2021年8月11日水曜日

病理の話(564) 糸を結ぶように知恵を結ぶ

ぼくが医学生だったころの話。

5年生から6年生にかけて、「病棟実習」というのがあり、1年かけて大学病院のさまざまな科を回った。

たった1年しかないので、どこの科もせいぜい2週間くらいしか見学できない。

だから、覚えているのは断片的なイメージばかりだ。今の学生実習はもう少ししっかりしていると思うけれど、昔は結構、適当だった。期間の半分くらいは放っておかれていた印象がある。


外科では手術を見学した。実習前には、これを一番楽しみにしていた。オペを実際にこの目で見られるなんて! 

しかし、手術中にやっていることは「棒立ちで体の中を見ている」に過ぎない。手術を行う医師たちの手元は、早くて細かくて、何をやっているかよくわからなかった。あっという間に飽きた。

考えてもみてほしい。あなたの家のエアコンが壊れたとする。慌てて業者を呼んで直してもらう。やってきた業者が、ふたをあけ、ネジを回し、何やら部品を取り替えているのを、横でいつまでもいつまでも見ていて楽しいか? 最初は「わぁ、そこが開くんだあ」なんてちょっとウキウキ見ていても、次第に、「あーあとは入れ替えてはめてきれいにして終わるんでしょ、わかった。」という気持ちになって、業者さんへの麦茶の差し入れでも作りに台所に逃げていくだろう。それと全く一緒だった。

ただ、なんか、「医者っぽいことをやってんなー」という実感だけを味わうような実習ではあったと思う。



外科の実習は手術見学だけではなかった。朝早くに、英語の論文を医局員が全員で読む勉強会があって、それにも出席しなければいけなかった。

当時の外科の教授は、毎日難しい手術に入ってバリバリ切りまくる武闘派だったが、朝の30分では必ず論文を読むと決めているのだと言い、医局員にもきちんと勉強し続けてもらうために、みんなで勉強会を企画しているのだそうだ。最初はいわゆる「ポーズ」かと疑った。毎日そんなに自分に関係のある論文が出ているわけもなかろうに……なんて思っていた。

しかし、外科の早朝勉強会はけっこう本格的だった。ガイドライン、適応、術式、統計、これまであまり勉強してこなかった高度な内容が英語で乱れ飛んでいた。ぼくは内心どこかで外科をなめていた。脳筋ヤロウの勉強なんて形だけだろ、くらいに思っていたのかもしれない。とんでもなかった。よく考えたら、よく考えなくても、この人たちは全員、医学部を卒業した「勉強が得意な人たち」だった。

ひええ、という気持ちで勉強会に出ていたある日、自分の近くに座っていた研修医に目がとまった。外科の勉強会は、ベテランばかりが参加しているわけではなく、当然、まだ医者になったばかりの研修医たちも参加する。若い医者を見ながら、ぼくもあと2,3年するとこれくらいの立場にはなっているわけだ、と感じざるを得なかった。ぼくは医師免許を取ったらすぐに病理の道に進むことを決めていたから、外科の研修医と同じ事をするわけではないにしろ、医者になったら「このレベルの英語」がわかるのがデフォルトなんだな、というプレッシャーはビンビンに感じた。勉強会についていけないと医局で孤立してしまうんだろうなあ、と、他人事とは思えない身震いがした。

ところが……。

よく見ると、その研修医は、配られた論文を自分のふとももの上においたまま、足を組んで何やら熱心にサンダルをいじっている。スクリーンにプロジェクタで論文が映し出されて、少し暗くなった医局の中で、彼は論文を見ずに自分の足と向き合っている。何をしているのだろう。数秒見て、ようやくその行為にピントが合う。

彼は、自分のサンダルに結んだ糸を、くり返しくり返し、「外科むすび」していた。

医者はすばやく糸を結ぶやり方を身につけなければいけない。切り傷を縫ったり、手術中に血管を縛ったりする必要があるからだ。彼はその「むすび」の練習を、自分のサンダルにくくりつけたヒモを使ってやっていた。えっ、と思って周りのドクターの足下を見てみると、若い医者の足下にはみんな糸がついていた。

ははあ、寸暇も惜しんで……。

でも、今は勉強会の最中なのに。


勉強会が終わって、手術見学に入る前に、その研修医を呼び止めて、「さっきの足のヒモをむすぶやつ、あれなんですか」と聞いてみた。すると彼は悪びれもせず、こう言った。


「まだ俺は勉強できる立場じゃねえし」


勉強できる、立場?


