、という気持ちになってくる。




「近年では、教養そのものが揺らいでおり、従来ハイカルチャーを支えてきた知識人も大衆文化やオタク文化に注目しているのが現状である。趣味・嗜好の多様化・細分化や価値観の転倒により、従来サブカルチャーと見られていたものが一般に広く評価されるようになったり、ハイカルチャーの一部であったものがサブカルチャーとして台頭するという逆転現象も見られるようになっている。例えばかつては、歴史や古典文学について最低限の知識を持つことは当然で、そうした知識に精通することはハイカルチャーと考えられていた。しかし、近年では知らないことを恥じるどころか、歴史や古典文学についてある程度の知識を得ることさえもオタク趣味の一つとみなす傾向が指摘されている(とくに日本文学や日本史にこの傾向が強い。[要出典])このように、ハイカルチャーとサブカルチャーの境界、色分けは曖昧となってきている。」



ぼくこの「要出典」、大好き。





「一般にサブカルチャーは、個々の主観によって自立して成立する行動様式の理念として昇華した、『顔の見える文化』だといえる。とはいえこのサブカルチャーは『顔の見えない』側面持っていることがある。」


「も」「ことがある」


ああ、うん、よく使うなあ、この言い回し。



そうか、病理医ってサブカルじゃね? の前に、病理医ってWikipediaに似てね? を検証すべきだったのかもしれないし、うん、病理医という広い主語を使うとまたツイッタランドで怒られるだろうなあとか、そう言ったことが次から次へと気になりだしている。

2017年2月22日水曜日

病理の話(51)

いろんなところに書いているようで、実はきちんと書いていないことを書く。


「腫瘍」というと、がんのイメージが強いが、必ずしも腫瘍とはがんを意味する言葉ではない。もっと幅広い言葉だ。

このあたりの詳しい説明は昔このブログでも書いたことがあるので、今日はあまり繰り返さないが(「がんの話」シリーズがあります)、ちょっとだけおさらいをする。



正常の細胞を一般の善良な人々に例えると、腫瘍細胞は「チンピラ」に当たる。

善良な人々は、規則正しい生活を送る。仕事をしている。いるべき場所を守る。

ちゃんと仕事をしない。いてはいけない場所にいようとする。群れて増えるごくつぶしである。

正常細胞と腫瘍細胞の違いは、こんなところだ。以上の言葉は専門的には、分化異常、増殖異常、分布の異常、浸潤、不死化、異常代謝などの言葉であらわされるけれど、チンピラの悪行三昧と覚えておけばよい。

さて、このチンピラもまた、人間である、という話をする。



チンピラが完全にエイリアンとかモンスターのような異形のものであれば、攻撃するにあたっても目標を認識しやすいのでべんりなのだが、チンピラはしばしば、善良な人々と同じような姿をとる。

大腸がんの細胞は、もともと大腸の表面に存在する「大腸の上皮」に似た性質を示す。

膵がんの細胞は、もともと膵臓の「膵管」という構造に存在する「膵管上皮」に似ていることが多い。

乳がんの細胞は、もともと乳腺の「乳管」という構造に存在する「乳管上皮」に似ていることが多い。

胃がんの細胞は、「胃腺窩上皮」や「胃で腸上皮化生を起こした上皮」という細胞に似ている。



で、これらを、医学生も、医者も、このように表現することがある。

「胃がんというのはですね、胃にある粘膜の、腺窩上皮という細胞が悪くなったもので……」

「膵がんはですね、膵管上皮から発生していまして……」

難しい言い方であるが、つまりは、

「善良に暮らしていた人々が、なにかのきっかけでグレて、チンピラになってしまった。」

ということを言っている。




これは、おそらく、正解ではないだろう、というのが最近の学説である。




人間の世界ではそういうこともあろうが、細胞に関しては、

「善良なまま大人になった人は、めったなことではチンピラにはならない」

だろうと言われているのだ。




では、チンピラになるのは誰か?

