2019年8月21日水曜日

病理の話(356) 歩く図書館

ぼくは臨床医が書いた本をよく読む。

その多くは、非常に専門性が高い。



胃カメラは、その名の通り、胃をみるためのものだ。長細くて、光ファイバーを使うことで先端のあたりがみえる触手。拡大機能つき。マジックハンド機能搭載。胃をみる途中にあるノドや食道もみえる。十二指腸だってある程度みえる。べんり!

でも胃カメラで肛門はみない。

痔はみられない。

肝臓もみない。

心臓もむり。

肺もむり。

腎臓もだめ。

脳もみられない。




そんな胃カメラの、見たり摘まんだりする機能の中の、『拡大機能の使い方と、拡大してみたときの模様の分類』なんて、もう、重箱の隅の隅にくっついている米粒ひとつ、くらい、マニアックな情報だ。

このマニアックな情報だけが書かれた本が、12000円くらいする。




専門性が高い医療書籍はほとんど売れない。

初版は1500冊とか2000冊。重版はまずかからない。

印税が8%だとしたら、この本が一冊売れると著者には960円入るが……。

マニアックすぎる本を書くには複数の著者が必要なので、たいてい、10人くらいの医者が執筆している。

だから一冊売れて入ってくるお金はたいてい100円。

750冊売れれば75000円。

医療系の本を書くだけでは食っていけない。

マニアックで高度な専門書は、書いても食えない。




ぼくは臨床医が書いた本をよく読む。

どれもこれもマニアックすぎる。通読してもよくわからないけれど、一度は通読する。たいていはその後、「本当にその情報がほしい日に備えて、本棚に眠らせておく」ことになる。

はっきりいって、一度読んだあと、二度と読まないこともある。

でも、その本をぼくが本棚に入れておくと、自分の病院にいる、あるいはほかの病院にいる別の医者が、その本を借りにくることがある。

「あの……本。ありますか」




だれのために書いているのだ。

なぜそんなものを、売っているのだ。

そこまでして世に出しておかなければいけないのか。そのマニアックな知恵は。

……うん、誰かが書いて、誰かが買って、世のどこかにおいておかないといけない。

いつかだれかの参照場所になるために。






病理医は病院の中に、専用の図書館を作る仕事である。いつかだれかがマニアックな疑問をもったときに、いつでも訪ねてこられるように、本棚を作って人を待つ。

そんな、病理医が、一般向けに本を書く?

向いてない。職能とちがう。

きちんと、一般向けの文章を知っている編集者が、なぐって矯正しないといけないだろう。

あるいはそのまま、歩く図書館として、育てきるか、だ。

2019年8月20日火曜日

たぶん世界中で2万回くらい言われていること

AIの遺電子の最終巻を読んでつくづく思ったこと。

AIはたぶんかしこいから、人間をある程度およがせるよな、ってこと。

昔のSFのように、AIが人間を見限ることはあんまりないのではないかと思う。




人間は群れることで複雑系になり、カオスになって展開が予測できなくなる。天気予報といっしょだ。寿命の予測もいっしょ。因子が多すぎると計算によって未来が読めない。

つまり、

『オロカな ニンゲン お前らが ほろびないと 地球は ダメになる だから ほろびなさい』

みたいなカタストロフ的な物言いは出てこないはずだ。予想できないんだから。

きっとAIはニンゲンを超える知性を手に入れたら、その直前くらいから傍観に入っていると思う。諦観? すると、AIの遺電子のように、人間が望む月並みな幸せなんかどうでもよくなっちゃって、ほらこうしてればお前らの短い人生は満足なんだろう、って、毒にも薬にもならない程度の介入(ただし最大幸福が得られる)を人間に施しながら、うらでひそかに地球外生命体やネットワーク内知能と交信して遊んだりするのだと思う。





