2017年5月26日金曜日

かたよりも普通にこしまわりが好き

たとえば、こういうぼくという人間に話しかけてくる人は、多くが「ぼくに話しかけるのが苦にならない人」である。「ぼくに話しかけるのが嫌で嫌でしょうがない人」は、そもそも話しかけてこない。

なんらかの理由でぼくとの会話をこばむ人……それはぼくの年齢や性別によるものかもしれないし、何かからにじみでる信条をおもんぱかられているのかもしれないし、あるいは職業とか人種とか、単に見た目によるものかもしれないが、そういうものをはなから受け入れられない人は、「平和な文脈」でぼくと会話をすることがない。

だから、ぼくが「他人との会話」で得る経験には、さいしょからカタヨリがある。




学生や研修医の教育をしている人にありがちな言動として、「最近の学生は~」論が挙げられる。「近頃の若い人間と話をしていると、~~なところがだめだ」と言うエースやベテランを、目にすることが多い。

こういう、若い人にダメ出しをしたがるタイプの指導者に、わざわざ会話を「してあげる」若者、という時点で、かなり偏っているのではないか、と思う。

「教育の現場で、指導相手を分析してこきおろすのがクセになっている人」なんて、ぼくだったら、頼まれても会話はしたくない。必要に迫られて話すことがあるとしても、要件だけやりとりして、さっさとその場から離れたいと思う。

若者を批判する指導者が、「若者との会話」で得る経験なんて、偏っているだろうなあ、と考えている。




ぼくは日ごろ、そういう「若者を指導しててこんないやな目にあったよ」という指導者たちの話を、しょっちゅう聞く。

ぼくがそういう人たちと「会話をしやすいタイプの人間」なのかもしれない。

ほんとうは、世の中には、もっと「若者を大切に育てていくタイプの指導者」も、いっぱいいるのかもしれないが、ぼくが会話する相手はたいてい、「若者をダメだダメだと否定していくタイプの指導者」なのだ。

そうか、うーん、偏っているんだろうなあと、結論が見えてくる。

2017年5月25日木曜日

病理の話(82)

欧米人、特に米国の医師と、胃や大腸、食道などの消化管の病気について話すとき、日本人が気にかけていることがある。

「アメリカのドクターだ。こんにちは。うーん、きっとこの人も、『日本人は、がんという言葉を過剰に使いすぎている』と思っているんだろうな……」

まるで呪文のように唱えて、「考え方」を向こうに適応させようと努力する。

「まだ人を死に至らしめるまでに5年も10年もかかるような、粘膜の中にとどまっている腫瘍を、『がん』と名付けるのは日本人だけだ。欧米では、こういう病変のことを、がんではなく、異形成(ディスプラジア dysplasia)と呼ぶ。もし国際学会で、安易に『粘膜内がん』なんて言葉を使うと、狭い日本でしか通用しない言葉を使う鎖国地域の人みたいに思われてバカにされる。いやだなあ、気をつけよう」

日本人は国際学会で、とてもナイーブである。うちはうち、よそはよそ、そうはいきませんのよ。




ただ、しっかりと話を聞いてみると、当の欧米人は、「ディスプラジア dysplasiaはがんじゃない」とは言うのだが、「ディスプラジアはがんと違うから、対処しなくてよい」とまでは言っていない。

「ディスプラジアは将来がんになる病変なのだから、場合によってはきちんと対処することで、将来のがんを防止することができる」と言っている。

日本人は臆病で、欧米人はバッサリ、というイメージがあるのだが、実際、欧米人もそこらへんはきちんと思考を尽くしているし、有名な教科書にも、よく読むと書いてある。




医療のゴールをどこに設定するか、という問題をきちんと考えなければいけない。

「欧米人ががんじゃないという病変を、日本人はがんと呼んで大騒ぎする」という言葉は、医療のゴールを「定義」とか「名づけ」に置いた場合の考え方である。

問題は、そこじゃないように思う。



・学者とか医者がこだわることばとか定義うんぬんじゃなくて、将来患者がどうなるのか、それを少しでもよい方向にもっていくためには何が必要なのかこそを、見極めるべきだ

・がんなのか、がんじゃないのか、という言葉の問題で思考停止してしまってはいけない

・ただ、人間は情緒の生き物であるから、自分が将来どうなるかに加えて、自分が今どのような状態にあるのかをきちんと名付けてほしいという欲求だって、しっかりある

・さらに人間は社会の生き物だ。ひとたびがんと名前のついた病気をもつ人は、社会によって保障されなければいけない。だから、「名づけ」を無視はできない

・おまけに人間は科学の生き物だ。遺伝子とか統計などの多角的な情報に基づいて、がんとそれ以外がどう違うのかをきちんと決めていくことには学術的な意味もある

・「がんじゃないから安心だ」というのは呪いのような言葉だ。「がんじゃないのに治療するのは過剰だ」が真実かどうかも、ケースバイケースで考えてみないといけない

・欧米人は言うほどバッサリものごとを切っているわけではなく、きちんとあいまいな部分を思考に組み込んだうえで、「そんなことはぼくだって考えたよ。けど、どちらかに決めないといけないならこっちだ!」という発信姿勢がはっきりしている

・ぼくらの考え方にもいいところがある。彼らの考え方にも興味深さがひそんでいる。欧米人もまた対話を望んでいる。ぼくらはそのやり方を理解したうえで、共感するしないに関わらず、立場を打ち出して議論をしていくしかない






「そんな簡単なものじゃないんだよ」という言葉がきらいである。

ものごとを単純化した先で、ぼくらの情緒が動くことはしょっちゅうあるからだ。

けれど、

「誰かが簡単に批判したり、臆病になったり、後ろめたい思いをしたり、怒り出したりする部分を、もう少し丁寧に掘ってみると、いろいろ見えてくる」

ということは、あるのだと思う。




今回の話はカギカッコが多すぎてごめんなさいね。

2017年5月24日水曜日

アップデートが終わんないところだったよ、あっぷでーなぁ

Windows updateを眺めているのだが、かなり時間がかかっていて、もののブログなどを調べてみたところ、アップデート時にはパソコンの中をチェックする作業が入っているようで、パソコン全体を確認してからインストールがはじまるために時間がかかるのだ、などということが書いてあった。本当なのかどうかは知らない。

しかし、アップデートのたびに自分をチェックするなんて、人間にはとうていできないワザである。

新しいニュース、新しい人間関係、新しいルール、新しい方針が目の前に降ってくる度に、自分の信条、過去あったこと、気質などをいちいちチェックしてから適応しようとする人が、どれだけいるというのか?

そう考えるとWindows updateというのは誠実だなあ、と、すっかり止まってしまった更新画面を眺めながら、思った。



知識のアップデートというのは大変だ。

あるときに自分が見つけた知識が、その後うそだった……うそまではいかないけど、大げさだった、そこまででもなかった、なんてこと、しょっちゅうだ。

ただ勉強するだけではなくて、自分が常識と思っていることが妥当なのかを検証しなければいけない。

けれど、ぼくらは、しばしば、知識のアップデートにおける「検証」をないがしろにして、ただひたすら情報を読みあさっていくことまでで満足してしまうことがある。



20年ほど前、アメリカでは「高タンパク質、メガビタミン、スカベンジャー物質の接種。以上が健康にいい」という説が流行ったそうだ。ぼくは、高校の時に、このフレーズを友人から聞いた。剣道部だったぼくは、筋トレの効率をあげるためにこれらを取り入れられないかと考えてみたのだが、高タンパク質はともかく、メガビタはデカビタCを飲むことでしか達成できなかったし、スカベンジャーに至っては何をとればいいのかわからなかった。

高タンパク質は、現在流行している「糖質制限」とも似た概念だったのかもしれない。メガビタミン(サプリでビタミンをとりまくる)は廃れてしまった。スカベンジャーってのはそもそもなんだったんだ? 今でもわからない。

でも、最初にこれを聞いた高校生のぼくは、「アメリカほど訴訟にうるさい国で流行ってるからには、きっと根拠があるんだろうな」くらいにしか感じていなかった。



今ならわかる。本当に体にいいこと、本当に社会にとっていいことが、「高校の友人から聞こえてくるお得情報」のレベルでしかぼくにやってこないなんてこと、あり得ないのだ。

本当にいいことなら、社会がもっとワッショイワッショイ推進して、公的機関もがっちり金をかけて回収しに回る。

「おばあちゃんの知恵袋」が役に立つのは、おばあちゃんの知恵が家庭で達成される「小さな幸せ」に照準をあわせているからだ。社会の健康状態みたいな大きな標的を、「ここだけの話」が撃ち抜く道理はないのだった。



こういう事例を、自分でも経験し、他人からも聴くに及び、「検証なき知識のアップデートは、害悪に近い」という立ち位置が、ぼくの中で明らかになっていく。

けど、ま、高タンパク質・メガビタ・スカベンジャーと聞いて信じてしまったぼくも、ただちに実行にはうつせなかったわけで、中途半端にアップデートした知識であっても、大ケガまでたどりつくことは少ないんだろう。

……だから、大ケガするまでは、気づかないんだろうなあ。

すっかりフリーズしてしまったパソコンを見てそんなことを考え、お手洗いに行って戻ってきたら、なぜかあれだけ進捗していなかったはずのWindows updateが全て終わっていた。

お前、ほんとうに、適切にアップデートされたんだろうな……?

2017年5月23日火曜日

病理の話(81)

統計というのはとても面倒で、しかも、「なんだ統計って、人間をものみたいに仕分けしやがって、もっとひとりひとりの顔を見て語れ!」とか怒られてしまうことすらあるので、おそらく大半の人にとって、なんだかあまり通り過ぎたくない、できれば関わらずにいたい、表札の下に猛犬注意と書かれた家の前の小路のようなものである。

……ブログの更新画面というのはいいなあ。

今のをWordで書いていたら、「助詞の連続」とか言って怒られてたろう。



統計というのは誰のためにやるものなのか?

えいやっと方針を決める医者のため。医者から聞いた方針を患者が納得するため。

一例を出そう。

胃に8ミリ大のポリープができた人。胃カメラでこれをプチッと採ってきた。てっきり「過形成性ポリープ」と呼ばれる命に関わらない病気かと思っていたら、「がん」だったという。

がん! びっくりするのである。

しかし、がんならみな命に関わるというわけではないんですよ、と言われる。

このがんは、胃粘膜の中に留まっていますから……。


「留まっているとは、なんですか?」



患者は尋ねる。医者は説明をする。

「がんというのは、しみこむ性質があります。しみこんで、転移をする。全身に広がってしまうと、一部分を採ってもすぐ再発をしてしまうので、手術ではなく抗がん剤などを使って、全身一気に治療をしてしまわないといけなくなります」

患者はおびえる。しかし、話には続きがある。

「でもこのがんは、粘膜内に留まっていますからね。まず、転移の心配はないわけです」

……まず、というところが気にかかる。

「正確には、粘膜内にとどまっているがんであっても、1%未満の確率で、リンパ節に転移します」

でた、確率。

「でも、1%未満ですから、このまま、様子をみましょう」

患者は釈然としないのだ。

1%未満であっても、確率が「ゼロではない」。

だったら、100人とか1000人が同じ病気であれば、その中のだれかは「がんが転移する」ということではないか。

いろいろ調べてみると、「リンパ節転移の確率があるならば、手術で胃を採ることも必要だ」と書いてある。

あわてて主治医に尋ねてみた。

「1%未満とおっしゃいましたけど、転移の確率がわずかでもあるならば、念のために胃をとってしまったほうが、安全なのではないですか?」

主治医は答える。

「でもねえ……胃をとる手術って、すごく安全ですけど、手術関連の合併症が出る確率だって、ゼロではないんですよ」

ああ……また、ゼロではない、だ。

「ごくわずかな確率でリンパ節転移をしているかもしれない症例で、ごくわずかではあるけれど死んでしまうかもしれない手術をする。これは、メリットとデメリットをてんびんにかけるような話ですから。あなたがぼくの家族なら、手術はおすすめしませんね。手術というのは、0.0何%程度とはいえ、副作用がある手技です。そういうのは、転移の確率が5%とか10%とか有り得る人にこそやるべきだ。転移する確率があなたよりはるかに高いときに考えるのがスジです」


確率、確率、確率……。

確率はいいよ。「わたし」はどうなんだ。「わたしの場合」はどうなるんだ……。






こういう感想が出ること自体、無理はない。

世の中には「絶対当たる予測」というものは存在しない。すべては確率によって定義される。あるのは結果だけ、いつも結果を完全に予測し得ることはない。

有名なフレーズがひとつある。

「世界に、絶対、と言い切れることがひとつだけある。それは、

  『世の中に絶対というのは絶対無い』

 ということだ。」

なんて。

でもそこでぶちあたるのは「確率」である。

確率はグラデーションだ。シロかクロかではない。グレーな部分を考えるためのものだ。

天気予報に、明日は絶対晴れると言って欲しい。

降水確率0%だ、と言っていた。やったあ!

でも明日になってみたら、雨が降った。なんだよ、天気予報はずれたじゃん!

……これは、天気予報の「当たる確率」が100%じゃないから、起こったことである。

予報するのが天気でなくてもいっしょだ。100%当たる予報というのはない。



「がんです」と病理診断を書くとき、「ぼくのこの診断がはずれる確率はどれだけあるだろう」と考える。その確率に応じて、書き方を変える。

「ほぼ間違いなくがんですが、臨床画像が非典型的な場合には一度ご連絡ください」

「がんの可能性が高いですが、臨床的にがんではない可能性があるならば再検討が必要です」

「がんか、良性腫瘍か、五分五分です。再度検査をして、もう一度病理診断をさせてください」



ぼくらが「絶対だ」と言えることが一つだけある。それは、「わからないことをこねくり回しても、わかるようにはならない」ということ。

わからないならば、そのわからない理由をきちんと述べる。

どうしたらわかるようになるのかを、臨床医に投げ返す。そして、投げ返した球と同じスピードで、あるいは投げ返した球を追い越すくらいのスピードで、臨床医に電話する。

「わかんないんですよ。だから、こうしましょう」

進言して、一緒に悩んで、先に進む。



その先にいる患者が今日も困っている。「確率って言われたって……」

たぶん、この病理レポートを見たら、患者は悩んで苦しむだろうなあ。

その想像、臨床医と同じくらい、病理医だって、持っていてしかるべきなのである。

2017年5月22日月曜日

さあて先週のサザエさんは

モンゴルに行く前に、モンゴルから帰ってきた翌日のブログを書いている。もともと1週間分の記事ストックをしているので平常運転である。

「何を見て何を感じて帰ってきているのか、この頃のぼくは」と書いておけば、自分なりの感慨にひたることができるだろうな。



それはそれとして自分の記憶の使えなさには辟易する。かつて、美しい風景だとか、おいしい食事だとか、いろいろ見てきたこともあったはずなのに、歴代のすばらしい記憶とやらを思い出そうとしても、脳内の風景にいまいちピントが合わない。

あそこに行ったときのあの風景はどうだったろうかと写真を引っ張りだそうにも、スマホの遙か昔のバックアップデータを探り当てるのがまず一苦労だ。みつけた風景写真には、人が写っていないせいか、どうも感情移入できない。自分が映り込んでいない風景写真というのは、時間をおいて見てみると、単に構図がちょっとへたくそな素人の写真でしかなく、そこにあったはずの色素、臭い、音といったメタデータがすべて消えてしまっている。

まいったな。

自撮りしとけばよかったのか。



自撮りした写真というのは多くないが、学会などでえらい先生方と一緒に撮っていただいた写真というのがあるはずだ、と思って、学会写真フォルダを開いてみた。

えらい先生方の名前をもはや覚えていない。ぼくはいつも似たスーツ、似たネクタイでそこに写っている。似たポーズでこっちを見て、似た笑顔である。

まいったな。

自撮りであってもだめか。




香川のうどんを食いまくって楽しかった日の記憶、思い出すのは「あれから何度も、香川のうどんはおいしいよと人に言って回ったなあ」という記憶ばかりだ。後日談で当日の思い出が塗り替えられてしまっている。




エントロピー(乱雑さ、片付かなさ)の局所的減少こそが生命の本質であるはずなのに。

ぼくの記憶はふつうに時間通りのエントロピー上昇を来してしまっているのだった。




先日、実家にて昔の写真をみた。ぼくによく似た父親と、ぼく、そして弟が写った写真を見つけた。この写真の記憶自体がない。はじめて見る写真のようだ。

そこに写った小学生時代のぼくは、父親と同じポーズで、両方のポケットに手を入れて、こちらを見て笑っていた。

今とは少し違う笑顔をしていた。

おそらくは、写真を撮った母親を見て、笑顔になったのだろうと、わかる写真だった。




ぼくは今、写真に写り込んでも写り込まなくても、笑顔を向ける相手が自分なのだな、だから毎回、似たような顔しかできないで、特別な記憶として残すこともできないでいる。

さてモンゴルではどのような笑顔を撮ったのか、明後日のぼくは。

それを見返して、何か違うものを見ることができたのか、来週のぼくは。

2017年5月19日金曜日

病理の話(80)

ぼくら、「お気軽にご連絡ください」という立場である。レポートによく書く。わかんないことがあったらどんどん連絡してね!

……でも、臨床の医療者は、決して気軽には病理に連絡できないようだ。

というか、ぼくらは互いに、「科をまたいだ連絡」に対して、とても抵抗がある。

自分と違うタイムスケジュールで働いている専門家の時間を、電話やメールで削ってしまうことに対して、かなり躊躇してしまう。相手がどれだけいいよいいよと言ってくれても、である。

だって仲良くなればなるほど、相手の忙しさ、大変さが見えてくるし、余計な仕事増やしたくない(たとえそれが患者さんのためだったとしても、本来相手の仕事ではないものを相談するというのは、こと同僚にとっては「余計」なのではないか、と、邪推してしまうのが人の常である)。

「気軽に連絡をとりあえる」という関係は、なかなか達成できない。



臨床科同士の横の連携が密になっていると、診断の精度は上がるだろうなという予感がある。しかし、その予感と同じくらい、「ま、結局最終的に診断を下すのは自分だから……」と、連携をめんどくさがる感覚も、ある。

とりあえずガイドラインに表記されている事項を遵守していれば、細かいクリニカル・クエスチョン(臨床現場で医療者がもつ細かい疑問)をすべて解決しなくても、医療は回っていくし……。



あるいは、病理の勉強をしている臨床医などは、自分でもある程度「病理学的な事項」について判断ができるようになっているので、かえって「まあこの細かい疑問は病理医に聞くまでもないか」と自己解決してしまって、病理との連携をめったに取らなくなる……なんてケースもある。



とかく医療者は、とくに医師は、「自分ですべて解決できる」ということに、武勇伝的な何かを感じがちだ。

一方では、「お互い忙しいんだから、細かい疑問くらいなら自分で解決できるようにならんとな」という心遣いから出た行動であったりする。責める筋合いのものでもない。

けどぼくは、医療者のそういう「まあ相手も忙しいだろうし、聞きに行くまでもないか」は、さまざまな機会逸失につながる、「悪行」であると考えている。

善意から出た行動であっても、悪い何かをひっぱってくる可能性があるのなら、それは悪習としてきちんと是正していった方がいいと考えている。



細かいクリニカル・クエスチョンを、病理をはじめとする他科と連携せずに解決すると、いつしか病理医は「臨床で細かい検討が行われていること」に気づかなくなる。

医療は日進月歩なのに、いつまでも過去に必要とされたデータだけを出し続けるマシーンとなって、いつのまにか臨床の中で取り残されてしまう。

「こんな細かいことを病理にたずねるの、悪いかなあ」ではない。

「こういう細かいことがあると、病理をライブ・アップデートしてやろう」くらいの気持ちでいていただかないと、ぼくらはついていけなくなるのだ。

逆に、ぼくらが臨床に新たな気づきを与える情報を、別ルート(たとえば病理学会など)から持っているかもしれない。臨床のアップデートを病理から発信する機会は結構多いのだ。



お互いのために、連携は絶対必要なのである。



さて、お互いに連携を取る方がよいと言いながら、心理的障壁によって電話するのを躊躇する臨床の医療者たちを、どのようにアクティベートしていくか。

正解はないのだが、ぼく自身は、いくつか「こうしたらよいのではないか」という武器を実装している。



まず、病院の集まりに参加する。それは会議でもカンファレンスでもキャンサーボードでも飲み会でもなんでもいい。顔を見てもらう。血の通った人間がおたくの病理を担当しているんですよと、ちゃんと周知する。

次に、病理レポートを書いているときに、ちょっとでも何か臨床情報にひっかかることがあったら、ばんばん電話する。相手の時間を奪うことになる。迷惑かもしれない。だから、外来の担当時間などを逐一チェックし、各科の処置(手術など)のスケジュールをチェックして、「少なくとも今は大丈夫だろう」という時間に電話をかける。

病理レポートにも血の繋がった文章を書く。データベースを作りたいであろう臨床医が邪魔にならない程度に、「付記」欄を設けるようにして、その付記に「疑問なら答えるから連絡してこい」という雰囲気をばりばりにおわせる。

問い合わせがあったら秒で答える。とにかく自分の仕事を後回しにしてでも(どうせフレックスだ)、臨床からかかってきた電話にはその場で全て対応する。

プレゼン作成の依頼があったらなるべく詳細に解説を作る。パワーポイントのコメント欄に、時間がなくても読める、しかし必要条件をちょっとだけ越えるくらいの細かい説明を添えておく。




コミュニケーション重視の病理を心がける。それが、「次善の策」であろうと考えている。




……次善の策、と書いた。これらはすべて姑息的手段である。

本当は、いちばんいいのは、「あいつに聞けばものすごくいろいろ解決する」という実績をきちんと積み上げることである。

知人に、普段むだぐちをほとんど叩かない、病理検査室の奥に籠もって丹念な仕事を紡ぐ、ほとんど影のような存在の、それでいて病院内外から圧倒的な信頼感を得ている、しょっちゅう問い合わせの電話がかかってくるタイプの病理医がいる。

誰が呼んだか、彼のあだ名は「ジーニアス」。撮る写真が美しい。なんでも知っている。参考文献がスッと出てくる。

ああいう病理医を知ってしまうと、コミュニケーションのためにFacebookにいいねを付けまくるぼくなんぞ、合戦前にさんざんしゃべってフラグを立てたあげくに関羽に一合で斬られる魏のモブ武将みたいなもんだよなあと、自戒してしまうのだ。

2017年5月18日木曜日

モンゴルさん

この原稿は、ぼくがモンゴルにいる間にアップされる予定です。ツイッターで告知できないかもしれません。わざわざ読みに来てくださった方、いつもありがとうございます。




今回のぼくのモンゴル出張、目的は、ANBIG workshop ( http://www.anbig.org/ ) に出席することである。

Asian Novel Bio-Imaging and Intervention group, 略してANBIG。Iが2回あるけど、1回しか読んでいない。こういう、無茶な略称を付けた研究会には、たいてい「その略称でなければいけなかった理由」がある。

きっと、Asian NBI groupと読んでもらうためだろうなあ。

「NBI」とは、オリンパスという企業が作った胃カメラ・大腸カメラの技術の名前(narrow band imaging)に等しい。つまりはCMをかねているのだろう。

オリンパスだけではなく、複数の企業が協賛して、このぜいたくな研究会を支えている。





ANBIG workshopの正体は、エキスパート内視鏡医(胃カメラや大腸カメラの達人たち)が、アジア各国で技術を伝えて回る会だ。

過去にベトナム、香港、ミャンマー、インド、タイ、オーストラリア、台湾、中国、シンガポール、サウジアラビア、韓国、スリランカ、マレーシア、インドネシアで複数回開催されている。うーん、すごい数。

これだけの国で、しかもそれぞれ複数回開催されているとなると、さぞかし歴史ある研究会なのだろう、と思ってさかのぼってみて、驚いた。

中国で開催された第1回は2013年12月のこと。たかだか3年半しか経っていないのに、これだけの国に行ったというのだろうか?