チンピラになるのは、赤ん坊なのだ。これから大人になろうとする、生まれたばかりの細胞。これが、かなり初期の段階で、チンピラとしての人生を歩み始める。




大人がチンピラになるか、赤ちゃんのころからチンピラへの人生を歩むか。

細かい違いだけれど、重要なのである。治療に関する研究をする上でも、あるいは、がんを早期発見するための研究をする上でも。






ある日、ぼくが、このような病理報告書を書いたとする(今さらっと考えたフィクション症例ですし、こういうのは実はやまほどあります。特定のモデルは存在しません)。


「本病変は、免疫組織化学により、MUC5ACが表層部に陽性。MUC6, pepsinogen Iが中層から深部においてさまざまに陽性。H+/K+ ATPaseが散在性に陽性となります。すなわち、胃の腺窩上皮に分化を示しつつ、深部では頚部粘液細胞、主細胞への分化も示す病変であり、いわゆる胃底腺粘膜型胃癌と呼ばれるものです」


この一文には、「チンピラがもつ性質」を書きつつ、「もしこのチンピラが、善良な人々として育つ ”if” の世界があったら、どんなところで働いていたであろうか」ということを書いてある。


手練れの内視鏡医たちは、この文章を見ながら、

「そうか……頚部粘液細胞とか主細胞の性質を持つのだったら、粘膜の深いところでこっそりと横や下に広がりたがるわけもわかるかもしれない……だから胃カメラでは、このがんが妙に ”スネーク” してるように感じたんだな……こいつは暗躍するタイプのがん細胞なんだ」

ということを想像してくれる。



最初に出てきた、おとながチンピラになったか、赤ちゃんからチンピラになったか、関係なくない? と思われた方もいるかもしれないが、そのあたりのイメージが正しく備わっている人のほうが、より「がん細胞の気分を適切におしはかる」ことができる。

チンピラにも人生があり、性格があり、得手不得手がある。これを読み解くのが、細胞分化を読むということなのだ。





ぼくらは、人が不幸になる原因である「腫瘍」、あるいは「がん」を、よく、人に例える。

プレパラートの中に、「がんがいる」と表現する。

これを、嫌う人もいる。

がんは、ものだ。敵だ。

「いる」なんて言わなくてもいい。「ある」でいい。



でも、つい、人に例えてしまう。

もし、違う世界線であれば、善良な細胞に分化できたであろうチンピラのことを思い、その性質をおしはかって、その上で、容赦なく倒しに行く。

少しだけ後味の悪い想像を抱えながら、がん診療は続いていく。

2017年2月21日火曜日

感想欄には来年も後輩に性病の話をしてあげてくださいと書かれていた

とある看護学校の、病理学の授業を担当している。先日、試験が終わったので、採点をしなければいけない。この採点がとても時間がかかる。

「記述式の大問4問」なのだが、ぼくの試験では事前に試験問題を公開しており、公開した問題に応じて
「試験の3週間くらい前から、対策を練らせる」
ということをやっている。

A4一枚の紙に総務課のハンコを押したものを配付し、その表裏にぎっしりと、「試験の対策」を書いてきてもらう。当日は、「対策プリント」を書き写せばそのまま回答になる。

コピペ自由、友人どうしでの共有も自由。

そして、対策プリントに40点という配点をつけ、当日の試験問題が60点。合格は60点以上、平均点は90点くらいになる。まあ確実に全員合格する。

そう、これは、「テスト」という名の、2段階レポートシステムなので、きちんとレポートを作って提出してもらえば単位にはなるのだ。



さて、このレポートの採点はとても大変だ。そこかしこにコメントをつけていく。30人分の採点をするには、ほんとうに30時間くらいかかってしまう。1か月くらいかけてひいひい言いながら採点をする。

最初、よさげに点を付けてしまうと、あとあと出てきた「もっとすごい答えを書いた子」に対する点数が不当に低くなってしまうので、一通り目を通してコメントしてから「2周目」に入り、そこではじめて点数を付ける。



これをやってきて、思うことがある。



小学校、中学校の先生なんてのは、ああ、ほんとうに、偉かったなあ……。

毎日まいにち、子供たちのプリントにあれこれとコメントを付け続けてくれていたっけなあ……。

きっと、疲れた日には、カトちゃんケンちゃんでも見ながらビール飲んでさっさと寝たかったろうになあ……。

夜通し、採点だけし終えて、翌日の準備なんかしてたら、ほとんどプライベートなんてなかったんじゃないかなあ……。



ぼくらは常日頃、「自分の仕事はとても大変である」という文脈を、必死に押し殺して生活しているような気がする。誰よりもつらい。誰よりも忙しい。厳重にフタをしめ、紐でグルグル巻きにした、本音の壺の中から、「俺なんか」「俺こそが」という声が漏れ聞こえてくる。

でも、それは、他の人の生活を想像できないからなんだろうなあ、ということを考えている。

自分ではない他人が、目の前にある仕事にどのように取り組み、どのように苦しみ、どのようにサボるかなんて、ほんとうにその人と同じ立場になってみないと、もう、絶対に思いも寄らないのだ。