「そうだ、手技を身につけてない医者なんかお荷物だから。最初の数年はルートとって、糸結んで、挿管して、気管切開して、そういった手技が全部できるようになるのが第一歩、ていうかそれができなきゃ猿だよ」

人以下、ってことですか?


「そう。まずは人にならなきゃ。教授だってそうしろって言ってるよ。だから俺たちはまず、糸」



このことは強烈に頭に残った。

ただし、ぼくは、病理の大学院に進んで研究者になるつもりだった。研修医の言うことをそのまま鵜呑みにはできないな、とも感じていた。

「まずは、糸」ではない。

外科医にとっての「糸むすび」にあたるものは、研究者にとってはなんだろう?

当時のぼくは、それは「論文」であり、「本」だろう、と思った。

彼らが糸を自在に使えるように、ぼくは論文を自在に読めるようになりたいな、と思った。





結論からいうと、これはあまり正しくなかった。研究者には研究者の「糸むすび」的なものがあるが、それは必ずしも論文をガリガリ読むことではない。その後のぼくは、研究の世界では生き残れず、病理診断医を目指すことになるが、才能が足りなかったのはもちろんのこと、努力の方向性も間違っていたのだろう。

ただ、めぐりめぐって病理医になった今、あるいは当時のぼくが「糸むすび」のように本を読み続けていたことは、もしかすると、「糧」になっているかもしれないなあと、どこか、後付けで信じたくなることは、あるにはある。

2021年8月10日火曜日

翻訳の限界

目のまわりがごわごわしていて、昼過ぎくらいからときどき目を休めないとしんどくなる。鏡を見たら目の周りが真っ黒だった。

目のクマの部分の血流ってどうなってんのかな……。

そもそも眼球じゃなく目の周りの血流が悪いってのは何を意味するんだろうな……。

余計なこと(?)を考えつつ、なぜこんなに眼精疲労しているのか考える。


本を読んでいるからか? いや、今までとさほど量は変わっていないはずだ。

仕事が大変だったか? ここんとこ、それほど普段と変わらない。

トシのせいか? それにしてはここ最近で急激にぐっとしんどくなっている。


なぜかなーと思ってしばらく過ごしていた、そんなある日。

疲れて21時前に寝た日。ふと目が覚めたら、まだ23時半くらい。

ぼくはじっとりと寝汗をかいていた。窓を開けて寝ていたが、外気はあまり入ってこないようだった。

喉が渇いており、灯りをつけずに冷蔵庫まで歩いていって、寝る前に冷やしておいたお茶を飲む。

ぼくは、夜中に目が覚めてもわりとそのまますぐ寝入ってしまうことが多い。水分補給にいったん体を起こすところまで行くなんて、今日はなんだか珍しいなと思った。

そうか、最近夜が暑いから、知らず知らずのうちに眠りが浅くなっていて、何度も何度も目が覚めて、それで知らない間に寝不足になっているのかもしれない、と急速に腑に落ちた。単純に睡眠が足りていないのだ。


最近の札幌は寝苦しい夜もある。北海道以外で暮らす人からすると「何をあたりまえのことを……」と思われるかもしれないが、冬期にマイナス20度ちかくまで冷え込む地域で夜中に気温が25度を下回らないというのは、振れ幅が大きすぎて、ひるんでしまう。どうせみんなも冬の昼間に気温がマイナス10度とかになったら大騒ぎするだろう。それといっしょだ。ぼくは単純に寝苦しさの経験値が足りていないのだ。