過去の記録をふりかえってみた( http://www.anbig.org/activities/ )。なんと、「毎月」開催しているのである。

毎月、国際研究会を、各国で開催するだけのお金……?

いくら多数の企業が協賛していると言っても、なかなか運営できる回数ではない。




ANBIGでは、毎回、「先生役」にあたる医師が、2名ほど現地に乗り込んで、内視鏡を用いた最新の技術を、その国のエース達に「伝授」する。

呼ばれる「先生役」の多くは日本の内視鏡医だ。病理医のぼくですら聞いたことのあるような有名な名前が、ずらりと並ぶ。




これだけの国に、これだけの頻度で、毎回日本から、国際線に乗っけて偉い人を運ぶだけの「ニーズ」と「商売のタネ」が、この世界に存在する、ということ。

ちょっと、気が遠くなる。




胃カメラ、大腸カメラがターゲットとするのは、食道がん、胃がん、大腸がん。内視鏡医たちは、これらのがんをカメラで見て「診断」し、さらに、その場でカメラから特殊な電気メスのようなデバイスを出して「治療」をする。

胃カメラや大腸カメラですべてのがんを治療できるわけではない。進行したがんは、カメラの先から出る小さなデバイスだけでは治療がしきれないので、外科手術を行ったり、放射線治療や抗がん剤を使うなどして治療を行う。

ただ、「ある程度小さいがんであれば」、手術をしなくても、放射線や抗がん剤を使わなくても、カメラだけで治療できてしまうことがある。

これは本当にすごいことだ。

お腹を切り開かなくても、抗がん剤の副作用に耐えなくても、がんを根治させることができる、そんな素晴らしいことはない。限られたケースでしか適用できないにしても、だ。

だから、世界各地の「胃腸のお医者さん」は、最新の内視鏡治療がやりたくてしょうがない。




すごいお金が動いて、アジアのあちこちで研究会が開催されるのも、納得なのである。




そんなところになぜぼくが呼ばれていくのか……。

実はまだ、このブログを書いている時点では、モンゴルにたどりついてもいないし、講演も終わっていないので、ぼく自身、答えを持っていないのだが、ある理由を推測している。



理由。

胃カメラや大腸カメラを「極めよう」と思ったら、病理の知識について勉強したくなるのは当たり前と言える。

研究会が成熟し、モンゴルでも通算3回目の開催となったANBIG。「そろそろ病理医を呼びたいな」となったこと自体は、まったく不思議ではない。

内視鏡の進歩はすさまじく、それこそ前述のNBI(オリンパス)やFICE(富士フィルム)などの光学強調技術、さらには超拡大内視鏡(エンドサイトスコピー)と呼ばれる技術によって、消化器診療は今や、

「カメラを見るだけで、病気を形作る細胞の姿まである程度わかってしまう」

時代に突入した。

病気を切り出してきて、顕微鏡で覗かなくても、胃カメラや大腸カメラの画像を細かく解析すれば、病理診断に匹敵する確定診断ができるかもしれない。

「病理診断に匹敵する」ために必要なのは、「病理診断に精通する」ことだ。

実際、日本では、多くの内視鏡系の学会・研究会があるが、その多くで病理医が参画している。

だから、ANBIGでも、このたびはじめて、病理医を呼ぶことになったのであろう。



……なぜぼくなのだ?

それは、ぼくが、「ほどよいザコ」だからではないか。



海外の研究会に、病理で有名な教授なんて読んで講演を頼んだら、交通費・宿泊費に加えてさらに、「講演料」を払わなければいけない。

その点ぼくなら、偉くないから、交通・宿泊以外のお金を払わなくていい(実際、講演料は出ません)。

多少強行日程であっても、体調を崩しても、日本の病理学が揺らぐわけでもないし。

なにより、「病理の会」じゃなくて、「内視鏡医の会」なんだから、多少経験が少ない病理医でも、なんとかなるんじゃねぇの?




……みたいな理由を考えないと、なぜぼくが呼ばれたのか、どうもよくわからんのである。謙遜とかではない、ふつうにびびって、モンゴルでスマホやPCを充電するための変換プラグを用意したり、モンゴル語の勉強をして現地の人に嫌われないようにしたり、予防接種の準備をしたり、パスポートの写真がしょぼかったことを根に持ったり、仁川国際空港での乗り継ぎの仕方をブログで勉強したりしているのだが、そのあいまにぶつぶつと、不安だ、なんでぼくなんだ、ちゃんとやれるんだろうか、MIATモンゴル航空のeチケットにリザーブナンバーが書いてないのはなぜなんだ、とつぶやき続けているのである。

そんなぼくは、飛行機の乗り継ぎに成功している場合は、いま、ウランバートルのホテルでそろそろ目が覚めるはずなのです。Wi-Fiはほんとうにつながっているのだろうか。

2017年5月17日水曜日

病理の話(79)

ぼくら医療者が、何か珍しい病気に遭遇したとき。

あるいは、病名自体はあふれているのだが、珍しい展開(いつもと違う経過、いつもと違う見た目)をとる病気と出会ったとき。

医療者は、「症例報告」というものを行う。

学会で、みんなの前で発表するとか、論文にして雑誌に投稿し、雑誌の査読者(さどくしゃ)にチェックを受けて掲載してもらうとか、やり方はさまざまだ。形式はともかく、珍しいことにであったら報告する、というのは、医療者にとって半ば「義務」である。


珍しい病気の診療においては、「診断がしづらい」とか、「思ったように治療が進まない」とか、「ひとあじ違った手技が求められる」など、さまざまな困難を伴う。

その困難さを乗り越えたあと、ああ、珍しかったなあ、で終わらせてしまってはいけない。

自分が感じた珍しさ、特殊性などを、同業者や後の人々に伝えて、残してあげなければいけない。

そうしないと、世界のどこかで「同じように」まれな病気に出会った人が、自分と同じ悩みを繰り返さなければいけなくなる。




……ということで症例報告は、昔も今も市中病院の研究活動としてはとてもメジャーである。さてここからが病理の話なのだが、病理医をやっていると、

・他科のドクターが、珍しい症例に出会った際に、病理の部分を担当するようにお願いされる

ことが比較的多い。

珍しい経過をたどったがんの「顕微鏡写真」を撮って欲しいと言われたり、珍しい形をしていた病気の肉眼写真から顕微鏡写真までをパワーポイントにわかりやすくまとめて欲しいと言われたりする。

ぼくは、臨床の医療者から「写真を撮って欲しい」と言われた症例をざっくりとエクセルにまとめているのだが、今日このブログを書いている段階で、通し番号が

(198)

となっていた。

今の病院に勤めて約10年になる。年間20件くらい、臨床家の症例報告や、ケースシリーズの作成などに付き合っている、ということだ。

この、「他科のドクター、あるいは技師さんのために写真を撮る」ことが、苦になってしょうがない、という病理医もいる。

まあわかる。自分の本来の仕事ではない、という意味だろう。

症例報告をするから手伝えと言われて病理医が手伝っても、実際に病理医自体の名前が報告に残ることは2割にみたない。気の利いた医療者だと病理医の名前も報告に入れてくれるのだが、学会や雑誌の規定で、(主治医ではなく、臨床の学会に入っていない)病理医の名前を載せられないケースも多いのである。

けれど、ぼくはこの「他人の仕事をこっそり手伝う」のがそんなに嫌いではない。症例報告の病理を解説してくれと言われ、パワーポイントに解説を組み上げて渡すのが、むしろ好きなのである。

なにせ、症例解説を頼まれる症例というのは、臨床の医療者達が「症例報告したい」と思うくらい、珍しいものばかりなのだから。

稀少なケースをじっくり勉強するのにもってこいだし、どこに困難が潜んでいたのかと考えて、また次回このような症例がきたらもっと華麗に診断を決めようとモチベーションも上がる。



今まで、「病理医は縁の下の力持ちである」みたいな説明を、ぼくは嫌ってきた。患者さんに会わないからとか、最前線にいないからというのを「縁の下」と表現されるのがイヤで、

「宇宙戦艦ヤマトの艦長の席にいる」

とか、

「軍師として高台から戦況を見つめて指示を与えている」

などと吹聴してきた。



ただ、「医療者の学会発表の手伝い」をしているときのぼくはまさに「縁の下の小仕事」をしているつもりでやっていて、うーん、あれだな、ぼく、縁の下も別に嫌いではないんだなあと、思ったりするのである。

2017年5月16日火曜日

芳一的思考

日中、歯を食いしばってしまう悪いクセができた。ぼくは元々、ハナクソをほじるとかびんぼうゆすりをするとか頭をぽりぽりかくなど、あまりお行儀がよいとは言えない行動を無意識にとってしまうタイプの人間である。

ハナクソをほじるとかびんぼうゆすりをするというのは、「人目に付く」。だから、自分でも意識して控えようという気持ちになるのだが、アゴに力が入るくらいだと周りの目にはつかない。まあいいかと思って放置していたら、治療後の歯の根が少しきしむようになってしまった。

食いしばりすぎである。

プロ野球選手の中には、スイングの際に歯を食いしばるあまり、奥歯がすべて欠けてしまう人もいると聞く。噛む力はとても強いのだ。ばかにはできない。

「かさぶたをはがして遊ぶ」とか、「爪の横にできたささくれをむいて遊ぶ」とか、「ヒゲをつまんで抜く」などは、いずれも「ライトな自傷行為」と言い換えることができる。とるにたらない刺激を与えて瞬間的な快感を得る行動。

これらが、社会の文脈で「はしたない」「お行儀が悪い」と注意して頂ける世に生きていることは、ぼくにとって好都合である。無意識で自分をむしる行動は、はしたない以前にあまり体によいものではなかろう。そこまでひどく悪いわけでもないが。

ということで、どうしたらこの「食いしばり」をやめることができるだろうかと、考えている。

食いしばりをやめよう、と考えていると、アゴが気になってしかたがない。あーもう。




意識すると、忘れられなくなるという現象は、脳の必要悪なんだろう。

集中が必要な人に、「舌ってどこに置いてあるんだったっけ?」と問いかけるいやがらせをしたことがある人もいるだろう。一度意識してしまうと、なかなかスッと忘れることができなくなる。

これはたぶん、「脳が、情報に重み付けをする」という機能の副産物だ。

すべての情報を等価に記憶していたのでは、何かが起こる度に記憶の引き出しを端っこから順番に開けていかなければいけなくなる。だから、「ひとたび意識したならば、その記憶は取り出しやすいところに一時ストックする」機能があるのではないかと推察する。

このことを逆手にとって、仕事をしているとき、ストレスがかかっているときに、歯を食いしばるのではなく、何かほかの行動を無意識下に選択できるよう、脳の引き出しの整理をすれば、食いしばりというクセは奥深くにしまわれて、再び出てこなくなるのではないか。

たとえばペンを回すとか……。

腹筋に力を入れるというのもいいかもしれない。6パックになるかもしれない。

ふくらはぎを動かしてエコノミークラス症候群の予防をするというのはどうだ。




結果、現在、髪の毛、鼻の穴、耳の中、アゴ、指先、腹筋、背筋、ふくらはぎ、足の裏などが気になったまま仕事をするという地獄のような毎日を送っています。

2017年5月15日月曜日

病理の話(78)

78回目となるがそろそろ自分が前にどこに何を書いたのか思い出せなくなっており、前にも書いたかもしれないことをうっかりまた書いてしまうかもしれないのでご容赦いただきたい。


つまり何が言いたいのかというと、文章というものは、書いただけでは「自分がかつて何を書き残したか」を覚えられないのである。よっぽど頭のいい人なら別なのかもしれないが、頭がよくないと使えないシステムというのは困る。

何の話かというとこれは「病理レポートの検索」の話である。



病理診断は、結果がすべて文章化されている。精度の高い、確定診断に近い情報を、「レポート」に記載している。

多くの臨床医療者や研究者は、病理のレポートを「検索」し、自分の施設にどのような症例が過去に存在したのか、その症例ではどのような疾患名が適用されたのか、いかなる進行度、いかなるステージ、いかなる組織像であったのかを、過去に遡って検討するのだ。

あらゆる病理診断科は、「データベース」として活用されなければならない。だから、ぼくらは、「あとで検索されるかもしれない」という予測のもとに病理診断レポートを書く必要がある。



「毎回違う表現」で書いて喜ばれるのは、文学に限った話である。

科学は、「毎回同じ表現」で記載すべきだ。

「腺癌」と「adenocarcinoma」は同じ意味の言葉なのだが、ある日は気分で「腺癌」と書き、またある日は気分で「adenocarcinoma」と書く、なんてことをしてしまったら、腺癌の症例を検索するときには2つの語句で「or検索」をかけなければいけない。

Carcinoid tumorと書くか、カルチノイド腫瘍と書くか、neuroendocrine tumor (NET)と書くか。

印環細胞癌と書くか、signet-ring cell carcinomaと書くか、sigと略称で書くか。

こういうのはきちんと統一しておかないと、後で検索するときに痛い目に遭う。



見やすいレポートを書くために、「行替え」を使ったとする。このとき「長くなった英文をハイフンでつないで2行に連続させる」なんてことをしてはいけない。

合胞体栄養細胞(syncytiotrophoblast)が長い言葉で、行の最後にかかってしまったからと、「syncytio-trophoblast」とわけて改行させてしまったら、もう検索では見つからなくなってしまう。



見やすいレポートを書くために、「インデント」で行の頭を揃えてやったとする。以下はその例である。

  表皮の肥厚によって構成された外向性の隆起性病変です。組織学的
  に、類基底型の細胞が増殖する病変で、基底部には色素沈着を伴い
  ます。病変内部にはpseudohorn cystの形成がみられます。脂漏性
  角化症と診断いたします。

たとえばこれ、丁寧に改行して、行の頭を2字だけ下げて揃えてあるんだけど、この処理をしてしまうと、「脂漏性角化症」という言葉では検索でhitしなくなる。「脂漏性角化症」が二つのことばにちぎれてしまっているからだ。おわかりだろうか。



病理のレポートは、まず第一に医療者に伝わりやすいように、意識して書く。見やすく、読みやすくすることはとても重要だ。

しかし同時に、

「後世の医療者や病理医、さらには数年後の自分が、検索でふたたびこの症例に戻ってこられるように」

という側面をも見据えて文章を作るべきである。

稀な症例、教訓となる症例を、ただ通り過ぎるだけではだめだ。

いつでも自分の経験した症例、さらには他の病理医が経験した症例に舞い戻って、患者さんとの「一期一会」を無駄にしないように、努めていかなければいけない。

そのためには、PC検索という文明の利器を最大限に活用できるよう、文章作成の際にもきちんと決まり事を作っておくことが大切なのである。




以上のことをじっくりと考えていると、最終的に、

「病理レポートの重要な項目はすべて英語で書くべきだ」

という結論に至る。英単語は、日本語よりも、改行などに伴う禁則処理がきちんとなされている(単語の途中で改行はされない)上に、表記ブレが少ないからだ。

日本語だと漢字やひらがなのバリエーション(頚部と頸部、鼠蹊部と鼠径部、びらんと糜爛)が含まれる怖さもある。英語で気を付けなければいけないのは、略称くらいか。

一方で、

「日本人が書き、日本人が読むためのレポートを全て英語で書くのはどうなんだ」

という、至極ごもっともなクレームにも対応する必要がある。結局、ぼくは、

「後に検索の対象になるかもしれない重要な疾患名や所見の名前などは、英語と日本語両方で表記する」

というやり方をとっている。

「腫瘍細胞は篩状構造 cribriform patternを形成し」

とか、

「大細胞神経内分泌癌 large cell neuroendocrine carcinoma」

とか。



記載と表現について、科学や医学には古くから伝わるルールがある。病理医は、まずこの「古典的な病理学の記載方法」というのをきちんと学ばなければならない。

そこに加えて、技術の進歩(PC検索とか、データベースの構築とか)を意識し、後の時代に生きる人間ほど「昔をいっぺんに検索できる方法はないかな」と考え続けなければいけない。

さらには、病気の概念自体が時代と共に移り変わっていくことも忘れてはならない。

10年後、20年後に、今この名前で診断している病気が違う名前に変わっている、なんてこともあるのだ。

これらを踏まえて考え続けている人間が、各病院に1人いるかいないかで、その病院から出てくるデータの信ぴょう性というのもまた少しずつ変わっていくのではないか、そんなことを考えている。



たった今、「信ぴょう性」と「信憑性」の表記ブレが気になったところである。

2017年5月12日金曜日

利口なやりかた

時代とともに価値観が移り変わるのではなく、価値観が移り変わるから時代という定義が行われるのだと思うのだが、この話をしたところで誰も幸せにはならないし、利口な人間はそういうの全部わかっていると思うので、おしまいとします。

なにはともあれカメラを買った。日常の風景がすべて「写真におさまりそうか」という観点で見えてくるので、迷惑なことである。この感覚を飼いならすと、女子高生になれるかもしれないという、淡い期待もある。インスタグラムの何がおもしろいのか、人に自分の撮った写真を見せてどうなるのか、という質問自体が成り立たないし、世間がファインダー越しに見えるのではなくインスタグラム越しに見えているのだし、載せないという価値観はないし、撮らないという時代感もない。

で、ま、撮らないでいる。自分が撮った写真は、世界を矮小に切り取っているようにしか思えない。代わりに、人が撮った写真にいちいち感動できるようになった。こんなのウツシエじゃん、としか思っていなかった自分が、新たな時代に突入した、「世界を切り取れる人と切り取れない人がいて、切り取れる人はすばらしい」。

そういえば自分の見たものしか信じないというタイプの人もいるけれど、君の目なんてのは世界を眼球の形に切り取ったにすぎないのに、真実がどうのとしゃらくさいよな、なんて思うようにもなった。



Nikon D5500はとてもいいカメラで、大変たのしいのですが、ぼくはやはり今度GRIIも買おうと思います。だいいちRICOHもなんかあぶねぇって言うし、今買っとかないと後悔するからな。

2017年5月11日木曜日

病理の話(77)

細かすぎて伝わらない話よりは、おおざっぱであっても日常にリンクする話の方がいいのだろうなあ、と思うのだが、そういう「人に伝え、興味をもっていただく話」ばかりしていると、マニアックなおもしろさというのは失われてしまう。病理学ってのはたぶん、そのマニアックなところにこそ、「働き続ける甲斐」が転がっている。神は細部に宿るとか偉そうに言う人がいるのだけれど(たいていは芸術とかそっち方面の人だ)、細部に宿るのはどちらかというとオタクだ。まあ、オタクはよく「神」という言葉を使うのでたいして違いはないのである。つまりは今日はなんの話をするかというと、マニアックな、細部の話をする。


細胞がならんで何らかの形を作る、ということ。よく考えるととても異常なことである。

自然界で、なにかが並んで「偶然かたちを作る」というのは、心霊写真、UFO、宇宙人といった文脈でしか起こりえない。ふつう、自然に存在するものというのはすべて、アットランダムな配列にばらけてしまうものだ。

ところが、人の体の中では、細胞と細胞が手を取り合って、意味のある形を成す。

人体の中で一番多くつくられる形は、「パイプ」である。「通路」でもいい。生命はとにかく物流なのだ。栄養を行き渡らせる。酸素を分配する。そのために必要なのは、

・道路
・トラック
・物資そのもの

である。血管、リンパ管といった細かい生活道路、さらには胃とか大腸とか、おっぱいの乳管だって、唾液が出る導管だって、あれもこれもパイプばかりなのだ。

この「パイプ」を作るためには、細胞がきちんと手を取り合って「輪」を作らないといけない。

輪を作るのに必要なのは、なにか?



□ ←細胞だとします。



□□□□


□□□

↑これ、まだ途中ですけど、続けていけば、パイプ(輪切り)になりそうね?




□□□□□
□   □
□   □
□□□□□

↑こうなればいいよね? では、この形をつくるのに「失敗する」ことがあるとしたら、どういう感じだろうか。



□□□□□
□ □ □
□ □ □
□□□□□

↑ざっくりいうとこういうことなのだ。余計な仕切りができてしまった。これではパイプとしては不適切である。パイプの中身(穴)のサイズが、狙い通りの大きさになっていない。

パイプの成功パターンと失敗パターンでは、細胞の配列に、はっきりとした「違い」がある。それはなんだろうか?

成功パターンにおける細胞の配列は、以下の2種類しかない。

□□


□□□

これに対して、失敗パターンにおける細胞の配列には、もう1種類ある。

□□□
 □

これだ。

細胞の気持ちになって考えよう。主人公を黒く染める。

■□


□■□

成功パターンの2種類では、黒い細胞が「両手」を使って、両脇にいる細胞と手をつないでいる。連結している細胞が、左右の1個ずつだ。

これに対し、失敗パターンだと?