なのに、自分がいちばん忙しいなんて、どの口が言えるというのだろう。

自分がいちばん大変だなんて、思わないとやっていけなかったのだろうか。

担任の努力に気づくまでに30年も必要とする程度の人間が、何をどう、比べてきたのだろうか。

2017年2月20日月曜日

病理の話(50)

病理診断は、比較的フレックスな仕事だ。患者さんと直接会話するわけではない。みるのは、プレパラートだ。つまりは、患者さんが病院に来ているタイミングに仕事をする必要がない。

正直なことを言えば、1日のうちいつ仕事をしてもいい。

とは言っても、病理医は多くの医療者と会話をしながら仕事をするので、あまり他のスタッフと異なる時間に出勤するのはよろしくない。自然と、日中をメインとして働くことにはなる。

けれど、ときに、夜になっても朝になっても、診断が決まらないことがある。

診断が、難しいときだ。



自分の診断に自信が持てない。そもそも、診断がわからない。

いつまでも教科書とにらめっこして考えているわけにはいかない。

患者さんにだって都合がある。生活がある。プレパラートには外来の時間制限はないけれど、病気は待ってくれるとは限らない。ちんたら1か月も2か月も診断に手間取っていたら、その間に病気は進行してしまうかもしれない。

待たされる患者さんはさぞかし不安だろう。

医療者だって困る。次の診療のステップに移れない。予定が立てられない。



そういうとき、病理医は、「相談」をする。同じ病理医に。マンガ「フラジャイル」にも出てくるので、知っている人は知っているだろう。



ぼくもまた、診断の相談をする。たいていはうちのボスと相談する。ボスは頼りになる。

「頼りになるボスがいる施設に就職したこと」は、ぼくの大ファインプレーだ。思い切りほめられていい。

ほかにも、肺や悪性リンパ腫で難しいなあと思ったときにはあの大学へ、軟部腫瘍で難しいなあと思ったときにはあの大学へ、電話をかけ、プレパラートを持って、聞きに行くことがある。

「コンサルテーション」という。

コンサルテーションは、人に診断を決めてもらうためのもの、ではない。あくまで参考意見を聞くために行うものだ。診断の責任はいつだって、「主治医」である自分にある。偉い人に話を聞いて、自分の頭がすっきりしたり、いい勉強になったなあ良かったなあと感動するなりしたあと、必ず「自分で」責任もって診断を出す。

自分がほんとうに優秀な病理医になれば、コンサルテーションは必要なくなるだろうか? コンサルトが必要になるのは、自分が未熟だからなのだろうか?

そういうわけでもなさそうだ。

これだけ医療が細分化すると、自分ひとりで全ての領域を完全に把握するというのは困難である。

診断に必要な試薬などが自分の病院だけでは揃えられないこともある。

だから、日本病理学会では、公式に「コンサルテーションシステム」を作っている。病理学会にメールをしてお金をふりこむと、その臓器、病気に詳しい「コンサルタント」を全国から探し出して、紹介してくれる。

そんなこともやっている。



さて。

ぼくは「コンサルテーションをうける」方に回ることもある。ぼくは消化管病理が少し得意なので、胃や大腸などの病気について相談をもちかけられることがあるのだ。日本病理学会のコンサルテーションシステムにコンサルタントとして登録されているわけではない(そこまで偉くない)から、仲の良い病理医の方々などに、ちらっとたずねられ、ちょっと見てみてよ、くらいのノリだ。

コンサルテーションにくる症例というのはたいてい難しい。だから、とても困る。他の人が見て難しいものを、自分が簡単に見てわかるということが、どれだけあるだろうか、と思う。

必死でコンサルトを受け続けていると、世の中の病理医が、どんな診断に困っているのか、何が難しいと思っているのかが、少しわかってくるような気がする。

彼らの感じた難しさは、ぼくも常日頃から感じていることである。だから、お返事に、このように書くことが多い。


「標本、拝見致しました。先生のおっしゃるように、診断の難しい病変です。私は○○と△△という根拠をもって□□という診断に一票を投じますが、根拠、結論とも、先生のお考えとほとんど一緒です。大変貴重な症例を拝見させていただき誠にありがとうございました。」

