2017年10月20日金曜日

病理の話(133)

その内視鏡医は感染力が強かった。

いつも周りにいる人をある種の熱病にかけた。

探究、議論、前提をひっくり返し、常識を疑わせ、思索のもたらす報酬回路を起動させた。

「そんな些細な違いが何になるの?」という疑問の先に、新たな世界が次々と広がっていった。上質な手品を見ているような気になった。



研究会が終わって、懇親会が開かれる場合がある。

まあみんな忙しいのだ。いつもいつも、勉強した後にそのまま飲み会になるわけではない。医療者の中には、学術研究はそっちのけで終わった後の懇親会の場所選びに奔走するタイプのお調子者もいるが、何事かを成し遂げつつある人間は基本的に宴会には興味がない。しかし、彼は偉すぎた。札幌に招聘して研究会でコメントをしてもらうとき、必ず豪華な接待が供された。今の時代、研究会後の飲み会を製薬会社が手配することはない。そんなコンプライアンス違反に積極的に企業が手を染める時代はとうの昔に過ぎ去った。札幌在住の内視鏡医たちが、精一杯の矜持を発揮して、新鮮でうまい魚介を出す店を選び取り、彼を主賓に据えた。ぼくはその末席にいた。参加費はひとり1万円ということだった。高さに見合っただけの料理と酒が出る、と言われた。

ぼくはいつしか、かの内視鏡医の前に座っていた。

彼は手にした酒を次々と飲み干しながらも、切れ長の目をますます鋭く光らせて、先ほどの研究会で深めきれなかった「病理の話」を続けていた。



「先生さあ、ぼくはこないだ思ったんだけどね、あの腫瘍の真下に広がる風景ってのは、あれ、誰も、どの教科書にもまだ書いていない現象なんじゃないだろうかとね、思うんですよ」

ぼくは彼の熱意に浮かされていた。

「それでね」

彼は箸袋を手にした。箸袋の、のりで接着されている部分を丁寧にはぎとり、細長い紙を一枚作り出す。スーツの内ポケットから、製薬会社のそれではない、少しふるびたボールペンを取り出して、そこに何事か書いていく。

それは胃粘膜の構造であった。

彼は酔うと、自分が内視鏡で日々みている光景を、病理のプレパラートを思い浮かべながら、手元に即席のスケッチをこしらえつつ、ぼくに病理の論戦を挑んでくるのだった。




宴会は続く。掘りごたつのテーブル席を1つ隣に移動すれば、そこには、見知ったドクターたちが知らない医療スタッフの話やゴルフの話、料理の話、酒の話、家庭の話などで歓談する花園がある。

ぼくは箸袋の地獄にお供していた。





なんて実践的な病理学を語る人なのだろう。





「や、先生それでね、このね、ここの腺管についてなんだけど、どうもぼくはもう少し免疫染色を足す価値があるんじゃないかと思ってるんですよ。実際、どう思う?」

ぼくは答える。

「先生、それはとても斬新です」

自分が翻訳された海外文学のような語り口になっている。

「そうかい、先生に斬新だって言ってもらえると、ぼくはうれしいなあ! ぼくはね、常々、病理で見ているものも真実、内視鏡で見ているものも真実、だとしたら真実を2つの角度から見ているわけでね、そこにはきっと、何か三次元視したら見えてくる『ほんとうの、真実』があるんじゃないかと思っているんだよ!」

ぼくは翻訳された海外文学の世界に出てくるような、神の啓示を受けた人間のような過ごし方をする。





この論文はぼくが1から10まで考えたものである。

症例はぼくのものではない。いろいろな研究会でお会いした内視鏡医たちが持ち寄った症例であった。

いろいろな内視鏡医のおかげで、ひとつの仕事が結実しようとしている。ぼくは満足だった。けれど、三次元的に満足するためには、もう一翻、「役」が必要だと感じた。

考えた末に、彼にメールを出した。

ぼくが書いた論文の共著者になってもらえないだろうか、という要件だ。

「一度も直接師事したことはないけれど、いつも師匠だと思ってきた内視鏡医」に、論文に参加してもらいたいと思った。

ぼくのアイディアはすべて、彼の箸袋から生まれたものだったからだ。






彼はこともなげに答えた。

「ああーぼくなんて何もしてないんだけどなあ、うれしいですね、ありがとうございます」





ぼくは、ありがとうございます、という日本語が、こんなに迫力があるということを、今この瞬間まで知らないでいたのか、と思った。

2017年10月19日木曜日

皿の上のふわふわ

「地上の飯」(中村和恵)がとてもよかった。すごく乱暴に説明するならば、「食べることにまつわるいろいろを書いたエッセイ」なのだが、なんというか、上質だった。

「料理の四面体」を読んだ時も思ったのだが、学者が食をめぐって書く文章というのはとてもおもしろいなあと思う。

いや、学者じゃなくてもいいんだけど。よく考えるとぼくが椎名誠の本をおもしろく読むとき、旅とおなじくらい食に深入りしていたように思う。

数えてみれば、病理より料理の本を多く読んでいるかもしれない。




でもぼくは、食べ物についてはタンパクで、どこに出張したときに何を食べてどう思ったか、みたいなことをまったく覚えていない。

「山口で食べたはもしゃぶが、今まで食べた食べ物のなかで一番おいしかった」、という「自分の口をついて出た文章」は覚えているのだが。

今、はもしゃぶがどうおいしかったか、思い出せない。

「岡山で飲んだ赤磐雄町の日本酒がとてもおいしかった」、という「文章」は覚えているのだが。

ぼくは日本酒の味の違いを言い表せるだけのことばを持っていない。




「それでも町は廻っている」で亀井堂が、

「それを言葉にしていくのが小説なんだよ。突飛な事書こうとしてもだめなんだ」

というシーンがある。はじめて読んだ時、「ああ、ぼくは小説家にはなれないな」と、しっくりきてしまった。

どうおいしいか、どううれしかったか、それを言葉にできないぼく。

食レポもできないしフードエッセイも書けない。

そして、だから、そういう本を読むのがとても楽しい。




料理をことばにできないぼくは、じゃあ、病理をことばにできているのかと考える。

果たしてどれほどできているものか、と、自問する。




「ことばにできない」という歌詞は一発勝負だ。ことばにできない、と言って言葉にしてしまっているわけで。伝家の宝刀をさっさと抜いてしまった小田和正がその後書き続けたすばらしい詩の数々を見るにつけ、「なんと表していいかわからない」をクリエイティブな文脈で用いることができるのは、たった一握りの、ことばに愛された人間だけなのではないか、と考えさせられる。

ぼくは、ことばにできる、と信じて進んでいかなければやってられない方の、人間である。

2017年10月18日水曜日

病理の話(132)

現代の診断学は2種類にわかれる。

「1.その場で決めなければいけない診断」と、

「2.その場で決まるわけがないが、いつか決めなければいけない診断」だ。




「1.その場で決めなければいけない診断」は、まちがうと、いけないことがおこる。

具体的にどういけないことがおこるかというと、ざっくり言えば、脳に酸素や栄養が行かなくなって、患者の人生が終わる。

脳梗塞とか心筋梗塞とか肺塞栓とか、銃創とか、たいてい、これだ。

心臓が動かなくなるから死ぬ、肺で酸素をとれなくなって死ぬというのは結局のところ、脳に血液が行かなくなることが一番まずいのであって、極端な話、死にかけている人全員に瞬間的に人工心肺を接続する技術があれば、大部分の救急患者はしばらくの間生きることができる。

※中には敗血症のように、全身に菌が蔓延して、サイトカインの嵐が体中を吹き荒れるタイプのやばいやつもあるので、まあ、全部が全部「脳を生かせばOK」というわけではないんだけれど。




では、

「2.その場で決まるわけがないが、いつか決めたほうがいい診断」

とは、何か。

せき(咳)が代表である。

せきに苦しんで病院に来た患者は、たとえば喘息かもしれないし、気管支炎かもしれないし、心不全かもしれないし、逆流性食道炎かもしれない。

これを100%の確率で確定診断するというのは、実はかなり難しい。

詳細な問診(医療面接)と、ある種の検査で、あるひとつの疾患の「可能性」を100%に近づけようとするのだが、ものごとにはいろいろと例外みたいなものがあって、ま、100%の診断が出せることはほとんどない。

名医であればあるほど、決まらない。逆説的だけれど。名医とは小さな可能性も見逃さない医者だから、低確率であっても有り得る病気というのをスパスパ思い付くわけで、いつも100%の診断を出すなんて怖いことはしない。

診断が100%になるまで動き出さないわけではなく、70%くらいの確率でこれだろう、と思った時点で、アクションを起こす。

「これはぜんそくだとしたらこの薬が効くだろうし、ぜんそくじゃないとしてもこの薬を出して悪いことはあまりないな」

のように判断し、ぜんそくの薬を出す。

患者は薬を飲んだり吸ったりする。

医者は、ここで、「様子をみる」。1週間とか、2週間とかだ。

もし薬が効けば、そして、医師と患者の双方が納得すれば、診断は「ぜんそくで確定」となる。

もし薬が効かなければ、「ぜんそくの薬が効かなかった」という新たな情報を加えることで、「では少しまれな感染症か? たとえば心臓の病気? あるいは食道に胃酸が戻ってくる病気か?」と、各々の診断の選択肢が少しずつ入れ替わっていく。




「1.その場で決めなければいけない診断」をしている人の方が偉いとか、すごいとか、そういうことを言いたいわけではない。

「1.その場で決めなければいけない診断」というのは誤診率も高い。そりゃそうだ。様子を見ているうちに死んでしまうからだ。生命維持に努めつつ、診断が決まらず、結局死んでしまうというのは救急の現場では毎日のように起こっている。これは医療者が無能だというよりも、現代医療の限界なのである(もちろん多くの医療者たちがこの限界を伸ばそうと日々がんばっているけれど)。



一方、「2.その場で決まるわけがないが、いつか決めなければいけない診断」は、患者と良好な関係を気づいていないと正しい診断にたどり着けない難しさがある。

「効くか効かないかわからないけれど、とりあえずこの薬を試してみましょう」

と言われて、不安に思わない患者はいない。ベイズ推計によってなされる臨床診断学の要諦を、患者にもよくわかってもらえるだけの「会話能力」が必要なのだ。




で、病理診断はどっちにあたるかというと、これはおそらく、

「2.その場で決まるわけがないが、いつか決めなければいけない診断を、今日決めて欲しいと言われて、ばしっと決める役割」

なのである。




勘のいい方はおわかりかと思うが、この仕事、1と2の双方の専門家に、よく怒られる。

1の方には、「いいよなー病理は、死ぬか生きるかの世界じゃないんだもん」とあざけられ。

2の方には、「病理にまで出すんだから、ビシッと決めてくれよ、細胞まで見てるんだからさ、わかるだろ」とたかをくくられる。

フフ、わかるわかる。まあまかせておきたまえ。1でも2でもない診断というのを見せてあげますよ。

2017年10月17日火曜日

一瞬だけど閃光のように

中学生くらいのときにサインの練習をしたっけなあ。

あのとき考えたサインのいくつかは、今もおぼえている。

子供の考えるサインなんてものは、自分がスポーツとか芸能とかで有名になったときに、色紙にかっこよく、見栄え良く書くためのデザインだ。

だから、とにかくめちゃくちゃに書きづらい。無駄に凝っている。

シャッと縦棒書いておいて、そこから横にシュッシャッと飛び出て、ここがくるんとしてこっちとつながって……。

そういうのを考えるのが楽しかった。




ぼくはスポーツ選手にも芸能人にもならなかったけれど、幸いというか不幸にしてというか、今、毎日サインを書く生活をしている。

病理診断報告書にデジタル署名をしたあと、印刷した報告書にボールペンでさらにサインをつける。

狭いスペースにすばやく名前を書くことを数百、数千と繰り返すうち(計算したら、今の病院に来てから50000回くらい名前を書いているはずだ)、もともと「市原」と書いていたものがだんだんと省略され、「機能によって淘汰されてできあがったデザイン」。

まったくかっこよくない。スタイリッシュさがない。

けれど、中学生のときに書いていたサインよりも、はるかにサインっぽく仕上がってしまった。



当院の病理診断報告書はそろそろ完全にペーパーレスに移行するので、サインを書く機会も激減する。出張先や当院の関連病院の診断書を書くときくらいしか、サインをしなくなる。

そしたら、今のサインを捨てて、もう少しかわいいかんじの、サインの中にうさぎが浮かび上がってくるようなデザインのやつを新たに作り直してもいいかもしれない、と思う一方……。

中学生のころのように、サインを考えるだけで1日がぱあっと明るく楽しくなるような感情は戻ってこないだろうなあと、わかっている。知っている。



書店に置くポップを書きながら、そんなことをずっと考えている。

2017年10月16日月曜日

病理の話(131)

手術で採ってきた臓器を目でみて、病気(たとえばがん)のあるところを切り、切り口の写真をとる。

病気はどのようなカタチをしているか。

色調をみることで、血液が多く流れ込んでいたかどうか(燃費がわるいヤツかどうか)、硬く瘢痕のようになっていないかどうかがわかる。CTやMRIの画像を頭に思い浮かべる。

輪郭をみることで、この病気が周りにしみ込んでいるか、それとも周りを押し広げているかがわかる。がんであれば周りをぶちこわしながらしみ込んでいくだろう。顕微鏡を見なくても、けっこうわかるものなのだ。

病気の切り口を、ナイフの背の部分で少しなでてやる。

ナイフの背に、黄色くぼそぼそとした、しめった耳垢のようなカスが付着するとき、そこには「もろくてぼろぼろとした組織」があることがわかる。こういうのは「壊死(えし)」である。

壊死というのは細胞が死んだ部分だ。

がんは、自分があまりに急激に増えて大きくなるものだから、うっかり周りから栄養をとるスピードが追いつかないことがある。だから、病気のへりの部分ではすごく元気にまわりにしみ込むけれど、病気のど真ん中では「餓死」してしまっている場合がある。そういう壊死成分がどれくらい含まれているか、切り口を見て、ナイフの背でなでることで、ある程度わかる。

十分に観察を終え……。

顕微鏡標本を作る場所を決める。すべてをプレパラートにしていたらきりがない。診断に必要な部分をじっくり見極めて。


そして、病気を顕微鏡でさぐりにいく……。




トゥルルルル。

(ガチャ)「はい病理市原です」

「あっ、先生おつかれさまです。今いいですか?」

「はいどうぞ」

「ID言いますね。○○○○○○……」

「○○○○○○……XX XXさん。はい、この方ぼくが診断しましたねえ」

「ええ、その方です。病気の診断たいへんよくわかりました。どうもありがとうございます。それでですね、実はちょっと追加で、『背景』について検索していただきたいんですが……」





背景。

たとえば胃。たとえば肝臓。これらは、がんをはじめとする病気が出る際に、「がんではない部分」にも変化がある。

周りの、がんではない胃粘膜や肝細胞にも、なにがしかの異常が起こっていることがある。

あたかも、「らんぼうな校風の高校を中退して、不良になった」みたいに。

がんをとりまく「環境」を観察することで、がんが出てきた「原因」のようなものが見えてくることがある。

だから、医療者はときどき、「背景」を気にする。



この背景の評価が実に難しいのだ……。



「がん」というのは、医療者にとって、無意識のうちに「本気で取り組まねば」と気を引き締めるものである。

がん以外の病気をなめているというわけではないのだが。病気に貴賤はないのだけれど。

やはり、臓器に「がん」があるとき、医療者はそこにぐっと着目してしまう。

なんとか見定めよう、やっつけてやろうと、やっきになる。必死になる。

無意識のうちに、「背景」の観察はおざなりになる。



だから、「意識して」、背景を観察しないといけない。がんじゃないからどうでもいいや、ではなく、「がんに関係のある情報が少しでも得られないだろうか!」と、かなり気を強くもちながら、入念な観察をしなければいけない。





……なんだか当たり前のことを言っているように聞こえるだろう。

ぼくだって当たり前だと思っている。

けれど。

こないだ、ある病気の「背景」について、ある発見をした人がいた。

その発見を人づてに聞いて、ぼくは「うわああああ」と思ってしまった。

この病気、とてもよく知っている。何度も診断している。なんなら、ほかの病理医よりも、ぼくは少し詳しいかも知れない(専門のひとつとしている領域である)。

けれど、こんな「背景」、考えてもみなかった。

がんとは離れた部分に、こんな変化が出ているなんて。




盲点、とか、落とし穴、という言葉がよぎる。

人間は無意識のうちに、見たいところを選別し、見づらい領域を作ってしまっているのかもしれない。

意識して、穴をふさごうとしないと。

声出し確認をするように、細かい観察をこころがけないと。



病気とその背景を解析するという作業は前に進んでいかないのだ。ああぁー。自分で気づきたかったなあ。これ……。

2017年10月13日金曜日

からだすこやかじゃ にぶる~

「トクホのマークがついたお茶」をコンビニで売っている。

ふつうのペットボトルに比べると高い。

けっこう高い。

脂肪を代謝する力を高めてどうとか言ってる。

効きやしねぇよ、と思うけど、ま、こういうのって、気休めに「のっかった」ほうがけっきょく効くもんだよなあ、とか思って、しばらくスルーしていた。




最近、朝にペットボトルのお茶を買って職場にもちこんで、仕事中にちびちび飲みながら働いているのだが、くるくるあちこちで働いているうちにペットボトルの前を離れてしまい、結局帰宅するまでぜんぶ飲みきれない、ということが続いた。

もったいないので冷蔵庫にひやしておく。

翌朝、冷蔵庫から取り出すのを忘れる。

職場につくころに気づく。

あっお茶……。

しょうがないから買い直す。

がんばってはたらく。

今日も忙しかった。全部飲みきれなかった。

帰宅して、1/4くらい残ったお茶を冷蔵庫にしまう。




……昨日、冷蔵庫をあけたら、ちょびっとずつ中身の入ったお茶のペットボトルが4本あった。

ジャスミンジャスミンウーロン麦。

やめてくれ、と思った。

そこでピンときた。

「あのトクホのお茶……。あれ、量は少ないけど、もしかして、今のおれには、ちょうどいい量なんじゃねぇのかな?」




ためしに高いやつを買ってみた。ヘルシーになりそうな名前のやつを。

仕事が終わるころ、ちょうど飲み終わった。やったあ!

ほくほく顔で、スタッフのひとりに話してみた。このお茶ね、ちょっと高いし、量も少ないけど、この量がぼくにぴったりなんですよぉ。

スタッフは言った。

「先生、元気ですね……いろんな意味で……」





そうだろうそうだろう。

ニュアンスを超えたところに健康はあるんだぞ。

2017年10月12日木曜日

病理の話(130)

細胞の良悪(命に関わるか、そうでないか)を判断するとき、しばしば参照されるのが「細胞核の大きさ」である。

大きさ。

大きいか小さいか。

細胞核が普通よりも大きければ悪性の可能性が高い。

あるいは、ごつごつ感。

細胞核が普通よりもごつごつしていれば、がんっぽい。

実にあいまいな尺度ではないか! そんな、人によって判断が変わるような基準で、がんかがんではないか、人間の一生に関わる問題を診断するなんて。なんて主観的なんだ! 病理診断は病理医の胸先三寸で行われているッ!