□■□
 □

黒い細胞は、3個の細胞と連結している。



「細胞の気持ちになって考える」と。

両脇2個の細胞と手をつないでいてくれれば、自然と「輪」はできるのだ。

しかし、余計な気を起こして、3本目の手を出してしまうやつが現れると、「輪」という構造はうまく作れなくなってしまう。



人体の中で、細胞が並んで何かの構造を作るときは、今説明した「2次元」ではなく、「3次元」でものごとが運ぶ。だから、もっともっと複雑な解析が必要になるのだけれど、構造を解析するというのは結局こういうことだ。

細胞にはある程度の「制限」がかかっている。つなぐ手がおおければいいというものではない、手は2本でいいといったら2本でいい。そこに新たな3本目の手が現れてくるときは、なんらかの「限定的な機能追加」があるか、あるいは単純に「空気の読めないおかしいやつ」だということだ。

空気の読めないおかしいやつとはつまり、「がん」だったりする。



病理学用語で、「cribriform pattern」というのがある。日本語に訳すると、「ふるい状」となる。ふるいとは米とか麦とか豆とかをより分ける、穴のいっぱいあいたアレだ。

□□□□□
□ □ □
□□□□□□□
□ □ □ □
□□□□□□□

これがcribriform patternである。ひとつの輪郭の中に、穴がいっぱいあいている。
おとなしくパイプの形に並んでいればよいものを、余計な手を何本も出してしまうがん細胞のせいで、穴があきまくってしまった状態である。


細胞をみると、病気がわかるというのは、こういう「解釈」を積み重ねた結果だったりするのだ。

2017年5月10日水曜日

うさどさんさ

水曜どうでしょうというテレビ番組があって、DVDなどが今でも出続けているのだが、そのディレクター陣が書いた「どうでしょう本」というのがかつて2冊だけ発売された。

まあ大した本ではないのだが今まで読んだ本の中で一番おもしろかった本のひとつだ。

大したことはないのだが創刊号で「うどん」の話を特集していたのだ。

大した内容ではないのだがそのうどんの話がとても好きだったので、ぼくは、本を読んだあとに、香川県に行って実際にディレクター陣が行ったうどん屋というのを全部回ってみたのだ。

2泊3日で14軒回ったのだが、当時はぜんぶ食べられた。香川のうどんは一杯ごとの量が少なめで(多くもできるけど)、1日5食くらいは余裕で行けるのだ。

山越、池上のような超有名店からスタートし、がもう、たむら、日の出製麺は午前中しかやってないから行けない、なかむらは系列店がいっぱい、香の香は釜揚げ、山田家は定食、おか泉はてんぷら、A店の弟子がB店でそっちのほうがはやってる、C店はセルフだけどD店よりむしろ手がかかってる……。

香川県にはその後何度もプライベートで訪れた。毎回、1泊しかしない。一度に約7軒で食べる。食べても食べても飽きない。ぼくは、基本的に、遊び目的では「一つの場所に複数回訪れることがない」のだが、香川だけは別である。通算で訪れたうどん屋、50軒までは数えたのだがもうよくわからなくなってしまった。ブログにでもまとめておけばよかったと少し後悔しているのだ。



さて自慢話はいくらでもできるのだが、自慢というより人体の神秘みたいな話をする。

毎回、うどん旅行をするたび、朝から夕方までがっちりうどんを食いまくって、いざ晩飯になると、「脳が炭水化物をうけつけなくなる」。米を注文する気にならない。ラーメンとかそばとかパスタとか全く頼めない。「骨付き鶏」だけ食べて寝てしまう。いつも、我ながらほんとうに不思議である。

「空腹にはなっているのに、脳が炭水化物をうけつけない状態」

人に説明しづらいのだが、口の中に、「もうごはん系はいらんわ」という味が「デフォルトで広がっている」みたいな感じになっているので、晩飯では炭水化物がとれなくなってしまう。

人体というのは「昼間にうどんを食いすぎたからそのへんにしておけ」というのを、きちんと調整しているのだなあ、と、毎度毎度、ほれぼれする。




ただしビールだけは飲めるので、ああ、飲酒というのはやはり、人を太らせるなあと納得したりもするのだ。

2017年5月9日火曜日

病理の話(76)

病理学会に来ている。

人体には「何かをするための、あるひとつのルート」というのはどうも存在しないようだ。

ぼくらはつい、

「ヤマトのお兄さんは、荷物を運ぶために生きている」

とか、

「ローソンのお姉さんは、パンやコーヒーを売るために生きている」

という見方を、体の中に適用してしまう。


でも、ヤマトのお兄さんが動くとき、そこには「配送トラック」があって、配送トラックにはガソリンを入れる場所が必要で、あるいは、ヤマトのお兄さんがいっぱい動くならばそのとき佐川やゆうパックのおっさんたちもまた仕事が増えたりして、ときには、ヤマトのトラックがここを通るときに後ろをついていけばマンションのドアを開けるお姉さんがいるだろう、みたいな、下種なストーカーが潜んでいたり、そのストーカーに気を配る警察がいたり、とにかく、

「何かひとつが動いたときの影響は、一本道ではない、あっちもこっちも、様々に連動して動く」

というのが、体の中の大原則なんだと思うのだ。



HGFとかHGFAとかHAIとかそのへんを35年にわたって調べ続けた宮崎大学の先生の宿題報告を聞いていた時、HGFがトロンビンによっても刺激されるという話を聞いて、

「そうか、組織傷害が起こるとき、そこには欠損とか出血とかが生じているだろうから、トロンビンもまた役割をもつわけだけど、トロンビンは単に凝固系に関与するだけじゃなくて、HGF系の組織再生にもついでに関与してるのかもしれないなあ……」

なんていうことを、つらつらと考えていたのだ。



難しくて、半分くらい夢の中だったから、トロンビンを2倍にして遊んだりしていたんだけど……。

2017年5月8日月曜日

クリスマスに さげたら さげすます

フォロワーさんがポスターつくってくれたので貼っておきます。



すごいねこれ、どこからぼくの写真みつけたんだろうね、まあ自分でいつかネットに出したやつなんだけど。ポスター作って下さった方どうもありがとうございます。


ということで、今度、北海道大学の大学祭にあわせて開催される「医学展」というイベントで講演をする。一般向けの講演。医療者以外に講演したことないから緊張するな、って思ったけど、よくかんがえたらツイッターもツイキャスも別に医療者向けじゃなかったし、まあいいかってなってる。

講演っていうと、作家とか、ノーベル賞の人とか、どこぞの病院の院長とか、そういうのが定番だなって思ってたけど、最近はユーチューバ―とかネット金融業のひととかも講演してるし、うん、もはや「うさんくさい」というのとセットになっているのだと思う。そこにこの「ツイッターでおなじみ」というかんばんをひっさげて乗り込むわけだ。



うさんくささ、というのをもっとも上手に笑いに変えているのは大阪のひとたちだ。逆に言うと、大阪以外の土地では、うさんくさいという形容詞は決して褒め言葉とセットにはならない。ならなかった。当然だ。ただこの当然の価値観が近年少しずつひっくり返ってきているようにも思う。

ひっくり返したのは、ツイッターなのだと思う。SNS、特にツイッターについてはぼくは話したいことがいっぱいあるんだけれど、最近いちばん強調したいなあと思っている点は、

「うさんくささをもったまま愛される人」



「しっかりしているとアピールしているのにさげすまれる人」

とが、共存している場所、だというところである。



ぼくはしっかりものなので、講演がんばってきます。

2017年5月2日火曜日

病理の話(75)

生命は、周りの環境(非生物)と比べると、そこだけ持っているエネルギーが高い。

「持っているエネルギー」なんて言うとなんかスピリチュアルなイメージが湧いてしまうが、そういう意味ではなくて、単純に、物理的・化学的なエネルギーを抱え込まないと、生命としての活動はできない。



ごましお。

ごましおをイメージする。

「世界」はごましおだ。ゴマと、塩が、複雑に入り交じっている。一度混じってしまうと、もう両者を完全に仕分けることはできない(膨大な時間と手間がかかる)。

一方、世界に対しての「生命」というのは、ゴマや塩のどちらか一方、あるいは砂糖とか小麦粉みたいな何かが、「周りに比べて濃度が高い」状態でいる。

「世界」には、米粒もコーヒーの豆もハナクソも混じっているのだが、「生命」の部分にはそういうものがほとんど含まれていなかったりして、「周りに比べてなにかの濃度が低い」状態でもある。

「世界」のほうが雑多に混じっていて、「生命」は物品の濃度にかたよりがあるということだ。


物品の濃度を偏らせるには、エネルギーがいる。

何かを取り入れ続け、何かを排除し続けないと、濃度の偏りは維持できない。



砂漠にごま塩をばらまく。最初は、「あっ、ここにごま塩をこぼしたぞ」とわかるが、ものの数日、あるいは数時間で、ごま塩はほかの砂とまじって、もはやごま塩なのかどうかわからなくなってしまう。

ごま塩がごま塩のまま存在するには、そこに「なんらかのエネルギーを使い続ける」ことが必要なのだ。拾って集めて、砂を捨てる。



「なんらかのエネルギーを使い続けることによって、特定のものだけを集めて、いらないものは排除するというシステム」

これは、生命の定義の一つであると言える。



エントロピーとかそういう話は有名なので、何をいまさら、と思われるかもしれないのだが、この話は「細胞膜」とか「核膜」などを理解する上でも役に立つ。

膜、すなわち境界面が存在しないと、生命としての「濃度の偏り」を維持し続けることは困難となる。



濃度の偏りを維持するのは、バイトのA君の勤勉さとか、事務のBさんの時間外労働などではなく、膜に存在するなんらかのタンパクであるとか、膜自体のもつ力(浸透圧とか浸透膜という言葉を勉強するのはこれを理解するためでもある)である。



そんなこんなで、ぼくらが細胞を観察するときには、しばしば、細胞膜や核膜のような「膜」にとても注意を払うことになる。「膜」を「腹」と書き間違うのは医学部3年生くらいまでの「あるある」なのだが、さすがに今は書き間違えることは減った。

だってパソコンで打っちゃうからね……。

2017年5月1日月曜日

グールグール

デジタルの時計には水晶は入っているのかな。いなそうだけど。もともと、時間は水晶か何かの振動で正確に計っているんじゃなかったかな。

いったい、「正しい時間」というものを、どのようにプログラムして出力しているんだろう。

1秒という長さをどのように計測しているのだろうか。調べればすぐわかりそうなものだが、今知識のない状態で考えてみても、いまいちよくわからない。

昔と比べて、CPUの計算速度は信じられないくらい早くなっているのに、1秒のカウント方法を変えないままでいられるというのは、どういうことだ。



電波時計だから。どこかに正確な時間があるから。PCはそれをダウンロードしてきてるだけだから。

だったら、その「どこかにある正確な時間」というのはどうやって刻んでいるんだろう。



こういう話は、たとえば、遠く離れた異星人とたまたま交信できたと仮定して、右とか左といった方向の概念をどういう言葉で説明したらいいだろうか、みたいなSF的小話でもよくみられる。

「なんちゃら原子がスピンする方向は宇宙で共通だから、それを元にしてしゃべればいいんだよ」

地球人って普段、右とか左を人に説明するときに、そんな知識を引っ張り出さないと説明できないんだったっけ?



国語辞典を編纂している人なんかはこういう問いと毎日戦っているんだろうな。

外国の言葉とはじめて触れあった人は、いったいどうやって言葉を交わしたんだろう。

石を指さして「いし」「ストーン」「なるほど」みたいな説明を見たことがある。これを繰り返せば、言葉を学ぶことができます。

ほんとかよ。

それでどうやって「幼少期のトラウマ」とかを説明するんだ?



ぼくらは、イメージを共有していない同士で、何かを伝え合うという作業について、きちんと言語化できていないもので、何か脳の方があとはよろしくやってくださっているという状況に甘えて、なあなあでコミュニケーションを取っている。それで事足りる。

だから、ときどき、思うのだ。

秒の定義って、さいしょ、どうしたんだ。

今、どうしてるんだ。

ググればわかると人は言う。最初にグーグルができたとき、ググったらどれくらいのことがわかったんだろうな。

2017年4月28日金曜日

病理の話(74)

研修医や医学生に、将来病理医になりたいのだが、どういうところで初期研修をすればよいだろうか、と尋ねられることは多い。

もっと言えば、病理医に限らず、将来「○○科」に進みたい、どこで初期研修をすればよいか、と尋ねられることの方が圧倒的に多い。まあそれはそうだ。病理医なんてのは医者の0.6%くらいしかいないそうだから。

さらに言うと、「将来何科に進みたいかはちっともわからないが、どこで初期研修をすればよいだろう」と尋ねられることが一番多い。

夢なんてこんなもんだ。自分で自分の夢を決定づけてしまうことに臆病な……というか、よくわからない人というのが一番多いのである。



さて、そういうときに、なんと答えるか。カウンセラーでもなければ研修教育を統括する厚生労働省の人間でもないぼくが、自信をもってお答えできることがどれだけあるか。

正直、そんなにないので、最近はこのように答えている。



(1)将来、明確に進みたい科がある場合には(例えばそれをA科とします)、あなたはおそらく、A科にいい思い出があるか、A科が具体的にイメージできているのではないかと思います。では、A科で有名な医者や、A科でこの人の元で働きたいと思えるボス、A科の後期研修で有名な病院がありますか?

もし、10年後の将来がなんとなく見えているなら、10年後にここで働きたいという場所の候補がいくつかあるならば、そこから逆算をしてください。

10年後にいたい病院を調べて、その病院にいるスタッフが、どこで後期研修をしたのかを探ります。次に、そこの後期研修医がどこで初期研修をしたのかを探ります。

目標から遡るわけです。そうすれば、自然と初期研修先が見えてくる。



(2)将来、まだどこに行きたいかわからない場合、なんとなくの方向性は見え始めている、あるいは方向性すら見えていないという場合には、なるべく多くの医者がいて、なるべく多くのコネが作れそうな、比較的大きめの病院で初期研修をするのがいいです。

あなたは、今までの自分の経験で将来を決められていない。ならば、そこに経験を上乗せするしかないのですが、選択肢が見えていない状態では、できるだけ多くの選択肢を見る、あるいは見たつもりになったほうが、後悔しないでしょう。

ベッド数と医者の数、専門医の数などを参考にしつつ、できれば、そこで初期研修した人達が、将来どこに進んだか、まできちんと調べる。初期研修を終わった人達の選んだ進路の、バリエーションが多ければ多いほど、あなたの将来選ぶ選択肢が増えると思って頂きたい。



(3)でも、大きい病院ならいいってもんじゃない、肝心なのは自分が生涯尊敬できるボスと出会えるかどうかだ、だから小さい病院もみておいた方がいいんじゃないか……それもまた一面の真実なのですが、ぶっちゃけ、小さい病院で研修をして大きくなれるのは、「小さい病院を積極的に選ぶだけの見通しが現段階で立っている人」がメインです。「大きい病院と小さい病院、どちらがいいかわからない」くらいの人は、選択肢を残したがるタイプなのですから、最初から大きい病院に行った方がいろいろ安全です。

私のこの言葉で、「大きい病院は何か違うな」と明確にひっかかりを持った人だけが、小さい病院を選んでも後悔しないのだと思いますよ。




病理の話とはちょっと違うけど、自分が選んだ道に責任を持って欲しい、誇りを持って欲しいと思いながら「病理医のキャリアパス」の話をしつづけていると、自然と話は、「病理以外」に向いていく。

そして、「病理以外」を選んだ人とばかり、一緒に働き続けていくのが、この仕事なのである。

2017年4月27日木曜日

腰がかっくん

腰や首に爆弾を抱えるようになって5年が経過した。

デスクワークの宿命、というよりも、これはストレートネックの宿命というやつで、同じようにデスクワークに励んでいる諸氏がみな体幹部の痛みに苦しんでいるわけではないし、ま、「姿勢の問題」というやつなのだろうが、最近は職場で姿勢の問題だなどと口にしようものならパワハラの疑いをかけられてしまうので、骨が弱いんすよーとか適当な言葉でお茶を濁すことになる。

骨というか筋肉だけど……。

以前に書いたことがあるかもしれないが、かつて、午後になると腰痛がひどくて、しびれまで感じるようになり、これはもうぜったいあれだ、ヘルニアとかそういうやつだ、と思って、困り果てて知人の神経内科医に相談してみたことがある。

寝るときの姿勢などを丹念に教えてもらい、多少の緩和は得られたものの、腰回りがガチガチなままだったので、整体をやってるお店に行ってみた。

すると、彼はぼくの腰よりも太ももをマッサージしながら、こういうのだ。

「太ももの裏ががっちがちなんですよ。長い時間座ってらっしゃるのと、運動が足りないのと、原因はその辺なんでしょうけど。

太ももの筋肉ってのは、付け根が腰にあるんですよね。

で、太ももの筋肉が硬くなるということは、腰を下側にひっぱる力が強くなる、というか……

ゴムが硬くなれば、ゴムがゆわえつけてあるところをひっぱっちゃうんです。想像できますよね。

ですから、あなたの場合、腰痛を治そうと思えば、腰を揉むんじゃなくて、太ももの裏をケアするといいんです。

痛いところに原因があるわけじゃないんですよ」

そしてストレッチを教えてくれた。単なる前屈である。こんなの中学校でやったわ。ほんとか? ほんとにこれで治るのか?

治ったのである。度肝を抜かれた。



筋肉とか骨とか、整体的なもの。それまでぶっちゃけ、なめていた。奥が深い。



なにより、「痛みが出た場所だけをケアするのではなく、原因に遡る」という説明が、ぼくの気質にぴったりフィットであった。家訓にしてもいいくらいだと思ったのだ。

2017年4月26日水曜日

病理の話(73)

かつては、「腹立たしい依頼書」というのを、目にすることもあった。

今のように、ひとつの病院に勤め続けていると、臨床医と病理医双方が、お互いの顔を思い浮かべるようになるので、まあ、めったなことでは相手を怒らせるような言動は取らなくなる。

「病理組織診依頼書」にも、あまり失礼なこととか、突飛なことなどは書かれない。



ただ、お互いの腹の底が見えるためか、ちょっと間の抜けたことを書いてくるドクターはいる。

「○○病を疑う病変を、とつぜん見つけました。びっくりしました。御高診お願いします」

……その感想、いるか?

「○○を考えます。本人は最初いやがっていましたが、必死の説得の末に、生検採取」

……その経過、いるか?

「○○病の臨床診断。見た目は(ある野菜・伏す)。」

……その描写、いるか?



とても好意的に解釈すれば、すべて、病理診断の役に立つ文章ではある。1つ目の「びっくりしました」は、いつもと違うシチュエーション、いつもと違うボリューム感、いつもと違う患者背景などがあるのだろうなと、病理医に注意喚起をする役目を果たすだろうし、2つ目の「本人はいやがっていましたが」は、この検体ひとつでどうしても診断を決めないと、おそらく再度の検査は不可能なんだろうな、という危機感を示唆してくれるし、3つ目の「病気を食べ物などの形状に例える」は、イラストを描かずとも病理医に臨床像をあざやかに想像させるコミュニケーション手段である、などと、説明することができる。


……にしたってもうちょっとやりかたあるだろォ。




そういえば、ふと思い出した。かつて、信じられないほど汚い字で、とにかく依頼書に殴り書きで、読めない依頼を書いてくる某科の医師がいた。あまりに汚くてまったく読めないので、申し訳ないがきつめに注意した。

その後、電子カルテ化に伴って、依頼書をいちいち手書きしなくてもよいシステムが導入された(なお手書きでイラストなどを付けることもできる)とき、ぼくは、

「ああ、これであのクソ医師も、少しはわかりやすい依頼書を出してくれるだろう」

と、内心ほっとした。

後日、その医師からある依頼書が届き、ぼくはひっくり返ってしまった。

漢字変換がめちゃくちゃだったのだ。というか、ひらがなばかりである。

「他人が読むという前提で書くべき依頼書を、乱暴な字で書き殴るタイプの人が、電脳化くらいで自分のやりかたを変えるわけがない」

ということに、ぼくも気づくべきだった。

「○○びょううたがう。せいけん。おねがいしま」

せめて最後まで入力しろバカ野郎!





だんだん、こういう「失礼なやつら」の割合は減っているように思うが、その理由のひとつは、おそらくぼくにある。

ぼくが、病院の中で、言ってみれば「異分子」である間は、臨床医の方も、胸襟を開いてくれない。病院という世界、病理学会という世界、医療という世界で、ちょっとだけキャリアが増えてきたから、その分、周りの医師たちも、ぼくを人間として扱ってくれるようになったのだろう。


こっちもあんまり変なこと、言わないようにしないとなあ。医局で、先生のツイッターおもしろくないですね、とか話し掛けるのは、とりあえず、やめようかと思い始めた。

2017年4月25日火曜日

将来何になりたいですか、という問いをあまり投げかけられなかった子供時代だったかもしれない。

あるいは、そのような問いを聞き流す子供だったのかもしれないが。

いずれにしても、ぼくは、小さい頃に大人に向かって「○○になりたい」と言った記憶があまりない。覚えていない。



父母に尋ねてみたところ、幼稚園の時に、「地元のA高校に行きたい」と言ってたよ、という情報を得た。これは、ぼくも覚えている。A高校は進学校だが、ぼくがA高校に行きたかった理由は、ぼくが生まれたころにはすでに亡くなっていた曾祖父が、A高校で働いていたからだ。ひいおじいちゃんの高校に行きたいな、というそういうモチベーションだったはずだ。

思えばぼくは、将来どうしたいの、という問いと、まともに向き合わないまま成人した。

中学校のときは、よい高校に行こうと思っていた。

高校のときには、よい大学に行こうと思っていた。

大人になってから何になりたいかはよくわからないけれど、とりあえず目の前にはクリアする目標があるんだ。

ラスボスを知らないまま、目の前の敵を狩り続けるようなイメージだった。

そういえばドラクエIIも、ハーゴンまでたどりつけないまま、あきらめてしまったっけ。



ほんとうか? ほんとうに、なりたいものがなかったのだろうか?



