2021年12月20日月曜日

レガシィ

車の備品がこわれたのでディーラーに来ている。タイヤ交換のピークは数週間前に終わったから、さほど激混みというわけではないが、事前に予約がない状態での修理なので、しばらく待たされている。車のパーツなんてものは、壊れるときは急に壊れるから事前予約できなかったのも仕方ない。歯の詰め物がとれたときに予約がなくても歯医者に行くのと一緒だ。もっとも、いまどきの子供たちは小さい頃からフッ素を歯に塗っており、虫歯はさほどないようだけれど。


ロビーに人はまばら。外でみる車よりも一回り大きなサイズ……に見える車が室内に数台留まっている。小顔効果の逆、みたいな技を使っているのではないかと思う。シーズンがシーズンなのでクリスマス装飾があちこちに施されている。いつもなら冷静に相づちを打ってくれる妻が今日は仕事でいないから、ぼくは「クリスマスっぽいねえ」みたいな感想を口に出さずに脳内で練ってちぎって捨てている。




今から15年以上前、はじめて自分の力で買った車はレガシィツーリングワゴンだった。 担当の営業はTOKIOの国分太一に似ていた。たぶん新人だったのではないか。若いぼくと若い国分太一は互いに車を買う喜びも車に乗る文脈もさほど持ち合わせていなかった。パンフレットを見れば書いてあるカーアクセサリー情報と、保険会社の提示したままの任意保険のオプションを、ぼくらはワクワクもハラハラもせずにやりとりした。北海道で車に乗るなら四駆以外はありえない、という、それなりに根拠があるがライフスタイル次第では別にそこまで気にしなくてもよいような「柱」のまわりでぼくらはぎこちなく笑っていた。ワゴンにしたのはスキーが積めますよと言われたからだ、でも前の妻とぼくが二人でスキーに行ったことはたぶんなかった。


こうして思い出してみるとぼくはおそらく買い物がへたなのだと思う。というか、世にまばらに存在する「買い物に満足したと公言するのがうまい人々」がSNSでことさら強調されているだけで、おそらくぼくのように根本のところで買い物にさほど大きな喜びを見出ださないタイプの人間はいっぱいいるのではないか。今より安い給料で必死で買った車なのだから、もっと迷って、もっと選んで、そしてもっと喜んでもっと記憶していればよかった。


レガシィの記憶はおぼろげである。色は何色だったろうか。何度ぶつけて何度修理したのだったか。前の妻がチャイルドシートをつけた日に満足そうな顔をしていた記憶がわずかに残っているのだけれど、それも後付けのようにプロットに付け加えられた偽物の記憶かもしれない。いい車だった、と言いたいぼくの脳が作った偽物の記憶かもしれない。

2021年12月17日金曜日

病理の話(608) プロが見るとたった3秒

その病理診断は、とても難しかった。


まず「依頼書」に書いてある内容が複雑である。レアな主訴(患者自身のうったえ)、特筆すべきことの見出せない血液検査データ。CTやMRIを得意としている放射線科医が、読影レポートに「腫瘍だと思うが、腫瘍ではないかもしれない」なんてことを書いている。つまりは何も言えていないのと同じではないか。


複数の医師が困惑している。となれば、病理医にとっても、間違いなく難しい病気だろう。


「いかにも難しそうなオーラ」がビンビンに感じられる中、おずおずとプレパラートを見る。



……なんっにもわからない! 心のそこからびっくりしてしまった。いやいや、「ひとっつもわからない」なんて、ここ何年もなかったぞ。



こう見えてもぼくは医師生活もうすぐ18年目。若手と名乗ってはいけないレベルだ。しかも、診断してきた量もおそらく一般的な病理医と同じかそれ以上である。ぼくの勤める札幌厚生病院は、少なくとも北海道の中ではトップクラスの病理診断数を誇る。単純な「場数」についてはぼくはそれはもう、かなり積んできている。さらには各種の学会や研究会、ウェブの勉強会などにもまじめに出席し、「希少がん講習会」のようなものにもコツコツ参加して勉強はしている。


それでも、ぜんっぜんわからない。場数が通用しないのだ。ほとほと参った。




病気というのは本当に、信じられないくらいの種類がある。細胞の示す姿も10とか100といったオーダーではなく、1000でも足りないくらいのパターンがありうる。でも、それでも、その「たくさん」を全部みることが、ぼくら病理医に求められた仕事だ。