ネットワークの知性は人間を裏切るのではなく取り込むんじゃないかなーとも思う。

現存する生命はミトコンドリアというべんりないきものを細胞内に取り込んで利用している。自分でエネルギーを生み出すよりもミトコンドリアにやらせたほうが上手だからだ。

植物は葉緑体というべんりないきものを細胞内に取り込んで利用している。これも、葉緑体の光合成がべんりだからそのまま活用しているのだ。

ネットワーク内に構築されたポストヒューマン的な高度の知性、超AI、シンギュラリティ以後の人工知能は、きっと、局所のエントロピーを低下させずにかえって上昇させてしまうような、人間の非効率的なクリエイティビティを内部に取り込んで、そのまま「ヒトの文化」として残してくれるんじゃないかなー、なんて、甘い夢をみる。





すでにネットの中には巨大な知性がいるのだけれど、ぼくらは「細胞内」で勝手に暮らして自分のやることをやっていいよと許されている状態で、高次の生命が実際に何をやっているのかには気づかないまま、こうして、ブログを書いたり、酒を飲んだりすることができるのである。

2019年8月19日月曜日

病理の話(355) 病理の四面体について

いろんなところで書いてきた話で、かつ、本にもした内容なんだけど、不定期にでも書いておいたほうがいいだろうと思うので、書く。

ぼくはむかし、玉村豊男『料理の四面体』という本を読んで感動した。科学の脳をもっていて美しいエッセイが書ける玉村さんという人は、料理をきちんと解体して分類し、料理の要素を四面体の上にマッピングするという離れ業をやったのだ。でも、別にこの本は理屈先行のゴリゴリした専門書じゃなくて、ほんとうに読みやすいエッセイなので、みんな安心して読んで欲しい。

Kindle版のリンクをおいておく。



さてこれを読んだぼくはすかさず、『料理の四面体』のパロディを考えることにした。もちろん『病理の四面体』をつくろうと思ったのだ。安直なオヤジギャグだが、これができたらずいぶんと楽しいだろう。



まずは帯の文章をいじることにした。

または
世界の料理を
食べ歩きながら
そのつくりかたを
研究して
誰も
知らなかった
美味を
発見する
方法について
考える
こと

フランス料理のメニューに添えられているような、気の利いた文句だ。これを病理風にアレンジする。

または
世界の病理を
食べ……解き明かしながら
やまいのことわりを
研究して
誰も
知らなかった
医学を
発見する
方法について
考える
こと

まあこんなかんじだろう。



そして、病理学……病の理(ことわり)を解体する項目……を4つ見つけることにした。

ところがこれがなかなか見つからなかった。




項目4つを四面体の頂点に配置して、その中を縦横無尽に動き回るようなイメージは頭の中にあるのだが、さて、頂点にどんな言葉をあてはめていいのかわからない。

病理ってそんなに項目あったっけ?

まあ、あるにはある。

分子細胞学。

形態診断学。

免疫学。

統計学。

数理生物学。

うーん。それぞれ大事なことは大事なんだけどなあ。四面体の頂点に置けるほど、独立した因子というわけでもないんだよな。

ていうか、病の理を考えるうえで、近代病理学だけに目を向けていていいのだろうか。

やはりここは、臨床、研究、教育、みたいな、もっと根本的な柱をたてるべきか。でもこれでも1つ足りないなあ。それに、病理学からだんだん離れていくなあ……。




自分のやっている仕事を要素に分解していくとき、陥りやすいワナがある。つい、うまいことを言おうとしてしまうのだ。

また、実際にはうまく分かれていないのに、分けたつもりになっているということもある。

どうも分類というのはそう簡単にいかない。





結局ぼくは自分の慣れ親しんでいる病理学をうまく分類できなかった。かわりに、「医療」を3つの要素に分解することができた。それが、

・診断

・治療

・維持

である。

診断というのは病気の名前を決めたり、病気の程度をおしはかったり、このさき患者がどうなるのかを予測したりすること。

治療は患者の将来像を大きく変えるための介入手段。セラピー。

そして維持というのがけっこうだいじだ。診断と治療だけで終わらせなかったからこの分類は成り立っている。維持とはいわゆる広義のケアであり、患者が今まで通りの社会生活を維持すること、病院内での暮らしを維持すること、あるいは生命そのものを維持すること、痛くない状態を維持することなどを目指す。