みたいな話を(主にネットで)目にすることがあるんだけど、ま、心配しなくても、これに関してはそうそう問題になるケースは多くない。


実は、核の大きさとかごつごつ感とか、クロマチンの量とか核膜の不整さとか、核小体が目立つかどうか、といった尺度は、思ったよりも「アナログ」ではない。

核の大きさが「小」「中」「大」として。

「小」と「大」が多いのだ。「中」が少ない。

ごつごつ感の強さが「弱」「中」「強」として。

「弱」と「強」が多いのだ。「中」が少ない。



何を言いたいのかというと、どんな病気の病理診断においても、「あきらかな異常」がどこかにみられることが多く、「中間的で、迷う」ような所見は意外と少ないのである。



これにはおそらく理由がある。

核が大きくなり、形もごつごつになるというのは、核の中に含まれているクロマチン≒DNAの量が異常に多くなり、容れ物の中におさまりきらなくなるためだ。いわゆる増殖異常のサインである。

この「DNAの増殖異常」には、基本的に、はどめがかからない。

正常の細胞では「制御がはっきりしている」から、核の大きさは小型で均一に留まっている。

しかし、がん細胞では「制御がきかない」のだ。やたらめったらとDNAが複製されまくる。

「ほどよく1.5倍くらい増やそう」とか、「まあせいぜい2倍にしておこう」みたいな遠慮は、がんにはない。

「とにかく無制限でゴー!」となっているのが、がんだ。



「弱」「中」「強」のカテゴリーにわけるとするならば、「中」で留まっているケースは意外と少ない。異常があるならひたすら「強」として出てくる。



だからこそ、人間がプレパラートで見てもはっきりわかるくらいに、細胞のカタチとして異常を見つけることができるのだ。



毎日細胞を見ていれば、9割5分くらいの細胞は、秒単位で「いいか悪いか」を判断することができる。もちろん、残りの5分では十分に迷わなければいけない。

毎日細胞を見ていれば、「弱」と「強」の区別はなんなくつくようになる。5分の「中」ではもちろん迷うが。



……「毎日細胞を見ていれば」。

毎日細胞を見ていないとどうなるか。

弱と強の区別がつかないのである。だから、ま、素人から見ると、病理診断というのはとても主観的に見えてしまう。

まあもう主観的ってことでいいけど。

けど主観にも根拠があるよってことは知っといてほしいナって思う。





今の「ナ」が気持ち悪いと思った人、それを主観というのです。

2017年10月11日水曜日

この事ばかり気にかかる

「猫たちの色メガネ」を読んでいた。

ぼくはすぐ、読んだ本を何かにリンクさせたがる悪いクセがある。この本を読んで考えたことはアレに使えるなあ。この本みたいな風景を前にも何かの本で読んだぞ。ああ感動した、この感動はあれと同種の感情だ。これと同じジャンルの本はほかにあの人とあの人が書いていたなあ……。

「猫たちの色メガネ」を読みながら、ああ、そういう読み方ばっかりするようになったぼく、つまんねぇ男だなあ、と思ってしまった。



なんでもそうだ。一日の中で経験したことすべてに意味を求めている。

ツイッターでひとつリプライが来たなら、その経験をどこかに書き留めて、いつか別の話題でうまいこと放出しようと考えている。

日常でした何気ない会話のひとつをいつまでも大切にとっておいて、いつかブログの記事にしたらうまいこと書けちゃうんじゃないかと虎視眈々と狙っている。

なんだかつまんねぇなあ、と思ってしまった。



そこに起こった出来事に、意味はある。理由があり背景がある。積み重なった無数の選択がある。人の意志でどうにもならない、自分で選んでいるようで実は全く選択肢がない、選ばされている選択もある。

そして、ああ、なんかそういうことがただ、起こったのだなあ、と、写真1枚を撮って先に進むようなやりかたも、できるのだと思う。



インスタ慣れした世間はみなそうやって、あらゆる出来事に意味づけすることをもはやあきらめているようにも思う。

ぼくも、全ての出来事に理由を問いかけるのをやめてみたほうが、いいのではないか。




「猫たちの色メガネ」の本文中、「こ」だけは違うフォントが用いられている。

なぜだ? と問わないで、そういう本なんだなあ、と。

……生まれ変わらないと無理だな、問わずにいること。




あらゆる物事に何かをリンクさせたがるぼくは、「こ」に気づいた日の夜、ほとんど眠れずにずっと「こ」のことを考えていた。何かうまいこと書けないだろうか、と、考えながら。

2017年10月10日火曜日

病理の話(129)

見たことも無い細胞を目にする。

なんだこれは。

ふくれあがった核は輪郭がでこぼこで、核膜の厚さも一定せず、大量のクロマチンによってどす黒く染まっている。ひとつの細胞の中に複数の核があることも。悪性であることはまちがいない。いずれ人を殺す細胞である。

しかし、どんな腫瘍であるかが判然としない。

特定の方向への「分化」があるようで、ない。普通の腺癌ではない。普通の扁平上皮癌でもない。

……。これは、わからない。

わからないけれど、臨床医はもっとわからない。

患者はもっともっとわからない。

これは病理の仕事なのだ。




背景の血管が不思議に動かされている。

細胞のカタマリの中に、壊死がみられる。

細胞の配列に特徴があるか……?

免疫染色を多数行う。どれかひとつふたつ、タンパク質の発現によって、この奇妙な腫瘍の「正体」が見つからないだろうか。

特殊染色も行う。グリコーゲンの分布は。粘液の微小な産生がないか。細網線維の増加パターンは。




どうしてもわからない。

教科書をひっぱりだす。Enzinger, Ackerman, Sternberg, AFIP atlas, 外科病理学, 腫瘍鑑別診断アトラス……。

すべてのページをめくる。

数千枚の写真を、ザッピングするように目の端に映していく……。





あった。あった。これだ。

たぶんこれだ。

本文を読む。10数項目の組織所見。一致。一致。これは一致しない。一致。これはどっちともとれる。一致……。

染色体検査が必要かもしれない。

大学に依頼をする。メールを打つ。

さらに免疫染色を追加する。






ぼくはひとりのちっぽけな病理医で、所詮、病のすべてをわかるわけもない。

知らない病気だってある。

見たことのない腫瘍も出てくる。




ぼくは最高の病理医ではないかもしれない。ぼくは病に勝てないかもしれない。

けれど、医学の歴史と集合知は負けんぞ……。





ゴリの顔を思い浮かべながら診断に潜る。臨床医が笑っている。患者の笑顔まで引きずり出せばようやく勝利である。

2017年10月6日金曜日

ヒューマンといえばファイプロ

医療系のドラマとか小説の惹句に「ヒューマンドラマ!」と書いてあるとその時点でもうなんかすごくあーあって思ってしまう(けど読むけど)。

ヒューマンドラマって何だよって思うからだ。

ヒューマンじゃないドラマを考えるのは難しい。

動物奇想天外みたいに、動物を主役にしたらアニマルドラマか? 結局、アニマルたちにヒト語をしゃべらせて、擬人化した感情をアフレコして、あるいはその動物と関わる人たち、飼育員とか飼い主とかの言葉を拾い挙げるわけだし。

人工知能が主役のスペースオペラか? R2-D2だってあれもうほとんどヒトだから。しゃべり方がカタコトなだけだから。

初音ミクは「ぼく」を歌うし。

ヒューマニティを除外したドラマなんてないのだ。

いや、まあ、言葉遊びの揚げ足取りって言われるかもしれないけれど……。

ヒューマンドラマ、とうたわれた時点で、「ほっこり」「じわり」「しみじみ」、あるいは「ドロドロ」「ジタバタ」「グチャグチャ」、ひらがな系かカタカナ系かはともかく、なーんかもういいかなって気分になってしまうのだから、しょうがない。





一度原稿仕事でお世話になった編集者から、「医療をめぐる現状と対比しながら、医療にまつわるブックガイドをお願いします」という依頼が来た。

医療を題材にした本とかドラマ、あまり読んでいない。

ノンフィクションの方が読んでいるかもしれない。

ぱっとは思い付かなかった。マンガが数冊浮かんだ。

小説かあ……。昔読んだ小説で、何か、ひとにおすすめできそうな本があったかなあ。

思い出すきっかけが欲しくて、医療系のキーワードをいくつかGoogleにぶちこんでみた。

出てきたことばは「医療ミステリー」だとか「医療サスペンス」。まあそうだろうな、ありとあらゆるジャンルが、ミステリーとかサスペンスになりうる。

さらに、「ヒューマンドラマ」、「問題作」、「意欲作」。

うーん。医療である必要がないな。




悩んだ末にいくつかの本をピックアップした。これをおすすめしたら、某誌の読者は興味をもってこの本を読んでくれるだろうか、ということを気にかけながら、再読に入る。

読みながら、ああ、ぼくはどうも、「フィクションから得た感性を用いて、現実で起きている医療を語る」ということを頻繁にやっているなあ、ということに気づいた。

さらに。

ぼくが医療を語る上で根幹としている創作物のほとんどが、「必ずしも医療現場を題材にしていない」。

少し驚いた。

ときにはSF。ときには歴史小説。工学系であったり、青春小説であったり、ありとあらゆるジャンルの本から少しずつわきあがってきたインプレッションが、医療に対する目を開かせている。



結局、現実の医療も、虚構の叙事詩も、なにもかもがヒューマンドラマだからなあ。

ジャンルなんて関係なく、優れた創作物は、医療を思うときにスパイスになりうるんだ。




自分の子供にサッカーを好きになって欲しいと思った親が、キャプテン翼を読ませる。

自分の子供に東大に入って欲しいと願った親が、ドラゴン桜を読ませる。

自分の子供に医者になって欲しいと切望する親が、医療小説を読ませる。

いまどきそんな短絡的な教育もないだろうが……。ぼくは心のどこかに、「ジャンル系」を読めばそのジャンルについての思索が深まるだろう、という、根拠のない思い込みを持っていた。




なんかあれだな、医療を考えるために本を読む、ってのつまらないな。

わかんないけど本を読んでたら、医療についても思いがふくらんだ、くらいでいいんじゃないかな……。




……それじゃ原稿にならないかな?

いや、うん、原稿にしよう。ぶつぶつ、キョロキョロして、じっくり、ガッと書く。

2017年10月5日木曜日

病理の話(128)

ぼくらの体はすべて、1個の受精卵が分裂してできあがったものだ。

なんというか気の遠くなるような話である。

ブルゾンちえみの言うことにゃ、体の中には60兆くらい細胞があるそうだが、その60兆がすべて1個の細胞に由来しているというのだ。

女王バチがぜんぶのハチを産んだんですよー、みたいな話を聞いて、ヒェッ……と思ったりしていたが、なんのことはない、(昔の)ぼくのほうがよっぽどがんばっていたんじゃないか。




受精卵もまた1個の細胞である。「核」がある。核にはDNAが入っている。DNAには人体の設計図……というか、人体をコードするプログラムが「すべて」入っている。

すべてだ。

受精卵の中のDNAを読み解くと、そこには、「汗をつくる細胞」になるためのプログラムも、「筋肉として伸び縮みする細胞」になるためのプログラムも、「胃酸を出す細胞」になるためのプログラムも、「目の透明な部分」をつくるためのプログラムも、ぜーんぶ入っているのである。

なんだかすごい話だ。

受精卵を新入社員に例えてみれば、その「異常さ」がわかる。

新入社員は普通、入社時にはどの部署に配属されるかわからない。営業? 人事? 経理? どこで働くことになったとしても、その部署に入ってから、先輩とか先輩が残したマニュアルとかに従って仕事を覚えていく。

けれど、受精卵は、入社の段階で、「すべての部署のマニュアル」を持っている。これはすごいことだ。

しかも、よく考えたら、「入社の段階」どころか、会社がないのだった。

受精卵はひとりで荒野に立ち、そこで分裂して同僚を増やし、会社を作り上げてしまうのだ。

ああ、だったら、「全部のマニュアル」をもって産まれてこないといけないよなあ。

聞く相手もいないわけだから。

同僚すら自分で作っていかなければいけないのだから。




……と、このたとえ話を進めていくと。

いろいろと、生体内で細胞がやりくりしている様子が、わかるようになる。




まず、受精卵の段階で、いきなり「人事」とか「営業」のプログラムをひもとく必要があるだろうか?

ない。それどころではない。まずは同僚を増やさなければいけないだろう。

つまり、「細胞はまず第一に、増殖するところからスタートする」。

そして、社員が十分にて、分業が進み、部署が完成したら。

毎回、万能の新入社員をリクルートするよりも、最初から「営業向きの人」とか「経理が得意な人」を、部署ごとに登用した方が楽だろう。

だから、部署ごとに社員を増やす。このとき、たとえば「胃」という部門で増える細胞は、最初から、「胃で働くように特化している」。「肝臓」という部門で増える細胞は、最初から、「肝臓ではたらくためのマニュアルだけを稼働させる」。

分業が進んでいるのだ。生命科学のことばでは、分業ではなく、「分化」と呼ぶ。




これらはすべて「正常の細胞」で起こっていることである。

逆に言うと、「病気の細胞」、特に「がん細胞」では、「プログラムのひもとき方」が間違っている。

今そこで増えるなよ、というところで増えるし、ちゃんと分業してくれよ、適材適所でいてくれよ、というタイミングで決まった仕事をしてくれない。

増殖異常、分化異常。




裸一貫、一代で巨大な企業をつくりあげたぼくらの受精卵は、ご苦労なことにすべてのプログラムをもって産まれてきた。同僚を増やし、代を重ねるごとに、この部門ではプログラムの何ページを使おう、こっちの部門ではプログラムの何章を使おうと、細分化して分業を重ねていくけれど、ぼくらの細胞は今この瞬間にも、核の中にすべてのプログラムを大事にしまい込んでいる。

そのプログラムを間違ってめくってしまうとき。たとえばがんが生じるわけで。

「あっ、こいつ、プログラム変な開き方してる!」

と気づくために行うのが、「顕微鏡で細胞の核を見る」ということなのである。

2017年10月4日水曜日

彼の名は玉井大翔

ひいきのチームの成績がふるわないとき。

野球でもサッカーでもラグビーでも、ああ、チームと書いたが、ゴルフでもテニスでもフィギュアスケートでもいいんだけれども。

応援している人(たち)がいまいち調子がよくないときに、球場に行って応援をしていると、心のどこかに

「今おれはボランティアをしてやっているぞ」

みたいな、よくない感情がわくことがあった。

「見てやってるんだからな」

「勝つ方を応援した方が楽しいに決まってるけど、あえて負けつつある君を応援してやろう」

「ほら、金を払って見に来たんだぞ、今日くらい勝てよな」



なんとも小汚い感情だ。

ぼくにはそういう小汚いところがあったのだ。




感情は消そうとしても消えるものではない。

だから、なぜ自分がそんな気分になり得るのか、を深く掘っていった。




見に行ってやってる。

金を払って、時間を使って、わざわざ。

プロなんだから、楽しませてくれよ。

それが仕事だろう。

なんなんだよ、こっちだって別に暇じゃないんだ。

いい気持ちにさせてくれよ。

金、もらってんだろう。

それがお前のアイデンティティなんだろう。

ほら、生きてみせろよ。

見ておいてやるから。





いつもいつもこういう気分でいたわけではない。

けれど、たまに……。まれではない、くらいの頻度で……。

「スポーツが楽しくてスポーツを見ているわけではない」という日が、今までに、何度もあったのだ。




自分の時間を他人に説明する上で「スポーツ観戦」と言えば聞こえが良いだろう、くらいの理由でスポーツを見てしまっているときがあった。

野球を見に行くぼくは人生を楽しんでいるだろう?

サッカーを語れるぼくはガリ勉タイプじゃないよな?

フィギュアスケートの採点くらいできるよ、にわかファンじゃねぇんだから。

仕事ばっかりじゃつまらんだろう、スポーツはたしなみだよ。





ふと思った。

これらの感情は、もしかするとぼくにとって、スポーツ観戦の「思春期」にあたるものなのかもしれない。

子供だった頃、大人たちは言った。

スポーツは素晴らしいと。

夢があると。

やるのも、見るのも、ほがらかだと。

それを信じて育っているうちに、大人をまねしてスポーツを楽しんでいるうちに、いつしか、「ぼくにとってのスポーツ」というものがじわじわと、アイデンティティのように、各方面にトゲを出し始めたのではないか。

誰かの価値観ではなく、自分が打ち立てた価値観の中で、ぼくにとってのスポーツがぼくの中で立ち上がるために、スポーツを過剰に神格化してみたり、逆に卑近に貶めてみたり。

いつしか、純粋にスポーツを見て楽しむことを忘れ、「スポーツを見ている自分」がどうであるかばかりを気にするようになっていた。

これは思春期というやつではなかったか。





今年の日本ハムファイターズはふるわない。

中田が三振するたびに胸がえぐられる。

斎藤佑樹がひさびさに1勝をあげたとき、さまざまな人々の人生を思った。

名前を思い出せない若き中継ぎピッチャーが、北海道のある地方都市出身で、地元から応援にやってきた高校生たちが外野スタンドの一角で横断幕をかかげる中、負け試合でがんばってアウトを重ねるシーンで涙が出そうになった。

ぼくはファイターズが勝った日のほうが機嫌がよく、負けた日は悲しく思う。

けれど、もう、「見てやってる」とか、「せっかく金をはらったのに」とは、思わなくなった。

これはぼくが成長したとか、性格が直ったとかいう問題ではないのだと思う。





ぼくはスポーツ観戦においても中年になったのだろう。

毎日、さまざまなスポーツを見て、他人の人生を思うことをしみじみと味わっている。

2017年10月3日火曜日

病理の話(127)

臨床家は、ときにこういうことを言う。

「ケッ、そりゃ直接病気を見られりゃ誰だってわかるよ」

病理は細胞を直接見てるんだから、病気のことがわかって当たり前だ。けれど、そもそも医術というのは、直接細胞を見たりしなくても病を言い当てるべきだし、そうしないと患者のためにならない。

内科学は、病を「言い当てる」ことを本流とする。直接答えを見に行くというのはすなわち「邪道」。



こんなかんじで、ときおり、病理はバカにされる。「お前ら直接見てんじゃん。そりゃわかるわ」。

(おおげさだ、そこまで言う医者なんかいない、と思いましたか? 残念、実際に言われた事があります。それもネットではなく、現実の話)




もしもの話をしよう。

病気、例えば胃がんとか肝臓がん、肺がんなどのがんにかかった人を「完璧に診断する」ことだけを目的として、もう何をしてもOK、いくらでも金を出してくれる、処理もぜんぶ誰かがやってくれる、患者もその家族も全てを許してくれるとなったら、究極的にはどうやって検査したらよいだろうか?

答え。人体を細かく切り刻めばよい。それこそ、短冊切りみたいに、頭のてっぺんから足の先まで。

病気の本体がどこにあるか。

病気はどのような形をしているか。

どこにどれだけ転移しているか。

全部わかるであろう。

もちろん患者は絶命するけれども。

病気の正体はすべてわかることであろう。

なんなら全ての細胞をぜんぶ遺伝子検査に回しても良い。

人体を全部薬品で溶かして全解析するというのもアリかもしれない。腸内細菌のゲノムまで混じってすごいことになるだろうが。

マンガ「もやしもん」で、樹教授も言っていた(正確には長谷川に予測されていた)。究極のところは「人体実験」ができればいろいろ解決するのだと。




でも、それはやらない。できない。当たり前である。

検査の本質とはここだ。「いかに対象を大きく破壊せずに、一部だけから全体を読み取るか」。

内科の診察で、口の中をのぞき、胸の音を聞き、腹を指で叩き、手で押し、あるいは話を聞き、病気の姿を浮き上がらせるというのはまさに検査の本質である。中を直接見ず、触らずに、言い当てる。これが「医の本道」である。




ただ、がん診療は、それでは足りない。どれだけ精度の良い「類推」であっても、最新の治療の恩恵を十分に受けようと思ったら、足りないのだ。「カタマリがある」だけではだめだ。「カタマリによって体が弱っている」だけではだめだ。カタマリがどんな細胞によって構成されており、その細胞がどのような性質をもち、体の中にミクロのレベルでどれくらい分布しているのかを、きちんと見る必要がある。

がん細胞がミクロの世界でふるまう挙動ひとつひとつが、将来像を予測するヒントになり、治療の選択にも関わる。

たかだか5 μm程度しかないリンパ管と呼ばれるパイプの中にがん細胞が1個入り込んでいるのを見つけただけで、「あっ、まずいな、転移の可能性が高くなったぞ」と警戒し、追加の治療を検討するというのが、現在行われているオーソドックスながん診療である。髪の毛の太さが100 μmくらいだ。体の外から見て触って、どうにかなるレベルではない。

だから細胞を見に行く。「しぶしぶ」細胞まで見に行く。病理医に細かく見てもらう……。




勘の良い方はお気づきだろう。

病理医は、嫉妬のような心に晒されている。

君ら、細胞見てズバズバものを言ってくれてるけどもさあ。

そりゃ俺らはそこまでわかんないけれどもさあ。

そんなの、医術じゃないじゃん。

それに、君らしかわかんない言葉で説明されてもさあ。

その5 μmのリンパ管に入ってるのががん細胞だって、もはや俺らには区別つかないんだけどさあ。

それホントのことなの? 君の胸先三寸で決まっちゃうんじゃないの?