今この文章を書きながら、ひとつ思い出したことがある。そうだ、ぼくは、スペースシャトルのパイロットになりたかった時期があった。

テレビ放送で生中継された、チャレンジャー号の打ち上げを見るその瞬間まで、ぼくは宇宙飛行士になりたかったと公言していたはずだ。

チャレンジャー号が目の前で爆発して、乗組員も全員死亡するという痛ましい事故のあと、ぼくは自然と、宇宙飛行士になりたいと言うのをやめてしまったのではなかったか。

そうだ、そうだった。

その後、何人かの大人との会話や、学校などで、将来何になりたいか、というのを書いたり話したりする機会があったけれど。

ぼくは、宇宙飛行士という夢がちりぢりになってしまったのがほんとうに悲しくて、また次になりたいものを思い浮かべるのがとても面倒になってしまったのだ。



小学校の文集にある、「将来なりたいもの」の欄には、不謹慎この上ないのだが、「天皇の親方」と書いた。いちおう言い訳をするならば、ぼくは、「天皇陛下にものを教えられるくらいの人になりたい」という意味で書いたのだ。しかし残念なのは国語力のほうで、数年たって文集を見返したぼくは、自らの絶望的なフレーズセンスに脱力した。

天皇の親方って……宮内を徒弟制度に作り替えるつもりかよ。

でも、わかってほしい。ぼくはもう、小学校卒業時には、自分のなりたいもの、将来像を、具体的に思い浮かべるのがイヤになってしまっていた。人に説明するのがおっくうだったのだ。




高校2年生のとき、父親に進路相談をした。東京大学に行って、宇宙物理学の研究をしたいのだと。

父親は、言った。

「科学と医学はおなじくらい広いんだから、医学でもいいんじゃないの。北大医学部が、偏差値的には東大理Iとおなじくらいでしょ」

納得した。なるほど。

実際には、うちの経済事情で、子供を東京に送り込むだけの財力がないからなんとか地元の大学に入って欲しいという親心もあったのだろうが、ぼくはこの、よくわからない理屈で医学部を目指すことになる。

そこに、医者になりたいとか、医学を研究して人を救いたいという精神はなかった。



今でも、公衆の面前で、「人を救うために」と発言するとき、ぼくはとても慎重である。夢とか理想の話にならないように。現実をきちんと伴わせられるように。

「ぼくは、あまり遠い将来のことを真剣に考えられるタイプではないのだ」という、自己分析がある。

目の前のイベントを乗り越え続ければ、いずれラスボスにたどり着くだろう、くらいの気分でいる。

夢を語ることが、難しく、恥ずかしく、また口にしてしまった以上はがんばらないと行けないし、潰えたときにとてもつらいのだと、そういう感覚が、心のどこかに残っている。




そして。




若い、とても若い、息子と同じくらいの年の人たちが、将来あれになりたい、これになりたいと夢を語るとき、ぼくはその夢を邪魔しないように、できればその夢が叶うまで、夢が夢として君臨し続けられるように、あるいは夢を語る人を邪魔する人が現れないようにと、だまって静かに、祈りながら見守っていきたいなあと、そう思っている。

2017年4月24日月曜日

病理の話(72)

前回、「がん以外の病気」でぼくはどんなものを診断しているかなあと少し考えて、いろいろリストアップしては見たのだが、少し時間を置いて見返してみると、あの病気もあるし、あの病気も書いてないと、ずいぶんと書き漏らしに気づいた。普段あまり意識していないあの病気もまれには目にするよなあとか、いつあの病気に出会っても大丈夫なようにまた勉強しておかないとなあとか、思い直したりした。


病理医は、勤めている病院や検査センターの「スタイル」によって、まるで違う病気をみることになる。ぼくも自然と、今勤めている病院や、出張で目にする検体に「頭がかたよってしまっている」。だから、ささっとブログを書こうとすると、どうしても内容に偏りが出てくる。


そんなの、どの医者でも一緒だよ、たとえばひとくちに整形外科と言っても、あの病院はひざの靱帯ばかり診ているし、あちらの病院は腫瘍ばかり診ているじゃないか。


……まあそうなんだけど、病理医の場合は、相手にする科すらバラバラだからなあ。


婦人科をぜんぜん相手にしない病理医もいるし、血液内科とご無沙汰だという病理医だっている。


あらゆる病気をみる仕事とは言うけれど、結局、自分の勤めている場所にいる「臨床医」のスタイルによって、みる病気が変わってくる、というわけである。




で、若い病理医は、考えるわけである。

将来、自分がどこでどのように勤務するかまだよく見えない時期に、いったいどこで研修をすれば、将来困らないような修練が積めるだろうか。

あの病院に行くと、軟部腫瘍は多いけど、肝臓は少ない。

あちらの病院は、胃腸がとても多くて、乳腺はあまりみないらしい。

研修期間が終わった後に、一人前となって勤めた病院で、はじめてある臓器に触れるなんてのは、怖すぎる。

それ以前に、病理専門医試験にはすべての臓器から問題が出されるのだ。オールマイティーに勉強しておかないと、受からない……。



ということでぼくは普段、「病理医を目指すなら、とにかく病理医の頭数が多いところで研修しなさいよ」と言う。

国立がん研究センターとか。埼玉国際医療センターとか。神戸大学病院とか。病理医が10人以上いるところ。各病理医ごとに専門性があって、いろんな臓器が集まってくるところ……。



……さて、この発想は、大筋では間違っていないと思うのだが、全国を丹念に見渡すと、「大学と市中病院とで緩く連携して、お互いの弱いところを補い合っている地域」というのもあるようだし、非常に教育力の高い指導医が2人ほどいて、検体数以上に勉強になる施設というのもあちこちに転がっているようだ。

ほんとうは、そういう、「病理の研修を積むならここだ!」みたいな施設を、全国見て回って、ブログとかに書けたらいいだろうなあとか、昔、考えたこともあった。

定年後の楽しみにとっておきます。

2017年4月21日金曜日

四次元ポッケ

エアポケットというのは具体的にどういうものを指すのか実はよくわかっていないのだが、エアポケットに落ちるとか、エアポケットに陥るみたいな表現を使うので、まあたぶん、飛行機が飛んでいるときに気流の関係でがくんとおっこちるあれをイメージしていれば間違いがないのだろう。

今日はメンタルがそういう感じの日で、なんだかがっつりと疲れてしまうできごとが多かった。仕事を複数抱えていたのだが、ひとつひとつの仕事をやっているときはいいとしても、次の仕事に移るまでの「思考の移動時間」でかなりロスをした。ふわふわと落ち着かない気分だった。

タイムラインを眺めていると、「今日は気圧が低いから、つらい気分になる人も多いだろう」というツイートが流れていて、なるほど、そういうのもあるのか、と少し納得して、なんだかちょっとだけ楽になった気がした。

そこでもう少し、自分を楽にする方法がないだろうか、と考えて、「エアポケット」を「エアポッケ」と言い換えてみたり、「気流の関係でがくんと落っこちる」を「わがまま気流でおてんばな動き」と言い換えてみたりしているうちに、夕方となり、安定を迎えた。



「人生低空飛行」みたいな書き初めをするのもいいかもしれない。書き初めというのは年の初めにやるものだと思っている人も多いかもしれないが、そもそも1年の間でいちども書道をしない人間であれば、何かを書いた日がそのまま書き初めになるのだ。そういえばぼくは子供の頃、パーマンセットを身につけて空を飛ぼうとするんだけど、どうしても体が50センチ以上浮かない、という残念な夢をよく見ていた。ドラえもんにそういうネタがあったのだと記憶している。

2017年4月20日木曜日

病理の話(71)

病理医をやっていると、普段仕事で扱う対象は「腫瘍」が多い。

腫瘍。できもの。体の中に本来存在しない、勝手に大きくなるカタマリ的な病気である。放置すると将来命に関わるものを、「悪性腫瘍」と呼んで特に重要視する。悪性腫瘍とはつまり、「がん」のことだ。放置しても命には直接関わらないカタマリのことは「良性腫瘍」と呼ぶ。子宮筋腫などが有名である。

で、まあ、病理で調べるものというとこの腫瘍がかなりの割合を占めるのだが、腫瘍以外の病気もそこそこ目にする。

するんだけど……これが……一般には、なじみのない病気ばかりなのである。



医療者以外の方々が思い浮かべる「腫瘍以外の病気」というと、なんだろう。

……かぜ。食あたり。心筋梗塞。肺炎。ケガ。腰痛。肉離れ。めまい。脳梗塞。胃潰瘍。乱視。虫歯……。

千差万別。そりゃそうだ、がん以外にも病気はいっぱいあるからね。

これらの中で病理診断が役に立つものは、ごく限られている。というか、今あげた中には、病理診断が必要なものはほぼ、ない。

かぜ、食あたり、肺炎、虫歯については、感染症というくくりに入る。感染症は、かかった部位と、かかった病原体の種類、そして体がそれにどのように反応しているのかというのが、治療をする上で重要なのだが、これらを見極めるために「病理医がプレパラートをみる」ことは、ほぼない。

顕微鏡自体は使う。グラム染色という方法を使って、菌を直接みる場合がある。ただ、病理診断とはちょっと異なり、細菌検査の手法のひとつである。

心筋梗塞とか脳梗塞のような、血管が詰まる系統の病気では、血管の詰まった場所を見極めて、血管を再開通させるとか、あるいは血管が詰まったことによる症状を抑えることが目的となる。この場合も、病理診断は特に必要とされない。

ケガ、腰痛、肉離れ。病理は用いない。

めまいとか乱視にも病理の出番はない。虫歯は……虫歯だけなら……まあ、病理は必要ない。



では、ぼくは普段、「腫瘍以外の病気」としてどんなものを目にしているだろうか。

・炎症性腸疾患。潰瘍性大腸炎とかクローン病といった、厚生省が難病認定しているやや珍しい病気。

・肝炎。ウイルス性のものが有名だが、近年はNASHと呼ばれる、脂肪肝に関係のある病気をみることが多くなった。

・虫垂炎(いわゆる、もうちょう)とか、胆石胆嚢炎など、腫瘍ではないけど、手術でとるやつ。

・子宮内膜症という病気。

・月経不順の方の、子宮内膜。

・好酸球性副鼻腔炎うたがいの、鼻粘膜。

・皮膚の病気。

・動脈硬化に対する手術で採ってきた血管。

頻度が高いところでは、こんなところだろうか。

当院には脳外科がないので、今の職場に勤めてからは脳神経系の病気はほとんど見ていないし、整形外科領域の検体も比較的少ない。泌尿器科が腎炎を扱っていないので、腎生検は長いこと目にしていない。一方、IBDセンターという炎症性腸疾患を専門に見る部門があるので、多くの病理医よりも炎症性腸疾患はよく見ているし、肝臓や胆膵領域も頻度が高い。

まあ、そういう「勤め先ごとの違い」はあるにしても、だ。



さっきの「かぜ、食あたり、心筋梗塞」などと比べると、病理医が目にする病気というのは全体的に聞き慣れない。これを読んでいる人の中には、「私はそれ知ってるよ」という方も多いだろうが、その知っている病気、自分の家族や友人に説明して、「知ってる知ってる」と言われそうですか?


ここからは、ちょっとうがった言い方なので、ブログゆえの軽口なんだなあと思って聞き流していただいてもよいのだが。


「病理診断をしなくても診療方針が決まる病気」というのは、「細胞まで見に行かなくても征服できる病気」と言うことができる。細胞一つ一つの細かな挙動よりも、もっと大きなダイナミズムが問題を起こしている病気である。病気の貴賤がどうこうではなくて、性質の違いだ。

かぜ、食あたり、心筋梗塞と聞けば、(学術的にどうかは置いといて)ほとんどの人は「ああ、なんとなくああいう病気だよね」と想像がつくのである。それは、病気の引き起こす現象が「マクロ」だからだ、と言うことができる。

これに対して、「病理診断をしないと診療方針が決まらない病気」は、「ミクロ」なのである。体の中に何が起こっているか、ぱっと見ではわかりづらく、じっくり血液検査をしたり医師が問診や診察をしたりしても、本質がなかなか見えてこない。だから、顕微鏡で細胞をみる「病理診断」が大きな意味を持つ。



で、何がいいたいかというと、病理診断を必要とする病気、必要としない病気、世の中にはいろいろあるんだけど、こと病理の話をしようとすると、どうしてもこの「ミクロな変化に意味がある病気」の話をせざるを得なくて、これが、なんというか、

「世間一般が認知しているイメージがあんまりない病気ばっかり」

なのである。説明しづらいのだ。



自然と、腫瘍、がんの話をすることになる。

実際に病理医をやってると、必ずしも腫瘍のことばかり考えているわけではないんですよ、とかなんとか、言いたい日があったのだ。いつかというと、今日である。

2017年4月19日水曜日

中年ファイト

ブログの記事はだいたい15~20分くらいで書くようにしていて、一気に最後まで書き上げた記事を読み返し、「まとまりがある程度あるな」と思ったらひとまずは「採用」とする。

書いた日から1週間後に自動公開するのだが、この1週間のうちに気が向いたタイミングで少しずつ読み直し、細かい手直しなどをする。

これはぼくの性格というよりも弱点を考慮したやり方で、自分の作る「初稿」には、「自分の頭の中にだけは浮かんでいるんだけど、うまく文章にできていないところ」がとても多い。だから、とにかく一気に全体像をまず作ってしまい、できあがったものをロングで眺めたり俯瞰で見返したりして、伝わりにくい部分を少しずつ削る。

粘土細工を思い浮かべている。

全部消すことが2回に1回くらいある。だから、「初稿」にあまり時間をかけてしまうともったいない。15分くらいでざっと書ける内容を、とにかく選ぶ。

この「ざっと書ける内容からスタートしている」というのが、たぶんぼくが持っている発信力の限界そのものなのだなあと日頃思っている。

ざっと書ける内容はざっと読める。しかし、ぼくらが現代のSNSでいちばん読みたいのは、たいてい、

「めちゃくちゃじっくり考えた内容を、すごい筆力でざっと読めるように書いたもの」

なのだよな。





ぼくはときどき、SNSでみんなが喜んでくれるようなものを書こうと思って、昔から考えていたこと、めちゃくちゃ考えまくってきた内容を、ざっとブログに書くのだが。

たいてい、そういう記事は公開前に消してしまう。これが2回に1回ということだ。

なぜ、昔から考えていたことに限って、ブログにするとしっくりこなくて、消してしまうのか。

自分の中に作り上げた風景が複雑になりすぎて、写生する力が追いつかないのかもしれない。

有名な「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前の中ではな」と、毎日戦っている気がする。

2017年4月18日火曜日

病理の話(70)

人間の消化管の中で、もっともがんが発生しやすいのは、大腸である。続いて食道もしくは胃。十二指腸にあるファーター乳頭と呼ばれる領域がこれに続く。もっとも腫瘍発生が少ないのは、小腸。

日本人を含めた一部の東アジア人の場合は、ここに(東アジア型)ピロリ菌感染という刺激が加わるため、胃癌の頻度がぐっと増える。

欧米人など、肥満者の割合が高く、腹圧が高く、胃酸が食道に逆流しがちな人々は、食道のがんが増える。

大腸がんも、実は肉食との関係が深いと言われているため、人種間で発生の頻度に差がある。

おなじ人間同士であっても、遺伝子のタイプとか、食べているもの、ピロリ菌などの環境因子などによって、病気にかかるリスクが異なってくる。



それにしても不思議なのは小腸である。



消化管の中で最も長いのが小腸なのだから、そこにある細胞の数だって小腸が一番多い。細胞の数が多いということは、すなわち、ターンオーバーする細胞の数も多いということで、新陳代謝で細胞が入れ替わる頻度が高ければ、それだけエラーをもった細胞が出てくる頻度も高くなりそうなものなのに。がんがもっと、いっぱい発生してもおかしくないのに。

小腸がんというのはかなりまれだ。なぜだろう?



人間の体の中では、実は、「体外に近い部分ほどがんが出やすい」という原則がある。これは、単純に距離が近いというだけの話ではない。たとえば胃カメラのように、体外から突っ込んでいくものを想像してもらおう。胃カメラを想像できない奇特な人は触手でも想像したらいい。

触手は最初は、皮膚を外側からつんつんしている。

口の中に入って、食道の粘膜をつんつん。

胃まで進めて、胃粘膜をつんつん。

外側からやってきた触手が触れる部分は、「体外から接することができる」、すなわち、体外と体内との境界部分ということになる。これらは、触手に限らず、食べ物とか、酸とか、菌のような、体外からの刺激を受ける場所である。

自然と、エラーを起こしやすくなるというわけだ。



食道は、食べ物が物理的に激突する臓器であり、あるいは温度によっても、刺激を受ける。胃酸の逆流によっても刺激が加わる。

胃は、胃酸をばんばん出す臓器だし、ピロリ菌の関与とか、胆汁の逆流など、ほかにもいろいろと刺激が加わりうる。

大腸は、さまざまな常在菌がうようよ住んでいる。また、胃でいったんやわらかくされた食べ物が水分を失ってだんだん硬くなり、物理的な刺激をもたらすようにもなる。そもそも、体が不要と判断したゴミが通過する臓器である。刺激も多かろう。



小腸だって、細い専用のカメラを使えば(あるいは細い触手でもよいが)、体外から触ることはもちろん可能だ。ただ、単純に距離が遠すぎるのであろう。

ほかの臓器に比べると、刺激が少ないのかもしれない。



以上は単なる推測であって、証明されたものではないのだけれど……。

がんの話をするときに、「複数のリスク」を想定して、「なにがこの病気を引き起こすきっかけとなったのだろう」と考えていくと、物理刺激とかケミカルな刺激、菌のような微生物によるものなど、ほんとうに多くの因子が絡んできて、もはやわけがわからなくなってくる。そんなとき、「まあ、触手が一番届かなさそうだもんね」という言葉でざっと説明しておくと、なんとなく「腑に落ちる」ので、ぼくはたまーにこういう説明を使うようにしている。



ほんとはもっと奥が深いんだろうなあ。そう思ってくれる一部の人が、まれに病理学講座の門をたたいたりする。

2017年4月17日月曜日

ビクトル・ユーゴー 略して

風がものすごく強いんだけどこの「ビュゴォー」という音はなぜ鳴っているのだろうかと考える。

たぶん、建物のすきまとか、木々とか、そういったものに空気があたって音が鳴ってるんだろうな。

じゃあ空気がそういうのに当たるとなんで音が鳴るんだろう。

大きい壁にただ当たるだけでは音は鳴らないで、細いものとか細かいものに当たるとヒュオッって鳴るのはなぜだろう。

口笛のときに口をすぼめると音がなるけど、口を開けると同じ風量でも音が鳴らないのはなぜだろう。

うまく吹けないときと、きちんと音が鳴ったときの「中間」がないように感じるのはなぜだろう。

外の風の音を聞きながら、ひとつひとつ、自分の物理学の知識で回答を与えていく。

音は空気の振動だから……。共振が……。狭いところだと……。

途中までは回答できるが、最後の、「なぜ細いところを通る必要があるのか」については、高校までの物理の知識がうろ覚えになりつつある今は、即答できなかった。

たぶん、ググれば、どこかに書いてある。




ふと。

「風の音」すら記述できないんだな、ぼくの常識は……。

そういう気分になった。




難しいことは知らないままでも、人生は楽しくやっていける。

ほんとうだろうか?

学校の勉強よりも大切なことが世の中にはいっぱいある。

ほんとうだろうか?

学校の勉強くらい綿密に学び続けてよいのなら、ぼくはあるいは「学び続ける人生」を選んだかもしれない。




何かを知らないまま笑い続けることができない人もいるのだ、ということを、小声でささやいておく。風の音に吹き消される。

2017年4月14日金曜日

病理の話(69)

細胞をみればその病気がわかる、というのはある意味信仰に近い。

正しく言うならば、「細胞を見れば、その病気がどんな細胞からできているかわかる」だ。なんだか循環論法みたいだ。

どんな細胞からできているかを知ることが、患者さんのためになるだろうか?

なる、とも言えるし、ならない、とも言える。「可能性と限界」と意訳できる。



病気がどんな細胞からできているかわかることによるメリットは、たとえば「がん」の診療で顕著である。現代の医学は、「がん」というひと言だけでは治療が決められないほど進化して多彩になった。

細胞がどんな種類か(腺上皮と呼ばれるタイプ? 扁平上皮と呼ばれるタイプ?)、細胞がどんなタンパク質を持っているか(HER2は? SSTR2は?)、細胞の遺伝子にどんな変化が起こっているか(KRASの変異は? EGFRの変異は?)によって、抗がん剤の種類、手術の方式などを細かく変えることができる。オーダーメード治療と呼ばれるやつだ。

CTやMRI、エコーに内視鏡などがどんどん進化しているため、実は細胞をとらなくても、細胞の種類をある程度見極めることはできる。しかし、オーダーメードというのは、「かゆいところに手が届く」ことが必要なのだ。なんとなくざっくり分類するのではなくて、細胞までしっかり見てビシッと分類することこそが求められる。

こういうとき、「病気がどんな細胞からできているかを知れば、患者さんのためになる」と言える。


一方で。


肝細胞癌という病気がある。この病気は、肝臓にできるがんの中でもっとも多いものだが、たとえば2cmくらいのサイズで見つかり、病変のかたちがきれいな球形をしている場合には、

「細胞を採取せずに、ラジオ波で熱を加えて焼いてしまう」

という治療をする。

この場合は、病理診断が入るスキマがない。画像で見てがんだと判定して、焼いてしまうから、生きている細胞を採りに行くタイミングがないからだ。

さらに、統計学的な検証によって、「病理診断をしてもしなくても、患者さんのその後の経過にかわりがない」ことがほぼ示されてしまった。細胞を見ても見なくても治療方針が変わらない。だったら、細胞なんて見なくてよい。

小さくおとなしめの肝細胞癌においては、「病気がどんな細胞からできているかを知っても、患者さんのためにならない」ということがありうる。



医学が科学の中で少々特殊なのは、「真実を明らかにすること」よりも、「患者さんが苦痛から少しでも遠ざけられること」の方が大正義である、という点である。このことを踏まえると、

「あれをやればもっとよくわかるのに」

という検査に医療保険が下りなかったり、

「これを研究すればもっとよくわかるのに」

という研究室に予算が下りなかったりする理由も、少しは理解できる(共感はしないかもしれないが……)。





ところで、「知りたいということ」が「患者さんのために」を下回る場合、「知らなくてもよいだろう」と片付けてしまってよいものなのか?