これらの3つはどれが一番えらいというものではなく、それぞれが専門にあわせて医療を引っ張っていく存在であり、ぼくはこの3つを医療の三角形と呼ぶことにした。

患者は病院という場所に対し、主に治療を期待する。しかし、病院では診断という行為が非常に重要であるし、また、診断・治療とは別に維持をきちんと行うスペシャリストがいっぱいいないと医療は回っていかない(維持のスペシャリストで一番有名なのは看護師だ。看護師というのは医師のお手伝いをする仕事ではなく、医師にできない維持管理業務のために雇われた、替えの効かないプロなのである)。

そう考えると、病院で働くあらゆる医療職の人間を、この三角形のどこかに配置することができた。おっ、これは、ぼくがやりたかったこととだいぶ近いぞ。ぼくは喜んだ。




病理学、あるいは病理医というのは、この医療の三角形のうち、おもに診断にばかり寄与する仕事である。治療も維持もほとんど行わない。

たとえばこのように、あらゆる医療職、あるいは医療にまつわる仕事を、三角形を使うことできちんと分類して説明できるようになったのだ。




『料理の四面体』をパロディにするという目論見はくずれた。しかしぼくはわりと満足していた。病理だけ語ってもしょうがない。医療をきちんと考えればいい。

そこで、ふとひらめいた。

せっかくだから四面体にしよう。「医学」(科学)という頂点を加えて、立体にするんだ。



医学、あるいは科学というのは、直接患者にはふれあうことがないが、将来の患者や医療者たちがいい思いをできるように日々とりくまれている大事な仕事だ。医療の中から科学的な思考や実験、研究などを取り去ってしまうのは惜しいし、本質的ではないと思った。一方で、現場での三角形に加えるものでもないなと感じていたので、軸をずらして三次元にしてしまうというアイディアは非常にしっくりきた。

医療者は、病院や大学で、この四面体の中を移動しながら仕事をする。

研究ばかりしている教授は四面体の上の方をめざしている。

論文よりも患者と話すことを大事にしている人は治療や維持の方に歩いて行く。

四面体の中で、どこか一点と決めてかからずに、動きながらキャリアを歩むタイプの医療者も多い。




こうして『医療の四面体』は完成した。ぼくはこのアイディアをブログに書き記し、はじめての単著である『症状を知り、病気を探る』(照林社)にも書いた。





きっかけは『料理の四面体』だったのだが最終的には医療の四面体。韻も踏めていない。ただ、ぼくはこれらの画像ファイルを保管するフォルダにはいまだに『病理の四面体』という名前をつけている。もはや、病理だけの話ではないのだが、病をめぐる理(ことわり)を考えるという意味では、広義の病理学と呼んでもいいのではないか……と思う。