実際に、下線を引いたりもする。


あんまり、相談者の役に立っていない気はする。どちらかというと、こんな難しい症例を検討させていただくという貴重な機会をくれてありがとう、と、頭を下げることが多い。

「低姿勢すぎるコンサルタント」として笑われたことがあった。

「~~すぎる」のくくりの中では、ずいぶんとまあ残念なあだ名だなあ、と思う。

2017年2月17日金曜日

すごい衝撃だ ズッカーン

国語辞典とか漢和辞典を先頭から読みあさっていくのは楽しいが、たいてい「さ」のあたりで寝てしまっていた。辞典編纂をなさっている飯間さんなんてのは、すごい。たとえばぼくが子供の頃、彼のセミナーか何かを聞く機会があったら、強烈にあこがれただろう。

分厚くて知恵のうまみが凝縮されているような本をみるとテンションが上がる。結局、買ったところで「通読」までできるのはほんの一部にすぎないが、ことわざ辞典とか、季語の辞典とか、ほかにも大百科とか図展の類いはとても楽しかった。こども図鑑がいっぱい並んでいる図書館はパラダイスだった。どれもこれも、最後まで読み通したことはなかったが。



最近、さまざまな本や教科書に触れる機会が増えてきたが、一般的な辞書や図鑑のたぐいをひもとく機会は激減した。しかし、たまたま先日、札幌駅の上にある本屋の「こども用の図鑑」の棚で立ち止まり、立ち読みをしてみたところ、けっこうな衝撃をうけた。

絵が細かい。書き込みが多い。

ポップな書体で「人体」と書かれた、小学生用の図鑑。肝臓の小葉構造やグリソン鞘における動脈・門脈・胆管など、肝臓専門医がようやく勉強するレベルのミクロの世界が、CGをふんだんに用いた美麗なフルカラーイラストで、見開きいっぱいに豪華に描かれている。ぼくは愕然とした。専門書のイラストよりもはるかに色数が多く、表現は3次元的で、込みいった見づらさはないのに必要な情報がすべて書かれている。

そして、安い。専門書の10分の1くらいの値段ではないか。



自分がこれまで書いてきた、病理の解説用のイラストの、なんと陳腐であったことか。

ぼくが今まで頼りにしてきた教科書の図版なんて、小学生用の図鑑に比べたら足下にも及ばないのだ……。



ぼくは何かを背負っているわけではない。誰かを代弁できる立場でもない。でも、なんだか、くやしく、あこがれてしまった。

ぼくは、自分の仕事を、「子供に伝えるほどの努力」を、してきたのだろうか?




先日、子供の頃に読みふけった「大図展 VIEW」という図鑑を、古本として購入した。だいぶ古い本だ。当時は写真ばかり眺めていた。今になって読み返してみると、本の最初のあたりには膨大な量の「文章」が載っている。文章のくだりは昔は難しくて読めなかったから、ほとんど記憶にない。どれどれ、誰が書いているのかな、と目を通して驚いた。

巻頭言は小松左京である。

トピックスには医療の項目もあった。「がん」のところでは、次世代の新技術と称して「RI検査(つまりは核医学だ)」や、「PET」の文字が躍っている。がん遺伝子、がんの特効薬についての記載もある。

うーん。すごいな。

隔世の感はあるし、たしかに医療はこの30年で大幅に進歩したんだなあと思うが、その「見せ方」は今と比べても全く遜色がない。



ぼくはもうすこし辞書や辞典、図鑑を読むべきなのかもしれない。

2017年2月16日木曜日

病理の話(49)

「超音波」と、「CT」と、「MRI」とで、見え方が少しずつ違う肝臓の腫瘍、というのがあった。

見え方が違う、と言っても、画像のプロでなければ区別がつかない。つまりは、ぼくの目にも、

「まったく同じじゃねぇか」

と見える。

しかし、プロは言った。

「うん……いいんだ、これは『肝細胞癌』という病気で間違いない画像だと思うんだ。しかし、なんていうかなあ……一緒にCT見てもらっていい?」

モニタを覗き込む。

「この病変さ、ひとかたまりではあるんだけど、画像よく見ると、いくつかの成分が混じってると思うのね。

こっちと、こっち。微妙に、造影したときの染まり方が、違うじゃない」

造影CT検査の画像をあちこち見比べる。

確かに、ひとつの病気の中で、「それほど白くない部分」と、「もっとはっきり白い部分」が、分かれているように思った。

「だからね、こっちはいわゆる『早期の肝細胞癌』で、こっちは『少しだけ進行した肝細胞癌』とか、そういう解釈をしたわけ。でもね、MRIみて」

プロはマウスをかちかちやって、MRIの画像を表示させた。

「MRIでT1のinとout見比べるとさ、ここには脂肪がありそうじゃない。脂肪成分。ふつうはさ、肝細胞癌だとさ、脂肪が含まれている部分ってのは、高分化じゃない」

ぼくはうなずく。ここまでの説明は、すべてよくわかる。では、何が問題なんだ?