まあ、あるかないか、見てればわかることなんだからさあ。

間違わないでくれよな。

まかせてるけどさ。

俺らにはわかんねぇんだからさあ。





ぼくは、「無理もないよな」と思う。

病理は医の本道ではないのだ。直接見てしまっているのだから。うらやましがられて、当然。

だから、もう少しだけ努力をしようと思い始めて、そろそろ10年が過ぎる。




臨床医も今や多くの武器を持つ。それはCTやMRIのような断層診断機器であったり、内視鏡(胃カメラや大腸カメラ)のような光学機器だったり、エコーのような音響工学機器であったりする。

内科医も、実は直接見ようとしている。

病理にまかせきりにせずに……。

「医の本道は類推である」と言いながら、その実、見に行くようになったし、手を出すようになった。

循環器内科医は、心臓カテーテルを入れて、直接心筋梗塞を治療しに行く。

消化管内科医は、胃カメラからナイフを出して、がんを切り取って治療してしまう。





「ケッ、そりゃ直接病気を見られりゃ誰だってわかるよ」

こう言われるのがつらいなあ、と思って、無理もないよなと思って、もう少し臨床に近づいてみようと考えていたちょうどその頃。

臨床医も、直接病気を見ようとしはじめていたのだ。




そして、臨床と病理は、ときどき、おなじものを見ている。

「ケッ、そりゃ直接病気を見られりゃ誰だってわかるよ」

から、

「同じ病気をお互いに違う角度から見ているわけですけれど、そっち、どうっすか?」

に、いつしか変わってきたように思う。




こうなってくると。

病理という役割の重要性が知れ渡ってうれしい、となる反面。

もはや病理医だけが細胞を見ているわけじゃないからな、という、「アドバンテージの消失」にも気づく。

「俺ら、さすがに細胞の核がどうとかいうオタクっぽいところはわかんねぇけどさあ、細胞がどういう形でつながってるかとか、どこで細胞が死んでるとか、それくらいなら自分で見られるから、いちいち病理医が説明してくれなくても大丈夫だよ」

くらいには、なっている。



この構造、何かに似ているように思っていた。

さきほど、気づいた。




SNSを毎日眺めていると、タイムラインには本当にたくさんのマンガや写真が流れてくる。

中には、プロの漫画家やプロの写真家かと見まがうくらいのクオリティの、「趣味創作」もいっぱい目にする。

そういうのを見て、ああ、今の時代、プロの漫画家とか写真家として食ってくのは大変だなあ……と、思っていた。

だって誰でもできるんだもんなあ、発表の場所だってこうしてSNS上にあるわけだしなあ。




先日、札幌のデパートで、羽海野チカの原画などを展示する展覧会をやっていたのだが、原画をみて本当に驚いてしまった。

うまい、とか、きれいだ、とかではなく、語りかけてくるエネルギーが段違いなのである。

ああ、これがプロの仕事なんだなあと思った。

その仕事で食おうとする人の、プロとしての「力の籠め方」に、圧倒された。




もしかして、現代医療において「病理でメシを食っていく」というのは、これと同じ構造なんじゃないか。

「プロレベルの同人作家」と同じように、「細胞をめちゃくちゃ理解している臨床医」が増えてきた今、「プロとしての漫画家」に対応するのが「病理医」なのではないか……。




原画展をゆっくり見て回っていた。会場は大盛況で、文字通り老若男女がさまざまな原画の前で足を止め、見入っていた。

ここにいる人の幾人かは、将来、漫画家になろうと思うのだろうか。

それとも、マンガが好きな、別の世界の人として暮らしていくのだろうか、と、考えていた。

2017年10月2日月曜日

夢を語るな手足を語れ

車に乗っているときにはラジオを聴く。先日、「福のラジオ」で福山雅治がこのように言っていて思わず唸ってしまった。

「最近の子って、反抗期を経ないまんま、オトナになることがあるらしいんですよ」

「イェッヒェエッヒエエッヒエエエェエ」

……まちがえた、今のは福山雅治といっしょにラジオやってる放送作家(今浪さん)のものまねでした。もういちどやります。



福「最近の子って、反抗期を経ないまんま、オトナになることがあるらしいんですよ」

今「どういうことですか?」

福「あのね、反抗期って、もともと子供の成長というか自我の確立に必要なイベントらしいのね。子供って、小さいころから親の価値観を吸収して成長していくでしょう。思春期になると、それまで疑問なく受け入れていた親の価値観に疑問を持って、それに反発して、はじめて『自分』というものができあがっていく、ということらしいのね。

けれど、最近の子供ってのは、親だけじゃなくて、いろいろな価値観に触れているじゃない。SNSとかのせいで」

今「ああ……」

福「だから、『親が価値観の全てじゃない』から、あえてアイデンティティを作る時期に親に反発しなくてもよい。親以外にも多様な価値観に触れて自分を形成していくから」

今「ああなるほど……それはすっごいわかりますねえ」




こういう感じだった(別に文字起こしとかしてませんのでだいぶ違うかもしれないけれど、内容はこうです)。

ぼくはとても納得したのだ。

今のひとたちは、親や教師の数が多いのだろう。誰かひとりの師匠という存在はレアになり、どれかひとつの絶対的な価値というものも見出しがたい。徒弟制度の発言力も落ちている。座右の銘は瞬間的にふぁぼられて忘れられていく。

昔よりも「キャリアパス話」がウケるようになっている気もする。誰かを師匠にして暮らそうと決めることが難しい現代において、自分がどうやって生きていこうかと計画することは非常に複雑である。うまいことやっている他人が、そこまでにどうやって歩んできたかをきちんと解析して、いいところだけを吸収したい。

さて、そんな時代だなあとわかった上で、ぼくのところに仕事の依頼が来ている。



「研修医を指導する役割の人間(指導医)にむけて、何かしゃべってほしい」。



うーむ。

昔と違って、「指導医」というあり方もまた変わっているんじゃないかなあ、と思う。

誰かひとりの優秀な指導医についていればいい医者になれる、という価値観、科によってはある程度アリなのかもしれないけれど、いまどきの研修医たちにはたぶん、しっくりこないんじゃないかなあ。

あるいは、全国的に名前が轟いている医者に師事して、自分もひっぱりあげてもらおう、みたいな価値観で動いている研修医もいるとは思うけれど……。

そういう研修医を弟子にとってガリガリ指導するのは、「すでに名前が轟きまくっている医者」だけがやれることであって、9割9分の「普通の指導医」は、もう研修医を弟子扱いしてやっていくことは難しいんじゃないかなあ。




指導医ができることというのは、たぶん、「仕事によって自分はいい思いをしているぞ」というところを研修医に見せること、ではないかと思う。

「あるいはこの先輩と同じポジションに付くかもしれないわけだが、少なくともこの先輩は、このポジションでこうやって働いて、いい思いをしているのだな」と、「いいね」をひとつ付けてもらう。

研修医たちが、SNSでライトに「いいね」を付けるのと同じくらいの労力で、指導医にも「いいねの目」を向けてもらう。

たかが「いいね」一つであるが、そのいいねはきっとフォローのきっかけとなり、拡散のきっかけとなる。単一の師匠にはなれないけれど、何百人も、何千人もいる「フォローしているひとたち」の一人になれば、きっと、何か伝えることができる。




「夢に手足を」という言葉があるが、指導医の語る夢は研修医には届かない。

優れた手足を持った人間が、夢を稼働させているところを見てもらい、察してもらわないとはじまらないのではないか。

そんなことを思いながらプレゼンを編んでいる。

2017年9月29日金曜日

病理の話(126)

受験のことを思い出していた。

かつて、「図形問題」というのがあった。円とか平行四辺形とか三角形などに、自分で「補助線」を引いて、角度を求めたり長さを求めたりするやつ。中学校くらいでよくやったんじゃなかったっけ。

あれ、何が難しいかって、

「問題集で1つの問題を解いたからと言って、すぐに他の問題が解けるようにはならない」

ということだ。



入試に備えて、過去問を勉強する。過去問は「もう二度と出ない問題」だ。だって、一度出てるんだから。

けれど、「似た問題が出る」と言われて、そうか、じゃあ過去問でもやっとくかな、となる。

これが役に立つか、立たないか、という話。



計算問題なら、数字だけ違ってもやり方は基本的に同じだ。

けれど、図形はそうはいかない。

「同じ図形に同じ補助線」ということはなかなかない。

ぼくは図形の問題が苦手だった。

参考書や問題集を読むうちに、図形も補助線もぜんぶ違うけれど、なんだかパターンというか、根底に流れる考え方みたいなものはある程度共通するのだなあ、ということを少しずつ学んでいく。

そうやってようやく、受験の当日に初めて見る図形に対応できるようになる。

「ああ、この問題自体は見たことがないけれど、なんというか、昔解いたことがある問題にちょっとだけ似ているところはあるなあ、それが何かはわからないんだけれど……」




経験と直感で問題を解くということ。

あるいは、複数の問題から抽出された理論を理解して問題にあたるということ。

当時やっていた、受験テクニックとは、どっちだったろうな。





病理診断も、こういう側面がある。

まったく同じ患者、というのは絶対に現れない。だから、世の中には、まったく同じ病気というのも存在しない。すべてが一期一会である。

けれど、無数の病気の中には、

「この病気であれば、この部分に関してはこういう見え方をする」

という共通点がある。

病理医は、「初めて出会う細胞」を、知識や経験を基に「おそらくアレと似ている」と分類していく。

そうすると、「解ける」。





病理医の仕事は、なんだか受験数学に似ている、という話である。

そして、さらに書き加えておかないといけない。





病理医の仕事の根幹は、受験問題を解くところまででは終わらない。

受験問題を実際に解きながら、そのメカニズムを解明し、臨床医をはじめとする多くの医療人が見ても解けるように、「参考書や問題集として仕立て上げる」こと。




臨床医が細胞を採ってきて、病理でAという病気だと解答を与えられておしまい、ではなく。

臨床医や、あるいは若い病理医が、

「ああ、こないだこれに似た病気があったけれど、あのときは病理でAと診断されたっけ。ということは、今回もまたAと診断されるかな? 少し似ていて、少し違う。Aじゃないかもしれない。今度は病理はなんて言うかな。Aかな、あとはBもありえるなあ」

というように、解答だけではなく問題そのものにも興味を持ってもらえること。




人気の予備校講師がテレビに出る。多くの日本人であれば義務教育のどこかで学んだはずのことを、誰よりもわかりやすく解説して、知識を知恵に変えてくれる。それを見た人達は、ただ単に問題から解答を導き出す「いわゆる受験勉強」よりも、もっと実践的な学問に、あるいは逆に、もっと根源的な学問に、それぞれ興味を持つようになる。

病理医がやる仕事も、こうであればよいなあと思う。

2017年9月28日木曜日

そうすればあなたの完全勝利

バンドミュージックは多様すぎる。出不精なぼくはタワレコで試聴を繰り返すことなどしていない。ライブハウスの開演直後から5時間くらいはりついて聴いたことのないバンドの曲を知ることもしない。初老のマスターが黙ってたばこをふかしている飲み屋でスペースシャワーTVを延々と見ることもない。ただ毎日をばくぜんと送っている。音楽に対して足を運んでいない。20年前に中年だったら、きっと、とっくにバンドミュージックを追いかけることはできなくなっていただろう。

セイタカアワダチソウの生い茂る草原にぽつりぽつりと野球ボールが落ちている。そのどれかを欲しくてしょうがない。きっと手にすればうれしくてしょうがない。けれどぼくは草原を歩かない。だから、もう新しいボールは手に入らない。

バンドミュージックを好きになるというのはそういうことだった。

けれど今は、インターネットがありツイッターがある。

今日ぼくは中年でいて、職場と自宅と出張先の三角貿易しかしていないけれど、それでも新しいバンドを知り、新しい曲を聴くことができる。




「本来であれば出会うきっかけがなかったもの」。

「人の意見」とか「小さな事件」とかもそうだろう。余計なもの、自分を傷つけるもの、悲しい気分にさせるものもいっぱい入ってくる。

黙って座っているだけで自分に都合のよい情報だけが勝手に飛び込んでくるような都合の良いシステムではない。

喧噪に飲み込まれてしまわないように、ある程度、能動的に選択する必要はある。自分の必要なものだけを取り込むシステム。

今のところ、「音楽」とか「本」などにおいて、ぼくはうまいことやれているように思う。





窓口を広くするだけでは、ホメオスタシス(恒常性、いきものが新陳代謝しながらも同じ状態であり続けること)は保てない。敵も味方も入りほうだい、では困る。

むしろ、窓は閉じる。壁をきちんと用意する。その上で、「能動輸送するためのチャネル」をきちんと置いて、自らに害を為すものをはじきかえし、有用なものだけを取り込む。レセプターが反応する「よいもの」に対してだけ、窓口を解放する……。

まったくもって、「細胞」と一緒であるな。





そういえば。

生命の新陳代謝システムは極めて優秀であるけれども、これがうまくワークするためにはある条件を満たさなければいけない。

ある条件とは、細胞外に

「選べるほどたくさんのマテリアルが、そこそこ高速でびゅんびゅん動き回っていること」

である。

細胞が必要とする栄養が「やってきたら、取り込む」というシステムは、「やってこなかったら、餓死」してしまう。

例えば、空気の中には酸素や二酸化炭素が含まれているが、これらはすごい勢いでびゅんびゅん動き回って、あっという間に混ざり合う。拡散能が高い。

もし、酸素とか二酸化炭素が、もっと足が遅くて、なかなか混じり合わなかったとしたら、ぼくらは部屋の一箇所でじっとして息をしているうちにだんだん苦しくなってきたはずなのだ。

自分の周りにある酸素を呼吸によってぐんぐん消費しても、すぐに外から酸素がじゃんじゃか飛んできて混じり合うからこそ、ぼくらは一箇所に留まって眠りながら呼吸することができる。




窓口を開放せず、自分で良いモノと悪いモノを見極めて、良いモノだけを取り入れようとするとき。

窓の外では、喧噪がなければならない。情報が高速でびゅんびゅん動き回っていなければいけない。撹拌されていないといけない。

「自分の目を信じて、いいものだけを選んでやっていく」というのは簡単だ。けれど、周りに雑多かつ高速の物流がなければ、それは緩慢な断食になってしまう。




インターネットでありツイッターのいいところはまさにこの「喧噪」なのだろうな、と思う。




「背高草のざわざわっと、それ以外聞こえない静かな夏の風景。」

「でも俺 この喧噪に飲み込まれてしまう。」

2017年9月27日水曜日

病理の話(125)

プレパラートの中では時間が止まっている。

「今」を固定している。

だから、

「がんはどこから現れて、どうやって大きくなってきたんだろう」

を考えるとき、すなわち

「時間経過とかダイナミズム」

を考えるときには、とても工夫しないといけない。




がんの科学は、対象とする細胞がとても小さいということ、それが人体の中という簡単にはもぐりこめないところで起こっていること、さらには病巣が大きくなるまでに10年以上の時間がかかることなど、複数の理由により、直接観察して解明することが難しい。

そんな中でも、がん細胞を様子を直接見ることができるプレパラート、あるいは病理学というのは、がんの科学にとってはかなり真実に近いことは間違いない。

けれど、あくまで止め絵であるからこそ、時間経過やダイナミズムについては簡単には観察できないわけである。



世にいるあまたの研究者の誰ひとりとして、人間の生体内でがん細胞が発生する瞬間や、がん細胞がメリメリと増えてまわりにしみ込んでいくところをリアルタイムに観察した人はいない。

培養皿の上で、環境を整えて、がん細胞を培養して、タイムラプス顕微鏡で観察した人ならいるけれど。

培養細胞の挙動が、生体内の動きと全く一緒であるという保証はない。むしろ違っているだろうと言われている。

ヤクザをひとりとっ捕まえてきて、研究所の中に作った箱庭に話して、「さあ今から普段通りに振る舞え」と言われても、ヤクザだって困るだろう。

それと一緒だ。




がんの科学は、究極のところ、直接見て考えることが難しい。

つまりは、「想定」と「類推」の上に成り立たせるしかない。今見えているものからストーリーを思い描くだけの想像力、そのストーリーが現実に起こっていることと矛盾しないのだという観察力、それぞれが必要なのである。




細胞を観察して思い描くストーリーが「ほんとうのこと」であると証明するためには、コツがいる。

そのコツは、たとえば、「写真一枚を見て、そのとき何が起こっていたかを想像する」作業と似ている。

豪華客船タイタニック号の写真を見て、側面に火災の痕があったことに気づいて、「実はタイタニック号は出港直前より貯蔵していた石炭が発熱していて、使える石炭の量がきわめて少なくなっていたために、巡航を急いで、結果的に氷山に激突してしまった」なんて、見てきたかのような仮説がテレビに出ていた。

ほんとかなあ。

けれど、この「ほんとかなあ」を、顕微鏡を見て病気を診断する病理医も、ときどきやっている。





胃がんのプレパラートを丁寧に観察する。がんがない人の胃と見比べる。そうして、ひとつの法則に気づく。

「あっ、胃がんがあるときは、高確率で腸上皮化生(ちょうじょうひかせい)が周りに見られるなあ」。

何十例も、何百例も見ているうちに、確信に変わる。

「胃がんと腸上皮化生は、高確率で合併しているぞ」

そこから、類推する。

「まず、正常の胃粘膜が腸上皮化生に変わり、腸上皮化生ががんになるに違いない!」



これは結構長い間信じられていた仮説である。今でも信じている消化器医師は多いだろう。

けれど、間違いだろうと言われている。




腸上皮化生を痴漢に例える。

がんを強盗犯人に例える。

治安の悪い土地があると、痴漢がそこかしこに出現する。

そして、強盗犯もあらわれる。

このとき、「痴漢が強盗犯になった」と考えるべきか?