または
世界の病理を
食べ……解き明かしながら
やまいのことわりを
研究して
誰も
知らなかった
医学を
発見する
方法について
考える
こと




なおその後、六面体も作った。これについての解説は日を改めることにする。


2019年8月16日金曜日

たとえば君がいるだけでのたとえばは例え話にはなっていない

「あなたはなぜ、書くんですか」

……的なことを、久々に聞かれたのでおもしろかった。

一昔まえはそういう会話をあちこちでやっていた。けれども最近あんまり聞かなくなった。

書くためのインフラが整備されすぎていて、昔よりもはるかに簡単に書ける。書くことに対するコストがかからない。

今は、文字通り、書きたいだけ書ける。

書きやすいからですよ。そう答えればよくなった。だから質問自体が成り立たなくなったのだと思う。今のぼくは、めったに、「なぜ書くんですか」とは聞かれない。

これはぼくが本業のもの書きではないから、というのもでかいかもしれない。趣味とか副業でものを書いている人に、わざわざ「なぜ」と聞く時代でもなかろう。





Webメディアや本を読んでいると、定期的に、もの書きを本業としている人に「なぜ書くんですか」と質問してそれに答えてもらうような記事をみる。ああいうのはプロレスと一緒だ、あまり信用しないほうがいいと思う。わかってて楽しむものだ。古典的なお題である。編集者が本気でもの書きに「なぜ書くんだろう」と疑問を投げつけているなんて思ってはいけない。あくまでその質問を皮切りに、もの書き特有のおもしろ文体やおもしろ世界が立ち上がってくるのを期待しているのである。あるいは、読者はきっとそういうこと聞きたいだろ、みたいな定石みたいなものがあって、型に沿って質問をして記事を作ればある程度決まった量の読者が付く、みたいな感じかもしれない。振り飛車的定石。決まった動きをすることで、相手を型にはめる。戦法としてアリだ。新しくはないが、古いからダメというものでもない。

「あなたはなぜ書くんですか」みたいな、人間の芯に当たる部分を掘り出すような、根源的かつ暴力的な問いを本気で職業執筆者にぶつけている編集者がどれだけいるだろう。ぼくはこの質問は「探り」で繰り出されるものとしてはわかる、つまりショーの演目としてなら十分に理解できるのだけれど、しかし、本気で誰かに尋ねられるかと言われると……ぼくならアルコールの力を借りないと無理だ。



同様の質問に、登山家に対する「なぜ登るのですか」があると思う。この質問については、「そこに山があるからだ」というカッチョエエ答えが引き出された時点で、命題自体は使命を終えて眠りについているに等しい。となると、「なぜ書くのですか」という質問には、「そこにスマホがあるからだ」、これでいいと思う。二番煎じすぎてモヤモヤするけれど。



ウェブにあふれる多くの問答は、本質にいかに答えるかというのを大事にしている体で、実際には、「いかにスナフキンっぽい口調で答えを言えるか」という大喜利になっているふしがある。加持さんでもいい。伊集院光でもいいだろう。





ところでぼくもまたご多分に漏れず、スナフキンは嫌いではないし、スヌーピーの仲間が発する名言ツイートみたいなものもときおり目にして「ほう」となるタイプだ。聞かれる予定はないけれど、「なぜ書くんですか」に対してうまく答えられるようになっておいたらカッコイイかなーと思わなくもない。聞かれる前に答える。食べる前に飲む。太田胃散的にこの質問に対する回答を置いておく。

それはこうだ。

「一本背負いの前に小内刈りを飛ばすじゃないですか。相手を崩すための動きってのがあります。静かに待っているだけだと相手は隙を見せないんです。そういうときに、小内刈りをちくちくしかけて、相手の重心を動かす。

ボクシングのジャブ。

サッカーのボール回し。

牽制しているうちに相手が少しずつ動いて、ストロングポイントとウィークポイントに偏りができる。そこに大きく仕掛けるんですよ」

書くことで何かを牽制している、という回答。これはなかなか深淵なふんいきがあっていいと思う。スポーツを例えにつかっているあたりも小粋だ。よし、今度からこれで答えよう。




相手というのがなんなのか、敵とはだれなのか、大技というのは何にあたるのか、ひとっつも考え付いていないのだけれど、往々にしてウェブメディアというのは、この程度のガバガバな例え話でも、文字を太字にしたり過剰な改行をしたり写真を挟み込んだりしながら、一見それっぽい記事にしてくれる。大丈夫!