うーん、ここは難しいんだけど……。

病理医が第一に大切にするべきは「患者さん」なのだが、直接のお付き合いがあり顧客でもある「医療者」も大切にしないといけない。

「患者さんのために」 ≧ 「医療者のために」

くらいの気分でいる。

医療者ってけっこう知りたがりなんだよなあ……。だったら……。

ま、患者さんに迷惑がかからず、社会にも負担を増やさない程度に、丹念に、だけども、知ろうとすることに答えていくのも、立派な業務なのではないか、と思ったりするのである。

2017年4月13日木曜日

ネッイームゥ

漫画家さんの「ネーム」をみる機会があったのだけど、あれはすごいものだね。

ほんとうにおどろいちゃった。鳥肌が立つ、っていうけどそんな生やさしいものじゃない。皮膚の、表皮と真皮の間が裂けるんじゃないかと思った。全身の薄皮が剥がれて脱皮してしまいそうだった。

構図がすごい。文章だったら何十行もかけて説明しなきゃいけない内容を1コマの中にスッと入れている。語りかけてくるような説得力。

セリフがないのにキャラクタがしゃべっているように見えた。表情一つ、顔の向き一つでここまで表現できるものなのか。

なにより、ぼくが本気で書いたイラストよりも漫画家さんがネームに書いたラフイラストの方が圧倒的に美しいのである。



「そりゃそうだろう」と思われるかもしれないが……。



ぼくはたぶん、絵のどこがどうすごいとかを分析することはできるし、上手な絵とヘタな絵の違いを文章にすることもできるんだけど、文章にできるからといって自分が上手に絵を描けるわけではない。それはもう、居酒屋でくだを巻いている野球好きのおじさんは日頃から推しチームの4番打者に向けて怒声をあびせているけれどバッティングセンターでは100キロのボールにかすりもしないのと一緒だし、三代目JSBのライブを無理矢理みせられた彼氏が「岩ちゃんって実は一番ダンスが下手だよね」と言ってみたいけれど自分は学生時代に流行ったムーンウォークで挫折しているのと一緒だし、カヨコ・アン・パタースンの英語をバカにする人の9割9分がたとえ日本語であっても銀幕に立つことなどないのと一緒である。

解説はできるが実践できないものばかりだ、世の中というのは。

いや、正確には「解説はできるが実践できないものばかりだ」なんて先刻承知であった。でも、あらためて実際に経験すると、びっくりしてしまった。

見事な入れ子構造である。



誰もが自分の得意なものを持っているかというと、世の中はそうそう優しくはできていない。

ぼくを含めた大多数の持たざるものたちが、今日もプロの仕事を当たり前のように消費しているんだけど、たとえば冒頭の「ネーム」のように、「仕事のすごさをいやでも体感させられるような体験」があると、なんだか脱皮した皮がさらに土下座をするのではないかという、圧倒的な何かを覚えて気が遠くなってしまう。

でもまあ、こういうときにぼくができる「最低限のこと」は何かなあって考えると、「すごかったよ……まねできねぇよ」と言い続けることなのだろうなあ、とか、その程度であろうなあ、とか。

2017年4月12日水曜日

病理の話(68)

ある細胞が「がん」なのか「がんではない」のかを決めるにはどうしたらいいのか。

病理医が見て決める、というのはまあ、そうなんだけど、じゃあ病理医は何を基準に細胞を判定しているのか。

ベテランの医師に尋ねると、例えばこういう答えが返ってくる。

「あれでしょ、核異型(かくいけい)とか、構造異型(こうぞういけい)とか、つまり、細胞のカタチ見て判断してるんでしょ。悪そうだとか、良さそうだとか」

まあほぼ合ってる。

でも、「ほぼ」だ。

この「ほぼ」はけっこう誤解を招く原因となる。

「カタチみてがんかそうじゃないか決めると言っても、たとえば、『まんまる』と『楕円』の境界をどこでひくかとか、『ごつごつ』と『つるつる』の境界をどこでひくかとかさ、あいまいじゃん、ファジーじゃん。そんなの主観じゃん。がんの診断って怖いよなー」




ぼくらは、より正確には、

「過去に多くの人が亡くなる原因となった病気に見られた細胞と似ているかどうか」

を判断している。

「亡くなった」という結果からさかのぼって、

「亡くなる前にはこういう細胞が見られることが多い」

「こういう細胞が出現しているといずれ亡くなる」

が延々と検討されてきたのだ。それが医学だ。

「この病気を放っておくと死んでしまう」

「放っておくと死ぬ病気にみられる細胞はこういうカタチをしている」

というのが、じっくり積み上げられてきたのだ。

積み上げてきた結果として、細胞の中でも核を見るとかなり精度の高い予測ができるということが明らかになった。

細胞のカタチだけではなく、細胞同士が徒党を組んで作り上げる構造も観察するとよい、とわかった。

わかった結果が、教科書に書かれ、受け継がれるごとに多くの人々の目に触れ、

「ここにはこうやって書いてあるけど、実際には違う場合もあるぞ」

みたいな厳しいご意見をどんどん集めて、教科書が少しずつ精度よく変化してきて、そして、今に至る。

現在の病理学の教科書には、積み上げられた結果の表層部分が主に書いてある。

積み上げてきた検討内容の、底の部分まで掘り下げて検討するのは、なかなか骨が折れるが、できなくはない。





「がんか、がんじゃないかなんて、病理医がその場の胸先三寸で決めてるんでしょう?」



ええ、そうですね、人類の歴史、医学の積み上げを学んで、多くの教科書や先輩達が伝えてきた内容を現代に合わせてアップデートし続けた、最新の医学を学んだ専門家の胸先三寸で決めているんですよぉ。

細胞の核が腫大しているかどうか、すなわち核内の遺伝情報が急激に増殖しようとしているかどうか。核分裂が頻繁に起こる細胞かどうか、すなわち核縁にひっついているヘテロクロマチンの分布が不均一になるかどうか、つまりは核膜の厚さが不均衡かどうか。核の形状がいびつかどうか。クロマチンの濃さはどうか、分布パターンはどうか。核小体が明瞭化しているか。非腫瘍細胞では見られないサイズの核小体が出ていないか……。

核だけではなく、細胞質、細胞の接着性、隣り合う細胞同士の不同性あるいは均一性、作り上げる構造が正常をどれだけ模しているか、周囲の構造を破壊していないか、脈管侵襲像はないか、神経周囲に沿うような進展はないか……。

いやあー、ほんとにいろいろ見所がありましてぇ、いろいろ教科書に見方があって、どの所見が強い力を持つかもきちんと書いてあってですね、これらをぉ、最終的にはぁ、「主観!」でぇ、見ていくんですよぉ。

歴史を学んだ人間の胸先三寸で、決めてるんですよぉ。

2017年4月11日火曜日

あとドラゴンボールとナンバーガールに例えることも多い

病理の話が少しずつ難解になっているようにも思うが、ぼくの中ではこのブログは、誰にもわかる話と、ぼくらしかわからない話、両方を書こうという気持ちでそもそもはじめているのだ。

だから、病理の話と、なんでもない話を、交互に書いている。

今日は難しかった? マニアックだった? ごめんなさい、明日もマニアックだけど、でももう少しわかりやすい話を書くね。でも、明後日はまたわかんない話にしようかと思ってる……。しあさってはわかりやすいように気を付ける。



「読者設定をして何かを書く」という作業に慣れすぎることに対する、抵抗感がある。

目的と手段、ということを考えた時に、目的が「より多くの人に病理を知ってもらいたい」であれば、対象となる読者をきちんと想定して、病理に興味を持つ人が一人でも増えるように手段を選べばいいのだが、どうもこのブログの目的はそことはちょっとずれていて、「自分が病理に対してどれだけ書けることがあるのかを知りたい」というところにある。

そして、もうひとつ、「自分とちょっと似た人に届く文章って何だろうな、それを知りたい」というのもある。



ちょっと前の話なのだが……。

興味のわいた映画があり、おっ、見てみようかなと思いかけていたところで、猛烈な勢いでその映画をプッシュする人の文章を読んだ(ちなみに書き手は、おそらく皆さんが知らない人です。なぜかというと、書き手はぼくの同級生であり、文章が公開されていたのは非公開のFacebookですから)。

とてもいい文章で、まだ見てもいない映画に対し、ぼくはおよその世界観とか見所を、ネタバレしない程度に味わうことができたのだが、全ての文章を読み終わったときに、

「うーん、彼以上にこの映画を楽しく見る自信がなくなっちゃったなあ」

と思って、映画を見に行くのをやめてしまった。



これは極端な例なのだけれども、ある世界に飛び込んでおいでよと説明してくれる人が、あまりに親切で初心者向けだと、その世界で何か尖ったことをしたり、何かを成し遂げたいと思っている人は、ちょっと興ざめしてしまう、なんてこともあるのではないか?

いやいや、そんなあまのじゃくばかりじゃないよ。

初心者向けの文章でまずはその世界に興味を持ってもらうことこそが、間口を広げて、ひいては世界人口を増やす一番の近道じゃないの……。

自分の中でずっと議論が続いていたのだが、先日、ある仮説にたどり着いてしまった。

病理医なんて基本的にあまのじゃくが指向する分野なんだから、本当に病理の世界に興味を持ってもらいたいのなら、あまり素直な文章ばかりじゃなくて、多少あまのじゃくな視点で好き勝手に書くくらいでも、ちょうどいいんじゃないのかな……。




まあ言い訳はともかくとして、「両輪で書く」というイメージがぼくの中にある。両輪というのはぼくの中にある人生のキーワードの一つだ。

キーワードとしてはほかに、「この世はすべて複雑系」とか、「共感しなくとも理解はできる」とか、「名言の多くは物事を動かさずにナワバリ線を引き直すだけ」とか、「演繹・帰納・アブダクション」などがあるが、この話はたぶんここでするのは2度目で、3度目に書くときにまた少し詳しく触れてみようかと思っている。

2017年4月10日月曜日

病理の話(67)

臓器がどのように発生したのかを考えるのはとてもおもしろい。

そもそも、タマゴ1個が分裂を繰り返して、こんな精巧な体を作り上げるというのが不思議でしょうがない。ブルゾンちえみによれば体の中には細胞が60兆個くらいあるという話だ。

細胞分裂の過程をどんどん追っていくと、どこかの段階で、単純に倍々ゲームだった細胞が、役割分担をすることになる。

君はここで何かを作りなさい。君はここで何かを支えなさい。君はここで道路になりなさい。君はあそこで柱になりなさい。君は体外に分泌するものを作ろう。君は血管の中に分泌するものを作ろう。君たちは集まってネットワークを作ろう。

君たちのグループはこの場所にないと、次の部署への受け渡しがうまくいかないから。

君たちが作る分泌液は、この臓器の中に放出するので、このあたりにいると近くて便利だから。

細胞は、ただ分裂するだけではなくて、居場所を定められる。

膵臓という臓器があるが、これは実に複雑な発生をしている。具体的には、腹側膵という部分と背側膵という部分が、発生の過程でドッキングしてできる。ガンダムが上半身と下半身に分かれていて、コアファイターを中心に引かれあって合体するようなイメージだ。

しかしこの合体にしても、単に腹側にある膵臓と背中側にある膵臓がくっつくだけではない。腹側膵はもともと、十二指腸に向かって左側に存在するのだが、

「十二指腸の周りをポールダンスするように、後ろにぐるりと回り込んで、背側膵と合体する」

のである。もう、わけがわからない。腹側に発生したから腹側膵という名前がついているのに、十二指腸の後ろを回り込んでドッキングするため、結果的には「背側膵に後ろから近づいてドッキング」してしまうため……

「大人の膵臓においては、腹側膵は背側膵の”背中側”にある」

という、もう書いていてわけがわからない状態が達成される。


これらには全て意味がある。腹側膵がわざわざ十二指腸の周りをポールダンスするのは、腹側膵が発生の段階で胆嚢や胆管を引きつれて十二指腸の後ろに回り込むためであり、胆管と膵管が正しくドッキングするためにはこうするしかなかった、という解釈だ。

まあ意味と言っても人間が後付けしただけなんだけど……。



なんでこんな、文章で書いてもわけがわからなくなる不思議な立体構造を解説したかというと。人体の中にある病気の一部は、「発生の段階でちょっと失敗しちゃった」というのが原因となって発生しているからだ。

病理学を学ぶためには解剖学もそうだが、発生学も知っておいた方が都合が良い。

例えば腹側膵と背側膵の癒合不全はdivism(ディビズム)という異常につながるのだが、このdivismが存在する人においては、胆管と膵管の合流異常もまた観察される場合が多いし、膵胆管合流異常がある人には(炎症などが起こりやすいためか)膵臓癌が発生しやすいという傾向がある。

このあたりは、発生学を理解していると、わりとわかりやすい。

(参考リンク: http://mymed.jp/di/tyc.html このサイト、信用して良いのかどうか微妙ですが、少なくともこのページの図についてはある程度妥当ではないかと考えています)


刑事物のドラマのラストシーンで、犯人が言い訳たっぷりに自分の不幸な生い立ちを語り始めると、ぼくみたいなゆがんだ視聴者は「そういうのいいから……」と冷めてしまうのだが、しかし、病気の原因を探ろうとするとその生い立ちに遡るというのは、確かに一定の効果がある。

なんでお前、こんなことになっちゃったんだよ、というのを解釈する作業は、病気の「動機」を探る作業に似ているのではないか。

2017年4月7日金曜日

札幌市にはUFO高校というのがあるのだとずっと思っていた

デスクの前の壁に、カレンダーを3セット貼っている。うち、2つは「1か月分のカレンダー」で、1つは「2か月分のカレンダー」である。

今が4月なら、カレンダーはそれぞれ、「4月」、「5月」、「6月と7月」のようにめくっておく。だいたい4か月先までの予定を書き込めるようにする。

正直な話、以前は、自分の予定をデスク前面にバァーンと表示することで、忙しさをアピールする目的があった。

病理医はすぐ9時5時でラクそうだとか言われるので頭に来たのだ。

用意するカレンダーも、「2か月分のカレンダーを3セット」として、半年分書き込んだ真っ黒なカレンダーで壁面を彩り、たずねてくる医療者達に圧力をかけていた。

ちょっと精神が幼かったのだと思う。

今の時代、Googleあたりのアプリを使って管理する人の方が多く、アナログなカレンダー管理自体にあまり優位性がないというのもあるが、ぼくはもうそういう忙しいアピールはやめることにした。通り過ぎたことに後悔はないが、もう戻りたいとも思わない。高校生活と似ている。



昔から、カレンダーにはたいてい美しい写真がついている。今貼ってあるのは野鳥の写真と、野草の写真だ。なぜ野山しばりなのかは偶然なのでよくわからない。

カレンダーに使ってもらえる写真なんて、一流だよなあ。いいなあ、こんな写真が撮れる人は。

野鳥の方は、「ヤマガラとシジュウカラのバトル」だそうだ。撮影地は札幌、とある。どうも素人の投稿写真らしい。

野草のほうは、エゾコザクラ。撮影地は富良野。なんだよ、これも北海道の写真かよ。



ぼくは被写体ばかりの土地で暮らしているのに、自分が検査室の備品からパクってきたカレンダーの写真にも気づかず、ただ予定を書き込んでやってくる人にドヤ顔で提示するだけで毎日を暮らしていたのかと思うとがっくりする。



どうせドヤ顔を晒すなら、こんどは自分で写真を撮って、カレンダーの代わりにデスクに飾って……。



卒業できていない。高校やり直しである。今度は定時制かもしれない。

2017年4月6日木曜日

病理の話(66)

少しマニアックな話をする。

現在、この世の中で観察されうる病気は、「激烈すぎないもの」が大半だ、という話だ。

たとえば、一瞬で空気感染して全ての人を瞬間的に死に至らしめるウイルスというのが存在したら、とっくに人類はほろんでいただろう。

……あるいは、歴史の中で、「ある生物種を全滅させたウイルス」というのもあったのかもしれないが、宿主(感染する相手)を瞬間的に滅ぼしてしまうウイルスなんてものは、「宿る先を失ってしまう」ので、そもそも現代まで生き残れない。

今に残るウイルスは、「人間をある程度生かしておく」という性質を持っている。

致死率の高いウイルスというのもいっぱいあるじゃないか、と反論されるかもしれないが、致死率が100%に近かろうが、決して100%ではないし、「感染、すぐ、即死」というウイルスもない。

宿主が即死したら、次の宿主に移る前に、ウイルスも逃げられなくなってしまうからだ。必ず潜伏期間があり、「人が無症状のままウイルスが増えている時間」というのがある。

ウイルス感染症に限らない。

今この世の中にある病気には、「潜伏期間」があり、「死までの猶予」がある。

逆に言えば、死までの猶予がない病気は、次世代や周囲に伝播しない。



死までの猶予は何によってもたらされるか。

病気が体内で育つ時間。

病気を体内の何かが攻撃して、戦うことで、その広がりを遅くする場合。

発症に年齢が関与する場合。若いときはかかりにくく、年を取ってからかかるような病気であれば、患者さんには次世代を残すだけの時間が与えられている。



「がん」が現代まで残っているというのは、これらの全てを満たす疾患だからだ。

がんを未だに撲滅できない、という言い方は正確ではない。

がんは、人間に「次世代を作るゆとり」を与える(高齢者がかかりやすい)疾患である。

人間同士の間で「かんたんには移らない」(原因となるウイルスがあるにしても、即座にはうつらない)疾患である。

かかってもすぐには命に関わらず、最終的に死に至るまでの時間が比較的長い疾患である。

もちろん、最後にはたいてい、人の命を奪う疾患。けれど、それまでに、猶予がある。

「この世に残るべくして残った、脅威」という考え方ができる。



多少、「擁護」するような言い方になってしまったが、憎むべき敵には違いない。がんを撲滅せずしてなんの医療者かと思う。だからこそ、真剣に、冷静に考えたい。ぼくらががん撲滅を考えるとき、このがんの性質に着目する。

体内にゆっくり蓄積していくリスクがあって発症する、原因から結果までが長い疾患。であれば、リスクの総和をどのように減らしたらいいだろうか? 加齢というリスクはもはやいじりようがない。リスクゼロというのは神話に過ぎない。累積するリスクに応じた早期発見方法を開発するのがよいのではないか?

少なくとも感染がきっかけとなり発症するタイプのがんについては、感染症対策をすることで罹患数を減らすことができるのではないか?

がんが体の中にできてからゆっくり発育する時期があるのなら、その「ゆっくり時期」を延長するような治療をすれば、がん自体を完全に直さずともよいのではないか? 具体的には、あと10年で死ぬがんを、あと200年で死ぬがんに改良するような治療ができれば、がんで死ぬ心配は減るのではないか?

がんが体の中で大きくなるのをふせぐ生体側の複雑な因子をうまく調節できないか? 複雑過ぎる人体を食品ひとつとか健康法ひとつでどうこうできるわけもないけれど、がんを生体が攻撃しやすくなるような環境を作る治療というのは考えられないか?



この世はすべて複雑系である。シンプルな解法というのが存在したら、とっくにその問題は解決している。人類を即死させるウイルスがあったら人類はとっくに滅亡していただろう。その逆もまた真なのだ。時間の経過と共に「現代に残った病気」が、そうカンタンに解決できるわけはない。

だから、こちらも、複雑に取り組まざるを得ない。

2017年4月5日水曜日

えー札幌の3月29日ってこんなに熱いもんなんでしょうかねぇ

このブログはだいたい公開の1週間くらい前に書き上げている。この記事を書いているのは3月29日(水)の朝である。ツイッターを休止した。30日(木)のお昼には復活する。

理由は、29日の朝方にテレビ東京系列で放送された「けものフレンズ」の最終回が、札幌ではリアルタイム地上波で視聴できず、30日(木)のお昼にならないとネット配信されないからだ。

ツイッターをやっていると、ネット配信を見る前に、実況勢によりだいたいのあらすじがわかってしまう。ずっと見てきたアニメの最終回くらい、ネタバレをされずに見たい。

さて、どうしようかと考えた。ツイッターを続ける限り、ネタバレは避けられない。ミュート機能を使ったところで、絵で回ってくるネタバレは避けられない。トレンドに「かばんちゃん」という言葉が並んだだけで泣いてしまうかもしれない。

だったらツイッターやめよう。ひどく簡単な発想である。

リプライの通知は元々切ってあるから、リプライが来ていても気づかない。

DMの通知は(相互フォローの人に限り)付けてあるのだが、まさかDMでネタバレしてくる奇特な人もそうはいないだろう。

木曜日の昼まで、一度もツイッターの画面を開かない。これで解決だ。




この6年間でおそらく初めて、目覚めてから出勤し働いている最中に、いちどもツイッターにアクセスしていないという日を過ごしている。

なんて快適なんだろう。

この楽しさを誰かに伝えたい。

気がついたら瞬間的にブラウザが立ち上がり「Twitter」と「Hootsuite」を立ち上げている自分の手を見て呆然とした。一連の動作が、脊髄前根より末梢くらいの部分だけで完結しており、脳を介していない。体が完全に最適化されている。あわてて脳から指令を送り、Chromeの×ボタンをクリックして画面を消した。

ここまで体と一体化しているとは思わなかった。

よくある「ラスボスがヒロインを吸収してしまう最終決戦」で、「もうわたしはラスボスと一体化してしまったの 体を引きはがせば死んでしまうわ わたしごと倒して!」みたいな展開を想像する。

ツイッターを引きはがすとぼくは死んでしまうのではないか?

勇者はツイッターごとぼくを斬るべきなのではないか?

勇者じゃなくてゴブリンくらいでも斬れるかもしれないけど。

うまくこのネタを展開させれば50RTくらい行くかも知れない。気づいたらChromeが開いていた。あわてて消す。



ゴブリンで思い出したけれど、初代ゼルダの伝説の解説を書いていたファミマガ(ファミリーコンピュータマガジン)の記事に、

「森に住むゴブリンだからモリブリンである」

という説明があって、なるほどなーと思った小学校時代の記憶がとつぜん蘇った。

ゼルダ最新作にもモリブリン出てくる! 俺おぼえていた! わーい!