普通はそう考えない。

「治安が悪いという共通の理由があって、痴漢も、強盗犯もあらわれた」。

この方が自然である。




胃がんも一緒だ。胃に悪さをする何か共通の背景があって、そこに腸上皮化生が出現し、ときおりがんも発生する。

別に、腸上皮化生が直接胃がんに変化したわけではない。

このことを、専門用語で、

「腸上皮化生は傍がん病変 paraneoplastic lesionであり、前がん病変 preneoplastic lesionではない」

という。

パラ(一緒に出現する)ではあるが、プレ(前触れ、元となるもの)ではない。




しかし、腸上皮化生が前がん病変であるという誤解はずっとあった(繰り返すが、今でもある)。

なにせ、顕微鏡で時間を止めて観察すると、腸上皮化生とがんが一緒にある確率が高いから。

すぐに飛び付きたくなる仮説であることは間違いない。

けれど、腸上皮化生とがんの分布をより細かく観察したり、遺伝子の変化などを丁寧に調べていくと、だんだんこの仮説が「ちょっと現実に合わない」ことに気づいてくる。

仮説はいつでも仮説だ。真実そのものではない。

常に仮説は更新し続けないといけない。それが「がんの科学」である。

直接見られないからこそ、仮説で戦う。仮説で戦うからには、常に仮説を新しいモノへとマイナーチェンジし続けていく。

人間、結局、アップデート方式に落ち着いていくものなのだ。

スマホにしろ。アプリにしろ。ゲームにしろ。

最初に買えばそれでOK、ずっと長く使えます、という時代ではない。

最初に採用した仮説を、使い続けながら、より人々になじむようにアップデートしていく。

それこそが「がんの科学」なのである。




最初に立てた仮説だって、決してとっぴな発想ではない。

真実とはちょっと違う。そんなことは織り込み済みである。でも、ある程度は妥当なのだ。

だったら、その妥当な部分をうまく見抜いて、診断や治療に活かせばよい。

そうやって、医療は人々を救ってきた。

完璧でない仮説であっても、妥当な部分をきちんと用いて医療をやれば、診療は可能であり、患者の役に立つ。

そして、今の仮説で満足してしまってはだめだ。

観察をくり返し、知性をふりかけ続けると、少しずつ、仮説がより確からしいものに変化していく。

10年前の医療よりも今の医療はたいてい真実に近い。




顕微鏡を見る診断は、時間経過やダイナミズムに弱い。

それを補うために、統計学とか、遺伝子解析とか、様々な手法を用いて、少しでもよい仮説を構築しようと、「その瞬間で最高の仮説」を探す。

病理医がこの仮説形成を繰り返すことで、時間を止めて観察していたに過ぎなかった病理学に、ダイナミズムが生まれる。

仮説が時間経過とともによいものに変わっていくのである。

すなわち、病理学は、時間経過やダイナミズムに弱いというよりも、時間経過やダイナミズムに自ら取り込まれていくべき学問なのだ。

ストーリーテリングができる病理医はよい病理医。

仮説をうまく説明でき、かつ、今ある仮説を常に疑い続ける病理医はよい病理医。




やっぱりちょっとホームズ感があるな。

数回前のブログではワトソン感があると言ったけれど……。

2017年9月26日火曜日

ちんこの話ばかりする人

腰が痛くなってはじめて、「背中にクッションを入れるありがたみ」がわかったよ。

こんなところに縦にモノを噛ませてどれだけ役に立つんだよ、とぶっちゃけ思っていた。

けれど、背中の湾曲部にモノを置くことで、姿勢が自然と矯正されて、腰回りの筋肉に対する負担(これは主に、自分の体重を支えるときの負担だと思う)がぐっと軽くなる。

普段、気づかずに腰にダメージが蓄積していた状況に、クッションひとつで気づくことができて、クッションだけでそれを回避することができるんだ。



ああ、そうかそうか、ありがてぇもんだなあ、みんながやってる意味がわかったわかった。



インスタグラムをやっていないのだが、あれ、何がおもしろいの? そう言おうとして、ぐっと押し黙った。

きっとインスタだって、やるきっかけを得た人、何が気づきがあった人にとっては、生活の「姿勢」をほどよく保ってくれるような何かがあるんだ。

それは腰痛になる前のぼくが気づかなかったクッションかもしれない。

かけうどんに一味を入れたらうまくなるなんて、考えもしていなかった。

グレーのシャツにグレーのカーディガンを合わせても、バッグで色を与えればおかしくないんだよ、と教えてもらった。

わさびが食べられるようになったら寿司が何倍もうまくなった。




「なんでそれをやっているのか意味不明」

「何がおもしろいのかわからない」

みたいなことを言うときは、きっと、そのものがどのように役立つのか、どのあたりがおもしろいのかという路線で考えても、わからない。

脳を使うとき、「なぜだろうのメソッド」だけでは、うまくわからないことがある。

そういうときには、遠回りなようでも、「なぜだろう」を考える前に、「どういう人達がそれを喜んでいるのだろう」と考えた方が、結局は答えに近くなるのではなかろうか。




ツイートでにゃーんと鳴き、AAのうさぎをふぁぼる人。

何がおもしろいのか。何の役に立つのか。

ではなく。

「どういう人が、それをやっているのか」

を観察しよう。




たいがい、おっさんだった。なるほどな。と思う。いい勉強をしている。

2017年9月25日月曜日

病理の話(124)

長いメールが届いていた。ある内視鏡医が記したものである。

まるで古典文学を読んでいるかのような気持ちにさせるそのメールには、現在、自分が「病理の手法」を用いて、ある疾病の発生メカニズムを明らかにしようとしているのだ、ということが書かれていた。

「だから君にも手伝って欲しい」

ではない。

「こんなことをやっているんだ。どうかな、おもしろいよな。どう思う? いや、感想だけ聞かせてくれればいい」

そんなニュアンスである。





「病理の手法」





ある疾病を、臨床医はさまざまな手段で見る。

「臨床の手法」を使って見る。

画像検査だったり、血液検査だったり、患者の訴えだったり、統計学だったり、さまざまな手法によって、この疾病はどんな形をしているのだろうか、と探る。

たとえばそれが、「縦に引き延ばしたホームベース」のような形に見えるとする(あくまで例えである)。


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――


こんなかんじ。

でも、この5角形のうち、先の尖った部分が重要なのか、側面の柱の部分が大切なのか、底辺の部分が意味を持っているのか、臨床の手法だけではわからない。

彼らは、だから、顕微鏡を用いたり、免疫組織化学という手法を用いたり、遺伝子解析を用いたりして、「病理の手法」で疾病をさらに探ってみたい、という考えに至る。



そしたら、この疾病はこのように見えたのだという。



……まるで違う形だ。そこで臨床医はピンと来る。

「ああ、これは、おそらく本当はエンピツの形をしているのだ」




エンピツを上から見れば丸くなる。

横から見れば先ほどの5角形になるだろう。

見る手法、すなわち見る角度が異なれば、見えてくる図形がまるで変わってしまうことはある。



そこで臨床医はぼくにメールをしてきたのだ。

「エンピツだと思うんだよ。よさそうだよな。あってるよなこれ」

ぼくは納得をする。病理医でなくても病理の手法は用いることができる。彼のやっていることはぼくから見ても極めて妥当だ。

先生、すごいですね。

彼は鼻高々となり、さらに謙虚さを増して学問に没頭していく。





……こんなことがよくある。ぼくは時折、何も自分で解析していない分野において、単に「聞き役」にさせられることがある。

ホームズにとってワトソンは必要ないと思うのだが。

ホームズたちは、ワトソンに話し掛けることで、自分の頭を整理しているのだろう。




なお、ぼくはメールに、このように返した。

「先生すごいですね、病理医だけでは絶対に見えてこない視点です。

なお、○だけじゃなくて、□のこともあるんですよ」




臨床医はピンとくるのだろう。「あっ、四角いエンピツってあるよな!」と。

彼の筆箱が途端に多彩になり、彼は驚喜して、そうだ、ロケットエンピツやシャープペンシルなんてものもあったなあ、と思いを様々に巡らせていく。




自分を名探偵になぞらえるのは楽しい。

ただ、ワトソンの何気なく発したひと言、それは必ずしも論理的である必要はないが、何かの世界でずっとやってきた経験が導く不思議な直感であればよく、その「名状しがたい直感」が、探偵に新たな視点を与えることがある。

病理医はときにワトソンであってもよい。




そういえばIBMが診断用に提供しているAIの名前はなんと言ったかな、と、ぼくが思ったのは、この記事を書く「前ではない」。

途中なのだ。

そういえば、と思った。単なる偶然である。

けれど、単なる偶然じゃないのだろうな、と、半ば確信している。

2017年9月22日金曜日

受信者でいればいいだけの話

書いたことがある話題を、延々と書いていた。

たった今消した。




「病理の話」には、そういう「二度目の記事」がいくつかある。でも、ま、病理の話ならば、同じ内容を何度か書いても許されるんじゃないかな、と思う。なにせ世の中には病理の話が少なすぎる。多少しつこいくらいでもいいんじゃないかな。いちおう切り口は変えておくからさ。

けれど、病理の話の合間にこうして「箸休め」として書いている記事の方は、別である。「病理の話じゃないほう」で、自分が前に触れた話題をもう一度とりあげるのは、とても恥ずかしい。

まず、同じ話題を二度語ってしまうというのは、ぼくの場合、基本的に「無意識」である。

よっぽどこれが言いたかったんだね、前にも言ってたもんね、なんて指摘されて、はじめて気がつく。ああ、やっちゃった。

「うちのおじいちゃん、酔ったら同じ話を何度もするのよ」みたいなやつじゃん。

「課長が新人に必ずする訓話があってよォー」みたいなやつじゃん。

恥ずかしい……。




この不幸な事故を減らすためにはどうしたらいいだろう。




ここはひとつ、「このブログでは、○回目には必ず□の話をします」と宣言してしまう、というのはどうだ。

ぼくがつい何度かしゃべってしまいがちな話題はいっそシリーズ化してみる、というアイディアだ。

……。

同じ話題を同じ展開で同じオチまで持って行く快感におぼれ、しかも前に一度披露していることを忘れてブログに平気で複数回同じ話題を書いてしまう人間が、「○回目」の数字が増えるたびにちょっとずつオチをずらしておもしろいことを言う、なんて芸当ができるわけがない。

破綻が目に見えている、やめる。




「してやったり系のネタ」を言おうとする欲を捨てよう。

「うまいこと言う人」になりたがる欲を捨てよう。

狙い球を絞るのではなく来た球を打つようにする。

先の先ではなく後の先を取るようにする。

これならどうだろう。

……。

実際、「関西方面のお笑い」にうるさい人は、これを徹底している。

ネタは毎回違うが構造が毎回同じ、という関西のギャグ的な空気はそうやってできている。

破綻はしないだろう。安心感はある。

けれど、道民は関西人には決してなれないのだ。

なれないんやで。ごめんがな。




一度言ったことを忘れない人間でいたいけれど、もう、なんだか、無理な気がする。

毎回おもしろい話をネタ被りなく披露できるおもしろおじさんでいたいけれど、狙う時期を逃したし、方向性も間違っている。

そうか、そうなんだ。

きっと、ネタ被りをおそれ、自分から出てくる話題の少なさにおびえ、おもろないんやでんがなとか言われるのがつらいから、「芸能とか社会情勢の短報に飛び付いてリアクションすること」が発信の主軸になってくるんだ。

ああ、自分から何かを発信するって、難しいんだなあ……。





ちなみに人がなぜ芸能とか社会について反応したがるのかについては、以前にもこのブログで書いたことがあったはずです。

2017年9月21日木曜日

病理の話(123)

ありとあらゆる医者は、タテマエ上、学生時代にほぼ全ての臨床科のことを「習っている」。

これは、義務教育の際にすべての小中学生が、日本の歴史について「習っている」というのと同じ構造だ。

習っている。

それだけである。




医学生は卒業後、まず第一に、手先を動かす訓練をする。

現場でここぞというときに、体が硬直しないように。

電子カルテの書き方。入院患者に対する基本的な対処法。外来での事務処理。

急変した患者の対応。救急外来での最適化された行動順序。

医師に求められている数々の手技。挿管、血液ガス採取、大血管へのカテーテル挿入。

「脳よりも先に体が動いてくれないと話にならないよ」という、現場からの期待が大変はげしい。

脳は置き去りにしてでも、身につけなければいけない。



脳に待っていてもらっている2年間で、「日本史」のことは、ほとんどすべて忘れていく。

どれだけしっかり勉強していても、ほとんどすべて忘れる。

ただし、「ほとんどすべて」だ。すべてではない。

自分が将来にわたって使い続ける知識については忘れない。



研修医は、自分が日本史の中で、「どの時代」を勉強したいかを見据えている。

 縄文時代の第一人者になるか。

 室町時代なら誰にも負けない人になるか。

 江戸時代の中期を学ぶか、末期を学ぶか、あるいは江戸時代成立前後を学ぶか。

 日清戦争のなりたち。

 田中角栄のやったこと。

これらは同じ日本史と言ってもまるで違うだろう。

田中角栄の業績に詳しいからと言って縄文土器を見極められるわけがない。

たとえば消化器内科と整形外科というのは、それくらい違う。




小中学生のころ習った「日本の歴史」だと、みんな、どこを一番覚えているだろう?

最初の方で学んだ、「前方後円墳」とか、「聖徳太子」とか、あのへんか。

多くのマンガやドラマで描かれている、「戦国時代」とか「織田・豊臣・徳川」とか、そのへんか。

ザビエルを思い浮かべる人もいるだろう。

平安京だけは忘れない人もいるに違いない。



循環器内科とか救急というのは、ザビエルとか平安京みたいなものだ。

昔習ったなあ、というのを強烈に覚えている科。

頭に残っている科。

「ぼくは日本史に詳しいよ」と人に言って回るときに、説明のしやすい科。




じゃあ病理は?

うーん、そうだな。少なくとも、特定の時代とか、特定の人物ではない。

「日本の文化史」とか。

「日本の外交史」とか。

何かひとつの視点で、すべての歴史を俯瞰しているようなイメージ。

「どこかの時代」を学ぶのではなく、すべての時代について、ある決まった視点でまとめ直すような感じ……。






医学生がときどきツイートしているのをみる。

「病理の試験めちゃくちゃきつい、将来病理医にだけはぜったいなんねー」

「顕微鏡実習マジで意味無い、病理は進路としては消えたな」

これは、学校で日本の歴史を学んだ小学生が、

「年号覚えられない、社会はきらい」

「歴史資料館の見学行ったけどちっともおもしろくない、歴史はつまらない」

と言っているのに似ているなあと思う。




そりゃあつまらんだろう。

病理が「そういうもの」だと思っている間は、つまらんだろうな。



昔、社会に苦労した子供達の中には、たまに、大人になって、もはや社会の勉強なんてしなくてもいいんだよというポジションについてから、ある日、大河ドラマみたいなちょっとしたきっかけで、

「あっ、今なら勉強できるかも、今なら社会がおもしろいかも」

という気になる人がいる。




病理というのはそういうアレだと思うんですよ。大河ドラマが好きなら病理が嫌いなわけないんだ。

2017年9月20日水曜日

カツセマサヒコを倒す

しゃべくり007を見ていた。

最近のイケメンや美女は、バラエティに出ると、

「実はこんな変なところが!」

とか

「意外とオタク!」

とか

「こう見えて爽やかではない!」

みたいにいじられている。

いじられて、イケメン本人も嬉しそうに笑っている。




たしかに。

かっこいいとか足が長いとか顔が小さいなんてことを前面にプッシュされても、ぼくはすぐに嫉妬してしまうから。

こんな完璧超人にも実はこんな弱点が、というところを笑えるスタンスでいじってくれた方が楽しく見られる。

世間的にも伸びるしバズる。



いじりと自虐を、いじめと他虐にならない程度にまぶした番組じゃないと、ぼくはチャンネルを変えてしまうだろう。



実際、いいものをいいと言い続けるだけで人の耳目を集めることは、極めて難しいと思う。

いいものをいいと言い続け、歩き回って人々の肩を叩き、誰かの横でうまそうにメシを食って幸福なため息をつき、よさみよさみ尊い尊いと念仏のように唱え。

それ「だけ」で、ものの良さを伝えて幸せを広めていける人。

いるにはいる。

なんと力強くやさしいことか。

……ぼくらみんなに、できるものだろうか?




いいものをいいと言い続けるだけのことを続けている人からは、なんというか、NHKのにおいがする。

すこし野暮ったいというか。

下品なことは言わないし。

大音量のCMもかからないけれど。

大声で笑うこともない。

スーツで、七三で、笑わない。



……はあ、参ったな。

ぼくは、「いいものをいいと言い続けている、シンプルな、優しい人」にすら、レッテルを貼ってしまっているようだ。





NHKに巨乳のスポーツキャスターが出たと言ってタイムラインが盛り上がっていた。

テレビ東京がニュース速報を出したと言ってタイムラインが怯えていた。




「いいものをいいと言い続けるだけ、それがシンプルでかっこいい」と思い込んでいたはずのぼくの脳にも、いくつかの付箋が貼られており、いくつかのしおりが挟まっていて、偏光フィルターとブルーライト軽減グラスがかかっている。





とりあえず無印良品を着こなすイケメンライターだけは滅ぼそうと心に決めているぼくの、目に、脳に、こびりついてしまったレッテル。


とりあえずカツセマサヒコだけは殴るけれど、その後のことはもう少し、考えていきたいと思っている。

2017年9月19日火曜日

病理の話(122)

人体を守る仕組みのひとつに、

「リンパ球がばいきんを攻撃する」

というシステムがある。

言葉で書くと簡単だ。

たとえ話をするならば、リンパ球は警察官で、ばいきんは犯罪者である。



けれど、リンパ球には「脳がない」。

細胞1個だ。脳も手足もない。単なる「まるいつぶ」である。

そんなつぶが、どうやって犯罪者を認識して、どうやって倒すというのか?

そもそも、まるいつぶにそんな警察官みたいな役割が果たし得るのか?



もともと受精卵という1個の細胞が、分裂を繰り返して、何兆という細胞にばけて、今のぼくらの体ができている。

その一部を、わざわざ「まるいつぶにして」、「警察官の役割を担わせて」、「犯罪者の顔を見分ける能力をあたえて」、「犯罪者を逮捕したり、直接罰したりする能力を与える」。

こんな複雑な命令、いったいどうやって与えているのだろう。



人体の細胞がどのように働くかを、適材適所、適切なタイミングで命令しているのは、ざっくりと言うならば、

「DNA」

によって記載されたプログラムであるという。

気が遠くなる。

いったいどれだけ精巧なプログラムを書いたら、こんな複雑な仕事ができるのだろう?




……と、このような記事を書いて、ブログにアップしているぼくは、ふと気づく。

このブログ作成ページだって、プログラムで書かれているわけだよね。




コンピュータプログラムはご存知の通り2進法だ。

0(電気を通さない)と1(電気を通す)の2通りを組み合わせて、無数の言葉を生み出す。

0と1だけで、日本語を自由に表示させたり、行を変えたり、ブログのデザインを決めたり、リンクを飛ばしたり、なんでもやってしまう。

さて、プログラマーは、実際に「0と1」を使ってプログラムを書いているのだろうかというと、確か、そうじゃなかったはずだ。

ぼくはあまり詳しくないけれど。

「言語」を使っているんじゃなかったか。

0と1だけでプログラムを記載するわけじゃなくて、もう少しだけ人が使いやすい言葉に置き直して、プログラムを書いているんじゃなかったかな。

C言語がどうとか、ジャバがどうとか、あったよ、確か。




では、人間の体をコードするプログラムはどうやって書かれているか。

4進法で書かれているのだ。

A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)。

0と1の2進法よりも、組み合わせが多い分、複雑なプログラムが書ける。

けれど、このATGCだけを使ってすべてのプログラムが書かれているわけではない。

プログラマーが、キーボードで010010110111010と入力してプログラムを書いたりしないように。

「生命をプログラムしたプログラマー」も、ATGCだけでプログラムを書くのはやばいと思ったのだろう。

ATGCを3つずつ組み合わせ、「言語」を用意した。

「AGC」のセットを、「セリン」という物質に対応させる。
「GAA」のセットを、「グルタミン酸」という物質に対応させる。

ATGCの4進法でそのままプログラムを書くのではなくて、ATGCから3つずつの組み合わせをつくり、これらを20種類の「アミノ酸」という物質に対応させた。



いきなり4種類の文字だけですべてを書こうとするのではなく、4種類の文字の「組み合わせ」(コドン)を言語として設定。

コドンAGCがプログラムに出てきたら、それはつまり「セリンという部品をここにおいてくれ」というサイン。

コドンGAAがプログラムに書かれていたら、「今度はグルタミン酸をここにおいてくれ」というサイン。

つまり、AGCGAA と書かれていたならば、セリンとグルタミン酸を隣同士においてくっつければいい。




4進法のプログラムを3文字ずつ読みながら、20種類のアミノ酸を次々と並べていく。

アミノ酸がつながっていく。

つながってできたものを、「タンパク質」と呼ぶ。聞いたことがあるだろう。タンパク質。



細胞というのは結局のところ、すべてこの「アミノ酸を連ねてできたタンパク質」によって作られていると考えてよい。

アミノ酸は20種類のレゴブロック。

20種類あれば、たいていの形をつくることができるだろう。レゴで作った建物とか乗り物がタンパク質に相当する。





この仕組みを細かく研究した人が、ある日、思った。「生命すげぇな、4進法でなんでもやっちゃってるよ」。

そして、こんなことを考えた。

「パソコン上の仮想空間に、4進法で記載される『単純な法則』を用意する。1秒あたりに1回、その『法則』が作用して、『ある図形』の形が変わるようにプログラムする。パソコン上で何十億年という時間を再現したら、その図形は”生きつづける”だろうか?」

生きつづける、というのはたとえ話だ。

「ごはんをたべて、周りに影響をあたえながら、ときに敵と戦い、繁殖をして、個体が死んでも種族としては生き続ける」。

コンピュータ上の図形を、あたかもそのように「みなす」。

コンピュータ上で放っておいてもうにょうにょ動き続け、形を変え続け、存在しつづけるかどうか。ほんとの生命ではない。遊びみたいなものだ。

「ライフゲーム」と呼ばれる。




DNAが4進法なのだから。

ゲームとはいえ、「4進法」はライフを生み出す可能性がある。

コンピュータ上で膨大な時間を再現すれば、単純な「ライフ的なもの」は作れるのではないか?