この病気には、「早期肝細胞癌(そこまで悪そうじゃない癌)」と呼ばれる成分と、「少し進行した肝細胞癌(そこそこ悪い癌)」と呼ばれる成分が、それぞれ含まれているということでいいじゃないか。



「でもね、MRIではこっちのほうが、より悪そうな癌に見えるの。CTと逆なの」



あっ。逆だ。確かに……。

なぜだろう。CTでの造影態度からの予測と、MRIでの成分分析の予測が、食い違っているように見える。



超音波の画像を出す。二人で覗き込む。

「うーん、MRIで脂肪だと思ったところは確かに高エコーですね……」

「そうでしょう。だからMRIで脂肪だってのはあってると思うんだけどさ、造影エコーもみて」

「うーむ、あれ、脂肪がある方が、造影がむしろ早いなあ……」

「なんか、CTともMRIとも微妙に違うよね。でね、病理、どうだったのかなあと思ってさ」

「わかりました。おまちください」





この患者さんは、臨床医によって「正しい診断」をつけられ、「適切な手術」を受けて、「体内から癌がなくなった状態」を達成している。引き続き、内科を定期的に受診することにはなるが、ここまで何も問題らしい問題は起こっていない。

それでも、このプロは、疑問があった。

診断があっていたのはいい。

しかし、CTとMRIと超音波画像の解釈が、自分の中でわずかに食い違ったままだ。

それが許せない。




「先生に言われて、その目で顕微鏡見てみたんですけど、これじゃないですかね? この病変、全体が高分化でいいと思うんですよ。で、こっちは脂肪沈着がある。こっちは分化度が低いんじゃなくて、類洞の拡張傾向、peliosisがある」

「ペリオーシス? それがあるとどうなる?」

「病変内の類洞様構造が拡張すると、流速の低下が起こるので、分化度が下がらなくても造影態度が変わるのかもしれませんよ」

「なるほど……そんなこともあるのかなあ。ちょっとまって、病理の肉眼像みせて。画像とあわせてみる」

「じゃあ、ぼく、肉眼像にマッピング付けたやつ出します」




このやりとりは、我々の自己満足なのかもしれない。

患者さんにはちんぷんかんぷんだ。

でも、ぼくらは、こういうやり方が、まだ見ぬ患者さんへの「誠意」なのではないかなあと、ひそかに思っている。



顕微鏡を見ることで、臨床医の誠意に「相乗り」できる時がある。

2017年2月15日水曜日

最終回じゃないぞよ

そろそろパソコンなんてのは、CPUも不揮発性メモリもぜんぶサーバー側においといてもらえばいいんじゃねえの、と思う。ぼくらが個別に持っていなければならないのは、心情的に手元においておきたいデータを入れるハードディスクと、モニタ・インターフェース。あとはもうぜんぶネット上でやっちゃえばいいんじゃねえの。

パソコンが新しくなるたびに買い換えないと最新のソフトがうまく動かせない、とか、iTunesの通算285回目のアップデート、とか、こんなこといつまで続けなければならんのかと思うわけである。とっくに開発されてるんだろうけど。買ったらあとはもう何もしなくても常に最新、というシステム、理論的には可能でしょう? ネット速度の問題とかあるんだろうけど、仮想化とか並列処理がめきめき進化してるんだし、いずれなんとかなるんでしょう?

……そこまで技術革新したら、パソコンの売上げが落ちちゃうか。企業も生きていけないかな。

いやあ、そうでもないよね。定額制か何か導入すればいいわけでしょう。要は、「購入」とか「所持」とか「アップデート」みたいな概念ごと、この先変えていけばいいんだ。変わらなければいけないんだろうな。



変な話だけど、「籍を入れないけど家族です」なんてのも、立派に人間の新しい生き方ってことになるのかもしれんけど、なんだか似たようなことをコンピュータ業界も進めている気が、するんだよ。



で、


医療はどうなのってのを考えて、考えて、次の病理学会でもそういう話を担当することになりそうなので、「病理の話」じゃない回の記事(つまり今日のこれ)にも、こういうことを書いてしまっている。


ああ、ぼくは、自分をマルチタスク型の人間だとばかり思っていたけど、高速並列処理の多層化ニューラルネットワーク内蔵(三食充電式)とかうそぶいていたけど、あたまの中が、ひとつのことでいっぱいになっているじゃないか。