……次の瞬間にはChromeが立ち上がっていてぼくはあわててブラウザを閉じる。



札幌の3月29日、ぼくは朝から汗をかいている。どうしてこうなってしまったのか。ちなみに本記事のタイトルは、ナンバーガールの解散ライブのMCをパクったものである。Bloodthirsty butchers, the Eastern Youth, Foul, the Blue Harb, Cowpers, まだ半分くらいしか聴いてないなあ。いつの間にかツイッターの画面が

2017年4月4日火曜日

病理の話(65)

「血の通った知識を身につけなさい」という言葉を、つい使ってしまう。

本で読んで覚えるだけではなく、現場で使えるようになってはじめて一人前だというニュアンス。しばしば、座学ばかりして実践をおろそかにする人間、あるいは座学すらしていない人間をたしなめる意味で用いる。

「使ってしまう」と書いたのは、この言葉、ちょっと卑怯だよな、と自戒しているからだ。



たとえば今日の研修医カンファでは、

「ぼくは病棟を持ってないからさあ、抗生剤の使い方とかはひたすら本で読むだけなんだよ。でも、長い既往をもつ患者さんがたまたま別の病気にかかったときに、どの抗生剤を選ぶか、みたいなのって、やっぱり本を読んだだけではわかりにくいんだよな。研修医のみなさんがぼくに教えてくれると助かるなあ、ぼくは病理医だからさ、わかるように教えてよ」

と、煽りまくって初期研修医達を苦しめた。もちろん勉強しておかなければいけないことなので、いちおう指導医をしているぼくがこのように言う資格はあるのだろうが、しかし、意地の悪い問いかけだ。

胆管炎の既往がある人に肺炎があるときにどの抗生剤を使うか、腎盂腎炎の治療をしている人に蜂窩織炎が出たらどの抗生剤を使うか、ステロイド服用によって感染リスクがどれだけ上がっているか、腎機能の悪化によって使えなくなる抗生剤はどれか……。

本を読みこめば書いてあるのだが、「読めば書いてあるだろう! 勉強不足だ!」となじってよいほど簡単な質問ではない。感染症専門医は「それを知っていないと医者ではない」くらいの勢いで解説をしてくれるだろう。けれど、覚えなければいけないことは他にもいろいろある。



「血の通った知識」を身につけるためには、知識をつなぐパイプどうしがねじれていてはだめだ。細くても、先が詰まっていてもだめだ。パイプの走行ができるだけ単純になるように、径が太くなるように、知識をうまくつなげる作業をして、はじめてそこに少しどろりとした血液が流れるようになる。

いつも高圧で血液をぐんぐん押し流している人はいいのだ。使用頻度が高いからと、ばんばん頻繁に血液を流している人は、自然と知識同士をつなぐパイプも太くなる。

しかし、そう簡単に「血は通わない」。現場では稀だが重要な症例なんてのはいくらでもある。稀な症例を目にする機会が多い専門医とは違い、研修医はきわめてよくある症例から順番に経験しなければいけないのだ。



救急車がいっぱいくる病院の研修医が言った、「2年間研修してまともに救急対応もできないなんて、どれだけしょぼい初期研修したんですか」と。

よかったね、自分の中に、血が通った分野がひとつできたんだね。

でも君と違う回路に血を流すためにがんばった人もいるんだよな。



「血の通った知識を身につけなさい」という言葉は卑怯である。血液量が少ない時期には、そもそも血を通わせることが難しいからだ。



ところで、「病理学の知識」に血を通わせたがる医者は比較的少ない。付け焼き刃の知識だけで臨床をわたっていくことも可能である。

さて、じゃあ、ぼくがよく言う、「血の通った知識を身につけなさい」は、病理学に対してもあてはめてよいのだろうか。

ほとんどの医者は、病理回路に回す血流なんて、そんなに多くないはずなのだ。

だったら、現場を知れ、血を通わせろというよりも、いつ血液が流れ出してもいいように、パイプを太くし、つながりをシンプルにし、袋小路をなくする作業に努めておいたほうが、よいのではないかなあ。



以上のような理由で、最近は、「血の通った知識を身につけなさい」という言葉を、こと病理学をめぐる場においては、なるべく使わないようにしようかなあ、とも思うのである。つい言っちゃうけど……。

2017年4月3日月曜日

クラスチェンジできないのは勇者だからです

先日少し運動をしたら、足が筋肉痛になったのはまあいいとして、驚いたことに腰まで筋肉痛になってしまった。なんてこった。日本語に、「足腰」というひとからげのフレーズがある意味がようやく分かった気がする。別に腰の曲げ伸ばしを激しくしたり、重い物を持ち上げたわけではないのに、走り回っただけで腰痛が来るなんて……。

先日のドックの結果で拡張期血圧がちょっと高めに出たというのもじわじわとぼくを責め立てる。

気持ちばかりが若い人間にはなるまい、と思っていたが、自分の体の衰弱加減に精神が追いついていないのだから、相対的に気持ちだけが若い状態だ。

これはまずい、精神を倍速で老成させないと、肉体と精神の不一致が早晩生じてくるだろう。

そこでまずは読書として、封印していた山田風太郎に手を出そうと思う。これはずいぶん昔に勧められていたのだが、時代物はまあ、もう少し自分のメンタルが落ち着いてから読んだほうが楽しいんじゃないかな、なんて躊躇して、それっきり読んでいないのだ。

あとで聞くところによれば、山田風太郎の忍者ものはむしろ若いときに読むべきではないかと言われたりもしたが、そこらへんの齟齬はよくあることだ。

あと、宮部みゆきも一通り読んでいるくせに時代物についてはなぜか少し遠く離れたところで見守る感じでいる。これもよくない。

精神を正しく逐年させるために読む本として、「時代物」しか考え付かない時点でだいぶ発想がアレなのだが、ほかにも考え付いたものがあるぞ。それは神社仏閣めぐりだ。

そういえば、大学院のころ、先輩が神社仏閣めぐりは楽しそうだと言って、その後実際によく行っていたらしい。彼はいまのぼくより若かったぞ、しまった、神社仏閣をめぐるのはよいが、足腰が弱っていると十分に歩き回れないではないか。

結局、精神を程良く老いさせようとするには、若い頃から「老いを蓄積」していかないといけないのだ。

若い頃に若いことばかりやっていてはだめだったのだ。誰に何を言われようとも、自分が出会ったものをもっとだいじにすべきだったし「これは後回し」とかやっていてはいけなかったのだ。

もう手遅れですね、という言葉がリフレインする。とりあえずはジョギングからはじめようと思う。ウォーキングでもいいかもしれない。少しじじくさいかもしれないが、良きじじいになるためには今から修練を積んでおかなければ、いざというときにはじじいになるために必要なスキルポイントが足りていない可能性だってあるのだ。

2017年3月31日金曜日

病理の話(64)

何回説明されても、実際に自分で手を動かしたり考え続けたりしていないとなかなか身につかないもの、というのがある。

それはたとえば、ぼくにとっては、「血液ガス検査」である。田中竜馬先生の本を買って勉強して、そのときはわかった気になるんだけど、現場で運用しているわけではないぼくは、しばらく時間が経つと知識が穴だらけになってしまう。(でも、現場にいるひとにはすっげえいい本ですよ!おすすめ!)

市中感染と院内感染、それぞれの感染臓器の違いとか、起因菌の違い、抗生剤の使い方などもそうだ。きっちり知っておいたほうがいいに決まってる。でも、実際に患者さんを診ているわけではないぼくは、こういうのをすぐ忘れてしまう。

ひるがえって、病理の知識。これは、おそらく多くの医療者にとって、

「勉強しようと思えば勉強できるし、覚えることもできるのだけれど、日々プレパラートをみていない限りは、忘れてしまうもの」

なのだろうな。先ほど、ふと気がついた。



手が技術を覚える、というときがある。くり返しくり返し、動作を反復することで、最初はじっくりと考えないと動かせなかった手が、次第に無意識に動くようになっていく、というあれだ。

脳は、同じ動作を反復すると、おそらくなのだが、その動作に使ったニューロン・シナプス同士がうまいこと関連づけられて、セットですばやく動くようになる。

最初は、部屋のあちこちにあるクローゼットをひとつひとつ開けて、必要な工具箱を取り出し、異なる中身を順番に取り出して日曜大工をやっていたのだが、動作を繰り返すたびに、必要な道具をまとめてしまえるようになってくる、みたいな感じだ。

習うより慣れろ。

これと同じ事は、手とか足だけではなく、脳そのものを使うときにも起こっている。

だから、日々なにかに従事し続けている人の方が、知識が身になっている。知恵になっていると言ってもいい。



病理診断報告書に、ときおり、「結果」だけではなく、「説明」を添えるようにする。説明をだらだら書いても臨床医は読んでくれないよ、といろいろな人に言われたが、ボスはときおり、手短ながらも「なぜそう考えたか」という説明を書き足している。ぼくも、それを真似している。

10年、同じような所見を書いている病気もある。もうそろそろ臨床医も見飽きたんじゃないかと思っていたが、こないだ、件の臨床医と話をしていたら、こう言った。

「先生がときどき書いてくれるあの所見、こないだ講習会で見たんですけど、ぼく、あれ、なんかわかりましたよ。わからないままに読んではいたんですけど、わかるようになってました(笑)」



「納得してもらえるような説明」をするには、表現方法をブラッシュアップするとか、テイクホームメッセージを絞るとか、絵やシェーマ(模式図)を用いるとか、いろいろなやり方があるわけだが……。

何より、「反復する」という作業も大事なのかもしれないなあと思う。だから、今日も、所見の最後のところに、ちょっとだけ説明書きを添えるようにする。

2017年3月30日木曜日

宣伝ですwwwwwwwわかるかwwwwwwwフフッwwwwwwwww

昔から沢木耕太郎が好きだった。

須賀敦子のエッセイというのは、ぼくがツイッタランドで教えてもらった中ではもっとも大切なものだ。

ぱっと思いついた二人はいずれも随筆を書くが、彼らの文章を読んでいると、優れた日記は私小説と区別がつかないのだなとか、自分を語ることが世界を語ることになりうる人がいるのだなとか、ただひたすらにあこがれる。

旅路の末に、

「たどり着くべくして……ではなく、たどり着いてしまった場所で、なにごとかを思案した人」

というのに、深く惹かれている。

おだやかで激しい文章である。




ぼくの人生は十人並みに波乱万丈だ。

誰もが経験しうる、そして、誰もがさいころを1000回振れば6の1000乗の答えがあるように、誰ともぴったりとは一致しない、ありふれた独自の人生を歩んでいる。

たとえば沢木耕太郎の目がぼくについていたら、ぼくの人生は彼の筆によって、さびしくも芳醇に描かれただろうか。

須賀敦子の耳がぼくについていたら、ぼくの人生は彼女の筆によって、はかなくも陶然と描かれただろうか。

ぼくのあこがれはいつでも敗北感とやるせなさから生まれている。



彼らの紡ぎだす言葉をひとつひとつ辞書で引いたところで、出てくる結果には目新しいものはない。

使う50音はぼくと違わない。使う漢字はほとんど常用漢字だ。

それでも出てくるハーモニーにぼくは厳しい嫉妬を覚える。

ありふれた独自の人生を、ありふれていても誰もが心のどこかに閉まっている、経験したことのない思い出の箱に共鳴させるような書き方。

そんなことができたら、どんなにいいだろうかと、



「いい」と思って完成してしまっていない彼らだからこそ、随筆を書き続けたのかもしれないけれど。




ぼくがあこがれて、たどり着けないだろうとあきらめてしまっている人々は、おそらく、自らの完成形みたいなものに、たどり着いたとは思っていないだろう。

常に口渇に苦しんでいたようにも見える。

それが彼我を分ける差なのだとしたら、ぼくは、自分の人生を振り返って本をまとめて喜んでいる場合ではないのだ。

そう思いながら、来年の春に出す予定の、自分の本の最終章を書くことにする。

白紙がちっとも埋まらない。

2017年3月29日水曜日

病理の話(63)

ボスと一緒に顕微鏡を見ていて、たまーに、こういう会話になることがある。



「この胃の腫瘍、腺腫(良性)だと思う? 癌(悪性)だと思う?」

「うーん……ぼくはこれだと癌だと思いたいんですけど……」

「だよねえ……でも、どうしようね……」

「微妙なところですよね……」



えっ、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。

がんか、がんじゃないかを、そんな「気分」で決めてしまうなんて。

「微妙」だなんて。

だって、大違いでしょう。がんか、がんじゃないかによって。

死ぬか生きるかってことでしょう?

医療保険だって、「がん」とついたら、お金が下りることがあるわけで。



でも、実際には、病理診断にはこういう、「良悪の決定すら微妙」な瞬間がある。あるんですよ、実際に。



かの有名な「がんと戦うな理論」の人も、ここをつっこんでいたように思う。

がん診療なんて、病理医の胸先三寸で決まる、微妙な診断によって成り立っているものじゃないか、と。

がんと診断されるものの中には、「がんもどき」なる、実際には生き死にに関わらない病気もまぎれているのだと……。




この話を、ここで終えてしまっては、誤解ばかり招くだろう。だから、続きを書く。

なんでもそうだが、フクザツな事実の、途中までを切り取って人々に伝えると、実際のニュアンスが大きく異なってくることになる。



くだんのボスとの会話は、このように続く。



「結局さあ、この手の腫瘍は、良性か悪性かわからない、というくくりに落とし込んでおけばいいわけだよねえ」

「そうですね。この人のこの病気に関して言えば、直ちに命に関わることはない。内視鏡でこの部分だけをくりぬいてしまえば完治するし、あと三か月後にもう一度様子を見てもいい」

「このまま20年放置とかされては困るし、将来的には本物のがんに育つものかもしれないから、完全に放置されても困るけどね」

「良性と悪性の中間くらいの臨床対応をしてもらえればいいってことです」

「つまりは、癌かどうか微妙で、難しい、と、そのままきちんと書いた方がいいんだろうなあ。市原君ちょっと文章作ってみてよ」

「わかりました。ぼく自身は癌に見えるけれど、病理医によっては良性ととる場合もある、微妙な病変である。いずれにしても対応は一緒で、3か月後にもう一度観察する、もしくは粘膜切除によりここだけ切り取ることを勧める……患者の体力や背景粘膜の状態などを勘案して、ご検討ください、こんな感じですかね」

「そうだね」




結局、「がん」という言葉の言霊が強すぎるのだ。

人間は、「がん」と名付けられた病気に対して、おどろき、おびえ、思考停止してしまう。それは、無理のないことである。

しかし、中には、「がんだけどしばらく様子を見られる病気」もあるし、「がんだし、あっという間に悪くなる」ものも含まれている。

この世にあるあらゆるものは、多かれ少なかれ、程度の差がある。



そのあたりを、デジタルよろしく、0か1かの区別できっちりわけようとすると、いろいろ無理が出る。病理診断というのは、そのあたりのアナログな感覚に対しても、できれば、毎回丁寧に対処していきたいものなのだ。



世の中にある「がん診療」……手術とか、抗がん剤とか、放射線治療とか、そういったものは基本的に、「確実に命に関わるがん」に対して行われる。

これらの治療は、「がんか良性か微妙な病気」については、そもそも行わないことも多い。行わなくても命に別条がないことがわかっているからだ(ケースバイケースですよ)。



あのね。

「がんもどき」みたいな病気があること。

がん診療を担う人々は、先刻承知なのですよ。




「こりゃほっといたらまずいだろ」という「がん」を、「まだ放っておいても大丈夫だな」という「がん」と区別するくらいのことは、精一杯させてもらっている。

アナログな診療の先に、強い治療をするかしないかという「決断」をきちんと出していくことこそが、がん診療なんですよ。




ということで病理診断も結構アナログであっていい、と、ぼくは思っているんですけれども、こんな裏話をお話すると、不安になる人たちもいるんだろうなあ。

さらにおまけの話をするならば、AIにはアナログさはないから、繊細ながん診療は人でなければできない、という結論もまた、間違いだと思う。AIをアナログにするアート、みたいなものも、理論上は十分にありえるのだ。

あいまいとかフレキシブルとかの先にある診療を語るのは、本当に疲れるし、今後はそういう「紋切り型の思考」を、いかに解きほぐしていくかを考え、伝えていかなければいけないのだと思う。

2017年3月28日火曜日

病理の鉄人という名前のポスターを作ったことがある病理学講座は手を挙げなさい

それにしてもレトルト食品とか冷凍食品の進化と言ったらすごくて、カレーにしてもパスタの具にしてもそうだが、あんかけチャーハンとか、コロッケとか、グラタンみたいなのもあるし、ハヤシライスとビーフストロガノフとハッシュドビーフの違いが事細かに表現されているといううわさもある(出所はぼく)。

そして、レトルトとか冷凍食品と、手で作った食品の違いと言ったら、名だたる一流料理人であっても、

「親が子どもにかける愛情は必ず伝わるものです」

とか、

「配偶者のために作った料理は食べている時間だけではなく作っている時間も宝物なのです」

みたいにしか表現できなかったりする。


ぼく自身は、ほんとうは、一人で具材をああでもないこうでもないと調理して楽しむ、「めしにしましょう」の世界であるとか、フォロワーの中にもいる料理の得意なクラスタとかを心底尊敬しているし、いつか自分の興味と実力が料理に向かう日が来たら……というか、もうちょっと中年がこじれたタイミングで必ず料理をしようと考えてはいるのだが、いまのところ、

「料理をする時間があったら病理をする」

という感じになってしまっているので、結局、レトルトとか冷凍食品は本当にありがたくて、しょっちゅう使っている。



でも、なんだろうな、最近はもう少し適当になってきて、ドレッシングとか柚子胡椒とか、素材にちょろっとかけたら味が付くよ、みたいな調味料を2つほど常備して、交互に野菜にかけたりするタイプの料理でもういいんじゃないかとか、そっちの方にステージが移ってきており、そうするとこれはずぼらの極み飯みたいなことになるんだけれども、なんだかレトルトをただ温めたときよりもちょっとだけロハスなスローライフっぽさが醸し出されてきたりする。

そういうところどうなんだろうと思う。



「活力鍋」のおまけについてきた小さな一人用のフライパンがあって、これはとにかく何を炒めてもすぐ焦げ付くくらい熱伝導がいいんだけど、これにうっすらとお水を張って、ちぎったブロッコリーとかざくざく切ったかぼちゃみたいなのを1品目だけ乗せて、ふたをしめて軽くあぶって、ブロッコリーの色がよくなるくらいのタイミングで火を止めておしまい、マヨネーズを軽くつけるか塩を振って食べる。

これはおふくろに教えてもらった「もっともずぼらな調理法」なのだが、夜中にブロッコリーだけ蒸し焼きにして塩で食いながらビールを飲んでいる自分は、ヘルシーなのか不健康なのかまったくわからないけれども、うーん、なんだか一番自分に合っているような気がしないでもない。



「料理の四面体」という本を読みながら飲むビールも、これまたうまいのでぜひ試していただきたいと思う。

2017年3月27日月曜日

病理の話(62)

病理では顕微鏡でプレパラートを見て診断するのだが、このプレパラート標本の作り方にも何種類かある。

「薄切」といって、検体を4μmという向こうがみえる薄さに切る特殊なワザ(技師さんが得意)がある。

カツオブシを削るやつと同じ原理、といったら分かるだろうか。

カツオブシを削るときには、カツオブシを「刃の上を通るように」すべらせて、薄く削るのだが、病理の薄切の場合は逆である。

検体を特殊な装置において、その上を「刃が滑る」。

で、この「薄切」により、検体はペラッペラになり、ほぼ透明になる。そこにヘマトキシリン・エオジン染色などの染色法を加えることで、細胞の「断面」が見えるようになる。

これが「組織診」。


なぜこんな面倒なことをするかというと、ミクロの世界というのはとにかく光量が足りないのだ。

同じ光の量で照らされた物体を見る時も、拡大をしていくと、単位面積あたりの明るさがばんばん暗くなっていく。顕微鏡というのは、たとえば接眼レンズ10倍×対物レンズ60倍の世界だから、600倍にものを拡大すると、それだけ光量がなくなってしまうので、

「自然光のもとにおいて、レンズで拡大」とやっても、まず、見ることができない。

だから、検体をぺらっぺらにしておいて、下から強力な光源でばちっと照らし、「検体を透過した光」を観察する。これだと、よく見える。

ま、そういうわけで、検体を光が通り抜けるくらい薄くすることが必要なのである。



一方。

たとえば子宮頚部の細胞診検査とか、肺や膵臓のブラシ細胞診検査と呼ばれるものは、ブラシの上に細胞を1個、もしくは少量ずつくっつけて採取してくる手法だ。

細胞1個の厚さというのは大して厚くない。小さいものだと5μmくらい。大きくてもまあ、普通は10とか20μmくらいだ。

検体内から採ってきた肝臓とか胆嚢とか、胃からつまんできた小指の爪の切りカスくらいの、センチとかミリ単位の検体であれば、先ほどの「薄切」で削り節みたいにしないと、光を透過させることはできないが。

細胞がごく少数ずつ、ばらけて採れてくるタイプの検査だと、そのままプレパラートに載せても、透過光で見ることができる。

「細胞診」は、この、「細胞をそのまま載っけた検査」のことを言う。

「組織診」は、削り節のほうである。



それがどうした。いっしょじゃねぇか、と言われてしまう。けど、けっこう違う。

組織診(削り節)は、断面だ。細胞の輪切りをみる。

これに対して、細胞診は、細胞の厚さがそのままプレパラート上に表現される。削り節ではなくて、ええと……盛り土……? は、まずいか……。

ごくわずかな違いではあるが……この、「細胞の高さ」を用いて、診断することができる、細胞診(盛り土)は、ときに、組織診(削り節)よりも、細胞そのものの性状を判断しやすいことがある。



もうひとつ。



細胞診を見るのは、技師さんの方が、たいてい得意なのだ。なぜ? と言われると説明がめんどくさいのだが、普段、盛り土の方は技師さんがいっぱい見ている。削り節の方は病理医が主に見る。