このライフゲームはあまりうまくいかなかった。

4進法だけだと、何度仮想空間を設定し直しても、途中で生命としての「複雑さ」が現れてこず、バリエーションに限界が生じて、結果、不測の事態に対応できずに、「ほろびて」しまう。

足りなかったので、ためしに5進法にしてみた。

文字を増やせばバリエーションが多くなるだろう、という発想。しかし、今度は、「複雑すぎて」、図形が途中でうまく変化しなくなってしまった。



机上の空論とは便利なことばである。

本来、「○進法」という概念には、小数点はそぐわない。

0と1での2進法というのはわかる。ATGCの4進法というのはわかる。

けれど、「4.2進法」と言われたって、想像がつかないだろう。

けれど、このライフゲームにはまっていた学者は、思った。

「4進法だと複雑さがたりない。5進法だとカオスに陥ってしまう。だったら、4.2進法くらいがちょうどいいんだけどなあ……。」

4.2文字で記載するというのは意味がわからないのだが、ためしに、やってみた。




すると、うまくいってしまった。図形はいつまでも、うにゃうにょと変化し続けて、それはまるで新種のアメーバかなにかを見ているかのようだった。

「え……? どういうこと……?」




生命の複雑さを記載するには、どうも、単なる4進法では複雑さが足りないらしい。

人間って、ATGCの4進法でプログラムされているはずなんだけどなあ……あっ!




学者は思いついた。

DNAはATGCの4文字だけど。

RNAになると、AUGCの4文字にかわるんだよな。確か。

T(チミン)が、なぜかU(ウラシル)と対応するんだ。

これ、文字を「ちょっとだけ増やしている」のかもしれない。



それに、DNAにはほかに「修飾」とよばれるシステムもある。

メチル化とか、アセチル化とか。文字にかざりが付くのだ。

これも、文字を「ちょっとだけ増やしている」のかもしれないな。




生命って、4進法じゃなくて「4.○進法」くらいなのかもしれない……。




(一部ぼくが適当にいじっているのでフィクション化してますが、そのような仮説が提唱されたことは実際にあるそうです。)

2017年9月15日金曜日

プロ野球選手がゲルマニウムのネックレスをする理由がわからない

ファッチューチョン、だったっけ。

あってた。佛跳牆。

バイブル・めしにしましょう(小林銅蟲)の3巻に乗っていた。

いわく、「山海の珍味を壺にぶちこみ、壺ごと蒸し煮する高級中華料理です。主な特徴として、値段に天井がない」。

乾物をはじめとする中華の食材をこれでもかこれでもかと大量にまぜこんで、力で蒸し煮にしたスープ。




「個々の食材の特徴は失われて巨大なうまみの塊が流れ込んでくる」

「味の余韻がめっちゃ長い」

「色々な生命の意識が入ってくる」

のだという。



人間の体ってこうだよなあ、と思った。

もはや何が元になっているのかわからない、味の塊。





昔、化学で習った。「緩衝液」という言葉を。

緩衝液というのは、多少の酸や多少のアルカリをぶちこんでも、pH(ペーハー)がほとんど変わらない液をいう。

酸を入れてもばんばん中和されてしまい、あまり酸性に傾かない。

アルカリを入れてもじゃんじゃか中和されてしまい、そんなに塩基性に傾かない。

そういう液体があるのだという。



人間の体ってこうだよなあ、と思った。

もはや何を入れてもそうかんたんにはぶれない、不屈の緩衝液。



生命というのは、無数の足を持つやじろべえである。

あまりに多くの要素でなりたっているために、一部の足を重くしても、一部の足をとっぱらっても、もはやバランスがあまり変わらない。

そんなやじろべえでいることに、メリットがある。

今日はごはんばかりを食べ、明日はバナナばかりを食べ、明後日はビールばかりを飲んだとしても、1週間程度ではさほど体調が悪化しない、ということ。これは、生存していく上ではとてつもなく大きなメリットなのである。

ある日は果実を手に入れた。

ある日はマンモスの肉を狩れた。

ある日は水しか飲めなかった。

それでも人は生きる必要があった。

それでも人間は「そのまま生き続けて」いなければいけなかった。

いつ、何が手に入るかわからないからこそ、生命はファッチューチョンでなければいけなかった。生命は緩衝液であることを選んだ。生命は無数の足を持つやじろべえになった。




「このドリンク一個でとても健康になれる」なんてことはあり得ない。

「このストレッチひとつで人生が変わる」なんてこともない。



すべてはバランスであり、るつぼであり、個々人がより分けて摂取したり排除したりして動かせるほど安直なシステムではない。






……ところで。

西洋医学というのはおそろしい。

この薬1個で、病気が治る、というのをやっているのだから。

無数の足を持つやじろべえがどちらかに傾いたとき、それを何かひとつのおもりで直そうとしても、普通は直るものではない。

でも、西洋医学は、それを直してしまう。

まるで奇跡ではないか?



西洋医学を奇跡にしないために、人は、統計をとる。

必死で臨床試験をやる。

万が一! たったひとつの物質が、人間のバランスをもとに戻してくれるかもしれない!

そういうアイディアをぶつけて、ぶつけまくって、生き残った「奇跡の一錠」だけが、西洋医学には採用されているのだ。




奇跡を確認し終わった結果が今の医療だと思えばいい。

ぼくらはいつも、奇跡に囲まれて生きている。

慎んで、学んで、ラッキーに感謝する。

そして、奇跡をオカルトにしないでくれた、統計学にもそっと手を合わせる。

2017年9月14日木曜日

病理の話(121)

手術で臓器をとってくる「理由」を考える。

たとえば、「がんだから」手術をします、という理由がある。これをもう少し深く掘り下げる。

「ある種のがんが、ある程度周囲に潜り込んだりしみ込んだりしているとき、手術をすることで患者にメリットがある。だから手術をする」

なるほど、ではそのメリットとは?



1.長く生きられる。

2.痛み、苦しみが減る。


だいたいこのどっちかである。




病理診断でがん細胞を見ているとき、あるいはがんに限らず、手術で採ってきた臓器をみるとき、

「この手術をすることによって、患者にはどういうメリットがあったのかなあ」

ということを考える。

実は、そんなに患者のことを考えなくても、病理診断することはできるんだけれど。

細胞ががんであるかどうかを判断するだけのことに、患者の顔を思い浮かべる必要はない。細胞のことをきちんと勉強しておけば、用は足りる。

それでも、ぼくらは、診断とは直接関係しない、「患者にとってのメリット」を思い浮かべながら診断をする。




――患者はこの手術によってどれくらい長生きできるんだろう、患者は医者とどのような相談をしてこの手術に臨んだんだろう、手術で失った部分があるならば、それだけデメリットもあるはずなのに、それでもなお手術を選ぶだけのメリットがあったということだ、そのメリットというのはいかばかりだろうか。

――手術をしなければどれだけの痛みがあったのだろう、どれほど苦しんでいたのだろう。この手術によって病巣がとりのぞかれ、その結果患者は苦しみから解放されたのだろう、さて、どれほど苦しみが減っただろうか。

細胞とは関係ないだろうけど、考える。



──医療統計の論文を読む。ある病気に対し、ある手術をすると、どれくらいの確率で患者がどれほどよくなるか。逐一論文になっている。ガイドラインと呼ばれる指針にまとめられている。数々の教科書に書いてある。それをきちんと読む。

細胞とは関係なくても、読む。



──臨床医が何を考えているのかを知ろう。書を捨てずに、医局に出よう。主治医には意図があり、こうなれ、と思った願いがある。患者に直接会わないぼくたちも、臨床医をはじめとする医療者であればいくらでも会うことができる。

細胞とは関係あるわけないけど、聞く。



その上で。

とうに患者から切り離されてしまったプレパラートの中に、患者の苦しみを見定めるヒントを探す。

顕微鏡で臓器をみるときに、がん細胞や病巣そのもの以外にも、あらゆる細胞を見る。

たとえば神経。たとえば手術のきれっぱし部分。たとえば病変とは関係ない部分の粘膜。たとえば筋肉、たとえば臓器の大きさ、血管の増え具合……。

これらがどのように変化しているかを探り、患者にはこんな苦しみが出ていただろうなと想像する。

細胞と関係ないことを聞いて、読んで、考えているからこそ、細胞をそれ以上に、診る。





「患者のことを想像しながら診断する」こと。実際、病理医にとって必要なスキル、とまては言えない。

だって、患者がどのように苦しんでいたとしても、もう手術は終わっているのだから。症状はすでに取り去られているのだから。顕微鏡をしっかり見ることが求められているのだから。

けれども。

「そこ」を想像せずに、がん「だけ」を見て仕事を終えてしまっては、いけないのだと思う。

単に理想論とか美談として語りたいのではない。




臨床医がやってくる。すでに診断を終えた患者の病理報告書を手にして。



「先生今ちょっといい?」

──いいですよ。

「これ、診断には何の文句もないんだけど、ちょっと聞きたいことがあって」

──どうぞどうぞ。

「この人、ふつうだったら背中が痛くなるはずの病気なんだよね。けど、今回は腹側が痛くなってた。関連痛ってことでいいのかもしれないけど、なんかちょっと解せなかったんだよな。もしかして病気の範囲が、腹側に及んでたのかな」

──なるほど、おまちください。ちょっとプレパラート出しましょう。一緒に見ましょう。

「ありがとう」

──ここですね、病気が神経にそって、前方に「這って」います。レポートにも書いてある神経周囲浸潤というやつですが、今回のは「ちょっと特殊な這い方」をしています。画像には映らなかったかもしれません、這っている細胞の量は決して多くないですから。けれど、這った先でだいぶ周囲に障害を与えていますね。ここは映っていたかもしれませんよ。

「ん? あっ、これか……ちょっと離れたところのこれ。これも病気の範囲なのか。そうか、だから前方に痛みが出るのか」

──病理診断上、この方が将来どうなるかを予測する上ではどうでもいい所見なんですけど、手術前の痛みを解釈することができる所見でしたね。

「そうかそうか、ありがとう」

──いえ、ぼくもこれからこういう像が出ていたらきちんとレポートに書き加えます。勉強になります。





……これは「理想」ではなく、「現実」にすべき診療のスタイルではないかと思う。誰のための診断、誰のための治療、そういったことを考えれば、ぼくらが細胞を見る「だけ」でいてよいのかどうか、答えは出るはずだ。

2017年9月13日水曜日

ツイッタラーズハイ

今これだけ努力すれば、いつかきっと楽ができるからな、と言われてがんばって、無事望んだポジションにつくことができた人間が、今度はそのポジションを守るために、昔よりも多くの努力をしている。

そんなシーンを目にする。

「将来、努力をすることが苦にならないように、昔から努力しておいたんだ」

そんな文脈すら、ある。




まあ確かにそういうやり方ってあるよな。




毎日ランニングするなんてかったるくてしょうがないけれど、何とかかんとか理由をつけて走る習慣を付けると、いずれ走ることが楽しくてしょうがなくなり、走ることが一日のリズムを産み、走らないとなんだか不安になったり、走れば走るほど充実したりするやつ。

ランナーズ・ハイみたいな状態になってしまえば、人間は幸せ回路をオンにすることができてしまう。



もっとも、自分の幸せ回路が、はたしてランナーであればオンになるのかどうかは、試してみないとわからない。

走るのがいいのか、泳ぐのがいいのか、本を読むのがいいのか、勉強するのがいいのか、キャバクラに通って金をぶん投げるのがよいのか、働くのがいいのか。

どうも人によって違うようだ。





毎日ツイートをしている。これはもう苦痛としての側面が確実にある。皇居の周りをランニングして疲れがたまるのと一緒である。勉強して目や腰がつらくなるのと一緒である。なぜそんなに苦労してまで毎日続けてるの? と言われた時に、まあ確かに疲れるんだけどさ、と答えるのはもはやランナーの言い訳と一緒だと考えている。

ツイートをしていない時間に、ツイートについて考えているとき、ああ、ぼくもまた、安直に幸せ回路をオンにする仕組みにのっかってしまっているんだなあ、人類だなあ、とあきらめてしまうのだ。

2017年9月12日火曜日

病理の話(120)

よい教科書というのが世の中にはいっぱいある。

ああ、この一行目は、読んだあなたにお得情報を一つももたらしていないな。

なぜなら、自明だからだ。そりゃそうだろうと言われてしまうだろう。知ってるよ、と。

けれど、あえて強調しておきたい、「よい教科書はある」。

医療現場で働いているとそれを忘れてしまうから。




「学術論文を読んで最新の知識をきちんと集めなければだめだ! 論文は批判的に読め! 書いている内容を盲信するのではなく、どれだけ信頼できる情報なのかを吟味しながら読むのだ! 薬をひとつ使うにしても、手術をひとつ行うにしても、すべては論文からはじまる!」

「座学だけでもだめだ、手先から知恵を吸収するのだ! 実践こそは最高の教師である、頭でっかちになるな、手技を身につけろ、現場の感覚を研ぎ澄ませ、クリニカル・パール(臨床現場で役立つ豆知識)を探して回れ、ピットフォール(落とし穴)に気を付けるのだ!」

たいていの医療者は、なんとなくこういうかんじで、医療をやっている。やることがいっぱいある。実に忙しい。

ぼくらはもう、学生ではない。

机上の空論では困る。

実践的にレベルアップしていかないといけない。

いろいろな理由で、学生時代にあれだけ使っていた「教科書」を読まなくなる。

代わりに論文を読む。あるいは読まないで実践に飛び込む。




「論文」と教科書はどう違うか?

原則的に、論文1本に対しては、テーマが1つ設定されている(あくまで原則)。

論文ではたとえば、「ピロリ菌は胃がんの原因となるだろうか」みたいな検討を行う。

「塩分を多くとると胃がんになりやすいか」なんてのもある。

「ある薬Aは胃がんによく効くか」。

「胃がんにおける遺伝子の変化を調べた」。

書き方はいろいろだ。統計学的な処理のレベルもさまざまである。解析方法はMethod(メソッド)と言うが、メソッドも多種多様。患者をいっぱい集めてきて調べた、という論文もあれば、あるタンパク質や遺伝子に着目してラボで実験をした結果、という論文もある。

基本的に、「何かひとつ」が書かれている。


これに対し、教科書というのはどのように書かれているか。

まず、教科書の著者というのは、「すでに偉い」。論文などをいっぱい書いて、業界で偉くなった人が書いたり編集をしたりする。

多くの論文をチェックする目を持った著者が、「もっとも信頼できる」と思った論文を集めて、その内容をストーリーとして紡ぐ。

この「ストーリーとして紡ぐ」に、教科書としての良さがある。

たとえば、ある教科書には、「胃がんの原因には食事とピロリ菌と加齢とその他もろもろがあるのだ」と書かれている。

この一行を書くために、平均して20本くらいの論文が「参照」されている。

いずれも厳選された20本だ。世界各国で読まれ、検証されたものを用いる。論文は出版されたあとに、世界中で批判的に読まれる。「ほんとかよ」「うそじゃねぇだろうな」「おおげさなのでは」「まぎらわしくはないか」。

そういうフィルターを通過した、本当に役に立つ論文が、偉い人によって選ばれる。そして、紡がれる。



論文は確かに最新の知識である。しかしその知識は、のちに世界から非難されるかもしれない。どれだけ信頼してよいかもわからない。

最新がよいとは限らないのだ。

それよりも、多くの論文が時間とともに吟味された時点で、

「今、世界中の論文を読んでみたらさ、この領域についてはこういうことでいいみたいだよ」

とまとめた本を読んだほうが、役に立つ場面がある。

それが、医療界における「教科書」である。



お察しの通り。教科書というのは、編者や著者の能力によって、良くも悪くもなる。

どの論文を選んだか。どこを使える情報として抽出したか。レアではあるけれど教科書に載せてもらえると助かる情報。典型的なのでさまざまなイラストと共に説明して欲しい内容。

同じ分野を扱っていても、教科書が違うと、まるで理解のスピードが変わる。




……以上の話を医学生、さらには研修医にすると、

「でも教科書読み比べるヒマなんてないっすよ」

「そもそもそんなに教科書読める時間がないです」

「ていうか教科書高くて買えないです」

という答えが返ってくる。必ず返ってくる。

ぼくは幸いというか不幸にもというか、患者を相手にしない(検体を相手にする)仕事をしており、つまりは医療者を相手にする仕事をしている。クライアントは臨床医であり、医学生は言ってみれば取引先の新入社員にあたる。

だからサービスをするのだ。

自分で教科書を買って読み比べる。そして一番よかったやつをおすすめする。

金? たいへんだよ、そりゃもうすごいかかる。けどいいんだ。そこに金をかける人間がいないと、教科書を読む流れは広がらないから。



病理医ヤンデルと教科書のおすすめ: https://togetter.com/li/956911



今回の記事、「病理の話じゃないじゃん」と思った?

病理というのは「病の理」と書く。つまりは理を追求する仕事だ。これはつまり学問ということだ。

病理医ってのは、医療現場の学問を統括する立場でいたらいいんじゃないかな、と思う。これは完全に個人の意見であり、病理医みながそう考えているわけではないけれど、ぼくはもう信じている。病理医が勉強して、病理医が中心になって医療現場に学問を広めるくらいでちょうどいいんだ、忙しい医療現場で座学のプロをやるというのはそういうことだろう、と思っている。

2017年9月11日月曜日

このブログのプロフィール写真がまさにそのホテルで撮ってみたやつですね

「周りの目」って大事だな。

「○○歳にもなって、■■してないなんて、恥ずかしい」

とか、

「そろそろ△△ができないと周りに迷惑かける」

とか。

さまざまな行動が、「周りからどう見られているか」でドライブされる。



足の速い動物が、速く走って獲物を捕らえないと生きていけないように。

社会性で生きる人間は、周りの目に一喜一憂しないと生きていけないのかもしれない。




釧路出張の夜、ホテルの部屋で、ローソンのパスタを食いながらビールを飲んでいた。デスクの横の壁には大きな鏡があって、飯を食っている自分の顔が映っている。すこし前傾姿勢の首。ストレートネックって、他人から、こうやって見えるのかあ。胸張って歩かないと貫禄的に厳しいなあ、飯食う時もあんまり前傾姿勢になるのやめとこ、小物っぽく見えちゃう……。

そこまで瞬間的に考えてから、ゆっくりと思った。

ホテルの部屋でひとりで飯食うときに、小物っぽく見えたから、どうだっていうのよ。




そういう、「だからどうだっていうのよ」みたいな話、いっぱいある。

歯を磨いているときに口元から歯磨き粉が垂れたらはずかしいと思ってふき取る。誰も見てねぇよ。

部屋着がよれよれになってきたので少しおしゃれなやつに買いなおす。誰も見てねぇよ。

誰も見ていないパンツにまでこだわることこそ、男のたしなみ? 知らねぇよ。自意識過剰かよ。




……って、思ってた世界に、SNSがいいねをつけてくる。

2017年9月8日金曜日

病理の話(119)

人間の体の中にはさまざまなおトク物質がある。

多くの医療者が存在を知ってはいるものの、そのはたらきを正確に理解できていないものは、「線維」(せんい)だろうと思う。

今日は線維の話をする。



洋服の繊維、とは漢字が異なることに気を付けてほしい。体内で増えるセンイは「線維」と書く。なぜ漢字を書き分けているのか、理由は戦前の病理学もしくは組織学に端を発しているのではないかと推察するが、詳しくは知らない。

なお、「野菜をとると繊維がとれるからいいんだよぉ」の場合は、「繊維」でよい。元から体外にあったものについては繊維と書けばよい。ややこしい。



線維はどこではたらいているか?