目の周りが真っ黒になっている、イコール、目を使いすぎている、と、なにげなく推論していた内容がきれいに覆されて、いろいろなバイアスに騙されるもんだなと妙におかしかった。寝室の状況を改善しない限り、昼間にいくら目を大事にしたところで根本的な解決にはならないということだ。というか、昼すぎから目がしんどいと思っていたあれ、おそらく、「お昼寝しろ」と体が叫んでいたのだろう。ぼくは体の叫び声を聞くのがへたくそだ。でも、言い訳させてほしい。体が日本語で叫ばないから悪いのだ。なんだその、目の周りを黒くしてみました、目の感覚をゴワゴワにしてみました、ってのは。「体語」はむずかしい。「ラテン語たん」でも読み解けない、とくべつな外来語なのである。

2021年8月6日金曜日

病理の話(563) 勉強の成果をほかで活かす

今日の話はわりとふわっふわした感じになるので、読まれる方もどうぞふわっふわした感じでお願いします。



病理医をやっていて、あるひとつの病気をよく勉強すると、ほかの病気の診療にも役立つことがある。


たとえば、サイトメガロウイルスというウイルスに感染した細胞には特徴的な変化が現れる。細胞の核の中に、ふつうの核には見られないような物質が溜まって、核がどでかく膨れるのだ。見つけるとぎょっとする。


サイトメガロウイルス感染細胞をきちんと見つけることはだいじだ。サイトメガロウイルス感染症には治療薬が存在する。病理医が見つけることで治療が前に進む。ただし、そう簡単ではない。ある程度の訓練が必要になる。


そして、サイトメガロウイルスに感染した細胞を見つけられるようになると……ある日……「ヘルペスウイルスに感染した口の粘膜の細胞」なんてものも見つけられるようになるのだ。これらはまったく同じ見た目ではないのだが、どこか似ていて、そうだな、ふわっふわしたことを言うと、細胞を見たときに、脳が、


「あっなんかウイルスくせえな!」


と叫ぶのである。この感覚はどうにも名状しがたい。ほんとうに脳がさけぶのだ。サイトメガロウイルスならともかくヘルペスウイルス感染細胞なんてそうそう見る機会はないし、それだけを毎日勉強しているわけでもないのだけれど、見つけた瞬間に、


「あっ今のウイルスじゃね!?」


と脳が反応してくれるのである。このふわっふわした本能的な感覚は診断においてはとても役に立つ。




膵臓に発生するやや特殊ながんには、ある種の特徴的な遺伝子変異が存在する。そのタイプのがんを毎日のように見て、目と脳が「その病気のあれこれ」を覚える。すると、ある日、胆管や胆のうなどにあらわれた病気を見たときに、「あっ例の遺伝子異常じゃん!」と突然脳が叫ぶこともある。


膵臓に出た病気のもつ遺伝子変異と、胆管や胆のうに出る病気のもつ遺伝子変異が、同じということはむしろまれなのだ。遺伝子ってのは本当にいっぱいあるからね。


でも、調べてみると、「脳が叫んだ症例」では、たしかに同じような遺伝子変異が見つかったりするのだ。ふわっふわしたことを言うとこれはもう直感的なやつで、「なんかそれっぽい!!」くらいの感覚で脳がバーッと叫ぶ。そこに理論をあとから付け足して、直感だけでなく理屈で診断ができるところまで実力を引き上げる必要があるのだけれど、とにかく、ふわっふわっ、「あっなんかそれっぽい!」ということはあるのだ。



乳腺の特殊ながんを見慣れていると、ぼうこうの特殊ながんに気づくことはある。

リンパ節を見慣れるうちに、類上皮細胞性肉芽腫が目に飛び込んでくるようになる。



このように、「ほかでの経験が役に立つ」というのは、いかにもヒトが病理診断をする上でのアドバンテージだよなあ……なーんて思っていた。人工知能ではこうはいかないだろう。肝臓の診断ができるようになったAIは、皮膚の診断には使えない。子宮の診断ができるようになったAIは、肺の診断には使えない。学習している臓器・病気でしか、AIは活躍できないはずだからだ。