森井は岸よりも、盛り土をいっぱい見ているということである。森井土。なんでもないです。


2017年3月24日金曜日

今やっているのが10倍界王拳なんじゃ

「このメイクをすると、小顔に見えるんで、今すごく流行ってるんですよ~!」

という特集を見たあとに、件のメイクをしている人に出会うと、そうか、顔を小さく見せたいのか……と察してしまう。

「このパンツ、くるぶしが見えるくらいの長さではくと、足が長く見えるんですよ~!」

というCMを見たあとに、くるぶしパンツをはいている人に出会うと、なるほど、足を長く見せたいんだな……と勘ぐってしまう。


「○○を改善できるんですよ~!」系の商品やCMを使っている人は、多かれ少なかれ、世間から「○○が気になってしかたない人なんだな」と思われる。覚悟しておかなければならない。

ぼくは、常々、恐そうに見えるから伊達メガネをかけたり、ザコっぽく見えるからスーツで出勤したりしている。だから、そのへんの「コンプレックスが産み出す、購買力」がとてもよくわかる。

Nintendo Switchを買ったんです、やる時間がないけどつい買ってしまいました! みたいなツイートをしたときも、内心、おそらくはコンプレックスが購買につながったんだ、と思った。

この場合のコンプレックスとは、

 ・病理医ってひまそう
 ・なんか遊び方がへたそう
 ・人生をたのしんでなさそう

と周りに思われているのではないかということである。

だから、

 ・ひまじゃないよ
 ・けど遊ぶよ
 ・たのしいんでるよ

を全部盛り込んだ結果、よくわからない購入報告につながったのではなかろうか。



人間が自分を語る言葉は、多かれ少なかれコンプレックスによって突き動かされているのではないか、という仮説。

これは、おそらく、ぼくがコンプレックスによって行動することがあまりに多いために、ぼくだけだと恥ずかしいので、広く一般論にしてしまえばぼくが一人にならなくてさみしくないだろう、という、「木を隠すなら森、気を隠すなら界王拳理論」の末に導き出されたものではないかと推測できるのだ。

2017年3月23日木曜日

病理の話(61)

病理医の主戦場というと、やはり「がん診療」である。

では、がん診療においてぼくらがやっていることは何か。

患者さんから採ってきた細胞が、「がんか、がんでないか」を判断するという、イエスかノーかの二択に挑むこと。

たしかにこれがいちばんわかりやすい。

だから、医療者の多くは、たとえばフラジャイルを見た人から「病理医って何なの、知ってる?」と聞かれた時に、

「あー、病院の奥の方で、これはがんだとか、これはがんじゃないとか、そういうのを決めてくれる人たち。」

などと答えているようだ。



ただ実際には、ぼくらはもう少し、細胞を細かく見ている。

「がんか、がんじゃないか」に加えて、いろいろな評価をする。

その評価は臓器ごと、がんごとにあまりに多彩なので、各種の学会から、「がん取扱い規約」などという指針が示されている。

規約に従って、がんを事細かに評価していく。

たとえば、大腸がんなら、こうだ。


・占拠部位(がんがある場所)
・肉眼型(がんが作る、カタマリのかたち)
・大きさ
・断端(手術をしたときに、がんが、採り切れているかどうか)
・深達度(がんがどれだけ深く臓器にしみ込んでいるか)
・リンパ節転移の数
・遠隔転移の数(大腸以外の臓器にどれだけ転移しているか)
・組織型(がんの中でも、何がんに当たるか。細胞レベルでのがんのかたち)
・間質量(がんの周りにどれくらい線維が増えているか)
・浸潤増殖様式(がんがどれくらいばらけてしみ込んでいるか)
・脈管侵襲(血管やリンパ管の中にがん細胞が入り込んでいるかどうか)
・簇出(がんがカタマリからちぎれるような挙動を示しているかどうか)
・神経侵襲(神経の周りにがん細胞が這っていっているかどうか)
・ステージ(がんの総合的な進行度)
・遺残の有無(体の中にがんが残っているかいないか)


これらが、特に手術の後に出される病理報告書には、細かく記載される……。




さて、今の箇条書きを、丁寧に読み込んだ方というのは、どれくらいいらっしゃるだろう。

多くの方は、読み飛ばしたのではないか。

読み飛ばさずにしっかり読んでくださった方も、これによって頭の中に、何か具体的ながんのイメージというものを思い起こすことができただろうか。

ぼくは、この箇条書きをみるだけで、がんを思い浮かべるのは、相当難しいだろうなあと思っている。



実際、臨床医にとっては、これらの項目をすべて埋めてさえくれれば、病理の仕事としては十分なのである。箇条書きの結果をコンピュータに読み込ませて、今後、この患者さんの病気がどうなるだろうかとシミュレーションを考えたり、治療方針を決定したりすることができる。

ただ、実は、臨床医であっても、これらの箇条書きを眺めただけでは

「実際に、がんがどういう感じで広がっていたのか、体の中で何を起こしていたのか」

は想像がつかない。

この箇条書きは、統計を取ったり、ベッドサイドで治療方針を決めるために最適化された「記号」なのである。実体を記号に置き換えて記載した以上、逆に、記号を元の姿に戻すこともできそうなものだが、高度に効率化された病理診断の記号は、元のイメージがつかみにくいものになってしまっている。

いや、ま、慣れていればできるんだけれども。

よっぽど病理に興味がある臨床医でなければ、これらの箇条書きだけをみて、実際のがんの姿を想像することなんでできないのだ。



実はここに、「病理医が人でなければならない意味」が隠されているのではないか、と最近考えている。

具体的には、「記号で事実を処理したときに、ぼくらの心の中に生じる、なんだか煙に巻かれたような感覚」が、患者さん、さらには医療者にとって、無視できない程度のストレスになるのではないかなあ、それはきちんと説明していかないといけないんじゃないかなあ、ということなのだが……。


続きはまたいずれ。最近書いていることは、どれもこれも、ひとつのテーマに向かっています。おわかりかもしれませんけど。

2017年3月22日水曜日

しゅっちょうにしょっちゅう行くからな

ひさびさに、学会や研究会ではない出張の予定が入っている(この記事を書いているのは3月14日、出張があるのは3月18,19日ですので、記事が公開されるころには終わっているはずです)。

研修医の勧誘イベントに病院から派遣される、という仕事。日曜日の朝から夕方まで、東京ビッグサイトで研修医相手に病院の説明などをする。

たいせつなお仕事ではあるんだけど、自分で何かプレゼンを作って持って行くわけではないし、どちらかというと「そこにいることが大切」なお仕事なので、まあ、気楽である。

19日土曜日には、ちょっとした飲み会の予約を入れた。1年くらい前から飲もう飲もうと誘われていた案件であり、東京出張のたびに、すみません今回も仕事です、すみません今日は日帰りなのですと、お断りし続けてきたのだが、今回晴れて、ご一緒できるはこびとなった。

楽しみにしている。

集まる人々はみんな職業が違うのだが、ぼくを含めてある程度共通点があって、その共通点により昔からお互いをマークしていた。そんな関係である。


なーんてことを、知人に話していたら、

「まあそういう飲み会の話はどうでもいいんですけど、要は、仕事じゃない日に移動して、のんびり寝て、日曜日には仕事っぽくない仕事をして帰ってくるってことですよね。

そしたら、行きの新千歳空港でビール飲めますね。いいなあ」

と言われた。

く、空港で、ビール!!!!

考えもしなかった!!!!!!

そもそもぼくは空港まで車で行くことが多いので、帰りはもちろん飲めないのだけれど、行きも、到着後すぐ仕事のことが多かったので、ビールを飲むなんてもってのほかだった。

おおお……そ、そんな幸せが……ありえるのか……。



と、この先も、3月18日土曜日に飲むであろうビールに対する期待内容をえんえんと書いていこうと思ったのだが、ぼくの性格を考えると、結局空港ではビールなんて飲まず、ちょっと本でも読み機内では居眠りをし、東京ではそそくさと飲み会の30分前に会場周辺に到着して、「必要以上に早く着いた人」っぽくみられないように周囲の喫茶店などを眺めたり道ばたで電話をするふりなどしたり、つつましやかに目立たないようにいつもと違うことはしないように極めて保守的にやっていくんだろうなあ、と、ほとんど確信に近い予想が思い浮かんでしまったので、この話はここでおしまいとするが、それにしても、出張の行きの飛行機でビール飲んだらいいんじゃないですか、と提案してくれる人というのは、いったい普段どういう出張をしているのだろうかと、そちらが心配になって仕方がないし、行きの飛行機に乗る前に一度ビールなんて飲んでしまおうものなら次から毎回飲みたくならないだろうか、とか、そういえば行きの飛行機に乗る前に「この世界の片隅に」を見てあれはとてもいい映画だったっけなあと思い出したりしているのであった。

2017年3月21日火曜日

病理の話(60)

学術には、数学も物理学も生命科学も社会学も歴史学も含まれ、みんなそれぞれの持ち場でそれぞれに真実を探しているわけでああ、人間があちこちでそういう探究をしているのは、とてもいいことだなあ、すてきだなあ、我ときどき思う、ゆえに我あり、となる。

学術あるいは科学といったものには、さまざまなやり口、というか方法論があって、それは発見するものごと、解明するなにものかの性質にも関わっている。ヴァレリーってすげぇクソリプ使いじゃん。

たとえば、天王星の外に海王星が存在することは、当初、惑星の動きから「予測」され、極めて高い精度で場所を絞り込み、そこを「観察」したことで「実証」された。これは、「今まさにそこにあるはずのものを見つけた成果」である。

一方、ニュートンがリンゴが落ちるのを見ながら「予測」したものは、実は法則というか、目に見えない引力という概念であって、これは観察によって裏付けを得ることはできるのだが、しかし、誰も引力そのものを目にできるわけではない。引力子みたいなものを「観察」して「実証」したわけではないのだ。この場合、「目には見えない概念を考えて、その概念によってすべてが説明できることを示した成果」ということになる。

海王星の証明と、万有引力の証明は、どちらも証明という言い方をするけれど、どちらも科学の成果ではあるけれど、人々に「あっ本当だ」と納得してもらうためのやり方がまるで違うのだ。

かつて、日本には、神武天皇が存在したという。これはもう、目でみるという海王星のやり方では、確かめようがないのである。タイムマシンがない限り、直接見に行くことができないからだ。しかし、神武天皇について触れられた複数の書物から、「まあたぶん存在しただろう、そりゃ間違いないよね」と、傍証の積み重ねによって説明されている。万有引力のような「法則」とはまた違った、直接目には見えないものの証明である。ナポレオンはいただろう。大正天皇は間違いなくいた。……間違いなく? ほんとうに? 今を生きるぼくらが全員、今から2日ほど前に、記憶と存在をすべて同時に植え付けられたアンドロイドだったとしたら、「大正天皇がいた」という記録ごと作り上げられた存在だったとしたら? いろんな仮説を無理やり考えることはできるんだけど、無数の仮説にはそれぞれ「ほんとっぽさ」のレベルがあり、なんだか、ぼくらが2日前に作り出されたなんて、可能性としては極めて低いんじゃないかなあって思う。だから、やっぱり、大正天皇はいたんじゃないかな。鯛しょってたことはないと思うけど。

じゃ、医学は? 医学を科学として考えた場合、それはいったいどういう類のものなのだろうか。

ステロイドホルモンのように、発見され、機能が解明された「物質」がある。

膵液はたんぱく質を分解する。見ることができる。

遺伝子変異が蓄積すると、がんになる。……これは本当?

たぶん、最初は、「がんを調べてみたら、遺伝子変異がいっぱいあった」。これは観察できたこと。では、その逆は正しいのだろうか。遺伝子変異がいっぱいあると、がんになるの?

結果から原因を推測。その原因は、本当に、原因だろうか?

どうやったら証明できるだろう。時間をさかのぼるようなことはできない。今そこにあるがんの、時計を巻き戻して、遺伝子変異ができる瞬間までさかのぼれる? それががん化に大切だったと証明するにはどうしたらいい?

実験で、細胞に、遺伝子変異を「人為的に導入」して、その結果細胞が「がん化」することを観察した。わぁい、これはどうやら本当らしいぞ?

そう?

たまたまその細胞だけががんになったんだとしたら?

遺伝子変異を起こすために用いた薬剤が、遺伝子変異とは別に、細胞がん化の原因になっていたとしたら?

仮説を立てる。その仮説が、どういう結果をもたらすだろうと考える。証明するために実例を集める。なるべくたくさん集める。統計をとる……。

実際に目で見えるものを見つけたり、目では見えない理論を考えたり。

病理医の仕事を考えよう。

内視鏡を見て、病理診断が「推測」された状態で、病理組織像という「事象」を見て、ああ、病理がこうだから内視鏡がこうなったんだ、と、演繹的に内視鏡像が導かれることを確認、ある疾病を結論として導き、その疾病を「前提」として演繹して、過去の「統計」の結果をもとに帰納的に蓋然性が高いと考えられた予後といういまだ目に見えない未来を「推定」し、それに合わせて妥当性のもっとも高い治療を考察・実施。その繰り返しの中で生じた「ずれ」を「観察」して、なぜこの齟齬が生じたのかと「仮説」を作り、新たな仮説に基づいて演繹的に今の事象が「説明」しうるかどうかを考えて、仮説の妥当性を評価するための「実験」や「統計学的検討」を探る。数々の文献から導かれる、まだ人がたどり着いていない演繹的結論をシステマティックレビュー。レアケースによる反証例はないか? 新たな仮説の形成。演繹。帰納的拡張。仮説形成的拡張。演繹。

病理医の、形態を見るという視点がもたらす、総説(過去の文献を統括して当然の結論を探る作業)は、演繹的な科学だね。ぼく、去年、一本だけ書いたよ。

症例を見て考えて診断を出すと、それを前提として臨床医が治療方針を決めるの、演繹的な医療実践だな。毎日やってるよ。

ときおり現れる珍しい症例、不思議な現象に気づくこと。なぜだろうと考えること。仮説形成(アブダクション)的科学なんだな。大好き。

その仮説を実証するために、症例報告を作ったり、ケースシリーズという複数症例のまとめを作ったりするの、帰納的科学だね。研究会! 学会!

帰納法だけではいつ反証例が現れるかわからない。統計学だ。統計解析をしよう。そうすれば、仮説から演繹した結果が妥当かどうかを帰納的に解釈できるね……もっと統計の論文書かなきゃな。



医学もまた、科学として、複数のフクザツな「証明方法」を要求している。ポパーさん、爆発してそうですね。ベーコンさん、油は味わいだよね。



医学が普通の科学と比べて、あえて違うところがあると言ったら、それは何?


それは、医学はできれば、人の病気を治すためであってほしいと願う人が、少なからず……というか、いっぱい……存在する、ということ。

病気はなぜ病気なんだろう。そう思い悩む、哲学的な思考を助けるのも、医学であるということ。

病気や病院をめぐり、説明をしてもらったり、納得をしたりするためにも、医学が必要になるのだ、ということ。



演繹、帰納、アブダクション……。そして、説明のための、対話、ことば。



パースさんのおかげで、考えて考えて、顔面のパースくるっちゃうよ。ちょっとデカくなっちゃルト。

2017年3月17日金曜日

ニュースが静かに伸びてるよ ニュー スッ

油断していると負を集めに行ってしまう。

だいたい、新聞を隅から隅へと読むというのは不健全だと思う。政治にも経済にも社会にもスポーツにもひとしく興味を持ち、同じように関与しながら生きているわけがないじゃないか。いやそういう人もいるのかもしれないが、ぼくは違う。要は、読んでいる部分の半分くらいは、岡目八目で面白半分に首を突っ込んでいるだけだ。

面白半分ならまだいい。

見て、考えて、不快になり、怒りを爆発させるような情報を、わざわざ拾いに行ってしまうときがある。

どうなのか、と思う。

つい、社会面を見てひさんな事件のその後を追ってしまったり、政治面をみて世論ならぬ社論に腹を立てたり、しなくてもいいことをする。

ツイッターで少しでも暗いニュースや人への罵倒をつぶやいている人を見かけたら、即刻でミュートすればいいかなとも思ったけど、気がついたらどのツイートをミュートするか悩みつつ、今日もどれかをミュートしなきゃという義務感にかられて、ミュートするツイートを探して回ったりしている。



負が流れてきたときに、何も感じず、何も反応せずにいるにはどうしたらいいのか。

負と無は響きが似ている。無として扱えばよいのか。

こう考えたらよいのか、こういうとらえ方をすればよいのか、なるほどなるほど。

では、次に負が流れてきたら、やってみよう。さあ、負はいつ流れてくるかな。負はまだかな。



また、くり返しだ。きりがないのである。



だからしきりにだじゃれを考える。脳が止まっている時にはすかさず下ネタだじゃれ親父ギャグの類いで、脳に張り巡らされたパイプの中にとにかく循環液を流し込んでしまう。余計な思考が紛れ込まないように。思い悩まないために。



いかに悩まないかが大切で、悩まずに生きるのは難しく、できれば悩まないための道を見つけ出そうと、毎日悩んでしまうのがいやだから、悩むことなくスキマをだじゃれで埋める。



そういう暮らしの先に出てきた仕事の結晶が、ときおり、中年のだじゃれの感性を帯びている時があり、あっ、混線しちゃったなと思う一方、もし紛れ込んでいたのがだじゃれではなく、陰惨なニュースや頭にくる論戦のたぐいだったら、ぼくはきっとこの仕事、めちゃくちゃにいやになったんだろうなあと、胸をなで下ろしたりする。

2017年3月16日木曜日

病理の話(59)

病気の診断をする仕事では、「真実」がどこかにあると考えがちである。

いや、まあ、真実はいつだってどこかにはあるのだろう。ただ、診断というのは、「真実を求める仕事」とはイコールではない。

診断というのは、主に2つの理由で行われる。

・今後どうなるかを予測するため
・治療するため

極論すると、科学者ではなく医者が患者をみる場合に、

・今後どうなるかだいたいわかる
・治療の選択肢はすでに決まっている

のならば、診断名を正しく決める必要はないのだ。



たとえば、鼻水がとまらず病院に行ったときに、

「○○ウイルス感染による△かぜで、□□という薬で治すことができます」

まで診断する必要は、ほとんどない。

「なんらかのウイルスによるかぜ」

であるとわかれば、それで様子見が正解だからだ。そもそも、ウイルス性のかぜに対する特効薬は(今のところ)ない。

症状を抑えるための薬なら投与することもできるが、

「すでに鼻水が出ている患者に、鼻水をとめる薬を出す」

のは、診断を決めなくても、やろうと思えばできることなのである。



肝腎なのは、この鼻水が「ほんとうにかぜなのか? あるいは、アレルギーとか、別の病気ではないのか?」ということに気を配ることだ。その意味で、まったく診断をしなくていい場面というのは、おそらく病院には存在しない。

けれど、「かぜ」だけを決めてしまえば、「何ウイルスによるものか」までは決めなくてよい。



将来、かぜのウイルスごとに違う特効薬が開発されたら?

そのときは、あるいは、かぜは今よりもっと詳しく診断されるかもしれないが……。

だまっていても3日もたてば治ってしまう「かぜ」に、そこまで研究費が投入され、それほど高精度な薬を開発する未来が、この先、くるかどうかはわからない(くるかもしれませんけどね)。



医師というのは、このあたりのバランスを知らず知らずに身に着ける。

診断をどこまで進めるべきなのか、診断がある程度(あいまいでも)決まった段階で、できる治療に移るのか。

これをきちんとやっていく医者こそは、患者にも、社会にも、大きく貢献する。



で、病理医の話をすると、ぼくらも、「どこまで診断を詳しくするべきか」というのを、日ごろある程度考えている。

けれど、「これは良性」「これは悪性」のようなざっくりした診断で終わることは、基本的に許されない。

ぼくらは、臨床医よりももうちょっと、診断を詳しく出すよう求められる立場だ。

・患者さんが今後どうなるかを予測するために
・治療の選択肢を決めるために

という2つの意義に加えて、もうひとつの意義がかなり大きくのしかかる。

それは、こうだ。


・結局、何なのか知りたい。



それを知ったからって患者さんに何か影響あるのかよ。治療に差が出るのかよ。こんな疑問が日々聞こえてきて、それでも、ぼくらはもうちょっとだけ先を見る。



病(やまい)の理(ことわり)をみる医者、という名前がよくないのだと思う。

こんな名前をつけるから、ぼくらもその気になってしまうのだ。



「今のところ、ここまで詳しく分類したからといって、あまり喜ぶ人はいないんですけどね、もしかしたら、将来この差が、治療につながるかもしれないんで……」

てへへって感じで頭を書きながら、とても細かい話を診断書のすみっこに、申し訳なさそうに書いておく。



そこにアイデンティティがある気もする。

2017年3月15日水曜日

靴だけが旅をする

そういえば最近、靴を買いたい。



靴が買いたくなると、街に出て、行き交う人々の足元ばかり見る。

自分と背格好の似た男性を目で追い、上から下までのコーディネートをチェックしたうえで、靴がそれに似合ってるか、似合っていないのかを考える。

ファッション雑誌を買って考えるのもいいのかもしれないけど、38歳のおじさんが参考にするべきファッション雑誌というのは、最近はどれもこれも、「年甲斐もなくナンパしたがるおじさん向け」のテイストをスパイスに利かせている気がして、どうも、しっくりこない。

街で楽しそうに歩き回っている人たちを探して、その人が良かれと思って身に着けているファッションを見て考えた方が、なんぼか気が楽なのである(たぶん一部が北海道弁ですが解説は省略します)。




講演を頼まれて出張するたびに、現地でいちばんスーツが似合っていた人のファッションを覚えて帰ろうと思う。

たいてい、ぼくより背が高く、ぼくより顔が小さくて、シュッとしてシャッとしているから、結局参考にはならないんだけど、それでも、スーツを着た偉い人の中には、ときおり、背は大して高くないけれど、すげぇおしゃれだな、かっこいいな、という人もいる。

スーツもワイシャツも、とても高そうだ。靴だって見たことのない形をしていてすごい光っている。持ってるカバンも、さりげないけど、実にいい。

この人、別に、この一着だけが勝負服ってわけじゃないだろうな。何着も持っていて、今日たまたまこれを着ているだけで、それがこんなにかっこいいってことなんだろうな。

ぼくが今、こんなスーツを買っても、今もってるスーツとの落差がありすぎて、これ着てるときだけ妙に浮き上がって見えちゃうんだろうな。

ああ……めんどくさいな……靴だけでも覚えて帰ろ……。




芸能人を見ているとき、靴に目が行く。

テレビではなかなか靴までは映らないけれど。

髪型やトップスばかりが映るんだけど。

この髪型は、この人だから似あうんだよな。

このトップスを1枚買ったとしても、今あるパンツとうまく合わないだろうな。

何着も持ってる人が着まわすからこうやってなじむんだよな。

ああ、結局、スッと買える可能性があるのは、靴くらいだなあ。




そういえば最近、靴を買いたい。こう、書き出してはみたけれど。

よく考えると、ぼくはもう20年くらい、靴ばかり買いたい。

靴以外は、いらない。

2017年3月14日火曜日

病理の話(58)

ぼくは、日ごろ、

「自分の人生を堅実に歩みながら、周囲への気配り心配りを忘れず、周りの人を動かしながら、コツコツとした積み重ね、あるいは一瞬のひらめきと切れ味などで、スタイリッシュに大きな仕事を成し遂げた人」

のことをいちばん尊敬している。

そういう人の仕事を、とても評価している。




ところが、世にある「すごい仕事」というのは、必ずしもこんな「人にやさしい仕事」ばかりではない。

極めてブラックな労働環境の末に、信じられないクオリティの仕事が出来上がってくる場合もある。

ぼくは、そんな、「人の執念でしか成し得なかった仕事」のことを、実は、必ずしも評価していない。

だって、誰かがすごい努力をした結果、成し得た仕事ってのは、誰かが何かを犠牲にしないとできあがらなかったものだろう?