どうした、大脳。


その「ひとつ」とはおそらく、そう遠くない未来にぼくらが遺跡になったとき、廃墟を訪れる人々からどうやって尊敬を集めたり金をとったりすればいいのか、どうやったらぼくらの「博物館」は存続していけるか、ということである。

単に病理に限った話でもないもので、どうしても、考えてしまうのである。




次回の更新、「病理の話」はまだ49回目なのですが、ブログの通算ですと第100話となります。ちぇー、病理の話も50回目だったらちょっとかっこよかったのに……。

2017年2月14日火曜日

病理の話(48)

「先生ね、こないだ、ある会で、内視鏡の自動診断技術ってやつ見たのよ」

いきなり、こう話し掛けられた。よくあることである。ぼくはこの年上の有名なドクターと話をしたことがなかった。彼の話す講演を聴いたことがある。学会で口角泡を飛ばす彼を遠目に見たことがある。ぼくよりずっと実績があり、えらいひとだ。

医者をやっていると、ぼくみたいなザコでも先生と呼ばれる。先生とは「君の名前は覚えていませんが、お互い敬意をもってお話しましょうね」という意味の言葉だ。

「それでね先生、ああ、すごいなあって思ったんだけど、あれ、実際、病理医の目からするとどうなの? 陽性的中率が90%以上で、ポリープを表面から見るだけで、がんか、がんじゃないかがわかるって言うんだけどさ……。やっぱり病理医からすると、その10%が不満って話になるのかなあ」



彼の言っている技術は、こういうことだ。

胃カメラや大腸カメラで映し出された画像を、コンピュータが瞬時に解析する。大きさ、色調はもちろんだが、その表面がどれだけごつごつしているか、表面の模様にムラがみられるか、一部削れたりえぐれたりしてはいないか、そういった「形態」を自動で分析して、病気が命にかかわるかどうかを判断する。

こういう技術は、たいてい、「病理診断とどれだけ一致したか」が問われる。病理診断というのは、診断界の「基準」であるから、病理診断と少しでもずれた結果をはじきだしたコンピュータは「まだ臨床段階ではない」と言われてしまう。



だからぼくは素直にこう答える。

「いやあ、まあ、10%間違うんなら、実用はまだ無理ですね……。そこはこれからの技術革新に期待しましょう。医療の世界で10%ミスしてたら、賠償金だけで病院がつぶれます」

おそらくはこれが、彼がぼくに対して「ほら先生、言ってみろよ」と期待している声のすべてだろう、と思う。

だから、付け加える。

「ただ……。この先、画像解析データが、病理診断を答え合わせに使うのではなくて、電子カルテのデータ、もっと言うと、この患者さんがこの先どうなったか、生き残ったのか、死んだのかというデータを答え合わせに使うのであれば……」

彼は、すぐにぴんと来たらしい。



「そうか、”病理診断が100年間違っていた”ことを、コンピュータが見つけ出すかもしれないのか」



病理診断というのは、人間が100年にわたって積み重ねてきた「形態」診断学である。細胞や、細胞が作りなす構造を、人間が見て、これはおそらくこういうことだ、この見た目があるときは癌が再発する傾向にある、こういう構造をしているなら急いで治療をしないと採り切れなくなる、などと、統計を元に判断を繰り返してきた結果が、今ある病理診断の姿だ。

病理診断の精度は極めて高い。患者のこれからを、かなり正確に推測することができる。

だから、胃カメラや大腸カメラなど、「臨床医が見た姿」はまず、「病理診断とどれだけ一致するか」という視点で検討されてきた。

しかし、病理診断は精度の高い診断ではあるが、決して、患者さんの将来そのものではない。

あくまで、「患者さんの将来を予想するもの」である。



たぶん、なのだが、今後のコンピュータ診断……ビッグデータをディープに解析するやり方は、おそらく、病理診断を目的にする必要は無い。「患者さんの将来」を直接相手取ればいいのだ。

病理診断と合ったか、間違ったか、ではない。患者の将来を予測できたか、予測できなかったか、を目標にする。

AIは、ある種の分野では、病理診断を超える精度で未来を予測できるのではないかと考えている。



「で、どうなの先生、もっと技術が進んだら、先生の仕事とられちゃうの?」

彼は笑った。

「ええ、たぶん、そうですね……AIが出した結果は、患者さんはおろか、医療者にもわけわかんなくなるレベルの推測になってくると思うんですよね。今ある、○○癌取扱い規約みたいなやつも書き換えになると思うんですよ。