ところが。


最近の人工知能研究では、「transfer learning」と言って……詳しいことはぼくもまだよくわからんのだが、「ほかで勉強した成果を、ぜんぜん違う診断にも活用する」というやり方があるらしい。びっくりである。ぼくの脳が「あっ、それっぽい!」と叫んでいたアレを、AIが代わりにやってくれるかもしれないのだ。すっげぇな。ふわっふわっ。

2021年8月5日木曜日

敗北

庭に小さな、ほんとうに小さな畑を作っている。プランターでいいじゃねぇかと言われるくらい小さい畑だ。


今年は、きちんと土を入れ替えずに苗を植えてしまったので、毎日天気はすごくいいのだが野菜の生育がよろしくない。去年はきちんと育ったのにな。


ミニトマトは「なんとか鈴なりになっている」。なんとか鈴なりってなんだ。でも本当にそういう感じなのだ。


キュウリは微妙である。まあいちおうぽつりぽつりと実はついている。3本ほど食べた。まあまあだった。


問題はナスとピーマンだ。ナスはともかくピーマンがろくに育たないというのはちょっとした屈辱である。こんなの放っておいても実が付くだろうと思っていた。あわてて追肥をしたけれどイマイチである。そして、ナス。このやろう。


ナスの苗を買ったとき、ラベルに、「一本でも満腹!」と書いてあった。でもまさか本当に一本ずつしか実が付かないなんて思いもよらなかった。そういう意味かよ! 一度収穫してから次の実がなかなか育たない。


元気なのは大葉やバジル。こいつらは際限なく増える。付け合わせばかりが元気に増えて、主菜を張れるたぐいの野菜がちっとも育たない。ツイッターみてぇな畑だなと思った。


今朝も早朝に水をやってから出勤したのだけれど、ホースの先につないだシャワーヘッドみてぇな散水機を手に持ってちろちろと苗の根元に水をやっていたら、お隣さんちの壁の前をネコが優雅に通り過ぎていった。今どき珍しいことだが、うちの町内では3,4匹くらいのネコが夜中に徘徊している(今日は朝だったけれど)。深夜に物置付近のセンサーライトが付くのに気づいて、誰か忍び込んでいるのかなと思ってドラレコの角度を調整して確認したらネコだった。見覚えのある模様のネコが目の前にいる。ああ、君か、という気分。直接出会ったのははじめてだ。


かつて、「子どものとも」だったか「科学のとも」だったかに、「ねこさんこんにちは」という絵本があって、ぼくはその本がとても好きで何度も何度も読み返していた。しかし時は令和、犬もネコも室内飼いが当たり前になった昨今、まさかの自分ちの庭を散歩するネコに会うとは。育たない野菜。通り過ぎる太ったネコ。推理がつながる。君、畑にいたずらしてないよな。ネコはこちらを見もせずにそのまま去っていった。一切の脈がない。これほどまでに無視されると厳しい。農協の下部組織に勤務しておきながら、ネコに無視されるような野菜しか作れないということ。この責任は厳しく追及されるべきであろう。うなだれたままちょろちょろ水をやっていると、苗の周りに雑草がやたらと生えている。てめぇらばっかり元気になってどうする。ツイッターみてぇな畑だなと思った。

2021年8月4日水曜日

病理の話(562) 細胞を見なくてもわかる病気

ぼくは病理医であり、職務は病理診断である。この病理診断という仕事は決して一種類ではなく、いくつかのバリエーションがあるのだけれど、ぼくの場合は、「体の中から採ってきた細胞を見て、診断を書く」という仕事が多い。


たとえば胃カメラで胃の粘膜をチョンと小さくつまんできたら、それを顕微鏡で見て、胃炎や胃がんの判定をする。


はたまた胆石症の手術で採ってきた胆のう、胃がんの手術で採ってきた胃、肝臓がんの手術で採ってきた肝臓などをみる。


そういった仕事だ。全身のあらゆる臓器に発生する病気を目で見て診断する。自分で治療をすることはなく、処置をすることもない、「患者に対して手技を行わない」医者である。診断は下すが手は下さない、と言ったらいいかもしれない。