一番身近なのは、ケガをしたとき、そのケガを「穴埋め」する線維である。

腕をどこかにぶつけて血が出たとしよう。

その部分、血が出ているからあんまり凝視したくはないのだが、実は、組織の欠損がある。欠けてしまっているわけだ。

欠けていると、まず第一に、防御力が下がる。ばい菌がはいってしまっては困るだろう。

次に、バランスが崩れる。周りの細胞が苦労して築き上げた構築がグラグラになってしまうのもまずい。

ということで、穴埋めをする。

一番かんたんな穴埋めは、みなさんご存じの「かさぶた」だ。

かさぶたは、血液の中を流れている血小板などによって、すみやかに形成される。仮のふたである。

自分ではがせるほど、もろい。

この仮のふたでひとまず穴をふさいでおいて……次に、人体は何をするか。

「線維」を作り出して、土のうで堤防をうめるように、空いたスペースを埋めていくのである。

このとき、線維はさまざまなはたらきをする。



まず、土のうとしての「強さ」がある。

そして、多少周りが動いたり歪んだりしてもびくともしない、「柔軟さ」がある。

さらに(ここからを知らない人が多いのだが)、この線維は、周りにある血管を自分の中に引き込んで、多くの栄養や酸素などを集める「人集め力」を持っている。これから時間をかけて修復していく必要がある場所の血流を豊富にすることは、災害現場に人を派遣するのと同じような意味をもつ。

また(これも知らない人が多いのだが)、線維はまわりの組織をぐっと引き寄せる「収縮力」を持っている。ヤクザの顔にある傷跡はひきつれているだろう。あの「ひきつれ」は線維によってもたらされる。なぜひきつるのか? それは、組織の欠損(穴)を埋めるために便利だからだ。ただふたをするよりも、傷口をぐっとひきつけて、穴を小さくしてしまったほうが、ふたがしやすいだろう。

最後に、組織の修復に成功した場合、線維は「吸収され、なくなってしまう」という性質をもつ。建築現場の足場は、工事が終わるととりはずされるだろう。あれに似ている。



このように、非常時に大変役に立つ「線維」であるが、ふだんは体の中にはあまりたいした量は存在していない。それはそうだ、工事の足場が常に街の中にあふれていては、ジャマでしょうがないだろう。

しかし、いざ! ケガをすれば、すかさず「線維芽細胞」と呼ばれる、文字通りセンイの芽となる細胞が集まって来て、そこに線維を作る。

この線維芽細胞を集める「号令システム」がまたとてもおもしろいのだが、長くなるので今日はやめておく。




おまけだが、線維の性質として「穴を埋める」と共に、栄養を集める「人集め力」があるのは非常に重要である。ここでうまく人が集まらない場合、ケガがいつまでも治らない。

また、このような便利な線維を、がん細胞もまた密かに「使えるやつ……」と狙っており、がんが増えるときには特殊な
「号令システム」により線維化を引き起こす。がんが「硬くなる」、「栄養を奪う」、「ひきつれる」のは、主にこの「本当は集まるタイミングじゃなかったのに集まってしまった線維」による。



人体の中にある仕組みというのは大変巧妙であるため、それをすり抜けたり、悪用したりする病気というのはもはや、インテリ詐欺師のようなたたずまいを見せる。線維ひとつとってもこれである。



おまけですが、これらの「線維」は、いわゆる食物センイ(漢字で繊維と書く方)とは全く関係がないです。これ書いておかないと、ケガをしたときにゴボウとかモヤシ食いまくるみたいな謎治療が提唱されかねないからな……。

2017年9月7日木曜日

びょうりいのりょうりび

買ってきたカルボナーラのレトルト、量が少なくてがっかりした。レンジでチンするためのプラスチック容器(タジン鍋型)にルーを入れてみたら、おい、こんなものかよ、となった。ゆであがったパスタに対して明らかに足りない。

冷蔵庫に牛乳とスライスチーズがある。それしかない。タマゴさえない。

ほかほかのパスタとチンする前のルーをほっぽらかしにして、近所のスーパーに走って、ハーフのベーコン(減塩)だけ買ってダッシュで帰宅し、てきとうに切ってルーに入れた。

ついでにスライスチーズを1枚、手でちぎって、これもルーにいれた。

最後にルーに、牛乳を1ドボ(単位。音が一瞬ドボって鳴る程度)入れて、まとめてチン。

かさまししたルー。

パスタにかけて食う。

ベーコンの塩味とチーズのコクが牛乳によってさらっさらに薄められて、パンチ力のダウンしたちょっと健康そうなカルボナーラを普通に食して、あとはビールでよくわからなくすることで無事一日を終えた。




こういうときだ。

こういうとき、ああ、自分が「計算尽くの料理」をできたらなあ、と、ほんとうに切なくいたましく思う。




世においては、尊敬する料理人として、「冷蔵庫の中身を見てすかさず何かを作れる人」というのがよく挙げられる。

ぼくは、そこまでじゃなくていい。

だって基本はレトルトでいいんだ。

ただ、とにかく、つい買ってしまう各種のレトルト……カレーとかパスタ、麻婆豆腐……に、「何か言いようのない不安」を覚えたある晩夏の夜、冷蔵庫で出番もないまま死んでいこうとしていた残りものと、ダッシュで4分くらいで買い足せる下ごしらえも何もいらない切れっ端みたいな食材を使って、レトルトがちょっと豪華になって少し笑顔になる、ついでに洗い物は増えない、みたいな料理が、あとちょっとだけ上手にできたら、ぼくは本当に幸せを手にしたと言えるのではないかと思うのである。

ああ、あのカルボナーラが、もう一声! うまくできていたらなあ……。



雑にうまそうなめしを作るひとたち、ぼくはあなたになりたかった。

「料理医」と聞き違えられたとき、「料理もしますけど病理医です。」と答えられる、そんな人生がよかった。

2017年9月6日水曜日

病理の話(118)

主治医が、あなたの体の中から細胞を採ってきた。それは胃カメラでつまんだ胃粘膜のカケラ(小指の爪の先よりもっと小さい)でもいいし、胆石で手術した胆嚢(たんのう)そのものでもいい。針で刺した肝臓の一部でもいい。なんでもいい。

主治医はあなたに「この細胞は病理で調べてもらいます」と告げる。

あなたは、どれくらいで結果が出るのですか、と聞く。

たいてい、「1週間から2週間くらいですね」という答えがくる。場合によっては1か月待ってくれと言われることもある。

この、数週間という時間は、あなたにとって、針のむしろの上の数週間である。

あるいは、まな板の上の数週間と言ってもいい。

「なぜそんなに時間がかかるのだろう……。まあ、これで病気を決めようというのだから、仕方がないかなあ」

あきらめ半分、緊張した日々を過ごすことになる。




なぜこんなに時間がかかるのか。




まず、体の中から採ってきた細胞は、そのままにしておくと、「くさる」、あるいは「とける」。

細胞というのは基本的に体の中にいるからこそ生きられる。栄養。酸素。温度。湿度。すべて、体の中が最適だからだ。もっとも心地よいゆりかごを離れると、細胞はとたんにやる気をなくす。

釣った魚をそのまま放っておいたらだんだん鮮度が落ちていくのと、理屈としてはあまり変わらない。

刻一刻と状態が悪くなる細胞の時間をすかさず止めてやらないと、その細胞がどういうものかを観察することはできない。

せっかく苦労して採ってきた細胞である。できれば、ただ瞬間的に見ておしまい、ではなく、末永く有効活用してほしいと思うのが、患者の、あるいは医療者の、共通の願いであろう。

だから、まず、「細胞の時間を止めるための処理」をする。ホルマリン固定という。

これに地味に1日かかる。その日のうちに細胞の観察に入ることは極めてまれなのだ。



1日後、その細胞を観察するための「標本づくり」がはじまる。

小指の爪の先くらいであれば、全体をいっぺんに観察することもできる。

しかし、採ってきたものが「肝臓の1/3」だったり、「胃の全部」だったりすると、これらをぜんぶ顕微鏡でみるのは大変だ。

だから、どこをプレパラートにして、どこを重要視して、どこを見れば病気の本質に迫れるかをきちんと考えて処理しなければいけない。

「どこをプレパラートにして顕微鏡で観察するか」を確認する作業日が必要となる。



そうそう、言い忘れたが、細胞をホルマリンに浸して「時間を止める」とき、採ってきた臓器が大きいと……具体的には、1 cmより分厚いとき、ホルマリンが組織すべてにしみわたるには、1日では足りない。

1日でできあがる漬物を「一夜漬け」と呼ぶが、何日も漬けておかないと味が染みない漬物もあるだろう。それと一緒だ。

2日、3日とホルマリンに漬けておかなければいけない場合もある。ここでまた時間がかかる。




さて、どこをプレパラートにするか決めた時点で、今度は病理検査室にいる専門の技師さんが、プレパラート作成作業に入る。ここにまた時間がかかる。なにせ、病院の中では「病理部門の臨床検査技師」にしかできない特殊技能だ。宮大工並みに繊細な、熟練のわざが必要となる。

まずホルマリンに漬かった組織を、顕微鏡で見られるようにするために、別の溶媒に浸しなおす。

ホルマリンというのは強力な液体すぎて、そのままではうまく細胞を染め上げることができない。そう、細胞というのは、うまいこと染めないと、ただ顕微鏡でのぞいてもうまく見えないのだ。

パラフィン、有機溶媒、さまざまなものに次から次へと浸して、時間を止めた細胞を観察できる状態にもっていく。

なんとこれにも1日かかる。

さあ、ようやく組織の「見られる準備が整った」。

ここでさらに、「実際に見るための作業」を行う。具体的には、組織を、4 μmという、向こうがみえるほどの薄さに仕立て上げる。

大根の中にダイヤモンドを埋めて外から見ることができるか?

できない。

大根がジャマだからだ。

だから、大根を切って、ダイヤモンドが見られる場所にたどりつかないといけない。

さらに、大根とダイヤモンドであれば、太陽の光で十分観察することができるだろうが。

実際にはホコリより小さい細胞の配列を観察しなければいけないので。

ただ光をあててもうまく見えない。

だから、「透過光」を用いる。細胞の下から光をあてて、上から覗き込む。これが通常われわれが使っている光学顕微鏡である。

細胞の下から光をあてて、上から覗くためには、組織の厚さがそうとう薄くないといけない。ペラッペラにしなければいけない。そうしないと、光が透過しない。

ステンドグラスとかセル画を見るイメージなのだ。

細胞って英語でCell(セル)だからな。セル画。フフッ。今おもいついた。



巨大なカンナのようなマシンを手動で動かして、組織のうわっつらを薄く切る。「薄切」(はくせつ)と呼ぶ。

ペラッペラにした標本を、複数の染色液に漬けて、染め上げる。

この染色作業に半日かける。

ようやく、「セル画」ができる。



病理医の元にセル画……プレパラートが届くのは、最短で、標本採取の1日後。ここまでをじっくり読んだ方は、あれ、もう少しかかるんじゃなかったっけ? と疑問に思うかも知れないが、小指の爪の先より小さな検体を処理するときには、ここまで「1日」と書いてきた行程を、「3時間」とか「2時間」に短縮しているので、ほんとうに一番はやくて翌日にはプレパラートが完成する。

けれど、この「1日」は、患者さんに「ぜったい1日でできますから!」と約束できるほど確実ではない。

どうしたって予備日を設定しなければいけない。なにせ繊細な作業だからだ。

ということで、「平均2日」くらいでかんべんしてもらうことになる。

大きな手術だと、作業量が何倍にもなるし、ホルマリンほかの浸透スピードにも時間がかかるので、「そもそもプレパラートができるまで1週間かかってしまう」ことはしょっちゅうだ。



1日~1週間かけてできあがったプレパラートを、病理医が診る。その場で診断ができればいいのだが。

プレパラートは一日何百枚もあがる。

たどりつくまでにも時間がかかる。

そして、1枚のプレパラートを見て、「あっ、これは難しい」となったときには、さらにプレパラートを作り直し、「違う染色」を施して、違うやり方で細胞を観察することがある。

これにまた数日を要する。

さらに、病理医が、「これは顕微鏡だけで診断するのが本当に難しい」と思った場合、主治医に問い合わせながら、臨床画像(CTとか胃カメラなど)の確認を行ったり、検査データとの照合を行ったりもする。




けっきょくのところ。

病理診断は、患者さんの体の中から細胞を採った「翌日」に完成することもあるが、小さな検体であっても診断が難しければ1週間以上を要することもあるし、大きめの手術検体の場合は最短で1週間前後、最長では3週間くらいを要する。




……そういう細かいところはいいから、「がんなの? がんじゃないの? そこだけ教えてよ!」

患者の気分としてはこうだろう。主治医だってそういう気持ちでいる。

けれど……「がんか、がんじゃないか」なんて人生の一大事、ちょっと慎重に決めたくなるときだって、ある。



病理診断がすごいスピードで出る場合、病理医の腕がよいということか?

そうだ、とも言える。違う、とも言える。

腕がよければよいほど、「細胞が垣間見せる、こまかい違和感」に気づくから、診断に時間がかかったりする。

病理医の腕が普通であっても、技師さんや、臨床医がとても優秀だと、そもそも標本作製までの手間を早めることができたり、あるいはセル画以前の情報でかなり診断を絞り込んでいたりするので、診断が早くなる。

細胞をあまりてきとうに扱ってしまうと、たとえば将来、遺伝子治療に入ろうと思った際に、採取して保存してある細胞の状態が悪すぎて、追加の検査ができない、となる場合もある。これでは本末転倒だ。

一度採ってきた細胞は、何度でも何度でも、患者さんの状態や、そのときの医学の発展度合いに応じて、くり返し利用できることが望ましい。

細胞をとってくるにしたって、痛みを伴うこともある。苦痛に感じる患者もいる。

だったら、きちんと、保存させてほしい。きれいな標本を作っておきたい。




すみません、いつも、お時間をいただいております。

2017年9月5日火曜日

ししとうも焼く

ホルモンやナンコツばかり食っていた。

ヘルシーだとかブームだとか言う単語を、頭のまわりにまるでグラディウスのオプションのように連れ回しながら。

「一周回ってさあ、ゴリゴリのカルビよりも、ホルモンの方がうまいと思うんだよな」

とも言った記憶がある。牛タンとか薄いしすぐ焦げるじゃん、も言った。

ホルモンやナンコツだけで5,6年ほど過ごしているかもしれない(焼き肉屋の中での暮らしに限る)。



なぜ自分がこの数年、判で押したようにホルモンやナンコツばかり食べてきたのか、今となってはよくわからない。こだわってきた、とすら言える。

「こだわり」というのはなんだか「意地を張っている状態」と似ているなあ、と思う。

いや、まあ、意地を張っているからよくない、と言いたいわけではない。ぼくらは日頃、意地を張るという言葉を、「意地を張るのはよせよ」みたいに、「よせよ」とセットで扱いがちだけれども。

意地を張ってこだわって、その結果、楽しそうだ、という人もけっこういるように思う。

張れる意地なら張ってみるのも手だ。

しかし……。人生の重大な決断というならばともかく、「ホルモンやナンコツを食べる自分にこだわる」というのはなんだか、小物感がすごい。

そこまでこだわるほどのものか? ホルモンとかナンコツは。





思い出せないのだ。

かつて、「よぉし、ぼくはこれから、ホルモンやナンコツを食っていこう」と選択した日があったのか。

選択のきっかけとなった「出来事」があったのか。

ぼくに何か「強い意志」みたいなものがはたらいたのか……?

そんな、「ホルモン記念日」は、存在しなかったと思う。

「よぉしナンコツを食べよう、これからのぼくは。」と脳内団結式をやった覚えもない。

様々な流れがあったのだ。ただ、それだけだ。

社会でホルモンがブームだったかもしれない。たまたま好きな女性がホルモンを好きだった日があったのかもしれない。入った店がホルモン専門店だったのかもしれない。あるいは、「意志」というには弱すぎる程度の「意識」が、「今日は塩ホルモンみたいな変化球がうまそうだ」と、偶然何連続かでぼくの脳に響いていたのかもしれない……。

いろんなものがちょっとずつ積み重なった結果、選択らしい選択をした覚えもないけれど、今のぼくがこのように構成されている。

自分の意志で選んだ、とか、なんらかのポリシーに基づいて作り上げた、とかではなく、ただ単純に、「今のぼくが在る」「だけ」。



ぼくらはすぐに過去を振り返って、「選択肢」について議論をするけれど。

そんなものはなかった。

選択肢があって、自分の意志で選んで、その結果が今だよ、みたいな話、あちこちで本当にしょっちゅう耳にするけれど。

ぼくは、「選択らしい選択をしないままなんとなく成り立った自分」に、毎日動揺している。むしろ選択した覚えのない自分の姿にこそ、今とても興味があるのだ。







先日、久々にカルビを食った。なんだこのうまい食い物は。おどろいた。寿司よりうめぇじゃねぇか。ロースも食った。おお、「肉ってうまいんだな」。これがあるからホルモンとかナンコツがメニューの下のほうに押しやられるんだな。牛タンを食った。おい参ったなたまらんぞ。

脂っこい肉をがんがん食った。

翌日を待たず、その日のうちに、胃もたれしたけれど。

このことをきっかけに、ホルモンやナンコツしばりを緩めて、カルビや牛タンを食うように、シフトバーをチェンジすることになるだろうか?

いや、ならないだろうな。

ホルモンもナンコツも、こだわりとかじゃない。「癖」になってしまっている。

だからこれからもホルモンとかナンコツを食うんだけれど、そんなぼくを見て、誰かが、

「あいつこないだ無理してカルビ食って胃もたれしたんだわ、だからああやってまたホルモン食べることにしたんだな」

と、ありもしないぼくの「選択」について語ることが、あるのかもしれない。




そういえば別れた妻はサガリが好きだった。サガリは肉っぽいけど脂身が少ないからうまいよ、と言っていた。一緒に焼肉を食うときにはサガリをよく注文していたように思う。

そうかそうか、そういうきっかけ「も」あったかもしれないなあ、くらいの思考で、ぼくはまたおそらくホルモンを焼くことになる。

2017年9月4日月曜日

病理の話(117)

風景や人物の写真を、わざとモノクロで撮ったりセピアにしたりすると、ぐっと立ち上がってくる叙情のようなものがあるだろう。

人間は、ものを見るときに、ものの形……というか輪郭だけを見ているわけではない。

色調とか、色の差のようなものにすごく解釈をゆだねている。

それがわかるのは、プレパラートを「異なる染色法」で染めたときだ。




通常、プレパラートは、HE染色(ヘマトキシリン・エオジン染色)という方法で染める。

ちょっとネットから拾ってこよう。高知の病理センターのJPEG画像を勝手にお借りする。



左がHE染色。何が染まっているかというとこれは胃粘膜なのだが、まあ今回そういう解説はやめておく。

右側には、「EVG染色(エラスティカ・ワン・ギーソン染色)」が掲載されている。

ふたつを見比べると、「輪郭がおなじ」ことがわかるだろう。「全く同じ場所」を、2つの染色方法で染め分けて比べているのである。

まるで見え方が違うことはおわかりかと思う。ただ、実際、輪郭は同じだ。細胞や臓器の形をみるだけなら、どちらで染めても良さそうなものである。

この染め分けは、どうして行うのか?