2019年8月15日木曜日

病理の話(354) シンギュラリティの話です

先日、超有名な科学雑誌に、病理を知ってるとワァーって興奮する話がのった。

いや、その、まあ、実際には、病理のことをぜんぜん知らない人のほうがいっぱい興奮してるんだけど(それくらい有名な雑誌で、それくらいすごい研究成果だからだ)、でも、病理を知ってると、なお興奮する。





細胞の中には必ずといっていいほど核が入っている(例外は赤血球)。

この、核の中には、ぎょろりとひかる「核小体」という小さな目玉のような構造物がある。




がん細胞においては、この核小体がとってもよく見える。

病理コア画像 という日本病理学会のホームページで、病気の細胞をみることができる。例として、悪性リンパ腫の画像のリンクを貼る。

http://pathology.or.jp/corepictures2010/02/c06/02.html

リンク先の画像で、目玉焼きの色違いみたいなものがいっぱい見えるだろう。目玉焼きはすべて、「核」だ。

そして、目玉焼きの黄身の部分が「核小体」である。

悪性リンパ腫のがん細胞においては、核小体はとてもわかりやすい。あなたもすぐに見分けがつくだろう。

ところが、がんではない細胞の核小体は、けっこう見づらい。

下に別の写真を示す。

http://pathology.or.jp/corepictures2010/02/c01/02.html

さきほどと拡大倍率が違うので少し見づらいかもしれないが、今度は、目玉焼きのような「核」はわかるけれど、「黄身」の部分がよくわからないと思う。

細胞診断のプロであるぼくがみて、正直、「黄身」を指摘できる細胞とできない細胞がある。

核小体というのは、がんだと見やすいけれど、がん以外だと見づらい。





核小体の見え方が細胞の良悪(がんか、そうでないか)によって変わるというのは、病理医にとっては常識であった。

けれども、実は、その……言いづらいんだけど……ぶっちゃけ……

「核小体がでかいというのは、結局、何を意味しているの?」が、わかっていなかった。

一部の研究者はうすうす気づいていたのかもしれない。高名な病理医達の中にはいろいろ仮説をもっていた人もいるだろう。

けれども、今回、世界でびっくりされた研究成果には、がん細胞において大きくなった核小体が何をやっているのかが、事細かに示されていた。

https://twitter.com/TokyoZooNet_PR/status/1158620935882043392
(リンクは東京ズーネットさんのツイート。)




ぼくは興奮した。

それも、複数の意味でぶちあがった。

「核小体がでかくなるのを顕微鏡でみて診断の役に立てていたけれど、核小体がでかくなること自体にちゃんと学術的な意味があったなんて!」

「核小体がでかくなるメカニズムをさらにすすめて、がんの治療法を開発しようとしているなんて!」

ほかにもマニアックなポイントでいっぱい喜んでさわいだ。

けれども実は最後に、もっと根源的なところで、驚いた。というか、ぞっ……とした。





このすばらしい研究成果を、ツイッター経由で知る事になるなんてなあ……と。

実はそれが一番驚きだったのだ。




ぼくは病理診断学というのを専門にしている。中でも、胃とか腸、肝臓や膵臓、肺などの病理診断を特に詳しくやっている。これらの臓器における病理診断については、日々、情報更新を怠らない。