だから全身のありとあらゆる病気に詳しいぞ、と胸を張りたいところなのだけれども、じっさいには、「病理医がぜんぜんかかわらないで診療が行われる病気」がいっぱいある。というか、そういう病気のほうが多いかもしれない。


たとえば、腰痛。腰が痛いからといって、腰の筋肉や腱をつまんで検査に出すということは(普通は)ないだろう。つまんだほうが痛いじゃないか。肩こりや膝の痛みなどでも細胞を見る検査は行われない。


あるいは、血糖が高いとか、コレステロールや尿酸が高いとき。「血液の中に含まれる物質が多い」という異常を判断するために、細胞ひとつひとつを判定してもあまり役に立たない。逆に、貧血のように「血液の中に含まれる物質が少ない」ときも、細胞を顕微鏡で見ている場合ではない。


ほかにもある。心臓という大事な人体ポンプは、体中の血管というパイプの中に血液を送り出しているが、この血液の「流れ」に異常が出るといろいろな病気になりうる。「高血圧」はその代表だ。血液の成分自体に問題がなくても、パイプにかかる圧が高ければ臓器はダメージを受ける。また、脳につながっているパイプが詰まってしまうと脳梗塞(のうこうそく)という病気になるし、心臓を栄養するパイプが詰まれば心筋梗塞(しんきんこうそく)だ。これらの病気で、脳や心臓の細胞を採って顕微鏡で見ても、特に意味のある検査にはならない。パイプや血流の評価のほうがずっと大事なのだ。



そう考えると……。顕微鏡を用いた病理診断というのは、「異常な細胞がカタマリを作る病気」や、「細胞自体に決定的な変化が出る病気」などの、ごく一部の病気にしか役に立たないということになる。


パイプの詰まりやねじれによる病気や、大事な液体の成分が変わる病気では、病理診断はわりと無力である。感染症、循環器疾患、呼吸器疾患の多くは病理と交わらない。整形外科や精神科ともわりと疎遠である。


では、病理医は、病理診断を用いない科のドクターたちとあまり会話をしないのかというと……。


これは、人による。キャラクターにもよる。ぼくはわりと循環器内科医や呼吸器内科医、整形外科医、精神科医と話をするほうの病理医だ。「細胞を見る必要があまりない科なのに、なぜ?」と聞かれるが、これに対する返答はちょっと難しい。ざっくりと答えるならば、「細胞を見るだけが『病の理(やまいのことわり)』を追究することではないよ」となるのだが、この話は長くなるので、いずれまた。というか、過去のブログに死ぬほど書いてあるので興味がある人はさかのぼって見てください。

2021年8月3日火曜日

病院でお赤飯

病院のコンビニに入っていたお赤飯おにぎりがなくなった、とツイートしたら、

「病院でお赤飯というのは場違いだからしょうがない」

というリプライがついた。そんなこと考えもしなかった。仮にそうだとして、縁起が良いから? 悪いから? どっちに抵触するというのだろう。病院内の売店ってそんなことまで考えないといけないのか。


いけないのかもしれないな。わからなくはない。

本当は、季節が変わって商品が入れ替えになっただけだろう。見知らぬサラダが増えてなじんだパンも消えていた。お赤飯おにぎりだけの話ではないのだ。それでも、このことは、なにやら泥はねのようにぼくの心に汚れを落としており、今も消えない。


「病院でお赤飯というのは不謹慎」か。ぼくはそんなことはないと思う。単なるメニューじゃないか。しかし、そういうアイディアを思い付いてしまう人はいる。たまたまリプライを付けた一人がそうだったというより、おそらく、一定数はいるだろう。