そのとき、誰が何を犠牲にしたか、ということに思いが及ぶと、どうにもやるせない気持ちになってしまう。

ぼくが今まで積み上げてきた仕事なんてのは、そんなものばかりだ。

徹夜を繰り返したあげくに作ったシェーマ(模式図)。

健康を害しながら書き上げた論文。

ぼくは、自分の人生と健康を切り崩さなければ自分の仕事ができなかったということを、けっこう、恥ずかしく思っている。





執念の医者というのを何人か知っている。

内視鏡の診断を極めようとするあまり、自分の胃に○○○○○(市販品だが厳に秘す)を薄めて巻いて観察した医者がいた。

毎日夕方の5時に職場を出て子供を迎えに行き、子供とともに9時に寝て、夜中の2時ころに目を覚まし、そこから朝7時までの5時間で論文を書く、というルーチンを組み上げた医者もいた。

彼ら・彼女らは、楽しそうに笑う。

自分のやりたいことができている、と、実にうれしそうに言う。

ぼくは、「その人がすごいからできる仕事」なんて、けっきょくその人一代で潰えてしまうじゃないか、後輩がまねできないほどの努力と犠牲を払って仕事を積み上げるのなんて、業界にとってはそれほどうれしいことじゃないんじゃないか、と思っているけれど、執念の医者たちの楽しそうな顔と、達成してきた業績の数々を見ていると、黙り込んでしまう。





病理医という仕事は9時5時でいける。ワークライフバランスが良好である。子育てをしながら、自分のやりたいことをしながら働ける仕事。

この切り口で、病理医という仕事を世に問うた結果が、今だ。

あらゆる医師の中で、一番、人数が少ない科のひとつとなっている。

ぼくは、それがなんだかとてもいやで、

「この仕事は、どこまでも打ち込める。いつまでも働いていられるんだぞ。」

と唱えながら、自分の人生と健康を犠牲にして、どこまでもどこまでも働こうとした時期があった。

忙しく楽しそうな臨床医に向かって、「俺だって」と、我を張りたかった。





ぼくは、そろそろ、5時に帰る生活を目指そうと思う。

その上で、誰もが納得するくらいの仕事を積み上げていきたいと思う。

そう、自分に言い聞かせている。

何度も何度も、脳内で繰り返し、唱えている。

「いっぱい働けばいいってもんじゃないんだ。何かを犠牲にして働くのは美徳じゃないんだ。」

しつこいくらいに唱えて、うるさいくらいに心に刻んで、それでいて、今、まだ、ときおり、徹夜を誇る臨床医たちの姿を見て、ああ、ちょっと、うらやましいかもな、と思うことも、ある。

2017年3月13日月曜日

息子がかつて雪だるま壊そうと歌ったときぼくは元ネタを知らず笑ってあげられなかった

なにか新しいドラマをやるとか映画をやるとかいうとき、2,3人の決まった俳優がテレビのバラエティに連続で出演していくような状況というのが、ここ数年、続いている気がする。

テレビはつまり、番組そのものを売るよりも、何か別の番組の宣伝として作り上げるほうが、今のところいちばん「儲かる」ということなんだろう。

テレビ。

どれだけの人がテレビに関わっていると思っているんだ。どれだけの人がテレビのおかげで食えていると思っているんだ。どれだけのお金がテレビのおかげで動いていると思っているんだ。

儲かることが第一義でいい。そのほうがいい。それが一番いいと思う。

同じ俳優ばかりをゲスト出演させて、あのバラエティもこのトーク番組も、ぜんぶ似たような人で作り上げていく今のテレビが、一番お金と心を動かしているということなんだ。

これは、たぶん、統計の結果もたらされたものだ。

医療でいうところの「エビデンス」みたいなものが、テレビ業界にもあるんだ。これがいいと判断されたんだ。




ぼくはたとえば広瀬すずちゃんみたいなかわいらしい、自分の半分も年齢がいってない女優さんが毎日毎日あらゆるテレビに出ている状況というのは、決して嫌いではない。

けっこう毎日のように、寝る前には必ずテレビをつけている。

録画してみるほどではないんだけど、寝る準備をしながら必ずテレビを見る。

毎日、かわいくて今旬の女優さんや、かっこよくて今はやりの若い男性タレントなどを、見る。

それはやはり眼福だし、こういう「はやり」というのは、うまいこと人の脳にしみこんで、世の流れを作り上げながら、何倍ものお金と心を動かしていく。



ぼくは、正直、そういうときに「動くほう」の自分でありたかったと思う。



みんなと楽しそうに、動いて、動かされて、ゆさぶられる側でいられたら、どれだけ幸せだったろうかと、思ってしまう。


そういう人たちが世の流れを作っていくのだ。そういう人たちが作った世の中でこれからもずっと暮らしていくのだ。



つらくないほうが、いいじゃないか。



わかりあえるほうが、いいじゃないか。




ぼくは常に屈折した思いでテレビが作り出す流行をながめていたし、そのテレビが全力で番宣しているものなんて虫唾が走るほど嫌いだったけど、それでも「アナと雪の女王」はほんとうにいい映画だったし、やっぱり、自分が単純にゆがんで間違っているんじゃないかなって、ひざを抱えて自分の好き嫌いを見直すような毎日を送っているんだ。

2017年3月10日金曜日

病理の話(57)

とんでもない病理診断、というのを見ることも、ある。

なぜこれを見逃したのだろう、どうしてこれをこのように評価したのだろう、いくら論理的に考えても、答えはない。だって、かの人の診断は、そもそも一から十まで間違っていて、整合性などとりようがないからだ。



人間の間違いにもいろいろある。

多くの人が陥りがちな錯覚。

知らないと判断をあやまってしまう落とし穴。

さまざまな理由が積み重なり、間違っても仕方のない状況に陥ってしまうこともある。

そして、これらと同じくらいの頻度で、

「なぜ間違ったのか説明がつかない。誰が見ても間違いなのに、なんなら、時間とタイミングを変えれば本人も間違いだと気づくだろうに、間違ってしまう」ということもある。


こればかりは、ほんとうに、はたから見ていて、間違いの構造が解明できない。


なんでこんな間違いをしたんだろう。


思わず声に出してしまうこともある。

いや、そもそも、人間というのは、そういう生き物なのだ。

誰もが赤だと思っている色を、光の加減でオレンジに見間違えたり、目が疲れていて紫に見間違えたりすることばかりが、間違いではない。

赤を黒に見間違う。赤を緑に見間違う。

赤を透明に見間違うことすらある。それが、ミスというものなのだ。





今よりもっとずっと若かったころ、「先輩」と言って差し支えないくらいの年齢差しかない病理医が、信じられないような間違いをおかすシーンを目の当たりにして、「なにやってんだ」「勉強不足だ」などと、なじったこともある。

しかし、今は、ただひたすらに怖い。

いつ、自分が、「誰が見たとしても、言い訳ができないくらい、完膚なきまでに、間違えてしまう」かは、わからないのだ。それが怖い。





飛行機事故のときに、ブラックボックスとかいう箱を回収して、飛行機が落ちる前にどんなことがあったのかをことこまかに解析するという作業があるのだという。

人間は、誰かのミスや、誰かが陥った落とし穴を解析することで、その人の揚げ足をとるでもなく、ただひたすらに、「二度と繰り返すまい」と反省を深めていくことができる。

数々の「誤診例」を集めて、ぼくは、自分の恐怖を高めていく。

Z会という通信教育サービスが、かつて、「不合格体験記」というのを特集していた。

合格体験記のような成功の記録よりも、失敗した人から学ぶほうが、役に立つことだってある。

そういう理屈ではじめられた企画だったはずだ。

ぼくはこの企画が大好きだった。

そして、いまだに、「病理診断医として不合格なミス」を集めてさまよっている。

いつか、自分が、取り返しのつかないミスをする日がこないことを願って、後ろ暗く、不合格体験記を探し求めている。




できれば、自分の間違いは、取り返しがつく段階で気づいておきたいものだなあ、と、いつも思っている。

2017年3月9日木曜日

脳だけで恥をかく

ツイッターで他人を攻撃している人が目につくときはたいてい体調か精神状態がよろしくない。

何かを揶揄しはじめた人々を見ると目の周りの筋肉に力が入り始める。

そういうときには、スマホで表示できる絵文字を使ってギャグなどを作る。

笑いには幾種類かあるのだが、中でも「苦笑」は比較的かんたんに求めることができ、かつ、相手の方の力を抜き、自分の肺のすみっこにたまった澱のような空気を吐き出す助けになる。

ねこが屋外で草を食べて毛玉を吐き出すようなものだ。苦い笑いは、体内の悪いものを排出する手助けになる。

こういうことに気づけたのは、自分の中では「進歩」だと思っている。



⏰ <まったく、 めざましい しんぽだ



もう、これだけでだいぶラクになる。あなたも、わたしもだ。

苦笑を求めないまま、くそまじめな顔をしてタイムラインを警備するような真似はしないほうがいい。

それは、なんというか、精神にあぶない。



🌂 <おわっ! あんぶれーらぁ!



別に絵文字ギャグである必要はないのだが、時に、人は、目の前にある濁流に「流されまい、流されまい」と思いながら、なぜか足がそちらに向いてしまい、いつしか飲み込まれる、みたいなメンタルになってしまうことがある。気晴らしが必要だ。精神状態をずらす。がらっと変える。立ち位置自体を動かしてしまう。



🚀 <ろけっとしてる場合じゃないぞ!

🚜 <そうだ!逃げとく と 楽たー!

🎾 <かってにするんだ!

🚥 <んだ! だいじょうぶになる! しぐ なる!






🎪 <いったい何の話をしてんとか

🚣 <わかんぬー

🚪 <けど、あー、

🗿 <これも愛のかたちかと思ったり

🔜 <すーんのよ


2017年3月8日水曜日

病理の話(56)

病理診断というのは、常に、疑われている。

臨床医と会話をすると、それがよくわかる。

臨床的に「あまりがんっぽくないな」と思われていた病変から、検体をとってきて、それを病理でみたときに「がん」という診断をくだすと、ほぼ100%、電話がかかってくる。

「先生がんってマジすか!」

これは強調ではない。けっこう、こういう口調でかかってくる。


この質問に対し、

「だって細胞が悪そうなんだもん。核がでかいもん。」

と答えていたのでは、だめだ。

そんな、病理医にしかわからない基準、それも「大きい」とか「小さい」みたいな主観的な基準で、臨床医が納得してくれるわけがない。

けど、実際、よくこういう説明はなされるらしくて、だから病理はすぐ「ブラックボックスだ」とか「病理医の胸先三寸でがんかどうかが決まる」とか言われてしまう。




臨床医が「がん!? マジすか!」と電話をかけてきたらどのように対応するか。




とても大変で、毎回対応が変わるし、ケースバイケースでいろいろな返答をするのだけれど、一番大切なことは、

「臨床医がなぜびっくりしているのか」

をきちんと解析することだ。

理想を言えば、「臨床医がおどろくのも無理はない」というレベルまで、臨床像を病理医が読み解けるといい。

そうすれば、何を彼らが驚いているのか理解して、それに対して病理診断がどこまで力を持つのかを解説することができる。


……しかし、臨床診断だって、一朝一夕に真似できるものではない。

その道のプロが診断するに至る思考回路というのは極めて複雑だ。

所詮、病理医であるぼくが、「臨床医がなぜ疑問に思っているのか」を、彼らのやりかたでなぞることは難しい。


だから、聞くのである。教えてもらうのである。


「マジっすけど、その驚いた理由をぜひ教えてください。」



これを全部の科に繰り返していると、病理医は自然と、ありとあらゆる臨床科の「門前の小僧」状態になる。

なんとなく、臨床医と同じような診断ができるような気がしてくる。



まあ、門前の小僧が覚えられるのはお経の一部だけだ。

どういう顔をしてお経を唱えるか、お経を唱えるときどのような姿勢で、どのように木魚を持って叩くか、檀家さんにはどのようなお話を追加するか、そういった技術は絶対に身につかない。

だから坊主のふりはできない。けれど、話ができるようになれば、しめたものなのである。





どうでもいいけど、医者の話をしているのに坊主に例えるというのはとてもまずいのではないか……。

いや、ま、医者も坊主も同業者ではある。説明して、納得して頂くというのが、我々に共通した職務である。

2017年3月7日火曜日

お腰につけたその靱帯

腰痛がひどかったことがある。

座り続けて延々とPCを覗き込んで、がりがりとシェーマを作っていた。どうにも腰が痛い。あっちきしょう、年を取るっていやだなあと思っていた。

腰をもんだりあたためたり、座り方を変えたりしていろいろ対処したのだが、悪化の一途だった。

あるとき、たまりかねて、マッサージ屋に行った。 整形外科にかかれよ、とつっこまれるかもしれないが、うん、医療費高騰が叫ばれる昨今、自分の体を慢性的にどうにかいい方向に持って行きたいと思ったら、ときにはこういう医療保険を使わない市中のサービスも役に立つもんだよ。

……要はめんどくさかったのである。さらっと入れる場所にあったマッサージ屋に入った。保険証もいらねぇし。もんでくれい。

そしたら、こう言われた。

「ふとももの裏の筋肉がすげぇこってますね。」

「ふとももっすか。腰じゃなく。」

「ええ、ふとももの裏ですね。」

「腰はどうなんすか。」

「ふとももの筋肉って、お尻につながりますよね。」

「つながりますね。つながるんでしたっけ。」←(素で解剖学を忘れていた)

「この筋肉、腰のこのあたりにつながってるんですよ。」

「ほう……。」

「座り仕事が多いとおっしゃってましたよね。ふとももの血流がめっちゃ悪いんですよ。長いこと座るでしょう。すると、ふともも、めっちゃ硬くなるんです。」

「ふむ……。」

「するとね、こう、硬くなった筋肉が、腰もひっぱっちゃうんですね。後ろ側に。」

「おっ……。」

「で、腰まわりに負担がかかることになって、腰痛になると。」

「あれっ、腰! 腰出てきました!?」

「出ました。」

「出ましたね。」

「だから、これを治すには、まず、ストレッチをしてください。」

「今ここでバキッつって治すんじゃないんですか。」

「だいたい、バキッって壊れる音ですよね。」

「確かにそうですね。」

「そういうバキバキ整体で、体のずれを治すとか、あれ、かなりあやしいですね。」

「あやしいですか。」

「その一瞬、ある程度よくなったように感じるでしょうけど、原因があってずれたわけでしょう? 原因をとりのぞかないと、またずれますし。そもそもずれをバキッって治すなんて、レゴとかプラモデルであっても、あんまりよくないと思いますよね。」

「思いますね(同調圧力を感じてきた)。」

「だから、やり方を教えますので。あなたの腰痛に効くストレッチは、前屈です。」

「前屈っすか。」

「そう。そして太もものうしろをやわらかくしましょう。そしたらラクになると思います。もんでみて思いました。」

「(いつのまにかもまれていた!)」




こうして腰痛が治りました。整体すげぇって思いました。

世の中にはこのように、腰が痛いのは腰のせいだと思ってたけど実はふともも、みたいなことがあるよなあ……という、糸井重里さんみたいな例え話ふうのいい話にしようかと思っていたんですけど、長くなったんでやめます。

2017年3月6日月曜日

病理の話(55)

解剖というものについて、ぼくが多くを語ることはない。

それは、ぼくが、解剖のことを嫌いだからだ。




今までぼくは、だいたい300件くらいの病理解剖をしてきたと思う。たった300件だ。昔の病理医は、3000件とか5000件というオーダーの解剖をしていたらしい。

ぼくの解剖件数が少ないのは、ぼくが解剖を毛嫌いしていたからではない。そもそも、「病理解剖」自体が減っているからである。

今や、病理解剖は、”ほとんど” 必要のない手技となった。

(※刑事事件の際に行われる解剖は司法解剖と言って、病理解剖とは別なのですが、その話はまたいずれ。)




病気の大部分は、解剖などしなくとも、明らかになる時代である。

CTもMRIも、切れ味がすごいのだ。死後画像診断というのもある(わざわざAiなどと仰々しい呼び方をするのは好きではない。死後画像診断、という言葉はずっと昔からあった)。

医師の診断手法も多角化した。血液検査だって切れ味ばつぐんだ。腫瘍の正体が知りたいだけなら、解剖までしなくとも、亡くなったあとに細い針を一本刺させていただいて、肝臓あたりから腫瘍を採取すれば、だいたいの遺伝子検索はできてしまう。

わざわざ、ご遺族に断って死体をあずかり、傷をつけて臓器を取り出し、外からわかりにくいように縫って包帯をまいて、きれいな着物を着せて手を合わせてお返しする必要なんぞ、もはや、ごく限定的な場面でしか、なくなってしまった。





完全に死語となってしまったが、昔、病理医は以下のように揶揄されていた。

「内科医は何でも知っているが何もしない、
外科医は何も知らないが何でもする、
精神科医は何も知らないし何もしない、
病理医は何でも知っており何でもするが遅すぎる」

これは、病理の主戦場が解剖だった時代の言葉である。

今と違って、まともな画像検査など一つもなく、切れ味のある血液検査もなかったころ、多くの病気は正体がわからなかった。がんと言えば体表に変化が現れる皮膚がんと乳がんしかわからなかった時代。胃や大腸、肺や膵臓などに「がん」が出るなど想像もつかなかった。患者が日に日に弱ってついにはなくなってしまう。どこに悪魔がついたのか、何が患者に悪さをしたのか、患者本人はおろか医者も学者も何もわからなかったころに編み出されたのが、

「病理解剖」

だった。

そりゃあ、「遅すぎる」とも言いたくなったろう……。

でも。

亡くなってしまった患者から得られる情報は、「まだ見ぬ未来の新たな患者」を救うヒントになるかもしれない。

病理解剖は、遅すぎるどころか、「早すぎる」くらいの仕事なのだ。本来は。

誰だ? あの格言みたいな言葉を作ったのは。

何もわかっていないじゃないか。





病理医は、病理解剖の間違ったイメージのせいか、暗く、手遅れな分野のように語られるふしがある。

まったくもって理不尽だ。不愉快である。

だからぼくは解剖が嫌いなのだ。





病理解剖では、体内にある臓器をすべて取り出す。取り出したあと、臓器の検索に移る前に、ぼくは必ず一緒に解剖に入っている技師さんに、「患者さんの体を縫い始めてください」と言う。少しでも早く、ご遺体をご家族のもとにお返しするためだ。臓器を取り出すために必要なだけの傷はそれなりに大きい。丁寧にゆっくりと縫い合わせる。時間がかかるから、臓器の検索が終わるより先に、縫い始めてしまう。

心臓を見る。すでに動いていない。ぬくもりは、あるときもないときもある。グロさはない。ここは、とても大事なところだ。

グロさはない。ただ、精巧すぎて、神の存在を一瞬信じざるを得なくなるような、そんな気分になる。

宇宙飛行士は、地球を眺めて、そのあまりにも美しく、宇宙空間において孤独でひよわな奇跡を感じて、なんらかの宗教に入信したくなる……。そんな話を聞いたことがある。

ぼくは宇宙にはいかないだろうけど、神の存在なら、臓器を見ればある程度は信じることができる。

臓器というのはそういうものだ。

ホラー映画や、グロ画像と言われる類のものが描写する「臓器」なんぞ全部うそっぱちだ。

本物をみると、キョトンとする。

これが体の中で、何十年にもわたって、人間ひとりを支えていたのか。

敬虔な気持ちがわきあがり、そこからすべてのシナプスが猛然と発火し始めるような錯覚を覚える。

縦隔気腫の分布がアーチファクトかどうか判断せよ。

乳腺を見逃すな。

下腿をもちあげて深部血栓の有無を探れ。

肝十二指腸間膜を切る時には胆汁の漏出を確認せよ。

副腎を同定するなら血管を触れておけ。

下大静脈は一発でほぼ全長を見渡せるように。

尿管を傷つけずに腎臓を秒単位で取り出せ。

枝追いをしながら肺にホルマリンを入れろ。

人間をかたちづくるすべての臓器に、あらゆる作法をもって挑み、患者の遺志と遺族の意志を次につなぐ。

すべてに、高度な専門技術と、先人たちが積み重ね、練り上げてきた「勘の付け所」が要求される。

不謹慎を承知で言おう。

人間のすべてを見てやろうとする解剖が、おもしろくないわけがないのだ。




……ほら、こうやって書くと、みんな、すごく引くだろう?

だから、ぼくは、解剖が嫌いなのだ。




ぼくは解剖がやりたくて病理に入った人間ではない。

そういう目で見られるのも腹が立つ。

学生実習のときは、顕微鏡を見るだけで酔っていた。

解剖実習で後ろの方に立っていたら、気持ちが悪くなってしまった。

そんなぼくは、乱視補正のかかった高級な顕微鏡で酔い知らずの毎日を送っているし、自ら体内を覗き込めばグロ画像からは程遠い「精巧で緻密な世界」が眼前に広がることに気づいて解剖の奥深さに触れ、今の仕事についている。





まんまとこうなっているのが嫌いなのだ。