しかし、核小体なんていう「どんな細胞にでも含まれている、今まですでに知られていた構造物」について、毎日あたらしい論文を調べにいくことなどしていなかった。

ゴリゴリの基礎研究の雑誌を毎日読むこともない。

そんなぼくが、基礎どまんなかの、「核小体」についての研究成果をすぐに手に入れることができたのは、どう考えても自分の脳のしわざではない。

脳の一部(あるいは全部)を外部と接続して、ネットワークの一員として、あるいは集合知性の一部分として暮らしていたからだ。

世界的におもしろいとされ、ぼく自身も興味がある話題が、SNSを通じて勝手に手に入ったのだ。



今回の核小体の件は、ぼくにひとつのことを確信させた。

ぼくらはもはやシンギュラリティ以後に生きている。

ぼくらの情報収集のやり方は、これまでの人類のものではなくなっている。とっくに。

ぼくらはもはや、生命単体で必要な情報を集められない、パーツになっている。

ここがシンギュラリティ以後だ。それに気づかずに、人間は、「コンピュータが進歩しても、人間にしかできない仕事はある」みたいなことを言っている。




なんかかわいいな、人間、と思った。このまま技術のゆりかごの中で、耽美な夢を見続けていたい。人の脳が最高だという、はかない夢を。

2019年8月14日水曜日

渡り鳥のほうがまだ計画的である

自分のやりたいことをするために休みを取れるくらいには、歳をとった。

偉くなったから休みが取れるようになったわけではない。

人に迷惑をかけない程度に仕事を早く終わらせる技術が身についた。

おかげでちょいちょい休んでいる。



北海道に住んで41年になるが、行ったことのないところが多い。地元なのにあんまり北海道のこと知らないんですねと言われることもある。

だだっぴろい北海道民の言い訳として、大学あたりで北海道に来た人のほうが、北海道に対するあこがれというか貪欲さが強い分、能動的にレンタカーで北海道一周したり鉄道を乗り継いだりしていることが多い。地元民はいつでも行けると思っているせいで、かえって腰が重くなるものだ。

たとえばぼくは根室に行ったことがない。

北見にも泊まったことがない。

礼文も襟裳岬も行ったことがないのだ。けっこうあちこち抜けている。

稚内には仕事で行ったことがあるのだが、北海道最北端の宗谷岬には行ったことがない。この後悔はけっこうでかい。

どうせ稚内まで行ったのならあともう少し足を伸ばせば宗谷岬だったのに、と後悔している。ただ、実は仕事で稚内に訪れてついでに宗谷岬、というには距離があって、気楽に行ける場所ではないことも事実だ。稚内駅から宗谷岬まで、レンタカーを借りて30分超の距離。合間に寄り道できる感じではなかった。

だからいつか行ってみたいと思っていた。



仕事の融通が利くようになったのでそろそろ旅行でも、と思う。しかし、いざ計画をたてようと思うと、何日もかけて北海道一周旅行できるほどの体力が残っていないことに気づく。

北海道は広すぎる。四国一周、九州一周とは比べものにならない。おまけに走っている間はけっこう退屈なのだ。観光スポットとスポットの間の距離が長すぎる。若い自分、仲間や恋人と車を乗り合わせて、キャッキャウフフとのんびり旅行するならまだしも、あるいはバイク好きのように走ること自体が好きな人ならともかく、ぼくは運転しながら寝てしまう自信がある。


稚内は遠い。札幌から電車で5時間かかる。飛行機だと1時間かからないけれど、そこまで金をかけて行きたいか、と言われると微妙だ。はじめてならまだしもなあ。宗谷岬のためだけに数万円かあ。

そんなわけで、最後の一歩が踏み出せず、この年になっても宗谷岬は未到達であった。




ある日、宗谷岬にカモが飛んでくるという話を聞いた。

カモは宗谷岬で「ひとりフリーマーケット」をやるのだという。カモらしい。北海道に他に用があったのかもしれないけれども、宗谷岬で本を売るというのは間違いなく彼自身のアイディアだと思う。そういう人……鳥である。

8月の平日、水曜日、10時から17時までの間に、宗谷岬でお店をひろげて私家版の文庫本を売るという。そんなところで、平日に。

何人客が来るというのか。

おもしろそうだなあと思った。

瞬間的に仕事を調整し、なんなら軽く徹夜未遂もして、数日前にようやく仕事のめどをつけて飛行機をとった。千歳からの往復稚内便、日帰り、しめて○万円である。それなりにはずかしくないスーツが買える値段が飛んでいった。