「SNSで誰もが発信できるようになった」ことよりも、「SNSで何でも受信できるようになった」ことのほうが根が深いと思うことはある。ほんとうだったら一生目にしなかった情報を見つけてしまって、余計に怒ったり拗ねたり指摘したりする人が増えているような気がする。病院のコンビニにお赤飯おにぎりがあることをめざとく見つける人がこれまでにどれだけいたというのだろう。これからはどれだけ増えることになるだろう。少なくともぼくが「うちの病院のコンビニで買うお赤飯のおにぎりが好きだった」とつぶやかなければ、くだんの人は「病院にお赤飯はそぐわないのでは?」みたいなことを考えることもなかっただろう。このブログにしてもそうだ。このブログを告知するツイートにしてもそうだ。一生届ける必要がなかった人に、うっかりどうでもいい話を届けて、それによって、うっかりどうでもいいことを考えてしまう人の数が数人なり数十人なり増えるということ。SNSは受信の機会を激増させた。それにヒトの脳が耐えられるのだろうかと思うことは頻繁にある。

2021年8月2日月曜日

病理の話(561) がん細胞の誤植

「がん細胞」もまた「細胞」であることにかわりはない。

細胞であるということは、その中に「核」があるということだ。

核の中にはDNAが入っている。DNAとは細胞の設計図である。がん細胞もDNAを持つ。

DNAには、胃の細胞になるための設計図も、目の細胞になるための設計図も、毛髪をつくりだすための設計図も、血管を生やすための設計図も、すべてが書き込まれている。ここ、注意してほしい。「すべて」である。

たとえば今、耳かきのようなものを用いて、皮膚の表面をガリッとこそげ取る。そんなに血が出るほどひっかかなくても大丈夫、ちょっと力を入れる程度でいい。するとそこに表皮の細胞が混じっている。これを顕微鏡でガンガン拡大していくと、核の中にDNAが入っており、そのDNAには表皮になるための設計図だけではなく、体内のありとあらゆる細胞の設計図が入っていることがわかる。表皮をとったはずなのに! 不思議である。

ではその表皮の細胞に「喝!」を入れて、DNAのほかの部分を活用しなさい! と命令することで、その細胞が胃や目や毛髪や血管に変化するかというと……これはなかなか、うまくいかない。現時点ではほぼ無理である。



表皮の細胞が持っているDNAは、「広辞苑」のようなものだ。とんでもない数の文字……体内のあらゆる細胞を作れるくらいの情報が、コンパクトにまとまっている。ただし、この広辞苑は、192ページと27ページと343ページ以外、「開かない」。

体内のすべての細胞が同じ広辞苑を持っている。しかし、表皮の細胞は表皮になるために必要なページしか参照しない。ほかのページはテープで固定されていて開かない。

胃の細胞は108ページと166ページと402ページと225ページを参照する。ほかは開かない。

毛根の細胞は192ページと33ページと344ページを参照する。ほかは開かない。

(表皮と毛根は微妙に近いページを参照しているが、完全に同じではない。)




そして、がん細胞も広辞苑を持っている。ただしそこに書かれている内容は、200箇所くらい間違っている。誤植が200箇所もある広辞苑。岩波書店は発狂してしまうだろう。でも、逆にいえば、あれだけ分厚い広辞苑の中に200個しかエラーがない。大多数の表記は間違っていない。これが「がん細胞のニュアンス」である。

体内をめぐる免疫細胞は、ほとんど間違っていない広辞苑を持つがん細胞を、「正常の細胞なんだろうな」と勘違いする。がん細胞の広辞苑にもテープが貼ってあって、胃のがん細胞は正常の胃の細胞と似たテープの貼り方をしており、ぜんぜん開かないページがいっぱいある。開かないページの中にどれだけ誤植があるかはよくわからないし、わかる必要もない。だってその設計図は使われないのだから。でも、「全部で200箇所くらい誤植がある」というデータだけは別に手に入る。それがホールゲノムシークエンスと呼ばれる技術だ。

「どの誤植が、細胞をがんにしているのか」を調べるのは難しい。テープで封印された場所にある誤植はさほど大きな役割を果たさない。がん細胞の中で「開くことができて、設計図として駆動している部分」の誤植ががんの原因ということになる。

「がんの原因」は、がんの種類にもよるが、だいたい誤植1~20箇所くらいによる。そのような誤植をピンポイントで攻撃するような薬を使うと、がん細胞だけを的確に倒すことができる。ただし、そんな薬が開発されていれば、の話だが……。