人間の体の中には、とにかくたくさん臓器がある。脳、目、気道、口腔、咽頭・喉頭、唾液腺、耳、皮膚、甲状腺……こうして頭の上から順番に数え上げていっても、クビのあたりでもうやめたくなったし、読んでいるあなただって読み飛ばしてしまうだろう。この下にまだまだものすごい数の臓器があり、その臓器ごとに固有の病気がある。そんなこと、わかっている。だからちゃんと勉強するんだ。

そこまでわかっていて、歯が立たないのだからがっくりする。

しょせん、ちっぽけな一個人にすぎないぼくが、10年がんばろうが、20年がんばろうが、「見たことがない病気」はあるし、どうやっても太刀打ちできないこともある……。




……と、ここであきらめたら患者は途方にくれるだろう。だからぼくは、「あっ、歯が立たない」と思ったら、すぐに「ほかのプロ」に頼る。


病理医の世界にはとんでもないエキスパートがうようよいる。ほとんど無限ともいえるくらいに細分化した病気の、すべてに精通した病理医というのはさすがに「ほとんど」いないのだけれど、「ある臓器については超詳しい」みたいな人なら複数いる。


「あっ、これはぼくの手に負えないかもしれない」と思った瞬間に、その分野のエキスパートへの「コンサルテーション」の準備をする。躊躇してはいけない。だらだら時間をかけてはいけない。


まずい、と思ったらすぐにメールをする。メールの相手は日本病理学会であったり、個人的に存じ上げている一流コンサルタントその人であったり、いろいろだ。臨床医からもらった情報をなるべく早く、読みやすい状態にまとめ、患者名をマスクした特殊なプレパラートを作成し、「相談」するための体制を爆速で整える。


返事がきたらすぐに、エキスパートあてにプレパラートを送る。もしそのエキスパートが、たまたまぼくの住んでいる札幌にいる人ならば、向こうの指示にしたがって、日中だろうが夜中だろうが、相手の指定した時間に万難を排してかけつけることも辞さない。とにかく最短で診断に近づくためのあらゆる努力をする……。


ただし。


「まずい、と思ったらすぐにメールをする」とは書いたが、実際には、「ぼくが本気で、細胞をしっかり見て、悩みに悩んだ経験」がないと、うまくいかない。ちょっと見て難しいなと思ってすぐ相談、では、相談の切れ味があがらないのだ。ここにはさじ加減がある。


ろくにプレパラートを見もしないで、「この分野は難しいから最初からプロに聞こう」だと、相談はうまくいかない。なぜ、と言われると難しいのだけれど、感覚でいうと、「患者に対して真剣に向き合ったことがないと、患者にまつわる細やかな情報をとりこぼすので、誰かに相談しようにも相談するための情報がとりきれない」というかんじである。

わかる?

「これはぼくの手には負えない」と判断するのは、早ければ早いほどいい。

でも、「これはどうせぼくの手には負えないだろう」と、早めに見限ったりさぼったりすると、それはそれで、うまくいかない。





というわけでこのときのぼくは、まず、徹夜をした。一晩考えたのである。日にちはかけられないが徹夜すれば12時間くらい考えて調べることができる。


そして翌朝にはコンサルテーションの準備をした。考えられる可能性をすべてつぶして、それでもわからない、ぼくには診断ができない、と思ってはじめて、あるプロの手を借りることにした。そのプロはたまたま札幌に住んでいたから、朝、メールを送った。すると「昼に来てください」と言われた。なんて仕事の早い、そして話の早い人なんだ。ぼくはただちにその日の仕事をぜんぶ調整して、自分の車でその人の勤める場所にかけつける。満を持してプレパラートを診てもらう。



そしたら、なんと、3秒だ。



たった3秒で、



「これはあれだね。あのめずらしいやつ。A病だと思うよ」



度肝を抜かれた。プロすぎるだろう。なんてすごいんだ!



そこから4日かけて、さまざまな追加検査を行った。そのプロの言ったとおりの診断にたどりついた。


エキスパートってすげえ。病理診断って奥が深ぇ。全身が総毛立つくらいに興奮しながら、ぼくはとりあえず、自分が最低限の「現場の病理医としての義務」をはたせたことに安心した。自分ひとりでは診断にたどりつけなかったけど、少なくともこのプロに相談しようと決めることができた、そのことをまずはほめよう。


そして、これからもまた努力して成長しよう。自分ひとりで診断できなかった事実は消えないのだから。またゴリゴリ勉強する日々に戻る。そうやってずうっとやってきている。しんどいけれど、しんどいだけじゃない。