臓器を顕微鏡で観察するとき、プレパラートを作るわけだが、このプレパラートには、障子紙よりもはるかに薄い「4μm」の厚さの試料が乗っている。

薄切(はくせつ)と言って、臓器をカンナのおばけみたいなやつでペラッペラに薄く切る。4μmというと髪の毛よりも薄い。ペラペラに切った試料は、向こう側が透けて見えるほど薄い。そして、基本的に「透明」である。

指のささくれとか唇の薄皮だって、うすーく剥くと向こうが透けて見えるだろう。それと一緒だ。

このままでは、細胞の輪郭など絶対に見えないから、染色をする。特に、細胞の核と細胞質という構造物はきちんと見極めたい。

この、細胞の核とか細胞質を見極めるという作業、あるいは臓器の全体をきちんと観察する作業に最も向いているのが、HE染色であると言われている。

ぶっちゃけて言えば、「コントラストがはっきりしていて、見やすい」。




左のHE染色と、右のEVG染色を見比べると、画面の上半分……胃の粘膜(ねんまく)と呼ばれる部分の見え方がだいぶ異なることに気づく。左は、グラデーションがきれいである。粘膜と一口に言っても、いろいろな細胞の種類があるのだなあ、ということが、このHE染色を見るだけで一目瞭然だ。

これに対し、右のEVG染色では、粘膜の部分はなんだかセピアで、どこに何があるのか一見してわかりにくい。



だから病理医は、ほぼ100%のプレパラートを、最初、HE染色で見るのである。これが万能なのだ。HE染色だけで、8割以上の診断を付けることができる。

ただ。

染色を変えることで、HE染色よりも見やすくなる構造物というのもあるのだ。

もう一度、さっきの図を見てみよう。


図の真ん中あたりに、クリームパンのように波打った横長のリングがある。

これは、血管である。

HE染色だと、ピンクのべたっとした壁として認識できる。

一方、みぎがわのEVG染色だと、なんだか黒っぽいふちどりが見える。このふちどり(というか、血管の梁(はり)のようなもの)は、HE染色ではよく見えない。

実はEVG染色は、血管を見やすくする目的で使用される染色である(ほかにもオタクな使用法がいっぱいあるのだが)。

別にHE染色でも血管はよく見えているじゃないか、と思われるかもしれない。ただ、ちょっと考えてみて欲しい。左側の画像の中で、「ピンク」に染まるものは血管以外にもいっぱいある。

たとえば筋肉。たとえば線維化。たとえば硝子化。HE染色でピンクに染まるものというのはほんとうにたくさんあるのだ。実際、HE染色の画像のベースはピンク(あちこちにピンクがある)というのはおわかりだろう。



図の下側で、帯状のピンク色として染まっているのは、筋肉(平滑筋)である。この中に血管が埋まっていたとしたら、HE染色でぱっと気づくことができるだろうか?

EVG染色なら気づけるのである。なぜならば、HE染色では見えない、黒緑色のふちどり(弾性線維)が見えるからだ。




おもしろいことに、いったんEVG染色で血管を確認したあと、HE染色をよーく見直すと、輪郭のこまかな違いなどで、HE染色でも血管(あるいは弾性線維)を見極めることができるようになる。人間の目、あるいは脳に、「ここを見たら良いよ」という気づきを与えると、見て理解できる範囲がぐっと広がるのだ。

HE染色の画像にフォトショップなどで処理を加えたら、EVG染色のような効果が得られるだろうかと、いろいろいじってみたこともあったが……。今のところ、個人の趣味レベルではEVG染色を超えることはできないでいる。



EVG, Azan, Gitter, PAS, DFS, Grocott...

HE染色以外の染色(特殊染色)はたくさんある。

さらに、これに、免疫組織化学(いわゆる免疫染色)という手法も追加することができる。




カメラマンが、露出をいじったり、補正をかけたりしながら、かつ実物を超えた加工にならない程度に、被写体をうまく浮かび上がらせるように。

病理では特殊染色によって、「被写体」がきちんと浮き上がってくるような試みがなされているのである。




なお、これらの染色は、「臨床検査技師」の手によって行われる。昔の病理医は染色も自分でしたというけれど、今のぼくにはこれらの染色をきちんと仕上げる技術がない。うちの技師さんたちは優秀で、プレパラートは極めて美しい。いつもお世話になっております。

2017年9月1日金曜日

100%

デスクの上や標本棚の一角に、旅先で買った根付のようなおみやげや、ガシャで取ったミニフィギュアのようなものを置いている。まあ、それはいい。好きでやっているからだ。

ただ、埃がすごい。困っている。

定期的に、ひとつひとつどかしながら頻繁に掃除すれば、いつまでもきれいなデスクであり続けるのだろうが。

そこまで努力しなければいけない、ということを、小品を買い集めていた段階で、思い付かなかった。

おかげで今は、デスクの上や標本棚の一角が、小物まみれだし、埃まみれである。




思えばぼくは、よかれと思って置いてみたインテリアがゴミにまみれてなんだか汚くなってしまいそのうち捨てる、ということをずっと繰り返している。

大学3年生のとき、大学のそばに、はじめて部屋を借りた。はじめてのひとり暮らしである(といっても週末は同じ札幌にある実家に帰っていたのだが)。自分の城だ、コーディネートをしたくてしょうがない。

ムダにものを買ったなあ、と思い出す。

なんかサボテンとか。あと……なんだっけ……そう、パキラ!

パキラという名前の観葉植物を買った。デスクに乗る程度の小さいやつ。ハンズでよく売っていたやつだ。

ほかにも、アメリカの車についているナンバープレートみたいなやつとか、ちょっと気の利いたマグカップとか。4プラの上、狸小路の隅などの雑貨屋を巡って、買い集めた。

あれぜーんぶ埃まみれになって、部屋が汚くなっただけだったなあ。




「部屋を上手に飾る人」を見ていると感心する。ぼくにはそういう才能と、努力する気がない。

自分のデスクを見返してみる。作業スペースはきちんと整頓してあるが、それは「仕事で使う部分」だからだ。「遊びの部分」で、自分をきっちりとコーディネートするのがへたくそだ。

服のセンスがないのもいっしょなのかもなあ。スーツとかばんは選べるが、私服が選べない……。






先日、実家に帰ったら、断捨離の真っ最中だった。本棚をひとつ潰して古い本を捨てたり、カーペットとかソファを入れ替えたり、物置のものをまるごと整理したりしていた。

ぼくが暮らしていた部屋も、こぎれいにまとまっていたのだが、そこに、あまり見た記憶のない、ぼくのふとももくらいまである観葉植物が置いてあった。きちんと手入れされている。ちょっとエキゾチックな感じだけれど、緑が部屋にあるのはよいことだ。

なにげなく、土に刺さっている札を読むと、

「パキラ」

と書かれていた。

母に尋ねる。「これ真くんが大学のときに買って、その後引っ越ししたときにいらないからってうちにくれたやつでしょう(笑)。そのまま育ててたら、こんなにおっきくなったわ」

お前、あのときの、卓上パキラかよ。

「インテリアとか観葉植物をきちんと管理できる血、ぼくにも半分流れているはずなんだけどねえ」と答えながら、なんだか可笑しくて、笑ってしまった。

2017年8月31日木曜日

病理の話(116)

「防御力を完璧にしておきたい場所」というのが、人体の中にはいくつかある。

まず、皮膚。何を差し置いても皮膚。外的な攻撃をいちばん受けやすい場所だ。

皮膚は「扁平上皮(へんぺいじょうひ)」という強靱な細胞で覆われている。扁平上皮は、ジグソーパズルのようにすきま無く張り巡らされており、しかもジグソーパズルの溝の部分には「タイトジャンクション(がっちり結合)」と呼ばれる接着剤のような機構があり、文字通り水も通さない。

この強力な扁平上皮については、ぼくは「触手が届くところは扁平上皮である」という謎理論を導入するなどして、このブログで何度か書いてきた(触手、すなわち外的刺激が少しがんばって届きそうなところは、皮膚と同じような細胞によってガードされている、という話)。

口の中は、皮膚と似た扁平上皮。まるで見た目が違うように思うが、くちびるだって、扁平上皮で覆われている。なんと、その先の食道も、ずっと扁平上皮だ。胃に届いてはじめて、扁平上皮は姿を消す。

耳の中も。鼻の中も。

膣の中も扁平上皮で覆われている。愛撫で細菌が体内に侵入しては困るだろう。

これらはすべて、外的刺激を跳ね返すために、扁平上皮で覆われている……。




ただ、実は、人体というのはさらに細かい調節を行っている。

それはどこかというと、「尿道」なのである。

尿道や膀胱は、言ってみれば「触手が届く臓器」である。だから本来、扁平上皮で覆われていなければ、外的刺激を跳ね返すことができないはずだ。

しかし、尿道と膀胱(ぼうこう)には扁平上皮はみられない。かわりに、「尿路上皮」と呼ばれる独自の機構を用意している。

なぜ?

人体のあちこちで、「外部刺激が加わりそうなところ」をやたらめったら扁平上皮で覆ってきたくせに。

なぜ尿道とか膀胱だけは、扁平上皮を使わないのか……?



答え。

膀胱は、尿をためてがまんする臓器だから、がんがんに伸び縮みしないといけないのだが……。

扁平上皮は、尿をためるために伸縮する袋(膀胱)をつくるには、「硬すぎる」のだ。伸び縮みしづらい。

皮膚をひっぱってみよう。ほっぺたでもいい、腕でもいい。

多少は伸びる。けれど、膀胱はこの程度の伸縮では困るのである。膀胱が皮膚程度の伸縮しかしなければ、ぼくらはもっと簡単に失禁してしまうだろう。

だから、「扁平上皮にはかなわないけど、扁平上皮に準じるくらいのタイトさを持っていて、かつ、横方向に伸び縮みする細胞」というのを、人体はわざわざ膀胱のために用意したのである。

これにより、扁平上皮よりちょっとだけ防御力が弱くなる。さあ、人体に何か悪影響があったろうか……?

実は、思ったより、なかったのである。理由は、尿だ。

尿は一方通行なのだ。腎臓から、尿管、膀胱と進んで、尿道を通って外に出される。この流れは常に一方向であるため、体外から細菌などが膀胱に入るには、「流れを逆流しなければいけない」。これがけっこうな手間だったのである。

そのため、扁平上皮ほどの防御力がなくとも、尿路上皮程度の防御力さえあれば、外的刺激からの防御は十分事足りたのだ。

膀胱のために用意した尿路上皮は、隣近所である尿管や尿道、腎盂にも張り巡らされている。すなわち、尿が接するところはすべて尿路上皮ということにしてしまった。

これで、基本的に、問題ないのである。人体というのは実によくできている……。




ただし。尿路上皮はやはり、扁平上皮と比べると、少し弱い。

そのため、尿の逆流が起こりやすい状態(尿道が短い女性とか、前立腺肥大によって尿が出づらくなった男性とか)や、全身状態が悪く、免疫が低下している状態では、外界からの刺激を跳ね返しきれなくなることもある。

これが、膀胱炎や尿道炎、腎盂腎炎である。




人体というのはとてもよくできている。だからこそ、複雑な機能を満たすためにさまざまに「分化(ぶんか)」した細胞の、弱みみたいなものを、病気というのはしつこく突いてくる。

逆に言えば、「ある年齢、ある性別、ある状態」である人がどのようなウィークポイントを持っているかをきちんと把握して、「城のここが弱いから、攻めてこられるとしたらここだろう」と予測できる医療者は、診断のスピードがとても速いのである。

2017年8月30日水曜日

札幌市中央区南5条西20丁目

難しい本をゆっくりと読んでいる。

この本の筆者はとても優しい。

「今の文章は、『あの本』が頭に入っているとスッとわかるように書いているんだよぉ」

そうか、そうなんだ! じゃあ「あの本」を読んでからにしようかな!

……とまでは、なかなか、ならない。ぼくは怠惰である。ひとつの本を読むために、前提となる知識を別の本から輸入してこなければいけないとき、申し訳ねぇ、申し訳ねぇと手刀を切りながら、スッとわかるはずのところをズッと読んでいる。



そういえば、符丁、という言葉もあるな。歌舞伎が怖くて見に行けない。宝塚も怖い。劇団四季でぎりぎりだ。関ジャニ∞は無理かもしれない。常連としての知識がないと楽しめない文化がとても怖い。怖いけど、楽しそうだ。

辛いけど、うまそうだ、のカレーの理論と似ている気がする。香辛料を減らしたカレーは甘くておいしい。そして、いつも思う、「いつかは本場の辛いカレーを食べてみたいなあ」。



ぼくはなんだかブログにときどきカレーのことを書いているんだけれど。

そこまでカレーに興味はないんだけれど。




札幌に、「ミルチ」というカレー屋があって、実家からは少し距離があったけれど、生活圏内だったのでときどき食べに行っていた。ここのカレーはうまい。ナンカレーをはじめて食べたのもここだ。

ナンカレーをはじめて食べるときですら、ぼくは激しいハードルを感じていた。もっと言えば、ぼくは若い頃、「店で飯を食べる」こと自体に臆していた。

ミルチに初めて行った日は忘れもしない20代のいつだったか(忘れとるやないか)、おっかなびっくり薄暗い店内に入り、フロアに庭石みたいに点在するテーブルのひとつに付いて、おばちゃんがメニューを取りに来るのを待った。

おばちゃんは言った、「いらっしゃいませ」

ぼくは答えた、「ど、どれがおすすめですか」

おばちゃんは目を少し開いてこう言った、

「上から順番でいいと思う(笑)」




ぼくはこの、「常連でない人間をうまく救うセリフ」に、人生の中で何度か救われている。




ツイッターをはじめとするSNSには符丁が多い。

SNS素人なのでよくわかりませんが、という言い訳からはじまるリプライをいただくこともある。

SNSは歌舞伎座みたいなもので、ある程度知ってからじゃないと楽しめない側面がある。

でも、ブログは、ミルチであったらよいなあと、ぼくは忘れもしない昨年の秋の確か9月か10月ころに、思ったのだった。忘れとるやないか。

2017年8月29日火曜日

病理の話(115)

「なぜ診断するのか」を考えないと、医療はいろいろわからなくなってしまう。



「診断? それはともかく治療してくれよ。治さなければ病院の意味がないだろう」

この考え方は極めて妥当である。患者が医療に求めているのはひたすら治療だ。ぼくら医療者だって、いざ自分が病院にかかることになれば、心の底から「早く治してくれぃ」という気分になる。

それが「普通」である。

ただし、医療の「普通」は、社会の文脈と共に少しずつ移り変わっている。

それに気づかないままではいられない。



かつて、ひとつの病気はそのまま、死への切符であった。

足にケガをすれば、歩けなくなり、正常の暮らしが遅れなくなり、ケガをした部位に細菌がつき、全身に回ってそのまま命を奪われた。

胃にできものができれば、それはそのまま大きく広がり、ご飯が食べられなくなり、栄養が奪われ、衰弱して死に至った。

関節リウマチは人の生活を著しく不便にした。ひとたびリウマチだと診断されれば、その中年はもはや老年と同じような生活をしているかのような気になり、自らの人生を悟った。

しかし、抗菌薬によって感染症が制御されはじめ、外科手術によって腫瘍の根治という概念が生まれ、さまざまな内服薬によって内科的疾患が「命までは奪われない」状態へと封じ込められるようになると、病気の概念もまた少しずつ変化してゆく。




かつて、ピンピンコロリという言葉があった。

ピンピンコロリはひとつの理想である。死ぬ直前まで病魔を意識せずに人生を謳歌し、あるとき心臓や脳の血管が詰まって本人も気づかぬうちにコロリと亡くなってしまう、江戸っ子でいうところの「粋」な人生……。じわじわ死ぬような病気はいやだ、死ぬならひと思いにやってくれ。

今でもこの死に方を望む人は多い。苦痛を伴った死を回避するための方策がほとんどなかった昔は、もっと多かった。けれど、現代医療では、人生のゆるやかな着地をある程度準備することが可能である。苦痛を軽減させながら、軟着陸するように「死を準備する暮らし」。

コロリと死んでは困るんだよな、と思う人だっている。




一病息災、という言葉もある。人間、ひとつ病気にかかると、病気をなんとかしようと病院にかかるが、その結果、他の病気に対する監視の目が強くなる。ぐうぜん他の病気を発見して、治療できてしまうこともある。

あるひとつの病気を持つことで、健康への意識が目覚め、医療の関与も頻繁になるために、かえって長生きできることもある、という、ライフハック。それが、「一病息災」である。





病気という言葉は、もともと、生死を予測するだけの言葉だった。死ぬか、生きるか。

しかし、今は違う。ある病気Aが、進行度B%であるという「現状」次第で、その後の人生があまりにも多彩に展開しうる。

もはや病気とは「終わり」を意味する言葉ではない。「今」を表す言葉だ。

死神というよりは背後霊。さらには、(一病息災のように)守護霊のような存在ですらありうる。



治療ができれば生? 治療ができなければ死?

たとえ病気を持ったままでも、病気とともに100年生きることができるならば、その病気は「治ってなくてもかまわない」。

生と死の中間に病気という状態があると考えることもできる。

「病気という状態は生を否定しない」。




そうなると医療のあり方も変わるのである。

キュア(病を完全に治癒させること)だけが目標ではない。

キュアと共に、ケア(病をもったまま、よく生かすこと)が、現代医療の根なのである。




「診断ばかりして、病気を治せない医者に、価値があるの?」という人々に、ぼくは沈黙する。

「病気の治らない人生に価値があるの?」という問いと同じ根を持つこの質問を、真っ向から否定できるほど、ぼくは子供ではない。その気持ちは、極めて妥当だからだ。

ただ、心の奥底で、静かにつぶやく。

「診断とは、死を推測するだけのものではなく、生の有り様を識ることなんだ。生を識ろうとすることに、価値がないわけがない……」。





今あなたがどういう状態にあるか。診断。

今のあなたをどう生かすか。ケア(維持)。

願わくば、悩みのタネよ、消えてなくなれ、なくなったらいいな。キュア(治療)。

誰もがキュアを望む。けれど、これからは、キュアと一緒にケアを考える時代だ。そして。

生か死かの二択ではない。

「どのような生か」を見極める、「診断」の価値を知ってほしい。




病理診断医は100%を診断にささげる職業である。だから、診断に価値があると唱えることは、ある意味手前味噌かもしれない。

それでも。

多くの人々にとっての医療が、いろいろわからなくならないように。

キュアとケアを見据えて、「なぜ診断するのか?」を考え続けることは、やはりぼくらの仕事だよなあ、と思うのだ。

2017年8月28日月曜日

グラとハム

カメラを買ったまま何も撮らずにいる時間は幸せである。

ああ、次、あそこに行くとき、カメラを持って行こう。そう心に抱いて過ごすことができる至福の時である。

これはなんというか、「将来を見て、うれしくなる」という感情だと思う。

反対に、来月頭には試験があるなあ、とか、来週はプレゼンを2回しないと、みたいに、将来を見てつらくなることも、ある。

これらの相反する気持ちは、もしかすると、「同じ脳の回路」に、「違う液体」を流し込んだだけの、表裏一体とも言える感情なのではないかな、と考えている。


同じ回路に違う液体を流すという表現は、さまざまに応用することができる。同じ方程式に違う数値を代入する、でもいい。ぼくはそういう、「なんらかの変換を行うシステム」というのに若干興奮するあぶない性質を持っている。

たぶん、「ブラックボックスの中を開いてみたいという欲求」よりも、「ブラックボックスの中を見ずに、何をぶちこんだら何になって出てくるのだろうという好奇心」のほうが、ちょっとだけ強い。そういう性格を持っている。

きれいな絵がくるくると移り変わる、万華鏡のようなものをずっと眺めていたい。自分がそのとき単純に、おっすごいなあ、何かが起こったなあ、思いも寄らないことになったなあ、きれいだなあ、とはしゃいでいられたら最高だ。


ただ、結局のところ、ブラックボックスフェチはそのまま、ブラックボックスを開けたり、あるいは作ったりする世界に、片足をとられる。中には興味はない、と言っておきながら、結局ふたを開けてしまう。もう引き返せない。

どんな法則を作ったら、どんな突拍子もないデータが出てくるのか。とても気になる。

どんな法則にのっとって、世の中が動いているのか。開けてみたくてしょうがない。

どんな法則を用意したら、自分の入れたモノから自分のほしいモノを取り出すことができるのか。考えるだけでわくわくする。



小林銅蟲「寿司 虚空編」を読みながら、そんなことを思っていた。

ぼくの回路にはもう病理学を流し込んでしまったから、数学を流したときのおもしろさはたぶん来世にならないとわからない。あるいは回路自体が全く異なるようにも思う。

それでも、読んで雰囲気を感じることができるなんて、ことばというのはほんとうに罪作りだと思う。ぼくは自分の回路と液体が世界に唯一の、最高のとりあわせであると、誰かにだまし続けていてほしかった。いいなあ、そっち、楽しそうで、うらやましい。

2017年8月25日金曜日

病理の話(114)

臨床医がやってきて、「研究会」の相談をした。


研究会というのは独特の文化である。


たとえば胃カメラ、たとえば腹部CT、たとえば超音波といった、「画像で臓器のなんたるかを見てやろうという検査」があるとする。画像にはさまざまに、病気の姿が映し出される。

ただし、その姿というのは、究極的にはかならず「影絵」である。そのもの本質までは絶対にみることができない。

医療というのはなんでもそうだ。心臓に詳しい医者が、心臓の病気を治すとき、心臓を取り出していじって治すことはできないだろう。「取り出して」しまってはいけないのだ。そこにあるがまま、胸の筋肉や脂肪や骨という障壁を乗り越えて、外から中を想像して、おもんぱかって、薬なりなんなりを投与して、治す。

医療とは基本的に安楽椅子探偵なのである。現場までは赴かない……というか、赴けない。あくまで遠隔地にいて、そのものがどうであるかを推理し、直接手を触れることなく、対策を施す。

「えっ、胃カメラだったら病気を直接見てるんじゃないの?」

「皮膚の病気なら直接見られるじゃん」

これもまた、一面の真実ではあるが、正しくはない。胃カメラで見えるのは、病気の表面だけだ。皮膚の病気だって、外から見た模様の違いしか、直接見ることはできない。

「中でどうなっているか」はわからないのだ。




だから、医療者というのは、常に不安である。

見てきたかのように診断したけれど、ほんとに合ってたんだろうな……?