そんな複雑な規約を読み解いて、患者にも、臨床医にも、うまく説明して、納得してもらえる人がいるとしたら、それはたぶん、病理医と呼ばれているんじゃないかなあって思うんですよ」

彼は名乗り、つやつやした名刺をくれた。

2017年2月13日月曜日

生命を与えるものの筋道

もう長いことアニメ見てないけど、最後に見たアニメってなんだっけ、と考える。

「峰不二子という女」だった気がする。

ぼくはたぶんアニメとかほんとうはすごい好きなはずなんだよな。

だって、アニメが好きな人の言ってることが、すごいわかるし……。




「○○が好きな人」の言ってることがわかるかわからないか。

自分が○○を好きになるとは限らないんだけど、その人が言う意味はわかる、ということ。

何かが楽しい、何かが好きだと公言する人の、「筋道が通っているかどうか」は重要だと思っている。

その筋道がぼくにも理解できる場合には、何かうれしい偶然があれば、ぼくだってその○○を好きになれるだろう、ということだから。




ところで。

自分がいやだなあと思う人、にも、考え方の筋道がある。

前提や付置条件が違うだけで、話のつじつまはあっている。

論理的ではある。自然な考えでもある。

自分はこうはなりたくない、と、軽蔑している人間であっても、その人の中で筋は通っているのだ、ということを、最近いろいろな方面から教えられた。



「自分はその方向には絶対に行かないし行きたくないけど、その人の考えの中ではつじつまがあってる」、ということ。

名著「質的社会調査の方法」の中には、「他者の合理性」という言葉が出てきた。浅羽先生という方も、共感はしなくてもいいが理解はできるはずだ、とおっしゃっていた。

ああそうか、なるほどなあ、と思う。この年にして。この年になったから?

田中ひろのぶさんという人のツイートを見ていたら、若いときのほうが不寛容だという趣旨のことを書かれていた。そうかもな、年を取ると寛容になるのかもしれない。



その人が抱える背景、事情をくみつつ、その人が編んでいる理論構成に納得をし、それでもなお、相手を自分の色に染めたくなる日というのは、この先、くるだろうか。

ぼくはそこまで繊細ではないから、お互い、わかりきらん部分はあるけど、筋道が通っているってわかればそれでいいよと、あきらめて、放り出して、そのまま自分の部屋に戻って鍵をかけるようになるのではないか。




そうか、そういえばぼくは、

「アニメの好きな人が言うことはわかる」

けど、

「べつにアニメが好きなわけではない」

のかもしれないんだなあ、と思った。

でも、最後に見たアニメは、峰不二子ではなくて、「この世界の片隅に」だし、あれはほんとうにおもしろかったから、うーん、やっぱり、アニメ好きなのかなあ。

(追記: この記事を書いたあとにけものフレンズを見始めました)

2017年2月10日金曜日

病理の話(47)

病理医は患者と会わないため、社会的な認知度が低いのだが、これに加えて、病院内で最も人数の多い看護師と一緒に仕事をしていないために、そもそも医療関係者における知名度も低い。

だから、しょっちゅう、自分の仕事を説明するはめになる。たとえ病院内にいたとしても、だ。どんな病理医も、けっこうな頻度で、「どんなことしてるの?」と尋ねられている。

外科医とか、消化器内科医とか、泌尿器科医などであれば、普通は「だいたいのイメージ」があるので、「どんなことしてるの?」みたいな根源的な問いはあまり受けないのではないかと思うが(想像です)、病理医はこの質問をとてもよく受けるように思う。少なくともぼくは、しょっちゅうこの質問を受けている。


ところで……。


ぼくは医学部に入るまで、「外科医」というのは外科手術をするのが専門の、「職人のような仕事」、あるいは「力仕事」だと思っていた。アーティスト。脳筋。体育会系。そんなイメージがあった。ところが、実習で1日外科医に随伴してみると、その仕事の幅広さに驚いたものだ。

なるほど、適切な手術をしようと思ったら、病気がどこからどこまで及んでいるかを適切に判断しなければいけないし、臓器の奥に切ってはいけない血管が走っていることを画像から見抜かなければいけないし、どこをどれだけ切ったら体の機能が維持できなくなるだろうかを計算して臓器を切らなければいけないし、ちょっと考えれば、外科が単なる立ち仕事の体力勝負ではない、ということはわかる。

職業名を聞いて、素人が「瞬間的にイメージ」する像なんて、まあ、外れていて当然なのだ。



あくまで個人的な観測経験ではあるが……。

外科医は、非医療者に「体力勝負ですよね」と尋ねられたとき、「そうですね、ひたすら切ってますね」などと答えるが、あえてその「微妙にずれたイメージ」を直そうとはしない。