2021年12月16日木曜日

ごくごく私的な相性の話

真っ正面からツイッターの話をする。ツイッターをやっていく上で、けっこうはっきりと「ルール」にしていることがある。それは、

「ぼくのことをフォローしていないし、ぼくからフォローもしていない人から、リプライが来ても返事をしない」

ということだ。

もちろん単なる自分ルールなので、めちゃくちゃ強い決め事というわけでもなくて、たまに返事をすることもあるのだけれど、経験的にあまりいいことは起こらない。



理由はシンプルである。「フォロー関係が一切ないにもかかわらず、いきなり会話をはじめようとする人は、人との距離のとりかたがおかしい気がするから」だ。……この場合、「おかしい」というのは完全にぼくの主観であって、「いや、別にそれは普通だよ」と思う人がいても一向にかまわない。でもこれはぼくのコミュニケーションの話なのでぼくの主観で語ってよい話だと思う。

喫茶店で一人で本を読んでいるときに、隣に座った人から「その本おもしろそうですね」と突然話しかけられたら、ぼくは返事をしたくない。そんな距離の詰め方をする人が隣に座っているのがいやで、すぐに席を立って店をあとにしてしまうだろう。これと同じことをツイッターにもあてはめている。



ただし、付け加えておくと、喫茶店でいきなり話しかけられたときに「つい返事をしてしまう雰囲気の人」というのも、確実に存在する。

具体的にどういう感じの人、とは言えない、性別とか年齢だけでは語れないニュアンスがある。話しかけること全般がだめ、とは思っていない。さらに、他人が他人に話しかけているのを見ても「やめろよ」とまでは思わない。

しかし、割合の問題として、一人で座っているときに話しかけてくるたいていの人は妙に攻撃的だったり、妙になれなれしかったり、どこか「へんだ」と感じることが多い。だから原則的には警戒してしまう。



この話には多数の例外があって、たとえば医学にかんするツイートをしたあとに、フォローしてもされてもいない人から「質問」があったらなんとなく答えてしまう。きっと困っているのだろうな、と思うからだ。しかし、これがまた本当にふしぎなことに、そうやって例外的に質問に答えたときに限って、途中から妙な距離の詰め方をされたり、あるいはよくわからない内容の会話にスライドしたり、ひどいときは中傷がはじまったりする。

これまでもここからもすべてぼくの主観なのだけれど、「誰かに話しかける」という行為に対して、「でもなあ、これまで絡みがない相手だからなあ」と、躊躇できない人と根本的に性格が合わないのだろう。すべての人に資質として持っていてほしいとか、これが世の中に必要な倫理だとは全くおもわない、単に、「ぼくとの相性」という切り口でのみ今日の話をしている。誰かとの距離を詰めるときに躊躇がない人とやりとりをして良かった記憶がない。完全にプライベートな話だ。しかし、一部の人にはわかってもらえるのではないかと思う。

2021年12月15日水曜日

病理の話(607) つれづれなるままに勉強の話

今日はいつも以上にぼんやりとした結論に向かって書き始めるので、覚悟してください。つまりあなたは振り回されるかもしれないということだ。


「何を思って毎日病理学の勉強しているか」ということを書く。


はじめに書いておくとぼくは毎日勉強している。ぼくのやっている病理医という仕事は、


・患者に会わず、治療も処置もしない代わりに、勉強をする


ことが求められているからだ。つまりは職務の一環である。


医療者というのは概して忙しい。多忙の理由は「マルチタスク」にある。職員ひとりが患者ひとりのために働くのではなく、常に5人、10人、ひどいときには1日100人といった規模の人びとのことを考えて動くのだから忙しいに決まっている。看護師をイメージすればわかりやすいだろう。たくさんの患者を相手にするときに、「流れ作業」的にこなしてしまうと一人一人のトラブルに目が行き届かなくなる。かといって、たった一人の患者にずっと向き合っていると病院という場所はうまく機能しない(病院に限った話ではないが)。

医者もこれといっしょで、外来にやってくる患者、たった今入院している患者、両方のことを考え、診断のこと、処置のこと、治療のこと、家族との面談のこと、複数のことをずっと考え続けている必要がある。だから忙しい。


でも病理医は診断と研究のことしか考えなくていい。なぜなら病理医は「勉強に特化することで誰よりも賢くなること」を求められた特殊な職業だからだ。治療をしなくていい、処置をしなくていい、看護をしなくていい、当直をしなくていい、外来で患者と話さなくていい、病棟の管理をしなくていい。その分、「勉強して診断のプロになること」を求められている。


つまりぼくらは勉強するためにほかの仕事を免除されている。そういう職種だ。


さて、本題に入る。勉強で何を学ぼうとしているか?