これをなんとかしようというのが、いわゆる「画像系の研究会」である。

胃カメラ、腹部CT、超音波……。実際に患者さんに当ててみて、得られた画像を、主治医だけでなく、多くの医療者が眺めて、それぞれに意見を言う。ここにはこれが映っている、ここは見逃してはいけない変化ではないか、これはちょっと珍しい画像だなあ。

ここに、病理医も参加する。




病理は、病院の中で唯一、「実際に採ってきた臓器を見られるところまでとことん見尽くす」部門である。胃の病気だろうが肝臓の病気だろうが乳腺の病気だろうが皮膚の病気だろうが、手術で採ってきたからには、あるいは一部をつまんできただけであっても、表面、割面、内部性状、細胞のなんたるかまでとことん見てしまう。

つまりは画像で予測したものの「答え」的なものを提示できる、唯一の部門であるということだ。だから、たいてい研究会には「答え合わせの役割」として呼ばれることになる。

ただし……。




ピアノの音が聞こえてくる。ああこれはドとソの和音だなあとわかった人がいたとする。ドとソであると言い当てるだけではなく、実際に奏者がどの鍵盤を叩いているかを予測することができる。

画像から病気の正体を予測するというのは、これだ。

影絵を見て元の絵を当てる、みたいな単純な作業では、必ずしもない。

ドとソは、右手で同時に弾かれているかもしれないし、もしかしたらボールペンで押されているかもしれない、足の指で弾いているかもしれない、これらは音を聞いただけではなかなかわからない(わかる人もいるかもしれないが)。

病理というのは、この、「ああ、足で弾いているなあ」というのをずばり言い当てることができるのだが、往々にして、

「足で弾いてますねえ、まあ、どの鍵盤を押しているかはわかんなかったんですけど」

なんて回答を出すことがある。

臨床医は、ドとソという音を聴いており、病理医は、足で鍵盤を叩く姿を見ている。

……これらは、噛み合っているようで、噛み合っていない。

どちらがほんとうに、患者さんにとって大事な情報であるのかは、ケースバイケースである。「ドとソである」方が重要なケースが多いが、「足で弾いている」方が重要なケースだってあるのだ。




病理医が研究会に出る時、そこに求められているのは、「答え合わせをする」という役割では、ない。

ひとつのものを、下から見るか、横から見るか、それによって何か深みが表れないだろうか、という試みに参加するということである。

ぼくらは一つの打ち上げ花火を、瞬間の楽しみで終わらせてはいけない。

どこまでも見て、話していく。花火の残響がすっかり消え去って、煙もかききえてしまった後も、花火の写真を見ながら、あれはこういう花火だったんだなあ、と、どこまでもどこまでも研究していくのである。

2017年8月24日木曜日

Vガンダムのヒロインが定規をもちました

経口補水液「OS-1」の側面表示を見てみると、

「医師から脱水状態時の食事療法として指示された場合に限りお飲みください。医師、薬剤師、看護師、管理栄養士の指導に従ってお飲みください」

とある。ぼくは医師だけど、「指示されてない」から飲めない(ということになる)。あるいは、鏡に向かって、自分で自分に「飲め!」と指示していいものなのだろうか。

二日酔いの日にコンビニで買って普通に飲んでしまった。飲んだあとに側面表示に気づいて、あっやべっとなった。

杓子定規に、そういうことである。





昔、アゴにできた小さな粉瘤(ふんりゅう)を、うちの病院の皮膚科にかかって採ってもらったことがある。局所麻酔で10分くらいで採ってくれた。

粉瘤とは「できもの」であるが、厳密には腫瘍(しゅよう)ではない。詳しくは説明しない。まあ採ってしまえば安心、というか、ぼくの場合は、見た目的に困っていたのが気にならなくなる、くらいのものであった。

病院で体から採ってきたモノは、ほぼ例外なく、病理検査室に運ばれて、病理医が診断することになる。

ぼくは自分の体から採ってきた粉瘤を、自分で処理し、自分で顕微鏡で見た。

……ただ、ここで気づいた。たしか、医者というのは、自分で自分の診断をしてはいけないのではなかったか?



たとえばぼくが呼吸器内科医だったとして、自分にぜんそくやアレルギーの薬を処方することはできない。そんなことをしたら、ほしい薬をいくらでも手に入れられてしまうから、と言われている(たぶんほかにも理由はある)。胃薬とか頭痛薬のようなものも、自分で気軽に手に入れることはできない。睡眠薬もだ。

それは厳密なルールである。

ただ、病理医はどうなのだろう。病理診断はどうなのか。

病理診断とは立派に保険診療に組み込まれたシステムであるから、やっぱり自分の病気を自分で診断するのはまずいのかもしれない。

ほんとうは法律とかをちゃんと読むと書いてあるのかもしれない。けれどいろいろめんどうになって、ボスに診断しなおしてもらうことにした。

杓子定規に、そういうことを気にした。





「荒野の赤信号で止まるか」みたいな例え話をよく聞く。ぼくは荒野の赤信号を見たら止まるだろうか。

たぶん、電線がどこから引かれているのかが気になって、もう信号どころではなくなって、いつのまにか青信号になっているだろうな。

ルールを守ったときに出るアドレナリン、みたいなのがあるのかもしれないなあ、と思う。

「ルールに縛られたくない」みたいなことを言うやつはコドモだ。

ぼくはオトナだから、縛られても気持ちいい瞬間を探すのである。ちょっとニュアンスが変わった気がするが。

2017年8月23日水曜日

病理の話(113)

「病理医は客商売である」と感じる瞬間がけっこうある。



大学院を出て、今の病院に勤めてから、すなわち現場のいち病理医として働き始めてからは、その思いが非常に強くなった。

学生時代や大学院時代までは、病理診断とは「脳だけで働く仕事」であり、手技も処置もしないで、ひたすら顕微鏡と語り合う、沈黙のタスクだと思っていたが、実際には

・クライアントがいて
・何かを要求され
・プレゼンをして
・納得してもらう

という仕事であった。

クライアントとは医療者である。要求とは「この人の病気を詳しく知りたい」ということ。プレゼンとは病理診断報告書やカンファレンスでの説明である。




多くの医療者は病理医に言う、「患者を相手にしない仕事だから~」「患者を相手にしない仕事はいいよな~」「患者を相手にしない仕事でモチベーション保てるの~」……。

ぼくらは、患者と全く相対しないが、医療者を相手に仕事をしているのだ。心配には及ばない。





ただ、病理医の中にも、違う考えの人はいる。

「顕微鏡だけ見ていれば仕事ができる」と考えている病理医も実際にいる。

そういう病理医が勤める病院では、かなりの高確率で、

 ・臨床医が病理医に興味がない

 ・病理医も臨床医に興味がない

という、ウィンウィン? の関係が成り立っている。

それでも医療は回る。それでも患者は治る。

だから、ぼくは一概に、「人とのコミュニケーションを放棄した病理医は悪である」とは思っていない。




毎日おいしいものを食べなくても生きていける。

しょっちゅう楽しいテレビを見なくても暮らしていける。

どこかに旅行に行かなくても人生は続く。

病理医がコミュニケーションしなくても臨床は回る。





ぼくは、「患者とのコミュニケーションに自信がない人」に、病理医になってはどうかと勧めることがある。その人と話す。患者と話すのは辛いか、苦しいか、自分に合わないか、いろいろと聞いてみる。

最後に、「でもまあ、今こうして、ぼくと話す分にはそこまで苦しそうじゃないよね、あなたは」と問いかけてみる。

「まあ、患者でなければ、はい、それなりには。」

「だったら、あなたは医療者と会話する道を選べばいいように思う」





患者とのコミュニケーションと、医療者とのコミュニケーションでは、使うスキルが微妙に異なる。得意、不得意のありようも少し違う。

医療者とのコミュニケーションが辛い、というタイプの医者もいる。

ただし、ぼくは思う、顕微鏡をみて組織像とコミュニケーションすることができる人間であれば、きっと医療者とのコミュニケーションだって、たどたどしくも続けることはできるだろう、と。

上手じゃなくてもいいので、会話をしてほしい。

たまにでいいので、医療者と会話をしてほしい。





病理医は客商売である。ただしその客は身内である。比較的、寛容な身内である。

そういう世界があることを知っておいてほしい。医学部にいる、1%くらいいる、君のような人、早朝にツイッターのリンクからブログを見に来るような人に。患者じゃなくていい、医療者を相手に話せばいい、なんなら細胞や分子と語り合うのでもかまわない。

コミュニケーションは社会がいうほど一様なスキルではないということを、少なくともぼくは知っている。

他人の定義した「コミュニケーション」がへたであっても一向に構わない。

もっと広義のコミュニケーションを試してみてはどうか。

病理検査室ではそれができる。

2017年8月22日火曜日

夏を終わらせるなんて簡単だ ぼくはもう何度も終わりを見てきた

夏が終わってしまった。札幌の夏は例年以上に短かったように思う。もともとぼくが小さい頃は、お盆が終わるとスッと寒くなるのが一般的だったと記憶しているが、ここ数年、札幌でも残暑が感じられていたので、油断していた。まだ夏はあるだろうと信じていた。

夏が終わってしまった。

そういえば今年は、7月の頭くらいがとても暑かった。35度近くあった。本州のどこよりも暑い日もあった。春の終わりは暑かったのに、いざ夏になってみたら、短かったなあ。




……という書き方も、へんだな、なんかおかしいなあ、と思い始めたのが今である。




もしぼくが、カレンダーのない世界に暮らしていたら、今年の夏はちょうどよい期間続いていたのではないだろうか。

「札幌の7月上旬は、まだ夏ではない」という固定観念のせいで、せっかくの夏日を夏っぽく過ごせなかった。

「札幌のお盆ころに寒くなったら、もう暑い日はそうそう戻ってこない」という固定観念のせいで、お盆が終わったら自動的に夏も終わった気分になってしまった。




カレンダーのない世界だったらな。

今が何月なのかよくわからない。何月、という概念もない。曜日もないだろう。誕生日もわからなくなる。

何日か働いて、疲れたら休むことにする……でもいいけれど、それだと自分の休むタイミングがばらばらで、客に迷惑をかけるから、いちおう定期的に休むようにはしたい。

カレンダーはなくとも、7日おきくらいのリズムであれば、まあ忘れずにはいられるだろう。

季節についてはすごくあいまいになるに違いない。

思えば最近は半袖だとちょっと寒いなあ、と感じたら、その日をなんとなく秋と呼ぶことにする。

秋だと思っていたけれど今日は妙に暑くてジャケットを着ていられない、と感じたら、その日だけは夏の再来と認定しよう。

それが何月であっても、である。

ぼくは、ちかごろ、ほとんど盲信していたのだ、カレンダーを。

「8月なんだから夏だよな」

「12月と言ったら冬だよ」

「今日はたいへん暖かく、7月下旬なみの気温になるでしょう」みたいな天気予報のおねえさんのセリフ。これでもう、聞かなくて済む。

季節はその日、感じたままを言う事にしよう。

今日は夏だなあ。

昨日は冬だったね。




誕生日が覚えていられなくなるのは少し悲しいかも知れない。亡くなった祖母のように、「わたしの生まれた日はだいたい雪がつもりはじめる日でねえ」などと、生まれた日と季節を感じさせる出来事とが重なっている人であれば、自分の生まれた季節をなんとなく感じることができるだろう。

ぼくの誕生日には、そういう、季節の変わり目的な何かはないと思うから、たぶん、自分が生まれた日がいつ頃なのか、だんだんわからなくなってゆくだろうな。

何か、誕生日のころに咲く花でも勉強しておこうか。

桜が咲いた日に生まれた人のことが少しうらやましくなってくる。

桜が散る日であってもいっこうにかまわない。





日本は四季がはっきりした国だから美しい、というのは、ちょっと微妙だなあと思う。

秋になればテレビのアナウンサーが「今日は夏のような暑さでした」と言う日が必ずあるし、春になっても気象予報士が「今日は冬に逆戻りです」と言っていたりする。

四季ははっきりしてないのだ。はっきりしているのは、カレンダーのほうだ。

日本はカレンダーがはっきりしている国だから美しいのです、なら、まだわかる気がする。

そうだ、ぼくは、しっかりかっきり決まっているものの中でぬくぬく過ごすのが、美しいと思っていたふしがある。





今日感じる限りでは、夏は終わってしまったように思う。

けれどまだ暑くなるかもしれない。夏はいつでも戻ってくる。

2017年8月21日月曜日

病理の話(112)

レゴブロックが無数にあったら、人間の形をきちんと再現できるだろうか。それはもちろん、できるだろう。

実際、レゴのお祭り(?)みたいなのに行くと、恐竜とか自動車とかエッフェル塔みたいなものを、レゴでうまいこと作り上げている。お城なんかも見る。あれはすごいよね。

ところで、外面の輪郭だけではなく、内臓まで作れるだろうか。

細かく、細かく、細胞の配列まで。

レゴブロックが無数にあれば、あと、広い広い作業スペースと、根性があれば。きっとできるだろう。

だから、今から、爆裂に広い体育館と、無数のレゴブロックと、自由に動かせるクレーンリフト(作業用)、すごく性能のいい接着剤、その他、ありとあらゆるインフラを各自の脳内で準備してもらいたい。

準備はよろしいか。




作業を始める前に。やたらめったら端から順番に臓器やら血管やら心臓やらを作る前に。

どのような形が「頻繁に登場するか」ということを考えておくと、レゴブロックを準備するときに、ラクで良い。

レゴの達人は、あらかじめ、パーツをきちんと小分けする。色とか形とか機能ごとにまとめて、工具箱のようなものにしまっておく。

その方が効率もよいし、必要な形をスバヤクつくることができる。

だから、我々も、「人体を作る上で、何度も使いそうなパーツ」をきちんとより分けておこう。




人体の中で、もっとも重要、かつ、しょっちゅう登場する構造というのは……

・パイプ

だ。

血管はパイプである。リンパ管というのもある。食道もパイプだ。尿道だってパイプだ(カットという言葉もあるだろう)。胃もふくらんだパイプ。乳管だって、尿管だって、胆管だって、精管だって、その名の通り管である。

パイプばかりなのだ。人体は。

それと、もうひとつ大切なのが、

・プレゼントボックス

である。中から水とか粘液とかが出てくる。

臓器というのは、たいてい、これらの組み合わせで作られている。

本物の人体には、ほかに、筋肉とか脂肪、そして神経があるんだけれど、レゴのように「動かさず、飾って楽しむもの」なら、神経を電線のように張り巡らせるのはパスしてよい。脳のあるべき場所にはパソコンでも叩き込んでおこう(ニューラルネットワークとはシャレが効いている)。筋肉や脂肪もハリボテでよかろう。



プレゼントボックスにはふたがついている。ふたが空く場所は基本的に1箇所だ。横とか下は空かない。

プレゼントボックスを横にならべて連結させる。そうすると、まとまった量の水とか粘液とかが出せる、「噴出口」ができる。

噴出させっぱなしでは、そこが噴水みたいになって終わりだ。だから、出てきた液体をパイプに集めて流す。目的の場所へと流す。

肝臓にあるプレゼントボックスは肝細胞という。パイプは胆管だ。プレゼントボックスから出てきた液体(胆汁)を、パイプに流し、パイプはそのまま十二指腸という大きなパイプに接続される。

乳腺にあるプレゼントボックスは乳腺腺房(せんぼう)細胞という。パイプは乳管だ。プレゼントボックスから出てきた液体(乳汁)を、パイプに流し、パイプはそのまま乳頭に開口する。

腎臓では少々複雑なことが起きている。パイプとしてまず血管がある。血管は細かく枝分かれしながら腎臓に入り込み、パイプに空いた細かい穴がボックスと接している。ボックスの中に、血液の中に入った不純物、いらないゴミが置いていかれる。プレゼントボックスというよりはダストボックスである。ダストボックスは、もう1種類のパイプ、すなわち尿細管(にょうさいかん)と呼ばれる管とも接続していて、こちらの管にはゴミをプレゼントする。尿細管は集合管に流れ込み、集合管は腎盂に流れ込み、腎盂は尿管に流れ込み、尿管が膀胱に接続し、膀胱が尿道にくっついて、最後は液体(尿)が体外に排出される。



人体ってのはつまるところ全部これなのだ。

やりとり、流れ、運搬。

つまるところ、なんて書いたが、「詰まって」しまっては大変なのである。

心筋梗塞: 心臓のパイプ(冠動脈)が詰まる病気

脳梗塞: 脳のパイプ(動脈)が詰まる病気

尿管結石: 尿を通すパイプ(尿管)が石で詰まる病気

胆嚢結石(たんせき): 胆汁を溜めるパイプ(というか袋)(胆嚢)が石で詰まる病気

これらは全て痛みを伴うし、ときには命にかかわる。



人体、特に内臓を作るときには、パイプとプレゼントボックスをうまく組み合わせることが肝要である。というか、それ以外あまり考えなくていい。

2つ並んだプレゼントボックスの、ふたとふたがくっついていたら開けられないだろう。

だからプレゼントボックスを並べるときには、ふたはみんな同じ側に揃えておこう。

パイプを試験管の形(盲端)にして、はしっこのあたりにプレゼントボックスのふたをいっせいに開口させたら、試験管は噴出口になるだろう。

パイプの角度をあまり頻繁にいじってしまうと、ねばねば粘液を運ぶときに詰まってしまうから、自然界の川のように自然な鋭角で流れ込むようにしよう。

プレゼントボックスを直接太いパイプに開口させると、太いパイプからの逆流でボックスが壊れてしまうから、なるべくパイプを枝葉のように分岐させて、プレゼントボックスは枝の一番先のあたりに開口させよう。

……レゴか、マイクラか、という感じで、このように、パイプとボックスの配置を考えて考えて、考えまくる。




考えた先が、人体なのだと、思っていただいて結構である。

だから解剖学とか組織学を勉強すると、あまりにうまくできた人体の仕組みにほれぼれすることになる。このレゴ作った奴すげぇなあー。