「いやあぼくらは別に、ただ切ってるだけじゃないんですよ」みたいに、細かく説明する人は、思いのほか少ない気がする。

自分の仕事に誇りをもっていれば、そして、世の中が最低限度の理解をしていてくれるなら、細かい訂正にやっきになって、「体力勝負だけじゃなくて頭も使うんだ」とがなりたてるようなことは、あまりしていないようだ。



職業のイメージなんて、その程度でいいんだよな、と思う。まじめに将来のことを考えて、外科医になるかどうか今とても悩んでいる人というならばともかく、他愛ない日常会話で、自分の仕事をきっちり過不足なく伝える必要はない。にこにこ話題がふくらめば十分であろう。



ひるがえって、ぼくは、「病理医ってあの顕微鏡ばっかり見てる仕事でしょ」、と問われた時に、今まで、どうやって答えてきただろうか。

いや待ってくれ、顕微鏡ばかりじゃないんだと、弁解にいそしんできたのではないか。

病理医のイメージを正しく伝えるために必要なことだと思っていたけれど、その必死さが、「別の」イメージを産み出してはいなかったろうか。

もっと、仕事に、ふつうのプライドをもって、会話を楽しむだけの余裕をもつべきではなかったか。




ぼくは、何か、ぼくの仕事に対する積年の悩み・劣等感を、見透かされたような気になってはいなかったか。

そして、プライドを言葉にすることで、かえって何か落ち着きのようなものを、失ってはいなかっただろうか。

2017年2月9日木曜日

どこでもドアはすぐ立て付けが悪くなる

ブログの管理欄に、グーグル・アドセンスからの注意書きが表示されるようになった。

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そうか、これが、みんながブログで金儲けをするやり方なのか。

心の奥にあるドアがちらりと空いて、「他人のムダ毛処理を見させられているような時に放つ感情」が顔を出した。

その顔の向こうには、「不倫の言い訳をするために村上春樹のフレーズを暗唱する人を見たときに放つ感情」が心配そうにこっちを見ている。

脇には、「背が高く体の引き締まった男に自分の彼女がすっかりほれ込んでいるとき、ぼくも昔は運動していたんだよと過去をひっぱり返して自分語りをはじめる男を見たときに放つ感情」がこたつに入ってつまらなさそうにしている。

誰かが急いでドアを閉めようとした。そいつは「居酒屋で成功者のインタビュー番組を見ている中年が、なんだよセックス弱そうな顔してんなあ! とどなったときに放つ感情」であろうと思われた。



別のドアが、ガチャリと音を立てて開いた。中からいっせいに、

「安っす!」

「しょっぼ!」

「雑っ魚!」

などの罵詈雑言ミサイルが飛び出した。瞬間的に、「床屋代になるんだから贅沢言うな砲」、「こういうのをきっちり積み重ねていく人間が最終的に幸せをつかむんだ弾幕」、「何様だと思ってるんだ世の中なめんなビーム」などが地対空砲撃をする。残骸が降り注いで、地面にぶつかる音がする。好きずき、好きずきと鳴り響く。



大学1年生のときにホームページを作り始め、15年ほど続けていた。以前にもここに少しだけ載せたことがある。引っ越しを機会に、うっかり前のプロバイダのサーバ内にデータを入れたままで新しいプロバイダに切り替えてしまい、消滅したあのホームページ。

やっている間中、なんでそんなもの続けているの、と、何度かたずねられた。お金になるわけでもないのに。

「いやー、こんなのは、お金のためにやってるんじゃないんだよ」

と答えながら、心のどこかで、「まあ本気でそうやって金稼ぎのためにやってたら、それなりに稼げるだろうけどサ、俺はほら、本職で金稼ぐから、こういうのは無償でやるのがいいんだ」と、うそぶいている感情があった。


で、フォロワーも増え、発信力もついたと思った今、Googleがぼくのブログに付けた値段は、月に2800円、であった。


ドアが破壊され、壁が崩落し、中から笑い声とともに、「どの口で金稼ぎだよwwwww月に2800円で生きていくつもりかよwwwwwwwお前そうやってきれいごと言ってて実際そこまでの実力ねぇんじゃねぇかよwwwwwwwうけるwwwwwwww」と大声でゲラゲラまくしたてるガングロ女子高生みたいな感情がいっせいにあらわれた。


ぼくは頭を抱えて笑っている。「ブログはいろいろな扉を開ける」というが、ほんとうだ。