「世の中のできごとを雑学的に仕入れてくる」とか、「自分の興味があることを芋づる式に学んでいく」といったことのは趣味でやるべきことで、本職のためにはもう少し明確な目標を立てなくてはいけない。これらは何種類かにわけられる。


1.一緒に仕事をする臨床医の使う言葉を学ぶ

2.「最新の病気」を知って脳内の図鑑をアップデートする

3.病気の見極め方に関する知識を得る

4.病理診断報告書を書くときの「語彙」を増やす


だいたいこんなとこかな。それぞれ見ていこう。


「1.一緒に仕事をする臨床医の使う言葉を学ぶ」はとても大事だ。これをやっていない病理医は病院内での評判がどんどん下がっていく。医療の世界は毎日レベルアップしており、前の年にはなかった治療法がばんばん開発される。すると、病理医がみる臓器の「手術方法」とか、病理医がみている患者に「投薬されている薬」が変わる。これを知らなければ病理診断はできない。消化器内科医、呼吸器内科医、感染症内科医、肝臓内科医、血液内科医、さまざまな外科医、産婦人科医、泌尿器科医、耳鼻科医、皮膚科医、放射線科医……。それぞれの世界ごとに生み出され続ける最新情報を知る。


「2.最新の病気」を知るのは病理医にしかできない仕事である。医療者は、あたかも昆虫の新種を発見して命名するかのように、「この症状を呈する病気はひとまとまりにして考えよう」「このような患者にはこういう治療をすると効くぞ」みたいなことを日夜発見し続けている。病理医の大事な仕事のひとつが「患者に病名を付けること」なので、最新の分類を知っておかなければいけない。病院で勤める99.99%の人が知らない病名であっても病理医だけが知っていればそれでその病院はなんとかなる。そういうことがよく起こる。月に何度か、「この珍しい病名はどういう意味なんですか?」と、医療者から呼び出されて解説をすることがあるくらいだ。


「3.病気の見極め方に関する知識を得る」というのは、ざっくり言うと「顕微鏡で何が見えたらどの病気と診断するか」を知るのだ。ネコの種類を見極めるようなものである。マンチカンとアメリカンショートヘアとスフィンクス(すべてネコの種類だそうです)を見極めるには何に着目する? 耳? アゴ? しっぽ? 同じようなことを細胞診断においても行う。腺癌と扁平上皮癌の見極め方では核や細胞質、細胞どうしの配列をチェックすることが肝要だ、みたいに。付け加えて言えば、そのネコは今屋根に飛び移ろうとしているのか、これからご飯を食べようとしているのか、みたいなことも見抜くのが病理医の仕事だ。おなじがんという病気であっても、このまま一箇所に留まっているのか、もうすぐ転移しそうなのか、あるいはもう転移してしまっているのかを見分けないと適切な医療はできない。「病名を見極める」のに加えて「病気の挙動を予測する」のも細胞診断の大事な仕事である。病理医の部屋にある教科書の9割くらいは「細胞の何を見ると病気の何がわかるか」が書いてある。


「4.語彙を増やす」というのは少し特殊で、これをやらない病理医もけっこういる。病理医の仕事は、自分だけわかっていればいいというものではなく、主治医に伝わらなければ意味がない。「なぜこの細胞を見てこの病気だと思ったのか」が、主治医、さらには主治医を通じて患者に伝わらなければ、病理医が給料をもらって専任で働いている意義は失われる。したがって、診断をした「根拠」をわかりやすく書くために日本語の勉強をしなければいけないとぼくは思っている。とはいえ国語の教科書で勉強するとか小説を読むという意味ではない。病理の教科書や講習会などで、エキスパートたちが「どういう根拠で診断をするか」をきちんと日本語にしてくれているから、そういったものを「輸入」しながら自分なりの語彙を毎日増やしていく。複数の病理医同士で相談するのも大切なことである。ウェブカンファレンスによってこれらはすごく簡単になった。