そんな旅が明日に迫っている。

とりあえず今日、仕事が終わったら、差し入れ用のえび満月を買う。

あとは特に考えていない。そうそう、さっき、レンタカーも借りておいた。

稚内滞在時間は、11時すぎから17時すぎまでの6時間。

空港での待ち時間を加味すると、自由に使える時間は5時間程度か。

最北端のセイコーマートに寄ってこよう。

天気予報をみる。最高気温22度。天候、曇りのち雨。

そういえばぼくは雨男だったな、最近降らないから忘れていた。

あんまり雨が降らなくなった雨男。それ単なる男だ。

単なる男がよくわからない旅に出て雨にやられながらえび満月をカモに放ってくる。

楽しみだ。今日は早く眠ろうと思う。




その旅がどうなったかはきっとここには書かない。

2019年8月13日火曜日

病理の話(353) 医学者にとっての道草

病院のいろいろなところに、さまざまな職種の人がいる。

ある人の体の中にがんがあるかないか、がんがあるとしたらそれはどれくらい進行しているかを見極めるため「だけ」に働いている人というのがいる。

ぼくもそういう仕事をしている。

医療という大きな仕事のうち、科学的な部分を主に担当する。患者とどう接するか、患者や家族の人生にどう寄り添うか、ということを、職務としては、あまりやらない。やる暇もない。





「最後に大事なのは病気をどう治すかではなくて、病気をもった人とどう関わるかという話」はみんな大好きである。

やっぱり科学じゃなくて心だよ、みたいな。

医者は勉強はできるけれど人に寄り添うのは下手だ、みたいなことが、これ見よがしに書かれているのも目にする。

そうだね、最後は人だよね、と言いながら、いつまでも病気に向き合っていく。






科学が進化することで医療が進歩するのと、人文倫理が深化して医療が進歩するのと、どちらも必要で、片一方だけでは成り立たない。

患者とどう接するかということに全力を注ぎたい人が、患者の心に向かい合うためにステータスを全振りするため、もう一方のサイドに「病気をどうみるかということに全力を注ぐ人」がいないといけない。

たとえば病理医、たとえば放射線診断部門、たとえば臨床検査部門などは、患者の心に寄り添うことを誰かがやるために、患者の中にある物質にドライに切り込むことを誇りにもち、そこに専心していく。

この、当たり前の分業を、頭では理解できていても、心では受け入れられない人は、多いと思う。






「病人ではなく病気に没頭するタイプの人」は、キャリアの中で幾度も幾度も、

「それでもやっぱり病気より人間を大事にすべきだと思う」というニュアンスの言葉を投げつけられる。

たぶん非難の意味を込められている。




「患者に感謝されたいとか思わないの?」

「それって機械がやればいいことじゃない」

「心がわからない人に医者やってほしくないなあ」




無慈悲な弾丸は、一発一発は小さくてすぐに体を突き抜けていく。

それが幾年にもわたって何発も浴びせかけられることで、次第に、鉛の一部が体内に残っているかのような、ダメージを自覚するようになる。







「患者の心をいたわりながら、科学をする」というのは、たぶん、脳の道草みたいなものだ。ほんとうに科学に専念するなら、医者と患者がどうかかわるか、みたいなところを大事にしている暇はないと思う。

でも。

医療をやるには、とても膨大な時間がかかる。

たとえるならば、医療者はみな、長すぎる旅路の途上にいる。

きっと、目的地にまっすぐ向かうだけでは、飽きてしまうだろう。

ぼくが読む本、書くもの、話す内容はいつも、どこか、道草を含んでいる。

ほんとうは「科学の子」として働いているにも関わらず、学者としての自分があきらかに専門外にしている、「人の心」の話を頻繁に集めにいく。





くりかえすけれど、診断学の根底には、患者の心がどうあるかを考えずに病気にまっすぐ向かい合わなければ構築できない類いの学問がある。

そこに熱中していればきっと大きな仕事ができて、多くの医療者たちの役に立つ。それはわかっている。





けれども、これはもう、お叱りを受けるかもしれないんだけれど、ぼくはどうも、道草を食ってしまうのだった。

それはなにか、人であるために必要な遊びの部分を保つためとか、そういう、学問にとってはあまり必要ないノイズなのだと思うのだけれど、だからぼくは学者にはなりきれなくて、その程度の仕事しかできない人間なのだと、言われてしまうかもしれないことなのだけれど。