こうして書き上げてみると、病理医に限らずあらゆる医療者、あるいはあらゆる職種の人が「同じようなこと」を勉強したほうがいいだろう、という当たり前のことに気づく。ただし、病理医は、この勉強を「絶対に毎日やるべき」である。なぜなら治療も処置も看護も当直もメンテナンスもしていないからだ。ほかの医療者がやっている仕事をすべて免除されている以上、ほかの医療者たちと同じくらいの勉強量では「サボっている」ことになるというのがぼくの考えだ。ほかの医療者たちの勉強量の10倍、20倍、あるいはもっと、100倍とか1000倍というオーダーで勉強をし続けることで、ようやく病理医はほかの人から、「あいつ雇っとくと、うちの病院にとってトクだよな」と思われるようになる。……逆にいえば、それくらい、病理医以外の医療者たちの仕事(治療、処置、看護、当直など)はたいへんで、尊いものなのである。ワークライフバランスという言葉があるけれど、ほんとうは、ワークライフスタディバランス。スタディしなくていいのはワークが大変な人だけだ。ワークを半分にしてもらっている分でスタディするのが病理医である。……まあ、「半分」にはなかなかならなくて、せいぜい五分の四くらいなんだけど。

2021年12月14日火曜日

未来の話

今書こうとしたこと、それは「もうすぐ久しぶりの道外出張だなあ」ということ。この気持ちを書き残しておこうと思ったけれど、やめた。なぜやめたのかというと、おそらくぼくは、出張している最中に「今、久しぶりの道外出張中だなあ」という気持ちを書きたくなるだろうからだ。「もうすぐ出張」と「今、出張」だったら「今」のほうがいい記事になりそうである。だから先に書いてしまうともったいない。そう思って、将来の自分に記事を書く権利を譲渡した。


ところで。


たった今○○の最中、というときの気持ちよりも、もうすぐ○○だ、の気持ちのほうが強いということはないだろうか。


ものごとがはじまっていなければ、そこには大きな期待がある。勝手な期待と言ってもいい。あんなこともあるかもしれない、こんなことが起こるかもしれないと、基本的に自分に都合のいい妄想ばかりを積み上げていけば、期待はどんどん高まっていく。


でも実際にものごとがはじまると、そこには予期していなかったトラブルがあったり、お金や時間を消費して何かを成し遂げなければならなかったり、思ったより楽しくなかったり、あるいは特に心を動かされない瞬間があったりするものである。


よく考えたらなんだってそうだ。「修学旅行前夜」にしても、「幕末」にしても、「クリスマスイブ」にしても、当日・真っ最中より、直前・夜明け前のほうが人をわくわくさせるものではないか。




……と、ここまで考えてからふと、ぼくはおそらく何かが起こる前にああでもないこうでもないと楽しんでいる状態を、自分のために満喫するのはいいとして、他人と共有することにさほど魅力を感じていないのかもな、ということに気づく。そういえばぼくが好きなエッセイスト、それは沢木耕太郎だったり椎名誠だったり須賀敦子だったりするのだが、この人たちは「これからどうしたい」という内容をほとんど文章にはしなかったように思う。彼らはたとえ遺言について書くとしても、未来ではなく過去から現在について書いていた。旅の途中で、あるいは旅の後について書くものばかりをぼくは読んできて、それがよいと思って今ここにいる。ああそうか、なぜぼくが自己啓発本のたぐいがつまらないと思うかという理由の一端がここにはある、自己啓発本はたいてい「他人の未来の話」を書いている。他人の話を勝手に書くのも許せないし、未来の話でカネをとるのが許されるのはSFだけだとぼくは心の中で硬く強く信じ込んでいるのだろう。

2021年12月13日月曜日

病理の話(606) 人体を守る壁のオプション装備

町があり、善良な人びとが暮らしている。そこに敵軍が攻めてきたとき、敵を町の外で迎え撃つことができれば、町を壊さなくてすむ。しかし、町の中に入り込まれてしまうと、家も人も被害を受けざるをえない。

おなじことが人体にも言える。からだを守るために大事なのは、まず、敵を体内に入れないことだ。

では、外から入ってくる「敵」にはどんなものがあり、それに対して人体はどう対処しているか?


1.物理的な刺激。ボールが飛んできてぶつかる、歩いていて木の枝に刺さる、こういったトラブルに備えて、人間はわりとしっかりした防壁である皮フを持つ(つまんでも破けないってすごいことだよ)。さらに、場所によっては「頭蓋骨」のように、皮フだけに頼らずしっかりした骨で身を守る。まずは外側の壁で守るというのが大切だ。水分や油分などもはねかえすぞ。


2.ケミカルな刺激。衝撃はさほど大きくなくても、酸などがかかると人体を守る壁はとけてしまうリスクがある。だから皮フには「そっと・ぺとっとくっついたものを感じるしくみ」も付ける。この点、いわゆる「城壁」よりも高度である。


3.温度の違いによる刺激。異常に熱いものや逆に冷たすぎるものは体にとって害である。だから、壁には「くっついたかな? と感じる能力」だけではなく、「くっついたものが熱いか冷たいか」を感じるしくみも付ける。オプション装備が多彩である。


4.微生物の侵入。寄生虫とか。菌とか。ウイルスとか。こういったものは、そっとやってくるし、熱くも寒くもない。ではどうやってこいつらをはねのける? ……皮フを内側から新陳代謝させて、定期的にはがれおちるようにするのだ。こ、これは高度である。2と3のことも考えて欲しい、この壁にはセンサーが内蔵されているんだぞ。かなり高度なしくみを持っているんだ。その上で、表面がはがれて、でも穴は空かないという……。



どうだろう、人体の外側の「壁」は、壁ということばで軽く表現するにはエグいくらいの機能を持っている。たとえばマイホームの壁が経年劣化しないように、じわじわと外側がはがれて再生したら便利だろうが、そんなことを達成できた建築会社はひとつとしてない。大和ホームもタマホームも壁を新陳代謝させることはできないのだ。


ていうか冷静にかんがえて、人間の寿命が80歳を越えている今、「一戸建ての家」よりも人のほうがふつうに長持ちするもんな。人ってすごいな。

2021年12月10日金曜日

アブラは折れない

以前、いまよりももっと体がナイーブだったころ、忙しくなると首や腰が痛くなっていた。一番苦しんだのは30代の前半である。最初は運動不足による「こり」なのだろうと思っていたのだが、ひどいときには手や指がびりびりしびれてくる。これは筋肉ではなく神経じゃないかと疑い、案の定、頚椎症と診断されてさもありなんと思った。これだと長時間のパソコン仕事はきついなあと感じた。


しかし、幸いなことに、神経内科医と相談して背骨との付き合い方を覚えていくにつれて、年単位で症状は少しずつおさまっていった。今では、昔と同じくらいのストレスをかけても首も腰も痛まないし、しびれも出ない。適切な姿勢で働くことがいかに大切なのかということだ。


正しい姿勢で長時間働けるようになった結果、仕事の量は着々と増えた。


そして近年は、仕事が忙しいときに限って腸の調子が悪くなるようになった。


野菜を欠かさず、過剰に糖質制限をかけることもなく、米もタンパクも食物繊維もきちんと同じように採っているのに、仕事の量に応じて腸が急降下していく。そういえば、小学生のころのぼくは今思い返してみると腹痛型の過敏性腸症候群だった。たまに夜にお腹が痛くなって、トイレの前でうずくまって寝ていた(ふとんに入ってもまたトイレに行きたくなるからトイレの前で寝ていたのだと思う)。あの頃と今では食べているものもタイミングも違うのに、腸の反応だけは似ている。トイレの前で寝っ転がることはなくなったが、心はときおりうずくまっている。


首と腰のトラブルを乗り切った結果、それだけストレスに耐えられるようになり、より高度の負荷を体にかけ続けたことで、今度は腸が耐えられる閾値を超えてしまった。なまじ地方予選で勝ち残ってしまったために、甲子園球場でボコられる、みたいなことだろうか。


高負荷の連鎖から降りる必要がある。もしくは、ストレスで体が反応するラインと戦わなくてもいいような働き方にシフトすべきなのだ。


ここで自分の体力と気力をたのみにして、今回の腸も乗り越えたぞ! とやれば、次にどこにトラブルが起こるかはだいたい想像がつく。「代謝」か「血管」だろう。そろそろこのあたりで引き返すことを考えておこう。


43歳の今、ぼくは、「まかせる」ことの難しさを思う。「自分でやったほうが早くて正確だ」というのはおそらく後付けされた理由であり、本質ではない。積み上げた専門知を用いて、自分だけ疲労することなく、周りを巻き込みながら大きな仕事をこなしていけばよい。体がそうしろと言っているし、社会もそうあれと願っている。


いくつになっても元気に働いている人たちは、自らを機械のパーツではなく、潤滑油のように使う。パーツは摩耗するが、潤滑油は摩耗することがない。若いころのぼくはパーツでいるしかなかったし、できるだけコアなパーツになろうと思ってがんばっていたけれど、きしみがひび割れにつながる前に、自分を社会のグリスとして用いるやりかたに変えていったほうがいいのだろうな、と思っている。